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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表 ◯製作中の富山の祭りと芸能 ◯製作中の富山の祭りと芸能歴史年表 ◯2010~2014 Photo Diary ◯奄美・沖縄撮影リスト |
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3月9日(水)午前10時〜ミュゼふくおかカメラ館 ◯射水市三ヶの十社大神 御田植祭 |
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*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り *全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧 *とやまの獅子舞百選 *富山県内のお祭り、イベント *とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞 *とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り *とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事 *富山の祭り *築山行事 *とやまの曳山”世界の宝”を守り続ける *砺波の獅子舞 各地区の日程 *年中行事覚書 柳田国男 *田の神祭りに見る日本人の神意識 *山の民の祈り *立山に生きる村ー宗教集落芦峅寺のくらし *立山信仰史における芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅 *五箇山の獅子舞の起源 *道祖神 |
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◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作 ◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作 ◯久高島の年中行事 平成17年度作成 ◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作 ◯ 「まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作 ◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作 ◯幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】 ◯村踊 沖縄県伊江村伝統芸能 ◯喜屋武(チャン)の綱引き ◯与那国島の行事 ◯ 「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作 |
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◯富山県 新型コロナウイルス感染症について http://www.pref.toyama.jp/cms_sec/1205/kj00021629.html?fbclid=IwAR1Z5J0FxdUdIrb0KWEPHX-VTzevMn1SYkafoJbL0IrfRBBnTG5k0vO_t1U ◯都内の最新感染動向 https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/ ◯山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信 https://www.covid19-yamanaka.com/index.html ◯新型コロナウイルス感染速報 https://covid-2019.live/ ◯ 福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html ◯DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/ ◯HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html ◯独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm ◯小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/ ◯やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/ ◯辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/ ◯チョ 10イさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy ◯沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/ |
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メディア関連 ブログなど |
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自分から自分への誕生日プレゼントというわけではないが、土曜日の夜に落札したiPodが今日の午前中に届いた。これまで使っていたiPodは容量が30GBしかなく、せっかく家にあるCDのほとんどを最近iTunesに取り込んだのに容量が足りなくて移しきれない。今回落札したiPodは容量120GBで、iMacを接続して同期させたところ全ての曲を収録して、なお50GBほど空きがある。商品説明では通電と初期化操作まで確認してあり、その他の動作は未確認の状態だったのでiTunesと同期しなかったりしたらどうしようと不安だったが大丈夫そうだ。落札価格は4,300円だったが200円の割引クーポンがあったので、4,100円。これに送料が700円。 | ||
これでiMacのiTunes、そしてiPodでも家にあるCDの曲を簡単にいつでも聴ける状態になった。早速、今月ヤフオクで500円(送料は1,040円)で落札したiPod用ドック付きのスピーカー、JBL on timeに接続してアーニー・ディフランコの『Reckoning』を鳴らしてみた。低音がよく鳴り、柔らかくて丸い音がする。 | ||
昨年から取りかかっていた奄美・沖縄4年間の撮影データの再現像は今年の2月10日に完了し、その後、奄美・沖縄で撮影した写真を直ぐに探せるようインデックスを作った。これで早ければ1〜2分、長くても30分あれば大体の写真を探し出せるようになった。 今日で62歳。Facebookの方にお祝いのメッセージを色々といただきありがとうございました。鶴ひろみさんもECDも、今日で62歳。近所に住んでいる同級生の山田君も62歳だ。 昨日の南海日日新聞に、奄美市の根瀬部と大和村の国直を結ぶ宮古崎トンネルが開通したという記事が載っていて驚いた。根瀬部は奄美市の中では一番西にある集落で、長い長い山道を上って下りたら大和村の国直集落に着く。 |
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奄美でトンネルが開通したと思ったら、沖縄では国道58号の浦添市城間と那覇市安謝区間が8車線に拡幅されていた。国道58号は、朝夕の通勤ラッシュや日曜・祝日の行楽の際に道路が渋滞する。この8車線化で少しは渋滞が緩和するといいが。 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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ロシアのウクライナ侵攻から1カ月余りが経った。この間にウクライナ南東部のマリウポリでは3000人以上が死亡した可能性があると報じられている。また、侵攻しているロシア軍の死者も最大で1万5000人に上るとされている。テレビに映し出される砲撃で廃墟と化した街の映像は、戦争の恐ろしさと愚かさを映し出してもいる。そして3カ月の地上戦で20万人もの命を奪った沖縄戦が、どれだけ壮絶で悲惨な戦いだったのかを改めて想像させてくれる。 今日、3月26日は米軍が沖縄・慶良間諸島の座間味島に上陸した日。沖縄戦が実質的に開始された日だ。 |
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上の写真は米軍が初めて沖縄の地に上陸した座間味島の海岸。あいにく空は白く霞んでいたが、透き通った海面からは珊瑚の群落が見えた。この座間味と渡嘉敷をはじめとする慶良間諸島及び周辺の海域は2014年3月5日に、国内31番目の国立公園に指定された。その指定が中央環境審議会で了承されたのは、2013年12月24日。仲井真元沖縄県知事が、辺野古の埋め立て申請を承認する3日前だ。これが政府から沖縄への、アメとムチだと思われてもしかたないだろう。 | ||
こちらでも23日に掲載した1992年に制作された映画『十五少女漂流記』に関わる撮影フィルムをfacebookにUPしたら、ニルヴァーナ繋がりのロシア(ウクライナ?)方面の友人から、あなたが撮影したニルヴァーナの写真をfacebookにUPして下さいとリクエストが来た。そっちの状況はニルヴァーナのライブ写真どころではないだろうと思うが、フィルムと1992年という単語に反応したのだろうか。1992年は最初で最後となったニルヴァーナの来日コンサートがあった年で、ツアー最終日2月19日の中野サンプラザでのライブを撮影している。 |
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カートが亡くなる前年に発売された「All Apologies」はいつ聴いても切なくなり、美しい曲だなと思う。 あんたたちみたいだったらよかったのに YouTubeから「Nirvana/All Apologies」「All Apologies(MTV unplugged)」。 ↓1992年に撮影したニルヴァーナの来日コンサートのポジ・フィルム。
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今日は全国的に荒れた天気で、各地で春の嵐が吹き荒れた。富山県でも暴風警報が出され、電車が運転を見合わせた。高岡市の隣り、小矢部市では強風で飛び火し神社や住宅など9棟が焼ける火事があった。 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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Photo Diaryを更新。 *2014年6月7日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑昨日の夕方から引っ越しのための荷造り。今日の午前中で、なんとか荷物がまとまった。 引っ越しはネットで日通の単身パックを予約した。1x1x1.7mほどのサイズに上手く収まるだろうか。 朝食は冷凍してあったご飯とカレーをレンジで温め、冷蔵庫に残っていた大根とニンジンと油揚げ、豆腐で味噌汁を作った。なるべく冷蔵庫の中の食材を使い切ろうと思ったが、調味料は少し捨てる事になりそうだ。 14時頃に日通と契約している沖縄の運送会社の男性が二人、引っ越しの荷物を引き取りに来た。8階の部屋からエレベーターで荷物を運び出し、トラックの中の1x1x1.7mほどのボックスに詰めて行く。パズルのように隙間隙間に埋めて行ってもらって、なんとか無事に全部収納してもらった。上手く積んで貰ったので、自販機の冷たいお茶を買ってお礼に渡す。那覇から富山までの単身パックの運賃は56160円になった。 心配事が一つ片付いたので、前島のスーパーへ晩ご飯の食材を買いに行く。特売になっていたクリームコロッケ3個、食パン、蕎麦の乾麺。家に帰り、冷蔵庫に残っていた麺つゆを使って、晩ご飯はざるそば。夜食にコロッケサンド。 トイレとバスが一緒になった浴室の掃除をしてから、久しぶりに湯船にお湯をはって入る。ノートブックのiTuneで音楽を鳴らしながら、泡盛をちびりちびりと呑む。テレビはそれほど観ないが、それでもテレビがないと一日がこんなにも長いのかと思う。30歳前後のかなり長い期間(10年ほど?)、テレビのない生活をしていた。当時はパソコンもなかったから、どうして過ごしていたのかとも思うが、きっとその分本を読み、レコードを聴いていたのだと思う。 昨日の晩からカーテンを外している。外して気付いたのは、那覇の夜の明るさだった。写真は引越しの荷物。 |
