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○1月3日(月) 「新成人のつどい」住用地区/住用公民館 10時〜
○1月5日(水)つむぎの日 「新成人のつどい」名瀬地区/奄美振興会館(文化センター)式典11時〜12時 笠利地区/農村環境改善センター 式典13時30分〜
○1月8日(土) 凧作り&凧揚げ教室/奄美少年自然の家 制作9:30〜11:30 凧揚げ11:40〜12:30
○1月8日(土) 奄美矯正展 刑務所作業製品展示即売 島唄・踊りイベント/奄美文化センター 9:00〜16:00 
○1月9日(日) 成人祝賀 奄美市地区対抗駅伝 午前9時市役所前スタート
○1月14日(金) ナリムチ 
○1月15日(土) 奄美ならではの染め物作りを楽しもう/奄美少年自然の家 フクギ、テーチギ、藍の多色染めテーブルクロス(1mX1m) 経費1500円 13:30〜16:00
○1月16日(日) フリーマーケット(1万人広場)奄美文化センター 9:00〜15:00
○1月16日(日) 共生協働フェスティバルin奄美2011 ‘島人の宝‘/サンドーム(名瀬運動公園内) 10:00~16:00 あしたば太鼓演奏・奄美高校てぃだぬくわぁ演奏・ミニライブコンサート NPO法人活動紹介・自治会活動紹介・一集落1ブランド・手塾師会 ニュースポーツ・子どもの遊び場・飲食ブース・フリーマーケット・NPO法人取得・運営相談コーナー
○1月18日(火) 「ハアサキ成人講座」七宝焼を楽しもう奄美少年自然の家 9:30〜12:00 申し込みは1月12日まで
○1月21日(金) 平成22年度第20回大島地区高校総合文化祭/奄美文化センター 作品展示9:00〜、舞台発表13:00〜
○2月5日(土)〜27日(日) あまみシマ博覧会
○2月19日(土) 生涯学習講座「生活環境と私たちの生活〜ニホンザル研究でわかったこと〜/和 秀雄(奄美野生動物研究所)」県立奄美図書館 午後2時から午後3時30分まで(90分間)
○3月5日(土) 生涯学習講座「島唄に魅せられて〜ウヤフジとシマユムタ〜/前山 真吾(唄者)」/県立奄美図書館 午後2時から午後3時30分まで(90分間)
○3月6日(日) 「ハアサキ成人講座」七宝焼を楽しもう奄美少年自然の家 9:30〜12:00 申し込みは2月24日まで

奄美少年自然の家 天体ドーム解放
1月14日(金)、21日(金)、2月11日(金)、19日(土)、25日(金)、3月4日(金)、11日(金)、18日(金)。25日(金)
時間:18:00 ~ 21:00(第1部18:00~、第2部19:30~、ただし3月は第2部のみの開催)
内容:12.14/ふたご座流星群を見よう 12.21/皆既月食を観察しよう(第1部)月の観察をしよう(第2部) 1.14/木星やオリオン大星雲を観察しよう 1.21/アンドロメダ大銀河を観察しよう 2.11/冬のダイヤモンド、7つの一等星を観察しよう 2.19/アウトドア&スターウォッチング(冬)【別途,案内をいたします。】 2.25/冬の夜空を彩るたくさんの星団・星雲を観察しよう 3.4/りゅうこつ座のα星『カノープス』を見よう 3.11/プレアデス星団と月(月齢6.6)を観察しよう 3.18/月のクレーターを観察しよう(月齢13.6) 3.25/リングのある星『土星』を観察しよう。

市の広報誌「奄美市だより」12月号に、2011年(平成23年)奄美大島の主な年中行事一覧が載っていたので転載。
○旧正月:旧暦1月1日→新暦2月3日(木)
○歳の祝い:旧暦1月2日/新暦1月2日(日)(※1)
○ナリムチ:(小正月の前日)新暦1月14日(金)
○山神祭り:旧暦1月16日→新暦2月18日(金)
○サンガツ節句:旧暦3月3日→新暦4月5日(火)
○ハマオレ(ハマオリ):旧暦4月の寅の日、あるいは甲の日に行うところが多い。
○ゴガツ節句:旧暦5月5日→新暦6月6日(月)
○七夕:旧暦7月7日→新暦8月6日(土)
○旧盆迎え:旧暦7月13日→新暦8月12日(金)
○旧盆送り:旧暦7月15日→新暦8月14日(日)
○88の歳祝い:旧暦8月8日→新暦9月5日(月)
○アラセツ(※2):旧暦8月11日→新暦9月8日(木)(※3)
○八月十五夜(※4):旧暦8月15日→新暦9月12日(月)
○シバサシ:旧暦8月17日→新暦9月14日(水)
○タネオロシ:旧暦9月の日柄の良い日(地域・集落によって日程が異なる)
○旧暦9月9日(※5)→新暦10月5日(水)

※1‥以前は旧暦の1月2日に祝っていましたが、近年は新暦の1月2日に行う家庭が多いようです。
※2‥秋名アラセツ行事[ショチョガマ・平瀬マンカイ]:龍郷町秋名(国指定) 等
※3‥アラセツ行事は、旧暦8月の最初の丙の日に行われます。旧暦8月最初の丙の日が旧暦8月1日になった場合,前日のツカリの日は旧暦7月になってしまい、一連の行事が月をまたがってしまうことになる。このような場合には次の丙の日がアラセツ行事を行う日となるようです。(平成16年にも同じことがありました。)
※4‥油井の豊年祭:瀬戸内町油井(県指定)、十五夜綱引き:小湊 等
※5‥諸鈍シバヤ:瀬戸内町諸鈍(国指定)、クンチ祭り:西仲勝 等

道の島交通では、7月16日より路線バスの乗り放題券を発売しています。大人1日間2000円、2日間2500円、3日間3000円、4日間3500円、5日間4000円、6日間4500円、7日間5000円で協賛施設での特典も付いています。詳細はこちら

1月30日(日)
 写真家・常田守さんの案内で、笠利方面へリュウキュウアサギマダラの観察とバードウオッチング。
↓→枝に鈴なりになって越冬する、リュウキュウアサギマダラ。枯れ葉のように擬態している。
リュウキュウアサギマダラ02
リュウキュウアサギマダラ01

 バードウオッチング中、コロコロと変るお天気。激しく雨が降ったかと思うと、ピタッと止んで日射しが出る。虹が出そうな空模様だな〜と思っていたら、期待通りに出現(*´д`*)。

↓虹をバックに記念写真。写真家の常田さん、栄さんご家族、松元さんご夫婦、地元ホテルの支配人・田中さん、小辻さん。

記念写真01
記念写真02
虹

 奄美パークでトイレ休憩、龍郷の浜千鳥館でドリンクとお菓子で一休みして帰宅。

 リュウキュウアサギマダラの越冬風景ほか本日のスナップをPhoto Albumにしました。こちら

1月29日(土)
 雨が降ったり止んだり。家で大人しくしているのも飽きたので、らんかん山とおがみ山をハシゴ。どちらも入り口まで自転車で行き、一番近い広場まで散歩。
 らんかん山もおがみ山も道が整備されているけれど、一人で歩く山道は昼でもドキドキします(汗)。ハブが出ませんように、イノシシが出ませんようにと思いながら道の真ん中を歩く。
おがみ山
←久しぶりに上った、おがみ山の展望広場から。
↓タンカン、5キロで790円。ポンカンよりも味が濃いですね。甘くて美味しい(*´д`*)。
タンカン

