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○10月2日(日) クガツクンチ(国直・湯湾釜・思勝・名音集落) 市の広報誌「奄美市だより」12月号に、2011年(平成23年)奄美大島の主な年中行事一覧が載っていたので転載。 ※1‥以前は旧暦の1月2日に祝っていましたが、近年は新暦の1月2日に行う家庭が多いようです。 平瀬マンカイ]:龍郷町秋名(国指定) 等 *道の島交通では、7月16日より路線バスの乗り放題券を発売しています。大人1日間2000円、2日間2500円、3日間3000円、4日間3500円、5日間4000円、6日間4500円、7日間5000円で協賛施設での特典も付いています。詳細はこちら。 |
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○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html |
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昨日、奄美市議会議員選挙が行なわれた。結果はこちら。一昨日まで選挙カーが家の前の道を行き交い、候補者の名前を連呼していたが、今日からまた日常が戻った感じ。 奄美群島日本復帰40周年記念写真集「満天の星のごとく・・・」からの写真と、いくつか比較してみた。 |
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左 昭和30年代 龍郷町加世間峠から赤尾木方向を望む。奄美大島で幅が一番狭い地域いっぱいに、サトウキビ畑が広がっている。左上方は戦前に使われた無線塔群。 [提供]丹羽写真機店(名瀬市) 右 今年の7月29日に屋入峠から撮影。上の写真ではわからないが、左の写真には無線塔が9本写っている。数は減っているが、現在も無線塔は何本か残っている。 |
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左 昭和30年頃 名瀬市小湊のナトの浜。昭和36年、第二室戸台風で海岸線が崩れ、護岸工事が行われた。 [提供]隣 重俊(名瀬市) 中・右 昨年10月30日に撮影。奄美を襲った豪雨災害の直後で、右の写真には水害で出た大量のゴミが積まれている。 |
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左 昭和46年8月 名瀬市小湊の琉球松「クジラ松」。昭和56年頃枯れ落ちた。 [提供]川田吉博(名瀬市) |
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左 昭和42年頃 宇検村屋鈍集落の集会所。奄美大島の各集落には、今でもガジュマルの大木や相撲場を備えた集会所があり、住民の憩いの場となっている。 [提供]山下 薫(宇検村) 右 昨年9月8日に撮影した屋鈍の集会所。宇検村のホームページによると、屋鈍集落の人口は31世帯・59人となっている。 |
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左 昭和46年頃 瀬戸内町役場庁舎。古仁屋大火後の昭和35年に造られたモダンな建物。平成元年に新庁舎が完成し移転した(跡地には、古仁屋郵便局が建てられている)。 [提供]瀬戸内町 右 昨年の8月7日に撮影。瀬戸内町みなと祭りが行なわれる日で、八月踊りの開始直前。 |
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今日、世界の人口が70億人を突破したそうだ。 →は、一昨日食べたクジラの煮込み料理。先日の与路島祭りで知り合った古仁屋のnaoさんと、屋仁川で一杯。いや三杯ほど(笑)。 |
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道の島バスの本社を10時51分に出る古仁屋行きのバスに乗り、西仲間へ。西仲間で11時22分発の市行きのバスに乗り換えて、終点の市と手前の戸玉の間にある峠で下ろしてもらう。 |
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←中央に浮かぶのがトビラ島。右が市集落。 「奄美の伝説・日本の伝説23/島尾 敏雄・島尾 ミホ・田畑 英勝」(角川書店)から。 |
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奄美大島というのは、よく岩やら島が流れて来たらしく、他にも色々と伝説が残っています(*´д`*)。昨日行った宇検村にも流れ島伝説がある。 昔、琉球王がオランダ王(一説には大和朝廷)にハブを贈ったとき、大島海峡でその船が遭難し、ハブを入れたかめが枝手久のオキというところに打ち上げられて、そこから大島、徳之島に広がったのだといわれている。 枝手久と宇検の間に小さな小島がはさまっているが、これもまた流れ島で、宇検ノロより久志ノロの力が強く、久志ノロが招いたら現在のところまで来て止まったという。 ノロ神の神力は流れる島をも止めることができると信じて疑わなかったから、このような話の類型が飽きることなく語り伝えられたのであった。島で鯨を捕獲することがあったが、その場合でも人々はどこそこのノロの印判(所有権を標示する)が押されていると語り、その分配も、当然ノロの手によってなされるべきものだと信じて疑わなかった。 (ケンムンの嫁入り)より |
