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○11月6日(日) 「ミツバチの羽音と地球の回転」上映会 会場1、笠利町太陽ケ丘運動公園内改善センターホール/開場13時、上映13時半。 開場2、奄美市名瀬公民館/開場18時、上映18時半。 当日1000円。
○11月10日(木) 旧暦10月15日 与論島・十五夜踊り
○11月10日(木) 本の返却期限
○11月11日(金) モチモレ踊り(大和村・湯湾釜集落)
○11月12日(土) あまみならでは学舍「大島紬の魅力」講師:紬ひろば「あまみ〜る」内山初美/県立奄美図書館 午後2時から午後3時30分まで(90分間)
○11月12日(土) ビン類、ペットボトル
○11月13日(日) テレビ朝日・奇跡の地球物語「奄美大島〜生きた化石を撮る〜」夜6時30分〜
○11月20日(日) テレビ朝日・奇跡の地球物語「大島紬〜自然が織りなす驚異の着物〜」夜6時30分〜
○11月25日(金) 生誕101周年記念「やんご祭り」/金久公園 午後6時〜9時
○12月3日(土) ハアサキ成人講座「染め物を楽しもう」江戸時代の奄美の染め〔ヒロキ(ヒルギ)染め・ハックァギ(アカネイヌビワ)染め〕に挑戦!染め物教室3回シリーズの3回目/13時〜16時 1500円(材料代と受講料含む)申し込みは12月1日まで 奄美少年自然の家
○12月4日(日) 「野菜の日」イベント並びに農業ふれあいまつり/9時半〜12時半 奄美市地方卸売市場
○12月4日(日) 奄美歌掛けの夕べ/開場6時 開演6時半 名瀬公民館
○12月9日(金) 図書館 本の返却期限
○12月9日(金) 天体ドーム開放 冬の大三角、冬のダイヤモンドと冬の星座の観察/19時半〜21時 奄美少年自然の家
○12月10日(土) 皆既月食観察会 皆既月食と冬の星座の観察/20時〜1時半 奄美少年自然の家 
○12月10日(土) ビン類、ペットボトル
○12月11日(日) 凧作り&凧あげ教室 飾り凧やダイヤ凧、クラゲ凧などから選んで作り、赤崎公園で凧あげ大会/9時半〜12時半 奄美少年自然の家
○12月11日(日) 郷土コーナー「昇曙夢」シンポジウム/14時〜16時 県立奄美図書館
○12月14日(水) ふたご座流星群観望会 極大日を迎えるふたご座流星群の観望会/19時半〜21時 奄美少年自然の家
○12月17日(土) あまみならでは学舍「島唄に育まれて」講師:唄者・永井陽子 美香姉妹/県立奄美図書館 午後2時から午後3時30分まで(90分間)
○12月17日(土) 第7回オープンデー 天然かずらを使ったリース作りと遊友らんどなどの施設開放/10時〜15時 奄美少年自然の家
○12月18日(日) フリーマーケット(1万人広場)/9時〜奄美文化センター
○12月23日(金) 正月飾りふれあい教室 竹とござによるミニ門松や、わらを使った干支の置物、しめ縄作り/9時〜15時 奄美少年自然の家 
○12月25日(日) 日本復帰記念の日の集い/11時〜おがみ山日本復帰記念碑前(雨天時は名瀬小学校体育館)
○12月25日(日) 奄美群島日本復帰記念講演会 講師:崎田実芳氏 内容:「奄美群島日本復帰運動について」/14時〜15時半 県立奄美図書館
○12月25日(日) 第2回奄美紅白歌合戦/18時〜奄美文化センター

市の広報誌「奄美市だより」12月号に、2011年(平成23年)奄美大島の主な年中行事一覧が載っていたので転載。
○旧正月:旧暦1月1日→新暦2月3日(木)
○歳の祝い:旧暦1月2日/新暦1月2日(日)(※1)
○ナリムチ:(小正月の前日)新暦1月14日(金)
○山神祭り:旧暦1月16日→新暦2月18日(金)
○サンガツ節句:旧暦3月3日→新暦4月5日(火)
○ハマオレ(ハマオリ):旧暦4月の寅の日、あるいは甲の日に行うところが多い。
○ゴガツ節句:旧暦5月5日→新暦6月6日(月)
○七夕:旧暦7月7日→新暦8月6日(土)
○旧盆迎え:旧暦7月13日→新暦8月12日(金)
○旧盆送り:旧暦7月15日→新暦8月14日(日)
○88の歳祝い:旧暦8月8日→新暦9月5日(月)
○アラセツ(※2):旧暦8月11日→新暦9月8日(木)(※3)
○八月十五夜(※4):旧暦8月15日→新暦9月12日(月)
○シバサシ:旧暦8月17日→新暦9月14日(水)
○タネオロシ:旧暦9月の日柄の良い日(地域・集落によって日程が異なる)
○旧暦9月9日(※5)→新暦10月5日(水)

※1‥以前は旧暦の1月2日に祝っていましたが、近年は新暦の1月2日に行う家庭が多いようです。
※2‥秋名アラセツ行事[

平瀬マンカイ]:龍郷町秋名(国指定) 等
※3‥アラセツ行事は、旧暦8月の最初の丙の日に行われます。旧暦8月最初の丙の日が旧暦8月1日になった場合,前日のツカリの日は旧暦7月になってしまい、一連の行事が月をまたがってしまうことになる。このような場合には次の丙の日がアラセツ行事を行う日となるようです。(平成16年にも同じことがありました。)
※4‥油井の豊年祭:瀬戸内町油井(県指定)、十五夜綱引き:小湊 等
※5‥諸鈍シバヤ:瀬戸内町諸鈍(国指定)、クンチ祭り:西仲勝 等

道の島交通では、7月16日より路線バスの乗り放題券を発売しています。大人1日間2000円、2日間2500円、3日間3000円、4日間3500円、5日間4000円、6日間4500円、7日間5000円で協賛施設での特典も付いています。詳細はこちら

○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○Shinya Fujiwara official site Talk&Diary http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式まとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○twitter#genpatsu http://twitter.com/#!/search?q=%23genpatsu
○twitter#fukushima http://twitter.com/#!/search?q=%23fukushima
11月30日(水)
 「時を越えて生きる アマミノクロウサギ/浜田 太」(小学館)と、「奄美を愛した”きょら”の人/恵原 義盛画集」を読み終える。今日で11月も終わりだが、天気が悪かったこともあり、今月は本ばかり読んでいた気がする。
 今日も昼頃から強い雨が降り、雷まで落ちて来たので、部屋から出られないか〜と思っていましたが、3時頃に雨が止んだので銀行に行き、買物をし、家賃を払って来た。
夕焼け
←昼頃は、雷まで落ちる激しい空模様でしたが、3時頃には雨が止み、夕方にはキレイに空が焼けた。久しぶりに見た夕焼け。
↓外に出たので、「奄美歌掛けの夕べ」の前売りチケットを購入。
歌掛けの前売りチケット
 奄美群島日本復帰40周年記念写真集「満天の星のごとく・・・」からの写真と、またいくつか比較してみた。
永田橋公設市場比較写真

上左 昭和28年8月 喜びにあふれ賑わう名瀬市永田橋公設市場。 [提供]鹿児島県
上右 今日撮影した永田橋市場。かつては人で溢れかえる賑わいだったと聞くが、今は閑散としており、空き店舗も目立つ。
右 永田橋市場の外観。右隣には同じ程の歴史があると思われる末広市場が建っている。また左隣には、奄美のカトリック発祥の地と書かれた碑が飾られている。

永田橋市場外観
亀徳港の比較写真
左 昭和35年頃 徳之島町亀徳港。港湾整備が進み、大型船舶も接岸できるようになった。 [提供]鹿児島県
右 今年の6月12日に撮影。写真中央〜右が亀徳港。
戦艦大和慰霊碑比較写真
左 昭和44年 伊仙町犬田布岬での第2回戦艦大和慰霊祭。昭和20年4月、約2,700名の乗組員が徳之島沖で撃沈された戦艦大和と運命をともにした。その洋上を望む岬に昭和43年特攻艦隊戦士慰霊塔が建立された。 [提供]鹿児島県
右 今年の6月11日に撮影。
与論港比較写真
左 昭和46年8月頃 与論港。昭和40年代の高度経済成長と離島ブームに伴って奄美群島の観光は全国的に脚光を浴びた。特に、夏場の与論島は、都会からの若者で島中があふれた。 [提供]金子清美(与論町)
右 今年の8月23日に撮影。
与論島茶花比較写真
左 昭和56年頃 与論町。観光客で賑う夜の与論銀座。 [提供]与論町
右 与論島で一番の繁華街、茶花のメインストーリー。閉店した店や施設もあり、かつての賑わいはないようだ。今年の8月22日に撮影。
お墓の比較写真
左 昭和45年 喜界町阿伝の地葬場。埋葬して3年後に掘り起こし、改葬して先祖代々の墓地に納骨した。 [提供]岡本敏久(奈良県王寺町)
右 与論島にて、今年の8月20日撮影。埋葬した土の上にかぶせられている小さな家は、龕(がん)あるいは龕蓋(がんぶた)と呼ばれているようです。
田端さんパレード
田端さんポートレート

