HOME TOP  
バックナンバー
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能
◯製作中の富山の祭りと芸能歴史年表
2010~2014 Photo Diary
奄美・沖縄撮影リスト

2022年カレンダー

◯射水市三ヶの十社大神 御田植祭
◯7年に1度、10月に開催 次は2022年 朝日町山崎 米吊り奉納
◯加茂神社 出雲へ神を送る神送祭 9月30日と10月31日?
◯5年に一度、若手神職でつくる県神道青年会が御田植祭
◯33年に一度 庄川の神賑わい 次回は2023年7月

2022年2月10日(木) ホテルニューオータニ高岡 12時30分〜 高岡ロータリークラブ
2022年8月22日〜8月27日 式年遷宮祭

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事
富山の祭り
築山行事
とやまの曳山”世界の宝”を守り続ける
*砺波の獅子舞 各地区の日程
年中行事覚書 柳田国男
田の神祭りに見る日本人の神意識
山の民の祈り
立山に生きる村ー宗教集落芦峅寺のくらし
立山信仰史における芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅
五箇山の獅子舞の起源
道祖神
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
◯富山県 新型コロナウイルス感染症について 
http://www.pref.toyama.jp/cms_sec/1205/kj00021629.html?fbclid=IwAR1Z5J0FxdUdIrb0KWEPHX-VTzevMn1SYkafoJbL0IrfRBBnTG5k0vO_t1U
◯都内の最新感染動向 https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/
◯山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信 https://www.covid19-yamanaka.com/index.html
◯新型コロナウイルス感染速報 https://covid-2019.live/
◯ 福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
◯DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
◯HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
◯独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
◯小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
◯やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
◯辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
◯チョ 10イさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
◯沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

メディア関連
木原盛夫写真展「とやま、祭り彩時季」ミュゼふくおかカメラ館
富山の祭り写真集に 福岡町の木原さん 北日本新聞
木原盛夫 写真展「とやま、祭り彩時季」 たかおかストリート
カメラ館で木原盛夫展 高岡ケーブルテレビ
写真で巡る富山の祭り 木原盛男写真展 高岡ケーブルテレビ
歴史ある寺社・文化紹介 高岡御旅屋セリオで木原さん写真展 北日本新聞
高岡の文化伝える写真 御旅屋セリオ 木原さんが個展 中日新聞
高岡まちなかギャラリー - 御旅屋セリオ
祭りの写真で地域を学ぶ 高岡・福岡の寺子屋サロン
祭りの雰囲気 写真で感じて 中止相次ぐ中 福岡の木原さん展示 中日新聞
木原盛夫さん写真展 県内の祭りなど題材に 北日本放送
富山の祭りを写真で紹介 木原盛夫写真展 朝日新聞
県内の祭礼や伝統行事写す 木原さんが写真集寄贈 北日本新聞
木原さん、祭りの写真集を寄贈 高岡ケーブルテレビ
2020年9月18日OA分 いいねとやま#219 チューリップテレビ

ブログなど
木原盛夫写真展「とやま、祭り彩時季」 ゆきれぽ
今年のお祭りは 写真展で・・・・・・ yoshijunのブログ
たかのたわごと 新川神社のブログ
200814木原盛男写真展高岡彩時季御旅屋セリオ5階3 42
200805ミュゼ福岡カメラ館とやまの祭り木原盛男写真展6 26
ミュゼふくおかカメラ館(富山県高岡市)の木原盛夫 写真展 『とやま、祭り彩時季』(~9/27)
祭りの色彩に思いをはせて  タビノイロドリ
カメラ館 フクチアンの日記
ミュゼふくおかカメラ館「とやま、祭り彩時季」へ とやまおでかけ日記

2月27日(日)

 昨日は冷たい風が吹いていたが少し陽射しもあったので、久しぶりに小矢部川の土手を自転車で走ろうと向かったが、土手の道は雪で埋まっていた。雪が溶けて自転車で通れるようになるまで、日にちがかかりそうだ。そして、通れる頃には花粉がたくさん飛び始めているのだろうか。
雪が積もった小矢部川の堤防
今日届いたエプソンの普通紙
 プリント用の普通紙が少なくなったので、一昨日ヨドバシの通販サイトで購入したのが今日の午後に届いた。
 エプソンの普通紙でA4サイズ250枚入りで461円。貯まっていたポイントで支払った。ヨドバシは金額にかかわらず配送料は無料で、なんだか申し訳なくなる。何か一緒に注文できるものがあればよかったが、他に必要なものもなかったので。しかし461円の商品をダンボールに入れて無料配送して、いくらの利益になるのだろう。

 一昨日、ウクライナに侵攻したロシア軍がキエフにあるチェルノブイリ原発を制圧した。その直後から原発の放射線量をモニタリングしている施設で通常の20倍もの放射線が記録された。ウクライナの原子力規制当局は放射線量の上昇の原因は、軍用車両が周辺の土壌をかき回したからだろうとしている。自国にも被害が及ぶから、ロシア軍が原発に直接攻撃を加えることはないだろうと思うが、戦争は正常な判断を出来なくさせる。人を狂わせる。今後もロシアが原発に攻撃を加えないという保証はない。実際、キエフの放射性廃棄物処理場が砲撃を受けたという情報も流れている。チェルノブイリを人質にされたことは、ヨーロッパの国々も恐怖だろう。原発を抱えるということは、こういうことで、チェルノブイリと同様に大事故を起こして壊れた原発を抱えている日本も他人事ではない。
 1986年4月、チェルノブイリ原発が大事故を起こした時はスペインにいた。4月26日なので、たぶんバルセロナにいたと思う。旅の途中に知り合った日本人のバックパッカーから断片的な情報を聞いたと思うが、どれほど酷い事故が起きたのかは日本に帰ってから知った。スペインでも鳥が空から落ちてきたというような話を旅の途中に聞いたが、それがどういうことなのか、よくわからなかった。

1986年のモスクワ

 昨日探したい写真があって物置にあるダンボールをゴソゴソしていたら、ソ連時代のモスクワの写真が出てきた。1986年のスペイン・ポルトガルの旅はアエロフロート(ロシア航空)を使ったので、行きも帰りもトランジットでモスクワに一泊した。これが初めての海外旅行だったので、モスクワが初めて足を着けた外国ということになる。写真は宿泊したモスクワのホテルの窓からの景色。

 アメリカとヨーロッパはロシアへの制裁措置として、ロシアの銀行を各国の主要金融機関が参加する国際銀行間通信協会(SWIFT)から排除すると発表した。ロシアへ制裁を加えることは、しかしエネルギーや食料の値上げという返り血を各国が浴びることでもある。

 この他の気になった記事を備忘録として。
「ウクライナに手を出すな」渋谷などで在日ウクライナ人らが抗議デモ
リュウキュウアユ産卵場に無許可の石積み水路 奄美大島の絶滅危惧種
神宮外苑再開発の樹木伐採計画 「見直しを」ネット署名に4万8000人 都の情報開示鈍く
首里城正殿の「赤」はバクテリア由来だった 塗料「久志弁柄」の調査進める
「武力は愚か」「弱い者が犠牲」沖縄戦の体験者ら胸痛める ロシアのウクライナ侵攻

 Photo Diaryを更新。
*2014年3月30日のPhoto Diaryはこちら
3月30日のスナップ。久茂地小学校

↑那覇の中心部にあり、県庁からもほど近い久茂地小学校。少子化に加え、商業地・繁華街にあるためドーナツ化現象による人口減少で近隣の前島小学校と統合することになり閉校となった。今月20日に行われた最後の卒業式は、地元の新聞やテレビでも取り上げられていた。 
 最後の卒業式から10日経った今日、久茂地小に「あい」に行こう!というイベントが開催される。103年間の卒業生と在校生、先生やPTAの他、近所に住んでいる人も参加できるという。自転車で10分が近所かは微妙だが見に行ってきた。

プログラムから、ごぜん11時 会場OPEN ごご1時 公舎開放! 2時半 ステージイベント開始! 3時 記念撮影開始! 4時半 全員で校歌斉唱! 4時45分 全員で記念撮影! 5時〜学生さん子ども達は体育館にて懇親会

 長崎県の離島へ廃校になる高校の最後の卒業式を取材に行った事がある。ポップティーンという10代の女の子向けの雑誌の仕事で、写真と文章を一人で担当した。
 島の名前は高島と言う。嘗ては炭坑で栄えた島で、海を挟んで向かいには軍艦島の名前で知られる端島が見える。
 飛行機と船を乗り継いで卒業式の前日に島に入り学校を訪れると、ブルーハーツの「リンダ・リンダ」が聴こえてきた。卒業生たちで作るロックバンドの、最後の練習だった。練習の合間に彼らに話しを聞き、そして卒業式当日の取材をした。あれから25年ほどが経つ。取材した彼らも40歳を超えていることになる。それぞれがどういう人生を送っているのだろう。
  卒業する生徒13人と担当の先生の分を合わせて14冊の手作りアルバムをその時に見せてもらった。そこには先生から生徒への、こんなメッセージが記されていた。
~略~高校時代のテストの成績なんて、長い人生において何の拘束力もない。今後、重要なものは、自分の夢を実現しようとする情熱だと思う。人生の中で主役は自分自身である。各自が、満足できる主役を演じられるよう切に願う。~略~

 ドブネズミみたいに美しくなりたい 写真には写らない美しさがあるから リンダリンダ リンダリンダリンダ
 手元に当時のポップティーンがないので不確かだが、3ページのこの記事の書き出しは、こんな歌詞の引用にした記憶もある。You Tubeから「リンダ・リンダ/THE BLUE HEARTS」。

 久茂地小学校のイベントを見終えて家に帰る途中、前島にあるスーパーで買い物。お米がそろそろ無くなりそうなので、福井産コシヒカリ5キロ入りを一袋購入。 
 ハイ・ファイ・セットのメンバーだった山本俊彦さんが、28日に亡くなられた。個人的にはハイ・ファイ・セットより赤い鳥としての思い入れの方が強いけれど。You Tubeから「翼をください/赤い鳥」「冷たい雨/ハイ・ファイ・セット」。写真は閉校になる久茂地小学校の教室。

*2014年4月1日のPhoto Diaryはこちら。(刺身とネギの酢みそがけ)
*2014年4月3日のPhoto Diaryはこちら
4月3日のスナップ。平安座島のサングヮチャー

↑今日は旧暦の3月4日。昨年は那覇の鏡水地区で行われる三月あしびを見に行ったが、今年は平安座島のサングヮチャーを見に行くことにした。平安座島の3月節句、サングヮチャーは旧暦の3月3日から5日まで3日間あり、中日となる今日はトゥダヌイューとナンザ拝みが行われる。
 事前に平安座自治会に問い合わせたところ、行事の開始時間は午後1時からだそうだが、初めて行く島なので早めに行く事にした。平安座島までは27番の屋慶名線の終点近く「農協前」で降りて、平安座総合開発が運営するバスに乗り換える。伊計島まで行くこのバスの本数は少なく、2時間に1本。始発となるJA与那城支所から平安座島までは10分ほどなので12時発のバスで十分間に合うが、島内を散策したいので一つ前の10時発に乗る事にする。

 朝5時頃に起きてテレビをつけると、昨日チリで起きた大地震による津波の情報が流れていた。おにぎりを作り、カメラや着替えをバックに詰めて準備。
 10時発のJA与那城支所から平安座島に行くバスに乗るために、最寄りのバス停を7時40分に出る27番の屋慶名線に乗車。2時間ほどで着いて、平安座島行きのバスに乗り換える。バスと言っても小さなマイクロバスで、先に乗車賃200円を支払った。今日はサングヮチャーがあるので、通常のバス停には止まらない事を説明される。
 海中道路を渡り平安座島に入り、自治会館の前で降ろしてもらった。自治会館の前には既に旗が立ち、テントが設営されていた。行事の事を尋ねると、12時半頃に仮装した参加者が会館に集合し、大きな魚を乗せた神輿を担いで会館の裏手にある神事を行う場所に移動するという。とりあえず神事の行われる場所を確認し、時間がたっぷりあるので集落の中を散歩する。
 写真を撮りながら歩いていると、大きな旗が立てられた家があった。 ご主人がいらしてお話しを聞くとイリ(西)の旗だそうで、明日はこの旗を持って東西から浜へ行くようだ。また、ご主人は男神として行事の際はノロの補佐をされるようだ。現在、平安座島のノロ神は高齢のため不在で代役の方が勤めている。
 12時半を過ぎると仮装した人達が神事の行われる場所に集まって来た。13時になって、椅子に座ったノロの代役の方と男神に、島の代表達がお神酒を捧げて神事が始まった。この神事ではトゥダヌイューと言う、奉納された魚を銛で刺す儀式が行われる。 銛で刺した後、刺した魚を担ぎながらの踊りが披露され、カチャーシーに移った。そして神事の最後には「かぎやで風」が踊られた。
 ナンザは島の東にある岩礁で、浜から700mほどの距離。干潮の時には歩いて渡れる。この岩礁の上からニライカナイに向かって豊漁を祈願するのがナンザ拝み。例年は子どもも女性も海を渡るが、今日は昨日のチリ地震の津波警報が沖縄にも出されており、まだ解除になっていない事から大人の男性のみということになった。
 地球の裏側で起こった地震が、沖縄の小さな島の祭祀にまで影響するとは。そう言えば昨年の旧暦3月4日(4月13日)の早朝には、淡路で大きな地震が起きた。
 例年は海を渡る神輿も、津波警報の影響で担ぐ子供達が海に入れないので浜でお留守番。女性達は太鼓を叩いてナンザ拝みから戻る人達を迎える。
 激しい雨の中、仮装した人達と神輿の行列が自治会館へと歩いて行く。
 この後、自治会館の前に設営されたテントで仮装コンテストが行われる予定だったが、雨のために会館の2階に変更となった。
 最初に中学生の女の子達による三線の演奏、そして仮装コンテスト。コンテストの途中だったが、帰りのバスに乗るため外に出る。
 サングヮチャーのため、帰りのバスは通常のバス停ではなく自治会館前の通りで停車することになっている。バスの来る時間より少し早めに自治会館の前で待っていると、バスが浜比嘉島の橋を渡って来るのが見えた。橋を渡って左折すると自治会館だが、バスは右折した??サングヮチャーの行事が終了したので通常のバス停に変更したんだろうか。慌ててバス停までの近道を走るがバスは来ない。おかしいなと思い自治会館に戻ると、目の前をバスが走り去って行った。次のバスは2時間後だ・・・orz。
 しょうがないので屋慶名まで歩く事にした。海に並ぶ奇岩を撮影したりしながら海中道路を歩いて渡る。晴れた日の昼間なら気持ち良い散歩かもしれないが、曇り空の夕暮れ。幸いなのは雨が止んでいた事だ。
 4.7kmの海中道路を1時間10分ほどかかって歩いた。海中道路を渡ってしばらく歩くと那覇行きのバスが目の前を通った。急いで追いかけてバス停で止まっていたバスに乗車。始発の屋慶名バスターミナルを出たばかりのバスは、まだ他の乗客を乗せていなかった。
  乗って直ぐに運転手さんから、車の調子が悪いので回送にして具志川のバスターミナルに行くと告げられる。なんでもクラクションの接触が悪いらしく、クラクションが連続して鳴ってしまうようだ。回送バスに乗れるとは、なかなか無い経験のような気もする。
 具志川バスターミナルに到着して、違うバスに乗り換え。乗車券は具志川からで良いとの事で、少しだけ運賃が安くなった。19時30分発の23番那覇行きに乗車して、最寄りのバス停に着いたのは21時頃だった。
 おにぎり2つとミカン一つしか食べていないので、パスタを茹でて昨日作ったカレーをかけて食べる。それにしてもよく歩いた一日だった。
 平安座島から帰る途中、先日カジマヤーの写真をお送りした久志公民館の方と、瀬嵩集落の比嘉さんのご家族からお礼の電話をいただいた。
*本日の出費。最寄りのバス停〜屋慶名農協前1310円、JA与那城支所〜平安座自治会館200円、缶ジュース110円、具志川BT〜最寄りのバス停1030円。写真は平安座島のサングヮチャーで、浜へ向かうタマン(魚)を乗せた神輿。

