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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表

○木原盛夫 写真展「獅子舞の日」
*富山(福岡・新湊・越中八尾・城端)、沖縄(沖縄本島・石垣島・西表島)の獅子舞
2014年12月15日(月)〜2015年1月30日(金)
富山第一銀行 福岡支店(タピス内)ロビーにて展示。平日9時〜15時、土・日・祝日休み

◯木原盛夫 写真展「AMAMI 神々の杜 海の民」
奄美大島を舞台にした河瀬直美監督の最新作「2つ目の窓」の、富山・フォルツァ総曲輪での上映に合わせて写真展を開催いたします。
2月7日(土)〜2月20日(金) *2月8日は12:20〜14:30の回終了後、「映画を話そう!」と題したイベントがあり、プロジェクターで写真を見ながら奄美の事を少しお話しする予定です。
フォルツァ総曲輪 4Fシネマホール・ライブホールのロビーにて。
富山市総曲輪3−3−16

 

○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

1月31日(土)

 雪がちらちら舞う、寒い一日。今日で1月も最後。沖縄の伊良部島と宮古島を結ぶ、伊良部大橋が今日から開通した。無料で通行できる橋としては、国内最長の3540メートル。要請から40年、島民の悲願だったそうだ。
 この橋の完成に伴い、これまで島民の足だった定期航路のフェリーが廃止になる。伊良部大橋の開通により車での移動は格段に便利になったが、車を持たない観光客が宮古島から伊良部島へ渡るのは不便になった。宮古協栄バスのサイトを見たが、宮古島から伊良部島への路線バスは確認できなかった。
工事中の伊良部大橋

 フェリーが廃止になり、路線バスが通っていないとなると、タクシーかレンタカーかヒッチハイクになる。歩けない距離ではないが、ちょっと辛いな。
2013年9月27日、伊良部島佐良浜地区のミャークヅ ツを見に行った際に撮影した、工事中の伊良部大橋。
2013年2月6日に撮影した伊良部島行きのフェリーと、工事中の伊良部大橋。

伊良部島息のフェリーと工事中の伊良部大橋
 石垣島から那覇に戻り、栄町市場屋台祭りと、市場の子供たちが作ったお化け屋敷を楽しんだ6月28日のスナップをPhoto Albumにしました。こちら
多良間島
↑石垣島から那覇に行く飛行機から見えた多良間島。少し上にある島は水納島。
↓栄町市場屋台祭り。NOVA from ロンドンのステージ。
栄町市場屋台祭り

1月29日(木)

 奄美大島を舞台にした河瀬直美監督の最新作「2つ目の窓」の、富山・フォルツァ総曲輪での上映に合わせて写真展を開催いたします。

◯木原盛夫 写真展「AMAMI 神々の杜 海の民」
2月7日(土)〜2月20日(金) *2月8日は12:20〜14:30の回終了後、「映画を話そう!」と題したイベントがあり、プロジェクターで写真を見ながら奄美の事を少しお話しする予定です。
フォルツァ総曲輪 4Fシネマホール・ライブホールのロビーにて。
富山市総曲輪3−3−16

木原盛夫写真展「AMAMI 神々の杜 海の民」
←上は奄美大島の宇検村にて、2012年4月22日に撮影。原生林かと見紛う新緑の森だが、奄美大島のほとんどの山は人が入り、手つかずの原生林は僅かしか残っていない。この急な斜面を耕した昔の人達のエネルギー、その後原生林かと見紛うばかりに成長した植物の生命力。信じる信じないではなく、神の存在を意識しなければ、この深い杜に分け入る事はできなかったのではないだろうか。
 下は毎日のように海を眺めていた名瀬の朝仁海岸にて、2010年7月22日に撮影。舟漕ぎ大会が近づくと仕事に出る前の早朝、仕事が終わった夕方、何隻もの船が海の上を滑っていた。
 山の多い奄美大島。かつては集落から集落の移動に船が使われた。今は道路も舗装されトンネルも出来て移動に船が使われることも殆んどないが、やはり船を自在に操れるのはシマンチュとしての心意気であり、誇りだろうか。
 昨日、民事再生法を申請したスカイマークだが、今日の記者会見で12路線減便、A330の運行中止を発表。3月29日以降の夏ダイヤで、石垣、宮古の両空港から撤退する。ピーチは那覇ー石垣、那覇ー宮古路線は就航していないので、とても残念だ。スカイマークの撤退は、沖縄観光に少なからぬ影響を及ぼさないだろうか。

1月28日(水)

 2日ほど暖かい日が続いたが、昨日から寒さが戻って来た。
ムーチー
 旧暦の12月8日にあたる昨日はムーチー(鬼餅)の日で、沖縄では健康、長寿の祈願、或は厄払いとして月桃の葉に包んだお餅を食べる。ムーチーを食べるようになった由来は、こちらの民話に。
 このムーチーの頃が一年で最も寒い時期だと言われ、沖縄ではムーチービーサーと呼んでいる。
←写真は2013年のムーチーで撮影。黒糖を練り込んだ黒ムーチーや紅芋を練り込んだものもある。


 常世から、或は海の彼方にあるとされる理想郷=ニライカナイから、季節毎に訪れる神を来訪神と言う。稀にしか来ないこの異界の神様を、人々はマレビトと称して信仰した。
 八重山で特に厚く信仰されている五穀豊穣をもたらすミルク神や、厄を祓い無病息災をもたらすとされる宮古島のパーントゥなど、来訪神の多くは仮面をつけ、異形の姿で祭場に登場する。
 沖縄本島北部・安田集落で行なわれるシヌグは、男たちが山に入り、草を身に纏って一日だけの神となり、村を祓って歩く。仮面こそ着けないが、彼らもまた宮古島のパーントゥと同じく来訪神ではないだろうか。
 異形ではないが、粟国島で旧暦の大晦日から元旦にかけて行なわれる行事・マースヤーで「これはここの子や孫たちを若返らせお塩でございます。これはここのお爺さんお婆さんを若返らせるお塩でございます。これはここの火の神加那志を若返らせるお塩でございます」と口上を述べて家々をまわる塩売りも、来訪神と考えることはできないだろうか。
 ミルク、パーントゥ、福禄寿、粟国島の塩売り、八重山の旧盆行事アンガマに、グソーから訪れるウシュマイやンミーといった来訪神の写真をPhoto Albumにしました。こちら
 
*マレビトの概念は民俗学者の折口信夫が定義したもので、日本の民俗には村を訪れる神や異郷からの旅人を歓待し、その祝福を受ける信仰があった。小正月に出現するナマハゲ、海のかなたの常世または沖縄の他界、ニライカナイから来訪する祖霊や神がそれにあたり、各地を放浪する祝言職や乞食もまれびとの一種と考えられる。