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トビラ島、住用湾、山間・戸玉集落のスナップをPhoto Albumにしました。こちら。 | ||
先日は宇検村の湯湾から、焼内湾の左側の海岸沿いにある佐念集落に行ったので、今日は右側。終点の宇検集落の一つ手前にある、久志集落に行って来ました。 | ||
←↑放し飼いの鶏が道を横切って行く、のどかな久志集落。かつてここに無我利道場というヒッピーのコミューンがあった。 無我利道場を開いた山田塊也氏のホームページがありました。ご本人は、昨年の4月28日に亡くなられたようです。 wikipediaにもあるように、宇検村で2006年に放射性廃棄物最終処分場の誘致がされようとした。反対意見多数で誘致は断念されたが、奄美と原発について山田塊也氏のサイトの麻声民語に興味深いコラムがいくつか載っている。 |
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無我利道場について、wikipediaから 1973年に東亜燃料工業(現東燃ゼネラル石油)が村内の焼内湾にある技手久島に石油備蓄基地建設を計画したことに端を発し、反対派住民の招きによって、当時鹿児島県トカラ列島諏訪之瀬島にコミューンを築いていたヒッピーである山田塊也らが宇検村に移住し、反対運動を展開した。その後、1984年10月には建設計画は撤回されたが、入植者グループは村内の久志集落に定住し、コミューンを「無我利道場」と名付け共同生活を営んでいた。1987年頃から入植者グループの子供達が地元の小学校に登校することを止めたことなどから地元住民との関係が悪化しはじめ、村議をはじめとする村の有力者によって「無我利道場解体村民会」が結成された。 1988年8月に東京の右翼団体松魂塾の代表者が無我利道場の母屋の所有権を取得し、街宣車で入植者グループの追い出しを図り始めた。(1990年1月にはこの街宣活動について軽犯罪法違反で構成員5名が逮捕された。)、同年10月30日松魂塾の構成員がダンプカーで無我利道場に突入し母屋を破壊、入植者1名に重傷を負わせる。(建造物損壊罪、傷害罪で5名が逮捕された。) 1989年9月「無我利道場」の共同生活は解散し、各世帯での生活を始めたが、その後も追放運動が続けられ たため、1990年7月には入植者グループが追放派の住民に損害賠償を求める訴えを提起した。一方、1991年11月には追放派の住民らが「平穏に生活する権利を侵害されている」として入植者グループに損害賠償を求める訴えを提起した。1993年11月17日、鹿児島地方裁判所名瀬支部において入植者グループと地元住民との和解が成立し、入植者グループが地元社会との相互理解に努力すること、地元住民が追放運動を停止することなどが合意された。 さほど多くもない村民が「入植者グループ」「追放派」「追放運動拒否派」に分かれ、また右翼団体や人権運動家らの島外者も入り乱れ、村内に大きな禍根を残した事件である。事件を取材したノンフィクション作品に 「漂流者たちの楽園」(横田一)朝日新聞社(1991)がある。 |
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↑奄美大島で最大の無人島、枝手久島。ハブ発祥の地でもある。 イザトゥバナレの恵み また、枝手久島は死者たちの島でもあったそうです。阿室側の海岸の洞窟が、風葬に使われた場所だとされ、瀬戸内町の与路島の人達が、死者を板付け舟で運んだと言わている。 久志集落と枝手久島のスナップをPhoto Albumにしました。こちら。 |
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昨日は午後から雨が降りましたが、今日は朝から晴天。龍郷方面に出かける。 |
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↑西郷さんが島妻・愛加那と暮らした家。 | ↑外観は当時のままらしいが、中は改装されている。 | ↑円集落の、かがんばなトンネル。 |
↑安木屋場集落を少し中に入って、蘇鉄の山を撮りに行ったら手前に大きなガジュマルの樹。なんだか巨大な盆栽のような趣き。 ←安木屋場の海岸から見た夕焼け。 17時27分に安木屋場を出発する芦花部経由のバスで名瀬に戻る。 本日のスナップは、こちら。 |
