HOME TOP  
バックナンバー
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能
◯製作中の富山の祭りと芸能歴史年表
2010~2014 Photo Diary
奄美・沖縄撮影リスト

2022年カレンダー

3月9日(水)午前10時〜ミュゼふくおかカメラ館
4月2日(土)午前10時〜10時30分 サンエール
4月21日(木) ホテルニューオータニ高岡 高岡ロータリークラブ 12時30分〜

◯射水市三ヶの十社大神 御田植祭
◯7年に1度、10月に開催 次は2022年 朝日町山崎 米吊り奉納
◯加茂神社 出雲へ神を送る神送祭 9月30日と10月31日?
◯5年に一度、若手神職でつくる県神道青年会が御田植祭
◯33年に一度 庄川の神賑わい 次回は2023年7月

2022年8月22日〜8月27日 式年遷宮祭

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事
富山の祭り
築山行事
とやまの曳山”世界の宝”を守り続ける
*砺波の獅子舞 各地区の日程
年中行事覚書 柳田国男
田の神祭りに見る日本人の神意識
山の民の祈り
立山に生きる村ー宗教集落芦峅寺のくらし
立山信仰史における芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅
五箇山の獅子舞の起源
道祖神
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
◯富山県 新型コロナウイルス感染症について 
http://www.pref.toyama.jp/cms_sec/1205/kj00021629.html?fbclid=IwAR1Z5J0FxdUdIrb0KWEPHX-VTzevMn1SYkafoJbL0IrfRBBnTG5k0vO_t1U
◯都内の最新感染動向 https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/
◯山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信 https://www.covid19-yamanaka.com/index.html
◯新型コロナウイルス感染速報 https://covid-2019.live/
◯ 福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
◯DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
◯HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
◯独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
◯小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
◯やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
◯辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
◯チョ 10イさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
◯沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

メディア関連
木原盛夫写真展「とやま、祭り彩時季」ミュゼふくおかカメラ館
富山の祭り写真集に 福岡町の木原さん 北日本新聞
木原盛夫 写真展「とやま、祭り彩時季」 たかおかストリート
カメラ館で木原盛夫展 高岡ケーブルテレビ
写真で巡る富山の祭り 木原盛男写真展 高岡ケーブルテレビ
歴史ある寺社・文化紹介 高岡御旅屋セリオで木原さん写真展 北日本新聞
高岡の文化伝える写真 御旅屋セリオ 木原さんが個展 中日新聞
高岡まちなかギャラリー - 御旅屋セリオ
祭りの写真で地域を学ぶ 高岡・福岡の寺子屋サロン
祭りの雰囲気 写真で感じて 中止相次ぐ中 福岡の木原さん展示 中日新聞
木原盛夫さん写真展 県内の祭りなど題材に 北日本放送
富山の祭りを写真で紹介 木原盛夫写真展 朝日新聞
県内の祭礼や伝統行事写す 木原さんが写真集寄贈 北日本新聞
木原さん、祭りの写真集を寄贈 高岡ケーブルテレビ
2020年9月18日OA分 いいねとやま#219 チューリップテレビ

ブログなど
木原盛夫写真展「とやま、祭り彩時季」 ゆきれぽ
今年のお祭りは 写真展で・・・・・・ yoshijunのブログ
たかのたわごと 新川神社のブログ
200814木原盛男写真展高岡彩時季御旅屋セリオ5階3 42
200805ミュゼ福岡カメラ館とやまの祭り木原盛男写真展6 26
ミュゼふくおかカメラ館(富山県高岡市)の木原盛夫 写真展 『とやま、祭り彩時季』(~9/27)
祭りの色彩に思いをはせて  タビノイロドリ
カメラ館 フクチアンの日記
ミュゼふくおかカメラ館「とやま、祭り彩時季」へ とやまおでかけ日記

3月29日(火)

 自分から自分への誕生日プレゼントというわけではないが、土曜日の夜に落札したiPodが今日の午前中に届いた。これまで使っていたiPodは容量が30GBしかなく、せっかく家にあるCDのほとんどを最近iTunesに取り込んだのに容量が足りなくて移しきれない。今回落札したiPodは容量120GBで、iMacを接続して同期させたところ全ての曲を収録して、なお50GBほど空きがある。商品説明では通電と初期化操作まで確認してあり、その他の動作は未確認の状態だったのでiTunesと同期しなかったりしたらどうしようと不安だったが大丈夫そうだ。落札価格は4,300円だったが200円の割引クーポンがあったので、4,100円。これに送料が700円。
iPod01
iPod02
 これでiMacのiTunes、そしてiPodでも家にあるCDの曲を簡単にいつでも聴ける状態になった。早速、今月ヤフオクで500円(送料は1,040円)で落札したiPod用ドック付きのスピーカー、JBL on timeに接続してアーニー・ディフランコの『Reckoning』を鳴らしてみた。低音がよく鳴り、柔らかくて丸い音がする。

 昨年から取りかかっていた奄美・沖縄4年間の撮影データの再現像は今年の2月10日に完了し、その後、奄美・沖縄で撮影した写真を直ぐに探せるようインデックスを作った。これで早ければ1〜2分、長くても30分あれば大体の写真を探し出せるようになった。
 また作業が中断していた富山の祭りや芸能の写真、少しだけれど岐阜や石川の祭りの撮影インデックスも完成したので、こちらも目的の写真が直ぐに見つかるはず。
 写真関係の作業に続いて物置の棚に散らばっていたCDのほとんどを、iMacのiTunesに取り込んだが、ついでにCD自体をきちんと仕分けして棚に並べた。国内アーティストはあいうえお順に、海外アーティストは地域やジャンルで仕分けた。そして地域やジャンルで括れないアーティストはアルファベット順に並べた。家にあるCDは1,000枚もないので、ちょっと頑張れば整理ができるけれど、何千、何万とCDを持っている人は大変だと思う。
 昔、渋谷で知り合いの音楽評論家の方とばったり会った。これから大型のCDショップへ資料にするCDを買いに行くという。そのCDが家にあるのはわかっているが探し出す時間より、買いに行く時間の方が圧倒的に早いので買い直すという。「一定の量を超えたら、持っていないのと同じです」という言葉が印象に残っている。

 今日で62歳。Facebookの方にお祝いのメッセージを色々といただきありがとうございました。鶴ひろみさんもECDも、今日で62歳。近所に住んでいる同級生の山田君も62歳だ。

 昨日の南海日日新聞に、奄美市の根瀬部と大和村の国直を結ぶ宮古崎トンネルが開通したという記事が載っていて驚いた。根瀬部は奄美市の中では一番西にある集落で、長い長い山道を上って下りたら大和村の国直集落に着く。
 名瀬に住んでいた2年間で一番自転車で遊びに行ったのは直ぐ近くにある朝仁海岸で、大型スーパーもあったので毎日のように通っていた。その次は大熊漁港で、ここは名瀬港をグルっとまわってシビやカツオの刺身を買いに行ったり写真を撮りに行った。その次によく行ったのは、奄美市の西端にある根瀬部だった。別に何があるわけでもなかったが、途中にある里集落と知名瀬集落を結ぶ知名瀬トンネルを使えば名瀬から平坦な道でいける日本海側の一番遠い集落で、小型の折り畳み自転車で1時間ほどだったろうか。国直の海岸もキレイで遊びに行きたかったが、根瀬部から隣りの国直の間には山があり、曲がりくねった坂道を延々と上らなくてはいけなかったので断念していた。
 もし奄美に住んでいた時に宮古崎トンネルがあったら、きっと何度か国直まで足を延ばしていただろう。下の写真は根瀬部。海岸と集落の間の道を真っ直ぐ進むと山があり、曲がりくねった道を進むと大和村の国直に出る。

根瀬部

 奄美でトンネルが開通したと思ったら、沖縄では国道58号の浦添市城間と那覇市安謝区間が8車線に拡幅されていた。国道58号は、朝夕の通勤ラッシュや日曜・祝日の行楽の際に道路が渋滞する。この8車線化で少しは渋滞が緩和するといいが。

 この他の気になった記事を備忘録として。
フリーランス、37%がコロナ前より収入減 新規案件獲得困難に
「戦争マラリア」慰霊碑が破損 悲劇を後世に、修復の寄付募る 沖縄
安保法6年、「専守防衛」は有名無実化の岐路に 高まる敵基地攻撃論、他国との軍事協力も加速
富士フイルム写真関連製品 一部価格改定のお知らせ
「故郷の風景が…」沖縄の島で100年続く共同売店がピンチ 橋ができて赤字に 存続へ試行錯誤する島民
チェルノブイリ周辺、戦闘で山火事 放射性物質の拡散懸念

3月26日(土)

 ロシアのウクライナ侵攻から1カ月余りが経った。この間にウクライナ南東部のマリウポリでは3000人以上が死亡した可能性があると報じられている。また、侵攻しているロシア軍の死者も最大で1万5000人に上るとされている。テレビに映し出される砲撃で廃墟と化した街の映像は、戦争の恐ろしさと愚かさを映し出してもいる。そして3カ月の地上戦で20万人もの命を奪った沖縄戦が、どれだけ壮絶で悲惨な戦いだったのかを改めて想像させてくれる。

 今日、3月26日は米軍が沖縄・慶良間諸島の座間味島に上陸した日。沖縄戦が実質的に開始された日だ。
 1945年3月23日に米軍は数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行い、26日に座間味島、27日は渡嘉敷島に上陸。米軍に上陸された日本軍の特攻部隊と島の住民は追い詰められて、島北端で28日に集団自決を行った。
 この沖縄戦は、慶良間諸島から沖縄本島に移り、最後は追い詰められた日本軍が本島南端の摩文仁へ撤退し、6月22日に牛島満軍事司令官と長勇参謀長が自決するまで続いた。
 約3ヶ月ほどの沖縄戦で200,666人(沖縄県援護課発表)が亡くなっている。内訳は米軍12,520人、日本軍94,136(沖縄県出身将兵28,228)人、沖縄住民 94,000人。当時の沖縄の人口は50万人ほどといわれ、この沖縄戦で島民の4人に一人が亡くなったことになる。
 沖縄では那覇市の上之屋に住んでいた。ベランダからは那覇の市街地が見渡せ、左手には新都心と呼ばれる<おもろまち>が見えた。ショッピングセンターや量販店、博物館や公園が整備された新しい街で、沖縄の歴史を知らなければ、ここの一角に嘗て米軍からシュガーローフと呼ばれた沖縄戦の激戦地があったとは想像もできないだろう。このシュガーローフの闘いでは、米軍だけでも2600人あまりが戦死したり怪我をしたとされている。
 鉄の暴風と呼ばれた沖縄戦での艦砲射撃で打ち込まれた弾薬は約20万トンで、そのうちの5%に当たる1万トンが不発弾とされる。那覇に住んでいた2年間で、何十回となく不発弾処理のニュースを見たが、2021年の記事によれば今なお1900トンあまりが残っており、すべて撤去するには今後70〜100年かかると言われている。
 今年は沖縄の日本復帰50年だが、沖縄の地にはまだまだ数えきれない遺骨と不発弾が眠っている。

国立公園となった座間味の海
 上の写真は米軍が初めて沖縄の地に上陸した座間味島の海岸。あいにく空は白く霞んでいたが、透き通った海面からは珊瑚の群落が見えた。この座間味と渡嘉敷をはじめとする慶良間諸島及び周辺の海域は2014年3月5日に、国内31番目の国立公園に指定された。その指定が中央環境審議会で了承されたのは、2013年12月24日。仲井真元沖縄県知事が、辺野古の埋め立て申請を承認する3日前だ。これが政府から沖縄への、アメとムチだと思われてもしかたないだろう。

 こちらでも23日に掲載した1992年に制作された映画『十五少女漂流記』に関わる撮影フィルムをfacebookにUPしたら、ニルヴァーナ繋がりのロシア(ウクライナ?)方面の友人から、あなたが撮影したニルヴァーナの写真をfacebookにUPして下さいとリクエストが来た。そっちの状況はニルヴァーナのライブ写真どころではないだろうと思うが、フィルムと1992年という単語に反応したのだろうか。1992年は最初で最後となったニルヴァーナの来日コンサートがあった年で、ツアー最終日2月19日の中野サンプラザでのライブを撮影している。
 音楽雑誌の仕事で撮影に行ったけれど、当時はニルヴァーナの存在も知らなかった。暗い照明の中、ボーカルのカート・コバーンがステージの上で揺れていたのを覚えている。撮影できるのは頭の3曲までで、ちゃんと写っているか心配で撮影を終えたら急いで現像所にフィルムを持って行った。今思えば早く現像所に出しても遅く出しても結果は同じなので、ライブの主催者側にお願いして撮影の後もステージを見せてもらえば良かった。いくらか席も空いていたように思う。
 彼らの音楽に魅かれるたのはカート・コバーンの死後、1996年に発売されたライブのコンピレーションアルバム『From the Muddy Banks of the Wishkah』を聴いてからで、この後から『ネヴァーマインド』『イン・ユーテロ』といったオリジナル・アルバムも聴き返している。

ニルヴァーナ01

 カートが亡くなる前年に発売された「All Apologies」はいつ聴いても切なくなり、美しい曲だなと思う。

あんたたちみたいだったらよかったのに
なんでも楽しめる人間だったら
ヘロインの隠し場所をさがす
すべて俺の過ち
どんな責めでもうけるよ
海の泡のような恥辱
冷蔵庫で日焼けをし
敵の遺灰にのどを詰まらせる
陽光の中で
俺はひとつになる
陽光の中で
俺は結婚し 埋葬される
俺たちはみんな かけがえのない存在
俺たちはみんな 何にも勝るかけがえのない存在

 YouTubeから「Nirvana/All Apologies」「All Apologies(MTV unplugged)」。

↓1992年に撮影したニルヴァーナの来日コンサートのポジ・フィルム。

 

ニルヴァーナ02

 今日は全国的に荒れた天気で、各地で春の嵐が吹き荒れた。富山県でも暴風警報が出され、電車が運転を見合わせた。高岡市の隣り、小矢部市では強風で飛び火し神社や住宅など9棟が焼ける火事があった。
 今月16日に宮城・福島で最大震度6強を観測した地震で、仙台市青葉区にある団地の大半で断水が続いているという。この団地は水道管も専用水道として民間会社が管理していたが、会社は2006年に民事再生法の適用を申請。その後も団地の水道管の管理は担っていたが、今回は「直したいが、金のかかる工事はできない」と難色を示しているという。
 この件で、水道を民間企業に委ねることの危うさが浮き彫りになった。ちなみに、富山では射水市が水道事業の民間業者への包括業務委託を2019年10月から始めている。水道管の更新などは市が継続するようだが、行き過ぎた民営化は市民生活に思わぬ不便や支障を来たす。

 この他の気になった記事を備忘録として。
沖縄でM8巨大地震の可能性 政府調査委が長期評価 与那国周辺ではM7級「30年以内に90%以上」
M7級地震90%以上「率直に怖い 小さな島で避難限られる」 住民や行政は困惑 沖縄・与那国島で30年以内の確率

 Photo Diaryを更新。
*2014年6月7日のPhoto Diaryはこちら
6月7日のスナップ。引越しの荷物
↑昨日の夕方から引っ越しのための荷造り。今日の午前中で、なんとか荷物がまとまった。
 引っ越しはネットで日通の単身パックを予約した。1x1x1.7mほどのサイズに上手く収まるだろうか。
 朝食は冷凍してあったご飯とカレーをレンジで温め、冷蔵庫に残っていた大根とニンジンと油揚げ、豆腐で味噌汁を作った。なるべく冷蔵庫の中の食材を使い切ろうと思ったが、調味料は少し捨てる事になりそうだ。
 14時頃に日通と契約している沖縄の運送会社の男性が二人、引っ越しの荷物を引き取りに来た。8階の部屋からエレベーターで荷物を運び出し、トラックの中の1x1x1.7mほどのボックスに詰めて行く。パズルのように隙間隙間に埋めて行ってもらって、なんとか無事に全部収納してもらった。上手く積んで貰ったので、自販機の冷たいお茶を買ってお礼に渡す。那覇から富山までの単身パックの運賃は56160円になった。
 心配事が一つ片付いたので、前島のスーパーへ晩ご飯の食材を買いに行く。特売になっていたクリームコロッケ3個、食パン、蕎麦の乾麺。家に帰り、冷蔵庫に残っていた麺つゆを使って、晩ご飯はざるそば。夜食にコロッケサンド。
 トイレとバスが一緒になった浴室の掃除をしてから、久しぶりに湯船にお湯をはって入る。ノートブックのiTuneで音楽を鳴らしながら、泡盛をちびりちびりと呑む。テレビはそれほど観ないが、それでもテレビがないと一日がこんなにも長いのかと思う。30歳前後のかなり長い期間(10年ほど?)、テレビのない生活をしていた。当時はパソコンもなかったから、どうして過ごしていたのかとも思うが、きっとその分本を読み、レコードを聴いていたのだと思う。
 昨日の晩からカーテンを外している。外して気付いたのは、那覇の夜の明るさだった。写真は引越しの荷物。
*2014年6月8日のPhoto Diaryはこちら
6月8日のスナップ。リサイクルショップに買い取ってもらった家財道具の明細書とお金
↑朝から曇りで肌寒い。昨日買った乾麺で、今朝はかけそばを作る。昨晩作ったゆで卵をトッピング。
 先日見積もりを取ってもらったリサイクルショップが、冷蔵庫や洗濯機を取りに来るので外を磨いたり中を拭いたり。
 コーヒーをいれて、コロッケサンドで昼ご飯を食べていると、男性二人が引き取りに来た。電子レンジも見積もりを取ってもらっていたが、昨日の引っ越し荷物で運べたので無しにしてもらった。引き取ってもらったのは、冷蔵庫2000円、洗濯機3000円、都市ガス用のコンロ500円、扇風機100円、灯油用のポリタンク50円、石油ファンヒーター0円、洗濯の物掛け50円。この他に食器や鍋、封を開けていないニガリのボトルなどをタダでいいので持って行ってもらった。
 見積もりは2つのショップに取ってもらったが、もう一つのショップは動作チェックもしないで冷蔵庫2000円、洗濯機1000円、都市ガス用コンロは−1000円だったので、今日来てもらったショップにお願いした。
 大きな荷物が無くなったので、台所まわり、そして床の掃き掃除と拭き掃除をする。これで、明日部屋を明け渡す目処がたった。
 夕方、ノートパソコンに使っているワイヤレスキーボードの単4電池が無くなったので、新都心の大型家電量販店に買いに行く。ついでに横にあるスーパーの回収ボックスへ、溜まっていた食品トレーを入れて来る。晩ご飯用に助六寿司とタマネギのかき揚げ、魚肉ソーセージ、お茶のペットボトル。先日買った時雨が残り僅かなので、久米仙30度900mlの紙パックも購入。雨の止み間に部屋を出て来たが、スーパーを出る時はザーザー降りの雨ですっかり濡れて帰って来た。写真は家財道具を引き取ってもらったリサイクルショップの明細書と買取金。
*2014年6月9日のPhoto Diaryはこちら
6月9日のスナップ。荷物を出してガランとした部屋
↑今日が部屋の明け渡し。朝から最後の掃除。掃き掃除をして、床は2度拭き。ゴミはビニール袋に入れて1階の駐車場奥にあるマンション専用のゴミ捨て場へ。24時間毎日燃えるゴミ、燃えないゴミを出せるので、こういう日には助かる。奄美、沖縄で使っていた布団や枕もビニール袋に入れて、ここでお別れ。せんべい布団という言葉があるが、中の綿やウレタンが飛び出して薄っぺらくなり、まさにせんべいのような布団になっていた。
 醤油、塩、砂糖、コーヒー、お皿、サランラップ、洗剤など中途半端に残ったものは今日から2泊するゲストハウスに持って行く事にする。そこで使って貰えれば幸いだ。
 10時になって沖縄ガスの担当者がガス栓を閉めに来て、料金の精算をする。片付けの終わった部屋で、ゴロンと横になりiTuneで音楽を聴きながらまったりと時間を過ごす。
 14時になって不動産管理会社の担当者が来て、今月分の家賃の精算。9日分で11100円。部屋の設備の点検を一通りして、書類にサイン。部屋の鍵を返却して、明け渡しは終わった。
 大きいバックを背負い、リュックは自転車カゴに。傘とビニール袋を2つ下げて、自転車で波の上ビーチの近くにあるゲストハウスへ。しょっちゅう通っている道を走って10分ほど。ゲストハウスの前は何度も通っているが、中に入るのは初めてだ。
 ネットの申し込みでは16時からにしてあったが、15時にチェックイン。2日分の宿泊費2000円を支払う。場所柄、元々はラブホテルだったビルのようだ。案内された4階の部屋には2段ベットが2つ。永く泊まっている韓国人の男性がベッドに腰掛けてパソコンを見ていた。
 荷物を置いて、近くの波の上ビーチへ。雨雲が空を暗く覆っている。近くの屋根付きのベンチに座り、沖縄で知り合った元数学の先生で写真愛好家の祖慶さんに電話。19時にパレットくもじの本屋さんで待ち合わせて、呑みに行くことになった。
 一旦宿に戻り、2段ベットの上でゴロンとなる。雨はだんだんと強くなっている。梅雨に入ってから一番激しい雨足かも知れない。
 肌寒いのでTシャツの上に薄手のシャツと薄手のパーカーを羽織って、パレットくもじへ歩く。傘をさしてもあっという間に上着は濡れて、スニーカーも雨水が滲みて来た。少し早めに本屋に着いて、沖縄コーナーで写真集を見ていたら祖慶さんが現れた。
 パレットくもじから直ぐ横にあるモノレールの県庁前駅へ。2つ先の牧志駅で下りて、しばらく国際通りを歩き、路地へ入る。連れて来てもらったのは何度も通って写真も撮影した竜宮通りだった。最初に訪ねたおでんやは閉店になっていたので、傍の居酒屋へ。この場所で60年営業している老舗の居酒屋だ。
 突き出しのもずく、豆腐チャンプルーとソーメンチャンプルー、豆腐ようを肴に中生ビール、それから泡盛をいただいた。途中から武道家で沖縄へ御嶽巡りをしに来たという男性も加わり、気がつけば10時半を過ぎていた。
 来る時に濡れた上着が身体を冷やす。ほろ酔いで少し眠くもなったので、今日はこの辺でお開き。祖慶さん、送別会ありがとうございました。
 半分眠りながら国際通りを県庁前まで歩き、そこから波の上の方へ。小腹が空いたので、コンビニで油ミソのおにぎりを一つ買って食べながら歩く。宿に着き、濡れた服とジーンズを脱いでベットに横になったらそのまま寝てしまった。
 早朝の4時頃に2段ベットの下の住人が帰って来た。しばらくしてその男性は眠りについたが、激しいイビキでこちらが眠れなくなった。結局朝方まで眠れぬまま横になっていた。写真は荷物を出してガランとした部屋。