竹富島のミルク神
↑竹富島のミルク神。種子取祭の奉納芸能初日、この弥勒奉安殿で弥勒(ミルク)興しの祈願が行なわれる。

以下は、キャプションです。

南島の来訪神

01 沖縄・首里赤田のみるくウンケー。ミルクは弥勒の化身で、五穀豊穣をもたらす神として信仰されている。みるくウンケーは、ミルクの神様をウンケー(お迎えの儀式)し町内スネーイ(練り歩く)した後、ウトィムチ(おもてなし)で芸能を奉納する。(2012年8月19日)
02 下駄履きのミルクが多い中、赤田のミルクは先の尖った靴を履いている。(2012年8月19日)
03 路次樂を引き連れてスネーイに出発するミルク。(2012年8月19日)
04 幸せな世=ゆがふ(世果報)をもたらすミルクは人気者。(2012年8月19日)
05 八重山のミルクはお面を被るが、沖縄本島はすっぽりと頭から被るタイプが多い。(2012年8月19日)
06、07 糸満市真栄里で行われる大綱引きの道ジュネー(スネーイ)に登場する福禄寿。ミルクだと言う人もいるが、軍配扇に福禄寿と書いてある。(2012年10月1日)
08 竹富島の種子取祭。奉納芸能初日の早朝に、弥勒奉安殿で行われる弥勒興しの祈願。(2012年11月25日)
09 舞台の奉納芸能に登場したミルク。後ろにはファーマー(子孫)をたくさん引き連れている。(2012年11月25日)
10 2日間の奉納芸が終わり、再び奉安殿に祀られたミルク。(2012年11月26日)
11、12 黄色の衣装が多い中、鳩間島のミルクは薄いブルーの衣装を着ている。豊年祭にて。(2013年7月20日)
13 袖持ちの女の子。袖持ちは左右に一人ずつ付く。石垣島・白保集落の豊年祭にて。(2013年7月24日)
14 御嶽の前で神司に出迎えられるミルク。白保の豊年祭。(2013年7月24日)。
15 黒島の豊年祭でのミーラク。黒島ではミルクをミーラクと呼ぶ。
16、17 浜を静々と歩く、黒島のミーラク行列。(2013年7月24日)
18 西表島・祖納集落の節祭にて。ミリク(ミルク)役に選ばれた男性が、お面を装着するところを公開している。(2013年10月1日)
19 舟元の御座(前泊浜)で、「弥勒節」に合わせて踊るミリク。(2013年10月1日)
20 舟元の御座からスリズ(公民館)へ戻る、ミリク一行。(2013年10月1日)
21 那覇・辻(チージ)の村屋(ムラヤー)に祀られているミルク。隣には獅子ガナシーも置かれている。(2013年3月1日)
22 辻の旧二十日正月に、道ジュネーをするミルク。
23 南城市の古堅地区の公民館(嘗てはニードンチ)の仏壇に祀られているミルク。豊年祭にて。(2014年4月29日)
24 お宮の祠でミーミンメー(メロディーは童謡の赤田首里殿内を同じ)を歌う子供たちを、見守るミルク。(2014年4月29日)
25 道ジュネーに出発するミルク。(2014年4月29日)
26 沖縄本島北部、国頭村宜野座のノロ殿内に祀られていたミルク。本島には珍しく被りものではなくお面になっている。隣には獅子ガナシーが置かれている。(2013年6月15日)
27 宮古島の島尻集落で行われる奇祭・パーントゥ・プナハ。1993年に国の重要無形民俗文化財に指定されている。パーントゥは宮古方言で、鬼や妖怪を言う。年に一度、来訪神であるパーントゥが集落に出現して厄を祓い、無病息災をもたらすとされる。写真は、村はずれにある井戸の底に溜まっている泥を全身に塗った3体のパーントゥ。(2012年10月9日)
28、29、30、31 パーントゥに泥を塗られることで厄が祓われ、無病息災がもたらされる。交通整理に来たお巡りさんも、襲われて顔に泥を塗られた。新築の家にパーントゥが泥だらけの身体で上がり、祈願の意味で壁に泥を塗って行くこともある。(2012年10月9日)
32 現在は観光客も大勢訪れて鬼ごっこのようになっているが、あくまでも神事であり、今もパーントゥがンマリガー(生まれ井戸)から出現する場面や、拝所で祈願する場面は公開されていない。(2012年10月9日)
33 宮古島の野原集落の奇祭・サティパロウにて、来訪神・パーントゥの仮面を被る少年。普段着の少年が被ることで、却って仮面の異形が際立ち怖さが増幅しているように思う。(2013年2月4日)
34 サティ=里、パロウ=祓うで厄払いの祭祀。旧暦の12月最後の丑の日に草の装束を身に纏った女性達と一緒に集落を祓って歩く。(2013年2月4日)
35 同行する少年達は太鼓を鳴らし、ホラ貝を吹き、女性達はホーイホーイと声を上げて集落を練り歩く。(2013年2月4日)
36 四つ辻では、女性達が少年を取り囲み、少しずつ円陣をすぼめてウルルルルと声を上げる。(2013年2月4日)
37 野原集落のパーントゥ。左が以前使用されていた仮面、右が現在のもの。『来訪する鬼 パーントゥ/比嘉康夫』(ニライ社)には、ムラの古老の話しとして「パーントゥの仮面は百三十年ほど前に制作されたものである」と書かれている。
38 八重山で旧盆に行われるアンガマ。あの世(グソー)からお面を被ったウシュマイ(翁)とンミー(媼)、ファーマー(花子と呼ばれる子孫)といった精霊(来訪神)が来て、家々を巡り仏前で踊りを披露して先祖の霊を慰める。写真は、いしゃなぎら青年会のウシュマイとンミー。(2013年8月19日)
39 登野城青年会のウシュマイとンミー。(2013年8月20日)
40 訪問する家で出される飲み物には、仮面を被ったまま飲めるようにストローが添えられている。(2013年8月20日)
41 新川青年会のウシュマイとンミー。(2013年8月21日)
42 粟国島で旧暦の大晦日から元旦にかけて行なわれる、マースヤー。かつては渡名喜島にもあったと言う。塩売りに扮した男性が家々を訪問し「これはここの子や孫たちを若返らせお塩でございます。これはここのお爺さんお婆さんを若返らせるお塩でございます。これはここの火の神加那志を若返らせるお塩でございます」と口上を述べ、用意されたお盆の上に塩の山を3つ乗せる。泉武氏の沖縄学事始めには、
 これらの唱えごとには、塩は富をもたらし農作物が豊作になることを予祝するものとして認識されているようである。粟国島では原文では「若ますしでます御塩だやびる」とあり、しでは巣出で脱皮することである。つまり塩によってすべてが若返る、あるいは新しい生命を付与する呪力を持つ塩であると観念されているのであろう。これらの唱えごとには、塩は富をもたらし農作物が豊作になることを予祝するものとして認識されているようである。
 しかし、マースウヤーとはどのような人なのか、あるいは神さまなのか説明されない。赤嶺政信さんは「粟国島の正月」『シマの見る夢』p.85では、塩売りのことを「世持大者、嘉例吉大者」と呼ばれていることに注目して、これは世持の神であり来訪神を象徴している表現であろうと考えている。
 塩を売り歩くという儀礼は、粟国島と渡名喜島での風景であるが、遠く西表島祖納(『沖縄民俗16号』p.41 1969)には、元旦の供え物のひとつに塩がある。塩はナンザマス、クガニマスといわれて、膳の上にお椀状に盛ったものという。それを年頭のあいさつに来る人に一箸ずつ与えた。それは「身を清めるという意味から生じたものである。」と報告されている。ナンザマスとは銀の塩、クガニマスは黄金の塩であり、これを来訪者に分け与える。言い換えれば世(ゆー)(豊穣)を配分するというめでたい行為であり、ここには前記した塩売りに通底する観念が窺える。塩によって身を清めるというのは誤解であろう。

 と書かれている。写真の粟国島・浜集落めー組の塩売りも、異形ではないが来訪神ではないだろうか。(2013年2月9日)
43 粟国島・首里福原のマースヤーには、ミルクが登場した。(2013年2月9日)
44 首里福原のミルクは、仮面を外して塩売りに変身する。(2013年2月9日)
45 沖縄本島北部・安田集落で行なわれるシヌグは、男たちが山に入り、草を身に纏って一日だけの神となり、村を祓って歩く。仮面こそ着けないが、彼らもまた宮古島のパーントゥと同じく来訪神ではないだろうか。(2013年8月13日)
46 藁で編んだ縄を頭に巻き、草やミーハンチャー(ゴンズイ)の赤い花を飾って、一日だけの神となった男の子。(2013年8月13日)

 翁長雄志沖縄県知事は26日午前、前知事による名護市辺野古海域での新基地建設に伴う埋め立て承認に瑕疵(かし)がなかったかどうかを検証する第三者委員会の委員を発表。沖縄防衛局に、委員会の結論がでるまで辺野古での作業を中断するよう求めたが、その翌日である昨日、政府は5隻のクレーン付き大型船を大浦湾に派遣し新基地建設に向けた大規模な海上作業に踏み切った
 安倍首相は、ことある度に「沖縄に寄り添う」「丁寧に説明する」と言うが、やっていることは沖縄の民意を無視した暴挙である。これほど言っていることと行動に整合性のない人も珍しいのではないだろうか。

 沖縄では辺野古の埋め立てとは別に、泡瀬干潟でも埋め立てが進められようとしている。泡瀬干潟の埋め立てに対しても「環境への影響」「経済合理性がない」などの理由から反対運動が起こっているが、翁長県知事は、今月20日、こちらの埋め立てに対しては推進していく考えを示した。
 以下、沖縄の振興予算にからんで先月22日に書いた文章の一部をそのまま載せておく。
 
 ところで先に引用した沖縄大学人文学部准教授の樋口耕太郎氏のコラムの中に(社会は「豊かに」なったか?)と小見出しを付けて、「これまでの沖縄の「発展」のあり方を、虚心坦懐に見直してみよう。沖縄県政が本土復帰以来追い求めてきた「本土並み」とは、補助金とコンクリートで日本の平均を目指すという意味だった。選挙では辺野古の埋め立てに伴う環境破壊が問題になったが、沖縄は復帰以来海岸線を容赦なく埋め立ててきた歴史を持つ。結果として現在の沖縄本島で、嘉手納以南に自然のビーチは事実上残されていない」と書かれている。実際、海に囲まれた島でありながら、那覇に至っては目の前に臨海道路が迫って来る波の上ビーチが市内で唯一の海水浴場だ。開発は奄美群島でも同じ事で、コンクリートの護岸やテトラポットのない浜辺はとても貴重なものになっている。
 振興予算による開発に疑問符を投げかけるコラムが他にもある。ポリタスの沖縄県知事選特集の中に掲載されたもので、「自家焙煎珈琲まちぐゎーみちくさ」店主/基地問題冊子「Picnic」発行人の知念正作氏による【沖縄県知事選】結局やる気出すのは俺たち一人ひとりなんだと題されたコラムだ。(ショッピングモールだらけの沖縄)と言う小見出しの下、「沖縄には那覇新都心や北谷アメリカンビレッジなど、いくつかの基地返還地があり、その経済効果は、その土地が米軍基地であったときの非ではないほどの、雇用や税収を生み出している。「基地が不経済」というのはいまや常識となり、基地経済に頼っているのは一部の土木利権など既得権益のある方々である。しかし北谷などの街並みをみていると、これが本当に沖縄の望んだ姿なのだろうかと空しく思うこともある。郊外型の飲食店や量販店が並び、まるでどこにでもある日本の地方のようだ。基地返還を選んだ結果が「凡庸な地方」への埋没だとしたら皮肉である。しかも大抵の場合、それらの店舗は本土資本なのだ」と綴られている。

 スカイマークが今日、民事再生法を申請した。
 那覇から八重山や宮古へ撮影に行くのに、スカイマークにはお世話になった。新石垣空港や宮古空港へ那覇から片道5000円ほどのスカイマークが運行していなかったら、あれほど気軽に八重山や宮古の祭祀を撮影には行けなかったと思う。

1月24日(土)

 久米島で神人による雨乞いが行われたと言うニュースと、ロケットを打ち上げて人工的に雨を降らすと言う話題が並ぶ時代に、琉球弧の祭祀がどのように行われているのか知りたくて島々を訪ねて歩いた。

 祭祀も昔とだいぶ変わってしまいました。忘却の彼方へと消えつつある私の記憶のなかの40~50年前は、祭祀のある年は気持ちが違い、それが近づくと夜道を歩くのも怖く(外灯が少なかったこともありますが)暴言や喧嘩も慎むよう言われたものです。祭りが始まると普段耳にしない太鼓の響きや、たまたま下校時に見た白装束をまとった神人のおばあさん達が神々しく怖かったです。
 神様を迎えて送るまでの2週間程は、本当に神様が存在しているような、島全体がそんな雰囲気のなか祭りが行われ、終わるとほっとしたものです。殿の庭も人でいっぱいでした。
 大漁、豊作、健康等、日々の諸々の祈りを総括し祈願する村合同の礼拝だと思うのですが、近年は島民の関心がうすれてしまっています。それは文明の発達と、行政が一切関与していないからでしょうか。
 おそらく200~300年前に始まったこの祭祀が今日私たちまで継承されていますが、私と同世代の人や若い人たちにはどう映っているんでしょう。昔がたいまつの明かりなら、今はローソクの炎のよう、このままほたるの光になり消えていくのでしょうか。私が神人になって感じたことですが、先輩達はどのように思っているのでしょう。

