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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表 ◯製作中の富山の祭りと芸能 ◯製作中の富山の祭りと芸能歴史年表 |
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10月? 白川郷 どぶろく祭り 2022年8月22日〜8月27日 式年遷宮祭 |
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*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り *全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧 *とやまの獅子舞百選 *富山県内のお祭り、イベント *とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞 *とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り *とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事 *富山の祭り *築山行事 *とやまの曳山”世界の宝”を守り続ける *砺波の獅子舞 各地区の日程 *年中行事覚書 柳田国男 *田の神祭りに見る日本人の神意識 *山の民の祈り *立山に生きる村ー宗教集落芦峅寺のくらし *立山信仰史における芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅 *五箇山の獅子舞の起源 *道祖神 |
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◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作 ◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作 ◯久高島の年中行事 平成17年度作成 ◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作 ◯ 「まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作 ◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作 ◯幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】 ◯村踊 沖縄県伊江村伝統芸能 ◯喜屋武(チャン)の綱引き ◯与那国島の行事 ◯ 「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作 ◯与論島の洗骨儀礼 |
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◯富山県 新型コロナウイルス感染症について http://www.pref.toyama.jp/cms_sec/1205/kj00021629.html?fbclid=IwAR1Z5J0FxdUdIrb0KWEPHX-VTzevMn1SYkafoJbL0IrfRBBnTG5k0vO_t1U ◯都内の最新感染動向 https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/ ◯山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信 https://www.covid19-yamanaka.com/index.html ◯新型コロナウイルス感染速報 https://covid-2019.live/ ○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html ○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/ ○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html ○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm ○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/ ○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/ ○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/、が ○チョ 10イさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy ○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/ |
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メディア関連 ブログなど |
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朝晩は寒くなってきたので、昨日から湯たんぽを使用している。 | ||
本人への30時間にも及ぶインタヴュー他、数多くの関係者への取材をまとめた『恋するふたり ニック・ロウの人生と音楽』(シンコーミュージック)という528ページのニック・ロウ本が今日発売になったようだ。 |
