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◯製作中の富山の祭りと芸能
◯製作中の富山の祭りと芸能歴史年表

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10月? 白川郷 どぶろく祭り
10月? 利賀の山祭り(石かち)
10月15日に近い日曜日 朝日町境の獅子舞
10月最終土曜日 砺波 東石丸北部の獅子舞(金蔵獅子) 

◯射水市三ヶの十社大神 御田植祭
◯7年に1度、10月に開催 次は2022年 朝日町山崎 米吊り奉納
◯加茂神社 出雲へ神を送る神送祭 9月30日と10月31日?
◯5年に一度、若手神職でつくる県神道青年会が御田植祭
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2022年8月22日〜8月27日 式年遷宮祭

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◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
与論島の洗骨儀礼
◯富山県 新型コロナウイルス感染症について 
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◯都内の最新感染動向 https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/
◯山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信 https://www.covid19-yamanaka.com/index.html
◯新型コロナウイルス感染速報 https://covid-2019.live/
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/、が
○チョ 10イさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

メディア関連
富山の祭り写真集に 福岡町の木原さん 北日本新聞
木原盛夫 写真展「とやま、祭り彩時季」 たかおかストリート
カメラ館で木原盛夫展 高岡ケーブルテレビ
写真で巡る富山の祭り 木原盛男写真展 高岡ケーブルテレビ
歴史ある寺社・文化紹介 高岡御旅屋セリオで木原さん写真展 北日本新聞
高岡まちなかギャラリー - 御旅屋セリオ
祭りの写真で地域を学ぶ 高岡・福岡の寺子屋サロン
祭りの雰囲気 写真で感じて 中止相次ぐ中 福岡の木原さん展示 中日新聞
木原盛夫さん写真展 県内の祭りなど題材に 北日本放送
富山の祭りを写真で紹介 木原盛夫写真展 朝日新聞
県内の祭礼や伝統行事写す 木原さんが写真集寄贈 北日本新聞
木原さん、祭りの写真集を寄贈 高岡ケーブルテレビ
2020年9月18日OA分 いいねとやま#219 チューリップテレビ

ブログなど
木原盛夫写真展「とやま、祭り彩時季」 ゆきれぽ
今年のお祭りは 写真展で・・・・・・ yoshijunのブログ
200814木原盛男写真展高岡彩時季御旅屋セリオ5階3 42
200805ミュゼ福岡カメラ館とやまの祭り木原盛男写真展6 26
ミュゼふくおかカメラ館(富山県高岡市)の木原盛夫 写真展 『とやま、祭り彩時季』(~9/27)
祭りの色彩に思いをはせて  タビノイロドリ

10月30日(金)

 朝晩は寒くなってきたので、昨日から湯たんぽを使用している。
ニック・ロウ

 本人への30時間にも及ぶインタヴュー他、数多くの関係者への取材をまとめた『恋するふたり ニック・ロウの人生と音楽』(シンコーミュージック)という528ページのニック・ロウ本が今日発売になったようだ。
 パブ・ロック系と称されるミュージシャンで一番最初に撮影したのがニック・ロウで、1992年にポートレートを、1994年にライヴを、1998年にライヴとポートレートを撮影している。今あらためて考えたら、来日アーティストの中で一番多く撮影した人かもしれない。
 ちなみに1992年に撮影したポートレートは、1996年の来日ツアーのパンフレットの表紙に使用されている。パンフはLPサイズのアルバム・ジャケット仕様で、中にCD-ROMが入っており、CD-ROMには1994年に撮影したライヴ写真が収められていたと思う。確かCD-ROMはハイブリッドではなくMac専用だったと思うので、Winユーザーは観れなかったんじゃないだろうか。
 ニック・ロウを撮影した後も、1993年にグレアム・パーカー、1998年にエルヴィス・コステロと、パブ・ロック系といわれるミュージシャンを撮影したが、1999年にアヴェレイジ・ホワイト・バンドを撮影した時に、同行していたライターの方が彼らをパブ・ロック系のグループとして認識していたので驚いた。

アヴェレイジ・ホワイト・バンド

 アヴェレイジ・ホワイト・バンドというバンド名は知らなくても大ヒットした「ピック・アップ・ザ・ピーセズ」を耳にしたことのある人は多いはずで、個人的にはソウルやファンクというカテゴリーのバンドとして捉えていた。
 結成した当初はパブ(酒場)で活動していたそうで、パブ・ロックの定義に沿えば彼らもパブ・ロック系のミュージシャンなのだろうが・・・どうも個人的にはこの辺りからパブ・ロックって何?とモヤモヤしている。

 上の写真は1992年10月に撮影したニック・ロウ。このカットと手の位置が異なる写真が、1996年の来日ツアーのパンフに使用された。入校した写真原稿は、印画紙に焼いた後に薬剤に浸けて調色したプリント。
 下の写真は1999年4月に撮影したアヴェレイジ・ホワイト・バンドのオニー・マッキンタイア(ギター)と、アラン・ゴーリー(ギター・ベース)。この時、アラン・ゴーリー(写真右)がダリル・ホールのコンサートのバック・ミュージシャンとして1994年に来日したというので、そのコンサートは自分も撮影に行ったと話すと、どうりで君の顔は見覚えあると言って笑った。

 いやいや、ステージの下で撮っていたが、そんなことはないだろう(笑)。
 You Tubeから「Cruel to be kind/Nick Lowe」、ダリル・ホールとアラン・ゴーリー(5弦ベース?)が共演する「Pick Up The Pieces」。

 昨日も午後から運動不足を解消に、自転車をブラブラと漕いでいた。醍醐の方を走っていると前方から電動スクーターに乗ったおばあさんがやってきて、時間を教えてくれという。そして小矢部の〇〇はどっちの方向か尋ねられた。小矢部はたぶんこっちですが、少し先にある住宅でもう一度聞いて下さいと言うと、おばあさんは電池がそろそろ切れそうだという電動スクーターを走らせた。心配でしばらく様子を見ていると、住宅は素通りして戸出方向に曲がって行く。そっちに向かって走るといつまで経っても小矢部には着かないので自転車で後を追い、小矢部のどこかもう一度尋ねると今度は知った地名が出てきたので方向転換してもらって、スクーターの後ろからついて行くことにした。おばあさんは携帯電話を持っておらず、家には息子さんがいるそうだが電話にはでないだろうという。受け答えはしっかりしているが、電動スクーターで家を出たが迷子になって自分がどこにいるのかわからない。家が小矢部なら、もう一時間以上電動スクーターでウロウロしていたのだろう。
 矢部まで来ると広い道路に出て、工務店があった。工務店の前で止まっておばあさんの住所の確認をする。工務店にいた人に聞くと、かなり遠そうだ。歩くのより少し早い程度の電動スクーターでは日が暮れそうだし、電動スクーターの電池も無くなりそうだ。おばあさんに、交番に電話をしてお巡りさんに来てもらってもいいか確認すると、いいと言う。携帯から110番に電話をし事情と現在地を伝える。工務店の事務の女性と3人で、お巡りさんが来るのを待つが、緊急性がないからか時間がかかる。
 ようやく二人のお巡りさんがパトカーで到着。色々と事情聴取された後、電動スクーターを乗せられる車両を手配して、おばあさんを家まで送ってくれることになったので、家に戻ってきた。

