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5月31日(土)

 昨日、バイクに乗って放浪の旅に出た知人の投稿がfacebookに流れてきた。そういえば自分が奄美大島に向かって旅を始めたのが15年前の昨日だった。そして5年前に、こんな文章を書いている。

 米5キロ6500円と現時点で日本で一番値段が高騰しているのが沖縄の離島、西表島だという記事が目に止まった。確かに離島は物流コストがかかるのでモノによっては値段が高騰するが、たしか西表島は米を作っていたはず。不思議に思いながら記事を読み進むと、西表島では年間250トンほど米を生産しているが、島で作ったお米は島外に安く売りに出され、島外から高いお米が入ってきてそれを島民が食べているという。
 島内で米が流通しない仕組みを変えようと、島の中でも規模の大きい3つの米農家が協力し、来月から一期(西表島の稲作は二期作)の収穫あたり約15トン分の島内産の米を島内で販売することになったそうだが、これまでのおかしな仕組みはなぜ生まれたのだろうか。

西表島祖納集落にて
↑西表島祖納集落にて、2014年6月19日撮影。
 この他の気になった記事を備忘録として。
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クライヴ・グレッグソン

◯クライヴ・グレッグソン

 クライヴ・グレッグソン(本名はクライヴ・ジェームズ・グレッグソン。グレッグスンの表記もある)は、イギリスのシンガー・ソングライター。
 彼を撮影したのはイギリスのフォークの重鎮が相次いで来日した1995年、1996年の翌年、1997年3月だった。87年1月にリチャード・トンプスン・バンドのメンバーとして初来日し、91年9月にはグレッグソン&コリスターで来日公演を行っているが、ソロとしては初めての来日だった。この時は主にプロモーションのためだったが、音楽評論家でミュージシャンでもある和久井光司さんらの働きかけで、原宿クロコダイルでライヴも行ったようだ。残念ながらそのライヴは撮影していないが、『レコード・コレクターズ』1997年7月号の和久井光司さんによる「短期インタヴュー連載 英国音楽の源流としてのフォーク その1クライヴ・グレックスン」という記事に使用するポートレートを撮影した。
 クライヴは1955年1月4日、イングランドの北西部にあるマンチェスターに生まれた。その生まれ故郷について、

「マンチェスターの連中には独特なクセがあるよ。歴史のある古い街だし、英国においては”第三の都市”といわれる大きな街だ。ミュージック・シーンもずーっと充実してて、60年代にはホリーズがいたしーーーまあ、あれがマンチェスターが輩出した最高のバンドだと思うけどーーー70年代にはバズコックス、マガジン、ジョイ・ディヴィジョンが出てきて、80年代にはスミス、ハッピー・マンデイズ、ストーン・ロージズでしょ。で、いまはオアシスだ。だけど、街自体はかなり憂鬱な感じだよ。雨が多くて、暗ーいの(笑)。いわゆるワーキング・クラスの街。ユーモアのセンスも豊かなんだけど、どっちかっていうとダークなユーモアで、視線がすごくシニカルなんだ。でも、それはあの街の現実を映し出したものでもあるんだよ、実際暮らし向きはかなり厳しいし。救いはサッカーとロックとビールだけ(笑)」と話している。
 クライヴは1975年ごろに大学の友人とバンド、エニー・トラブルを結成し。80年にスティッフからデビューするが、84年に解散してしまう。その後、マン島出身の女性シンガー、クリスティン・コリスターとフォーク・デュオ、グレッグソン&コリスターを結成。85年から92年にかけて5枚のアルバムをリリースしている。このデュオの解散については、
「『ラスト・ワード』を作った段階で、これで終わりだってことは判ってたんだ。一番の理由はクリスがソロに転向したがっていたから・・・。グループの場合、ベーシストが抜けたら次のベーシストを入れれば何とかなるけど、デュオでやっててその半分がいなくなったらどうしようもないよね」
 そして、1993年にアメリカへ移住する。
「結婚した相手がアメリカ人だったんだ。転勤でイギリスに来てた彼女と出会って、結婚しようってことになったとき、彼女が務めてる会社が彼女をアメリカに戻したわけ。どうしようか考えたんだけど、<まあいいや>ってついて行った。それでアメリカに渡って、8ヶ月ミネアポリスに住んでたんだけど、その後また彼女の転勤でナッシュヴィルへ」
 本人のホームページのバイオには2020年末をもってソロツアーから引退し、作曲とスタジオワークに専念することを決定しましたと書かれているが、wikiには2022年、長年の友人であるギタリスト兼シンガーのニール・コッサー、ドラマーのポール・バージェス、ベーシスト兼シンガーのクレイグ・フレッチャー、キーボード奏者兼シンガーのジェス・スミスと共にマンチェスターを拠点とするバンド、ザ・ギルティ・メンを結成したとある。
 昨年5月、東京と金沢でソロの来日公演が予定されていたが、残念ながら本人の体調不良で中止になってしまった。

