HOME TOP  
バックナンバー
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表

4月17日(金) 氷見市・まるまげ祭り
4月17日(金)、18日(土) 氷見市・ごんごん祭り
4月23日(木)〜5月6日(水) 砺波市・となみチューリップフェア
4月29日(水) 小矢部市・石動曳山祭
5月1日(金) 高岡市・御車山祭
5月1日(金)、2日(土) 南砺市・福野夜高祭
5月3日(日)*宵祭は2日 南砺市・井波よいやさ祭
5月3日(日) 氷見市・唐島弁天祭
5月3日(日) 富山市・八尾曳山祭
5月4日(月)、5日(火) 南砺市・城端曳山祭
5月15日(金) 射水市・放生津・新湊地区獅子舞まつり(5月10日に行なう町内もある)
5月15日(金) 高岡市・伏木曳山祭
5月17日(日)、18日(月) 富山市・岩瀬曳山祭
5月31日(日)〜6月2日(火) 富山市・日枝神社大祭(山王まつり)
6月4日(木)、5日(金) 小矢部市・津沢夜高祭り
7月3日(金)〜7日(火) 高岡市・戸出七夕まつり
7月13日(月)、14日(火) 氷見市・氷見祇園祭
7月24日(金) 入善町・新屋大磐祭り
7月31日(金) 滑川市・滑川のネブタ流し
9月1日(火)〜3日(木) 八尾・おわら風の盆
9月23(水)、24日(木) 高岡市・つくりもんまつり
10月10日(土) 10月の第2土曜日、戸出・戸出野神社の秋季例大祭 幌武者行列
10月12日(月・祝) 魚津・千光寺 秋祭
10月26日(月)、27日(火) 黒部市・生地たいまつ祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選


○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

3月30日(月)

 今日、しまうまプリントに発注したフォトブックがメール便で届いた。

 粟国島で2013年の2月に撮影した旧正月行事の写真と、8月に行なわれた祭祀ヤガンウユミの写真を、その時お世話になった方にプリントして送ろうと思いながら、作成している余裕がなくて今まで放置していた。
 思い出しては、どうしよう・・・と悩んでいたら、先日しまうまプリントで3月31日までの期間限定ながら文庫とA5スクエアサイズ36ページ仕様のフォトブックが1冊198円で作れると言うキャンペーン広告を発見。印刷のクオリティーはわからないが、写真をプリントしてファイルに入れて送るよりも安いくらいの値段だったので、チャレンジしてみる事にした。
 会員登録をして、フォトブックに使う写真をアップロード。画面を開いて写真をはめ込み、文字を入れていく。編集画面はわかり易い。3月21日に第一弾の「粟国島 ヤガンウユミ」、3月23日に第二弾の「粟国島の旧正月 マースヤー」の印刷を発注。その第一弾のフォトブックが、今日届いた。同じ物を4冊作り、メール便代とコンビニでの後払い手数料200円を合わせて税込み1,168円だった。

メール便で届いた「粟国島 ヤガンウユミ」

↑今日届いたA5スクエアサイズのフォトブック。タイトルは「粟国島 ヤガンウユミ」。 ↓作成中の編集画面。
フォトブックの編集画面

 入校できる写真データは、RGBとグレースケール。RGBはsRGBを推奨すると記されていたが、普段入校に使っているadobeRGBのまま入校した。また、表紙と中頁に何枚かモノクロの写真を使ったが、これもグレースケールに変換せずフォトショップのレイヤーで白黒にした後、画像を統合してRGBデータで入校。写真の自動補正はオフにした。 その印刷結果は・・・ちょっと色が濁った感じ。もう一冊の「粟国島の旧正月 マースヤー」の方はadobeRGBからsRGBに変換して入校したので、その印刷結果の違いを早く見てみたい。 
 印刷の色や解像感に不満はあるが、それでも他社のフォトブックと比較すると圧倒的に値段が安いので作ってみる価値は充分あると思う。

 翁長雄志知事が今月23日に、沖縄防衛局に対し辺野古沿岸部で進められている海底ボーリング調査を含め、海底面の現状を変更する行為を全て停止するよう文書で指示。今月30日までの7日以内に作業を停止しなければ、岩礁破砕の有無にかかわらず工事の許可を取り消す考えを示した。
 これに対して沖縄防衛局は、翁長知事が出した指示の執行停止を農林水産省に申し立てた。
 そして期限となった30日の今日、林農相は、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設計画をめぐり、翁長雄志知事による沖縄防衛局への海底作業の停止指示の効力を、一時的に停止すると発表した。
 無茶苦茶だな、やってる事が。
ルールをよく守れだって?
ルールはいつだって かってに変えていいってルールだもん
そんなのインチキじゃん!?

 You TubeよりVIBRASTONE「PUBLIC ENEMY」。

 爆笑問題の太田光氏が、29日放送のラジオ番組「爆笑問題の日曜サンデー」(TBSラジオ)で「何で日本を守らないの?あのバカは」と安倍首相を批判。その中で 「(辺野古移設阻止を主張する)翁長さんが県知事になった訳だから、あんたたちは選挙の意味を全部無効にするのか、と捉えられてもしょうがないよね」とも語っている。至極真っ当な発言で、他の都道府県知事がなぜ抗議の声を上げないのか不思議でしょうがない。沖縄で今起こっている事は、形を変えてどこの県でも起こりうる事だと思わないのだろうか。

 先週金曜日の報道ステーションに出演した古賀茂明氏の発言が波紋を呼んでいる。
「報道ステーション」終了直後の古賀茂明氏に岩上安身が緊急直撃インタビュー!
『報道ステーション』で古賀茂明が「官邸の圧力で降板」の内情暴露!古館が大慌て
続報!古賀茂明『報ステ』爆弾発言は菅官房長官の圧力が動機だった!古賀批判は的外れ
古賀茂明氏と古館キャスターは良い戦友になれるだろうか
 古賀氏から「バッシングを受けた」と名指しされた菅官房長官は、今日の記者会見で事実無根と批判した上で、「放送法という法律があるので、まずテレビ局がどう対応されるかを見守りたい」と述べた。テレビ局がどう対応されるかーーーこの発言そのものが、圧力と言えなくもないと思うのだが。

3月29日(日)

  ワイド ワイド ワイド
  我(わ)きゃ牛ワイド  全島一ワイド
  三京(みきょ)の山風 如何(いきゃ)荒さあても
  愛(かな)しゃる牛ぐゎに 草刈らじうかりゅめ
  ウーレ ウレウレ 手舞(ま)んけ 足舞(すねま)んけ
  指笛(はと)吹け 塩(ましゅ)まけ ウーレ ウレウレ
  我きゃ牛ワイド 全島一ワイド

*You Tubeから「ワイド節

 奄美大島・今里集落出身のレントゲン技師・中村民郎さんが作詞し、唄者の坪山豊さんが作曲した新民謡「ワイド節」は徳之島の闘牛を歌った唄だ。
 どちらかと言えば哀愁漂う曲が多い奄美の島唄の中にあって、この「ワイド節」は陽気なリズムの賑やかな曲だ。タイトルとなっている「ワイド」という言葉は、「頑張れ」とか「よくやった」といった意味の掛け声に使われる。
 闘牛は現在も、徳之島や沖縄本島の北部などで行なわれている。初めて見たのは2011年の6月に徳之島の伊藤観光ドーム闘牛場で開催された「第37回鹿児島ブロック大会in徳之島開催記念観光闘牛大会」だった。対戦は8組で、途中2組は牛が戦う意思を見せず勝負にならなかった。
 対戦そのものよりも勝った牛の側の家族・親族がワイドワイドと牛に跨がり、お祭り騒ぎをする場面が見たかったのだが、最後に行なわれた横綱対決でワイドの場面が見れた。手足が舞い、指笛が鳴り、紙吹雪が舞う「ワイド節」の歌にあるような騒ぎだった。
 沖縄で闘うのは、牛だけではない。ピージャーオーラサイという闘山羊もある。沖縄本島の北部にある瀬底島の他、多良間島でも行なわれていると聞く。
 2014年のゴールデンウィークに、瀬底島のピージャーオーラサイが、会場を瀬底島から本島の本部(もとぶ)に移して開催されたのを見に行った。闘牛のような迫力はないが、円形の柵に入れられた2頭の山羊の戦いぶりは興味深かった。
 後ろ足で立ち上がり、相手の角をめがけて自分の角を振り下ろす。角と角とがぶつかり合う”ゴチーン”と言う痛そうな音が会場に響くが、山羊たちは戦いながら尻尾を振っていたりもする。また、角を相手の身体の下にもぐり込ませ、そのまま投げ飛ばす大技もあった。

 南島では牛や山羊だけではなく、人も戦う。奄美大島では相撲が盛んだ。どんなに小さな集落にも土俵がある。大島海峡を挟んで奄美大島の南部と対岸にある加計呂麻島の全集落をまわったが、商店が1軒もなく人口が5人という集落にも土俵はあった。
 奄美の相撲は、奉納相撲で豊年祭や敬老会などに開催される。神人が祭祀を行なうアシャゲに隣接するミャー(庭)に土俵が作られている集落も多い。相撲の取り方は、裸に回しを巻く大和風だ。勝っても負けても親は嬉しいと言われる、親子相撲も行なわれる。
 沖縄でも祭祀の時に角力(相撲)が奉納されるが、沖縄の角力は柔道やレスリングにも似ており、最初から右四つに組んで勝負を始める。また、回しではなく角力着(柔道着)を着ての取り組みだ。
 久米島の真謝集落の角力大会では、女の子の対戦やアンマー(お母さん)対決も見学した。どちらも威勢の良い勝負だった。

 沖縄の綱引きではガーエーが行なわれる。ガーエーとは、「我の張り合い」「威勢良く張り合う事」と言った意味だ。糸満市真栄里の綱引きは、棒を持った男たちのぶつかり合うガーエーが行なわれ、喧嘩綱とも呼ばれている。
 また、宜野湾市城間の綱引きでは婦人部のガーエーが行なわれるが、大きなシャモジを持って威嚇し合ったり、横一列に並んでぶつかり合ったりもする。ぶつけあったシャモジが割れるのを見た。まさにガーエーも真剣勝負、闘いだ。
 闘牛、闘山羊、そして人と人の闘いをPhoto Albumにしました。こちら

闘牛
↑徳之島・伊藤観光ドームでの闘牛。2011年6月11。

以下は、キャプションです。

南島 闘う島(1)

01、02、03 闘牛。徳之島の伊藤観光ドーム闘牛場にて。(2011年6月11日)
04 観客席には大人だけではなく、子供たちもいっぱい。女の子同士で見に来ている、中学生くらいの娘もいた。(2011年6月11日)
05 勝った牛の家族・親族が次々に牛に跨がり、紙吹を散らしながらワイドワイドと歓声をあげる。(2011年6月11日)
06 奄美大島では、敬老会や豊年祭に奉納相撲が行われる。名瀬朝仁の公民館。(2010年9月5日)
07、08 相撲は闘うスポーツであり、神事である。朝仁集落の敬老豊年相撲(2010年9月5日)
09 奄美大島・瀬戸内町油井集落の油井豊年踊りにて。土俵入り。(2010年9月22日)
10 奄美大島は相撲が盛んな島で、商店が一軒もないような集落にも土俵がある。油井豊年踊り。(2010年9月22日)
11 油井の豊年踊りでは、相撲をとる前に様々な演目が土俵の上で行われ、神事であることが強く印象付けられる。男達が、サンバラと呼ばれるザルに乗せているのはサンダンカを挿したおにぎり、力めし。(2010年9月22日)
12 男達が手にしている力めしは、この後客席に振る舞われる。この力めしを食べると一年間無病息災で過ごせると言う。(2010年9月22日)
13 土俵祓いの後、相撲が行われる。(2010年9月22日)
14 加計呂麻島・諸鈍集落の諸鈍シバヤにて、土俵に塩をまいてお祓いをする。(2010年10月16日)
15 諸鈍シバヤでの奉納相撲。(2010年10月16日)
16、17 加計呂麻島・西阿室集落の奉納相撲。豊年祭にて。(2011年9月18日)
18 沖縄・宜野湾市真志喜の大綱引き。綱引きの前に雌綱・雄綱の頭を空中でぶつけあうガーエーが行われる。ガーエーはぶつかりあう事や、威勢良く張り合う様を言う。(2012年7月29日)
19、20 沖縄・糸満市真栄里の大綱引き。アガリとイリに分かれ、棒を持って威嚇しあうガーエーが行われる。(2012年10月1日)
21 沖縄・浦添市城間の大綱引きのガーエーは、婦人部の女性達が大きなシャモジを手に持って威嚇しあう。(2012年11月3日)
22、23 綱引きの後には二手に分かれた女性達が、道路の中央でぶつかり合う。(2012年11月3日)
24、25、26 久高島の祭祀・八月マティの最終日。神事が終わった夕暮れ、子供も大人も浜に出て角力(沖縄相撲)大会が行われた。沖縄相撲は柔道やレスリングにも近く、最初から土俵の真ん中で四つに組んで始められる。(2013年9月16日)
27 宮古島の西原地区のミャークヅツ。初親(ミャークヅツに参加できる年齢に達した者)になった男達が、神司の見守る前で相撲をとる。(2013年9月26日)
28、29、30、31 沖縄本島の北部にある、今帰仁村営闘牛場での新春北部闘牛大会。(2014年1月1日)
32 闘いの傷。今帰仁村営闘牛場にて。(2014年1月1日)。
33 闘いが終わり、トラックの荷台に乗せられた闘牛。今帰仁村営闘牛場。(2014年1月1日)
34 山羊と山羊が闘う、ピージャーオーラサイ。沖縄本島の北部、本部町にある多目的広場(闘牛場)にて。(2014年5月4日)
35 後ろ足で立ち上がり、身体を捻りながら相手の角をめがけて”ゴチーン”と、ぶつかって行く。(2014年5月4日)
36、37 角を相手の身体の下にもぐり込ませ、そのまま投げ飛ばす大技も出た。(2014年5月4日)
38、39、40、41 久米島の五月ウマチー(初穂祭)の日、真謝集落で開催された角力大会。女の子同士の闘いもある。(2014年6月12日)