3月23日(水)

 明日でロシアがウクライナに侵攻して、一ヶ月となる。ミサイルが撃ち込まれ、街が破壊され、市民が犠牲になったというニュースが連日流れてくる。ほんの一ヶ月前までは普通の生活を営んでいたウクライナの人々の多くが、今は住んでいた土地を追われ難民生活を送らなければならなくなった。「どうして」「なぜ」そんな疑問と怒りが頭の中をぐるぐるまわっているのだろうか。いや、もうそんな感情も持てないほど疲れ果てているだろうか。彼らのこの一ヶ月ほどの環境変化は、テレビのニュースを見ているだけの自分の想像を遥かに超えているだろう。しかし、ウクライナのことは他人事ではない。一ヶ月後、一年後、日本は世界はどうなっているだろうか。ある日、目が覚めたらどこかの国に核爆弾が落とされ、第三次世界大戦が始まっていても不思議はない。
 今日、ウクライナのゼレンスキー大統領がオンライン会議システム「ZOOM」を使用して日本の国会でリモート演説を行った。12分に及ぶ演説の全文がこちらにある。
 書庫兼物置部屋に積まれたダンボールの中に、ポジ・フィルムを入れたファイルが無造作に突っ込んであった。その中に、女優の奥山佳恵さんとTBSのアナウンサーだった福島弓子さんの写真もあった。1992年に制作された映画『喜多郎の十五少女漂流記』の、記事広告用に撮影したものだ。このダンボールに入っていたフィルムは、記事に使用しなかった残ポジだろうか。
 記事は制作したアミューズの役員の方と、この映画で主演デビューした奥山佳恵さん、それにアミューズと共に映画の製作に携わったTBSからアナウンサーの福島弓子さんが進行役となっての対談。場所は確か、アミューズ本社の会議室だったと思う。
 この仕事はデザイン事務所経由で依頼され、撮影の他に対談の記事原稿も書いている。この頃は、原稿用紙に手書き。写真や原稿の内容に問題はなかったが、字が汚いというクレームがあったらしい(笑)。
奥山佳恵さんと福島弓子さんの残ポジ
福島弓子さんの残ポジ

←↑ダンボールに無造作に突っ込んであったポジ・フィルムのファイル。

 仕事をした掲載誌は保管しているが、この記事広告を掲載した雑誌は見当たらず、どんな雑誌に掲載されたのかも覚えがない。
 この対談から数年後、福島弓子さんがイチローと結婚した時はちょっと驚いた。独身時代の福島弓子さん、今となっては貴重な写真かもしれない。

 ジミヘン、ストーンズ、ZEP、フロイド等を撮影した写真家の未公開フィルム3000巻を現像&デジタル化する資金調達キャンペーン成功という記事がamassに掲載されていた。貴重な写真が日の目を見るという良い話なんだが、それにしても未現像のフィルム3200本をどうして今まで放って置いたんだろう。

 この他の気になった記事を備忘録として。
首都圏の停電危機なぜ起きた?どう乗り切った? 政府が繰り返した要請の効果は
日本の「コロナ死者数は10万人超」 衝撃の推計 ウクライナ危機でパンデミックは吹き飛んだか
「敵基地攻撃」保有検討、議事録作らず 有識者会合、議事概要も公表せず
人工地震を信じる人々が映す「陰謀論」深刻な浸透 「情報の民主化」は「偽情報の民主化」でもある
過去最多107羽確認、野鳥の会が一斉調査 オオトラツグミ「確実に増加」 奄美大島
<ウージの下で さよなら>琉球音階では歌えぬ 沖縄の無念に寄り添ったヤマトンチュの「島唄」

 Photo Diaryを更新。
*2014年5月30日のPhoto Diaryはこちら。(マグロの切り落とし、フライ、佃煮?泡盛・時雨)
*2014年5月31日のPhoto Diaryはこちら
5月31日のスナップ。農連市場の猫
↑雲の合間から青空が見える。部屋に居るのが勿体なくて、午後から少しだけ自転車を漕いで、農連市場から国際通り、波の上ビーチを走って来た。
 家に帰り、洗濯。梅雨の間は小まめに洗濯しないと着る物がなくなってしまう。晩ご飯は、乾麺の蕎麦を茹でて大根おろしを添え、冷やしおろし蕎麦。
 先日購入した津嘉山酒造の國華が残り僅かになったので、昨日、新しい泡盛を買って来た。どなんのクバ巻きボトルにしようかと思ったが、家呑みには贅沢すぎると思い、手頃な値段だった識名酒造の時雨にした。識名酒造は首里赤田町にあり、みるくウンケーの時に酒造所の前を通った事がある。
 これで沖縄に来てからの泡盛遍歴は、久米仙→菊之露→残波→忠孝→美しき古里→多良川→RYUKYU CLASSIC→轟→久米仙(お隣からの貰い物)→響天→瑞穂→夢航海→ゆいまーる→松藤→八重泉→残波の白→請福(フダチミのラベル)→海人→今帰仁の新酒→ユニオンですから→島風→國華→時雨。
 昨日で、旅を始めて4年になった。2010年5月30日、富山から奄美大島を目指して、先ずは京都に。それがスタートだった。
 一年間の予定が、もう4年が経った。人生の夏休みのつもりが、琉球弧への留学のようになり、なんだか東京で仕事をしていた時よりも忙しく過ごした。
 さて、そろそろ旅の終盤。旅の始め方も難しいが、終わらせ方はもっと難しいように思う。写真は、農連市場の猫。
*2014年6月1日のPhoto Diaryはこちら
6月1日のスナップ。トラックで道ジュネーに出発する大嶺の地バーリー
↑旧暦5月4日の今日は、ユッカヌヒー。沖縄の各地でハーリー競漕が行われる。昨年は奥武島のハーリーを見たので、今年は糸満ハーレーと小禄・大嶺地区の地バーリーを見に行く。
 小雨の降る中、自転車でモノレールの旭橋駅へ。駅の駐輪場に自転車を止めて、向かいの旭橋バス停で89番の糸満線を待つ。この路線は一時間に4〜5本運行しているので、程なくやって来たバスに乗車。
 糸満ハーレーの開会式は9時15分。バスが糸満ロータリーに到着したのが9時10分頃で、歩いて会場の糸満漁港に着いたら、ちょうど開会式が始まるところだった。
 糸満ロータリーから山巓毛(サンティンモー)を見上げると、ハーレー競漕の合図に使われる旗が立てられていた。
 開会の挨拶や、昨年の優勝旗の返還が行われた後、西村、中村、新村の3隻による港内パレードがあり、それぞれのハーレー歌も披露された。
 字糸満は、西村(シンダカリ=現在の西区、上の平)が集落発祥の地であり、その子孫によって中村(メンダカリ=現在の町端)、新島(ミージマ=現在の新島、新屋敷、新川、前端、南区)の順で集落が形成されてきた。それ故、古くからの伝統を重んじるこの行事では、アガイスーブの村船を三周する儀式やヌン殿内での盃を受ける儀式では、競漕の順位に関係なく、親元を重んじて敬う意味から、西村を先頭にして、中村、新島の順で行われるのである。
 字糸満には古くから「西村や むとうぎ(親) 中村や なしぐわ(子) 華ぬ新島や んまが(孫)でびる」と言う歌詞が言い伝えられている。
(プログラムより引用)。
 3村の舟による港内パレードの後、いよいよハーレー競漕が開始。1番初めに西村、中村、新村によるウグァンバーレーが行われた。
 このウグァンバーリーが終わると、競漕の到着順に糸満の氏神である白銀堂へ行き、それぞれの代表が神人から盃を受け、ハーレーシンカ(漕ぎ手達)は円陣を作ってハーレー歌を奉納する。今回は新島、西村、中村の順だった。
 西村、中村、新島の3村による競漕は、この後、青年団・中学生・クンヌカセー(転覆)・アガイスーブがある。これら3村による競漕の合間に会社や学校、商店対抗の職域ハーレーやアヒル取り競争が行われる。
 一番最後の競争であるアガイスーブの後に、ヌン殿内(糸満ノロの家)で盃を受け、ハーレー歌の奉納が行われるが、その前に小禄・大嶺の地バーリーを見に糸満を出なくてはならないので、ヌン殿内の外観だけでもと思い行ってみた。
 ヌン殿内に着いて暫くすると、世話役の方たちがビンシーを持って御願にいらしたので撮影させていただく。現在、糸満のノロは不在で殿内を管理する方もいらっしゃらないようで、建物はちょっと痛んでいる。こういう建物を市の文化財として保護、保存はできないのだろうか。
 ヌン殿内から糸満漁港に戻り、職域ハーレーを見たり市場の方を散策。3村の中学生ハーリーを見てから、大嶺の地バーリーを見るために小禄に向かう。
 糸満ロータリーから89番糸満線の那覇行きに乗車し、小禄駅前で下車。地図を見ながら大嶺自治会館へ向かった。
 14時半頃に自治会館に着いて、地バーリー保存会の会長さんと大嶺自治会長さんにご挨拶して、撮影の許可を貰う。大嶺は、昨年4月13日(旧暦3月4日)に三月あしびを撮らせていただいた小禄・鏡水地区と同じく、旧日本軍によって土地を接収された地区だ。嘗ての大嶺の場所は現在自衛隊の基地の中にある。
 鏡水地区の三月あしび、それから戦後に軍用地として接収されて嘗ての土地はキャンプ・キンザーの中にあるという小湾集落のアギバーリー。自分たちの土地を軍によって接収された地区の旧暦行事が、現在どのように行われているのか記録したくて今回大嶺の地バーリーを撮影に来たと説明した。
 そう言えば、先月の25日に辺野古の海で年に一度のハーリー大会が行われたそうだが、昨年末の仲井眞知事の埋立承認により実際に埋め立てが始まれば、現在の場所でのハーリー大会は出来なくなる可能性がある。琉球朝日放送の記事。基地が沖縄の祭祀や旧暦行事に及ぼす影響は今も続いている。
 事前に電話で問い合わせた時は15時から御嶽で御願があり、その後に自治会館の中で地バーリーが行われると言う事だったが、御嶽へ行く前に道ジュネーがあった。普通、道ジュネーは歩いて集落を廻るが、大嶺の道ジュネーはトラックの荷台に乗り込んで櫂を漕ぎながら地区を廻った。
 トラックで道ジュネーをし、そのまま自治会館の近くにある御嶽で地バーリーを奉納。奉納が行われた大嶺御嶽には、嘗ての土地にあった様々な拝所が集められていた。火ヌ神や沢山の井戸、遥拝所には唐、龍宮乃神、前城、そして今帰仁と書かれた札もあった。また、トラックの道ジュネーを追いかけている時に、地元の女性から大嶺のノロ殿内を教えていただいた。
 御嶽から自治会館に戻り、16時頃から地バーリーが開催された。以下、式次第から。
一、開会の挨拶 二、向上会会長挨拶 三、乾杯の音頭 寿、地バーリー 五、自治会会長の挨拶 六、組合バーリー 七、浦添市小湾「アギバーリー」ビデオ鑑賞 八、子供バーリー 青年会・婦人会・役員バーリー 祝、飛び入りバーリー 十、カチャーシー 十一、閉会の挨拶
 来賓の席には小湾の自治会長さんや、アギバーリー保存会の方々もいらしたので、途中でご挨拶に伺った。
 18時半頃には全ての演目が終わった。小禄駅まで歩き、モノレールで自転車の置いてある旭橋駅へ。家から持て来た魚肉ソーセージ2本とピーナッツしか食べていなかったので、ちょっと遠回りだが高良食堂へ。650円のBランチを注文。トンカツ、ローストチキン、目玉焼き、刺身、サラダ、ご飯とソバ。なんとか完食。小雨の降る中、濡れながら家に帰った。
*本日の出費。旭橋〜糸満ロータリー580円、糸満ロータリー〜小禄駅前500円、小禄〜旭橋230円、烏龍茶のペットボトル100円、Bランチ650円。写真はトラックで道ジュネーに出発する大嶺の地バーリー。
*2014年6月3日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダからの那覇市内)
*2014年6月5日のPhoto Diaryはこちら
6月5日のスナップ。1パック1000円の大トロ
↑だんだん引っ越しの日が迫って来て、気持ちが焦る。この4年半程の間で、今回が4回目の引っ越し。それほど沢山の荷物はないので一日あれば用意できるとは思うが、引っ越しが完了するまで気持ちは落ち着かないんだろう。 
 午後、近くのドコモショップで携帯電話とネット接続に使用しているFOMAの住所変更。ドコモショップの近くにある前島のスーパーで、特売していた白身魚の甘酢あんかけ、鯖のピリ辛揚げ各一つ108円を買う。食べようと思いながらまだだった、アチコーコーの豆腐も半丁購入。
  アチコーコーは熱々、出来立てほかほかといった意味のウチナー口。大きなスーパーに行くと通常の豆腐コーナーとは別に、アチコーコーの豆腐コーナーが設けられていて、豆腐屋さんが納品したばかりの手作りのアチコーコー豆腐が並んでいる。何時にどこの豆腐屋さんのアチコーコーが届くかを書いた時間表が用意されているし、アチコーコーの豆腐が届くと店内アナウンスもある。
 前島のスーパーから泊の魚市場へ。17時を過ぎて値下げが始まっていた。場内を一周して中トロ、大トロどれでも1パック1000円になっていたお店で、大トロ2200円のパックを1000円で買って来た。
 部屋に戻り、さっそくアチコーコーの豆腐を食べてみる。醤油とショウガ、うどんつゆとワサビの2種類で食べてみた。沖縄の島豆腐は少し固めで、厚揚げの中を食べている感じ。普通に美味しいけれど、豆腐はアチコーコーでなくて良いな。天ぷらのアチコーコーは最高だけど。
 今日も午前中から工事の音が聞こえて来た。下の写真(01、02)はベランダからの眺め。右側の写真(01)中央の白い家が最近完成したが、その横に掘削機だろうか大きな重機が持ち込まれて、砂利がゴロゴロ廻っているような大きな音が聞こえている。左側(02)の薄緑の屋根の豪邸も、最近工事を行っている。時々業者が庭の手入れを行っているのを見かけたが、人の住んでいる様子はないので解体工事なのかもしれない。那覇の街は、絶えず工事の音がする。沖縄に来て2年程の間に、瓦屋根の一軒家が取り壊されるのをいくつも見た。
 下の写真(01、02)の奥、高いビルが見えるところはおもろまちで、新都心と呼ばれている。今は商業施設が立ち並ぶ地だが、沖縄戦では激戦地となった場所だ。シュガーローフの闘いだ。アメリカ軍だけで2600人あまりが戦死したり、怪我をしたとされている。
 2年間、毎日のようにベランダから眺めていたのは、戦世からアメリカ世を経て日本に復帰し、その間絶えずスクラップ&ビルドされて出来た街の風景だった。さて10年後、この街並はどのように変貌しているのだろうか。まだまだ開発は続くのだろうか。
 引っ越しの荷物をまとめるため、沖縄からのホームページの更新はそろそろ最後になるかな?次の更新は半月後か、一カ月後か。9日に部屋の明け渡しが済んだ後は、波の上ビーチの近くの安宿に2泊して、その後は久米島へ。もう少しだけ旅を続けようと思います。写真は1パック1000円だった大トロ。