 おがみ山から自転車で朝仁まで行き、スーパーでカレー用の材料を購入。ついでに家の近くの商店でタンカンを買って帰る。
 タンカンは5キロ790円〜1800円まで色々並んでいる。高いのは玉が大きく表面がキレイだが、味はどれもそれほど変わらないと言うんで一番安いのを購入。さっそく食べてみましたが、甘みが濃くて美味しい。
 晩ご飯用にカレーを作っていると、朝仁方面からお呼び出しがかかる。一杯呑んで帰るつもりが、ちびちびと。何時間呑んでいたんだろう?
 家に戻ってカレーを食べ、テレビでサッカーのアジア杯を観戦。延長の末、日本優勝。

1月26日(水)
 午後になってパラパラと雨(;´Д`)、のち曇り。
↓スーパーへ行ったら、なかなか安くならない日清やきそばが (*´д`*)、5個パック258円の特売。ちょっと考えて2つ大人買い。
 早速食べましたが、うまい。肉も野菜も入れない、他の調味料もいらない。付属のスパイスだけで完結する美味しさ。

→暮れに買った黒糖焼酎「龍宮」がそろそろ無くなりそうなので、奄美大島酒造の「じょうご 平成二十三年干支 卯ラベル」を購入。
 これで黒糖焼酎の遍歴は里の曙→れんと→ろくちょう→里の曙 瑞祥→喜界島→緋寒桜→奄美の杜→島のナポレオン→龍宮→じょうご 卯ラベル。
 今呑んでいる龍宮は、度数30です。どっしりとして、ちょっと枯れた味わいがありますね。スッキリ系より、こちらの方が個人的には好きかも。度数が上がるほど、ラム酒に風味が近くなってくるのか?

じょうご卯ラベル
日清やきそば
 2月5日(土)〜27日(日)まで、あまみシマ博覧会が開催されます。奄美大島だけでなく与論島でも2月5日(土)〜20日(日)、喜界島・徳之島・沖永良部島でも2月14日(月)〜27日(日)まで各種体験プログラムが用意されています。
1月25日(火)

 昼ご飯の後の腹ごなしに、自転車で赤崎公園まで。今日は長浜方面からではなく、朝仁の千年松の横から上って行く。たぶんこちらの方が、若干近くて坂もきつくないような気がします。まあ、それでも大変なんですが(汗)。

赤崎公園から朝仁集落01
←「朝仁誌 私考/椿 吉盛」(ノア企画制作)から。
↓比較できるように赤崎公園から朝仁の集落が見下ろせる場所を探しましたが、木が邪魔で全体が入らない。昔は高い木がなかったのか?木に登って撮影したのか?
赤崎公園から朝仁集落02
イノシシの掘り起こした跡01
イノシシの掘り起こした跡02
←イノシシに掘り起こされた、赤崎公園の芝生。
 「朝仁誌 私考」によれば、昔はこの辺の山には放し飼いされた山羊もいたらしい。
↓赤崎公園に上ってくる途中に、葉っぱの成長過程がよくわかるヘゴが生えていたので撮影。細部まで観察すると、ゼンマイ状のくるくるがこの植物の基本デザインだとわかる。大きなゼンマイの中に小さなゼンマイがあり、小さなゼンマイは極々小さなゼンマイで構成されている。これらが成長し伸びて行って葉っぱになるようです。
ヘゴのくるくる
 ヘゴの他、本日のスナップをPhoto Albumにしました。こちら
1月23日(日)

 久しぶりに青空が広がったので、昼から自転車でお出掛け。
 朝仁海岸から小宿、里から知名瀬、根瀬部へ。 知名瀬トンネルを使えば大浜海岸横の山を越えなくても根瀬部まで来れるのを知って、行動範囲が広がりました (*´д`*)。

23日のスナップ
 知名瀬の海岸に着いたあたりで雲が出て来ましたが、風もそれほどなく暖かい。天気予報では最高気温18°Cとなっていましたが、体感的には20°Cくらいあったかも。
 帰りは里と小宿の途中に、福里という小さな集落を通って帰宅。 小宿の山側には段々畑がたくさんありますね。
知名瀬海岸
↓イモリ発見。ネットで調べてみたんですが、アマミシリケンイモリでしょうか。ちなみにイモリはカエルと同じ両生類で、水中も陸もOK。ヤモリはトカゲ・ヘビと同じ爬虫類で、陸のみだそうです。
イモリ
 本日のスナップをPhoto Albumにしました。こちら。イモリは、こちら
1月22日(土)
 雲が多いけれど雨が降っていないので、買物がてらぷらぷらとサイクリング。朝仁のスーパーと近所の八百屋さんで食料品を買い、一旦部屋に戻ってから大熊漁港へ。
 今日は宝勢丸も金紘丸も、カツオのぼりが揚がっている。先日は金紘丸でカツオの刺身を買ったので、今日は宝勢丸でシビ(キハダマグロの幼魚)の刺身を購入。お金を支払ってから、しばらく預かってもらいサイクリングの続き。
 龍郷町にある奄美自然観察の森では、もう緋寒桜が咲き始めたとネットで知った。本茶峠にも緋寒桜の並木があるという。とりあえず本茶トンネルの手前、浦上のスーパー・タイヨーまでは来たが・・・本茶峠はまた今度。タイヨーの前から坂道を下って浦上へ。バス停には奥万田とある。
緋寒桜01
 しばらく自転車を走らせていると川沿いの木に、濃いピンクの蕾。緋寒桜でした(*´д`*)。何本かあった木のうち、一本にだけ蕾が付いていた。
緋寒桜02
 浦上から大熊に戻ってシビの刺身を受け取る。ついでにイカ味噌も購入。
↓風をお腹いっぱいに入れて、丸々とした宝勢丸のカツオのぼり。 ↓宝勢丸の売店で買った、シビの刺身、500円。 ↓こちらも宝勢丸で買った、イカ味噌500円。
カツオのぼり01
シビの刺身
イカ味噌
カツオのぼり02
シビとアボガド
イカ味噌とご飯
↑???なんだか野良猫に齧られた魚のようになっている、金紘丸のカツオのぼり。

↑1/3ほどをアボガドと一緒に食べた。明日の朝はマグロ納豆で、残りは漬けに。

↑炊きたてご飯の上に、イカ味噌。おにぎりの具にしても美味しいだろうな〜(*´д`*)。

 今読んでいる「奄美の島 かけろまの民俗/鹿児島民俗学会編」(第一法規出版)から、気になった箇所を抜粋。

十五才祝い この年の祝いにはウデルといって、加計呂麻島から本島の名瀬まで行って帰ってくる行事が、明治のころから大正の時代にあったというが詳細は伝えられていない。
 十五、六才を過ぎると、ハンジキャ(針突)と称する入墨を手の甲にした。入墨は墨で絵や形を書いてその上を針に墨をつけて突くのである。針を四、五本一束にして皮膚を突く作業は半日もかかった。手の甲からは血が流れ皮膚は腫れあがり、すごく痛さを感じたがそれでも入墨は女性のあこがれのまとであったのである。このことを物語る民謡を紹介しておこう。
「ウトフサヤ クレラルシガ
 アヤハジキヤ イノチマギリ。」
(夫欲しさは我慢できるが、綾入墨は命限りである。)
 このように入墨に対する執念は人生の死後にもつながっていて、入墨をしていないと死んだらグショヌミチ(後生の道)に行けないし、あの世の仲間にも入れてもらえないと信じられていた。
 このような入墨習俗は、明治の初めに禁止されたので今はほとんど見かけることはできないのである。

