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琉球弧(奄美・沖縄)歴史年表

   
数万年前  ◯大陸と地続き
  アマミノクロウサギ  アマミノクロウサギは、ムカシノウサギというウサギのなかまです。このウサギは世界じゅうでも、メキシコと南アフリカの一部にしか住んでいないといわれています。アマミノクロウサギは、六千万年もまえに、地球上にさかえたウサギの残党どもだといわれています。ほんとうに、気が遠くなるほど、遠い遠いむかしのウサギの子孫たちなのです。だから、このウサギは「生ける化石」などといわれているのです 「ハブとたたかう島/椋 鳩十著 絵:笠原やえ子絵」(あすなろ書房)より
 

一、むかしはじめからのふし

むかし はじまり や
てだこ 大ぬし や
きよらや てりよわれ
せのみ はぢまり に
てだいちろく が
てだはちろく が
おさん しちへ みおれ ば
ざよこ しちへ みおれ ば
あまみきよ は よせわちへ
しねりきよ は よせわちへ
しま つくれ でて わちへ
くに つくれ でて わちへ
ここらき の しまじま
ここらき の くにぐに
しまつくら ぎやめも
くにつくら ぎやめも
てだこ うらきれて
せのみ うらきれて
あまみや すぢや なす な
しねりや すぢや なす な
しやれば すぢや なしよわれ

 
 これは『おもろそうし』の十の巻「ありきゑとのおもろおさうし」の2番目にある琉球開闢のオモロである。
*意訳
最初(はじめ)に日神(ひのかみ)ありて、八紘を照せり。日神俯して下界をみ給ふに、島の如きものありければ、則ちアマミキヨ(シネリキヨ)に詔して之うぃ修理(をさめ)しめ給ふ。アマミキヨ詔(みことのり)のまにまに降りて数知れぬ島々を造る。日神その成るを遅しとし、更に詔して、そこには天つ国の民の如き者を生まずて、国つ民を生め、と宣り給ひき。
『古琉球』(伊波普猷)(オモロ七種)から引用

  ◯天孫王統(17800年間・25代続いたとの神話伝承)
   アマミキヨ神が国を造ったという開国神話の王統 琉球神道
  *アマミキヨ=アマミチュー。浜比嘉島にアマミチューの墓浜比嘉島における神話の世界沖縄人は、九州→奄美→久高島へと移住
  *久高島のカベール岬は、沖縄の祖神であるアマミキヨが初めて降り立ったと言われる場所。
  本格的な発掘調査がおこなわれたシマシャーマ貝塚によれば、久高島には二千年以上も前から人が居住していたことがわかった。「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」(比嘉康夫)の<神女と王の恋>から
  *アマミキヨが降臨したという神話の島・久高島を望むことができる、琉球王国最高の聖地・斎場御嶽(セーファウタキ)。
  女が男を守る島ーオナリ神信仰と久高島
 

与論島シヌグ祭 与論島神話によれば、アマミク(天御子・女神)と、シニグ(稲穀の神・男神)がヨロン島をつくり稲作を始めたと言い伝えられている。 シニグの語源は、稲の古語で「シニ」と 穀物の古語「グク」の複合語から、「ク」を省略したものと見られる。シニグ祭が行われるようになったのは、与論島で稲作が始められた後からだと言われており、稲の豊作を願い稲作を始めた男神「シニグ」を稲穀に因んで神明化したものだろうと言われている
*シニグ(シヌグ)についてのメモ

  琉球神道 琉球神道は琉球で自然発生的に生まれたと考えられている。いつ頃発生したかは史料が皆無であるため明確ではないが、7世紀にはすでに原型はあったと考えられている。ノロ、ユタが原始的な世襲型、召命型のシャマニズムであること。御嶽は古代集落が原型と考えられ、御嶽信仰は祖霊崇拝が変化したものと考えられること。また、おなり神信仰は、古代の母系社会や女性上位社会の変化と考えられること。これらのことから、専門家の間では、琉球神道は古代信仰の形式をとどめていると考えられている。
   大島の各部落にはその中央部に必ずミャという広場があって、最初は宮の意味であったが、後には庭または広場の意味にも用いられるようになった。アシャゲはこのミャの傍に建てた方形の小屋で、多くは四方三本ずつ八本の低い柱の上に茅葺きの屋根を載せただけで、壁も床もない簡単な掘建小屋である。
〜略〜
 宮城真治氏の解釈によれば、アシャゲは特定の祭礼の日に神々が神職に憑いて光臨し、氏子より饗応を受けもしくは神遊びをする所である。神遊びというのは、神が神職に憑いて神歌を謡い神舞を踊ることで、神自身としての歓喜であり、それによって部落が祝福されたものである。後世神と神職とを区別して考えるようになって、神遊びは神職が神を歓待するための遊びであると解するようになった。が、古くは神自ら姿を表わして歌舞し給うものと信ぜられていた。
 そうして見ると、アシャゲは氏子がそこで氏神を祀る所であるから、大島にはノロが現われる前から村杜もしくは氏神社として存在したものと思われる。今でも時たまアシャゲの隣りにトネヤというのを見受けるが、このトネは里の刀禰のことで、里の長を意味し、トネヤは刀禰屋で里の長の住宅を意味するから、ノロが神職として任命されない以前は里の長老がアシャゲで氏神を祀ったことがわかる。従って里の長老は里の政事と祭事の大元締であったのだ。こう考えると琉球文化の波及以前大島の部落民達は自然発展的な祭政一致の共同社会を形成し、琉球王の祭政一致再組織化を受けるまでは、わが国原始社会の姿をそのまま保持し続けたものと思われる。
 古代においては部落は多く山頂や山腹にあったのが、産業上の利便から後世平地に移るようになったことは、里(山手)とか金久(海岸より)とかいう名称によって知られる。アシャゲも部落とともに最初は山手にあったのが、部落の膨張に伴い、後にはその中央部もしくは海岸寄りに移動した形跡のあるのは、部落の発展過程を示すものとして面白い事実である。
 各部落には必ず一つか二つかのアシャゲがあって、部落の祭事はたいていそこで行なうことになっているが、また広場で何かの催し物でもある時は、その桟敷にも使われる。平日はその中で稲をこいだり乾した藁を積んだりしている。祭礼の時にはアシャゲの周囲を例のサデ(手網)で張りまわしたこともある。
「大奄美史」から
  *奄美大島宇検村の佐念モーヤ(共同墓地) 奄美・沖縄の最も古い墓の代表
*奄美・沖縄のお墓については、こちらにメモしている。
現在でも島々の随所にトゥールバカなどと呼ぶ洞窟がまだいくらか残っていて(島々の方言がかなりちがうから、その呼び名の発音も多様ななまりを持つ事になるが)、頭蓋骨や四肢の人骨の破片を見つけることがあるけれど、それはこの島々の葬法のなごりであることにちがいないだろうが、それはまた島の人々が死者に対するある特別な感情をいだき、かよわせるに適当な、あらわし方だったのではないだろうか。白くさらされた珊瑚虫骨片の堆積を白昼の砂浜で目にするたびに、私はどうしても人間の骨を連想しないではおれないのに、その中に融和したいふしぎななつかしい感情の起きてくるのが防げないのはなぜだろう。やがて私はそれと洞窟内の白骨との区別を失っていることに気がつく。沖縄から奄美の島々にかけて、改葬もしくは洗骨ととなえ、いったん埋葬した死体を適当な年数のあとで墓をあばき、腐肉のとれた骨を洗って骨瓶に入れなおす習慣があるけれど、それも、死後の白骨に対するなんといっていいかわからないある親密な感情がどうしてもそうさせるようにいざなうのだと思う。「琉球弧の視点から/島尾敏雄」(講談社)『奄美の墓のかたち』より
 このエッセイの冒頭で島尾敏雄は、「奄美の島々をまわっていて、こころひかれるもののひとつは、この地方の墓だ。そのそばを通るとどうしてもそこに立ちよってみないではおられない」と書いている。
 