3月20日(日)

 寒の戻りで富山はここ数日寒い日が続いているが、東京は今日、平年より4日早く桜が開花したそうだ。
 家にある音楽CDをiMacのiTunesに取り込む作業が完了したので、聴きたいCDはミュージシャンの名前やアルバムタイトルで検索すれば素早く聴けるようになった。この取り込む作業をするために棚から引っ張り出したCDを、せっかくなら直ぐに目的のものを探せるようにキチンと収納したいという欲が出た。そこで、まずは国内アーティストと海外アーティストに仕分けてみた。そして国内アーティストはあいうえお順に棚に並べた。たぶん、これが一番探し易い並べ方だろうと思う。
 さて、困ったのが海外アーティストの並べ方。ABCDEFGとアルファベットの順に並べようかと思ったが、あいうえおの様には素早く探せそうにない。そこで地域やジャンルで仕分けすることにした。そして地域やジャングルで括れないアーティストはアルファベット順に並べることにした。
仕分け中のCD
棚に収納したCD

↑海外アーティストのCDを、地域やジャンル別に仕分ける作業から。


←レゲエ、ブラジル、インドネシア、ニューオリンズ、ジャズ・フュージョン、ソウル・ファンク、イギリス、アイルランド、アフリカ、女性ボーカルの他、様々に分けて収納した。これで目的のCDが少しは早く探し出せると思う。

 本格的な花粉のシーズン到来で最近は家から出ることを控えているが、今日は自転車で2〜3分のドラッグストアーまで買い物に行ったら、夜になって鼻水がタラタラとしてきた。目も痒いし、たまにクシャミも出る。花粉症になる前、春は好きな季節だったのに。
 テレビは連日、ロシアによるウクライナへの攻撃を報じている。国連難民高等弁務官事務所によれば、ウクライナの国内外へ避難した人の数が人口の4人に一人、1千万人に達したという。このウクライナ難民の受け入れには日本政府も今までにないくらいの素早い対応を取っており、地方自治体単位でも積極的に受け入れる姿勢を見せている。それは良いことだが、東京新聞が<ウクライナとミャンマー、避難民受け入れ、なぜ差があるの?入館、政治や経済に目配せ「同じように助けて」>という記事を掲載している。いや、ミャンマーだけではない、長く内戦が続くシリアも多数の難民を作り出したが日本が受け入れた人数はほんの僅かだ。

 この他の気になった記事を備忘録として。
地下鉄サリン事件27年、現場で献花 遺族「気持ち伝えていきたい」
先輩から後輩へ、伊是名「神アシャギ」屋根を葺き替え 文化財と技術を継承
もし東海再処理施設が攻撃されたら…廃液20%放出で死者40万人と試算 ウクライナで原発リスクが現実に
無言で帰国するロシア兵の葬儀 2週間更新されない公式死者数
ウクライナ難民133人を乗せたスペインのタクシー、ポーランドから無事帰還
イセ食品前会長 美術品、競売に出品 「自分の所有」主張で返済に
手取り14万円の劣悪な待遇…非正規化進む地方公務員、15年で1.5倍に「公共サービス持続困難に」
伊方原発3号機 1次冷却水の放射性ヨウ素濃度が3倍に上昇

 Photo Diaryを更新。
*2014年5月24日のPhoto Diaryはこちら
5月24日のスナップ。勝連城跡
↑晴天。昨日の内に買っておいた土日祝一日乗車券を使い、伊計島へ。最寄りのバス停を7時53分発の屋慶名線に乗車。終点の一つ手前のJA屋慶名前で下りて、直ぐ近くにある平安座総合開発が運行する伊計島行きのバスに乗り換える。平安座島から浜比嘉島に渡り、もう一度平安座島に戻って宮城島、伊計島へとバスは走る。終点の伊計島共同売店前に着いたのは10時50分頃だった。平安座総合開発が運行する伊計島行きのバスは、土日祝一日乗車券は使えないので500円の運賃を支払う。
 さっそく伊計島の集落をブラブラと散策。ヌンドゥンチ(ノロ殿内)を見つけたが、あいにく補修工事の真っ最中だった。
 使い古しのソファーが通りの木の下に並べられ、オジーが並んで座っておしゃべりをしている。空いているソファーを借りて、ウトウトと午睡したくなる。
 一時間半ほど伊計島を歩いた後、歩いて伊計大橋を渡り、宮城島へ。行きのバスで通った道を思い出しながら、辿りながら宮城島の集落を歩く。平安座島に近い桃原は歩いて行くには遠いが、池味、宮城、上原の3つの集落を巡った。集落の中や周辺の道路に、PCB処理施設反対の立て札が立っていた。
 14時半頃までひたすら歩いて、さすがに疲れたので上原集落にあるバス停・新里商店前で一休み。お店でアイスクリームでも買って食べようかと思ったが、ドアが閉まっていた。自販機でミネラルウオーターを買って道端に腰を下ろす。しばらくすると杖をついたオバアさんがお店にやって来たが、ドアが閉まっているのでやはり隣りに腰を下ろす。上原集落にはお店はここだけだ。伊計島からここまで歩いて来たと話すと「今晩足が痛くなるよー」と言われる。暫くオバアさんと世間話をしていたが、お店が開くのが待ちきれなくてオバアさんは隣りの宮城集落へ歩いて行った。
 帰りのバスは2時間に1本。次は商店の前を15時8分。 バスが来る少し前にお店のオバさんが用事から帰って来た。ほどなく何人かのオバアさんも集まって来た。集落の憩いの場所なのだろう。
 定刻通りにバスが来た。ウトウトしながらバスに揺られる。来た道を辿り宮城島から平安座島、浜比嘉島、また平安座島に戻り海中道路を通って屋慶名農協前に着いた。
 新里商店前から屋慶名農協前までの運賃400円を払ってバスを降りると、27番の那覇行きのバスが目の前を走って行った。急いでバス停まで追いかけて乗車。まだ日が暮れるまで時間があるので勝連城跡に行くことにする。27番のバスは勝連城までは行かないが、運転手さんに聞くと西原バス停からは歩いても15分ほどだと言う
 屋慶名から西原までは15分ほどで着いた。土日祝一日乗車券を見せてバスを下りようとすると、運転手さんが困った顔で「このバスは沖縄バスなので使えないんです」と言う。確かに土日祝一日乗車券は琉球バスと那覇バスで使える乗車券だが、沖縄バスも走っている共同運行の路線では沖縄バスでも使えると思っていた。27番の屋慶名線は沖縄バスと琉球バスの共同運行だ。そう運転手に言うと主に西側を走る共同路線は沖縄バスでも使えるが、東側を走る27番の屋慶名線と227番の屋慶名おもろまち線は共同運行だが使えないと言う。確かに乗車券の裏面に小さく書いてあった・・・orz。東側は沖縄バスが中心に走っている路線だからだろうか?なんだか腑に落ちないが360円の運賃を支払ってバスを下りる。後で時刻表を見るとこの時間帯は沖縄バスしか走っていないので、お金を払ってでも乗って正解だった。
 西原のバス停からトボトボと勝連城へ。想像していたよりもこじんまりとした城跡だったが、丘陵地に建てられており眺めが素晴らしかった。
 勝連城から西原バス停へ戻り、那覇方面行きのバスを待つ。来るのは沖縄バスばかりだ。
 かなり待ってやって来た、琉球バスが運行する27番で胡屋へ。先月、コザ・てるりん祭を見に来た中央パークアベニューを散歩する。家から持って来たおにぎり3個、シュウマイ3個はお昼に食べて、すっかりお腹が空いたので大衆食堂ミッキーへ。ミッキーにて沖縄の食堂で一番ややこしいメニュー、おかずを注文。600円。みそ汁の代わりにゆし豆腐。漬け物がきれたそうで、ご飯の上に味噌が乗っていた。
 お腹いっぱいになり、歩き疲れたので胡屋のバス停へ。23番具志川線の那覇行きが来たので乗車。なんだか車内が暑い。斜め前の席の人が上部の窓を開ける。同じように窓を開けながら、暖房でも入っているのだろうかと話しかけたら、運転手に聞こえたようで自動温度調整になっているそうだが少し下げてくれた。それでも暑いので、最寄りのバス停に着くまで外の風を入れて凌いだ。写真は勝連城跡。
*2014年5月25日のPhoto Diaryはこちら。(学芸員と歩く史跡・旧跡ツアー、小禄地区)
*2014年5月26日のPhoto Diaryはこちら
5月26日のスナップ。メモリアルデーの泊外人墓地
↑5月の最終月曜日は、メモリアルデー。昨年、家の近所にある泊外人墓地で、この戦没者慰霊祭のセレモニーを撮影した。その時の写真を何枚かプレゼントしようと思い、少し早めに起きてプリントをする。
 セレモニーは朝10時からだが、9時過ぎに外人墓地へ。昨年、国旗を掲揚したり式で流す音楽を用意されていた退役軍人と思われる方がいらしたので、さっそく朝プリントした写真をお渡しした。
 しばらくすると泊外人墓地を撮り続けている新垣辰雄さんがいらした。メモリアルデーを知ったのは、昨年の5月21日から26日まで那覇市民ギャラリーで開催された新垣さんの写真展「泊外人墓地」を見たからだった。新垣さんとは、3月8日に沖縄県立博物館・美術館の講座室で開催された「沖縄の文化表象に見るジュリ(遊女)の諸相」と題したシンポジウムでお会いして以来なので久しぶりだ。
 10時になってセレモニーが始まった。今年は昨年よりも参加者が多かった。
 セレモニーが終わった後、新垣さんと近くにある軽食ルビーで昼ご飯を食べながらお互いの近況報告など。
 今日は昨年撮影させていただいた人達に写真をお渡しするのがメインで、あまり写真は撮らなかった。天気予報は午後から雨で、夕方からは雷雨となっていたが、降り出したのは夜も遅くになってからだった。写真はメモリアルデーの泊外人墓地の様子。
*2014年5月28日のPhoto Diaryはこちら。(ジミーのアップルパイ)
*2014年5月29日のPhoto Diaryはこちら
5月29日のスナップ。海面から珊瑚が見える座間味の透明な海
↑前日の天気予報では、今日の那覇は梅雨の中休みで晴れ。朝早く起きて天気予報を確認した後、座間味村のホームページで船の空席情報をチェック。座間味島行きを決行する。 
 那覇・泊港と座間味島を結ぶ船はフェリーざまみと、高速艇のクィーンざまみの2隻がある。フェリーざまみなら往復で4030円だが、島に滞在できる時間は3時間。高速艇は往復で5970円だが7時間半ほど滞在できる。行きをフェリーざまみにして、帰りを高速艇という選択もあるが、高速艇に乗る事にした。
 クィーンざまみの出航時間は9時。家を8時半に出て、信号待ちの時間を入れても5分ほどのふ頭北岸船客待合所へ自転車で向かう。泊港から出る離島便はとまりんでチケットを買うが、この高速艇だけはふ頭北岸船客待合所になっている。
 船の座席は余裕があったが、泊港を出発する時には潮風にあたりたくて2階のデッキに移動。 デッキの上では何かに掴まっていないと飛ばされそうなスピードで、高速艇は慶良間の島々を抜けて行く。フェリーざまみが阿嘉島に寄って2時間かけて座間味島に到着するのに対して、クィーンざまみは50分で着いてしまう。
 座間味島に着いて、先ずは観光案内所で地図や村内バスの時刻表などをもらう。島には3つの集落があり、フェリーの発着する港がある座間味集落、座間味集落から1キロほど離れた阿真集落、村営バスで10分ほどの阿佐集落。とりあえず座間味集落を散策すると、「ノロ宮」と鳥居に記された殿があった。家に帰ってから今帰仁村歴史文化センターのホームページの座間味島(リンク切れ)の項目を見るとヌル宮(ヌルドゥンチをお宮にした?)と書かれていた。
 集落内を散策していると他にも赤い鳥居の立っている祠があった。中には香炉が3つほど並んでいた。飲み物を買うついでにスーパーで聞いてみたが、神人ではなく個人が管理しているそうだ。
  今帰仁村歴史文化センターのHPには「集落内を歩いていると、屋敷内に祠(殿)をつくり鳥居が建立されている。波照間島で見られたが屋敷をワー(ウタキ)にしていこうとする発想だろうか」とある。
 港の近くには、鳥居に「いびぬめー」と記された殿があった。座間味村のHPには海神宮とあり、旧暦8月の海御願の時には大漁旗で飾られて祭りの拠点となると書いてある。殿の中には海御願の時に登場するミルクの面が奉られていた。ところで、いびぬめーとは、イビの前という意味だと思うが、ではイビはどこだろうか。
「 座間味+いびぬめー」で検索すると(いびぬめーとは海の前という意味)とか、(いびぬめえ、いびの宮)と紹介しているブログがあり、いび=海、めえ=宮と言う解釈があるのか少し疑問に思ったりもする。
 集落散策はこれくらいにして、せっかく今年の3月5日、国内で31番目の国立公園に指定された座間味島の海を泳ぐ事にする。そのためにバックの中に、海水パンツとバスタオルを入れて来た。
 まずは座間味集落から海岸沿いに1キロほど離れた阿真集落のビーチへブラブラ歩く。天気予報は晴れ、と言いながらガスがかかっていて空は少し白っぽい。途中、共同井戸(?)の跡やマリリン像があった。
 15分ほどで阿真集落に着いて、目の前のビーチへ。沖に何隻か小型の船が出ているが、砂浜には誰も居ない。プライベートビーチ状態。さっそく持って来た海水パンツに着替えて、今年2回目の海水浴。海水の透明度に驚く。
 1時間半ほど泳いだり、Tシャツを着て集落の中を歩いたりして過ごす。阿真ビーチには青少年旅行村キャンプ場があり、キャンプ利用料300円、テント(小)1000円で宿泊できる。一瞬帰りの船を明日にして泊まって行こうかと思ったけれど、やはり心の準備ができなかった。
 帰りの船までたっぷり時間があるので、今度は座間味集落を挟んで反対側にある古座間味ビーチへ。途中にある座間味の漁協で天ぷらを3つ買って昼ご飯にする。漁協の横、集落入口近くには「太平洋戦争沖縄戦上陸第一歩之地」と記した碑が建っている。
 今ではマリンレジャーの島のような印象だが、座間味島は沖縄戦における最初の米軍上陸の地であり、渡嘉敷島と共にたくさんの犠牲者を出している。
 座間味集落から峠を一つ越えて、古座間味ビーチに到着。こちらも透明度の高い海に、珊瑚を敷いた白い浜。パラソルが並んで、リゾートっぽい。さっそくTシャツを脱いで泳いでみる。阿真のビーチは遠浅だったが、こちらは直ぐに深くなるようだ。
 1時間半ほど泳いだり砂浜を歩いたりして、また峠を越えて座間味集落に戻る。漁港の護岸壁に男の子が上って騒いでいる。「ヒージャーヒージャー!」と聞こえて山羊がどうしたんだろうと思ったら、シージャーだった。家に帰ってネットで調べるとダツという凶暴な魚の事だった。
 帰りの高速艇は17時20分。港の待合所で船の到着を待っていると、港湾内を2隻のサバニが横切って行く。一隻は帆が立てられている。ハーリー競漕の練習かと思ったら、座間味島では毎年座間味から那覇までを競うサバニ帆漕レースが開催されているそうで、その練習だった。テレビカメラを乗せた漁船が並走していたので取材かもしれない。
 泊港から来たクィーンざまみに乗船。折り返し座間味から泊に出航した。帰りも2階のデッキに上がり、猛烈な潮風に当たりながら慶良間諸島の島々の間を走り抜けて行った。
 18時10分頃、泊港に到着。昨年から建て替え工事が行われていた那覇ハーリー会館の外観が、だいぶ完成していた。泊の市場でお刺身でも買って帰ろうと思い寄ってみたが、市場は既に閉まっていた。
*本日の出費。クィーンざまみ、泊港と座間味の往復5970円、ジャスミン茶のペットボトル160円、天ぷら3個150円。写真は座間味の海で撮影した珊瑚の群落。

3月17日(木)

 ミノルタのフラッシュメーターIV型が届いた日、今度はiPod用のスピーカーが壊れた。音が出ないとかではなく、電源も入らない。やれやれ。しょうがないので、アマゾンとヤフオクで安い中古のiPod用ドック付きスピーカーを探した。今回壊れたスピーカーも、2018年11月にアマゾンのマーケットプレイスで探して送料無料1,280円だったロジクールS315の中古だ。
 色々と物色したところヤフオクに即決価格500円でJBL on timeというスピーカーが出品されていたので、これにした。商品は500円だが、送料は1,040円。13日に落札し、15日に届いた。思っていたより大きくて重い。特にACアダプターがなんで?と思うほど大きくて重い。そういえば初めてiPod用に新品で購入したJBLのスピーカーも、ACアダプターが大きかったのを思い出した。早速iPodを繋げて音を出してみると、柔らかく丸い音がする。長持ちしますように。
iPod用スピーカー01
↑↓500円だったJBL on time。ACアダプターがもう少し小さいと良いんだが。
iPod用スピーカー03
iPod用スピーカー02

 昨夜11時36分頃、宮城・福島両県で震度6強の地震があった。地震の規模はマグニチュード7.4。富山も震度2だったようだが、揺れは感じなかった。
【写真まとめ】宮城・福島で最大震度6強 各地の被害状況を更新中
<写真特集>地震の爪痕各地に 脱線、崩壊…本紙記者が上空から被災地を取材

 ロシアのウクライナへの侵攻で、原発が制圧されるなどその存在の危険性が指摘される中、岸田首相が16日の記者会見で日本国内の原発がミサイル攻撃を受けた場合の対応について考えを示した。それによると、海上のイージス艦と地上のPAC3(地対空誘導弾パトリオット)でミサイルを迎撃して原発を防護するそうだ。PAC3の射程距離は20Kmほどしかない。どの原発が狙われるかわからないから、全国の原発の近くにPAC3を配備するのだろうか。例えば日本全土をほぼ射程圏内にしている北朝鮮のノドンが何十発と一斉に発射されれば、撃ち落とすことは不可能だろう。イージス艦とPAC3を持ち出す辺りで、思考が停止していると思わざるを得ない。
 安倍元首相や日本維新の会などが、ロシアのウクライナ侵攻に便乗して改憲を推し進めようとしているが、こちらで9条の会の田中優子・法政大前総長が一問一答で改憲論に反論している。憲法審査会を毎週開催しようという動きもあるようだが、他にするべきことがあるだろう。