 明日で首里城火災から一年になる。下の写真は2012年10月27日に撮影した、首里城祭での冊封儀式の様子。

 欧米に比べれば感染者は少ないと言っていた日本だが、気がつけば10万人を越えている。それも他国と比べれば圧倒的に検査数を絞っての数字だ。
 小泉環境相が再生エネルギー促進のために、国立公園に発電所を設置できるように規制緩和をすると表明した。国立公園とは、日本を代表する自然の風景地を保護し利用の促進を図る目的で、環境大臣が指定する自然公園と書かれている。そんなところに風車やソーラーパネルを取り付けるんだろうか。やっぱりバカなのかな?
 岸信夫防衛省は、次期戦闘機の開発主体として三菱重工業と正式に契約したと発表した。小型ジェット旅客機すら造れない会社と?
 文化審議会が公文書の読点を「,」から「、」に変更を求める報告案をまとめたそうだ。読点は「,」でも「、」でもいいが、公文書は破棄しない、黒塗りはしないというルールを作って欲しい。
 左卜全さんが歌いヒットした「老人と子供のポルカ」を、ラサール石井さんが歌って50年ぶりに復活させるそうだ。それにしても、やめてけ〜れゲバゲバのゲバが「ゲバルト」、やめてけ〜れジコジコのジコが「事故」、やめてけ〜れストストのストが「ストライキ」のことだと初めて知った。You Tubeから左卜全さんの「老人と子供のポルカ」。

 この他の気になった記事を備忘録として。
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175年続く割烹や老舗居酒屋の閉店相次ぐ… コロナ禍が決定打

10月28日(水)

 午前中に、今月の31日で期間が終了する特定健診を受診してきた。いつもはもっと早い時期に受診しているが、今年は新型コロナで病院に行くのが躊躇われたのと、写真展があったのでギリギリでの受診となった。結果は2週間後の11月11日以降に。年々身長は縮み、体重は増加傾向にある。
購入した2冊の古書
 先週の金曜日に、アマゾンのマーケットプレイスで本を2冊ポチった。ポチった『永平寺 傘松閣天井絵』が一昨日、『越中の彫刻 祈りと美の系譜』(巧玄出版)が昨日届いた。
 傘松閣の天井絵は144人の日本画家により230枚描かれているが、写真集をパラパラと眺めていたら富山県出身の画家を2名見つけた。塩崎逸陵氏、村島酉一氏。Wikiによれば、塩崎氏は富山県立工芸学校(現・富山県立工芸高等学校)卒業とあるので、遠い先輩にあたる。
 天井画のある社寺は、県内にもいくつかある。祭りを撮影に行った際に見つけたのは、魚津市小川寺にある白山社、五箇山の下梨にある地主神社、宇奈月町の下立神社、宇奈月町の鶏野神社の4つの神社と、楡原にある上行寺。
 ネットで検索すると下立の全龍寺、浦山の善巧寺にもあり 天井画の特別公開を行ったりしているようだ。この他にも知らないだけで、もっとあるのだろう。
 8月〜9月の写真展開催中にラジオや新聞などで取材していただいた際、今後の撮影のテーマを聞かれることが多かった。その時は「神社やお寺に奉納されている絵馬を写真に収めて残しておきたい」という風に答えていた。放っておけば色が褪せ、塗料が剥がれていく絵馬。それらを一つ一つ記録しておくことは、重要な郷土資料になり財産だと思う。そういう意味では絵馬と同じく天井画も調査し、今の内に記録に収めるべき文化財のように思う。
 ただ、建物の中にある天井画や絵馬を撮影して記録するのは、個人でやろうとした場合、お祭りを撮影するより困難だろうな。
小川寺の白山社
↑魚津市の小川寺にある白山社の天井画。
下梨集落の地主神社
↑五箇山の下梨集落にある地主神社の天井画。
宇奈月町の下立神社
↑宇奈月町下立(おりたて)にある下立神社の天井画。
宇奈月町の鶏野神社
↑宇奈月町浦山にある鶏野神社の天井画。
楡原の上行寺
↑楡原にある上行寺の天井画。
 昨日、沖縄初の芥川賞作家である大城立裕さんが亡くなった。氏の作品を読んだことはなかったが、沖縄に住んでいた2012年に、聞得大君をテーマにした組踊の新作を大城さんが書き、坂東玉三郎さんが主演したという話題はよく覚えている。
 航空会社に続き、JR東日本が2643億円の赤字JR東海が1135億円の赤字となるようだ。とりあえずJR東海はリニアの建設を凍結してはどうか。

追悼:鬼海弘雄 都築響一
◯風の旅人 追悼 鬼海弘雄さん(1)
◯風の旅人 追悼 鬼海弘雄さん(2)

10月25日(日)

 今日は、富山県知事選。午後から自転車に乗って投票に行ってきた。20時の投開票と同時に、北日本新聞が新人の新田八郎氏の当確を出した。

 モノにもよるのだろうが、蒐集するという行為は女性よりも男性の方に強く備わった嗜好なんだろうか。
 雑誌『レコード・コレクターズ』で今も続く大鷹俊一さんの連載「レコード・コレクター紳士録」では、何十人もの紳士の部屋を撮影させていただいたが、僕が撮影を担当した中では女性が登場したのは3回だけだった。その中の貴重なお一人がインスタントシトロンのボーカル、片岡知子さんだった。
 その片岡さんが20日に亡くなられたというニュースが、昨日ネットに流れてきて驚いた。

 コレクターの方々の家に撮影で伺うと壁がLPやCDの棚で埋まっていたり、中には床のアチコチにレコードやレコードを入れた段ボールが積み上げられて、その隙間に獣道が出来たりしていた。それはそれで、フォトジェニックな光景だった。
  下の2枚並べた写真は『レコード・コレクターズ』98年3月号で撮影したもの。彼女の部屋は綺麗に片付いていて、蒐集したレコードも自作の箱に入れられ押し入れに収納されていた。それでは「レコード・コレクター」とはわからないので、押し入れから箱を出して、床に並べてもらった。
 昨年3月、ようやく紳士録の連載をまとめた単行本『レコード・コレクター紳士録2』が発売されたが、片岡さんのページも再録されている。そこには短い近況も載せられていて<作曲・編曲家として教育番組、劇伴、CM音楽など制作。Eテレ「みいつけた!」「プチプチアニメ スキマの国のポルタ」、「たまこラブストーリー」「東京モーターショーTOYOTAブース」等。WEBレコード店SONOTAスタッフ>と書かれていた。
 ちなみに彼女のパートナーであるデザイナーの岡田崇さんもコレクターで、2001年8月号の紳士録で撮影している。
 片岡さんの取材時に彼女からいただいたインスタントシトロンの限定アナログ盤が、家のどこかにあるはずなんだけれど・・・

片岡知子さん
 You Tubeから『Una Marcia/Instant Cytron』。インスタントシトロンの音楽。キッチュでガジェットな感じは80年代に登場したキュレプスキュール・レーベルのMIKADOや、ラフ・トレードのウイークエンドの音楽をちょっと彷彿させる。


 政府は日本学術会議の事務局体制を見直し、配置する官僚を大幅に削減する検討に入ったそうだが、国会も開かず所信表明演説すらない中で何を言ってるんだろう。国会で日本学術会議の推薦した6人の新会員をメンバーに承認しなかった理由を、国民が納得できるように説明するのが先だろう。また、見直さなくてはならない組織は赤字を垂れ流しているクールジャパン機構など、もっと他にあるだろう。
 麻生財務相が新型コロナ対策で配られた一律10万円の「特別定額給付金」の多くは貯金に回り、景気浮揚効果は限定的だったとの認識を示したそうだが、その認識の根拠となるデータはどこにあるんだろうか。「現金がなくなって大変だということで実施した。当然、貯金は減ると思ったらとんでもない。その分だけ貯金は増えた」と述べたそうだが、もしそうだとすれば政府の行う経済対策が不安でいざという時のために貯金をしているのだろう。そもそも貯金のない家庭が全世帯の14.9%、母子世帯に限れば37.6%というデータもある。今は特別定額給付金の効果を心配するより、貯金0の家庭を救えるように考えるのが政治家の役目だろう。
 GoToトラベル、Go To イートを全面的には否定しないが、これらの恩恵を受けるには多少なりとも金銭の余裕や時間の余裕が必要で、それすらない人への救済策を政府は考えているのだろうか。より深刻なのはそうした人たちなのだが。
  核兵器を全面禁止する核兵器禁止条約を、中米のホンジュラスが新たに批准。これで発効に必要な50カ国に達し、来年1月22日に条約が発効される。因みに唯一の被爆国である日本は、批准していない。