 祭祀の様子を撮らせていただいたお礼に写真を送った折、神人になって5年目の女性から返って来た手紙。そこには祭祀と島そのものの変貌に困惑し、悲しむ気持ちが綴られていた。

 琉球王国(沖縄)の尚真王(1477~1527)が、奄美から与那国までを琉球の支配に置いた際に、聞得大君(きこえおおぎみ)を頂点とする祭祀を司る神組織を制度化した。奄美にも琉球からの辞令書を発給されたノロ(神人)がおり、季節毎の祭祀(農耕儀礼)を司っていた。
 ノロは女性のみの世襲制のため、現在奄美では途絶えていると思われているが、奄美大島の宇検村・阿室集落で2009年に集落のノロが祭祀を行ったと言う記事もある。
 奄美大島の龍郷町秋名集落で行われている国の重要無形文化財に指定されている平瀬マンカイは、ノロが海岸の岩の上に乗り、海の彼方(ネリヤ)の神々に豊穣を願う祭祀だが、今は神人が不在なため集落の女性がノロの役を努めている。
 また、神人が途絶えただけではなく祭祀そのものが消滅したりもしている。平瀬マンカイが行われる日の早朝、同じ秋名集落の山側では、ショチョガマと呼ばれる豊作祈願の神事がある。嘗ては名瀬市の大熊や浦上、有良、芦花部などでも見られたが、稲作からサトウキビに農作物の主流が変化し、今では広い水田が残っている秋名でしか見られなくなった。
 ノロは祭祀を司りシマ全体の繁栄を祈る公的な存在なのに対し、沖縄・奄美には個人の悩みなどの相談にのる民間霊媒師としてのユタも存在する。こちらは世襲制ではなく、巫女病(高熱や幻覚症状)などを経てシャーマンになるため、年齢や男女は関係ない。ノロよりユタの方が、霊能力者としての力は上だと言う見方もあり、仕事や病気など様々な相談にのっている。

 五穀豊穣(国や地方によって違うが米・麦・粟・豆・黍)祈願と言いながら、今では祭祀の供物用としてしか粟が作られていない島もある。生活スタイルの変化は、シマの祭祀や人々の信仰心そのものにも少なからぬ影響を及ぼしている。
 それでも神人たちはシマの繁栄を願う事が勤めだとして海に向かい、山に向かい、霊石に向かって祈りを捧げている。神を迎え、神を送る祈りの儀式は、今も続いている。 
 祈りの島の写真をPhoto Albumにしました。こちら

石垣島・白保の豊年祭で御願する神司の手
↑石垣島白保集落の豊年祭。飾場御嶽で御願をする神司の手。

以下は、キャプションです。

琉球弧 祈る島

01 奄美大島・龍郷町秋名集落のショチョガマ。旧暦8月最初の丙(ひのえ)日であるアラセツに行われる。集落にある山の中腹に設けられた片屋根の小屋に男達が上がり、豊作祈願をする。夜明け前、この一年間に生まれた男の子を屋根の上に乗せて健康祈願を行う。(2010年9月13日)
02 ショチョガマの屋根に設けられた祭壇に、カジキ、焼酎、ミキを供え神役のグジが祭詞をとなえて豊作祈願をする。日の出とともに「ユラ・メラ」の掛け声をかけ、左右に屋根を揺らす。南側に倒れると豊作になると言われている。(2010年9月13日)
03 ショチョガマと同じくアラセツに行われる、秋名集落の平瀬マンカイ。現在、国の重要無形文化財に指定されている。集落の海岸にある2つの岩で歌の掛け合いを行い、海の彼方(ネリヤ)の神々に豊穣を願う。神(カミ)ヒラセには5名のノロが乗るが、神人はすでに不在のため集落の女性がノロ役を行っている。(2010年9月13日)
04 女童(メラベ)ヒラセにはグシ役、シドワキ(ノロの補佐)役の男女が乗る。(2010年9月13日)
05 神ヒラセと女童ヒラセの掛け合いの後、5人のノロがネリヤの神に礼拝する。(2010年9月13日)
06 ユタの祭祀・今井大権現祭を執り行う親神様の阿世知照信さん。奄美大島・龍郷町安木場にて。(2011年10月5日)
07 安木場の海岸の岩に設えられた祭壇。(2011年10月5日)
08 海の神(陰月竜宮海汝神 いんげつりゅうぐううなのがみ)を迎え、無病息災と子孫繁栄を祈る。(2011年10月5日)
09 久高島の旧正月元旦、外間殿の前でオモロを唱える若い神人。指のネイルと耳のピアスが目を惹く。(2014年1月31日)
10 久高島の元旦、外間殿では健康祈願のシャクトゥイ(盃事)が行われる。(2014年1月31日)
11 シャクトゥイに使われる銀杯。(2014年1月31日)
12 屋古アサギで御願をするヌル(ノロ)。塩屋ウンガミにて。(2012年9月11日)
13 ヌルが若ヌル、大勢頭、スリ神の背中をススキの束で叩く神ウスイの儀式。(2012年9月11日)
14 土俵のある広場シナバでの御願。この後白の神衣を脱いで、神様から人に戻る。(2012年9月11日)
15 沖縄・粟国島。旧正月の3日目、観音堂で初御願をする神人。(2013年2月12日)
16 ニシバラ殿で殿頭からお酒の接待を受けるガンジュナ(神人)。渡名喜島の祭祀・シマノーシにて。(2013年6月7日)。
 シマノーシはガンジュナ(女性神職者)がギレーミチャンという遠来の神々を迎え、シマの4つの草分け家をまわり、島民の健康、豊作、豊漁、海上安全を祈る祭祀で、2年に一度行われる。
17、18 シマノーシの最終日で神別れの日の早朝に里へ上り、マーイイビ(霊石)を拝み、廻るガンジュナ。(2013年6月9日)
19、20 神別れの日、里殿(島随一の信仰地)の祠で、それぞれシマノーシ終了の礼拝をするガンジュナ。(2013年6月9日)
21 朝日を浴びて、最後の神分かれをするガンジュナ。(2013年6月9日)
22 竹富島の種子取祭。奉納芸能の初日、バルヒル願いの日に世持御嶽で祈願をする神司。(2012年11月25日)
23 種子取祭の奉納芸能2日目、世持御嶽で祈願する神司。(2012年11月26日)
24 粟国島の祭場・エーフウナカにてクニ火神に御願する神女。翌日からヤガンウユミの本祭りが始まる。
25 粟国島の祭祀・ヤガンウユミにて、根屋(ニーヤ)で御願をするスイミチ座の神女。(2013年8月2日)
26、27 飾場御嶽で御願をする神司。石垣島・白保集落の豊年祭にて。(2013年7月24日)
28、29 竹富島の豊年祭2日目、トゥヌイプイの早朝。ニーラン神石と、御願をする神司。(2013年7月26日)
30 山に入り草を身に纏い一日だけの神となった男達が山を拝む。沖縄本島北部、安田集落のシヌグ。(2013年8月13日)
31 山を下りて集落を祓って歩いた男達は、海岸で海を拝む。この後身体に纏った草を取り、川で身を洗って人に戻る。(2013年8月13日)
32 久米島の五月ウマチー(稲穂祭)にて。君南風殿内(チンベードンチ)での神事。右端の方がチンベー。(2014年6月12日)
33、34 五月ウマチーにて、ローカーヤー(草で屋根を葺いた簡易な小屋)で御願をする神人。(2014年6月12日)
35 与那国島の嶋仲公民館主催の五穀豊穣を願うンマナガマチリにて、ツイヌトゥニへの供え物。(2014年1月11日)
36 与那国島・祖納集落の西公民館が主催する、航海安全を祈願するンダンマチリ。ンダントゥニの建屋の中から、庭にあるビディリ(霊石)を拝むカーブ(神司)。(2014年1月12日)
37 那覇・辻の旧二十日正月(ハチカソーグヮチ)。この日は神人のは拝所巡りが行われ、じゅり馬が奉納される。写真は御嶽にある軸(かつて王女達が首里城に向かってお通しをした場所)で遥拝をする神人(役)。(2014年2月19日)
38 西表島・干立集落の節祭(シチ)。主祭場である干立ウガンでの奉納芸能が終わった後、集落の2つの元屋(トゥリムトゥ)で神司の御願と芸の奉納が行われる。元屋のフタベ家で御願をする神司。(2013年10月1日)
39 干立のもう一つの元家、カイレ家での御願。(2013年10月1日)

 昨日、東電の広瀬社長が福島第一原発の汚染水処理に関して、年度内処理を断念する意向を資源エネルギー庁長官に伝えた。そもそも3月末までと言う目標は、東京オリンピックを招致したい安倍首相が2013年9月、福島第1原発事故の影響を払拭(ふっしょく)するため、「状況はコントロールされている」と発言。しかし現実には汚染水漏れなどトラブルが相次ぎ、強い批判を浴びた首相が、東電に対して汚染水の浄化処理の加速を求めたための無理な行程だとされる。
 目標期限内に汚染水処理を出来なかったのは東電の責任だが、「状況はコントロールされている」と無責任なことを言った安倍首相は、「私たちに課せられている使命は東北の復興だ。特に(福島第一原発の)汚染水の問題、もちろん東電に全力を尽くしてもらうのは当然。しかしこの問題については、国は東電任せにせずに、しっかりと責任をもって前面に出ていくことが求められている」とも語っている。ならば、汚染水を年度内に処理出来なかったことについては、政府にも多いに責任がないだろうか。
 ところで、年度内処理を断念した東電だが、汚染水処理を5月までに完了すると言っている。放射性物質除去装置のアルプスは、未だにトラブル続きの状態だ。3月末までに出来ないものが、5月には完了すると言う根拠はどこにあるのだろうか。

