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○11月6日(日) 「ミツバチの羽音と地球の回転」上映会 会場1、笠利町太陽ケ丘運動公園内改善センターホール/開場13時、上映13時半。 開場2、奄美市名瀬公民館/開場18時、上映18時半。 当日1000円。 市の広報誌「奄美市だより」12月号に、2011年(平成23年)奄美大島の主な年中行事一覧が載っていたので転載。 ※1‥以前は旧暦の1月2日に祝っていましたが、近年は新暦の1月2日に行う家庭が多いようです。 平瀬マンカイ]:龍郷町秋名(国指定) 等 *道の島交通では、7月16日より路線バスの乗り放題券を発売しています。大人1日間2000円、2日間2500円、3日間3000円、4日間3500円、5日間4000円、6日間4500円、7日間5000円で協賛施設での特典も付いています。詳細はこちら。 |
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○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html ○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/ ○Shinya Fujiwara official site Talk&Diary http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php ○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm ○小出裕章(京大助教)非公式まとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/ ○twitter#genpatsu http://twitter.com/#!/search?q=%23genpatsu ○twitter#fukushima http://twitter.com/#!/search?q=%23fukushima |
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「時を越えて生きる アマミノクロウサギ/浜田 太」(小学館)と、「奄美を愛した”きょら”の人/恵原 義盛画集」を読み終える。今日で11月も終わりだが、天気が悪かったこともあり、今月は本ばかり読んでいた気がする。 今日も昼頃から強い雨が降り、雷まで落ちて来たので、部屋から出られないか〜と思っていましたが、3時頃に雨が止んだので銀行に行き、買物をし、家賃を払って来た。 |
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←昼頃は、雷まで落ちる激しい空模様でしたが、3時頃には雨が止み、夕方にはキレイに空が焼けた。久しぶりに見た夕焼け。 ↓外に出たので、「奄美歌掛けの夕べ」の前売りチケットを購入。 |
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奄美群島日本復帰40周年記念写真集「満天の星のごとく・・・」からの写真と、またいくつか比較してみた。 | ||
上左 昭和28年8月 喜びにあふれ賑わう名瀬市永田橋公設市場。 [提供]鹿児島県 |
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左 昭和35年頃 徳之島町亀徳港。港湾整備が進み、大型船舶も接岸できるようになった。 [提供]鹿児島県 右 今年の6月12日に撮影。写真中央〜右が亀徳港。 |
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左 昭和44年 伊仙町犬田布岬での第2回戦艦大和慰霊祭。昭和20年4月、約2,700名の乗組員が徳之島沖で撃沈された戦艦大和と運命をともにした。その洋上を望む岬に昭和43年特攻艦隊戦士慰霊塔が建立された。 [提供]鹿児島県 右 今年の6月11日に撮影。 |
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左 昭和46年8月頃 与論港。昭和40年代の高度経済成長と離島ブームに伴って奄美群島の観光は全国的に脚光を浴びた。特に、夏場の与論島は、都会からの若者で島中があふれた。 [提供]金子清美(与論町) 右 今年の8月23日に撮影。 |
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左 昭和56年頃 与論町。観光客で賑う夜の与論銀座。 [提供]与論町 右 与論島で一番の繁華街、茶花のメインストーリー。閉店した店や施設もあり、かつての賑わいはないようだ。今年の8月22日に撮影。 |