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*2014年6月8日のPhoto Diaryはこちら。 | ||
↑朝から曇りで肌寒い。昨日買った乾麺で、今朝はかけそばを作る。昨晩作ったゆで卵をトッピング。 先日見積もりを取ってもらったリサイクルショップが、冷蔵庫や洗濯機を取りに来るので外を磨いたり中を拭いたり。 コーヒーをいれて、コロッケサンドで昼ご飯を食べていると、男性二人が引き取りに来た。電子レンジも見積もりを取ってもらっていたが、昨日の引っ越し荷物で運べたので無しにしてもらった。引き取ってもらったのは、冷蔵庫2000円、洗濯機3000円、都市ガス用のコンロ500円、扇風機100円、灯油用のポリタンク50円、石油ファンヒーター0円、洗濯の物掛け50円。この他に食器や鍋、封を開けていないニガリのボトルなどをタダでいいので持って行ってもらった。 見積もりは2つのショップに取ってもらったが、もう一つのショップは動作チェックもしないで冷蔵庫2000円、洗濯機1000円、都市ガス用コンロは−1000円だったので、今日来てもらったショップにお願いした。 大きな荷物が無くなったので、台所まわり、そして床の掃き掃除と拭き掃除をする。これで、明日部屋を明け渡す目処がたった。 夕方、ノートパソコンに使っているワイヤレスキーボードの単4電池が無くなったので、新都心の大型家電量販店に買いに行く。ついでに横にあるスーパーの回収ボックスへ、溜まっていた食品トレーを入れて来る。晩ご飯用に助六寿司とタマネギのかき揚げ、魚肉ソーセージ、お茶のペットボトル。先日買った時雨が残り僅かなので、久米仙30度900mlの紙パックも購入。雨の止み間に部屋を出て来たが、スーパーを出る時はザーザー降りの雨ですっかり濡れて帰って来た。写真は家財道具を引き取ってもらったリサイクルショップの明細書と買取金。 |
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*2014年6月9日のPhoto Diaryはこちら。 | ||
↑今日が部屋の明け渡し。朝から最後の掃除。掃き掃除をして、床は2度拭き。ゴミはビニール袋に入れて1階の駐車場奥にあるマンション専用のゴミ捨て場へ。24時間毎日燃えるゴミ、燃えないゴミを出せるので、こういう日には助かる。奄美、沖縄で使っていた布団や枕もビニール袋に入れて、ここでお別れ。せんべい布団という言葉があるが、中の綿やウレタンが飛び出して薄っぺらくなり、まさにせんべいのような布団になっていた。 醤油、塩、砂糖、コーヒー、お皿、サランラップ、洗剤など中途半端に残ったものは今日から2泊するゲストハウスに持って行く事にする。そこで使って貰えれば幸いだ。 10時になって沖縄ガスの担当者がガス栓を閉めに来て、料金の精算をする。片付けの終わった部屋で、ゴロンと横になりiTuneで音楽を聴きながらまったりと時間を過ごす。 14時になって不動産管理会社の担当者が来て、今月分の家賃の精算。9日分で11100円。部屋の設備の点検を一通りして、書類にサイン。部屋の鍵を返却して、明け渡しは終わった。 大きいバックを背負い、リュックは自転車カゴに。傘とビニール袋を2つ下げて、自転車で波の上ビーチの近くにあるゲストハウスへ。しょっちゅう通っている道を走って10分ほど。ゲストハウスの前は何度も通っているが、中に入るのは初めてだ。 ネットの申し込みでは16時からにしてあったが、15時にチェックイン。2日分の宿泊費2000円を支払う。場所柄、元々はラブホテルだったビルのようだ。案内された4階の部屋には2段ベットが2つ。永く泊まっている韓国人の男性がベッドに腰掛けてパソコンを見ていた。 荷物を置いて、近くの波の上ビーチへ。雨雲が空を暗く覆っている。近くの屋根付きのベンチに座り、沖縄で知り合った元数学の先生で写真愛好家の祖慶さんに電話。19時にパレットくもじの本屋さんで待ち合わせて、呑みに行くことになった。 一旦宿に戻り、2段ベットの上でゴロンとなる。雨はだんだんと強くなっている。梅雨に入ってから一番激しい雨足かも知れない。 肌寒いのでTシャツの上に薄手のシャツと薄手のパーカーを羽織って、パレットくもじへ歩く。傘をさしてもあっという間に上着は濡れて、スニーカーも雨水が滲みて来た。少し早めに本屋に着いて、沖縄コーナーで写真集を見ていたら祖慶さんが現れた。 パレットくもじから直ぐ横にあるモノレールの県庁前駅へ。2つ先の牧志駅で下りて、しばらく国際通りを歩き、路地へ入る。連れて来てもらったのは何度も通って写真も撮影した竜宮通りだった。最初に訪ねたおでんやは閉店になっていたので、傍の居酒屋へ。この場所で60年営業している老舗の居酒屋だ。 突き出しのもずく、豆腐チャンプルーとソーメンチャンプルー、豆腐ようを肴に中生ビール、それから泡盛をいただいた。途中から武道家で沖縄へ御嶽巡りをしに来たという男性も加わり、気がつけば10時半を過ぎていた。 来る時に濡れた上着が身体を冷やす。ほろ酔いで少し眠くもなったので、今日はこの辺でお開き。祖慶さん、送別会ありがとうございました。 半分眠りながら国際通りを県庁前まで歩き、そこから波の上の方へ。小腹が空いたので、コンビニで油ミソのおにぎりを一つ買って食べながら歩く。宿に着き、濡れた服とジーンズを脱いでベットに横になったらそのまま寝てしまった。 早朝の4時頃に2段ベットの下の住人が帰って来た。しばらくしてその男性は眠りについたが、激しいイビキでこちらが眠れなくなった。結局朝方まで眠れぬまま横になっていた。写真は荷物を出してガランとした部屋。 |
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明日でロシアがウクライナに侵攻して、一ヶ月となる。ミサイルが撃ち込まれ、街が破壊され、市民が犠牲になったというニュースが連日流れてくる。ほんの一ヶ月前までは普通の生活を営んでいたウクライナの人々の多くが、今は住んでいた土地を追われ難民生活を送らなければならなくなった。「どうして」「なぜ」そんな疑問と怒りが頭の中をぐるぐるまわっているのだろうか。いや、もうそんな感情も持てないほど疲れ果てているだろうか。彼らのこの一ヶ月ほどの環境変化は、テレビのニュースを見ているだけの自分の想像を遥かに超えているだろう。しかし、ウクライナのことは他人事ではない。一ヶ月後、一年後、日本は世界はどうなっているだろうか。ある日、目が覚めたらどこかの国に核爆弾が落とされ、第三次世界大戦が始まっていても不思議はない。 今日、ウクライナのゼレンスキー大統領がオンライン会議システム「ZOOM」を使用して日本の国会でリモート演説を行った。12分に及ぶ演説の全文がこちらにある。 |
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書庫兼物置部屋に積まれたダンボールの中に、ポジ・フィルムを入れたファイルが無造作に突っ込んであった。その中に、女優の奥山佳恵さんとTBSのアナウンサーだった福島弓子さんの写真もあった。1992年に制作された映画『喜多郎の十五少女漂流記』の、記事広告用に撮影したものだ。このダンボールに入っていたフィルムは、記事に使用しなかった残ポジだろうか。 記事は制作したアミューズの役員の方と、この映画で主演デビューした奥山佳恵さん、それにアミューズと共に映画の製作に携わったTBSからアナウンサーの福島弓子さんが進行役となっての対談。場所は確か、アミューズ本社の会議室だったと思う。 この仕事はデザイン事務所経由で依頼され、撮影の他に対談の記事原稿も書いている。この頃は、原稿用紙に手書き。写真や原稿の内容に問題はなかったが、字が汚いというクレームがあったらしい(笑)。 |
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←↑ダンボールに無造作に突っ込んであったポジ・フィルムのファイル。 仕事をした掲載誌は保管しているが、この記事広告を掲載した雑誌は見当たらず、どんな雑誌に掲載されたのかも覚えがない。 |
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ジミヘン、ストーンズ、ZEP、フロイド等を撮影した写真家の未公開フィルム3000巻を現像&デジタル化する資金調達キャンペーン成功という記事がamassに掲載されていた。貴重な写真が日の目を見るという良い話なんだが、それにしても未現像のフィルム3200本をどうして今まで放って置いたんだろう。 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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Photo Diaryを更新。 *2014年5月30日のPhoto Diaryはこちら。(マグロの切り落とし、フライ、佃煮?泡盛・時雨) *2014年5月31日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑雲の合間から青空が見える。部屋に居るのが勿体なくて、午後から少しだけ自転車を漕いで、農連市場から国際通り、波の上ビーチを走って来た。 家に帰り、洗濯。梅雨の間は小まめに洗濯しないと着る物がなくなってしまう。晩ご飯は、乾麺の蕎麦を茹でて大根おろしを添え、冷やしおろし蕎麦。 先日購入した津嘉山酒造の國華が残り僅かになったので、昨日、新しい泡盛を買って来た。どなんのクバ巻きボトルにしようかと思ったが、家呑みには贅沢すぎると思い、手頃な値段だった識名酒造の時雨にした。識名酒造は首里赤田町にあり、みるくウンケーの時に酒造所の前を通った事がある。 これで沖縄に来てからの泡盛遍歴は、久米仙→菊之露→残波→忠孝→美しき古里→多良川→RYUKYU CLASSIC→轟→久米仙(お隣からの貰い物)→響天→瑞穂→夢航海→ゆいまーる→松藤→八重泉→残波の白→請福(フダチミのラベル)→海人→今帰仁の新酒→ユニオンですから→島風→國華→時雨。 昨日で、旅を始めて4年になった。2010年5月30日、富山から奄美大島を目指して、先ずは京都に。それがスタートだった。 一年間の予定が、もう4年が経った。人生の夏休みのつもりが、琉球弧への留学のようになり、なんだか東京で仕事をしていた時よりも忙しく過ごした。 さて、そろそろ旅の終盤。旅の始め方も難しいが、終わらせ方はもっと難しいように思う。写真は、農連市場の猫。 |
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*2014年6月1日のPhoto Diaryはこちら。 | ||
↑旧暦5月4日の今日は、ユッカヌヒー。沖縄の各地でハーリー競漕が行われる。昨年は奥武島のハーリーを見たので、今年は糸満ハーレーと小禄・大嶺地区の地バーリーを見に行く。 小雨の降る中、自転車でモノレールの旭橋駅へ。駅の駐輪場に自転車を止めて、向かいの旭橋バス停で89番の糸満線を待つ。この路線は一時間に4〜5本運行しているので、程なくやって来たバスに乗車。 糸満ハーレーの開会式は9時15分。バスが糸満ロータリーに到着したのが9時10分頃で、歩いて会場の糸満漁港に着いたら、ちょうど開会式が始まるところだった。 糸満ロータリーから山巓毛(サンティンモー)を見上げると、ハーレー競漕の合図に使われる旗が立てられていた。 開会の挨拶や、昨年の優勝旗の返還が行われた後、西村、中村、新村の3隻による港内パレードがあり、それぞれのハーレー歌も披露された。 字糸満は、西村(シンダカリ=現在の西区、上の平)が集落発祥の地であり、その子孫によって中村(メンダカリ=現在の町端)、新島(ミージマ=現在の新島、新屋敷、新川、前端、南区)の順で集落が形成されてきた。それ故、古くからの伝統を重んじるこの行事では、アガイスーブの村船を三周する儀式やヌン殿内での盃を受ける儀式では、競漕の順位に関係なく、親元を重んじて敬う意味から、西村を先頭にして、中村、新島の順で行われるのである。 字糸満には古くから「西村や むとうぎ(親) 中村や なしぐわ(子) 華ぬ新島や んまが(孫)でびる」と言う歌詞が言い伝えられている。(プログラムより引用)。 3村の舟による港内パレードの後、いよいよハーレー競漕が開始。1番初めに西村、中村、新村によるウグァンバーレーが行われた。 このウグァンバーリーが終わると、競漕の到着順に糸満の氏神である白銀堂へ行き、それぞれの代表が神人から盃を受け、ハーレーシンカ(漕ぎ手達)は円陣を作ってハーレー歌を奉納する。今回は新島、西村、中村の順だった。 西村、中村、新島の3村による競漕は、この後、青年団・中学生・クンヌカセー(転覆)・アガイスーブがある。