 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールは、音楽祭で演奏予定だったロシアの作曲家チャイコフスキーの大序曲「1812年」を、別の曲に変更することを決めたそうだ。「1812年」はロシア軍によるフランス軍撃退をテーマにした曲で、ロシアによるウクライナ侵攻を受け、ふさわしくないと判断したという。 個人的にはそこまでしなくても・・・という気もする。
 ところで日本でも知られるロシアの曲に「ポーリュシカ・ポーレ」という民謡がある。日本では1971年に仲雅美が歌い、ヒットした曲だ。
♪緑もえる 草原をこえて ぼくは行きたい あなたの花咲く 窓辺へと ポーリュシカ・ポーレ  それは愛のことば 二人だけの 誓いさ 永遠に 消えはしない♪
  仲雅美の歌った歌詞はラブ・ソングになっているが、元々は平原を疾駆する赤軍騎兵の勇姿を讃えた歌だ。
♪草原 草原よ 広い草原よ 英雄達が草原を行く 赤軍の英雄達が 僕等の目に映る 灰色の雲 雨雲のように広がる 森に潜む敵の憎しみ♪
 同じく日本でよく知られる「カチューシャ」も出征した恋人を思う、カチューシャという少女の歌。
♪彼は思い起こすか 純真な乙女を 彼は聞くだろうか カチューシャの澄んだ歌声を 彼は愛すべき祖国の地を守り抜き カチューシャは愛を強く守り抜く♪
 日本で知られるロシア民謡やロシア歌謡は、荘厳な中に哀愁のある曲が多いように思う。ロシアのウクライナ侵攻がこのまま続けば、「ポーリュシカ・ポーレ 」や「カチューシャ」も自主規制して歌えなくなる日が来るのだろうか。
 YouTubeから「ポーリュシカ・ポーレ /仲雅美」「 ポーリュシカ・ポーレ /ロシア語(日本語字幕付き)」「カチューシャ/ロシア語(日本語字幕付き)」。

 昨日の南海日日新聞に<ノヤギ、生息数の増加確認 奄美大島、世界遺産域にも定着>という記事が掲載されていた。なんでも昨年7月の調査では642頭確認したそうで、2008年の419頭、14年の477頭から徐々に増加している。
 奄美大島に住んでいた時に、野生化した野ヤギを撮影してみたいと思っていた。夜の奄美の森探検ではリュウキュウイノシシには何度か遭遇したが、野ヤギに出会うことはなかった。住んでいた長浜町の後方にある、赤崎公園のあたりにも昔は野ヤギがたくさんいたらしいが駆逐されたと聞いた。
 奄美大島では飼われているヤギを見ることも少なかったが、加計呂麻島や請島、与路島では集落の至る所にヤギがいた。もちろんペットではなく家畜として飼われている。一度だけ、野ヤギと思しきヤギを見たことがある。与路島まで行った帰り、町営船で奄美大島の古仁屋に戻る途中、請島のソテツが群生した山の上にポツンと白い点が見えた。カメラの望遠レンズで覗くとヤギだった。確信はないが、野ヤギだと思う。

野ヤギ?
↑請島のソテツが群生した山の上にポツンと佇む野ヤギ(だと思う)。2011年10月23日撮影。
 この他の気になった記事を備忘録として。
ロシア政府系TVの生放送で突然「戦争反対」 ディレクターを拘束
全長2.7メートル!リュウグウノツカイ、国頭の海岸で発見 深海魚なのになぜ?
 Photo Diaryを更新。
*2014年5月18日のPhoto Diaryはこちら
5月18日のスナップ。なんみん祭での奉納芸

↑今日は那覇市歴史博物館が企画する学芸員と歩く史跡・旧跡ツアーの3回目で、那覇地区を歩く。 朝10時に歴史博物館に集合なので、9時半頃に家を出て雨の中を博物館の入っているパレットくもじへ向かう。ちなみに2回目の真和志地区は辺野古のボーリング調査阻止10周年集会と重なったため参加できなかったが、初回の首里地区の様子はこちらにあります。
 10分ほど前に到着し、保険料の100円を支払い今日の資料を貰う。10時になって学芸員の方たちと1階に下りて行くと、小雨だった雨が本降りに。しばらく様子を見ていたが止みそうにないので、急遽歴史博物館のロビーで地図と資料を見ながらの勉強会となった。
 話しを聞きながら、配られた資料にメモをする。かつての那覇の中心は西町・東町。久米には中国人、若狭には大和人、西町・東町には琉球人が住んでいた。硫黄城は今の沖縄製粉がある辺り。泉崎は字が示すように水に恵まれた場所。間切=田舎方、首里・那覇・泊・久米=町方。現在の那覇市は那覇・首里という2つの町方と、真和志・小禄という2つの田舎方で出来ている。渡地村(わたんじ)は現在の那覇埠頭の辺り。

 1時間ほどロビーで勉強会をしていたが、いつの間にか雨は止んでいたので、少しの時間だが近場の史跡・旧跡巡りをする事になった。
 室内での勉強会で時間を使ったのと、いつまた雨が降るかわからないので泉崎地区にある史跡・旧跡を30分ほどで廻った。ちなみに今回廻る予定だった史跡・旧跡は、○仲島小堀跡・・・泉崎村に造られた人口の溜め池跡 ○仲島の大石・・・久米村の風水に関わる大石 ○那覇駅跡・・・1914年(大正3)から操業した軽便鉄道の駅跡 ○那覇市跡・・・戦前における沖縄県下最大の市場跡 ○親見世跡・・・琉球王国時代の那覇の役所跡 ○東恩納寛惇生家跡・・・沖縄研究者東恩納寛惇の生家跡 ○薩摩藩在番奉行所跡・・・琉球における薩摩藩の出張所跡 ○那覇港周辺の史跡・旧跡・・・琉球王国の海の玄関口「那覇港」 ○西の海跡・・・三重城から潮の先にかけてU字形に湾入していた海跡 ○新天地劇場跡・・・1922年(大正11年)建立の劇場跡。「石屋」と呼ばれた ○伊波普猷生家跡・・・沖縄学の父と呼ばれた伊波普猷の生家跡 ○天使館跡・・・冊封使節一行の宿泊所跡。通常は「砂糖座」として使われた ○仲毛芝居跡・・・沖縄で初めての常設芝居小屋跡 ○円山号跡・・・那覇のメインストリートに面して建てられた百貨店跡 ○久米村大門跡・・・久米村の南入口跡 ○泉崎橋・・・戦後の1957年に架橋された橋。戦前の泉崎橋をモチーフにした
 この中で標示板だけでなく史跡そのものが残っているのは仲島の大石だけのようだ。

 パレットくもじに戻って来ると、目の前を神輿を担いだ一団が歩いて行く。昨日、今日と波上宮のなんみん祭(例祭)が行われており、その神輿行列だ。史跡・旧跡ツアーは歴史博物館で解散となっていたが、神輿行列を見たい人のためにここでお別れとなった。そう言えば今日は浅草の三社祭の最終日だと思いながら、神輿行列に着いて行く。
 県庁前の通りを若狭に向かって進み、波上宮へ。中国風の爆竹が鳴り、獅子が舞う。その中を榊を手にした神主さんと神輿、大太鼓が歩いて行く。どこか中国と大和がチャンプルーな行列は、琉球の成り立ちのようにも見える。
 神輿は境内を通り拝殿に入れられた。雅楽が演奏される中、神事が行われ、最後は神主さんの音頭で乾杯となった。
 なんみん祭のイベントとしては、この後14時から波上宮の隣りにある旭が丘公園で全島沖縄角力大会が行われるので見学に。
 公園の入口の方で行列ができていて、無料でソバが配られていたので並んでみる。いただいたのは具沢山のミソ味の汁の中に沖縄ソバが入ったものと、おにぎりが一つ。量もたっぷりで美味しかった。
 14時10分頃に開会式が行われ、神主さんが土俵をお払いしてから角力(すもう)が始まった。相撲も柔道も詳しくないが、沖縄角力は柔道に近いですね。同じ琉球弧でも奄美は裸にまわしを巻いて大和の相撲と同じ様に取るが、沖縄の角力は最初から組んだ状態でスタートする。
 角力を途中まで見て、琉球舞踊奉納が行われる波上宮の拝殿へ。
琉球舞踊奉納演目
1.路地楽御座楽 啓扇会路地楽御座楽保存会 会長・阿波連 本勇 2.かぎやで風節 阿波連本流啓扇紅節の会 会主・屋比久 節子/阿波連本流啓扇会 師範・阿波連 京子 3.作田 真踊流佳幸の会 会主・宮城 幸子 4.加那よー 島袋本流・紫の会 三代目家元・島袋 秀乃 5.瓦屋節 玉城流玉扇会 玉城盛義琉舞道場 二代目家元・玉城 秀子 6.前の浜 親泊本流親扇会 二代目家元・親泊 興照 7.稲まづん 玉城流翔節会 家元・玉城 節子 8.秋の踊り 宮城流 宮城能造 二代目家元・宮城 能造 9.鳩間節 貞扇会 二代目家元・山内 小夜 10.浜千鳥 琉舞緑扇会 会主・池原 勝子

 琉舞の奉納が終わったのが16時15分頃だった。なんみん祭の催し物としては、この後18時から若狭公民館でのど自慢大会が行われるようだが、だいぶ時間が開くのでスーパーで買い物をして帰宅した。
 今日は5.15平和行進の最終日。テレビのニュースが、その様子を伝えていた。 琉球新報の記事。写真は、なんみん祭での琉球舞踊の奉納。

*2014年5月20日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダからの那覇市内)
*2014年5月21日のPhoto Diaryはこちら
5月21日のスナップ。軍用機が離発着する嘉手納基地
↑朝から晴天。午前中に借りていた本を返しに若狭図書館へ行くが、閉まっていたので返却ポストに投函。
 お昼にそうめんと納豆ご飯を食べてから、久しぶりに自転車で嘉手納の方へ。陽射しはあるが暑くはなく、空気が乾いていて風が気持ち良い。サイクリング日和だ。
 泊市場、国立劇場おきなわの前を通り、キャンプ・キンザーの脇道を抜けて国道58号に出るお馴染みのルートで北谷へ。途中、浦添にあるソニーのサービスセンターに寄ったり写真を撮ったりしていたので、北谷町砂辺にある戦闘機が嘉手納空軍基地に着陸するポイントに着いたのは15時半頃だった。
 1時間半ほど居て、戦闘機の離発着(離陸する所は方向が多分反対なのであまり確認できないが)訓練の様子を眺めていた。他に2人、やはり戦闘機の着陸を撮影に来ている人がいた。
  頻繁に上空を飛ぶ軍用機を見ながら、世界中に散らばるアメリカ軍の基地で使用するガソリンというのは、一日でどれくらいの量なのかと考えて途方に暮れる。 
 そろそろ帰宅ラッシュとなる国道58号を、那覇に向かって走る。北谷辺りは本当にYナンバーの車が多く、半分くらいがYナンバーの様な印象だ。そう言えば、この58号(軍用道路1号)は米軍の緊急時の滑走路としての利用も考えて作られた道路だった。
 家の近く、天久にある吉野家の前を通る。一度通り過ぎてから、牛丼が無性に食べたくなりお店へ引き返す。肉が1.2倍と言うアタマの大盛りとみそ汁を注文。これだけだと夜中にお腹が空きそうなので、新都心のスーパーに入っているパン屋さんへ。選り取り7個540円のセールをやっていた。写真は、頻繁に軍用機が離発着する嘉手納基地。

3月14日(月)

 音楽そのものより、その存在自体が気になるアーティストがいる。2009年7月に亡くなった、川村カオリもそんな一人だ。

 1991年9月11日、表参道にあったロシア料理店「テアトロ・スンガリー」で彼女を撮影した。ソ連でクーデターが起こった1ヶ月ほど後で、ソ連が崩壊する3ヶ月ほど前だ。
 その写真は、ミュージックマガジン1991年11月号の特集「激動のソ連とロック」の中、劇作家・斉藤憐さんとの対談「川村かおりと ひとときをすごして~日ソの狭間から見る 私たちの未来」と題された8ページに掲載された。 
 この日、対談の直前に録音するテープレコーダーを急遽スタッフが編集部へ取りに行かなくてはならなくなって、フォトセッションを先にすることになった。バー・カウンターと、グランドピアノが置かれたフロアでポートレートを撮った。この時、ボクは彼女についてほとんど何も知らなかったと思う。彼女がロシア人の母と日本人の父の間に生まれたハーフだということすら。
 どう話しかけていいかも摑めず、わりと淡々とシャッターを切ったように思う。その時のベタ焼きを見ると、フォトセッションは36枚撮り1本分ほど撮影している。
川村かおり
 いろんなポーズのカットがあるので、ボクがポーズの注文をし彼女が応えてくれたのだろう。笑っている写真、笑顔の写真は一枚もない。たぶんボクは笑顔を注文しなかったのだろうし、彼女が自主的に笑顔を浮かべる事もなかった。
 フォトセッションの後、斉藤憐さんとの対談を撮影した。彼女の生い立ちや、この対談の一ヶ月程前に起こったソ連のクーデター、彼女の音楽感などがそこで語られている。対談中に撮影したフィルム2本分の中に、フォトセッションでは見られなかった屈託のない、或いは少しはにかんだような笑顔の彼女がいる。
 対談の後、表参道の歩道橋の上で斉藤憐さんと並んだツーショットを撮った。ジャケットの下はセックス・ピストルズのTシャツ、短く切ったジーンズから細い脚が伸びている。手の位置や置き方を少しずつ変えてもらいながら撮影していって36枚撮りフィルムの最後、36カット目。それまでレンズを見据えるようにポーズを決めていた彼女が、おどけた顔で横を向いている。その直前、いたずらっ子のような笑顔をカメラに向けた気がした。

 この撮影の半年程前にリリースされた『Church 』というアルバムで、彼女はこんな曲を歌っている。
 戦争が起きたら 君は銃をとるのかな
 戦争が起きたら 僕は銃をとるのかな
 早く天使よ目覚めて 僕らに道を教えて
 早く女神よ目覚めて 僕らに道をてらして

 斎藤憐さんも2011年10月12日に亡くなり、当時オープンしたばかりのテアトロ・スンガリーは2006年12月に閉店している。YouTubeから「戦争が起きたら/川村かおり」。

 しばらく前にミノルタのフラッシュメーターIV型(露出計)を使おうとしたら、ボタンを押しても反応しなかった。その後、受光球を付けたり外したり、或いは裏蓋のネジを外すと一時的に反応したりもしたが、直ぐに使えなくなった。これは一度内部を軽く掃除すれば復活するのだろうか?と思いネジを外して裏蓋を開けたところ配線が一本切れてしまった。どこに繋がっていたかもわからない。直そうと思ってトドメを刺してしまうという、自分にはよくあるパターンだ。
 今のところ直ぐに必要ではないし無くてもなんとかなるが、やはりメーターを持っているのはフォトグラファーとしての身だしなみのような気がする。ミノルタという会社自体がなくなっているし、他のメーカーのモノを買おうかと思っていたら、ヤフオクにIV型が出品されていた。ちょっと競って5,259円+送料750円で落札した。
 商品説明には通電確認のみで、その他の動作は未確認だったのでちょっと心配もしていたが、届いた商品は思っていたよりキレイで、定常光もストロボ光もきちんと測れたので安心した。
 フラッシュメーターとポラは、フィルム時代の必需品だった。カメラはモノクロとカラーの両方を装填できるように最低同じカメラを2台持っていた。一番長く使ったミノルタのα9000は、これに裏蓋をポラロイドフィルムを装填できるホルダーに付け替えたものと、予備のカメラを含めて4台持っていた。なのでカメラとレンズは壊れても自分の機材でなんとかなったが、フラッシュメーターが故障したときは困った。スポットメーターも持っていたけれど、用途が違うので代わりにはならない。幸いミノルタのプロサービスに入っていたので代替機を出してもらえたが、撮影の途中に故障すると本当に焦った。まあ、メーターの故障なんて滅多になくて、30年以上使って10回もなかったと思うけれど。
 下の写真は、ヤフオクで落札したフラッシュメーターIV型。傷もほとんどなく、ケースもキレイ。取説はネットにファイルがあった。
ヤフオクで落札したミノルタのフラッシュメーター
 今日の沖縄タイムスに、伊是名島の仲田集落で幻の花とも呼ばれるイルカンダが開花したという記事が掲載されていた。その記事の中で、花の香りは独特で「排ガスのよう」とも言われると書かれていた。そ・・・そう?
 イルカンダは奄美・沖縄といった亜熱帯に分布るすマメ科の蔦植物で、大きな紫の花が房状になる。奄美大島に住んでいた時に、群落のある住用町へ2回ほど撮影に行ったが、そんな強烈な臭いはしなかったと思う。
イルカンダ
↑奄美大島の住用町に群生しているイルカンダ。2012年4月22日撮影。

「ノーモア沖縄戦 命(ぬち)どぅ宝の会」の発足集会が今週の土曜、19日に沖縄市民会館・大ホールで開催される。こちらでライブ配信が行われるようだ。
 この他の気になった記事を備忘録として。
ロシア、ザポロジエ原発を接収と主張
イラク北部の米領事館近くにミサイル着弾 米「イランから発射」
パキスタンにミサイル誤射 インドが発表
ウクライナ「原発危機」 チェルノブイリ、ザポロジエ…ロシア、相次ぎ制圧 電力を「人質」に
【独自】大阪府がコロナ宿泊療養施設費でアパホテルに40億円強を支出 他のホテルの2倍以上で「優遇」の声
【速報】伊江島で小型機墜落 2人死亡 医療NPO「メッシュ」所属