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左 昭和45年 喜界町阿伝の地葬場。埋葬して3年後に掘り起こし、改葬して先祖代々の墓地に納骨した。 [提供]岡本敏久(奈良県王寺町) 右 与論島にて、今年の8月20日撮影。埋葬した土の上にかぶせられている小さな家は、龕(がん)あるいは龕蓋(がんぶた)と呼ばれているようです。 |
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*番外編 |
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一昨日は名瀬勝、小湊に積石墓を探しに行きましたが、今日は午後から知名瀬、根瀬部に板石墓を探しに行って来ました。 「南島の墓」(沖縄出版)によると知名瀬には「共同墓地の中に点々と板石墓と思われるものが四つ五つ見られる。ただハカというだけで特別な名称はない」とあり、根瀬部にも「集落中央の墓地に板石墓と思われるもの二つあり」と書かれている。 |
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←知名瀬の共同墓地。写真の右手は海岸に面している。今日は、墓地の中央にテントが建てられ、葬儀が行なわれていた。 ↓知名瀬のカトリック教会は、建物の塗り直し中。 |
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知名瀬トンネルを抜けて集落へ下りて行き、海岸に面した共同墓地へ。自転車でくるっと外側を見学。 |
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↑根瀬部の共同墓地。写真左手が道路を挟んで海岸。 ←根瀬部のカトリック教会。屋根の十字架以外、教会を示す物が見当たらなかった。うっかりすると見過ごしそうな建物だ。 |
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根瀬部から知名瀬へ戻り、先程の墓地へ行ってみると、テントの中に設けられた長いテーブルに親族の方々が並び、お話しをされている風だ。お弁当のような物が見えたし、お酒もあるのかもしれない。 奄美ではお盆に墓前に親族が座り、一重一瓶を囲む習わしがあったそうだが、似た感じかも知れない。 知名瀬から里集落、小さな丘を越えて福里集落に寄り道して小宿へ。小宿の細い路地を通っていくつかある共同墓地の前を通ると、大きなお墓の上に同じ毛並み、同じ顔の子猫が4匹座っている。墓地に猫はつきものだけれど、同じ顔の4匹は面白い。 しばらく猫の写真を撮ってから、朝仁海岸、スーパーへ寄って帰宅。 |
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←小宿集落の共同墓地で。近づいても逃げない。他にもワラワラと何匹か寄って来た。 |
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途中に通って来た里、福里には共同墓地が見当たらなかったけれど、どこにあるんだろうか。 名瀬市小宿、里 オヤノロの墓。小宿は里、福里、金久の小字に分かれ、その里の傍らのネヤマという小さい山上の十数坪の平地にオヤノロの墓という積石墓がみられる。一個のサンゴ石の径三〇ほどのもの七〇〜八〇個を積んで扁平な餅状に作られている。その直径一八〇、高さ八〇ほど。その中には一つの骨甕が入っているという。ハブ取りの青年たちが石を動かして乱れているが、元はもっと高くやや方形で、中に空所があり、そこに立派な骨甕が入っていたという。ここに葬られたのは小宿の最初の親祝女で、たいへん威のある人だったといい、その娘は隣の知名瀬のノロとなった。その娘にいろいろの神事を教えてやりたいから、自分の墓は知名瀬にゆく山道の傍らに作ってくれと遺言したので、集落の人々はこの山に海からサンゴ石を運んでこの墓を作ったという。ノロは埋葬してはいけない、三尺高い所に葬るといって、地上に石を積んで棺を入れ、改葬した骨は骨甕に入れて同じ石積みの中に祀ったという。 |
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←今、島の道路脇や家の庭先に、たくさん黄色い花が咲いている。ツワブキだ。 →昨日、やんご祭りの帰りにスーパーで買った、ツワブキの煮物。 |
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本日のスナップをPhoto Albumにしました。こちら。 | ||