これら3村による競漕の合間に会社や学校、商店対抗の職域ハーレーやアヒル取り競争が行われる。 一番最後の競争であるアガイスーブの後に、ヌン殿内(糸満ノロの家)で盃を受け、ハーレー歌の奉納が行われるが、その前に小禄・大嶺の地バーリーを見に糸満を出なくてはならないので、ヌン殿内の外観だけでもと思い行ってみた。 ヌン殿内に着いて暫くすると、世話役の方たちがビンシーを持って御願にいらしたので撮影させていただく。現在、糸満のノロは不在で殿内を管理する方もいらっしゃらないようで、建物はちょっと痛んでいる。こういう建物を市の文化財として保護、保存はできないのだろうか。 ヌン殿内から糸満漁港に戻り、職域ハーレーを見たり市場の方を散策。3村の中学生ハーリーを見てから、大嶺の地バーリーを見るために小禄に向かう。 糸満ロータリーから89番糸満線の那覇行きに乗車し、小禄駅前で下車。地図を見ながら大嶺自治会館へ向かった。 14時半頃に自治会館に着いて、地バーリー保存会の会長さんと大嶺自治会長さんにご挨拶して、撮影の許可を貰う。大嶺は、昨年4月13日(旧暦3月4日)に三月あしびを撮らせていただいた小禄・鏡水地区と同じく、旧日本軍によって土地を接収された地区だ。嘗ての大嶺の場所は現在自衛隊の基地の中にある。 鏡水地区の三月あしび、それから戦後に軍用地として接収されて嘗ての土地はキャンプ・キンザーの中にあるという小湾集落のアギバーリー。自分たちの土地を軍によって接収された地区の旧暦行事が、現在どのように行われているのか記録したくて今回大嶺の地バーリーを撮影に来たと説明した。 そう言えば、先月の25日に辺野古の海で年に一度のハーリー大会が行われたそうだが、昨年末の仲井眞知事の埋立承認により実際に埋め立てが始まれば、現在の場所でのハーリー大会は出来なくなる可能性がある。琉球朝日放送の記事。基地が沖縄の祭祀や旧暦行事に及ぼす影響は今も続いている。 事前に電話で問い合わせた時は15時から御嶽で御願があり、その後に自治会館の中で地バーリーが行われると言う事だったが、御嶽へ行く前に道ジュネーがあった。普通、道ジュネーは歩いて集落を廻るが、大嶺の道ジュネーはトラックの荷台に乗り込んで櫂を漕ぎながら地区を廻った。 トラックで道ジュネーをし、そのまま自治会館の近くにある御嶽で地バーリーを奉納。奉納が行われた大嶺御嶽には、嘗ての土地にあった様々な拝所が集められていた。火ヌ神や沢山の井戸、遥拝所には唐、龍宮乃神、前城、そして今帰仁と書かれた札もあった。また、トラックの道ジュネーを追いかけている時に、地元の女性から大嶺のノロ殿内を教えていただいた。 御嶽から自治会館に戻り、16時頃から地バーリーが開催された。以下、式次第から。 一、開会の挨拶 二、向上会会長挨拶 三、乾杯の音頭 寿、地バーリー 五、自治会会長の挨拶 六、組合バーリー 七、浦添市小湾「アギバーリー」ビデオ鑑賞 八、子供バーリー 青年会・婦人会・役員バーリー 祝、飛び入りバーリー 十、カチャーシー 十一、閉会の挨拶 来賓の席には小湾の自治会長さんや、アギバーリー保存会の方々もいらしたので、途中でご挨拶に伺った。 18時半頃には全ての演目が終わった。小禄駅まで歩き、モノレールで自転車の置いてある旭橋駅へ。家から持て来た魚肉ソーセージ2本とピーナッツしか食べていなかったので、ちょっと遠回りだが高良食堂へ。650円のBランチを注文。トンカツ、ローストチキン、目玉焼き、刺身、サラダ、ご飯とソバ。なんとか完食。小雨の降る中、濡れながら家に帰った。 *本日の出費。旭橋〜糸満ロータリー580円、糸満ロータリー〜小禄駅前500円、小禄〜旭橋230円、烏龍茶のペットボトル100円、Bランチ650円。写真はトラックで道ジュネーに出発する大嶺の地バーリー。 |
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*2014年6月3日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダからの那覇市内) *2014年6月5日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑だんだん引っ越しの日が迫って来て、気持ちが焦る。この4年半程の間で、今回が4回目の引っ越し。それほど沢山の荷物はないので一日あれば用意できるとは思うが、引っ越しが完了するまで気持ちは落ち着かないんだろう。 午後、近くのドコモショップで携帯電話とネット接続に使用しているFOMAの住所変更。ドコモショップの近くにある前島のスーパーで、特売していた白身魚の甘酢あんかけ、鯖のピリ辛揚げ各一つ108円を買う。食べようと思いながらまだだった、アチコーコーの豆腐も半丁購入。 アチコーコーは熱々、出来立てほかほかといった意味のウチナー口。大きなスーパーに行くと通常の豆腐コーナーとは別に、アチコーコーの豆腐コーナーが設けられていて、豆腐屋さんが納品したばかりの手作りのアチコーコー豆腐が並んでいる。何時にどこの豆腐屋さんのアチコーコーが届くかを書いた時間表が用意されているし、アチコーコーの豆腐が届くと店内アナウンスもある。 前島のスーパーから泊の魚市場へ。17時を過ぎて値下げが始まっていた。場内を一周して中トロ、大トロどれでも1パック1000円になっていたお店で、大トロ2200円のパックを1000円で買って来た。 部屋に戻り、さっそくアチコーコーの豆腐を食べてみる。醤油とショウガ、うどんつゆとワサビの2種類で食べてみた。沖縄の島豆腐は少し固めで、厚揚げの中を食べている感じ。普通に美味しいけれど、豆腐はアチコーコーでなくて良いな。天ぷらのアチコーコーは最高だけど。 今日も午前中から工事の音が聞こえて来た。下の写真(01、02)はベランダからの眺め。右側の写真(01)中央の白い家が最近完成したが、その横に掘削機だろうか大きな重機が持ち込まれて、砂利がゴロゴロ廻っているような大きな音が聞こえている。左側(02)の薄緑の屋根の豪邸も、最近工事を行っている。時々業者が庭の手入れを行っているのを見かけたが、人の住んでいる様子はないので解体工事なのかもしれない。那覇の街は、絶えず工事の音がする。沖縄に来て2年程の間に、瓦屋根の一軒家が取り壊されるのをいくつも見た。 下の写真(01、02)の奥、高いビルが見えるところはおもろまちで、新都心と呼ばれている。今は商業施設が立ち並ぶ地だが、沖縄戦では激戦地となった場所だ。シュガーローフの闘いだ。アメリカ軍だけで2600人あまりが戦死したり、怪我をしたとされている。 2年間、毎日のようにベランダから眺めていたのは、戦世からアメリカ世を経て日本に復帰し、その間絶えずスクラップ&ビルドされて出来た街の風景だった。さて10年後、この街並はどのように変貌しているのだろうか。まだまだ開発は続くのだろうか。 引っ越しの荷物をまとめるため、沖縄からのホームページの更新はそろそろ最後になるかな?次の更新は半月後か、一カ月後か。9日に部屋の明け渡しが済んだ後は、波の上ビーチの近くの安宿に2泊して、その後は久米島へ。もう少しだけ旅を続けようと思います。写真は1パック1000円だった大トロ。 |
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寒の戻りで富山はここ数日寒い日が続いているが、東京は今日、平年より4日早く桜が開花したそうだ。 家にある音楽CDをiMacのiTunesに取り込む作業が完了したので、聴きたいCDはミュージシャンの名前やアルバムタイトルで検索すれば素早く聴けるようになった。この取り込む作業をするために棚から引っ張り出したCDを、せっかくなら直ぐに目的のものを探せるようにキチンと収納したいという欲が出た。そこで、まずは国内アーティストと海外アーティストに仕分けてみた。そして国内アーティストはあいうえお順に棚に並べた。たぶん、これが一番探し易い並べ方だろうと思う。 さて、困ったのが海外アーティストの並べ方。ABCDEFGとアルファベットの順に並べようかと思ったが、あいうえおの様には素早く探せそうにない。そこで地域やジャンルで仕分けすることにした。そして地域やジャングルで括れないアーティストはアルファベット順に並べることにした。 |
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↑海外アーティストのCDを、地域やジャンル別に仕分ける作業から。
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本格的な花粉のシーズン到来で最近は家から出ることを控えているが、今日は自転車で2〜3分のドラッグストアーまで買い物に行ったら、夜になって鼻水がタラタラとしてきた。目も痒いし、たまにクシャミも出る。花粉症になる前、春は好きな季節だったのに。 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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Photo Diaryを更新。 *2014年5月24日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑晴天。昨日の内に買っておいた土日祝一日乗車券を使い、伊計島へ。最寄りのバス停を7時53分発の屋慶名線に乗車。終点の一つ手前のJA屋慶名前で下りて、直ぐ近くにある平安座総合開発が運行する伊計島行きのバスに乗り換える。平安座島から浜比嘉島に渡り、もう一度平安座島に戻って宮城島、伊計島へとバスは走る。終点の伊計島共同売店前に着いたのは10時50分頃だった。平安座総合開発が運行する伊計島行きのバスは、土日祝一日乗車券は使えないので500円の運賃を支払う。 さっそく伊計島の集落をブラブラと散策。ヌンドゥンチ(ノロ殿内)を見つけたが、あいにく補修工事の真っ最中だった。 使い古しのソファーが通りの木の下に並べられ、オジーが並んで座っておしゃべりをしている。空いているソファーを借りて、ウトウトと午睡したくなる。 一時間半ほど伊計島を歩いた後、歩いて伊計大橋を渡り、宮城島へ。行きのバスで通った道を思い出しながら、辿りながら宮城島の集落を歩く。平安座島に近い桃原は歩いて行くには遠いが、池味、宮城、上原の3つの集落を巡った。集落の中や周辺の道路に、PCB処理施設反対の立て札が立っていた。 14時半頃までひたすら歩いて、さすがに疲れたので上原集落にあるバス停・新里商店前で一休み。お店でアイスクリームでも買って食べようかと思ったが、ドアが閉まっていた。自販機でミネラルウオーターを買って道端に腰を下ろす。しばらくすると杖をついたオバアさんがお店にやって来たが、ドアが閉まっているのでやはり隣りに腰を下ろす。上原集落にはお店はここだけだ。伊計島からここまで歩いて来たと話すと「今晩足が痛くなるよー」と言われる。暫くオバアさんと世間話をしていたが、お店が開くのが待ちきれなくてオバアさんは隣りの宮城集落へ歩いて行った。 帰りのバスは2時間に1本。次は商店の前を15時8分。 バスが来る少し前にお店のオバさんが用事から帰って来た。ほどなく何人かのオバアさんも集まって来た。集落の憩いの場所なのだろう。 定刻通りにバスが来た。ウトウトしながらバスに揺られる。来た道を辿り宮城島から平安座島、浜比嘉島、また平安座島に戻り海中道路を通って屋慶名農協前に着いた。 新里商店前から屋慶名農協前までの運賃400円を払ってバスを降りると、27番の那覇行きのバスが目の前を走って行った。急いでバス停まで追いかけて乗車。まだ日が暮れるまで時間があるので勝連城跡に行くことにする。27番のバスは勝連城までは行かないが、運転手さんに聞くと西原バス停からは歩いても15分ほどだと言う 屋慶名から西原までは15分ほどで着いた。土日祝一日乗車券を見せてバスを下りようとすると、運転手さんが困った顔で「このバスは沖縄バスなので使えないんです」と言う。確かに土日祝一日乗車券は琉球バスと那覇バスで使える乗車券だが、沖縄バスも走っている共同運行の路線では沖縄バスでも使えると思っていた。27番の屋慶名線は沖縄バスと琉球バスの共同運行だ。そう運転手に言うと主に西側を走る共同路線は沖縄バスでも使えるが、東側を走る27番の屋慶名線と227番の屋慶名おもろまち線は共同運行だが使えないと言う。確かに乗車券の裏面に小さく書いてあった・・・orz。東側は沖縄バスが中心に走っている路線だからだろうか?なんだか腑に落ちないが360円の運賃を支払ってバスを下りる。後で時刻表を見るとこの時間帯は沖縄バスしか走っていないので、お金を払ってでも乗って正解だった。 西原のバス停からトボトボと勝連城へ。想像していたよりもこじんまりとした城跡だったが、丘陵地に建てられており眺めが素晴らしかった。 勝連城から西原バス停へ戻り、那覇方面行きのバスを待つ。来るのは沖縄バスばかりだ。 かなり待ってやって来た、琉球バスが運行する27番で胡屋へ。先月、コザ・てるりん祭を見に来た中央パークアベニューを散歩する。家から持って来たおにぎり3個、シュウマイ3個はお昼に食べて、すっかりお腹が空いたので大衆食堂ミッキーへ。ミッキーにて沖縄の食堂で一番ややこしいメニュー、おかずを注文。600円。みそ汁の代わりにゆし豆腐。漬け物がきれたそうで、ご飯の上に味噌が乗っていた。 お腹いっぱいになり、歩き疲れたので胡屋のバス停へ。23番具志川線の那覇行きが来たので乗車。なんだか車内が暑い。斜め前の席の人が上部の窓を開ける。同じように窓を開けながら、暖房でも入っているのだろうかと話しかけたら、運転手に聞こえたようで自動温度調整になっているそうだが少し下げてくれた。それでも暑いので、最寄りのバス停に着くまで外の風を入れて凌いだ。写真は勝連城跡。 |