第三章 人の一生 (6)年の祝い

~略~
『中山世譜」によれば、奄美諸島が沖縄へ入貢するのは、文永三年(一二六六)であるとされているが、琉球の支配と統制は、漸次進んでいき、ノロの管制化は、在地のオナリとエケリの祭政一致の体制をそのまま利用しつつ、王府の辞令による任命、神装束およびノロ地の下賜というふうになったものと考えられる。
 オナリとエケリとの祭政一致というのは、部落の指導者が男性で、この姉妹が宗教的指導者となり、部落を統治していることをいうのであるが、オナリが女性でエケリが男性であり、この場合女性であるオナリ、特に長女が霊的な力を所有しているという信仰からきているのである。
~略~ 
 奄美諸島におけるノロは首里王府の支配下に組み入れられるまでは、おそらく、在地の支配者である男性であるエケリとその姉妹で村の祭事の司祭者であるオナリがいたと推測され、首里王府の統制が進むにつれて、ノロとなり、神事組織が整備されていったものと考えられる。

第四章 信仰と祭り (1)ノロ(祝女)より

1月20日(木)
 今日も雨。これから一週間の天気予報を見ても、明後日に晴れマークが付いているけれど、後は曇りと雨ばかり。
 朝仁のスーパーへ、自転車ではなく珍しく歩いて買物に行く。港の横を通ると、〜と牛の鳴き声。見渡して探せば、上部が柵になったコンテナに牛が三頭。フェリーで運ばれて来たのか、これからフェリーで運ばれて行くのか・・・。
雨の景色
 スーパーで肉、きのこ、パスタ他を買い、近所の商店でポンカンを買って帰ったら2時間ほどの散歩になった。
 それにしても雨の多い島だ(;´Д`)。他にも何枚か写真が。こちら
1月18日(火)

 ヒキャゲ=引き揚げ。お正月行事も今日で終わり。14日に、トイレの出窓に飾ったナリムチを外す。何もないと寂しいので、空いた瓶に梅の花の造花をさしておく。

 午後から市街地にある、蘭館山(らんかんやま)へ行ってみる。暮れに買った黒糖焼酎「龍宮」の蔵元・富田酒造の横に、山へ上る入り口がある。幕末期にオランダ人の屋敷があったことから、蘭館山の名前が付いたとか。
 入り口には2つの案内板が立っている。一つは、かつてこの辺りに白糖工場があったというもの。もう一つは、山の上の方に建てられている、「くれないの塔」の由来について。
昭和三十七年九月三日午後四時五十五分、一婦人の生命を救うべく急患用血液を輸送してきた海上自衛隊鹿屋第一航空群のP2V機が、突如この地に接触し大破炎上するという、一大惨事が発生いたしこの事故で十二人の搭乗員と一人の市民が尊い犠牲者となりました。
善意に充ちた愛の飛行が不測の災難と変り人の世の運命とはいえ誠にいたましい限りです。
この美しい人道的行為を永遠に讃え、異郷の地に果てた十二柱の隊員と一柱の市民の霊を慰めるために、全国の心ある人々の愛情と良識を寄せてこのゆかりの地に記念塔を建立し此れをくれないの塔と名づけました。
現在、奄美市が毎年9月3日を献血の日と定めた由来である。

 
 公園を通り、さらに上にあるくれないの塔まで歩く。距離はそれ程ないが、なんで!?と思うくらいに急な坂道。上りもキツいが、下りは転がりそうになる傾斜。舗装されていますが、スニーカーでもツツツツツと滑りそうになる(汗)。

18日のスナップ
 初めての蘭館山散策の後、自転車で市街地を探索。名瀬の市街地、なかなか奥が深い(地形的にも)です。
ヒキャゲ01
←ぶらぶらサイクリングの帰り、入舟町のグリーンストアーでヒキャゲを購入。味はサツマイモ、食感はお餅。材料そのまんまですね(*´д`*)。
ヒキャゲ02
 本日のスナップをPhoto Albumにしました。こちら
1月17日(月)

 昨日、”奄美はさすがに雪は降っていませんが”と書きましたが、山間部では雪が舞ったらしい(゜▽゜*)。こちら

 今日も朝から雨が降っていましたが、午後になって少し回復しそうだったので自転車で出掛けて来ました。行き先は朝仁の隣の集落、小宿です。
 奄美大島に関する本を読んでいると、名越左源太(なごや さげんた)が書いた「南島雑話」がよく登場してくる。名越左源太は、幕末の薩摩藩士ですが、嘉永3年(1850年)お由羅騒動に連座して奄美大島へ遠島を命ぜられる。その際住んでいた家が小宿にあるそうで、そこを訪ねてみた。
 自転車でぶらぶらと走って探し当てた場所には案内板があり、「名越左源太 流刑中の居住の跡」と書いてあるが敷地に家はなく、空き地のようになっている。

名越左源太の住居跡

説明書きには「嘉永二年、島津斉興の正妻の子斉彬、妾腹の子久光とのあいだで相続争いの事件で二派にわかれて争われた、お由良(妾)騒動で、高崎五良左門ら十四名切腹を命ぜられたため、高崎崩れという。退役謹慎十四名、遠島九名中の一人名越左源太が大島名瀬方小宿藤由気宅に嘉永三年五月八日から安政二年四月二日まで約五年間居住して、小宿の子弟に読書や学問を教えその感化を授けた地である」と記されている。
 

 この小宿にいた期間に『南島雑話』『遠島日記』など、当時の奄美大島の実情を知る事のできる貴重な史料を残している。
 せっかくなので自転車を置いて、散歩してみる。海に近いところは新しい家が多いですが、奥に入ると昔ながらの佇まいの家も残っている。
 ナリムチも昔は家の軒先にも飾ったと聞いたので、どこかに飾ってないかと見てまわりましたが発見できず。まだ門松が立っている家は何軒かありましたが。

↓→小宿の集落から小宿漁港に出て、海岸沿いに朝仁へ向かっていると目の前の海から大きな虹が出現。
虹02
虹01

 明日はヒキャゲ(ヒチャゲ)です。14日に飾ったナリムチの餅をはずし、サツマイモと一緒に潰して練って、ヒキャゲを作って食べる行事だそうです。
 「奄美の暮らしと儀礼/田畑 千秋著」に詳しく書かれているので、引用。
ヒキャゲ・引き揚げ 十八日はヒキャゲ。ヒキャゲは引き揚げの意で、正月行事の終わりということである。この日はヒキャゲという餅を薩摩芋、里芋(ほんのわずか)、糯米の粉、粟(または粟●)で作る。それは薩摩芋の皮をむいてよく洗い、アンマンナブという大鍋に入れ、その上に糯米の粉等をサネンガシャ(餅を包むのによく使うゲットウの葉)に包んで置き、下から火を焚く。炊けると余分な汁をこぼし、芋と糯米の粉等をこねあわせて作る。搗き餅ではなく蒸し餅である。このヒキャゲが出来ると、糯米の粉を包んであったサネンガシャ(ゲットウの葉)を門にさし置き、ヒキャゲは茶碗に入れて隣り近所に配る。その時は、「ワキャ ヒキャゲ アジシモレ(私達のヒキャゲも味見をして下さい)」といって持って行く。その家もすでに出来ていればその場でお返しをする。もしまだ出来ていなければ後から持って行く。サネンガシャを門にさすのは、もうわが家ではヒキャゲが出来ましたというしるしである。またこの日はヒキャゲニムン(ヒキャゲ煮物)といって、ワンフネ(豚骨)、ドーコネ(大根)、ツバシャ(つわぶき)、ウム(里芋)などで煮物を作る。このヒキャゲがすむと、すべての正月行事が終わるのである。
は、もち。
*本の発行は1992年です。