先週の土曜、19日に開催されるはずだった「やんご祭り」が、雨で延期になり、今日になった。 やんご=屋仁川は、一説によれば鹿児島県で2番目に大きいとも言われる飲屋街。確かに飲み屋の数は多いけれど、やはり一番栄えていたのは大島紬が産業として全盛だった頃だろう。あまり夜に出歩くことはないけれど、たまに通る夜の屋仁川は至って静かだ。 昨年は、やんご生誕100年ということで11月15日〜22日まで1週間以上に及ぶ「大やんご祭り」が開催され、初日には屋仁川通りに新しく作られた門のセレモニーも行なわれた。こちら。101年目の今年は、一日だけ。夕方6時から夜の9時まで、昨年と同じ金久公園で行なわれるというので、家で夕飯を済ませて7時半過ぎに見に行った。 公園の中には奄美の焼酎メーカーがブースを出していて、試飲をさせてもらえる。最初に奄美大島酒造の「じょうご」を一杯いただき、次に町田酒造の「里の曙」の原酒2種類を試飲させていただいた。 舞台では踊りに唄、バンド。その合間に酒造メーカーのPRタイムが設けられていた。 |
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←屋仁川通りの近く、金久公園で開催された。 ↓里の曙の原酒(43度)を2種類いただいて、ロックで飲み較べ。43度ともなると少しトロッとしています。 |
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↑左は、屋仁川のお姉さん方による餅投げ。右上は、抽選大会。右下は、八月踊り。 |
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←お祭りの後半は、八月踊りから六調へ。下に居たお客さんも舞台に上がって踊ります。 |
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先月の末頃から首から右腕にかけて痛く、自転車のハンドルを握ると痺れる感じだったので遠出を避けていたのですが、少し良くなった気がするので、肩に一枚シップを貼って出かけてみた。 名瀬市街から朝戸トンネルを抜け、しばらく走った所で左折し海に向かって進んでいく。道なりに真っすぐ進めば小湊だが、今日は途中で左折して川を渡り、川に沿って名瀬勝集落へ。集落を通り過ぎて海岸に出ると、かつてクジラ松を背負っていた岩が見える。 海岸の直ぐ近くにある金比羅神社に寄って、次は小湊へ。来る時に通った橋ではなく、もう少し海岸よりの橋を渡り、左右に畑が並ぶ道を進めば小湊の集落だ。 |
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↑昔、クジラ松のあった岩。名瀬勝の海岸から撮影。 ←名瀬勝の海岸近くにある金比羅神社。小湊の厳島の神(女神)と、競って岩を招き寄せた金比羅の神(男神)は、ここに祀られているのだろうか。 |
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小湊の集落は何度も歩いているので、今日は墓地へ。 先日読み終えた「南島の墓」(沖縄出版)に、小湊に積石墓をコンクリートで塗り固めた、モーヤがあるという記述を見たので探してみた。 名瀬市小湊 共同墓地のモーヤ。小湊は小宿とは反対の東海岸にある。ここの集落共同墓地に元は三つの積石墓の大きいものがあった。これをモーヤといい、それぞれナーマゴ(中間講)のモーヤ、ホーロゴ(保呂講)のモーヤ、ハータリゴ(赤中講)のモーヤとよばれ、現在はコンクリートで塗りこめて、積石墓であった頃の形とはだいぶ形を異にしている。そのうちハータリゴのモーヤはやや原形に近いと言われ、写真のような形をしている。高さ二〇〇、下部の直径は二九〇の半球状をしており、下部に四〇x四三の入口があり石をはめて閉じてある。元の積石墓もその形、大きさはこれとほぼ同様であったという。サンゴ石を下から石垣状に積み上げてやや角型の円筒状にし、その上に幾つかのナバ石を重ねて蓋あるいは屋根としたものであった。それを昭和三十年頃にコンクリートで表面を塗りこめた。中には人骨が一杯入っているという。他のナーマゴとホーロゴのモーヤの大きさもほぼ同様であるが、コンクリートは角型に塗ってある。 この三つのモーヤにはそれぞれちがう血統の先祖の遺骨を納めてあるという。ナーマゴは妹、ホーロゴはその兄の二人の集落開発者の血統の先祖を祀っていて、この二つのモーヤは並んでいる。ハータリゴはそれ以外の移住者の先祖を祀っていて、そのモーヤはやや離れた位置にある。それぞれの講に属する家々の人は集まって、それぞれのモーヤの祭りを旧八月シバサシの後の庚申の日に行なう。これをカネサル祭り、モーヤ祭りといって盛大である。 それぞれのモーヤに入っている多くの骨はそれぞれの講組の先祖の骨で、古く伝染病で多くの死者がでたときの人骨を入れたものとも言い伝えている。古老にも、ここに骨を納めたことを記憶している人はいない。 |
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↑海岸の直ぐ側にある、小湊集落の共同墓地。 ←ハータリゴ(赤中講)のモーヤ。コンクリートで塗り固められた3つのモーヤの中では、一番積石墓の頃の形に近いとされている。 |