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10月21日(水)

 2010年の奄美豪雨から、昨日で10年が経った。台風が上陸したわけでもなく、2日ほど前から淡々と降り続いた雨が、気がつけば100年に一度と言われる豪雨災害となっていた。
 マスコミが大勢訪れ、来る日も来る日も2名の方が亡くなった介護施設のある住用地区の惨状を報道し、それは全国版のテレビニュースでも流された。
 普段は静かな島に自衛隊が上陸し、ヘリコプターが上空を旋回していた。九州電力の工事車両が列を作って道路を走り、時おり救急車のサイレンが聞こえてきた。
 島のいたるところで崖崩れが起こり、道路が寸断され、海岸には大量の流木とゴミが散乱していた。確かに状況は大変だったが、それでも普通に暮らしている地域もたくさんあった。島の中心部の名瀬は一部で冠水したが比較的被害が少なく、翌日からは買い物をしたりと通常の生活ができていた。
 けれどテレビでは連日被害の大きかった地域ばかりが繰り返し報道され、現実と報道が乖離していく感じがして気持ちがヒリヒリした。
 100年に一度と言われた豪雨災害だったが、島は翌年も同じような豪雨災害に見舞われた。
 最近は頻繁に「50年に一度の豪雨」「100年に一度の豪雨」という言葉が使われているが、個人的には10年前の奄美豪雨がその走りだった気がしている。

「100年に1度のはずが・・・」奄美豪雨から10年 浸水害の教訓

10年前の奄美豪雨災害
↑名瀬港隣りの広場に着陸した、自衛隊のヘリ。2010年10月24日撮影。
朝日山善宗寺

 今日は快晴で、気温も上がった。午後からサイクリングを兼ねて、今月の15日に佐助祭の行灯が飾られていた旧北陸道にある和田の神明宮へ、佐助を祀った祠や顕彰碑を見に行った。
 先ずは家からだと神明宮の手前にある、朝日山善宗寺へ。和田の村民は赤丸村から移動させられた人だそうだが、その際、赤丸村の朝日山長善寺の門徒を分けて朝日山善宗寺を開いたそうだ。

←朝日山善宗寺。

 善宗寺を撮影した後、少し先にある和田神明宮へ。境内に入り、拝殿の右隣りに佐助を祀った祠、和田佐助碑、和田の佐助顕彰碑が順に並んでいた。
 顕彰碑には以下のような文言が刻まれていた。

和田の佐助顕彰碑
 慶長十四年(一六〇九)前田利長公の高岡城築城と高岡町開町によって、往還北陸道が利波郡佐野村和田野を通過することとなり、この地は人馬の往来で賑わうことになった。佐野村の佐助は有志五人と相計り、慶安二年(一六四九)八月二十六日、高岡町奉行に街道筋の祖文川
(祖父川?)橋より一町程高岡寄りに家数七十軒、広さ五千九百五十歩の町立てを願い出た。藩の同意を得て同年九月一五日に許可が与えられ、直ちに町作りが行われた。
 和田野新町の肝煎りとなった佐助は、町立ての進捗と共に、善宗寺、西光寺を招聘するなど町の繁栄の礎を築いたのである。
 佐助は、万治三年(一六六〇)隠開の疑いで召し連れられ、処刑されたというが定かではない。しかし、隠開は私利のためではなく町民の窮状を救うためのものであったことから、義民とあがめられてきた。
 現在の和田の隆盛は、ひとえに佐助の努力に負うところ大きく、ここに、佐助の遺徳に感謝し、その功績を子々孫々に伝えるため顕彰碑を建立するものである。

和田神明宮
佐助が祀られた祠
和田佐助碑

↑拝殿の右隣にある佐助を祀った祠。

←和田佐助碑。

→和田の佐助顕彰碑。

 境内を撮影した後、和田神明宮の近くにユニクロがあるので寄って行く。店内をブラッとして、結局何も買わずに店を出る。
 旧北陸道をゆっくりと自転車で走って帰ってきた。

和田の佐助顕彰碑
 自分の著書を改竄?ASEANをアルゼンチンと誤読。インドネシアでの記者会見をテレビで観ていたが、あまりにもたどたどしい話し方でげんなりする。記者の質問に原稿を見ながら答えるのも、前首相からの継承だろうか。

10月19日(月)

 世界はどうかしちゃったんだろうか、と思うほど訃報が続く。昨晩はトランぺッターの近藤等則さんの、今日は写真家の鬼海弘雄さんの訃報が流れてきた。そして先ほど、この日記を書いている最中に写真家の水谷充さんが虚血性心筋梗塞で亡くなったという情報がFacebookに。享年60歳。同い年だった。
 鬼海弘雄さんの写真を初めて見たのは雑誌『東京人』の1993年3月号に掲載されていた、「東京人写真館」という色んな写真家によるリレー形式の連載だったと思う。ハッセルで撮影したと思われる、西新宿と板橋の街中にあるビルの写真が一点ずつ掲載されていた。鬼海さんの写真が見たくて買ったわけではなく、この頃『東京人』の仕事をたまにしていて、この号は「地図があれば東京が拡がる」という巻頭特集の撮影を担当し、その掲載誌が送られてきたのだった。
 西新宿の方はビルの外にある螺旋階段の上部に布団が干してある写真で、板橋の方は道路に面した窓ガラス越しに大きな大仏様が外を見ている写真だった。写真そのものよりも、鬼海弘雄という珍しい名前が強く印象に残っていた。
 鬼海弘雄さんと直接お会いしてお話しをしたことはないが、鬼海さんと間違われたことが一度ある。1996か1997年頃に小田急線の鶴川駅の方から、向ケ丘遊園へ引っ越した。住所は宿河原だったが、最寄り駅は向ケ丘遊園だった。駅から家までの途中にある居酒屋が、一時昼間に立ち食いのうどん屋を始めた。撮影の帰りだったかにお腹が空いたので、カメラバックを持ったままお店に入った。すると店主と思しき女性に「鬼海さんですか?」と声をかけられた。「違います」と答えると、お店に来る大学生にこの辺に鬼海弘雄さんという有名なカメラマンが住んでいて、口ひげをはやしていると聞いたそうだ。その頃は口ひげをはやしていたし、カメラバッグを持ってお店に入ってきたので「この人が鬼海さん?」と思ったのだろう。
 実際、鬼海さんは近くに住んでいらしたようだ。たぶん、向ケ丘遊園よりもう少し多摩川に近い登戸の方ではないだろうか。
 鬼海弘雄さんの写真に魅かれるようになったのは、図書館で借りた『ぺるそな』を見てからではないだろうか。そして初めて買った写真集が『東京ポートレイト』だった。ライフワークだった浅草寺の赤茶色の壁を背景にした、市井の人々のポートレイトが中心の写真集だ。とにかく、そのグレーの階調の美しさにやられた。何回見ても見飽きないほどに。モノクロ写真は階調だとつくづく思わせられる写真集だった。
 昨日、一昨日と鬼海弘雄さんを取り上げたYou Tubeの動画を観ていたばかりだった。
日本攝影師,用45年拍下近千個陌生人的肖像 Japanese Photographer Taking Pictures of Nearly 1,000 Strangers in 45 Years」「百々俊二氏×鬼海弘雄トークショー」「鬼海弘雄写真集 『PERSONA』解説 
◯鬼海弘雄さんのホームページ

