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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表

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伊是名村 旧6月綱引き(ウンナー) 7月22日(月)・27日(土)・8月1日(木)・3日(土)
鳩間島豊年祭 旧暦6月(新暦7月中旬―8月上旬)の3日間。
与那国島祖納豊年祭 旧暦6月の辛の日に行われることが多い。
石垣島四ヶ字豊年祭 旧暦6月の癸、甲(新暦の7月中旬-8月上旬頃)
西表島(干立・祖納)豊年祭 旧暦6月の甲の日に行われることが多い。
黒島豊年祭 7月下旬から8月上旬を予定(新暦7月の最終日曜日、またはその前後の日曜日)
西表島船浮豊年祭 7月中旬から8月上旬の間。日曜日に行われることが多い。
安田のシヌグ 旧暦7月初亥の日
小浜島の旧盆(ソーラ) 旧暦7月13日〜17日。メインは15日深夜〜16日早朝
白保の獅子舞 旧盆
波照間島のムシャーマ 旧暦7月14日お盆の中日
アンガマ 旧盆
石垣島のアンガマトゥズミ
宮良のイタシキバラ 旧暦7月16日
多良間の八月踊り
 旧暦8月8日
竹富島の世迎い 旧暦8月8日
当銘・小城の龕のまつり  旧暦8月10日
とぅばらーま大会  旧暦8月13日
竹富島の十五夜祭 旧暦8月15日
土地公祭 旧暦8月15日頃
宮古島・砂川豊年祭狩俣十五夜祭り野原のマストリャー 旧暦の8月15日
汀良町十五夜獅子舞 旧暦8月15日
池間島のミャークヅツ記事1 記事2 記事3 記事4 記事5旧暦の8〜9月の3日間
西原のミャークヅツ
佐良浜のミャークヅツ
カジマヤー 旧暦9月7日
石垣島・川平 マユンガナシ
小浜島の結願祭 10〜11月頃予定
西表島の節祭 10〜11月頃予定
竹富島の種子取祭 10〜11月頃予定
ハロウィン仮装コンテスト アメリカンビレッジ
浦添市小湾 アギバーリー道ジュネー 1月3日
南城市大里 ミーミンメー 記事 旧暦4月1日
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式まとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○twitter#genpatsu http://twitter.com/#!/search?q=%23genpatsu
○twitter#fukushima http://twitter.com/#!/search?q=%23fukushima 
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

11月28日(金)

 週が明ければ12月。もう秋も終わりだ。
 明日は天気が崩れるようなので、晴れている今日は午後からパソコンを閉じて外へ出る。最高気温は17℃らしいが、お日様を浴びて自転車を走らせていると体感温度はもう少し高く感じられる。
 先週高岡へ行ったので、今日は戸出の方へ。前から気になっていた鳥居があったので潜ると、広い境内と立派な拝殿を備えた神社で戸出野神社と言うそうだ。近くには古い街道を思わせる町並みもあり、少し写真を撮って歩く。
 戸出から、来た道を戻って今度は家の方を通り過ぎて小矢部川へ。天気予報の通り、午後も遅くなるにつれて雲が多くなって来た。自転車で堤防を走りながら今日の夕焼けは難しいかな?と思っていたが山に沈む直前、ドラマチックに空を焼いてくれた。なんだかGENESISを聴きたくなるような空だった。You Tubeから「...And Then There Were Three... /GENESIS」。
今日のスナップ
今日の夕焼け
 6月19日に撮影した、西表島の宇多良炭鉱跡他のスナップをPhoto Albumにしました。こちら

↓1935年から1943年頃まで稼働していた宇多良炭鉱の跡。今はオオタニワタリが着生し、ガジュマルの気根に搦め捕られて廃墟と化している。
  西表島での石炭発掘の歴史は古く、1885年頃、三井物産が西表島西部と内離島で石炭の採掘を開始した。囚人を含む100〜200名の労働者が集められ採掘を進めたが、マラリアに襲われ1889年(明治22年)9月21日に撤退したそうだ。
宇多良炭鉱跡