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↓手前の大きな墓が、ホーロゴ(保呂講)のモーヤ。→ナーマゴ(中間講)のモーヤ。 | ||
本の発行が1989年12月。もう22年も前の記述なので、はたして今も残っているだろうか?と少し心配していましたが、見つけることができました。カネサル祭り、モーヤ祭りが現在も行なわれているかはわかりませんが。 「南島の墓」(沖縄出版)から。 |
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→小湊集落の外れから、南の島の秋の風情。奄美は気温よりも、風の冷たさがちょっと身にしみる。 小湊からの帰り、市街地で紺のスカートに長い三つ編みをして自転車に乗ったオジサンに遭遇(゜▽゜*)。twitter#amamiで時々話題になる人だろうか。 |
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本日のスナップをPhoto Albumにしました。こちら。お墓の写真が多いですが。 | ||
朝は強い日射し。今日はこのまま晴れるのかと思ったら、午後になって雨が降り出した。やっぱり雨見大島・・・orz。 | ||
タマネギ、セロリ、リンゴはみじん切り。ニンジンを1本すりおろす。 久しぶりにケララカレーを作った。炒め用スパイス、煮込み用スパイス、ブイヨン、カレールウ、香味スパイス、香りスパイスがそれぞれ袋に入れられパッケージになっている。レシピの手順に従って鍋に投入。 工作や実験のような趣でカレーが作れる。インド・ケララ地方に行ったことはないので本場の味かどうかはわからないが、かなり美味しい。 |
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「オキナワ紀聞/砂守勝巳」を読み終える | ||
ちょっと雲もあるが、最近にしては青空。すっかり溜まってしまった洗濯をする。洗濯機をまわしながら、時おりベランダから名瀬港をチェック。 昨日、散歩の後に名瀬港の観光バースに行くと、明日の朝10時になっちゃんWorldが自衛隊の車両を乗せて出港すると聞いた。それで、10時少し前から向かいのビルとビルの間から見える名瀬港を覗いていたら、定刻通りに港を出発していった。 停泊中は家のベランダからは向かいのビルに隠れてフェリーのお尻の部分しか見えなかったので、港まで見に行こうかとも一瞬思ったけれど、港を離れた直後からビルとビルの間にフェリーの全景がきれいに収まり、撮影場所としてはベストポイントだったかもしれない(*´д`*)。 |
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↓→観光バースを出港する、なっちゃんworld。部屋のベランダから撮影。 |
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冷蔵庫の中が寂しくなってきたのでスーパーを3つまわって買物。冷蔵庫が小さいので買って来た食材を収納するのに一苦労。大根や長ネギをペットボトルや調味料を入れるポケットに刺してみる(笑)。 晩ご飯は麻婆豆腐、しらすおろし、白菜・大根・長ネギ・油揚げの味噌汁。 洗濯をして買物に行って、ご飯を食べて本を読んだら過ぎていった。そんな一日。明日はカレーを作って、本を読んだら過ぎていきそうだ(笑)。 |
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全国的に寒い一日となったようだ。奄美も最高気温が20度を切り、日中でもTシャツ一枚では肌寒い。 |
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↑イノシシに掘り返された芝生。 ←ハブにご注意ください、と書かれた立て札が置かれたトイレ。 イノシシにハブと、なかなかスリリングな赤崎公園。まあ、実際に出くわす確率は低いと思いますが・・・ |
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↑赤崎公園の展望台からの眺め。小宿漁港の沖。波が高い。 |
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←赤崎公園から下りて来る途中にある段々畑。畑と言うには、あまりに急な斜面に作られている。 ↓斜面に鉄のレールと荷車。ヘゴが生え原生林のようになっていますが、ここにも嘗て、畑があったのだろう。 |
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↑道路脇の斜面に咲く花の間をひらひらと舞う、リュウキュウアサギマダラ。 もう少しすると越冬の準備をするんだろうか? |
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烏龍茶も麦茶もなくなったので、近くの八百屋でくび木を買った。やかんに入れて煮出して飲む。風邪の予防にもなるらしい。 ←奄美のスーパーや商店、八百屋にはこうして積まれて売っている。 |
