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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表

◯木原盛夫 写真展「AMAMI 神々の杜 海の民」
奄美大島を舞台にした河瀬直美監督の最新作「2つ目の窓」の、富山・フォルツァ総曲輪での上映に合わせて写真展を開催いたします。
2月7日(土)〜2月20日(金) *2月8日は12:20〜14:30の回終了後、「映画を話そう!」と題したイベントがあり、プロジェクターで写真を見ながら奄美の事を少しお話しする予定です。
フォルツァ総曲輪 4Fシネマホール・ライブホールのロビーにて。
富山市総曲輪3−3−16

○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

2月28日(土)

 空気が冷たくて気温はそれほど上がらなかったように思うが、青空の広がった気持ちのいい一日だった。
タンカン
 午前中に、ゆうパックでタンカンが届いた。何処からだろうと思ったら、沖縄県の名護市瀬嵩だった。
  送り状を見ると、2年住んでいた那覇の住所から転送されて、富山に届いていた。「?」と一瞬考えたが、思い出した。
  一昨年の10月、瀬嵩のカジマヤー祝いを撮影に行って、その時の写真を瀬嵩の公民館を通して、お祝いされたご本人に渡していただいた事があった。

 写真を送って直ぐにご家族の方からお礼の電話をいただいたのだが、それから1年以上経ってタンカンが届いたので驚いた。10キロ入りのダンボール箱に、小振りのタンカンがびっしり詰まっていた(上の写真は、床の間とお雛様にお供えした後なので少し減っている)。手紙も添えられていて、送って下さったのは97歳のカジマヤー祝いをされたオトキさんの義理の娘さんだった。写真はファイルに入れてアルバムにして送ったのだが、時々眺めて楽しんでいただいているようだ。オトキさんは、足腰もしっかりと元気に過ごされていると書いてあった。早速一つ食べたが、とても甘かった。久しぶりの南島の味と香りだった。
 タンカンが届きましたと、お礼の電話をかけた。奄美はこれからタンカンの時期だと思うが、沖縄はもう時期外れになったそうだ。カジマヤー祝いを見たくて瀬嵩へ行き、通りすがりに写真を撮らせていただいたのだが、こんな風な縁も面白いな〜と思う。

 町の運動施設でのウォーキングの後、髪の毛を切りに行った。最近はソフトモヒカンにしているが、冬なので全体に短いと見た目にも寒そうなので、サイドを刈り上げて後ろはV字に。前髪とトップはそのままで、とお願いしたら、担当の女の子からツーブロックですね、と言われた。なるほどツーブロックという髪型のようだ。前髪とトップは伸ばして縛ろうかと考えている。

 昨年の7月3日に撮影した、早朝の農連市場や辻の料亭左馬のスナップをPhoto Albumにしました。こちら

農連市場01

↑昭和28年に開設された農連市場。再開発により近く解体されると聞いていたので撮影にいったが、昨年末から解体工事が始まったようだ。↓商品台の上、埃がついた扇風機に朝の光がさして、キラキラと輝いていた。

農連市場02

2月25日(水)

 奄美との出会いは、瀬戸内町・古仁屋出身の歌手、RIKKIの『miss you amami』というCDのジャケット写真を撮影したことだ。
 彼女は15歳で「第13回日本民謡大賞」グランプリを獲得し、九州限定の島唄アルバム『むちゃ加那』を発表。その後1993年にBMGビクターから、本名の中野律記でポップスを歌ったアルバム『風の声』をリリースしてメジャーデビューする。
 中野律記からRIKKIに改名したのは『miss you amami』からで、このアルバムでは島唄の伴奏にハワイのスラックキー・ギターやアコーディオンといった従来の島唄では使わない楽器を取り入れている。もちろん三線やチヂン(太鼓)と言った島唄には欠かせない楽器も入っており、こちらは「第2回日本民謡大賞」で大賞を獲得したベテランの唄者・築地俊造さんが演奏している。
 RIKKIに続くように元ちとせや、中浩介、里アンナといった奄美出身の歌手が全国区で活躍するようになったが、今でも島に残り生業を他に持ちながら唄者として活動する方々もたくさんいる。「ワイド節」を作曲した坪山豊さんが船大工と言うのは有名だが、西和美さん、松山美枝子さんは名瀬で島唄と郷土料理のお店をやっている。築地俊造さんもボクが奄美に滞在していた頃は「かんもーれ」と言うライブハウスを経営していた。若手の中村瑞希さんは保育士、前山真吾さんは介護士をしながら唄者として活動している。喜界島の唄者・川畑さおりさんは、彼女の職場である町役場で偶然お会いした。

 奄美の歌遊びや祝宴の席で、座の清めやウォーミングアップとして最初に歌われるのが「朝花節」。神様のお引き合わせによって、こうしてまたお会いできたのですね。久しぶりにあなた方にお会いできて嬉しいです、と言った歌詞で始まる。
 奄美大島は離島だけれど、中心地の名瀬に住んでいる分には交通の便が良くなり、朝花節で唄われるような人との出会いの感謝というものがピンと来ない。でも離島のさらに離島といった趣きの与路島へ行った時に、シマの人達の歓迎ぶりにそんな島唄の心情を想像してみる事ができた。
 朝花節の歌詞を訳したものを、奄美シマ唄歌詞集から。
石原を踏み越え、こうしてわざわざ御足をお運び下されたあなたの真実に触れ
私は嬉しさでいっぱいです。
今日こうして未知のあなたにお逢いして、よく知ることができました。
これも命ながらしていただいたからこそで、本当に命あってこそ未知の人にも逢えるというものです。
たまたま皆様方にこうしてお逢いできましたが、さて今度は、
いつまた、お逢いすることができましょうか。
唄いましょうよ やりましょうよ
唄は、やってこそ、上達しますよ
唄いましょうよ やりましょうよ

 最初に聴いた沖縄の音楽は二十歳前後に東京・渋谷にあったライブハウスで見たコンディショングリーンのライヴだろうか、それとも喜屋武マリーが率いるマリー&メデューサのレコードだったろうか。どちらにしても沖縄の音楽はハードロックから入ったのだった。
 1990年頃にワールドミュージックがブームになり、沖縄のりんけんバンドやネーネーズが注目された。この頃に雑誌の仕事でライヴやポートレートを撮影させていただいた。
 94年にはりんけんさんの父親、照屋林助さんが東京・浅草の木馬座でコンサートを行なった。座席も通路もいっぱいで、それでも収まりきらないお客さんをステージの両端に座らせての演奏だった。なんだか陽気な呪文を聞いているようなシマクトゥバ(沖縄方言)による漫談と歌に、意味もよく解らないのに魅了された。
 沖縄に滞在している2年の間に、登川誠仁さんが亡くなられた。2014年の3月29日に、うるま市芸術劇場で誠仁さんの一年忌追悼公演が行なわれ、登川流の門下生や、沖縄を代表する民謡歌手の方々が登場した。その中には1960年結成のフォーシスターズもいた。彼女たちは沖縄で最初のアイドルグループであり、その後に続くでいご娘やネーネーズといったガールズグループの原点だ。沖縄音楽の本や雑誌でその名を目にする事はあったが、実際に彼女たちが歌う姿を生で見られるとは思っていなかった。
 誠仁さんの一年忌追悼公演の翌月、沖縄市の中央パークアベニューで照屋林助さんの功績を讃え、縁のあったアーティストが集う「コザ・てるりん祭」を聴きに行った。この2つのイヴェントを通して、随分たくさんの沖縄の唄者の歌に触れる事ができた。

 ところで、奄美の島唄と沖縄の民謡の違いについてRIKKIの『miss you amami』をプロデュースした田中勝則氏がライナーノートに書いている。
「ご存知のように奄美大島は、基本的には琉球文化圏に属する。言葉は沖縄のそれに非常に近いし、風土もとても似ていることは、誰もが知っている通りだ。ただ、それでも音楽は、まったくと言えるほど違ったスタイルを持つ。まず第一に違うのが音階で、沖縄の(西洋音楽的に言うところの)二六抜き音階に対して、奄美は四七抜き。しかも短調の曲がやたらと多いのが特徴だ。だから華やかな沖縄音楽と聴き比べると、哀愁溢れる奄美の音楽はまるで遠い土地の音楽に聞こえる。
 こんな奄美と沖縄の音楽の違いが生まれたのは、江戸時代の薩摩藩による奄美支配が原因になっているようだ。250年に及ぶ薩摩支配の時期に、奄美の人々は大変な苦労を強いられた。そんな気分が音楽の中にも織り込まれ、日本の古典的な語り物の要素なども吸収しながら、独特の哀愁溢れたメランコリックなスタイルを完成させていったということかもしれない」

 沖縄と奄美のシマクトゥバ(方言)は同じではないが、ニュアンスは似ている。それに対して同じ沖縄でも、宮古方言は独特だ。みゃーくふつと呼ばれる宮古方言には、んみゃーち(いらっしゃいませの意味)、んむっし(おもしろい)、んぎゃまっさ(うるさい)と言った「ん」から始まる言葉もたくさんある。その発音は、どこかフランス語の響きのようでもある。
 みゃーくふつで歌うシンガー、下地勇さんのライヴを見たのは2013年の那覇ハーリーのイヴェントだった。オリオンビールのCMで流れている大和口(標準語)で歌われる「希望を注げ」以外は、沖縄音楽と言うよりセネガル出身のシンガーソングライター、イスマエル・ローや、マリ共和国のシンガーソングライター、アビブ・コワテと言った旧フランス語圏の音楽を聴いているような気分だった。
 3日間に渡る那覇ハーリーのイヴェントで、民謡に洋楽をミクスチャーさせた新良幸人さん率いるパーシャクラブ、ポップスシンガーのnanamiさん、日系ペルー三世のアルベルト城間さんを中心とするラテンバンド、ディアマンテス、与論島出身で元ザ・コブラツイスターズの川畑アキラさんなど様々なミュージシャンのステージを楽しませてもらった。