 イラクの日本人拘束事件の影に隠れてしまっているが、名護市長選、沖縄県知事選、衆議院選の結果を無視するような辺野古埋め立て工事が進んでいる。
 抗議の女性2人けが、油フェンス設置進む海保、説明に矛盾 馬乗り写真「女性かわした」男性1人けが 工事車両進入で機動隊と衝突「海保の暴力許さない」 辺野古警備で市民370人抗議辺野古警備「馬乗り」、「最低限許される」と11管次長国会、県議会の議員ら約90人が辺野古で座り込み
 そして明日、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に反対の意思を示すため、国会を取り囲む「国会包囲ヒューマンチェーン」が行なわれる。午後2時から国会正門付近でリレートークがあり、午後3時すぎから国会を包囲。
 また、同じく明日、首相官邸前で「安倍政権打倒 官邸前抗議」が16時〜18時で行なわれる。

1月22日(木)

 昨年の10月、イスラム国の戦闘員になるためにシリアへの渡航を計画した北海道大学の男子学生が私戦予備・陰謀の疑いで事情聴取されたが、その学生の関係先として家宅捜索を受けたジャーナリストの常岡浩介氏と、イスラム法学者の中田孝氏が、今日相次いで記者会見を行なった。
 中田孝氏の記者会見のアーカイブ動画はこちら、常岡浩介氏のアーカイブ動画はこちらにある。また常岡氏の記者会見の全文がこちらで読める。
  会見の中で常岡氏は、現地でのイスラム法に基づいた湯川氏の裁判に協力するためイスラム国へ向かおうとした彼を警察の捜査で中断されたことが、湯川さん後藤さんの今回の危機的状況を引き起こしたと糾弾している。
 また、警察の捜査は違法であり、私戦予備・陰謀罪は成立しない事が明らかなので捜査には協力しないが、今回の邦人の命を助けるための活動は捜査とは別問題として、どんな協力もすると話している。 
 会見とは別に、自身と中田孝氏は「湯川さん、後藤さんの解放をイスラム国に直接、訴えることができます」とSNSで表明しているが、今のところ外務省からも警察からも一切連絡はないようだ。
 菅官房長官は午前の会見で「(2人の)安否についてはまだ確認できていない。厳しい状況だが、人質の早期解放に向けて最大限努力している」と述べた。最大限の努力に、イスラム国と直接交渉できると語る2人の日本人の言葉に耳を傾け協力を仰ぐことは残念ながら含まれていないらしい。

 奄美大島の秋名集落では、ショチョガマや平瀬マンカイと言った豊作・豊年祈願の祭祀が行なわれるアラセツ(新節)のツカリ(前日)に、家の縁側にご馳走を供えてコウソガナシー(祖霊)を迎える。
 国の重要無形民俗文化財に指定された、竹富島の種子取祭(タナドゥイ)。奉納芸能が行なわれる前日は、シクミ(仕組み)と呼ぶ稽古の総仕上げの日。祭場となる世持御嶽の庭に舞台が設営され、明朝に神司が通るカミミチが掃き清められ、公民館の役員が稽古の激励に家々を訪れる。
 西表島の祖納集落の節祭(シチ)でもユークイの前日は、ウサイ(ご馳走)作りや屋敷を祓い清めるために撒く珊瑚の欠片拾いなどが行なわれ、夜遅くまでウブシクミ(総稽古)が続く。 
 旧正月の年の夜(大晦日)、久高島の外間殿ではハカイメー(供出)が行なわれる。男一人につき、泡盛をグラスに1杯と100円が持ち寄られ、殿に納められる。
 祭りの前日は奉納する芸に磨きをかけ、お供え用のご馳走を用意し、神様をお迎えするための準備に慌ただしいが、それもまた神々しい瞬間を迎えるための至福の時ではないだろうか。
 奄美から沖縄に連なる琉球弧の、祭りが行われる前日、或は神様を迎える前の、慌ただしくも神聖な時間をPhoto Albumにしました。こちら

カミミチを掃き清める女性たち
↑明朝に、神司が通るカミミチを掃き清める女性たち。竹富島にて。

以下はキャプションです。

神を迎える準備 ツカリ

01 種子取祭が行なわれる竹富島。明朝、神司が通るカミミチを清掃する女性達。(2012年11月24日)
02 奉納芸が行なわれる世持御嶽で、舞台の設営。竹富島。(2012年11月24日)
03 設営された舞台の幕。竹富島。(2012年11月24日)
04 世持御嶽の舞台で、明日の本番に向けて最後の練習。竹富島。(2012年11月24日)
05、06、07 奉納芸の前日はフクミという稽古の総仕上げの日。午後8時から公民館役員、石垣・東京・沖縄の各郷友会長などが家を訪ねて激励をする。(2012年11月24日)
08 集会所でも、夜遅くまで練習が行なわれていた。竹富島。(2012年11月24日)
09 宮古島の野原地区で旧暦12月の最後の丑の日に行なわれるサティパロウ。パーントゥの仮面を被った少年と、草の装束を着けた女性達が集落をまわって歩き、厄を祓う祭祀。写真は草の装束を身に着ける女性達。(2013年2月4日)
10 比嘉康雄さんの「来訪する鬼 パーントゥ」によれば、使われる草はマーニ(クロツグ)、つる草(リュウキュウボタンヅル)、木の葉(ヤブニッケイ)となっている。(2013年2月4日)
11 お互いに手伝いながら草の装束を身に着ける女性達。クロツグにリュウキュウボタンヅルを絡めたものを腰と頭に着け、ヤブニッケイの束を両手に持つ。(2013年2月4日)
12 旧暦3月4日に那覇の鏡水地区で開催される、三月あしび。家事や農作業に追われる女性達が、この日だけは仕事から解放されて歌や踊りを楽しみ伝統行事。御嶽や拝所にお供えするシンムイ作りが朝から始まった。先ずは芯になる大根に黒木の枝を挿す。(2013年4月13日)
13 大根の周りにカステラ、和菓子、食紅で色を着けたゆで卵を積み重ねて行く。(2013年4月13日)
14 積み終わったら全体にラップを巻いて固定する。赤い糸で吊るした花形の人参を黒木に飾る。(2013年4月13日)
15 完成した2つのシンムイと記念写真。シンムイは拝所や元家(ムトゥ)での御願の際にお供えとして使用されるが、御願の後に女性達は頭に乗せて順にカチャーシーを踊って楽しむ。(2013年4月13日)
16 粟国島で、旧暦の6月24日から26日までの3日間行なわれるヤガンウユミ。24日の神迎えの翌日、ヌル殿内でカーブイ(草冠)を作るヌル座の神人。(2013年8月1日)
17 カーブイには、イタジイの葉が使われる。粟国島。(2013年8月1日)
18 ントゥグヮ大屋でカーブイを作る、スイミチ座の神女。粟国島。(2013年8月1日)
19 葉っぱを一枚一枚丁寧に縫い付けて行く。粟国島。(2013年8月1日)
20 山に入り、身体に木の葉を纏い一日だけの神となって集落を祓って歩く安田のシヌグ。神となる男達がミャー(庭)の横に建つ公民館の軒先で、藁を縒って頭に巻く縄を作る。(2013年8月13日)
21 女性が主体となる祭祀が多い琉球弧で、男が神になる貴重な祭り。小さな男の子も、藁の冠を被り神になる。(2013年8月13日)
22 男達は集落にある3つの山に分かれて入り、神になるための草の装束に身を包む。(2013年8月13日)
23 西表島の祖納集落。節祭(シチ)のユークイが行なわれる前日、祭場となる浜を見下ろす作業場でウサイ(ご馳走)作りが行なわれていた。(2013年9月30日)。
24 作業所の中には、明日出されるウサイのメニューが貼り出してある。祖納。(2013年9月30日)
25 慣れた手つきの女性達が、手際よく祭りのウサイを作って行く。祖納。(2013年9月30日)。
26、27 祖納に隣接する干立集落でも、同じ日取りで節祭が行なわれる。ユークイの前日、干立の海岸では、女性や子供が屋敷を祓い清めるために撒く珊瑚の欠片を拾っていた。(2013年9月30日)
28 ユークイ前日の夜は、公民館の広場でウブシクミ(総合リハーサル)が行なわれる。ミルク役の男性が、袖持ちの女の子を従えて行列の練習。祖納。(2013年9月30日)
29 幼稚園くらいだろうか。小さな子供も芸を奉納する。祖納。(2013年9月30日)
30 みんなが見守る中、明日奉納される演目が順番通りに行なわれる。祖納。(2013年9月30日)
31 ウブシクミが一通り終わると、もう夜の10時だった。祖納。(2013年9月30日)
32 25日間という長い期間に渡って行なわれる行なわれる、与那国島のマチリ・カンブナガ(神の節)。祖納集落の西公民館が主催する、航海安全を祈願するンダンマチリの前日、公民館にはお供え用のウサイ作りをするために人が集まっていた。(2014年1月11日)
33 西公民館の厨房では、長命草を和えた郷土料理のスが作られていた。与那国島・祖納。(2014年1月11日)。
34 出来上がったスを、一人前ずつ容器に入れていく。与那国島・祖納。(2014年1月11日)。
35、36 お供え用のチンムイ作り。芯になる大根の周りをカマボコ、ナントゥ(3色のモチ)、厚揚げ、ソーセージなどを立てて飾る。(2014年1月11日)
37 久高島の旧正月の前日、年の夜(とぅしぬゆる、大晦日)。外間殿では、ハカイメー(供出)が行なわれる。(2014年1月30日)
38 供出された金額を、ノートにつけていく。久高島。(2014年1月30日)
39 供出は男性一人につき、泡盛をグラスに1杯と100円。(2014年1月30日)
40 嘗て神女が大勢いらした頃は、神女がお米を供出していた。(2014年1月30日)