 向ケ丘遊園に引っ越す前は、15年ほど鶴川に住んでいた。最寄り駅が小田急線の鶴川駅だけれど、住所は町田市大蔵町だった。鶴川街道からちょっと路地に入った、鶴見川沿いの静かな住宅地だった。20代前半からだから、1980年代初頭だろうか。まだ和光大学へ続く道には学生運動の名残りか、カマボコ(警備車)が停まっていることもあった。
 最初に住んだのは、たしか家賃が3万円以下のアパートだった。6畳3畳に1畳ほどのキッチンと、外にお風呂場が付いていた。この古いアパートの隣りの隣りくらいにあった平屋のこじんまりとした一軒家に、近藤等則さんが住んでいた。そのことを教えてくれたのは、当時油絵を習っていた教室の先生だった。和光大学の近くにアトリエ兼自宅を構えていた先生は、1号だったか0号だったかのキャンパスに銀と墨でひたすら抽象画を描いていらした。1000枚(だったかな?)完成したら個展をすると言っていて、その個展を町田の美術館へ見に行った記憶がある。
 その油絵の先生か先生の息子が、近藤等則さんと親しくなって当時僕が住んでいたアパートの近くに近藤さんが住んでいるのを知ったのだ。近藤等則&IMAを結成した前後だろうか。たしか近藤さんが空手をやっているというのもその頃に聞いた記憶があって、調べると新体道という武術のようだ。
 近藤さんの名前はその頃から知っていたが、 ライヴを見に行った記憶はない。当時は音楽雑誌にレコード紹介の記事を書いていたので、家にレコードがあるのだろうか。
 3万円ほどのアパートに8年くらい住んだ後、そこから300メートルほど離れた場所に出来た新築のマンションに引っ越した。2LDKで10万円ほどだった。その頃は撮影の仕事も忙しくなり、油絵教室には行かなくなって疎遠になっていた。近藤さんはいつまであの平屋の一軒家に住んでいたのかわからないが、結局一度もお顔を見ることはなかった。
 訃報を知って初めて近藤さんのホームページを見た。事務所が多摩区登戸になっている。鶴川から向ケ丘遊園に引っ越した自分の部屋から、自転車で5分ほどの場所だった。そして鬼海弘雄さんと近藤等則さんも、共に近い場所に居られたんじゃないだろうか。
◯近藤等則さんのホームページ

 鬼海弘雄さんと近藤等則さんは面識がなかったが、水谷充さんは東京に居た時に何度かお会いしている。一番最初は2008年に五味彬さんと横木安良夫さんが中心となって目黒のギャラリーコスモスで開催された「¥3,000円で写真売りましょ!買いましょ!展」の時で、この時は水谷さんも写真を出品していたが、開催前の準備段階から取材にも来ていた。その時に話しをしたのが最初だった。その後も写真展や写真関連のイベントなどで、時々お会いすることがあった。バッタリ会って、そのままHARUKI氏の家へ行って3人で明け方まで話していたこともあった。
 急逝で、亡くなる前日にも彼のFacebookが普通に更新されている。同い年の突然の訃報は、心にズシリと来る。
水谷充「若い人へ、フリーランスカメラマンで生きていく01」「フリーランスカメラマンで生きていく02
◯水谷充さんのホームページ

 それにしても、なんて一日だ。 

 秋晴れだった昨日の午後は、ゆっくり自転車で走っても20分くらいの木舟城跡へ行ってきた。何年か前に一度撮影しているはずだが、写真を探したが見つからなかったので、もう一度撮影することに。
 駐車場には木舟城址の案内板が設置してあり、これ以上は略せないほど簡略化した年表があった。
寿永3年(1184)
石黒太郎光弘、木舟城を築く
天正9年(1581)7月
近江長浜で石黒成綱と家臣が織田方に討たれる
天正13年(1585)11月
天正大地震により前田秀継夫妻落命
天正14年(1586)
前田利秀、木舟城を廃城 
↓入口の石碑。→本丸跡と思われる場所に建つ標柱。
木舟城跡02
木舟城跡01
 入口に建つ「木舟城跡」と刻まれた石碑の裏には、木舟城跡の概要が刻まれていた。

木舟城跡について

 この城は寿永三年(一一八四年)石黒太郎光弘の築城と伝えられ、その後、上杉氏、前田氏の居城となり、城下町も発達したが、天正十三年(一五八五年)十一月大地震により崩壊した。
 当時の木舟城は、本丸が東西六十間(一間約一・八メートル)南北七十五間、二の丸東西四十五間、南北五十間、三の丸東西三十間南北六十間で、その廻りに幅五十間・三十間・一五間の堀があり深沼の中の砦といった要害の地であったようである。
 現在、その殆んどが田畑となっており、もっとも高い所で四メートルの小丘本丸とみられるところは一・五メートルと、その姿をとどめているに過ぎない。
 時あたかも木舟城築城八00年、崩壊四00年の奇縁の年であり、これを記念し、石碑を建立して永くその名を留め、文化財としての価値を高め保護に資するものである。

昭和四十年十月 県指定史跡となる
昭和六十二年夏 建之
福岡町教育委員会
木舟城跡保存会

木舟城跡03
↓木舟城址の近くを北陸新幹線が走っている。田んぼと新幹線の高架、今や、これが田舎の風景のスタンダードかもしれない。
北陸新幹線の高架
 木舟城址と道路を隔てた場所に、神社があった。鳥居の横の石柱に刻まれた文字は貴布禰神社と読むようだ。
貴布禰神社01
貴布禰神社02
 境内にあった案内板には、以下のように記されていた。
木舟城の姿について

 今日見られる木舟城跡は、木舟城の主郭(本丸)の一部が地上に残ったもので、現在の史跡地の西の水田も含めて城主の住む主郭が存在したものと考えられます。
 史跡地北側の市道には堀があり、その北にあった北郭とは土橋で繋がっていました。史跡地の南側の民家付近にも堀で隔てられた南郭が存在したと推定されます。
 ここ貴布禰神社は、「古城中有明神社」との記録があることから、木舟城の郭内に祀られた城の鎮守社であったと思われ、主郭との間は堀で隔てられ、神社の東側には木舟川(前川)と呼ばれた川が流れていました。
 この様に、木舟城は、東西を川に挟まれた大きな沼地に浮かぶ要害でしたが、軟弱な地形であったため、天正十三年十一月(一五八六年一月)の天正大地震で城主前田秀継夫妻が落命するなどの大きな被害を受けました。秀継の子前田利秀は復興を試みたようですが、翌年、今石動城に居城を移し木舟城は廃城となりました。

富山県教育委員会
高岡市教育委員会

 こちらのブログには<元々、「木舟城」は「延喜式内社赤丸浅井神社」・「赤丸浅井城」を中心とした「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄続いた皇室直轄庄園「越中吉岡庄」に築かれた「赤丸浅井城」の出城で在り、「赤丸浅井城城主石黒光景」の子供の「石黒光弘」が居城にしたとされる>と書かれている。またも赤丸・・・。