*番外編
上 昭和38年 名瀬市支庁通りをパレードする田端義夫氏。「バタヤン」の愛称で親しまれていた氏は、以前から奄美で唄われていた「島育ち」を歌い大ヒット。奄美の名を全国に広めた。 [提供]丹羽写真機店(名瀬市)
右 雑誌の仕事で1998年に撮影した田端義夫さんのポートレート。You Tubeから「島育ち/田端義夫」。

11月26日(土)
 一昨日は名瀬勝、小湊に積石墓を探しに行きましたが、今日は午後から知名瀬、根瀬部に板石墓を探しに行って来ました。
 「南島の墓」(沖縄出版)によると知名瀬には「共同墓地の中に点々と板石墓と思われるものが四つ五つ見られる。ただハカというだけで特別な名称はない」とあり、根瀬部にも「集落中央の墓地に板石墓と思われるもの二つあり」と書かれている。
知名瀬の共同墓地
←知名瀬の共同墓地。写真の右手は海岸に面している。今日は、墓地の中央にテントが建てられ、葬儀が行なわれていた。
↓知名瀬のカトリック教会は、建物の塗り直し中。
知名瀬のカトリック教会

 知名瀬トンネルを抜けて集落へ下りて行き、海岸に面した共同墓地へ。自転車でくるっと外側を見学。
 墓地の中央にテントが張られ、お墓に花が供えられている。今日は、お葬式のようだ。墓地の周りだけ見て、海岸沿いに走って根瀬部へ移動。
 根瀬部の共同墓地は、海岸と道路を挟んだ向かいにある。道路に沿うように少し横長にお墓が並んでいる。その中を板石墓を探して歩いてみたが、見つけられなかった。探し方が足りなかったのか、あるいは新しいお墓に作りかえられたのか。
 22年前に発行された時点で知名瀬の板石墓については「下部は半ば土に埋もれている」とあり、根瀬部の板石墓についても一つはやはり「半ば土に埋もれ」もう一つも「側壁の板石は割れたり、塊状の石を添えたりしてある」書かれているので、残っていなくても不思議はない。

根瀬部のカトリック教会
根瀬部の共同墓地
↑根瀬部の共同墓地。写真左手が道路を挟んで海岸。
←根瀬部のカトリック教会。屋根の十字架以外、教会を示す物が見当たらなかった。うっかりすると見過ごしそうな建物だ。
 根瀬部から知名瀬へ戻り、先程の墓地へ行ってみると、テントの中に設けられた長いテーブルに親族の方々が並び、お話しをされている風だ。お弁当のような物が見えたし、お酒もあるのかもしれない。
 奄美ではお盆に墓前に親族が座り、一重一瓶を囲む習わしがあったそうだが、似た感じかも知れない。
 知名瀬から里集落、小さな丘を越えて福里集落に寄り道して小宿へ。小宿の細い路地を通っていくつかある共同墓地の前を通ると、大きなお墓の上に同じ毛並み、同じ顔の子猫が4匹座っている。墓地に猫はつきものだけれど、同じ顔の4匹は面白い。
 しばらく猫の写真を撮ってから、朝仁海岸、スーパーへ寄って帰宅。
小宿の墓地と猫

←小宿集落の共同墓地で。近づいても逃げない。他にもワラワラと何匹か寄って来た。
↓小宿集落の路地と共同墓地。こんな路地が何本もある。

小宿の共同墓地

 途中に通って来た里、福里には共同墓地が見当たらなかったけれど、どこにあるんだろうか。
 ところで、「南島の墓」によれば、里集落にはオヤノロの墓という積石墓があるそうです。

名瀬市小宿、里 オヤノロの墓。小宿は里、福里、金久の小字に分かれ、その里の傍らのネヤマという小さい山上の十数坪の平地にオヤノロの墓という積石墓がみられる。一個のサンゴ石の径三〇ほどのもの七〇〜八〇個を積んで扁平な餅状に作られている。その直径一八〇、高さ八〇ほど。その中には一つの骨甕が入っているという。ハブ取りの青年たちが石を動かして乱れているが、元はもっと高くやや方形で、中に空所があり、そこに立派な骨甕が入っていたという。ここに葬られたのは小宿の最初の親祝女で、たいへん威のある人だったといい、その娘は隣の知名瀬のノロとなった。その娘にいろいろの神事を教えてやりたいから、自分の墓は知名瀬にゆく山道の傍らに作ってくれと遺言したので、集落の人々はこの山に海からサンゴ石を運んでこの墓を作ったという。ノロは埋葬してはいけない、三尺高い所に葬るといって、地上に石を積んで棺を入れ、改葬した骨は骨甕に入れて同じ石積みの中に祀ったという。
 小宿の隣の知名瀬の山中にはこの親ノロの娘のノロの更に大きい積石墓があるというが、私はまだ見ていない。知名瀬から数キロメートルの白野山ともノロ山ともいう山に入ってそのノロは縊死したので、その場所に大きな積石墓を作って葬ったという。

ツワブキ

←今、島の道路脇や家の庭先に、たくさん黄色い花が咲いている。ツワブキだ。

→昨日、やんご祭りの帰りにスーパーで買った、ツワブキの煮物。

ツワブキの煮物
 本日のスナップをPhoto Albumにしました。こちら
11月25日(金)
 先週の土曜、19日に開催されるはずだった「やんご祭り」が、雨で延期になり、今日になった。
 やんご=屋仁川は、一説によれば鹿児島県で2番目に大きいとも言われる飲屋街。確かに飲み屋の数は多いけれど、やはり一番栄えていたのは大島紬が産業として全盛だった頃だろう。あまり夜に出歩くことはないけれど、たまに通る夜の屋仁川は至って静かだ。
 昨年は、やんご生誕100年ということで11月15日〜22日まで1週間以上に及ぶ「大やんご祭り」が開催され、初日には屋仁川通りに新しく作られた門のセレモニーも行なわれた。こちら。101年目の今年は、一日だけ。夕方6時から夜の9時まで、昨年と同じ金久公園で行なわれるというので、家で夕飯を済ませて7時半過ぎに見に行った。
 公園の中には奄美の焼酎メーカーがブースを出していて、試飲をさせてもらえる。最初に奄美大島酒造の「じょうご」を一杯いただき、次に町田酒造の「里の曙」の原酒2種類を試飲させていただいた。
 舞台では踊りに唄、バンド。その合間に酒造メーカーのPRタイムが設けられていた。
やんご祭り会場
←屋仁川通りの近く、金久公園で開催された。

↓里の曙の原酒(43度)を2種類いただいて、ロックで飲み較べ。43度ともなると少しトロッとしています。
里の曙原酒2種類
餅拾い
抽選会
八月踊り
↑左は、屋仁川のお姉さん方による餅投げ。右上は、抽選大会。右下は、八月踊り。
六調を踊る女の子

←お祭りの後半は、八月踊りから六調へ。下に居たお客さんも舞台に上がって踊ります。
 そう言えば奄美のお祭りやイヴェントで、六調を踊らないのは見たことがないかも。
 小さな女の子が手振り足振り上手に六調を踊っていた。島のDNA。
 最後は万歳三唱で、フィナーレ。9時を少し過ぎていただろうか。