 本日のスナップをPhoto Albumにしました。こちら

1月16日(日)
 昨日、今日と全国的に大荒れの空模様。西日本では、この冬一番の寒さらしく、あちこちで雪が降っているらしい。奄美はさすがに雪は降っていませんが、午後にベランダでパチパチと音がしていたのでミゾレだったかもしれません。
 昨日の夜は、ず〜っと風がゴーゴーと唸っていた。ビルの中なのに、その唸るような音に正直ビビる。いや、ホントにコンクリートの建物も倒すんじゃないかと思うほどの音。島の風は、ハンパない。
今日の空
昨日の空

↑昨日の夕方6時頃の空。

←今日の夕方5時半頃の空。昨日は波浪警報が発令。強い風の中、条件付きもあるようですが、フェリーは運航しているようだ。

 今日は雨が降ったり止んだり。窓越しにサッと強い日射しが入るので、散歩に行こうかと外を覗くが、直ぐに日射しは消えて、雨雲が現れる。そんな繰り返し。
 外出は諦めて、本を読み、ファイルやフォルダーでいっぱいになったパソコンのデスクトップを整頓する。
→バックアップを取った後、デスクトップいっぱいにあったファイルやフォルダーを整理した。
デスクトップ
 明日も日本海側を中心に大雪だとか。奄美は、どうだろう?
1月14日(金)
 昨日買って来たぶぶの木とお餅で、ナリムチを制作 。置く場所に悩んで、トイレの出窓に飾ってみました(汗)。 飾る場所として相応しいのかわかりませんが 、最近はトイレの神様も人気があることだし (笑)。
 門松を作った時にあまった梅の花の造花も、 一緒に並べてみました。花瓶がなかったので、 田中一村の”初夏の海に赤翡翠”がラベルになっている黒糖焼酎 「奄美の杜」の空き瓶を利用。
自宅のナリムチ
 今借りている部屋を選んだ理由は、 5階角部屋で港と空がよく見えるから 。そしてトイレが明るいことも。
 床はフローリングですが、壁と天井は白系統で 窓から日射しが入ると全体に光がよく回ります 。また、洗面所と一緒になっているのもあって、 広いのも嬉しい。
 隣接する浴室の湯船は、これまで入ったことがないくらい狭いけど(;´Д`)。湯船は倍の広さが欲しい。
 でもお湯に浸かって窓を開けると、フェリーが見れます(*´д`*)。
 飾り付けができたので、ナリムチ当日の墓地の様子を見に、朝仁海岸へ。
 朝仁には、海岸を囲むように3カ所に霊園がある。アチコチの集落を訪ねると、たいてい海岸、浜の隣には墓地があるように思う。一つには、昔は洗骨(せんこつ)が行われていたので海に近い場所にお墓が建てられたのだろう。奄美では洗骨は、改葬という。
 「奄美の島 かけろまの民俗/鹿児島民俗学会編」の口絵のキャプションには<改葬> 改葬のことをアトウガムともいう。死後七年、九年、十三年目などのトモチの日に、墓を掘り出し、頭骨には真綿をかぶせて骨壺に入れ、納骨堂に大切に保存して拝む。とある。
 そして祖先を大切にする土地柄、ご先祖様には集落の一番眺めの良いところをということで、風光明媚な場所に建てられたと本で読んだ気がする。
 島のアチコチを歩いていると、ホントに墓地をよく目にする。島の人口に比べてお墓の数がとても多いように感じられる。でもそれは、お墓は忌み嫌って隠すものではなく、生活の傍にあり、集落の一等地に建てられているからよけい目に付くからかもしれないですね。
朝仁の地図01
朝仁の地図02
↑は「朝仁誌 私考/椿 吉盛」から複写した、朝仁集落の地図です。書いてあるのは、かつて使われていた小字地名です。
霊園01
霊園02
霊園03
↑地図番号10の、天川にある天の川墓苑。海岸より少し陸に入っています。 ↑地図番号2の外金久にある霊園。3つの中では一番古くからありそうです。 ↑地図番号15の不瀬平にある、朝仁霊園。一番良く海が見えますね。
 本日のスナップをPhoto Albumにしました。お墓ばかりですけど(汗)。こちら
1月13日(木)
 久しぶりに日射しが多くて、それだけで幸せな気持になる。お日様、偉大なり(*´д`*)。
 何日か振りで朝仁海岸へ来ると、海岸端の地元の人が腰掛けているベンチの横に巨大な木のオブジェが立っている。昨年の豪雨災害の時の流木だろうか。倒れないように鎖で繋いであるので、海岸のシンボルにするのかな?きっと1年もすると、すっかり馴染んで昔からここにあったようになりそうですね。50年くらい経つと、何か伝説もできているかもしれない(笑)。そういえば、いつの間にかベンチも新しくなっている気がする。
 千年松の横の山道を歩いて、赤崎公園と金作原と名瀬市街へ分かれる四つ角の方まで行って戻ってくる。トンネルが出来るまでは、この山道が名瀬市街と朝仁を結ぶ主道路だと思うけれど、山を一つ超えるわけで当時の苦労が偲ばれる。
 道路自体は割りと広めで舗装もしてありますが、道路の端から斜面を見ると鬱蒼と木が茂り、見た事もないような植物が生えている。金作原原生林はまだ行ってないけれど、よそから来た者には生活道路の直ぐ横の林ですら十分特別な場所に思える。
 そういえば、宮久田の後ろの方から上がって行く道の入り口に、”1月16日(日曜日)に赤崎公園一帯で銃器を使って「イノシシ」の捕獲作業を行いますので、当日は安全のため立ち入りをご遠慮下さい”と書かれた立て札がありました。
→バス通りに面したところにある、朝仁貝塚。案内板には「この貝塚は、古くからの奄美と中国あるいは本土との交易を実証する唯一のもので、青磁、白磁などの中国系の遺物や本土系の須恵器、陶器、石鍋、初期伊万里等が出土していて、奄美の歴史・文化を解明するための重要な貝塚である」と書かれている。
朝仁貝塚
 朝仁の歴史について、「朝仁誌 私考/椿 吉盛」には以下のような記述がある。

