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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表 ◯製作中の富山の祭りと芸能 ◯製作中の富山の祭りと芸能歴史年表 ◯製作中の2011~2014 Photo Diary |
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◯射水市三ヶの十社大神 御田植祭 2022年2月10日(木) ホテルニューオータニ高岡 12時30分〜 高岡ロータリークラブ |
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*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り *全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧 *とやまの獅子舞百選 *富山県内のお祭り、イベント *とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞 *とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り *とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事 *富山の祭り *築山行事 *とやまの曳山”世界の宝”を守り続ける *砺波の獅子舞 各地区の日程 *年中行事覚書 柳田国男 *田の神祭りに見る日本人の神意識 *山の民の祈り *立山に生きる村ー宗教集落芦峅寺のくらし *立山信仰史における芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅 *五箇山の獅子舞の起源 *道祖神 |
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◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作 ◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作 ◯久高島の年中行事 平成17年度作成 ◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作 ◯ 「まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作 ◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作 ◯幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】 ◯村踊 沖縄県伊江村伝統芸能 ◯喜屋武(チャン)の綱引き ◯与那国島の行事 ◯ 「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作 |
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◯富山県 新型コロナウイルス感染症について http://www.pref.toyama.jp/cms_sec/1205/kj00021629.html?fbclid=IwAR1Z5J0FxdUdIrb0KWEPHX-VTzevMn1SYkafoJbL0IrfRBBnTG5k0vO_t1U ◯都内の最新感染動向 https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/ ◯山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信 https://www.covid19-yamanaka.com/index.html ◯新型コロナウイルス感染速報 https://covid-2019.live/ ◯ 福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html ◯DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/ ◯HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html ◯独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm ◯小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/ ◯やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/ ◯辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/ ◯チョ 10イさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy ◯沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/ |
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メディア関連 ブログなど |
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今日は最高気温が5℃まで上がり、日中は日射しもあったので最近にしては過ごしやすかった。 昨年末にモノブロック・ストロボ2灯によるライティングで撮影するため、久しぶりにミノルタのフラッシュメーターIV型(露出計)を使おうと思ってボタンを押したが反応しなかった。電池が切れたかな?と思い新しい電池を入れてみるが反応がない。フィルム時代は撮影の必需品だったが、最近は出番が少なくなった。 |
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ストロボを何灯か使う時はバランスを測るためにメーターを使うが、デジカメになってからはシンプルなライティングでは2、3回テスト撮影して露出の確認をすれば事が足りるようになった。 ←ミノルタのフラッシュメーターIV型。シンプルで使いやすかった。 |
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今日、なにげにメーターの受光球を外して付け直すと復活し、ISO感度、シャッタースピード、F値が表示された。直ったかと喜んだが、また直ぐに反応しなくなった。買ってから何度か修理にも出したが、寿命と言えば寿命。よくここまで活躍してくれたと思う。 使っていないといえば、最近はモノブロック・ストロボばかりでジェネ(電源部)と発光部が別々の大型ストロボの出番があまりない。家にあるのはコメットの製品だが、コメットのHPには<長期間ご使用にならなかったストロボ電源部は、通電または発光を繰り返すとコンデンサーが発熱し、発火、火災の恐れがあります>と書かれており、<3ヵ月以上(10ヶ月未満)の長期間ご使用にならなかったストロボ電源部は、出力をFULLにして最低4時間通電をしてください。この間は絶対に発光させないでください>と書かれている。 家にあるのはCB-1200と後継機種のCB-1200iiiの2台4灯。この他にバッテリー充電式のPMT-1200がある。どちらも長く使っていないので、通電することにした。するとCB-1200の方が通電してしばらく経って「バチッ」という音と共に、電源が落ちた。逝った?CB-1200も30年以上前に購入したもので、メーカー修理の受け付けは20年ほど前に終了している。もう耐用年数を過ぎたのだろう。こちらもよくここまで現役で頑張ってくれたと思う。感謝!後継機のCB-1200iiiの方もやがて25年ほど使っているかもしれない。これからは時々通電し、なるべく撮影に使うようにしなければ。 |
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↑通電したコメットの大型ストロボ。左の1台2灯がCB-1200iii、右の1台2灯がCB-1200。どちらも買った時はセットで40〜50万円くらいだったと思う。 ←左がCB-1200iiiの電源部、右がCB-1200の電源部。通電した時、CB-1200の方はチャージ時間が長くかかっていたので、様子がおかしいとは思ったのだが・・・。 |
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明日からは2月、早いな〜。 | ||
Photo Diaryを更新。 *2014年1月5日のPhoto Diaryはこちら。(神里原社交街、与儀公園、借りてきた本) *2014年1月6日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑昼ご飯を食べた後、腹ごなしに自転車で小湾自治会館へ先日撮影したアギバーリーの写真を届けに行く。 自治会館の中に嘗ての小湾集落の模型が展示してあった。個人が作られた物で、一軒一軒に屋号が書かれている。 帰りは、小湾川に沿って河口まで自転車で行ってみた。河口まで行った後、自治会長さんから国立劇場おきなわの向かいにある浦添市産業振興センター1階の結の街にも小湾集落の模型があると聞いたので見学してきた。 帰り道に泊漁港の横を通ると、空がオレンジに輝いている。魚市場の奥、防波堤に座って夕日を眺める。雲が多いので期待していなかったのだが、見事に太陽が水平線に沈んで行った。 市場の傍にあったハーリー会館は、建て替えのために取り壊されている。写真は水平線に沈む夕日。 |