11月24日(木)
 先月の末頃から首から右腕にかけて痛く、自転車のハンドルを握ると痺れる感じだったので遠出を避けていたのですが、少し良くなった気がするので、肩に一枚シップを貼って出かけてみた。
 名瀬市街から朝戸トンネルを抜け、しばらく走った所で左折し海に向かって進んでいく。道なりに真っすぐ進めば小湊だが、今日は途中で左折して川を渡り、川に沿って名瀬勝集落へ。集落を通り過ぎて海岸に出ると、かつてクジラ松を背負っていた岩が見える。
 海岸の直ぐ近くにある金比羅神社に寄って、次は小湊へ。来る時に通った橋ではなく、もう少し海岸よりの橋を渡り、左右に畑が並ぶ道を進めば小湊の集落だ。
金比羅神社
クジラ松の岩
↑昔、クジラ松のあった岩。名瀬勝の海岸から撮影。
←名瀬勝の海岸近くにある金比羅神社。小湊の厳島の神(女神)と、競って岩を招き寄せた金比羅の神(男神)は、ここに祀られているのだろうか。
 小湊の集落は何度も歩いているので、今日は墓地へ。
 先日読み終えた「南島の墓」(沖縄出版)に、小湊に積石墓をコンクリートで塗り固めた、モーヤがあるという記述を見たので探してみた。

名瀬市小湊 共同墓地のモーヤ。小湊は小宿とは反対の東海岸にある。ここの集落共同墓地に元は三つの積石墓の大きいものがあった。これをモーヤといい、それぞれナーマゴ(中間講)のモーヤ、ホーロゴ(保呂講)のモーヤ、ハータリゴ(赤中講)のモーヤとよばれ、現在はコンクリートで塗りこめて、積石墓であった頃の形とはだいぶ形を異にしている。そのうちハータリゴのモーヤはやや原形に近いと言われ、写真のような形をしている。高さ二〇〇、下部の直径は二九〇の半球状をしており、下部に四〇x四三の入口があり石をはめて閉じてある。元の積石墓もその形、大きさはこれとほぼ同様であったという。サンゴ石を下から石垣状に積み上げてやや角型の円筒状にし、その上に幾つかのナバ石を重ねて蓋あるいは屋根としたものであった。それを昭和三十年頃にコンクリートで表面を塗りこめた。中には人骨が一杯入っているという。他のナーマゴとホーロゴのモーヤの大きさもほぼ同様であるが、コンクリートは角型に塗ってある。
 この三つのモーヤにはそれぞれちがう血統の先祖の遺骨を納めてあるという。ナーマゴは妹、ホーロゴはその兄の二人の集落開発者の血統の先祖を祀っていて、この二つのモーヤは並んでいる。ハータリゴはそれ以外の移住者の先祖を祀っていて、そのモーヤはやや離れた位置にある。それぞれの講に属する家々の人は集まって、それぞれのモーヤの祭りを旧八月シバサシの後の庚申の日に行なう。これをカネサル祭り、モーヤ祭りといって盛大である。
 それぞれのモーヤに入っている多くの骨はそれぞれの講組の先祖の骨で、古く伝染病で多くの死者がでたときの人骨を入れたものとも言い伝えている。古老にも、ここに骨を納めたことを記憶している人はいない。
ハータリゴのモーヤ
小湊集落の共同墓地

↑海岸の直ぐ側にある、小湊集落の共同墓地。 ←ハータリゴ(赤中講)のモーヤ。コンクリートで塗り固められた3つのモーヤの中では、一番積石墓の頃の形に近いとされている。

↓手前の大きな墓が、ホーロゴ(保呂講)のモーヤ。→ナーマゴ(中間講)のモーヤ。
ナーマゴのモーヤ
ホーロゴのモーヤ

 本の発行が1989年12月。もう22年も前の記述なので、はたして今も残っているだろうか?と少し心配していましたが、見つけることができました。カネサル祭り、モーヤ祭りが現在も行なわれているかはわかりませんが。
 ハータリゴの高さが200センチとありますが、実際に横に立ってみると120センチくらいではないかと思われます。
 また、名瀬勝の共同墓地にも積石墓をコンクリートで覆ったモーヤがあるということで、金刀比羅神社の後に少し探してみたのですが、こちらは見つけられなかった。

「南島の墓」(沖縄出版)から。
名瀬市名瀬勝 共同墓地のモーヤ。ここにも古い積石墓を改めたモーヤが一つある。一八〇x一四〇、高さ五七の箱状にコンクリートで塗り固め、上に「中間講祖先之墓」という石碑を立ててある。この石碑をとれば中が覗け、骨を納めることもできるようになっている。昭和三十一年にこう改めたので、その前はサンゴ石を積み上げてほぼ現在の大きさに近い、やや方形で上部のふくれたモーヤであったという。中には極めて多くの人骨が入っているが、これは中間講の人たちの先祖の骨であるともいい、遠い時代の無縁の人々の骨であるともいう。
 中間講(ナーマゴ)は三人の祖先から始まったと言われ、フーゴー(大講)と言われるように現在は三十数戸となっていて、毎年ドンガに集まってこのモーヤを祭る。集落には他にイナゴー(小講)という組もあって、フーゴーを除く家系の集まりだといわれ、やはりドンガに先祖祭りを行なっているが、モーヤはもっていない。西中勝にも小湊、名瀬勝と同様なモーヤがあったというが、現在は失われて見られない。

→小湊集落の外れから、南の島の秋の風情。奄美は気温よりも、風の冷たさがちょっと身にしみる。

 小湊からの帰り、市街地で紺のスカートに長い三つ編みをして自転車に乗ったオジサンに遭遇(゜▽゜*)。twitter#amamiで時々話題になる人だろうか。

集落の秋景色
 本日のスナップをPhoto Albumにしました。こちら。お墓の写真が多いですが。
11月23日(水)
 朝は強い日射し。今日はこのまま晴れるのかと思ったら、午後になって雨が降り出した。やっぱり雨見大島・・・orz。
ケララカレー
オキナワ紀聞
 タマネギ、セロリ、リンゴはみじん切り。ニンジンを1本すりおろす。
 久しぶりにケララカレーを作った。炒め用スパイス、煮込み用スパイス、ブイヨン、カレールウ、香味スパイス、香りスパイスがそれぞれ袋に入れられパッケージになっている。レシピの手順に従って鍋に投入。
 工作や実験のような趣でカレーが作れる。インド・ケララ地方に行ったことはないので本場の味かどうかはわからないが、かなり美味しい。
 「オキナワ紀聞/砂守勝巳」を読み終える
11月22日(火)
 ちょっと雲もあるが、最近にしては青空。すっかり溜まってしまった洗濯をする。洗濯機をまわしながら、時おりベランダから名瀬港をチェック。
 昨日、散歩の後に名瀬港の観光バースに行くと、明日の朝10時になっちゃんWorldが自衛隊の車両を乗せて出港すると聞いた。それで、10時少し前から向かいのビルとビルの間から見える名瀬港を覗いていたら、定刻通りに港を出発していった。
 停泊中は家のベランダからは向かいのビルに隠れてフェリーのお尻の部分しか見えなかったので、港まで見に行こうかとも一瞬思ったけれど、港を離れた直後からビルとビルの間にフェリーの全景がきれいに収まり、撮影場所としてはベストポイントだったかもしれない(*´д`*)。

↓→観光バースを出港する、なっちゃんworld。部屋のベランダから撮影。

なっちゃんworld2
なっちゃんworld1
 冷蔵庫の中が寂しくなってきたのでスーパーを3つまわって買物。冷蔵庫が小さいので買って来た食材を収納するのに一苦労。大根や長ネギをペットボトルや調味料を入れるポケットに刺してみる(笑)。
 晩ご飯は麻婆豆腐、しらすおろし、白菜・大根・長ネギ・油揚げの味噌汁。
 洗濯をして買物に行って、ご飯を食べて本を読んだら過ぎていった。そんな一日。明日はカレーを作って、本を読んだら過ぎていきそうだ(笑)。
11月21日(月)

 全国的に寒い一日となったようだ。奄美も最高気温が20度を切り、日中でもTシャツ一枚では肌寒い。
 雨風が続いて家に籠りがちだったので、久しぶりに散歩。家の裏側、観光ハブセンターの横を通り赤崎山の坂道を上る。
 しばらく歩くと長浜、金作原、赤崎公園、朝仁方向に分かれる四つ辻に。ここで赤崎公園に向かう道に曲がり、ちょっと傾斜のキツくなった道を、うっすらと汗をかきながら歩く。
 公園の奥にある展望台へ。その手前の芝生は、イノシシに掘り返されてアチコチぼこぼこだ。
 展望台からは、朝仁〜小宿の沖が見える。今日は随分と波が高い気がする。寄せる白波が、沖で幾何学模様を繰り返す。
 しばらく波に見とれてから、公園を出て、先程の四つ辻に戻る。今度は上がって来た長浜方向ではなく、朝仁方面に下りていく。
 赤崎山の斜面には蘇鉄や、シダ科の樹木ヘゴが生え、オオタニワタリが木に寄生している。まるで太古からそこにある原生林のようにも見えるが、かつて農作物を運んだのだろうか、急な斜面に伸びる鉄のレールが放置されたりもしている。今でも僅かだが段々畑が残り、農作物が作られている。
 昭和30年頃の名瀬の写真を見ると、この赤崎山がすっかり耕されて全体が段々畑のようになっていてビックリするが、雨の多い亜熱帯の気候は植物をあっという間に育てるのか、今では原生林かと思う程に木々で覆われている。
 この急な斜面を耕した昔の人のエネルギーを思い、その後原生林かと見紛うばかりに生長した植物の生命力を思う。
 千年松の横を通り、朝仁新町に出て、朝仁トンネルを抜けて家に帰る。近所の八百屋で、くび木を買って2時間半ほどの散歩だった。