 沖縄タイムスのカメラマン・大城弘明氏、琉球新報のカメラマン・山城博明氏。2人の報道カメラマンによる写真展「二人が撮らえた沖縄・終わらない戦後」が、沖縄県立博物館・美術館で昨日から始まった。4月19日(日)まで。沖縄タイムスの記事、琉球新報の記事
 奄美大島の名瀬港は、3月の後半から4月にかけて、進学や就職で島を離れる若者や先生を見送る友人・家族でごったがえす。沖縄、与論島、沖永良部島、徳之島、奄美大島、喜界島とフェリーが帰港する各港で見送りが行われるので、この季節は船の運航が遅れることもある。

島のお別れ
↑卒業式も終わり、進学や就職で島を離れる人たちの見送りは、昨日今日がピークではないだろうか。2012年3月31日に撮影。

3月26日(木)

 快晴で、最高気温は14℃まで上がった。
 今月の12日に光回線が継がったので、これまで使っていたdocomoのL-05Aを解約に行って来た。解約は店舗に行かないとできないので、先ずはネットで近くのdocomoショップを探す。一番近そうなのが戸出店で、自転車で30分程。那覇に住んでいた時は、自転車で5分のところに2店舗あったのだが。
 ショップに着いて、20分程順番を待って解約の手続き。解約金9500円(税込み10260円)が発生するが、光回線にして月々の使用料が安くなるのとサクサク動くので、これはしょうがない。また、L-05Aを使っているとパソコンのUSBポートが一つ埋まってしまう。これが解放されるのも嬉しい。 
 L-05Aの解約ついでに、携帯電話のプランも見直し。もう奄美や沖縄で旅していた時のように、携帯で宿の手配をしたり調べ物をする事もないので、思い切ってiモードを解除した。携帯のメールアドレスもなくなるが、ショートメールは使えるので充分かな。これで月々の使用料は安くなる。
 docomoショップの帰り、町の図書館へ。富山に帰って来て一度も本を借りていなかったので、カードを作ってもらい1冊借りて来た。

図書館のカード
 借りたのは「定本 柳田國男集 第一巻」(筑摩書房)。「海上の道」の単行本で良かったのだが、取り寄せになると言う事で、「海上の道」を収載した全集の中の1冊を借りる事になった。この第一巻の中には、「海上の道」「海南小記」「島の人生」「海女部史のエチュウド」「瀬戸内海の海人」「瀬戸内海の島々」「伊豆大島の話」「海上文化」などが収められている。*返却日は4月10日。

 70年前の3月26日は、米軍が慶良間諸島に上陸した日だ。そして3月26日に座間味島で、28日に渡嘉敷島で島民らの集団自決が行なわれた。
 今日は、座間味村の平和之塔で村主催の慰霊祭が行われた。28日は、渡嘉敷島でも慰霊式典が行われる事になっている。
座間味「集団自決」から70年 迫る米兵、山さまよう

 20日の参院予算委員会で安倍首相は、自衛隊を「我が軍」と答弁したが、昨日、安倍首相をフォローする形で菅官房長官も「自衛隊も軍隊の一つ」と述べた。
陸自北部方面隊、隊員に”遺書”強要

↓→2013年3月28日。渡嘉敷島の慰霊式典の様子。
2013渡嘉敷島の慰霊式典02
2013年渡嘉敷島の慰霊式01
 この慶良間諸島での集団自決に、日本軍の強要があったかどうか不明なところもあるが、座間味で135人、渡嘉敷で330人が集団自決するという大変な悲劇が起こった事は間違いないだろう。
新しいトップページ
トップ画面を模様替えしました。写真は奄美大島の知名瀬集落と根瀬部集落の間にある、海に突き出た小さな岬から撮影した海面です。
 知名瀬トンネルを使えば、名瀬から根瀬部までは割と平坦な道なので、サイクリングの定番コースにしていた。
↓今までのトップ画面。
これまでのトップページ

3月24日(火)

 暫く暖かい日が続いていたが、昨日から天気は冬に逆戻り。部屋にいても、暖房をつけないと指先がかじかむ程の寒さだ。
 沖縄の翁長雄志知事が昨日記者会見を開き、沖縄防衛局に対し辺野古沿岸部で進められている海底ボーリング調査を含め、海底面の現状を変更する行為を全て停止するよう文書で指示した事を明らかにした。今月30日までの7日以内に作業を停止しなければ、岩礁破砕の有無にかかわらず工事の許可を取り消す考えを示した。
 これに対し、菅官房長官は我が国は法治国家であると言うお得意のフレーズとともに「法律、法令、規則に従って実施しているので、引き続き工事を進めたい」と述べた。
 法治国家と言う以前に、2014年1月20日の名護市長選、2014年11月16日の沖縄県知事選、2014年12月14日の衆議院選で、辺野古新基地建設反対の議員を選んだ沖縄県民の民意はどうなるのだろうか。
  ”丁寧に説明していきたい、沖縄の方々の気持ちに寄り添いながら進めたい”と安倍首相は常々話すが、沖縄県民が選んだ知事の話しに耳を傾けるどころか、面会すらしていない。 ”私の対話の窓は常に開かれている”と言うが、その窓はどこに向いているのだろうか。

 先月23日に西川農水相が辞任した後も、
下村博文文科相の任意団体、会費などを献金している事が判明!
環境相側に寄付140万円 補助金交付企業から
上川法相側にも鈴与から寄付、補助金通知後に60万円
17分の7 政治とカネで辞職の閣僚、4割が安倍内閣
環境相側、さらに寄付530万円 法相側にも90万円 補助金交付企業、11~12年
甘利・林両大臣にも寄付 補助金交付の企業から
◯補助金企業:首相側にも献金 11~12年、計24万円
 これだけのお金に纏わる疑惑が取りざたされても、「知らなかった」で誰も法的裁きを受けていない。法治国家ではなく、放置国家だろうか?

 安倍首相は昨日、安保法制について「法整備をこの国会できっちり成し遂げたい」と述べたが、何をそんなに急いでいるのだろうか。
集団的自衛権:政府「新事態」定義へ 法廷位置付け明確化
 なんだか読んでも解り辛い定義になっており、キナ臭さが漂って来るばかりだ。20日の参院予算委員会で安倍首相は、自衛隊を「我が軍」とまで述べた。
 その自衛隊の機関誌が、安倍首相の非現実的安全保障政策を批判!「人質救出に自衛隊」は無責任と書いている。また、元防衛官僚で内閣官房副長官補として官邸の参謀役を務めた柳澤協二氏が、「首相の無知を批判!集団的自衛権はコスパが悪い」 と語る記事も出ている。
 シリアで起こった日本人の人質殺害事件を受けて、安倍首相は先月「これから日本人に指一本触れさせない」と述べたが、 先週の18日、チュニジアの博物館で観光に訪れていた日本人3人がテロ組織の襲撃により亡くなった

 既存のメディアではあまり報道されていないが、22日、首都圏反原発連合による★安倍政権NO!☆0322大行動が開催された。
国会前の反安倍デモに物凄い人数が参加!!!約1万4000人!身動きが出来ないほどに!
「戦争はしない国だと思っていた」――日比谷野音、国会前に1万4000人もの市民が集結

辺野古
 来月で辺野古の基地建設に向けた海上のボーリング調査を阻止する座り込みは、11年となる。上の写真は、昨年の4月19日に行なわれた10周年記念の海上パレード。

3月22日(日)

 八重山諸島の西表島には、2007年に日本近代化産業遺産群として認定された宇多良炭鉱跡がある。浦内川沿いにあり、昭和10年から昭和18年頃まで稼働していたこの炭鉱は、嘗ては300人収容できる芝居小屋まであったと言うが、現在はガジュマルの気根に搦め捕られたレンガの支柱等が僅かに残るだけだ。 
 奄美大島の南部と、加計呂麻島にまたがる瀬戸内町には太平洋戦争の遺構とも言える旧日本軍の残した戦跡がいくつかある。
 加計呂麻島・呑之浦にある作家・島尾敏雄が率いた第18震洋隊の基地もその一つで、湾に面した場所に掘られた格納壕には、特攻兵器である震洋のレプリカが1艇設置してある。
 震洋艇について島尾敏雄は、対談集「ヤポネシア考」(葦書房)の中で、次のように語っている。
 「震洋は04(マルヨン)兵器と呼ばれたもので、形は普通のモーターボート、船体はベニヤ張りです。エンジンは自動車エンジンだと聞いていました。一人乗りで、ボートの舳先の部分に、二百三十キロの爆薬が、鉄の容器に入れられてくっつけてあるんです。舳先に衝撃が与えられると、舳先が引っこむ、すると電気の回路が形成されてボカンと爆発することになっている。ですが、海岸に穴を掘ってその中に隠して置きますと、湿気が多くってベニヤ板の艇体全体が回路みたいになってしまうんです。だからうっかりスイッチを入れたりすると、その場で爆発してしまいます。それで死んだ者も多いんです。近くの基地でしたが、指揮官で行っていた同じ仲間の三木十郎が、そうした事故の誘爆に巻きこまれて死にました。
 電気を使うことができなければ、どういうふうにして爆発破壊させるかというと、ぶつかると同時に、目の前の把っ手を引くことにしていました。すると人間もろ共ふっ飛ぶ。まあそういう訓練をしましたけど、はたして実際にやってみて、どういうことになったかは、分りませんね」
ーアメリカ軍は自殺艇と呼んだ 作戦変更がもうできなかった日本軍ーより。
 太平洋戦争で唯一の地上戦が繰り広げられた沖縄には、軍司令部の跡や人々が逃げ込んだガマ(洞窟)等がたくさんあるばかりか、未だ発掘途中の遺骨や不発弾も数多く存在する。

 戦後に繁華街として賑わった社交街が、沖縄の風景から少しずつ消えようとしている。
 沖縄市の美里にある通称・吉原や、通称・新町と呼ばれた宜野湾市の真栄原といった風俗街は、沖縄県警らによる浄化作戦で近年はゴーストタウンと化している。那覇で戦後最初に出来た繁華街と言われる神里原社交街の一部も、道路の拡張工事で取り壊されてしまった。
 那覇の農連市場は琉球農連によって1953年に開設され、嘗ては”県民の台所”と呼ばれた。現在は建物の老朽化が激しく、再開発が進められており、2014年末から一部店舗の取り壊しが始まっている。
 中国の冊封使や、大和の役人をもてなすために首里王府によって作られた辻村(チージ)。じゅりと呼ばれる遊女たちによる接待が行なわれた花街だったが、戦争で焼き尽くされた。戦後は料亭街として栄えたが、僅かにその面影を現在に残していた料亭・左馬も取り壊されてしまった。

 漫談家であり唄者であった照屋林助さんが、「むる判らん」と言う曲で沖縄の世替わりを歌っている。ちなみに「世」は、「ゆ」と発音する。

 唐の世から 大和(日本)の世 大和(日本)の世から アメリカの世
 恐ろしく変わる沖縄の世 いったい次はどんな世の中になるのか
 珍しいものだね お口直しの砂糖の湯(佐藤内閣の世)
 なにがなんだかわからない どうなってるのか よくわからん