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サンゴを積み重ねたお墓、モーヤを撮影しに佐念集落へ。 10時51分に道の島バスの本社で古仁屋行きのバスに乗り、新村で湯湾行きに乗り換え。湯湾で今度は屋鈍行きのバスに乗り換えて須古、部連、名柄を通って12時31分に佐念に到着。 帰りのバスの時間は、乗って来たバスが屋鈍まで行って引き返して来る13時55分で、これが名瀬まで帰れる最終便だ(汗)。片道1時間40分、滞在時間1時間24分。 集落の中を少し歩いて、モーヤのある場所を教えてもらう。教えられた集落の外れに墓地があり、案内板が立っていた。 |
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墓地の入口に立てられた案内板から。 |
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「なぎ物語/焼内湾・奄美大島」(宇検村振興育英財団)にも、モーヤについての記述がある。 宇検村の指定文化財の1つに佐念モーヤがあります。モーヤは死んだ人を葬る墓地の名称です。ナバイシといわれるテーブルサンゴを積み重ね、空洞を作ってその中に人骨を納めています。いつの時代からの風習か判明はしませんが、海と向かい合って生きてきた島の人たちの信仰が秘められているように感じます。 |
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モーヤを撮影した後、バスが来るまで集落の中をグルグルと散歩。海岸沿いを歩いて隣りの集落まで歩く時間はない。 佐念集落でのスナップをPhoto Albumにしました。こちら。 |
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予報によるとしばらく天気の良さそうな日が続きそうなので、久しぶりに一週間バス乗り放題のチケット5000円を購入。 |
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与路島に着いて、祭りの行なわれる集落の公民館へ。途中、墓地の横に柱と屋根だけの建物があり、アシャゲだろうかと思いましたが、区長さんにお聞きしたところ待機所だそうです。 与路島でもノロの祭祀は行なわれていたようで、港の横にクモディ(雲瀬)の碑文が建っていました。それによるとクモディ(雲瀬)という大きな岩があり、昔は神のオムクェやオホリの時にクモディ(雲瀬)に大勢のカミニンジョ(神人)が登り送迎の祭祀が行なわれたそうです。集落の人に聞いたところ、カミミチとされる道も残っているそうです。 公民館では島唄や踊りのイベントが行なわれていたようですが、ひたすら集落の中を散歩して歩く。珊瑚の石垣に囲まれた家々が並ぶ集落から、集落を見渡せる山へ、そして海岸へと久しぶりにたっぷりと歩いた。 少し歩き疲れて集会所へ。イベントもそろそろ終わりの頃だったのか、六調。そして外へ出て、土俵の周りで八月踊りを踊ってから万歳三唱で締めとなりました。 |
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↓散歩中にお茶に誘ってくれたおばあさんが、集落の入口に立って手を振ってくれている。→明るい笑顔でチヂンを叩いて、フェリーのお見送り。 | ||
船の時間が近づき、港の方へ。海岸のアダン林の中に、集落を散歩していた時に会ったおばあさんがショッピングカートを椅子代わりにして座っている。船が出ると大きく手を振っている。船が岸壁を離れると集落の入口にたって、白い布を大きく振って見送ってくれている。 島の人達の持て成しは、このお見送りの時を見ていても驚くほどに熱く厚い。ヤマトンチュには想像してみることしかできないが、それは小さな島で暮らす寂しさの裏表からくるものなのだろうか。 散歩している時に、おばあさんから家は直ぐそこだからお茶でも飲んでいきなさいと誘ってもらったのに、遠慮してしまった。もし機会があったら、今度はお茶を一杯ごちそうになろう。 |
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↓請島の蘇鉄が密集した山に、ポツンと白い点。野ヤギだ(*´д`*)。→古仁屋港からの夕暮れ。 | ||
フェリーせとなみは来た航路を辿って古仁屋へ。途中、請島の山にポツンといる野ヤギを発見。池地港では、色んな荷物と一緒に山羊を積んだ。それにしても裏側から見る加計呂麻島の大きいこと。 |
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午前中に大きな雷鳴が2回ほど。かなり近くに落ちたようで、部屋のブレーカーは大丈夫でしたが、ビルのブレーカーが落ちて一時断水になりました。 昨日はアマミノクロウサギに会えなかったので、今日もさばくりにんさんとリベンジ。ちょっと早めに名瀬を出発して大和村の方へ向かう。 |
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途中、大浜海岸と国直の間の峠道で美しい夕暮れに遭遇。しばらく峠で夕焼けを撮影した後、国直の海岸に寄って日が暮れていくのを眺める。 ←↓国直の海岸にて。 |