 Photo Diaryを更新。
*2014年5月5日のPhoto Diaryはこちら
奥集落の鯉のぼり祭り
↑朝から雨。インターネットのニュース欄に地震速報があったので、急いでテレビのスイッチを付けると東京で震度5の地震があった。
 昨年のゴールデンウイークは辺戸岬まで行ったので、今日は辺戸岬の先、沖縄本島の北の最果てにある奥集落へ行く事にする。天気予報では一日中雨なので、明日にしようかな~と多少迷うが、行ける時に行っておく事にする。
 奥に行くには路線バスで行ける最北のバス停・辺土名で、村営バスに乗り換える。奥行きの村営バスが辺土名を出発するのが11時30分。それに間に合うように乗り継ぎを組み立てると、昨日と同じく最寄りのバス停を7時28分に出る20番の名護西線に乗車する事になった。
 名護BTで10時出発の67番・辺土名線に乗り換え。終点の辺土名BTで降りて村営バスを待ってもいいが、一つ手前のバス停の向かいに村営バス乗り場があるので、そちらで下車して待合所へ。奥集落では3日から今日まで、鯉のぼり祭りが開催されており、それを見ようと言う家族連れが多く待合所は満員だった。
 30分ほど待って、奥行きのバスに乗車。海岸線を走る国道58号を通り、途中途中の小さな集落に寄って辺戸岬へ。そして山の中を抜けて終点の奥に到着した。普段は2人くらいの乗客だと言うが、今日は10人ほど乗っていただろうか。 
 バス停で降りると、目の前の奥川にたくさんの鯉のぼりが泳いでいた。雨だったのであまり期待していなかったのだが、白く煙るやんばるの森を背景に泳ぐ鯉は幻想的で美しかった。
 バスは13時30分に辺土名へ引き返す。滞在できるのは1時間強だ。この後に最終となる16時の便もあるが、暴風雨の中、あまり長居もしたくない。
 鯉のぼりを眺めてから、集落の中を散策。そう言えば沖縄から奄美、鹿児島へと続く国道58号の起点は奥なのだが、起点となる場所はどこだろうと思い祭り会場のスタッフの女性に尋ねると、歩いて5分ほどの所にある橋の袂が起点だと教えて下さった。遠ければ諦めたが歩いて5分なので、傘が飛ばされそうになりながらも行ってみた。
 橋の欄干の横には起点と書いた標識が立っており、その横にはモニュメントが設置されていた。 モニュメントの隣りには「国道58号0起点到達証明書」を奥共同売店にて1部100円で販売しているという案内板があったので、さっそくバス停の向かいにある共同売店で購入。レジの女性が日付と番号をボールペンで入れてくれた。 
 訪れた土地で証明書を手に入れるのは、これが2カ所目だ。もう一カ所はポルトガルを旅した時に行ったロカ岬で、ユーラシア大陸最西端の証明書を貰った。
 1時間はあっという間に過ぎて、帰りのバスに乗車。奥の隣りの辺戸集落で、迷彩服の上下を来たオジさんが乗って来た。カメラを持っているのを見て、カメラに詳しいか尋ねられる。撮影の事なら多少解るが、機械のことはあまり解らないと答える。オジさんは大きなバックを持っており、その中に10台ほどカメラが入っていると言う。昔から持っているが使い方がわからないので、これからカメラに詳しい知り合いに使い方を聞きに行くそうだ。そう言ってバックの中を見せてくれたが、古いフィルムカメラが無造作に押し込まれていた。カメラの話し、集落の祭祀の話し、オジさんの仕事の話しをしているうちに辺土名に到着した。 
 他の乗客の人達は名護行きの辺土名線に乗り換えたが、辺土名と言えば波止場食堂。ちょっと遅めのお昼ご飯を食べに、食堂のある漁港の方へ歩いて行く。波止場食堂には過去3回来てカツ丼を食べているが、今日はやはり名物のポーク玉子を注文。暫くしておばさんが運んで来たトレーには、大きなお皿にベーコンとソーセージがてんこ盛りになっていた。
 ベーコンの下には、ポーク(ランチョンミート)、卵焼き、ハンバーグ、トンカツ、煮魚、イカ、ホタテ、マカロニサラダ、 レタス、青菜の和え物が隠れていた。 
 食べきれなかった料理をプラスチック容器に詰めて、辺土名BTへ。15時30分の辺土名線で名護へ。名護から名護西線で那覇へ帰る。
 沖縄は今日、梅雨入りした。那覇ハーリーの3日目、本バーリーは雨で中止になってしまった。
*本日の出費。辺土名ー奥 600円X2、国道58号「0起点」到着証明100円、ポーク玉子650円。写真は、奥集落の鯉のぼり祭り。
*2014年5月6日のPhoto Diaryはこちら
美ら海水族館
↑フリー乗車券を使えるのも、今日が最後。昨日、一昨日に続いて今日もやんばる方面へ。沖縄観光の定番スポット、本部半島にある美ら海水族館へ行く事にする。
 今日はゆっくり目で、最寄りのバス停を9時43分に出る名護西線に乗車。酷い渋滞は無かったが、それでも終点の名護バスターミナルに着いたのは15分ほど遅れた12時過ぎだった。
 美ら海水族館のある海洋博公園へ行くには名護BTから本部半島線に乗り換える。本部廻りも今帰仁廻りも本部半島を一周するのでどちらに乗車しても行けるが、距離が短いのは本部廻りのようだ。しかし、11時45分発の本部廻りが出たばかりで、次は13時20分までない。今帰仁廻りは12時25分があるので、こちらで行く事にする。バスの運転手さんに海洋博公園へ行くか確認すると、このバスは謝花経由なので、海洋博公園には停まらないので、浦崎で降りて15分ほど歩く事になるとの返事。それでも1時間以上本部廻りのバスを待つよりはいいだろう。ターミナルの売店でサンドイッチ1つと2個入りのおにぎりを買って乗車する。バスはお年寄りを中心に満席で、皆さんゴールデンウイークのフリー乗車券をお持ちのようだ。
 50分ほどで浦崎に到着。お腹が空いたので先ほど買ったサンドイッチを頬張りながら、運転手さんに教えられた方角に歩いて行く。随分と歩いたな~と思う頃に、海洋博公園の南ゲートに到着。水族館のある中央ゲートまでは、さらに歩く。とりあえず公園のベンチに座っておにぎりを食べて一休み。
 食べ終わり、植物管理センターと言う施設の中で沖縄のランの写真が展示されていたので、ささっと見てくる。名瀬に住んでいた時にも思ったが、奄美・沖縄に生息する野生のランの種類の多さにビックリする。
 植物管理センターを出て熱帯・亜熱帯都市緑化植物園の中を抜け、熱帯ドリームセンター、沖縄郷土村の横を通って目指す美ら海水族館に到着。連日の旅疲れもあって、南ゲートから中央ゲートまで歩くだけで結構しんどかった。
 水族館に行くと14時30分からのイルカショーの案内がスピーカーから流れて来た。あと5分ほどで始まるので、まずはこちらを見学。ショーの行われるオキちゃん劇場は野外にあり、入場券がなくても観れるようで太っ腹ですね。
 20分ほどのショーを見終えて、ようやく水族館へ。見学順路の案内に従って見て行く。驚いたのが、水槽がクリアな事と照明が極力反射しない様に設置されている点だ。水槽の外から撮影しているのに水中写真風にクリアに撮れる。それにしても色んな顔・形の魚がいますね。
 圧巻はやはり、巨大なジンベーザメやマンタが悠々と泳ぐ大水槽。ジンベーザメが3匹同時に姿を現わすと、迫力あります。
 1時間ほど水族館の中を見てから、外にあるマナティー館とウミガメ館へ。こちらも無料で見学できる。やはり太っ腹ですね。
 水族館の後に熱帯ドリームセンターを見学しようと思っていたが、総合案内所で貰った帰りのバスの時刻表とにらめっこすると、あまり長くは居られないので近くにある海洋文化館に入ることにする。名護BTから那覇行きのバスの最終は20時まであるが、余裕をみて17時16分に中央ゲート発の70番・備瀬線で帰る事にする。これだと名護BTに18時5分に到着する。
 海洋文化館に入り170円の入場券を購入。16時半からプラネタリウムが上映されると案内されるが、上映時間が30分ほどなので他の展示物を見る時間が無くなってしまうのでパスすることに。ホールには大型のカヌーや、沖縄・奄美の伝統的な漁で使われていた舟・サバニなどが展示されていた。 
 この海洋博公園は、昭和50年に沖縄で開催された沖縄国際海洋博覧会の跡地に作られた公園。そう言えば高校の頃、一つ年下の女の子が修学旅行で海洋博覧会に行き、お土産に帆船の模型を買って来てくれたのを思い出した。
 船の他、太平洋地域の楽器や、タトゥー(入れ墨)の紹介もある。奄美・沖縄の女性たちも、嘗てはハジチ(入れ墨)をしていた時代があった。
 1時間ほど館内を見てまわったが、何回か通うか、腰を据えて一日居ないと見切れないほどの展示だった。
 17時に文化館を出て中央ゲートへ。しばらく待って70番の備瀬線に乗車。この路線は本部半島の山の中を通って名護へ向かう。車窓からは、ヘゴの木がたくさん生えている山原らしい風景が眺められる。
 18時過ぎにバスターミナルに到着。那覇行きは名護西線、名護東線共に18時30分に出るが、77と書いた東線のバスが既にロータリーで待っていた。臨時便だと言う。どっちみち今日は東線で帰ろうと思っていたので、迷わず乗車。18時15分にターミナルを出て、那覇に向かった。
 ゴールデンウイークの最終日、渋滞もない。辺野古、金武、コザを通って那覇に入る。最寄りのバス停に着いたのは、20時40分頃だった。
*本日の出費。サンドイッチ150円、おにぎり2個セット150円、海洋文化館入場料170円、ジュース100円。写真は、美ら海水族館。
*2014年5月7日のPhoto Diaryはこちら。(母たちの神、パイナップル)
*2014年5月10日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダからの那覇市内)
*2014年5月11日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダからの那覇市内)
*2014年5月12日のPhoto Diaryはこちら。(本マグロのステーキ、刺身はぎれ、冬瓜漬、泡盛・國華)
*2014年5月14日のPhoto Diaryはこちら。(月)
*2014年5月16日のPhoto Diaryはこちら
浦添ようどれ
↑朝から青空。こんなに晴れるとわかっていたら、フェリーで座間味島に行く予定でも立てておけば良かったと思うが、もう遅い。ならばバスを乗り継いで伊計島はどうだろうと時刻表を見て検討したが、今日は平日で土日祝一日乗車券は使えないのだった・・・orz。 
 ならば近場にあり前から訪れようと思っていた中山王陵・浦添ようどれ行きにする。ネットで調べると55番の牧港線に乗車し、仲間バス停で下車するらしい。55番線は最寄りのバス停にとまらないので、自転車でおもろまちへ。おもろまち駅前に着いたら、ちょうど12時33分発の牧港線がやってきた。 
 13時頃に仲間バス停に到着。バスを降りると、浦添ようどれがある浦添城跡への案内表示板があった。表示板に従って住宅街の坂道を5分ほどあがったところに資料室である浦添グスク・ようどれ館がある。100円の入場料を払って、まずは展示資料を見学。
 メインの展示物は、浦添ようどれの西室(英祖王の墓)の内部を実物大で再現した部屋で、かなりリアルな石厨子が置かれていた。西室を見てからロビーにあるテレビで三山時代の琉球の歴史や、浦添グスクについてのビデオを観る。ビデオは2種類あったが、先ずは1種類を観て、実際に城跡を見学してから戻って来る事にする。
 国指定史跡・浦添城跡というパンフレットを貰い、その中に掲載されている地図を見ながら浦添ようどれへ。入り口までは歩いて2、3分の距離だ。
 浦添ようどれは2005年の4月に復元工事が終了し、現在は無料開放されているが、先の沖縄戦で大きな被害を受けている。破壊された写真や、復元工事の様子もようどれ館に展示されている。
 浦添ようどれを出て、城跡の中にある伊波普猷のお墓やディーグガマを見てから、もう一度浦添グスク・ようどれ館へ。ロビーの椅子に座り、休憩がてらまだ観ていなかったビデオを鑑賞。
 ところで再現された西室の中にある石厨子の中には洗骨した骨(レプリカ?)が納められていたが、洗骨する前の遺体はどこに安置されていたのか気になった。シルヒラシ(仮墓)のような場所はなかったのか事務所にいらした職員の方に聞いたが、仮墓の存在は不明だと言う。ただ西室に奥室があり、そこが仮墓だったと考える説があるようだ。
 浦添ようどれ館の横に小さな公園があり、展望台があった。櫓に上って普天間の方を見ると、飛行場にオスプレイがたくさん駐機していた。
 浦添ようどれ館から、坂道を下りてバス停へ向かう。この坂道の先に城跡があるとは想像もできない、真新しい住宅が並んでいる。強い陽射しに当たって、全てが白日夢のようだ。
 55番の牧港線は1時間に2本ほど走っているので、10分ほど待ってバスが来た。
 自転車をとめてある、おもろまち駅前で下車。 自転車に乗って安里にある床屋さんへ向かう。
 消費税増税後、初めての散髪。平日ならカット700円だったが、4月1日からはカット1000+消費税で、1080円になってしまった。それでも十分安いんだけれど。
 髪を切ってスッキリし、途中のスーパーで食材を買って帰る。晩ご飯は、イワシ揚げと冷蔵庫にある野菜を具にした、沖縄風やきそば。味付けは塩こしょうとお醤油にした。麺が油でコーティングされているのが沖縄風だろうか?写真は、浦添ようどれ。

3月11日(金)

 今日は高岡でも最高気温が20℃近くまで上がり、春らしい陽気になった。テレビや新聞は東日本大震災とウクライナのニュースで一日終わるかと思っていたら、鶏卵最大手のイセ食品が更生手続きに入ったという衝撃的な記事が飛び込んできた。イセ食品の創業家出身で長年にわたり代表取締役を勤めていた伊勢彦信前会長のご自宅は、家から自転車で20分ほどの距離にある。
 伊勢彦信前会長のコレクションを展示したギャラリーが町内にあり、最近一般公開されたので、実は今日、見学に行こうかと思っていたが、両親が出かけたので取りやめた。このギャラリーの今後の行方も気になる。

 一昨日、ウクライナ北部にあるチェルノブイリ原発で、ロシア軍が外部からの電力供給を切断したというニュースが流れた。昨日になってロシアのエネルギー省は隣国ベラルーシから供給を受けて、チェルノブイリ原発の電力が復旧したと明らかにした。しかし、IAEA(国際原子力機関)によるとロシア軍に制圧されたザポロジエ原発からIAEA本部へのデータ送信が途絶えているそうだ。こちらも心配だ。

 この他の気になった記事を備忘録として。
普天間騒音訴訟、国に賠償命令 那覇地裁支部、約13億円
小池百合子都知事が神宮外苑の樹木伐採を容認 「創建の趣旨にかなう」 事業者の開発計画を評価
絶版本など自宅からウェブ閲覧可能に 国会図書館が5月開始
平成は朱色 令和は黄色に 首里城正殿の扁額「中山世土」2026年度までに完成
ウクライナは紛争当事国じゃない? 自衛隊の防弾チョッキ特例で提供 防衛装備移転三原則の歯止めどうなる 

 Photo Diaryを更新。
*2014年5月1日のPhoto Diaryはこちら
5月1日のスナップ。山川まゆみさん。
↑朝から小雨が降ったり止んだり。那覇の今日の最高気温は23℃、東京は25℃。これから夏にかけて沖縄と関東の最高気温が逆転する日も増えてくる。奄美・沖縄で35℃を越える猛暑日はあまりない。さすがに陽射しは強いが、風さえ通れば快適に過ごせる。
 午後からパレットくもじ6階にある市民ギャラリーで「とわの海へ〜沖縄、辺野古・大浦湾〜/牧志 治写真展」を見てくる。
 写真展の帰り、1階のイベント広場に寄るとRBCのラジオ番組の生中継をやっていた。今日は一日、この広場で生中継をするようだ。
 ちょうど「民謡で今日拝なびら」という番組が始まったので、山川まゆみさんの「ユイユイ」と、前川守賢さんの「かなさんどー」を聴いて行く。
 ユイユイ ユイマール♪今日、初めて正式な曲名を知りました。それにしても、曲も歌い手も明るいな〜。
 さて、5月がスタートした。写真は山川まゆみさん。
*2014年5月3日のPhoto Diaryはこちら
5月3日のスナップ。浜比嘉島のシヌグ堂
↑ゴールデンウイーク後半の初日。今日からゴールデンウイーク・フリー乗車券が使える。色々と行きたい所はあるが、今日は与勝半島巡りにした。
 ちょうど一ヵ月前に、サングヮーチャーを見に平安座島に来ているので、今回はその先にある浜比嘉島、宮城島、伊計島を散策しようと思っていた。
 最寄りのバス停を7時52分に出る27番・屋慶名線で終点の一つ手前のJA屋慶名前まで。9時半過ぎに到着し、直ぐ近くにある平安座総合開発が運行する伊計島行きのバスに乗り換える。この路線はフリー乗車券が使えないが、しょうがない。
 10時に出発したバスで浜比嘉島へ。平安座島から浜比嘉大橋を渡り右手が浜集落、左手が比嘉集落になる。
 浜比嘉島には浜漁港前と比嘉漁港前、一日2本だけだが兼久漁港前に停車する。一番最初に停車した浜漁港前で降りて、まずは浜集落を散策。集落の中を歩いていると公民館の横に地頭代火ぬ神(じとうでーひぬかん)を見つけた。そこから暫く歩くとシヌグ堂の案内標識。標識に従って歩くと、少し山の方に入った所に祠と立派なガジュマルの樹があった。ガジュマルの奥には階段があり、上った所にはお墓らしきものが。
 バスが走る海岸線道路に出て、浜比嘉大橋の方に歩くとヤマトゥンチュー墓があった。元々は浜の砂丘にあったそうだが、海岸線道路の建設に伴い今の場所に移設されたらしい。
 道路を比嘉集落の方に歩いて行く。集落に入る手前にハマガーがあった。うるま市教育委員会の解説には「このカーは、字比嘉のウブガーで、正月元旦の若水をくむ井泉です」と書かれている。
 ハマガーの近くにノロ墓と書いた標示板を見つけた。ノロ墓の横には鍾乳洞があり、入口には厨子瓶が一つ置いてあった。
 ノロ墓から集落の中を少し歩き、アマミチューの墓へ。それから標識にしたがいシルミチュー霊場へ。こちらは比嘉漁港から1キロほど離れた兼久漁港の方にある。
 シルミチュー霊場の手前に大きな看板があり「観光の方はガーデン茶屋で環境エコチケットを購入して下さい」と書かれている。シルミチューの保全のためのチケットだろうかと思い受け付けに行くと、シルミチュー霊場そのものとは関係なく、隣接するシーサイドガーデンの入場料だった。こちらにはミルク門、シルミチューガー、展望台などがあり、当主が色々と説明をしてくれる。が、ネットで検索してもミルク門もシルミチューガーもここを訪れた観光客のブログと施設の紹介ページにしか出て来ないので、遺跡として正式に認められたものではないように思う。
 グランドゴルフの施設や手作りの展望台、展望台の下の崖には防空壕があり、その横には唐突に村獅子(石獅子)が飾られている。遺跡を尋ねるというより、秘宝館に行ったような感じだろうか。
 シーサイドガーデンを一旦出てシルミチュー霊場を見学してから、また戻って来た。最初に購入した300円のエコチケットで、飲み物やかき氷と交換できるのでイチゴのかき氷をもらった。かき氷は大きくて300円の価値は充分にあると思うが、エコチケットという名称が紛らわしいですね。
 浜比嘉島から伊計島方面に行くバスは2時間に1本で、次は1キロほど歩いて戻る比嘉漁港前から14時19分。のんびりかき氷を食べていたら、間に合いそうにないので諦める。その次のバスは兼久漁港にも来るので暫く海岸をウロウロしていたが、次のバスで伊計島に行っても帰りのバスまで2時間ほどしかない。伊計島は日を改めて来る事にして、今日は早めに家に帰る事にする。
 兼久漁港から比嘉漁港、浜漁港へと歩いて戻る。
 帰りのバスは浜漁港前から17時27分に出る。少し時間があるので、商店で揚げたての天ブラを購入。もずく、イカ、魚が2個ずつで350円。食べながらバスを待った。
 時間通りに来たバスで、浜漁港前から屋慶名農協前へ。27番の屋慶名線に乗り換える間に、近くにあったコンビニで美ら海水族館の前売りチケットを購入。沖縄に来てそろそろ2年だが、この定番の観光スポットにまだ行っていないので、ゴールデンウイーク中に訪れようと思っている。
 27番の屋慶名線を待っていたら、那覇行きと書いた52番の与勝線がやって来た。運転手に尋ねると、最寄りのバス停まで同じ位の時間だと言うのでそのまま乗車。20時近くに家に着いた。
アマミキヨ(アマミチュー)。
*「浜比嘉島における神話の世界 加藤 悠」。
*「沖縄人は、九州→奄美→久高島へと移住 桑原正則
*本日の出費。屋慶名農協前ー浜漁港 200円X2、ドリンク付きエコチケット300円、お賽銭30円、天ぷらミックス350円、美ら海水族館前売りチケット1660円。
写真は浜比嘉島のシヌグ堂。
*2014年5月4日のPhoto Diaryはこちら
5月4日のスナップ。ピージャーオーラサイ
↑今日は本部町で、瀬底島ピージャーオーラサイ保存会主催の大会が開催される。ピージャーオーラサイとは山羊が角をぶつけて戦う闘山羊。昨年までは地元の瀬底島で開催していたが、今回から本部町の多目的広場(闘牛場)に場所を移して行われる。午前11時からなので、最寄りのバス停を7時28分に出る20番の名護西線で名護バスターミナルへ。20分ほど遅れて9時44分頃に到着。
 名護BTで、10時に出発の65番の本部半島線(本部廻り)に乗り換える。事前に問い合わせた本部観光協会の話しでは、会場の多目的広場には本部高校入口のバス停が近いという事なので下車。バス停近くの交差点にはピージャーオーラサイの開催を知らせる横断幕が張られており、ここから1.8キロ先と書いてある。えっ、1.8キロ!?とりあえず歩くしかない・・・orz。暫く歩くと道が別れている。真っ直ぐだと思うが自信がないので走って来た車に手を振って尋ねたところ、「多目的広場まで乗せてあげますよ」とありがたいお言葉。親切が身にしみる。歩くと遠いが、車だとピューンで着いた。
 会場に着いたのは、丁度開会の挨拶が始まる頃だった。1000円の入場料を払い、入場券と対戦表を貰う。券には番号が付いており、後でプレゼントが当たる抽選会があるらしい。
 挨拶は5分ほどで終わり、直ぐに最初の対戦が始まった。対戦表には19頭の山羊がエントリーしているが、1頭は欠場。第一回戦はトカラ2号vs山羊十兵衛となっていたが、金丸vs山羊十兵衛に変更となった。なんだかゆるい感じのスタートだ。
 山羊の闘い方は後ろ足で立ち上がり、相手の角をめがけて自分の角を振り下ろす。角と角とがぶつかり合う痛そうな音が聞こえてくるが、山羊たちは闘いながら尻尾を振っていたりもする。また、闘うはずが発情して相手に乗りかかって行く山羊もいる。雄同士なんだが・・・。
 12時20分頃から30分ほどの民謡ショーを挟んで14時半まで対戦が行われた。1試合は15分ほどで、13試合。その内勝負が着いたのは最後の試合だけで、他は引き分けだった。トーナメントでもなく、順位も着かない。それでも何だか面白い。保存会の方の実況中継を聞いていると、本当にこのピージャーオーラサイを好きで楽しんでいるのが伝わってくる。
 一昨年の竹富島の種子取祭で知り合って以来、時々ご一緒する町作りコーディネーターのkazuさんと今日も会場で合流したが、本部高校入り口よりもメージャフというバス停が近い事を教えてもらう。
 会場の受け付けにいらした女性にバス停への道を教えてもらい、その曲がりくねった一本道を歩くと10分ほどでバス停に着いた。
 本部半島線での帰り、名護市街に入ると国道58号が大渋滞している。名護バスターミナルに着いて、ここから那覇まで国道58号を通る20番の名護西線で帰るか、辺野古を経由する77番の東線で帰るか思案。距離自体は20番線の方が短く時間も早いはずだが、ターミナル前の58号の渋滞ぶりをみると東海岸経由の方が順調な気がする。
 17時5分発の名護東線に乗車。名護市街を抜けるまでに時間がかかり、辺野古辺りで道路脇の斜面を何カ所か工事していてそのための渋滞もあった。結局名護から最寄りのバス停まで3時間半ほどかかったが、果たして西線だったらどうだったろうか。
*本日の出費。名護バスターミナルで弁当250円、ピージャーオーラサイ入場料1000円、アップルティーのペットボトル100円。写真はピージャーオーラサイの様子。