 東京外かく環状道路(東京外環道)のトンネル工事のルート上にある東京都調布市の市道が陥没した。工事を実施する東日本高速道路は、原因を調査するため、専門家を集めた検討委員会を開催。専門家からは「今の段階で原因は断定できないが、(工事との)因果関係はないとは言い切れない」としている。
 この工事は大深度地下法によって行われている。<大深度地下法は地下40メートルより下は地上に影響がないという前提で、地上の住民の許可を得ないまま地下の使用を認める法律。認可された工事はこれまで3つ。神戸の送水管、外環道(関越〜東名間)、リニア>だそうだ。もし工事との因果関係が認められたなら、今後のリニア工事にも影響してくるだろう。

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10月16日(金)

 風が冷たく気温は上がらないが、まずまずの秋晴れ。
 菅首相が日本学術会議の新会員候補6人を任命しなかった問題で、与党が杉田和博官房副長官の国会招致を求めたのに対し、自民党の森山国対委員長が副長官の国会招致はほとんど前例がないと指摘し「慎重であるべき」と否定的な見解を示したそうだ。 あしき前例主義を打破するのが菅内閣のスローガンではなかったのか?前例がなくても国会招致をすればいい。
 メディアではほとんど報道されないが、この日本学術会議への人事介入に抗議するため、菅野完氏が10月2日より 官邸前でハンストを続けている。菅野氏のスピーチツイキャス
 NHKが受信制度などの在り方を検討する有識者会議で、テレビを設置した場合はNHKへの届け出を義務化するよう制度変更を要望したそうだ。何様?どうかしている。

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 昨日は『傘寿記念 大澤光民の世界ー人間国宝としての歩みー』を見に、久しぶりに自転車で遠出をして高岡市美術館へ。
 午前11時頃に家を出て旧北陸道を自転車で走っていると、「和田の佐助像、御印祭、佐助大明神」と書いた行灯を軒先に掲げた一画があった。
↓→軒先に佐助像の行灯を掲げた家が並ぶ、旧北陸道。
和田の佐助祭02
和田の佐助祭01

 和田?御印祭?どこかで見た記憶があるので、家に帰ってから検索すると「とやまの年中行事」に掲載されていた。
和田神明社の御印祭(佐助祭)
和田の町立てに功績のあった肝煎の佐助をしのんで行われる。町立てが許された10月15日(もとは9月15日)に各家の軒先の行灯を掲げ、「いもがいもち」(佐助の好物)を作って食べた。近年は「いもがいもち」に替わり「おはぎ」が作られる。

 この佐助祭について、高岡市歴史まちづくり計画 第2章 高岡の歴史的風致の維持及び向上に関する方針にもう少し詳しく書かれていた。
 佐助祭は、和田上町・和田中町で行われる祭礼行事である。和田は、慶安2年(1649)に砺波郡佐野村の佐助らの藩への嘆願によりようやく開かれた町である。しかし、町立て直後は年貢の負担等により町民の生活は非常に苦しいものであった。そこで、この状態を見かねた佐助が隠し田をつくり、町民らを困窮から救おうとしたが、藩の知るところとなり処刑されてしまったのである。佐助祭は、この佐助の恩に対し町民らが彼の遺徳を偲び行うもので、佐助の悲運な死後すぐに始められた。
 祭は、まず和田神明宮の神事から始まる。その後、同神社の境内地にある佐助大明神を祀った小さな祠の前で祭文や玉串の奉納がなされる。なお、祭の際には、和田上町・和田中町の各家の軒先には佐助の像が描かれた行灯が掛けられることとなっており、山本家住宅をはじめとする伝統的な町家の軒先にも行灯がかけられ、町全体が佐助への感謝の念一色で染まる。

 また、こちらのブログによれば、和田の村民は五位庄の赤丸村(福岡町)から移動させられたという。また赤丸という地名が出てきた。
 高岡市和田は和田佐助等が開いた村で、村民は赤丸村から小作民を移動させ、赤丸村の朝日山長善寺の門徒を分けて「朝日山善宗寺」を開き、寺の敷地は和田佐助が寄進した。村人は殆どが小作であり、厳しい生活を送っていたと云う。この村立ての時の古文書が富山県立公文書館、和田善宗寺に残されている。
 和田神明宮の境内には顕彰碑や佐助大明神を祀る祠もあるようだ。また、和田神明宮は金屋町の御印祭の神事を司る有礒正八幡宮の兼務社となっている。

御印地とは、殿様から拝領した土地。

 自転車でタラタラと走って、1時間ほどで高岡の中心部に到着。お腹が空いたので、美術館へ行く前に何処かで昼ご飯を。自転車で何かいい店はないかとウロウロしていて、バーミヤンの看板を見つけた。1990年代の前半、町田市の鶴川にあったバーミヤン1号店の近くに住んでいた。その頃は、よく食べに行っていた。
  懐かしくなったので、バーミヤンに決めた。
 昨年の4月に、ガストからの業態転換でオープンした店舗のようだ。  
 わりとこじんまりとした店舗で、メニューはタッチパネル。グランドメニューの数がずいぶんと少なくなった印象だ。日替わりのランチに餃子3個を追加。ご飯は大盛り無料だったので大盛りにしたが、ご飯茶碗だろうと思っていたら丼めしでちょっと後悔した。いくらなんでも多すぎるだろう・・・。ランチと餃子で税込み769円。値段は手頃だが、昔のバーミヤンならザーサイとか小さなサラダとかが付いていた気がする。野菜がないと色味も淋しい。
バーミヤンの料理
 バーミヤンを出て、14時頃に高岡市美術館に到着。
高岡市美術館
二番町の山車の模型
↑美術館。→最後の展示室に飾られていた二番町の御車山の模型。
 1000円の当日券を購入して、展示会場へ。会場は3つの部屋で構成されている。説明を一つ一つ読みながら、作品を見ていく。
 鋳型にステンレスや銅を釘で固定し、溶解した金属を注ぎ込む鋳ぐるみという鋳造方法で作られた火器や皿などの作品がメインとなっている。今回の展覧会にあわせてテレビでもその作品を目にする事は多かったが、実物の方が光沢もあり美しかった。
 そうした作品の中に、彫金、着色などの高岡銅器伝統工芸士の製作協力で完成された大日如来像と、その原型となる木彫の大日如来像が展示されていて興味深かった。
 最後の部屋には1983年に制作された「二番町御車山模型」が展示されており、この模型だけは撮影可能だった。当時の高岡の名工たちが協力して制作したもので、当時42歳だった大澤光民氏も鋳造を担当している。 
 2018年の春に完成した「平成の御車山」の監修は、大澤光民氏だった。右の写真は2018年4月30日に御車山会館で開催された完成披露式での写真だが、手前の後ろ向きの人は大澤光民氏だろう。
平成の御車山のお披露目式
 1時間半近く美術館に滞在してから、今月3日に御旅屋セリオの2階に移転オープンしたZIBA(高岡地域地場産業センター)を見て来た。フロアーの半分ほどを占める体験コーナーのスペースがクローズしており、閑散とした印象。
 御旅屋セリオを出て、来た道を辿るようにして家路へ。家の近くまで来るとだいぶ日が暮れて、オレンジに輝く縦長の雲が空に浮かんでいた。小矢部川の方へちょっと寄り道して、撮影してから家に帰った。夕焼けを撮影するなんて、何ヶ月振りだろうか。
御旅屋せリオのZIBZ
小矢部川の夕景01

↑ZIBA。↓→小矢部川からの夕景。

小矢部川の夕景02

10月13日(火)