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←観光バースに停泊している、なっちゃんWorld。明日、陸上自衛隊の車両を乗せて出港するという。 →寒いと甘いモノが食べたくなりますね。ホットケーキ、焼いてみた。 |
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里の曙BIG FISHINGラベルを飲み終えたので、一昨日から弥生の30度。それから先月お土産にいただいた長崎の麦焼酎、壱岐の島 を平行して昨日から飲み始めた。 ←弥生30度。→壱岐の島 復刻版。 |
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本日のスナップは、こちら。 | ||
昨日からず〜っと雨と強い風。徳之島では昨日の夜、突風で家が吹き飛ばされて中にいらした3人が亡くなった。名瀬も昨晩は風がビュービューと鳴っていた。 今月初めに瀬戸内町を襲った豪雨をうけて、雨見大島だね〜とメールを下さった方がいたけれど、ホント雨見多島だ。 |
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「南島の墓」(沖縄出版)をようやく読み終えた。考古学、歴史学、民俗学の専門家が集まり沖縄諸島を中心とした墓を多面的に報告し、語り合ったシンポジウムをまとめた本で、中にはチンプンカンプンでよくわからない箇所も多々あったけれど、最初から最後まで興味深く読めた。 |
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↑左は本に掲載されていた佐念モーヤ。キャプションでは「宇検村佐念の共同墓地のムヤ」となっている。右は先月の24日に撮影した現在のモーヤ。コンクリート製の柱と天井で保護されている。 宇検村の生勝ちにも嘗ては佐念と同型のモーヤが2つ、久志にも大きなモーヤがあったそうだ。また瀬戸内町蘇刈の集落背後のモリマサという木立の中のシイノキの林の中にオトメアンシャレという神女の墓といわれる積石墓があると記されている。 |
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奄美大島の板石墓・積石墓から、古い墓の種類 奄美地方に見られる古墓または古墳と思われるものは案外に種類は少ない。事例にとり上げたような板石墓と積石墓、それに積石墓と深く関連していると思われる草屋根墓、これは先に書いたように実物を見ることはできないが、それに伴った石垣の部分だけは現在遺構として幾つかを見ることができる。 奄美の古墓として、それらよりも更に重要なのは洞穴墓である。奄美大島では笠利町で十幾つが知られているだけだが、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島には広く分布しており、特に喜界島には全島に二百以上のものがある。洞穴墓はトーロ、トフル、モーヤ、ムヤなどとよばれるもので、これには自然洞穴を利用した断崖墓と、人工的に横穴洞穴を掘り抜いて作った掘取墓とがある。両方共にその岩質はほとんどが隆起サンゴ礁である。自然の洞穴を利用した崖穴墓は、主に隆起サンゴ礁断崖の下部にできる浅いまたはやや深い自然の横穴の前にサンゴ石を平面に積み上げて、その間に空室を作り、そこに骨甕やテラと称する石質祠状の骨納器を納めるものである。数からすればずっと少ない。それに較べてはるかに多数にみられるのは人工的に掘り取った掘取墓である。身を少々屈めて入れるほどの入口を作り、内部は二〜六坪ほどの方形で、高さは人の背丈ほどの玄室を作り、その中に骨甕やテラを納めてある。 沖縄で見られる破風墓、亀甲墓とよばれる石と漆喰で作られた家型の、また亀甲型の建造墓は奄美には見られない。沖永良部にある世之主墓及びその隣にあるチュラドールという洞穴墓と破風墓の中間のような墓だけが例外である。これは沖縄から墓大工が来て作ったものを伝えられている。 |
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↓喜界島の洞穴墓。今年の7月6日に撮影。内部に骨甕とテラが見える。→ガジュマルの気根に護られているような外観。 |
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板石墓 厚いビーチロックの板石を切って壁と蓋とにした石棺型古墓。奄美大島北部笠利町、竜郷町に集中的に分布、その退化系と思われるものが大和村、名瀬市など大島北西部に見られる。名称はハヤ、ハマヤ、タマヤ、トール、トフルなど。 |
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←は、板石墓の例として本に掲載されていた龍郷町浦集落の祝女(ノロ)の墓とされているもの。 |