3月8日(火)

 今日の午前1時58分頃、石川県能登地方を震源とする地震があり、高岡も震度2だった。けっこう揺れたようで両親は目が覚めたようだが、焼酎を呑んで酔っ払って寝たので朝になってfacebookの書き込みで初めて知った。
 財務省が、沖縄の日本復帰50年を記念した1万円金貨幣と千円銀貨幣を発行すると発表した。1万円金貨幣の表の図柄は、首里城正殿と琉球古典舞踊の「四つ竹」。千円銀貨幣の表の図柄は首里城正殿と県鳥のノグチゲラ、県花のデイゴがデザインされるそうだ。千円銀貨の方は11色の彩色が施されるそうで、鑑賞用ならこちらの方が美しいように思う。
 因みに今年沖縄は復帰50年だが、十島村(トカラ列島)は今年復帰70年を迎えた。そして来年、奄美群島が復帰70年を迎える。
首里城正殿
琉球舞踊の四つ竹

←↑1万円金貨幣の図柄に決まった首里城正殿と、琉球古典舞踊の「四つ竹」。

 1万円と千円なら記念に一つずつ買っても良いかなと思ったが、1万円金貨幣の販売価格は15万3500円、千円銀貨幣は1万1700円だった。それなら1万円金貨幣、千円銀貨幣などと言わず復帰50年金貨幣、復帰50年銀貨幣でいいのでは?

 写真家の初沢亜利さんが、新型コロナ禍の東京を記録した写真集『東京二◯二◯、二◯二一』で、第30回林忠彦賞を受賞した。彼が2015年に赤々舎から出版した写真集『沖縄のことを教えてください』の撮影のため長期間沖縄に滞在していた時、久高島の旧正月と辻の二十日正月で撮影している姿を見かけた。

 この他の気になった記事を備忘録として。
ロシアのウクライナ侵攻で170万人が国外避難民に「第2次大戦以降、最も急速に悪化」 民間死傷者は1200人超
ロシア政府、日本・米国・EUなどを「非友好国」に 制裁に対抗か
ロシアによる、人類史上初の運転中の原子力発電所への軍事攻撃は何を意味するか?
「ロシアが核物質扱う研究所を攻撃」 ウクライナ治安当局が発表
廃校跡にオートキャンプ場 瀬戸内町西古見 再生エネ活用、集落民が運営
福島第一原発「デブリ取り出しは不可能」と専門家 廃炉できないなら「『石棺』で封じ込めるしかない」
広島県議ら34人を一転起訴へ 河井夫妻買収事件で現金受領の疑い

 Photo Diaryを更新。
*2014年4月20日のPhoto Diaryはこちら
4月20日のスナップ。幸地原・赤比儀両門中の清明祭

↑今月6日の日曜日、沖縄で最大の門中墓と言われる幸地腹・赤比儀腹両門中の清明祭はどのように行われるのか気になって見に行った。すると、この日は神清明(カミシーミー)で役員の方が集まっておられた。その中のお一人に、20日に一般の清明祭が開催されるとお聞きした。門中以外の者が見学する事は可能か尋ねたところ、大丈夫ですよとの返事だった。賑やかに行われるという一般の清明を見学に、自転車で糸満まで走って来た。
 12時半頃に家を出て、国道58号から山下大通り、モノレールの下の道を通り小禄バイパスに。瀬長島の交差点から豊見城道路へ入る。
 瀬長島を過ぎて直ぐの所に、ビックアイスのパラソルが。いつも通り過ぎるので、今日は一つ買ってみた。1つ200円。味はバニラとシークヮーサーの2種類あるので、バニラを。ところでビックアイスに纏わる噂にシングルもダブルも値段が一緒というのがある。まさかと思いながら、高校生と思しき女の子に聞いてみると同じだそうです。じゃあ、ダブルでお願いします。
 もう一つ気になっている噂で「食べた後にコーンを持って別の売り場に行くと、おかわりができる」というのがあるが、これは聞いてみる勇気すらなかった。
 14時過ぎに幸地腹・赤比儀腹両門中のお墓の前に到着。入り口の前に男性が立ち、車でいらした方達に駐車場の案内をされている。6日の神清明の時に役員の方から、今日が一般の清明祭だと教えていただき見学に来た事を告げる。敷地に入り撮影しても良いか尋ねると、笑顔で許可が出た。
 敷地の中央、奥にあるのが当世墓(トーシーハカ)で、ここの前に訪れた門中の方々が次々と並び、ビンシー(携帯式御願道具)を出して御願をし、ヒラウコー(平御香)を焚いている。1時間ほど居たが、御願をする人が途切れることはなかった。
 糸満市のHPなどには祀られている先祖の数が約5000人となっているが、今日聞いた男性のお話しでは何万という数字だとのこと。門中は沖縄だけではなく、南米やハワイにも広がっている。そう言えば今年の1月に与那国島で知り合った男性も、ここの門中だった。
 当世墓の前に4つ並んだ大きなお墓はシルヒラシ墓で、ここで安置し洗骨した後に当世墓に納められる。幸地腹・赤比儀腹両門中のお墓については、こちらが詳しい。
 糸満のお墓について詳しく書かれたこちら(リンク切れ)に、山巓毛(サンティンモー)にある下茂腹・茂太腹両門中墓について、
「下茂腹・茂太腹両門中墓の内部は、中央に写真に見るような「納骨池」を中心に、火葬骨を入れた骨壺を洗骨されるまでの間置いておく棚が23か所設けられている。旧暦10月20日にはジョーアキ(門開け)といって、先祖の骨と合祀するために墓を開けて、1年以上経過した遺骨を洗骨し、納骨池に骨だけを入れる。これをウィーアギ(上に上げ)するという」と書かれた記述がある。
  幸地腹・赤比儀腹の場合も、昔はシルヒラシ墓の中に遺体を納めた自然葬だったのかもしれないが、現在は火葬骨をシルヒラシ墓に入れ、その後に洗骨し当世墓に納めるのではないだろうか。
*奄美・沖縄のお墓については、以前こちらにメモしている。
 当世墓、シルヒラシ墓の前だけではなく、敷地の色々な場所にヒラウコーを置き御願をされている。どこに向かっての遥拝なのか尋ねたところ、お参りできなかった他の門中墓の方向だそうだ
 15時半過ぎに見学を終えて、敷地を出る。駐車場の案内係りの男性にお礼を言うと、長く居ましたね〜と関心される。こちらの門中でも一年に一度当世墓を開けるジョーアキ(門開け)が行われるそうで、見学に来てもいいですよとお誘いを受ける。
 せっかく糸満に来たのでロータリー近く、山巓毛(サンティンモー)の中腹にある南山最後の王・他魯毎(たるまい)の墓へ。こちらにも参拝に訪れる人が、今日は沢山いらっしゃるようだ。
 お墓を訪ね歩いているうちに、16時になった。お腹も空いたので那覇へと帰る。途中、先日も寄った道の駅「豊崎」の、おきなわ食菜館 菜々色畑で野菜を購入。17時過ぎにビックアイスの横を通ったが、もう既にパラソルは撤収していた。
 前島のスーパーでコロッケ、食パン他を買って帰る。家に帰りシャワーを浴びて、食パンにコロッケやガーリックチキン、野菜を挟んでサンドイッチを作り、晩ご飯にした。写真は幸地腹・赤比儀腹両門中の清明祭。

*2014年4月21日のPhoto Diaryはこちら。(ジミーのケーキ、バスのフリー乗車券)
*2014年4月23日のPhoto Diaryはこちら。(上空を飛ぶオスプレイ、スペイン風オムレツ)
*2014年4月26日のPhoto Diaryはこちら
4月26日のスナップ。千日のアイスぜんざい
↑昨日、一昨日は雨模様だったが、今日は朝から晴れ。午後から自転車に乗って、日を浴びに行く。
 波の上ビーチに寄ってから、沖縄ガス通りを那覇港の方へ。明治橋からゆいレールの下、329号を走って漫湖公園に到着。いつもは公園の中にあるちょうちょガーデンでオオゴマダラを見て行くが、今日は漫湖沿いのジョギングコースの横を自転車で走り公園を一周した。かなり広い公園です。漫湖の岸には、マングローブが繁っている。
 来た道を戻り、若狭から久米へ。ぜんざいで有名な千日に入る。このお店には、2年前に名瀬から那覇へアパートを探しに来た時に一度入っている。朝からぶどうパンしか食べておらずお腹ペコペコで自転車に乗っていて、お食事と喫茶と書かれた千日の看板を発見。中に入って定食でも・・・と思ったら、食事のメニューは沖縄そばだけだった。どうしようかと少し思案していたら、少し先に2軒ほど食堂があると店主に教えられた。その時の接客がとても好印象だった。結局、 教えられた先にあった高良食堂で那覇で最初の外食をした。なので千日に入るのは2回目だが、店内で何かを食べるのは今日が初めてだった。千日がぜんざいで有名なお店だとは、2年前は全然知らなかった。
 注文した名物のアイスぜんざいは、大きな器にサラサラの氷が山のように盛られている。優しい冷たさで、食べても頭がキーンとなる事がなかった。 
 ぜんざいを食べ終わり、前島のスーパーで今日が特売のクリーム系のコロッケ1個56円を3種類買って帰る。
 天気の悪かった昨日、一昨日は部屋にこもってプリントを作っていた。この何年か御中元と御歳暮に缶ビールを贈って下さる方がいて、お返しに撮影した写真の中から50枚ほどを選んでポストカードサイズにプリントして送っている。
 昨年暮れにも御歳暮をいただいて、早くお返しをと思っていたが、なかなか時間がなくて今になってしまった。今回は55枚の写真を選んでプリントした。ポストカードだけだと何の写真かわからないので、写真の説明を書いたプリントを付けなくてはならない。完成して送れるのは、もう少し先かな?写真は千日のアイスぜんざい。
*2014年4月27日のPhoto Diaryはこちら。(サンエーの餃子、泡盛・島風、パイナップル)
*2014年4月28日のPhoto Diaryはこちら。(屈辱の日)
*2014年4月29日のPhoto Diaryはこちら
4月29日のスナップ。古堅のミーミンメー

↑昭和の日。旧暦4月1日にあたる今日は、南城市の古堅(ふるげん)地区の豊年祭が行われる。この豊年祭はミーミンメーという名称で親しまれており、ミルク神と子供たちの道ジュネー、アシビナー(昔の遊ぶ庭=ひろば)やアシビモー(野原)での奉納芸が行われる。
 事前に区長さんに電話で祭祀の開始時間を問い合わせたところ、道ジュネーは17時からで、御願の方は13時に始まると教えていただいた。
 会場となる公民館へは、沖縄バスの36番・糸満〜新里線で古堅入口のバス停が近いらしいが、 時刻表を調べたら一日4本しかバスが走っていなかった・・・orz。地図を見ると、やはり沖縄バスの40番・大里線の仲程と言うバス停からも歩けそうなので、沖縄バスの事務所に電話で問い合わせる。1キロほど離れているそうだが、散歩だと思えば楽勝だ。

 朝起きておにぎりを作り、魚肉ソーセージやサンピン茶と一緒にバックに入れて、自転車で那覇バスターミナルに向かう。
 11時25分発の大里線に乗車し、45分ほどで仲程バス停に着いた。バスを降りる時に、運転手さんに古堅の方向を尋ねると、少し先の交差点を左折して真っ直ぐ歩けばいいと言う。教えられた通りに15分ほど歩くと古堅入口のバス停があった。途中の山中の道路沿いに、金魚屋があって意表をつかれる。
 古堅入口のバス停の横にガソリンスタンドがあったので、公民館の場所を尋ねるが、従業員の男性は地元ではないのでわからないと言う。困っていたら、中学生の男の子が2人通りがかった。家に帰る途中にあるので、公民館まで案内してくれると言う。
  バスの走る大きな道から集落の中の細い道に入り、5分ほどで公民館に到着。正確には古堅区農村集落総合管理施設という名称のようだ。
 施設の庭では、旗頭の組み立てが行われていた。 暫くして区長さんがいらしたので、先日電話で連絡した者ですとご挨拶し、御願が始まるまで「古堅地区集落地域整備事業 記念誌」を見せていただいた。
 記念誌に書かれているミーミンメーの記述。

 古堅のスディチラーアラシー(豊年祭)
(1)由来
 この行事は元来スディチラーアラシーといわれるが、現在では豊年祭と称される様になっている。
 昔は旧4月1日はクルンゲー(衣替え)の日で、人々はこの日から冬服を夏服のスディチラーに着替えていた 。スディチラーとは芭蕉布であるが、芭蕉の糸を粗く紡いで織ったいわゆる普段着である。人々は新しく織って作ったスディチラーをその日初めて着、他の人と織り方や染め方、柄などをアラシー(争い)した。それでその日をスディチラーアラシーと称する様になった。
 スディチラーアラシーの為に人々は一カ所に集まる様になり、その日1日を話したり、歌い踊ったりして楽しんだ。それが現在の形になったはっきりとした理由はないが、村人が他村の催し物を見物するにおよんで、我が村にも村に見合った芸能をと念じて、首里の赤田のミルクを村に広めるようになったとのことである。しかし、それに関する文献、資料等は無く、あくまで伝承の域にすぎない。首里の赤田から伝わったという理由には、そこで歌われるミーミンメーの曲が赤田首里殿内の曲と同じもので、以前は歌詞も『赤田首里殿内黄金ドゥサガティー』と同様に歌われていた。また当地は首里の御殿、殿内への奉公人が多かったとのことである。しかし、もう一つのハイファーボーに関する由来は全く知られていない。
 スディチラーアラシーが豊年祭といわれるようになったんは、ここに登場するミルクが豊年の神といういことからである。
(2)構成
 この行事は三つの部分に別れる。第一はミルクが登場し、子供等による踊り。第二は青年による棒術いわゆるハイファーボー。第三が青年等による踊りである。

 別の頁には
4月1日:ミーミンメー
 行事として誕生したのは割合新しいといわれ、一種の豊作祈願として行われている。また、この行事に入る2、3日前に、戦前まではスディチラーアラシーというのがあった。スディチラーアラシーとは筒袖着物のことで、主婦たちが芭蕉布で家族の夏用の着物を作って競ったそうである。ミーミンメーの日から衣替えをし、バサージン(芭蕉衣)に着替えた。その日は公民館の仏壇に区長(戦前はカシラグヮー)がウブクを準備して供えた。村の祭りで門中とは直接関係はないがティーラ門中は集落の草わけということで余興なども披露する。
 ミーミンメーの行列は昼から行われ、出発時の先頭はナジナタ、帰りはチョウバンがなる。