 昨日は作曲家の筒美京平さんの死去に驚いたが、今日、まつもと泉が死去したというニュースが届いた。

 本棚に『きまぐれオレンジ★ロード』の愛蔵版1巻~10巻が並んでいる。

 まつもと泉が「21世紀の次世代マンガ」として、CD-ROMで見せるデジタル・コミック『COMIC ON』の製作を始めた時、雑誌のグラビアに相当するスペシャルインタビューというコーナーでの撮影を担当することになった。
 昔からマンガは好きで読んでいたが、どちらかといえば「ガロ」「ぱふ」「漫金超」といったマニアックな雑誌で、少年ジャンプは読んでいなかった。『きまぐれオレンジ★ロード』もほとんど読んだことがなかったので、一緒に仕事をするのだから読んでみようかと思っていたら、彼が手配して集英社から大きくて分厚い愛蔵版がドーンと家に送られてきた。

 『COMIC ON』は1996年2月にvol.1が東芝EMIから発売され、1997年10月に発売したvol.5で休刊となった。その間に「平井和正の世界」「平井和正&泉谷あゆみ」「飯野賢治VSまつもと泉」「声優古谷徹の素顔」「声優宮村優子の素顔」「声優鶴ひろみの素顔」を撮影した。
 当時はPhotoshopのバージョンが3から4に変わる頃だったろうか。フィルムカメラで撮影し、コダックのフォトCDでデータにして作業をしていた。
 編集作業は豪徳寺にあった彼の仕事場で、編集長は元々は彼のファンでその頃は看護婦をしていた女性だった。他の編集を手伝っていた女性も看護婦をしながらだった。編集の素人が集まって、まったく新しいデジタル・コミックを作っていた。
 漫画家がパソコンで描いたマンガの一コマ一コマを、素人の編集長がディレクターというオーサリング・ソフトを使って動きを与える。みんなやりながら覚えていったが、いつしか東芝EMIのエンジニアが驚くほどに使いこなしていた。
 vol.1の時はバグ取りのため赤坂の東芝EMIで徹夜したりもしたが、今となってはそれも懐かしい。色々あって休刊ということになったが、制作者たちの志は高かったと今も思う。

 まつもと泉が、『COMIC ON』で連載を始める予定だった「EE」は完成が間に合わず、確か後になってスーパージャンプかなにかで一度誌面に載ったと記憶している。「EE」はeternal eyaの略だったと思う。ストーリーを聞かせてもらったが、手塚治虫の「ワンダー3」が頭に浮かんだ。
 結局「EE」は完結せず、その後に「幕末綿羊娘情史」という黒船が来航した時代を舞台にしたマンガを描くために伊豆下田に取材に出かけていたが、脳脊髄液減少症とわかり闘病しながらの生活となった。
 最後に会ったのは2006年の夏、白馬のペンション「シャモニール」だろうか。前年の2005年は彼の運転する車でシャモニールへ一緒に遊びに行ったが、2006年は別々に行って合流した気がする。
 最後に話したのは沖縄から帰ってきた2014年、シャモニールのマスターが彼にかけた電話で。

 今日は『COMIC ON』を見て昔を思い出しながら追悼しようと思ったが、CD-ROMが新しいパソコンのOSには対応していないので、2002年に発売されたeMacの電源を入れたが画面が起ち上がらない。数年前は起動したのに。
 vol.1で撮影させていただいた「8マン」や「幻魔大戦」で知られる作家の平井和正さんは2015年に、vol.2で撮影させていただいた「Dの食卓」で知られるゲームクリエイターの飯野賢治さんは2013年に、vol.5で撮影させていただいたドキンちゃんや鮎川まどか役で知られ声優の鶴ひろみさんは2017年に鬼籍に入られてしまった。
 そんなに昔のことではない感じもするが、もう20数年の月日が流れている。

 まつもと泉。生誕1958年10月13日。Wikiで初めて知ったが、今日が誕生日だったのか。
 お疲れさま、寺嶋さん。

コミック・オン
おとぼけキャッツのまどかさん

↑『COMIC ON』vol.1〜5。

←写真右の女性は、ダディ竹千代と東京おとぼけキャッツの初代ボーカルまどかさん。オレンジ★ロードの鮎川まどかのモデルが中森明菜というのは知られているが、まどかという名前は彼女から。40年ほど前、バニーガール風の衣装に猫のしっぽと猫ミミを着けて歌う姿に、寺嶋さんも衝撃を受けたのかもしれない。

10月11日(日)

 昨日から、また暖かくなった。今日は半袖のTシャツでも、自転車を漕いでいると汗ばむくらいだった。
折りたたみ自転車01
 春頃にぶらぶらと折りたたみ自転車を漕いでいたら、急に左ペダルの軸がグラグラになった。緩んだのか何か部品が取れたのか?何度か直そうと試みたが上手くいかないのでそのまま放っておいた。その間は甥っ子が置いていった自転車に乗っていたが、時間も出来たので、昨日、町で一軒になった自転車屋さんに持って行ったところ、ペダルの軸を押し込んで大きな輪っかを締めたら無事に直った。ものの5分もかからなかったので、もっと早くに来ればよかった。修理代は1000円也。 
折りたたみ自転車02
 せっかく折りたたみ自転車が直ったので、今日は午後から少し小矢部川の堤防を走ってきた。この自転車は2017年の5月の終わりに購入したので、もう3年と4ヵ月が経つ。お祭りの撮影で遠征するため折りたたんで輪行バッグに入れることも多かったので、アチコチに傷が出来ているが、全体的にはキレイだ。あまり手入れをしていない割りに、サビもほとんどない。
 奄美大島で買った折りたたみ自転車は、潮風と雨で1年もしない内にサビだらけになった。島の環境がどれほど過酷だったかということだろう。
 昨年の11月12日に撮影した上行寺の餅柱作りの写真をPhoto Albumにしました。こちら
上行寺の餅柱作り

「Wi-Fiなしで音楽が聴けるとかやばくない?」CDを知らない世代の発言に、ツイッターでは驚きの声
 先日、3連休は家で映画を観て過ごしたという女性に「DVD?」と聞いたら、「アマゾンプライムとネットフリックスです」と答えが帰って来たのを思い出す。そうだわね。

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10月8日(木)

 朝から雨、昼頃から曇り。薄着では肌寒い季節となった。
 一昨日は雲が多いながらも秋晴れだったので、自転車でぶらぶらとしてきた。
 小矢部川を渡り赤丸方面へ。山裾を自転車で走っていると「総持寺跡」「鍛冶屋町跡」「天景寺跡」と書かれた板が、少し間隔を開けて並んでいた。
 この辺りは年に一度くらいは通っているが、こんな案内板を見たのは初めてだ。見落としていたのだろうか?それとも最近立てられたのだろうか。
↓左から「総持寺跡」「鍛冶屋町跡」「天景寺跡」。
総持寺跡
鍛冶屋町跡
天景寺跡
 気になったので家に帰って調べてみたら、こんな記述があった。
「越中吉岡庄」の赤丸村には、往古、現在高岡市外にある「総持寺」、「天景寺」、「宗泉寺」、「西大寺」等48の寺院が赤丸浅井神社周辺に集積していた。又、『宇多刀工の氏神』の「槌の宮」も赤丸村から総持寺の門前に移転し、高岡市の「極楽寺」も赤丸村舞谷の「極楽寺」に創建されたと伝わる
赤丸浅井神社の杉並木

 山裾にそって走っていると、赤丸浅井神社の前に着いた。何度も来ており、写真も撮っているが、せっかくなので撮影。先ずは参道の杉並木から。案内板には次のように書かれている。