1月20日(火)

 イスラム国がフリージャーナリストの後藤健二さんと、湯川遥菜さんとみられる二人を人質にとり、72時間以内に2億ドル(約236億円)を支払わなければ殺害するとしたビデオをYou Tubeに投稿した。
 これを受けて、政府は総理官邸の危機管理センターに「官邸対策室」を設置。菅官房長官は「日本国政府としては、関係各国とも協力しつつ、当該邦人の早期解放に向け最大限の 努力を尽くす所存であります」と述べたが、湯川遥菜氏がイスラム国に拘束されたのは昨年の8月中旬で、既に5ヶ月が経過している。この間、政府は何をしていたのだろうか。こうなる事は予見できなかったのだろうか。
 「国民の命と平和な暮らしを守ることは政府の最も重要な責務」としながら 、イスラム国による湯川氏拘束に対してこの5ヶ月間、ほとんどコメントもなかった安倍首相だが、さすがにこの事態になって訪問先のイスラエルで記者会見を開いた。その記者会見のコメントは「人命第一に対処」と「テロに屈せず対応していく」と言う相反する言葉が並ぶものだった。言うのは簡単だが、どう対処して実行するのだろうか。

 イスラム国からのメッセージの和訳がこちらにある。
「日本の総理大臣へ。あなたの国はイスラム国から8500キロ以上離れているが、この十字軍(※イスラム国の掃討)に進んで参加することを誓っている。あなたは我々の女性や子どもを殺したり、イスラム同胞の家々を破壊するために、誇らしげに1億ドル(約118億円)を拠出している。だから、この人の命を救うためには1億ドル必要だ。イスラム国の拡大を阻止するために、我々の聖なる戦士に対抗する背教者を訓練しようとさらに1億ドルも拠出した。これで、日本人を救うためにはもう1億ドルかかる。

 日本の国民へ。あなた方の政府はイスラム国と戦うために2億ドル(約236億円)を拠出するという愚かな決断をした。あなた方の市民(※後藤さんと湯川さんと見られる)の命を救うために2億ドルを支払うという賢い決断を日本政府にさせるため、圧力をかける時間はあと72時間しかない。さもなければ、このナイフが悪夢になるだろう」

 2億ドルの支援は「避難民が必要としている人道支援」だと安倍首相は言うが、紙幣にはその使い道まで刷られていない。日本からの支援金がどう使われるかは相手国次第だろうし、どう使われたかの線引きも難しい。
  2014年4月1日に武器輸出三原則に代わる防衛装備移転三原則を閣議決定、2014年12月に武器を輸出する日本企業向けの資金援助制度の創設を検討、そして2015年1月、日本の防衛関連企業から武器を購入した開発途上国などを対象とした援助制度の創設を検討。一年にも満たない期間に、日本はここまで戦争ビジネスに突き進んでいる。この状況で人道支援と言っても、その言葉を素直に受け取ってもらうのは難しいかもしれない。
  安倍政権の掲げる自衛隊を積極的に海外に展開していく積極的平和主義によって、これまで以上に日本と日本人の生命は危うくなるのでは。 

 イスラム国の報道の影に隠れてしまったが、昨日今日と2日続けて福島原発で死亡事故が発生した。福島第1作業員が死亡=タンク設置工事で落下福島第2で作業員死亡=点検中に挟まれ
  昨年の12月にも東電の事故について触れたが、もう一度その時の文章を掲載しておく。
 福島第1で発生している多数の傷病者発生を、東電はほとんど公表せずという記事があった。公表しない事の以前に、その傷病者の数の多さに驚いた。記事によれば、今年4月1日〜9月23日までで熱中症32件、脱水症5件、体調不良18件、ケガ43件(骨折9件、縫合処置9件)、病院への搬送22回(救急搬送13回、業務車による搬送4回、ドクターヘリ3回、搬送方法不明2回)。過酷な現場である事は想像できるが、わずか半年でこれだけの傷病者は多すぎるだろう。東京新聞のリンクは切れているが、「安全二の次 事故頻発 未公表も多数 行程厳守プレッシャー」の記事がここで少し読める。

 昨年の6月27日に撮影した、波照間島と石垣島へ向かう貨物フェリーのスナップをUPしました。こちら
波照間島のニシハマ
↑波照間島のニシハマ。↓帰りに乗った貨物フェリーの客室から。もうすぐ石垣島に到着。
貨物フェリーの客室から

1月18日(日)

 冬晴れ。今年は雪かきで腰を痛めたりした事もあって、ようやく今日になって井波の高瀬神社へ初詣に行ってきました。小正月も過ぎて、もうお参りしている人はいないだろうと思っていたら、けっこう人出があった。お天気が良かったからだろうか。
↓高瀬神社の前に広がる雪景色。
高瀬神社の前に広がる雪景色
 神社の帰りに少し買い物をして帰宅。自転車で15分程のところにある村上スタジオへ遊びに行って、4年ぶりくらいにドラムのスティックを握る。少し練習すると、そこそこ手も足も動きますね。全身運動なので五十肩や、肩こりに良いと思う。
高瀬神社での両親と、ドラムを叩く私
↑左は高瀬神社で、両親の記念写真。右は4年ぶりくらいにドラムのスティックを握る私。
 今日行なわれた民主党の代表選挙で、岡田克也氏が新代表に選出された。

1月17日(土)

 大地の沈下や海水位の変化で中国大陸や日本列島と着いたり離れたりしていた南西諸島(奄美・沖縄諸島)が、完全に独立した島となったのは約100万年前だそうだ。
  現在は奄美大島と徳之島だけに生息しているアマミノクロウサギだが、彼らの先祖は約1000万年程まえに大陸から移動して来たと言われている。その後、水位が上がり多くの大地が一度沈んだ時に、比較的高い山のあった奄美大島と徳之島にだけクロウサギは生き残ったと言う。
 ところで、アマミノクロウサギの耳が短い理由に、こんな話しがある。
 昔、世の主加那志の一人娘がある青年と恋に落ち入ったところ、その青年はハブの化身である事が分かり、世の主加那志は大変に怒ってハブ退治を計画させた。ところが、1匹の兎が長い耳でそれを聞き、ハブ仲間に通報した。それを聞いたハブ達は、山奥の岩穴に身をかくして難をのがれた。然し、その兎は、直ちに捕えられて長い耳を半分に切られ、体には鍋墨を塗られて真黒にされた。これが、奄美のクロウサギの元祖である。

 そのハブが奄美大島に住み着いたのには、こんな話しがある。
 大和朝廷(今の日本)が琉球王朝に対し、「毒蛇ハブを捕えて献上せよ」と命令を使わした。琉球王は、早速、家来に命じて三匹のハブを生け捕りにして、それを金の壷に入れて多勢の家来を付き添わせて船で送った。やがて港を出た船は、ほどなく奄美大島沖にさしかかったが、一塊の黒雲が湧き出て台風となり船は沈没。乗組員も全員行方不明になってしまった。しかし、不思議な事にあれほど狂った天候もやがて嘘のように鎮まり、ハブを入れた金の壷だけが一片の船板に乗って波に揺られ枝手久島(奄美大島・宇検村にある無人島)の海岸に打ち上げられた。壷から這い出したハブはここから本島に渡って広がっていったと伝えられている。

 人類より遥かに長い歴史を持つ動物が、脈々と命を繫ぐ亜熱帯の島々。今も多様な生物が生息する自然豊かな島には、天然記念物や絶滅危惧種に指定される生き物も少なくない。

 奄美大島の中心地である名瀬、沖縄の中心地である那覇。この開発の進んだ2つの街に部屋を借りて住んでいた。ともにビルの最上階だったが、引っ越した初日にヤモリの洗礼を受けた。
 名瀬の部屋は5階だったが、押し入れを開けた瞬間に飛び出して来たヤモリに驚いた。しかしヤモリは家守。家を守ってくれる神の使いだと教えられ、なんだか嬉しくなった。
 那覇の部屋は8階だった。ヤモリが家守と知り、もう飛び上がる程の驚きはなかったが、那覇と言う大都会の真ん中でもヤモリが住んでいる亜熱帯の底力のようなものに偉く感動した。

 奄美・沖縄で出会った生き物たちの写真をPhoto Albumにしました。こちら。←ヘビ注意!