*2014年4月5日のPhoto Diaryはこちら
4月5日のスナップ。識名霊園でのシーミー
↑風は冷たいが日差しはあるので、午前中に洗濯。
 沖縄は今日から19日まで清明(シーミー)の期間に入る。昨年は2泊3日で尚円王の生まれ島である伊是名島に、公事清明祭を見に行った。今年は沖縄の普通の家庭のシーミーを見てみたいと思い、清明の初日である今日、識名霊園に行ってみた。
 安里、三原、繁多川と自転車で走り、識名霊園に到着したのが14時40分頃。土曜日なので霊園の中は賑わっているだろうと思っていたが、それ程でもなかった。一時間半ほど霊園の中を散歩していたが、お墓の前に親族が集まってシーミーをされているご家族は4組ほどしか見かける事ができなかった。霊園の敷地は広大なので見かける事はできなかったが、シーミーをされているご家族はもう少し多いだろう。それでも霊園の中は静かで、シーミーのためにお墓の掃除をしている方や、明日シーミーをするためにお墓の前にテントを張っている方も見かけた。
 お墓の前で集まっている家族の横を通りかかったら、子供が「こんにちは」と声をかけてくれた。それがキッカケで少しお話しをして、写真を撮らせてもらった。やはり日曜日の方が人は多いそうだ。お墓の前で三線を弾いて唄ったり踊ったりという光景は、那覇ではあまり見られないとのこと。ご馳走やお菓子の横に、ビンシー(携帯式御願道具)が並んでいる。お供えした料理は皆でいただく。それはご先祖様と一緒の墓場のピクニックのようだ。
 識名霊園からの帰り、途中にある識名宮に寄って参拝。昨年の3月、識名園に行った帰りに寄った時は拝殿を建て替え中だった。
 繁多川、三原と来た道を戻り、国際通りから美栄橋を通って前島のスーパーへ。増税前は内税表示だったのが、商品の値段と税込み価格の2重表示になっている。一つの商品に値段が2つあると何だか面倒臭い。
 晩ご飯は、残りご飯とカレーをフライパンで炒めてドライカレー。スーパーで買って来たクリームコロッケとキャベツの千切りを食パンに挟んでサンドイッチ。写真は識名霊園でシーミーを行う家族の様子。 
*2014年4月6日のPhoto Diaryはこちら。(ビックアイス、糸満、豚の丸焼き専門店)

2月24日(木)

 富山の雪はようやく峠を越したようだ。それにしても、よく降った。今年は2018年以来の豪雪だろうか。下の写真は、今朝の積雪。
今日の積雪

 ロシアが21日、ウクライナ東部の親ロシア派支配の2つの地域を独立承認したことを受けて、バイデン米大統領はロシアに対する経済制裁を発表。これに続く形で岸田首相は昨日、対ロシア制裁措置を発表した。
 ところで通算27回もプーチン大統領と首脳会談を行い、「ウラジーミル。君と僕は、同じ未来を見ている。行きましょう。ロシアの若人のために。そして、日本の未来を担う人々のために。ゴールまで、ウラジーミル、2人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか。」と言ったあの人は、プーチンに戒めの電話の一つもしたのだろうか?
 ウクライナ情勢は今日になって一気に緊張が高まり、ロシア軍による空爆が始まった。ウクライナの国家安全保障防衛会議はウクライナ全土に非常事態宣言を発令している。
 漫画家のつげ義春さんが、日本芸術院の新会員候補に選出された。それ自体はさほど驚きはなかったが、つげさんの年齢が84歳と書いてあり、そちらに一瞬びっくりした。まあ、考えてみれば自分が来月62歳なのだから不思議ではないのだけれど。

 この他の気になった記事を備忘録として。
フー・ファイターズのデイヴ・グロール、難聴のため20年間読唇していると明かす
【独自】大阪のコロナ宿泊療養者から苦情続出の貧相な食事 ホテル側が“中抜き”認める
在日ウクライナ人がロシア大使館前でデモ 「日本政府は厳しい経済制裁を」
被害者救済の強い意志感じる判決 旧優生保護法、除斥期間制限
<Q&A>ウクライナ東部をロシアが独立国家承認 旧ソ連圏の「未承認国家」って?
城辺比嘉地区 二十日正月で無病息災願う

iTunesに取り込んだCD
クライヴ・グレッグスン

↑ようやくこれだけiTunesに取り込んだが、まだまだある。

 奄美・沖縄で撮影した写真の現像作業がひと段落したので、しばらく前からパソコン作業をしながら家にある音楽CDをiMacのiTunesに取り込む作業をしている。
 2005年、当時使っていたMacのiTunesに音楽CDを入れiPodにも取り込んだが、そのiPodに入れた音楽を今使っているiMacのiTunesに入れ直すことは難しいので、もう一度新たに入れ直すことにした。また、2005年以降に買ったCDはiPodの容量がいっぱいになったので、CDプレイヤーで聴いて放ってあった。
 CDは乱雑に棚に並べてあるので、iPodに取り込んでいないと聴きたいと思った音楽が直ぐには聴けないという 悲惨な状況だった。
 クライヴ・グレッグソン&クリスティーン・コリスターの『LOVE IS A STRANGE HOTEL』も聴きたいと思いながら、どの棚に並んでいるかわからず諦めていたCDだ。

←1997年3月18日に撮影した、クライヴ・グレッグスン。

 クライヴ・グレッグソンは英国のシンガー・ソングライターで、1997年に音楽誌の仕事で撮影した。英国フォークの重鎮が相次いで来日した頃で、その流れで撮影したと思う。撮影した当時は、彼の名前も知らず音楽も聴いたことがなかった。撮影から何年か経って御茶ノ水のディスクユニオンで、クライヴ・グレッグソン&クリスティーン・コリスターの『LOVE IS A STRANGE HOTEL』を偶然目にして買ってみた。思いがけずポップなアルバムで何回か聴いていたけれど、いつの間にかCD棚の中に埋もれて探し出すのが難しくなっていた。今回、iTunesに取り込んだので名前で簡単に探して聴けるようになった。それにしても、持っていたこと、買ったことを忘れているCDがたくさんあって驚いている。
 YouTubeから「For a Dancer/GREGSON&COLLISTER」。
 Photo Diaryを更新。
*2014年3月19日のPhoto Diaryはこちら
3月19日のスナップ。西普天間住宅
↑少し早めに昼ご飯を済ませて、お昼から自転車でお出かけ。嘉手納方面に行こうか、久しぶりに糸満方面にしようかと迷いながらペダルを漕ぎ出すと、足は泊高橋の交差点を右折した。じゃあ、嘉手納方面だ。
 泊市場、国立劇場おきなわの横を通り、キャンプキンザーの脇を抜け国道58号に出る。泊高橋と天久の間の坂が嫌で、いつも大回りをしている。
 そう言えばキャンプ端慶覧(フォスター)の後方に広がる米軍住宅(西普天間住宅)が来年返還される。その前に撮っておこうと思い、嘉手納の手前にある普天間に向かう事にした。
 大山ゲートを過ぎて伊佐の交差点を右折し普天間方向にしばらく行くと、道路に隣接したキャンプ端慶覧と西普天間住宅地区が現われる。自転車を柵に止めて、写真を撮りながら一番端まで歩く。
  もう誰も住んでいない住宅を見ながら、小学生の頃にテレビで観ていた「奥様は魔女」を思い出す。サマンサ(エリザベス・モンゴメリー)のような女性がドアを開けて出て来ないだろうか。このテレビ番組が自分にとっての最初のアメリカ体験だったかもしれない。 
 住宅地を過ぎて少し歩くと普天満宮に着いた。お賽銭を入れてウートートーした後、鍾乳洞の入口を探して普天満宮の裏の駐車場の方へ行くと、柵の向こうで地質調査のための土壌採取をしていた。キャンプ端慶覧では、米軍が投棄したドラム缶12本が地中から見つかっている。 西普天間住宅の方でも土壌工事をしていたが、あれも調査だろうか。嘉手納基地の返還地の沖縄市サッカー場でも47本のドラム缶が見つかっている。このうちの数本には、ベトナム戦争当時に枯れ葉剤を製造していた「ダウ・ケミカル」社の名が書かれている。
 鍾乳洞の入り口がわからないので普天満宮の社務所に聞きに行くと、拝観を希望の方は住所と名前を記帳するように言われ、鍾乳洞のある神社の後ろに案内された。入場料は無く応対した巫女さんが入り口まで付き添ってくれる。入り口までの通路には普天間の獅子加那志や奉納された美術品等が飾られていた。
 入り口で巫女さんと別れて一人で中へ。空気がひんやりとしている。沖縄戦の当時、この鍾乳洞に数百人の住民が避難していたそうだ。
 普天満宮の境内を出て、普天間の町を撮影しながら散策。大きな亀を散歩させているおじさんに遭遇した。今の4倍位までは大きくなるそうだ。
 自転車を止めた場所まで戻り、再びペダルを漕いで那覇へと戻る。キャンプキンザーの向かいにある、前から気になっていたホテルアメリカンを撮影。敷地には自由の女神が立っている。自由の女神は高い場所にあって見上げる方がいいですね。地面に置かれて目線の高さが同じだと、自由さが感じられない。
 家に帰ってご飯を作るのが面倒になって、新都心のスーパーでどれでも1個98円セールのパンを5個買って帰る。写真は米軍の西普天間住宅。
*2014年3月22日のPhoto Diaryはこちら
3月22日のスナップ。神里原社交街
↑風は冷たいが、快晴。午後からカメラを持ってお出かけ。神里原社交街で自転車を止めて、まずは定点撮影。それから壺屋、寄宮、三原とブラブラ歩く。散歩をすると、那覇の街が丘陵地だというのがよく分かる。なだらかな丘に無秩序に家が建ち並んでいる面白さ。
 帰りは寄宮にある知事公舎の外側をぐるっと一周し、農連市場に寄って自転車の止めてある場所まで戻った。
 真っ直ぐ帰るのもつまらないので、国際通りを走ってから波の上ビーチへ。日差しがあると暑いくらいだが、翳ってくると途端に寒くなる。明日からは暖かくなるようなので、今日が「わかりびーさー(寒さにお別れ?最後の寒さ?)」だろうか。
 内地はこれから桜の開花だが、那覇の緋寒桜はサクランボをつけている。
 晩ご飯は、テレビ番組「秘密のケンミンショー」でも紹介されたからそばを作る。本来はそばが入っている袋に直接缶詰の中身を入れて混ぜるのですが、沖縄のそばは油っぽいので湯通ししてから混ぜた。缶詰はシーチキンにしたが、これだけだと飽きるのでタマネギ、青ネギ、中華イカを刻んで入れ、マヨネーズと醤油、食べるラー油で味付けした。それでも5分もかからない即席料理だ。
 今帰仁の新酒44℃が残り僅かになったので、昨日新しい泡盛を買ってきた。スーパーのプライベートブランドだろうか、その名もユニオンですから25℃。テレビで毎日流れてくるユニオンですからだが、フルバージョンがあった。
 これで沖縄に来てからの泡盛遍歴は、久米仙→菊之露→残波→忠孝→美しき古里→多良川→RYUKYU CLASSIC→轟→久米仙(お隣からの貰い物)→響天→瑞穂→夢航海→ゆいまーる→松藤→八重泉→残波の白→請福(フダチミのラベル)→海人→今帰仁の新酒→ユニオンですから。
 昨年末に亡くなられた大瀧詠一さんを偲ぶ、お別れ会が昨日行われたそうだ。写真は定点観測中の神里原社交街。
*2014年3月24日のPhoto Diaryはこちら。(那覇市役所、沖縄県庁、トロピカルビーチ)
*2014年3月25日のPhoto Diaryはこちら。(アマゾンから届いた商品、借りてきた本)
*2014年3月28日のPhoto Diaryはこちら。(レターパック、登川誠仁さん追悼公演のチケット、バスのフリー乗車券)
*2014年3月29日のPhoto Diaryはこちら
3月29日のスナップ。登川誠仁さんの一年忌追悼公演

↑今日は、昨年の3月19日に亡くなられたセイグヮー(誠小)こと、登川誠仁さんの一年忌追悼公演が、うるま市芸術劇場で開催される。コンサートは夕方からだが昨日購入しておいた路線バスの土日祝1日限定フリー乗車券があるので、お昼少し前に部屋を出て最寄りのバス停へ。せっかくなのでコンサートの前に寄り道をする。
 うるま芸術劇場は110番・長田具志川線のバスが劇場の前に停車するようだが、この路線は終電の時間が早くコンサートの帰りは運行していない。ネットで調べると23番・具志川線の喜仲入り口から徒歩10分ほどのようなので、こちらを利用する。うるま市へ行く前に途中の普天間に寄ろうと23番のバスを待っていると、27番・屋慶名線がやって来た。23番は大山ゲートを越して伊佐を右折して普天間へ、27番は大山の交差点を右折し真栄原を通って普天間に行く。途中に通る道は違うが普天間に行くので、早くバス停に来た27番に乗車した。
 普天間市場入り口でバスを降りて、住宅地をブラブラと歩いていると戦闘機が一機上空を飛んで行った。先日も撮影した、来年返還される西普天間住宅を撮影しながら普天満宮へ。
 普天満宮の後ろにある駐車場から、米軍が投棄したドラム缶12本が地中から見つかり、土壌調査をしているキャンプ端慶覧の現場を撮影。
 普天満宮の敷地を出てバスに乗ろうとバス停を探して歩いていると緑の濃い場所があった。地上戦の後、米軍が拳銃とブルドーザーで土地を略奪する前の沖縄は島全体がこんな感じだったのだろうかと想像してみた。
 普天間の次のバス停、石平で丁度やって来た23番のバスに乗車。まだ時間がたくさんあるので、終点の具志川バスターミナルに行ってみることにする。
 具志川BTには15時15分頃に到着。事務所に寄って23番の時刻表を貰い、劇場の最寄りのバス停を確認すると、喜仲入り口より上平川のバス停の方が近いと教えられる。親切にバス停から劇場までの地図を書いて下さった。
 せっかく終点の具志川BTに来たので、近くを散策する。団地の中の公園で家から持ってきたタンカン2つで水分補給。
 1時間ほど散歩してバスターミナルに戻り、23番のバスで上平川まで。バス停を降りて描いてもらった地図を見ながら芸術劇場へ。10分ほどで到着。18時開場、18時30分開演だが、17時20分頃に着いたら列ができていた。
 会場入り口で今日のプログラムが記載されたパンフレットをいただいた。最初のページに琉球民謡登川流研究保存会会長・徳原清文さんのごあいさつと、顔写真が載っていた。はて、どこかで見たお顔・・・で思い出した。この人だ。てっきり上間不動産の社長さんかと思っていた。
 追悼公演は定時に始まった。以下、プログラムより。