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*2014年1月7日のPhoto Diaryはこちら。(県庁前広場での抗議行動、ムーチーの前日) *2014年1月9日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑今日から日本の最西端の島、与那国島へ。与那国島は、先月の20日から25日間に及ぶ長いマチリの期間に入っている。 早めに起きてご飯一合炊いて、おにぎりを3個作る。昨日の内に荷物はまとめておいたが、最終確認をして6時前に部屋を出る。美栄橋まで歩き、6時13分のモノレールで那覇空港へ。日本航空のカウンターで手続きを済ませて、搭乗ロビーで出発を待つ。 飛行機は那覇空港7時40分発の、琉球エアコミューターRACO721A便。想像していたより随分と小さな飛行機だが、乗客も15人ほどだった。沖縄は昨日から強風が吹いているが、覚悟していたほどには揺れずに到着。 与那国空港でタラップを下りると強い横殴りの雨。係員が傘を渡してくれるが、空港の建物まで濡れながら歩いた。到着時刻は予定の9時20分頃だった。 空港の出口で、今日一泊する民宿の迎えの車を待つ。今回は往復の飛行機だけより、宿泊付きのプランの方が安かったのでプランの中にある民宿の中から久部良集落にある宿を選んだ。那覇ー与那国島の往復チケットと、一泊2食付きの民宿で22300円だった。 しばらく待っていると民宿の若い男性のスタッフが、ライトバンで迎えに来てくれた。後に荷物を入れて、島の西端に位置する集落へ向かう。 宿帳に名前を記入し、部屋に案内してもらう。新館のツインだ。とりあえず荷物を置き、朝作ってきたおにぎりを食べて、テレビを観ながらベットで横になり、しばし休憩。 空は曇りで小さな雨も降ったり止んだりしているが、このまま部屋で休んでいてもしょうがないので13時過ぎにカメラも持って外に出る。まずは宿から見える日本最西端の西崎灯台へ。距離にして1キロほどだろうか。緩い上り坂が続くが、それほど大変でもない。灯台の辺りから久部良集落を眺めたり、崖に打ち寄せる波しぶきを撮影したり。 波しぶきは強い風に煽られて横殴りの雨のように身体を、カメラを濡らす。ちょっと撮影しては水滴が付いたレンズを拭かなくてはいけない。 与那国空港に到着する寸前、飛行機の窓から島のどこかの崖近くに座礁した貨物船が見えた。昨年那覇で開催された離島フェアーで、荷物を積んだ船が座礁したとニュースで見たが、その船がまだそのままになっている。灯台に来る途中、競りの情報を聞こうと漁港に寄ったが今日は時化で船が出ていないから、明日の競りはないそうだ。 西崎灯台から集落の中を少し歩き、それから久部良バリへ。久部良バリの少し先に与那国馬の牧場があり、馬小屋の手前に大小様々なお墓があった。お墓の写真を撮っていると、馬にエサをやりに軽トラックに乗った女性が。馬が好きで与那国島に来て、10年が経つという。ここにあるのは珊瑚を掘っただけのものや、それをコンクリートで固めたもののようだ。崩れるままになっているお墓も多く、それらは親族が島を離れて手入れができなくなったお墓のようだ。もう少し先には新しい墓地があるというので行ってみた。最近亡くなられた方がいて、旗が立っているという。しばらく歩くと、旗がまわりを囲むようにして立っているお墓があった。 両側にお墓が並んだ道をまっすぐ歩いて行くと集落に出た。小学生の女の子が走って来たので、港に出る道を教えてもらう。教えられた道を歩いて行くと、港に出た。近くの商店で与那国の泡盛、どなんの30度、360ml550円を購入。ちょっと歩き疲れたが、部屋に戻るには早いので宿の前の久部良港をぐるっと散歩。 4時間強の散歩を終え、17時半頃に宿に戻る。テレビをつけると、川崎で逃亡していた犯人が捕まったというニュース。6時過ぎに宿のスタッフから晩ご飯の準備ができたという室内電話。 1階の食堂で晩ご飯を食べ、お風呂に湯をはり、ゆっくりと入る。撮影データのバックアップを取り、買って来た泡盛どなんをちびちび呑んで早めに就寝。 *本日の出費。美栄橋→那覇空港290円、那覇ー与那国空港往復チケット+民宿代22300円(事前に購入済み)、どなん550円。写真は久部良集落で撮影した、最近亡くなった方のお墓。旗に書かれた文字は、ペンキにお酒を混ぜたもので書くそうだ。 |
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*2014年1月10日のPhoto Diaryはこちら。 | ||
↑7時半に一階の食堂で朝ご飯。食べ終わり部屋に戻り、荷造り。9時40分頃にチェックアウト。久部良のバス停に行き、10時発の町営バスで祖納集落へ。町営バスは、本数は少ないが無料運行している。祖納に着いて、今日から4泊するゲストハウスへ。チェックインの手続きをしてから町役場の隣りにある教育委員会へ、明日、明後日行われるマチリの詳細を聞きに行く。明後日行われる西公民館主催のマチリは、公民館長さんがいらしたので、その場で撮影を申し込んで許可を貰った。明日の嶋仲公民館へは直接挨拶に行く事になった。 教育委員会の建物を出たら、丁度消防出初め式が始まったので、しばらく見学させてもらう。出初め式の後、一旦宿に戻り自転車を借りて嶋仲公民館を訪ねて、明日のマチリの撮影許可をいただいた。 公民館から宿に戻り自転車を置いて、バス停へ。島の大きさを掴もうと13時15分の町営バスで久部良、比川を回り、14時に祖納に戻って来た。それから明日の最初の祭場であるマイヌトゥニの場所を確認しに自転車で行ってみる。教えてもらった通りに走ると、間違えずに着いた。なだらかな坂道が少し続くが距離はなく、下り坂となる帰り道は宿まで10分ほどで戻って来れた。 晩ご飯のオカズを探しに宿の隣りにあるスーパーへ。刺身を買おうと思ったが大きなブロックしかなくて断念。 小雨が降って来たので傘をさして集落の外れにある浦野墓地へ。大きな破風墓や亀甲墓が並んだ有名な墓地の中を写真に撮りながら歩いてまわった。一通り墓地を歩いて集落に戻り、自転車で少し離れたスーパーで刺身を探すと刺身屋さんを教えて下さった。教えてもらった刺身屋さんでクロマチの刺身を500円分作ってもらう。 刺身を宿の冷蔵庫に入れて、再び自転車で嶋仲公民館へ。チンムイや高膳、ミキなどの写真を撮らせていただいて集落の方に話しを聞かせ貰って宿に帰って来た。途中、隣りのスーパーで明日ンマナカマチリにお祝いで持って行く泡盛の一升瓶を購入。 戻って来ると、ゆんたく場に宿泊客の方が3人座ってご飯を食べていた。このゲストハウスは白ご飯はただで食べられるので、買って来た刺身で晩ご飯にする。 食べ終わって今日撮影したデータをバックアップしようと思ったら、撮影したデータが最後に撮影した15枚ほどを残して、消えていた...orz。 *本日の出費。宿泊費4日分6000円、ボンカレー200円、刺身500円、どなん30度1升瓶1480円。写真はチンムイ。カマボコ、厚揚げ、天ぷら、昆布巻き等を皿の上に立てて飾った供物。沖縄本島で言う、シンムイと同じだろう。芯には大根が使われていた。手前の大きな四角と半円筒形のカマボコを上に乗せ、木の枝を飾れば完成する。白とピンクと黄色のカラフルなものは、ナントゥと呼ばれる3色のお餅。 |
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富山では、身体の芯まで冷えるような寒い日が続いている。 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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Photo Diaryを更新。 *2014年1月1日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑今日は今帰仁村営闘牛場で、新春北部闘牛大会が開催される。闘牛大会は13時からだが、12時から民謡ショーが行われるというので、最寄りのバス停を7時54分に発車する名護西線に乗車。名護バスターミナルで、10時20分発の本部半島線今帰仁廻りに乗り換える。 22頭による11取組(アトラクション一つ含む)が終了したのは、15時頃だった。闘牛場横の牛舎やトラックの荷台に乗せられた牛をしばらく撮影してから、仲宗根のバス停に歩く。 |
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*2014年1月2日のPhoto Diaryはこちら。 | ||
↑昨年5月に知り合った、泊の外人墓地を撮影されている新垣さんと、午後1時に新都心のマクドナルドで待ち合わせ。マックも近くのファミレスも人がいっぱいのようなので、新垣さんの車で少し離れたロッテリアへ。祭祀の行われている場所で何回かお会いすることはあったけれど、お互いに撮影していると、その時はゆっくりお話しをする時間もゆとりもないので、お正月2日目の今日になった。 自分の持って行った奄美群島の写真をポストカードサイズにファイルしたものと、新垣さんが今年奄美大島と与論島で撮影した写真をノートパソコンに入れてスライドにしたものを見せ合いっこしながら、写真の話し、沖縄の話し、奄美群島の話しをしていると、あっという間に2時間半が経った。写真の話しができるのは楽しい。 あまりに話しに夢中になって、飲みかけのコーラが乗ったトレーを床に落としてしまった。 新垣さんに新都心のマックまで車で送ってもらい、自転車で部屋に戻る。ベランダから、のし烏賊のように空を覆う雲を撮影してから、初詣に。 昨年は波上宮へ参拝しに行ったので、今年は護国神社へ。参拝を済ませて那覇港の方へ自転車を走らせると、太陽が沈んで行くところだった。那覇港の中にある波布食堂はシャッターが降りて、しめ縄が飾られている。北の波止場、西の波布と言われる?くらいこの店も大盛りで有名な食堂。今年は是非、波布食堂のカツ丼にチャレンジしたいと思う。 那覇港から家に戻る途中、波上宮に寄ってみるが、人の多さに鳥居の手前まで行って帰って来た。写真は夕暮れの国道58号。 |
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*2014年1月3日のPhoto Diaryはこちら。 | ||
↑昨年1月5日の琉球新報のweb版に掲載されていた「アギバーリー勇壮に 繁栄を願って集落練り歩く」という記事に興味を引かれ、今年は是非見てみたいとメモしておいた。昨年の暮れに主催している小湾自治会館に電話をして、詳しい時間と場所を教えていただいた。 アギバーリーのスタート地点は、小湾自治会館。家から自転車でも行ける距離だが、天気予報は曇りのち雨。自治会長さんに教えていただいた99番の天久新都心線で向かうことにする。このバスを運行するバス会社に電話で確認したところ、下りは最寄りのバス停には停まらないようなので少し離れた泊高橋へ。帰りの上りは、最寄りのバス停を通る。国道58号を挟んだ上りと下りのバス停に距離があり、その途中に新都心へ行く三叉路があるので、バス路線によってはこんな変なことになっている。 (一) 小湾走(くわんは)る舟(ふに)ぬ 浦添村上(うらしぃむらのぶ)ティヨー (二) 今年物作(くとしむづく)イヤ アン清(ちゅ)ラサー (三) 石子( いしなぐ)ヌ 石(いし)ヌ 大石(うふしー)成ル *は全員で |
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ちょっとした縁で、エプタという雑誌を何冊か送っていただいた。ヒノキ新薬が発行する企業文化誌で、毎号日本の伝統文化や風習、歴史の中から一つのテーマに絞り、掘り下げて記事にしている。 下の写真の一番左は奄美を特集した号。ページを捲ると懐かしい人がたくさん登場していたが、既に亡くなられた方も何人か居られる。 |
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杏里さんに差し上げて手放したドゥルス・ポンテスのアルバム『プリメイロ・カント』が120円+送料257円でアマゾンのマーケットプレイスに出品されていたので、19日の夜にポチった。 CDは昨日届いたが、アマゾンの配送状況確認のページでは未だに<1月20木曜日に発送済み>のままだ。 |