 朝仁には集落(シマ)建てとのかかわりあいを色濃くとどめている地名の小字や俗称名が多い。その中で最も古い時代を髣髴(ほうふつ)とさせる地名を残しているのが唐水(トウムジ)小字である。
 唐水については、本書の地名考の頁で述べているとおり、朝仁湾の右岸先端の紺畑小字と接して東支那海に面し、その海岸沿いには遠い祖先たちが唐との貿易の際に往来していた航路がある(その航路を舟路と呼んでいる)。その舟路が当時の貿易港であった白間まで通じていたのである。
 唐水はかつて水量豊かな清流が流れていた。唐商船の出入りの際の目じるしにされたり、航海中の飲料水の補給をしたりして、唐船とのかかわりあいがあったところからその名が出たのではないだろうかと推考されるので、それが安藤平の『日本貿易史』にあるような、唐との貿易の傍証(後考を待つしかない)として位置づけされることになれば朝仁の集落建ては遠く平安の時代まで遡ることができるかも知れない。
13日のスナップ

 朝仁のスーパーで買物をして、一旦部屋に戻ってから、永田橋の商店街へ。商店の店先では枝にカラフルなお餅をくっ付けてナリムチ作りの真っ最中。川沿いには完成品が並べられている。色々と写真を撮らせてもらった後、自分で作るようにぶぶの木と4色のお餅を購入。2つで400円は、かなりオマケしてくれたのかな?
 「墓地に行けば、きっともういっぱい飾ってあるよ」と言うので、永田町にある霊園に行ってみると花と一緒にナリムチが飾られたお墓がけっこうありました。
 ナリムチは小正月の前日にあたる14日に、枝に色とりどりの餅を付けて家の中やお墓に飾る行事。使われる枝はぶぶの木(ブブギ)と言われ、これはリュウキュウエノキだそうです。
 奄美でも南部の瀬戸内町ではあまりやらないとも聞きましたが、「奄美の島 かけろまの民俗/鹿児島民俗学会編」の第五章 年中行事によれば、黄金餅(十四日)コガネムチともキンナリともいって餅を小さく四角に切って柳の木にさしたものを家の入り口、部屋の四隅にさしたり墓にも供えるというのが、諸数(しょかず)、花富(けどみ)部落などでみられる、とある。昭和45年発行の本なので、現在も行われているかはわかりませんが。

 年末に買った5キロ250円のポンカンが無くなりそうなので買いに行くが、ポンカンの時期はそろそろ終わりのよう。店先を見回して安かったサンキスト・オレンジ10個200円を買って帰る。

 本日のスナップをPhoto Albumにしました。こちら

1月12日(水)

 一昨日アマゾンでポチッとした外付けハードディスク・ドライブが、今日届いた。今回購入したのはI-O DATAのHDC-EU2.0Kという商品で、2TBで11,480円でした。
 さっそく初期化して名前を付ける。ちょっと悩んでNaradaにしました。もちろんナラダ・マイケル・ウォルデンから。ちなみに横に並んでいる1TBのHDDは、Jackです。こちらはジャック・ディジョネットから命名。奄美には持って来ませんでしたが、この他にHarvey(ハーヴィー・メイソン)、Steve (スティーヴ・ガッド)、Billy (ビリー・コブハム)がいます(*´д`*)。

外付けHDD01
外付けHDD02
外付けHDD03
↑値段を安く抑えるためか、無地の段ボール箱に入れられ、取り説はネットでダウンロード。

↑右が今回購入した2TBのHDD。左は旅の途中、熊本で購入した1TBのHDD。

Naradaと言う名前を付けてみました。1TBの方はJackです。
 このところお天気がよくないので、部屋で本を読んでいることが多い。「朝仁誌 私考/椿 吉盛」が面白い。これまで郷土史のようなものは興味がなくて、ほとんど読んだことがなかったのに。

 朝仁地名私考から、気になったところを抜粋。

小字地名考
一、里金久、外金久、中金久、浜金久
 奄美の島々に最も多い地名に金久、兼久、与那間と表記したカネク、ハニク、ユナマなどと発音されている地名は珊瑚礁などが砕けて沖積したところにできた集落である。朝仁の里金久、外金久、浜金久なども典型的な沖積地であるところからその名が付されたものであろう。

十一、牧
 牧は南に赤土田、北西に唐水、北に貝浜、東に赤崎山が隣接している。牧の一部は現在でも耕作されているが、明治の後半から昭和十二、三年頃まで牧畑家の所有地が多く、主に甘蔗が栽培され「サタヤドリ」(砂糖製造小屋)などが建っていた。
~略~
 そもそも牧という地名はその語源から牧場、つまり牧畜を表現したものが多いこと、また地名命名の技法からすると土地の利用による命名に従ったものと思われる。
 奄美の古い時代における牧畜というものは近代の牧畜のような概念でとらえるものではなく、単に放し飼いをすることであり、島でよく言っている「シテワジレ」(捨て飼い)の域を出るものではなかったと思われる。
~略~
 薩摩藩が甘蔗の作付け面積拡大政策を強行していくなかで、イーバル台地の開墾が逐次耕地整理されて大々的に甘蔗の栽培がなされるようになるに伴って、甘蔗の栽培農家を中心に集落のなかにも草刈などの手間を省くため、牧の山林に家畜の放し飼いをするようになったのではないだろうか。
 このように家畜の放し飼いの経緯から、土地の細分化の際に「牧」の名が出たものと思われる。
 つい最近まで赤崎を中心に山羊の放牧が大々的になされていた事実もこうした歴史的背景があったからではないだろうか(この放し飼いは野犬の群れによって甚大な被害を出したので中止された)。

*甘蔗(かんしょ)、サトウキビの別名。甘藷(かんしょ)は、サツマイモの別名。

俗称地名考
六、サンコモリ
 朝仁の西北端、天川の川尻から、なぎさ園下の海岸一帯を集落では古くから「サンコモリ」と呼んでいる。~略~朝仁の浜、とくに「サンコモリ」一帯の海浜は戦前から名瀬市街地学校の遠足地として、また市街地住民の海水浴場としてひろくその名を知られたところであった。
~略~
 また戦前は、夏の月夜ともなれば青年男女が舟遊びで「サンコモリ」沖に繰り出し、海上から三味のしらべにあわせた唄声が潮風にのって浜辺一帯に流れていたものである。
 「サンコモリ」の浜辺では、毎年イビシ祭り(豊漁祭)が集落を挙げて盛大に行われ、その祭りは夜ともなれば八月踊りになり、鼓(チヂン)の音が夜を徹して聞かれたものである。