司会 前川守賢
一、幕開け 登川流会員一同「歌ぬ心・豊節」 二、実行委員長挨拶・・・儀武 息勇 三、舞踊 爽秋の宴・・・玉城流舞踊うるま会 儀武 八重子道場 四、ゲスト・・・大島 保克 よなは 徹 大工 哲弘 五、対談<登川誠仁師匠を語る> 中江 裕司 知名 定男 喜舎場 盛勝 備瀬 善勝 藤田 正 六、ゲスト・・・饒辺 愛子  山里 ゆき 饒辺 勝子 金城 恵子 フォーシスターズ 七、関東・関西・九州支部合同斉唱「島の花・油断しるな」
〜休憩〜
八、中幕 登川流会員一同「寄師事る宝・新デンサー節」 九、舞踊 月の浜辺・・・玉城流綾美会 内間 勝美琉舞道場 十、ゲスト・・・神谷 幸一 大城 美佐子 知名 定男 津波 恒徳 十一、登川誠仁作品メドレー センスル節・・伊禮 正哲 おじさん・・金城 みゆき 宮里 正則 戦後の嘆き・・照屋 政雄 ヒヤミカチ節・・金城 安紀 琴:山内 貴祐 ペストパーキンママ・・城間 松安 徳原 清文 大城 輝美 三板囃子・・田場 盛信 太鼓:比嘉 マチ子 地謡:よなは 徹 伊江島エイサー・・伊江島青年会 歌三線:島袋 繁正 島袋 太 屋我比 かつや
フィナーレ 出演者全員

 18時30分に始まった公演が終了したのは、21時30分頃だった。幕の内弁当のように多彩なプログラムで、沖縄が芸の島だと改めて実感させられる。幕開けで緞帳が上がり、現われたステージに200人以上の登川流の会員が並び演奏をする様は圧巻であり、美しかった。
 個人的に見れて嬉しかったのはフォーシスターズだろうか。結成が1960年。ボクが生まれた年だ。沖縄で最初のアイドルグループであり、その後に続くでいご娘やネーネーズの原点とも言えるグループ。沖縄音楽の本や記事でその名を目にする事は多いが、実際に彼女たちが歌う姿を生で見れるとはこれまで思っていなかった。
 芸術劇場を出ると雨が降っていた。バックから折り畳み傘を出し、急いでバス停に向かう。
 23番・具志川線の上り方面那覇行きの最終が、上平川で22時9分。21時50分頃にバス停に着いたので余裕ができた。
 バス停の看板の時刻表をもう一度確認すると、27番の屋慶名線上りが22時3分にあった。ラッキー。少し遅れて27番が到着したので自宅近くのバス停に止まるか確認して乗車。
 外は雨が降ったり止んだり。風も強い。窓ガラスに付いた雨粒で町のネオンが綺麗に滲んでいる。夜の上り線は日中に比べ道路が空いているからか、バスはスムーズに走っていた。
 You Tubeから「豊節/登川誠仁」「めでたい節/フォーシスターズ」「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー/でいご娘」「No woman no cry/ネーネーズ」。*沖縄タイムスの記事。琉球新報の記事。写真は登川誠仁さんの一年忌追悼公演。

2月21日(月)

 天気予報ほどには大雪にはならないが、それにしても今期はよく雪が降る。
今日の積雪
 奄美・沖縄で撮影した写真のインデックスが完成した。こちら。これで撮影した写真を探すのが楽になる。早ければ1〜2分で、長くとも30分もあれば大体の写真を探し出せるはず。
 また昭和のスターが一人・・・。「星のフラメンコ」のヒットで知られる西郷輝彦さんが亡くなった。YouTubeから「星のフラメンコ」。作詞・作曲は浜口庫之助さんだったのか。
高市早苗議員からの年賀状

 アメリカ連邦議会立法調査官として勤務した経験を持つ彼女は、29歳のビジネスマンを比較して、アフター5の違いを指摘した。そして「何か一つ事件がおきた時、どこまでの範囲でものを考えられるか」の違いもあげる。
「例えば株が大暴落した時に向こうのコは”今ニューヨークが落としたから、次に東京が買い支えてくれないとロンドンへ行って、その後またニューヨークに戻ってくる。もし東京が買い支えられないと海部政権はブッシュからの信頼を失うことになる”そんな風に、日本の政権に与える影響にまでピッと頭が行くわけ。金融に携わっていないコでも」

 これは1990年にビジネス雑誌の仕事で高市早苗さんにインタヴューした時に書いた原稿の一部。当時の彼女の肩書きは亜細亜大学日本経済短期大学専任教員で、最初の著書『アズ・ア・タックスペイヤー』を出したばかりだった。
 一昨日の毎日新聞に、その高市早苗政調会長の記事が掲載されており、都内の講演会で「自身が首相になった場合でも靖国神社への参拝を続ける考えを改めて示した」と書かれていた。

 2013年の12月、当時の安倍首相が靖国神社を参拝した時、米国大使館は直ぐさま「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに、米国政府は失望している」と声明を発表した。そして予定されていた小野寺五典防衛相とヘーゲル国防長官の防衛相協議が延期された。また、中国を訪れていた超党派の国会議員団は会談がほぼキャンセルされ、日程を早めて帰国した。
 「何か一つ事件がおきた時、どこまでの範囲でものを考えられるか」という言葉を噛みしめなくてはならないのは、彼女自身ではないだろうか。
 講演では「主権国家を代表する者として先人に尊崇の念を持ち、感謝の誠をささげることは当たり前だ」としたうえで、「『当たり前のことだ』と続けていれば、段々と周り(の関係国)もあほらしくなって、文句を言わないのではないかと楽観的に捉えている」と述べたそうだ。
 あほらしくなって・・・こんな人を首相にしたらホントにアホの国だと思われるかもしれない。靖国参拝は信教の自由とも発言しているが、靖国神社は先の大戦のA級戦犯が合祀された特殊な神社であり、現在の上皇も天皇在位中は参拝を行なっていない
 靖国を参拝する議員の口から、よく「先人への尊崇の念」「英霊に尊崇の念」という言葉が聞かれるが、それならば未だ沖縄南部のガマ(洞窟)に眠る先の大戦で亡くなった人たちの骨の一つも拾いに行けばと思う。しかし、それどころか政府は遺骨の収集もされていない南部の土を辺野古の埋め立てに使おうとしている
 上の写真は高市早苗さんから送られてきた1992年の年賀状。インタヴューした後、何年か年賀状や著書を送って頂いた。絵はナンシー関さんの消しゴム版画のように見えるが、年賀状のどこにもクレジットがないのでわからない。当時は思わなかったが、今見ると彼女の軽さと傲慢さが窺われる絵のように思う。因みに彼女の議会立法調査官という経歴に疑惑を持たれたこともあるが、それは著書『アズ・ア・タックスペイヤー』を読めば経歴詐称というほどのものではないことがわかる。

 この他の気になった記事を備忘録として。
2045年にどこへ?原発事故で発生した汚染土 福島・中間貯蔵施設の現在地
ロシアの侵攻あれば原発被害も 駐日ウクライナ大使、日本に支援訴え

 Photo Diaryを更新。
*2014年3月6日のPhoto Diaryはこちら
3月6日のスナップ。巨大な亀甲墓と那覇市内
↑午前中からパソコン作業。午後、気分転換に自転車で末吉町へ。
 1日に古島団地に行ったが、ネットで調べていると「旧郵政団地(古島団地、末吉団地、松川団地)は、2005年郵住協(県民に返すことが出来なかった郵便貯金と、自治体が出資金を出して設立された組織)から」という記述があったので、末吉団地を探してみた。
  モノレールの古島駅から国道330号を浦添方面に少し行った所に末吉団地前というバス停があるが、建物自体はタカダ末吉共同住宅になっていた。1974年に建てられたようだが、末吉団地から名前が変わったのだろうか。
 古島団地が1972年だから2年しか違わないが、こちらの方はメインテナンスがされており居住者も多そうだ。
 末吉共同住宅の裏手をしばらく散歩してみる。山の斜面を切り開いた住宅街が続いているが、ひょっこり奥に入って行くと巨大な亀甲墓が現われる。住宅が途切れた辺り、山の斜面に階段があったので上って行くと、お墓が並んでいた。そこから那覇市街を眺めていると、お墓の手入れをしていたオジさんに声をかけられる。ここら辺の土地の所有者だと言うオジさんは、業者が土地を勝手に売って墓を建てて困っていると話す。そんな事があるんだろうか?ちなみに与那国島の墓地では、町民は勝手に好きな場所にお墓を立ててもいいようだった。
 オジさんはお墓の奥の雑草の生い茂った場所に案内してくれ、雑草を踏んだ道のようなものを進んで行くと大きな石があり、それが英祖王の父の墓だという。教えられた道を進んで行くと、本格的な霊園だった。大きな石がどれかわからず、あまりウロウロして墓地で迷子になっても困るので、直ぐに引き返す。オジさんは、もう居なかった。
 家に帰ってネットで調べると、英祖王の父は恵祖世主で、お墓はこちら(リンク切れ)にある。
 自転車を置いてきた末吉共同住宅まで戻り、新都心へ。時々テナントのパン屋さんがよりどり5個500円のセールをやっているスーパーへ行ってみると、ビンゴ!やっていた。試食のパンを食べながら5個をチョイス。家に帰り、一緒に買ってきた牛乳とともに晩ご飯にした。
 オスプレイのエンジンから白煙、F15戦闘機の防風ガラス脱落に続いて、今度は米軍ヘリが洋上で着艦に失敗。
  日本維新の会の若手議員が原子力協定をめぐり、石原共同代表に「出て行けよ」。出てけに1票。多数決による決定を「高等学校の生徒会のやり方だよ、こんなものは」と批判するなら、党に所属する意味はないだろう。それにしても維新の会、最早政党としての体を成していないように思うが?写真は末吉共同住宅の裏手にあった巨大な亀甲墓と那覇市内。
*2014年3月10日のPhoto Diaryはこちら。(オリエンタルマースカレー)
*2014年3月11日のPhoto Diaryはこちら。(ジミーのジャーマンケーキ)
*2014年3月12日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダからの那覇市内、オスプレイ)
*2014年3月13日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダからの那覇市内)
*2014年3月15日のPhoto Diaryはこちら
3月15日のスナップ。農連市場の猫
↑日差しの割りには気温がそれほど上がらないが、ベランダにマットと布団を出し、床を掃き掃除。
 11日にホールで買ったジミーのジャーマンケーキの最後の一切れを食べる。直径23センチは食べ応えがありました。これで1365円は安いと思う。
 冷凍しておいたオリエンタルマースカレーの残りを解凍し、フライパンでご飯と一緒に炒めてドライカレーを作る。美味しい。
 このところ部屋に籠っていたので、気分転換に外に出る。自転車で桜坂劇場の前まで行き、自転車を置いて散歩。開南バス停、農連市場の周辺を2時間近く歩いた。
 市場近くの八百屋でキャベツ、青ネギ、タンカンを購入。桜坂劇場まで戻り、自転車で前島にあるスーパーへ行きスーチカ(豚肉の塩漬け)やコロッケ他お惣菜を色々と買って帰る。
 久しぶりに郵便受けを開けたら、北のエレキガール改めTOMOKOちゃんからファーストシングルCDとDVDの2枚組「FANTASTIC BLUE」が届いていた。 
 ジャケットのインナーの中には、西表島から帰った日に空港からそのまま彼女の運転する車で金武へ行って撮影したカットが載っている。
 スペインのギタリスト、パコ・デ・ルシアが先月亡くなったのを今日になって知った。
  You Tubeから「Spain/Al Di Meola、John McLaughlin、 Paco De Lucia」「Tico Tico/Paco de Lucia」。
 Wikipediaによれば、生まれたのはスペインの南部カディス県のアルヘシラスだそうだ。このジブラルタルに面した港町には1986年のスペイン旅行で立ち寄っている。アルヘシラスから船に乗って海峡を渡り、モロッコにあるスペイン領のセウタという小さな町に着いた。セウタからバスでモロッコの国境の町テツアンに入り、それからタンジールに行ったのだった。この年、逢坂剛さんが「カディスの赤い星」を書いている。この長編サスペンス小説はスペイン旅行の後、何年も経ってから知ったのだが、この小説を読んで逢坂さんの作品に嵌ってしまった。
 5月18日(日)、草月ホールで「第六回逢坂剛カディスの赤い星ギターコンサート」が開催されるようだ。写真は農連市場の猫。
*2014年3月16日のPhoto Diaryはこちら
3月16日のスナップ。オオゴマダラと金色の蛹
↑午前中から昼過ぎまでパソコンに向かって写真の作成作業。今日も天気が良いので、15時頃に部屋を出てサイクリング。
 先ずは波の上ビーチへ。泳いでいる人は見なかったが、砂浜には寝転がって肌を焼いている人がけっこういる。見なかっただけで、もう泳いでいる人はいるんだろうな。ビーチの横でたむろしている猫を撮影してから、辻を通って西町の方へ。 
 那覇港の横を通ると風景が何か変わっている。港の道を挟んだ向かいにあったてびちの有名な嶺吉食堂が取り壊されて、更地になっていた。閉店したという話しをネットで見た記憶はあるが、こんなに早く取り壊されるとは。一度も中に入って食べる事はなかったが、良い感じに古びた外観に魅かれていた。周辺も様変わりしそうな気配があるので、自転車を降りて暫く撮って歩く。
 嶺吉食堂の跡地から東町、壺川を走り漫湖公園へ。公園の中にあるちょうちょガーデンで、久しぶりにオオゴマダラの金色の蛹を鑑賞。蝶の写真を撮っているのを見てか、管理人のオジさんが「もっと蝶を飛ばしましょうか」と声をかけてくれる。どこかにオオゴマダラを隠しているのだろうかと思ったら、枝に止まって寝ている蝶を起こしてくれるという。せっかく寝ているのに(笑)。大丈夫ですと、丁寧にお断りする。なんだかんだと、それほど広くないビニールハウスの中に50分ほど居て楽しんだ。いつでも金色の蛹が見れて入場無料は嬉しい。
 漫湖公園から那覇バスターミナルに出て、帰りは国道58号を走って帰る。途中でスーパーに寄ったら18時頃になった。
  晩ご飯は昨日と同じくフライパンで炙ったスーチカをご飯に乗せて、その上にスーパーで買ったばかりの食べるラー油をトッピング。他に今朝作ったレンコンと豚肉のきんぴら、サラダ菜、みそ汁。写真はちょうちょガーデンで撮影したオオゴマダラと金色の蛹。

2月18日(金)

 昨日、岸田首相が官邸での記者会見で「第6波の出口に向かって徐々に歩み始める」と表明した。歩み始める・・・とは、なんとも緊張感のない表現だ。第6波に入り新型コロナの死者数が前月比50倍超となっている国のトップの発言だろうか。
 昨日の新型コロナによる全国の死者数は過去最多の269人で、これで3日連続200人を超えた。そして東京都は昨日、ステルスオミクロンと呼ばれるBA.2の市中感染が初確認されたと発表した。東京都では新型コロナの感染者数が減少傾向にあるとしているが、多分保健所や病院の業務が逼迫して検査数が足りないのだろう。
 大阪の昨日の新型コロナによる死者数は54人。大阪の死者数の多さが際立っている。大阪市のホームページに昨年の投稿だが、<市長は昨日も休み、明日も休みですね。何人死んだら真面目に働いてくれるんですか?1,000人死ぬまで待ってるんですか?教えてください>という市民の声が寄せられている。
 政府は山形、島根、山口、大分、沖縄の蔓延防止を今月20日に解除することを決めたが、今日の琉球新報に「人口220人の久高島で濃厚接触100人超す 外出や観光客の入島自粛呼び掛け」という記事が掲載されていた。
 昨日は漫談家の松鶴家千とせさんの、今日は漫画家のとりいかずよしさんの訃報が流れてきた。YouTubeから「わかんねェだろうナ/松鶴家千とせ」。