久高島の死生観は葬送歌にもあるように、風葬の死者を通して考えた自然的死生観であることである。けっして、近世以後中国などから為政者が導入して庶民レベルまで普及させた亀甲墓に代表される、石で固めた沖縄の墓からは発想することはできない死生観である。「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」(比嘉康夫)の(とだえた風葬)から。

一七世紀末境に中国から伝わったとされる沖縄の亀甲基も内部は空洞で、遺体を地表に安置して空気にさらすという骨化の原理は風葬と同じである

12世紀頃からグスク時代  
1156年 ◯保元の乱 破れた源為朝(平安時代末期の1139〜1170年)は伊豆大島に流罪
1185年 壇ノ浦の戦い 平家の落人沖縄へ渡る
  平家の落武者が石垣島を来島
  ◯舜天王統(1187~1259年・3代)
 源為朝の子という伝説を持つ舜天王が開祖
  *源為朝の別名は、鎮西八郎。為朝は加計呂麻島で子供・実久三次郎をもうけている
 加計呂麻島の東方を嘗ては鎮西村西方を実久村を呼んだ。実久集落には、実久三次郎神社がある。伝説に基づけば、沖縄の舜天王と加計呂麻島の実久三次郎は異母兄弟となる?
 旧実久村と言われる西方にはノロのアシャゲ、トネヤなどが残っている集落が多いですが、東方の鎮西村にはあまり残っていない。
  *加計呂麻島の諸鈍集落に伝わる諸鈍シバヤは、平家の落人・平 資盛(1158〜1185年)が地元民に教えたのが始まりとされる。奄美には平 資盛を奉った大屯神社(加計呂麻島・諸鈍)、平 行盛(不明〜1185年)を奉った行盛神社(奄美大島・上戸口)、平 有盛(1164〜1185年)を奉った有盛神社(奄美大島・浦上)がある。奄美の歴史と文化
  *旧暦のクガツクンチ(9月9日)。加計呂麻島の諸鈍集落では平家の落人が地元民に伝えた諸鈍シバヤ、同じく加計呂麻島の実久集落では源為朝の子である実久三次郎祭りが開催される。同じ島で同じ日に、平家と源にそれぞれ縁のある祭祀が行われる不思議。
   舜天(1187~1237年)*()内は在位
   瞬馬順煕(1238~1248年 )
   義本(1249~1259年)
  ◯英祖王統(1260~1349年・5代)
 若太陽(わかてぃだ)と呼ばれた太陽の子伝説を持つ英祖王が開祖
   英祖(1260~1299年)
  *奄美のノロ制度 『中山世譜」によれば、奄美諸島が沖縄へ入貢するのは、文永三年(一二六六)であるとされているが、琉球の支配と統制は、漸次進んでいき、ノロの管制化は、在地のオナリとエケリの祭政一致の体制をそのまま利用しつつ、王府の辞令による任命、神装束およびノロ地の下賜というふうになったものと考えられる。「奄美の島 かけろまの民俗/鹿児島民俗学会編」(第一法規出版)から こちらにもう少し引用
  *1291年に英祖王が陵墓・浦添ようどれを築いた。沖縄戦で破壊されたが、2005年に復元された
   大成(1300~1308年)
   英慈(1308~1313年)
   玉城(1313~1336年)
   西威(1336~1349年)
1322?〜1416・3代
北山王国
◯怕尼芝王統
   怕尼芝(1322?〜1395??)北山の初代国王
1337?〜1429・4代
南山王国
 
   承察度(1337?〜1396年?)南山の初代国王
1350~1405年・2代
中山王国
◯察度王統
 天女の子という羽衣伝説を持つ察度王が開祖
   察度(1350~1395年)
1365年 ◯宮古島では目黒盛が全島を統一
1372年 ◯察度王が明国に初の進貢
   汪英紫(1388〜1402年?)南山
  ハーリーの伝来ルートは諸説あるが、最初に競漕が行われたのは、1390年ごろに南山王の弟・汪応祖により豊見城城下の漫湖で行わせたものと思われる。
1390年 *八重山が琉球(中山)王府の統治下となる
1392年 ◯久米三十六姓の人びとが中国福州より渡来
   (1393〜1400?)北山
   武寧(1396~1405年)
   攀安知(1401〜1416?)北山
   汪応祖(1403〜1413)南山
1404年 ◯察度王統二代の武寧が明国皇帝より初めての冊封を受け琉球国中山王を名乗る。
  (中山の他に、南山、北山も明国に進貢。グスク時代末の1世紀は三山時代と呼ばれる) 
  *琉球冊封使の一覧
1406年から第一尚王統  
1406年  ◯尚巴志 武寧王を滅ぼし第一尚氏を起こす
 