 奄美群島も奄美世(あまんゆ)と呼ばれる時代から、琉球王国に支配された那覇世(なはゆ)、薩摩藩に支配された大和世(やまとゆ)を経て、敗戦後はアメリカに統治され、1953年12月25日に日本復帰を果たす。
 奄美・沖縄ともに、いくつもの世替わりを経た特異な歴史を持つ。翻弄された歴史の残骸、そして失われていく風景を集めてみた。こちら

宇多良炭鉱跡
↑西表島の、宇多良炭鉱跡。2014年6月19日。

以下は、キャプションです。

南島の遺構と消え行く風景

01 西表島の浦内川沿いにある、宇多良炭鉱跡。1935年(昭和10年)から1943年頃まで稼働していた。2007年、日本近代化産業遺産群に認定された。(2014年6月19日)
02 ガジュマルの気根に搦め捕られた、レンガの支柱。宇多良炭鉱跡。(2014年6月19日)
03 支柱のてっぺんには、大きなオオタニワタリが着生している。嘗ては、ここに300人収容できる芝居小屋まで有した村があった。宇多良炭鉱跡。(2014年6月19日)
04、05 加計呂麻島の呑之浦にある、作家・島尾敏雄が率いた第18震洋隊の基地跡。(2011年3月30日)
06 格納壕の一つには、震洋のレプリカが設置されている。(2011年3月30日)
07 震洋艇はベニヤ板で出来たモーターボートに自動車のエンジンを付けたもので、先端に230キロの炸薬を詰め込んでいた。搭乗員が乗り込んで、敵の艦艇に体当たりして攻撃を行なう特攻兵器。(2011年3月30日)
08 格納壕から見る湾の風景。(2011年3月30日)
09 奄美大島の南部、瀬戸内町の西古見集落にある旧日本軍の観測所跡。昭和15年に建設された。(2012年4月22日)
10、11、12 西古見集落には観測所跡の他、砲台や弾薬庫の跡も残っている。(2012年4月22日)
13 加計呂麻島の安脚場集落の外れにある、安脚場戦跡公園。1920年(大正9年)頃から旧日本陸軍が奄美大島要塞として砲台を設置していたが、1941年(昭和16年)から海軍によって整備されて利用されるようになった。現在は、公園となっている。写真は弾薬庫跡。(2011年2月23日)
14 金子手崎防備衛所の建物跡。安脚場戦跡公園にて。(2011年2月23日)
15 金子手崎防備衛所の屋上。(2011年2月23日)
16、17 金子手崎防備衛所の内部。(2011年2月23日)
18、19、20 普天間基地にも程近い、宜野湾市の真栄原社交街。通称新町と呼ばれる風俗街だったが、2010年に沖縄県警と宜野湾市による浄化作戦でゴーストタウンとなった。いわゆる”ちょんの間”と呼ばれる店舗が並んでいた。(2012年7月14日)
21、22、23、24 沖縄市の美里一丁目。通称吉原。嘗ては白人相手の特飲街として栄えたが、その後は日本人相手の風俗街に。吉原の名前は、東京の吉原遊郭からとったと言われ、真栄原と共に沖縄の2大社交街と言われた。しかし、真栄原と同じく、警察の取り締まりで壊滅状態にある。(2012年9月23日)
25 那覇市内で戦後最初の繁華街と言われる神里原社交街の一角。神里大通りには青いトタン貼りのバラック建ての飲食店が並んでいたが、道路際の店舗は拡張工事で取り壊された。(2013年2月23日)
26 道路際の店舗は取り壊されたが、奥では営業を続けているお店もあるようだ。神里原社交街。(2014年7月3日)
27 台風17号で屋根が飛ばされて、空がぽっかりと広がっている那覇の農連市場。台風から1週間が過ぎて片付けられているが、直後はゴミの山だったと言う。再開発のため、2014年末から解体工事が始まった。(2012年10月6日)
28 農連市場は、琉球農連によって1953年に開設された。賑わうのは早朝で、昼間は閑散としている。(2012年10月6日)
29 農連市場の一番活気のある時間帯は深夜3時過ぎからから明け方だと聞くが、それでも昔のように買い物客でごった返す事はない。(2014年7月3日)
30 農連市場は、各地の農家が直接野菜を持ち寄って直売していた市場。嘗ては「県民の台所」と呼ばれた。(2014年7月3日)
31 継ぎはぎだらけの建物に、60年の歴史が見える。(2014年7月3日)
32 周辺店舗も含めると、250ほどの店がある。(2014年7月3日)
33 売り物の野菜を並べて、ゆんたくする市場のオバー達。(2014年7月3日)
34 商品台の上、埃がついた扇風機に朝の光がさして、キラキラと輝いていた。(2014年7月3日)。
35 朝6時半過ぎ、市場内にラジオ体操の音楽が流れ、オジさんが柔軟体操を始めた。(2014年7月3日)
36 那覇の古島団地は、戦前、県民に返せなくなった郵便貯金を原資として県内53市町村から寄付金を出し合い設立した財団法人郵便貯金住宅等事業協会が、昭和47年に建設した。老朽化が進む事から2005年に民間企業に譲渡されたが、立ち退きを巡る住民と業者の対立が起こった。現在は和解したようで、今後、再開発が行なわれる予定。写真は1号棟から見た古島団地。右手が2号棟、左手が3号棟。3号棟の先、正面にあるのが4号棟。(2014年3月1日)
37 古島団地にあるフォトジェニックは消火栓たち。(2014年3月1日)
38 空き室となり、ガムテープで塞がれた郵便受け。(2014年3月1日)
39 2号棟の入り口。入居者の氏名を書いた札があるが、現在はこのうちどれだけの人が残っているのだろう。(2014年3月1日)
40 団地の1階に、嘗て保育所があった名残り。(2014年3月1日)
41、42 沖縄で最大の遊郭のあった那覇・辻町。戦争で焼失した後は、料亭街として再建された。営業はしていなかったが、当時の名残りを残していた料亭・左馬。(2014年3月5日)
43 料亭街の面影を残す建物だった左馬が解体された。(2014年7月3日)

慰霊の日の平和祈念公園
 今日の時事ドットコムに、語り継ぐ「ひめゆり」の記憶=元学徒ら高齢化、講話終了ー沖縄戦から70年節目に、と言う記事が載っていた。
 
←の写真は、慰霊の日に平和祈念公園を訪れたルース米駐日大使(当時)。後方にある、茶色の屋根の建物群が平和祈念資料館。2013年6月23日撮影。
 昨日、今日と暖かい日が続いている。今日の最高気温は19℃まで上がり、日中は暖房要らずだった。花粉が怖くてなかなか外に出られないのだが、今日は午後に少しだけ自転車で走ってみた。かなり強い風が吹いていたが、あまり花粉が飛んでいないのかクシャミも出ない。このまま落ち着きますように。 
 これで春一直線かと思いきや、明日の最高気温は6℃で、夜は雪が降る予想となっている。

3月19日(木)

 琉球建築でイメージするのは、ヒンプンと赤瓦と屋根にちょこんと座るシーサーだろうか。
 首里城の正殿に代表される、琉球赤瓦の屋根。沖縄に赤色の瓦が現れたのは18世紀に入ってからだと言う。民家には1889年(明治22年)まで瓦葺きは禁止されていたそうで、赤瓦が広く普及するのは禁止令が解かれて以降の事になる。また、悪霊を祓う魔除けとして、シーサーが屋根に設置されるのも、この頃からのようだ。
 赤瓦には平瓦の女瓦と、丸瓦の男瓦がある。先ず女瓦を並べ、その左右の継ぎ目を覆うように男瓦を被せる。そして風雨に耐えるよう、瓦同士の隙間を漆喰で塗り固める。
  晴れた日の空に浮かび上がる、赤瓦と漆喰の白の鮮やかなコントラスト。南国情緒溢れる風景だと思う。
 現在多く見られるセメント瓦は、戦後の復興需要に加え、茅葺き屋根からの建て替えがあり、廉価なことから一気に普及したと言う。しかし、木造住宅からRC(鉄筋コンクリート)住宅が主流となり、瓦屋根の家そのものが減り、セメント瓦の家も減少している。
 ヒンプンは、中国語の屏風。家の門の内側にあり、通りからの目隠しとなる。この目隠しがあるおかげで母屋の戸を解放でき、風の通り道ができて夏場は涼しく過ごせる。南国ならではの知恵だ。また、ヒンプンには沖縄の三叉路やT字路でよく見かける石敢當と同じく、真っ直ぐにしか進めない沖縄の魔物を撃退する魔除けとしての意味もある。
 夏場を涼しく過ごす工夫は、ヒンプンだけではない。沖縄の民家には雨端(あまはじ)と呼ばれる軒を深く出した空間が設けられており、日差しを遮るようになっている。
 八重山諸島の竹富島は、島全体が重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、赤瓦の木造民家が集落全体に残っている。各民家のヒンプンも、珊瑚岩のものや木立を使った物など趣向が凝らされており、ヒンプンを眺めて歩くだけでも楽しい。
 少しずつ消えていく、赤瓦屋根やヒンプンのある風景を並べてみました。こちら
竹富島の民家
↑竹を継いだヒンプン。シンプルな造形が、美しい。竹富島にて。2013年7月22日。

以下は、キャプションです。

ヒンプンと赤瓦とシーサーと

01、02 赤瓦屋根の代表的な建築物、首里城の正殿。
03 赤瓦に白い漆喰のコントラストが美しい。来間島にて。(2013年2月5日)
04 赤瓦の屋根にシーサーがちょこんと乗っている。左右の木はフクギ。フクギは防風、防潮の目的で植えられる。渡名喜島にて。(2013年6月8日)
05 コンクリートブロックのヒンプン。渡名喜島では、ヒンプンをソーンジャキ(返風)と呼ぶ。(2013年6月8日)
06 渡名喜島にて。(2013年6月8日)
07 渡名喜島では、道路より少し掘り下げて建てられている民家が多い。(2013年6月7日)
08 赤瓦の屋根、珊瑚の石垣、白砂の道。伝統的な集落の姿を、保存し維持する竹富島。
09、10 木を植えて作られたヒンプン。竹富島にて。(2012年11月25日)
11 ズッシリとした珊瑚石のヒンプン。竹富島にて。(2012年11月25日)
12 目隠しの役目はあまり果たしていないが、風流なヒンプン。竹富島にて。(2012年11月25日)
13 シンプルで美しい、衝立のようなヒンプン。移動も簡単そうだ。竹富島にて。(2013年7月22日)
14 珊瑚石の重厚なヒンプン。竹富島にて。(2013年7月22日)
15 伊是名島の伊是名集落にある、銘苅家住宅。尚円王の叔父にあたる家系の家で、明治39年に再建され、昭和52年に国指定重要文化財に指定された。(2013年4月3日)
16 小木と植物のヒンプン。伊是名島にて。(2013年4月4日)
17 久高島の始祖家の一つで五穀の神様が祀られていると言う大里家(うぷらとぅ)。屋根はセメント瓦のようだ。母屋の隣に拝殿がある。(2013年9月17日)
18 久米島にある、国の重要文化財に指定された上江洲家。琉球王朝時代の士族の家で、1750年頃に建てられたと言う。(2014年6月12日)
19 石垣殿内と呼ばれる、立派な石垣に囲まれている。上江洲家。(2014年6月12日)
20 敷地には穀物倉庫や、豚小屋と便所が一緒になった沖縄独特のフールと呼ばれるトイレも保存されている。上江洲家。(2014年6月12日)
21 防風林のフクギに囲まれた、赤瓦の家。久米島真謝集落。(2014年6月12日)
22 青く塗られた外壁が、亜熱帯の島を感じさせる。波照間島にて。(2014年6月26日)
23 上品な小木のヒンプン。屋根はトタン葺きのようだ。波照間島にて。(2014年6月26日)
24 撮影した波照間島の民家の屋根には、シーサーが乗っていなかった。(2014年6月26日)
25 珊瑚石と木のヒンプン。波照間島にて。(2014年6月26日)
26 波照間島では、外壁を青系統に塗った家が何軒かあった。(2014年6月26日)
27 波照間島では、ヒンプンのない開放的な家もあった。正面に、軒に差し出した庇を支える雨端柱が2本見える。(2014年6月26日)
28 戸は閉ざされ、庭の手入れもされていないので廃屋と思われる。波照間島にて。(2014年6月26日)

3月18日(水)