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アヴェレイジ・ホワイト・バンドというバンド名は知らなくても大ヒットした「ピック・アップ・ザ・ピーセズ」を耳にしたことのある人は多いはずで、個人的にはソウルやファンクというカテゴリーのバンドとして捉えていた。 上の写真は1992年10月に撮影したニック・ロウ。このカットと手の位置が異なる写真が、1996年の来日ツアーのパンフに使用された。入校した写真原稿は、印画紙に焼いた後に薬剤に浸けて調色したプリント。 |
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いやいや、ステージの下で撮っていたが、そんなことはないだろう(笑)。 You Tubeから「Cruel to be kind/Nick Lowe」、ダリル・ホールとアラン・ゴーリー(5弦ベース?)が共演する「Pick Up The Pieces」。 |
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昨日も午後から運動不足を解消に、自転車をブラブラと漕いでいた。醍醐の方を走っていると前方から電動スクーターに乗ったおばあさんがやってきて、時間を教えてくれという。そして小矢部の〇〇はどっちの方向か尋ねられた。小矢部はたぶんこっちですが、少し先にある住宅でもう一度聞いて下さいと言うと、おばあさんは電池がそろそろ切れそうだという電動スクーターを走らせた。心配でしばらく様子を見ていると、住宅は素通りして戸出方向に曲がって行く。そっちに向かって走るといつまで経っても小矢部には着かないので自転車で後を追い、小矢部のどこかもう一度尋ねると今度は知った地名が出てきたので方向転換してもらって、スクーターの後ろからついて行くことにした。おばあさんは携帯電話を持っておらず、家には息子さんがいるそうだが電話にはでないだろうという。受け答えはしっかりしているが、電動スクーターで家を出たが迷子になって自分がどこにいるのかわからない。家が小矢部なら、もう一時間以上電動スクーターでウロウロしていたのだろう。 矢部まで来ると広い道路に出て、工務店があった。工務店の前で止まっておばあさんの住所の確認をする。工務店にいた人に聞くと、かなり遠そうだ。歩くのより少し早い程度の電動スクーターでは日が暮れそうだし、電動スクーターの電池も無くなりそうだ。おばあさんに、交番に電話をしてお巡りさんに来てもらってもいいか確認すると、いいと言う。携帯から110番に電話をし事情と現在地を伝える。工務店の事務の女性と3人で、お巡りさんが来るのを待つが、緊急性がないからか時間がかかる。 ようやく二人のお巡りさんがパトカーで到着。色々と事情聴取された後、電動スクーターを乗せられる車両を手配して、おばあさんを家まで送ってくれることになったので、家に戻ってきた。 |
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明日で首里城火災から一年になる。下の写真は2012年10月27日に撮影した、首里城祭での冊封儀式の様子。 |
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欧米に比べれば感染者は少ないと言っていた日本だが、気がつけば10万人を越えている。それも他国と比べれば圧倒的に検査数を絞っての数字だ。 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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午前中に、今月の31日で期間が終了する特定健診を受診してきた。いつもはもっと早い時期に受診しているが、今年は新型コロナで病院に行くのが躊躇われたのと、写真展があったのでギリギリでの受診となった。結果は2週間後の11月11日以降に。年々身長は縮み、体重は増加傾向にある。 | ||
先週の金曜日に、アマゾンのマーケットプレイスで本を2冊ポチった。ポチった『永平寺 傘松閣天井絵』が一昨日、『越中の彫刻 祈りと美の系譜』(巧玄出版)が昨日届いた。 傘松閣の天井絵は144人の日本画家により230枚描かれているが、写真集をパラパラと眺めていたら富山県出身の画家を2名見つけた。塩崎逸陵氏、村島酉一氏。Wikiによれば、塩崎氏は富山県立工芸学校(現・富山県立工芸高等学校)卒業とあるので、遠い先輩にあたる。 |
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天井画のある社寺は、県内にもいくつかある。祭りを撮影に行った際に見つけたのは、魚津市小川寺にある白山社、五箇山の下梨にある地主神社、宇奈月町の下立神社、宇奈月町の鶏野神社の4つの神社と、楡原にある上行寺。 ネットで検索すると下立の全龍寺、浦山の善巧寺にもあり 天井画の特別公開を行ったりしているようだ。この他にも知らないだけで、もっとあるのだろう。 8月〜9月の写真展開催中にラジオや新聞などで取材していただいた際、今後の撮影のテーマを聞かれることが多かった。その時は「神社やお寺に奉納されている絵馬を写真に収めて残しておきたい」という風に答えていた。放っておけば色が褪せ、塗料が剥がれていく絵馬。それらを一つ一つ記録しておくことは、重要な郷土資料になり財産だと思う。そういう意味では絵馬と同じく天井画も調査し、今の内に記録に収めるべき文化財のように思う。 ただ、建物の中にある天井画や絵馬を撮影して記録するのは、個人でやろうとした場合、お祭りを撮影するより困難だろうな。 |