 照屋林助さんと一緒に伝説のワタブーショーをやっていた、漫談家の前川守康さんが亡くなられたのは2013年の7月28日だった。守康さんの漫談を生で聴くことは一度も出来なかったが、代わりにご子息で「遊び庭」や「かなさんどー」などのヒット曲を持つ民謡歌手の前川守賢さんのステージは沖縄滞在中にたくさん見ることが出来た。中でも那覇・栄町市場で2013年11月に開催された、市場屋台祭りの締めとなる感謝祭でのステージが素晴らしかった。歌はもちろん合間合間のおしゃべりが軽妙で、それは父・守康さんから引き継いだ漫談家の血だろうか。
 栄町市場で毎年6月~10月の最終土曜日に開催される屋台祭りでは、栄町で育った女性3人組のおばぁラッパーズのパフォーマンスも見に行った。彼女たちは、ウチナーグチのライム(韻)を交えながら、ラップのリズムでマチグヮー(市場)への愛を歌う。おばぁラッパーズを音楽的にサポートしているミクスチャーロックバンド、マルチーズ・ロックや、民謡、フォークなど様々な音楽がこの市場祭りで奏でられていた。
 沖縄は音楽が生活の場の身近にあり、その音楽シーンは懐が深い。

 池間島から分村した人達の居住する、宮古島の西原地区でミャークヅツを見た。元々は人頭税を完納した祝いの祭りだと言われており、4日間続く。訪ねて行ったのは祭りの2日目で、午後からは町内のパレードやジャー(広場)での奉納角力が行なわれた。この日の行事が終わった夕方、集落を散歩していると歌が聴こえて来た。どこかでアナログのレコードでも流しているのだろうかと思いながら、歌の聴こえる方へ歩いて行くと、少し前までたくさんの人で賑わっていたジャーだった。
 お年寄りの女性が一人、マイクに向かって座っていた。村山キヨさん88歳。暦を読みながら神行事の日程を取り決めるヒューイトゥインマを努めており、ミャークヅツの日取りも彼女が決定する。手拍子だけを伴奏にキヨさんが歌っているのは、西原に伝わる古謡だと言う。澄んだ声ではない、むしろザラっとした声にヴィブラートがかかる。お一人で歌っているにもかかわらず、何かと共鳴しているかのように、その歌声は広く深く場を包む。声の力、歌の力の凄さを感じずにはいられなかった。 
 奄美、沖縄で出会った歌う人の写真をPhoto Albumにしました。こちら

古謡を歌う村山キヨさん
↑西原の古謡を歌う、村山キヨさん。歌を聴いて学校帰りの子供たちが寄って来た。2013年9月26日。

以下は、キャプションです。

南島の歌う島

01 ご自身が経営する郷土料理のお店「かずみ」にて、カウンターで唄う奄美の唄者・西和美さん。三線を弾いているのは2014年10月に急逝した竹島信一さん。奄美大島・名瀬。(2012年4月12日)
02、03 奄美大島・佐仁集落の八月踊りで唄う、前田和朗さん。(2010年9月14日)
04、05 名瀬公民館で開催された<豪雨災害チャリーティーコンサート>第7回「奄美歌掛けの夕べ」にて。ステージの築地俊造さんと、客席の坪山豊さんの歌掛け。(2010年11月13日)
06 名瀬の飲屋街・屋仁川通り、通称やんごの生誕100周年を記念して開催された「大やんご祭り」のオープニングイベントで、三線を弾く少女。(2010年11月15日)
07 「大やんご祭り」のオープニングイベント。右端の女性は、島唄と郷土料理のお店「吟亭」での女将さんでもある、唄者の松山美枝子さん。(2010年11月15日)
08 喜界島の公民館で行なわれている、島唄教室。(2011年7月8日)
09 島唄教室の終了後、公民館のロビーで唄者・安田宝英さんと一緒に稽古。(2011年7月8日)
10、11 徳之島の伊仙町出身の唄者・安田宝英さん。農機具の販売で喜界島に渡り、移住。民謡教室を開き、牧岡奈美や川畑さおり等を育てた。
12 奄美まつりの初日、奄美文化センターで開催された島唄と郷土芸能のコンサート「シマあすびの夕べ」から。90歳の唄者・森チエさんと、若手の前山真吾さん。
13、14 名瀬に寄港したオランダ船籍の大型客船ザーンダム号のお見送りに、土砂降りの雨の中で島唄を歌う築地俊造さん。
15 どんと(ボ・ガンボス)の命日に、沖縄・宜野湾市のカフェで行なわれたイベント「みんなでどんとをうたおう!」にて、前川守賢さんのステージを見ながら三線を弾く照屋政雄さん。(2014年1月27日)
16 照屋政雄さん。壁に掛けられた絵は、どんと作。(2014年1月27日)
17 2005年に亡くなった照屋林助さんの功績を讃え、縁のあったアーティストが集う「コザ・てるりん祭」にて、照屋林賢さんがプロデュースする女性ユニットのティンクティンク。(2014年4月13日)
18 我如古より子さん。コザ・てるりん祭にて。(2014年4月13日)
19 よなは徹さん。コザ・てるりん祭にて。(2014年4月13日)
20 上原知子(りんけんバンド)さん。コザ・てるりん祭にて。(2014年4月13日)
21 ウチナーグチ(沖縄方言)を織り交ぜ、民謡とポップスをミックスしたガールズ・グループのサンサナー。那覇の泊漁港で開催された「父の日お魚フェア 本まぐろ祭り」のステージで。(2014年6月15日)
22、23 オスプレイ配備反対、米軍基地の撤去を求めて開催された「御万人大行進 愛と怒りのサウンドパレード」。パレードに出発する前に宜野湾海浜公園にある野外劇場で抗議集会が開かれ、ステージで「艦砲ぬ喰ぇー残さー」を歌う、でいご娘。(2012年12月23日)
24 沖縄・石川市出身の4人姉妹で結成されたフォーシスターズ。でいご娘、ネーネーズ、サンサナーへと続く沖縄ガール・グループの原点。2013年3月19日に亡くなられた登川誠仁さんを偲ぶ、うるま市芸術劇場で開催された一年忌追悼公演にて。(2014年3月29日)
25 登川流会員一同による「寄師事る宝・新デンサー節」。登川誠仁さん一年忌追悼公演にて。(2014年3月29日)
26 知名定男さん。登川誠仁さん一年忌追悼公演にて。(2014年3月29日)
27 ミャークフツ(宮古島の方言)で歌う、宮古島出身のシンガーソングライター・下地勇さん。沖縄・泊、那覇ハーリーのステージにて。(2013年5月3日)
28 八重山(石垣島)出身の新良幸人さん率いる、パーシャクラブ。那覇ハーリーのステージにて。(2013年5月3日)
29 新良幸人さん。那覇ハーリーのステージにて。(2013年5月3日)
30 沖縄・那覇出身のシンガー・manamiさん。那覇ハーリーのステージにて。(2013年5月4日)
31 アルベルト城間(ディアマンテス)さん。那覇ハーリーのステージにて。(2013年5月4日)
32 与論島出身の川畑アキラ(元ザ・コブラツイスターズ)さん。那覇ハーリーのステージにて。(2013年5月5日)
33 「ひらけ!ポンキッキ」で流れてヒットした「ユイユイ」を歌った歌手として知られる山川まゆみさん。那覇・パレットくもじ前広場で行なわれたラジオ番組の生中継のステージで。(2014年5月1日)
34 美川憲一のモノマネタレント、魅川憲一郎さん。那覇の平和通り商店街にある、
ひやみかちマチグヮー館のイベントにて。(2012年11月14日)
35 ウチナーグチのライム(韻)を交えながら、ラップのリズムでマチグヮー(市場)への愛を歌う、3人組のおばぁラッパーズ。60年の歴史がある那覇・栄町市場の再生を描いた映画「歌えマチグヮー」に主役級で登場する。栄町市場屋台祭りにて。(2012年10月27日)
36 マルチーズ・ロック。栄町市場屋台祭りにて。(2013年6月29日)
37 「かなさんどー」「遊び庭 あしびなー」などのヒット曲で知られる民謡歌手の前川守賢さん。父親の前川守康さんは漫談家で、照屋林助さんと一緒にワタブーショーをやっていた。栄町市場感謝祭にて。(2013年11月30日)
38 前川守賢さん。手前で踊っているのは、おばぁラッパーズのカメーこと新城カメさん。栄町市場感謝祭にて。(2013年11月30日)
39 宮古島・西原地区のミャークヅツ。祭りの後、ジャー(広場)で西原地区に伝わる古謡を歌う村山キヨさん。(2013年9月26日)
40 村山キヨさんが歌う民謡の歌詞。(2013年9月26日)
41 手拍子だけを伴奏に歌う村山キヨさん。キヨさんは暦を読みながら神行事の日程を取り決めるヒューイトゥインマを務めており、このミャークヅツの日取りも彼女が決定する。(2013年9月26日)

2月23日(月)

 八月踊りは、奄美大島の各シマ(集落)で踊られているが、シマによって歌詞が違ったり踊り方に個性が出たりする。
 奄美大島の北部・佐仁集落の八月踊りを初めて見た時、チヂン(太鼓)と声だけにも関わらず、反復して増幅し疾走して行く歌と踊りに鳥肌が立った。輪をつくり最初はゆっくりと、そして徐々に歌と踊りのテンポが上がり、一体感を強めて高揚感を生み出して行く。
 輪踊りではないが、奄美大島の大和村湯湾釜集落に伝わるムチムレ踊りも個性的で楽しい。男女ともに女性の着物を身につけ、頭には風呂敷などを被った集団が、夜が更けるまでヤーマワリ(家まわり)をして踊り歩く。
 昔、集落の大半を焼尽す火事があり、その日を忘れないためにと火事のあった旧暦10月16日に火災予防や無病息災を願って踊られる。家々からは料理やお酒、子供たち用のお菓子の他に、火難災除の餅が振る舞われる。歌われている曲は、徳之島民謡の「どんどん節」のようで、歌の合間に「餅もろたー餅もろたー」「よいやーよいやー」の掛け声がかかる。