高岡市指定 天然記念物 
浅井神社の杉並木 昭和四十五年七月十七日指定

 この杉並木は、延喜式内社赤丸浅井神社の参道両脇に約二百mあまりに渡って立ち並んでいます。樹齢は、二百~四百年あまりとされていますので、少なくとも現在の景観が江戸時代のはじめまで遡ることになります。
 戦前には富山県指定の天然記念物にも名を連ねていましたが、台風や降雪等による倒木が増加したため、県の指定は解除されてしまいました、
 並木の現状は、側溝と道路面の盛土に挟まれ、参道の中心軸から両脇に傾いており、良好な生育環境とはいえません。このため平成九年には、傾木どうしの先端をワイヤーで固定したほか、土壌改良を行うなど、杉並木の保存に努めています。
 養老元年(717)の創建と伝える古い来歴を有する浅井神社の境内には、多くの巨樹古木が生育しています。その中には県指定天然記念物「赤丸浅井神社の大けやき」や町指定天然記念物「浅井神社のけやき」があり荘厳な杜を醸成しています。

高岡市教育委員会 

赤丸浅井神社
 境内には「浅井神社と川人家」と題した縁起が書かれた案内板があった。読んでみると<浅井神社の社僧は初代が養老元年(七一七)行基と伝えられ、本地仏に毘沙門天を、垂迹神として高皇産霊神を配して総山号を「川人山」、総寺号を「鞍馬寺」と号していました>と書かれている。
 養老元年?行基?射水神社の創建と同じではないか。
 富山に残る行基伝説に従えば、行基は養老元年に二上山麓に二上神(後の射水神社)の別当寺として養老寺を、赤丸に川人山鞍馬寺を建立したことになる。

浅井神社と川人家

 五位庄五十三ヶ村総社浅井神社は、「延喜式内社」であり、越中国三十四座、砺波郡七座の座の一座です。浅井神社の社僧は初代が養老元年(七一七)行基と伝えられ、本地仏に毘沙門天を、垂迹神として高皇産霊神を配して総山号を「川人山」、総寺号を「鞍馬寺」と号していました。
 神社の前面を走る「山根往来」は、加賀の国府と伏木の国府を結ぶ古代の官道として整備され、「川人駅」が赤丸付近に設置されたと推定されています。
 明治時代になって、郷社に列せられ、砺波地域をはじめ近県の尊崇を集めています。川人家は、浅井神社の神職として、永年奉仕してきました。
 第四十七代宮司川人貞現氏の長男川人貞史氏は、現代政治学の研究が高く評価され、平成二十一年六月、日本の学術賞として最も権威ある日本学士院賞を受賞し、現在東京大学大学院教授として在職しています。

平成二十一年九月 浅井神社氏子総代会

 ちなみに、赤丸射水神社の前の道をまっすぐ行くと、二上射水神社の前に着く。こちらの記事には<五位庄53ヶ村の惣社だったと考えられている。江戸時代には57ヶ村となり、川人明神と呼ばれた。神官は代々川人家が世襲した。川人権現・三社権現などとも呼ばれたが、明治になり、現社号に改称、新たに高皇産霊神も併せて祀られ、郷社に列した>と書かれている。
 二上の養老寺は、行基が元正天皇の勅命を受けて建立したとされるが、赤丸の鞍馬寺はどうした経緯で行基が建立したのであろうか。

 境内には、2013年8月に倒れた樹齢1200年といわれる大けやきの跡が残されている。

↓赤丸浅井神社のご神木である大けやきの跡。→大けやきの写真。
大けやきの写真
大けやき跡

赤丸浅井神社の大けやき跡

 この場所には、樹齢千二百年以上ともいわれる大けやきがあった。元々は地上高四メートルのところで幹が三つに分かれていたが、昭和九年(一九三四)の落雷により縦裂が生じたため、二幹を伐採し、一幹が残された。昭和二十三年四月二十四日に富山県指定文化財に指定されたが、当時は樹高約二十メートル、幹回りは約九・三メートルあり、富山県内で最も大きな幹回りを持つけやきであった。その後、地元住民や氏子総代会が中心となり樹木の保全を図ってきたものの、徐々に樹勢が弱まり、平成二十五年八月に倒壊したため、やむなく指定解除となった。
 赤丸浅井神社は、養老元年(七一七)に建立されたと伝えられており、延長五年(九二七)に施行された法典『延喜式』の『神名帳』に記載されている延喜式内社(越中国三十四座、砺波郡七座の中の一座)と伝えられる。

*富山県文化財保護条例改正に伴い、昭和四十年十月一日に改めて県指定天然記念物の指定を受けていた。

平成二十六年十二月二十六日 高岡市教育委員会

赤丸浅井神社の本殿

 境内の後方、本殿の方に行くと、こちらにも曾ては大きなけやきがあったようだ。

高岡市指定 天然記念物
浅井神社のけやき跡 昭和四十五年七月十七日指定

 浅井神社のけやきは、延喜式内社である浅井神社本殿の東側玉垣に接して立っています。幹回りは、六・四mあり約十m程のところで幹が2つに分岐しています。

 樹齢千年以上ともいわれるこのけやきは、同じ境内にある県指定天然記念物のけやきに優るとも劣らない巨木です。
 また、このけやきは他のけやきに比べて、早く芽吹いて落葉します。ちょうど、その時期が神社の春祭り・秋祭りと重なる頃にあたるため、万物の生命活動の象徴であるものとして見立てられ、枝葉の茂りぐあいでその年の収穫を占ったと伝えられています。
 なお、平成十六年には、腐蝕していた枯幹の上部を切断して防腐処理を実施するとともに、宿り木や周辺樹木を撤去し、けやきの生育環境の保全が図られています。地元氏子を中心とするこうした保存修理に対する取組みからも、この木が今も神木として崇敬を集めていることがわかります。

高岡市教育委員会

 赤丸の浅井神社を出て石堤の方へ500メートルほど自転車を走らせると、もう一つ神社があった。参道の方へ行くと浅井神社と書いてあり、こちらも五位庄五十三箇村総本社とある。
 鳥居の前にあるだいぶ文字が薄くなった案内板には、由緒として養老元年三月創建とある。先ほど行った赤丸の浅井神社と同じだ。直ぐ近くに分社したのだろうか。近くに清掃作業をしている男性がいらしたので、この浅井神社は赤丸の浅井神社から分社したのか聞いてみたが、よくわからない。この辺りにお住まいの方は両方をお参りするのか尋ねると、仲悪いですよと笑って答えられた。赤丸と石堤の住民が仲が悪いのか、神社同士の仲が悪いのか?

↓→石堤の浅井神社。
石堤浅井神社02
石堤浅井神社01
石堤浅井神社03
 この赤丸と石堤2つの浅井神社の関係が気になり、家に帰ってから検索したところこんな記述が見つかった。
「延喜式内社五位庄郷社赤丸浅井神社」については長く本家論争が有り、かつては赤丸村と石堤村の「浅井神社」の間で流血事件があり、警察が仲介した経過も有る。元々、「赤丸浅井神社」は両部神道で有り、「川人山鞍馬寺」を頂点とし、その下に3社権現として赤丸浅井神社、石堤浅井神社、舞谷八幡社があった>。

 一昨日、ギタリストのエディ・ヴァン・ヘイレンが亡くなった。Facebookにはたくさんの追悼コメントが流れてきた。
 今日、富山県知事選が告示された。

 この他の気になった記事を備忘録として。
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無罪主張の被告、遺族「無念向き合っていない」池袋暴走
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10月5日(月)