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お天気は降ったり止んだり。アマミハナサキガエルは、たくさんピョンピョン跳ねている。昨日は見つけられなかったオットンガエルに遭遇し、ようやく撮影できました。 昨日撮影したヒャンとハブは、見つけた時には既に亡くなっていたのですが、今日は生きたままのヒャンとハブに遭遇し、撮影できました。ハブは最近生まれたようなヒメハブ?の赤ちゃんと、わりと大物の2匹。もちろん捕獲したのはさばくりにんさんです。 捕獲したハブを箱に入れて後部座席に置いて役場に持って行きましたが、緊張しますね。専用の箱に入っているとは言え、ハブが自分の直ぐ後ろにいるかと思うと落ち着きません(汗)。 今日は5時半頃に名瀬を出て、10時半過ぎに自宅に戻る。5時間ほどの奄美の夜の森探検でしたが、クロウサギには会えず。 |
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↑アマミアオガエル。まだ子供かな? | ↑たぶんヒメハブの赤ちゃん。小さくても、近づくと鎌首をあげます。 | ↑初めて撮影した、オットンガエル。大きめなカエルです。 |
○ハブの捕獲の様子です。 1、ハブを発見。車に積んであるハブ棒で捕獲。 2、ハブ箱に入れます。 3、役場に持って行き、ハブを取り出します。 4、役場のハブ小屋に入れます。 5、ハブ小屋の中には、今日捕獲されたハブがニョロニョロ。 6、役場でハブ買上票を貰います。今、ハブは一匹4000円です。 |
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キレイな夕暮れからハブ捕獲まで、奄美の夜の森探検をPhoto Albumにしました。こちら。 | ||
昨年奄美大島を襲った豪雨災害から、今日で一年。市役所から防災無線で黙祷が呼びかけられ、午後2時にサイレンが鳴らされた。 百年に一度の豪雨と言われた昨年の雨だが、一年も経たない先月末に奄美北部を豪雨が襲い、また大きな被害をもたらした。 |
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22日に返却期限が迫った本が3冊。明日からお天気は下り坂だと言うので、晴れている今日のうちに27日返却期限の2冊と合わせて図書館へ持って行き、貸し出し期限の延長手続き。 ←サイレンが鳴らされた直後の名瀬は晴天でしたが、その後曇ったり、雨が降ったりの気まぐれなお天気。 |
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帰りがけスーパーで買物。4パック1000円になっていた精肉コーナーであれこれ買って店を出たらにわか雨。小雨になるまで暫く待って帰宅。 奄美の夜の森の生き物たちの写真を、Photo Albumにしました。こちら。カエルとヘビの写真が多いので、苦手な人はスルーして下さい。 |
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写真家・常田守さんに案内していただいて栄さんご家族、田中さん、小辻さんと一緒に蟹の観察会。朝9時に佐大熊に集合して、手花部集落へ向かう。 途中、中勝集落入口でアコウとガジュマルの樹に寄生されたリュウキュウマツを見たり、手花部の手前でシイノキカズラやマダラコオロギを観察。 |
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←←アコウとガジュマルの樹に寄生された、リュウキュウマツ。木の上部では、ガジュマルの葉も繁っている。 ←シイノキカズラ。丸いのは種子が入った鞘? ↓マダラコオロギ。コオロギという名前が付いていますが、マツムシの仲間だそうです。 |
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手花部集落に到着して、まずはマングローグの中で蟹を観察。その後、一度赤木名にあるラーメン屋さんで昼食を食べてから、干潟で蟹の観察。棲み分けが出来ているのか、マングローブと干潟、干潟でも部分部分で生息している蟹の種類が違うようです。 蟹観察の様子をPhoto Albumにしました。こちら。 |
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一度部屋に戻って休んでから、屋仁川へ。 昨日のSetting Sun Sound Festivalを観にわざわざ奄美にいらしたマイミクのpikkoroさんと、そのお友達3名の方々と一緒に居酒屋で一杯。 昨日はコンサート、今日は朝からマングローブパークでカヌーを漕いだり、三太郎祭りを見学した後、Live houseアシビで後夜祭を楽しんだそうです。 飲み放題のコースにしたので、私は生ビールの後、高倉、緋寒桜、加那のロック。 |
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↑お店の前で記念写真。色々お土産いただいて、ありがとうございました。是非次は加計呂麻島にも、行ってみて下さい(*´д`*)。 | ||