 太鼓を伴奏に、あるいはアカペラでの輪踊りは、沖縄の各地でも見られる。沖縄本島のウシデークや久高島のグールイ、八重山諸島の巻踊りに、宮古島のクイチャー等だ。
 ウシデークは臼太鼓で、太鼓に合わせて伝統衣装を身に着けた女性たちが円陣を作って歌い踊る。久高島のグールイも同様に女性だけで踊られる。
 八重山の各島々で見られる巻踊りも円陣をつくって踊られるが、島によって衣装や踊り方が違うようだ。黒島の豊年祭で見た巻踊りは浜に立てられた旗頭を囲んで男女混合の円陣をつくり鉦と太鼓に合わせて踊ると言うものだった。
 西表島の祖納集落の節祭で見た巻踊りは、女性の巻踊りと男性の巻踊りは別々に踊られる。女性の巻踊りは両手を広げたり合掌するような動作で舞踊のようだった。ネットには巻踊りについて「元来、神を迎え、神を拝するときの巫女の祭式舞踊から出たかと思われる古風な舞踊である。(マキ)は、血縁集団を意味する(マキニンジュ)から出た語かと思われる」と言った解説もある。男性の方は櫂を手に持ち、浜に立てられた旗頭を囲み円陣を組んでまわる。
 八重山諸島で最も台湾に近い与那国島。日本最西端の島だが、与那国の巻踊りにあたるのが、ドゥンタだ。手と手をつないで円陣を作り、中心に置かれた焚き火を囲んで繫いだ手を上げ下げしながらまわる。打ち鳴らされる太鼓は他の島の踊りで使われ太鼓よりも大きく、胴の部分も深くて全体的に野性味のある歌と踊りだ。
 宮古島を主島とする宮古諸島で踊られる輪踊りがクイチャーで、語源は声(クイ)を合わす(チャース)からとされている。アカペラの歌に合わせて、手を鳴らし足を上げながら踊りの輪がまわる。
 2013年の9月、池間島のミャークヅツを見に行った。ミャークヅツは人頭税を完納した祝いの祭りだと言われており、池間島と池間島から分村した人々が移住した宮古島の西原地区、伊良部島の佐良浜地区の3ヶ所で行なわれる。旧暦8月か9月の甲午の日から4日間続く祭りは、コンデンスミルクで割ったミルク酒を呑みながらムトゥ(元屋)やジャー(広場)でクイチャーが繰り返し踊られていた。
 ところで祭りや祝宴の締めに、奄美なら六調が、沖縄ならカチャーシが踊られる。六調は大和風音階の民謡、カチャーシーは琉球音階の民謡と、曲調は異なるが共にアップテンポで場を賑やかす踊りだ。カチャーシーは、沖縄方言のかき回す。頭上で手を左右に振るさまが、かき回すように見えるためとも言われている。
 面白いのは奄美群島でも沖縄北部に近い与論島では、六調ではなくカチャーシーが踊られる。与論の次に沖縄に近い沖永良部島でもカチャーシーだと言う。一方六調の方は、与論、沖永良部島を除く奄美群島の島々の他に、八重山諸島で踊られている。六調が、沖縄本島・宮古諸島を飛び越えて、なぜ八重山で広がったのか。芸能の伝播の不思議、そして面白さだ。
 琉球弧で伝承されている、様々な踊りをPhoto Albumにしました。こちら

佐仁の八月踊り
↑奄美大島の北部、佐仁集落の八月踊り。持ち寄った料理を囲み、円陣を組んで踊られる。2011年9月14日。

以下は、キャプションです。

琉球弧 踊る島

01、02 奄美大島・龍郷町秋名集落。ショチョガマ(片屋根の小屋)が倒された後に、その場で踊られる八月踊り。(2010年9月13日)
03 龍郷町・秋名集落の平瀬マンカイ。ネリヤの神への祈願が終わった後、神役は岩から浜へ下りて八月踊りを踊る。(2010年9月13日)
04、05 奄美大島・佐仁集落の八月踊り。(2010年9月14日)
06 佐仁集落の八月踊り。(2011年9月14日)
07 踊りの合間に酒を呑み、持ち寄った料理をつまむ。佐仁集落にて。(2011年9月14日)
08、09 奄美文化センターの敷地にある古民家で、八月踊りの練習をする佐仁郷友会の方々。
10、11、12 奄美大島・大和村の湯湾釜集落で旧暦10月16日に行われるムチムレ踊り。三線やチヂンの音にあわせて家々を踊りながら、火難災除の餅を貰ってまわる。ムチは餅、ムレは貰う。男も女も女性用の着物をきて、頭には風呂敷などを被って踊る。(2010年11月21日)
13、14 奄美大島・大熊集落の種おろし(豊作祈願)で踊られる八月踊り。ウントネ(上のトネヤ)とシャントネ(下のトネヤ)で。(2011年8月26日)
15 奄美大島・大和村恩勝集落のキトバレ踊り。トネヤを皮切りに、集落の何ヶ所かで八月踊りが踊られる。(2011年9月10日)
16、17 加計呂麻島・西阿室集落の豊年祭。里と金久の字に分かれて土俵の周りを踊り、互いの花飾りを競うテンテン踊り。(2011年9月18日)
18 西阿室の豊年祭での八月踊り。(2011年9月18日)
19 奄美大島の奄美パークで開催されたダンス・イヴェントにて。最後は客席のおばさんも飛び入りで参加して六調が踊られた。奄美群島では祝い事などの最後に六調が踊られる。三線の速弾きに大和口(日本語)の民謡が歌われ、それに合わせて乱舞する。(2010年10月17日)
20 唄者・築地俊造さんのライヴハウス「かんも~れ」にて、六調を踊るお客さん。奄美大島・名瀬。(2012年1月7日)
21 与論島の十五夜踊り。演目の最後に客席も参加してのカチャーシーが踊られた。与論島は奄美群島だが、〆は六調ではなくカチャーシー。与論は沖縄本島北部に距離的にも近い事から、沖縄の文化が色濃く反映されている。十五夜踊り自体も、大和風と琉球風の芸能が奉納されている。また沖縄の八重山諸島では、〆にカチャーシーではなく六調が踊られる。(2013年4月24日)。
22、23 安田のシヌグ。昼間は男性が神となって村を祓ってまわり、夕方からは神アサギのある広場で女性達がシヌグ舞(ウスデーク或はウシデーク)を踊る。白い衣装を身につけているのは、今年から参加した若い女性達だ。(2013年8月13日)
24 久高島の久高御殿庭で踊られるグゥルイ(沖縄本島のウスデークにあたる)。八月マティーにて。(2013年9月14日)
25 沖縄・糸満市米須のウシデーク。イリのアシビナーにて、デーク(太鼓)を叩いて集合を呼びかけている。(2013年9月19日)
26 米須のウシデーク。イリ(西)とアガリ(東)の二手に分かれて拝所を巡っていた踊り手が、コミュニティーセンターの広場で合流して一緒に踊る。(2013年9月19日)
27 黒島の豊年祭での巻き踊り。(2013年7月28日)
28 西表島・祖納集落の節祭にて、婦人アンガー巻き踊り。(2013年10月1日)
29 祖納集落の節祭にて、男子アンガー巻き踊り。(2013年10月1日)
30 西表島・干立集落の節祭にて、トゥリムトゥ(元屋)の一つフタベ家での巻き踊り。(2013年10月1日)
31、32 与那国島・祖納集落の嶋仲公民館主催で行われる、五穀豊穣を願うンマナガマチリ。神事の後、マイヌトゥニでドゥンタが踊られた。(2014年1月1月11日)
33、34、35 与那国島・祖納集落の西公民館が主催する、航海安全を祈願するンダンマチリ。ンダントゥニでのドゥンタ。(2014年1月12日)
36、37 ンダントゥニに隣接する、ドナンバラ家のドゥンタ。(2014年1月12日)
38、39 池間島のミャークヅツ初日。ムトゥ(元屋)にて、長老の前で一人一人踊りを披露する。テーブルには泡盛をコンデンスミルクで割ったミルク酒の瓶が並んでいる。(2013年9月25日)
40 ミャークヅツ初日、池間公民館の前でクイチャーが踊られる。(2013年9月25日)
41 宮古島・西原のミャークヅツ2日目のパレード。所々で円陣を組んで、クイチャーが踊られる。(2013年9月26日)
42、43 伊良部島・佐良浜地区のミャークヅツ3日目。本村ジャーのクイチャー。(2013年9月27日)
44 数え年で97歳の長寿を祝う行事・カジマヤーにて、カチャーシーを踊るおばあさん。沖縄本島北部、天仁屋にて。(2013年10月12日)
45 沖縄・那覇市の栄町市場屋台祭りにて。(2014年6月28日)

 一昨日、東村高江のヘリパッド(ヘリコプター着陸帯)建設反対派住民の拠点であるテント村が無断で撤去されたが、昨日は辺野古のキャンプ・シュワブのゲート前で市民が抗議活動を行っている最中、「提供区域内に入った」として沖縄平和運動センターの山城博治議長と男性1人が拘束され基地内に連行された。山城さんは抗議活動のリーダー的存在の人で、その弁舌は鋭く迫力がある。2人は米軍側から名護署に引き渡され、名護署の前には不当逮捕に抗議する市民や議員500人が集まった。接見した金高望弁護士は「米軍主導で、混乱のない現場でのリーダーを狙い撃ちした逮捕。集会のタイミングを明らかに狙い運動の萎縮を狙っており、極めて不当な行為だ」と指摘している。2人は今日の午後、名護署から那覇地検に身柄を送致されていたが、午後7時40分過ぎに釈放された。

 日本最西端の島、与那国島で陸上自衛隊配備の賛否を問う住民投票があり、即日開票の結果、賛成が632票で反対の445票を上回った

ひな人形
 春一番が吹いた昨日、両親が仕舞ってあったおひな様を飾った。ひな壇は出さずに、座敷のテーブルに赤い布を敷いて並べてある。おひな様とは関係ない、父親がボーリング大会の商品で貰って来たらしい人形も一緒に飾ってあるのはご愛嬌です。

2月21日(土)

 富山・フォルツァ総曲輪での「二つ目の窓」の上映が昨日で終わり、写真の展示も終了しました。ご来場いただいた方々、ありがとうございました。今日から上映のプログラムが変わるので、昨日のうちに展示していた写真を撤収して来ました。
  昨日の「2つ目の窓」の上映終了は19時過ぎでしたが、気になる映画があったので早めにフォルツァへ。14時45分から上映の「リスボンに誘われて」と言う映画で、これを観て次の「二つ目の窓」の上映も終わってからフロアの壁に展示していた写真を片付けた。