「古琉球/伊波普猷著」(岩波書店)に、西表島を含む八重山諸島開拓の話しが書かれている。その歴史は巨大な津波に襲われ、疫病と戦う過酷なものだった。
  琉球の方では正徳年間から宝暦年間にかけて、この有病地を開拓して数個の新村を建てた。これ皆蔡温の治世中に起こったことである。試みに、新村建設の二、三の例を挙げてみると、正徳三年(*1713年)には波照間の方から三百余人を石垣島に移して白保村(すさぶむら)を建てた。享保十七年(*1732年)には黒島の人民四百余人を石垣島の川平村の属地野底に移して野底村を建てた。同十九年には波照間から四百余人を西表島の古見の南風見野(はいみの)に移して南風見村を建てた。文久三年(*1863年)には石垣登野城二ヵ村の人民五百五十三人を於茂登嶽の麓なる名蔵村に移し、名蔵村の人民八十七人を合わせて六百人となして一ヵ村を建てた。宝暦五年(*1755年)には波照間の人民二百八十余人を西表に移し、西表古見二村の間の崎山という所に鹿川網取を基礎として崎山村を建てた。その外にも多くの新村を建てた。建てるごとに石垣島の無病地やその附近の島々から強制的に人民を移住させた。はっきりしたことはいえないが、貞享三年(*1686年)から元文二年(*1737年)に至る五十一年間に、一万三千人も増加したのを見ると、沖縄本島からも移住民があったのではなかろうかと疑われる。
~略~
ところが琉球政府のこの大計画は、明和八年(*1771年)の大海嘯(かいしょう)のために悉く水泡に帰した。当時八重山から首里政府に報告した古文書によると、この時の海嘯は石垣島の東南からやって来て、殆んど島の半分を洗い、役人八十九人、人民九千四百余人、その他牛馬船舶などをさらっていった。
 そこで波照間やその他の島々から大勢の人間をつれて来て、そのうめあわせをやったが、駄目であった。おまけに四年経って、安永四年(*1775年)の二月に疫癘と飢餓が一緒にやって来て、同七年の二月まで猖獗を極め、三千七百三十六人の人がその犠牲となった。その後享和(一八〇三)、天保(一八三四)、嘉永(一八五一)に麻疹疫癘が流行して、八重山の人口は著しく減少した。
 それに人頭税はかかる、役人は貪ると来ているからたまらない、その負担を軽くせんために、方々で流産や赤子殺しが行われた。

(民謡に現れたる八重山の開拓)から

11月25日(火)

 Face Bookを始めて10日が経った。ホームに流れてくる、友人の近況を知らせるコメントやアップされる写真の量に圧倒されている。しばらく放置しようとするが、メールが「Face Bookに新しい情報が届いている」と知らせ、開くことを急がせる。一つ一つ眺めて「いいね!」ボタンを押したりしていると、アッと言う間に時間が過ぎて行く。時間ドロボーだな。まあ、簡単に奪われる自分が悪いのだけれど。友人が50人程のボクでさえこれなので、何百人や何千人と繋がっている人達はホームに流れてくる情報をどうやって処理しているのだろうか。これでTwitterやLINEまでやっている人は、時間がいくらあっても足りないだろうと思うのだが。
  湯たんぽが離せない。この所、机に向かってパソコン作業をしている時は湯たんぽを床に立て両足で挟みその上に膝掛けを置いている。昼と夜にお湯を入れ替えれば、湯たんぽと膝掛けだけでけっこう過ごせる。12月、1月、2月とこれから北陸の冬は寒さを増して行く。とりあえず湯たんぽで行けるところまでは行ってみようと思う。
 それにしても湯たんぽがこんなに暖まるなんて知らなかった。

 一日乗車券を買ってゆいレールで首里と那覇空港を往復して過ごした6月16日のスナップをPhoto Albumにしました。こちら

ゆいレールから
↑ゆいレールから。↓首里城の端、上の毛にいた人懐っこい子猫。
上の毛の子猫

11月22日(土)