ハブ注意の立て札のあるトイレ
イノシシに掘られた赤崎公園の芝生
↑イノシシに掘り返された芝生。
←ハブにご注意ください、と書かれた立て札が置かれたトイレ。
 イノシシにハブと、なかなかスリリングな赤崎公園。まあ、実際に出くわす確率は低いと思いますが・・・
展望台から見る海
↑赤崎公園の展望台からの眺め。小宿漁港の沖。波が高い。
段々畑
←赤崎公園から下りて来る途中にある段々畑。畑と言うには、あまりに急な斜面に作られている。
↓斜面に鉄のレールと荷車。ヘゴが生え原生林のようになっていますが、ここにも嘗て、畑があったのだろう。
リュウキュウアサギマダラ
段々畑の跡
↑道路脇の斜面に咲く花の間をひらひらと舞う、リュウキュウアサギマダラ。
 もう少しすると越冬の準備をするんだろうか?
お店に並んだくび木
 勝って来たくび木
 烏龍茶も麦茶もなくなったので、近くの八百屋でくび木を買った。やかんに入れて煮出して飲む。風邪の予防にもなるらしい。
←奄美のスーパーや商店、八百屋にはこうして積まれて売っている。
なっちゃんworld
←観光バースに停泊している、なっちゃんWorld。明日、陸上自衛隊の車両を乗せて出港するという。
→寒いと甘いモノが食べたくなりますね。ホットケーキ、焼いてみた。
ホットケーキ
弥生30度

 里の曙BIG FISHINGラベルを飲み終えたので、一昨日から弥生の30度。それから先月お土産にいただいた長崎の麦焼酎、壱岐の島 を平行して昨日から飲み始めた。
 これで黒糖焼酎の遍歴は里の曙→れんと→ろくちょう→里の曙 瑞祥→喜界島→緋寒桜→奄美の杜→島のナポレオン→龍宮→じょうご 卯ラベル→瀬戸の灘→あじゃ30度→浜千鳥乃詩30度(飲む前に落下)→浜千鳥乃詩 原酒→加計呂麻→高倉→朝日→あまんゆ→八千代30度→里の曙BIG FISHINGラベル→弥生30度。

←弥生30度。→壱岐の島 復刻版。

壱岐の島
 本日のスナップは、こちら
11月19日(土)
 昨日からず〜っと雨と強い風。徳之島では昨日の夜、突風で家が吹き飛ばされて中にいらした3人が亡くなった。名瀬も昨晩は風がビュービューと鳴っていた。
 今月初めに瀬戸内町を襲った豪雨をうけて、雨見大島だね〜とメールを下さった方がいたけれど、ホント雨見多島だ。

 「南島の墓」(沖縄出版)をようやく読み終えた。考古学、歴史学、民俗学の専門家が集まり沖縄諸島を中心とした墓を多面的に報告し、語り合ったシンポジウムをまとめた本で、中にはチンプンカンプンでよくわからない箇所も多々あったけれど、最初から最後まで興味深く読めた。
 以下に、いくつか転載してみた。
 まずは、論考編「奄美大島の板石墓・積石墓 小野重朗」から、宇検村の佐念モーヤについての詳しい記述があったので掲載。
 共同墓地のムヤ。共同墓地は集落のはずれの山裾にあるが、その一隅にムヤとよばれる石積墓がみられる。現在、奄美大島でみられる唯一の完全な積石墓である。写真にみられるように、サンゴ石灰岩の扁平な二〇〜三〇ほどの石を積んで二五〇x二〇〇ほどの矩型の壁をつみ上げ、天井部にあたる蓋は大きいナバ石を数個重ねて作られ、内部に支柱はないが、高さ一〇〇ほどの中空の墓となっている。長辺の中央に石積みの隙間を作って人がやっともぐり込めるほどの入口を作り、その外に大きなナバ石を戸として立てかけてある。その戸を取り除いてみると、内部には多くの頭骨を含む人骨が地面上にやや盛り上がるほど入っているが、骨甕はみられない。この入口の前に花立、線香立などが見られるのは、盆に集落の村当たりという世話係が作りかえることになっている。この中の骨は集落の先祖達の遺骨だろうとも、祀る人のない無縁仏の骨を集めたものだろうとも言う。明治中期までこのムヤはもっと大きなもので、茅ぶき屋根が石積みの上に被さったものであったという。それをナバ石の屋根に改めたものだという。
 この墓地にはこのムヤに似た積石で作った極めて小さい墓が幾つか見られる。六〇x五〇、高さ五〇ほどのもので、側壁は小さなサンゴ石をつみ、上にナバ石を一枚、または二枚被せたもので、中には多くの骨甕が入っている。これは、板石墓事例の大和村戸円などの例でみられるものに極めて近いものになっていて、ここに板石墓と積石墓の接近がみられる。

佐念モーヤ
モーヤ近くのサンゴ石のお墓

↑左は本に掲載されていた佐念モーヤ。キャプションでは「宇検村佐念の共同墓地のムヤ」となっている。右は先月の24日に撮影した現在のモーヤ。コンクリート製の柱と天井で保護されている。
←モーヤの直ぐ近くにあった、サンゴ石を積み上げたお墓。

 宇検村の生勝ちにも嘗ては佐念と同型のモーヤが2つ、久志にも大きなモーヤがあったそうだ。また瀬戸内町蘇刈の集落背後のモリマサという木立の中のシイノキの林の中にオトメアンシャレという神女の墓といわれる積石墓があると記されている。

 奄美大島の板石墓・積石墓から、古い墓の種類
 奄美地方に見られる古墓または古墳と思われるものは案外に種類は少ない。事例にとり上げたような板石墓と積石墓、それに積石墓と深く関連していると思われる草屋根墓、これは先に書いたように実物を見ることはできないが、それに伴った石垣の部分だけは現在遺構として幾つかを見ることができる。
 奄美の古墓として、それらよりも更に重要なのは洞穴墓である。奄美大島では笠利町で十幾つが知られているだけだが、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島には広く分布しており、特に喜界島には全島に二百以上のものがある。洞穴墓はトーロ、トフル、モーヤ、ムヤなどとよばれるもので、これには自然洞穴を利用した断崖墓と、人工的に横穴洞穴を掘り抜いて作った掘取墓とがある。両方共にその岩質はほとんどが隆起サンゴ礁である。自然の洞穴を利用した崖穴墓は、主に隆起サンゴ礁断崖の下部にできる浅いまたはやや深い自然の横穴の前にサンゴ石を平面に積み上げて、その間に空室を作り、そこに骨甕やテラと称する石質祠状の骨納器を納めるものである。数からすればずっと少ない。それに較べてはるかに多数にみられるのは人工的に掘り取った掘取墓である。身を少々屈めて入れるほどの入口を作り、内部は二〜六坪ほどの方形で、高さは人の背丈ほどの玄室を作り、その中に骨甕やテラを納めてある。
 沖縄で見られる破風墓、亀甲墓とよばれる石と漆喰で作られた家型の、また亀甲型の建造墓は奄美には見られない。沖永良部にある世之主墓及びその隣にあるチュラドールという洞穴墓と破風墓の中間のような墓だけが例外である。これは沖縄から墓大工が来て作ったものを伝えられている。