 この他の気になって記事を備忘録として。
今年も豊作間違いなし!福井県小浜市に1300年続く「オイケモノ神事」で農作物の豊凶占う
小平奈緒の「人間的な魅力は金メダル以上」 台風被害の復興の後押し受けたリンゴ農家から声援<スピードスケート女子> 

 Photo Diaryを更新。
*2014年3月1日のPhoto Diaryはこちら
3月1日のスナップ。マグロづくしのお寿司
↑お刺身が食べたくなって、泊市場へ。お店を色々と物色して、マグロのタタキの盛り合わせ500円を購入。お昼ご飯を作るのが面倒臭くて、ちょっと贅沢だがマグロづくしのお寿司500円も購入。さっそく家に持ち帰ってさんぴん茶を淹れて、お寿司を食べる。さすがに那覇市がマグロを市の魚と謳うだけあって、値段以上に美味しかった。
 今晩からお天気が崩れると言うので、お寿司を食べ終わってから自転車でお出かけ。今日は近場、古島へ。モノレールだと、おもろまち駅の次が古島駅だ。
 モノレールで古島駅を通ると、駅前に大きな団地が並んでいるのが見える。沖縄が日本に返還された1972年に建てられたこの団地は老朽化が激しく、現在は入居者も少なくなっている。
 2005年の琉球新報の記事(リンク切れ)に、この団地が郵住協(郵便貯金住宅等事業協会)から民間企業に譲渡された経緯が載っていた。そして現在は、立ち退きを巡る住民と業者との訴訟問題も起こっているようだ。 
 どの棟も廊下や壁のコンクリートが崩れ、鉄筋がむき出しになっている箇所がある。蓋が外されて中のホースが丸見えの消火栓は、妙にフォトジェニックだ。 
 2時間半ほど団地の中をウロウロしながら、そんなモノたちをスナップ撮影して歩く。帰りは新都心公園の中を自転車で横切り、その周辺をちょこっとまわって帰ってきた。
 晩ご飯のおかずは、昼間買ってきたマグロのタタキ。大根おろしにポン酢、そして酢味噌にワサビの2種類の味で食べた。刺身を酢味噌で食べる習慣は、奄美大島で知った。 
 天気予報の通り、夜になって土砂降りの雨。なんだか蒸し暑い。写真は泊いゆまちで買った、マグロづくしのお寿司。
*2014年3月3日のPhoto Diaryはこちら
3月3日のスナップ。前島の怪しげなビル
↑明け方、沖縄本島近海を震源とする地震で目が覚める。マグニチュード6.6、最大震度4。那覇は3だったが、8階の部屋はけっこう揺れて焦った。お昼ご飯にスパゲティーを食べようと、冷凍しておいたミートソースを取り出して調理をしていると、また揺れた。地味にびびる。
 特盛のスパゲティーを食べた後、腹ごなしに散歩。泊港の横に広がる、安宿と飲み屋が多い前島3丁目を 通り、若狭方面へ。一昨日開館一周年を迎えた不屈館まで来たので、せっかくなので中に入ると「高江の闘いと今後の展望」と題した沖縄平和委員会理事・与儀喜一郎氏のトークショーが行われていた。トークは14時からで、15時過ぎに館内に入ったので質疑応答の終わりの方だったが資料をいただき聞いていた。
 トークショーの後、館内の資料を色々と拝見してから散歩に戻る。若狭から国道58号を渡って前島にあるスーパーへ。同じ前島でも58号を境にこちらは住宅街で、海側のような猥雑な感じはない。
 スーパーで買ってきた白身魚のフライ、メンチカツと昨日作った肉じゃがの残りで晩ご飯。写真は怪し気な建物の多い前島でも、一際異彩を放つビル。
*2014年3月5日のPhoto Diaryはこちら
3月5日のスナップ。辻の料亭「左馬」
↑2日にオスプレイが嘉手納基地に緊急着陸後エンジンから白煙を上げたと思ったら、昨日はF15戦闘機が操縦席の防風ガラスを脱落させて嘉手納基地に緊急着陸した。
 昨日の3月4日はさんしんの日だったが、今日はサンゴの日。このサンゴの日に合わせて今日、沖縄県の慶良間諸島(渡嘉敷村、座間味村)が31番目の国立公園に指定された。
 最近、辻が花街だった頃を偲ばせる料亭跡があるのをネットで知って、自転車でひとっ走り見に行ってきた。不動産会社の管理物件となっているようで、売りに出されているのだろうか。新しい買い手がつけば、建物が解体されるかもしれないので、外観だけでもと思い、撮影してきた。
 入口の門には大きく左馬と書かれた表札が掛かっている。先月発売になった浅香怜子さんの著書「琉球の花街 辻と侏りの物語」の中に、昭和戦前期の辻村の略図が掲載されている。地図中に、左馬楼(第一左馬)と記されているのは料亭左馬の前身だろうか。
*You Tubeに内部まで撮影した映像がありました。こちら
 左馬の帰り、前島のスーパーで買い物をし、最近見つけたあげパンの専門店で、紅イモのあんこと餅が入ったBパンを1個買って帰る。揚げたてで中のお餅も柔らかくて美味しいんだけど、1個170円。もう少し安いといいナー。写真は辻の料亭・左馬。

2月15日(火)

 今日、全国に先駆けて北陸地方で春一番が吹いた。昨年より5日早いそうだ。その影響で最高気温が9℃まで上がったようだが、部屋に居るといつも通りの寒い一日だった。明日はさらにグッと気温が下がるという。春一番が吹けど、春まだ遠し。
 今日の新型コロナによる死者が、過去最多となる236人だった。また、国内感染者の累計が400万人を超えた。
  斉藤国交大臣が昨日の衆院予算委員会で、鉄道での新型コロナウイルス感染拡大を防ぐため、乗客に不織布マスク着用を呼びかけるよう鉄道事業者に依頼する考えを示したという記事を読んで驚いた。今頃?今更?
 ニュースは新型コロナとオリンピックばかりだが、軽石の漂着問題は解決していない。宮古島の漁師は新型コロナに加えて軽石と原油高の三重苦で「魚が消える、漁業が終わる」と喘いでいるという。

 この他の気になった記事を備忘録として。
ミサイル防衛で日米共同訓練 21~25日 宮古や八重瀬、那覇など全国10施設で
昆虫なのに必死 カメムシの求愛ダンス 世界的発見のきっかけは沖縄の研究者だった
時給は東京並み 沖縄・与那国島にコールセンター 休業中のホテル使い移住者呼び込む 島内最大の企業に

新しいトップ画面

トップ画面を模様替えしました。浜に打ち上げられた流木です。流木の形と砂の紋様に魅かれてシャッターを切った。

↓これまでのトップ画面。

これまでのトップページ
 Photo Diaryを更新。
*2014年2月21日のPhoto Diaryはこちら
2月21日のスナップ。百条委員会の中継を見る人たち

↑日差しはもう春、風はまだ冬。久しぶりの快晴だが、空気は少しひんやりとしている。そんなお天気。
  辺野古埋立承認問題等調査特別委員会(百条委員会)が、一昨日から始まった。今日は仲井眞知事の証人喚問なので、午前10時少し前に議会に見に行くが、既に傍聴席はいっぱいだった。議会棟1階のロビーで中継するというので、同じく入れなかった人達と一緒にプロジェクターで議会の様子を見る。
 本会議場は傍聴席がたくさんあるが、百条委員会が行われる委員会室の傍聴席は僅か15席だそうだ。
 1時間半ほど質疑の様子を見ていたが長い休憩に入るという議長の案内があり、次の審議は午後1時20分だというので外に出る。
 県庁前広場に行くと、旗や横断幕を持った人達が集まり出していた。今日も12時15分から30分間、抗議集会が行われるという。
 抗議集会の最初の方だけ撮影させてもらって、自転車でジュンク堂へ向かう。
 一昨日の辻の二十日正月・じゅり馬行列の日に合わせて、春駒じゅり馬民俗芸能研究会の浅香怜子さんの著書「琉球の花街 辻と侏りの物語」が榕樹書林から発売になった。今日はその発売を記念して、13時からジュンク堂の地下1階のイベントスペースでじゅり馬と春駒の実演が行われる。
 ちなみに本の表紙に使われている写真は、昨年の二十日正月に私が撮影したじゅり馬行列です。
 じゅり馬、春駒の実演の他、唄者の方もお二人登場。最後はカチャーシーを踊って終了した。

 「24人死亡、223人依然孤立…大雪1週間」「大雪:孤立いまだ480人」。14日の大雪から一週間経ったが、未だに多くの人が孤立している。
  この大雪災害の発生直後、のんきに赤坂で天ぷらを食べていた安倍総理に批判が殺到。それにしても天ぷら総理とは、天ぷらに失礼だな。批判を受けて、政府は18日になってようやく「非常災害対策本部」を設置。天ぷら総理は、「孤立による凍死などの犠牲者を1人も出さないようにするとともに、ガスや電気などライフラインの復旧や道路の通行確保に努め、国民生活の早期の改善に全力を挙げてほしい」と述べたそうだが、この時点で何人も凍死者が出ていた。日頃、”私が最高責任者””私の責任において”と頼もしい発言をしているが、その危機意識、危機管理能力が疑われる。
 ところで、天ぷら総理周辺の言動が騒がしい。安倍首相の靖国神社参拝に米国が失望を表明したことに対し、衛藤晟一首相補佐官が「むしろ我々の方が失望した」とYou Tubeで批判。この発言を、菅義偉官房長官が撤回するように指示。撤回した。衛藤補佐官の発言要旨(リンク切れ)。
 就任記者会見での従軍慰安婦問題や特定秘密保護法などをめぐる発言を個人的意見だったとして取り消したNHKの籾井会長が、今月12日の経営委員会で、「取り消しているし、どこが悪いのか。素直に読めば理解できるはずだ」という趣旨の発言をし、反省していないとひんしゅくを買っている。
 本田悦朗内閣官房参与はアベノミクスの目的を「強力な軍隊を持って中国に対峙できるようにするため」と語ったとする米紙ウォール・ストリート・ジャーナル報道について 、真意が伝わっていないと釈明。また、首相の靖国参拝を高く評価すると発言した報道も、オフレコのつもりだったと語った。
 こんな人達の言動を、これから先、誰が信用するのだろうか。

 先日、昨年7月に採取した福島第一の観測用井戸から過去最高値の1リットル当たり500万ベクレルのストロンチウム90を検出したと発表した東京電力だが、今度は1リットル当たり2億3000万ベクレルの、ストロンチウム90が含まれる高濃度の汚染水100トンが貯蔵タンクから漏れたと発表。一昨日の19日は、炉心溶融事故を起こした福島第一原発2号機の原子炉圧力容器の底についた温度計が壊れて測定できなくなったと発表している。
 汚染水処理、廃炉作業も充分に行えない会社が、原発を再稼働させようなんて常軌を逸している。
 それにしても国の借金が1017兆円、汚染濃度が2億3000万ベクレル。数字が大きくなり過ぎて、想像が及ばなくなってきた。写真は議事棟ロビーのプロジェクターで仲井真知事の証人喚問を見る人たち。

*2014年2月24日のPhoto Diaryはこちら
2月24日のスナップ。赤田倶楽部

↑暑くもなく寒くもなく、青い空が広がっている。お散歩日和だ。昨日、一昨日と部屋での作業をしていたので、午後からお出かけ。
 食品トレーとペットボトルが溜まったので、自転車で新都心のスーパーへ持って行く。そのままモノレールのおもろまち駅へ。駅に自転車を置いて、ゆいレールで首里駅に向かう。
 首里駅から首里城公園の南に位置する赤田町へ。ここは一昨年の夏にミルクウンケーを見に来て以来だ。前からもう一度歩きたい町だったので、今日のお散歩の場所にした。
 ミルクウンケーのスネー(道ジュネー)の時に歩いた道を記憶の中から辿るが、よく分からない。それでも幾つか見覚えのある家を発見した。赤田町の路地を歩いていると、いつの間にか崎山町に入る。崎山公園は昨年のムーチーの日に散歩に来たことがあるが、赤田町と崎山町がこんなに近いとは思ってもみなかった。
 崎山公園で家から持ってきたタンカンを食べて水分補給し、また赤田町の方へ。ミルクウンケーの祭場だった赤田倶楽部はどこだっけ?とグルグルまわってようやく発見。お祭りの時は入口や建物に紅白の幕が掛けられていたが、普段の赤田倶楽部には当然無く、気づかずに何回か通り過ぎていた。
 地域の公民館として使われている赤田倶楽部は、琉球王朝時代の高級女神官の一人、首里大阿母志良礼の住居(殿内)だった所。入口の説明板には、↓こう書かれている。
 琉球王朝時代の高級女神官の一人「首里大阿母志良礼(シュイウフアンシタリ)」の神殿及び住居跡。
  尚真時代(1477~1526)、琉球王国の神女組織が整備され、最高女神官「聞得大君(きこえおおきみ)」の下に、首里(シュイ)、真壁(マカン)、儀保(ジーブ)の三人の「大阿母志良礼」(おおあむしられ)が置かれた。3人の「大阿母志良礼」は、聞得大君を補佐して国王の長寿・国の繁栄・五穀豊穣・航海安全を祈願するほか、琉球国中の御嶽・神女を3分割して所管した。
「首里大阿母志良礼」は、首里の南風之平(フェーヌヒラ)等(現大中・桃原・当蔵・赤田・崎山・鳥堀町地域)を始め、斎場御嶽(セーファーウタキ)や久高島のある知念間切、尚円王統初代の尚円ゆかりの伊是名島など王国祭祀で重要な地域の御嶽や神女(ノロ)を管轄した。
 廃藩置県(1879)の後、首里・真壁・儀保の3つの殿内の神殿は天界寺(ティンケージ)跡の一角に移され、1つの建物にまとめられて「三殿内(ミトゥンチ)」と呼ばれた。首里殿内跡は大正初期に払い下げられ、敷地の一部は赤田倶楽部(公民館)となり、1921年(大正10年)に結成された首里三箇(赤田・崎山・鳥堀町)の中学生会「三星会」の集会所としても利用された。
 赤田町には旧暦7月16日に弥勒神が町を練り歩く「ミルクウンケー」という行事が古くから伝えられ、この行事を歌ったわらべ歌「赤田首里殿内」は広く親しまれている。

 赤田町から首里城公園の中を少し散歩。もう2時間以上歩いている。さすがに歩き疲れたのでモノレール駅へ。おもろまち駅から首里駅までは260円だったが、一つおもろまち駅寄りの儀保駅からなら220円になるので40円節約のために歩く。途中に儀保殿内跡を発見。現在はライオンズマンションになっていた。
 儀保駅からゆいレールで、おもろまちへ。自転車で新都心のスーパーに寄って買い物をして帰る。

 ソチオリンピックが終わった。リアルタイムで競技を観ることはなかったが、スキー・ジャンプの葛西紀明選手、モーグルの上村愛子選手、フィギアの浅田真央選手らの場面は印象に残っている。とりわけメダルを取れなかった上村、浅田両選手に強く魅かれた。勝ち負け以上の物語に、心を躍らされた。 
 1964年の東京オリンピックはまるで記憶にないが、1972年の札幌オリンピックはトワ・エ・モワのこの曲(You Tubeから)とともに微かな記憶が残っている。小学校の授業時間に、みんなでテレビを観た気がする。写真は赤田倶楽部(首里殿内跡)。