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*2014年5月25日のPhoto Diaryはこちら。(学芸員と歩く史跡・旧跡ツアー、小禄地区) *2014年5月26日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑5月の最終月曜日は、メモリアルデー。昨年、家の近所にある泊外人墓地で、この戦没者慰霊祭のセレモニーを撮影した。その時の写真を何枚かプレゼントしようと思い、少し早めに起きてプリントをする。 セレモニーは朝10時からだが、9時過ぎに外人墓地へ。昨年、国旗を掲揚したり式で流す音楽を用意されていた退役軍人と思われる方がいらしたので、さっそく朝プリントした写真をお渡しした。 しばらくすると泊外人墓地を撮り続けている新垣辰雄さんがいらした。メモリアルデーを知ったのは、昨年の5月21日から26日まで那覇市民ギャラリーで開催された新垣さんの写真展「泊外人墓地」を見たからだった。新垣さんとは、3月8日に沖縄県立博物館・美術館の講座室で開催された「沖縄の文化表象に見るジュリ(遊女)の諸相」と題したシンポジウムでお会いして以来なので久しぶりだ。 10時になってセレモニーが始まった。今年は昨年よりも参加者が多かった。 セレモニーが終わった後、新垣さんと近くにある軽食ルビーで昼ご飯を食べながらお互いの近況報告など。 今日は昨年撮影させていただいた人達に写真をお渡しするのがメインで、あまり写真は撮らなかった。天気予報は午後から雨で、夕方からは雷雨となっていたが、降り出したのは夜も遅くになってからだった。写真はメモリアルデーの泊外人墓地の様子。 |
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*2014年5月28日のPhoto Diaryはこちら。(ジミーのアップルパイ) *2014年5月29日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑前日の天気予報では、今日の那覇は梅雨の中休みで晴れ。朝早く起きて天気予報を確認した後、座間味村のホームページで船の空席情報をチェック。座間味島行きを決行する。 那覇・泊港と座間味島を結ぶ船はフェリーざまみと、高速艇のクィーンざまみの2隻がある。フェリーざまみなら往復で4030円だが、島に滞在できる時間は3時間。高速艇は往復で5970円だが7時間半ほど滞在できる。行きをフェリーざまみにして、帰りを高速艇という選択もあるが、高速艇に乗る事にした。 クィーンざまみの出航時間は9時。家を8時半に出て、信号待ちの時間を入れても5分ほどのふ頭北岸船客待合所へ自転車で向かう。泊港から出る離島便はとまりんでチケットを買うが、この高速艇だけはふ頭北岸船客待合所になっている。 船の座席は余裕があったが、泊港を出発する時には潮風にあたりたくて2階のデッキに移動。 デッキの上では何かに掴まっていないと飛ばされそうなスピードで、高速艇は慶良間の島々を抜けて行く。フェリーざまみが阿嘉島に寄って2時間かけて座間味島に到着するのに対して、クィーンざまみは50分で着いてしまう。 座間味島に着いて、先ずは観光案内所で地図や村内バスの時刻表などをもらう。島には3つの集落があり、フェリーの発着する港がある座間味集落、座間味集落から1キロほど離れた阿真集落、村営バスで10分ほどの阿佐集落。とりあえず座間味集落を散策すると、「ノロ宮」と鳥居に記された殿があった。家に帰ってから今帰仁村歴史文化センターのホームページの座間味島(リンク切れ)の項目を見るとヌル宮(ヌルドゥンチをお宮にした?)と書かれていた。 集落内を散策していると他にも赤い鳥居の立っている祠があった。中には香炉が3つほど並んでいた。飲み物を買うついでにスーパーで聞いてみたが、神人ではなく個人が管理しているそうだ。 今帰仁村歴史文化センターのHPには「集落内を歩いていると、屋敷内に祠(殿)をつくり鳥居が建立されている。波照間島で見られたが屋敷をワー(ウタキ)にしていこうとする発想だろうか」とある。 港の近くには、鳥居に「いびぬめー」と記された殿があった。座間味村のHPには海神宮とあり、旧暦8月の海御願の時には大漁旗で飾られて祭りの拠点となると書いてある。殿の中には海御願の時に登場するミルクの面が奉られていた。ところで、いびぬめーとは、イビの前という意味だと思うが、ではイビはどこだろうか。 「 座間味+いびぬめー」で検索すると(いびぬめーとは海の前という意味)とか、(いびぬめえ、いびの宮)と紹介しているブログがあり、いび=海、めえ=宮と言う解釈があるのか少し疑問に思ったりもする。 集落散策はこれくらいにして、せっかく今年の3月5日、国内で31番目の国立公園に指定された座間味島の海を泳ぐ事にする。そのためにバックの中に、海水パンツとバスタオルを入れて来た。 まずは座間味集落から海岸沿いに1キロほど離れた阿真集落のビーチへブラブラ歩く。天気予報は晴れ、と言いながらガスがかかっていて空は少し白っぽい。途中、共同井戸(?)の跡やマリリン像があった。 15分ほどで阿真集落に着いて、目の前のビーチへ。沖に何隻か小型の船が出ているが、砂浜には誰も居ない。プライベートビーチ状態。さっそく持って来た海水パンツに着替えて、今年2回目の海水浴。海水の透明度に驚く。 1時間半ほど泳いだり、Tシャツを着て集落の中を歩いたりして過ごす。阿真ビーチには青少年旅行村キャンプ場があり、キャンプ利用料300円、テント(小)1000円で宿泊できる。一瞬帰りの船を明日にして泊まって行こうかと思ったけれど、やはり心の準備ができなかった。 帰りの船までたっぷり時間があるので、今度は座間味集落を挟んで反対側にある古座間味ビーチへ。途中にある座間味の漁協で天ぷらを3つ買って昼ご飯にする。漁協の横、集落入口近くには「太平洋戦争沖縄戦上陸第一歩之地」と記した碑が建っている。 今ではマリンレジャーの島のような印象だが、座間味島は沖縄戦における最初の米軍上陸の地であり、渡嘉敷島と共にたくさんの犠牲者を出している。 座間味集落から峠を一つ越えて、古座間味ビーチに到着。こちらも透明度の高い海に、珊瑚を敷いた白い浜。パラソルが並んで、リゾートっぽい。さっそくTシャツを脱いで泳いでみる。阿真のビーチは遠浅だったが、こちらは直ぐに深くなるようだ。 1時間半ほど泳いだり砂浜を歩いたりして、また峠を越えて座間味集落に戻る。漁港の護岸壁に男の子が上って騒いでいる。「ヒージャーヒージャー!」と聞こえて山羊がどうしたんだろうと思ったら、シージャーだった。家に帰ってネットで調べるとダツという凶暴な魚の事だった。 帰りの高速艇は17時20分。港の待合所で船の到着を待っていると、港湾内を2隻のサバニが横切って行く。一隻は帆が立てられている。ハーリー競漕の練習かと思ったら、座間味島では毎年座間味から那覇までを競うサバニ帆漕レースが開催されているそうで、その練習だった。テレビカメラを乗せた漁船が並走していたので取材かもしれない。 泊港から来たクィーンざまみに乗船。折り返し座間味から泊に出航した。帰りも2階のデッキに上がり、猛烈な潮風に当たりながら慶良間諸島の島々の間を走り抜けて行った。 18時10分頃、泊港に到着。昨年から建て替え工事が行われていた那覇ハーリー会館の外観が、だいぶ完成していた。泊の市場でお刺身でも買って帰ろうと思い寄ってみたが、市場は既に閉まっていた。 *本日の出費。クィーンざまみ、泊港と座間味の往復5970円、ジャスミン茶のペットボトル160円、天ぷら3個150円。写真は座間味の海で撮影した珊瑚の群落。 |
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ミノルタのフラッシュメーターIV型が届いた日、今度はiPod用のスピーカーが壊れた。音が出ないとかではなく、電源も入らない。やれやれ。しょうがないので、アマゾンとヤフオクで安い中古のiPod用ドック付きスピーカーを探した。今回壊れたスピーカーも、2018年11月にアマゾンのマーケットプレイスで探して送料無料1,280円だったロジクールS315の中古だ。 色々と物色したところヤフオクに即決価格500円でJBL on timeというスピーカーが出品されていたので、これにした。商品は500円だが、送料は1,040円。13日に落札し、15日に届いた。思っていたより大きくて重い。特にACアダプターがなんで?と思うほど大きくて重い。そういえば初めてiPod用に新品で購入したJBLのスピーカーも、ACアダプターが大きかったのを思い出した。早速iPodを繋げて音を出してみると、柔らかく丸い音がする。長持ちしますように。 |
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↑↓500円だったJBL on time。ACアダプターがもう少し小さいと良いんだが。 |
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昨夜11時36分頃、宮城・福島両県で震度6強の地震があった。地震の規模はマグニチュード7.4。富山も震度2だったようだが、揺れは感じなかった。 ロシアのウクライナへの侵攻で、原発が制圧されるなどその存在の危険性が指摘される中、岸田首相が16日の記者会見で日本国内の原発がミサイル攻撃を受けた場合の対応について考えを示した。それによると、海上のイージス艦と地上のPAC3(地対空誘導弾パトリオット)でミサイルを迎撃して原発を防護するそうだ。PAC3の射程距離は20Kmほどしかない。どの原発が狙われるかわからないから、全国の原発の近くにPAC3を配備するのだろうか。例えば日本全土をほぼ射程圏内にしている北朝鮮のノドンが何十発と一斉に発射されれば、撃ち落とすことは不可能だろう。イージス艦とPAC3を持ち出す辺りで、思考が停止していると思わざるを得ない。 昨日の南海日日新聞に<ノヤギ、生息数の増加確認 奄美大島、世界遺産域にも定着>という記事が掲載されていた。なんでも昨年7月の調査では642頭確認したそうで、2008年の419頭、14年の477頭から徐々に増加している。 |
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↑請島のソテツが群生した山の上にポツンと佇む野ヤギ(だと思う)。2011年10月23日撮影。 |
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この他の気になった記事を備忘録として。 ◯ロシア政府系TVの生放送で突然「戦争反対」 ディレクターを拘束 ◯全長2.7メートル!リュウグウノツカイ、国頭の海岸で発見 深海魚なのになぜ? |
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Photo Diaryを更新。 *2014年5月18日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑今日は那覇市歴史博物館が企画する学芸員と歩く史跡・旧跡ツアーの3回目で、那覇地区を歩く。 朝10時に歴史博物館に集合なので、9時半頃に家を出て雨の中を博物館の入っているパレットくもじへ向かう。ちなみに2回目の真和志地区は辺野古のボーリング調査阻止10周年集会と重なったため参加できなかったが、初回の首里地区の様子はこちらにあります。 1時間ほどロビーで勉強会をしていたが、いつの間にか雨は止んでいたので、少しの時間だが近場の史跡・旧跡巡りをする事になった。 パレットくもじに戻って来ると、目の前を神輿を担いだ一団が歩いて行く。昨日、今日と波上宮のなんみん祭(例祭)が行われており、その神輿行列だ。史跡・旧跡ツアーは歴史博物館で解散となっていたが、神輿行列を見たい人のためにここでお別れとなった。そう言えば今日は浅草の三社祭の最終日だと思いながら、神輿行列に着いて行く。 琉舞の奉納が終わったのが16時15分頃だった。なんみん祭の催し物としては、この後18時から若狭公民館でのど自慢大会が行われるようだが、だいぶ時間が開くのでスーパーで買い物をして帰宅した。 |