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今日は東京都で新たに1万2813人の新型コロナ感染が確認され、全国では初の6万人越えを記録した。この感染爆発に、抗原検査キットが不足するなどの問題も起きている。また、厚労省は感染が拡大して受診や検査に時間を要する地域では、同居している家族などの濃厚接触者で発熱などの症状が出た場合、検査をしなくても医師の判断で新型コロナの感染を診断できるとの方針を示したという。検査をしなくても判断できる・・・とても先進国の医療ではないだろう。 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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Photo Diaryを更新。 *2013年12月24日のPhoto Diaryはこちら。(マグロのハラゴー) *2013年12月25日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑朝から雨。今日の昼は、辺野古新基地建設反対を求める包囲行動が沖縄県庁で行われる。12時に県庁前広場に集まり、12時15分から30分間人間の鎖で県庁を囲む。 知事は政府に屈することなく、不承認を!県民行動 緊急宣言(案) 本日、我々は、辺野古への基地建設を断じて許さない決意でここに結集した。仲井眞弘多知事は、県民代表として、また行政の長として、政府に屈することなく、普天間基地の辺野古移設に向けた埋め立て申請に対し、確信をもって「不承認」の判断を下すときである。 戦後68年、日米両政府は、米軍基地の過重な負担を沖縄県民に強いてきた。オスプレイ配備撤回と普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設断念を求めた県民総意の「建白書」を易々と踏みにじり、挙げ句の果ては「辺野古さもなくば固定化だ」と二者択一の恫喝で我々をねじ伏せるつもりだ。 しかし、沖縄県民は決して屈しない。ジュゴンが泳ぐ美しい大浦湾を大量の土砂で埋め立て、やんばるの森を爆音と熱風で破壊し、半永久的に基地との共存を押し付ける政府に正義はない。 不誠実なアセス、情報隠しと裏切りでぬり固められた埋め立て申請書はそもそも承認基準を満たしておらず、承認するに値しないことは法的にも明らかだ。沖縄振興予算が基地受け入れの取り引きにはならないこと、条件付きの基地負担軽減策が何の担保にもならないことを、県民はとうに見抜いている。 知事に対し、沖縄県民の誇りにかけて、歴史的審判に耐え得る判断を行うよう、重ねて「不承認」を求める。 2013年12月25日 |
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*2013年12月27日のPhoto Diaryはこちら。 | ||
↑昨日の午前、安倍首相が靖国神社を参拝。米国大使館は直ぐさま「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに、米国政府は失望している」と声明を発表した。また、今日予定されていた小野寺五典防衛相とヘーゲル国防長官の防衛相協議が延期された。中国を訪れていた超党派の国会議員団は昨日の午後以降の会談がほぼキャンセルされ、今日の朝、日程を早めて帰国した。 今日、仲井眞知事が辺野古の埋め立て申請を承認した。それに対し25日と同様、県庁を囲む抗議行動があったので参加。12時15分から30分間県庁を包囲した後、県庁ロビーへ。 *沖縄タイムスから『仲井真知事、辺野古埋め立て承認表明』 |
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*2013年12月28日のPhoto Diaryはこちら。(県庁前広場での抗議行動) *2013年12月30日のPhoto Diaryはこちら。(伊是名島のお米、本マグロの中トロ) *2013年12月31日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑大晦日。今年撮影した写真は年内に現像したかったが、未現像の写真データがいっぱい残ってしまった。 午前中の情報番組「モーニングバード」を見ていたら、大滝詠一さんの訃報が飛び込んで来た。 |
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今日の午前1時頃、大分、宮崎両県で最大震度5強の地震があり、転倒などでケガ人が出た他、水道管が破裂するなどの被害もあった。 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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Photo Diaryを更新。 *2013年12月17日のPhoto Diaryはこちら。(雨に煙る那覇市内) *2013年12月19日のPhoto Diaryはこちら。(朝の那覇市内) *2013年12月20日のPhoto Diaryはこちら。(那覇市内の朝焼け) *2013年12月21日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑今日は、今年最後の山原のムラ・シマ講座。始発のバスに乗って、名護バスターミナルへ。2時間弱の車中は、ず〜っと寝て過ごした。名護BTで66番本部半島線の今帰仁廻りに乗り、今帰仁城趾入口で降りる。講座は9時からだが、バスを降りた時点で9時を過ぎていた。 10時少し前に謝花に到着。以下、今日の観察場所。1.キジキナガー(ニーガー)(下流港川) 2.謝花の神アサギとウドゥンとミキヤー 3.タンカーモー(?) 4.ウガン(ウタキ)・ヒチャヌウルングヮー・ウイヌウルングヮー 5.ヌルルンチ(謝花ノロ管轄村:謝花・備瀬) 6.ウーグスク(遥拝) 7.謝花小学校跡(奉安殿跡)(現:謝花団地) 8.山川の洞窟(垣内権現)や古墓(もとぶ元気村敷地内) Cさん一家を初めて見かけたのは、7月に八重山の豊年祭を見てまわった時だった。行く島々でCさんご夫婦と生まれたばかりの子供を見た。那覇に帰って来て8月4日に与那原の大綱曳きを撮影していたらCさん一家のご主人の方とバッタリお会いして、少しお話しをした。それから間もない8月14日に安田のシヌグを撮影に行ったら、またまたCさん一家と遭遇して連絡先をいただいた。 |
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*2013年12月22日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑今日は一年で最も昼の時間が短いと言われる冬至。沖縄では、冬至の日にジューシー(沖縄風炊き込みご飯)を食べる習慣がある。昨日炊いたフーチバージューシー(よもぎ入り炊込み御飯)でおにぎりを3個作り、みかん3つと一緒にバックに入れて家を出る。 昨日から那覇市国場にある沖縄大学で、「沖縄・奄美の映像祭」が開催されている。自転車で那覇バスターミナルに行き、6番の那覇おもろまち線で沖縄大学前へ向かう。最初の上映は11時からだが、10時15分発に乗り遅れ、次の10時40分に乗車したため少し遅れて会場となる教室に入った。 以下、この日に観たプログラム。 「八重山の動物たち」「トゥバラーマの夜〜沖縄・八重山紀行〜」「島 豊饒の時」「イザイホー〜沖縄の神女たち〜」「戦争を笑え〜命の御祝事さびら!伝説の芸人ブーテン〜」「メディアの敗北〜沖縄返還をめぐる密約と12日間の闘い〜」。これら6つの映像を観た後、2時間ほど行われたシンポジウム「“沖縄”はなぜ報道されないか?」を聞く。 那覇おもろまち線の下りで那覇バスターミナルへ。自転車に乗り換え、途中スーパーで野菜てんぷらと鶏の唐揚げ串を買って家に帰る。晩ご飯は天玉うどんと、唐揚げ丼。写真はベランダからの那覇市内の朝焼け。 |
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*2013年12月23日のPhoto Diaryはこちら。 | ||
↑昨日に続き、沖縄大学で開催されている「沖縄・奄美の映像祭」へ。今日は那覇バスターミナルを10時15分発の那覇おもろまち線に乗れたので、11時からの上映まで余裕に着いた。 |
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ヤフオクにポルトガルの女性歌手、ドゥルス・ポンテスの2枚組ライヴCD『ア・ブリーザ・コラサン〜心のそよ風〜』が500円で出品されていたので落札した。14日の夜に落札し、ようやく昨日届いた。早速iMacのiTunesに取り込み、3回ほど続けて聴いている。2枚組だけれど全然聴き飽きない。 | ||
ドゥルス・ポンテスのアルバムは1993年発売の『ラグリマス』と、1999年発売の『プリメイロ・カント』を持っていたが、2001年に杏里さんを撮影した時に、撮影中の雑談でポルトガルのファドに興味があると聞いたので、写真チェックで彼女の事務所に写真を届ける際に新世代ファドの女王と呼ばれた彼女のアルバムを一枚プレゼントすることにした。どちらを渡すか悩んだ末に『プリメイロ・カント』を差し上げて欲しいと担当者に渡した。なぜ『プリメイロ・カント』を選んだのか、今となっては思い出せないけれど。 | ||
ドゥルス・ポンテスは2000年の5月に撮影している。18日にレコード会社でインタヴュー写真とポートレートを、そして翌々日の20日に渋谷のオーチャードホールでコンサートを撮った。 ←5月18日に撮影したポートレート。撮影用のバックドロップ(背景布)に穴が空いているのを見つけた彼女は、洋服を着るように穴から顔を出し「My dress!」とおどけてみせた。 |
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↑5月20日のオーチャードホールでのコンサート。撮影は2階の端にあるテラスのような場所しか許可されなかった気がする。 YouTubeから「Dulce Pontes/Canção Do Mar」。 |
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今日は兵庫・京都・岡山・愛媛・石川・和歌山でも過去最多の新型コロナの感染者が確認された。東京都でも7,377人と過去最多を更新し、全国では初の4万人超えを記録した。 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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Photo Diaryを更新。 *2013年11月18日のPhoto Diaryはこちら。(朝の那覇市内、魚のアラ) *2013年11月24日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑最低気温18℃、最高気温24℃。風は南から。こんな日を小春日和と言うんだろうか。 お昼ご飯を食べてから、第34回 壺屋陶器まつりを見に行く。会場は、国際通りの裏手にある壺屋小学校。しょっちゅう横の道を通っていたが、こんなところに小学校があるとは気づかなかった。会場に着くと、旗頭演舞の真っ最中だった。 グランドの周りを囲むようにテントが設営されて、壺屋にある窯元がお茶碗や皿、シーサー等を出品している。校舎の裏の方ではヤギふれあい広場が作られていて、餌をあげる事もできるようになっていた。 会場を一通り見てから、自転車を小学校の横に置いて近所を散策。一時間ほど壺屋、桜坂のスージグヮーをのんびりと歩いてまわった。 散歩の後、小学校まで自転車を取りに戻り、それから国際通りを抜けて波の上ビーチへ。さすがに泳いでいる人はいなかったが、日光浴をしている人が数人。しばらく眺めてからスーパーで買い物をして帰宅。 晩ご飯は久しぶり(沖縄に来て初めて?)に麻婆豆腐。丸美屋の辛口に豚肉とネギ、唐辛子を1本加え、豆腐はちょっと固めの島豆腐を使用。島豆腐は炒めても崩れなくていいが、やっぱり絹ごし豆腐のツルンとした舌触りのほうが好きかな。 明日は雨の予報だ。溜まっている写真データの現像をするか、それとも借りている本を読んで過ごそうか。 本日の一曲。「千鳥橋渋滞/TULIP」 。写真は散歩の途中で出会った猫の親子。 |