 昨日、今日と昼間は部屋に居るより外の方が暖かいので、運動を兼ねてママチャリでサイクリング。
昨日の立山連峰と小矢部川
↑昨日の立山連峰(左)と小矢部川。
 昨日高岡古城公園(高岡城跡)が国の史跡に指定されたので、園内の紅葉観察がてらママチャリを漕いで見に行くことにした。今日の高岡の最高気温は20℃まで上がり、沖縄の最低気温21℃にも届かないものの、ここ最近の高岡ではポカポカ陽気でサイクリング日和だった。
 せっかくの青空なので先ずは瑞龍寺を撮影しようと向かったが、連休初日で団体のお客さんでいっぱいだった。青空をバックに撮れるかと思って来たが、既に斜光だったので諦める。
 高岡駅の南口にある瑞龍寺から線路を越えて古城公園に向かう途中、中川本町の辺りに来ると雅楽が聴こえて来たので何だろうと音の方へ自転車を漕ぐと、中川熊野神社で神事が行われていた。この辺も高校時代の通り道の一つで神社の前を何十回と通っているはずだが、中川熊野神社と言う名前を初めて知った。
↓瑞龍寺。→祭りが行われていた中川熊野神社。
中川熊野神社
瑞龍寺
 古城公園には先月の25日にも紅葉を観に来ているが、さらに紅葉が進んで暖色系のグラデーションが見事だった。今が紅葉の盛りなのだろうか?国の史跡に指定されたこともあってか、園内は紅葉を楽しむ人でいっぱいだった。
古城公園の紅葉01
古城公園の紅葉02
←↑↓古城公園の紅葉。高校生の頃、お堀の横にあったジャズ喫茶「城の道」へよく寄り道したが、お店がなくなってどれくらい経つんだろうか。
古城公園の紅葉03
 家を出るのが午後2時少し前と遅かったので、古城公園の中を少し自転車で走ったらもう3時半過ぎ。後一時間ほどで日が暮れる。
  古城公園を後にして、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている山町筋へ寄り道してから家路を急ぐ。頑張れば小矢部川の堤防から燃えるような夕焼けが撮れるかと思い、強烈な夕日を浴びながらペダルを漕ぐが、三日市橋に着いた頃には太陽が山に沈み、夕焼けは淡く薄くなっていた。10分程遅かった。
山町筋と三日市橋の夕暮れ
↑山町筋(左)と三日市橋からの夕暮れ。
 夜、パソコンに向かって作業しているとブーブーとブザーの音。見回すと携帯から鳴っている。画面を開くと22:08緊急地震速報だった。そのすぐ後に2階の部屋がゆっくり揺れた。
  奄美・沖縄に滞在していた4年間にも地震はあったが、緊急地震速報のブザー音を聞いた記憶がない。3・11の時は携帯のエリアメールで地震を知ったが、地震の最中は朝仁海岸で海に入ってアオサをとっていた。ひょっとすると地震速報のブザー音を聞くのは初めてかもしれない。
  パソコンをスリープにし、1階へ降りてテレビで速報を見る。長野市で震度6弱、白馬で震度5強。2階の部屋に戻りネットを見ると、白馬で家の倒壊や土砂崩れのニュース。知人が白馬でペンションをやっている。心配でFacebookを開くと夜中の1時過ぎ、棚から色んな物が落下したようだが「無事です」とのコメントが書き込まれて安心する。

11月20日(木)

 11月16日の沖縄県知事選で、辺野古新基地は絶対に造らせないと主張した翁長雄志氏が、辺野古の埋立て承認を容認した現職の仲井眞氏に10万票という大差をつけて当選したが、沖縄防衛局はキャンプシュワブ沿岸で昨日から浮き桟橋を再設置するなど海上作業を再開。今日の午前には工事用のトラックの進入を止めようとする市民と、それを制止しようとする機動隊がもみ合いになり、辺野古住民の島袋文子さん(84)が倒れて道路に頭を打ち救急車で病院に運ばれた。 
 消費増税判断を巡り「政策は国民の理解、協力なくして進められない」として総選挙を行うと言いながら、県民が辺野古新基地建設にNOを叩き付けた沖縄県知事選の結果は無視する。こんな身勝手な判断はないだろう。

 昨年4月28日、「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」で安倍首相は沖縄について
「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」。佐藤栄作首相の言葉です。沖縄の本土復帰は昭和47年5月15日です。日本全体の戦後が初めて本当に終わるまで、主権回復からなお20年という長い月日を要したのでありました。沖縄の人々が耐え、忍ばざるを得なかった戦中、戦後のご苦労に対し、通り一遍の言葉は意味をなしません。私は若い世代の人々に特に呼び掛けつつ、沖縄が経てきた辛苦に、ただ深く思いを寄せる努力をなすべきだということを訴えようと思います。

  と語っている。通り一遍の言葉は意味をなしません、と言いながら、まさに本人の言葉が通り一遍のものだった。
『屈辱の日』沖縄大会01
 4月28日の沖縄は快晴だった。トロピカルビーチから200メートル程離れた野外劇場で「4・28政府式典に抗議する『屈辱の日』沖縄大会」が開催された。
 よなは徹、島袋辰也の二人の唄者がステージに上がり全員でテーマ曲「沖縄に返せ」が歌われ、「沖縄県民の心を踏みにじり、再び、沖縄切り捨てを行うものであり、到底許されるものではない」とする決議が採択された。
『屈辱の日』沖縄大会02
青木理が語る『主権回復の日と憲法改正。安倍政権の矛盾

11月19日(水)