 リスボンに行ったのは1986年の6月だった。アフリカのモロッコを少し周ってからスペインの南部、アンダルシアに戻り、セビリアから列車で向かった。セビリアから、まずはカセレスへ。カセレスに6月4日の夜に着いて、ポルトガル行きに乗り換えるのだが、列車の発車時刻は早朝の4時50分。切符の窓口は3時半まで開かなかったので、広いカセレスの待合所で一人ポツンと待っていた。
 リスボンでの宿は、1000エスクード(1000円弱)のペンションだった。広い部屋にセミダブルのベッド。洗面所の隣にはビデも付いていた。
  リスボンの露天で、アメリカンチェリーを買った。新聞紙に包んで1キロ、120エスクード。食べても食べても減らなかった。サンジョルジェ城では、小学生くらいの子供たちにタバコをねだられた。スペイン・ポルトガルではよくあることだったが、その中の一人はハシシのような物を紙に巻いて吸っていた。
リスボン
 リスボンに4泊して、シントラ、オビドスと旅を続けた。
 映画の中に、当時旅したリスボンの面影を探した。狭い坂道を走る電車。度々背景に出て来る橋は、リスボンでカーネーション革命が起こった日が名前に付けられた、4月25日橋だろうか。
←1986年のリスボン。こちらにポルトガルを旅した記録が少しあります。
 今日も近所にある運動施設の2階をウォーキング。170メートルを26周した。一旦家に戻り、お酒を買いに行きがてらサイクリング。雲が多いながらも、最近では少し暖かい日。近所で猫が戯れているのを発見。もう直ぐ春だな〜と見ていたら、両方とも雄猫で激しい喧嘩になっていった。
猫の喧嘩
 ディスカウントストアーでウイスキーを買ってから、小矢部川の堤防へ寄り道。今日も、白く輝く立山連峰を少し撮影して帰る。
立山連峰

 沖縄の北部、東村高江にあるヘリパッド(ヘリコプター着陸帯)建設反対派住民の拠点であるテント村が、無断で撤去された。米軍・国・県は関与を否定

 共産党の志位委員長に「テロ政党」とヤジが飛ぶ安倍首相、国会で「日教組!日教組どうするんだ」と民主党議員にヤジ前原元外相ブチ切れ「反省をすべきだよ!」
 どんどん恥ずかしい国になって行く。

2月19日(木)

 いい そーぐゎち でーびる。今日は旧暦の元旦。富山は朝から雨ですが、沖縄は晴れたようですね。
 昨年の旧正月は、とぅしぬゆる(大晦日)から正月4日目の朝まで久高島に滞在した。下の写真は、元旦の外間殿で2人ずつ健康祈願のシャクトゥイ(盃事)を行なった後、殿の庭でカチャーシーを踊っているところ。時に神人も殿から飛び出して、こうして一緒にカチャーシーを踊る。
久高島の旧正月
 一昨年の旧正月は、粟国島で行なわれる伝統行事のマースヤーを見に行った。大晦日の夕方から元旦の未明にかけて行なわれるマースヤーは、塩売りが家を訪れて玄関や縁側で口上を述べる。用意された盆に塩を並べ終わると、子供や青年たちの歌と踊りが始まる。一軒はおよそ10分ほどで、それを繰り返して集落の家々をまわる。小さな女の子たちも日付が変わる頃まで、庭先や玄関先で踊りを披露して歩く。
 昨日の沖縄タイムス+に「神様になって厄払い 宮古島で伝統行事サティパロウ」という記事が載っていた。サティパロウは来訪神であるパーントゥの仮面を被った男の子を中心に、草の装束を身につけた女性たちが集落を祓って歩く祭祀だ。大晦日の行事ではないが、たまたま開催日である旧暦12月の最後の丑の日と大晦日が重なった。
 沖縄はこれから旧二十日正月のジュリ馬祭りまで、旧正月の行事が続く。久高島は、明日がハチウクシー、(初起こし)だ。
↓粟国島のマースヤー。→宮古島・野原のサティパロウ。
宮古島・野原のサティパロウ
粟国島のマースヤー

 ところで、旧暦の2023年問題と言うのがあるそうだ。記事の中では、旧暦が作れないと、旧暦に基づく仏滅、友引など「六曜」も定まらない。「大安がいつか分からなければ、多くのカップルが挙式日を決められなくなるから」婚礼業界が解決に動くだろうと書かれている。
 神人が、旧暦で催される行事や祭祀を司る沖縄。本島のヌルや久米島の君南風(チンベー)、宮古・八重山の神司が一同に会して協議するという方がロマンがあるように思うけれど。

 Wikipediaの八月踊りを見ていたら、「嫩芽(どんが)の前に子供らは木と藁で小屋を作り、それぞれ田の神に白酒を捧げる。 これを「しちやがま」(節小屋)という。 祭りでは屋根の上に登り、白酒を口に含み、3回吹き出して、祓いをする。祭りが終わると、屋根の上に登って揺り崩す。 さらに八月十五夜は盛装して会食し、月の出を待って手踊り、相撲、綱引きなどをして、夜明かしをして、翌朝、帰宅する」と書かれていた。
 しちやがま=ショチョガマの事だろう。今まで奄美大島・龍郷町の秋名集落で行われているショチョガマの語源は考えた事もなかったが、節(しち)と知って納得がいった。節は節目であり、アラセツ(新節)とはその年の収穫を終え次の年に供えると言う意味がある。ショチョガマは、旧暦の八月の最初の丙の日であるアラセツに行われる。

 西表島の節祭(シチ)は、農作業上の年度変わり、正月儀礼の祭りで、その年の豊作感謝と次の年の豊作祈願を目的に行われる。西表の節祭は毎年旧暦の10月前後の己亥(つちのとい)に開催される。秋名集落のショチョガマと月日は異なるが、節祭もショチョガマも祭りの本質は同じだと言う事だろうか。

2月17日(火)

 昨日の快晴とは打って変わって、今朝は雨。日中もず〜っと曇りのお天気だった。
昨日の立山連峰
 今日は東北で、2つの大きな地震があった。午前8時6分頃には三陸沖を震源とする地震があり、青森・岩手で震度4。午後1時46分頃には岩手県久慈市沖を震源とする地震があり、青森で震度5強を観測した。いずれも東日本大震災の余震だと言う。
 その東日本大震災を起こした東北沖のプレートが震災前の状態に回復していると、筑波大学が今月3日に発表したばかりだ。
昨日の飛行機雲

↑写真は、快晴だった昨日。上は小矢部川の堤防から撮影した、雪化粧の立山連峰。♪仰ぎ見る 立山連峰 朝空に 輝くところ 躍進の 理想かざして 高らかに 生産の歌♪「富山県民の歌」。学生時代に体育館で歌った記憶があるが、小学校、中学校、高校、どの時代だったろう。高らかに生産の歌、いかにも高度経済成長時代を思わせる歌ですね。音声はこちら

 昨年7月2日の座間味島と、座間味から那覇までのスナップをPhoto Albumにしました。こちら

座間味島

↑座間味島にて。朝起きると、キャンプ場の海岸に大きなサバニが到着していた。偶然にも6月26日に、日本最南端の島・波照間島の民宿で一緒になった人達が、波照間から座間味までこのサバニを漕いでやって来たのだった。ところで、今月15日の琉球新報に「サバニで平和願う 辺野古海上作業に抗議」という記事が載っている。いつもは名護で活動していると話していたので、2艇の内の一つはこの時のサバニではないだろうか。サバニとしては最大級のもので、糸満で造ってもらったそうだ。

 世界報道の自由度ランキング2015が発表され、日本は昨年から順位を落として61位。リテラの記事「官邸の圧力!?『報道ステーション』で安倍批判をした古賀茂明が番組を降ろされた!」は(安倍首相が人質事件の対応であれだけの下手を打っておきながら内閣支持率が下がらないどころか上昇しているのは、NHKを筆頭にテレビが政権にとって「不都合な真実」をほとんど伝えていないからだ。これは、再登板した安倍首相が前政権時代の教訓で早くから報道各社の幹部と会食を繰り返すなどして、メディアを手なずけることに成功したからだ。これで『報ステ』が安倍政権の軍門に下れば、日本のテレビ翼賛体制はますます強固になるだろう。『報ステ』にはなんとか踏ん張ってほしいと思うが、状況は絶望的といわざるをえない)と結んでいる。

2月15日(日)

シーナ&ロケッツ
シーナ

←↑1988年の16回 NEW YEAR ROCK FESTIVALにて撮影。

 突然の訃報でした

 1980年頃は渋谷にあったライヴハウス「屋根裏」で時々バイトをしていた。当時はシーナ&ロケッツ3DAYSもあって、前売りは1000円だった。折りたたみ式の小さな紙に印刷した、当時の屋根裏のスケジュール表をまだ持っている。80年6月の夜の部のスケジュールには

中山ラビ、三文役者、裸のラリーズ、シーナ&ロケッツ、QUIZ、クリエーション、アナーキー、ジューシーフルーツ、スターリン、P-Modelが出演している。昼の部には子供ばんどの名前もある。3月のスケジュールでは裸のラリーズの次の日にカシオペアだ。カシオペアの次の次の日には内田裕也さん、ウシャコダと続く。この辺は当時の屋根裏ならではのブッキングだろうし、昼の部と夜の部一日2回のライヴをやってたって改めて凄いな。
  12月にはダディ竹千代&おとぼけCat'sが7日間連続ライヴをやっている。前売りが1200円で、あらっ、シーナ&ロケッツより高いじゃないか。  
 80年の4月5日にRCサクセションは久保講堂でコンサートをやるが、それ以前は屋根裏にも出ていた。アレンビックmodelを持った銀次さんが、ギターを弾いていた。厨房のカウンターからお客さんにドリンクを出しているボクの横に、ステージの出番を待つ清志郎さんが立っていた。  
 暗黒大陸じゃがたらの名前が80年のスケジュール表にないが、彼らを見たのはもう少し後になってからだったか。  

屋根裏のスケジュール
 ボクの中でシーナ&ロケッツは、80年頃の渋谷屋根裏、浅草のNEW YEAR ROCK FESTIVALと共にある。あの頃を思うと、なんだか夢を見ているようだな。
 You Tubeから「ユー・メイ・ドリーム」「レモンティー」。

2月14日(土)