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*2013年11月26日のPhoto Diaryはこちら。(日清焼そば) *2013年11月27日のPhoto Diaryはこちら。(夕日が当たる高層ビル) *2013年11月30日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑今日で11月も終わり。管理会社へ来月分の家賃を払いに行き、そのまま栄町市場へ。今年の屋台祭りは先月で終了したが、今日は年に一度の感謝祭があるのでやって来た。 |
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*2013年12月2日のPhoto Diaryはこちら。(泡盛・海人、夕日が当たる高層ビル) *2013年12月4日のPhoto Diaryはこちら。 (オスプレイ、ベランダからの那覇市内) *2013年12月6日のPhoto Diaryはこちら。(沖縄手帳2014、来夏世) *2013年12月9日のPhoto Diaryはこちら。(茹で餃子) *2013年12月11日のPhoto Diaryはこちら。(夕暮れの那覇市内、石油ファンヒーター、借りてきた本) *2013年12月14日のPhoto Diaryはこちら。(波の上うみそら公園) *2013年12月15日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑お昼ご飯を食べ、新都心で買い物を済ませてから、昨日場所を確認しておいた波の上うみそら公園へ、ウクレレ ピクニックを見に行く。 15時半頃に着くと、小雨が降り出した。公園の売店へお菓子を買いに行くと、店先でTシャツの特売。しっかりした生地のシャツで500円なので一枚購入。 伊禮俊一さんのステージの時が一番風雨が激しく、その後は雨も小さくなってきたがハーブオオタ・ジュニアさんとKONISIKIさんのライヴは物販用のテントの中で行われた。 最後にステージでファイヤーダンスのパフォーマンスがあり、18時半頃に終了。天気の関係で30分ほど短縮されたのかな? 夜、久しぶりに山内雄喜さんの「SLLACK KEY PARTY」を聴きながら寝る。このジャケットは代々木公園で撮影した。NHKの朝ドラ「さくら」に小錦バンドの一員として山内さんが出演していて、そのテレビ収録の合間に撮ったのではなかったか。2002年5月に撮影。 今日はウクレレピクニックでしたが、 ハワイのもう一つの音楽、スラック・キー・ギター。You Tubeから「2012ハワイのSlackkey Festiva/山内雄喜」、「Raymond Kane (1925-2008)」。写真は物販用のテントで歌うKONISIKIさん。 |
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昨日の午後1時ごろ、トンガ諸島のフンガ・トンガーフンガ・ハアパイ火山という海底火山が噴火した。夕方のニュースでは、多少潮位の変動はあるが大きな影響はないだろうと言っていたが、夜になってヤフーのトップ画面に津波警報が発令されていて驚いた。奄美大島の小湊で1.2メートルの潮位の上昇があったようだ。小湊は太平洋側の集落で、東日本大震災の時も奄美大島で一番潮位が上がったと記憶している。 シニード・オコナーの17歳の息子、シェーン・オコナーが2度の自殺未遂の後に行方不明となり、その2日後の1月7日に遺体で発見された。シニード・オコナーは「息子の後を追うことにしました。彼なしで生きても意味がない」とツイッターに自殺をほのめかす投稿をしたが、その一時間後心配させるような投稿を謝罪し、警察と一緒に病院へ行き入院したことをファンに伝えたという。 27年前の今日は、レコード会社の仕事で中国のロックバンド・黒豹(ヘイバオ)を北京、南京、北京と撮影に行って東京に帰ってきた日だった。ハードスケジュールだったので、レコード会社のスタッフが気を使って成田から町田までタクシーを使わせてくれた。確か家に着いたのは夜中だったと思う。そして翌朝、阪神・淡路大震災が起こった。もっとも、当時は家にテレビを置いていなかったので、夕方デザイン事務所のテレビで大災害が起きたことを知ったのだが。 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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Photo Diaryを更新。 *2013年11月4日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダからの那覇市内) *2013年11月6日のPhoto Diaryはこちら。(フダチミのラベルがついた泡盛、オスプレイ、ドラゴンフルーツ) *2013年11月9日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑今日は伊江島の村踊を観に伊江島へ。おにぎり3個、ウインナー6本とミカンをリュックに入れて最寄りのバス停へ。始発の名護西線で、名護バスターミナルへ。2時間弱でターミナルに着いた。 プログラムから 16時のフェリーに乗るため、少し余裕をみて15時半前に会場を出た。それでも一つ一つの踊りが短いので(中には一分もない演目もある)、11番のむんじゅるまで観ることができた。 |
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*2013年11月11日のPhoto Diaryはこちら。 | ||
↑午後から、県立武道館で開催されている琉球国之図と完全復元伊能図フロア展へ。6日から始まっており、昨日と一昨日は沖縄県立博物館・美術館の安里進館長による「琉球国之図」について、完全復元伊能図全国巡回フロア展中央実行委員会の星埜由尚会長(元国土地理院長)による「伊能忠敬の生涯と測量行」と題した講演があった。一昨日は日帰りの伊江島旅行、昨日はその疲れで家から出られず聴講できなかった。残念。 会場には一枚が一畳ほどの地図を214枚敷き詰めた伊能大図が、どーんと置かれている。この大図を含めて靴下を履いていれば地図の上を歩いて鑑賞することが出来る。また伊能忠敬が測量して歩いたルートや、測量に用いた道具のパネル展示もあった。 奄美大島の地図を探したが、伊能忠敬は種子島、屋久島までは測量したが奄美群島には足を踏み入れていなかった。測量して歩いた期間は1800年〜1816年なので、奄美はもう琉球から薩摩の支配になっている。伊能忠敬が測量を始める4年前に完成していたという琉球国之図にも、奄美群島の地図はない。奄美群島が測量されて、地図が作られたのはいつ頃になってだろうか。 武道館から家に帰る途中、スーパーで買い物。11月11日はポッキーの日らしく、商品がディスプレイされている。チョコレート食べたいな〜と思いながら、コストパフォーマンスの良いかっぱえびせんを購入。1111は、かっぱえびせんの日でもいいじゃないか。写真は伊能大図がフロアに広げられた県立武道館の様子。 |
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*2013年11月15日のPhoto Diaryはこちら。(那覇市内の朝焼け) *2013年11月16日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑始発の名護西線で、名護バスターミナルへ。1週間前と同じですが、先週は伊江島旅行、今日は山原のムラ・シマ講座です。 小玉杜内に10件近い住居跡(火神の祠)がある。それは屋敷跡である。かつて小玉杜(ウタキ)内に人が住み、そこには神アサギがあり、また各門中のイビがある。集落の発生の古い形態をみせているのではないか。沖縄のグスクは高い所に築かれている。グスク以前はウタキ(杜)である場合が多い。その杜の内部に住居を構え、古琉球から近世にかけて次第に麓に住居が移動していく。国頭村比地は、戦後まで杜の斜面に住み、その痕跡として火神の祠が今に残し、移動したものの今でもお参りを続けている。 小玉杜の観察後は山を下りて、カー(湧泉)や風呂屋跡を見学した。 |
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北陸に暴風雪予報が出されている。富山地方気象台は午後4時過ぎに、富山市や魚津市、砺波市など県内10市町に大雪警報を発表した。高岡市も今晩から明日にかけて、まとまって雪が降りそうだ。 | ||
「Be My Baby」などのヒット曲で知られる、ザ・ロネッツのリード・ボーカル、ロニー・スペクターが78歳で亡くなった。元夫でプロデューサーだったフィル・スペクターがほぼ一年前、昨年の1月16日に亡くなったばかりなので驚いている。 1999年の来日時には、ライヴは撮影していないがポートレートを撮影している。もう23年も前で、この時彼女は55歳だろうか。 ザ・ロネッツとして活動していた期間は1959年~1966年で、映像の彼女はとてもキュート。紛うことなきスター。この頃の彼女を撮影したかったと思うが、自分は小学校にも上がっていない。 彼女が手にしているバカ殿の人形は、彼女が街中で見つけて気に入って買ったもの。 彼女たちの代表曲で、彼女たちのプロデューサーだったフィル・スペクターの代表曲でもある「Be My Baby」をYouTubeから。「 Be My Baby-Live/The Ronettes」。 |