 昨日、一昨日と春のような陽気。暖かいのは嬉しいが、 お陰さまで花粉症が再発?目がしょぼしょぼし、大きなクシャミを連発している。
 花粉症を発症したのは、2009年だった。それまでは花粉如きでと高を括っていたが、いざ発症してみると鼻水はダラダラと垂れる、クシャミは連発する、頭はボーッとする。これが毎年続くのか・・・と思うと気が滅入った。
 けれど2011年、2012年の春先は奄美大島、2013年、2014年の春先は沖縄と、杉花粉のほとんど無い南国で過ごしたので花粉症の悩みから解放された。ひょっとすると奄美・沖縄の4年間で体質が変わって、もう大丈夫かな?と少し期待していたのだが残念だ。それでも2009年に発症した時ほどではなく、今のところ鼻水も垂れてこない。これ以上、酷くなりませんように。
 鹿児島県は「スギ花粉の少ない島あまみ」へ是非おこしくださいとPRしていたのだが、あまり浸透していない気がする。奄美大島の総土地面積に占めるスギの分布状況は1.3%、ヒノキは0.1%。花粉症患者の割合は1.3%だそうだ。

 昨日は、北陸新幹線の開業で盛り上がっている金沢へ。3月15日〜22日まで、市内のライトアップスポットを巡るバスが運行しており、両親と妹の4人で夜の金沢を少し覗いて来た。
 市内観光の前に、金沢駅で入場券を購入して、新しい新幹線の車両を見学。バスの発車時刻まで1時間以上あったので、駅ビルにテナントとして入っていた北陸のソウルフード、8番ラーメンで食事。8番ラーメンを食べるのは、何年ぶりだろうか。

金沢プチ旅行
↑上段左、金沢駅東口。上段右、北陸新幹線と両親。中段左、8番ラーメン。野菜ラーメン塩味にバターをトッピング。中段右、ひがし茶屋街。下段左、兼六園のライトアップ。下段右、九谷焼ほか金沢の伝統工芸で作られた新幹線のオブジェ。

 19時に駅を出る始発のバスで、先ずは橋場町バス停へ。バス停から歩いてひがし茶屋町へ。ライトアップではなく、普通に外灯と行灯がついているだけでした。情緒を感じるには薄暗いかな。茶屋町をグルっと歩いてバス停に戻る。
  ライトアップバスは金沢駅を19時〜20時まで7本運行しているので、しばらく待ってやって来たバスに再び乗車。今度は兼六園へ。ライトアップで、雪吊りされた樹木が池に映り込むのを眺めて帰って来た。
 金沢と自宅最寄り駅への行き帰りは2両編成の新型車両だった。新幹線の開通にともない、これまでの在来線はJR西日本を離れて第3セクターが運行する事になった。 新潟県内は「えちごトキめき鉄道」、富山県内は「あいの風とやま鉄道」、石川県は「IRいしかわ鉄道」でそれぞれ運営する。
  ところで、北陸線で使用していた車両が老朽化しているため、これまでより短い2両編成新型車両が導入されたが、16日には朝の通勤・通学の時間帯に小杉駅や呉羽駅で満員状態のため乗車できなかった人が発生した。この区間を運行しているあいの風とやま鉄道では、今日から車両を1両増やしたようだ。

3月16日(月)

 旧暦5月4日(ユッカヌヒー)は、沖縄の各地で豊漁と航海安全を願ったお祭り、ハーリー(爬龍船競漕)が行われる。
 始まりが今から450年前とも580年前とも言われている糸満ハーレー(ハーリー)で、最初に行なわれるのが御願バーレーだ。御願バーレーが終わると、競漕の到着順に糸満の氏神である白銀堂へ行き、それぞれの代表が神人から盃を受け、ハーレーシンカ(漕ぎ手達)は円陣を作ってハーレー歌を奉納する。ハーレーが、海の民の重要な神事である事を物語る儀式だ。
 那覇市の大嶺地区は、旧日本軍によって土地を接収されて、嘗ての土地は現在自衛隊基地の中にある。海岸から離れた場所に移り住むことを余儀なくされた大嶺の人々だが、地バーリーという陸上でのハーリーを伝承し海の民の記憶を後世に繫いでいる。
 戦後、アメリカに軍用地として接収されて、嘗ての土地はキャンプ・キンザーの中にある小湾集落の人々も同じだ。やはり海岸から離れた土地に移り住んだ小湾の人たちも、アギバーリーと言う陸で行なうハーリーを継承している。毎年お正月の3日に爬龍船をかたどった山車に乗り、ハーリー唄を歌い、櫂を漕ぐ動作をしながら町内を道ジュネーして歩く。
 沖縄のハーリーほど規模は大きくないが、奄美大島でも舟漕ぎは盛んだ。競技への熱心さは、奄美大島も沖縄に決して引けを取らない。
 毎日のように海を眺めていた名瀬の朝仁海岸では、舟漕ぎ大会が近づくと仕事に出る前の早朝、仕事が終わった夕方、何隻もの舟が波の上を滑っていた。
 山の多い奄美大島。かつては集落から集落の移動に舟が使われた。今は道路も舗装されトンネルも出来て移動に舟が使われることも殆んどないが、やはり舟を自在に操れるのはシマンチュとしての心意気であり、誇りだろうか。
 奄美大島の舟漕ぎと、沖縄各地のハーリー競漕の写真をPhoto Albumにしました。こちら
奥武島の3番バーリー、流れ船
↑橋の上から漕ぎ手が海に飛び込む、奥武島の3番バーリー。2013年6月12日。

以下はキャプションです。

琉球弧 海の民

01 奄美大島・名瀬の朝仁海岸で舟漕ぎの練習。(2010年6月30日)
02 奄美大島・名瀬の朝仁海岸で舟漕ぎの練習。(2010年7月10日)
03 奄美大島・名瀬の朝仁海岸で舟漕ぎの練習。(2010年7月14日)
04 奄美大島・名瀬の朝仁海岸で舟漕ぎの練習。(2010年7月22日)
05、06 奄美まつりでの舟漕ぎ大会。名瀬港にて。(2010年7月31日)
07 集落の人達が一重一瓶の料理やお酒を持ち寄って、浜辺に下りて遊ぶ行事・ハマオレ(浜下れ)での舟漕ぎ大会。奄美大島・秋名集落にて。(2011年6月26日)
08 ハマオレの舟漕ぎを、海岸で見守る集落の人達。秋名集落にて。(2011年6月26日)
09、10、11 秋名集落にて、ハマオレの舟漕ぎ大会。(2011年6月26日)
12 早朝の奄美大島・朝仁海岸での舟漕ぎの練習。沖に見えるのは、沖縄と鹿児島を結ぶ定期航路のフェリー。(2011年8月1日)
13、14 沖縄・大宜味村の塩屋湾で開催されるウンガミ(海神祭)での、御願バーリー(爬龍船競漕)。屋古の海岸から塩屋の海岸までを競う。(2012年9月11日)
15 塩屋の海岸では、各集落の女性が海に入って踊りながら舟を出迎える。(2012年9月11日)
16 糸満ハーリーでは、最初に西村、中村、新村の3つの地区による御願バーリーが行なわれる。
17 御願バーリーで優勝した新村が最初に糸満の氏神である白銀堂に入る。
18 新村のハーレーシンカ(漕ぎ手達)が、円陣を作ってハーレー歌を奉納。
19、20、21 那覇ハーリーの最終日。古式に則った衣装を身に着け、泊、那覇、久米の3チームが順番に湾内に出て、ハーリー歌を歌いながら回遊する。(2013年5月5日)
22、23、24 ハーリー競漕が全て終わった後、爬龍船が泊港に隣接する那覇ハーリー会館に仕舞われた。尚、このハーリー会館は、建て替えのため暫くして解体されてしまった。(2013年5月5日)
25、26、27 南城市奥武島のハーリー競漕。イリとアガリに分かれての本バーリーは、御願バーリーに始まり、上がいバーリーまで7番勝負で行われる。写真は奥武島らしい3番バーリーの流れ船。橋の上から漕ぎ手が海に飛び込み、近くで待っている舟に乗ってスタートする。(2013年6月12日)
28 勝った方は舟を持ち上げて相手の陣地に行き、気勢を上げてガーエーを行う。奥武島のハーリーにて。(2013年6月12日)
29、30、31 沖縄・浦添市小湾のアギバーリー。嘗ての小湾集落があった土地は、現在米軍のキャンプ・キンザーの中にある。戦後、軍用地として接収されたためだ。小湾集落の住民は国道58号(軍用道路1号)を挟んで反対側に位置する宮城地区に移動したが、そこに小湾自治会館が建設された。アギバーリーとは地バーリーで、集落の中を爬龍船をかたどった山車に乗り込んで道ジュネー(練り歩く)する。1915年の大正天皇即位祝賀行事の際、那覇市泊の地バーリーを倣って始められたと言う。途絶えた時期もあるようだが、昭和50年代に復活した。新年行事として1月3日に開催されるようになったのは、2007年頃のようだ。(2014年1月3日)
32 那覇市の無形民俗文化財に指定されている大嶺の地バーリー。大嶺集落は旧日本軍に接収され、戦後は米軍に、そして現在は国有地化されて航空自衛隊と那覇空港になってなっている。そのため大嶺自治会は、那覇市の宇栄原にある。旧暦の5月4日(ユッカノヒー)に、この地バーリーが行われている。写真はトラックの荷台に櫂を持った漕ぎ手が乗り込み、ジュネー(練り歩き)に出発するところ。トラックに乗って地区をジュネーするのは珍しい。(2014年6月1日)
33 大嶺自治会に隣接する土地に、嘗ての大嶺集落にあったいくつかの拝所を集めて新しく御嶽が作られている。道ジュネーの後、この御嶽で御願バーリーを奉納。(2014年6月1日)
34、35 大嶺自治会での地バーリー。青年会や婦人会、子供たちのバーリーが行われた。大嶺集落はもともと、半農半漁の暮らしだったそうだ。(2014年6月1日)
36、37、38 八重山諸島・黒島の豊年祭でのパーレー(ハーリー)競漕。ウーニー(船頭)が長老から盃と塩をいただいた後、走って舟に乗り込み、沖に浮かぶウキを取って早く長老の元に戻った方が勝ちとなる。(2013年7月28日)
39 パーレー競漕の後、村の男達が爬龍船を海から担ぎ上げる、ユー揚げが行われる。(2013年7月28日)
40、41 美らSUNビーチで開催された、豊見城ハーレー大会。ハーリーの伝来ルートは諸説あるが、最初に競漕が行われたのは、1390年頃に南山王の弟・汪応祖により豊見城城下の漫湖で行わせたものと思われている。(2012年7月29日)


 一昨日、北陸新幹線が開通して地元のテレビは一日特集番組を放映していた。今日、自転車で町内を走っている時に、金沢方面に向かう新幹線と、東京方面に向かう新幹線の走っている姿を相次いで目撃。アッと言う間に走り過ぎてしまった。車両が少ないのだろうか?とも思ったが12両あるようで、それだけスピードが速いんですね。

 旧暦の二十日正月は、今年の暦では3月10日なのだが、沖縄の辻で毎年旧暦の二十日正月に開催されるジュリ馬の奉納が、今年は日曜日の昨日行なわれた。昨年の旧二十日正月は2月19日で水曜日、一昨年は3月1日で金曜日だった。
昨年のジュリ馬奉納
  今年は那覇市歴史博物館と、ジュリ馬祭りを主催している辻新思会が協力して辻村とジュリを紹介する案内板を設置したそうで、それを記念して、多くの人に参加してもらえる日曜日の開催となったようだ。
 那覇市歴史博物館のサイトで、辻村跡の他に辻原墓地跡の案内板を見つけた。那覇で暮らしていた昨年、この案内板は無かったと思うので、これも新しく設置されたのだろう。
 実は前から、ここにあった墓地はどこへ消えたのだろうと思っていたのだが、「墓の移転先として、1956年(昭和31)から識名(しきな)霊園が整備された」と書かれていた。

3月12日(木)