*粟国島の祭祀「ヤガン折目(ウユミ)」の由来について「その昔、島の北側の野厳原(ヤガンバル)で毎年6月(旧暦)になるとそこに居る荒ぶれた神様に畑の作業にきた人々が目をえぐられたり、鼻をそがれたり、妊婦は流産させられたりしたそうです。困った島の人々は、沖縄本島北部の今帰仁城の王様に何とか治めて下さいとお願いに行きました。王は家来の平敷大主(へしきうふしゅ)にこの荒ぶれた神を治めるように命じました」とある。平敷大主については、こちらに「攀安知の頭役平敷大主(ヘシキウフヌシ)は勝連半島に逃げて、現在のうるま市平敷屋集落を創った」とある。最後の北山王・攀安知(はんあんち)の在位は1401〜1416年なので、ヤガン折目の始まりもこの頃だろうか?祭祀の最後は神女が順に今帰仁祠へ御願をし、頭に着けていたカーブイを外し、祠の横に置く。
沖縄県粟国島の祭祀儀礼に関する考察(上)ーヤガン折目を中心にー

   尚思紹王(1406~1421年)
  首里城は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成している。
   他魯毎(1413〜1429年)南山
   尚巴志王(1421~1439年)
1429年 ◯尚巴志が、三山(北山・中山・南山)統一。琉球王国が成立する
   尚忠王(1439~1444年)
   尚思達王(1444~1449年)
   尚金福王(1449-1453年)
   尚泰久王(1453~1460年)
  普天間宮 尚金福王から尚泰久王の頃(1450~1460年)に熊野権現を合祀したと伝えられている。
1458年 護佐丸(不明〜1458年)・阿麻和利(不明〜1458年)の乱
  護佐丸の墓は、中城城跡の近くにあり、現存する亀甲墓としては沖縄の中でも古いものの一つと言われている。
   首里城正殿に万国津梁の鐘が架けられる
   尚徳王(1460~1469年)
  *尚徳王は、久高島で一番古いとされている大里家の美しい神女クニチャサと恋仲になり、政治を省みず久高島にいる間に城内で反乱が起きて王位を退けられてしまい、絶望した王は帰途の船から海に飛び込んで、自らの命を絶ってしまいました。クニチャサもこれを聞き悲しみにくれ、この家の前にあるガジュマルの木で首を吊って死んでしまいました。
  久高島で一番古いムトゥと考えられている大里家(ウプラトウ)の前にガジュマルの樹がある。太めの枝をさして「クゥンチャサンヌルが首吊って自殺した枝だ」と、大里家の男性神職者の西銘豊吉さんが生々しく語るのを聴いた事がある。「死に方がよくなかったから、クゥンチャサンヌルは死んだ後、ノロ(ヌル)の位から根神(ニーガン)の位に下げられた。
 この物語はノロ制度が施行される以前であって、久高島にはまだシマを統括する官人としてのノロは存在していない。祭政一致政策として施行された、王妹(聞得大君)を頂点とする神女組織であるノロ制度は第二尚氏王統第三代の尚真王時代になってのことであって、それ以前の久高島では、血族のムトゥが何軒か誕生しており、その書く始祖家に超能力を保持する女性神役がおり、その力でムトゥに属する人々の命運を司っていた。
 「クゥンチャサン」とは国司の意で、つまり<国司ヌル>というその呼称も、彼女が国王のシャーマンであったことを裏付けている。
 なお「ヌル」の呼称がノロ制度以前からあったことは重要である。
「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」(比嘉康夫)の<神女と王の恋>から抜粋
1470年から1879年まで第二尚王統  
1470年 ◯金丸 第二尚氏を起こし、尚円王となる
   尚円王(1469~1476年
1474年 仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)が、宮古の主長となる
   尚宣威王(1477年)
   尚真王(1477~1527年)
  ◯尚真王時代(1477~1526)は琉球王国の黄金期。円覚寺、祟元寺、玉陵等を建立。おもろそうし編纂。奄美から与那国までの全琉球を支配。
  『おもろそうし』は22冊、総歌数千五百五十三首、西暦十三世紀の中葉から十七世紀の中葉までの四百年間のオモロを収めたもので、琉球の万葉集ともいうべきものである。オモロは我らの先祖が我らに遺した最古の文学で、古くは今日の歌人が三十字詩を詠むように一般に詠まれていたが、島津氏に征服された後頓に衰えて、いつしか祭司詩人の専有となり、元来詩歌という広い意義を有していたオモロは遂に神歌という狭い意義に解せられるようになった。オモロの中には琉球の創世記を初として、王者を謳うたもの、英雄を謳うたもの、戦争を歌うたもの、航海を歌うたもの、詩人を歌うたもの、風景を歌うたもの、日月星辰を歌うたものなどがあり、極めて稀に恋愛を歌うたのもある。
『古琉球』(伊波普猷)(オモロ七種)から引用
  *尚真王代には中央集権化と祭政一致が行われた。この際に各地域に存在していた神女をまとめるため神女組織が整備され、その階位の頂点として新たに役職、聞得大君(きこえおおぎみ、チフィジン)が設けられた。
   聞得大君初代:月清(生没不明) 就任:尚真王代 *尚円の王女(独身)、尚真王の妹
  *首里金城町の石畳道は、尚真王の時代に首里城から南部への主要道路として整備された。近くにある「内金城御嶽(ウチカナグシクウタキ)」に自生するアカギは、推定樹齢200年
  古式行列 500年前の尚真王時代に、三司官の毛氏澤岻親方が中国より最上の金張りの駕籠「御轎(ウチュウ)」を購入して本格的に始められたといいます
  *15世紀末 与那国島ではサンアイ イソバが女性首長として君臨
1500年 オヤケアカハチの乱
  *仲宗根豊見親が八重山をおさめていたオヤケアカハチとの戦いで勝ち、琉球の尚真王から宮古と八重山の頭(かしら)に任命される
  尚真王の時代、八重山のオヤケアカハチ(朝貢を拒否した土地の有力者)の乱を平定する際に軍船にシマジマの神女を乗船させ、その呪詛力により敵の戦意をくじいた。またその神女の中で最もすぐれた超能力の保持者で、戦勝に導いたのが久米島の君南風(チンベー)という神女であった。「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」(比嘉康夫)の<神女と王の恋>から抜粋
1501年 ◯尚真王が首里に巨大な陵墓・玉陵を築く
  *尚円の子である尚真が、尚円の生誕家である伊是名島に玉御殿を建立。1870年から、伊是名島では公事清明祭(クージシーミー)が執り行われている。
 沖縄で先祖供養の行事である清明(シーミー)が行われるようになったのは18世紀からで、中国から伝来したとされる。
  現在では、<トートーメー>と呼ばれる、位牌を祀る棚を備えた家が一般的になっている。この位牌は近世に首里王府が中国からとりいれたもので、儒教思想の、父系をたどっていく祖先観に基づいている。位牌を祀ることは首里王府から発し、全琉球に波及して現在に至っている。久高島でこの位牌を導入したのは大正十二年(一九二三年)ごろである。久高島ではその導入が遅かったために、家庭祭祀は本来の守護神が中心で、位牌の祖先は付随的に礼拝がおこなわれているにすぎない。「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」(比嘉康夫)の(カマドと火神)。
  *西表島の節祭 500年以上の伝統があり、1991年に国の重要無形民俗文化財に指定されている。
  *竹富島 種子取祭 島に人が住んで農業を始めたのは12世紀頃と想定されている。沖縄本島で行われていたタントゥイ(種子取)が、八重山の島々にも伝わったと考えるのが妥当である。とすると、種子取祭の始まりは、1500年前のオヤケアカハチ事件前後のことであろうか。
 