YouTubeから「Any Trouble - Second Choice」 「Christine Collister & Clive Gregson - I Specialise」 「The Guilty Men - Dangerous Girl

クライヴ・グレッグソン 公式ウェブサイト

バンダイ・ミュージックエンタテインメント 1997年3月18日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1997年7月号
インタヴュアーは和久井光司さん、通訳は染谷和美さん
#クライヴグレッグソン
#CliveGregson
#エニートラブル
#AnyTrouble
#アーカイブ

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ドノヴァン

◯ドノヴァン

 1946年5月10日生まれ、スコットランド出身のシンガーソングライター。1965年にシングル「キャッチ・ザ・ウィンド」でデビューし、ボブ・ディラン等と並んでフォーク・ロックの草創期から活動するアーティスト。
 ドノヴァンを撮影したのは1997年に来日した時で、wikiによると1970年、1973年にも来日しているのでこの時は3度目となる。『レコード・コレクターズ』の取材で、5月26日にホテル・オークラでインタヴュー撮影、5月27日に渋谷クラブクアトロでライヴを撮影している。それらの写真は和久井光司さんの「短期インタヴュー連載 英国音楽の源流としてのフォーク その2ドノヴァン」に掲載されている。
 ドノヴァンは前年に新曲によるアルバムとしては12年ぶりとなる『スートラ~教典』を発表しているが、『レコード・コレクターズ』という雑誌の性質上、交友関係やかつての英国の音楽状況を振り返る内容になっている。例えば、ボブ・ディランについては、

「最初に来た時のディランはアメリカ人からもイギリス人からもあまりシリアスに受け止めてもらえなかったね。マーティン・カーシーとは親交を持って、曲を教わったりしてたけど・・・。なぜ受け入れられなかったかって言うと、彼はカウボーイでも、フォークやブルースのシンガーでもなかったからだ。その頃はみんな馬に目隠しをするみたいにひとつの目標に向かって突き進んでいたわけだから、いろんな音楽を全部かじってるようなディランは明らかに異端だった。彼が本当はリトル・リチャードになりたがってたとは誰も気づかなかったし(笑)。僕はニューポート・フォーク・フェスティバルでディランが初めてエレキを持ったのを観てるけど、その時の人々の反応は本当に賛否両論だったね。僕自身はカテゴリーみたいなものってどんどん壊していかなきゃならないと思ってる。ただ、英国フォークのピュアな部分だけは守らなければならないと感じてたけどね」と話している。
 また、バート・ヤンシュやジョン・レンボーンにも影響を与えたと言われるギタリスト、デイヴィ・グレアムについても語っており、
「僕はデイヴィに2回ぐらい会ったことがあるけど、<アンジー>は他の人の演奏で知ってた。あれは学ぶところの多い曲だったね。ブルースの曲なんかも、もちろん彼はプレイしてたけど、やっぱり<アンジー>からみんなが教わったことは絶大だった。トラディショナルなチューンをいかに新しく変えていくかって意味ではあれは最高の成功例だろう。コード進行は<朝日のあたる家>が元になってるけど、デイヴィはテンポをあげてグルーヴを出し、自分の”オリジナル”にしてしまった。それをまた次の段階に持って行ったのがバート・ヤンシュだろうね」と話していた。
 このインタヴュー記事ではビートルズについても話しているが、その文章は2021年にレコード・コレクターズ増刊として発売された和久井光司さん責任編集の『ジョージ・ハリスン スワンプ・ロック時代』に加筆されて掲載されている。
 ちなみにドノヴァンとトノヴァン(加藤和彦)を仕事で撮影したことがある、というのが自分のささやかな自慢(笑)。