 昨日の夜、安倍首相が解散総選挙を行うことについて会見を開いた。テレビで生中継されたその演説を聞いたが、やはり解散総選挙をしなくてはならない程の大義があるとは思えない内容だった。全文がこちらにある。
 消費税を来年10月に8%から10%へと引き上げることを先送りするにあたり、国民生活にとって、そして国民経済にとって、重い重い決断をする以上、速やかに国民に信を問うべきである、そう決心いたしました。と語っているが、18ヶ月先送りした後は景気判断条項を付すこと無く、確実に10%への引き上げを実行するとしている。今回は国民の信を問うが、例え今より18ヶ月後の経済状況が悪くなっていても、その時は信を問わずに引き上げるというわけだ。こんなまやかしが解散総選挙の大義だと言われても困る。
 記者会見の後、いくつかの民放にも出演して話しているのがこちらにまとめてあった。それにしてもぺらぺらとしゃべる総理大臣だと思う。
 年金問題では「最後のおひとりに至るまで、記録をチェックして、まじめに保険料を払って来られた方々にしっかりと年金を正しく、お支払いをしていく」。北朝鮮の拉致問題は「被害者全員を取り戻すことが最重要課題だ」。福島第1の汚染水については「アンダーコントロールされている」「今後は東電まかせにせず、私が責任者となって、政府が全面に立って完全に解決する」。震災対応では「被災地の復興なくして日本の再生なし。15年3月末までに200地区の高台移転と、1万戸を越える住宅の完成を目指す」。これまで勇ましいスローガンを並べて来たが、どれだけ実行されただろうか。

 今日、原子力規正委員会は敦賀原発2号基の直下を走る断層を、活断層と認定する報告書案をまとめた。この判断について古賀茂明氏がこちらで解説している。
 安倍政権は原発を重要なベースロード電源と位置づけているが、現在国内の原発は一つも稼働していない。こんなものがベースロード電源に相応しいのだろうか。安倍内閣が4月に閣議決定したエネルギー基本計画をつくる際に募ったパブリックコメントで脱原発を求める意見が9割を越えていたそうだ。政府が憲法解釈だけで容認した集団的自衛権や、原発を再稼働しベースロード電源とする政策こそ国民に信を問うべきだろう。

今日の風景
 今日も午後の2時間程、小矢部川の堤防を中心に自転車を走らせた。
 秋の日は つるべおとし 小さくしぼむ かえり道 指がかじかむ 大きく揺れる 町に投げキス
 You Tubeから「つるべ糸/小坂忠」。
久米島の五月ウマチー
  昨年8月に久米島で15年ぶりとなる雨乞いの儀式が行われたが、昨日、八重山諸島の小浜島でも25年ぶりに雨乞いの儀式が行われた。7人の神司が雨乞いの唄を歌い始めると小雨が降ったそうだ。
  RBC THE NEWSの映像がこちらにある。7人の神司の内の一人は、6月に小浜島で泊まった宿のおかみさんだと思う。

↑は6月12日に撮影した久米島の五月ウマチーでの君南風殿内(チンベードンチ)の写真。先頭を歩く君南風(チンベー)の左横に見えるのが雨乞い石。

11月16日(日)

 この何日か雨が続いていたが、ようやく今日は晴れのち曇り。気温も2〜3℃上がって最高気温は13℃となった。Tシャツの上にトレーナーと長袖のシャツを着込み、その上にごっついジャンパーを羽織って2時間程自転車に乗って来た。たくさん着込んだと言うのもあるが、慣れとは恐ろしいもので、13℃でも少し暖かく感じられた。
↓戸出の方から。雲が多いながらも美しい空だった。
今日の空
 6月15日に開催された、泊いゆまちでの「父の日お魚フェア 本まぐろ祭り」の様子をPhoto Albumにしました。こちら
ゲストハウスにて
↑ゲストハウスのゆんたく部屋で日本対コートジボワール戦を観ているおじさんは、マグロ漁船の船員だった。
↓本まぐろ祭りのステージで歌う、女の子3人組のユニット・サンサナー
サンサナー
 今日は沖縄の県知事選だったが、投票終了時間の20時に沖縄タイムス+プラスが早々と「辺野古新基地は絶対に造らせない」と主張した翁長氏の当確を載せた。
  この選挙で沖縄県民は「辺野古に基地は造らせない」と言う判断を示した。安倍首相は選挙結果に関わらず辺野古の移設を進める考えのようだが、この選挙結果を無視すれば最早民主主義国家の体をなさないだろう。
  同じ口で消費税判断を巡り「政策は国民の理解と協力なくして進めることはできない」と語り、消費税の先送りで国民に信を問う考えを示したようだが、これほど選挙結果や選挙そのものを自分の都合のいいように利用する首相もいないのではないだろうか?  
 昨年の12月27日、仲井眞知事が辺野古の埋め立て申請を承認した日の県庁の様子がこちらこちらにある。基地の県外移設を公約にして再選したはずの仲井眞知事が、埋め立てを承認しただけでなく、政府の沖縄振興予算について「いろいろ驚くべき立派な内容をご提示頂きまして、140万県民、沖縄県民を代表して心から感謝し、お礼を申し上げます」と発言したのは県民ではなく通りすがりのような存在のボクですら怒りを覚えた。あの発言は、選挙で仲井眞氏に投票した有権者に対する2重の裏切りだろう。