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今日の新型コロナ感染者数は、全国で1万8000人を超えた。東京都で3124人、富山でも31人。 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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Photo Diaryを更新。 *2013年10月13日のPhoto Diaryはこちら。(沖縄県立博物館・美術館、那覇大綱引き) *2013年10月15日のPhoto Diaryはこちら。(雨の那覇市内) *2013年10月17日のPhoto Diaryはこちら。(レターパック、曇り空の那覇市内、キュウリと塩昆布の漬け物) *2013年10月18日のPhoto Diaryはこちら。(水の逆流) *2013年10月19日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑昨日の昼前、食器を洗っていると、後ろのバスルームからゴボゴボと音がする??変だな〜と思いながら食器を洗っていると、またゴボゴボ。ん???食器を洗う度に、便器から水が逆流しているのだ。ナンテコッタイ!ちょうど一週間前に配水管が詰まって直してもらったばかりなのに。急いで管理会社に電話。担当者に来てもらう。先日修理した業者も暫くして到着。今度は隣りの住人の部屋から機械を入れて、再度配管の掃除をすることになった。前回よりも時間をかけて掃除をしているようだった。 配管が詰まるとキッチンの下の方から床に水が溢れてくるようなので、これも新しいゴムのパッキンと交換して直してもらう。やれやれだ。 今日は今帰仁村歴史文化センターで、9時から山原のムラ・シマ講座。 最寄りのバス停を6時13分に出る名護西線で、名護バスターミナルへ。名護BTで本部半島線の今帰仁廻りに乗り換えて、今帰仁城趾入口へ。そこから緩い上り坂を1kmほど歩く。センターに着いたのは9時20分ほどで、今日訪ねる我部祖河集落についてのレクチャーが終了する間際だった。 レクチャーの後、館長さんの運転するマイクロバスで我部祖河に移動。我部祖河に到着したのは10時過ぎで、歩いて御嶽(ウタキ)を上がる。 ウタキ内の祠やアサギの礎石、お宮を観察した後、ウタキを下りて集落の中を歩きながら説明を聞く。 12時過ぎに集落の観察は終了。近くに河知農協前というバス停があったので、マイクロバスには乗らずに路線バスで名護に戻ることにする。待っている間に、雨がザーザー降り出した。バス停の小さな庇の下で、家から持って来たミカンを食べながら、バスを待つ。 名護バスターミナルから名護西線に乗り換えて、嘉手納まで戻る。雨はやんで、青空が見えて来た。嘉手納で62番の中部線に乗り換えて、コザへ。 朝が早かったので眠いのだけれど、せっかく1日乗り放題のチケットを買ったので遠征。名護BTから辺土名へ行き、波止場食堂のカツ丼を食べようかとも思ったが、あのカツ丼と向き合うには覚悟がいるので、今日はパス。でも無性に食べたくなる。 コザは今月の初め、八重山から戻って那覇空港からそのままポートレートを撮りに行き、嘗ての白人街だった美里と、黒人街だった照屋で撮影をした。 沖縄に来てから1年以上経ったが、この辺りはコザ十字路を挟んだ美里と照屋しか歩いていないので、今日は照屋の銀天街から胡屋、中の町を散策。 1時間半ほどスナップを撮りながら散策して、中の町のバス停から那覇行きと書いてあったバスに乗車。乗ったバスの系統番号は忘れたが、普天間、野嵩、おもろまちを経由して自宅の最寄りのバス停に着いた。初めて乗るバスは車窓から眺める風景が新鮮で、疲れていても楽しい。 バスを降りると、泊港の辺りが夕日でオレンジ色に輝いている。急いで自転車をとりに行って泊港の方へ駆けつけるが、着いた頃には厚い雲の中に沈んでいた。写真は本部半島線のバスの車窓からのスナップ。 |
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*2013年10月21日のPhoto Diaryはこちら。(鮪の団子、刺身の盛り合わせ、じゅり馬と辻村女の里チージの研究) *2013年10月26日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑さて寝ようと思いながら、ふとテレビのチャンネルをつけたら「朝まで生テレビ」が始まって、テーマが汚染水問題だったのでウトウトと半分眠りながらも朝まで観た。 眠いな〜と思いながら割りと早くに起きて、夕方までパソコンに向かって写真の作成。 |
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*2013年10月30日のPhoto Diaryはこちら。(スニーカー、湿布薬、富山県産こしひかり) *2013年10月31日のPhoto Diaryはこちら。(那覇市内上空を飛行するオスプレイ) *2013年11月1日のPhoto Diaryはこちら。(雨に煙る那覇市内) *2013年11月3日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑3連休の中日。今日は沖縄市の泡瀬で、大綱引きがある。泡瀬村創設110周年・泡瀬復興期成会創立65周年記念事業として行われるもので、綱引き大会は10年ぶりだそうだ。泡瀬はゴールデンウイークに干潟を見に一度来ているが、せっかくの綱引き大会なのでバスに乗って見に行く事にした。 綱引きの前に14時から道ジュネーがあるので、部屋を13時過ぎに出て最寄りのバス停へ。31番の泡瀬西線に乗り、泡瀬3区入口で下車。同じバス停で下りた方に綱引きが行われる泡瀬ビジュル大通りの場所を尋ねると、やはり綱引きを見にいらしたようで会場の近くまで道案内をしていただいた。 泡瀬3区のバス停に着いたのが14時半頃、そこから会場の大通りまで10分ほど歩いた。大通りの名前にもなっている泡瀬ビジュルがあったので、先ずは参拝。 参拝の後、大通りを人垣のある方へ歩いて行くと演舞が行われていた。大通りに面したビルの外階段に見物客が並んでいるので、便乗して暫く日米混合?の創作エイサーを見学する。 以下、泡瀬大綱引プログラムから 14:00 道ジュネー(東方 泡瀬公民館出発、西方 マンタ公園) 14:00 カヌチグチ演舞 泡瀬わらべ太鼓 フラダンス フラダンス”プアヒヒ””ハナハナ” ニックス・ハマヤー太鼓 泡瀬トントンミー子ども会演舞 泡瀬第三婦人会集団演舞 沖縄市東部地域老人会連合集団演舞 琉球國祭り太鼓 17:00 開会式 開会の言葉/泡瀬大綱引副実行委員長 実行委員長あいさつ/泡瀬大綱引実行委員長 沖縄市長祝辞 沖縄市議会議長祝辞 審判長注意/綱引部会長 空手演武・棒術演武 東方 心治館/西方 誠武館 若者ガーエー 東方・西方 1番太鼓燈籠(テークドゥール)演舞・若者ガーエー 2番太鼓燈籠演舞・若者ガーエー 3番太鼓燈籠演舞 太鼓燈籠乱舞 綱寄せ カヌチヌチ(貫き) 支度(シタク)寄せ 子ども綱引(小学生以下の児童・園児) 19:00 綱引開始 閉会あいさつ/泡瀬大綱引副実行委員長 19:45 花火打ち上げ 綱引きが終わった後、まだ熱気の残る通りの写真を撮りたくて、先ほどのビルの外階段に上る。俯瞰写真を撮影していると、隣りの人から声をかけられる。安田のシヌグでお会いして、先月「全琉秀作写真選抜展」を見に市民ギャラリーへ行って再会した祖慶さんだった。車で来ていて、これから那覇の方へ帰るということで乗せてもらうことになった。途中、58号沿いのレストランで晩ご飯までご馳走になってしまった。ありがとうございます。 部屋に帰り撮影データを外付けのハードディスクにバックアップ。日記用に少し現像していると、机が揺れた。地震?沖縄近海でマグニチュード5.0だった。写真は泡瀬の大綱引きの様子。 |
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旧暦12月8日の今日は、ムーチー(鬼餅)。沖縄では健康と長寿を祈願して、月桃の葉に包んだ餅を食べる。ムーチーの日が近づくと、公設市場のまわりにムーチーを並べるお店が増えていた。 餅といっても本土のお餅とは異なり、沖縄では餅粉に水を入れて捏ねて作る。それを月桃の葉に包んで蒸すのだが、ネチャネチャとした餅はなかなか月桃の葉から剥がれず、そのうち手の指にも餅がひっついて食べるのに難儀した。 なぜ沖縄でムーチーを食べるようになったかを伝える民話がある。童話や民話の多くにはエロスとタナトスが秘められているが、このお話もそうなっている。興味があれば、検索して下さい。 |
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ムーチービーサーという言葉がある。ビーサーは、寒いといった意味。沖縄ではムーチーの日が来ると寒さが厳しくなるという風に伝えられている。因みに今日の那覇の最低気温は17℃、最高気温は22℃だそうだ(笑)。でも沖縄に住んでいると、20℃を切ると寒く感じるのも事実。 |
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<五輪デモに金銭で動員は未確認 不適切字幕でNHK謝罪><NHK、事実確認せず不適切字幕「金もらって」「五輪反対デモ参加」><NHK大阪拠点放送局 河瀬直美監督に密着の「五輪ドキュメンタリー」で謝罪…捏造は否定><NHKの河瀬直美さんの五輪番組、字幕に不確かな内容 21年放送><NHK、番組の不適切字幕で謝罪> この他の気になった記事を備忘録として。 |
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←松の内も明け(地域によっては15日まで)、お正月気分もすっかりなくなったのでトップ画面を更新しました。スペインのラ・マンチャ地方にある、カンポ・デ・クリプターナです。 ↓これまでのトップ画面。 |
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Photo Diaryを更新。 *2013年10月2日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑節祭3日目は、ツヅミ。ツヅミとは、締めくくり、総まとめといった意味のようだ。 祖納では、ムラグゥトゥ(共同作業)として祭場の掃除や、村内の井戸の掃除などが行われる。 朝10時頃に公民館へ行くと、広場の雑草を刈っていた。海岸近くの作業所では、女性達がツヅミ用のうさい作りの真っ最中。昨日の主祭場である前泊浜は見事に片付けられていた。 今日はミリク役を務めた人の家へ公民館長、役員、舟頭、年輩者が酒と料理を持ってお礼参りに行くので、同行させていただいた。11時に公民館に集合し、歩いて3分ほどのお家へ訪問。館長さんが仏壇に礼拝した後、ミリク役へのお礼をのべる。その後、お酒と料理をいただきながら1時間半近く歓談。 お礼参りを済ませた後、一旦公民館に戻り、今度はウヒラカー(大平井戸)へ。ここに昨日の衣装で出演者が集まることになっており、13時頃に揃いだした。まず館長さんがカー(井戸)に祈願をし、その後、奉納芸が行われた(ミリクとフダチミは出ない)。祈願から、最後の演舞である獅子舞までおよそ1時間ほどだった。 ウヒラカーでの儀式が終わると、旗頭を先頭に集落を練り歩き、主だった施設や家々をまわる。玄関から旗頭の先端を入れて家の祝福をし、そうして練り歩く事で集落を清めるという事のようだ。 2時間ほど集落を練り歩き、最後は公民館に到着。途中、西表中学校と保育所では、少し演舞も披露した。 公民館に到着し、旗頭が公民館の中に仕舞われた後、休む間もなく広場で芸能のツヅミ行事が始まった。一番最初は舟頭と舟子によるヤフヌ手(ピヨーン)で、男性達の迫力ある歌声が素晴らしい。なんとなく宮良で観たアカマタクロマタが登場した時の興奮を思い出す。 ヤフヌ手の後、アンガー踊り、狂言、棒術、獅子舞と1時間半ほど演舞が続き、18時半頃に終了。この後、公民館の中で直会が行われるようなので、お礼を言って宿に戻る。 昼間、宿の近くにある民家の庭にサガリバナを見つけた。今晩蕾みが開きそうな気配があったので、22時過ぎに見に行くと、ピンクの花を咲かせていた。 台風23号の影響で、今日の上原ー石垣便は午後から欠航になった。明日も欠航が予想されるので、石垣に戻るには大原港へ出なくてならないだろう。 *本日の出費。おにぎりセット300円、パン240円、カップ麺200円、魚肉ソーセージ4本280円。写真はウヒラカーでの獅子舞演舞。 |