YouTubeから「Sunshine Superman - Donovan {Stereo} 1966」 「Donovan & Crystal Gayle - Catch The Wind」 「Donovan - I Am The Shaman

ドノヴァン 公式ウェブサイト

ホテル・オークラ 1997年5月26日ポートレート撮影
渋谷クラブクアトロ 1997年5月27日ライヴ撮影
初出『レコード・コレクターズ』1997年8月号
インタヴュアーは和久井光司さん 通訳は丸山京子さん
『ジョージ・ハリスン スワンプ・ロック時代』(ミュージック・マガジン)
責任編集・和久井光司
#ドノヴァン
#Donovan
#ドノヴァンフィリップスレイッチ
#DonovanPhilipsLeitch
#アーカイブ

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5月29日(木)

 一昨日、写真家の酒井透さんが今月24日に亡くなったという情報がfacebookに流れてきた。虚血性心疾患だそうで、当日まで普通だったという。65歳、同い年だった。そういえば、5年前に写真家の水谷充さんも虚血性心不全で亡くなっている。水谷さんも同い年で当時60歳だった。亡くなる前日もfacebookを更新していたので驚いた。気をつけなくてはいけない年齢になったのだろう。

 気になった記事を備忘録として。
「知らない間に自民党員」驚きの“肩代わり”疑惑!157人のリストで新たな “火種” 浮かび上がる…自民党氷見市支部 富山
【追悼】[2015.8]セバスチャン・サルガド 〜地球へのラブレター
ロシアがウクライナに最大規模の攻撃 捕虜交換完了も停戦交渉に影

Manami

◯Manami

 郷に入れば郷に従えで、奄美大島に住んでいた時は外で飲んだりお中元やお歳暮でいただいたビールを別にすれば、黒糖焼酎しか買わなかったし呑まなかった。
 沖縄では基本的に泡盛を呑んでいたが、地元のオリオンビールも安かったので八重山や宮古などへ出かけた時にコンビニや酒屋で買って飲むことがあった。
 沖縄に住み始めた2012年の夏、テレビでよく流れていたのがManamiの歌うオリオンビール、サザンスターのCMソング「ファンファーレ」だった。
 彼女はアメリカのプロデューサー、ファレル・ウィリアムスが主宰したアジアの歌姫を発掘するオーディションでグランプリを受賞。2009年にファレルのプロデュースで配信デビュー。翌2010年にはトイズファクトリーからCDデビューしている。そして2010年から2016年まで彼女の曲がサザンスターのCMソングに採用され、彼女自身もCMに出演していた。
 ダンサーを従えて沖縄の海をバックに、ポップな歌とダンスが繰り広げられるサザンスターのCM。自分が普段聴く音楽ではないが、彼女の歌を聴くと沖縄の夏を思い出す。

 2016年のサザンスターのCM曲「踊れティーダ」のMVでは一時パワースポットとして話題になり、その後閉鎖されてしまった備瀬のワルミバンタがロケ地として登場する。
 それにしても、沖縄だけではなく、もう少し全国的に認知度が上がってもいいシンガーだと思うけれど。
 写真は2013年の5月、那覇新港で開催された那覇ハーリーでのライヴ。彼女の楽曲の作曲家であり実弟でもある中村泰輔とのステージだった。この頃は東京を拠点に活動していたが、その後、沖縄に拠点を移した。今は結婚してLAに住まわれているようだ。