昨日、一昨日の2日間かけてスポンジに洗剤をつけて部屋の床掃除。これで裸足で歩いても足の裏がネチャネチャせず、真っ黒になることもなくなった。快適(*´д`*)。 今日は朝から雨。外付けのハード・ディスクにバックアップしていなかった撮影データを移す。 大浜海岸で開催するはずだったSetting Sun Sound Festivalは、急遽、三儀山の名瀬総合体育館に変更になったようだ。 |
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左 昭和30年 名瀬市塩浜。中央はハシケの着く名瀬港突堤。湾奥は名瀬市中心街。付近一帯は昭和40年代に埋め立てられ、現在名瀬新港や国の合同庁舎、住宅等が建ち並んでいる。 [提供]柳田栄次(鹿児島市) 右 埋め立てによって造られた長浜町の合同庁舎近くから、今月の10日に撮影。左の写真と比べてみると、手前に写っているほとんどの場所が埋め立て地だとわかる。 |
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左 昭和56年頃 埋立以前の名瀬市の小宿海岸。手前は小宿大川。昭和59年に地先水面の埋立事業が完成し、人口3千人を越す住宅街(浜里町、平松町)が出現した。 [提供]平 三國(名瀬市) 右 集合住宅が建ち並ぶ浜里町。中央が小宿大川かな?昨年の7月24日に撮影。左の写真の右上に少し見える道路は、大浜海岸へ向かう山道だろうか。 |
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左 昭和30年代 県道名瀬瀬戸内線(現・国道58号)の和瀬峠(名瀬市と住用村境)付近。谷添いの悪路をボンネットバスが進む。 [提供]鹿児島県 |
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左 終戦直後の大和村戸円。手前が当時の主要道路。茅葺きの民家、木造の学校などが見える。 [提供]塚元重吉(鹿児島市) |
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左 昭和46年 大和村大和浜の群倉 ボレクラ(高倉群)。現在、道路は県道名瀬瀬戸内線として整備されており、その横に群倉を見ることができる。高倉は群島全域で見られ、穀物等を湿気やネズミなどから防ぐ構造となっている。 [提供]榎 安男(名瀬市) 中・右 昨年の12月27日に撮影。 |
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バート・ヤンシュが今月5日に亡くなった。享年67歳。 1995年から96年に英国フォークの重鎮が相次いで来日し、新宿ロフトでライヴを行った。 95年5月にマーティン・カーシ&デイヴ・スウォーブリック、6月にフェアポート・コンヴェンション。96年になってからは、7月にジョン・レンボーン&ジャッキー・マクシーとウイズ・ジョーンズ、10月にバート・ヤンシュ、スティーヴ・ティルストン&マギー・ボイル。 この流れとは別に、97年5月にはドノバンが来日して渋谷クワトロでライヴをしている。 それまで英国フォークは門外漢だったけれど、この怒濤の来日を撮影することで聴く音楽が広がったのは確かで、この頃に買ったもので今でも愛聴しているCDが何枚もある。 カメラマンになっていなかったら、これほど様々な音楽を知ることはなかっただろうし、聴くこともなかったと思う。 |
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←96年10月に来日した時の、バート・ヤンシュ。10月26日の新宿ロフトでのライヴと、(確か)近くの喫茶店でのインタヴュー・カット。 You Tubeから3曲 Bert Jansch「Black Waterside」 Pentangle「Will the Circle Be Unbroken」 Bert Jansch and John Renbourn「Pentangle Reformed Cambridge 2011」
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明日おでんを作るためのゆで卵と、大根の下茹では完了。今季初のおでん。 | ||
朝起きたときは曇り空だったのに、昼頃に土砂降りの雨が降りだした。う〜ん、こりゃダメだ。今日も一日部屋の中か?と覚悟をしていたら、午後になって天気は回復。あれよあれよと言う間に、気持よい青空。 カメラを入れたバックを持って、自転車で少しだけ遠出。朝仁、小宿、里、知名瀬、根瀬部へ。小宿で中孝介バスを発見。カサリンチュの絵が描かれたカサリンチュバスは見たことあるが、中孝介バスは初めて見た。道の島バス、他にも色んなバスが走っています。 根瀬部の海岸、海は雨が降った後なので少し濁ってましたが、空は夏の青。天気が良いと、奄美はまだ夏ですね。じわりと汗が滲みます。海水に少し足を浸けたら、さすがに冷たかったけど。 |
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↑根瀬部の海岸にて。→知名瀬にて。↓本日のスナップをPhoto Albumにしました。こちら。 | ||