↓喜界島の洞穴墓。今年の7月6日に撮影。内部に骨甕とテラが見える。→ガジュマルの気根に護られているような外観。

喜界島の洞穴墓の外観
喜界島の洞穴墓の中

板石墓 厚いビーチロックの板石を切って壁と蓋とにした石棺型古墓。奄美大島北部笠利町、竜郷町に集中的に分布、その退化系と思われるものが大和村、名瀬市など大島北西部に見られる。名称はハヤ、ハマヤ、タマヤ、トール、トフルなど。
積石墓 扁平塊状のサンゴ石を積み、方形まんじゅう型、中に空室を作った古墓。奄美大島の名瀬市の東海岸地帯、宇検村一帯にあったが、完全な形で現存するものは一基だけ。名称はモーヤ、ムヤなど。
草屋根墓 下部を方形の石垣にして、その中または上に草屋根を被せた古墓。現存するものは全くないが、石垣部だけの遺構が少々見られる。奄美大島の南部、宇検村一帯、瀬戸内町の請島、与路島、それに喜界島に分布していたことが明らかである。名称はムヤ、モーヤ、ヤバヤ(喜界島で)。

竜郷町浦の祝女のお墓


洞穴墓 隆起サンゴ礁の崖を横穴式に掘り抜き、または自然の横穴の前に石垣を積んで玄室を作った古墓。喜界島に極めて多くみられ、徳之島、沖永良部、与論島にも多い。奄美大島には北部の笠利町万屋地区に集中してある以外にはほとんどない。名称はモーヤ、ムヤ、ヤーヤ、トーロ、トフルが主で、沖永良部、与論では断崖を意味するギシ、ハンタも用いられる。

←は、板石墓の例として本に掲載されていた龍郷町浦集落の祝女(ノロ)の墓とされているもの。

 第一部 基調報告 第二部 シンポジウムで沖縄の墓について述べられている中の注釈部分から抜粋。

風葬(ふうそう) 遺体を土に埋めず木の上や洞窟などに置き、屍肉が自然に落ち白骨化するのを待つ葬法。(比)
グショウ山(ーやま) グショウとは「後生」すなわち死者の世界のことである。沖縄の村落には背後の山地や崖の中腹に人骨が収められた場所があり、誰も近寄らずグショウ山(後生山)とよばれ、古い時代の墓地もしくは風葬の場所とみなされる。(比)
亀甲墓(かめこうばか) 沖縄の墓の形式の一つ。外観が亀の甲に似ていることからついた名称であろうが、中国本土や東南アジアの漢民族の墓には、規模は異なるものの実際に墓室の屋根に亀甲状の模様をあしらったものをみかけることがある。(比)
破風墓(はふうばか) 亀甲墓とならぶ沖縄の墓の代表的な形式の一つ。屋根の部分が亀甲状でなく破風型になっている。糸満の幸地ばら・赤比儀ばらの門中墓はこの形式である。(比)
御嶽(ウタキ) 沖縄では通常ウタキとよばれ神がみの鎮座する聖域であり、村落祭祀の中心的場所であるが、方言の違いと同じようにその由来や祭神についての伝承も多様である。御嶽の祭神は根源的には祖霊であるという説もある。(比)
イビ 御嶽の奥にある最も神威が高いとされる所。八重山ではウブなどとよばれて石垣に囲まれ、高い木立ちのある箇所であり香炉が置かれている。史書には威部の字をあてている。(比)
洗骨(せんこつ) 墓室に入れた死者の遺体を屍肉の朽ちる数年後に取り出し、骨を洗って甕に納めて祀る一種の二次葬。沖縄の言葉で「チュラクナスン」(清くする)「カルクナスン」(軽くする)と表現しその過程を経て死者の魂は一段と浄化されるという。(比)
木綿原遺跡(もめんばるいせき) 読谷村渡具知木綿原にある沖縄考古学編年前期から同中期の埋葬遺跡。沖縄県ではじめて箱式石棺墓が出土した遺跡として知られる。(当)
箱式石棺墓(はこしきせっかんぼ) 板石を箱形に組み合せ、その中に遺骸をおさめる施設をもつ墓のこと。(当) 
乾燥葬(かんそうそう) 死屍の処置として岩陰や半洞窟において肉体の解体を進める非埋葬の葬法をいう。(当)
湿葬(しっそう) 死屍の処置として土中に埋葬することによって肉体の解体を進める葬法をいう。(当)
洞窟葬(どうくつそう) 死屍を洞窟の中において肉体の解体を進める葬法。(当)
近世墓(きんせいばか) 近世につくられた墓のことで、琉球での代表的な墓に亀甲墓がある。新しい墓だということでこれまで考古学的な調査の対象にならなかった。近年、大規模開発などで近世の墓地が破壊されていくのが多く、近世墓調査の重要性がいわれてきた。(当)
銘書(ミガチ) 厨子などにかかれた銘のことで、死者の名や死亡年月日、洗骨年月日、合葬者の名前などが書かれており、葬墓制や厨子の編年を考える上で貴重な歴史資料である。(当)
位牌(いはい) 亡くなった人の名前や戒名(法名)を記した木牌で、沖縄本島及び周辺離島ではイーフェー、イーヘー、トートーメーなどという。(当)
家譜(かふ) 士族の各家の血統と経歴を記載した家系に関する記録で系図ともいう。一族ごとに特定された姓を冠して一六八九年の編集令以後、一七〇〇年頃までにつぎつぎと作成された。(当)
厨子甕(ずしがめ、ジーンガーミ) 洗骨後の遺骨を納める骨壺。材質的には石製・木製・陶製がある。陶製は家型と壷型などがあり、時代が下がるにつれマンガンやコバルトなどの柚薬をかけ、飾り付けも著しくなる。現在、もっとも古い石厨子として知られているのは、浦添ようどれに納められている、英祖王の三基で、製作年代は十四世紀頃とみられている。(中)
甕掘り込み墓(フィンチャー墓) 自然の岩陰や洞穴をそのまま墓として用いるものから発達し、岩陰や崖に横穴を穿って墓室とした形式の墓。(中)
ボージャー厨子(ーずし) 卵を立てた時の形状をもつ陶器製の厨子甕。口縁部の断面が楕円形を呈し、魂の出入り口とされる穴や、その上の庇に変化をみる程度で、ほとんど文様のないシンプルな甕。陶器製の厨子甕の中では、最も古いとされる。(中)
木龕(もくがん) 死骨を数体もしくは数十体収めるための木製の大型厨子。洞穴墓や岩陰墓などの中に安置されている例が多い。(高)
玉御殿(タマウドゥン) 玉陵とも書く。王家の墓として一五〇一年、首里に造営された。葬られるべき有資格者を刻む「玉御殿の碑文」が一隅に建立されている。(高)
伊是名玉御殿(いぜなタマウドゥン) 第二尚氏王朝の始祖・尚円は伊是名島の出であった。彼の両親・一族を葬る墓がこれで、伊是名城跡のふもとにある。現在の墓は一六八八年に造営されたもの。(高)
浦添ようどれ(うらそえー) 浦添城跡の一角に存在する墓で、一般に向かって右を「英祖王陵」、左を「尚寧王陵」という。古琉球を代表する墓形式をとどめている。(高)
風水(フンシー) 中国から沖縄に導入された立地・方位を見る地相の学。屋敷・住宅および集落などを見る「陽の風水」(陽宅)と、墓を見る「陰の風水」(陰宅)の区別があり、沖縄でも盛んに行なわれた。(高)
アジ墓 アジシーのこと。各門中の当世墓に対するもので、遠い先祖を祀った墓とされる。また、アジ(按司)を葬った墓ともされる。横穴式で正面を石垣積みにした古墓が多い。
神御墓(かみおはか) 各門中等の祖先の墓。一般的に初代以後七代をもって閉じられた。当世墓に対する墓で、アジシーに比べると特定された先祖が葬られているといえる。(田)
血筋(シジ) 系統。父方の血筋を基とした系譜関係。門中などの父系の出自集団の中で、祖先祭祀・家系継承の際に強調された。(田)
門中墓(もんちゅうばか) 男系の血筋を同じくする一族、門中が共同で所有し、共用する墓。(田)
当世墓(トーシー) 現に用いている墓のこと。神御墓等既に閉じられた祖先墓(アジシー)に対する語。(田)
模合墓(むえーばか) 組仲間や知人、友人など気の合った者どうしが経費を出しあって造った墓。ユレーバカ(寄合墓)とも呼ぶ。(名)
村墓(むらばか) 村落共同体で所有されている墓。分布は国頭村字嘉、安波、与那、大宜味村田嘉里、謝名城、喜如嘉、渡名喜村などがある。(名)
納骨墓(のうこつばか) 洗骨した遺骨を納める墓。糸満市の幸地腹門中墓は、四基のシルヒラシ墓に対して、一基の大きな納骨墓を持っている。(名)
シルヒラシ 墓堂の入口付近にある遺骸を安置する場所。砂利敷で棺箱を二基程据える広さを有する。シルヒラシ墓が各位独立しているところもある。(名)
特殊葬法(とくしゅそうほう) 一般的な葬法に対して幼児の死亡や溺死・自殺・交通事故死・伝染病死・ハブ咬傷死などは、主として土中に埋める葬法であった。これは、地上に設けた墓室に葬るのを常とする葬法からみて、特殊葬法とするのである。(上)
マチ墓 墓室内部の天井の石組みがアーチ状になった墓のこと。外見的には亀甲墓(かめこうばか)、破風墓(はふうばか)、平葺墓(ひらぶきばか)などがある。(上)