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*2014年5月20日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダからの那覇市内) *2014年5月21日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑朝から晴天。午前中に借りていた本を返しに若狭図書館へ行くが、閉まっていたので返却ポストに投函。 お昼にそうめんと納豆ご飯を食べてから、久しぶりに自転車で嘉手納の方へ。陽射しはあるが暑くはなく、空気が乾いていて風が気持ち良い。サイクリング日和だ。 泊市場、国立劇場おきなわの前を通り、キャンプ・キンザーの脇道を抜けて国道58号に出るお馴染みのルートで北谷へ。途中、浦添にあるソニーのサービスセンターに寄ったり写真を撮ったりしていたので、北谷町砂辺にある戦闘機が嘉手納空軍基地に着陸するポイントに着いたのは15時半頃だった。 1時間半ほど居て、戦闘機の離発着(離陸する所は方向が多分反対なのであまり確認できないが)訓練の様子を眺めていた。他に2人、やはり戦闘機の着陸を撮影に来ている人がいた。 頻繁に上空を飛ぶ軍用機を見ながら、世界中に散らばるアメリカ軍の基地で使用するガソリンというのは、一日でどれくらいの量なのかと考えて途方に暮れる。 そろそろ帰宅ラッシュとなる国道58号を、那覇に向かって走る。北谷辺りは本当にYナンバーの車が多く、半分くらいがYナンバーの様な印象だ。そう言えば、この58号(軍用道路1号)は米軍の緊急時の滑走路としての利用も考えて作られた道路だった。 家の近く、天久にある吉野家の前を通る。一度通り過ぎてから、牛丼が無性に食べたくなりお店へ引き返す。肉が1.2倍と言うアタマの大盛りとみそ汁を注文。これだけだと夜中にお腹が空きそうなので、新都心のスーパーに入っているパン屋さんへ。選り取り7個540円のセールをやっていた。写真は、頻繁に軍用機が離発着する嘉手納基地。 |
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音楽そのものより、その存在自体が気になるアーティストがいる。2009年7月に亡くなった、川村カオリもそんな一人だ。 1991年9月11日、表参道にあったロシア料理店「テアトロ・スンガリー」で彼女を撮影した。ソ連でクーデターが起こった1ヶ月ほど後で、ソ連が崩壊する3ヶ月ほど前だ。 その写真は、ミュージックマガジン1991年11月号の特集「激動のソ連とロック」の中、劇作家・斉藤憐さんとの対談「川村かおりと ひとときをすごして~日ソの狭間から見る 私たちの未来」と題された8ページに掲載された。 この日、対談の直前に録音するテープレコーダーを急遽スタッフが編集部へ取りに行かなくてはならなくなって、フォトセッションを先にすることになった。バー・カウンターと、グランドピアノが置かれたフロアでポートレートを撮った。この時、ボクは彼女についてほとんど何も知らなかったと思う。彼女がロシア人の母と日本人の父の間に生まれたハーフだということすら。 どう話しかけていいかも摑めず、わりと淡々とシャッターを切ったように思う。その時のベタ焼きを見ると、フォトセッションは36枚撮り1本分ほど撮影している。 |
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いろんなポーズのカットがあるので、ボクがポーズの注文をし彼女が応えてくれたのだろう。笑っている写真、笑顔の写真は一枚もない。たぶんボクは笑顔を注文しなかったのだろうし、彼女が自主的に笑顔を浮かべる事もなかった。 フォトセッションの後、斉藤憐さんとの対談を撮影した。彼女の生い立ちや、この対談の一ヶ月程前に起こったソ連のクーデター、彼女の音楽感などがそこで語られている。対談中に撮影したフィルム2本分の中に、フォトセッションでは見られなかった屈託のない、或いは少しはにかんだような笑顔の彼女がいる。 対談の後、表参道の歩道橋の上で斉藤憐さんと並んだツーショットを撮った。ジャケットの下はセックス・ピストルズのTシャツ、短く切ったジーンズから細い脚が伸びている。手の位置や置き方を少しずつ変えてもらいながら撮影していって36枚撮りフィルムの最後、36カット目。それまでレンズを見据えるようにポーズを決めていた彼女が、おどけた顔で横を向いている。その直前、いたずらっ子のような笑顔をカメラに向けた気がした。 |
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この撮影の半年程前にリリースされた『Church 』というアルバムで、彼女はこんな曲を歌っている。 斎藤憐さんも2011年10月12日に亡くなり、当時オープンしたばかりのテアトロ・スンガリーは2006年12月に閉店している。YouTubeから「戦争が起きたら/川村かおり」。 |
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しばらく前にミノルタのフラッシュメーターIV型(露出計)を使おうとしたら、ボタンを押しても反応しなかった。その後、受光球を付けたり外したり、或いは裏蓋のネジを外すと一時的に反応したりもしたが、直ぐに使えなくなった。これは一度内部を軽く掃除すれば復活するのだろうか?と思いネジを外して裏蓋を開けたところ配線が一本切れてしまった。どこに繋がっていたかもわからない。直そうと思ってトドメを刺してしまうという、自分にはよくあるパターンだ。 今のところ直ぐに必要ではないし無くてもなんとかなるが、やはりメーターを持っているのはフォトグラファーとしての身だしなみのような気がする。ミノルタという会社自体がなくなっているし、他のメーカーのモノを買おうかと思っていたら、ヤフオクにIV型が出品されていた。ちょっと競って5,259円+送料750円で落札した。 商品説明には通電確認のみで、その他の動作は未確認だったのでちょっと心配もしていたが、届いた商品は思っていたよりキレイで、定常光もストロボ光もきちんと測れたので安心した。 フラッシュメーターとポラは、フィルム時代の必需品だった。カメラはモノクロとカラーの両方を装填できるように最低同じカメラを2台持っていた。一番長く使ったミノルタのα9000は、これに裏蓋をポラロイドフィルムを装填できるホルダーに付け替えたものと、予備のカメラを含めて4台持っていた。なのでカメラとレンズは壊れても自分の機材でなんとかなったが、フラッシュメーターが故障したときは困った。スポットメーターも持っていたけれど、用途が違うので代わりにはならない。幸いミノルタのプロサービスに入っていたので代替機を出してもらえたが、撮影の途中に故障すると本当に焦った。まあ、メーターの故障なんて滅多になくて、30年以上使って10回もなかったと思うけれど。 下の写真は、ヤフオクで落札したフラッシュメーターIV型。傷もほとんどなく、ケースもキレイ。取説はネットにファイルがあった。 |
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今日の沖縄タイムスに、伊是名島の仲田集落で幻の花とも呼ばれるイルカンダが開花したという記事が掲載されていた。その記事の中で、花の香りは独特で「排ガスのよう」とも言われると書かれていた。そ・・・そう? イルカンダは奄美・沖縄といった亜熱帯に分布るすマメ科の蔦植物で、大きな紫の花が房状になる。奄美大島に住んでいた時に、群落のある住用町へ2回ほど撮影に行ったが、そんな強烈な臭いはしなかったと思う。 |
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↑奄美大島の住用町に群生しているイルカンダ。2012年4月22日撮影。 |
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「ノーモア沖縄戦 命(ぬち)どぅ宝の会」の発足集会が今週の土曜、19日に沖縄市民会館・大ホールで開催される。こちらでライブ配信が行われるようだ。 |
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Photo Diaryを更新。 *2014年5月5日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑朝から雨。インターネットのニュース欄に地震速報があったので、急いでテレビのスイッチを付けると東京で震度5の地震があった。 昨年のゴールデンウイークは辺戸岬まで行ったので、今日は辺戸岬の先、沖縄本島の北の最果てにある奥集落へ行く事にする。天気予報では一日中雨なので、明日にしようかな~と多少迷うが、行ける時に行っておく事にする。 奥に行くには路線バスで行ける最北のバス停・辺土名で、村営バスに乗り換える。奥行きの村営バスが辺土名を出発するのが11時30分。それに間に合うように乗り継ぎを組み立てると、昨日と同じく最寄りのバス停を7時28分に出る20番の名護西線に乗車する事になった。 名護BTで10時出発の67番・辺土名線に乗り換え。終点の辺土名BTで降りて村営バスを待ってもいいが、一つ手前のバス停の向かいに村営バス乗り場があるので、そちらで下車して待合所へ。奥集落では3日から今日まで、鯉のぼり祭りが開催されており、それを見ようと言う家族連れが多く待合所は満員だった。 30分ほど待って、奥行きのバスに乗車。海岸線を走る国道58号を通り、途中途中の小さな集落に寄って辺戸岬へ。そして山の中を抜けて終点の奥に到着した。普段は2人くらいの乗客だと言うが、今日は10人ほど乗っていただろうか。 バス停で降りると、目の前の奥川にたくさんの鯉のぼりが泳いでいた。雨だったのであまり期待していなかったのだが、白く煙るやんばるの森を背景に泳ぐ鯉は幻想的で美しかった。 バスは13時30分に辺土名へ引き返す。滞在できるのは1時間強だ。この後に最終となる16時の便もあるが、暴風雨の中、あまり長居もしたくない。 鯉のぼりを眺めてから、集落の中を散策。そう言えば沖縄から奄美、鹿児島へと続く国道58号の起点は奥なのだが、起点となる場所はどこだろうと思い祭り会場のスタッフの女性に尋ねると、歩いて5分ほどの所にある橋の袂が起点だと教えて下さった。遠ければ諦めたが歩いて5分なので、傘が飛ばされそうになりながらも行ってみた。 橋の欄干の横には起点と書いた標識が立っており、その横にはモニュメントが設置されていた。 モニュメントの隣りには「国道58号0起点到達証明書」を奥共同売店にて1部100円で販売しているという案内板があったので、さっそくバス停の向かいにある共同売店で購入。レジの女性が日付と番号をボールペンで入れてくれた。 訪れた土地で証明書を手に入れるのは、これが2カ所目だ。もう一カ所はポルトガルを旅した時に行ったロカ岬で、ユーラシア大陸最西端の証明書を貰った。 1時間はあっという間に過ぎて、帰りのバスに乗車。奥の隣りの辺戸集落で、迷彩服の上下を来たオジさんが乗って来た。カメラを持っているのを見て、カメラに詳しいか尋ねられる。撮影の事なら多少解るが、機械のことはあまり解らないと答える。オジさんは大きなバックを持っており、その中に10台ほどカメラが入っていると言う。昔から持っているが使い方がわからないので、これからカメラに詳しい知り合いに使い方を聞きに行くそうだ。そう言ってバックの中を見せてくれたが、古いフィルムカメラが無造作に押し込まれていた。カメラの話し、集落の祭祀の話し、オジさんの仕事の話しをしているうちに辺土名に到着した。 他の乗客の人達は名護行きの辺土名線に乗り換えたが、辺土名と言えば波止場食堂。ちょっと遅めのお昼ご飯を食べに、食堂のある漁港の方へ歩いて行く。波止場食堂には過去3回来てカツ丼を食べているが、今日はやはり名物のポーク玉子を注文。暫くしておばさんが運んで来たトレーには、大きなお皿にベーコンとソーセージがてんこ盛りになっていた。 ベーコンの下には、ポーク(ランチョンミート)、卵焼き、ハンバーグ、トンカツ、煮魚、イカ、ホタテ、マカロニサラダ、 レタス、青菜の和え物が隠れていた。 食べきれなかった料理をプラスチック容器に詰めて、辺土名BTへ。15時30分の辺土名線で名護へ。名護から名護西線で那覇へ帰る。 沖縄は今日、梅雨入りした。那覇ハーリーの3日目、本バーリーは雨で中止になってしまった。 *本日の出費。辺土名ー奥 600円X2、国道58号「0起点」到着証明100円、ポーク玉子650円。写真は、奥集落の鯉のぼり祭り。 |
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*2014年5月6日のPhoto Diaryはこちら。 | ||