八、ウドン
 外金久の東西端に朝仁墓地と隣接し、現在の秋山エツ氏宅および徳山積吉氏宅付近を集落では昔から「ウドン」と呼んでいる。
~略~「ウドン」といえば名瀬市街地のウドン浜を連想するのであるが、そのウドン浜について『名瀬市誌』は次のように記している。
 かつての伊津部トネヤの跡は、今の永田橋通りの田畑商店と川口金物店のあたりであったが、これは下トネらしく上トネは今の永田橋通りをへだてた上のあたりにあったという。伊津部の聖林ウガン山(拝山)から下った神の道はジョノシキから伊津部トネヤの前を通り、永田川の岸にそってウドン浜(御殿浜)に至っていた。明治初年頃までの川尻は、今とちがい、永田川・新川の合流した川尻は、いまよりずっと東(浦上寄り)になっていたので、当時ウドン浜といっていたのは、現在の小浜町の有村倉庫の上の辺りから、今の川尻の部分や浜町公園もふくみ、丸尾商店近くまでを総称して、ウドン浜といっていた由である。それで神の道の行きついたウドン浜も、いまの浜町公園の付近でそこにもまたノロが祭りをする小屋があったとのことである。(故大島菊子女史談)。これからみると、名瀬のウドン浜(御殿浜)も、喜界島のウドン鼻も、ともに、そこにあった海の神の祭りに関係のあるノロの祭屋、神御殿(カミオドン)に由来する地名であろう。
~略~
 筆者の母方の祖母で集落のノロ神でノロの司祭をしていた日高アグリ(故人)ばあさんから、現在のあさに海浜公園と道路をへだてた西側の土地(浜際で墓地の先端にあたる土地)は海の安全祈願祭をするところだったとよく聞かされたものだったが、ウドンとは限られた平田家の屋敷跡だけではなく、平田家の屋敷に隣接している墓地から海の安全祈願をした浜際までを総称してウドンといったのではないだろうか。そもそも墓地などは奄美では元禄の頃になって漸く墓石などが建てられているので、集落(シマ)建ての頃は墓地などはなかったので、この周辺一帯がウドンと呼ばれ、海の神の祭りをする神御殿(カミオドン)が建っていたところからその名が出たものと思われる。
 また、ミチグリ周辺にアシャゲやトネヤがあったとみられているところから、神の道に行きつくところの通路にもなっていたのであろう。 

1月10日(月)
 7日に玄関から外した、しめ縄と門松。一昨日図書館で本を借りた時に、受付の女性に奄美ではどうするのか尋ねてみたがわからないとの答え。図書館を出てしばらく自転車で走っていたら、車に乗った栄さんご夫婦とバッタリ。これ幸いに聞いてみたところ、どんと焼きのような風習はないようで、ゴミの日に出すのが普通のようです。
 というわけで、今日の燃えるゴミの日に出して来ました。
 今日もお天気は今一つ。「朝仁誌 私考/椿 吉盛」を読み始める。朝仁地名私考と、朝仁の歴史と生活の2つの章からなる189頁の本です。
 奄美市のホームページによると朝仁340人、朝仁新町1598人、朝仁町580人と奄美の集落としては大きい方だと思いますが、一つの地域でこうした本が作られているのが凄いですね。
アフロ・キューバン・オールスターズ01
アフロ・キューバン・オールスターズ02
 8日から今日まで、天王洲 銀河劇場でアフロ・キューバン★オールスターズ★のコンサートがあったようですね。
「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」の立役者、ファン・デ・マルコス率いる、超一流のビックバンド・サウンド!空前のキューバ音楽ブームを引き起こしたこの映画から10年―待望の再来日が実現!

 もう10年が経つんですね。一日一日はそれなりに長いのですが、振り返るとあっという間かも。

↑2000年10月24日、東京国際フォーラムでのアフロ・キューバン★オールスターズ★のコンサート。

←ファン・デ・マルコス(手前)とフェリ・バローイ。2000年10月22日、赤坂プリンスにて撮影。

 アフロ・キューバン★オールスターズ★が10年前なら、20年前は誰を撮影していたんだろうと自分の撮影リストを見てみる。
 インドネシアのクロンチョン歌手、へティ・クース・エンダンのライヴとポートレートが91年の5月、アイルランドのシンガー、メアリー・ブラックのライヴとポートレートが90年の12月。これから10年、20年先を想像してもピンと来ないし、気の遠くなるような時間にも思えるけれど、振り返れば10年、20年はちょっと前のことにも思える。きっと成るように成って、これからも一年、二年と過ぎて行くに違いない。
 それにしても、「うぶ毛がそそり立つ」を歌っていたヘティを撮影していた頃に生まれた赤ちゃんが、今日成人式を迎えているわけですか(汗)。ちょっとビックリしますね(笑)。
 リストを見ていると懐かしい撮影もいっぱいある。一昨年亡くなられた俳優の金田龍之介さんの撮影が99年5月。ウォズ・ノット・ウォズ と今野雄二さんの撮影が89年6月。これらの写真の前に、カメラを構えた10年、20年前の自分が立っているのかと思うと不思議な気もするし、カメラマンで良かったな〜と思うのです。

ヘティ・クースエンダン
was(not)wasと今野さん
金田龍之介さん

↑ウォズ・ノット・ウォズの撮影。インタヴュアーだった今野雄二さんと。89年6月12日。六本木プリンスだったかな。
←クロンチョン歌手、へティ・クース・エンダン。91年5月7日、新宿のお寺にて撮影。
→俳優の金田龍之介さん。99年5月24日、浅草にて撮影。

名瀬港の朝焼け
←昨日の朝、目が覚めたら窓に薄らと色がついている。久しぶりに見た朝焼け。
↓こちらは朝の9時半頃かな。雲の隙間から溢れる日射しがキレイだった。
日射し
 昨日は「成人祝賀 奄美市地区対抗駅伝」が開催された。奄美市の広報誌によると、午前9時に市役所正面玄関前をスタートし、家の横を通るのが9時5分過ぎと、小宿で折り返して9時40分頃のようなので窓を開けてその時間帯だけ観戦。
 結局部屋から出ない一日だった。さて、どこの地区が優勝したんでしょう?
奄美市地区対抗駅伝
1月8日(土)

 雲が多いながらも、久しぶりに日中は青空も広がった。風もそれほどないので、長袖のTシャツにトレーナーと薄手のヨットパーカーで大丈夫(*´д`*)。
 お昼ご飯に冷蔵庫に残っていたお餅を鍋に入れてお雑煮を食べ、今日返却期限の本を持って奄美図書館へ。5冊返して、新たに5冊借りる。
 借りて来た本を一旦家に置きに戻って、奄美文化センターで開催されている「奄美矯正展」の刑務所作業製品展示即売会を見に行く。会場に着いて直ぐに新民謡歌手・西 美智子さんのステージが始まった。
 せっかくのお天気、自転車で走りたい。2曲ほど聴かせていただいて外に出る。

 久しぶりに大熊漁港に行くと、金紘丸の鰹のぼりが上がっている。直売所へ行き、1パック500円の刺身を購入。大熊を少し自転車で走りたかったので、刺身を1時間ほどお店にとって置いてもらう。
 大熊龍王神社に向かう途中に、ちょっと雰囲気のある家が。
 奄美パークのサイトに(注釈1「トネヤ」奄美におけるノロの住居。ノロ行事の場でもある。上トネヤ・下トネヤがあり、互いに隣接する。両トネヤがほぼ完全な形で残っていたのは名瀬市大熊だけであった)とある。この家のことだろうか?と思いながら道路から写真を撮らせてもらう。

龍王神社

←大熊龍王神社。建物の横には、「立入禁止でござーる」の立て札。
↓トネヤと思われる建物。大熊は区画整備が進み、広い道路が集落を通ってます。新しい家も多いですね。

トネヤ
 集落の奥に建っている龍王神社を見てから、有屋へ。途中にチボリ水という湧き水を発見。
 有屋の一村住居跡の近くにもノロのトネヤがあると知ったので探しに行くが、見つからない。一度来たことがある一村の住居跡も見つからない(;´Д`)。あれれ?刺身を預かって貰っているので、また次回に探しに行きます。
 刺身を冷蔵庫に入れてから、朝仁へ。いつもは横の道から眺めるだけの千年松の下まで行ってみる。奄美市の保存樹第1号とある。さすがに大きいですね。
 海岸の横を通り、スーパーで買物をして、朝仁集落の路地を自転車で走って帰宅。晩ご飯に、鰹のお刺身。食べきれないので、また明日。
ぶぶ木
朝仁の生垣
鰹の刺身
↑商店や花屋、スーパーの店先に14日のナリムチ用の枝、ぶぶの木が売られていた。 ↑朝仁集落の路地。各家を囲む生垣が風情ありますね。 ↑大熊漁港の金紘丸で買った鰹の刺身、500円。
借りて来た本