*奄美大島・秋名のショチョガマと平瀬マンカイは、那覇世(13~17世紀)の時代、 奄美群島が首里王府の統治下にあった頃 から行われていたといわれる。
ショチョガマ、ヒラセマンカイは、かつては名瀬市と龍郷町の東シナ海側の集落で行われていた。嘉渡では明治末までショチョガマ、昭和八年ごろまでヒラセマンカイをおこなっていた。また、名瀬市の大熊、仲勝、有屋、浦上では大正時代まで、有良、芦花部は明治末までショチョガマ(ンチャガマ、ヒチャガマともいう)がおこなわれていた(『沖縄芸術の科学』第五号別刷、久万田晋・寺内直子「奄美大島龍郷町秋名の八月踊り」)。「神々の古層11豊年を招き寄せるヒラセマンカイ 奄美大島/比嘉康雄」(ニライ社)から。こちらにもう少し。

*奄美の農耕儀礼について「奄美、もっと知りたい/神谷裕司」(南方新社)から さて、戦後の米軍支配を終えて、十五年ほどたった一九六九年から米の生産調整が本格的に始まる。群島全体で約四千三百四十ヘクタール(六八年度)あった水田が、減反、減反でどんどん減らされ、その代わりにサトウキビが植えられていく。いまや水田はたった五十九ヘクタール(九四年度)しかない。
 言うまでもなく、水田は、日本の食生活の基礎であるコメをつくる。奄美では、そのコメをほとんど全部外から移入せざるを得ないわけだ。しかも、水田の減少がもたらすものは、コメの不足だけではない。水田には、環境保全作用がある。水をためて乾燥化を防ぎ、用水路などには小魚などが泳ぐ。そうした機能も破壊されてしまった。さらに言えば、日本の民俗文化は水田とともにあった。名瀬市大熊のノロの祭祀にしても、稲穂を使ったりする農耕儀礼であるが、水田の消失とともに消え去りつつある。奄美大島で唯一、ある程度の広さの水田をもつ龍郷町秋名集落で、国の重要無形民俗文化財に指定されている農耕儀礼「ショチョガマ」と「ヒラセマンカイ」が伝えられているのも、水田が残っていればこそのことだと思う。

小野重朗氏の調査によって、現在ショチュガマの伝承のある地点をあげると次の通りになる。
 竜郷村嘉渡、両屋根切妻型、明治末年まで行っていたという。
 名瀬市芦花部、アラセツに祭り、シバサシにゆり倒す。
 名瀬市有良、四本柱の小屋である平面と後ろの地につく面とからできていた。アラセツに祭り、屋根にのぼってゆするだけで、シバサシの日にゆり倒す。
 名瀬市大熊、アラセツは屋根の上で祈り、シバサシにゆり倒す。
 名瀬市浦上、アラセツは小屋のなかでノロ、グジが祈る。シバサシに小屋をゆり倒す。
 さらに名瀬市有屋・朝仁にも同じような伝承がある。これらの地点は、いずれも名瀬市周辺であり、『南島雑話』の名瀬間切に限るという記事と一致している。
『沖縄・奄美の民間信仰/湧上 元雄・山下 欣一共著』(明玄書房)より こちらに綱引きのこと等もう少し引用