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↑魚津市の小川寺にある白山社の天井画。 |
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↑五箇山の下梨集落にある地主神社の天井画。 |
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↑宇奈月町下立(おりたて)にある下立神社の天井画。 |
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↑宇奈月町浦山にある鶏野神社の天井画。 |
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↑楡原にある上行寺の天井画。 |
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昨日、沖縄初の芥川賞作家である大城立裕さんが亡くなった。氏の作品を読んだことはなかったが、沖縄に住んでいた2012年に、聞得大君をテーマにした組踊の新作を大城さんが書き、坂東玉三郎さんが主演したという話題はよく覚えている。 航空会社に続き、JR東日本が2643億円の赤字、JR東海が1135億円の赤字となるようだ。とりあえずJR東海はリニアの建設を凍結してはどうか。 |
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◯追悼:鬼海弘雄 都築響一 |
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今日は、富山県知事選。午後から自転車に乗って投票に行ってきた。20時の投開票と同時に、北日本新聞が新人の新田八郎氏の当確を出した。 モノにもよるのだろうが、蒐集するという行為は女性よりも男性の方に強く備わった嗜好なんだろうか。 |
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You Tubeから『Una Marcia/Instant Cytron』。インスタントシトロンの音楽。キッチュでガジェットな感じは80年代に登場したキュレプスキュール・レーベルのMIKADOや、ラフ・トレードのウイークエンドの音楽をちょっと彷彿させる。 | ||
この他の気になった記事を備忘録として。 |
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2010年の奄美豪雨から、昨日で10年が経った。台風が上陸したわけでもなく、2日ほど前から淡々と降り続いた雨が、気がつけば100年に一度と言われる豪雨災害となっていた。 |
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↑名瀬港隣りの広場に着陸した、自衛隊のヘリ。2010年10月24日撮影。 |
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今日は快晴で、気温も上がった。午後からサイクリングを兼ねて、今月の15日に佐助祭の行灯が飾られていた旧北陸道にある和田の神明宮へ、佐助を祀った祠や顕彰碑を見に行った。 ←朝日山善宗寺。 |
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善宗寺を撮影した後、少し先にある和田神明宮へ。境内に入り、拝殿の右隣りに佐助を祀った祠、和田佐助碑、和田の佐助顕彰碑が順に並んでいた。 顕彰碑には以下のような文言が刻まれていた。 和田の佐助顕彰碑 慶長十四年(一六〇九)前田利長公の高岡城築城と高岡町開町によって、往還北陸道が利波郡佐野村和田野を通過することとなり、この地は人馬の往来で賑わうことになった。佐野村の佐助は有志五人と相計り、慶安二年(一六四九)八月二十六日、高岡町奉行に街道筋の祖文川(祖父川?)橋より一町程高岡寄りに家数七十軒、広さ五千九百五十歩の町立てを願い出た。藩の同意を得て同年九月一五日に許可が与えられ、直ちに町作りが行われた。 和田野新町の肝煎りとなった佐助は、町立ての進捗と共に、善宗寺、西光寺を招聘するなど町の繁栄の礎を築いたのである。 佐助は、万治三年(一六六〇)隠開の疑いで召し連れられ、処刑されたというが定かではない。しかし、隠開は私利のためではなく町民の窮状を救うためのものであったことから、義民とあがめられてきた。 現在の和田の隆盛は、ひとえに佐助の努力に負うところ大きく、ここに、佐助の遺徳に感謝し、その功績を子々孫々に伝えるため顕彰碑を建立するものである。 |
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↑拝殿の右隣にある佐助を祀った祠。 ←和田佐助碑。 →和田の佐助顕彰碑。 境内を撮影した後、和田神明宮の近くにユニクロがあるので寄って行く。店内をブラッとして、結局何も買わずに店を出る。 |
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自分の著書を改竄?ASEANをアルゼンチンと誤読。インドネシアでの記者会見をテレビで観ていたが、あまりにもたどたどしい話し方でげんなりする。記者の質問に原稿を見ながら答えるのも、前首相からの継承だろうか。 | ||