アマミノクロウサギの幼獣
↑アマミノクロウサギの幼獣。奄美大島・大和村の林道にて撮影。2012年5月24日

以下はキャプションです。

南島の生き物

01 特別天然記念物に指定されているアマミノクロウサギ。奄美大島・大和村の林道。(2011年8月11日)
02 アマミノクロウサギの幼獣。奄美大島・大和村の林道。(2012年5月24日)
03 アマミノクロウサギ。奄美大島・大和村の林道。(2011年11月2日)
04 絶滅危惧種に指定されているアマミヤマシギ。奄美大島・大和村の林道。(2012年5月24日)
05 金色のハブ。奄美大島・大和村の林道。(2011年11月2日)
06 ハブ。奄美大島・大和村の役場にて。(2011年11月2日)
07 ヒメハブ。奄美大島・湯湾岳。(2010年8月29日)
08 マッタブ(アカマタ)。奄美大島・大和村の林道。(2012年5月24日)
09 絶滅危惧種のアマミイシカワガエル。奄美大島・大和村の林道。(2011年10月20日)
10 アマミアオガエル。奄美大島・大和村の林道。(2011年10月21日)
11 オットンガエル。奄美大島・大和村の林道。(2011年10月21日)
12 アマミイシカワガエルのオタマジャクシ。奄美大島。(2011年4月24日)
13 オットンガエルのオタマジャクシ。奄美大島。(2011年4月24日)
14 サキシマキノボリトカゲ。西表島・浦内川の上流。(2014年6月20日)
15 イシガキトカゲ。西表島・浦内川沿いの山道。(2014年6月19日)
16 イシガキトカゲ。竹富島。(2012年11月25日)
17 トントンミー(ミナミトビハゼ)。西表島・浦内川のマングローブにて。(2014年6月19日)
18 アマミシリケンイモリ。奄美大島・大和村根瀬部。(2011年1月23日)
19 天然記念物のオカヤドカリ。奄美大島・大和村・国直。(2010年8月11日)
20 オカヤドカリの子供。奄美大島・朝仁海岸。(2011年7月22日)
21 生まれて間もないオカヤドカリ。奄美大島・朝仁海岸。(2011年9月30日)
22、23 オキナワハクセンシオマネキ。奄美大島・手花部集落。(2011年10月16日)
24 ミナミコメツキガニ。奄美大島・手花部集落。(2011年10月16日)
25 天然記念物のセマルハコガメ。西表島・浦内川の上流。(2014年6月20日)
26 ウミガメ。奄美・請島、請阿室港。(2012年5月5日)
27 リュウキュウアサギマダラの越冬。奄美大島・笠利町。(2011年1月30日)
28 ナガサキアゲハ。奄美大島・佐大熊。(2010年8月24日)
29 ヒメアカタテハ(?)。奄美大島・名瀬。(2010年10月5日)
30 日本に生息する蝶としては最大級のオオゴマダラ。喜界島。(2011年7月6日)
31 金色に輝くオオゴマダラの蛹。奄美大島・佐仁集落。(2012年6月3日)
32 金の蛹と、羽化したばかりのオオゴマダラ。沖縄・那覇の漫湖公園にある「ちょうちょガーデン」にて。(2014年3月16日)
33 リュウキュウハグロトンボ。奄美大島・フォレストポリス。(2010年8月29日)
34 コシブトトンボ。奄美大島・フォレストポリス。(2010年8月29日)
35 ウスバキトンボ。奄美大島・フォレストポリス。(2010年8月29日)
36 タイリクショウジョウトンボ(?)。奄美大島・フォレストポリス。(2010年8月29日)

 今日で阪神淡路大震災から20年が経った。あの日、自分が何をしていたのか。色んな人がFacebookやBlogで綴っている。
  20年前の記憶。レコード会社からの依頼で南京にある巨大な体育館で中国のロックバンド・黒豹楽隊(ヘイバオ)のコンサートを撮影に行って、帰って来たのが1月16日だった。北京・南京・北京3泊4日の強行軍で、成田に着いた時にはさすがに疲れていた。撮影機材もたくさんあったので、レコード会社が気を使ってくれて、そのとき住んでいた神奈川の町田まで成田からタクシーで帰らせてくれた。
 震災の当日、夕方に乃木坂にあったデザイン事務所へ用事があって出かけた時に初めて地震があったのを知った。新聞はとっておらず、その頃は家にテレビを置かない生活をしていた。デザイン事務所のテレビで、ただ地震の報道を観ていた。
 ”阪神淡路大震災から今日で何年”とテレビが話題にする度に、条件反射的に黒豹楽隊を思い出す。きっとそれは、これから何年経っても変わらない気がする。You Tubeから「無地自容/黒豹楽隊」。

黒豹
↑20年前に撮影した南京の体育館での、黒豹楽隊のコンサート。客席の下に公安がズラリと並んでいた。2013年にニューアルバムを発売し、活動を再開しているようだ。

1月14日(水)

 小正月の前日である今日、奄美大島ではナリムチを飾る風習がある。ナリムチは、ブブギ(リュウキュウエノキ)の枝に色とりどりの餅を付けたもので、無病息災や五穀豊穣、商売繁盛を願って床の間や、墓前に飾られる。奄美独特のものではなく、内地でも広い範囲で似たような風習があるようだ。逆に奄美大島でも、南部の瀬戸内町では行わないと言う。
  ↓の写真は、2011年、奄美大島の名瀬に住んでいた時に自分で作ったナリムチ。床の間もないのでトイレの出窓に飾っていた。床がフローリングで、壁と天井は白。広くて日当りもよく快適なトイレでお気に入りだった。
ナリムチ
↓先日アマゾンでポチッとした、インクとプリント用紙が今日届いた。10136円買って、消費税が811円。高っ!また部屋が印刷工場と化している。
アマゾンから届いたインクとプリント用紙
 2014年4月1日に武器輸出三原則に代わる防衛装備移転三原則を閣議決定、2014年12月に武器を輸出する日本企業向けの資金援助制度の創設を検討、そして2015年1月、日本の防衛関連企業から武器を購入した開発途上国などを対象とした援助制度の創設を検討。あっという間に、ここまで来た。
 なんとなくキナ臭いと感じながらも、多くの人は自分が生きているうちは大丈夫だろうと思っている。でも、潮目が変わると一気に事は進んで行くのかもしれない。
今日の小矢部川
 昨日、今日は寒いながらも穏やかな空模様だった。午後から1時間ほど自転車を走らせて来た。

1月12日(月)

 2015年度予算案で沖縄振興予算を減額する方針を固めた安倍政権だが、辺野古への新基地建設関連経費については防衛省の要求していた1500億円に300億円を追加して確保するそうだ。
 昨日投開票が行われた佐賀県知事選は、元総務省の官僚・山口祥義氏が初当選。自民・公明が推薦した前の武雄市長の樋渡啓祐氏が敗れ、これで自民党は滋賀・沖縄・佐賀の知事選で3連敗となった。
 自民党の茂木選対委員長は、「敗因をよく分析して、今後の対応にあたりたい」と語ったそうだが、滋賀の県民は原発に「NO」を、沖縄県民は基地建設に「NO」を、そして佐賀県民は自民党の農業政策に「NO」を突きつけたのだ。ところでウソかホントかYou Tubeに「佐賀県内のあちこちの家にかかって来る安倍首相からの電話」がアップされている。自分の家の留守電に、こんなメッセージが入っていたら不愉快この上ないと思う。選挙戦でも逆効果だと思うが、なりふり構っていられないのだろうか。

 昨日、新潟県湯沢町にある東京電力の水力発電所で、コンクリート3階建てタービン建屋の屋根約1200平方メートルが崩落。運転中のタービン4基の上に崩れ落ちた。平年の約2倍の積雪があり、雪の重みに耐えられなくなり崩落したようだ。
  東電は、これもまた想定外の積雪による事故だと言い訳するのだろうか。しかし、平年の2倍の積雪があったのは発電所の上だけではなく、湯沢町全体がそうだったはずで、多くの家や会社、工場などは危険を感じて雪下ろしや除雪をしたのだろう。こちらの記事では「東京電力は業者に除雪を依頼し、日程を決めた矢先だった」としているが、結果的に間に合わなかったら意味がない。呆れるを通り越して、驚くばかりの危機管理能力の無さだ。

真夜中の雪景色

←1時46分、寝る前に撮影した真夜中の雪景色。シャッタースピードは1秒ですが、手持ちでもブレずに止まってます。ソニー独自の手振れ補正機能が効いているのかな。

 昨年の6月26日に撮影した、日本最南端の有人島・波照間島のスナップをPhoto Albumにしました。こちら

波照間島01
↑↓波照間島の山羊と民家。
波照間島02

1月11日(日)

 「農相、知事面会を拒否 安倍政権「冷遇」際立つ」。そして、政府は2015年度予算案で沖縄振興予算を減額する方針を固めた。
 ”私の対話の窓は常に開かれている”と語る安倍首相だが、翁長知事からの面会申し込みは拒んでいる。翁長氏は先の知事選で沖縄県民から選ばれた代表だ。翁長氏への拒否は、沖縄県民の民意への拒否とも取れる。結局、安倍首相の対話の窓は自分に都合のいい人にしか開かれていないようだ。
 安倍首相の日程を見てみると、1月8日に女性誌「たまごクラブ」「ひよこクラブ」のインタビューに応じたりしていました。ネット上では「自民党のイジメ」、「露骨過ぎる」という批判のコメントが多く見られ、大半の方が安倍政権の対応に呆れています。 
  昨年11月の北京で行われた日中首脳会談で、習近平国家主席が安倍首相と目を合わせようとしなかった態度が子供っぽいと批判を浴びたが、今行われている安倍政権の沖縄への態度はもっと子供っぽくはないだろうか。もはや政策・政治ではなく、単なるいじめだろう。こういった政権の仕打ちに対して、沖縄以外の都道府県知事は何を思っているのだろうか。一向に声が聞こえないのが不思議だ。

 しばらく静かだった辺野古のキャンプ・シュワブだが、昨夜から今日の未明にかけてミキサー車など15台以上の工事車両が入り、ゲート前で抗議する市民らと揉み合いになり、初の逮捕者が出た。また、沖縄本島北部・東村高江のヘリパッド建設工事に対して座り込みの抗議行動をしている住民らを排除するため、高江の路側帯を米軍専用区域に変更し、反対住民のテントなどを撤去できるよう防衛省が調整しているようだ。
 「政策は国民の理解、協力なくして進められない」として消費増税判断を巡り総選挙を行った安倍首相だが、選挙で辺野古基地建設反対を掲げた翁長氏を選んだ沖縄県民の民意を無視する形で工事を強行する。言っている事と実際の行動の齟齬について、自分で矛盾を感じる事はないのだろうか。

 昨年の12月17日、2027年の東京ー名古屋間の開業を目指すリニア中央新幹線の「工事安全祈願式」が開かれ、建設工事が着手した。しかしトンネルを掘って出る残土処理や、地下水脈の問題が大きな課題となっている。
 残土処理や地下水脈だけではなく、リニアは原発と同じ問題を抱えているとする意見もある。これについてはリニアの抱える諸問題について解説したアニメーション「リニア中央新幹線がやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」がわかりやすい。また週刊プレイボーイのwebは「リニア報道に圧力が?メディアは不都合な真実をなぜ伝えられないのか!」と書いている。