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*2013年10月3日のPhoto Diaryはこちら。 | ||
↑朝5時に携帯のアラームで起床。歯を磨き、顔を洗い、荷物をまとめる。 上原港から石垣島への船は出ないだろうと思い、祖納を6時27分に出発する大原港行きの安栄観光の送迎バスに乗る。途中、上原港の受け付けで石垣港までの乗船券を購入。上原港から大原港まで、バスはノンストップで突っ走る。 大原港から7時50分のフェリーに乗船。40分ほどで石垣港に着いた。離島ターミナルからバスターミナルまで歩き、石垣空港行きに乗車。 空港に着き、スカイマークのカウンターで11時35分発の那覇行きのチケットを購入。搭乗手続きを済ませて、ロビーで出発を待つ。 那覇空港に到着し、北のエレキガール・TOMOKOちゃんと合流。彼女の運転するレンタカーに旅の荷物を乗せて、撮影に出掛ける。当初は西表島か石垣島での撮影も考えていたが、台風23号が接近中なので急遽那覇に戻っての撮影となった。 昨年は台風の合間に奇跡的に晴れた日の撮影だったが、今回は台風接近中の撮影。昨年は金武に行こうと思いながら時間がなくて普天間での撮影となったが、今回は那覇から高速に乗って金武町へ。キャンプハンセンの入口前に広がる社交街で撮り始める。 社交街と近くの海岸で撮影した後、コザ十字路へ。閑散とし時間の止まったような吉原社交街、嘗ての黒人街である照屋を車でまわりながら撮影。 無事撮影が終わったので、那覇へ戻る。お腹が空いたので車をコインパーキングに入れて、ハイウエイ食堂へ。2人だがアレコレ食べたくて、ヘチマの味噌煮定食(刺身・ポーク玉子付き)、くーぶいりちー定食、ゴーヤチャンプル定食を注文。西表島では、お弁当とパンとカップ麺ばかりだったのでご馳走だ。 食べ終わり、家の前まで送ってもらう。とりあえず今撮影してきたポートレート、そして西表島の写真データをバックアップする。 疲れているので、細かい荷物の片付けは明日にする。久しぶりにお酒も呑まずに就寝。 *本日の出費。祖納→大原港→石垣港2300円、バスターミナル→石垣空港520円、石垣空港→那覇空港5000円、ミルクティー150円。写真は西表島の大原港。 |
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*2013年10月5日のPhoto Diaryはこちら。(台風通過中の那覇市内) |
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↑沖縄では旧暦の9月7日に、数え年で97歳の長寿を祝う行事・カジマヤーが行われる。この年齢になると、もう一度子供に帰ると言われ、玩具である風車(カジマヤー)を車に飾り付けてパレードをしたり祝賀会を開いたりと集落をあげて盛大に祝う。 朝7時頃に最寄りのバス停を出る名護西線で、名護バスターミナルへ。バスターミナルの入口で、Tさんご夫婦と待ち合わせ。Tさん達とは7月の八重山の豊年祭会場で何回か顔を合わせており、その後も与那原の大綱引き、安田のシヌグ、そして先日の西表島・祖納の節祭では祭り会場だけでなく宿泊した民宿でも一緒になった。そんな縁で今回のカジマヤー見学をお誘いしたところ、ご一緒することになった。 |
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年末と年始に遊郭に関する記事が2本流れてきた。一つは尼崎の歓楽街「かんなみ新地」が70年の歴史に幕を下ろしたという記事で、もう一つは大正時代の吉原遊郭が舞台の「鬼滅の刃」人気で、吉原が観光資源として注目されているという記事だった。同じ遊郭という場所を扱った記事だが、内容は天と地ほどの差がある。 沖縄市にも吉原と呼ばれる地域がある。コザ十字路の近くで住所は美里一丁目だが、東京の吉原遊郭から名前を取った社交街で、いわゆる「チョンの間」と言われる部屋がゆるい山のような場所に並んでいる。 普天間飛行場の近くにあった真栄原と共に沖縄の2大社交街と言われたそうだが、真栄原社交街は2010年頃から警察と市民団体の浄化運動で壊滅し、2012年に写真を撮りに行った時は人影のないゴーストタウンになっていた。吉原にもやはり2012年に撮影に行ったが、こちらも真栄原と同じく警察の取り締まりで空き家ばかりが目立っていた。 吉原は思っていたより広い社交街で、路地も入り組んでいた。時折ゆっくりとタクシーや乗用車が道を流していた。廃墟のような、とまではいかないが閑散とした町を写真を撮りながら歩いていると、妙齢なお姉さんと目が合った。知らんぷりで通り過ぎるのも何なので、「こんにちは」と挨拶すると、「写真を撮ってるんですか?」と聞かれドキッとした。やばいかな、と思ったら「写真をいっぱい撮って残して下さい。貴重になりますから」と言われた。 お姉さんは中の町の社交街でお店を出しているそうで少し立ち話をしたが、警察の取り締まりが多くて「みんな、たいへんサー」と嘆いていた。吉原は本来の商売ができず、空き店舗をアパートとして貸したりもしているようだった。 下の写真は、間口の狭い同じような部屋が並ぶ吉原社交街の一角。角に石敢當と書かれた、魔除けの札があるのが沖縄らしい。 |
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昨日の沖縄タイムスに<「島人のアクセントを実際の声で残したい」 伊是名島の方言、琉球大の協力を得て録音>という記事が掲載されていた。 | ||
これで思い出したのが、多良間島の言葉と発音だ。那覇に住んでいた時に、多良間島に関する本を読んでいるとパピプペポのように文字の右上に付いている○=半濁音が、イやムという文字に付いていた。最初は誤植だろうかと思っていたが、そうではないらしい。調べると多良間島独特の言葉の発音を表記しているそうだが、イやムに半濁音の○が付いた表記を眺めていても、その発音がイメージできなくて途方に暮れる。これこそ実際の声で残して欲しい。 | ||
上の写真は、石垣島から那覇へ向かう飛行機から撮影した多良間島。行きたかったが行けなかった有人島が、多良間島だ。 新型コロナ感染の第6波に入ったようだ。今日一日の全国の感染者数は6809人で、昨年9月以来の6000人越え。沖縄が過去最多となる1414人、東京は922人。富山も13人の感染者が出て、二桁の感染者は114日ぶりとなる。新田知事が記者会見を開いて、富山アラートを発令したそうだ。 |
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Photo Diaryを更新。 *2013年9月28日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑今日の午後の便で那覇へ帰る。9時頃に起きて、ドミトリーのベッドを片付け。これでチェックアウトの用意はできた。 リビングのテーブルにパソコンを広げて、昨日の日記メモを書く。昨日の事を思い出しながら、写真を見ながら書くので時間がかかる。書き終わったのは10時半過ぎだったろうか。 チェックアウトは11時なので鍵を返し、荷物を預かってもらい、11時少し前に宿を出る。散歩がてら空港行きのバスが出る、西里通り入口まで写真を撮りながら歩く。バス停の場所と出発時刻の確認をして、公設市場へ。公設市場の2階にあるお店で、お昼ご飯。宮古島に来てからお弁当やパン、カップ麺と寂しい食事が続いたので、奮発して1200円の刺身定食を注文。 食べ終わり市場の横の道を港の方に下りて行き、フェリー待合所で連続テレビ小説の最終回を見る。待合所で暫くぼんやりと休憩してから、まだ営業していない閑散とした飲屋街を行ったり来たりと散策。 散策に疲れたので市立平良図書館に寄り、1時間ほど椅子に座って写真集を2冊眺める。 15時半過ぎに宿へ荷物を取りに行き、西里通り入口のバス停へ。バスを待つ時間は、いつもドキドキ。少しでも遅れると、何かの手違いでもうバスは行ってしまったんじゃないだろうかと不安になる。16時14分発のバスはほぼ定刻に到着して、空港に向かった。 搭乗手続きを済ませて、ロビーで出発を待つ。30日から西表島の節祭を観に行くので、宮古島から石垣島に直接行こうかとも思っていたが、一旦那覇へ帰る事にして正解だった。明日一日部屋でゆっくりすれば、少しは疲れがとれるだろう。 那覇行きの飛行機は満席で、出発時間はちょっと遅れた。那覇に近づくにつれて雲が多くなり、機体が少し揺れた。預けた荷物を受け取り、モノレールで美栄橋駅へ。駅を出ると道が濡れている。少し前まで雨が降っていたようだ。 部屋に着いたのは20時頃。とりあえず撮影データを外付けのハードディスク2台にバックアップして就寝。 *本日の出費。宮古→那覇5000円(事前に購入済み)、刺身定食1200円、西里通り入口→空港ターミナル210円、那覇空港→美栄橋290円。写真は宮古島中心部のお散歩スナップ。 |
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Photo Diaryを更新。 *2013年9月30日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑一昨日宮古島から帰って来たばかりですが、今日から西表島・租納と干立の節祭(シチ)を見に行く。 7時半過ぎに部屋を出て、モノレールの美栄橋へ。いつもは昼ご飯用のおにぎりを作って持って行くが、お米が無くなったので今日はなし。早めに搭乗手続きを済ませて、いつものようにロビーで出発を待つ。席にゆとりがあるようで、窓側の席が簡単にとれた。 10時丁度のスカイマークSKY561便で、石垣空港へ。ほぼ定刻に着いて、路線バスでバスターミナルへ。ターミナル近くの酒屋とコンビニで、泡盛とカップ麺やパンを買って行く。 離島ターミナルに行き、13時30分発の西表島・上原港行きの切符を購入。出発までの間に売店で、お弁当を一つ購入。 上原行きの船はちょっと小さめで、波が高かったこともあって揺れに揺れた。窓がないので、両端の席は波しぶきを被って大変な事になっていた。乗船時間は40分ほどだけれど、ちょっとぐったり。 上原港についてフェリー会社の無料送迎バスで、租納集落へ。バス停の先に今日から3泊する宿があった。部屋を案内してもらい、3泊分の宿代6000円を支払う。宿の直ぐ裏にある公民館に行き、今日のウブシクミ、リハーサルの時間を尋ねると20時からだそうだ。一旦宿へ帰り買って来たお弁当を半分食べて、宿の自転車を借りて租納の節祭が行われる前泊浜へ。 浜へ下りる手前で、人だかりが見えたので寄ってみると明日行われるユークイのお供えや来賓の方のためのうさい(料理)作りだった。 海岸へ下りると舟漕ぎ用の舟が2隻、浜に並べられていた。舟の後部にはお米と塩、ウコーが供えられている。しばらく祖納の集落を自転車で走り、それから隣りの干立へ移動。集落の間は、自転車でゆっくり走って5分ほどか。 干立ての公民館へ行くと、子供達が旗頭の練習をしている。公民館の隣りが祭りの主祭場となる干立ウガンで、その前が舟漕ぎが行われる前泊海岸。海岸では女性達が、珊瑚の欠片を拾っていた。この珊瑚を夜、家の周りに撒いて屋敷を祓い清めるそうだ。 公民館でのウブシクミは20時からと聞いていたが、30分ほど前に行って様子を伺う。ウブは大きい、シクミは仕込みで総合リハーサルのようなものだろう。衣装は着けないが、明日のユークイで奉納される演目を順番通りに行う。 ウブシクミが終了したのは22時少し前で、その後は公民館の中で館長さんや祭りの責任者の方が挨拶、そして明日のスケジュールの確認が行われた。 公民館から歩いて2分もかからない宿に戻り、お弁当の残りを食べながら、撮影データのバックアップ。カメラのバッテリーを充電しながら日記用のメモを途中まで書いて就寝。 *本日の出費。美栄橋→那覇空港290円、那覇→石垣5000円(事前に購入済み)、石垣空港→バスターミナル520円、八重泉900ml650円、お弁当(?)、カップ麺258円、カップうどん195円、焼きそばドッグ99円、カレーコロッケドッグ105円、チーズパン247円、ミネラルウオーター98円、3泊分の宿代6000円。写真はウブシクミの様子。真ん中の男性はミリク役。 |