*2014年2月28日のPhoto Diaryはこちら
2月28日のスナップ。嘉手納基地
↑昨日、一昨日と2日続けてトンカツを食べたので、運動しないと(汗)。
  今日のお昼12時から嘉手納町にある沖縄防衛局前で、北部訓練場のヘリパッド建設に抗議する集会があるので、運動を兼ねて那覇から自転車で行ってみる。参加して何ができるわけでもないが、頭数になるだけでも少しは意味があると思っている。
 早めに起きたがおにぎりを作ったりしていたら、部屋を出るのが10時半過ぎになってしまった。外は快晴で、半袖のTシャツと半ズボン、帽子を被って出発。泊市場、国立劇場おきなわの前を通り、キャンプ・キンザーの脇道を抜けて国道58号へ。後はひたすら真っ直ぐ走る。
 家を出るのが遅かったので北谷のあたりで12時半になっていた。抗議集会が12時からで、13時から代表者が防衛局への抗議の申し入れをすることになっている。着く頃には誰もいないかもしれないが、行くだけ行ってみる。
 嘉手納基地に来ると、戦闘機が離発着の訓練をしているので暫く様子を見ながら撮影。
 お腹が空いたので近くのショッピングセンターでトイレ休憩を兼ねて、持ってきたおにぎりとタンカンを食べる。
 結局、沖縄防衛局前に着いたのは13時50分頃だった。寄り道したのもあるが、那覇から嘉手納のロータリーまで自転車で3時間以上かかった。
 防衛局の玄関前や芝生には、申し入れをしに中に入った代表を待つ人達が座っていた。14時を過ぎて、代表の方たちが防衛局を出てきた。建物の前にある芝生で車座になり、報告を聞く。
 辺野古移設の影に隠れる感じで、あまり取り上げられない東村・高江村のヘリパッド建設問題の詳細はやんばる東村 高江の現状で。高江を舞台にしたドキュメンタリー映画「標的の村」が全国を巡回している。
 報告を聞いた後、国道58号をまっすぐ走って那覇に帰る。今日一日で、6時間ほど自転車に乗っていたかな。
 防衛局への申し入れの様子が、こちらこちらに掲載されています。
 夜のニュース番組で、ネット上の仮想通貨ビットコインの大手取引所であるマウントゴックスが、東京地裁に民事再生法の適用を申請したと報じられた。記者会見でカルプレスCEOは「システム的に弱いところがあり、ビットコインがなくなった」と話していたが「いなくなった」に聞こえて、足の生えたお金が走って行く可愛らしい絵柄が頭に浮かんだ。それにしても泡のようなお金だな。写真は嘉手納基地内をランニングする兵隊。

2月12日(土)

 奄美・沖縄で過ごした4年間の写真データが、一昨日ようやく現像できた。昨年の2月初めから取り掛かったので、一年以上かかった。これから写真を探しやすくするためのインデックスというかリストを作成しなくてはいけない。これもちょっと手間がかかりそうだ。
 今年沖縄は本土復帰50年を迎えるが、鹿児島県の十島村(トカラ列島)は今月10日に本土復帰70年を迎え記念式典が開かれた。奄美群島も来年、本土復帰70年となる。
 一昨日時点で東京都の新型コロナの療養者数が約16万9000人となり、都民の約80人に一人が感染して入院か宿泊施設、或いは自宅で療養中の計算になるそうだ。

 この他の気になった記事を備忘録として。
石積みの一部が崩落 和泊町の県指定史跡「世之主の墓」
五輪番組字幕の内容は「誤り」とNHKが初めて認める ディレクターら懲戒処分
神宮外苑の樹木892本伐採して高層建築、賛成多数で承認 批判意見も「議論は十分尽くされた」 都審議会

 Photo Diaryを更新。
*2014年2月14日のPhoto Diaryはこちら
沖縄県議会の2月定例会での仲井眞知事
↑今日は12時15分から仲井眞知事の辞職と辺野古移設容認の撤回を求める県庁包囲行動が行われるが、その前に沖縄県議会で2月定例会が開催されるので傍聴に行く。
 定例会は10時からで、9時半頃に家を出て自転車で県庁へ。議会が行われる建物の1階で手続きをして傍聴券を貰い、本会議場のある5階へ。
 10時の始まりと同時に仲井眞知事に対して百条委員会を設置する緊急動議が出され、直ぐに定例会議は休憩になった。その後、11時に再開して百条委員会設置の提案説明があり、また休憩となる。
 議会が休憩に入ったので、県庁前広場へ。12時少し前に広場に着くと、既に市民、市民団体が集まっていた。12時15分から30分間、県庁を人の輪で包囲し「承認撤回」「辞任せよ」と書かれたプラカードを仲井眞知事の居る県庁の建物に突きつけた。
 包囲行動の後、横断幕とプラカードを持った数人の人たちが県庁のロビーに入ろうとしたところ、県庁1階入口の扉が封鎖され、抗議行動と関係のない一般県民も閉め出される形になった。
 13時過ぎに扉が開いたので県庁の地下1階にある食堂へ。250円のお弁当を買って食べる。議会は15時から再開される事になったので、それまで県庁の売店やロビーを色々と見学。
 15時前に本会議場に入ったが、始まったのは15時15分からだった。
「普天間飛行場代替施設建設事業に係る公有水面埋立承認問題等に関する調査の件」という難し気な議題になっているが、普天間に代わる辺野古埋立を承認した仲井眞知事に対する百条委員会を設置するか否かの討論が行われた。討論は6人が意見を述べた。公明県民無所属の議員1人と自民党議員4人が百条委員会設置に反対、社大党の議員1人が賛成の討論。1時間ほどで6人の議員の意見が述べられた後に採決がとられ、賛成多数で百条委員会が設置される事になった。
 とりあえず採決が終わったので本会議場を出る。家に帰る途中、スーパーで買い物。明日は降水確率が低いので、溜まった洗濯物をする。テレビのニュースは、先週に続いて首都圏を襲っている大雪情報を繰り返し伝えている。明日も荒れ模様のようだ。写真は沖縄県議会の2月定例会に出席した仲井眞知事。
*2014年2月15日のPhoto Diaryはこちら
2月15日のスナップ。三重城での十六日祭

↑今日は午前10時から県立図書館で「玉城朝薫と組踊」と題した大城 学(琉球大学法学部教授)氏の講座がある。
 早めに起きておにぎりを作り、昨日の残りのレンコンのきんぴらと一緒にタッパーに詰める。
 9時半頃に家を出て、自転車で県立図書館へ。図書館横にある知事公舎前の道には、今日も警備員が立っている。
 10時に10分ほど前に着いてエレベーターで3階のホールへ。空いている席に座って、机に配られているレジュメを読む。
 講座の内容は、A4のプリント5頁分のレジュメに沿って進む。プリントを読むだけでも内容は把握できるが、所々で大城氏からディテールの補足が行われる。大城氏の話しの後に、組踊のビデオを流し10分ほどの質疑応答で予定の12時になってしまった。レジュメがあったので講座で話された内容は理解し易かったが、質疑の時間がもう少し欲しかったと思う。
 以下に、自分なりに理解したことをまとめておく。

 嘗て琉球王国では、国王の代替わりがあるごとに中国から冊封使が訪れて冊封儀礼が行われた。冊封使は新国王に授ける王冠を携えて来ることから、彼らの乗る船は冠船(かんせん)と呼ばれた。この冠船の渡来は1404年から1866年まであり、その間に23回の冊封が行われた。中国から一度に500人ほどが渡来したが、船は南からの風で琉球に、北の風で中国に帰るため滞在期間は4カ月から8カ月に及んだ。
 冊封使が渡来すると琉球王府は前国王の弔いの儀式である諭祭之宴、新国王の認証儀式である冊封之宴の他、仲秋之宴、重陽之宴、餞別之宴、 拝辞之宴、望舟之宴といった7つの宴を催した。
 宴では音楽、舞踊、演劇で冊封使を持て成した。これらの芸能を総称して冠船踊、或いは御冠船踊という。王府は芸能を催すために踊奉行を設けたが、玉城朝薫は1718年に尚敬王から踊奉行に任命され、組踊を創作する。1719年の尚敬王の冊封の時に組踊の初演を行った。
 組踊は雅楽、能楽、文楽、歌舞伎と並ぶ国の重要無形文化財に指定されている。琉球方言の古語によるせりふを主として、音楽、所作、舞踊によって構成された芸能。朝薫の作品は「執心鐘入」「二童敵討」「銘苅子」「女物狂」「孝行の巻」があり、いずれも人気が高く『朝薫の5番』と呼ばれている。
 組踊の写本は60〜70ほど確認されており、一番古いものは宜野座村松田にあり、1818年の写本。

 組踊とは直接関係ないが、玉城朝薫の略年表で1701年、17歳の時に尚貞王の上意により童名(ワラビナー)を文彌と改名されるが、文彌は人形浄瑠璃の岡本文弥に肖って付けられたと思われるそうだ。ちなみに朝薫の生まれたときの童名は思五郎、唐名(カラナー)は向受裕。思わぬところで岡本文弥さんの名前が登場して面白かった。
 図書館を出ると、向かいの与儀公園に人集り。NPO法人プロミスキーパーズによる炊き出しが行われていた。ソーセージを焼いていて、ホットドックが配られるようだ。美味しそう。
 図書館の近くにある元気食堂で1つ30円の天ぷらを3個購入。自転車で農連市場近くの大平通りに行き道路で野菜を売っているおばあさんから1袋130円のミカンを買う。
 家で作って来たおにぎりときんぴら、今買った天ぷらとミカンを持って、那覇港近くにある三重城(ミーグスク)に向かう。
 2月15日の今日は旧暦の1月16日。沖縄では十六日祭(ジュールクニチー)と言われ、グソー(あの世)の正月とされている。お墓参りに行き、料理をお供えし、祖先がお金に困らないようにウチカビ(あの世のお金)を焼いて先祖供養をする。沖縄本島より宮古・八重山の方が盛んなようで、先月行った与那国島でも盛大に行われると聞いた。
 この十六日祭のためだけに与那国島へ行くお金も時間もないので思案に暮れていたら、離島出身者がこの日は三重城に集まり、それぞれの島に向かって遥拝をするという記事を見つけた。
 どれくらいの人達が集まるのか見当もつかないまま、13時頃に三重城に着くとお重らしきものを包んだ風呂敷を手にした人達が行き交っていた。
 三重城はもともと16世紀の後半に、倭冦からの防衛のために作られた。それが現在は遥拝所があり、香炉や香炉代わりのブロックがアチコチに置かれて御嶽のようになっている。
 途中、持ってきたおにぎりや買ってきた天ぷらを食べながら、1時間半ほど遥拝の様子を見させていただいた。拝んだ後、料理を食べながらゆっくりと過ごすのかと思っていたが、割りと早く帰られるので最初は不思議に思っていたが、次々に人が訪れるのでゆっくりしているわけにもいかないようだ。
 三重城からの帰り、波の上ビーチや若狭公園を通ると、こちらにも少ないけれどビニールシートを広げて十六日祭の遥拝をしている家族がいらした。十六日祭を知らなければ、それはピクニックのような光景だった。
 旧暦3月に行われる清明祭(シーミー)や、この十六日祭が”墓場のピクニック”と言われるのも「なるほどな」と思われる。写真は三重城での十六日祭の様子。

*2014年2月19日のPhoto Diaryはこちら
2月19日のスナップ。辻の二十日正月に登場したミルク
↑今日の天気予報は曇りのち雨。
 朝起きて、税務署に電話。昨日から確定申告の申告書を作成していたが、今年から復興特別所得税というものが加わり、その計算方法を教えてもらう。そう言えば先日送られてきた源泉徴収書を見ると、10%以上引かれているものがあった。この分が復興特別所得税分か。申告書を完成させて同封の封筒に入れて住民票のある税務署の宛名を書く。
 今日は旧暦の1月20日で、二十日正月(ハチカソーグヮチ)。この日、琉球の花街として知られた辻では神人による祈願と、じゅり馬行列が行われる。昨年初めて撮影させていただいた後、直会に参加させて貰ったので、そのお礼にA4用紙14枚のアルバムを作成。撮影がてら届けに行くことにする。
 昨年は午後2時から始まったので、今年も同じだろうと思い部屋を12時半頃に出る。すでに小雨が降っている。辻まで自転車なら10分ほどだが、途中にある郵便局で確定申告用紙を入れた封筒を出し、泊、前島、若狭と歩いてスナップを撮りながら向かう。
 辻の御嶽の前にあり、この祭りを執り行っている辻新思会に13時15分頃に到着。小降りの雨は止んでいた。すでに祭祀の現場でよくお見かけするカメラマンの姿がちらほら。
 13時半過ぎに神人の方が到着し、14時から祈願のための拝所巡りが始まった。順序は昨年と同じく1.辻新思会 出発 2.海蔵院(王女と王女の娘二人の位牌が収められています) 3.志良堂御嶽(辻むら全体のウタキ) 4.祝女井戸(ヌルガー) 王女の使用した井戸 5.石被(イシカブイ) インダカリの火神(匕ヌカン) 6.軸(ジク) 王女達が首里城に向かってお通し(御願)した場所 7.辻むら開祖之墓となっていた。
 御願の後は芸能の奉納。昨年は見れなかったミルクが登場した。プログラムは1.財団法人会・辻新思会理事長挨拶 2.ミルクうなり 3.赤馬節 4.春駒の会・浅香怜子さんの挨拶 5.ジュリ馬のスネイ 6.マミドーマ。最後に観客も一緒になってカチャーシーで締められた。赤馬節の時に雨が強くなったがジュリ馬スネイの頃には上がり、まずまずのお天気だった。
 御願の後は芸能の奉納。昨年は見れなかったミルクが登場した。プログラムは1.財団法人会・辻新思会理事長挨拶 2.ミルクうなり 3.赤馬節 4.春駒の会・浅香怜子さんの挨拶 5.ジュリ馬のスネイ 6.マミドーマ。最後に観客も一緒になってカチャーシーで締められた。赤馬節の時に雨が強くなったがジュリ馬スネイの頃には上がり、まずまずのお天気だった。
 行事が全て終わった後、辻新思会の事務所へ。奥にある祭壇に、昨年撮影した写真アルバムを奉納。今回もスーチカ(豚の塩漬)、ナマシグァ(生酢)、ジューシー(炊込御飯)といったお料理が乗ったお膳をご馳走になった。ビールや泡盛を呑みながらゆんたくしていると、いつの間にか22時。良い感じに酔っ払って辻新思会を出る。近くにあるステーキのMr.マイクで春駒親方にコーヒーをご馳走になってから、歩いて家に帰る。写真は辻の二十日正月の行事に登場したミルク。

2月9日(水)

 オミクロン株は罹っても軽症で済むという話が流布されているが、昨日は155人今日は162人と第5波のピーク時を超えて連日死亡者数が過去最多を更新している。今日の富山県内の新型コロナ感染者は409人で、初めて400人台となった。
 富山の大雪は治ったが、明日から明後日にかけて関東甲信や静岡県で雪や雨が降り、所によっては大雪になる恐れがあると気象庁が発表した。

 この他の気になった記事を備忘録として。
走り回る若者は「火の霊」 水かけて厄払い 辺野古の伝統行事の起源とは?
アベノマスクを雑巾や苗床に…厚労相「少し違う気がする」 政府は感染対策に推奨せず

詐欺メール
 毎日アマゾンや各種カード会社を騙る詐欺メールが何通も届くが、今日はアマゾンを騙る新しい手口の詐欺メールが届いた。これまでは<注文状況をご確認下さい>や<お支払いの問題に関するお知らせ>というメールだったが、今回は500円OFFクーポンのプレゼントキャンペーン。
 クレジットカードは持たない主義なので、カード会社を騙る詐欺メールは即座にゴミ箱行きだが、アマゾンは実際に利用するので一瞬ホンモノ?と思ってしまう。そこで、実際にアマゾンが出したメールか確認した。アマゾンのサイトの上部にあるアカウント&リストをクリックして、アカウントサービスを表示するとメッセージセンターという項目が見つかる。ここをクリックするとアマゾンが自分宛に出したメールの記録が表示される。もちろん500円OFFクーポンの案内メールなど存在しなかった。
アマゾンのアカウントサービス画面
 Photo Diaryを更新。
*2014年2月1日のPhoto Diaryはこちら
2月1日のスナップ。徳仁港でのハチウクシーの祝宴