YouTubeから「ファンファーレ」 「ベストフレンド」 「踊れティーダ

Manami Instagram

那覇新港・那覇ハーリー会場メインステージ 2013年5月4日撮影
#Manami
#中村泰輔
#DaisukeNakamura
#アーカイブ

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ディアマンテス

◯ディアマンテス

 スペイン語でダイヤモンドを意味するバンド名を冠し、<オキナワ・ラティーナ>を標榜するラテン・バンド。
 現在のメンバーはペルー・リマ出身の日系ペルー人・アルベルト城間(アコースティック・ギター、ボーカル、パーカッション)と、沖縄・浦添出身のトム仲宗根(ベース)の2人だが、川上肇(トランペット)、真栄里英樹(トロンボーン)、當間嗣篤(ドラム)、玉城チコ(パーカッション)、白川美奈(ピアノ、キーボード)らがサポートメンバーとして加わっている。
 彼らの公式ウェブサイトのプロフィールを引用すると、
<1991年結成、1993年に1stアルバム『OKINAWA LATINA/オキナワ・ラティーナ』でメジャーデビュー。「ガンバッテヤンド」「勝利の歌」「片手に三線を」など数々のヒット曲を生み、今尚沖縄を拠点に全国各地で精力的にライブを行い、【オキナワ・ラティーナ】という独自の音楽を発信し続けている。またその傍ら、楽曲提供や編曲・演奏などで多方面のアーティストと枠にとらわれないコラボレーションで活動の場も広げている>

 結成30周年となった2021年には、6年ぶりとなるアルバム『paso a paso』をリリースしている。
 ディアマンテス のライヴを撮影したのは、2013年の那覇ハーリーの会場だった。那覇新港ふ頭に設けられたオリオンビールの特設ステージで、5月3日は下地勇、パーシャクラブがライヴを行い、5月4日はManami、ディアマンテス という組み合わせだった。
 ディアマンテス はレコード・デビューする前の1992年、「ガンバッテヤンド」という曲がオリオンビールのCMソングに起用され大きな話題になったという。自分が沖縄に移住していた2013年、2014年はManamiと下地勇さんがオリオンビールのCMを歌い毎日のようにテレビから曲が流れていたが、ディアマンテスはオリオンビールのCMは歌っていなかったと思う。しかし、オリオンビールのお歳暮のCMに下地勇、Manamiらと一緒に出演していたようだ。
 このアーカイブを作成するまで知らなかったが、2011年1月、結成時からのメンバーで、ギターのTarboが演奏のため乗船していた大型クルーズ船「にっぽん丸」内で行方不明になり、転落したものとして海上保安庁などが捜索を行ったが現在も発見されていないという。

YouTubeから「勝利のうた/DIAMANTES」 「ORION BEER 2013お歳暮CM 30秒 CP」 「ガンバッテヤンド はいさいFESTA2010/DIAMANTES

ディアマンテス 公式ウェブサイト

那覇・新港ふ頭 2013年5月4日撮影
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#DIAMANTES
#アルベルト城間
#AlbertoShiroma
#トム仲宗根
#TomNakasone
#川上肇
#真栄里英樹
#當間嗣篤
#玉城チコ
#白川美奈

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5月27日(火)

◯ジョン・レンボーン

 ペンタングルやバート・ヤンシュとのデュオでも知られるイギリスのギタリストで作曲家。とは言え、1996年の来日で撮影するまでは名前も知らなかったのだが。この時はペンタングルのボーカル、ジャッキー・マクシーとのディオで来日し、オープニングアクトをウィズ・ジョーンズが務めた。
 『レコード・コレクターズ』1996年9月号の和久井光司さんが執筆した「トラッド/フォークとブルースがクロスオーヴァーした60年代初めの英国ロック・シーン(上)」というジョン・レンボーンへのインタヴューを中心にした記事によると、このライヴを企画し招聘したのは新宿のレコード店「ヴィニール・ジャパン 」の中谷さんで、日本でなんとかオリジナル・ペンタングルを再結成させたいとメンバーに連絡を取っていたそうだが、この頃、ジョン・レンボーンとバート・ヤンシュは不仲であり、ドラムのテリー・コックスはすでに引退、ベースのダニー・トンプソンはセッションマンとして忙しくそれどころではなかったようだ。そこで95年秋にペンタングル・リユニオンの第一弾としてバート・ヤンシュ&ジャッキー・マクシーを企画し、第二弾としてジョン・レンボーン&ジャッキー・マクシーを企画したそうだ。残念ながら95年秋のバート・ヤンシュ&ジャッキー・マクシーは撮影していないが、バート・ヤンシュはジョンの来日から3ヶ月ほど経った10月26日に再び来日して新宿ロフトでライヴを行い、その時に撮影している。それにしても、日本でオリジナル・ペンタングルを再結成したいという中谷さんの情熱に恐れ入る。ちなみにジョン・レンボーン&ジャッキー・マクシーの来日ライヴは新宿ロフト7月5日、6日の2日間のみで、これで採算がとれたのか不思議でもある。