真夜中の雪景色
↑2月14日、午前3時。それにしても、よく降るな〜。

使用済みMOX127トン超=処理未定
◯東京電力福島第1原子力発電所事故に伴う出荷停止が続き、捕獲したイノシシの行き場がなく冷蔵庫に満杯
◯国費320億円を投入した凍土壁だが、原子力規制委員会の監視検討会は「凍土遮水壁は不要」との見解を示し汚染水対策は抜本的な見直し
 相変わらず問題が山積みの原発だが、原子力規制委員会は12日、関西電力高浜原発3、4号機について、新規制基準を満たすと認める「審査書」を正式決定した。審査書の決定は、昨年9月の川内原発に続く2例目だ。
  規制委が認めたのは新基準の安全審査をクリアした事であって、安全を保障したものではない。当然、地元からは不安の声が上がっており、毎日新聞の記事には「福島の事故原因が解明されないままの見切り発車」「放射能の除去技術が確立されてから再稼働してほしい」といった意見が載せられている。福島第1の廃炉作業どころか、その手前の汚染水対策も行き詰まっている中での原発の再稼働などあり得ないだろう。また、高浜原発のように福井に立地する原発で過酷事故が起こった場合、琵琶湖が汚染されることが充分に予想される。関西圏の水瓶である琵琶湖が汚染された場合、そこでの生活は可能なのだろうか。

 イスラム国(IS)のweb版機関誌「ダビク」の最新号が、一昨日公開された。その中でISは、日本からイスラム国の周辺国に対する非軍事分野での2億ドルの支援について「ISとの戦いに使われるのは明白だ。思慮が浅く、傲慢な判断だ。(支援表明前は)日本の標的としての優先順は低かったが、今や、あらゆる場所で標的になる」と述べている。あらゆる場面でテロが起こる可能性が高まったわけで、原発を再稼働する場合のリスクとしてテロが大きく浮上した。昨年10月の記事で三菱重工などが手掛けるトルコ原発、2023年稼働予定となっているが、こちらも不安はないのだろうか。

 「イスラム国」人質事件後、政権批判の自粛が社会に広がっているとして、フリージャーナリストや学者らが会見を開いた。また、NHKの籾井勝人会長が定例記者会見で戦後70年にあたり従軍慰安婦を番組で取り上げるかどうかについて、「正式に政府のスタンスがよくまだ見えない。慎重に考えなければ」などと話したことを受け、日本ジャーナリスト会議と市民団体の放送を語る会はNHKの経営委員会に対し、籾井会長の罷免を求めた。この人は一年前にも「政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない」と発言している。
  NHKは公共放送であり、いつから国営放送になったのだろう。「政治的公平」「対立する論点の多角的明確化」などの放送法第4条が求める放送を行なうために受信料を徴収しているのではなかったか。

 「命の危険にさらされた日本人を救えないような憲法なんて、もういらない」と書いて物議を醸している産經新聞に、今度は作家の曽野綾子氏が外国からの労働力補充について「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」とアパルトヘイト(人種隔離政策)擁護とも取れる政策の導入を主張したコラムを執筆した。このコラムに対してアフリカ日本協議会が抗議文を送っている。
 曽野綾子氏は、2013年から安倍政権の教育再生実行会議の委員を努めている。

 辺野古への新基地建設で、沖縄防衛局がフロートやブイを固定するため大浦湾に20トンのブロックを投入。このブロックで海底のサンゴが傷つけられている。これに対し翁長雄志知事は、沖縄防衛局に海上作業一時中止の要求を検討。名護市議会も海保、県警、防衛局に過剰警備への抗議と埋め立て作業中止を求める意見書を提出した。また、抗議船に海上保安官が強引に乗り込み、乗船していた市民6人のうち4人が海に投げ出された問題で、市民らは海上保安官を刑事告訴する方針を決めた。 
 安倍首相は12日の施政方針演説で「引き続き沖縄の方々の理解を得る努力を続けながら、名護市辺野古沖への移設を進めていく」と述べたが、残念ながら理解を得る努力をしているようには見えない。
 琉球民族独立総合学会は、1879年の琉球併合(「琉球処分」)当時、琉球は独立した主権国家だったとし「強制併合」は「国の代表者への強制」を禁じたウィーン条約法条約51条違反だと主張 し、日本政府に謝罪と「琉球の植民地支配の即時停止」を要求
 日本政府と沖縄の関係は拗れていくばかりだ。

 「花子とアン」ではスコット先生が歌い、「マッサン」ではエリーが歌うスコットランド民謡の「The Water Is Wide」。邦題は「悲しみの水辺」。

 この海は広過ぎて、私には渡れません
 飛んでいく翼もないのです
 二人を運ぶ船をください
 そうすれば、愛する人と漕いで行けるのに

 You Tubeにカーラ・ボノフが歌う「The Water Is Wide」があった。東京でのLIVEのようだ。カーラ・ボノフは、この「Wild Heart of the Young」と言うLPを一枚持っているだけだが、ジャケットの写真も含めて好きなアルバム。

→は、ブリンドルとして来日した時のもの。左下の女性がカーラ・ボノフ。1995年6月23日に撮影。やがて20年になるのか。

ブリンドル

2月12日(木)

 2012年の11月、竹富島の種子取祭を観に行った。2日間に渡って行なわれる奉納芸能では、古典舞踊や雑踊、狂言の他、棒踊りや腕棒など70以上の演目が奉納された。それらはシマの人と、祭りに駆けつけたシマを離れて暮らす郷友会の人達によって演じられる。
 国指定の重要無形民俗文化財である、加計呂麻島の諸鈍集落に伝わる諸鈍シバヤ。平家の落人・平 資盛が地元民を招いて上演したのが始まりと言われている。
 シバヤは芝居がなまったものとされ、旧暦の9月9日に資盛を奉った大屯神社で村人による踊りや芝居が奉納される。カビディラと呼ばれる紙のお面をかぶった演者が、カマ踊りや棒踊り、狂言、それに人形劇など多彩な芸を披露する。
 五穀豊穣と嶋中安穏を祈願して、与論島で年に3回行なわれる十五夜踊り。奄美群島に属していながら、地理的には沖縄北部に極めて近い事もあって、奉納舞踊は大和風の芸能を演じる一番組と琉球風の芸能を演じる二番組が交互に行なう。
 沖縄の那覇・辻町の旧暦二十日正月に奉納されるジュリ馬。ジュリとは、遊郭で働く女性のことで、辻の二十日正月はジュリとなった女性たちが、年に一度道ジュネー(練り歩き)で離れて暮らす家族とお互いの姿を確認しあったと言われている。
 拝みの後に奉納されるジュリ馬は、エイサーと同じく京の芸能集団である京太郎(チョンダラー)が伝えた芸だと言う。竹富島の庭の芸能で奉納される馬乗者(んーまぬーしゃ)や、泡瀬の京太郎もチョンダラーから伝わった芸だとされているので、その伝播の仕方も興味深い。
 大和、中国、琉球。南島の祭祀では、多様な文化の多彩な芸能が色とりどりの華を咲かせている。
 奄美・沖縄の島々で、祭りの際に奉納されている芸能をPhoto Albumにしました。こちら
フダチミを先頭にしたアンガー行列
↑フダチミを先頭に歩く、アンガー行列。フダチミは高貴な家の姫と、その家の娘と言われている。頭に笠を被り、その上から全身をすっぽり覆う黒い布で身を包み、手には扇子を持って静々と歩く。フダチミを初めて本で見た時に、この不思議な造形・佇まいに強く魅かれた。祖納集落の節祭にて。2013年10月1日。

以下は、キャプションです。

南島の芸能(2)