11月15日(土)

 冷やし中華 Face Bookはじめました。
 一週間前、高校時代に所属していた軽音楽部の同窓会?があった。もともとはハワイアンを演奏するクラブが始まりで、それがボクらの何年か上の世代から軽音楽部に名前が変わった。この軽音楽部では一つ学年が上の人達とバンドを組んでいた。センチメンタル・シティ・ロマンスや四人囃子、カルメン・マキ&OZ、ジェフ・ベックの曲なんかを練習していたと思う。その一緒にバンドをやっていた先輩たちが卒業して、ボクも軽音楽部を退部したんじゃなかったか。そして駅前の方にあった楽器店で他の高校の生徒たちと知り合って新しくバンドを始めた。リー・リトナーやラリー・カールトン、スティーヴ・ガット、ハーヴィ・メイソンが当時の憧れのミュージシャンだった。メンバーの家で練習をし、ライブハウスではないけれど楽器が置いてあった喫茶店で年上の人達とセッションをして遊んでいた。それでも不思議と軽音楽部のメンバーとはずっと付き合いがあって、退部した後の後輩もなぜかよく知っている。
 さて、軽音楽部の集まりで35年ぶり位に顔を見た先輩や後輩もいて、これからは定期的に集まろうと言うことになった。その日集まった人達で連絡先を書いて名簿を作ったが、簡単に連絡を取り合うならFace Bookが便利だそうで、遅蒔きながら昨日からFace Bookを始めたのでした。

 6月13日14日に撮影した久米島のスナップをPhoto Albumにしました。こちら

イーフビーチ
↑曇り空のイーフビーチ。↓宿泊していたゲストハウスの近くで見つけた野良猫の親子。
猫の親子
 You Tubeから「Larry Carlton /Room 335」「Lee Ritenour & Gentle Thoughts /Captain Caribe」。
  ラリー・カールトンがアルバム『夜の彷徨』を、リー・リトナーが『Captain Fingers』を発売したのが1977年。ボクが高校3年生の頃は、フュージョンが真っ盛りだった。漫画家・吉田秋生が「夢見る頃をすぎても」「河よりも長くゆるやかに」を発表するのは1983年と1984年だが、これらを読むと高校3年生から上京してしばらくの時代を思い出す。

11月12日(水)

 午前中は晴れていたが、午後から天気は下り坂。17時頃から雨が降り始め、夜になって激しい雷雨となった。それでも今日の最高気温は20℃あったが、明日は暴風も吹き最高気温は10℃だと言う。泣きたくなる(´・ω・`)
アマミヤマシギ
 群島鳥類研究会による写真展「南西諸島の鳥200展」が始まっている。屋久島での展示は終わってしまったが、今月の7日から16日までは奄美文化センター、12月2日から7日までが沖縄県立美術館、12月17日から21日までが石垣市民会館と巡回して行く。私も写真展用に写真データを何点か送ったので、会場に展示されているかもしれません。南海日日新聞による写真展の紹介記事
↑絶滅危惧種に指定されているアマミヤマシギ。2012年5月に大和村の林道で撮影。
 6月12日に撮影した久米島・真謝集落の奉納角力大会の様子をPhoto Albumにしました。こちら
真謝角力大会01
↑↓小学生は男の子と女の子の取り組みもあるし、中学生の女の子同士の取り組みもある。
真謝角力大会02