ジョン・レンボーン
 wikiには<一般にフォークミュージシャンとされているが、ケルト音楽、古楽、クラシック音楽、ブルース、ジャズなどに関心を持ち、音楽性もそれらを指向している>と書かれているが、本人も和久井さんのインタヴューで、
「古楽やルネッサンス期のものも含めて、いろいろな時代、地域の音楽を研究してきたけれど、僕の中ではギター演奏というのがどんどん小さな比重になってきてるんだ。いまはギターでプレイすることにはとらわれない曲を書いたり、アレンジをしたりする方に興味があるね。実は3年ほど前にミュージック・カレッジに通って、ギター以外でする作曲やアレンジの勉強をしたんだ。そこでは尺八や琴も習ったし、アヴァンギャルドなんかも研究したよ」と語っていた。
 ところで、ジョン・レンボーンやペンタングルの音楽が好きになったのは、この撮影がきっかけではなかった。ライヴを撮影している時は音楽よりも表情や動き空間の明かりに集中するので、なかなか音楽そのものを理解できない。そんなわけでライヴを撮影した後もアルバムを買って聴くということはなかった。それが、2年ほど経った1998年8月にRIKKIの撮影で湘南にあるレコーディング・スタジオへ行った時に、スタジオの合宿所でジョン・レンボーンの音楽が流れていて好きになった。

 撮影は1泊2日で、レコーディング・スタジオの合宿所に泊まったのだが、そこにレコーディング・エンジニアの藤井暁さんも宿泊していて、夜にアコースティックの美しい音楽を流していた。「いい曲ですね、誰ですか?」と尋ねると、「ジョン・レンボーン」という答えが返ってきた。「オススメのアルバムはありますか?」と聞くと「それぞれに違って、それぞれに良い」というような返事だったので、ソロ、フェアポート、ドリス・ヘンダーソンやバート・ヤンシュとのコラボレーション・アルバムなどを買って聴くようになった。
 ジョン・レンボーンは2015年3月26日に心臓発作により自宅で亡くなった。70歳だった。ジョン・レンボーンと親交のあった藤井暁さんも2013年11月21日に録音データの編集作業中に急逝されたという。藤井さんがプロデュースとレコーディングに関わっていたHaLoのアルバムのどれかに、ジョン・レンボーンも参加していたかもしれない。そんな話を聞いた気がする。

YouTubeから「JOHN RENBOURN & JACQUI McSHEE "South Wind”」 「Pentangle - Willy O Winsbury (Set Of Six ITV, 27.06.1972)」 「First Light Bert Jansch and John Renbourn

ジャッキー・マクシー 公式ウェブサイト

ペンタングル 公式ウェブサイト

新宿ロフト 1996年7月6日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1996年9月号
コンサート評は小山哲人さん
初出『レコード・コレクターズ』1996年9月号
インタヴュアーは和久井光司さん、通訳は茂木健さん
#ジョンレンボーン
#JohnRenbourn
#ジャッキーマクシー
#JacquiMcShee
#ペンタングル
#Pentangle
#アーカイブ

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ウィズ・ジョーンズ

◯ウィズ・ジョーンズ

 今年4月に、ブリティッシュ・フォークのギタリスト、ウィズ・ジョーンズの死去を伝える記事が流れてきた。記事には「私の最愛の父であり、偉大なウィズ・ジョーンズが、86歳の誕生日からわずか2日後の今朝早く、永眠いたしましたことを、大きな悲しみを持ってお知らせいたします」という息子シメオン・ジョーンズがウィズのSNSアカウントで発表したコメントが掲載されていた。また、ウィズのプロフィールをコンパクトにまとめたものも記載されていたので引用させてもらう。
<ウィズ・ジョーンズことレイモンド・ロナルド・ジョーンズはイングランドのサリー州サンダーソン・ヒースで生まれ、1950年代後半から音楽活動を開始した。先駆的なアコースティック・ギタリストとして、ジョーンズはロンドン・フォーク・シーンの重要な存在となり、バート・ヤンシュ、ジョン・レンボーン、エリック・クラプトン、キース・リチャーズ、ジミー・ペイジをはじめとする多くのギタリストたちに影響を与えた>