世界はどうかしちゃったんだろうか、と思うほど訃報が続く。昨晩はトランぺッターの近藤等則さんの、今日は写真家の鬼海弘雄さんの訃報が流れてきた。そして先ほど、この日記を書いている最中に写真家の水谷充さんが虚血性心筋梗塞で亡くなったという情報がFacebookに。享年60歳。同い年だった。 向ケ丘遊園に引っ越す前は、15年ほど鶴川に住んでいた。最寄り駅が小田急線の鶴川駅だけれど、住所は町田市大蔵町だった。鶴川街道からちょっと路地に入った、鶴見川沿いの静かな住宅地だった。20代前半からだから、1980年代初頭だろうか。まだ和光大学へ続く道には学生運動の名残りか、カマボコ(警備車)が停まっていることもあった。 鬼海弘雄さんと近藤等則さんは面識がなかったが、水谷充さんは東京に居た時に何度かお会いしている。一番最初は2008年に五味彬さんと横木安良夫さんが中心となって目黒のギャラリーコスモスで開催された「¥3,000円で写真売りましょ!買いましょ!展」の時で、この時は水谷さんも写真を出品していたが、開催前の準備段階から取材にも来ていた。その時に話しをしたのが最初だった。その後も写真展や写真関連のイベントなどで、時々お会いすることがあった。バッタリ会って、そのままHARUKI氏の家へ行って3人で明け方まで話していたこともあった。 それにしても、なんて一日だ。 |
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秋晴れだった昨日の午後は、ゆっくり自転車で走っても20分くらいの木舟城跡へ行ってきた。何年か前に一度撮影しているはずだが、写真を探したが見つからなかったので、もう一度撮影することに。 駐車場には木舟城址の案内板が設置してあり、これ以上は略せないほど簡略化した年表があった。 寿永3年(1184) 石黒太郎光弘、木舟城を築く 天正9年(1581)7月 近江長浜で石黒成綱と家臣が織田方に討たれる 天正13年(1585)11月 天正大地震により前田秀継夫妻落命 天正14年(1586) 前田利秀、木舟城を廃城 |
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↓入口の石碑。→本丸跡と思われる場所に建つ標柱。 |
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入口に建つ「木舟城跡」と刻まれた石碑の裏には、木舟城跡の概要が刻まれていた。 木舟城跡について この城は寿永三年(一一八四年)石黒太郎光弘の築城と伝えられ、その後、上杉氏、前田氏の居城となり、城下町も発達したが、天正十三年(一五八五年)十一月大地震により崩壊した。 昭和四十年十月 県指定史跡となる |
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↓木舟城址の近くを北陸新幹線が走っている。田んぼと新幹線の高架、今や、これが田舎の風景のスタンダードかもしれない。 |
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木舟城址と道路を隔てた場所に、神社があった。鳥居の横の石柱に刻まれた文字は貴布禰神社と読むようだ。 | ||
境内にあった案内板には、以下のように記されていた。 木舟城の姿について 今日見られる木舟城跡は、木舟城の主郭(本丸)の一部が地上に残ったもので、現在の史跡地の西の水田も含めて城主の住む主郭が存在したものと考えられます。 富山県教育委員会 |
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こちらのブログには<元々、「木舟城」は「延喜式内社赤丸浅井神社」・「赤丸浅井城」を中心とした「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄続いた皇室直轄庄園「越中吉岡庄」に築かれた「赤丸浅井城」の出城で在り、「赤丸浅井城城主石黒光景」の子供の「石黒光弘」が居城にしたとされる>と書かれている。またも赤丸・・・。 |
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東京外かく環状道路(東京外環道)のトンネル工事のルート上にある東京都調布市の市道が陥没した。工事を実施する東日本高速道路は、原因を調査するため、専門家を集めた検討委員会を開催。専門家からは「今の段階で原因は断定できないが、(工事との)因果関係はないとは言い切れない」としている。 この工事は大深度地下法によって行われている。<大深度地下法は地下40メートルより下は地上に影響がないという前提で、地上の住民の許可を得ないまま地下の使用を認める法律。認可された工事はこれまで3つ。神戸の送水管、外環道(関越〜東名間)、リニア>だそうだ。もし工事との因果関係が認められたなら、今後のリニア工事にも影響してくるだろう。 この他の気になった記事を備忘録として。 ◯「海洋放出は絶対反対」全漁連が政府に要請 福島第一原発の汚染処理水巡り ◯尚寧王一族の石厨子公開 浦添市美術館、組み立てた状態は初めて ◯学術会議めぐり広がる大量の誤情報、まとめサイトが影響力。政治家やメディアも加担 ◯桜井よしこ氏「防衛大卒業生は、東大などが大学院受け入れを拒否」は誤り ◯【福島第一原発、汚染水問題】誰が「タンクの置き場所が無い」と決めたのか ◯竹中平蔵氏・三浦瑠麗氏ら委員に 政府の成長戦略会議 ◯「中曽根氏への弔意」文科省の求めに56大学が弔旗・半旗 「掲揚しない」は19校 ◯GoToかさむ立て替えに旅行業悲鳴 国の振り込み遅れ ◯準強姦逮捕状の「山口敬之」氏、高級外車修理代を踏み倒し訴訟 地裁では敗訴 ◯昼ドラより安価な情報番組 「仕込み」を招く過酷な現場 |