↑フリー乗車券を使えるのも、今日が最後。昨日、一昨日に続いて今日もやんばる方面へ。沖縄観光の定番スポット、本部半島にある美ら海水族館へ行く事にする。 今日はゆっくり目で、最寄りのバス停を9時43分に出る名護西線に乗車。酷い渋滞は無かったが、それでも終点の名護バスターミナルに着いたのは15分ほど遅れた12時過ぎだった。 美ら海水族館のある海洋博公園へ行くには名護BTから本部半島線に乗り換える。本部廻りも今帰仁廻りも本部半島を一周するのでどちらに乗車しても行けるが、距離が短いのは本部廻りのようだ。しかし、11時45分発の本部廻りが出たばかりで、次は13時20分までない。今帰仁廻りは12時25分があるので、こちらで行く事にする。バスの運転手さんに海洋博公園へ行くか確認すると、このバスは謝花経由なので、海洋博公園には停まらないので、浦崎で降りて15分ほど歩く事になるとの返事。それでも1時間以上本部廻りのバスを待つよりはいいだろう。ターミナルの売店でサンドイッチ1つと2個入りのおにぎりを買って乗車する。バスはお年寄りを中心に満席で、皆さんゴールデンウイークのフリー乗車券をお持ちのようだ。 50分ほどで浦崎に到着。お腹が空いたので先ほど買ったサンドイッチを頬張りながら、運転手さんに教えられた方角に歩いて行く。随分と歩いたな~と思う頃に、海洋博公園の南ゲートに到着。水族館のある中央ゲートまでは、さらに歩く。とりあえず公園のベンチに座っておにぎりを食べて一休み。 食べ終わり、植物管理センターと言う施設の中で沖縄のランの写真が展示されていたので、ささっと見てくる。名瀬に住んでいた時にも思ったが、奄美・沖縄に生息する野生のランの種類の多さにビックリする。 植物管理センターを出て熱帯・亜熱帯都市緑化植物園の中を抜け、熱帯ドリームセンター、沖縄郷土村の横を通って目指す美ら海水族館に到着。連日の旅疲れもあって、南ゲートから中央ゲートまで歩くだけで結構しんどかった。 水族館に行くと14時30分からのイルカショーの案内がスピーカーから流れて来た。あと5分ほどで始まるので、まずはこちらを見学。ショーの行われるオキちゃん劇場は野外にあり、入場券がなくても観れるようで太っ腹ですね。 20分ほどのショーを見終えて、ようやく水族館へ。見学順路の案内に従って見て行く。驚いたのが、水槽がクリアな事と照明が極力反射しない様に設置されている点だ。水槽の外から撮影しているのに水中写真風にクリアに撮れる。それにしても色んな顔・形の魚がいますね。 圧巻はやはり、巨大なジンベーザメやマンタが悠々と泳ぐ大水槽。ジンベーザメが3匹同時に姿を現わすと、迫力あります。 1時間ほど水族館の中を見てから、外にあるマナティー館とウミガメ館へ。こちらも無料で見学できる。やはり太っ腹ですね。 水族館の後に熱帯ドリームセンターを見学しようと思っていたが、総合案内所で貰った帰りのバスの時刻表とにらめっこすると、あまり長くは居られないので近くにある海洋文化館に入ることにする。名護BTから那覇行きのバスの最終は20時まであるが、余裕をみて17時16分に中央ゲート発の70番・備瀬線で帰る事にする。これだと名護BTに18時5分に到着する。 海洋文化館に入り170円の入場券を購入。16時半からプラネタリウムが上映されると案内されるが、上映時間が30分ほどなので他の展示物を見る時間が無くなってしまうのでパスすることに。ホールには大型のカヌーや、沖縄・奄美の伝統的な漁で使われていた舟・サバニなどが展示されていた。 この海洋博公園は、昭和50年に沖縄で開催された沖縄国際海洋博覧会の跡地に作られた公園。そう言えば高校の頃、一つ年下の女の子が修学旅行で海洋博覧会に行き、お土産に帆船の模型を買って来てくれたのを思い出した。 船の他、太平洋地域の楽器や、タトゥー(入れ墨)の紹介もある。奄美・沖縄の女性たちも、嘗てはハジチ(入れ墨)をしていた時代があった。 1時間ほど館内を見てまわったが、何回か通うか、腰を据えて一日居ないと見切れないほどの展示だった。 17時に文化館を出て中央ゲートへ。しばらく待って70番の備瀬線に乗車。この路線は本部半島の山の中を通って名護へ向かう。車窓からは、ヘゴの木がたくさん生えている山原らしい風景が眺められる。 18時過ぎにバスターミナルに到着。那覇行きは名護西線、名護東線共に18時30分に出るが、77と書いた東線のバスが既にロータリーで待っていた。臨時便だと言う。どっちみち今日は東線で帰ろうと思っていたので、迷わず乗車。18時15分にターミナルを出て、那覇に向かった。 ゴールデンウイークの最終日、渋滞もない。辺野古、金武、コザを通って那覇に入る。最寄りのバス停に着いたのは、20時40分頃だった。 *本日の出費。サンドイッチ150円、おにぎり2個セット150円、海洋文化館入場料170円、ジュース100円。写真は、美ら海水族館。 |
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*2014年5月7日のPhoto Diaryはこちら。(母たちの神、パイナップル) *2014年5月10日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダからの那覇市内) *2014年5月11日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダからの那覇市内) *2014年5月12日のPhoto Diaryはこちら。(本マグロのステーキ、刺身はぎれ、冬瓜漬、泡盛・國華) *2014年5月14日のPhoto Diaryはこちら。(月) *2014年5月16日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑朝から青空。こんなに晴れるとわかっていたら、フェリーで座間味島に行く予定でも立てておけば良かったと思うが、もう遅い。ならばバスを乗り継いで伊計島はどうだろうと時刻表を見て検討したが、今日は平日で土日祝一日乗車券は使えないのだった・・・orz。 ならば近場にあり前から訪れようと思っていた中山王陵・浦添ようどれ行きにする。ネットで調べると55番の牧港線に乗車し、仲間バス停で下車するらしい。55番線は最寄りのバス停にとまらないので、自転車でおもろまちへ。おもろまち駅前に着いたら、ちょうど12時33分発の牧港線がやってきた。 13時頃に仲間バス停に到着。バスを降りると、浦添ようどれがある浦添城跡への案内表示板があった。表示板に従って住宅街の坂道を5分ほどあがったところに資料室である浦添グスク・ようどれ館がある。100円の入場料を払って、まずは展示資料を見学。 メインの展示物は、浦添ようどれの西室(英祖王の墓)の内部を実物大で再現した部屋で、かなりリアルな石厨子が置かれていた。西室を見てからロビーにあるテレビで三山時代の琉球の歴史や、浦添グスクについてのビデオを観る。ビデオは2種類あったが、先ずは1種類を観て、実際に城跡を見学してから戻って来る事にする。 国指定史跡・浦添城跡というパンフレットを貰い、その中に掲載されている地図を見ながら浦添ようどれへ。入り口までは歩いて2、3分の距離だ。 浦添ようどれは2005年の4月に復元工事が終了し、現在は無料開放されているが、先の沖縄戦で大きな被害を受けている。破壊された写真や、復元工事の様子もようどれ館に展示されている。 浦添ようどれを出て、城跡の中にある伊波普猷のお墓やディーグガマを見てから、もう一度浦添グスク・ようどれ館へ。ロビーの椅子に座り、休憩がてらまだ観ていなかったビデオを鑑賞。 ところで再現された西室の中にある石厨子の中には洗骨した骨(レプリカ?)が納められていたが、洗骨する前の遺体はどこに安置されていたのか気になった。シルヒラシ(仮墓)のような場所はなかったのか事務所にいらした職員の方に聞いたが、仮墓の存在は不明だと言う。ただ西室に奥室があり、そこが仮墓だったと考える説があるようだ。 浦添ようどれ館の横に小さな公園があり、展望台があった。櫓に上って普天間の方を見ると、飛行場にオスプレイがたくさん駐機していた。 浦添ようどれ館から、坂道を下りてバス停へ向かう。この坂道の先に城跡があるとは想像もできない、真新しい住宅が並んでいる。強い陽射しに当たって、全てが白日夢のようだ。 55番の牧港線は1時間に2本ほど走っているので、10分ほど待ってバスが来た。 自転車をとめてある、おもろまち駅前で下車。 自転車に乗って安里にある床屋さんへ向かう。 消費税増税後、初めての散髪。平日ならカット700円だったが、4月1日からはカット1000+消費税で、1080円になってしまった。それでも十分安いんだけれど。 髪を切ってスッキリし、途中のスーパーで食材を買って帰る。晩ご飯は、イワシ揚げと冷蔵庫にある野菜を具にした、沖縄風やきそば。味付けは塩こしょうとお醤油にした。麺が油でコーティングされているのが沖縄風だろうか?写真は、浦添ようどれ。 |
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3月11日(金) |
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今日は高岡でも最高気温が20℃近くまで上がり、春らしい陽気になった。テレビや新聞は東日本大震災とウクライナのニュースで一日終わるかと思っていたら、鶏卵最大手のイセ食品が更生手続きに入ったという衝撃的な記事が飛び込んできた。イセ食品の創業家出身で長年にわたり代表取締役を勤めていた伊勢彦信前会長のご自宅は、家から自転車で20分ほどの距離にある。 一昨日、ウクライナ北部にあるチェルノブイリ原発で、ロシア軍が外部からの電力供給を切断したというニュースが流れた。昨日になってロシアのエネルギー省は隣国ベラルーシから供給を受けて、チェルノブイリ原発の電力が復旧したと明らかにした。しかし、IAEA(国際原子力機関)によるとロシア軍に制圧されたザポロジエ原発からIAEA本部へのデータ送信が途絶えているそうだ。こちらも心配だ。 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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Photo Diaryを更新。 *2014年5月1日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑朝から小雨が降ったり止んだり。那覇の今日の最高気温は23℃、東京は25℃。これから夏にかけて沖縄と関東の最高気温が逆転する日も増えてくる。奄美・沖縄で35℃を越える猛暑日はあまりない。さすがに陽射しは強いが、風さえ通れば快適に過ごせる。 午後からパレットくもじ6階にある市民ギャラリーで「とわの海へ〜沖縄、辺野古・大浦湾〜/牧志 治写真展」を見てくる。 写真展の帰り、1階のイベント広場に寄るとRBCのラジオ番組の生中継をやっていた。今日は一日、この広場で生中継をするようだ。 ちょうど「民謡で今日拝なびら」という番組が始まったので、山川まゆみさんの「ユイユイ」と、前川守賢さんの「かなさんどー」を聴いて行く。 ユイユイ ユイマール♪今日、初めて正式な曲名を知りました。それにしても、曲も歌い手も明るいな〜。 さて、5月がスタートした。写真は山川まゆみさん。 |
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*2014年5月3日のPhoto Diaryはこちら。 | ||