*(比)比嘉政夫 ひが まさお/(当)当真嗣一 とうま しいち/(中)中村○ なかむら すなお/(高)高良倉吉 たから くらよし/(田)田名真之 だな まさゆき/(名)名嘉真宜勝 なかま ぎしょう/(上)上江洲均 うえず ひとし

11月17日(木)
 先日買った、薩摩蕃椒(ばんしょう)がはんぱない(≧▼≦)。
 料理に使う赤唐辛子は、100円ショップで売っている中国産辺りの物を使っていたんですが、先日スーパーで見かけて薩摩蕃椒を買ってみた。これが、はんぱない辛さ。
 この前、鶏肉と野菜の甘酢炒めに辛みのアクセントとしてこの蕃椒を2本入れてみたら、あまりの辛さに驚いた。辛いのが好きな方なので、普通なら大きな唐辛子を2〜3本入れて炒めても平気なのですが、この蕃椒の辛さときたら(汗)。
 前回の経験を踏まえて、今日の晩ご飯用のきんぴらを作るにあたって、蕃椒を1本だけにしてみた。辛みが足りなかったらどうしよう・・・そんな心配は無用でしたね。1本で十分辛い。油で炒めている時に、眼と喉が痛くなる辛さです。
きんぴら
薩摩蕃椒
↑はんぱない辛さの薩摩蕃椒。120円くらいだったかな?
←豚肉、ゴボウ、ニンジンのきんぴら。白胡麻をふってないので、見た目は寂しいですが、ピリ辛甘めでご飯がすすみます。
 今日は食材の買い出しに行ったので、晩ご飯は品数豊富。シイラの刺身、鶏の立田揚げ1/2、キャベツとカイワレ、きんぴら、味噌汁とご飯。シイラの刺身は初めて食べた。もっちりしてますね。
11月15日(火)

 午前中は、「南島の墓」(沖縄出版)を読む。論考編の、奄美大島の板石墓・積石墓という項目だけ読もうと思って借りて来たが、面白くて最初から通して読んでいる。

 風邪の兆候はすっかりなくなったので、午後からガス代を払いに出て、そのまま久しぶりに散歩。

名瀬港となっちゃんWorld

 おがみ山の入り口に自転車を停め、テクテクと山を上る。舗装された道だけれど、高く伸びた木々の陰になり、昼でも何だか薄暗い場所がある。ハブが出ませんようにと思いながら、道の真ん中を歩く。
 展望広場に上がった後、少し奥にある復帰記念広場へ。ここに来るのは、2度目だ。

←は、復帰記念広場から。写真中央の大きな船は、なっちゃんWorldという高速フェリー。今月の10日頃から停泊していて、22日だったかに演習に来ている自衛隊の車両を乗せて出港するらしい。上に見える大きな岩は、名瀬の立神。灯台を乗せている立神も珍しい。

 おがみ山を下りて、自転車でダイエーへ。ダイエーの駐輪場に自転車を停めて、東が丘団地を目指す。
 部屋の窓を開けて、名瀬港を挟んで対岸の山の中腹に見えるのが、奄美大島に来て最初に泊ったHOTELカリフォルニア。そのカリフォルニアのもう少し上に、木立の中から一部が見える建物がある。今は営業していない、奄美グランドホテルだ。たぶん、このグランドホテルがある辺りが東が丘団地だろうと思い、伊津部小学校の脇から山道を上って行く。
スナップ

 昨年の6月、名瀬に着いた最初の日にカリフォルニアに泊ったが、その日は大雨で唄者・築地俊造さんにホテルまで車で送っていただき、宿泊中はホテルのスタッフが送迎をして下さった。なので、この坂道を歩くのは今日が初めて。
 HOTELカリフォルニアまでの坂道は、近くに工場があるからか、もの凄い黒糖焼酎の匂い。カリフォルニアの入り口手前には、とっくに営業をやめた気配の私立 川口観光植物園の入り口。こんなの有ったんだ。
 カリフォルニアの横を通りすぎて、もう少し坂道を歩いて行くと部屋の窓からは一部しか見えない奄美グランドホテルが、現われた。閉館して10年以上、アチコチ窓ガラスが割れているけれど、想像していたほど廃墟にはなっていない。グランドホテルの入り口横には、道の島バスの東が丘団地と書いた乗車看板。大きな集合住宅が建ち並んだ町をイメージしていたが、そうでもない。割りと新しい一戸建ての家が連なっている。
 それ程広くはないこの高台にある住宅街を、カメラをぶら下げて散歩。佐大熊の団地群の先に、山羊島が見えるポイントはなかなか面白い。
 家の庭のパパイアの実を穫っていた方がいて、その家の横に細い山道。舗装のされていない山道を降りて行けば下の大きな道に出られると言うのでトライしてみるが、途中で道が見分けられなくなった(汗)。引き返し、来た時に通った舗装された道を歩いて下に出る。ダイエーで買物をして帰宅。ざるそばに、かき揚げと大根おろし。太巻き寿司。

 本日のスナップは、こちら

11月14日(月)
 この何日か、風邪の2歩手前くらいかな?と思うような微熱。体温計がないので、確かにはわかりませんが(汗)。こじらせないように部屋で大人しくしていたら、今日あたりは普通な感じ。もう大丈夫そうだ。
→八千代30度がなくなったので、昨日から以前とある宴会で残ったのを貰って来た里の曙BIG FISHINGラベル。↓今日の名瀬港の夜明け。日中は晴れましたが、なんだか靄のかかった空だった。
里の曙BIG FISHINGラベル
名瀬港の夜明け
 これで黒糖焼酎の遍歴は里の曙→れんと→ろくちょう→里の曙 瑞祥→喜界島→緋寒桜→奄美の杜→島のナポレオン→龍宮→じょうご 卯ラベル→瀬戸の灘→あじゃ30度→浜千鳥乃詩30度(飲む前に落下)→浜千鳥乃詩 原酒→加計呂麻→高倉→朝日→あまんゆ→八千代30度→里の曙BIG FISHINGラベル。
11月11日(金)
11111115

 2011年11月11日。
 1の並びを撮影しようと思って、20分も前から携帯とマクロレンズを付けたカメラを、机の上に並べておいたのに・・・

 気がついたら11時15分。

1111
1115・・・orz.

11月10日(木)
 昨日からの続きで、今日も朝から雨。午後もだいぶ過ぎてから、小雨になってきたので図書館へ。借りていた5冊を返して、新たに5冊借りて来た。
今日、借りて来た本
←「時を越えて生きる アマミノクロウサギ/浜田 太」(小学館)、「奄美を愛した”きょら”の人/恵原 義盛画集」、「おきなわの祭り」(沖縄タイムス社)、「シンポジウム 南島の墓 沖縄の葬制・墓制/沖縄県地域史協議会編」(沖縄出版)、「オキナワ紀聞/砂守 勝巳」(双葉社)。
ソデイカ
 図書館の帰り、スーパーで地物のソデイカを買う。晩ご飯は、イカ焼きそば。明日は残りでゲソ焼き。

 明日で震災から8ヶ月。
魚介類のセシウム汚染 日に日に上昇」。懸念されていたことが、数字になって現われて来た。今後、食物連鎖による生物濃縮で、どう広がって行くのか気にかかる。マグロやカツオなどの回遊魚への影響も心配だ。