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風が冷たく気温は上がらないが、まずまずの秋晴れ。 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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昨日は『傘寿記念 大澤光民の世界ー人間国宝としての歩みー』を見に、久しぶりに自転車で遠出をして高岡市美術館へ。 午前11時頃に家を出て旧北陸道を自転車で走っていると、「和田の佐助像、御印祭、佐助大明神」と書いた行灯を軒先に掲げた一画があった。 |
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↓→軒先に佐助像の行灯を掲げた家が並ぶ、旧北陸道。 |
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和田?御印祭?どこかで見た記憶があるので、家に帰ってから検索すると「とやまの年中行事」に掲載されていた。 |
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自転車でタラタラと走って、1時間ほどで高岡の中心部に到着。お腹が空いたので、美術館へ行く前に何処かで昼ご飯を。自転車で何かいい店はないかとウロウロしていて、バーミヤンの看板を見つけた。1990年代の前半、町田市の鶴川にあったバーミヤン1号店の近くに住んでいた。その頃は、よく食べに行っていた。 懐かしくなったので、バーミヤンに決めた。 昨年の4月に、ガストからの業態転換でオープンした店舗のようだ。 |
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わりとこじんまりとした店舗で、メニューはタッチパネル。グランドメニューの数がずいぶんと少なくなった印象だ。日替わりのランチに餃子3個を追加。ご飯は大盛り無料だったので大盛りにしたが、ご飯茶碗だろうと思っていたら丼めしでちょっと後悔した。いくらなんでも多すぎるだろう・・・。ランチと餃子で税込み769円。値段は手頃だが、昔のバーミヤンならザーサイとか小さなサラダとかが付いていた気がする。野菜がないと色味も淋しい。 | ||
バーミヤンを出て、14時頃に高岡市美術館に到着。 | ||
↑美術館。→最後の展示室に飾られていた二番町の御車山の模型。 |
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1000円の当日券を購入して、展示会場へ。会場は3つの部屋で構成されている。説明を一つ一つ読みながら、作品を見ていく。 鋳型にステンレスや銅を釘で固定し、溶解した金属を注ぎ込む鋳ぐるみという鋳造方法で作られた火器や皿などの作品がメインとなっている。今回の展覧会にあわせてテレビでもその作品を目にする事は多かったが、実物の方が光沢もあり美しかった。 そうした作品の中に、彫金、着色などの高岡銅器伝統工芸士の製作協力で完成された大日如来像と、その原型となる木彫の大日如来像が展示されていて興味深かった。 最後の部屋には1983年に制作された「二番町御車山模型」が展示されており、この模型だけは撮影可能だった。当時の高岡の名工たちが協力して制作したもので、当時42歳だった大澤光民氏も鋳造を担当している。 2018年の春に完成した「平成の御車山」の監修は、大澤光民氏だった。右の写真は2018年4月30日に御車山会館で開催された完成披露式での写真だが、手前の後ろ向きの人は大澤光民氏だろう。 |
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1時間半近く美術館に滞在してから、今月3日に御旅屋セリオの2階に移転オープンしたZIBA(高岡地域地場産業センター)を見て来た。フロアーの半分ほどを占める体験コーナーのスペースがクローズしており、閑散とした印象。 御旅屋セリオを出て、来た道を辿るようにして家路へ。家の近くまで来るとだいぶ日が暮れて、オレンジに輝く縦長の雲が空に浮かんでいた。小矢部川の方へちょっと寄り道して、撮影してから家に帰った。夕焼けを撮影するなんて、何ヶ月振りだろうか。 |
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↑ZIBA。↓→小矢部川からの夕景。 |
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昨日は作曲家の筒美京平さんの死去に驚いたが、今日、まつもと泉が死去したというニュースが届いた。 本棚に『きまぐれオレンジ★ロード』の愛蔵版1巻~10巻が並んでいる。 まつもと泉が「21世紀の次世代マンガ」として、CD-ROMで見せるデジタル・コミック『COMIC ON』の製作を始めた時、雑誌のグラビアに相当するスペシャルインタビューというコーナーでの撮影を担当することになった。 『COMIC ON』は1996年2月にvol.1が東芝EMIから発売され、1997年10月に発売したvol.5で休刊となった。その間に「平井和正の世界」「平井和正&泉谷あゆみ」「飯野賢治VSまつもと泉」「声優古谷徹の素顔」「声優宮村優子の素顔」「声優鶴ひろみの素顔」を撮影した。 まつもと泉が、『COMIC ON』で連載を始める予定だった「EE」は完成が間に合わず、確か後になってスーパージャンプかなにかで一度誌面に載ったと記憶している。「EE」はeternal eyaの略だったと思う。ストーリーを聞かせてもらったが、手塚治虫の「ワンダー3」が頭に浮かんだ。 今日は『COMIC ON』を見て昔を思い出しながら追悼しようと思ったが、CD-ROMが新しいパソコンのOSには対応していないので、2002年に発売されたeMacの電源を入れたが画面が起ち上がらない。数年前は起動したのに。 まつもと泉。生誕1958年10月13日。Wikiで初めて知ったが、今日が誕生日だったのか。 |