 また、記念誌に収載されている地図によれば公民館は嘗てのニードンチ(根殿内?)と記されている。公民館の隣りにある照屋家がティーラ(照屋)門中の元家であり、村のニーヤ(根家)だそうだ。ニーヤとニードンチの関係が今一つわからないが、公民館の中には仏壇があり、7つの香炉が納められているので拝みの場所であったのだろう。
 現在使われているミルクの面は、戦後になって2代目。戦前のミルク面は消失してしまっている。ミーミンメーの祭祀自体は、既に200年続いているという。
殿内
*上の文中に出てくる首里赤田のミルクをお迎えするお祭り、みるくウンケーは2012年8月19日に撮影している。
 13時になって御願が始まった。区長さんと、もう一人の男性がビンシー(携帯式御願道具)を持ってまわる。
 順序は、最初にニードンチだった公民館の厨房にあるヒヌカン(火の神)、ミルクの面が飾られた仏壇。ニーヤである照屋家に移動して、家の裏にあるカー(井戸)の跡、台所のヒヌカン、仏壇、庭にある小屋の中の香炉。公民館の横を上がったお宮(集落に散らばっていた香炉を一つに纏めた祠)、山裾のビジュルの(霊石)を巡った。
 お宮と呼ばれている場所全体が、元々杜(御嶽)で、イビヌ御嶽は、その最も聖なる場所であるイビだったのかもしれないと、想像してみる。
 
 40分ほどで御願が終わって、次に道ジュネーが始まるまで時間がある。お腹が空いたので、持って来たおにぎりと魚肉ソーセージで昼ご飯。集落の中には食堂もそば屋もないので、おにぎりを持って来て正解だった。
 食べた後に村の中を少し散歩すると、小さなカトリック教会があった。奄美大島の集落でよく見かけた手作り感たっぷりの教会だった。
 散歩から帰り、公民館で記念誌を読んでいると子供たちが少しずつ集まって来た。公民館の一室で踊り用衣裳の準備をしている。公民館の仏壇に置かれていたミルクのお面はニーヤに運ばれ、こちらではミルク神、お爺、お婆の着替えが行われていた。
 17時になり、まずは長刀を上に飾った旗頭がニーヤの庭へ。続いて子供たちが入ってミーミンメーが始まった。
 記念誌からミーミンメーの芸の記述を引用する。
 芸を演じる場合は、集落の草分けの照屋家の庭、お宮の庭、公民館の庭、アシビナー(集落内の南西部にある小広場)、アシビモー(集落北側にある広場)の五カ所である。演じる場合には二本の旗頭が立てられる。一本は長さ約二間半の竹の上方に長刀を象ったものを付け、金聲玉振と書いた幟を付けてある。この旗頭はナジナタ(長刀)と呼ばれている。他の一本は長さは同じで、上方に枡と鎌一丁を象り豊年と書いた幟を付けてある。これはチョーバン(枡)と呼ばれている。この二本の旗頭は演ずる場所が移る度に移動する。その際は必ずナジナタが先になり、次が参加者でチョウバンは最後になる。その理由はナジナタで厄を払い、チョウバンに五穀を入れ豊年にするということである。
 ミーミンメーでは、子供たちが耳を両手でつまんでミーミンメー シーヤープとお囃子を歌う。
1.古堅の村は 黄金灯籠がさがって それが輝くと 弥勒世果報
(ミーミンメー シーヤープは囃子)
2.東の空が明るくなると 学問を習いに行く 髪を結って下さい 私の父母よ
3.たいそう豊かな 古堅の島は 揃う若者の ならんだ美しさよ
4.今年の四月に 遊びはじめて 来年の四月には さらに遊ぼう

 このミーミンメーと「赤田首里殿内/ネーネーズ」、「ミルク節/(字兼久)」はほぼ同じメロディーですね。そして「年中行事口説/照屋林助」も。
 18時半頃にアシビモーでの踊りが終了し、区長さんの挨拶があった。昼の部はここまでで、次は20時から公民会で夜の部が行われる。参加者はゆっくり公民館へと歩いて戻る。旗頭は集落の四辻でガーエーを行っていた。

 できる事なら夜の部の歌や踊りも見たかったが、帰りのバスの時間もある。最終バスは仲程を21時8分なので、少しなら見れない事もないが乗り遅れると大変な事になる。終電の一つ前は仲程を20時38分なので、夜の部が始まると同時に出なくてはならない。結局始まる少し前にご挨拶をし、公民館を出て夜の暗い道を1キロほど離れた仲程のバス停まで歩いた。
 バス停で少し待って、やって来た40番の大里線で那覇バスターミナルへ。お腹が空いたのでちょっと遠回りだが、久しぶりに高良食堂へ。営業時間は21時までだったようで、片付けの最中だった。気を取り直して国道58号線沿いのハイウエイ食堂へ。いつの間にか食券の自動販売機が導入されていた。色々と悩んでナス味噌煮を選んだ。
 残念ながら観ることはできなかったが、夜の部のプログラムです。
1.かぎやで風 2.開幕のあいさつ 3.上い口説 4.南城市音頭しんか揃りとて 5.繁盛節 6.花笠節・鳩間節 7.国道508号 8.前の浜 9.早口説 10.二才ゼイ 11.六忠臣 12.わした踊い広場 久部良大漁音頭 13.下い口説 14.三線独り語り 15.稲しり節 16.久高〜 17.カチャーシー 18.御礼挨拶
*昨年行われたミーミンメーの映像がYou Tubeにありました。こちら
*本日の出費。那覇バスターミナル〜仲程 450円x2、ナス味噌煮530円。写真は宮の祠の前でミーミンメーを歌う子供たち。

3月5日(土)

 昨日の午前、ロシア軍がウクライナ南東部にある欧州最大規模のザポロジエ原発を攻撃し火災が発生したというニュースを聞きゾッとした。ウクライナの外相はザポリジエ原発が爆発すれば、チェルノブイリの10倍の被害を及ぼすだろうと公式のツイッターで警告した。その後、燃えたのは原発近くの訓練用建物で、火は消し止められたとの報道が流れて少し安堵したが、原発はロシア軍に占拠されたようだ。これでロシアは事故を起こしたチェルノブイリ原発と、ウクライナ最大のザポリジエ原発を人質にした形だ。もしプーチンが原発を爆発、或いは核のボタンを押すようなことがあれば世界は異次元の争いに突入するのだろう。核は抑止力で実際に使用することはない。そんなことをする国も、そんなことをするバカな権力者もいない。それを前提に核保有国は、核爆弾の数を増やしてきた。しかし、その前提に根拠はなくただの願いだった。核を使用する国が出現するのは想定外だったというかもしれないが、想定外ではなく考えたくなかったので想定しなかったのだ。
 想定していないといえば、日本の原発に対するミサイル攻撃だ。 2015年に山本太郎氏が原発へのミサイル攻撃に備えているかと質問したところ、原子力規制委員会は「(電力会社に)弾道ミサイルが直撃した場合の対策は求めていない」と答えた。また2017年に長妻昭氏がミサイル攻撃を受ければ事故以上に被害が大きくなると指摘したが、規制委は「そもそもミサイル攻撃は国家間の武力紛争に伴って行われるもので、原子力規制による対応は想定していない」と答えている。
 原子炉は分厚い鉄筋コンクリートの建屋の中にあり、炉も厚さ20センチの鋼鉄製でできているという。電力各社はどの程度の攻撃、衝撃に耐えられるか非公表としており、原子炉自体はミサイル攻撃に耐えられる設計になっているのかもしれないが、福島原発がメルトダウンしたのは原子炉が原因ではなく津波で外部電源を喪失し原子炉を冷却できなかったからだ。実際には放射線量が高くて原発内部の検証すらできていないので、他にも要因があるかもしれない。
 ミサイルが原子炉を直撃しなくとも、原発の敷地に落ちてパイプのいくつかが切断されただけでも制御不能になるのではないかと思っている。
 2017年に以下のような文章を書いている。

 一昨日の早朝、北朝鮮が発射したミサイルが日本の550キロ上空にある宇宙空間を通過して、襟裳岬の東1,180キロという日本の排他的経済水域の遥か向こうの地点に落下した。これを総理は「我が国に北朝鮮が弾道ミサイルを発射」と発言し、「これまでにない深刻かつ重大な脅威」と記者会見で述べている。どの部分が深刻で重大なのだろうか。
 北朝鮮の日本への脅威なら、もう10年以上も前から始まっており、それは当時から深刻なものだった。既に準中距離弾道ミサイルのノドンは日本に向けられており、向けられた日本海側にはズラリと原発が建ち並んでいる。2014年3月26日には、実際に日本海に向けて2発、発射されている。
 アメリカを威嚇し牽制するために日本の遥か上空の宇宙空間を通過して排他的経済水域の向こうに落ちるミサイルよりも、日本を射程圏内とするノドンの方が脅威であり、そこに原発が建ち並んでいる事のほうが深刻な問題だろう。
「国民の生命を守るために万全の態勢を取ってきた」と話すが、原発がミサイル攻撃されたら?という質問に、政府が明確な答えを出したのを見た事がない。軍事ブロガー氏が以前、原発の主要部コンクリート壁は航空機が突入した程度なら耐えられると発言しているが、彼は福島第一の過酷事故の引き金が外部電源だった事をもう忘れたのだろうか?

 原発を抱えることの危険性をウクライナへのロシアの侵攻で突きつけられていながら、昨日、国民民主党の玉木代表が岸田首相との会談で法律に基づく安全基準を満たした原発の再稼働に取り組むよう要請したという。バカなんだろうか。それとも、そうまでして与党に入りたいのだろうか。前から信用はしていなかったが、最近の行動は理解を超えている。
 ロシアで反戦を訴えた50都市の約7000人が逮捕・拘束され、中には小学校低学年と見られる3人の児童も含まれているという。その児童が連行されて護送車に押し込められた写真がネットで拡散し、その非道ぶりが波紋を呼んでいるようだが、ジャーナリストの大矢英代さんが、こんなツイートをしている。そう、ロシアの行動も狂気だが、日本も同じようなことをしている。ただ違うのは、憲法で権力者(バカな為政者)が一線を超えないように縛りをかけている。
 安倍元首相が、共産党の志位委員長の「仮にプーチン氏のようなリーダーが選ばれても、他国へ侵略できないようにするための条項が憲法9条だ」というツイートに対し「思考停止だ」と批判し「志位氏の言っていることは空想の世界だ」と断じたそうだ。いやいや、憲法9条は安倍さん、あなたのような人から国民を守っているのです。知性も良識も責任感もないのに世界の中心に立ちたがる、あなたのような人から。
  一部の政治家が緊急事態条項を憲法に新設しようとしているが、憲法は国民を縛るものではなく権力者(政治家)が暴走しないように縛るものだ。何度も書くが憲法で敵国のミサイルは止められないが、バカな為政者の暴走で戦争に巻き込まれることを止められる。そのことによって憲法は国民や自衛隊員の命を守っている。 

 Photo Diaryを更新。
*2014年4月15日のPhoto Diaryはこちら
4月15日のスナップ。那覇クルーズターミナル

↑午前中に洗濯。お昼ご飯を食べて、部屋を掃き掃除してから、天気も良いので自転車でブラブラ走ろうと思いエレベーターで1階へ下りて行く。
 郵便受けを開けると、出版社から支払い通知書が一通。昔撮影した写真を1カット、雑誌で再使用したとして使用料が振り込まれていた。ラッキー。1回飲みに行けば消えてしまう金額だが、ありがたい。すっかり気が大きくなって、前から食べてみたいと思っていた謝花きっぱん店きっぱん冬瓜漬を買いに行く。
 国際通りから松尾消防署通りに入って直ぐのところに、お店はあった。白くて丸いきっぱん1個380円と、黄金色の冬瓜漬1個200円を購入。大きさの割りには、いいお値段なので、気が大きい時でないと買えないな。
 買い物を終えて若狭の方へ自転車で走ると、大型のクルーズ船が停泊していた。せっかくなので、最近完成した那覇クルーズターミナルの中に入ってみる。伝統工芸品の展示スペースなど、内部はもう少しかかるようだ。
 ターミナルを出て、波の上ビーチ、波の上うみそら公園を走り、帰りは波之上臨港道路を通って帰って来た。
 家に帰って早速きっぱんと冬瓜漬を、少しずつ食べた。
 冬瓜漬が絶品で驚いた。砂糖をまぶした表面はサクッと、そして中はしっとり。サクッふわ〜で、口の中に甘い蜜が広がっていく。こんな食感は初めて。日持ちがするので、薄くスライスして味わって食べよう。200円でも充分幸せな気持ちになれるお菓子だ。
 ベランダに出ると、満月が出ていた。

二人は岸を離れ、世界を見るために漂う漂流者
見るべき世界はたくさんあるわ
二人は同じ虹の端っこを追いかけているの
それは、あのカーブを曲がったあたりで待っているかもしれないわ
幼馴染みの冒険仲間、ムーン・リバーと私

You Tubeから「Moon river/Aoi Teshima」。

*2014年4月16日のPhoto Diaryはこちら
4月16日のスナップ。那覇地裁に向かう代表団

↑ 昨年の暮れ辺りは、全国放送のニュースや情報番組でも大きく取り上げられた辺野古の基地建設問題。最近はすっかりSTAP細胞の話題に隠れて、他の重要な問題ともども報道される機会が少なくなっている。
 仲井眞沖縄県知事が沖縄防衛局に対し、昨年の12月27日付けで出した公有水面埋立承認処分を取り消すよう求める裁判が始まった。
 今日は、那覇地裁で13時30分から第1回口頭弁論が行われる。それに先立ち12時から事前集会が開催されるのを辺野古浜通信で知り参加して来た。
 家に帰り夕方のニュース番組をチェックするが、韓国の旅客船が沈没するという大きな事故があったためか、ローカル局でしか放送されなかったようだ。

 昨年の11月、県外移設を公約にして当選した自民党の5人の議員が党本部で石破茂幹事長と会談し、辺野古移設を容認した。その時の会見で、5人の議員が叱られた子供のようにうなだれて椅子に座らされている姿が眼に焼き付いている。これら一連の動きを廃藩置県によって琉球国が滅ぼされた琉球処分になぞらえて、21世紀の琉球処分、或いは2度目の琉球処分と呼ぶ声もある。

 日本政府は1879(明治12)年3月、武力を背景として琉球国の併合に乗り出した。首里城は3月27日から、日本軍によって占拠されたため、国王尚泰は29日、首里城を立ち退いて中城御殿へ移転した、そして、琉球国は事実上崩壊した。
 首里城は国王の居所や政務空間というだけではなく、王権の正当性を担保した各種の儀礼を行う空間でもあった。首里城正殿の「センミコチャ」では、サンノ阿武志良礼によって毎朝焼香がなされ、城内の10か所の御嶽などでは節目に上級女神官らによる祭祀がなされていた。首里城明け渡しは、国王が退いただけではなく、祭祀空間を失うことであり、全国の祭祀を集約してきたものの喪失でもあった。
 琉球国の国権を接収した日本は中央機構を解体したが、政権交代による社会混乱を抑えるため、地方組織などを温存した。これは祭祀組織でも同様で、中央の上級女神官は廃止されたが、地方の女神官は温存され続けその報酬は昭和期まで支払われていた。
 地方の女神官組織は温存されたものの、祭祀にとっては琉球国併合以前と以後とでは、その根本的な意味が変化している。祭祀の目的だった琉球国は滅亡し、国王は不在となっていた。そして、祭祀世界を集約する首里城も日本軍に占拠されることになった。国家祭祀はその目的を奪われ、中核部分の祭祀空間や担い手を喪失してしまったのである。琉球国滅亡は、琉球の祭祀空間を支えてきた社会環境を根本から変えることになった。
~略~
 日本は沖縄統治政策の一環で、教育による「日本化」を積極的に押し進めるのと同時に、琉球の祭祀の再編を画策し続ける。1882(明治15)年に沖縄に派遣された参事院議官補の尾崎三良は、聞得大君の祭祀空間でもある聞得大君御殿を官弊社に列し天皇の体系に組み入れようと考え、外にも琉球の祭祀にとって重要な「火の神」を天照大神と関連づけようとする提案などもあった。琉球の祭祀の対象を日本の神々と結びつけて行く仕掛けだ。また、昭和初期に琉球の祭祀を研究し、沖縄県にも勤めた鳥越憲三郎は、祭祀空間の一つ御嶽を神社に作り変えようと主導したりした。
 八重山では昭和期に女神官らが戦勝祈願に駆り出され、御嶽が戦勝祈願の場として使われたりした。このような祭祀の再編、天皇の体系との結合の試みは沖縄戦まで続く。日本は琉球国のために存在していた琉球の祭祀空間、祭祀対象、司祭者などを、改変して日本の祭祀と関連づけ、日本(天皇)のための祭祀へと転換させようとしたのである。

*『母たちの神/比嘉康雄展』の図録に収載されている、後田多 敦 海邦市民センター代表理事による「古層のバトンを受け取った比嘉康雄」の中から引用。 

 米軍が整備した軍用道路1号(現在の国道58号)が通る西海岸。那覇軍港、普天間、嘉手納という米軍基地を繋ぐ大動脈だ。拳銃とブルドーザーによってこの道路が造られた時、御嶽や拝所といった祭祀空間も取り壊されたり、基地の中に囲い込まれたに違いない。那覇から名護へ至る西海岸で、嘗ての琉球の面影を探すのは難しいように思う。
  本島北部(やんばる)の東海岸にあり、今回辺野古の新基地建設のために埋め立てられようとしている大浦湾は、多様な生物が生息する豊かな海だ。そして、この大浦湾に面する集落は琉球の祭祀空間である神アサギやノロ殿内が今なお残されていたり、旧暦行事が大事に行われていたりする。昨年、カジマヤー祝いを見せていただいた久志や瀬嵩集落もここに位置する。
 自然だけではなく、今や琉球の面影が僅かに残る場所としても貴重な地域だと思う。海を埋め立てて作られる基地だが、そうした周辺集落の生活や地形にも影響を与えないとは言えないだろう。写真は那覇地裁に向かう代表団。
*沖縄タイムスの記事1記事2。琉球新報の記事