帰りは根瀬部、知名瀬、里、小宿、朝仁と戻り、長浜に出て名瀬港に沿って小浜のダイエーへ。久しぶりにダイエーで買物をして帰宅。 | ||
昨日の夜から激しく降った雨も昼前には止んで、午後からは曇り。奄美大島の南にある沖永良部島では1時間に102ミリの雨が降り、和泊町で床上浸水10棟、床下浸水44棟、知名町で床下浸水1棟の被害。 奄美群島日本復帰40周年記念写真集「満天の星のごとく・・・」から、奄美群島の日本復帰に関わりのある写真をピックアップしてみた。 |
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左 昭和28年4月 第17回祖国復帰郡民大会。泉芳朗復帰協議会議長ほか各種団体の代表が高千穂神社で断食を行った。断食は昭和26年8月に初めて行われ、その後も非暴力による祖国復帰運動の象徴として各地で実施された。 [提供]吉良一良(名瀬市) 右 今年の元旦。初詣で賑わう高千穂神社 |
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上 昭和28年8月。ダレス声明に歓喜。屋根に上り祝賀飛行機に日の丸を打ち振る。 [提供]吉良一良(名瀬市) かなり多くの人が屋根にのぼって長い竿に付けた日の丸を振っている。名瀬の山は、かなり耕され、段々畑だったようだ。1365棟を焼いた昭和30年12月の名瀬の大火の前は、このような街並だったのだろう。 右 昨年12月25日、奄美小学校の体育館で行われた「日本復帰記念の日の集い」 |
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上 昭和40年5月 名瀬市おがみ山での復帰記念碑の落成式。現在、同じ敷地に、「復帰の父」と称される泉芳朗氏の胸像、「断食悲願」の詩碑が建立されている。 [提供]丹羽写真機店(名瀬市) 下 昨年7月21日、おがみ山にて撮影。復帰記念碑、泉芳朗胸像、「断食悲願」の詩碑 |
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左 昭和27年3月 奄美群島政府の正門前で、工務部公益事業課の職員一同。後ろの建物は昭和37年に建て替えられるまで県大島支庁の庁舎として使われた。 [提供]有馬三男(名瀬市) |
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サバイバルの時代に突入したようだ。 予備検査で、国の暫定基準値と同じ値の放射性セシウムが一部で検出されて話題になった福島県二本松の米だが、本検査の初回分では放射能物質は検出されなかったそうだ。どういうマジックだろうか。 今月になって、原発から半径20〜30キロ圏内に設定された「緊急時避難準備区域」が解除された。これから避難住民の帰還に向けて除染を始めると言う。??順序が逆じゃないだろうか。除染が終ってから解除でしょ。 涼しい秋になって少しトーンダウンしたが、これから寒い冬に向かってまた徐々に「電気が足りない」の声が上がってきそうだ。しかし、足りない足りないと電力会社、マスコミが大騒ぎしたこの夏は、本当に電力使用制限令を発動してまで15%の節電を義務づける必要があったのか? 放射線のもの凄く高い地域、高い地域、それ程高くない地域(もう既に低い地域はないように思う。ちなみにツイッターの情報では名瀬で0.07〜0.09マイクロシーベルト。湯湾岳で0.1マイクロシーベルト程という数値を見た)。今は3段階くらいあるが、今後はもの凄く高い地域と、高い地域の2つになるのではないだろうか。 以前、生活保護を打ち切られた男性が餓死をしたニュースをテレビで見た。その男性の部屋にはテレビもあり、最新式ではないにしろ家電製品が揃っていたように思う。 You Tubeから映像を2つ。『ドイツZDFテレビ「福島原発労働者の実態」』『特命リサーチ200X 忍び寄る放射線の恐怖!』 福島第一原発事故に関するリンクを集めたポータルサイト http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html |
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昨日買いそびれた黒糖焼酎を買いに、ニシムタへ。今回は古田町にある(株)西平本家の八千代30度。その後、スーパー2軒、八百屋1軒まわって食材を調達。 晩ご飯は、ソデイカの刺身、厚揚げ焼き、アブラガレイのバジルオイル焼き、味噌汁とご飯。 |
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↑靄?霞?なんだか一日中白っぽかった名瀬の街並。 | ↑ポンキツ、喜界島みかん、早生みかん。柑橘類が店頭に並び出した。写真は甘酸っぱくて種の多い、ポンキツ。 | |
→西平本家の八千代30度。これで黒糖焼酎の遍歴は里の曙→れんと→ろくちょう→里の曙 瑞祥→喜界島→緋寒桜→奄美の杜→島のナポレオン→龍宮→じょうご 卯ラベル→瀬戸の灘→あじゃ30度→ |