054 竹富島の種子取祭。奉納芸能初日の舞台芸能から、玻座間長者(ホンジャー)、種子取を寿ぐ。(2012年11月25日)
055 奉納芸能初日の舞台芸能から、竹富口説。(2012年11月25日)
056 奉納芸能初日の舞台芸能から、ベーク漫遊記。(2012年11月25日)
057 奉納芸能初日の舞台芸能から、村勝負。(2012年11月25日)
058 奉納芸能初日の舞台芸能から、松竹梅。(2012年11月25日)
059、060 奉納芸能初日の舞台芸能から、真栄節。(2012年11月25日)
061、062 奉納芸能初日の舞台芸能から。(2012年11月25日)
063 奉納芸能初日の舞台芸能から、組長刀(クミナギナタ)。(2012年11月25日)
064 奉納芸能初日の舞台芸能から、曽我の夜討ち。(2012年11月25日)
065、066 奉納芸能2日目の早朝、舞台で行なわれる仲筋村のシドゥリャニの奉納。シドゥリャニとは、千鳥の群れの意味。(2012年11月26日)
067、068 奉納芸能2日目の庭の芸能から、清めの棒術。(2012年11月26日)
069 奉納芸能2日目の庭の芸能から、太鼓。(2012年11月26日)
070 奉納芸能2日目の庭の芸能から、マミドー。(2012年11月26日)
071 奉納芸能2日目の庭の芸能から、マサカイ。(2012年11月26日)
072 奉納芸能2日目の庭の芸能から、ジッチュ。(2012年11月26日)
073 奉納芸能2日目の庭の芸能から、祝い種子取。(2012年11月26日)
074 奉納芸能2日目の庭の芸能から、腕棒(ウディボー)。(2012年11月26日)
075、076 奉納芸能2日目の庭の芸能から、馬乗者(ンーマヌシャ)。(2012年11月26日)
077 奉納芸能2日目の舞台芸能から、組踊・父子忠臣。(2012年11月26日)
078 奉納芸能2日目の舞台芸能から。(2012年11月26日)
079 奉納芸能2日目の舞台芸能から、スルックイ狂言。(2012年11月26日)
080 奉納芸能2日目の舞台芸能から、タコとり。(2012年11月26日)
081、082 奉納芸能2日目の舞台芸能から、古見ぬ浦節。(2012年11月26日)
083 奉納芸能2日目の舞台芸能から、サングルロ。(2012年11月26日)
084、085 奉納芸能2日目の舞台芸能から、鬼捕り。(2012年11月26日)
086、087、088 石垣島の四ヵ字の豊年祭2日目のムラプール。祭場となる真乙姥御嶽の庭では、各字や団体による踊りの奉納が行なわれる。(2013年7月27日)
089 黒島の豊年祭。祭場となる浜で、笠踊りの奉納。(2013年7月28日)
090 黒島の豊年祭独特の演目、ハディクマイ。(2013年7月28日)
091 鍬踊り。黒島の豊年祭。(2013年7月28日)
092 棒術の入場。黒島の豊年祭。(2013年7月28日)
093 西表島・祖納集落の節祭(シチ)。祭場となる前泊浜での奉納舞踊で、ヤフヌティ。(2013年10月1日)
094 全身黒ずくめのフダチミを先頭にした、アンガー行列。祖納集落の節祭。(2013年10月1日)
095 フダチミ。祖納集落の節祭。(2013年10月1日)
096 男子棒芸。祖納集落の節祭。(2013年10月1日)
097、098、099 舟元の御座での、奉納舞踊。祖納集落の節祭。(2013年10月1日)
100 西表島・干立集落の節祭。元屋(トゥリムトゥ)の一軒、カイレ家での奉納舞踊。(2013年10月1日)
101 旧暦8月15日に行なわれる、奄美大島・瀬戸内町油井集落の豊年祭。奉納される「油井の豊年踊り」は、綱きりから始まる。稲刈り、稲摺り、米つき等の農作業が芸能化されている。(2010年9月22日)
102 綱きりの途中に、シシが登場する。綱は2回切られ、2回結ばれ、3回切られて土俵に運ばれる。切ることと結ぶことは、死と再生を意味していると言う。瀬戸内町油井。(2010年9月22日)
103 土俵祓い。瀬戸内町油井。(2010年9月22日)
104 稲刈り。瀬戸内町油井。(2010年9月22日)
105 稲摺り。瀬戸内町油井。(2010年9月22日)
106 観音翁の土俵見舞い。瀬戸内町油井。(2010年9月22日)
107 ガットドン。瀬戸内町油井。(2010年9月22日)
108 源平の戦いに敗れて落ちのびて来た平 資盛(1158~1185年)が地元民に教えたのが始まりとされる、加計呂麻島・諸鈍集落の諸鈍シバヤ。旧暦の9月9日に行なわれる。写真は、山高帽をかぶった翁が、口上を述べるサンバト。(2010年10月16日)
109 ダットドンは、座頭が川を渡るのを面白く仕立てた寸劇。油井豊年踊りのガットドンと同じか。加計呂麻島・諸鈍。(2010年10月16日)
110 スクテングァ。両端に房の付いた棒を持って、2人ずつ対になって行なう棒踊り。加計呂麻島・諸鈍。(2010年10月16日)
111 シシキリ。美女が踊っているところにシシが現れる。そこへ猟師が登場してシシ退治をする。油井豊年踊りにも、「玉露カナ」と言う似た演目がある。加計呂麻島・諸鈍。(2010年10月16日)
112 カマ踊り。加計呂麻島・諸鈍。(2010年10月16日)
113 屏風を使った、短い人形劇のタマティユ(玉露)。加計呂麻島・諸鈍。(2010年10月16日)
114、115、116 最後の演目となるタカキ山。加計呂麻島・諸鈍。(2010年10月16日)
117 沖縄・那覇の辻で行なわれる、旧二十日正月のジュリ馬奉納。(2013年3月1日)
118 沖縄・那覇の辻で行なわれる、旧二十日正月のジュリ馬行列。(2014年2月19日)
119 与論島の十五夜踊り。依代(よりしろ)となる大旗を持って会場に入る、二番組。(2013年4月24日)
120 一番組と二番組が共演する、雨乞いの舞・雨賜り(あみたぼうり)。会場は地主神社・琴平神社の下にある広場。与論島。(2013年4月24日)。
121 二番組の扇踊り、一度いふて(いちどいうて)。与論島。(2013年4月24日)
122、123 一番組の、三者囃子(さんばすう)。与論島。(2013年4月24日)
124 二番組の扇踊り、この庭(このにわ)。与論島。(2013年4月24日)
125 一番組の、頼朝公(よりともこう)。与論島。(2013年4月24日)
126 演目が終わり、会場を後にする一番組。与論島。(2013年4月24日)

2月9日(月)

 沖縄に住んでいた2年間によく本を借りに行った沖縄県立図書館で、「玉城朝薫と組踊」と題した大城 学(琉球大学法学部教授)氏の講座があって聴講した。その時に、自分なりに理解してまとめたのが以下の文章。

 嘗て琉球王国では、国王の代替わりがあるごとに中国から冊封使が訪れて冊封儀礼が行われた。
 冊封使は新国王に授ける王冠を携えて来ることから、彼らの乗る船は冠船(かんせん)と呼ばれた。この冠船の渡来は1404年から1866年まであり、その間に行なわれた冊封は23回。中国から一度に500人ほどが渡来したが、船は南からの風で琉球に、北の風で中国に帰るため風が吹くまで待たねばならず、滞在期間は4カ月から8カ月に及んだと言う。
 冊封使が渡来すると琉球王府は前国王の弔いの儀式である諭祭之宴、新国王の認証儀式である冊封之宴の他、仲秋之宴、重陽之宴、餞別之宴、 拝辞之宴、望舟之宴といった7つの宴を催した。
 宴では音楽、舞踊、演劇で冊封使をもてなした。これらの芸能を総称して冠船踊、或いは御冠船踊という。王府は芸能を催すために踊奉行を設けたが、1718年に尚敬王から踊奉行に任命された玉城朝薫が組踊を創作。1719年の尚敬王の冊封の時に、組踊の初演を行った。

 この冠船踊の中の舞踊を、宮廷舞踊や古典舞踊と呼んでいるが、それは更に老人踊、若衆踊、二才踊、女踊に分けられる。また古典舞踊に対して、明治20年代以降に創られた舞踊を雑踊と言う。
 冊封使をもてなす目的として、音楽も発展した。御座楽(うざがく、おざがく)と呼ばれる琉球王国の室内楽だ。当時の琉球王国には中国から帰化した人々の子孫、久米三十六性と呼ばれる人々が住む久米村があった。彼らは国王の命令を受けて中国(主に福建)に留学し、中国語や音楽等の中国文化を学んだ。御座楽を伝承した楽師も、久米三十六性の人が多かったようだ。御座楽は現在、首里城公園のイベント「新春の宴」で鑑賞することができる。
 また、室内楽である御座楽に対して、国王の行列が行進する際に演奏される路次楽(るじがく)がある。首里・赤田の祭祀、みるくウンケーでは、みるくの道ジュネーに子供たちの奏でる路次楽が登場する。
 沖縄の祭祀では、祭りの場で生まれた民俗芸能や古典芸能などを奉納する。奉納舞踊の初めは「かぎやで風」や「長者の大主」といった祝儀舞踊である老人踊が踊られる。そして黒い袷に白い鉢巻きをした若い男性による「上り口説」「下り口説」「前の浜」といった二才踊、鮮やかな紅型の衣装を羽織った華やかな「かせかけ」「貫花」といった女踊、庶民的で軽やかな「谷茶前」「鳩間節」といった雑踊も奉納舞踊の演目として登場する。
 宮廷舞踊や音楽を中心に、Photo Albumにしました。こちら

新春の宴
↑首里城祭の「新春の宴」にて。御座楽の演奏とともに国王と王妃が出後する場面。2013年1月1日。

以下は、キャプションです。

南島の芸能(1)

001、002 首里城公園で元旦に開催されるイベント「新春の宴」。御開門(うけーじょー)の後、正殿の基壇上にて御座楽(うざがく)の演奏が行なわれる。(2013年1月1日)
003 御座楽の演奏の後、琉球王国時代に行なわれていた正月儀式「朝拝御規式」(ちょうはいおきしき)が催され、その後、御座楽の演奏とともに国王と王妃が出後する。(2013年1月1日)
004、005,006 首里城正殿の御庭で再現された冊封儀式には、御座楽の楽師と思われる人々も並ぶ。(2012年10月27日)
007、008、009 琉球王国時代に行なわれていた「三ヶ寺参詣行幸」を再現した首里城祭の古式行列には、路次楽と思われる楽師たちも国王・王妃の後ろを行進して歩く。(2012年10月27日)
010、011、012 首里城公園の御庭で開催された、中秋の宴から。かぎやで風。(2013年9月21)
013、014,015 首里城公園の御庭で開催された、中秋の宴から。組踊「執心鐘入(しゅうしんかにいり)」(2013年9月21)
016 尚円王こと金丸が生誕した、伊是名島の玉御殿で行なわれる公事清明祭。御願の後に催された直会での奉納舞踊。初めに首里王府路次楽・御座楽保存会による演奏があり、これは室内だが路次楽だろうか。(2013年4月3日)
017、018,019 首里王府路次楽・御座楽保存会による、御座楽の演奏。伊是名島の公事清明祭。(2013年4月3日)
020 伊是名島の公事清明祭。奉納舞踊の四つ竹。(2013年4月3日)
021 伊是名島の公事清明祭。奉納舞踊の上い口説。(2013年4月3日)
022 伊是名島の公事清明祭。奉納舞踊の谷茶前。(2013年4月3日)
023 伊是名島の公事清明祭。奉納舞踊の日傘踊り。(2013年4月3日)
024 伊是名島の公事清明祭。奉納舞踊の加那よー天川。(2013年4月3日)
025 首里・赤田のみるくウンケー。みるく神の後ろから演奏しながら道ジュネーする路次楽。(2012年8月19日)
026 道ジュネーの途中、首里城の継世門で演奏をする路次楽。(2012年8月19日)
027 道ジュネーを終えて、祭場である赤田クラブに戻る路次楽。赤田クラブは現在地域の公民館として使われているが、元々は琉球王朝時代の高級女神官の一人、首里大阿母志良礼の住居(殿内)だった所。
028、029 首里城祭での伝統芸能の宴。首里城公園の下之御庭にて、琉球舞踊の若衆特牛節。(2012年10月26日)
030、031 本貫花。首里城祭での伝統芸能の宴。(2012年10月26日)
032 花風。首里城祭での伝統芸能の宴。(2012年10月26日)
033 かせかけ。首里城祭での伝統芸能の宴。(2012年10月27日)
034 谷茶前。首里城祭での伝統芸能の宴。(2012年10月27日)
035 南之島(フェーヌシマ)。首里城祭での伝統芸能の宴。(2012年10月27日)
036、037 四つ竹。首里城祭での伝統芸能の宴。(2012年10月27日) 
038 仲里節。首里城祭での伝統芸能の宴。(2012年10月27日)
039 国の重要無形民俗文化財、伊江島の村踊。伊江島にある8つの字(東江前・川平・東江上・西江上・阿良・西江前・真謝・西崎)が毎年輪番で踊りを発表する。2013年は、5巡目での川平地区担当だった。演目の最初は、かぎやで風。(2013年11月9日)
040 今日の誇らしゃ。伊江島の村踊。(2013年11月9日)
041 上り口説。伊江島の村踊。(2013年11月9日)
042 前の浜。伊江島の村踊。(2013年11月9日)
043 鳩間節。伊江島の村踊。(2013年11月9日)
044 あかきな。伊江島の村踊。(2013年11月9日)
045 むんじゅる。伊江島の村踊。(2013年11月9日)
046 沖縄・那覇、波上宮の例大祭(なんみん祭)での琉球舞踊奉納。瓦屋節。(2014年5月18日)
047 沖縄・那覇、波上宮の例大祭(なんみん祭)での琉球舞踊奉納。前の浜。(2014年5月18日)
048、049 粟国島の旧正月2日目のフナウクシ(船起こし)。町営フェリーでの祝宴。(2013年2月11日)
050、051 粟国島の旧正月3日目のハチウクシ(初起こし)。朝、小高い丘にある拝所・チカノーで、各組の男たちによる御前風が踊られる。(2013年2月12日)
052、053 チカノーのある丘を下りた男たちは、集落の辻で踊りを披露しながら観音堂へ向かう。(2013年2月12日)