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Photo Diaryを更新。 *2013年10月1日のPhoto Diaryはこちら。 |
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↑朝7時に携帯電話のアラームを設定していたが、4時に鳴らされた銅鑼の連打で目が覚める。布団にくるまってウトウトしていたら6時に2回目の銅鑼が鳴らされ、その後は10分、20分おきに銅鑼が鳴る。 |
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多くの会社で仕事始めの今日、早朝に小笠原諸島の母島で震度5強の地震があった。このところ、大きな地震が続いている気がする。 元旦の夜にアマゾンで購入したフランス人歌手、フランソワーズ・アルディの5枚組CDが、昨日届いた。早速iMacのiTunesに取り込んで聴いている。彼女の歌を最初に聴いたのは、1982年に発売された『Quelqu'un qui s'en va(邦題は、時の旅人たちへ)』で、ちょっとモゴモゴとした、でも妙に官能的なフランス語の響と洗練されたアレンジの曲に惹きつけられた。 今回購入した5枚組は1967年から1972年に発売されたアルバムで、『Quelqu'un qui s'en va』ほど洗練された音作りではないが、ささやくような彼女の歌声が堪能できる。 フランス語で思い出すのは、小学生の頃だと思うがテレビの連続番組か映画番組でフランキー堺が演じる大学の先生(?)が「世界で一番美しい言葉はフランス語です」というようなセリフを話していて、以来頭にこびりついている。フランス語が世界一美しい言葉かはわからないが、官能的な響の言葉だと思う。 東北地方の発音とフランス語の類似が指摘されるが、宮古島の言葉「みゃーくふつ」も何だかフランス語に似ている気がする。 YouTubeからフランソワーズ・アルディの「Mazurka」、下地勇のみゃーくふつで「おばぁ」。 |
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昨年の暮れに、警視庁 区営住宅申し込み者情報記録 フロッピーディスク紛失という記事を読んで驚いた。紛失したことよりも、記録媒体としてまだ現役でフロッピーディスクが使われていることに。 | ||
1990年代の終わりから2000年代の初めにかけて、フロッピーディスクに記録するソニーのマビカというカメラを持ち歩いて自分の日常を撮っていた。その頃のフロッピーディスクが、ダンボール1箱分ほどある。 |
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今日は沖縄で新たに225人、東京で151人の感染が確認され、全国では3ヶ月ぶりに1,000人を超える感染者となった。新型コロナ感染の第6波は、もうそこまで来ているようだ。 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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Photo Diaryを更新。 |
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↑今日からミャークヅツを見に宮古島へ。 朝起きてお米一合を炊き、おにぎりを3個作る。7時半過ぎに部屋を出て、美栄橋からモノレールで那覇空港へ。1階のスカイマークのカウンターへ行くと3階に引っ越していて、慌ててエスカレーターで3階へ。手荷物を預け、搭乗手続きを済ませて搭乗ロビーでおにぎりを食べながら出発を待つ。9時55分発の541便はそれほど遅れることなく宮古に向けて出発した。 宮古に着いて飛行機を降りようとしたら後方の座席に、渡名喜島・粟国島でお会いした沖縄大学のSさんが。やはりミャークヅツを見にいらしたようだ。空港でレンタカーを借りて池間島まで行くそうで、便乗させていただいた。 空港から平良へ行き、3泊予約してある宿に寄ってもらいチェックインの手続きを済ます。昼ご飯を食べましょうとなって、Sさんおすすめのお店でゆし豆腐そばを注文。 食べ終わり、お店を出て、まずは池間島に行く途中にある西原集落へ向かう。西原は、伊良部島の佐良浜と同じく池間島から分村した池間の人達が住んでいる集落だ。池間民族の最大の行事といわれるミャークヅツは、西原、佐良浜、池間島の3カ所で行われる。 13時頃に西原集落のナカマ御嶽に着くと、道の端に敷かれたゴザの上には多数の空き瓶が転がり、既にかなりお酒の入った男性の集団が帰る用意をしていた。 今日はミャークヅツの初日、あら日で、早朝から祭りの開始を祝い酒が酌み交わされていたようだ。 西原から島尻集落の購買店に寄って、今年のパーントゥの日程が決まったか尋ねたところ、最近決定したようで教えていただいた。 14時頃に池間島に着いて公民館の前にある水浜広場に行くと、広場の中央に棒が立てられ、てっぺんに日の丸の旗が上がり提灯をぶら下げた紐が四方に伸びていた。近くから歌が聴こえて来たので歩いて行くと前里ムトゥで、しばらく外から覗いていたら、どうぞ中に入って下さいと声を掛けられたので座って見させていただいた。会計などの事務報告が行われている最中で、その後長老の前で一人一人踊る余興に入った。座っていると泡盛をコンデンスミルクで割ったミルク酒が出て来て、ご馳走になる。 せっかくなので池間島にある4つのムトゥ(元家)を見ようと、真謝ムトゥ、アギマスムトゥ、マイヌヤームトゥを回ってみた。部屋の大きさは大小あるが、どのムトゥにも万国旗が飾られカラオケが歌われ、ミルク酒が飲まれていた。 マイヌヤームトゥから水浜広場に戻る途中ウハルズ御嶽の前を通ると、鳥居の前で靴を脱いで裸足で参道を御嶽の方に歩いて行く人が何人もいる。ウハルズ御嶽に入れるのはミャークヅツの2日目だけかと思ったが、今日から入れるようだ。せっかくなので裸足になり、御嶽の中に入ってみた。 御嶽を出て広場に。15時40分頃から広場のまわりに設営された各ムトゥのテントを二人の神司が順番に周り、御願が行われた。その後、神司をインギョー(退役)された女性も交えて12人ほどがウハルズ御嶽に向かって御願を行い、16時からクイチャーが開始された。 最初は日の丸の描かれた扇子をもった女性達が円を作ってクイチャーを踊る、その後背広にブルーのハッピを着た男性達が合流して大きな2重の円を作って踊られた。 1時間ほど池間島のクイチャーを観た後、Sさんの運転する車で西原に戻る。ナカマ御嶽の方へ行くと今年から親となる初親(池間島は数えで55歳、西原は50歳)の男性達が一列に並び、先輩からの杯をいただき明日の儀式の予行演習を行っていた。 しばらく見せていただいた後、宮国の方でも神事・ニガイが行われているというのでSさんの車で寄って、平良に帰って来た。 撮影データをバックアップし、日記用のメモを書いて早めに就寝。 *本日の出費。美栄橋→那覇空港290円、那覇→宮古5000円(事前に購入済み)、宿泊代3泊分6000円、ゆし豆腐そば788円。写真は前里ムトゥにて、ミルク酒を呑んで長老の前で踊る男性。 |
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*2013年9月26日のPhoto Diaryはこちら。 | ||
↑ミャークヅツ2日目は、ンナカヌヒ。朝5時半に携帯のアラームで起床。歯を磨き、顔を洗い、那覇で買って来た菓子パンとカメラを持って宿から歩いて2分ほどの八千代バスへ。外は小雨が降っていた。 池間島漁港前行きの始発バスは6時30分かと思っていたら、6時50分だった。自販機で缶コーヒーを買って、待合所で出発を待つ。35分過ぎに自家用車で運転手さんが到着。出発まで時間はあるが、バスの中で待たせてもらう。 定刻にバスは平良を出発。乗客はただ一人。結局終点の池間に着くまで貸し切り状態だった。バスを降り、丘のような山を越えて集落に入り、水浜広場を通ってウハルズ御嶽へ。鳥居の前でスニーカーと靴下を脱ぎ、裸足で参道を歩いて奥に行くと小さな拝殿がある。その横には砂が盛られた土俵のような場所があり、瓶のようなものが沢山埋められている。その手前に2人の神司の方が座ってニガイを行っていた。ニガイの合間に司の方に尋ねると、瓶だと思っていたのは香炉だそうだ。香炉の埋められた砂の上を大きなオカヤドカリが1匹歩いていた。 ウハルズ御嶽を出て、4つのムトゥをまわったり、遠見台に上ったりして過ごす。それにしてもミャークヅツの期間しか入れないウハルズ御嶽は、朝からひっきりなしに人が訪れており御嶽前の細い道は行き交う人でいっぱいだ。 集落を少し散歩してから漁港前のバス停へ。11時5分発の平良行きに乗り、西原集落のある西辺で下車。11時半過ぎにナカマ御嶽に行ってみると既に酒宴が終わったところで、御嶽前の道に敷かれたゴザの上には空き瓶やペットボトルが散乱していた。これで一旦休憩となり、次は14時頃に御嶽に集合してパレードが始まるという。せっかくなのでゴミの後片付けを少しお手伝いしてから、集落を散策。 13時半頃から徐々に人が集まり始め、御嶽の殿に立て掛けられていた旗が手前の広場の中央に出されて、クイチャーが始まった。14時から40分程クイチャーが踊られ、いよいよパレードが出発。ナカマ御嶽の前からパトカーに先導されて集落の中を進む。一番先頭にはお酒を持つ男性、お米や塩を乗せた盆を持つ男性。次に幟旗を持った男達。そして三線や太鼓を乗せたトラックの後に、白シャツにネクタイを締めた男性達の行列が続く。沿道では、扇を持った女性達が出迎えて祝福している。 パレードは時計回りに進み、所々で立ち止まりクイチャーが踊られた。公民館の前の広い道から、行事の行われるジャーに入る路地の辺りに神司を中心に女性が扇を手に持ち道を塞ぐように並んでいる。パレードが近づくと、パレードをジャーに導くように女性達は後ろ向きに路地を歩き、その後を男達が着いて行く。そうして15時半ごろにパレードはジャーに到着し、土俵のまわりを大きな円を描くようにクイチャーが行われた。ジャーは沖縄本島で言うミャーと思われ、いわゆるアシビナー(遊び庭)だろう。クイチャーが終わるとジャーの奥にゴザが敷かれ、神司が座る。 パレードの先頭でお酒と供え物の盆を持った男性2人が、神司の前に座りお酒を注いで接待。その後、2人の神司がお酒と塩、米を乗せた盆を持ち、土俵の横に立てられた幟旗の下を清めてまわった。 神事が済んだ後、今年からミャークヅツに参加出来る年齢になった男性、初親(ハツウヤ)の自己紹介があった。