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第一部 基調報告 第二部 シンポジウムで沖縄の墓について述べられている中の注釈部分から抜粋。 | ||
風葬(ふうそう) 遺体を土に埋めず木の上や洞窟などに置き、屍肉が自然に落ち白骨化するのを待つ葬法。(比) *(比)比嘉政夫 ひが まさお/(当)当真嗣一 とうま しいち/(中)中村○ なかむら すなお/(高)高良倉吉 たから くらよし/(田)田名真之 だな まさゆき/(名)名嘉真宜勝 なかま ぎしょう/(上)上江洲均 うえず ひとし |
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先日買った、薩摩蕃椒(ばんしょう)がはんぱない(≧▼≦)。 料理に使う赤唐辛子は、100円ショップで売っている中国産辺りの物を使っていたんですが、先日スーパーで見かけて薩摩蕃椒を買ってみた。これが、はんぱない辛さ。 この前、鶏肉と野菜の甘酢炒めに辛みのアクセントとしてこの蕃椒を2本入れてみたら、あまりの辛さに驚いた。辛いのが好きな方なので、普通なら大きな唐辛子を2〜3本入れて炒めても平気なのですが、この蕃椒の辛さときたら(汗)。 前回の経験を踏まえて、今日の晩ご飯用のきんぴらを作るにあたって、蕃椒を1本だけにしてみた。辛みが足りなかったらどうしよう・・・そんな心配は無用でしたね。1本で十分辛い。油で炒めている時に、眼と喉が痛くなる辛さです。 |
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↑はんぱない辛さの薩摩蕃椒。120円くらいだったかな? ←豚肉、ゴボウ、ニンジンのきんぴら。白胡麻をふってないので、見た目は寂しいですが、ピリ辛甘めでご飯がすすみます。 |
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今日は食材の買い出しに行ったので、晩ご飯は品数豊富。シイラの刺身、鶏の立田揚げ1/2、キャベツとカイワレ、きんぴら、味噌汁とご飯。シイラの刺身は初めて食べた。もっちりしてますね。 | ||
午前中は、「南島の墓」(沖縄出版)を読む。論考編の、奄美大島の板石墓・積石墓という項目だけ読もうと思って借りて来たが、面白くて最初から通して読んでいる。 風邪の兆候はすっかりなくなったので、午後からガス代を払いに出て、そのまま久しぶりに散歩。 |
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おがみ山の入り口に自転車を停め、テクテクと山を上る。舗装された道だけれど、高く伸びた木々の陰になり、昼でも何だか薄暗い場所がある。ハブが出ませんようにと思いながら、道の真ん中を歩く。 |
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おがみ山を下りて、自転車でダイエーへ。ダイエーの駐輪場に自転車を停めて、東が丘団地を目指す。 部屋の窓を開けて、名瀬港を挟んで対岸の山の中腹に見えるのが、奄美大島に来て最初に泊ったHOTELカリフォルニア。そのカリフォルニアのもう少し上に、木立の中から一部が見える建物がある。今は営業していない、奄美グランドホテルだ。たぶん、このグランドホテルがある辺りが東が丘団地だろうと思い、伊津部小学校の脇から山道を上って行く。 |
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昨年の6月、名瀬に着いた最初の日にカリフォルニアに泊ったが、その日は大雨で唄者・築地俊造さんにホテルまで車で送っていただき、宿泊中はホテルのスタッフが送迎をして下さった。なので、この坂道を歩くのは今日が初めて。 本日のスナップは、こちら。 |
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この何日か、風邪の2歩手前くらいかな?と思うような微熱。体温計がないので、確かにはわかりませんが(汗)。こじらせないように部屋で大人しくしていたら、今日あたりは普通な感じ。もう大丈夫そうだ。 | ||
→八千代30度がなくなったので、昨日から以前とある宴会で残ったのを貰って来た里の曙BIG FISHINGラベル。↓今日の名瀬港の夜明け。日中は晴れましたが、なんだか靄のかかった空だった。 | ||
これで黒糖焼酎の遍歴は里の曙→れんと→ろくちょう→里の曙 瑞祥→喜界島→緋寒桜→奄美の杜→島のナポレオン→龍宮→じょうご 卯ラベル→瀬戸の灘→あじゃ30度→ |
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2011年11月11日。 気がついたら11時15分。 1111 |