  塩屋のウンガミ いつごろ起こったかもはっきりしないが、塩屋の旧家の家系18代と言われるので、それから推測して4~5百年前、村の立ち始め頃だと推定される。
*塩屋のウンガミ 起源については不明(但し、『琉球国由来記』(1713年)には行われている)
  ◯14世紀末~16世紀末は大交易時代と呼ばれ、東南アジア各地に貿易を拡大し王国は繁栄した。 
  *辻開祖の伝承 浦添朝満(1494〜1540年)唐名は尚維衡の妃である思戸金按司の侍女が、何らかの理由で龍界寺の住職に売春行為を強要されたといわれています。それが辻の始まりだという説。
  尚維衡の婦人は花城宗義の娘で伝承では病のため浮島で逝去し後にクバツカサとなる拝所に葬られた。後世、その遺体は辻御嶽に移送される。じゅりの祖と伝承されている。「じゅり馬と辻村女の里(チージ)の研究」(浅香玲子)より
1522年 ◯与那国島が琉球政府の統治下となる(一説には1510年)
  *仲宗根豊見親、与那国の鬼虎(おにとら/うにとら)を征伐
   尚清王(1527~1555年)
  *首里政府が1531〜1623年にかけて、おもろを採録集成したおもろそうしを編纂。おもろは、12世紀〜17世紀にかけて奄美・沖縄で歌われた歌謡
   尚元王(1556~1572年)
  与論の十五夜踊り由来は、「永禄4年(1561年)に始まったといわれています。1番組と2番組で構成され旧暦の8月・10月・3月の15日に与論城(グスク)にある地主神社(琴平神社)で行われ、五穀豊穣・嶋中安穏を祈願して奉納されます」。
   聞得大君二代:梅南(不明~1577年)就任:尚元王代 *浦添王子朝満女(独身)
   尚永王(1573~1588年)
   聞得大君三代:梅岳(不明〜1605年)就任:1577年 *真和志聞得大君加那志。尚元王の妃、浦添親方女
   尚寧王(1589~1620年)
1591年 ◯秀吉より朝鮮出兵の為の兵と食料の拠出命令。困惑した王府は兵は拒否し、食料半分を提出。
  *三重城はもともと16世紀の後半に、倭冦からの防衛のために作られた。それが現在は遥拝所があり、香炉や香炉代わりのブロックがアチコチに置かれて御嶽のようになっている。
  エイサーの起源は様々あるが、1603年から1606年にかけて当時の琉球王「向寧王」知遇を得た浄土宋の「袋中土人」が仏典を踊りながら唱える念仏踊りを伝え、沖縄独自の仏典踊りの形態であるエイサーへと発展したという説がある。
チョンダラーは、エイサーの伝道師だったエイサーを琉球の村々に広めたのは、芸能集団として京都からやってきた太郎こと、京太郎(チョンダラー)たちだったといわれています
エイサー起源
*以前、エイサーについて書かれたものをまとめた
  *八重山のアンガマ 起源は明らかではないが、歌の中には、念仏や供養を示すものも多く、沖縄本島のエイサーと同じように日本から渡来した念仏踊りを起源とするものとされております。
1605年 ◯野国総官 明からイモを伝える
  *現存する木の中では日本一の板根だと言われる西表島仲間川のサキシマスオウの樹齢が400年といわれているので、1600年頃に誕生か?
   聞得大君四代:月嶺(1584〜1653年) 就任:1605年 *尚永王の次女、大里王子朝長婦人
  *奄美に首里王府発給の辞令書が残っている。そのすべてが古琉球(1609年以前)の辞令書である。奄美のノロ制度
1609年 ◯島津氏の琉球進攻 王国降伏
 

*薩摩の島津軍が4月12日(3月8日)奄美大島、4月26日(3月22日)徳之島、4月28日(3月24日)沖永良部島、4月30日(3月26日)沖縄本島に上陸。

1611年 ◯島津氏 掟15ヶ条を強要
1614年 ◯石垣島の桃林寺 権現堂創建
1613年 ◯薩摩藩は奄美群島に代官所や奉行所を設置 薩摩はサトウキビ栽培を奨励
1619年  ◯島津氏 奄美大島諸島を自藩領土に組み入れる
   尚豊王(1621~1640年)
1637年 先島に人頭税課す
   尚賢王(1641~1647年)
1650年 ◯琉球王国の初めての正史「中山世鑑」を、王命により羽地朝秀が編纂。
   尚質王(1648~1668年)
   聞得大君五代:円心(1617〜1677年)就任:1653年 *国頭王子正則夫人(金武王子朝貞女)
1666年 ◯名政治家 羽地朝秀 摂政となる
   尚貞王(1669~1709年)
1672年 (チージ) 羽地朝秀の主導で王府が辻村を那覇浮島に創設
  *久米村に孔子廟をつくる。また、王府神官組織と信仰行事の整理。三十三君のほとんどを廃止。聞得大君、王妃の下に位置づけられる。
  *琉球王国の摂政、羽地朝秀により、琉球各地に多数居たジュリ(尾類)(遊女や芸妓のようなもの)を集め、辻、仲島(ナカシマ、現在の那覇バスターミナル付近)その後渡地(ワタンジ、那覇港南側の沖縄製粉近辺))よに遊郭が置かれた。
  *辻のジュリ馬行列 「那覇四町大綱の歴史」によると、17世紀ごろジュリ馬行列祭の際に辻と仲島の遊女達が綱引きを行ったのが起源とされている。
  那覇の綱挽は1600年代から行われていたとされる。
   綱の型は、一般に本土は一本綱、沖縄はみーんな(雌綱)、うーんな(雄綱)の二本を結合させて引くとされているが、本土にも雌雄の綱で引く所はある。 また、ヨーロッパ辺りにも綱を引く習慣はあるが、せいぜい片方に十人内外で、朝鮮や日本のように大勢の人で引き合う方法はないといわれている。日本の民俗学では、従来、雌雄の綱を結合させることは生殖を意味し、それは稲の分けつを促す信仰であると説明してきたが、鹿児島県の民俗研究者・小野重朗氏の調査研究によって、雌綱、雄綱ともに龍を意味し、龍を躍らすことによって農作に最も必要な雨を呼ぶことが綱引きの目的であることが分った。つまり綱引きは雨乞いの行事である。
 私は昭和五十九年に奄美と韓国の綱引きを調査したが、沖縄の綱引きは少なくとも四、五百年前に朝鮮半島から伝わったものではないかと推論している。理由は朝鮮でも雌綱、雄綱があること、村の辻々を巡る道じゅねーがあること、宜野湾市大山や真志喜の綱引きと同じようにあぎえー(上げ合い)があることなどである。韓国の全羅道地域の村々では沖縄とそっくりの綱引きが旧暦正月二十日前後に行われている。
(文=宜保榮治郎・県教育庁文化課課長)
「おきなわの祭り」(沖縄タイムス社)より
  沖縄には17世紀中頃(約300年前)にはカンヌキを用いて2本の綱を引く形が成立していたことから沖縄での紀元はこの時期であろうと推測される。綱引きの由来、意味
 

*奄美の綱引きについて 油井の豊年祭での綱引き 綱を切るという習わしが全域にわたってみられることであろう。切ることと結ぶことは、死と再生を意味しているものであろうから、奄美の綱引きは古い綱引きの原型を考えさせるものである。油井の豊年祭:瀬戸内町油井(県指定)、十五夜綱引き:小湊・西仲勝・西仲間等