福島第一、廃炉に30年超」。原子力委員会は、福島第一原子力発電所1〜4号機の廃炉終了まで30年以上かかるという中長期計画の原案をまとめたそうだ。30年以上の、以上とはどれ位を指しているのだろうか。31年も60年も30年以上です。
 以前にも書いたが、これまで日本の原発で廃炉が決まったのは、日本初の商業用原子力発電所・東海発電所と、福井のふげんだけのようだ。そして、まだ完全に廃炉に出来るところまでは行っていない。
 東海発電所は、1998年3月31日に営業運転終了、2001年3月 燃料搬出完了、2006年8月熱交換器撤去工事開始まで進み、今後は2014年に 原子炉解体開始となっている。原子炉解体開始までに16年かかっている。
 ふげんは、運転を終了した2003年から26年間かけて解体・撤去するとなっている(確か今年7月頃は、35年かけて解体される予定と書かれていたが早くなったのか)。
 シビアアクシデントを起こした訳ではないこれら2つの原発でさえ、廃炉には長い年月がかかる。まして、事故で高い放射線量が出ている福島第一の廃炉を考えると暗澹たる気持になる。
 廃炉までの長い道のり、簡単に放射線量が下がるとも思えない福島第一で作業に従事する人の確保をどうするつもりなんだろうか。

 国が責任を持って行なうと言っていた除染作業だが、「環境省が除染ボランティアの募集を始めた」。ボランティアの被ばくを防ぐための対策について、細野大臣は「安全を確保するのは政府の責任だと思っている」と言うが、環境省のホームページには、ボランティア保険及び放射線被ばくに関する留意事項として、
 ボランティア活動中の様々な事故による怪我や損害賠償責任を保障する保険がありますので、保険の補償の範囲(通常、放射線被ばくは保険の対象外)や保険費用を踏まえて、ご加入・ご更新をお願いします(原則、自己負担です)。
 保険は自己負担で、尚かつ通常、放射線被ばくは保険の対象外。これで、どう読めば政府が安全を確保していると言えるのだろうか。

11月9日(水)

 「南島雑話の世界」(南日本新聞社)は読み終えて、「南島雑話1 幕末奄美民俗誌/名越左源太 國分直一・恵良宏 校注」(平凡社)、「南島雑話2」をパラパラと眺めて楽しんでいる。
 最初は2冊を読み通そうと思っていたけれど、旧仮名遣いの文章は想像以上に難儀でめげてしまった。それでも、一つ一つの文章は短く、興味深い挿絵も載っているので、気まぐれに開いた頁を眺めてつまみ読みしているだけでも面白い。
 「南島雑話」は、1859年に奄美大島に遠島を命ぜられた名越左源太(なごや さげんた)が、島に流されていた5年ほどの期間に当時の島の様子を書き記したものだが、衣食住はもとより風俗、動物・植物の生態からノロ・ユタの祭祀、年中行事まで、その範囲は広く、且つ詳細に綴られている。
 例えば甘藷(サツマイモ)についての記述は、甘藷の事から始まり、甘藷苗の事、甘藷畠の事、甘藷植付の事、甘藷掘の事、甘藷二度生の事、ムキダネの事、甘藷煮調の事と続く。
 ○猫まや(家猫。大和に同じ)○犬(猛気大和に劣る。飛レ壁渡レ谷事は大和の狐の如く・・・)○豚ワア(ブタ。家毎に5疋・・・)○治利毛奴(一名サヒモン。大和のイタチ程なるものと云・・・)○水?ケンモン(カハタラウ。相撲を好み、人に逢いては・・・)と延々動物、魚介、植物の紹介が短い文章で綴られた頁もある。
 疾病薬用という項目には、○婦人月経短し○男子男根大なる長さ六、七寸余、廻り六、七寸といった記述もある。
 その取材力と、縦横無尽の好奇心には驚くばかりです。

 名越左源太の著した『南島雑話』の写本は、現在知られているものとして8つあるようです。
1、鹿児島県立図書館所蔵本(鹿県図書本)
2、島津家御手許本(島津家本)(東京大学史料編算所蔵)
3、永井昌文氏保管本(永井氏保管本)
4、鹿児島大学農学部図書館所蔵本(鹿大農学本)
5、杏雨書屋所蔵本
6、大島島庁所蔵本
7、鹿児島県県庁所蔵本
8、沖縄県立図書館所蔵本
平凡社の「南島雑話」は、3の永井昌文氏保管本を底本にとり、他の諸本を交合したものだとしている。

浜下れの舟こぎ競争?
相撲
↑(左)浜下れで舟こぎをしている風景だろうか。(右)相撲。
ケンムン
←ケンモン(ケンムン)。
↓大島兎とあるので、アマミノクロウサギのよう。ここに載せた挿絵は、「南島雑話の世界」(南日本新聞社)から複写しました。そしてその大元は、名瀬市立奄美博物館所蔵の写本、学術的には「永井保管本」だそうです。
「南島雑話1」の、『南島雑話』諸本交合経過から
 『南島雑話』なる書名は、名越左源太によって、はじめから与えられたものではなかった。我々が底本にした永井昌文氏保管本及び同本と内容を等しくする島津家旧蔵本(東京大学史料編算所蔵)についてみると、「大とう竊覧・大とう便覧・大とう漫筆」「南島雑記」「南島雑話」の諸編目があり、その中に「南島雑話」なる篇名が見出されるのである。しかし総括的な書名として『南島雑話』なる書名が与えられたのは、鹿児島高等農林学校本(現鹿児島大学農学部所蔵本)においてであったとしてよかろう。
アマミノクロウサギ

「南島雑話の世界 名越左源太の見た幕末の奄美/取材・執筆 名越 護」(南日本新聞社)から、
〜ワニを食べる〜

『南島雑話』には、住用村内海に「駝竜(ワニ)が漂着」した記事が載っている。内海は、太平洋に面し入り江が深く入り込んだ丸っこい湾。ここに駝竜が舞い込んで海辺の草深い陸地で日なたぼっこをしていた。長さ一尺(約三十三センチ)で、子ワニだったらしい。
 気丈な女性がこれを見つけ、馬の綱に木をくくりつけて捕まえる。それを「これは珍しい」と集まった村の男らが、棒でたたき殺す。
〜略〜
 村人にとって見たこともない”怪獣”を煮て食おう、ということになった。だが、だれも箸を付けようとしない。そこで一人の村の長老が「若人は、万が一にも毒に当たれば、甚だ心残り多きことだろう。自分は先もそう長くないので、まず自分が試食してみよう」と、毒味してみせる。長老が、見慣れない魚類を最初に味実験する例は、他の頁にも登場する。結果は、なんともなかったので一斉にこの肉に飛びついた。味は「海亀の味に似たり」で美味だったという。
〜略〜
 奄美へのワニ漂着の記録は、これだけではない。近いところでは一九七四(昭和四十九)年十月三十日夕、瀬戸内町の太平洋側ヤドリ浜海水浴場近くにある皆津崎付近の岩の上で体長八十五センチ、体重一・五キロのワニの子どもが見つかっている。
 当時の瀬戸内町広報誌によると、高校生四人が生け捕りにしたもので、背中に黒みを帯びたうろこがあり、「つつくと口を開けて身構える。もし南方のイリエワニ(クロコダイル科)だと、体長六メートル以上になる名高い人食いワニだ」と町の話題になったことを報じている。
 左源太はまた、「人魚」を記録している。一八二七(文政十)年のこととして、「(奄美)諸島の海浜如図もの風波に漂来、翌朝なみ風をさまりて村人近よりみれば、数日へし人のごとし。恐て近くよるものなし。数月を経て腐去」と少年が裸でうつ伏せになったような「人魚」の絵を載せている。人魚といえば沖縄近海に生息する「ジュゴン」か、と考えがちだが、おそらくジュゴンであろうと思われる生き物も、ちゃんと「海馬」として登場するのだ。左源太が見たこの「人魚」は、いったいなにものだったのだろう。
 奄美の海は古来から、海流に乗ってさまざまな熱帯の動植物がよく漂着する。島崎藤村の『椰子の実』のように、ロマンに満ちた話は枚挙にいとまがない。奄美の人たちは、これら漂着物を海の彼方にある理想郷「ネリヤカナヤ」の国からの贈り物と意識している。

 旧仮名遣いの「南島雑話」を読み通すのは難しいが、「南島雑話の世界」はスラスラと読める。「民俗関係」の項目を中心に選んで、左源太が書いた当時の話と現在の話を織り交ぜて書かれておりとても面白い。他の項目に付いて書いた続編は出ないものだろうか?また、挿絵を中心とした本もあればと思うけれど。