*2014年4月19日のPhoto Diaryはこちら
4月19日のスナップ。辺野古の海上パレード
↑辺野古への基地建設に向けた海上のボーリング調査を阻止しようと始まった座り込みが、この4月で10年となった。今日、辺野古の海岸で10周年記念の海上パレードと集会が行われるので行って来た。
 那覇から辺野古まで平和市民連絡会の方が手配したバスが出るので、事前に申し込んで乗車させていただいた。バス代が一人1000円、お昼のお弁当500円も一緒に手配をお願いした。
 9時40分に県庁前を出発したバスは、那覇インターの手前で何人かピックアップ。その後、高速の停留所でも参加者を拾いながら辺野古に向かう。バスは、ほぼ満席だ。
 海上パレードと集会は10時から開始とあったが、会場に到着したのが10時20分頃だった。会場の中央で、嘉陽のオジーこと嘉陽宗義さんのスピーチが行われていた。
 会場の周辺には参加者の車や市民団体の手配した大型バス、テレビ局の中継車も並んでいた。テント村の入り口には座り込み3653日の数字が見える。
 集会が本格的に始まったのは10時半頃で、 カヌー隊が辺野古の海に出てデモンストレーションを行った。浜の方では、歌やフラダンス、そして各団体からのスピーチがあった。
 集会は12時を少しまわった頃に終了した。平和市民連絡会のバスに戻り、人数確認をしてお昼の弁当を注文してあるわんさか大浦パークへ。
 昼食が終わり、一路那覇へ。高速のバス停、那覇インター、那覇市民会館前で少しずつ参加者を降ろし、終点の県民広場に着いたのは14時45分頃だった。
 県民広場から若狭へ。 若狭から泊へ自転車を走らせ、魚市場で300円のマグロ切り落としと、250円のアカニシ貝の照り焼きを買って帰る。
 沖縄では辺野古の他、高江、普天間の大山ゲート・野嵩ゲートでも座り込み抗議行動が行われている。写真は辺野古の海でカヌー隊がデモンストレーションを行う、海上パレードの様子。
*沖縄タイムスの記事1記事2、琉球新報の記事。  

3月2日(水)

 うかうかしている間に、3月になってしまった。少し前までは午後5時には外が暗くなっていたが、最近は夜が遅くなった。
お雛様
確定申告の用紙

 明日はお雛様で、何日か前に恒例の雛飾りを出した。いろんな人形がテーブルの上に並んでいる。
 一番手前にある袋は、かっぱえびせん。スーパーでお菓子のひなあられを探したが売り切れていたらしく、お供えはかっぱえびせんにしたようだ。

 今日、ようやく確定申告の書類を郵便局から税務署に送った。

 アメリカやヨーロッパの国々からの制裁措置だけではなく、民間企業もロシアからの撤退を表明している。イギリスの石油大手シェルはロシア極東の液化天然ガス開発事業「サハリン2」から撤退すると発表し、米のアップルはすべての商品のロシアでの販売を停止した。ロシアが例え一時でもウクライナを攻略できたとして、その代償に多くの国や企業から疎外されるのであれば、それは本当にロシアの勝利なのだろうか。プーチンはわからないが、これが大多数のロシア人が望んだことだろうか?
 先月27日、プーチン大統領は核戦力を含むロシア軍の戦力を特別体制にするよう命令した。ウクライナの激しい抵抗で進軍の速度が予定より遅れていることと、制裁を強めた欧米を牽制するために核戦力をチラつかせたと見られている。
 このプーチンの核戦力発言を受けてか、安倍元首相が米国の核兵器を自国領土内に配備して共同運用する「核共有」政策について日本でも議論すべきだとの考えをフジテレビの番組で述べた。この発言に対し、広島の被爆者団体からは猛反発の声が上がった。当たり前だ。
 個人的に今心配しているのはウクライナへの侵攻が思うようにならなかったプーチンが本当に核のボタンを押す、あるいはウクライナを攻略したが欧米の経済制裁により国が立ち行かなくなり核のボタンを押すことだ。アメリカは今、このロシアのウクライナへの侵略に対して直接の攻撃を行なっていない。行えば第3次世界大戦の序章になると危惧するからだろう。しかし、ロシアが核兵器を使えばアメリカも核兵器を使わなくてはならなくなる。それは第3次世界大戦の序章だ。そして、そうなった場合に日本が米国との核共有政策を行なっていれば、否応無く第3次世界大戦に組み込まれることになる。
 今回の安倍元首相の発言で、いかに日本国憲法がバカな為政者から国民を守っているかわかった。核共有や敵基地攻撃能力の保持など一部の国会議員が主張しているが、それこそお花畑と言うしかない。ロシアは先ず最初に、ウクライナの軍事施設を攻撃している。基地は国民を守らない、基地のあるところが標的となる。核には核が抑止力と考える人は、アメリカの銃社会を思い返してみればいい。銃には銃が、なんの抑止力にもなっていないことがわかる。
 テレビのニュースで電話取材を受けていたウクライナ人が、今は大丈夫だが10分後にこうして電話できるかわからないと心配そうに答えていた。他人事ではない。一週間後にこの戦闘はどうなっているだろう。一ヶ月後の世界はどうなっているだろうか。
 もうすぐ11年目の3.11を迎える。3.11の時は奄美大島に住んでいて、海岸で味噌汁に入れるアオサを採っていた。市役所からのエリアメールで津波警報を知り、家に帰った。家に帰ってテレビをつけて、そこに映し出された映像に釘付けになった。
 原発事故は必ず起きると思っていた。でも、どこかで自分が生きているうちは大丈夫なのではないかと思っていたようで、現実に起きてしまった時は恐怖でしかなかった。スペイン風邪のようなパンデミックもいつか起きるだろうと思っていたが、でも、どこかで自分が生きているうちは大丈夫なのではないかと思っていた節がある。しかし、今、その現実に直面している。核共有や敵基地攻撃能力などとほざいている人たちは、戦争が現実になった時のことをどれだけ想像できているのだろうか。

 昨日の琉球新報に、牧志公設市場の衣料部・雑貨部が2月28日で営業を終えて閉場するという記事が掲載されていた。
 衣料部・雑貨部は食料品や料理店が入った牧志公設市場の近くにあって、2階には民謡ショーなどの催し物を行う「ひやみかちマチグヮー館」があった。催しは無料で観覧できたので、那覇に住んでいた時に何度か足を運んだ。前川守賢さんのステージを、生で初めて観たのもここだった。
 農連市場、牧志公設市場、那覇バスターミナル、沖縄県立図書館etc・・・ここ数年で移転や建て替え、取り壊しが進み那覇の街も随分と変わったのだろうと想像する。
 下の写真は、ひやみかちマチグヮー館での魅川憲一郎さんのステージ。美川憲一さんのものまねで、ローカルのテレビCMや番組でよく観た。2012年11月14日撮影。ひやみかちマチグヮー館自体は、2018年2月で事業を終了していた。

ひやみかちマチグヮー館でのステージ

 富山県の新型コロナの感染拡大が止まらない。今日はこれまでで最多の628人の感染を確認した。

 この他の気になった記事を備忘録として。
富山市議会の政活費不正 市長に140万円の返還請求命じる 地裁
神様の泥に「汚された」と苦情を言う人も 沖縄・宮古島の祭祀、絵本で伝える本来の意味
外環道工事の一部差し止め 住民「今後も不安な日々」 再開区間の請求は却下
徳島県で世界初の試み とっても不思議な乗り物は、廃線の危機を救うためだった
ヤギと木材、物々交換 沖縄復帰年で交易再現 与論町と国頭
「Dappi」裁判、被告企業「ツイートは従業員が私的に投稿」と主張 今回も出廷せず

 Photo Diaryを更新。
*2014年4月7日のPhoto Diaryはこちら。(新じゃがの煮っころがし)
*2014年4月9日のPhoto Diaryはこちら。(新しく買った外付けハードディスクドライブ)
*2014年4月10日のPhoto Diaryはこちら
4月10日のスナップ。至聖廟

↑今日は快晴。朝からPacoにデータをバックアップする作業。
 午後、スーパーに買い物に出るついでにサイクリングを兼ねて久米へ。久米は元々、中国から琉球に帰化した久米三十六姓と呼ばれる職能集団によって作られた村だそう。この久米に孔子を祀った廟、至聖廟があったが、1944年の10・10空襲で消失した。その後、波上宮の横、若狭にある天尊廟の敷地に再建されたが、昨年の6月に本来の場所である久米で新たに建立された
 至聖廟を見学した後、自転車で5分ほどの天尊廟へ。敷地の中には程順則の提案によって作られた琉球最初の公立学校、明倫堂もある。
 天尊廟からの帰り、波の上ビーチに寄り、前島のスーパーへ。小松菜が無くなったので、みそ汁に入れる葉ものを物色。大きなレタスが1玉99円だったので購入。沖縄の食堂でみそ汁を頼むとレタスが入っていたり、宮古島でソバを注文するとレタスが入っていたりする。早速、家に帰って今帰仁産のエノキ、油揚げ、ネギ、レタスのみそ汁を作る。普通に美味しい。

 ようやく「琉球の花街 辻と侏りの物語」(浅香怜子著)を読み終える。辻(チージ)には中国の冊封使たちも訪れたようだ。辻という地域性や、その役割、そこに生きた女性達や芸能と中国との関わりが面白い。
 郵便受けを開けたら、出版社からの支払い案内が一通届いていた。4年ほど前に撮影した単行本「ふくらはぎをもむと超健康になる」の中国語版が出版され、その写真使用料。決して大きな額ではないが、ありがたい。1泊2日で離島に行けるかな。
 奄美大島の加計呂麻島で、ハブにかまれ男性死亡、奄美で10年ぶり死者。 その加計呂麻島のある瀬戸内町の文化を伝えるウェブサイト「せとうちなんでも探検隊」が、今日オープンした。まだ全部は見ていませんが、面白そうです。写真は新たに建立された至聖廟。

*2014年4月11日のPhoto Diaryはこちら。(桜坂のドラミンゴ、めおと楽団ジギジギ)
*2014年4月12日のPhoto Diaryはこちら
4月12日のスナップ。首里劇場

那覇市歴史博物館が、現在展示中(5月28日まで)の「那覇の史跡・旧跡~みんなで歩こうNaha city~」にリンクする企画として、実際に学芸員と歩く史跡・旧跡ツアーを開催。ツアーは4回予定されているが、今日は1回目のツアーで首里地区をまわる。
 送られて来た案内葉書には、モノレール首里駅改札口前に10時集合と書いてあった。
 9時過ぎに部屋を出て、自転車で美栄橋駅へ。駐輪場に自転車を止め、首里駅までの切符を購入。290円だった料金が、300円になっていた。
 参加者は24名ほどだったか。学芸員の方の挨拶があり、さっそく配られた資料に記された史跡、旧跡巡りが始まった。最初に史跡と旧跡の違いがわかりますか?と参加者に学芸員の方から問いかけられる。考えた事もなかったが、史跡は歴史に残る事件や施設のあった場所でモノとして残っているもの。旧跡は、それらのモノのあった跡のようだ。
 以下、配られた資料に書かれていた今回の行程。字の色が違う所は自分のメモ。

1.出発地(首里駅改札口前)/2.聞得大君御殿跡・・・琉球王国時代の最高女神官「聞得大君加那志」の神殿及び住居跡。/3.儀保殿内跡・・・「儀保大阿母志良礼」の神殿及び住居跡。/4.虎瀬山(虎頭山)・・・王国時代の景勝地。/佐藤惣之助詩歌碑・・・虎瀬公園内。/仏之坂(フトウキヌヒラー)・・・戦前からの石畳。/5.平良市跡・・・戦前にあった首里の市場の一つ。/6.大平橋・・・首里と浦添を結ぶ街道に架けられた橋。(パスした)/7.儀保くびり跡・・・首里と浦添を結ぶ街道の一部。/8.亀川盛武生家跡・・・琉球処分期の三司官「亀川盛武」の生家跡。/9.与那原良矩生家跡・・・琉球王国時代の三司官「与那原良矩」の生家跡。/10.安谷川・・・首里と浦添を結ぶ街道沿いの村ガー(共同井戸)。/11.羽地朝秀生家跡・・・琉球王国時代の三司官「羽地朝秀」の生家跡。/12.安谷川御嶽・・・当蔵村のウタキ。1814年に修理が加えられた。奥に鍾乳洞がある。/13.中城御殿跡・・・1873年に竣工した琉球国王世子の邸宅跡。耳チリ坊主。/14.松崎馬場跡・・・首里と浦添を結ぶ街道の一部及び広場の名称。/15.龍潭・・・・・・1427年に造られたとされる人口の池。/16.高所跡・貝摺奉行所跡・・・首里王府の役所跡。/17.首里支庁跡・・・旧首里市の行政を担った役所跡。/18.円覚寺跡・・・尚真王代の1492年創建といわれる第二尚氏の菩提寺。龍淵橋・・・1502年創建といわれるアーチ橋。芸術的な欄干の羽目石は、戦争前にすでに行方不明となった。1950年再建。天女橋・弁財天堂・・・1502年創建。1621年再建。弁財天を祀った。重修天女橋碑記・・・天女橋を架け直した際に建立した石碑。首里の孔子廟跡(石垣が残っている)。那覇には久米と首里に孔子廟があった。/19.健善寺跡・・・琉球王国時代の臨済宗の寺院跡。/20.リングムイ跡・・・約2,000坪あったとされる人口の池。現在の首里公民館も池だった?

 ツアーは10時から12時までの2時間を予定していたが、コースの半分をまわった時点で12時になった。少し休憩してから、その後はペースを早め、全部まわり切ったのは13時頃だった。
 アップダウンの多い那覇の道を3時間歩くのは大変だが、観光案内にも載らないスポットを巡るのは面白い。参加費が保険料の100円だけというのも嬉しい。
 首里駅で解散となっていたが、モノレールで帰らない人もいるので国王頌徳碑の前で解散となった。

 このまま家に帰るのも勿体ないので、もう少し一人で散策する事にする。以前から気になっていた首里公園入り口近くの、たこやき安さんで10個200円のたこ焼きと、40円のイカの天ぷら、30円のイモの天ぷらを購入。ビニール袋に入れてもらって、公園のベンチに座って食べた。
 たこ焼きと天ぷらを食べ終わった頃に、公園内のスピーカーを通して下之御庭で14時から「舞への誘い」が始まるという案内が流された。せっかくなので、その30分ほどの琉球舞踊の催しを観に行った。演目は「若衆こてい節」「本貫花」「浜千鳥」「谷茶前」だった。
 舞への誘いを観た後、公園のベンチで少し横になってから、また散歩の続き。首里大中町にある沖縄県最古の映画館、首里劇場を探してみる。
 歩き始めて直ぐに首里劇場は見つかった。かなり大きい建物で、これを維持して行くのは大変だろうと思う。建物が古いからなのか音量が大きいからなのか、住宅地の中にも関わらず女優さんの「アンアンアン」と言うピンク映画ならではの声が盛大に漏れている。その声を犬の鳴き声だと思った女子中学生の二人連れが劇場の建物に近づき、自分たちの間違いに気づいて爆笑しながら歩き去って行った。それにしても沖縄は寛容だな〜と思う。
 さすがに歩き疲れたので首里駅に戻り、美栄橋へ。自転車で家に帰り撮影データをバックアップ。シャワーを浴びて、晩ご飯は今年初めての冷やしそうめんにする。

 今回歩いてみて御殿跡、生家跡というように歴史を残すモノが存在せずに、標示板が設置されているだけの旧跡が多い事に改めて気づいた。これは戦争によって破壊されたためか戦後の区画整理のせいか学芸員の方に尋ねたところ、区画整理によって失われた方が多いそうだ。
*琉球新報の記事
*本日の出費。美栄橋ー首里モノレール往復600円、保険料100円、ミネラルウオーター110円、たこ焼き200円、イカの天ぷら40円、イモの天ぷら30円。写真は首里劇場。

*2014年4月13日のPhoto Diaryはこちら
4月13日のスナップ。コザ・てるりん祭

↑2005年3月に亡くなった照屋林助さんの功績を讃え、縁のあったアーティストが集う「コザ・てるりん祭」。今年で第6回となるイベントが、今日、沖縄市の中央パークアベニューで行われる。
 ジギジギのきん太さんも、夜は自分達のライブだが昼間は時間があるというので一緒に見に行く事になった。
 11時頃に家の近くまできん太さんに車で迎えに来てもらい、出発。きん太さんと沖縄をドライヴするというのも、面白いな〜。昔話に花が咲く。
 12時前に会場に到着し、近くの駐車場に車を入れる。駐車場の横をふと見ると照屋林助三線店があった。しばらくお店を眺めていたら、息子さんで林賢さんの弟にあたる三線職人の照屋林次郎さんが出ていらしたのでお声をかけて写真をお渡しする。
 1994年1月30日に浅草の木馬亭で、林助さんがワタブーショーを行った。バックはギターの松田さん(松田弘一さんの弟さん?)、前座にはシーサーズ。このショーをミュージックマガジンの仕事で撮影した。前日には老舗のすき焼き料理店・今半で林助さんのインタビューがあり、その時にポートレートも撮らせていただいた。これらの写真を、いつかご家族に渡したいと思っていた。1991年と1994年にりんけんバンドのライヴも撮影しているので、この時の写真もプリントして一緒のファイルに入れてお渡しした。そして、てるりん祭の実行委員長である林次郎さんに今日のステージの撮影許可をお願いし、「いいですよ」と返事をいただいた。
 まだ開演まで時間があるので、きん太さんと近所を散策した後、てるりん祭と連動して照屋林助写真展が行われている大衆食堂ミッキーで、お昼ご飯。お祭りに出す屋台の準備が忙しく、今日はソバかタコライスしか作れないそうなのでタコライスを注文。沖縄に来て2回目のタコライス。美味しかった。
 きん太さんとタコライスを食べながらゆんたくしていたら、開演時間を少し過ぎていた。会場の直ぐ近くなので始まれば音が聞こえるだろうと思っていたが、スピーカーの裏側に店があるので音が届かなかったようだ。幕開けの「かぎやで風」は見逃して、ティンクティンクの演奏の途中からになってしまった。

*出演順の間違いや名前の抜けている方もあるかも知れませんが、参考までに。
幕開け(かぎやで風)/玉城満・立川志ぃさー・ヘンリー(司会)/ティンクティンク/HIKARI/山里ユキ・饒辺 勝子・金城恵子/島袋辰也/チアキ/西泊喜則/興那嶺商会/通り会会長あいさつ/松田一利/仲宗根創/知念こずえ・斉藤マーミー/とぅるるんてん/我如古より子・宮沢和史/仲本興次/知名定男・照屋林賢・名嘉睦稔/上原知子/実行委員長あいさつ/古賢宗揮/堀内加奈子/前川守賢・饒辺愛子/松田弘一/大工哲弘/よなは徹/新良幸人/園田青年会&カチャーシー

 夜に栄町の方でライヴがあるきん太さんは、15時過ぎまで楽しんでから帰って行った。
 雨が降る事が多いという、てるりん祭。数日前の天気予報も曇りのち雨だった。ところが今日は朝から快晴で、風もあって気持ちの良いお天気。夜遅くには雨が降るような予報もあったが、このまま降らずに行ける?と期待したが19時頃から激しい雨が降ったり止んだり。途中、お客さんはアーケードの下に避難したりもしながらライヴは進行していった。
 予定の21時をかなりオーバーするかと思ったが、雨が降り出した事もあってか21時少し前に終了した。
 路線バスの走る大通りまで歩き、胡屋のバス停へ。暫く待っていると、23番の那覇行きが来たので乗車。22時前には最寄りのバス停に到着。バス賃は750円だった。 写真はコザ・てるりん祭のステージから。一番左は宮沢和史さん。
*沖縄タイムスの記事。琉球新報の記事

2月へ