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↑『COMIC ON』vol.1〜5。 ←写真右の女性は、ダディ竹千代と東京おとぼけキャッツの初代ボーカルまどかさん。オレンジ★ロードの鮎川まどかのモデルが中森明菜というのは知られているが、まどかという名前は彼女から。40年ほど前、バニーガール風の衣装に猫のしっぽと猫ミミを着けて歌う姿に、寺嶋さんも衝撃を受けたのかもしれない。 |
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昨日から、また暖かくなった。今日は半袖のTシャツでも、自転車を漕いでいると汗ばむくらいだった。 | ||
春頃にぶらぶらと折りたたみ自転車を漕いでいたら、急に左ペダルの軸がグラグラになった。緩んだのか何か部品が取れたのか?何度か直そうと試みたが上手くいかないのでそのまま放っておいた。その間は甥っ子が置いていった自転車に乗っていたが、時間も出来たので、昨日、町で一軒になった自転車屋さんに持って行ったところ、ペダルの軸を押し込んで大きな輪っかを締めたら無事に直った。ものの5分もかからなかったので、もっと早くに来ればよかった。修理代は1000円也。 | ||
せっかく折りたたみ自転車が直ったので、今日は午後から少し小矢部川の堤防を走ってきた。この自転車は2017年の5月の終わりに購入したので、もう3年と4ヵ月が経つ。お祭りの撮影で遠征するため折りたたんで輪行バッグに入れることも多かったので、アチコチに傷が出来ているが、全体的にはキレイだ。あまり手入れをしていない割りに、サビもほとんどない。 奄美大島で買った折りたたみ自転車は、潮風と雨で1年もしない内にサビだらけになった。島の環境がどれほど過酷だったかということだろう。 |
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昨年の11月12日に撮影した上行寺の餅柱作りの写真をPhoto Albumにしました。こちら。 | ||
◯「Wi-Fiなしで音楽が聴けるとかやばくない?」CDを知らない世代の発言に、ツイッターでは驚きの声 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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朝から雨、昼頃から曇り。薄着では肌寒い季節となった。 | ||
一昨日は雲が多いながらも秋晴れだったので、自転車でぶらぶらとしてきた。 小矢部川を渡り赤丸方面へ。山裾を自転車で走っていると「総持寺跡」「鍛冶屋町跡」「天景寺跡」と書かれた板が、少し間隔を開けて並んでいた。 この辺りは年に一度くらいは通っているが、こんな案内板を見たのは初めてだ。見落としていたのだろうか?それとも最近立てられたのだろうか。 ↓左から「総持寺跡」「鍛冶屋町跡」「天景寺跡」。 |
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気になったので家に帰って調べてみたら、こんな記述があった。 <「越中吉岡庄」の赤丸村には、往古、現在高岡市外にある「総持寺」、「天景寺」、「宗泉寺」、「西大寺」等48の寺院が赤丸浅井神社周辺に集積していた。又、『宇多刀工の氏神』の「槌の宮」も赤丸村から総持寺の門前に移転し、高岡市の「極楽寺」も赤丸村舞谷の「極楽寺」に創建されたと伝わる> |
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山裾にそって走っていると、赤丸浅井神社の前に着いた。何度も来ており、写真も撮っているが、せっかくなので撮影。先ずは参道の杉並木から。案内板には次のように書かれている。 高岡市指定 天然記念物 この杉並木は、延喜式内社赤丸浅井神社の参道両脇に約二百mあまりに渡って立ち並んでいます。樹齢は、二百~四百年あまりとされていますので、少なくとも現在の景観が江戸時代のはじめまで遡ることになります。 高岡市教育委員会 |
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境内には「浅井神社と川人家」と題した縁起が書かれた案内板があった。読んでみると<浅井神社の社僧は初代が養老元年(七一七)行基と伝えられ、本地仏に毘沙門天を、垂迹神として高皇産霊神を配して総山号を「川人山」、総寺号を「鞍馬寺」と号していました>と書かれている。 養老元年?行基?射水神社の創建と同じではないか。 富山に残る行基伝説に従えば、行基は養老元年に二上山麓に二上神(後の射水神社)の別当寺として養老寺を、赤丸に川人山鞍馬寺を建立したことになる。 |
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浅井神社と川人家 五位庄五十三ヶ村総社浅井神社は、「延喜式内社」であり、越中国三十四座、砺波郡七座の座の一座です。浅井神社の社僧は初代が養老元年(七一七)行基と伝えられ、本地仏に毘沙門天を、垂迹神として高皇産霊神を配して総山号を「川人山」、総寺号を「鞍馬寺」と号していました。 平成二十一年九月 浅井神社氏子総代会 |