 昨日、インターネット用の光回線を引いた。これまではFomaの端末、L-05Aを使っていた。
 2010年の6月に奄美大島で部屋を借りる時、当初は1年だけ滞在するつもりだったのでわざわざ部屋にネット回線を引くのも面倒くさくて、工事の必要がなくUSBポートに挿すだけでネット接続出来るL-05Aを名瀬のdocomoで契約したのだった。
 奄美群島の島々を旅する時は、ノートパソコンに挿してどこからでもネット接続できるので便利だった。1年のつもりだった奄美大島の滞在が2年になり、その後は沖縄に移り住んだが、回線工事の必要ないL-05Aはそのまま使えて重宝した。
 4年ちょっとの旅を終えて昨年の7月に富山へ帰って来てからもL-05Aを使っていたが、旅行中の時のように頻繁にノートパソコンを外に持ち出してネット接続する必要もなくなった。そこで光回線を引く事にした。L-05Aは2年ごとの契約更新なので解約手数料は発生するが、回線スピードは速くなり月額料金も安くなる。 
  昨日の午後に回線工事を行い、今日、パソコンと接続した。工事業者が設営していったモデムに、甥っ子から譲り受けた無線ルーターを接続。ルーターに付属の、設定をアシストしてくれるソフトが入ったCD-ROMを立ち上げるが上手く行かない。アップルケアーに連絡すると、ルーターのソフトが対応していないのではないかとの意見。せっかく甥っ子のルーターを譲り受けたが使えないのか?とガッカリ。それでも無線ルーターのメーカー、バッファローに電話で問い合わせると設定用のソフトは対応していないが、手動で設定すれば使えると言うことで電話で2回サポートしてもらい、無事にネット回線と繋げる事が出来た。
 この後、昨日の回線工事終了を証明する書類をコンビニのファックスから、今回の契約を申し込んだ代理店に送ったり、プロバイダーの電話サポートを受けながら新しいメールアドレスの設定をしたり。 
 メインで使っているi-Macの設定が出来たので、今度はノートブックの設定。こちらは電話サポートを受けずになんとか一人で出来た。
 フレッツ光ネクスト隼ですが、今のところスイスイ動いています。
 そう言う訳で、パソコンのメールアドレスが変更になります。これまでのmorio-amami@mopera.netと言うアドレスは今月末で使えなくなります。新しいメールアドレスはqquv4dy9k@fuga.ocn.ne.jpとなります。トップページのmailは新しいアドレスに変更しましたので、よろしくお願いいたします。

インターネット接続用の機器
いちご

↑左は、奄美大島〜沖縄とネット接続に使って来たL-05A。右は、昨日の光回線工事の後に設営されたモデム(白の縦置き)と、甥っ子から譲り受けた無線ルーター(黒の横置き)。

←先月は沖縄からタンカンが送られて来たが、今日は栃木からイチゴが届いた。新鮮で、母親に言わせると”ぴっちぴち”なイチゴでした。 ありがとうございます。

3月11日(水)

 昨日からの雪が、けっこう積もった。今日は一日降ったり止んだりで、とにかく風が強くて寒かった。 

今日の雪景色
↑3月だと言うのに、この雪景色。

 今日で東日本大震災から4年が経った。それに先駆けて、昨日、安倍首相が復興支援についての記者会見を行なった。朝日新聞がまとめた発言の要旨によれば、福島の再生に向けて除染を加速し、県内8万8千カ所の仮置き場を一日も早く解消する。福島に復興拠点をつくり、ロボットや再生可能エネルギーの分野で、世界最先端の研究、新産業が生まれる地に再生させる等としている。
 抱負を述べるのは結構だが、これまで国民に約束した事がどれだけ達成できたのか、その反省も語って欲しい。
 2013年の3月、安倍首相は「2年たった現時点で最も望まれていることは、住宅の再建と、福島では帰還の見通しをつけることです」と話し、災害公営住宅を2015年までに2万戸建設するとしたが、昨年12月までに完成したのは4543戸にとどまっている。避難生活を送る人は今なお23万人だ。仮設住宅で暮らす80代の女性が安倍首相の視察について「安倍さんは来るには来たけども、車を降りてほんの100メートルくらい歩いてすぐに行っちゃった。時間にして3分あったかどうか。何人かは握手してたみたいだけど、中にも入らないで何がわかるもんか。仮設を視察したといいたいだけのパフォーマンスに見えました」と辛辣な言葉を投げている。
 安倍首相が世界に向けて「コントロールされている」と宣言した福島第一の汚染水だが、先月も2号機原子炉に隣接する建屋の屋上に溜まっていた高濃度の汚染水が、雨が降る度に排水路から外洋へと流出していた事が判明。今月5日にも高濃度汚染水をためているタンクの周辺の側溝から、ベータ線を出す放射性物質が1リットルあたり1900ベクレル検出された。そして、今日も福島第一の汚染水をためるタンクを囲うせきから、比較的高濃度の汚染された雨水約750トンが流出しているのが分かったが、原因は調査中だと言う。
 昨日の記者会見でも汚染水について「東電の情報公開が不十分だったことは誠に遺憾だ。東電任せにせず、国も前面に立って取り組む」と述べたが、2013年から”国が前面に立って取り組む”と宣言していたわけで、それなのに何故こうなったのかの検証と説明はなされないのだろうか。
 汚染水漏れについて東電、政府、規制委員会の対応がどうだったか、備忘録として記事をリンクしておく。
セシウム汚染水、外洋流出=福島第1建屋から排水路通じ-調査公表せず・東電
漁業者「信頼崩れた」=東電、汚染水流出を説明-福島
汚染水漏れ1年以上前報告 規制委、対策指示せ
菅官房長官、汚染水流出で陳謝 「漁業者に迷惑掛けた」
側溝に高濃度汚染水、雨で港湾内に流出か 福島第一原発
比較的高濃度の汚染された雨水 約750トン流出

 そして、 汚染水だけではなく行き場の決まらない廃棄物が、プール650杯分溜まっている。

 東日本大震災が起こった時は、名瀬の朝仁海岸で味噌汁に入れるアオサを採っていた。奄美大島でも、この日の夕方、名瀬で0.4メートル、小湊で1.1メートルの潮位を観測した。
 3月12日の1号機の建屋爆発、14日の3号機建屋の爆発は恐怖以外の何者でもなかった。あれから4年が経って、原発事故の恐ろしさが少し風化していないだろうか。
4年前の朝仁海岸
 訪日していたドイツのメルケル首相が講演で、福島の原発事故を契機にドイツは脱原発に転換したと語り「日本という素晴らしい技術水準を持つ国で起きた事故。やはり(原発に)リスクはあることを如実に示した」と危険性を訴えた。過酷な原発事故を起こした当の日本の首相は、未だに原子力をベースロード電源に位置付け再稼働を推進している。不思議だなと思う。

 2013年のアンケートだが、「原発稼働ゼロ」と答えた学生はたった15%。今でも原発が稼働していると思っている人が、たくさんいるのかもしれない。メディアの責任もあるが、原発事故に無関心なのだとしたら恐ろしい。
 3月8日に行なわれた国会前での再稼働反対デモが、ロイターで紹介されている。

◯震災4年 インサイダーたちの警鐘(上)「茶番許すな」覆面官僚作家の若杉冽さん(下)「政治思惑抜きに」ツイッターのフォロワー9万人の原発作業員ハッピーさん

3月9日(月)

 奄美・沖縄は、東シナ海を北上してトカラ海峡から太平洋に入り、日本列島の南岸に沿って流れる黒潮の直中にある。南の海から黒潮にのって泳いで来る魚の群れは、まさに黒潮の贈り物だ。

 奄美大島に引っ越して一月半ほど経った頃、名瀬港の漁協で行なわれている競りを見に行った。早朝の漁協のコンクリートの床の上には大きなキハダマグロやシーラ、アバス(ハリセンボン)や伊勢エビ、その他名前の解らない派手な色の魚がたくさん並んでいた。その中で一際目を惹いたのはブダイの仲間で、蝋細工だろうかと思うほど鮮やかな色と模様のエラブチ(沖縄ではイラブチャーと呼ぶ)だった。
 翌々日に、早速スーパーでエラブチの刺身を買ってみたが、あの毒々しかった外見とは裏腹に、モチモチとした食感と淡白な味わいで、刺身に付いて来た酢味噌をかけて食べたが、とても美味しかった。
 住んでいた部屋から名瀬漁協までは自転車で10分ほどだが、その先、名瀬港をぐるっと回って自転車で20分ほど走ったところに大熊漁港があった。
 漁港内には宝勢丸の直売所があり、カツオやシビ(キハダマグロの幼魚)の刺身をよく買いに行った。直売所にはカツオ幟があって、お刺身が有る時はカツオ幟が空を泳いでいた。大熊漁港へ向かう途中に、カツオ幟が泳いでいないのがわかって自転車で引き返した事も何度かあった。
 現在、奄美大島でカツオ漁が盛んなのは大熊漁港だが、嘗てはカツオ漁発祥の地と言われる瀬戸内町の西古見や名瀬の小宿など各地で行なわれていたようだ。
 加計呂麻島の芝漁港で、地元の漁船・脇田丸がカツオ祭りを毎年開催しているので一度見に行った。大漁旗を船に飾り、船団を組んで海上パレードを行なった後、船からモチ投げ(カツオの引換券付き)やカツオそのものを投げ込んでの掴み取りが行なわれた。広場ではマグロの解体ショーも行われ、来場者に振る舞われた。
 
 沖縄の那覇市は2010年8月に、市の魚を「マグロ」と制定した。
 那覇で借りた部屋から泊漁港までは、自転車で5分ほどだった。引っ越して早々に、泊漁港で行なわれる競りを見学に言った。コンクリートの床には大きさも様々なマグロがズラリと並べられていた。リフトや、3人掛かりで運ばないとならない大きなマグロもゴロゴロしていた。沖縄鮮魚卸流通協同組合によれば、泊漁港の水揚げ量は、一日平均で20トン、多い時には50トンにもなるそうで、そのうち70%がマグロだと言う。
 漁港の横には「泊いゆまち」と名前の付いた魚市場があった。小さな鮮魚店が22軒と海鮮丼のお店、弁当等を扱う売店が集まっている。家から近い事もあって、週に2回は刺身や魚の天ぷらなどを買いに行った。ちなみに、「いゆ」とは沖縄方言で魚のこと。
 日本最西端の島、与那国島では黒潮の恩恵を受けた漁場から、年間1000本を超えるカジキを中心とした回遊魚が水揚げされる。島の最西端にある久部良漁港は、近海で獲れるカジキの漁獲高が日本一で、大きいものでは400キロにもなると言う。

 宮古島から橋で繋がった池間島を訪れた時の事、島の公民館の裏手の浜で人だかりがしていた。浜の防波堤から見下ろせば、イワシの黒々とした大きな魚影が、浜辺の直ぐ近くまで押し寄せて来ていた。背の高い老人が、網を肩にかけて立っていた。
 防波堤から見ていると、回遊するイワシの群れは網を投げれば届きそうな距離まで来ているが、水面に近い老人からは魚影の動きが見えにくいのか、なかなか網を投げようとしない。そうこうしているうちに網を持った男性がもう一人現れて、しばし海面を見つめた後に魚影に向かった網を投げ入れた。服を脱ぎ捨てて海に飛び込むと、投げ入れた網を全身で抱えて浜に上がって来た。抱え込んだ網には、溢れそうなほどたくさんのイワシが入っていた。イワシは、浜で様子を見ていた男たちにも配られた。ボクも頭と腸を取って、海水で洗ったイワシを1匹いただいた。けっきょく最初から居た老人は、一度も網を投げる事なく帰って行った。なぜ投げなかったのだろう・・・と暫く気になったが、解るわけもなかった。
 池間島は、嘗てはカツオ漁の盛んな島だったようだ。1906年7月、鹿児島県出身の鮫島幸兵衛氏が宮古島の狩俣でカツオ漁を開始。翌年の1907年に池間島の漁協が船を購入してカツオ漁が始まった。ピーク時の50年代には、カツオ漁船が12~3隻あり、活気があったと言う。
 池間島から分村した人たちが住む伊良部島の佐良浜では、1909年からカツオ漁が始められ、今も漁が盛んだ。2013年の2月に佐良浜を訪れた際、たまたま一隻の漁船が港に帰って来たが、たくさんのカツオとシビ(マグロの幼魚)が水揚げされていた。
 佐良浜では、海の神様に豚一頭を供え、航海の安全と豊漁を祈るハマニガイが神司によって行なわれていたと聞くが、現在も行なわれているのだろうか。

 沖縄の粟国島と久高島で、旧暦の正月に航海安全と豊漁を願うフナウクシ(船起こし)の行事を見た。
 粟国島のフナウクシを見たのは2013年の2月11日で、旧正月の2日目だった。朝、大信丸の船長さんが自分の船に松の枝や日の丸、大漁旗に万国旗を飾り付けた。そして傍にある海の神様を奉った龍宮神にお供えをし、祈願をする。もう一度船に戻って刺身と神酒をお供えし、塩を撒く。そして午後からは、大勢の人を家に招いての盛大な祝宴が行なわれた。
 久高島のフナウクシは2014年の2月1日に見た。こちらも旧正月の2日目だった。久高島にはフェリーが発着する徳仁港と、漁港の2つあるが、それぞれの港に船を係留している漁師が集まっていた。
 日の丸と大漁旗を飾った船に、刺身と酒をお供えし、漁師たちは海の神に祈願する。そして2つの港で祝宴が始まる。徳仁港での祝宴に参加させてもらった。参加費500円で、刺身、魚汁、シャコガイ、伊勢エビ、泡盛が振る舞われた。三線が鳴り、歌が始まり、踊りが飛び出した。
 港での祝宴が終わると、漁師の家を一軒一軒まわって酒宴をするヤーミグルーが行なわれた。三線を持った青年たちが祝いの席で最初に演奏される「かぎやで風」を奏でる。一人一人に刺身と煮物の皿が出され、ビールが振る舞われた。
 奄美群島、沖縄諸島で撮影した黒潮の贈り物をPhoto Albumにしました。こちら