↑正月二日目はハチウクシー。年頭の仕事始めの儀式が行われる日で、漁師は船に大漁旗を掲げ、塩、お酒、刺身を供えて航海安全と大漁祈願をお願いする。
 早朝に行われる祈願を見ようと、起きて顔も洗わないまま7時頃にセンターを出て直ぐ近くの徳仁港へ。港には昨日の内に大漁旗を取り付けた船が一隻。しばらく様子を見ていたが祈願の行われる気配がないので、一旦センターに戻り歯を磨き、顔を洗う。
 久高島の港は、フェリーが発着する徳仁港と漁港の2つある。顔を洗って今度は漁港の方へ行ってみた。7時半頃に着いてしばらく待っていると、親子と思われる漁師が港にやって来た。父親の方は塩とお酒、刺身を乗せたお盆を風呂敷に包んで手に提げている。撮影のお願いをして、その様子を見せていただいた。船の要所要所に塩をまき、酒を振りかけ、お刺身を供え祈る。その後も途切れる事なく漁師さんがやって来て、同じように祈願を行った。ちなみに漁に出るのは旧暦1月5日からだそうだが、現在は人それぞれで正月から漁をしている人もいる。
 9時頃になると漁港の建物の中で宴会が始まった。漁港から大里家、外間殿を通り集落の中をスナップを撮りながら歩いて徳仁港へ戻ると、こちらでも港の端の方で宴会が始まっていた。
 宴会はまだ始まったばかりのようで、今なら参加費は500円、もう少しすると1000円になるというので早速参加させていただいた。お酒飲み放題に、お刺身と大根の入った魚汁、後からシャコガイの刺身と伊勢エビも出て来た。途中からやって来た三線と太鼓と歌が、宴会を盛り上げる。カチャーシーの踊り手一番手は区長さんだった。
 9時半頃から12時過ぎまで参加し、缶ビール2本でほんのり酔っぱらったので一旦総合センターへ戻り、ソファーに横になって昼寝をする。1時間ほど寝てから徳仁港へ行ってみると宴は終わり、片付けられていた。今度は漁港へ行ってみると、こちらは建物の中に大きな円陣が組まれて酒宴の真っ最中だった。缶ビールを一本ご馳走になり、一時間ほど宴会の様子を撮影させてもらう。
 港を出て海沿いの道を散歩。海ぶどうの養殖場を過ぎてしばらくすると久高島の墓地があった。以前から久高島の墓地はどこら辺にあるんだろう、観光客の目につかない場所だろうかと考えていたから、いきなり目の前に現れたので少し驚いた。

トゥシアマイ ナイビタン
ティラバンタ ウシュキィティ
ヒッチハタバルヤ
ナミヌシュル タチュル
ナミヤハタバルヤ
ヒブイ タチュサ
ニルヤリューチュ ウシュキィティ
ハナヤリューチュ ウシュキィティ
フガニジャク ハミヤビラ
ナンジャジャク ティリヤビラ
 寿命になりました。葬所に来ました。潟の波のごとく肉体が腐乱し、溶け、煙となり、昇天し、そうしてニラーハラーに到着、金杯、銀杯を受けましょう。

 
 この詩は「神々の古層 女が男を守るクニ 久高島の年中行事1」にあとがきに代えて載せられた「ある神女の死」と題された文章の冒頭にある葬送歌だ。ある神女とは、外間ヌルの補佐役として長年にわたり久高島の祭祀を伝承してきた外間ウメーギ・西銘シズさんのことである。1989年4月20日の朝に西銘シズさんは本島の病院で亡くなられ、21日に葬儀が行われた。その葬儀の様子が綴られている。

ー略ー
 久高島ではクニガミと言われる神人ー外間ヌル、久高ヌル、根神、ヌル根神のウメーギ、外間根人、久高根人、ファガナシー、アマミヤーが亡くなると、冒頭で記したような葬送歌が歌われる特別な葬儀がおこなわれる。
 当日朝、五十歳以上の男・ウプシュたちによって作られたブン(船)と呼ばれる木棺に納められた亡軀は、アカウマー、つまり沖縄本島あたりでいうガンで葬所に運ばれる。
 シズさんの出棺の時には雨があがり、太陽も出て真夏のようなうだる暑さになった。
 葬列の先頭は、ハチマチ(王府時代に士族が用いた冠と同形のもの)に着物の正装をした龍宮神・ソールイガナシー(男神職者)二人である。その後にティンゲー(龍頭のようなものを棒の先につけたもの)持ち、旗(紙製の白旗)持ち、ウプシュたち、そのあとにアカウマーがつづく。最近、アカウマーには車輪がとりつけられて引っぱるようになっているが、以前は親戚から選ばれた七名の男たちによって担がれた。アカウマーの後方から親戚の女たち、それに白衣のヌル以下のヤジク(神女)たちがつづく。鳴り物など一切なく、葬列は静かに進む。トゥグゥ道という葬儀の道を過ぎると、ムラはずれである。
 しばらく行くと十字路になっているが、ここまで来るとアカウマーをおろし、アカウマー担ぎの七名の男たちがその場で東方に向かって座し、合掌する。全参列者も東方に向かいこれに和す。
 シズさんが生前私に話していたことだが、この場面は、久高島の他界と考えられているニラーハラー(ニライカナイの久高読み)に対して「○○生まれの者がこれから行きます」という報告である。
 ニラーハラーは海の彼方、太陽の出づる処であると考えられている。
 数分でこの報告を終わると、葬列は久高島のグゥソーに向かう。久高島のグゥソーは島の西海岸沿いにある。
  グゥソーの入口まで来ると、ティンゲー持ち、旗持ち、アカウマー、それに親戚の人たちが墓に進む。他の参列者は立ちどまってアカウマーを合掌して見送ると解散し、ミガーという井泉で禊をして帰宅する。
 シズさんは墓がなかったので、死後、島の人々の共同作業によって、アダンの濃緑色の葉陰に造られてあった。墓に納める前にもう一度お棺が開けられ、親近者との最後の別れがあった。私もそれに立ち会った。
 冒頭の葬送歌にもあるように、久高島における墓は肉体を消滅(腐乱)させるための場所であり、その魂は煙となって飛翔し、前述したニラーハラーに行くのである。そうしてイザイホーを経験した神女たちは、再び島の守護神として島のウタキに帰ることになる。
 シズさんは生前、久高島の祭祀のリーダー的存在として、島のために人生のほとんどを捧げてきた。きっと早いうちに他界・ニラーハラーから島のウタキに帰り、今度は直接の守護者として島を守ってくれることと思う。私はそう自分に言い聞かせて、シズさんと最後の別れをした。

 比嘉康雄さんの書かれた「神々の古層」全12巻の中で、この西銘シズさんについて書かれた「ある神女の死」が一番好きな文章だ。文章はこの後シズさんの死から繋がって、危機に直面している琉球弧の祭祀全体に及ぶ。引用した箇所も含めて、それらは示唆に富んだ内容になっている。
 墓地を過ぎてヤグルガーの標識が立っている所まで行き、また同じ道を通って集落まで戻って来た。歩き疲れたので、もう晩ご飯を食べて総合センターへ戻ろうと思っていたら目の前を三線と太鼓を持った青年達が通り過ぎて行った。青年達の後に漁港で見かけたオジさんがいらしたので聞いてみたら、漁師の家を一軒一軒まわって酒宴をしているという。着いて行ってもいいというので、くっ付いて一軒の家にお邪魔した。
 通りすがりの私にも刺身と煮物、ビールが振る舞われた。青年達が祝いの席で最初に演奏される「かぎやで風」を奏でる。久高島の中学校の校歌も歌われた。
 一時間ほどで酒宴はお開きとなり、一行は次の家へ向かう。この家回りをヤーミグルーと言うそうだ。
 ヤーミグルーは一軒だけ参加させてもらって、総合センターへ。隣りにある食事処とくじんでテレビを観ながら沖縄そばを食べて、センターに戻る。撮影データをバックアップし、メモを書く。
 日も暮れた頃から小雨が降り出した。テレビの天気予報では、明日は曇り時々雨。
 昨日まではセンターの宿泊所に長年に渡り久高島の祭祀を撮影している映像監督の方が泊まっていらしたが、今日の午後に帰られた。広いセンターに一人ポツンと居るのも、なんだか寂しい。
*本日の出費。港の宴会参加費500円、沖縄そば600円、ミルクティー150円。写真は徳仁港でのハチウクシーの祝宴。

*2014年2月2日のPhoto Diaryはこちら
2月2日のスナップ。外間殿での神事

↑お正月三日目。昨日の夕方から雨が降り続いている。朝起きて、昨日のメモの続きを書く。
 今日は元旦と同じく外間殿でシャクトゥイが行われるが、何時からだかわからないので9時頃に行ってみると神人の方が一人いらした。他には誰もおらず始まる気配がなかったので、総合センターに忘れてきた雨合羽を取りに戻る。リュックの中に常備している折り畳み傘では小さいので、センターに置いてあったビニール傘もお借りする。
 9時半頃になって他の神人の方々も集まり、10時前に外間根人(ニーチェ)も外間殿に到着された。10時になって殿の中でミッチャヌスク(三日目の盃事)が行われた。以下に「神々の古層」より儀式の詳細を引用させていただくが、変容している部分もあるかもしれない。
ミッチャヌスクヌウフケー
 朝、外間殿においておこなわれる祈願。参列者の座順、服装は元旦と同じである。高膳四つ、ファーシブンという特製の膳二つにンパイ(おにぎり)、大根と魚の煮付け、泡盛がのせられ、外間殿の神座に並べられる。
 この供え物で、1火神 2ミウプグゥイミンナカ 3床ヌ神 4ティントゥジーキ 5外間根屋(ニーヤー)の始祖に対して外間ヌルが司祭しておこなわれる。根神がヒヂャイグゥマ(左側)で主司祭者である。

シャクトゥイ開始の祈願
 イキガジャク、ンナグゥジャク用の酒とタルマミキをファーシブンで供え、1火神、ミウプグゥイミンナカに外間ヌル、根神が司祭して祈願がおこなわれる。ひき続き三日のシャクトゥイがイナグゥジャクから開始される。

 11時頃になって神人のシャクトゥイに続き、男性のシャクトゥイが始まった。元旦の時と同じように二人一組で殿に上がり盃事を行った後、庭に出てカチャーシーを踊る。若い神人も2度ほど庭に下りてカチャーシーを舞った。
 元旦よりも列席者が少なかったので12時前にはシャクトゥイが終了し、区長さんの挨拶があり、その後は久高島出身の高校生が友達と一緒に琉球舞踊を踊ったり、カチャーシーを踊って楽しんだ。
 12時半頃に神事を終えた神人の方々が殿を去り、家路につかれる。朝から降ったり止んだりの天気でテントは濡れているので仕舞う事ができない。とりあえず下に敷いたゴザや空き缶を片付ける。一通り終わると供物のおにぎりや刺身、焼き魚をご馳走になった。
 今日もヤーミグルーがあるようで、区長さんからお誘いを受けて14時に留学センターを訪問。テーブルには生徒たちが作ったご馳走がいっぱい並んでいた。
 センター長さん、区長さん、島の青年の代表の挨拶があり、久高小中学校の校長先生の音頭で乾杯。料理をつまみ、泡盛をいただきながら楽しませてもらった。
 思いがけず長居をして20時過ぎにセンターを出る。ポツーンとある僅かな街灯の明かりを頼りにセンターまでの道をほろ酔い加減で歩く。メモを書く気力も、撮影したデータをバックアップする気力もないので、那覇から持って来た泡盛をちびりちびりと呑みながらインターネットを徘徊。寝袋に入ったのは23時頃だろうか。
*本日の出費。外間殿での寄付1000円。写真は外間殿での神事。かまど(竃)の方に向かって祈願している。イスに腰掛けている男性が外間根人(ニーチェ)。

*2014年2月3日のPhoto Diaryはこちら。(久高島から那覇へ)
*2014年2月10日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダからの那覇市内、オスプレイ、ミートスパゲティ)
*2014年2月11日のPhoto Diaryはこちら
2月11日のスナップ。高江サウンドパレードの様子
↑今日は、キャロライン・ケネディ駐日米大使の来沖に合わせて県庁前広場と国際通りで県庁前Picnic! &国際通り高江サウンドパレードと題したイベントが行われた。
 県庁前ピクニックは12時〜15時半だが、着いたのは15時少し前。フラダンスが終わり、日本鱗翅学会自然保護委員というアキノ隊員のスピーチが始まる頃だった。
  沖縄の北部やんばるにある高江の森の中に、オスプレイの利用も含む米軍のヘリパッドが6つ建設されようとしている。1つ目は昨年既に完成し、現在2つ目の建設に入っている。このヘリパッド建設に伴う高江の自然への影響についてアキノ隊員によって書かれた文章がこちら→「やんばる東村高江の自然と米軍ヘリパッド建設計画」。
 辺野古は先月の名護市長選が全国的に放映されたので知ってる人も多いだろうが、高江にある米軍の北部訓練基地の問題はあまり知られていない。今回は高江という場所の存在をアピールすることから始めるイベントのようだった。
 国際通りでのサウンドパレードが16時からで、まだ時間があったので県庁近く松尾の辺りをブラブラと散歩する。坂やスージグワー(路地)が多い那覇の散策は、とても楽しい。壁に直接描かれた看板、なんで?と思うようなパステル・ブルーに塗られた瓦屋根の民家。チャンプルーな町並みは、歩いて直ぐに、ここは東南アジアの入口だと感じさせてくれる。
 県庁前広場で「ワイド節」他民謡を唄って景気づけをしてから、国際通りをパレード。およそ1時間をかけて通りの端から端まで歩く。途中から雨が降り出したが、パレードが終了する頃には止み、ご褒美のようなくっきりとした虹が出た。
 自転車を県庁の方に停めてきたので、所々より道もしながら歩いて戻る。写真は国際通りでのサウンドパレード。
*2014年2月12日のPhoto Diaryはこちら。(ロッテのラミー)

2月6日(日)

 立春が過ぎたが昨日から雪が降り続いていて、春の気配はまだまだ遠い。今日は今季一番の大雪かもしれない。
今日の積雪
↑今日の積雪。↓奄美大島の紅葉。
奄美大島の紅葉

 ところで、奄美大島はそろそろ紅葉が終わる頃だろうか。亜熱帯の島に紅葉はないと思っている人も多いようだが、1月末から2月初めにかけてシマサルスベリやイヌビワ、アコウなどの葉が色づく。内地の紅葉とは趣が違うが、筆でペタペタと色を置いたような亜熱帯の紅葉も面白い。
 そして、1月から2月中頃は桜の季節。ソメイヨシノのような淡いピンクではなく、濃いピンク色(中には白い花びらもある)の花を咲かせる緋寒桜が山を彩る。
 上の写真は、サバクリ人さんが主催した大和村方面の紅葉観察会でのもの。2012年1月21日撮影。

 大阪ミナミの法善寺にある水かけ不動尊。その両脇に立つ石像の頭と顔についていた苔が何者かによって剥がされた。剥がした人物に悪気はなくキレイにして上げたかったそうだが・・・。右の写真は2010年6月に撮影した、水かけ不動尊。手前の赤い前掛けをした石像の苔が剥がされたようだ。