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ちなみに、赤丸射水神社の前の道をまっすぐ行くと、二上射水神社の前に着く。こちらの記事には<五位庄53ヶ村の惣社だったと考えられている。江戸時代には57ヶ村となり、川人明神と呼ばれた。神官は代々川人家が世襲した。川人権現・三社権現などとも呼ばれたが、明治になり、現社号に改称、新たに高皇産霊神も併せて祀られ、郷社に列した>と書かれている。 二上の養老寺は、行基が元正天皇の勅命を受けて建立したとされるが、赤丸の鞍馬寺はどうした経緯で行基が建立したのであろうか。 |
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境内には、2013年8月に倒れた樹齢1200年といわれる大けやきの跡が残されている。 |
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↓赤丸浅井神社のご神木である大けやきの跡。→大けやきの写真。 |
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赤丸浅井神社の大けやき跡 この場所には、樹齢千二百年以上ともいわれる大けやきがあった。元々は地上高四メートルのところで幹が三つに分かれていたが、昭和九年(一九三四)の落雷により縦裂が生じたため、二幹を伐採し、一幹が残された。昭和二十三年四月二十四日に富山県指定文化財に指定されたが、当時は樹高約二十メートル、幹回りは約九・三メートルあり、富山県内で最も大きな幹回りを持つけやきであった。その後、地元住民や氏子総代会が中心となり樹木の保全を図ってきたものの、徐々に樹勢が弱まり、平成二十五年八月に倒壊したため、やむなく指定解除となった。 *富山県文化財保護条例改正に伴い、昭和四十年十月一日に改めて県指定天然記念物の指定を受けていた。 平成二十六年十二月二十六日 高岡市教育委員会 |
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境内の後方、本殿の方に行くと、こちらにも曾ては大きなけやきがあったようだ。 高岡市指定 天然記念物 浅井神社のけやきは、延喜式内社である浅井神社本殿の東側玉垣に接して立っています。幹回りは、六・四mあり約十m程のところで幹が2つに分岐しています。 |
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樹齢千年以上ともいわれるこのけやきは、同じ境内にある県指定天然記念物のけやきに優るとも劣らない巨木です。 また、このけやきは他のけやきに比べて、早く芽吹いて落葉します。ちょうど、その時期が神社の春祭り・秋祭りと重なる頃にあたるため、万物の生命活動の象徴であるものとして見立てられ、枝葉の茂りぐあいでその年の収穫を占ったと伝えられています。 なお、平成十六年には、腐蝕していた枯幹の上部を切断して防腐処理を実施するとともに、宿り木や周辺樹木を撤去し、けやきの生育環境の保全が図られています。地元氏子を中心とするこうした保存修理に対する取組みからも、この木が今も神木として崇敬を集めていることがわかります。 高岡市教育委員会 |
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赤丸の浅井神社を出て石堤の方へ500メートルほど自転車を走らせると、もう一つ神社があった。参道の方へ行くと浅井神社と書いてあり、こちらも五位庄五十三箇村総本社とある。 |
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↓→石堤の浅井神社。 |
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この赤丸と石堤2つの浅井神社の関係が気になり、家に帰ってから検索したところこんな記述が見つかった。 <「延喜式内社五位庄郷社赤丸浅井神社」については長く本家論争が有り、かつては赤丸村と石堤村の「浅井神社」の間で流血事件があり、警察が仲介した経過も有る。元々、「赤丸浅井神社」は両部神道で有り、「川人山鞍馬寺」を頂点とし、その下に3社権現として赤丸浅井神社、石堤浅井神社、舞谷八幡社があった>。 |
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一昨日、ギタリストのエディ・ヴァン・ヘイレンが亡くなった。Facebookにはたくさんの追悼コメントが流れてきた。 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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寝ても寝てもまだ眠いのは、よほど疲れが溜まっていたのだろうか。 | ||
昨日、写真展での物販の売上げ報告書が届いた。フォトブックの方は、トータル120冊売れたそうだ。購入していただいた方々、ありがとうございました。 ミュゼふくおかカメラ館での販売は終了しましたが、引き続き個人で販売を行なっています。オンデマンド印刷なので、注文いただいて1週間から10日程でお手元に届きます。 |
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『とやま、祭り彩時季』【一】の内容はこちら、【二】の内容はこちら、【三】の内容はこちら、【四】の内容はこちら、【五】の内容はこちら、【六】の内容はこちら、【七】の内容はこちら、【八】の内容はこちら、【九】の内容はこちら、【十】の内容はこちら、【十一】の内容はこちら。 4年ほど前に制作した、奄美〜沖縄に至る琉球弧の祭祀と行事を纏めた『琉球弧の祭祀と行事【一】〜【七】』も合わせて、ちゃんとした本のネット販売サイトを作らなくては。 |