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昨日図書館で、一昨日行われた今井大権現祭を取り上げた地元の新聞記事を書き写して来たので、祭祀の意味の補足に。 | ||
奄美新聞から 南海日日新聞から →「ユタのノート」から。陰月神と太陽神。 |
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↓も「ユタのノート」から。山下欣一さんの解説に「阿世知照信さんは、日常生活において、自分のイメージが沸き上がってくると、すぐに文章にしたり、絵に描いたりしてノートに控えている。阿世知さんの家の神殿にしている二階の六畳の部屋のふすまにも大きな絵が描かれている。この阿世知さんのノートを、そのまま参考資料として提示してみることにする」とある。 左は、安木屋場集落の今井大権現にかかわる場所を記した絵地図だと思われる。右上は、海岸の岩上での祈願の様子だろう。右下の絵には、神世代から伝る文字彫祭祀の劔と書かれている。先日の今井大権現祭で、岩の上に供えられていた三本の劔のことだろうか。 |
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昨日借りて来た「南島雑話の世界 名越左源太の見た幕末の奄美/取材・執筆 名越 護」(南日本新聞社)にも、ユタに関する記述がある。 ユタとは、奄美諸島や沖縄諸島、先島諸島(八重山・宮古)の巫女(フジョ)のことである。なかには男性ユタもいる。いまも「ものしり」として奄美では、一部庶民の間で支持されている民間信仰の一つだ。 |
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『鹿児島大百科事典』によると、ユタになるには、まず本人が病気(巫病)になることから始まる。この病気を別のユタが、「神を拝め」という神からの知らせである、と判断すると、一定の儀式を行うことになる。ユタになるには、このような巫病の発現から成巫式への階段を順序よく行っていく。 成巫式を指導するのは親ユタで、親ユタの指示に従って高膳を前にススキの束を手にして神ががりになる。神がかりというのは、精神状態が一種の高揚を示して神の声を聞いたりすることをいう。 成巫式を無事に終了したユタのなかで、霊力の高いユタには、人々が卜占(ボクセン)の依頼、口寄せなどの依頼に訪れる。 |
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↑名越左源太が描いたユタ。 |
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昨日、アップルの創業者でCEOのスティーブ・ジョブズ氏が亡くなったとテレビのニュースが伝える。アップル社のホームページのトップ画面にはジョブズ氏の写真が掲げられ、Steve Jobs 1955-2011の文字。 図書館へ行き、読み終わった2冊を返却し、新たに2冊借りて来た。「ユタのノート/阿世知照信記」「南島雑話の世界 名越左源太の見た幕末の奄美/取材・執筆 名越 護」(南日本新聞社)。 |
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↑他の企業で、CEOが亡くなって、このようなトップ画面が作れるだろうか。→今日借りてきた本。 | ||
図書館の2階で本を探し、1階の新聞コーナーで記事を書き写していたら、だいぶ外が暗くなった。新しい焼酎を買い、食材を買って帰ろうと思っていたが面倒臭くなって図書館近くのたこ焼き屋さんで15個入り250円のたこ焼きを2パック購入。 そう言えば、このお店でたこ焼きを買うのは3.11の震災の日以来か。 たこ焼き30個が、晩ご飯。またしても粉モンばかり・・・orz。 |
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今日は旧暦のクガツクンチ(9月9日)。加計呂麻島の諸鈍集落では諸鈍シバヤ、同じく加計呂麻島の実久集落では実久三次郎祭りが開催される。 さて、朝4時半頃に起きて色々と準備。7時ちょっと前にさばくりにんさんに迎えに来てもらって、安木屋場へ向かう。浦上から大勝、浦を通り、龍郷湾沿いに走るルートで安木屋場へ。少し早く着いたので、集落の上にある今井神社の入口まで車で連れて行ってもらう。歩くとちょっと大変だ。 *ユタは、沖縄県と鹿児島県奄美群島の民間霊媒師(シャーマン)であり、霊的問題のアドバイス、解決を生業とする。Wikipediaから。詳細はこちらで。 |
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←↑海岸の岩の上に祭壇のような物が作られ、お供え物が飾られる。沖にある大きな岩は、安木屋場集落の立神。防波堤で海岸と繋がっている立神は珍しいかもしれない。 |
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*儀式の様子をPhoto Albumにしました。こちら。 | ||