泊漁港の競り

↑空が開けきる前、那覇・泊漁港には競りにかけられるマグロがズラリと並べられていた。2012年7月7日。

以下は、キャプションです。

南島 黒潮の贈り物

01 派手な色彩のエラブチ(ブダイの仲間)。外見とは裏腹に、刺身にすると淡白な味とモチッとした食感で、美味しい。酢味噌で食べることも多い。奄美大島・名瀬漁港にて。(2010年7月26日)
02 名瀬漁港の競りにて。(2010年7月26日)
03、04、05、06 名瀬漁港の競りにて。(2010年11月12日) 
07 加計呂麻島の芝集落で開催された、脇田丸かつお祭り。カラフルな旗をたくさん掲げた漁船。(2012年5月6日)
08 かつお祭りの海上パレード。(2012年5月6日)
09 漁船から祝餅と一緒に、カツオが投げ入れられる。(2012年5月6日)
10、11、12 カツオの掴み取り。(2012年5月6日)
13、14 カツオ祭りで行われたマグロの解体ショー。82012年5月6日)
15、16、17 沖縄・那覇市の泊漁港。那覇市はマグロの漁獲高が県内随一で、マグロを市の魚としている。(2012年7月7日)
18、19 泊漁港の競りにて。(2012年7月7日)
20、21 イワシの群れが、黒い魚影を作って浜に現れた。池間島にて。(2012年10月11日)
22 イワシの群れに投げ入れた網を、海から引き上げる。(2012年10月11日)
23、24 捕れたイワシは、浜で分配される。(2012年10月11日)
25 お昼過ぎ、漁を終えた船が伊良部島の佐良浜に戻って来た。(2013年2月6日)
26、27、28、29 水揚げされたシビ(マグロの幼魚)とカツオは、その場で競りに掛けられ引き取られて行く。(2013年2月6日)
30 旧正月2日目のフナウクシ(船起こしと言う意味だろうか)。早朝に起きて、龍宮神に祈願をする大信丸の船長。粟国島にて。(2013年2月11日)
31 大漁旗を掲げた船から塩をまく船長。(2013年2月11日)
32 航海安全と大漁祈願に供えられた、泡盛と塩と刺身。(2013年2月11日)
33 夕方、船長のご自宅でフナウクシの祝宴が催された。(2013年2月11日)
34 旧正月の元旦、久高島の漁港に係留された船には大漁旗と日の丸が飾られていた。(2014年1月31日)
35 旧正月2日目のハチウクシー(初起こし)。船の舳先に刺身を供え、泡盛をかけて航海安全と大漁祈願をする海人(ウミンチュ)。久高島漁港。(2014年2月1日)
36 お供えに用意されたお刺身。久高島漁港。(2014年2月1日)
37、38、39、40 フェリーが発着する久高島の徳仁港のはずれ。刺身や鍋が振る舞われ、海人によるハチウクシーの祝宴が始まった。(2014年2月1日)
41 久高島の漁協で行われた、ハチウクシーの祝宴。(2014年2月1日)。
42 午後からは、海人の家を一軒一軒まわって歌い踊るヤーミグルーが行われた。(2014年2月1日)

 午後から小雨が降り出したが、それでも今日の最低気温は4℃、最高気温は11℃。日ものびて、暖かくなって来た。明日は雪の予想で寒くなりそうだが、それでも春の訪れを少しずつ感じるようになって来た。
 この頃になると聞きたくなるのが、ブラジルのショーロだ。ジャズよりも古い歴史を持つ、アコースティックなブラジルのインストゥルメンタル音楽。弦楽器のさざ波のような音とリズムが心躍らせる。
 You Tubeから「Noites Cariocas/Roda de Choro」。邦題は「リオの夜」と言うようだ。この器楽曲に歌を乗せたアデミルジ・フォンセーカのバージョン「Noites Cariocas/Ademilde Fonseca」。初めて聴いたが、これも心地よい。
本棚
 漫画家の辰巳ヨシヒロさんが亡くなった
 小学館文庫の「鳥葬」「コップの中の太陽」は、1980年前後に買ったと思う。ともに短編集で、登場するのは少しうらぶれた様子の中年男性や、カップルだ。どれも「哀切」という言葉が浮かぶストーリーばかりだが、短い話しの中にドラマがしっかり書き込まれていて、引き寄せられた。
 琉球弧 神々の足跡祈る島の文章に加筆しました。

3月6日(金)

トゥシアマイ ナイビタン ティラバンタ ウシュキィティ
ヒッチハタバルヤ ナミヌシュル タチュル
ナミヤハタバルヤ ヒブイ タチュサ
ニルヤリューチュ ウシュキィティ
ハナヤリューチュ ウシュキィティ
フガニジャク ハミヤビラ ナンジャジャク ティリヤビラ

(意訳) 寿命になりました。葬所に来ました。潟の波のごとく肉体が腐乱し、溶け、煙となり、昇天し、そうしてニラーハラーに到着、金杯、銀杯を受けましょう。
 
 この詩は比嘉康夫さんの『神々の古層 女が男を守るクニ 久高島の年中行事1』に、あとがきに代えて載せられた「ある神女の死」と題された文章の冒頭にある葬送歌だ。
 そして文中には「葬送歌にもあるように、久高島における墓は肉体を消滅(腐乱)させるための場所であり、その魂は煙となって飛翔し、前述したニラーハラーに行くのである。そうしてイザイホーを経験した神女たちは、再び島の守護神として島のウタキに帰ることになる」と書かれている。
 奄美・沖縄へと続く琉球弧は、祖先を礼拝する祖霊信仰の地だ。奄美では旧暦7月13日のお盆初日、提灯を持って墓地に行き、提灯をともしてご先祖さまを家までお連れする。14日は家で一日ご先祖さまをもてなし、15日は再び提灯を持ってお墓へお送りする。奄美大島の七夕飾りは、お盆に帰ってこられるご先祖さまが家を迷わないように示す目印だと言われている。
 琉球の神は、主に来訪神と守護神に分類される。ニライカナイから現れ五穀豊穣をもたらすと言われるミルク神や、厄を祓い無病息災をもたらすとされるパーントゥなどが来訪神だ。一方、守護神はシマ(集落)の死者の魂=祖霊がニライカナイで神となってシマに戻って来るとされ、普段は御嶽や拝所にいると考えられている。
 沖縄で、精霊の供養を目的としてお盆に踊られるエイサーだが、これは1603年から1606年にかけて袋中上人(現在の福島いわき出身の、浄土宗の学僧)が仏典を唱える念仏踊りを伝え、京都からやって来た芸能集団・京太郎(チョンダラー)が琉球の村々に広めたと言われている。
 八重山地方で旧盆に行われるアンガマ。あの世(グソー)からお面を被ったウシュマイ(翁)とンミー(媼)、ファーマー(花子と呼ばれる子孫)といった精霊が来て、家々を巡り仏前で踊りを披露して先祖の霊を慰める。アンガマの起源は明らかではないが、歌の中には、念仏や供養を示すものも多く、沖縄本島のエイサーと同じように日本から渡来した念仏踊りを起源とするものとされている。ウシュマイやンミーは来訪神であり、守護神でもあるということだろうか?
 沖縄の代表的な先祖供養の行事として、中国の暦法にある二十四節気の一つ清明(シーミー)の時期に行なわれる清明祭がある。中国から伝わったとされるシーミーでは、先祖のお墓に親戚が集まり線香やお花を供え、持って来た重箱料理を墓の前で広げて「うさんでー」(お下がり。ご先祖さまにお供えした料理を皆で頂いて食べる)する。
 また、沖縄で多く見られる巨大な亀甲墓も、17世紀末に中国から伝わったとされる。形が亀の甲羅に似ている事から亀甲墓と言われているが、そもそもは女性の子宮を模したものだと言う。人は母親の胎内から生まれ、そして子宮に帰って行くと言う思想だろう。
 このように沖縄の場合、中国や大和の影響もあり、お墓の形や葬制が複雑になっている。

 比嘉康夫さんは「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」の中で「久高島の死生観は葬送歌にもあるように、風葬の死者を通して考えた自然的死生観であることである。けっして、近世以後中国などから為政者が導入して庶民レベルまで普及させた亀甲墓に代表される、石で固めた沖縄の墓からは発想することはできない死生観である」と書いている。
 久高島では、エイサーやシーミーは現在も行なっていない。風葬は途絶えており、シマのグソー(後生)には破風墓や亀甲墓が並んでいるが、死生観は今なお古琉球の時代から変わらないのかもしれない。
 続・南島のお墓や葬祭の様子をPhoto Albumにしました。こちら

八重山の旧盆行事アンガマ
↑八重山の旧盆行事、アンガマ。あの世からお面を被ったウシュマイ(翁)とンミー(媼)、ファーマー(花子と呼ばれる子孫)といった精霊が来て、家々を巡り仏前で踊りを披露して先祖の霊を慰める。石垣島にて、2013年8月19日撮影。

以下は、キャプションです。

南島の墓とグソー(2)

42、43 久米島の鍾乳洞・ヤジヤーガマ。風葬だろうか、共同墓地として利用された面影が残る。(2014年6月12日)
44 中城城跡近くにある護佐丸の墓。現存する亀甲墓としては、県内では最も古いものの一つ。(2012年9月23日)
45、46 浜比嘉島のノロ墓。(2014年5月3日)
47、48 浦添城跡にある、沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷の墓。墓の正面入り口にはヒンプンのような石が置かれている。(2014年5月16日)
49 ガジュマルの気根が、墓石を守るように根を生やしている。沖縄・伊計島にて。(2014年5月24日)
50 久高島の西側、集落から北に進むと墓地があった。(2014年2月1日)
51、52 久高島の墓は、日が沈む西側の海に面して建てられている。(2014年2月1日)
53 区長さんのお話しでは、久高島では十六日祭(ジュールクニチー)や清明祭と言った墓所での行事は行われてないそうだ。(2014年2月1日)
54 泊港に隣接する天久緑地。波之上臨海道路が見える。(2012年8月10日)
55 日本最西端の島・与那国島の最西端にある久部良集落の墓地。(2014年1月9日)
56、57 最近亡くなられた方のお墓。旗に書かれた文字は、ペンキにお酒を混ぜたものを使うそうだ。久部良の墓地にて。(2014年1月9日)
58、59、60 与那国島祖納集落にある浦野墓地。巨大な破風墓や亀甲墓が並ぶ。(2014年1月11日)
61 旧暦の1月16日は、沖縄では十六日祭(ジュールクニチー)と言われ、グソー(あの世)の正月とされている。この日はお墓参りに行って先祖供養をするが、那覇の三重城には離島出身者が集まり島の方向へ向かって遥拝する。(2014年2月15日)
62、63、64、65、66 沖縄で最大の門中墓と言われる幸地原・赤比儀原両門中の清明祭。一番奥に本墓(トーシー)があり、その手前に仮墓(シルヒラシ)が4つ並んでいる。糸満市のホームページなどでは祀られている先祖の数が約5500人となっているが、お話しを聞いた門中の方は何万という数字になっていると言う。(2014年4月20日)
67 メモリアルデー前日の泊外人墓地。(2013年5月26日)
68 メモリアルデーの泊外人墓地。(2013年5月27日)
69 泊外人墓地(2013年5月30日)
70 沖縄の盆踊り、エイサー。沖縄・浦添市屋富祖。浦添てだこまつりの前夜祭にて。(2012年7月20日)
 エイサーは精霊の供養を目的とし、念仏歌で踊られた念仏踊りである。エイサーの起源は諸説あるが、1603年から1606年にかけて袋中上人(現在の福島いわき出身の、浄土宗の学僧)が仏典を唱える念仏踊りを伝え、京都からやって来た芸能集団・京太郎(チョンダラー)が琉球の村々に広めたと言われている。
71 エイサー。女性の手踊り。浦添てだこまつりの前夜祭にて。(2012年7月20日)
72 エイサー。沖縄市泡瀬の大綱引き大会にて。(2013年11月3日)
 本来は精霊供養の念仏踊りであったが、エイサーを基にしながら音楽にポップスを取り入れるなどした創作エイサーも踊られている。
73 エイサーを広めた京太郎もチョンダラーと呼ばれるが、顔を白く塗り異様な化粧をして観衆の笑いを誘い、エイサーの踊り手を盛り上げるピエロ役もチョンダラーと呼ばれている。那覇の国際通りで行われたイベント、「一万人のエイサー踊り隊」にて。(2012年8月12日)
74 チョンダラー。沖縄・中城城跡にて、北中城青年エイサー。(2012年9月23日)
75 那覇の繁華街・松山で、お店の周年祝いで踊られたエイサー。近年はお盆以外にも、めでたい場所でのアトラクションとして踊られる事も多い。
76 八重山で旧盆に行われるアンガマ。あの世(グソー)からお面を被ったウシュマイ(翁)とンミー(媼)、ファーマー(花子と呼ばれる子孫)といった精霊が来て、家々を巡り仏前で踊りを披露して先祖の霊を慰める。
 旧暦7月13日がウンケーで、先祖の霊をお迎えする。7月14日はナカヌヒーで本来はこの日にお中元を持って行くそうです。7月15日は先祖の霊をお送りするウークイとなっている。アンガマはこの3日間行われる。
 仏前で御願をするウシュマイとンミー。石垣市・いしゃなぎら青年会のアンガマ。(2013年8月19日*ウンケー)
77 仏前で踊りを披露するファーマー。いしゃなぎら青年会。(2013年8月19日*ウンケー)
78 石垣市・新栄町保育所。先生が作ったアンガマ用の仏壇。(2013年8月20日*ナカヌヒー)
79 新栄町保育園での大川青年会のアンガマ。(2013年8月20日*ナカヌヒー)
80 石垣市・登野城青年会のアンガマ。(2013年8月20日*ナカヌヒー)
81 石垣市・登野城青年会のアンガマ。(2013年8月20日*ナカヌヒー)
82 仏前で踊る新川青年会のファーマー。(2013年8月21日*ウークイ)
83 家々をまわって歩く新川青年会のアンガマ。(2013年8月21日*ウークイ)
84 ウシュマイとンミーは、家に集まった見物人にあの世(グソー)の事について教訓を交えながら面白おかしく説き聞かせたり珍問答を行う。(2013年8月21日*ウークイ)
85 家の前に置かれた送り日のお供え物。サトウキビはグソーからこの世に帰って来るときは杖として、グソーに戻る時はお供え物の担ぎ棒となるらしい。石垣市。(2013年8月21日*ウークイ)
86 西表島・干立集落にある龕屋(ガンヤー)。龕は、遺体を納める棺(かん)や輿(こし)。隣りの祖納集落に簡易な火葬場があり、そこを使う際には龕で運ぶそうだ。(2013年9月30日)
87、88 龕。与那国島の祖納集落にある中央公民館にて。(2014年1月13日)
89、90 石垣市・八重山博物館。(2014年6月18日)