法善寺の石像
 昨日から北京オリンピックが始まった。テレビ番組はオリンピックにシフトしていて、普段観ている番組のいくつかがお休みとなり、これからしばらくテレビを観る時間がもっと少なくなりそうだ。
 Photo Diaryを更新。
*2014年1月14日のPhoto Diaryはこちら。(与那国島から那覇へ)
*2014年1月16日のPhoto Diaryはこちら。(新しく買った自転車のスタンドのバネ、那覇の空)
*2014年1月17日のPhoto Diaryはこちら。(薬と診察券、森山大道写真展の前売り券)
*2014年1月18日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダからの那覇の空)
*2014年1月19日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダからの那覇の空、名護市長選のテレビ中継)
*2014年1月20日のPhoto Diaryはこちら。(出版社との誓約書、アップルパイ)
*2014年1月24日のPhoto Diaryはこちら。(沖縄県立博物館・美術館、エレベーターの修理、チーズケーキ)
*2014年1月27日のPhoto Diaryはこちら
1月27日のスナップ。どんとのイベントで歌う照屋政雄さんと前川守賢さん
↑今日はどんとの命日(亡くなったハワイでは27日で、日本時間では28日のようだ)。宜野湾市にあるカフェユニゾンで「みんなでどんとをうたおう!」というイヴェントが行われる。いつか、昔撮影した彼の写真をパートナーである小嶋さちほさんにお渡ししたいと思っていたので届けに行く事にした。イヴェントにはゲストで前川守賢さん、照屋政雄さんも出演する。昨年の11月30日に栄町市場の感謝祭で撮影した守賢さんの写真もお渡ししたかった。 
 イヴェントの開始は19時半からだが、途中にある牧港の外人住宅や普天間飛行場周辺の写真も撮りたかったので、14時頃に家を出る。曇り空だけど風もなく、自転車で走るには丁度いい天気だ。
 近所のコンビニで電気料金を支払い、泊の魚市場の横を通り浦添市へ。国道58号線に入って北上し、創価学会の建物の横の道を進むと目指す外人住宅があった。
 綺麗にリフォームされた建物はカフェやレストラン、雑貨屋さんになっている物もあるし、個人のお宅として使われている物もある。空き物件もあるようなので、ネットで調べてみたら15万円前後で借りられるようだ。
 3時頃に外人住宅に着いて、1時間ほど写真を撮りながら散歩をして、再び国道58号を北上。普天間の大山ゲートを通り過ぎて、伊佐の交差点を右折。普天間でいご通りを進むと、右手にカフェユニオンの入っている建物があった。まだ17時で、会場の19時までたっぷり時間があるので自転車で町中を走っていると、大きなエンジン音が聞こえてきた。音のする方へ行ってみると、暫くして目の前の林からオスプレイの隊長機が空へ上がって行った。
 自転車を置いて普天間中学校、普天間第二小学校の横を歩いて行くと、基地のフェンスにぶつかった。フェンスに沿って野嵩ゲートへ。ゲートの横では毎週月曜日にゴスペルを唄う会の人達が、準備をしていた。一年ほど前に野嵩へ来たときも、偶然ゴスペルを唄う日だった。
 野嵩ゲート周辺を写真を撮りながら歩き、ゲート前に戻ってくると歌が始まっていた。歌っている人達の横を通り過ぎ、自転車を置いた場所まで戻る。お腹が空いたので近くのスーパーでサンドイッチを一つ買って食べて、カフェユニオンに向かう。
 リハーサルが少し押したようで、19時を過ぎて開場。店内にいらした小嶋さんに、どんとのプリントを入れたファイルをお渡しする。プリントは1992年にレコード会社で撮影したポートレートと、同じ年に行われたウオーマッド’92でのボ・ガンボスのライヴ。そして1991年にドミニカ共和国から来日したガールズ・グループ、ラス・チカス・デル・カンのステージに小嶋さんとゼルダのサヨコさんが飛び入りで一緒に踊っている写真もサプライズで入れておいた。その後、小嶋さんに控えのスペースで休んでいらした守賢さんを紹介してもらい、栄町市場での写真をお渡しする事ができた。照屋政雄さんもいらしたので、今日は「ちょんちょんきじむな〜」は歌われますかと尋ねると、歌いますよと言って笑われた。
 奄美や沖縄の島唄、民謡のサンプルCDが時々レコード会社から送られてきていた時期があって、その中に照屋政雄さんのCDがあった。聴いた瞬間”ちょんちょんちょんちょん”のフレーズが頭の中をぐるぐるこだまして、強烈な印象を残した。
 19時半からイヴェントがスタート。先ずは沖縄に移住してから親しくしていた前川守賢さん、照屋政雄さん、天然酵母のパンやさん宗像堂のご主人がステージに上がり、一人ずつどんとの思い出を語る。その後、ボ・ガンボスの様々なライヴを一つに編集した映像の上映会。
 イヴェントのタイトル通り、各人がどんとの曲で好きなものを歌うコーナーがあり、小嶋さん、守賢さん、照屋政雄さんのミニ・ライヴが行われた。最後は守賢さん、照屋政雄さんの歌で踊る贅沢なカチャーシー。終了したのは23時過ぎだった。
 イヴェントの途中に一度外に出ると雨が降っていた。まだ降っていたらイヤだなーと思って外に出ると、雨は上がっていた。お店の前に停めて置いた自転車のサドルが濡れているのでタオルで拭いて、那覇へ向かってゆっくりとペダルを漕ぐ。自転車で帰るには寒いかなと少し心配していたが、長袖のTシャツの上に厚手のシャツ、ヨットパーカーでも夜のサイクリングは大丈夫だった。
 普天間から自宅までゆっくり自転車を漕いで1時間半ほどだった。エレベーターはまだ調整中で、駐輪場に自転車を停めて8階まで階段を上がる。お腹が空いたのでインスタントの塩らーめんを作り、今日撮影した写真データをバックアップ。
 照屋政雄さんのミニライヴは、どんととの思い出の曲を歌われて「ちょんちょんきじむな〜」は登場しなかった。是非、生で聴いてみたかったんだけど。こんな曲です→You Tubeから「照屋政雄 チョンチョンキジムナー」「ちょんちょんきじむな〜さんしんの日」。写真はどんとのイヴェントで歌う照屋政雄さんと前川守賢さん。
*2014年1月29日のPhoto Diaryはこちら。(エレベーター)
*2014年1月30日のPhoto Diaryはこちら
1月30日のスナップ。外間殿でのハカイメー(供出)の様子
↑明日が旧暦の元旦。新年の行事を見るために、今日から久高島へ。 
 家を7時半頃に出て、那覇バスターミナルへ。8時7分発の志喜屋線で、安座真サンサンビーチに向かう。久高島へ行くフェリーは9時だが、フェリー乗り場についたのが9時10分。どうもバスとフェリーの乗り継ぎがよくない。次の10時出航のフェリーまで待合所で朝作ってきたおにぎりを食べながら待つ。
 10時のフェリーに乗り、10時半に久高島に到着。今日から総合センターのホールに泊めていただく事になっているが、天気が良いので港の横の公園でしばらくベンチにゴロンとなってお昼寝。12時過ぎに区長さんに電話を入れて、ホールの隅に荷物を置かせてもらって祭祀の行われる外間殿へ。
 13時から元旦行事の準備が始まるが、少し時間があったので宿泊交流館の資料室の展示を見る。13時頃に外間殿に着くと、区長さん他、数名の方がいらした。手伝いの方がだいぶ揃ったところで男性はテントの設営、女性の方は殿の掃除を始められた。テントの設営を手伝いながら、準備の様子を撮影させていただく。
 14時になってハカイメー(供出)が始まった。集落の方が泡盛の瓶を持って殿を訪れる。供出は男性一人につき、泡盛をグラスに1杯と100円。嘗て神女が大勢いらした頃は、神女がお米を供出していた。
 お手伝いをしながら写真を撮っていると、上空をヘリコプターが飛んでいる。直ぐ近くに着陸したようなので見に行くと、宿泊交流館裏手の広場にドクターヘリが停まっていた。92歳のおじーさんが倒れたようだ。しばらく心臓マッサージをした後、ヘリコプターに乗せて本島の病院へ飛んで行った。
 その後も、殿では明日の準備が行われていた。日の丸の旗を揚げたり、島の生徒たちは道にプランターを並べたりしている。
 16時半頃になり準備が完了。区長さんに連れられて留学センターの厨房で、島の子供達がウサイ(御馳走)作りをしているところを撮影させてもらった。
 30分ほどウサイ作りを見学した後、区長さんの家でご飯とビールを御馳走になる。お刺身とサバの煮付け、ご飯はお供えしてあったもので平べったいおにぎりの上に、小さな丸いおにぎりが3個乗っかっている。
 ビールを飲みながら、区長さんに島の事を色々と教えてもらう。缶ビール2本でほろ酔いになったところで、総合センターに帰る。ソファーを2つ並べて簡易ベッドを作り、今日撮影した写真データを外付けのハードディスクにバックアップ。写真を見ながら、今日のメモを書く。
 粟国島ではマースヤーで、今頃は子供達が字の家々をまわっているだろうと思いながら、他に誰もいないシーンとしたホールで泡盛をちびちびと呑んでいた。
*本日の出費。那覇バスターミナル→安座間サンサンビーチ760円、安座間港ー徳仁港往復1240円。写真は外間殿でのハカイメー(供出)の様子。供出は男性一人につき、泡盛をグラスに1杯と100円。
*2014年1月31日のPhoto Diaryはこちら
1月31日のスナップ。旧正月の真実、シャクトゥイ(盃事)の後、殿の庭でカチャーシーを踊る
↑いい そーぐゎち でーびる。快晴です。
 那覇から持って来たバナナとドーナツで朝食。8時過ぎに総合センターを出て、日の丸の旗を掲げた家並みを撮影しながら歩く。大里家の入口に続く道には、真新しい珊瑚が敷き詰めてあった。30分ほどで外間殿に着くと、神人の方が殿を清めたり供物の準備をされていた。
 9時を過ぎた頃に。久高島の神人が一人また一人と外間殿に歩いていらした。9時20分過ぎに、今ではただ一人の男性神職者である外間根人(ニーチェ)が到着された。
 9時半になって一番若い神人の女性が庭から殿に向かって神謡(?)を歌った。後日、祭祀のお手伝いをされている女性に彼女が何を歌っているのか尋ねたが、私には分らないと言われる。
 突然<降りて来る>ままに彼女は歌っているようだ。それにしてもその歌声は堂々として、ある種の威厳すら感じさせる。何かで覚えたという風ではなく、それは自信に満ちた声だった。
  その後、神人が揃って殿の中に座り、竃の方へ向かって合掌祈願。この後シャクトゥイ(盃事)で使われる高膳に銀杯を乗せたものが前に置かれて、拝まれている。
 10時頃から昨日庭に設営したテントに座っている島民、旧正月で帰省した人達に刺身と大根を和えたものと、飲み物が配られた。テントの後方に設けられた受付で1000円支払えば、観光客も同じように振る舞われる。
 外間殿の横に設置されたテントには地謡が座り、三線、太鼓、歌で音楽を奏でる。10時半になってシャクトゥイが始まった。
 現在ではかなり変容していると思われるが「神々の古層 女が男を守るクニ 久高島の年中行事1」から引用する。
シャクトゥイ(盃事)
 これは、外間ヌルと根神に対して酒杯をさしあげて一年じゅうの健康を頼むというもので、男は根人や神職者以下十六歳から七十歳までの正人(しょうにん)、女はソージヤク以上のヤジクが参列し、ナンチュは参列しない。
 元旦は男からはじめて女、三日は女からはじめる。男の盃事をイキガジャク、女の盃事をイナグゥジャクという。男の場合はまず根人、男神職者、年長者順に正人、最後は村頭である。二人一組になり、神職者は位の高い者が外間ヌル、低い者が根神と相対し、正人は年長者が外間ヌル、年少者が根神と相対する。
 盃事は前図のとおりおこなわれる。数字は順序である。男の場合は泡盛で、特製の高膳に銀杯を二つのせてさしだす。受けた者は左手で高膳ごと受け取り、右手で右側の盃から順にいただき、いったん高膳を置いて空けた盃に酒を、これも右側から順に注いで返盃をする、という形式でおこなわれる。
 二人一組の盃事が終わると外間殿の庭で必ずカチャーシー舞をする。三線、太鼓、手拍子が鳴り、いやがうえにも正月が華やぐ。神職者の盃事のときには居神たちによってガチントゥヘーナという神謡が半唱される。なお根人の盃事のときにはアガリナーヌヘーナという、太陽と交わり子供を産むという内容の神謡が歌われたという。
 終わると、出稼ぎ、就学などのために盃事に出席できなかった者のために、その身内の者などによって盃事がおこなわれる。これを旅ジャクという。男の盃事が終わると小休止になり、男たちは祭場を去る者もいる。
 女の盃事は両ウメーギからはじめられ、居神、タムトゥ、シュリユリタ、ソージヤクの順におこなわれる。全員終わると外間ヌルとウメーギが庭に出てカチャーシーを舞い、盃事の儀式をしめくくる。残っていた男神職者、ウプシュたちは祭場を去る。残った女たち全員に、ンモーカシーと煮魚のふるまいがある。午後四時ごろに終わる。

 10時半頃から始まったシャクトゥイを、撮影しながら見学。途中、受付で1000円を支払い料理と飲み物をいただいた。シャクトゥイの合間に、久高中学校の生徒が音楽祭に出場して賞を貰った事が報告されたりした。
 シャクトゥイは続いていたが、13時過ぎに外間殿を出て集落を少し散歩。大里家に行くと、拝殿で御願が行われていた。大里家からぶらぶら歩いてハンチャアタイへ行くと、先ほど大里家の拝殿で御願をしていらした方々がハンチャアタイでも御願を始められた。
 14時少し前、ハンチャアタイで御願をしている横を外間根人(ニーチェ)がゆっくりと歩いて行かれた。もうシャクトゥイは終了したようだ。
 14時過ぎに外間殿に戻るが、テントの中にお酒を呑んでいる男性が数人残っているだけだった。宿泊交流館の資料室に見た事のない写真集が何冊かあったので見せてもらう。15時頃に交流館を出て、一旦総合センターに戻り撮影データのバックアップ。少しソファーで横になってから17時過ぎにカメラをぶら下げて散歩に出かける。
 外間殿から久高殿、そして漁港の方へと歩く。漁港に停泊している船の何隻かには、既に大漁旗が取り付けられていた。今日もほとんど雲のない青空で、半袖のTシャツ一枚で過ごせる。夕日を見ようとキャンプ場へ。久高島からだと太陽は本島に沈んで行く。太陽が沈んだのを確認して、晩ご飯を食べに食事処とくじんへ。食堂のテレビを観ながら野菜炒め定食を食べる。
 食べ終わり、向かいにある総合センターへ戻ってシャワーを浴び、撮影データをバックアップし、メモを書く。
*本日の出費。外間殿での寄付1000円、野菜炒め定食700円。写真はシャクトゥイが済んだ男性が殿の庭でカチャーシーを踊る様子。

2月3日(木)