儀式の終った海岸を撮影し、集落を少し散歩してからバスで名瀬に帰る。来るときは大勝、浦ルートだったので、帰りは芦花部、大熊ルートのバスに乗る。 朝起きたときは雨が降っていたが、今井大権現祭が始まる頃には止んで来た。そして午後になって、また降ったり止んだりの天気。 雨天の場合、大屯神社ではなく体育館で行われるという諸鈍シバヤですが、無事に神社で開催されたようです。 ところで大屯神社は源平の戦いに敗れて落ちのびて来た平 資盛を祀った神社で、諸鈍シバヤも平 資盛の一行が土地の人々との交流を深めるために伝えたのが始まりとされる。 同じ日に実久集落で催される実久三次郎祭りだが、実久三次郎は鎮西八郎為朝の子供です。そして鎮西八郎為朝とは、源 為朝のこと。加計呂麻島という一つの島で、同じ日に平家ゆかりの祭りと、源氏ゆかりの祭りが行われるということに興味を覚えます。 また諸鈍集落のある島の東方を昔は鎮西村、実久集落のある西方を実久村と呼んでいました。加計呂麻島の集落を散歩していて感じたのは、旧実久村と言われる西方にはノロのアシャゲ、トネヤなどが残っている集落が多いですが、東方の鎮西村にはあまり残っていないようです。これが個人的には、ちょっと不思議。 |
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奄美群島日本復帰40周年記念写真集「満天の星のごとく・・・」に掲載されている写真と、昨年6月に奄美に来てから自分で撮影した写真を並べてみました。 | ||
左 昭和20年代 おがみ山からみた名瀬市街地。その後、塩浜(昭和41年)、佐大熊(同44年)、長浜(同45年)等の地先は埋め立てられ住宅や商店街になっている。[提供]金森 正(名瀬市) |
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左 昭和32年頃 昭和30年9月に開校した名瀬市立金久中学校。市街地を取り囲む山々には段々畑が連なっていた。現在では、同校前の海岸は埋め立てられ、校庭や名瀬新港等になっている。当時斬新なデザインの円形校舎は話題を呼んだ。(昭和33年 第2回卒業アルバム)から。 右 写真中央より左に円形校舎が見える。昨年6月24日の撮影。この円形校舎は、今年の春に解体された。もっとちゃんと撮っておけばよかった・・・orz。後ろの山が昔は段々畑だった面影は全然ない。左の写真の円形校舎前のグランドに、新しい校舎が建てられ(この校舎も一部今年建て替えられた)、海は埋め立てられて新港のフェリー乗り場がある。ちなみに写真の海側から見た現在の金久中学はこちら。 |
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上 昭和30年12月 名瀬大火後の市街地。10月に118棟、2ヶ月後に1365棟焼失の大火が発生した。[提供]原田 親治(鹿児島市) |
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昼はナスと豚肉のパスタ、夜はお好み焼きとうどん。粉モンばかりの一日(;´Д`)。 |
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午後から、昨日閉まっていた図書館へ。読み終わった3冊を返却し、新たに5冊借りる。うち1冊は以前借りたが、読み切れずに一度返したもの。 |
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↑再発行してもらった利用カード。デザインが変わりましたね。 ←しばらく天気が悪そうなので、5冊まとめて借りて来た。返却期限は、10月22日。 |
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図書館からの帰り、おがみ山への入口の横を通ると、猫ねこネコ。子猫も何匹か。名瀬はホントに、猫多いな〜。 昔は名瀬にも野山羊がたくさんいたらしいが、残念ながらまだ見た事がない。 |
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秋晴れの気持よい天気なので、一旦部屋に借りて来た本を置いて、ちょっぴりサイクリング。名瀬港をグルッとまわる感じで山羊島、大熊へ。大熊から浦上、有屋とぶらぶらして田中一村終焉の家を見て戻ってきた。 帰りがけに総菜屋さんで、肉団子5個、メンチカツ3個購入。 |
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↑山羊島。シーサイドホテルは解体されて、更地になっていました。 ↓本日のスナップをPhoto Albumにしました。こちら。 |
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先週の日曜日は中学校の運動会でしたが、明日は市内の小学校の運動会のようです。今日は自転車で奄美小学校、朝日小学校、伊津部小学校の前を通りましたが、グランドにはテントが設営され、旗が飾られていました。 名瀬のお母さん方は、明日の朝はお弁当作りが大変そうです(*´д`*)。 |
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