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昨日からの続きで、今日も朝から雨。午後もだいぶ過ぎてから、小雨になってきたので図書館へ。借りていた5冊を返して、新たに5冊借りて来た。 | ||
←「時を越えて生きる アマミノクロウサギ/浜田 太」(小学館)、「奄美を愛した”きょら”の人/恵原 義盛画集」、「おきなわの祭り」(沖縄タイムス社)、「シンポジウム 南島の墓 沖縄の葬制・墓制/沖縄県地域史協議会編」(沖縄出版)、「オキナワ紀聞/砂守 勝巳」(双葉社)。 | ||
図書館の帰り、スーパーで地物のソデイカを買う。晩ご飯は、イカ焼きそば。明日は残りでゲソ焼き。 |
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明日で震災から8ヶ月。 「福島第一、廃炉に30年超」。原子力委員会は、福島第一原子力発電所1〜4号機の廃炉終了まで30年以上かかるという中長期計画の原案をまとめたそうだ。30年以上の、以上とはどれ位を指しているのだろうか。31年も60年も30年以上です。 |
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「南島雑話の世界」(南日本新聞社)は読み終えて、「南島雑話1 幕末奄美民俗誌/名越左源太 國分直一・恵良宏 校注」(平凡社)、「南島雑話2」をパラパラと眺めて楽しんでいる。 名越左源太の著した『南島雑話』の写本は、現在知られているものとして8つあるようです。 |
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↑(左)浜下れで舟こぎをしている風景だろうか。(右)相撲。 |
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←ケンモン(ケンムン)。 ↓大島兎とあるので、アマミノクロウサギのよう。ここに載せた挿絵は、「南島雑話の世界」(南日本新聞社)から複写しました。そしてその大元は、名瀬市立奄美博物館所蔵の写本、学術的には「永井保管本」だそうです。 |
「南島雑話1」の、『南島雑話』諸本交合経過から 『南島雑話』なる書名は、名越左源太によって、はじめから与えられたものではなかった。我々が底本にした永井昌文氏保管本及び同本と内容を等しくする島津家旧蔵本(東京大学史料編算所蔵)についてみると、「大とう竊覧・大とう便覧・大とう漫筆」「南島雑記」「南島雑話」の諸編目があり、その中に「南島雑話」なる篇名が見出されるのである。しかし総括的な書名として『南島雑話』なる書名が与えられたのは、鹿児島高等農林学校本(現鹿児島大学農学部所蔵本)においてであったとしてよかろう。 |
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「南島雑話の世界 名越左源太の見た幕末の奄美/取材・執筆 名越 護」(南日本新聞社)から、 『南島雑話』には、住用村内海に「駝竜(ワニ)が漂着」した記事が載っている。内海は、太平洋に面し入り江が深く入り込んだ丸っこい湾。ここに駝竜が舞い込んで海辺の草深い陸地で日なたぼっこをしていた。長さ一尺(約三十三センチ)で、子ワニだったらしい。 旧仮名遣いの「南島雑話」を読み通すのは難しいが、「南島雑話の世界」はスラスラと読める。「民俗関係」の項目を中心に選んで、左源太が書いた当時の話と現在の話を織り交ぜて書かれておりとても面白い。他の項目に付いて書いた続編は出ないものだろうか?また、挿絵を中心とした本もあればと思うけれど。 |
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そう言えば住用・東中間のモダマも東南アジア辺りからの漂着ではなかったか。 |
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←↓ちなみに朝仁海岸に立ててある密猟禁止の看板は、私が見た限り全部ウニの上の点が消されて、ワニになっている(笑)。子供のイタズラだろうか、いや案外大人か? | ||
今日は一日雨。昼はナポリタン、夜は麻婆豆腐。市販品ですが挽肉の代わりに豚肉細切り、白ネギの代わりにタマネギのみじん切り。辣油はたっぷり。麻婆豆腐も材料費が安く、簡単で美味しいので、最近登場頻度が高いメニューです。 | ||
午前中にプリントを少ししていたら、立て続けに3本もインク交換。まあ、タイミングなんでしょうが、ちょっと悲しい(;´Д`)。 | ||
↑青空の朝仁海岸。でも反対の山側は雲がいっぱい。 ←小宿のカトリック教会。相撲の土俵ほどではないけれど、教会も奄美大島に多いものの一つだろう。商店が一つあるかないかの小さな集落にも、教会が建っていたりする。 |