↑ゴールデンウイーク後半の初日。今日からゴールデンウイーク・フリー乗車券が使える。色々と行きたい所はあるが、今日は与勝半島巡りにした。 ちょうど一ヵ月前に、サングヮーチャーを見に平安座島に来ているので、今回はその先にある浜比嘉島、宮城島、伊計島を散策しようと思っていた。 最寄りのバス停を7時52分に出る27番・屋慶名線で終点の一つ手前のJA屋慶名前まで。9時半過ぎに到着し、直ぐ近くにある平安座総合開発が運行する伊計島行きのバスに乗り換える。この路線はフリー乗車券が使えないが、しょうがない。 10時に出発したバスで浜比嘉島へ。平安座島から浜比嘉大橋を渡り右手が浜集落、左手が比嘉集落になる。 浜比嘉島には浜漁港前と比嘉漁港前、一日2本だけだが兼久漁港前に停車する。一番最初に停車した浜漁港前で降りて、まずは浜集落を散策。集落の中を歩いていると公民館の横に地頭代火ぬ神(じとうでーひぬかん)を見つけた。そこから暫く歩くとシヌグ堂の案内標識。標識に従って歩くと、少し山の方に入った所に祠と立派なガジュマルの樹があった。ガジュマルの奥には階段があり、上った所にはお墓らしきものが。 バスが走る海岸線道路に出て、浜比嘉大橋の方に歩くとヤマトゥンチュー墓があった。元々は浜の砂丘にあったそうだが、海岸線道路の建設に伴い今の場所に移設されたらしい。 道路を比嘉集落の方に歩いて行く。集落に入る手前にハマガーがあった。うるま市教育委員会の解説には「このカーは、字比嘉のウブガーで、正月元旦の若水をくむ井泉です」と書かれている。 ハマガーの近くにノロ墓と書いた標示板を見つけた。ノロ墓の横には鍾乳洞があり、入口には厨子瓶が一つ置いてあった。 ノロ墓から集落の中を少し歩き、アマミチューの墓へ。それから標識にしたがいシルミチュー霊場へ。こちらは比嘉漁港から1キロほど離れた兼久漁港の方にある。 シルミチュー霊場の手前に大きな看板があり「観光の方はガーデン茶屋で環境エコチケットを購入して下さい」と書かれている。シルミチューの保全のためのチケットだろうかと思い受け付けに行くと、シルミチュー霊場そのものとは関係なく、隣接するシーサイドガーデンの入場料だった。こちらにはミルク門、シルミチューガー、展望台などがあり、当主が色々と説明をしてくれる。が、ネットで検索してもミルク門もシルミチューガーもここを訪れた観光客のブログと施設の紹介ページにしか出て来ないので、遺跡として正式に認められたものではないように思う。 グランドゴルフの施設や手作りの展望台、展望台の下の崖には防空壕があり、その横には唐突に村獅子(石獅子)が飾られている。遺跡を尋ねるというより、秘宝館に行ったような感じだろうか。 シーサイドガーデンを一旦出てシルミチュー霊場を見学してから、また戻って来た。最初に購入した300円のエコチケットで、飲み物やかき氷と交換できるのでイチゴのかき氷をもらった。かき氷は大きくて300円の価値は充分にあると思うが、エコチケットという名称が紛らわしいですね。 浜比嘉島から伊計島方面に行くバスは2時間に1本で、次は1キロほど歩いて戻る比嘉漁港前から14時19分。のんびりかき氷を食べていたら、間に合いそうにないので諦める。その次のバスは兼久漁港にも来るので暫く海岸をウロウロしていたが、次のバスで伊計島に行っても帰りのバスまで2時間ほどしかない。伊計島は日を改めて来る事にして、今日は早めに家に帰る事にする。 兼久漁港から比嘉漁港、浜漁港へと歩いて戻る。 帰りのバスは浜漁港前から17時27分に出る。少し時間があるので、商店で揚げたての天ブラを購入。もずく、イカ、魚が2個ずつで350円。食べながらバスを待った。 時間通りに来たバスで、浜漁港前から屋慶名農協前へ。27番の屋慶名線に乗り換える間に、近くにあったコンビニで美ら海水族館の前売りチケットを購入。沖縄に来てそろそろ2年だが、この定番の観光スポットにまだ行っていないので、ゴールデンウイーク中に訪れようと思っている。 27番の屋慶名線を待っていたら、那覇行きと書いた52番の与勝線がやって来た。運転手に尋ねると、最寄りのバス停まで同じ位の時間だと言うのでそのまま乗車。20時近くに家に着いた。 *アマミキヨ(アマミチュー)。 *「浜比嘉島における神話の世界 加藤 悠」。 *「沖縄人は、九州→奄美→久高島へと移住 桑原正則」 *本日の出費。屋慶名農協前ー浜漁港 200円X2、ドリンク付きエコチケット300円、お賽銭30円、天ぷらミックス350円、美ら海水族館前売りチケット1660円。 写真は浜比嘉島のシヌグ堂。 |
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*2014年5月4日のPhoto Diaryはこちら。 | ||
↑今日は本部町で、瀬底島ピージャーオーラサイ保存会主催の大会が開催される。ピージャーオーラサイとは山羊が角をぶつけて戦う闘山羊。昨年までは地元の瀬底島で開催していたが、今回から本部町の多目的広場(闘牛場)に場所を移して行われる。午前11時からなので、最寄りのバス停を7時28分に出る20番の名護西線で名護バスターミナルへ。20分ほど遅れて9時44分頃に到着。 名護BTで、10時に出発の65番の本部半島線(本部廻り)に乗り換える。事前に問い合わせた本部観光協会の話しでは、会場の多目的広場には本部高校入口のバス停が近いという事なので下車。バス停近くの交差点にはピージャーオーラサイの開催を知らせる横断幕が張られており、ここから1.8キロ先と書いてある。えっ、1.8キロ!?とりあえず歩くしかない・・・orz。暫く歩くと道が別れている。真っ直ぐだと思うが自信がないので走って来た車に手を振って尋ねたところ、「多目的広場まで乗せてあげますよ」とありがたいお言葉。親切が身にしみる。歩くと遠いが、車だとピューンで着いた。 会場に着いたのは、丁度開会の挨拶が始まる頃だった。1000円の入場料を払い、入場券と対戦表を貰う。券には番号が付いており、後でプレゼントが当たる抽選会があるらしい。 挨拶は5分ほどで終わり、直ぐに最初の対戦が始まった。対戦表には19頭の山羊がエントリーしているが、1頭は欠場。第一回戦はトカラ2号vs山羊十兵衛となっていたが、金丸vs山羊十兵衛に変更となった。なんだかゆるい感じのスタートだ。 山羊の闘い方は後ろ足で立ち上がり、相手の角をめがけて自分の角を振り下ろす。角と角とがぶつかり合う痛そうな音が聞こえてくるが、山羊たちは闘いながら尻尾を振っていたりもする。また、闘うはずが発情して相手に乗りかかって行く山羊もいる。雄同士なんだが・・・。 12時20分頃から30分ほどの民謡ショーを挟んで14時半まで対戦が行われた。1試合は15分ほどで、13試合。その内勝負が着いたのは最後の試合だけで、他は引き分けだった。トーナメントでもなく、順位も着かない。それでも何だか面白い。保存会の方の実況中継を聞いていると、本当にこのピージャーオーラサイを好きで楽しんでいるのが伝わってくる。 一昨年の竹富島の種子取祭で知り合って以来、時々ご一緒する町作りコーディネーターのkazuさんと今日も会場で合流したが、本部高校入り口よりもメージャフというバス停が近い事を教えてもらう。 会場の受け付けにいらした女性にバス停への道を教えてもらい、その曲がりくねった一本道を歩くと10分ほどでバス停に着いた。 本部半島線での帰り、名護市街に入ると国道58号が大渋滞している。名護バスターミナルに着いて、ここから那覇まで国道58号を通る20番の名護西線で帰るか、辺野古を経由する77番の東線で帰るか思案。距離自体は20番線の方が短く時間も早いはずだが、ターミナル前の58号の渋滞ぶりをみると東海岸経由の方が順調な気がする。 17時5分発の名護東線に乗車。名護市街を抜けるまでに時間がかかり、辺野古辺りで道路脇の斜面を何カ所か工事していてそのための渋滞もあった。結局名護から最寄りのバス停まで3時間半ほどかかったが、果たして西線だったらどうだったろうか。 *本日の出費。名護バスターミナルで弁当250円、ピージャーオーラサイ入場料1000円、アップルティーのペットボトル100円。写真はピージャーオーラサイの様子。 |
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今日の午前1時58分頃、石川県能登地方を震源とする地震があり、高岡も震度2だった。けっこう揺れたようで両親は目が覚めたようだが、焼酎を呑んで酔っ払って寝たので朝になってfacebookの書き込みで初めて知った。 財務省が、沖縄の日本復帰50年を記念した1万円金貨幣と千円銀貨幣を発行すると発表した。1万円金貨幣の表の図柄は、首里城正殿と琉球古典舞踊の「四つ竹」。千円銀貨幣の表の図柄は首里城正殿と県鳥のノグチゲラ、県花のデイゴがデザインされるそうだ。千円銀貨の方は11色の彩色が施されるそうで、鑑賞用ならこちらの方が美しいように思う。 因みに今年沖縄は復帰50年だが、十島村(トカラ列島)は今年復帰70年を迎えた。そして来年、奄美群島が復帰70年を迎える。 |
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←↑1万円金貨幣の図柄に決まった首里城正殿と、琉球古典舞踊の「四つ竹」。 1万円と千円なら記念に一つずつ買っても良いかなと思ったが、1万円金貨幣の販売価格は15万3500円、千円銀貨幣は1万1700円だった。それなら1万円金貨幣、千円銀貨幣などと言わず復帰50年金貨幣、復帰50年銀貨幣でいいのでは? |
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写真家の初沢亜利さんが、新型コロナ禍の東京を記録した写真集『東京二◯二◯、二◯二一』で、第30回林忠彦賞を受賞した。彼が2015年に赤々舎から出版した写真集『沖縄のことを教えてください』の撮影のため長期間沖縄に滞在していた時、久高島の旧正月と辻の二十日正月で撮影している姿を見かけた。 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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Photo Diaryを更新。 *2014年4月20日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑今月6日の日曜日、沖縄で最大の門中墓と言われる幸地腹・赤比儀腹両門中の清明祭はどのように行われるのか気になって見に行った。すると、この日は神清明(カミシーミー)で役員の方が集まっておられた。その中のお一人に、20日に一般の清明祭が開催されるとお聞きした。門中以外の者が見学する事は可能か尋ねたところ、大丈夫ですよとの返事だった。賑やかに行われるという一般の清明を見学に、自転車で糸満まで走って来た。 |
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*2014年4月21日のPhoto Diaryはこちら。(ジミーのケーキ、バスのフリー乗車券) *2014年4月23日のPhoto Diaryはこちら。(上空を飛ぶオスプレイ、スペイン風オムレツ) *2014年4月26日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑昨日、一昨日は雨模様だったが、今日は朝から晴れ。午後から自転車に乗って、日を浴びに行く。 波の上ビーチに寄ってから、沖縄ガス通りを那覇港の方へ。明治橋からゆいレールの下、329号を走って漫湖公園に到着。いつもは公園の中にあるちょうちょガーデンでオオゴマダラを見て行くが、今日は漫湖沿いのジョギングコースの横を自転車で走り公園を一周した。かなり広い公園です。漫湖の岸には、マングローブが繁っている。 来た道を戻り、若狭から久米へ。ぜんざいで有名な千日に入る。このお店には、2年前に名瀬から那覇へアパートを探しに来た時に一度入っている。朝からぶどうパンしか食べておらずお腹ペコペコで自転車に乗っていて、お食事と喫茶と書かれた千日の看板を発見。中に入って定食でも・・・と思ったら、食事のメニューは沖縄そばだけだった。どうしようかと少し思案していたら、少し先に2軒ほど食堂があると店主に教えられた。その時の接客がとても好印象だった。結局、 教えられた先にあった高良食堂で那覇で最初の外食をした。なので千日に入るのは2回目だが、店内で何かを食べるのは今日が初めてだった。千日がぜんざいで有名なお店だとは、2年前は全然知らなかった。 注文した名物のアイスぜんざいは、大きな器にサラサラの氷が山のように盛られている。優しい冷たさで、食べても頭がキーンとなる事がなかった。 ぜんざいを食べ終わり、前島のスーパーで今日が特売のクリーム系のコロッケ1個56円を3種類買って帰る。 天気の悪かった昨日、一昨日は部屋にこもってプリントを作っていた。この何年か御中元と御歳暮に缶ビールを贈って下さる方がいて、お返しに撮影した写真の中から50枚ほどを選んでポストカードサイズにプリントして送っている。 昨年暮れにも御歳暮をいただいて、早くお返しをと思っていたが、なかなか時間がなくて今になってしまった。今回は55枚の写真を選んでプリントした。ポストカードだけだと何の写真かわからないので、写真の説明を書いたプリントを付けなくてはならない。完成して送れるのは、もう少し先かな?写真は千日のアイスぜんざい。 |
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*2014年4月27日のPhoto Diaryはこちら。(サンエーの餃子、泡盛・島風、パイナップル) *2014年4月28日のPhoto Diaryはこちら。(屈辱の日) *2014年4月29日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑昭和の日。旧暦4月1日にあたる今日は、南城市の古堅(ふるげん)地区の豊年祭が行われる。この豊年祭はミーミンメーという名称で親しまれており、ミルク神と子供たちの道ジュネー、アシビナー(昔の遊ぶ庭=ひろば)やアシビモー(野原)での奉納芸が行われる。 朝起きておにぎりを作り、魚肉ソーセージやサンピン茶と一緒にバックに入れて、自転車で那覇バスターミナルに向かう。 古堅のスディチラーアラシー(豊年祭) 別の頁には また、記念誌に収載されている地図によれば公民館は嘗てのニードンチ(根殿内?)と記されている。公民館の隣りにある照屋家がティーラ(照屋)門中の元家であり、村のニーヤ(根家)だそうだ。ニーヤとニードンチの関係が今一つわからないが、公民館の中には仏壇があり、7つの香炉が納められているので拝みの場所であったのだろう。 できる事なら夜の部の歌や踊りも見たかったが、帰りのバスの時間もある。最終バスは仲程を21時8分なので、少しなら見れない事もないが乗り遅れると大変な事になる。終電の一つ前は仲程を20時38分なので、夜の部が始まると同時に出なくてはならない。結局始まる少し前にご挨拶をし、公民館を出て夜の暗い道を1キロほど離れた仲程のバス停まで歩いた。 |