  *糸満市の幸地腹・赤日儀腹門中墓。17世紀の半ばには、それまでの墓が狭くなっていたことから、1684年に現在地に築造された。当初は亀甲墓であったが、昭和10年に琉球石灰岩を積み上げて造った現在の破風墓となった。
  シーサーの始まりは、『球陽』によれば1689年のことで、当時火事が頻発して難儀していた人々が風水師に助言を求めたところ、その風水師は八重瀬岳の影響によるものといい、これを防ぐには獅子の像をつくりその山に向けて設置するようにと助言した。住民がその言に従ってシーサーを設置したところ火事は発生しなくなったというものである
   聞得大君六代:月心(1645〜1703年)就任:1677年 *奥間按司加那志。尚貞王の妃(宜野湾親方正信女)
   聞得大君七代:義雲(1664〜1723年)就任:1703年 *尚益王の母尚純王子妃(座喜味親方盛貞女)
   尚益王(1710~1712年)
  *渡名喜島の祭祀「シマノーシ」について。「神々の古層 来訪するギレーの神 シマノーシ/比嘉康雄」(二ライ社)には「一七一三年に編集された『琉球国由来記』にその概要が記されていることを考えると、すくなくとも一七一三年以前からおこなわれていたことは確かであり、古い伝統を持つ祭祀と言える」と書かれている。
1713年 琉球国由来記が編纂される
  首里赤田ミルクウンケー首里では300年ほど前、石川門中の祖求道長老により、赤田首里殿内に弥勒面がまつられ、7月14日にお開き、16日に門中を中心に道ジュネーがあった。
   尚敬王(1713~1752年)
   聞得大君八代:坤宏(1680〜1765年) 就任:1723年 *尚益王の妃尚敬王の母
  *宮古島・野原のサティパロウ。「1716年に上野地区で三番目の村として誕生した野原村は、平良の久松村からの移民によって開村されました」とあるので、サティパロウが始められたのは、1716年以降か?
 ムラの古老の話によれば、パーントゥの仮面は百三十年ほど前に製作されたものであるという。したがって、この行事もそのころはじめられたと考えられる。 比嘉康雄「来訪する鬼 パーントゥ」(ニライ社)より
1718年 ◯玉城朝薫 尚敬王から踊奉行に任命される。
1719年 ◯玉城朝薫 組踊を創作 尚敬王の冊封の時に組踊の初演を行った。
  *龍郷町の種おろし行事 享保十一年(1726年)の大飢饉祈願祭が豊年作記念となり特に竜郷笠利方面は種下し祭が現在も盛んに行続いてある 「ユタのノート/阿世知照信記」から こちらにもう少し引用
1728年 ◯名政治家 蔡温 三司官となる
   尚穆王(1752~1794年)
  *1756年に来琉した冊封使・周煌が書いた琉球の見聞録『琉球国志略』。葛飾北斎が描いた琉球八景は、これを元に描かれている
   聞得大君九代:仁室(1705〜1779年) 就任:1766年 *尚敬王の妃
  *1760年代から1830年代にかけて、イギリスで産業革命
  *八重山について
琉球の方では正徳年間から宝暦年間にかけて、この有病地を開拓して数個の新村を建てた。これ皆蔡温の治世中に起こったことである。試みに、新村建設の二、三の例を挙げてみると、正徳三年(*1713年)には波照間の方から三百余人を石垣島に移して白保村(すさぶむら)を建てた。享保十七年(*1732年)には黒島の人民四百余人を石垣島の川平村の属地野底に移して野底村を建てた。同十九年には波照間から四百余人を西表島の古見の南風見野(はいみの)に移して南風見村を建てた。文久三年(*1863年)には石垣登野城二ヵ村の人民五百五十三人を於茂登嶽の麓なる名蔵村に移し、名蔵村の人民八十七人を合わせて六百人となして一ヵ村を建てた。宝暦五年(*1755年)には波照間の人民二百八十余人を西表に移し、西表古見二村の間の崎山という所に鹿川網取を基礎として崎山村を建てた。その外にも多くの新村を建てた。建てるごとに石垣島の無病地やその附近の島々から強制的に人民を移住させた。はっきりしたことはいえないが、貞享三年(*1686年)から元文二年(*1737年)に至る五十一年間に、一万三千人も増加したのを見ると、沖縄本島からも移住民があったのではなかろうかと疑われる。
~略~
ところが琉球政府のこの大計画は、明和八年(*1771年)の大海嘯(かいしょう)のために悉く水泡に帰した。当時八重山から首里政府に報告した古文書によると、この時の海嘯は石垣島の東南からやって来て、殆んど島の半分を洗い、役人八十九人、人民九千四百余人、その他牛馬船舶などをさらっていった。
 そこで波照間やその他の島々から大勢の人間をつれて来て、そのうめあわせをやったが、駄目であった。おまけに四年経って、安永四年(*1775年)の二月に疫癘と飢餓が一緒にやって来て、同七年の二月まで猖獗を極め、三千七百三十六人の人がその犠牲となった。その後享和(一八〇三)、天保(一八三四)、嘉永(一八五一)に麻疹疫癘が流行して、八重山の人口は著しく減少した。
 それに人頭税はかかる、役人は貪ると来ているからたまらない、その負担を軽くせんために、方々で流産や赤子殺しが行われた。

『古琉球』(伊波普猷)(民謡に現れたる八重山の開拓)から
1771年 ◯明和の大津波 86.4mの巨大津波で1万2千人が犠牲
1776年  アメリカ合衆国 イギリスの北米植民地が、独立を宣言して国家が成立
   聞得大君十代:寛室(1719~1784年) 就任:1780年
   聞得大君十一代:順成(1721~1789年)就任:1784年
   聞得大君十二代:徳沢(1762〜1795年)就任:1789年 *尚温王の母尚灝王の母尚哲の妃
   聞得大君十三代:法雲(1765〜1834年)就任:1795年
   尚温王(1795~1802年)
   聞得大君十四代:仙徳(1785〜1869年)就任:1834年 *尚成王の母
  *八重山のミルク 八重山で最初に仮面のミルク神が出現するようになったのは登野城の豊年祭だといわれています。伝承によれば、1791年、黒島の役人をしていた大浜用倫が公務で首里に向う海路で嵐に遭い、安南(ベトナム)に漂着しました。その際当地の豊年祭で祀られていたミルクに感激し、仮面と衣装を譲り受けたといいます。
1799年 ◯王家の別邸、識名園が造られる。
   尚成王(1803年)
   尚灝王(1804~1834年)
1816年  ◯英国船来航
  *組踊の写本は60〜70ほど確認されており、一番古いものは宜野座村松田にあり、1818年の写本。
1819年 ◯石垣島の宮良殿内建立
   