 沖縄県知事選が、いよいよ今度の日曜日に迫って来た。ポリタスでは「沖縄県知事選2014」から考えると言う特集が組まれ、様々な職業、立場の人がそれぞれの角度から沖縄県知事選について述べている。元内閣官房副長官補・柳澤協二氏の「沖縄県知事選で問われているもの」や、自家焙煎珈琲店の店主・知念正作氏の「結局やる気出すのは俺たち一人ひとりなんだ」を興味深く読んだ。
 また、基地・環境・戦争・平和・アイデンティティなど、青い海青い空だけではない沖縄の歌をまとめた沖縄メッセージソングまとめと言うサイトが立ち上がっている。メッセージソングと言うと堅苦しいが、ポップスや沖縄民謡、レゲエにヒップホップもある。様々な沖縄に流れる曲をアレコレと聴いてみるのも楽しいと思う。
 メッセージソングの一曲として宮古島出身のシンガー・下地勇さんの「3%」と言う曲が収録されている。以前、沖縄の民謡歌手の方とお話しした時に、みゃーくふつ(宮古島方言)は沖縄本島のウチナーンチュが聞いても何を話しているかわからないフランス語のようだとおっしゃっていたが、なるほど確かにフランス語のようにも聴こえる。そして下地勇さんの曲を聴いてマリ共和国のシンガー・ソングライター、アビブ・コワテ(Habib Koite)を思い出したのだった。You Tubeから「Habib Koite / Imada」「Habib Koite/Wassiye」。

11月11日(火)

 昨日は各地の鷲神社で酉の市が開催されたようだ。そんなニュースを聞くと、もうすぐ師走だな〜と思う。そして浅草の羽子板市が始まる頃になると、なんだか師走のただ中に入ったようでえも言われぬ焦燥感に襲われる。少しずつ冬の気配が訪れている。
↓写真は2008年の酉の市(左)と羽子板市(右)。
酉の市と羽子板市
 先週の土曜日、ミュゼ福岡カメラ館で「亀山の眼 田附の眼 みえるものとみえないものとの境界」の後半の展示を観に行った帰り、町内を自転車でブラブラ走っていたら壁のアチコチに鉄骨が刺さった民家に遭遇。家の土台は木の櫓に乗っかっている。自転車を止めて、その外科手術を受けたような民家を眺めていると、工事関係者と思しき男性が現れたのでどうするのか尋ねたところ、すぐ隣りの敷地に家ごと移動するという。町の中心部を貫く国道8号線の拡幅工事が行われているので、それに伴う移動だろうか?
移動する家01
移動する家02
←↑この後レールのような物を敷いて、引いて行くようだ。レールに家を乗せてトラックで引っぱるのだろうか、大勢の人で押して行くのだろうか。興味は尽きない。
 6月12日に撮影した久米島の五月ウマチー(稲穂祭)とヤジヤーガマ、旧家・上江洲家の写真をPhoto Albumにしました。こちら
五月ウマチー01
↑殿内を出て隣接するローカーヤーへ向かう君南風(チンベー)。↓ローカーヤーで御願をする神人。
五月ウマチー02

*チンベーは三十三君の一人で、久米島における最高神女として島のノロや神女を統率していた。民話「君南風と浜下り」、今帰仁村歴史文化センターの調査

 奄美で暮らした2年間は黒糖焼酎を、沖縄での2年間は泡盛を呑んでいた。7月に富山へ帰って来てからは麦焼酎のいいちこ、清酒・立山、そして頂き物の赤ワインと来て、先日、久しぶりにウイスキーを買った。そう言えば、昔はウイスキーやラム、ウオッカと洋酒を呑む事も多かった。
 今日はウイスキーをお湯で割ってハチミツを少し加えた簡単なホットカクテルを作った。ホット・バタード・ラムを真似てバターを一片浮かべてもいいかもしれないな。寒くなると甘いものが欲しくなる。

コザのバー
 今から25年程前に作った「東京☆横浜BAR GUIDE」(KKロングセラーズ)で撮影した、カクテルの写真(レシピ付き)とBARのイメージ写真。私の好きなサントリーオールドのCM曲「夜がくる」でも聴きながら眺めて下さいませ。
 名護に「夜が来る」と言う名前のライブ&カフェがあった。名護バスターミナルに向かう途中に車窓から看板を見つけて前を通る度に気になっていた。このCM曲から付けたのだろうか。
↑は沖縄のコザで見つけたBARの入り口。カクテルの語源の一つと言われるコックス・テイル(雄鶏の尻尾)に因んで、シェイカーの隣りに雄鶏が飾られている。

11月7日(金)