←今日借りて来た本。
「奄美の島 かけろまの民俗/鹿児島民俗学会編」(第一法規出版)、「美しい島へ/写真:新倉 万造 文:松木 圭三」(えい出版社)、「奄美の暮らしと儀礼/田畑 千秋著」(第一書房)、「TROPICAL AMAMIから南風/浜田 太写真集」(小学館)、「朝仁誌 私考/椿 吉盛」(ノア企画制作)。

 昨年暮れの「田中一村 新たなる全貌」の記念図録がありましたが、持ち出し禁止となっていました。残念。

 本日のスナップをPhoto Albumにしました。こちら
1月7日(金)

 門松をたてておく期間が松の内で、小正月の1月15日までらしいですが、最近は七草がゆを食べる7日くらいを指すことも多いそうです。奄美は15日までだろうか?
 我が家の玄関(マンションの5階ですが・汗)に飾っておいた門松としめ飾りは、今日外しました。外したはいいけれど、どう処分すればいいんだろう。奄美にもどんと焼きってあるんでしょうか?

 なんだかこのところ、すっきりしないお天気が続きます(;´Д`)。今日も午後になって出かけようと思ったら、小雨が降って来た。しょうがないので郵便局だけ行って、帰ってから本を読んで過ごす。

「奄美の伝説・日本の伝説23/島尾 敏雄・島尾 ミホ・田畑 英勝」(角川書店)
 為朝伝説より
 大島のすぐ南には、狭い海峡をへだてて加計呂麻島が横たわっているが、この島はなおいっそう為朝とのかかわりが濃いといえようか。
 現在その行政区分は、向かいの大島がわといっしょになって瀬戸内町を称しているが、以前は鎮西村と実久村の二村から成り立っていた。
 いずれも明治から大正にかけてつけられた村名だが、この島に伝わる為朝伝説が、根強く島の住民の記憶の底にあったからにちがいない。
 つまり実久村の実久には、為朝の子の実久三次郎が住んでいたのだといわれてきた。

*源為朝の別名は、鎮西八郎
 
 為朝がいた十二世紀の頃は、奄美の島々にも、村々に在地の豪族たちがぼつぼつ勃興してきていたと考えられている。
 彼らはアジとかヒャまたはガリヤなどと呼ばれていたが、後になって沖縄の王とのかかわりの中で、按司(あじ)、大親(うふや)などと言われるようになって行った。
 実久三次郎もいわばそれらの豪族のひとりであったが、無双の大力で、一里半ばかりの海峡を隔てた大島がわの対岸の西古見に、大櫂(大きな櫂)一掻きで渡ったというので、大櫂加奈志(うふゆほがなし)とあがめられていた。
 また西古見から山を越えた焼内湾添いの名柄には、焼内大親の名柄八丸(あるいは八万)と呼ぶ豪族がいたが、お互いに海峡をはさみ三里も間を置いたままで、大石を投げ合って争ったという言い伝えが残されている。
*奄美には大男、豪族が大石を投げ合う伝説が多いように思う。海岸にやたらと大石、岩がゴロゴロ転がっているのと関係ありそうですね。岩が流れて来た伝説も多し。

 昨日も雨でしたが、散歩がてら傘をさして、伊津部小学校まで消防出初め式を見に行って来ました。
 校庭には消防車がいっぱい並んでいましたが、 あいにくの雨なので体育館で開催。 放水や、ハシゴ上りを期待していたのですが、そういうのはやらないのかな?
 式典の後に、紅白の餅まきがありました(*´д`*)。
消防出初め式01

←午後1時30分から開催された、消防出初め式。

↓式の後に行われた、餅まき。子供たちが張り切って拾ってました。

消防出初め式02
 明日は本の返却期限。晴れるといいな。
1月5日(水)
 一日ほぼ曇り空でしたが、風が強くなかったので久しぶりに自転車で遠出。まずは奄美文化センターに寄って、成人式を見に行く。
成人式01
←会場には入れないので、式典の後で外に出て来た所を見学。
 さすが奄美大島、大島紬の着物を着た女の子もけっこういました。色や柄のせいもあって、落ち着いて見えますね。
成人式02

 奄美文化センターから朝仁海岸へ行き、小宿、福里、里の集落を通り、知名瀬トンネルを抜けて知名瀬集落へ。知名瀬へ自転車で来るのは昨年7月以来で、2度目です。
 7月の時は大浜海岸横の急で長い山道を通って来たので大変でしたが、豪雨災害後のバスに乗って大浜海岸の山を通らず小宿から知名瀬トンネルを抜ける道を知って挑戦してみました。いや〜楽ですね(*´д`*)。知名瀬トンネルから集落まで少し坂ですが、あとは平坦な道です。この道なら知名瀬〜名瀬まで自転車通学もできるかな?
 知名瀬を少し自転車で走って、根瀬部へ。神社があったので、お賽銭を入れてお参りしてから集落をぶらっと走り、来た道を戻って名瀬へ向かう。

石敢當01
石敢當02
←根瀬部で見つけた石敢當(いしがんどう、いしがんとう、せっかんとう)。奄美は、せっかんとうと読むんだろうか?
 先日、国直集落のT字路でも見つけました。
小宿の正月飾り

 帰りに朝仁のスーパーで、食材を買って行く。お節に飽きたら、カレーもね♪お節は蒲鉾くらいしか食べていませんが(;´Д`)、安かった牛肉を買ってカレーを作る。

←小宿の集落で撮影した、正月飾り。松、ゆずり葉、笹を縛っただけのシンプルな門松ですが、味がありますね。

 本日のスナップをPhoto Albumにしました。こちら

1月3日(月)
 冷蔵庫の中が寂しくなったので、買い出しに。
朝仁海岸
 買物へ行く途中に、今年最初の朝仁海岸。今日も風が強くて、波が高い。
 アレコレ買おうと思っていたが、正月だからか時化でフェリーの欠航があったからか、品揃えがいつもより少ない。
 色々悩んで、とりあえず今晩は、鰹のタタキと鍋。
 
↓朝仁海岸の猫。最近見かけるようになった黒白の子猫。1匹だと思っていたら、2匹いた。いったいアダン林の中に、何匹住んでいるんだろう。 
猫01
猫02
猫03
1月2日の虹

 昨日は雨が降っていたので、部屋に籠って本を読んでいたら、突然窓から強い日射しが入り、その直後に女の子達の歓声。
 ??もしやと思いベランダ側の窓を開けたら、港に大きな虹が架かっていた(*´д`*)。元旦から二日連続で虹を見た。
 今日の虹もくっきりとしていて、時間は元旦の虹よりも長く架かっていたと思う。

←昨日、1月2日の虹。ベランダから直ぐ近くに見えた。港ではなく建物に架かっていたのか?