 旧暦の元旦だった一昨日の2月1日、作家で元東京都知事の石原慎太郎氏が亡くなった。直後からテレビや新聞が一斉に石原氏の訃報を報じ、識者や評論家がコメントを寄せていた。彼の数々の暴言を”歯に衣着せぬ”とか”慎太郎節”などと表現している人も多くて、驚いた。それとは対照的に、アメリカのメディアは彼の発言を、きちんと性差別、人種差別と指摘しているようだ。
 個人的には暴言や愚挙の多かった人だと思っているが、中でも印象に残っているのは2012年の衆院選の際の街頭演説で拉致被害者は9条のおかげで見殺しにされたという見当違いの意見と、同じく2012年の4月に突如として尖閣諸島を東京都の予算で買い取る方針を示した事だ。
 2012年当時、日本維新の会代表を務めていた石原慎太郎氏が街頭演説で「例えば、横田めぐみさんとか200人以上の人たちが拉致されて殺されたのに、その証拠があったのに、当時の日本はそれを返せと北朝鮮に強い態度 で臨めなかった。9条のおかげで見殺しにした。あんなものがなければ、日本は返さなかったら戦争するぞと、攻めていく姿勢で取り戻せた」と述べている。
 拉致被害者を見殺しにしたのは憲法9条のせいだろうか?今でこそ日本政府は拉致問題に取り組んでいるが、おそらく1970年代から始まったと思われる北朝鮮工作員による日本人拉致事件を認めて来なかったのは、この国の政府だったのではなかったか。
 日本人拉致問題が初めて国会で取り上げられたのは1980年、民社党が当時の竹下首相に拉致事件は北朝鮮によるものではないかと指摘し、真相究明を求めたのが1988年と言われている。それまでこの国は拉致被害者の存在すら認めず救済に動くこともなかった。憲法9条のせいにしてはいけない。
 憲法で敵国のミサイルは止められないが、憲法でバカな為政者の暴走を止めることはできる。そのことによって憲法9条は国民の命、自衛隊員の命を守っている。
 石原氏の都の予算で尖閣諸島を買い取るという発言に、当時の民主党・野田佳彦首相が揺さぶられて2012年9月に国が所有者から20億5000万円で購入し、国有化した。この年の6月から沖縄の那覇市に住んでいたが、尖閣の国有化直後から那覇市の上空を自衛隊のステルス機が緊急発進することが急激に増えた。尖閣をめぐる日中間の問題は一層深刻化した。
  尖閣棚上げ論というのが日中で交わされたという野中広務・元官房長官の証言がある。「こういう問題は、一時棚上げにしてもかまわないと思います。10年棚上げにしてもかまいません。 我々の、この世代の人間は知恵が足りません。この問題は話がまとまりません。次の世代は、きっと我々よりは賢くなるでしょう。そのときは必ずや、お互いに 皆が受け入れられる良い方法を見つけることができるでしょう」という内容だ。
 国内では中国船が領海侵犯をしたというニュースを報道し脅威を煽るが、棚上げ論が存在したとすれば、中国から見れば一方的に現状変更し国有化した日本こそ悪となる。
 国有化したのは野田首相だが、石原氏が都の予算で尖閣を買い取るなどという揺さぶりをしなければ、今とは違った日中関係になっていたのではないだろうか。
 石原氏が政治家として公に登場した最後は、豊洲市場への移転で汚染された土地の売買をめぐる問題を追求された2017年だろうか。政界は引退していたが、都知事時代の責任を問われての追求だった。この時の石原氏の答弁は、酷いというより情けないものだった。結局、成功は自分の手柄で、失敗は他者のせいにするという身勝手な人だという印象を強く受けた。

 さて、石原慎太郎氏が亡くなった2月1日に、南西諸島を軍事拠点化する日米共同作戦計画に反対する「ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会」が発足した。 会では賛同者・呼びかけ人を募集している。せっかくなので、呼びかけ人に登録した。

 大量在庫が問題となっているアベノマスクだが、今度は配布希望の殺到により配送料が10億円に上るとの試算があることが分かった。配布せずに全て廃棄した場合は6000万円程度の費用で済むという。バカなトップのバカな施策により、無駄なお金が湯水のように流れていく。

 東京都では2日続けて2万人を超える新型コロナ感染者が確認され、全国では初の10万人越えとなった。富山県は初の300人台

 この他の気になった記事を備忘録として。
検査なしで「みなし陽性」、県も導入 コロナ感染者の同居家族ら
近田春夫、鳥取県で出土した「青谷弥生人」のそっくりさん特別賞に
設置から20年、ようやく「壁」撤去 産廃からの再生道半ば 豊島

写真を飾る

 先日撮影したポートレートのプリントをしなければならなかったので、ついでに部屋に飾る用の写真も一枚プリントした。相変わらずパソコン画面と睨めっこする日々なので、画面から視線を上げた時にキレイな風景があればと選んだ。
 選んだ写真は雪景色の中を走る高山線の電車で、岩稲の本芳彦弘さん宅の伝統行事「お鍬さま」の取材帰りに撮った。↓が元画像。

飾った写真のオリジナル
 Photo Diaryを更新。
*2014年1月11日のPhoto Diaryはこちら
1月11日のスナップ。浦野墓地
↑今日は嶋仲公民館主催の五穀豊穣を願うンマナガマチリ。最初の祭場であるマイヌトゥニ(*トゥニは祭場の意味と思われる)で、8時から朝のニガイが行われる。7時半頃に祭場に着けばいいかと思っていたが、早く起きて準備も出来たので自転車で向かったら7時頃に到着。
 まだ誰もいない場所で、静かに空が明けて行くのを写真を撮りながら眺めていた。7時15分頃から道具を積んだ軽トラや関係者の車が集合し、祭場の設営を開始。
  マイヌトゥニについて町の案内には「なうんに村の(とぅにむとぅ)である。これは元屋、集落の創建者の家のことである。なうんに村は、1647年には長嶺村と記されているが、その後、島仲に統合されたようである」と記されている。
 8時前にマイヌトゥニの入口で公民館長がカァブ(神司)を出迎えて、ニガイが始まった。マイヌトゥニでの司の合掌御願のあと、ビディリ(霊石)の前に供え物が並べられて、こちらでも御願が始まる。世話役の男性が司、嶋仲公民館長、他の公民館長の順にお神酒(泡盛)を注いでまわり、次にミチ(炊いた米を発酵させたミキ)を同じ順で注いでまわる。ミチは大椀、中椀が用意されている。
 マイヌトゥニでのニガイは35分ほど行われ、次の祭場であるアラガウガン(新川御嶽)に移動。祭場の入口にある鳥居をくぐり、着座。ニガイの順序、内容は同じ。終わって鳥居を出たところで公民館から司に、草冠が与えられた。
 アラガウガンから少し離れたヌックウガンへ。他の方は車やバイクなので、自転車で追いかけるのは大変だ。
 ここはティンダハナ近くの小丘にあり、女首長サンアイイソバが見張台にもしていたといわれている。現在、付近は牧場になっている。ここの神饌はツイヌトゥニから運ばれてくる。このウガンはサンアイムラのウガンということが考えられる。〜「神々の古層 巡行する神司たち マチリ」から〜。
 ヌックウガンから、次にツイヌトゥニへ。入口で公民館長から司にカンヌイユ(神の魚)が渡される。ここでもニガイは同じように行われたが、タティウサイと言われるさきいかが世話役の男性から配られ、ミチを注ぐ時は二名の女性が登場し歌いながら接待する、ウブダラ ナガダラ(大椀 中椀)という儀式が行われた。
 ツイヌトゥニについては、「ここは北の集落(サンアイ村)の(とぅにむとぅ・元屋)」と説明されている。
 ツイヌトゥニから再び、マイヌトゥニへ。ここでも入口でカンヌイユが渡され、ニガイやタティウサイ、ウブダラ ナガダラが行われる。またマイヌトゥニでは司、役員だけではなく参列者にも行われた。
 ニガイの後は、祝宴がもうけられ踊りが披露された。その後、各公民館長さん他の挨拶があり、与那国島の巻き踊り・ドゥンタが行われた。嘗てはこの場所で夜籠りしたようだが、今は行われていない。そのかわりドゥンタの後に、もう一度ニガイが行われた。これは夜籠りの終わった朝に行うニガイを早めて行っているようだ。
 ンマナガマチリの行事が総て終わったのは16時過ぎだった。明日は西公民館主催のンダンマチリが開催される。今日はそのウサイ作りが行われているようなので見学に行く。料理はあらかた出来上がっていたが、チンムイを作る過程を撮影させていただいた。
 西公民館から昨日も行った浦野墓地へ。大きな破風墓、亀甲墓がならぶ墓地を写真を撮りながら歩く。昨日と打って変わって日差しがあり暖かい日だった。
 宿に戻る途中、隣りのスーパーで明日のンダンマチリに持って行くお祝いの泡盛を買って行く。宿に帰ってシャワーを浴びる。昨日も一緒だったゲストの人が刺身を買って来たので、昨日のお返しでご馳走になる。今日撮影した写真データを、外付けのハードディスクにバックアップ。今日はトラブルもなくコピー完了。昨日の撮影データが消えていたのはなんだったのだろうか。
 今日のマチリの様子を思い出しながらメモを書く。
*本日の出費。どなん30度1升瓶1480円。
*神司を指す言葉がカァブ、カーブの2種類あるが、集落の人の発音がカァブに近かったので、こちらにした。写真は祖納集落にある巨大な門中墓が並ぶ浦野墓地。
*2014年1月12日のPhoto Diaryはこちら
1月12日のスナップ。ンダントゥニでのドゥンタ
↑今日は祖納集落の西公民館が主催する、航海安全を祈願するンダンマチリ。祭場が集落から離れているため、西公民館の館長さんの車に同乗させていただくことになった。
 ゲストハウスから徒歩1分ほどの館長さんのご自宅に、朝の7時に待ち合わせ。館長さんの運転する軽トラックに乗せてもらい、ンダントゥニへ。
 まだ空が明け切らない薄暗い中、コンクリートブロックの壁とトタン屋根のンダントゥニではお供え物の準備が始まっていた。
 用意された供物を運んで、最初の祈願をするハイナグへ。8時頃に司が到着すると、館長が神酒で接待して迎える。ビディリ(霊石)の前に着座して、昨日のンマナカマチリと同じように祈願が行われる。20分ほどの儀式の後、館長から司にンバ(カニクサ)の草冠が渡された。
 ハイナグからンダントゥニへ移動して、ンダントゥニの敷地にあるビディリの前で合掌祈願が行われる。司は儀式の始まる前に、先ほど頭に着けた草冠をビディリの横にあるソテツの木に掛けた。
 ンダントゥニから、次の祭場ミドゥヤマへ。館長さんの運転する軽トラの助手席に司が、私は荷台に乗せてもらって移動。
 同所はドナンバラ家のブナダラの墓といわれている。一九七五年にはうっ蒼とした山になっていたが、今は木が払われ祭場にはセメントが敷かれている。カウを立てるところは、自然の岩を掘り込んでつくられた墓のようなたたずまいである〜「神々の古層 巡行する神司たち マチリ」から〜。
 ミドゥヤマでの祈願は9時頃に始まり、儀式の後に司から列席者に神からの託宣が伝えられた。託宣は祈願の後、ほぼ毎回告げられるが、この祭場では長く語られて儀式が終了したのは10時を過ぎていた。ミドゥヤマの出口で館長から、今度はイトゥ(唐ツルモドキ)の草冠が司に渡される。
 ミドゥヤマから軽トラックで移動し、ンダントゥニへ。ンダントゥニに入る前に、隣接するソナ家トゥニとドナンバラ家トゥニ(与那原家)で接待を受ける。そしてンダントゥニに入る時は、館長からカンヌイユ(神の魚)が司に渡される。
 先ほどは敷地にあったビディリの前で御願が行われたが、今度はンダントゥニの建物の中で儀式が行われた。儀式の間、隣りのドナンバラ家の祝宴の歌が聴こえていた。
 ンダントゥニでも儀式の後、昼食が出され、参列者を交えて祝宴が開かれた。ウブダラ ナガダラ(大椀 中椀)、タティウサイがあり、踊りが披露された。途中、雨が降り出して庭にテントが設営される。
 14時過ぎに始まった祝宴は、15時半過ぎまで続いた。途中強い雨も降ったが祝宴の後に行われる与那国島の巻踊り・ドゥンタの頃には止んだので、庭のテントをどかして中央にドラム缶の焚き火を設置。火を囲んで輪になってドゥンタが踊られた。
 これでンダンマチリの祭事は終わって、後は朝まで司と関係者は建物の中で夜籠りをする。
 隣りのドナンバラ家の庭でも19時からドゥンタが踊られた。
 夜食のそばと泡盛をご馳走になりながら、23時過ぎまでンダントゥニでの夜籠もりの様子を見せていただき、一旦館長さんの車で宿に帰った。
*You Tubeから2011(?)年のンダンマチリのドゥンタと、2013年のドゥンタ。ドナンバラ家でのものだろうか。
*この日のドナンバラ家の祝宴の様子もYou TubeにUPされていました。こちら。写真はンダントゥニでのドゥンタ。
*2014年1月13日のPhoto Diaryはこちら
1月13日のスナップ。チィラクンダでの主分かれ(ヌチバカリ)
↑今日も朝7時に館長さんのご自宅に行き、ンダントゥニまで同乗させてもらう事になっていたが、少し早めに着いて外で待っていたら供物の準備をする男性が軽トラで通りかかり乗せてもらう事になった。ンダントゥニには司と同じく夜籠もりした関係者が2人いらして、祭事の準備をしている。7時になって館長さんの携帯に、先に祭場に到着したことを連絡。
 今日は昨年の12月20日から25日間続いた祭祀の最終日、アンタドゥミ。明日へのとどめといった意味らしいが、神分かれを行ない、司は神衣を脱いで人間に戻る。
 まだ夜が明け切らない中、ビディリの前に供物が並べられる。7時半頃には各地区の公民館長も揃い、御願が始まった。儀式は20分ほどで終わり、次にハイナグへ移動。
 このハイナグで、神分かれ(カンバカリ)の儀式。そしてチィラクンダに場所を移して主分かれ(ヌチバカリ)が行われ、司は神衣を脱いだ。これで祭祀が全て執り行われ、期間中の禁忌が解かれた。
 9時頃、太鼓を持った青年2人と鉦を持った青年1人を荷台に乗せた軽トラックが、チィラクンダを出発。その後を司を乗せた軽トラック、各地区の館長が運転する軽トラックが続く。
 軽トラックの隊列は久部良集落から比川集落へ、そして祖納集落へとマチリが無事に終わった事を知らせるために太鼓と鉦を鳴らしてまわる。期間中は禁忌とされていた四つ足の動物の肉も食べられる。
 西公民館の館長さんの自宅の前で盛大に太鼓と鉦を鳴らして行事が終了した。この後、館長さんの家の前にて大きな釜で焼きそば作り。そして、館長さんのお宅で直会が行われた。私も座敷に上げていただいて、泡盛と料理をご馳走になった。
 13時、嶋仲公民館の館長さんの挨拶で直会もお開きに。近くの中央公民館に、昔使われていた龕があるというので見せていただいてから宿に戻る。
 宿で一時間半ほど休んでから、のんびりと歩いてティンダハナタへ。距離はそんなに無いが、緩い坂道が続く。展望所から祖納の集落を眺めた後、ティンダハナを下りて集落の中を散策。2時間半ほどの散歩の後、晩ご飯のオカズにと刺身屋さんに行くが、閉まっていた。
 晩ご飯は宿が無料で提供してくれる白米と那覇から持ってきた金ちゃんヌードル、昨日ソナ家からいただいた「ス」と呼ばれる長命草の和え物。
 昨日からの撮影データを外付けのハードディスクにバックアップした後、メモを書く気力もないのでビールを飲みながら宿のオーナー、他のゲストの方達とゆんたく。23時頃までゆんたくして、就寝。
*本日の出費。ビール150円、ポテトチップス150円。写真はチィラクンダでの主分かれ(ヌチバカリ)。

1月へ