初親になる年齢は少々違いがあり、池間島は数え年で55歳、西原は50歳、伊良部島/佐良浜の本村が47歳、仲村が50歳となっている。 自己紹介の後、2日目の行事としては最後になる角力が16時20分頃から行われた。5人ずつに分かれての取り組みだが、勝負の展開が早く20分ほどで終わった。 角力の後にもう一度全員で大きな輪を作り、クイチャーを踊った後に万歳三唱をして終了した。 行事の終わった後、神司の方にお話しを少し伺おうと思ったら、これから踊りが始まるという。男性陣の何人かがナカマ御嶽の方に向かっているので着いて行くが、後片付けの最中だった。 ここで、もう一度クイチャーがあるか聞くが、もう踊りは明日だと言われる。それではお疲れさまでした、ありがとうございましたとお礼を言ってバス停に向かって集落を歩いていると、味わい深い女性の唄声が聴こえて来た。聴こえて来る方に歩いて行くと、そこは先ほどのジャーで、一人のお年寄りが歌い、女性達がクイチャーを踊っていた。 このクイチャーは男性中心の行事であるミャークヅツとは別に、女性が中心となって楽しんでいるものと思われる。「光るナナムイの神々」にも、あら日の昨日午後4時からジャーでクイチャーを踊る女性達の写真が載っていたが、ナカマ御嶽にいた男性陣に聞くと踊りは明日という返事ばかりだった。どうもミャークヅツの行事の後に、女性達がジャーでクイチャーを踊っているのを知らない男性が多いのではないか。 それにしても素晴らしい歌だった。西原に伝わる古い民謡、古謡だと思われるが、それを手拍子だけで歌う。歌っているお婆さんについて教えてもらったら、映画「スケッチ・オブ・ミャーク」にも登場されている村山キヨさん88歳だった。キヨさんは暦を読みながら神行事の日程を取り決めるヒューイトゥインマを務めており、このミャークヅツの日取りも彼女が決定する。 ミャークヅツ2日目は、前回のミャークヅツの後に産まれた赤ちゃんを、それぞれのムトゥに報告するヤラビマスの儀式が各ムトゥで行われるが、早朝から行われる儀式なので見る事が出来なくて残念に思っていたが、思いがけずに生歌(マイクは通しているが)で歌われる古謡と踊りが堪能できて良かった。 ジャーに着いてから4曲、その前にも歌っていらしたので8曲ほどを歌われたのだろうか。途中にお菓子や、天ぷらを食べて休憩しながらの楽しい遊びだった。 幸せな気分で、ジャーから西辺のバス停に歩く。平良行きのバスは18時31分。少し時間がある。歩道のブロックに腰を下ろして、沈む夕日を眺めてバスを待つ。 バスは遅れる事なく定時に到着した。夫婦が一組乗っていた。終点の平良で下車して、宿へ帰る途中のスーパーで寿司セット、泡盛、お菓子を買って帰る。 撮影データをバックアップしながら、買って来た寿司と那覇から持って来たカップ麺で晩ご飯。シャワーを浴び、日記用のメモを書くが、朝早かったので疲れて途中で諦めて寝てしまった。 *You Tubeから宮古島・西原の古謡。スケッチ・オブ・ミャーク予告編。 *本日の出費。缶コーヒー110円、平良→漁港前500円、ミネラルウオーター110円、漁港前→西辺420円、西辺→平良140円、いなりと太巻きの盛り合わせ268円、菊之露360ml367円、ポテトチップス120円。写真は西原の古謡を歌う村山キヨさん。 |
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*2013年9月27日のPhoto Diaryはこちら。 | ||
↑ミャークヅツ3日目は、アトヌヒ。今日は池間島から分村して、伊良部島の佐良浜地区に移住した人達のミャークヅツを見に行く。 朝8時少し前に目を覚まし、30分ほどベットでウダウダした後、リビングのテーブルでパソコンを広げて昨日の日記メモの続きを書く。昨日は池間島から西原と移動したので書く事も沢山あり、時間がかかった。 11時半頃に宿を出て散歩しながら、人頭税石を見に行く。案内板には、「宮古を訪れた民俗学者・柳田國男が『海南小記』の中で、この石柱をぶばかり石(賦測石)と称し、この石で背丈を測って石の高さに達すると賦課されたとの伝承を紹介している」と書かれているが、なぜこの石柱を賦測石と思ったのかは記されていない。 人頭税石を見ようと思ったのは、多良間島の豊年祭もミャークヅツも人頭税に関係があるからだ。どちらの祭祀も人頭税を払い終わった喜びの祭りだと聞く。そして人頭税石は人頭税が年齢制で徴収される以前、この石の高さになると男は穀物、女は織物を納めさせるのに使われた。 人頭税石のある場所から散歩しながら伊良部島行きのフェリーが出る平良港へ。途中にあったお店で天ぷらを購入する。5個で150円だが、オマケしてくれて野菜2個とさかな5個が入っていた。 佐良浜港までの往復チケットを購入し、12時30分発のスーパーライナーはやてに乗船。波は高めで結構船は揺れた。 20分程で港に着いた。佐良浜の集落は斜面にへばりつくように密集している。なんとなく、クイチャーが踊られるジャーは斜面の上の方にある気がして狭い路地を上へ上へと歩く。坂の途中でおじいさんが家から出て来たので、クイチャーの踊られる場所を尋ねると、海岸近く、下の方を指さして教えてくれた。 教えられた方向に歩いて行くと狭い路地を挟んで仲村のジャーと、本村のジャーがあった。ジャーの横の路地を下りて行くと本村のムトゥが3つ並んでいた。一番手前にある真謝ムトゥに集まっていた男性や、ムトゥでの御願を担う元司の方に色々とお話しを聞く事ができた。 ※元司はムトゥでの御願をするが神職ではなく長老から指名された男性が担う。佐良浜を前里添、池間添という2つに分けて書かれることがあるが正しくは仲村と本村だそうだ。そして仲村には前里ムトゥ、本村には真謝ムトゥ、マイヌヤームトゥ、アギマスムトゥがある。そして今年は神司が不在で、男が中心の祭祀であるミャークヅツは開催できるが、他の神事は難儀な様子だった。神司の任期は3年で仲村に3人、本村に3人。3人のうち一人でも欠けると、その年は神司が不在となる。聞き書きと島口での会話なので、間違いがあるかもしれません。 また、伊良部島の祭祀体系については「神々の古層 海の神への願い 竜宮ニガイ(宮古島)/比嘉康雄」(ニライ社)に詳しく書かれている。 2.祭祀体系の概略(前里添、池間添) 前述したとおり前里添、池間添は池間島から分村してできた集落で、もう一つの池間島からの分村集落、西原(宮古本島在)と共に祭祀体系が親島である池間島とほぼ同じであるのは、分村時に祭祀体系も移したからである。 両字の守護神を祭ってあるウタキが前里添にある。ウタキはナナムイ、ウハルズ、大主神社などと称されている。親島である池間島のウハルズウタキの分社的拝所と考えられる。このウタキを中心にして祭祀がおこなわれている。島で生まれ育った女性が四十七歳になると、ユークイという神女就任の祭祀を経てユークインマという祭祀成員になることが慣例である。 ユークインマ(前里添五十~五十七歳、池間添四十七~五十七歳になる者)が氏名(夫の氏名)を書いたものを盆にのせてゆり落とし、落ちたものを再び盆に戻すことを数回くりかえして、多く落ちた者上位三名を司祭者として選定する。この選定方法をンマユイと称している。選定される三名はウフンマ、カカランマ、ナカンマである。ウフンマはウフヅカサともいい、一番の責任者(司祭者)である。カカランマはニガインマともいい、神がかりをして神詞を唱えるのが主である。ナカンマは供え物を整えたり、準備をしたりする役を担っている。任期は三年である。任期中は島を出ることを許されず、常に神職者の自覚を持って過ごさなければならない。もちろんこの三名の司(ンマ)は前里添、池間添にそれぞれいる。年中行事は前記ウハルズウタキを中心に両字合同の形でおこなわれる。なお「ンマ」は母親の意である。 14時40分に元司が、家の神棚に置いてあった盆を持って外に出て奥にある祠に御願をする。元司の後には、今年初親となる男性が並んでいる。一通り杯がまわされ神事が終わった後、元司を先頭に細い路地を通りジャーに入って行った。ジャーの中央に日の丸の旗とお神酒の入った陶器が置かれ、男性達は拝所の中に入り、ここでも御願が始まった。 路地を挟んだ仲本のジャーにも旗とお神酒が置かれ、拝所の中では神司(任期の終わった女性が代理で行っている?)が御願を行っている。こちらでも男性が一人一緒に御願をされており、元司だろうか。 30分ほど拝所の中で御願を行っていた本村も広場に出て、神司(任期を終えた前任の神司が代理?)と一緒に御願が始まった。 そうこうしているうちに、16時になって仲村ジャーでクイチャーが始まった。最初の曲はテンポの遅い、ゆったりとした歌と踊りで初親の男性と女性達が広場をまわる。その後はヒヤサッサの掛け声のにぎやかな歌となった。三線も太鼓も入らず声だけで踊れる、島の音楽の豊かさに感心する。 仲村ジャーのクイチャーから10分、本村ジャーでもクイチャーが始まった。こちらも最初の曲は、ゆったりと優雅に広場をまわる。その後は仲村ジャー、本村ジャーとも殆ど休憩なしでクイチャーが踊られる。 本村ジャーの下の方に屋台が並んだ広場があった。朝から天ぷらしか食べていないので、300円のカレーを注文。食べ終わりジャーに戻って18時過ぎまでクイチャーを眺めてから、フェリー乗り場に。ムトゥで聞いた話しでは19時頃までジャーで踊った後、拝所の中に移動。テンポは早くなり、激しい踊りになるようだ。 19時に佐良浜港を出るフェリーで、平良港へ。待合所の売店でおにぎりとオカズのセット、油味噌の入ったおにぎりを買って帰る。 宿のリビングでパソコンを広げ、撮影データのバックアップをしてからシャワーを浴び、日記用のメモを作成。今日も途中で眠くなって、泡盛を呑んで寝てしまった。 *本日の出費。天ぷら150円、平良港→佐良浜港のフェリー往復700円、カレー300円、おにぎりとオカズのセット100円、油味噌のおにぎり50円。写真は佐良浜のミャークヅツでクイチャーを踊る人たち。 |
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1月1日(土) |
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明けましておめでとうございます。 |
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2013年の元旦は早朝に家を出て、自転車で首里城へ向かった。日の出が見られそうな場所を探して歩いて行くと、それらしい場所があり、たくさんの人が城壁に座って日の出を待っていた。あいにく厚い雲がかかっていたが、7時半頃になって雲から太陽が顔を出した。 しばらく日の出を眺めてから、首里城の御庭へ新春の宴を観に行った。御座楽の演奏の後、メイン行事である朝拝御規式が行われた。 |
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←トップ画面を更新しました。2013年元旦に行われた朝拝御規式。この日は多くの儀礼の中から「子之方御拝・にぬふぁぬうぬふぇ」、「朝之御拝・ちょうぬうぬふぇ」、「大通り・おおとーり」の3つが再現された。 ↓これまでのトップ画面。 |
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本年もよろしくお願いいたします。 |
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