 ところで今から25年前のバブル真っ盛りの時に、リニアモーターカーを取材した事がある。まだ長距離の実験線が出来る前で、リニアを日本全国走らせるのか、東京と大阪間だけなのかも正式に決まっていない時だった。ファックスはあったが、インターネットはまだ普及していなかった。もちろんLCC(格安航空会社)の気配もない頃だ。
  その時の記事は未来の乗り物であるリニアに対して好意的に書いたのだが、あれから25年が経ち原発事故も起こって国のエネルギー政策がこの先見通せない中、従来の新幹線の3倍の電力を消費する乗り物が必要かと言えば「NO」だろう。

雑誌に書いたリニアの記事

↑自分が書いたリニアの記事。「ALEC」1989年4月号。カラーで4頁だった。

 25年も前の記事だが、解りやすく書いたつもりなのでリニアの構造と当時の状況を記した部分を転載しておく。

◯情報が加速する
 電話、ファクシミリといった通信網で、いまや情報の伝達は日本全国一瞬にして行われてしまう。では、情報を伝える人間はいらなくなったのか?そんなことはない。あいかわらず、いや、いままで以上に機械では伝えられない大切で重要な情報を抱えて人は、全国各地を飛びはねている。
 機械通信によるリアルタイムでの情報交換。その一方で、大阪ー東京間を3時間かけて人と人が伝える対面情報。当然、人を運ぶ交通機関のハイ・スピード化が望まれる。
 国土計画・調査局が行ったアンケート結果でも、「21世紀の旅客ニーズはどのような点が重要視されるか」という質問に対し、圧倒的に「高速性」(84%)と答える声が多い。
 そんなハイ・スピード化を望む声に応えるべく開発されているのがリニアモーターカーだ。時速500キロという超高速は、大阪と東京をわずか1時間で結んでしまう。都市と都市の距離感が完全に縮む。そして情報が加速する・・・。

◯夢の超高速は、浮上する
 リニアモーターカーと一口にいっても、いろんなタイプがある。まず大きく分けると磁気浮上式リニアと、車輪支持式リニア。
 リニアといえば「あっ、浮いて走る速い電車」と思われがちだが、リニアとはリニアモーターで推進される軌道交通機関のことなのだ。
 さて、今回この特集で取りあげるのは磁気浮上式リニアだ。なぜ浮上式か!?それは、車体が浮いているからレールとの摩擦がなく、それだけ高速性が望めるからだ。車輪式は、レールとの摩擦で走っているのだが、限界がある。スピードが速くなると車輪とレールの摩擦がなくなり、空回りするためだ。
 現在、世界で一番速いフランスのTGVが時速270キロ、2位の新幹線が220〜240キロだが、レールとの摩擦で走っている以上、最高速度300キロが限度といわれている。
 つまり、超高速性を期待できるのは磁気で浮上し、リニアモーターで推進するものだけなのだ。
 ところで、この浮上式にも2通りある。磁気同士の反発を利用して浮上する、超電導磁石を使ったJR式と、磁気同士の吸引を利用して浮上する常電導磁石を使ったHSST式及び西ドイツのトランスラピッド式だ。
 では、同じ吸引式のHSSTとトランスラピッドはどう違うのか。それはHSSTがリニアモーターを車上でコントロールしているのに対し、トランスラピッドは地上でコントロールしている点だ。車上でコントロールするということは、電力を車上に給電しなくてはいけない。そのため、時速300〜350キロを越えることはできないといわれている。
 一方、地上コントロールの場合(JR式もこの地上タイプ)、全線にわたって電磁石用コイルを地上に敷きつめる必要はあるが、理論的には500キロを超える運行も可能だといわれている。
 車上コントロールのHSSTは、技術的には容易だが超高速性はあまり望めない。地上コントロールのトランスラピッド、JR式は、超高速性は期待できるがレールの建設・車体の開発が難しい。どちらもメリット、デメリットを抱えている。

◯高速性から安全性の確認へ
 では、リニアが実際に営業線で走る日はいつ頃なのだろうか。
「新しい長距離の実験線ができて、それで2〜3年テストすれば営業段階に入れると思います。実験線さえできれば、新たな問題点がわかる。それを解決する技術開発自体はそう難しくない。それより問題は、工事期間です」と話すのは、JR式を開発している鉄道総合技術研究所。 
 来年度中には、その実験線を作る場所が決まることになっている。ということは、5年後くらいには具体的な営業路線ルートや、着工の予定はたっているかもしれない。が、一方ではもう少しシビアな声もある。
「山あり谷ありといった実際の環境でどれだけ耐えられるか、突発的な異常事態にどれだけの対応ができるのかという安全性の確認。これが今後の課題だと思います。
 浮いて走らせる技術開発から、安全にお客さんを乗せて走らせられるか、という方向へ、技術開発の局面が変わってきている。その変わり目が今なんです(運輸省)」
 現在までのテストで、JR式は無人で時速517キロ、有人400.8キロ。トランスラピッド式は無人で400、有人412.6キロ。HSST式は無人で300、有人100キロという記録を出している。つまり、いずれの方式も時速300〜500キロという目標速度以上の、あるいは近いスピードを達成している。となれば、後はそのスピードを持続して走ることができるのかという問題と、安全性だ。それでは持続性、安全性をふまえた上での営業運転は。前出の運輸省に尋ねてみた。
「空港のアクセス、都市交通として使うなら超高速で走る必要はないので、数年後には実用化できると思います。でも、東京と大阪のような長距離にある大都市間を超高速、大量輸送するリニアが、21世紀までに完成しているかというと、していないだろうと思う。ただ、実用化のめどはたっていると思いますね。」

リニアモーターカーの基礎知識
◯リニアモーターによる推進
 リニアモーターとは、普通の回転モーターを平たくしたものと考えればいい。原理は回転モーターと同じで、回転力が直進力に変わる。具体的にJR式を例にとって説明すると、同極同士は反発しあい、異極同士は引き合うことによって推進する。つまり、後ろから押され、前から引っぱられることの繰り返しによって前進するわけだ。
◯反発式浮上
 磁石の反発力を利用したもので、2つの磁石が近づけば磁力が強くなって反発力が増し、遠ざかれば弱くなって上に乗った物体がその重さで落下するという自然の原理を利用するので、後で記す吸引式のような浮上高コントロールのための制御を必要としない。
◯超電導磁石
 ニオプチタンなどのある種の金属では、極低温(約マイナス264度)で電気抵抗が零になる超電導現象と呼ばれる性質がある。この種の金属を使ってコイルを作り、極低温にして電流を流したのが超電導磁石。極低温でないと超電導状態を得られないため、冷却剤に高価な液体ヘリウムを使用するためコスト面で心配されている。ただ、常電導では得られない強力な磁界が望める。常電導を使用した吸引式の浮上高が1cmしかないのに対し、超電導を使用した反発式は10センチの浮上高が得られる。
◯吸引式浮上
 磁石の吸引力を利用し、車体にかかる重量とのバランスで一定の浮上高を得る。しかし、浮上高が1センチしかないため、浮上高を一定に保つための精微なセンサーが必要。
 ただここで注意して欲しいのは、浮上高1cmといっても、吸引式の場合はレールの下が1cm浮いているということ。レールの上と車体との間は15cm程あるので、よくいわれるレールの上に小さな石があっても問題ない。
◯車上コントロール   
 電磁石用コイルを車上に積み込み、スピードは車上でコントロールする。そのため、一線上で多数のリニアを走らせる場合には、前に走っている電車をみながらできるから有利。
◯地上コントロール
 電磁石用コイルを地上に敷きつめ、そのコイルには地上の電力変換装置(サイクロコンバーター)から電力を送り込む。一つの電力変換装置では一台のリニアしかコントロールできないため、5台のリニアを動かすには5個の電力変換装置が必要となる。
◯中央リニア構想
 起点は東京、終点が大阪。その間、甲府・名古屋・奈良附近を通ることが決まっている。

 以上が25年程前に書いたリニアの記事だ。ここに出て来るトランスラピッドは2008年、事業費の大幅な増大を理由に路線建設を断念。2011年に開発が終了し、実験線も2014年に取り壊されることになった。HSSTは2005年の愛知県で開催された愛・地球博に合わせて、磁気浮上式の常設実用線としては世界で4番目となる愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)として開業しているが、海外への販売に向けて2003年に設立されたHSSTシステム販売株式会社は売り込みの結果が出ずに2011年に解散している。
 起点となる東京では用地の確保が難しいことから地下を走ることになるだろうと言われていたが、東京・品川ー名古屋間の総延長285.6キロのうち、86%にあたる246キロがトンネルになると言う。
 25年の間に新幹線もスピードを上げ、2013年には東北新幹線が320キロを記録したそうだ。リニアの500キロには及ばないが、在来線との乗り継ぎを考慮すると移動時間そのものはリニアと遜色ないのかもしれない。何より走行中はほとんどトンネルの中というのは、個人的には耐えられないと思う。

1月7日(水)

 今日のお昼は、七草がゆを食べた。3日の雪かきで痛めた腰は、だいぶ良くなってきた。

 可憐な花を咲かせる野生蘭のアマミエビネ、田中一村の絵のモチーフとなったアダンやクワズイモ、鮮烈な赤が印象的なケラマツツジの原種。夜に一度だけ花開くサガリバナや、月下美人のなんと神秘なことか。深い森の中で大樹の陰に佇む小さな花や、浜辺に繁る植物たちの写真をアルバムにまとめてみました。こちら