 川内原発を「かわうち原発」=宮沢経産相。宮沢洋一という人は経産大臣になる前、いやなってからも原発問題に対して関心がなかったのだろう。
 その川内原発の再稼働について、鹿児島県知事が同意の意向を表明した。今月2日に日本火山学会が原子力規制委員会に対して、火山噴火の予測には限界があり原発の審査基準見直しを提言したばかりなのに。
 九電は、新規制基準による川内原発の審査で、巨大噴火が稼働期間中に起こる可能性は十分低く、起こるとしても何らかの変化をとらえ事前に核燃料を運び出すとした。規制委もこの方針を追認、9月に安全対策の主要部分が新基準を満たすとする審査書を出した。(朝日新聞デジタルの記事から) 
 火山の専門家が予測には限界があると言っているのに、何らかの変化をとらえてとする九電の根拠はどこから来るのだろうか。事前に核燃料を運び出すとしているが、運び出す先は確保してあるのだろうか。
 なんだか根拠のわからない自信を持っている九電の、福島第1原発事故後に「玄海原発が全電源喪失をした場合の訓練」を撮影した映像がこれだ(You Tubeから)。目を疑う程、しょぼく見えるのはボクだけだろうか。以前にも書いたが、全電源喪失に供えて1キロ程離れた場所にある電源車を使いと言うが、原発が津波に襲われたなら1キロしか離れていない場所に保管されている電源車も同じように津波に襲われていないだろうか。また移動式ポンプによる冷却水の供給訓練が披露されているが、余震が続く中で大きなタンクの上にのぼって本気で放水しよう思っているんだろうか。また映像を見る限り、原子炉を冷却できる水量とはとても思えない。 

 6月11日、五月ウマチー(稲穂祭)を見るために那覇の泊港から久米島へ渡った。この日のスナップをPhoto Albumにしました。こちら

バスの窓越しに撮影した久米島の風景01
↑↓初めての久米島。島の大きさを実感しようと、町営バスに乗って大雑把に一周した。2枚の写真は、共にバスの車窓からの風景。走行中のバスからの撮影は構図も思うようにならないしブレてもいるが、なんだか旅のリアルが写っているようで、見返していると再び旅をしている気分になる。
バスの窓越しに撮影した久米島の風景02

11月5日(水)

 昨日より雲は多いが、気持ちの良い秋晴れ。171年ぶりの名月を撮影しました。製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表によれば、今から171年前の1843年は尚育王の時代。7年後に名越 左源太が奄美大島に流罪になり、8年後には沖縄の米須にジョン万次郎が上陸する。そんな時代だ。
今日のお月様
 6月1日に行われた、大嶺の地バーリーの様子をPhoto Albumにしました。トラックの荷台に乗っての道ジュネーと、大嶺御嶽での奉納はこちら。大嶺地区の自治会館での地バーリーはこちら
大嶺の地バーリー01
↑大嶺御嶽での地バーリーの奉納。↓自治会館での地バーリー。
大嶺の地バーリー02

11月4日(火)

 昨日は大荒れの天気でしたが、今日は朝から快晴。相変わらず運動不足なので、午後から紅葉観察がてら2時間ほどサイクリングに。小矢部川の堤防を走りながら里山を見ると、ところどころ色付いている。黄色く色付いた大きなイチョウの木のある神社が見えたので、堤防から下りて行ってみる。鳥居の横には上五位神社と書いてあった。
↓→紅葉が見事な屋敷林と、神社のイチョウの木。
紅葉02
紅葉01
 鳥居をくぐり階段を上がって境内へ。振り返って町の方を眺めると、雪を冠った立山が後ろに浮かんでいた。
立山
 もう一度堤防に戻り小学校の裏手に行くと?なんだか違う。ガランとしていると思ったら、旧中学校の体育館が取り壊されてなくなっていた。
旧中学校の体育館跡
 小学校の裏手を通り越し、三日市橋のところで堤防の土手を下りて西干場へ。西干場住宅に自転車を止めて、写真を撮りながらプラプラと歩く。
  この平屋の棟続きの家が並ぶ西干場住宅は、ボクが小学生の時には既にあった。高岡市に合併される遥か前だから、町営住宅だったのだろうか。同級生の何人かも家族と住んでいたが、周りに新しい市営住宅ができて殆どが空き家になっている。この住宅に住んでいた友達の家に遊びに行った事もあるが、部屋の間取りはどんなだったか覚えがない。どの家にも、住居の後ろにブロックで囲まれた小さな庭が付いている。空き家になった庭はゴミが散乱したり雑草が伸び放題になっていたりするが、中には小さな庭を耕して畑にしている家もある。慎ましくも美しい庭だ。
  同じような住宅が、小矢部川を渡った三日市にもあった。そこは遠の昔に取り壊されて、普通の住宅地になっている。殆どが空き家の西干場住宅も、いずれは取り壊されるのだろう。取り壊され、更地になり、新しい物が建つと以前の風景がどうであったか思い出せなくなる。そう思うと、カメラを向けずにはいられない。
西干場住宅
↑西干場住宅のスナップ。下段右は庭に置かれたコンクリート製の物干し台。いくつかの庭に見られたので、この住宅ができた時からの物だろうか。
今日の月
小矢部川の夕暮れ