3月5日(木)

 現在でも島々の随所にトゥールバカなどと呼ぶ洞窟がまだいくらか残っていて(島々の方言がかなりちがうから、その呼び名の発音も多様ななまりを持つ事になるが)、頭蓋骨や四肢の人骨の破片を見つけることがあるけれど、それはこの島々の葬法のなごりであることにちがいないだろうが、それはまた島の人々が死者に対するある特別な感情をいだき、かよわせるに適当な、あらわし方だったのではないだろうか。白くさらされた珊瑚虫骨片の堆積を白昼の砂浜で目にするたびに、私はどうしても人間の骨を連想しないではおれないのに、その中に融和したいふしぎななつかしい感情の起きてくるのが防げないのはなぜだろう。やがて私はそれと洞窟内の白骨との区別を失っていることに気がつく。沖縄から奄美の島々にかけて、改葬もしくは洗骨ととなえ、いったん埋葬した死体を適当な年数のあとで墓をあばき、腐肉のとれた骨を洗って骨瓶に入れなおす習慣があるけれど、それも、死後の白骨に対するなんといっていいかわからないある親密な感情がどうしてもそうさせるようにいざなうのだと思う。
『琉球弧の視点から/島尾敏雄』(講談社)ー奄美の墓のかたちーより

 このエッセイの冒頭で島尾敏雄は、「奄美の島々をまわっていて、こころひかれるもののひとつは、この地方の墓だ。そのそばを通るとどうしてもそこに立ちよってみないではおられない」と書いている。奄美を旅していて、その言葉に共感した。アチコチの集落を訪ねて歩く度、ボクも墓地に立ち寄った。
 お墓あるいは墓地と言うものに対して奄美に来るまでは、あまり触れては行けない場所のような気がしていた。少し忌み嫌っていたと言ってもいいかも知れない。
 奄美では旧暦の1日と15日、すなわち新月と満月の日にはお墓参りをする習慣がある。墓地が身近にあり、生活の場に寄り添っているように思え、特別な場所というより自然な場所に感じられる。海岸に行けば、その周囲に必ずと言っていいほど墓地がある。海の見える、集落の中でも見晴らしの良い場所に墓地は造られている。これも祖先を敬う気持ちだろう。
 与論島では火葬場が出来るのが遅かったので、今でも土葬のお墓がある。海岸の砂に亡骸を埋め、その上に龕と呼ばれる小さな小屋を置き、その周りに生前愛用した靴やステッキなどが飾られる。そして7年なり9年なりが過ぎた頃、亡骸を掘り起こして海水で洗骨し、改めて骨瓶に入れる。風で飛ばされないようにしてあるのか、骨瓶の上には珊瑚石が重石として乗せられている。
 骨瓶の上の部分が砂浜に整然と並んでいる風景は、清々しささえ感じさせる。与論のお墓を見て、なぜか死と言うものが自分の中で少し軽くなった。
 南島のお墓や葬祭の様子をPhoto Albumにしました。こちら
与論島のお墓
↑与論島のお墓。土葬の上に、龕(もしくは龕蓋)と呼ばれる木製の小さな小屋が乗せられ、小屋の横には生前の愛用品が並べられている。奄美群島日本復帰40周年記念写真集『満天の星のごとく・・・』には、同じ様に龕を乗せた墓が並ぶ喜界島の墓地の写真が掲載されており、「昭和45年 喜界町阿伝の地葬場。埋葬して3年後に掘り起こし、改葬して先祖代々の墓地に納骨した」と言うキャプションが添えられている。嘗ては奄美群島全体で、このような土葬が行なわれていたのかもしれない。

以下は、キャプションです。

南島の墓とグソー(1)

01、02 佐念モーヤ(村指定有形文化財)。サンゴを積んだ共同墓地で、奄美・沖縄の最も古い墓の代表と言われている。奄美大島宇検村佐念集落。(2011年10月24日)
03、04 ハータリゴ(赤中講)のモーヤ。佐念モーヤと同様に元々はサンゴ石を下から石垣状に積み上げた墓だったが、昭和30年頃にコンクリートで表面を塗固められた。近くにはナーマゴ(中間講)のモーヤ、ホーロゴ(保呂講)のモーヤもあり、3つのモーヤにはそれぞれ違う血統の先祖の遺骨が収めてある。ナーマゴは妹、ホーロゴはその兄の二人の集落開発者の血統の先祖を祀っており、ハータリゴはそれ以外の移住者の先祖を祀っている。奄美大島名瀬小湊。(2011年11月24日)
05、06、07 喜界島のトゥール墓(崖や岩を横に掘り込んだ墓)。中に骨甕とテラ(石質祠状の骨納器)が納められている。(2011年7月6日)
08、09、10 徳之島のトゥール墓。案内して下さった民宿のご主人によれば、このように人骨の残っているトゥール墓は珍しくなったそうだ。(2011年6月11日)
11、12 奄美大島の北部、大笠利にあるカトリック教会の墓地。2012年末でカトリックの信者数は3471人で、奄美大島の人口の6%強を占める。教会は奄美大島に30、加計呂麻島に1つ、喜界島に1つある。(2010年12月6日)
13 カトリックの布教は1891年にフェリエ神父が奄美大島に来島してからと言われる。(2010年12月25日)
14 大熊集落にお住まいの、老夫婦のカトリック信者の祭壇。(2011年8月27日)
15 奄美大島では小正月の前日のあたる1月14日に、枝に色とりどりの餅を付けて家の中やお墓に飾り無病息災や五穀豊穣、商売繁盛を願うナリムチが行われる。ナリムチに使われる枝はブブギ(リュウキュウエノキ)。南部の瀬戸内町ではあまりやらず、かわりに餅を小さく四角に切って柳の木にさしたものを家の入り口や部屋の四隅、墓に供えるコガネムチ(黄金餅あるいはキンナリとも言う)が行われる。(2011年1月17日)
16、17 奄美大島の七夕飾りは、お盆に帰ってこられるご先祖様が家を迷わないように示す目印。奄美大島名瀬市街。(2010年8月21日)
18、19 旧暦7月13日、旧盆迎えの永田墓地。3日間続くお盆の最初の日は、提灯を持って墓地に行き、お墓の掃除をして、提灯をともしてご先祖さまを家までお連れする迎え盆。奄美市名瀬。(2011年8月12日)
20、21 旧暦7月15日は、送り盆で、お墓から家へお連れしたご先祖様を、提灯を持ってお墓へお送りする。この年に死者の出た家は墓の周りに提灯を吊るしてお参りに訪れる方を迎える。小宿集落の墓地。(2011年8月14日)
22 送り盆の日の朝仁海岸・はまゆう霊園。(2011年8月14日)
23、24、 与論島の土葬のお墓。土葬した上に、龕(がん)あるいは龕蓋(がんぶた)と呼ばれる小さい木の小屋が被せられ、生前に愛用していた靴等の品が飾られている。平成15年10月に火葬場が出来た事で、現在は火葬が主流に。前泊海岸に隣接する墓地にて。(2011年8月20日)
25 土葬された遺体は、何年か後に洗骨(改葬)され骨甕に入れられる。その時に遺品と一緒に木の龕も燃やすようだ。(2011年8月20日)
26 サンゴ石を乗せた与論島の墓。生前の愛用品だろうか、ステッキが立てかけてある。(2011年8月21日)
27、28 沖縄・浜比嘉島の比嘉集落にある琉球開闢の神と言われるアマミチュー(アマミキヨ)、シネリチュー(シネリキヨ)の墓。(2014年5月3日)
29 浦添ようどれは、英祖王が1261年に築いたといわれる陵墓。沖縄戦で破壊されたが、2005年4月に復元工事が終了した。(2014年5月16日)
30 浦添ようどれの東室(尚寧王の墓)。(2014年5月16日)
31 西室(英祖王の墓)。(2014年5月16日)
32 浦添グスク・ようどれ館に展示されている、西室(英祖王の墓)内部の実物大レプリカ。(2014年5月16日)
33、34 首里の玉陵(たまうどぅん)。琉球王国の第二尚氏王統の歴代国王と家族が祀られた陵墓。1501年、尚真王の時代に建立された。中室、東室、西室の3つに分かれており、中室は洗骨までの遺体を安置し、洗骨後は王および王妃は東室へ、それ以外の家族の遺骨は西室へ入れられたと言われている。34は東室。(2013年1月1日)
35 伊是名玉陵。第二尚氏王統の始祖である尚円王(金丸)の生まれ島である伊是名島にあり、尚円の父、姉、叔父や叔母その子孫が葬られている。尚円の子である尚真により建立された。(2013年4月2日)
36、37、38、39 伊是名玉陵での公事清明祭は1870年から行われていると言う。行事で使用される琉球漆器は島の博物館に展示されているもだが、現在補修をしつつレプリカと交換していくようだ。供え物は古文書に記された通りに再現されており、豚の頭やアヒルも並ぶ。(2013年4月2日)
40、41 糸満ロータリー近く、山巓毛(サンティンモー)の中腹にある南山最後の王・他魯毎(たるまい)の墓。(2014年4月20日)

 昨日は3月4日でサンシン(三線)の日だったが、3月5日の今日はサンゴ(珊瑚)の日だ。ちょうど一年前、渡嘉敷村と座間味村からなる慶良間諸島が、31番目の国立公園に指定された。
↓昨年5月29日に撮影した、座間味島の珊瑚。
座間味島の珊瑚礁

 ところで、中央環境審議会により慶良間諸島の国立公園指定が了承されたのは2013年12月24日。翌日の25日に都内で入院中の仲井眞知事(当時)と安倍首相が会談を行い、27日に仲井眞知事は埋め立て申請を「承認」する文章を沖縄防衛局に送付している。
 なんだか慶良間諸島の国立公園指定承認の見返りに、辺野古が差し出されたと言う見方も出来る動きだった。政府による沖縄への飴と鞭。この頃の仲井眞知事(当時)の動きが、こちらに纏められている。