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西古見、青久、嘉徳が奄美大島の三大”陸の孤島”だと個人的に思っている。 西古見は奄美大島最西端の集落、林道を走って辿り着く青久は2012年に訪れた時は住民1人の限界集落だった。嘉徳は元ちとせの生まれシマ。路線バスだと最寄りのバス停は嘉徳入口だが、そこから海岸に面した集落までは4〜5kmあるだろうか。住民なら瀬戸内海浜バスがデマンド運行で予約乗車できるようだが、車のない旅行者が訪れるのは難しい集落だ。 その嘉徳集落の海岸に、護岸工事の話しが持ち上がっている。東洋のガラパゴスと称されている奄美大島だが、実は純粋な原生林は僅か(島全体に広がる深い森のほとんどが、過去に一度は人の手が入れられている)だし、海岸に至ってはコンクリートの護岸やテトラポットといった人工物がいっさい無いのは今や嘉徳の海岸だけではないだろうか。 集落と海岸の間にはアダンの木が植えられており、木々のトンネルに続く小道を抜けて浜に出る。浜には嘉徳川も流れ込んでおり、その水流が浜に不思議な紋様を創り出す。一度コンクリートで埋めてしまったら、もう元には戻らないだろう。 奄美の島唄に「塩道長浜節(しゅみちながはまぶし)」という歌がある。喜界島の塩道村に住んでいた、ケサマツという美女の悲恋を唄った歌だ。その舞台となった塩道を訪ねたことがある。今は公園になっており、コンクリートで埋め立てられて砂浜は僅かに残っているだけ。歌にあるように、馬が砂浜を駈けられるような長浜の面影はなかった。 嘉徳海岸の護岸工事反対の署名は、こちらから。 |
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↑コンクリートの護岸やテトラポットといった人工物のない、嘉徳の海岸。 |
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銀座にあるレコーディングスタジオ「音響ハウス」のドキュメンタリー映画が作られ、11月14日から公開されるようだ。 ドラムのシマ(島村英二)さんのローディーをしていた1980年代前半に、音響ハウスも何度となく行っている。ソニー信濃町スタジオは大滝詠一さん関係のレコーディングが印象に残っているが、音響ハウスはハネケン(羽田健太郎)さんの劇伴のレコーディングで行く機会が多かった気がする。 音響ハウスでハネケンさんがコッペパンを食べていて、ここのコロッケパンが美味しいとお店を教えて下さった。もう40年ほど昔のことで、お店の名前も、実際に自分が買いに行ったどうかも忘れたが、ネットで検索したところ、たぶんお店はチョウシ屋だろう。 2007年に、ハネケンさんが58歳で亡くなられ時は驚いた。もう、13年が経つ。 |
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現在問題となっている日本学術会議の任命見送りについて、菅首相は記者団の質問に対して「法に基づいて適切に対応した結果だ」と歩きながら話した・・・この映像をテレビのニュースでも見ていたが、彼の言う「法に基づいて」の法は、どの法律なのだろう。先ずは、どの法をどう解釈してそうなったのかくらい説明したらどうか。できるものなら。 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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部屋はまだまだ片付かないが、写真を郵送したり手渡したりの作業が一段落したので、午後から久しぶりに自転車に乗った。写真展の期間中も自宅からミュゼふくおかカメラ館まで晴れている日は自転車で通ったが、のんびり漕いでも片道10分ほど。とにかく自転車でちょっと遠くへ気ままに足を延ばしたかった。 午後2時過ぎに家を出て、先ずはあいの風とやま鉄道で2つ先の「やぶなみ駅」を目指す。大きな道は避けて、生活道路を選んで走る。やぶなみ駅に到着したら、休憩もせずに帰り道は違う道を選んで走る。 |
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福岡町に戻って来たら、小矢部川の堤防へ。三日市橋から福岡小学校の裏辺りは、堤防の両側に点々と赤い曼珠沙華が咲いている。誰かが植えたんだろうか? | ||
人通りも少ない堤防で自転車を漕いでいると、目の前に広がるのどかな風景と新型コロナ禍がリンクしない。それでも時おりすれ違う学校帰りの小学生や、犬を散歩させているおばさんの口にはマスクがあり、新型コロナは現実なのだと引きもどされる。 |
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←もう10月。今年も残り3ヶ月となりました。写真展も無事に終了したので、トップ画面を模様替えしました。新しい画面はマドリードのお肉屋さん。ハモン・セラーノの骨付足が吊るされている。 ↓これまでのトップ画面。 |
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菅首相が日本学術会議の推薦候補6人を任命しなかったことが波紋を呼んでいる。日本学術会議は首相に、任命しない理由を明らかにするよう要望している。 この他の気になった記事を備忘録として。 |
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昨年の11月4日に撮影した岩峅寺の雄山神社の写真をPhoto Albumにしました。こちらとこちら。 | ||
↑奥が檜皮葺き屋根の本殿。 |
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