 今月から家の近所にある運動施設の2階、アリーナの周囲を運動不足解消のために両親と3人で歩いている。1周170メートルをグルグルと回遊魚のように。
Uホール
  今日は22周、3.7キロほど歩いた。腰を痛めていて、最初は1キロ歩くのも大変そうだった母親も、ちょっと休憩をいれて16周、2.7キロも歩けるようになった。
 田舎の人は歩かないというが、移動の基本が車なので、意識して歩くようにしないと機会がない。
 ホントは、家から施設まで500メートルほどの距離を車で来ているのも、ウォーキングにすればいいんだけれど。
今日の雪景色
今シーズン最強の寒波が到来。昨晩からの雪で、また一面真っ白に。雪が止んで少し日差しが出て、視界が明るくなった時に撮影。

2月7日(土)

 今日から、奄美大島を舞台にした河瀬直美監督の最新作「2つ目の窓」の、富山・フォルツァ総曲輪での上映に合わせて企画した写真展が始まった。

 昨日の昼過ぎに会場となるフォルツァ総曲輪に行き、写真展の設営をして来た。最初は額に入れて展示しようと思っていたのだけれど、先月下見に行ったら壁紙の下は全面コンクリートでピンが刺さらないし、吸盤付きのフックで額を吊るそうと思ったら吸盤も壁につかなかった。しょうがないので、プリント用紙の裏に両面テープをつけて壁に直貼りした。お陰で少し湾曲した壁面や、円柱にも貼る事ができた。 
 今回の写真展は、A4のプリント用紙を82枚展示。 その写真に一枚ずつキャプションを印刷したカードをつけたので、164枚分の両面テープをカットして用紙の裏に付け、壁に並べて貼っていったので設営が終わったのは21時頃だった。 
 ついつい色んな奄美を見せたくて写真点数が多くなってしまったが、設営を終えて眺めてみると枚数を絞って大きな用紙にプリントした方が良かったか?と思う。

フォルツァの展示風景01
フォルツァの展示風景02
◯木原盛夫 写真展「AMAMI 神々の杜 海の民」

2月7日(土)〜2月20日(金)*2月8日は12:20〜14:30の回終了後、「映画を話そう!」と題したイベントがあり、プロジェクターで写真を見ながら奄美の事を少しお話しする予定です。
フォルツァ総曲輪 4Fシネマホール・ライブホールのロビーにて。
富山市総曲輪3−3−16

 昨年末に、雑誌「宝島」が「宝島AGES」として復刊したが、「スタジオ・ボイス」も4月にリニューアル復刊するようだ。「スタジオ・ボイス」は初期の”男騒ぎのする、唯一のインタビュー雑誌”と銘打ったインタビュー中心の誌面作りの頃が好きだった。今でも何十冊か本棚に並んでいる。
 80年代、熱心に読んでいた「宝島」「スタジオ・ボイス」が相次いで復刊、残るは「ビックリハウス」?

スタジオVOIVE
↑80年代前半の「スタジオ・ボイス」。表紙は左から村上龍、タモリ、林真理子。タモリが表紙の1982年11月号には、猪瀬直樹氏のコラム、「ノンフィクションとは何か(最終回)」が掲載されている。この後、82年12月号から猪瀬氏の連載「日本凡人伝」が始まる。自分が20代だったと言う年齢的なものもあるのだろうが、80年代は雑誌が面白かった。

2月5日(木)

 昨日の未明、イスラム国に拘束されていたヨルダン人パイロットのムアーズ・カサースベ中尉を殺害したとする映像がインターネット上に公開された。これを受け、ヨルダン政府は、2005年にアンマンで起きたテロ事件の実行犯であるサジダ・リシャウィ死刑囚の死刑を執行した。なんだか泥沼の様相だ。

 この数日にチェックした記事を、備忘録として添付しておく。
人質殺害犯に法の裁き、自衛隊の邦人救出に意欲=安倍首相
接触も交渉も「なかった」・・・安倍政権が踏み入れた泥沼報復戦
後藤健二さん:世耕氏「外務省が計3回、渡航中止を要請」
「その罪を償わせる」・・・安倍首相が自ら声明に加筆していた
後藤健二さん 外務省が妻にしていた「総選挙12日前の口止め工作」
交渉を妨害し後藤さんを見殺し!イスラム国事件で安倍政権が犯した3つの罪
古賀茂明氏が語る「I am not Abe」発言の真意
判断ミス続けた安倍政権が「テロに屈しない」と息巻くリスク
「これから日本人に指一本触れさせない」首相が決意表明
集団的自衛権:「経済的被害でも行使」公明拒否の構え
外務省がテレ朝に訂正要請 首相の中東訪問報道
後藤健二さんの行動は「蛮勇」 高村正彦氏の発言に反発も
後藤健二の神話化と神格化の洪水となった日本のマスコミと世論
五つ星ホテル宿泊・・・中山外務副大臣が人質事件でやったこと

 後藤健二さんが殺害されたとする映像が公開されてから、上記のように様々な記事が書かれているが、一番衝撃的だったのは、安倍首相が国会の答弁で「残念ながら、われわれは、20日以前の段階では『イスラム国』という特定もできなかった」と答えたことだ。詳細な答弁の内容はこちらにある。
 湯川さん、後藤さんを殺害すると予告した映像がインターネットにアップされるまで、イスラム国が2人の拘束に関わっていたとは知らなかったと言う。そんな事があり得るのだろうか?
 野党から、イスラム国に日本人が拘束されているのに「エジプトのカイロで「ISIL(イスラム国)がもたらす脅威を少しでも食い止めるため」や「ISILと闘う周辺各国に支援を約束する」と言った不用意にイスラム国を挑発する演説をした責任を追求されるのを逃れるための、その場しのぎに思いついた言い訳に思える。もし本当に知らなかったのなら、それこそ問題で、国の最高責任者としての情報収集能力、分析能力の欠如だろう。

 安倍首相は一昨年、東京にオリンピックを招致するため世界に向かって「(福島は)私が安全を保証します。状況はコントロールされています。汚染水は福島第一原発の0.3平方キロメートルの港湾内に完全にブロックされている」と演説した。これも招致したいがための、その場しのぎの発言だろう。先月の衆議院予算委員会でようやく「福島第1原発事故について、収束という言葉を使う状況にない」と認めた。

 昨年7月1日、キャンプに行った座間味島でのスナップをPhoto Albumにしました。こちら
座間味島。ヤギの散歩
↑座間味島の阿真集落から展望台へと歩いていると、ヤギの散歩に遭遇。奄美や沖縄ではヤギは食用だが、この黒や茶色、まだら模様のヤギは外国種で乳を搾ってチーズを作るそうだ。↓展望台からの夕景。
座間味島。展望台からの夕景。

2月3日(火)

 アシビは、遊び(アソビ)。
 琉球弧の祭祀は、神様をお迎えする神事の後、祭場となる御嶽や神アサギに面した「ミャー」や「ナー」と呼ばれる神の庭で踊りや歌が奉納され、神々と共食する。
 祭祀の重要な部分は神に祈りを捧げる場面だが、祭祀の中心となるのは集落の人々が神と共に遊ぶ『神アシビ」だとも言える。
 多良間島の八月踊りは、古くは皆納祝いと呼ばれており、まだ人々が人頭税に苦しんでいた時代、神に人頭税を納め終えた喜びを報告するとともに、翌年の豊作を祈願したと言う。この祭りの行なわれる期間だけは、人々は日常を忘れて踊り歌い、そして普段は口に出来ないご馳走を楽しんだ。

「野遊・もうあしび」という古くからの風習もある。大勢連れだって三線や太鼓を持って野に出たり、浜辺に出て、円陣をつくって激しくうたい踊る。とりわけ月のよい夜などは、夜ふけまで、男女いりまじって歓楽した。ちょうど古代の歌垣そのままの、素朴なロマンティスムである。この自由な風俗に対して偽政者は、お目附役を置いて抑えようとしたり、しばしば禁止令を出したが、ごく近年までさかんだった。今でも行なわれている「三月遊び」はその名残りだという。
「沖縄文化論 忘れられた日本/岡本太郎」より。

 旧暦の3月3日。奄美ではサンガツサンチ(サンガツ節句)と呼ばれ、一年の無病息災を願ってハマオレ(浜下れ)を行なう。昔はみんな一重一瓶を持って浜に行き、貝採りをしたり唄を歌ったそうだ。
 琉球弧で脈々と受け継がれる、アシビと言うハレの時間と空間をPhoto Albumにしました。こちら