サガリバナ
↑南西諸島に自生するサガリバナ。初夏に花を咲かせるが、夜に咲いて、朝にはその花を落としてしまう。

以下はキャプションです。

南島の花と植物

01、02、03 絶滅危惧種となっているアマミエビネ。奄美大島・金作原原生林にて。(2012年4月8日)
04 ノシランの実。奄美大島・住用川源流付近にて。(2011年4月24日)
05 ノシラン。奄美大島・大和村。(2010年8月29日)
06 ミヤマシロバイ。奄美大島・湯湾岳。(2010年8月29日)
07 カシノキラン。奄美大島・湯湾岳。(2010年8月29日)
08 モロコシソウ。奄美大島・大和村。(2010年8月29日)
09 ヒメカカラの実。奄美大島・大和村。(2010年8月29日)
10 リュウキュウアセビ。奄美大島・龍郷町。(2011年2月27日)
11 ハナイカダ。奄美大島・龍郷町。(2011年2月27日)
12 アマミイケマ。奄美大島・大和村。(2010年8月29日)
13 オオナンバンギゼル。奄美大島・大和村。(2010年8月29日)
14 リュウキュウコスミレ。奄美大島・龍郷町。(2011年2月27日)
15 オキナワチドリ。奄美大島・龍郷町。(2011年2月27日)
16 ゴモジュ。奄美大島・龍郷町。(2011年2月27日)
17 ハシカンボク。奄美大島・大和村。(2010年8月29日)
18 ホトケノザ。奄美大島・龍郷町。(2011年2月27日)
19 リュウキュウコザクラ。奄美大島・龍郷町。(2011年2月27日)
20 オニキランソウ。奄美大島・龍郷町。(2011年2月27日)
21 リュウキュウコケリンドウ。奄美大島・龍郷町。(2011年2月27日)
22 オオイヌノフグリ。奄美大島・龍郷町。(2011年2月27日)
23 ツユクサ。奄美大島・大和村。(2010年8月29日)
24 ナンゴクホウサクチョウ。奄美大島・龍郷町。(2011年2月27日)
25 オオシマウツギ。奄美大島。(2011年4月24日)
26 ホザキザクラ。奄美大島。(2011年4月24日)
27 リュウキュウマメヅタ。奄美大島・湯湾岳。(2010年8月29日)
28 ムサシアブミ。奄美大島・龍郷町。(2011年2月27日)
29 コモウセンゴケ。奄美大島。(2011年4月24日)
30 キイレツチトリモチ。奄美大島・龍郷町。(2011年2月27日)
31 フトモモの花。奄美大島。(2011年4月24日)
32、33 ゴールデンシャワー。奄美大島・小湊。(2011年7月3日)
34 ツワブキ。奄美大島・大和村。(2011年11月26日)
35 テンニンギク(特攻花)。喜界島。(2011年7月7日)
36 センネンボク。奄美大島・大熊。(2011年12月1日)
37 ハマユウの花と実。奄美大島・朝仁海岸。(2011年7月12日)
38 アダン。奄美大島・朝仁海岸。(2011年8月12日)
39 アダンの雄花。奄美大島・朝仁海岸。(2011年8月12日)
40 アマミセイシカ。奄美大島・宇検村。(2012年4月8日)
41 シャリンバイ。沖縄・識名園。(2013年3月16日)
42、43 イルカンダ。奄美大島・西仲間。(2012年4月22日)
44 花を咲かせたトキワギョリュウ(モクマオウ)。奄美大島・名瀬浦上町。(2012年1月31日)
45 緋寒桜。沖縄・那覇市与儀公園。(2013年2月14日)
46 緋寒桜。奄美大島・自然観察の森。(2011年2月6日)
47 緋寒桜とスモモの花。奄美大島・里集落。(2011年2月24日)
48 スモモの花。奄美大島・里集落。(2011年2月24日)
49 スモモ畑。奄美大島・里集落。(2011年2月24日)
50 トックリキワタの花。沖縄・那覇市。(2013年11月24日)
51 花を咲かせたリュウゼツラン。喜界島。(2011年7月7日)
52、53 ケラマツツジの原種。渡嘉敷島。(2013年3月28日)
54 月下美人。奄美大島・名瀬。(2012年6月10日)
55、56 月下美人。奄美大島・名瀬。(2010年6月24日)
57、58 サガリバナ。奄美大島・住用。(2011年8月6日)
59 サガリバナ。西表島・祖納集落。(2013年10月2日)
60 オウギヤシ。奄美大島・大浜海浜公園。(2010年7月5日)
61 クワズイモ。奄美大島。(2010年7月24日)
62 クバ(ビロウ)。奄美大島・有盛神社にて。(2011年2月16日)

*先月UPした「琉球弧の森と大樹」に奄美大島・大和村の紅葉を3枚追加しました。こちら

1月5日(月)

1月3日の外の風景

 明けましておめでとうございます。今日は、新しい年になって初めての晴天。明日からは、またお天気崩れるようですが。ちなみに↑の写真は最も積雪の多かった3日の朝です。
 奄美・沖縄で過ごした4年間は元旦から出歩いてばかりいましたが、今年は久しぶりに寝正月でした。
 1日、2日は居間でコタツに入りテレビを観ながら一日中ウトウト。自分でもよく寝れるな〜と感心するが、コタツのマジックで、いつ迄でもウトウトできる。
 3日はこの冬一番の積雪。弟と妹の家族が来るので、午後から父親と一緒に家の前の雪かき。30分ほどスコップで隣の田んぼに雪を放っただけですが、見事に腰を痛めました。夕方くらいから痛み出し、昨日はほぼ一日布団の中で本を読みながら過ごしました。おけげで「沖縄文化論/岡本太郎」(中公文庫)を読み終え、「沖縄の歴史と文化/外間守善」(中公新書)を読み始める事ができた。
 岡本太郎の沖縄に関する著作は、那覇に住んでいた時に県立図書館で借りた「岡本太郎の沖縄/岡本太郎・撮影 岡本敏子・編」(日本放送出版協会)を読んだ。
  1959年11月〜12月にかけて沖縄を旅した時に観て・感じて・思考したことを、翌年の中央公論3月号〜12月号で連載し、後にそれを纏めたのが「沖縄文化論」だが、この時に撮影した写真と1966年に再び沖縄を訪れた時に撮影した写真が「岡本太郎の沖縄」に掲載されている。当時の沖縄の人・生活・様子を知る貴重な資料であるとともに、写真としても素晴らしかった。中でも表紙の久高ノロの肖像は、図書館で手に取った時に強く惹きつけられた。神装束ではなく普段着のノロがカメラを見つめている。その表情が凛として美しい。
 この表紙の写真を撮った時のことかはわからないが、岡本太郎が久高ノロを撮影した時の描写が「沖縄文化論」に載っている。
 
 「写真をとらせてください」と頼むと、素直に明るい軒先の方に出てきて坐ってくれた。私は内心、不安だったのだ。沖縄の女の人は写真をとられるのを嫌がる。この島でも、写真をとられることを「ぬく」といって、写されると早く死ぬと考えるそうだ。 生魂をぬくということらしい。ことに宗教的な地位の女性だから、どうかと思ったのだが、息子さんが話してくれたせいか、意外に気軽に応じてくれた。
 どうせなら、のろの正装をしてもらいたいのだが、あまりぶしつけだ。遠慮して、「お祭りのときはどういう装束ですか」とたずねた。白い神衣に曲玉をかけて、クイジという蔓草を冠のように頭に巻くのだそうだ。だが神衣や曲玉は戦争で失ってしまって、もう何もないという。こんなにささやかで平和な島にまで、と驚くのだが、沖縄戦の砲撃を受け、集落は焼け落ちた。いまの住居も戦後、政府の規格によって建てられた家屋だそうだ。
(神と木と石)より

 ところで岡本太郎と久高島と言えば、彼が1966年のイザイホーの年に再び島を訪れた際、島のグソー(後生)に入り勝手に風葬の写真を撮影して週刊誌に掲載したと言う話しが広く伝わっている。実際、「沖縄文化論」の(神々の島 久高島)の章には、そのグソーに散らばる白骨の写真や、それらを撮影している岡本太郎の写真が掲載されている。 
 比嘉康夫も「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」の第一章にある(とだえた風葬)で、「久高島が太古から連綿と続けてきた風葬がとだえたのは、イザイホーの年、六六年に、心ない外来者が風葬途中の木棺を開けて、シマ人にはまだその死者が判別可能な状態のところを写真撮影し、しかもこの写真を雑誌に発表する(一九六七年)という、シマ人にとって予想もしない事件がおきたことが原因である。この事件のせいで風葬をやめたのかと、シマ人から直接聞くことははばかられたが、衝撃であったと思われる。ともかくシマ中で協議をした結果やめた、とだけ聞いた」と、この事に触れている。 
 岡本太郎がグソーで死者の写真を撮影し、それを雑誌に掲載したのは間違いないが、撮影に際しては許可を得てのものだったということがこちらのブログに掲載されており、興味深い話しが書かれている。

 さて、1月5日の今日は旧暦の11月15日。12年ごとに行われる久高島のイザイホーは午年の11月15日から開催される。残念ながら、今回もイザイホーは中止になることが昨年の夏に決まってしまったが、本来なら今日がイザイホーの始まる日だった。1978年を最後に、これで3回連続の中止。最後に行われたイザイホーでナンチュになられた方も既に70歳を過ぎて神役を降りられている。これから12年が経つと、もうイザイ山に作られたナンチュが籠る「七ツ家」で、何が行われたか鮮明に覚えている人は殆ど居ないかもしれない。今年開催されなかったことで、イザイホーの復活は更に難しくなったように思う。

新しいトップページ
←元旦にトップ画面を模様替えしました。沖縄北部の安田(あだ)集落で行われるシヌグです。沖縄では女性が神となって司る祭祀が多い中、このシヌグは珍しく男性が中心。山にこもって身体に木の葉や蔦をまとって神になる際は、女性は山の周辺に立ち入ることも禁止されている。
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