 寝ても寝てもまだ眠いのは、よほど疲れが溜まっていたのだろうか。
とやま、祭り彩時季【二】

 昨日、写真展での物販の売上げ報告書が届いた。フォトブックの方は、トータル120冊売れたそうだ。購入していただいた方々、ありがとうございました。
 一番売れたのは『とやま、祭り彩時季【二】』で、18冊。こちらは県内の獅子舞を特集した本となっている。続いて【一】と【四】が各14冊。【一】は曳山、【四】は稚児舞がメインのテーマとなっている。
 小矢部市民図書館が『とやま、祭り彩時季』を全巻購入して下さった。本が登録されて書棚に並ぶまでは少々時間がかかると思われますが、ご利用下さい。

 ミュゼふくおかカメラ館での販売は終了しましたが、引き続き個人で販売を行なっています。オンデマンド印刷なので、注文いただいて1週間から10日程でお手元に届きます。
 A5サイズ144ページ、送料込みで各巻1,800円となります。
 mail からお問い合わせ下さい。

 『とやま、祭り彩時季』【一】の内容はこちら、【二】の内容はこちら、【三】の内容はこちら、【四】の内容はこちら、【五】の内容はこちら、【六】の内容はこちら、【七】の内容はこちら、【八】の内容はこちら、【九】の内容はこちら、【十】の内容はこちら、【十一】の内容はこちら
 4年ほど前に制作した、奄美〜沖縄に至る琉球弧の祭祀と行事を纏めた『琉球弧の祭祀と行事【一】〜【七】』も合わせて、ちゃんとした本のネット販売サイトを作らなくては。

 西古見、青久、嘉徳が奄美大島の三大”陸の孤島”だと個人的に思っている。
 西古見は奄美大島最西端の集落、林道を走って辿り着く青久は2012年に訪れた時は住民1人の限界集落だった。嘉徳は元ちとせの生まれシマ。路線バスだと最寄りのバス停は嘉徳入口だが、そこから海岸に面した集落までは4〜5kmあるだろうか。住民なら瀬戸内海浜バスがデマンド運行で予約乗車できるようだが、車のない旅行者が訪れるのは難しい集落だ。
 その嘉徳集落の海岸に、護岸工事の話しが持ち上がっている。東洋のガラパゴスと称されている奄美大島だが、実は純粋な原生林は僅か(島全体に広がる深い森のほとんどが、過去に一度は人の手が入れられている)だし、海岸に至ってはコンクリートの護岸やテトラポットといった人工物がいっさい無いのは今や嘉徳の海岸だけではないだろうか。
 集落と海岸の間にはアダンの木が植えられており、木々のトンネルに続く小道を抜けて浜に出る。浜には嘉徳川も流れ込んでおり、その水流が浜に不思議な紋様を創り出す。一度コンクリートで埋めてしまったら、もう元には戻らないだろう。
 奄美の島唄に「塩道長浜節(しゅみちながはまぶし)」という歌がある。喜界島の塩道村に住んでいた、ケサマツという美女の悲恋を唄った歌だ。その舞台となった塩道を訪ねたことがある。今は公園になっており、コンクリートで埋め立てられて砂浜は僅かに残っているだけ。歌にあるように、馬が砂浜を駈けられるような長浜の面影はなかった。
 嘉徳海岸の護岸工事反対の署名は、こちらから。
嘉徳の海岸
↑コンクリートの護岸やテトラポットといった人工物のない、嘉徳の海岸。
 銀座にあるレコーディングスタジオ「音響ハウス」のドキュメンタリー映画が作られ、11月14日から公開されるようだ。
 ドラムのシマ(島村英二)さんのローディーをしていた1980年代前半に、音響ハウスも何度となく行っている。ソニー信濃町スタジオは大滝詠一さん関係のレコーディングが印象に残っているが、音響ハウスはハネケン(羽田健太郎)さんの劇伴のレコーディングで行く機会が多かった気がする。
 音響ハウスでハネケンさんがコッペパンを食べていて、ここのコロッケパンが美味しいとお店を教えて下さった。もう40年ほど昔のことで、お店の名前も、実際に自分が買いに行ったどうかも忘れたが、ネットで検索したところ、たぶんお店はチョウシ屋だろう。
 2007年に、ハネケンさんが58歳で亡くなられ時は驚いた。もう、13年が経つ。

 現在問題となっている日本学術会議の任命見送りについて、菅首相は記者団の質問に対して「法に基づいて適切に対応した結果だ」と歩きながら話した・・・この映像をテレビのニュースでも見ていたが、彼の言う「法に基づいて」の法は、どの法律なのだろう。先ずは、どの法をどう解釈してそうなったのかくらい説明したらどうか。できるものなら。
 政府は「脱ハンコ」を加速させるそうだが、個人的にはハンコよりも難解な行政書類の文章を平易にしてくれる方がありがたい。個人的にはハンコを押す行為はそれほど面倒ではないが、難解な書類を読まされるのはとても苦痛。読まずに(理解できずに)ハンコを押していることもある。そんな事より先ず政府と行政に望むのは、行政文書の「脱黒塗り」だ。
 ファッションデザイナーの高田賢三さんが、新型コロナに感染して亡くなられた

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10月2日(金)

 部屋はまだまだ片付かないが、写真を郵送したり手渡したりの作業が一段落したので、午後から久しぶりに自転車に乗った。写真展の期間中も自宅からミュゼふくおかカメラ館まで晴れている日は自転車で通ったが、のんびり漕いでも片道10分ほど。とにかく自転車でちょっと遠くへ気ままに足を延ばしたかった。
 午後2時過ぎに家を出て、先ずはあいの風とやま鉄道で2つ先の「やぶなみ駅」を目指す。大きな道は避けて、生活道路を選んで走る。やぶなみ駅に到着したら、休憩もせずに帰り道は違う道を選んで走る。
 福岡町に戻って来たら、小矢部川の堤防へ。三日市橋から福岡小学校の裏辺りは、堤防の両側に点々と赤い曼珠沙華が咲いている。誰かが植えたんだろうか?
小矢部川の堤防

 人通りも少ない堤防で自転車を漕いでいると、目の前に広がるのどかな風景と新型コロナ禍がリンクしない。それでも時おりすれ違う学校帰りの小学生や、犬を散歩させているおばさんの口にはマスクがあり、新型コロナは現実なのだと引きもどされる。
 2時間半ほど自転車で走って家に帰ってきた。5月の後半から写真展準備とフォトブックの製作に追われていたので、こうして自転車に乗ったのは4ヶ月ぶりだろうか?
 夕方のテレビ・ニュースでは、トランプ大統領が新型コロナに感染したことを伝えていた。

新しいトップ画面
←もう10月。今年も残り3ヶ月となりました。写真展も無事に終了したので、トップ画面を模様替えしました。新しい画面はマドリードのお肉屋さん。ハモン・セラーノの骨付足が吊るされている。

↓これまでのトップ画面。
これまでのトップ画面

 菅首相が日本学術会議の推薦候補6人を任命しなかったことが波紋を呼んでいる。日本学術会議は首相に、任命しない理由を明らかにするよう要望している。
 この問題に関しては<「この政権、とんでもないところに手を出してきた」学術会議任命見送られてた松宮教授>を読むとわかり易い。

ほとんど同じ構造をもっている条文が憲法6条1項にある。天皇の国事行為だ。「天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する」とある。日本学術会議法 では「学術会議の推薦に基づいて内閣総理大臣が任命する」。主語と述語は入れ替わるが、同じ構造だ。ということは官房長官の言い方だと、国会が指名した人 物について天皇が「この者は駄目だから任命しない」と言えることになる。同じ理屈だ。つまり任命権があることを、「任命が拒否できる権限もある」というふ うに思うのは間違いなのだ。

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 昨年の11月4日に撮影した岩峅寺の雄山神社の写真をPhoto Albumにしました。こちらこちら
岩峅寺の雄山神社
↑奥が檜皮葺き屋根の本殿。

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