竹富島の種子取祭、奉納芸能初日。準備を終えて出番を待つ女の子
↑竹富島の種子取祭、奉納芸能の初日。支度を終え、舞台裏で少し緊張気味に出番を待つ女の子。

以下は、キャプションです。

琉球弧 神アシビ

01 女性の着物を身につけ、頭には風呂敷などを被った集団が、ヤーマワリ(家周り)をする奄美大島・大和村湯湾釜集落のムチムレ踊り。踊り手を迎える家の人達も、一緒に手を振り踊り出す。(2010年11月21日)
02 各家では料理とお酒、子供たち用にお菓子を準備して踊り手たちを迎える。湯湾釜。(2010年11月21日)
03 竹富島の種子取祭、奉納芸能の初日。世持御嶽の舞台を、大勢の観客が囲んでいる。(2012年11月25日)
04 出演者は島の人や、関係者ばかり。知り合いの演ずる狂言に、笑みがこぼれる。竹富島。(2012年11月25日)
05 舞台の裏が、控え室。様々な演目の衣装が紐に掛けられている。竹富島。(2012年11月25日)
06 メイクは、鏡を見ながら自分で。竹富島。(2012年11月25日)
07 難しいメイクの下地作りは、シマの大先輩におまかせ。竹富島。(2012年11月25日)
08、09 準備が終わり、少し緊張しながら出番を待つ女の子たち。竹富島。(2012年11月25日)
10 奉納芸の後に、家々をまわって行なわれるユークイ(世乞い)。参加者は頭に白の手ぬぐいを巻き、神司や公民館役員の方々と共に神歌を歌い舞う。(2012年11月25日)
11 ユークイで振る舞われる、タコとニンニク。各家によって切り方や味が異なる。(2012年11月25日)
12 種子取祭の奉納芸能2日目。舞台裏は出番を待つ出演者でごった返している。竹富島。(2012年11月26日)
13 あいにくの雨となったが、客席に入り切らない程の観客。竹富島。(2012年11月26日)
14 粟国島で旧暦の大晦日に行なわれるマースヤー。塩売りが家に入り玄関や縁側で口上を述べ、用意された盆に塩を並べ終わると歌と踊りが始まる。一軒はおよそ10分ほどで、それを繰り返して家をまわる。小さな女の子たちが、庭先で踊りを披露。(2013年2月9日)
15 巳年だからか、顔にヘビを描いてもらっている女の子。粟国島。(2013年2月9日)。
16 塩売りの口上と踊りは、日をまたいで夜中の2時半過ぎまで続いた。粟国島。(2013年2月9日)
17 紫のサージを頭に巻いてもらう女の子。沖縄・首里赤田のみるくウンケーにて。(2012年8月19日)
18 旧暦3月4日に行なわれる、沖縄・那覇市鏡水地区の伝統行事・三月あしび。女性たちは、家事や農作業から解放されて、歌や踊りを楽しむ。お菓子やゆで卵で作られるシンムイはお供え物だが、女性たちは御願の後、シンムイを頭に乗せて楽しそうに踊る。(2013年4月13日)
19、20 鏡水地区は旧日本海軍に接収されて小禄飛行場(元那覇那覇空港)となったため、現在民間住宅はない。地区の拝所であるミーヌシンは自衛隊基地の中にあり、許可をもらって入る。ミーヌシンでの御願の後、シンムイを頭に乗せて踊る女性たち。(2013年4月13日)
21 渡名喜島で2年に一度行なわれる神事・シマノーシ。海の彼方から渡名喜島の始原の神であるギレーミチャンを現在の神人が迎え、各殿をまわってシマを祓い清める。写真は、神酒で神人をもてなすウェーグゥニ殿の様子。(2013年6月8日)
22 殿に集まった方にミキと魚が振る舞われ、人々は神様としばし共食をする。(2013年6月8日)
23、24 竹富島の豊年祭2日目、トゥヌイプイ。神歌を歌いながらカミミチを歩く神司を、鉦と太鼓を打ち鳴らして氏子が迎える。最後は喜びを表現するガーリーで、司も氏子も両手両足を揚げて踊る。(2013年6月8日)
25 久高島の八月マティー。神事の終わった久高御殿庭で、歌と踊りが始まった。(2013年9月14日)
26 子供たちが帰った後、ゴザを寄せて輪を小さくして歌と踊りが続く。外灯と月明かりに照らされた神様の庭での遊びだ。久高島。(2013年9月14日)
27、28 三線と太鼓を鳴らしながら、子供たちが大きなガラスの容器を担いで家々をまわり、お神酒(泡盛)を集めカチャーシーを踊る。(2013年9月15日)
29 子供たちの奉納芸。後ろで神人が見守る。久高島。(2013年9月15日)
30 久高島・八月マティの最終日。漁港にシマの男性が集まり、コの字を書くように座り子供たちから接待を受ける。この神事は女性禁止で、神人も立ち入れない。(2013年9月16日)
31、32 大きなトレーに盛られたイカとマグロの刺身を2人で持ち、ビニール袋で掴んで大人たちの持つビニール袋に入れてまわる。(2013年9月16日)
33、34 西表島・祖納集落の節祭(シチ)のユークイ。祭場となる前泊浜の舟元では、一人一人にご馳走が配られる。(2013年10月1日)
35、36 料理とともにお神酒も振る舞われる。西表島・祖納。(2013年10月1日)
37 西表島・祖納の節祭3日目は、総まとめであるツヅミ。ツヅミに用意されたご馳走。(2013年10月2日) 
38 与那国島・祖納集落の嶋仲公民館が主催する、五穀豊穣を願うンマナガマチリでの祝宴。(2014年1月11日)
39 与那国島・祖納集落の西公民館が主催する、航海安全を祈願するンダンマチリ。ンダントゥニの建物の中で、来賓にウブダラ(大椀)、ナガダラ(中椀)というミチ(神酒)を振る舞う儀式が行われた。(2014年1月12日)
40、41、42 ンダンマチリのンダントゥニでの祝宴。与那国島・祖納。(2014年1月12日)
43 久高島の旧正月の元旦行事。外間殿で2人ずつ健康祈願のシャクトゥイ(盃事)を行なった後、殿の庭でカチャーシーを踊る。時に神人も殿から飛び出して、一緒にカチャーシーを踊る。(2014年1月31日)
44、45、46 外間殿の庭で行なわれた元旦の祝宴。久高島。(2014年1月31日)
47 久高島の旧正月3日目。この日も外間殿でシャクトゥイが行なわれた。神事の後の祝宴、殿に供えられていた魚やおにぎりが振る舞われた。(2014年2月2日)

 今日は節分。お昼は両親と3人でコタツに入って、太巻きを一本ずつ食べる。富山には恵方巻きの習慣はなかったので、食べ易いように包丁で切り、顔を見合わせテレビを観ながら食べた。豆は撒かずに、黒豆の甘く炊いたのを太巻きと一緒にいただいた。

2月1日(日)

 溶けかかった田んぼの雪が、昨日からの雪でまた真っ白に。朝、テレビを観に居間へ下りて行くと、最初に飛び込んで来たのは、後藤健二さん殺害のニュースだった。
今日の雪景色

 朝日新聞が、イスラム国人質事件の経緯をまとめている。
 以下は、事件後に気になった記事をピックアップしておいたもの。
◯古賀茂明氏「安倍さんのせいで、日本はアメリカやイギリスと同じような国だと思われつつある
安倍首相中東訪問 外務省は時期悪いと指摘も首相の反応は逆
イスラム国は日米が外交・安全保障政策の失敗が産んだモンスター~暴走を止めるためにやるべきことは?
後藤さん不明、昨年11月に把握 首相、答弁であかす
戦後70年談話 安倍首相、「侵略」「反省」の表現を改める考え
イスラム国人質事件で新聞各社が”安倍批判”自粛!?露骨な擁護記事も登場
邦人人質問題で再び集団的自衛権論議
首相のうっかり発言が致命傷に 安倍外交慢心と誤算

 イスラム国による後藤健二さん殺害を受けて、安倍首相は今朝の関係閣僚会議で「非道、卑劣極まりないテロ行為に強い怒りを覚える。許しがたい暴挙を断固非難する。テロリストたちを絶対に許さない。その罪を償わせるため、国際社会と連携していく。日本がテロに屈することは決してない。中東への食糧、医療などの人道支援をさらに拡大していく」と述べた。”絶対に許さない、その罪を償わせる”と攻撃的な言葉を投げかけているが、どのように償わせるのか。暴力の応酬は憎しみの連鎖しか生まないだろう。
 少し長い文章だが、「イスラム国による日本人人質事件 今私たちができること、考えるべきこと 伊藤和子」は今回の人質事件について考えるヒントがたくさんある。
 そもそもアメリカやイギリスのやっている事が正義なのだろうか。安倍首相が今回記者会見の場所に選んだイスラエルは、昨年の7月にガザへの攻撃を行なった。その事に対してスイス・ジュネーブの国連本部で国連人権理事会が開かれ、イスラエルの軍事作戦を非難する決議が賛成多数で採択された。内訳は賛成29カ国、反対1カ国、棄権17カ国となっており、反対したのはアメリカで、日本は棄権している。
 上記にピックアップしたイスラム国は日米が外交・安全保障政策の失敗が産んだモンスターの記事や中東の歴史を振り返れば、イスラム国をただ叩いても解決するとは思えない。中東の縺れた糸を丁寧に解いて行かない限り、紛争もテロもなくならないと思うのだが。

 日本政府よ。邪悪な有志連合を構成する愚かな同盟諸国のように、お前たちはまだ、我々がアラーの加護により、権威と力を持ったカリフ国家であることを理解していない。軍すべてがお前たちの血に飢えている。
  安倍(首相)よ、勝ち目のない戦争に参加するという無謀な決断によって、このナイフは健二だけを殺害するのではなく、お前の国民はどこにいたとしても、殺されることになる。日本にとっての悪夢を始めよう。
 
後藤健二さんが殺害されたとみられる映像の中で、流されたメッセージだ。
  2014年4月1日に武器輸出三原則に代わる防衛装備移転三原則を閣議決定、2014年12月に武器を輸出する日本企業向けの資金援助制度の創設を検討、そして2015年1月、日本の防衛関連企業から武器を購入した開発途上国などを対象とした援助制度の創設を検討。あっという間に、ここまで来た。
 なんとなくキナ臭いと感じながらも、多くの人は自分が生きているうちは大丈夫だろうと思っている。でも、潮目が変わると一気に事は進んで行くのかもしれない。先月の14日に、こんな風に書いたばかりだが、今回の人質事件が潮目とならないように注意深く見ていなくてはならないと思う。

 報道がイスラム国の人質事件一色になっている間にも、辺野古では新基地建設に向けての作業が強行されている。
 週刊プレイボーイの記事。「新基地建設強行で市民にケガ人続出!直視すべき日本の民主主義の実態 辺野古レポートPART1」「 あからさまな沖縄軽視に県民の怒り!民主主義を否定する安倍政権の実態 辺野古レポートPART2」。
 イスラム国に対して「許しがたい暴挙を断固非難する」と述べた安倍首相だが、許しがたい暴挙を行なっているのは貴方も同じです。

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