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昨日の午前、ロシア軍がウクライナ南東部にある欧州最大規模のザポロジエ原発を攻撃し火災が発生したというニュースを聞きゾッとした。ウクライナの外相はザポリジエ原発が爆発すれば、チェルノブイリの10倍の被害を及ぼすだろうと公式のツイッターで警告した。その後、燃えたのは原発近くの訓練用建物で、火は消し止められたとの報道が流れて少し安堵したが、原発はロシア軍に占拠されたようだ。これでロシアは事故を起こしたチェルノブイリ原発と、ウクライナ最大のザポリジエ原発を人質にした形だ。もしプーチンが原発を爆発、或いは核のボタンを押すようなことがあれば世界は異次元の争いに突入するのだろう。核は抑止力で実際に使用することはない。そんなことをする国も、そんなことをするバカな権力者もいない。それを前提に核保有国は、核爆弾の数を増やしてきた。しかし、その前提に根拠はなくただの願いだった。核を使用する国が出現するのは想定外だったというかもしれないが、想定外ではなく考えたくなかったので想定しなかったのだ。 原発を抱えることの危険性をウクライナへのロシアの侵攻で突きつけられていながら、昨日、国民民主党の玉木代表が岸田首相との会談で法律に基づく安全基準を満たした原発の再稼働に取り組むよう要請したという。バカなんだろうか。それとも、そうまでして与党に入りたいのだろうか。前から信用はしていなかったが、最近の行動は理解を超えている。 |
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Photo Diaryを更新。 *2014年4月15日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑午前中に洗濯。お昼ご飯を食べて、部屋を掃き掃除してから、天気も良いので自転車でブラブラ走ろうと思いエレベーターで1階へ下りて行く。 二人は岸を離れ、世界を見るために漂う漂流者 You Tubeから「Moon river/Aoi Teshima」。 |
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*2014年4月16日のPhoto Diaryはこちら。 | ||
↑ 昨年の暮れ辺りは、全国放送のニュースや情報番組でも大きく取り上げられた辺野古の基地建設問題。最近はすっかりSTAP細胞の話題に隠れて、他の重要な問題ともども報道される機会が少なくなっている。 昨年の11月、県外移設を公約にして当選した自民党の5人の議員が党本部で石破茂幹事長と会談し、辺野古移設を容認した。その時の会見で、5人の議員が叱られた子供のようにうなだれて椅子に座らされている姿が眼に焼き付いている。これら一連の動きを廃藩置県によって琉球国が滅ぼされた琉球処分になぞらえて、21世紀の琉球処分、或いは2度目の琉球処分と呼ぶ声もある。 日本政府は1879(明治12)年3月、武力を背景として琉球国の併合に乗り出した。首里城は3月27日から、日本軍によって占拠されたため、国王尚泰は29日、首里城を立ち退いて中城御殿へ移転した、そして、琉球国は事実上崩壊した。 米軍が整備した軍用道路1号(現在の国道58号)が通る西海岸。那覇軍港、普天間、嘉手納という米軍基地を繋ぐ大動脈だ。拳銃とブルドーザーによってこの道路が造られた時、御嶽や拝所といった祭祀空間も取り壊されたり、基地の中に囲い込まれたに違いない。那覇から名護へ至る西海岸で、嘗ての琉球の面影を探すのは難しいように思う。 |
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*2014年4月19日のPhoto Diaryはこちら。 | ||
↑辺野古への基地建設に向けた海上のボーリング調査を阻止しようと始まった座り込みが、この4月で10年となった。今日、辺野古の海岸で10周年記念の海上パレードと集会が行われるので行って来た。 那覇から辺野古まで平和市民連絡会の方が手配したバスが出るので、事前に申し込んで乗車させていただいた。バス代が一人1000円、お昼のお弁当500円も一緒に手配をお願いした。 9時40分に県庁前を出発したバスは、那覇インターの手前で何人かピックアップ。その後、高速の停留所でも参加者を拾いながら辺野古に向かう。バスは、ほぼ満席だ。 海上パレードと集会は10時から開始とあったが、会場に到着したのが10時20分頃だった。会場の中央で、嘉陽のオジーこと嘉陽宗義さんのスピーチが行われていた。 会場の周辺には参加者の車や市民団体の手配した大型バス、テレビ局の中継車も並んでいた。テント村の入り口には座り込み3653日の数字が見える。 集会が本格的に始まったのは10時半頃で、 カヌー隊が辺野古の海に出てデモンストレーションを行った。浜の方では、歌やフラダンス、そして各団体からのスピーチがあった。 集会は12時を少しまわった頃に終了した。平和市民連絡会のバスに戻り、人数確認をしてお昼の弁当を注文してあるわんさか大浦パークへ。 昼食が終わり、一路那覇へ。高速のバス停、那覇インター、那覇市民会館前で少しずつ参加者を降ろし、終点の県民広場に着いたのは14時45分頃だった。 県民広場から若狭へ。 若狭から泊へ自転車を走らせ、魚市場で300円のマグロ切り落としと、250円のアカニシ貝の照り焼きを買って帰る。 沖縄では辺野古の他、高江、普天間の大山ゲート・野嵩ゲートでも座り込み抗議行動が行われている。写真は辺野古の海でカヌー隊がデモンストレーションを行う、海上パレードの様子。 *沖縄タイムスの記事1、記事2、琉球新報の記事。 |
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うかうかしている間に、3月になってしまった。少し前までは午後5時には外が暗くなっていたが、最近は夜が遅くなった。 | ||
明日はお雛様で、何日か前に恒例の雛飾りを出した。いろんな人形がテーブルの上に並んでいる。 今日、ようやく確定申告の書類を郵便局から税務署に送った。 |
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アメリカやヨーロッパの国々からの制裁措置だけではなく、民間企業もロシアからの撤退を表明している。イギリスの石油大手シェルはロシア極東の液化天然ガス開発事業「サハリン2」から撤退すると発表し、米のアップルはすべての商品のロシアでの販売を停止した。ロシアが例え一時でもウクライナを攻略できたとして、その代償に多くの国や企業から疎外されるのであれば、それは本当にロシアの勝利なのだろうか。プーチンはわからないが、これが大多数のロシア人が望んだことだろうか? 昨日の琉球新報に、牧志公設市場の衣料部・雑貨部が2月28日で営業を終えて閉場するという記事が掲載されていた。 |
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富山県の新型コロナの感染拡大が止まらない。今日はこれまでで最多の628人の感染を確認した。 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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Photo Diaryを更新。 *2014年4月7日のPhoto Diaryはこちら。(新じゃがの煮っころがし) *2014年4月9日のPhoto Diaryはこちら。(新しく買った外付けハードディスクドライブ) *2014年4月10日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑今日は快晴。朝からPacoにデータをバックアップする作業。 ようやく「琉球の花街 辻と侏りの物語」(浅香怜子著)を読み終える。辻(チージ)には中国の冊封使たちも訪れたようだ。辻という地域性や、その役割、そこに生きた女性達や芸能と中国との関わりが面白い。 |
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*2014年4月11日のPhoto Diaryはこちら。(桜坂のドラミンゴ、めおと楽団ジギジギ) *2014年4月12日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑那覇市歴史博物館が、現在展示中(5月28日まで)の「那覇の史跡・旧跡~みんなで歩こうNaha city~」にリンクする企画として、実際に学芸員と歩く史跡・旧跡ツアーを開催。ツアーは4回予定されているが、今日は1回目のツアーで首里地区をまわる。 1.出発地(首里駅改札口前)/2.聞得大君御殿跡・・・琉球王国時代の最高女神官「聞得大君加那志」の神殿及び住居跡。/3.儀保殿内跡・・・「儀保大阿母志良礼」の神殿及び住居跡。/4.虎瀬山(虎頭山)・・・王国時代の景勝地。/佐藤惣之助詩歌碑・・・虎瀬公園内。/仏之坂(フトウキヌヒラー)・・・戦前からの石畳。/5.平良市跡・・・戦前にあった首里の市場の一つ。/6.大平橋・・・首里と浦添を結ぶ街道に架けられた橋。(パスした)/7.儀保くびり跡・・・首里と浦添を結ぶ街道の一部。/8.亀川盛武生家跡・・・琉球処分期の三司官「亀川盛武」の生家跡。/9.与那原良矩生家跡・・・琉球王国時代の三司官「与那原良矩」の生家跡。/10.安谷川・・・首里と浦添を結ぶ街道沿いの村ガー(共同井戸)。/11.羽地朝秀生家跡・・・琉球王国時代の三司官「羽地朝秀」の生家跡。/12.安谷川御嶽・・・当蔵村のウタキ。1814年に修理が加えられた。奥に鍾乳洞がある。/13.中城御殿跡・・・1873年に竣工した琉球国王世子の邸宅跡。耳チリ坊主。/14.松崎馬場跡・・・首里と浦添を結ぶ街道の一部及び広場の名称。/15.龍潭・・・・・・1427年に造られたとされる人口の池。/16.高所跡・貝摺奉行所跡・・・首里王府の役所跡。/17.首里支庁跡・・・旧首里市の行政を担った役所跡。/18.円覚寺跡・・・尚真王代の1492年創建といわれる第二尚氏の菩提寺。龍淵橋・・・1502年創建といわれるアーチ橋。芸術的な欄干の羽目石は、戦争前にすでに行方不明となった。1950年再建。天女橋・弁財天堂・・・1502年創建。1621年再建。弁財天を祀った。重修天女橋碑記・・・天女橋を架け直した際に建立した石碑。首里の孔子廟跡(石垣が残っている)。那覇には久米と首里に孔子廟があった。/19.健善寺跡・・・琉球王国時代の臨済宗の寺院跡。/20.リングムイ跡・・・約2,000坪あったとされる人口の池。現在の首里公民館も池だった? ツアーは10時から12時までの2時間を予定していたが、コースの半分をまわった時点で12時になった。少し休憩してから、その後はペースを早め、全部まわり切ったのは13時頃だった。 このまま家に帰るのも勿体ないので、もう少し一人で散策する事にする。以前から気になっていた首里公園入り口近くの、たこやき安さんで10個200円のたこ焼きと、40円のイカの天ぷら、30円のイモの天ぷらを購入。ビニール袋に入れてもらって、公園のベンチに座って食べた。 今回歩いてみて御殿跡、生家跡というように歴史を残すモノが存在せずに、標示板が設置されているだけの旧跡が多い事に改めて気づいた。これは戦争によって破壊されたためか戦後の区画整理のせいか学芸員の方に尋ねたところ、区画整理によって失われた方が多いそうだ。 |
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*2014年4月13日のPhoto Diaryはこちら。 | ||
↑2005年3月に亡くなった照屋林助さんの功績を讃え、縁のあったアーティストが集う「コザ・てるりん祭」。今年で第6回となるイベントが、今日、沖縄市の中央パークアベニューで行われる。 |
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