「奄美の世界/松田幸治写真集」(西日本新聞社)
ハジィキ(文身)
昔、島の婦人は手の甲、指の背に文身をしていた。いまでは90歳を超える婦人の間に、かろうじて見ることができる。
「数えの11歳のとき、嫁入り前のいとことふたりで、おばに当たるハジィキ師に文身をしてもらった。お礼には現金のほか米と餅を持っていった。終わったあとは痛くてたまらず、うちわであおぎつづけた」(明治17年5月4日生・大島本島国直)の回想である。

(写真のキャプションより)

「奄美 二十世紀の記録〜シマの暮らし、忘れえぬ日々〜/越間 誠」(南方新社)にも、ハジキをいれた老婆の写真が掲載されている。

「いれずみ(文身)の人類学/吉岡 郁夫」(雄山閣出版)から、奄美群島のハジキについての部分をいくつかピックアップ。
II琉球の文身(針突)
1文身の歴史から

琉球の文身は一般に「ハヅキ」あるいは「ハジチ」(針突)の名で呼ばれている。

明治の廃藩置県で、奄美諸島は鹿児島県に属し、沖縄本島以南は沖縄県になった。政府は法令で文身を禁止し、奄美諸島には明治九年(一八七六年)、沖縄県には特殊事情を考えて、文身を廃止するように教育した後、明治三二年(一八九九)10月20日に禁止令を適用した(*注)

*注 奄美では、明治二七年(一八九四)に針突をしたものもあり、完全に止んだのは三0年ごろだろうという(恵原)。

3針突に関する伝説

徳之島 昔、大和から来た客が琉球王と対談中、王の多くの美姫を見て、一人ぐらいは私に賜ってもいいでしょうというと、王は三年後に一人やろうと約束した。そうはいったものの、一人でも手離したくなかったので、七人の姫の手に残らず文身をして、彼が辞退するようにしむけた。そこで、一般の婦女子もそれに倣って文身し、外来の人々と自分たちを区別した(伊仙村面縄)(小原)。

5施術の年齢と回数

 小原は昭和五~七年の調査をまとめて発表している。喜界島では、早い人で八歳ごろから始め、一二~一四歳に入れるのが普通らしい。奄美大島では、早いものは八歳ごろから始め、普通一四、五歳ごろまでに入れる。~略~昭和一二年に沖永良部島を調査した野間吉夫によると、文身は一五~一七、八歳に入れることが多いという。

結婚との関係 
 奄美諸島の喜界島では、最初の施術を一六、七歳のときに行い、二四、五歳までに完成させる。奄美大島では、結婚のとき、未婚のときに入れた手背の文様の周りに、ほとんど手一面に広がる輪を入れる。これは一手は実家にあるとき、一手は夫の家に行ってから施すという。

 奄美諸島では、禁止令の施行が沖縄県よりも早かったので、針突習俗も早く消失している。それでも三宅が調査したころには、まだ右手を「親厄介」、左手を「夫厄介」という伝承が残っていて、右手から入れる習慣があり、左右で入れた年齢の違う例が一三例記録されている。小原の調査でも、「片手は里で片手は夫の家で」という言葉が残っていたが、普通は一四、五歳までに入れ、結婚後は行わなかったらしい、と述べている。

 針突と結婚との関係は、これまでの報告のなかに、断片的に現れている。昭和一二年に沖永良部島を調査した野間吉夫は、女性は文身をしないと結婚できなかったし、それをしていない人は三三年忌をしてはいけない、といわれていたという。

 これまでの報告からみると、針突習俗は、奄美諸島、沖縄諸島、宮古・八重山諸島の三地域に大別できるように思う。元来、針突は成女儀礼として行われ、針突をしなければ結婚することができなかったが、宮古・八重山では結婚前に完成させ、奄美・沖縄諸島では結婚後に完成させた、とみることができる。

7針突文様

奄美諸島 三宅によると、奄美大島では文様が多く、とくに島の北部にすぐれたものが多い。大島をはじめ、加計呂麻島、喜界島では、二度、三度と文様の大きさを拡大したり、塗りつぶす習慣がある。沖永良部島の文身は大島に比べて、著しく簡素で、とくに手背の文様が非常に小さい。与論島のものもこれに近い、と述べている。
 山下文武の報告によると、大島では、手背は左右異なった文様が多く、精巧なものから簡単なもの、あるいは大きいものから小さいものまで変化に富んでいる。徳之島、沖永良部島では、大島に比べて文様が小さいという。
 奄美諸島では、手首屈側の文様に特色がある。大島では、この文様をウディあるいはウディハヅキといい、鳥の羽、亀の口、鎌、マキなどを組み合わせたものである。徳之島ではやや簡単になる。沖縄本島でも、この部位にウルマグワー(馬の形)と呼ばれる文様が施されることがあり、糸満町の漁夫にはかなりいたといわれる。

針突文様の意義~略~
 伊波は喜界島の文様が「十人十色で、技術者(施術者)により、部落により、家筋により、個人によって、趣を異にしている」のを観察し、宮古・八重山の例を含めて考えると、かつてはどこの島でも、部落や家筋によって文様が異なっていたが、各島が政治的に統一された後、同じ形式になり、さらに各島が琉球王に統一されて、首里の影響を受けたように思われる、と述べている。沖縄本島の文様が一つの形式に統一されていることは、とくにその感が深い。

針突文様
「いれずみ(文身)の人類学」から、奄美大島の針突文様↑
Beauty&Health8に、昨年撮影した『股関節痛を自分で治す本』『「ふくらはぎをもむ」と超健康になる』を載せました。
1月1日(土)
明けましておめでとうございます!

 朝の9時、防災無線で奄美市長・朝山 毅さんの新年の挨拶が始まった。布団の上で、じっと聞く。
 島に来て驚いたのは、連絡やお知らせに防災無線がよく使われること。夜になれば消防署から火の用心のお知らせが、夕方は小学校の早くお家に帰りましょうと言う放送が流れてくる。
 先月、佐仁の集落で帰りのバスを待っていたら、近くの小学校の生徒の作文(?)が集落の人へ向けてスピーカーを通して朗読された。小さな島、集落ならではのコミュニケーションで、個人的には楽しいな〜と思っている(*´д`*)。

 昨日のかき揚げそばの汁にお餅を入れて、お雑煮。
 午後から散歩がてら、南の島のお正月を味わいに出掛ける。
 市街地をぶらぶら歩いて、高千穂神社へ。お賽銭をあげてお参りをし、巫女さんからお神酒をいただく。
 初詣が済んだので、またぶらぶらと市街を散歩。伊津部町のグリーンストアーで40円のコロッケを3つ買い、入舟町のグリーンストアーでお菓子を一袋。
 雨時々曇り、稀に日射し有りの空模様。傘をさしたり閉じたりと元旦から忙しくして歩いていたら、突然日が射して、まもなく虹が現れた(*´д`*)。
 虹はマジックのように、地上からスーっと伸びていった。奄美に来てから何度も虹を見たけれど、今まで見た中で一番くっきりとした虹かも知れない。
 一度消えて、再び現れる。虹の出ていた時間は短いけれど、たくさんの人が見れただろうか。

 元旦のお散歩をPhoto Albumuにしました。こちら

元旦の虹

 撮影アーティストリストの国内アーティストのページに、昨年撮影させていただいた方々の名前を追加しました。
 Music6に『ROGUE (ローグ)/LIVE The Ultimate Collection』を掲載しました。

 今年もご贔屓に♪

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