  *多良間島の「皆納祝い」→「八月踊り」。記録によれば「皆納祝い」とは天保年間(1830~1834)に始まったとされていることから、「皆納祝い」と称されるようになったのは、人頭税制が施行されてからおよそ200年ほど経てからのことだと思われる。
   聞得大君十五代:仲井間翁主(1817〜不明)就任:1870年
   聞得大君十六代:安里翁主(1825〜1909年)就任:明治年間
  *南城市大里古堅区の「ミーミンメー」。由来については「いつ始められたかは定かではないが、地元の話では1834年頃から始まったのではないかといわれている。それは、赤田の首里殿内で行われているミーミンメーをみた区の人がこれを真似て、区で行ったとの伝承があるからである」。
   尚育王(1835~1847年)
  伊江島の村踊り 1835年頃、会所(クェージュ)が置かれた。会所は「伊江島の学問」と「村踊り」発祥の地として、島の教育と文化の発展に大きく貢献した場所である。旧正月には「会所踊り」を披露しており、村踊りの始まりである。
1846年 ◯宣教師ベッテルハイム来琉。この頃、異国船の来航が相次ぐ
   尚泰王(1848~1872年)
  *1850〜1855年、名越 左源太(なごやさげんた)が奄美大島に流罪。島中を調べて周り記録した『南島雑話』を記す。
1851年 ◯ジョン万次郎 琉球を経て帰国
  *ジョン万次郎は日本に直接帰国せず、琉球王国の摩文仁間切小渡浜(現大度海岸)に上陸。豊見城間切(現豊見城市)の翁長で半年過ごした。
1853年  ◯米国ペリー提督来航
1854年 ◯琉米修好条約締結
  *江戸時代の1854年(安政元年)、島津斉彬と徳川斉昭らの進言によって日本船の船印として幕府に採用された「日章(日の丸)」の幟は、1859年(安政6年)に「日章」の旗(「日章旗」)になり、また事実上の日本の国旗(御国総標)となった。
1859年 ◯西郷隆盛 奄美大島に遠島される
1866年 ◯最後の冊封使来琉
  *奄美の島唄 現在唄われている島唄は、先にも述べたように60〜70曲以上あると言われているようだが、そのほとんどは、1871年の廃藩置県までに誕生した唄、つまり明治時代以前の唄であるようだ。「奄美民謡島唄集/片倉輝男」(南方新社)より こちらにもう少し引用
 奄美民謡島唄も、最初は神に仕える神女のユタやノロが唱える、「祈願」・「呪術」に起源があるのではないだろうか。そう考えれば、女性の高い声に合わせるために、男性が裏声を多用するのもうなずける。また、島唄の歌詞に男女が詠われる時も、決まって女性が先に詠われる。レディー・ファーストのいわゆる奄美の「女性崇拝」の形も、ここに起源があるのではないかと思える。「奄美民謡島唄集/片倉輝男」(南方新社)から こちらにもう少し引用
1868年明治時代  
  1870年から伊是名島の玉陵で公事清明祭が行われるようになった。琉球の清明祭は18世紀に中国から伝来してきたものと言われている。
1871年 廃藩置県 明治政府が藩を廃止し府と県に一元化
1872年 ◯琉球王国 日本政府により琉球藩となる
1873年 ◯新暦から旧暦へ。
  *明治5年12月2日(1872年12月31日)まで使われていた天保暦(旧暦)が廃止された。その翌日の12月3日をもって明治6年(1873年)1月1日に改められ、グレゴリオ暦(太陽暦)に改暦された。
  沖縄闘牛1870 年代頃に始まったと推察 される。1885(明治 18) 年頃には、すり鉢型の闘牛場(ウシナー、ウシ モー)が作られ、特に沖縄本島中部では集落ご とに闘牛場が設けられ、人々はやや高めの土盛 の上から観戦を楽しむことができた。
   聞得大君十七代:安室翁主(1874〜1944年)*尚泰王の次女?
  カジマヤー 旧暦9月7日に行われる97歳の長寿の祝い。明治のころまでのカジマヤーは模擬葬式の儀式で、死に装束を着せ、集落の七つのカジマヤー(四辻)を回ったという。カジマヤーに関する民話
  *宮古島の西原ムラは明治7年(1874年)に池間島73戸、伊良部島・佐良浜から15戸が移住し、元からあった横竹2戸、合計90戸で創立された新しいムラである。「光るナナムイの神々/比嘉豊光 1997−2001」(風土社)から。
  *奄美・沖縄の文身(ハジチ) 政府は法令で文身を禁止し、奄美諸島には明治九年(一八七六年)、沖縄県には特殊事情を考えて、文身を廃止するように教育した後、明治三二年(一八九九)10月20日に禁止令を適用した 「いれずみ(文身)の人類学/吉岡 郁夫」(雄山閣出版)から こちらにもう少し引用
1879年  ◯琉球処分 琉球藩が廃止され沖縄県が置かれる
  西表島炭鉱 1885年頃、三井物産は西表島西部と内離島で石炭の採掘を開始した。囚人を含む100-200名の労働者が集められ採掘を進めたがマラリアに襲われ1889年(明治22年)9月21日に撤退した。
  *那覇市小禄・大嶺地区の地バーリーは、文献として記録に残っているのが明治19年(1886年)頃だが、その歴史は糸満ハーレーよりも古いとする説もある。
 大嶺集落は旧日本軍に接収され、戦後は米軍に、そして現在は航空自衛隊那覇基地と那覇空港として国有化されている。
   聞得大君十八代:思戸金翁主(1887〜不明)就任:1944年。戦後廃職
  波上宮 なんみん祭 1890年(明治23年)波上宮が内務省より官幣小社として認められた際、例祭が始まった。当初は新暦12月29日であったが、1893年に5月17日に改められてからは、大和めいた(日本風の)夏祭りとして那覇の風物詩となった。
1891年 奄美大島にフェリエ神父来島
  *20人に1人がカトリック信者。キリスト教に自由を求める。信者をスパイ視。大小28の教会が点在。マリアの島の祈り
1892年 ◯宮古島農民の人頭税廃止運動起こる
 