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昨年に続いて、ベイスターズが奄美にキャンプに来ている。5日には紅白に分かれての、公開練習試合も行なわれたようだ。 お天気も良いので、朝仁海岸〜小宿を自転車で走り、三儀山の野球場へ。あれれ?誰もいない。近くで清掃している人に聞いたら、今日はオフらしい・・・orz。 せっかく三儀山まで来たので、そのまま奥に自転車を走らせて恵沢さん宅でポニーを見せてもらう。 |
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↑海岸の猫。あまり見た事のない顔だな。 | ↑海岸横に建っていた老人ホーム、なぎさ園。取り壊しが進んでもう直ぐ更地。 | ↑ベイスターズのキャンプを見に行きましたが、今日はオフだったようです。 |
←なかなかキレイな顔立ちのポニーですね。女の子です。ここに来て4ヶ月くらい。その前、私は喜界島でこのポニーとご対面しているはず。 |
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ポニーに遊んでもらった後、スーパーで食材の購入。晩ご飯は、コロッケ、肉野菜炒め、具たくさん味噌汁、漬け物。 | ||
昼間は快晴でしたが、夜になって一時雨。 | ||
11月になったが、部屋の中に居る分には半袖のTシャツに短パンで過ごせる。今日は少し蒸しているので窓を開け、扇風機までまわしている。さすが亜熱帯!雨は多いが、やっぱり過ごし易い(*´д`*)。 →晩ご飯の、親子丼。材料費が安く、簡単で美味しいので、最近登場頻度が多い。卵2個使用。 |
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奄美群島日本復帰40周年記念写真集「満天の星のごとく・・・」からの写真と、いくつか比較してみた。 | ||
左 昭和47年6月 「垣漁」を楽しむ瀬戸内町加計呂麻島木慈の人達。垣漁は、遠浅の入り江の出口に石垣を築き、満潮時に入り込んだ魚を干潮時に拾い集める漁法だ。遠浅の入江がある龍郷町や笠利町等でもみられた。 [提供]瀬戸内町 右 今年の2月22日に撮影。 |
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左 昭和50年6月 瀬戸内町請島の請阿室桟橋。古仁屋港から生活用品を積んだ町営定期船「せとなみ」の到着。一日一便の寄港時が島で一番活気の出る時だ。 [提供]瀬戸内町 右 今年の2月5日に撮影。今も基本的に定期船の運航は、一日一便のようだ。 |
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左 昭和26年頃 喜界町湾港。当時は本土へは自由に出られなかった。写真は、奄美大島の高校生が喜界島へ見物に来た時の記念に撮影した。当時の喜界〜名瀬航路の船は写真左後方のように小さなものだった。また、車もなく荷馬車や馬で運搬をしていた。 [提供]平田和子(神戸市) 上右・右 喜界島湾港にて、名瀬に向かうフェリー。今年の5月17日の早朝に撮影。 |
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ボットボットしているうちに、もう11月になってしまった(;´Д`)。 | ||
6時過ぎ頃だろうか。目が覚めたら、窓の外は稲光り。雷鳴が轟き、激しい雨が降っている。 ←激しい雨が降る、朝の名瀬。 |
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お昼頃になって、お天気は徐々に回復。 午後、さばくりにんさんから電話。前々から、昨年撮影した湯湾釜のムチムレ踊りの写真を届けに行こうと相談していたが、今日が都合がいいと言うことで決行。 |
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←テンテンテンと並ぶ、西古見の三連立神。 ↓西古見集落。海岸沿いの家は、珊瑚の石垣に囲まれて趣がある。 今回は日没直前の僅かな時間しか見れなかったので、いつかゆっくりと歩いてみたい集落です。 |
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帰りは来た道を辿るようにして、大和村まで。 ←撮影できた、アマミノクロウサギ。 |
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←道路の真ん中にいた、大きなオットンガエル。写真を撮ったら、道路脇の草むらに逃げましたが、頭隠して尻隠さずですね(笑)。 →キレイな色の金ハブを捕獲。 |
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カンツメの碑、西古見集落、奄美の夜の生き物たちをPhoto Albumにしました。こちら。 | ||
今回の豪雨災害の状況を、奄美市役所のホームページから。 19:40 奄美市災害警戒本部を廃止しました。 |
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