ワニの捕獲風景

 そう言えば住用・東中間のモダマも東南アジア辺りからの漂着ではなかったか。
←駝竜(ワニ)を捕獲している様子だろうか。
↓左源太が描いた人魚。

人魚
密猟禁止看板1
←↓ちなみに朝仁海岸に立ててある密猟禁止の看板は、私が見た限り全部ウニの上の点が消されて、ワニになっている(笑)。子供のイタズラだろうか、いや案外大人か?
密猟禁止看板2
麻婆豆腐
ナポリタン
 今日は一日雨。昼はナポリタン、夜は麻婆豆腐。市販品ですが挽肉の代わりに豚肉細切り、白ネギの代わりにタマネギのみじん切り。辣油はたっぷり。麻婆豆腐も材料費が安く、簡単で美味しいので、最近登場頻度が高いメニューです。
11月7日(月)
 午前中にプリントを少ししていたら、立て続けに3本もインク交換。まあ、タイミングなんでしょうが、ちょっと悲しい(;´Д`)。
小宿の教会
朝仁海岸
↑青空の朝仁海岸。でも反対の山側は雲がいっぱい。
←小宿のカトリック教会。相撲の土俵ほどではないけれど、教会も奄美大島に多いものの一つだろう。商店が一つあるかないかの小さな集落にも、教会が建っていたりする。
 昨年に続いて、ベイスターズが奄美にキャンプに来ている。5日には紅白に分かれての、公開練習試合も行なわれたようだ。
 お天気も良いので、朝仁海岸〜小宿を自転車で走り、三儀山の野球場へ。あれれ?誰もいない。近くで清掃している人に聞いたら、今日はオフらしい・・・orz。
 せっかく三儀山まで来たので、そのまま奥に自転車を走らせて恵沢さん宅でポニーを見せてもらう。
海岸の猫
なぎさ園
ベイスターズのキャンプ
↑海岸の猫。あまり見た事のない顔だな。 ↑海岸横に建っていた老人ホーム、なぎさ園。取り壊しが進んでもう直ぐ更地。 ↑ベイスターズのキャンプを見に行きましたが、今日はオフだったようです。
ポニー

←なかなかキレイな顔立ちのポニーですね。女の子です。ここに来て4ヶ月くらい。その前、私は喜界島でこのポニーとご対面しているはず。
↓ポニーの毛並みを整え、身体に付いた泥を取ってやっている恵沢さん。

ポニーと恵沢さん
 ポニーに遊んでもらった後、スーパーで食材の購入。晩ご飯は、コロッケ、肉野菜炒め、具たくさん味噌汁、漬け物。
11月6日(日)
 昼間は快晴でしたが、夜になって一時雨。

 11月になったが、部屋の中に居る分には半袖のTシャツに短パンで過ごせる。今日は少し蒸しているので窓を開け、扇風機までまわしている。さすが亜熱帯!雨は多いが、やっぱり過ごし易い(*´д`*)。

→晩ご飯の、親子丼。材料費が安く、簡単で美味しいので、最近登場頻度が多い。卵2個使用。

親子丼
 奄美群島日本復帰40周年記念写真集「満天の星のごとく・・・」からの写真と、いくつか比較してみた。
木慈の垣漁比較写真
左 昭和47年6月 「垣漁」を楽しむ瀬戸内町加計呂麻島木慈の人達。垣漁は、遠浅の入り江の出口に石垣を築き、満潮時に入り込んだ魚を干潮時に拾い集める漁法だ。遠浅の入江がある龍郷町や笠利町等でもみられた。 [提供]瀬戸内町
右 今年の2月22日に撮影。
請阿室桟橋の比較写真
左 昭和50年6月 瀬戸内町請島の請阿室桟橋。古仁屋港から生活用品を積んだ町営定期船「せとなみ」の到着。一日一便の寄港時が島で一番活気の出る時だ。 [提供]瀬戸内町
右 今年の2月5日に撮影。今も基本的に定期船の運航は、一日一便のようだ。
喜界島湾港比較写真
左 昭和26年頃 喜界町湾港。当時は本土へは自由に出られなかった。写真は、奄美大島の高校生が喜界島へ見物に来た時の記念に撮影した。当時の喜界〜名瀬航路の船は写真左後方のように小さなものだった。また、車もなく荷馬車や馬で運搬をしていた。 [提供]平田和子(神戸市)
上右・右 喜界島湾港にて、名瀬に向かうフェリー。今年の5月17日の早朝に撮影。
喜界島湾港
11月2日(水)
 ボットボットしているうちに、もう11月になってしまった(;´Д`)。
豪雨の名瀬

 6時過ぎ頃だろうか。目が覚めたら、窓の外は稲光り。雷鳴が轟き、激しい雨が降っている。
 7時30分過ぎに市役所から、大雨洪水警報のエリアメールが届く。
 その10分後くらいに、今度は土砂災害警報。
 パソコンを開いてツイッターを見ると、朝戸トンネルで通行止めの情報。9月末に、龍郷町を中心に大きな豪雨災害があったばかりなのに。

←激しい雨が降る、朝の名瀬。
↓奄美の豪雨災害を伝える、お昼のTVニュース。

豪雨災害を伝える昼のニュース番組

 お昼頃になって、お天気は徐々に回復。
 お昼のTVニュースを見ると、どのチャンネルも奄美の豪雨を伝えている。名瀬と古仁屋を結ぶ国道が、またアチコチ土砂崩れで通行止めになっているようだ。
 瀬戸内町では、1時間に140ミリ以上と言う記録的な雨が降った。どうも今回は奄美大島の南部と、加計呂麻島が大きな被害を被っているみたい。

 午後、さばくりにんさんから電話。前々から、昨年撮影した湯湾釜のムチムレ踊りの写真を届けに行こうと相談していたが、今日が都合がいいと言うことで決行。
 そうして大和村の役場で用事を済ませると、急遽、西古見に行ってみようということになった。西古見は奄美大島の南部、瀬戸内町の西端に位置する。距離とバスの利便性を総合すると、名瀬から一番遠い集落だと思う。
 大和村から東シナ海沿いに今里まで。今里から山を越えて、宇検村の芦検に出る。芦検から焼内湾に沿って名柄集落まで行き、そこからまた瀬戸内町の久慈に出る山道に入る。
 途中にカンツメの碑が建っており、そこで何枚か写真を撮って、久慈集落へ。久慈から大島海峡沿いに花天、管鈍と通って西古見に着いた。

西古見の3連立神
←テンテンテンと並ぶ、西古見の三連立神。
↓西古見集落。海岸沿いの家は、珊瑚の石垣に囲まれて趣がある。
 今回は日没直前の僅かな時間しか見れなかったので、いつかゆっくりと歩いてみたい集落です。
西古見集落
アマミノクロウサギ

 帰りは来た道を辿るようにして、大和村まで。
 今里集落まで下りずに山道を入って、少しだけ夜の奄美の森探検。
 成果は、アマミノクロウサギは4羽に遭遇。撮影できたのは1羽のみ。
 長いモノはマッタブを4匹、ヒメハブ3匹、金ハブ1匹目撃。
 トゲネズミ1匹、オットンガエル2匹。リュウキュウイノシシはご無沙汰です。

←撮影できた、アマミノクロウサギ。

オットンガエル

←道路の真ん中にいた、大きなオットンガエル。写真を撮ったら、道路脇の草むらに逃げましたが、頭隠して尻隠さずですね(笑)。

→キレイな色の金ハブを捕獲。

金ハブ
 カンツメの碑、西古見集落、奄美の夜の生き物たちをPhoto Albumにしました。こちら

今回の豪雨災害の状況を、奄美市役所のホームページから。

19:40 奄美市災害警戒本部を廃止しました。
15:00 住用支所から市、戸玉、マングローブ前 片側相互通行解除
14:00 城トンネルの全面通行止解除
14:00 国道58号、東城木工センター付近全面通行止解除
11:30 住用支所から市、戸玉、マングローブ前 片側相互通行
11:20 小湊朝戸線、西仲勝 片側交互交通を解除
10:50 小湊朝戸線、西仲勝 全面通行止め解除→片側交互交通
10:30 朝戸トンネル通行可能
10:20 住用地区の全小中学校は臨時休業
09:00 小湊朝戸線、西仲勝全面通行止
09:00 名瀬瀬戸内線、大和村国直片側交互通行
08:50 国道58号、東城木工センター付近全面通行止
08:40 城トンネル全面通行止
08:30 古見方地区、住用地区保育所は休所
08:18 住用総合支所から市・戸玉・マングローブ前が冠水
07:50 市、戸玉間冠水にて、全面通行止
07:40 住用総合支所前が冠水
07:40 朝戸トンネル通行止
07:40 土砂災害警戒情報を発表しました。
07:40 奄美市災害警戒本部を設置しました。
07:06 奄美市に大雨洪水警報が発表されました。

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