*八重山の豊年祭 四カ字の豊年祭が何時の頃から始められたのか、正確な記録がないため曖昧ではあるが、 真乙姥御嶽で繰り広げられる村プールは、明治26(1893)年に八重山を訪れた笹森儀助の「南島探検」に 「午後五時、四カ村ノ豊年祭ヲ新川村真乙姥社前ニ教員一向ト見物ス。毎村各ニ個ノ山ヲ具(かつぎ)出シ、台上ニ仮面人ヲ乗セ、天神ヨリ五穀ヲ賜フニ擬ス。古式風韻ノ高雅ナル一見欽望ニ堪へタリ。其他鎌躍、鍬躍、綱引等アリ。 小男女對(そろい)ノ衣服、白赤ノ鉢巻、太鼓ドラノ囃子総テ古風ナリ。」と記されている。

真乙姥という女性は、十六世紀初頭の有名な神女で、オヤケアカハチの乱で首里軍に味方して勝利に導いた功績により、神として祀られており、その遺徳をしのんでムラプーリィの祭場になっている

1894年 ◯日清戦争が起こる
1903年 ◯人頭税廃止される
1904年 ◯日露戦争が起こる
1912年大正時代  
1912年 ◯那覇ー与那原間に軽便鉄道開通
 

小湾のアギバーリーの由来について、「1915年の大正天皇即位祝賀行事の際、那覇市泊の「地バーリー」を倣って始められた」。途絶えた時期もあったが、昭和50年代に復活、現在は新年行事として1月3日に開催されている。那覇歴史博物館のサイトに撮影対象地:糸満とした古いアギバーリーの写真があった。
尚、当地にあった集落は戦後軍用地(キャンプ・キンザー)として土地が接収され、それまでの小湾の住民は宮城に移住した。そのため、現在は移住先である宮城に小湾自治会が置かれ、宮城の一部が小湾区となっている。

1923年 ◯関東大震災
1926年昭和時代  
1931年 ◯満州事変
1935年 ◯西表島の宇多良炭鉱が、1935(昭和10年)から1943年頃まで稼働
1940年 ◯日独伊三国軍事同盟
1941年 ◯太平洋戦争始まる
1944年 ◯学童疎開船対馬丸撃沈事件
  ◯那覇大空襲(10・10空襲)
  *10・10空襲で辻焼失。272年の歴史に幕を閉じた
  島尾敏雄 10月第十八震洋特攻隊隊長となり、奄美群島加計呂麻島にて待機。
  *「ヤポネシア考/島尾敏雄対談集」(葦書房有限会社)からの引用はこちら
1945年 米軍の部隊が3月26日に座間味の島々へ、3月27日に渡嘉敷島へ上陸
  *3月28日に渡嘉敷村で集団自決が行われた。
  ◯6月23日に第32軍司令官・牛島満大将はじめ司令部が自決。
   これにより沖縄戦においての組織的戦闘が終結したとされ、この日を沖縄では慰霊の日と定めている。
  ◯沖縄戦 戦没者20万人 米軍占領
  ◯8月14日、日本がポツダム宣言を受諾
  ◯8月15日、昭和天皇により日本の降伏が国民に公表(玉音放送)される
1945年米軍統治時代  
1946年 ◯マッカーサー元帥、南西諸島の行政分離を宣言 *日本国憲法公布
  *1946年2月2日 北緯30度以南の奄美諸島が日本の行政権から切り離される。10月に臨時北部南西諸島政府が発足。
1948年 ◯軍票B円が通貨に
  *戦争で一時中断していた、糸満市米須の五穀豊穣と集落の繁栄を祈念して踊るウシデークが、1948年(昭和23年)に復活。米須はジョン万次郎が上陸した地として知られる。
1950年 ◯11月 奄美群島政府が設立される 詳細はこちら
1951年 ◯4月 琉球臨時中央政府を設立し、奄美群島政府は廃止を決定
1952年 ◯サンフランシスコ平和条約発効、沖縄は米国施政権下に
  ◯4月 琉球政府発足 行政主席は米軍の任命 奄美の行政は沖縄と一体化
1953年

◯12月25日 奄美群島が日本復帰

  かつての辻の里の、戦火を生きのびた長老女性を中心に上原栄子、上江洲フミたちにより戦後初めての「辻旧廿日正月」と「奉納演舞(じゅり馬行列)」が行われた(戦後那覇の都市祝祭最初の復活)。「じゅり馬と辻村女の里(チージ)の研究」(浅香玲子)より
  *昭和28年 那覇 農連市場が開設
1954年 ◯自衛隊発足
1955年 ◯奄美大島名瀬で大火10月に118棟、2ヶ月後に1365棟焼失
1958年 田中一村(1908〜1977年)、奄美大島名瀬に到着
1959年 ◯6月30日、アメリカ空軍の戦闘機が宮森小学校に墜落
1972年復帰後
昭和時代
 
1972年 ◯日本復帰 沖縄県誕生
1978年 *久高島で12年に一度行われる神女となる就任儀礼、イザイホーが行われた。その時の映像「第1部」「第2部」。
1986年 ◯4月26日 チェルノブイリ原子力発電所事故
1989年平成時代  
1992年 ◯首里城復元
1995年 ◯1月17日 阪神・淡路大震災
  沖縄米兵少女暴行事件
1999年

◯8月13日 国旗国歌法が公布・施行され、日本の国旗は日章旗、国歌は君が代に制定された。

2001年 ◯9月11日 アメリカ同時多発テロ事件
2002年 ◯美ら海水族館オープン
2003年 ◯那覇都市モノレール開通
2004年 ◯8月13日、在日米軍のヘリが沖縄国際大学に墜落
2005年 ◯3月10日、照屋林助さん死去
2011年 ◯3月11日 東日本大震災
2013年 ◯3月19日、登川誠仁さん死去 
  *2014年3月29日に、うるまし芸術劇場で一年忌追悼公公演が開催される。
  ◯4月28日、宜野湾市野外劇場で「4・28政府式典に抗議する『屈辱の日』沖縄大会」
備考 *粟国島のマースヤー 100年以上続いている伝統行事
私的沖縄学事始 泉武
奄美の八月踊り歌
八月踊り
西表島祖納・星立の節祭
秋名アラセツ行事
奄美における民謡と伝承説話の交渉ー奄美民謡誌