↑まだ16時半頃。青い空にキレイな月がくっきりと見えていた。

←山に沈む太陽を追いかけて小矢部川の堤防を走ってから帰る。

 それにしても丸くてキレイなお月様だと思っていたら、明日は171年ぶりの名月だそうです。

 本日のスナップをPhoto albumにしました。こちら

11月2日(日)

 雨時々曇りのパッとしない天気だが、なんだか暖かくてファンヒーターをつけなくても過ごせた。
 雨音を聞きながらパソコンに向かって作業をしていたら、奄美のさばくり人さんから電話。お互いの近況等を話していると、奄美のハブの買い取り価格が4000円から3000円に下がったそうだ。あらら、捕獲数が多くて暴落?そう言えば、ちょうど3年前の豪雨の降った日に、さばくり人さんと大和村から瀬戸内町の西端にある西古見へドライブに行った帰り、大和村の林道で金色のハブを捕獲したのだった。

 この一週間程、琉球弧の歴史年表というのを試作していた。奄美や沖縄で撮影してきた祭祀や旧暦行事、遺跡がどのようにして生まれ、そえぞれがどう係わり合っているのかを確認するためだ。 
  先ずは沖縄手帳2014年の巻末に載っていた沖縄歴史年表から個人的に重要と思われる項目を抜粋し、それにwikipediaの琉球国王を追加。さらに今年の5月に作った聞得大君と国王との関係を調べたデータを載せて年表の土台にした。これに奄美や沖縄の祭祀の起源をインターネットで検索して分かった範囲で年表に記載していった。また奄美と沖縄で過ごした4年間に、図書館から借りて読んだ本の中から抜粋したメモも貼付けてある。  
 しかし奄美大島宇検村にある佐念モーヤは、奄美・沖縄で最も古い墓の代表とあるが、どれほど古いのか見当もつかないので、とりあえす西暦がはっきりしている保元の乱の前に置いておいた。そのような稚拙な年表ではあるけれど、一列に並べる事で 名越 左源太が奄美大島に流刑になっている間に、沖縄ではジョン万次郎が上陸し、ペリー提督が来航しているのがわかる。そしてペリー来航の6年後に、西郷隆盛は奄美大島に遠島になっている。
 琉球の最初の王・舜天は源為朝の子供だと言われているが、為朝が沖縄へ渡る前に奄美・加計呂麻島(喜界島?)で子供をもうけている。その子、実久三次郎を奉った神社が加計呂麻島の実久集落にある。 伝説に基づけば、沖縄の舜天王と加計呂麻島の実久三次郎は異母兄弟となる?

 先月の31日から明日まで、首里城祭が開催されている。昨日は冊封使行列と冊封儀式が、今日は琉球王朝絵巻行列が、明日は古式行列が行われるようだ。
 写真は冊封儀礼(上)と、古式行列(下)。

冊封儀式
2012年10月27日に撮影。Photo Albumはこちら
2012年11月3日に撮影。Photo Albumはこちら
古式行列
 琉球王で一番最初に冊封を受けたのは、察度王統二代の武寧。また古式行列は、第二尚王統の尚真王時代から本格的におこなわれるようになったらしい。ところで上の写真は首里城での冊封儀式だが、武寧の居城は浦添城とある。首里城の内郭が完成したのは15世紀初期といい、最初に居城としたのは尚巴志と思われるので首里城祭で再現されているのは第一尚王統以降の冊封儀礼と言う事だろう。
 自分で作った年表を見ながら、歴史に疎い頭をアレコレ巡らせて楽しんでいる。
 年表はページの上の方にリンクを貼っておきました。沖縄北部・安田のシヌグや、奄美大島・湯湾釜のムチモレ踊りなど起源のわからない祭祀がたくさんある。奄美の種おろし行事についても、ユタである阿世知照信さんの記したユタノートに「享保十一年(*1726年)の大飢饉祈願祭が豊年作記念となり特に竜郷笠利方面は種下し祭が現在も盛んに行続いてある」という一文しか見当たらない。新しい事実がわかれば付け加え、間違いがわかれば訂正しながら気長に更新していこうと思う。

10月へ