3月3日(火)

 ひな祭りですね。地元でも2月28日から今日まで、ひな祭りイベントとして町内の何ヶ所かでひな飾りが展示されている。
 せっかくなので島田邸と雅楽の館、昨年写真展を開催したいっぷく処に展示してある、お雛様飾りを見て来た。
島田邸のお雛様飾り
雅楽の館01
雅楽の館02

↑島田邸のお雛様飾りと、つるし雛。

←↓雅楽の館に飾られたお雛様。こちらは昭和の物。28日には、雅楽の演奏が行なわれたようだ。

雅楽の館03
↓→雅楽の館。江戸時代の物はお内裏様の保存状態が悪くお雛様のみだった。
江戸時代のお雛様
雅楽の館・大正時代のお雛様
 おひな様を描いた版画を一枚持っている。20年以上前に、友人のミュージシャン夫婦の結婚式に出席した際、引き出物で戴いた。エディションナンバーが入っていて、20/70とある。ずっと仕舞い込んでいたのを、今日思い出して座敷のおひな様の所に並べてもらった。 
 これからおひな様の季節になったら、ひな人形と一緒に出して飾ってもらうのが良いかもしれない。
結婚式の引き出物に戴いたお雛様の絵の版画

3月1日(日)

 3月は雨で始まった。
  町の運動施設でウォーキングをしていると、時々有線放送なのか音楽が流れている。その選曲がけっこう良くて、ミニー・リパートンの「Loving You」やカーリー・サイモンの「You Belong To Me」がかかったりする。先日は、ドラマティックスの「In The Rain」が流れて、その渋い選曲にちょっと唸った。

ドラマティック蘓
↑ザ・ドラマティックス。1994年12月22日に撮影。

 沖縄の綱引は、雌綱と雄綱に分かれている。両綱の頭には大きな輪っかが作られており、雌綱の輪に雄綱の輪を差し込み、そこにカヌチ棒と呼ばれる大きな棒を通して合体させる。
 雌と雄の綱を結合させることは生殖を意味し、それは稲の分けつを促す信仰だと考えられたり、子孫繁栄の行事だとも言われている。また、沖縄タイムス社の『おきなわの祭り』と言う本で宜保榮治郎(県教育庁文化課課長)氏が、「鹿児島県の民俗研究者・小野重朗氏の調査研究によって、雌綱、雄綱ともに龍を意味し、龍を躍らすことによって農作に最も必要な雨を呼ぶことが綱引きの目的であることが分った。つまり綱引きは雨乞いの行事である」とも書いている。実際、久米島や粟国島では雨乞いの時に神事としての綱引きをするようで、久米島で2013年8月17日に13年ぶりに雨降り祈願の大綱引きが行なわれている。
 沖縄で最初に見た綱引きは、宜野湾・真志喜の大綱引きだった。綱を合体させる前に、雌綱と雄綱の頭を空中でぶつけ合うガーエー(威勢良く張り合う事)が行なわれた。綱の頭の部分に棒を突き刺して高く上げ、2つの綱がぶつかる様は確かに2頭の龍が蠢いているようにも見えた。
 沖縄の三大大綱引きと呼ばれるのが、那覇大綱挽、糸満大綱引き、与那原大綱曳きだ。中でもギネスブックに申請されている那覇の大綱は全長200メートル、総重量43トンで、会場となる久茂地交差点まではレッカー車に載せて運ばれて来る。雄綱と雌綱に分けられてクレーンに吊るされた姿は、もはや龍ではなく恐竜の死骸の様にも見えた。
 沖縄の綱引きの特徴は、綱引きの前に道ジュネー(練り歩き)やガーエーが行なわれる事だ。アガリ(東)とイリ(西)に分かれて綱を作り、会場まで綱を担いで練り歩き、旗頭や支度(歴史上の英雄などに扮した若者)がガーエーを行なって盛り上げる。普通は綱引きの直前に板の上に乗った支度が登場するが、与那原大綱曵きでは、大綱の上に何人もの支度を乗せて道ジュネーをしながら 綱引き会場へと向かう。
 与那原の雌綱と雄綱は頭部である輪の部分にたくさんの棒を挿し、大勢で棒を持ち上げて空中で合体させる。その様子も、龍が天に昇る姿をイメージさせる。

 沖縄の獅子舞の特徴は、胴体が幕ではなく、胴も足も芭蕉の繊維や藁で作られた着ぐるみ風の獅子の中に二人一組で入る所だろうか。自分の生まれ育った富山の獅子は、百足獅子と呼ばれる胴の長い獅子だったので、初めて沖縄の獅子舞を見たときはその姿に戸惑った。
 そもそも沖縄で獅子舞「?」と思ったけれど、考えてみれば屋根にはシーサー(獅子)を置いて家を災いから護り、嘗ては集落の入り口に災厄を祓う村獅子と呼ばれる石で作った獅子を置く獅子文化の土地なのだった。
 歴史の古いとされる首里・汀良町の獅子は、約500年の歴史があると言われている。
 沖縄でも獅子舞は、悪霊を祓い、弥勒世(ミルクユー・豊年の世の中)を招来し、五穀豊穣や地域の繁栄をもたらすとされている。
 沖縄では、十五夜(旧暦8月15日)に各地で獅子舞が行なわれる。また、八重山諸島の石垣島では旧盆行事(旧暦7月13、14、15日)の翌日に行われるイタシキバラ(獅子祭り)で獅子舞が踊られる。これはお盆が終わっても残っている迷い霊や悪霊を獅子舞で追い払い、地域住民の無病息災と繁盛を願うものだそうだ。
 沖縄で撮影した龍と獅子をPhoto Albumにしました。こちら

支度を乗せて会場に入った与那原大綱曳きの雌綱
↑たくさんの支度を乗せて会場に入って来た、与那原大綱曳きの雌綱。2013年8月4日。

以下は、キャプションです。

琉球の龍と獅子

01 沖縄・宜野湾市真志喜の大綱引き。綱引きの前に雌綱・雄綱の頭を空中でぶつけあうガーエーが行われる。ガーエーはぶつかりあう事や、威勢良く張り合う様を言う。(2012年7月29日)
02 雌綱の輪に雄綱の輪を差し込み、カヌチ棒を通す場面。真志喜の大綱引きにて。(2012年7月29日)
03 カヌチ棒を通し紐で固定され、大綱引きが始まった。真志喜の大綱引きにて。(2012年7月29日)
04 糸満大綱引きにて、ニシカタ(北組)とフェーカタ(南組)の支度によるガーエー。(2012年9月30日)
05 激しく引き合うが、綱が大きいので大きく動かない。この日は15分弱で勝負がついて、フェーカタが4年ぶりに勝利した。(2012年9月30日)
06 綱は縁起物とされ、綱引きの後、切って持って行く人も多い。糸満大綱引きにて。(2012年9月30日)
07 真栄里の大綱引き。支度を雄綱の上に乗せて、綱引き会場であるメーミチ広場に到着。(2012年10月1日)
08、09 綱引きの様子。綱引きの前後には棒を持った男たちのぶつかり合いが行なわれる。真栄里は「喧嘩綱」と言われる由縁だろう。(2012年10月1日)
10 那覇大綱曳が行なわれる久茂地交差点にて、雄綱の輪っかと記念写真を撮る人たち。(2012年10月7日)
11 沖縄の大動脈、国道58号を交通規制して行なわれる。那覇大綱挽。(2012年10月7日)
12 雌綱と雄綱の結合した部分は、小さな山のような状態。綱引きの綱は毎年作り替えられるのが普通だが、那覇の大綱は引いた後に痛んだ部分を修繕して使われる。(2012年10月7日)
13、14 雄綱と雌綱に分けられ、クレーンで吊り上げてレッカー車に積まれる大綱。龍の化身と言うより、恐竜の死骸を思わせる。(2012年10月7日)
15 鳩間島の豊年祭。綱引きの前に、台に乗って勇壮な衣装を着けた支度の若者が綱の中央に来て、お互いの供え物を交換。そしてガーエーを行なった。(2013年7月21日)
16 ガーエーの後、雌綱と雄綱の結合部分に神酒が振りかけられた。鳩間島の豊年祭にて。(2013年7月21日)
17 鳩間島の綱引き。沖縄本島の大綱ばかり見ていた目には新鮮だった。この位が綱引きでイメージする、普通の綱の太さではないだろうか。(2013年7月21日)
18 石垣島・白保集落の豊年祭での大綱引き。祭場である飾場御嶽の前に両綱が運び込まれた。(2013年7月24日)
19 白保の綱引き。御嶽の鳥居の左横に神司が座り、勝負を見守っている。(2013年7月24日)
20 石垣島・四ヵ字の豊年祭での大綱引き。(2013年7月24日)
21 与那原の大綱曳き。綱の頭にある輪っかを持ち上げるための棒を持って並んだ、イリ(西)組の人たち。(2013年8月4日)
22 イリの雌綱。与那原大綱曵き。(2013年8月4日)。
23 アガリ(東)の雄綱。(2013年8月4日)。
24 大人数の支度を乗せて、会場まで道ジュネーするアガリの雄綱。与那原大綱曵きにて。(2013年8月4日)
25 大勢の支度を乗せて会場に到着した、イリの雌綱。与那原大綱曵きにて。(2013年8月4日)
26 那覇の大綱はレッカー車で運ぶので、人が運べるものでは与那原の大綱が一番大きいのではないだろうか。(2013年8月4日)
27 道ジュネーが終わり。綱引き会場に着いたアガリの雄綱。(2013年8月4日)
28 綱の先頭は、棒を輪っかに突き刺して押し上げながら歩く。相当な重労働だ。(2013年8月4日)
29、30 雄綱と雌綱を高く持ち上げて、空中で結合。こういう姿を見ると、綱が龍の化身のように思える。(2013年8月4日)
31 綱引きの様子。与那原大綱曵き。(2013年8月4日)
32 泡瀬村創設110周年・泡瀬復興期成会創立65周年記念事業として、10年ぶりに行なわれた泡瀬大綱引き。会場となる大通りで待機中の、イリの雌綱。(2013年11月3日)
33 アガリの雄綱。泡瀬大綱引き。(2013年11月3日)
34 雌綱の輪っかに、雄綱の輪が通され、そこにカヌチ棒が入れられる。泡瀬大綱引き。(2013年11月3日)
35 アガリの支度は、謝名の大主(ジャナ ヌ ウフヌシ)。泡瀬大綱引き。(2013年11月3日)
36 イリの支度は、姉妹(亀松 カメマツ、乙鶴 ウトゥチル)。泡瀬大綱引き。(2013年11月3日)
37 綱引きの様子。熱戦の末、赤のイリが勝った。(2013年11月3日)
38 真栄里の大綱引きにて、奉納芸の獅子舞。獅子を操っているのは猿だろうか。(2012年10月1日)
39、40 首里城祭で行なわれた、伝統芸能の宴にて。首里汀良町獅子舞保存会の獅子舞。(2012年10月27日)
41、42 那覇の国際通りで行なわれた、首里城祭の琉球絵巻行列にて。上間伝統芸能保存会の獅子舞。(2012年10月28日)
43 八重山諸島で、3日間続く旧盆行事の翌日に行なわれるイタシキバラ(獅子祭り)。石垣市の登野城にて。(2013年8月22日)
44 厄除、健康祈願として獅子に子供の頭を噛ませるのは沖縄も内地も同じようだ。石垣市の登野城にて。(2013年8月22日)
45 旧暦8月15日、十五夜に行なわれた糸満市米須の獅子舞。(2013年9月19日)
46 自分で獅子加那志の口に、頭を入れて遊ぶ子供たち。糸満市米須。(2013年9月19日)
47 獅子加那志が保存されている神家から始まり、集落内の拝所を祓って歩く。(2013年9月19日)
48 西表島・祖納集落の節祭。お母さんの手によって、頭を獅子に差し出される子供。(2013年10月1日)
49 ユークイでの獅子舞。祖納集落の節祭にて。(2013年10月1日)
50 西表島・干立集落の節祭にて。祭場である干立ウガンでの奉納芸能の後、集落の元屋の一軒であるフタベ家で行なわれた獅子舞。(2013年10月1日)
51 祖納集落の節祭3日目の、ツヅミ(締めくくり)。拝所の一つであるウヒラカー(大平井戸)を祓い清める獅子。(2013年10月2日)
52 ウヒラカーを祓い清めた後、神酒を献上される獅子。(2013年10月2日)

2月へ