 ウィズ・ジョーンズを撮影したのは、1996年7月に新宿ロフトで行われたジョン・レンボーン&ジャッキー・マクシーのオープニングアクトとして来日した時だ。その時に撮影したポートレートとライヴ写真は『レコード・コレクターズ』1996年10月号の和久井光司さんによる「トラッド/フォークとブルースがクロスオーヴァーした60年代初めの英国ロック・シーン(下)」というウィズ・ジョーンズへのインタヴューを中心にした記事に掲載されている。このインタヴューで和久井さんが生年月日を確認したところ、1939年4月25日、サリー州のクロイドン生まれと答えている。
 ウィズの写真は使われていないが、『ミュージック・マガジン』1996年9月号で小山哲人さんがコンサート評を書いており<豊かな白髪を後ろへ撫でつけたウィズがアクースティック・ギターを持って現れた瞬間から、異様な集中が会場を支配する。DGDGBD、DADGADなど変則チューニングを駆使したウィズの独創的なギター奏法について、僕の語彙では殆ど専門的に語ることができないが、よく通る声で朗々と歌われるヴォーカルにも人柄がにじみ出ていたと思う>と記している。
 この変則チューニング(オープン・チューニング)については和久井さんも英国的なギター・スタイルとしてインタヴューしている。
「そうだね、オープン・チューニングの実験を始めたのはまさにデイヴィ・グレアムだよ。私もいろいろなチューニングを試しているけれど、独特なチューニングのお陰で新鮮な曲が生まれることもあるし、2年も3年も一つのオープン・チューニングと格闘した結果、それに合った曲ができる場合も少なくない」
 昨夜(新宿ロフト)のステージでは何種類ぐらいのチューニングを使ってました?という質問には、
「う~ん、四つ、五つ・・・いや、六つかな。フレットの上を左の指が自由自在に駆けめぐってくれれば、そんなにチューニングを変える必要はないんだけど、そうではないという欲求不満が私をオープン・チューニングに走らせるんだな(笑)。生徒を集めて私がギターを教えたりするとしよう。すると生徒はみんな私のようなプレイをするわけだ。そんなヤツを見てウィズ先生いわく”それはチガーウッ!”(爆笑)。技術的に欠けてるところはエモーショナルな部分で補ってると思うし、それがお客さんにも伝わってると信じたいよね」と話していた。
 冒頭のウィズの死去を伝える記事の中に、今年2月28日に行った生前最後のライブで演奏された曲は生涯の親友であるアラン・タンブリッジが書いたものだと記されている。アラン・タンブリッジについても、和久井さんのインタヴューの中で語っていた。
「58年から59年頃、ロンドンのジャズ・クラブで一緒にたむろしていた古い友だちなんだ。彼がギターを弾きたいと言うから、私がいくつかのコードを教えたんだよ。そしたらアランは曲を書くようになった。本人はミュージシャンになるつもりはないし、イングランドでは人前で歌ったこともないんだ。だから私以外は彼の才能を知らない。私の秘密のソースと言っていいね。だから、アラン・タンブリッジはウィズ・ジョーンズのペン・ネームだと思ってる人も多いんだが、いま彼はオーストラリアにいて、時々新曲のテープを送ってくれたりする。彼がいるってことも私があまり曲を書かない理由だよ」

YouTubeから「Wizz Jones - HAPPINESS WAS FREE」 「Wizz Jones with Alfie and Simeon Jones - Fresh as a sweet Sunday Morning - Eastbourne 2023
 
ウィズ・ジョーンズ 公式ウェブサイト

ウィズ・ジョーンズ facebook

新宿ロフト 1996年7月6日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1996年10月号
インタヴュアーは和久井光司さん、通訳は茂木健さん
#ウィズジョーンズ
#WizzJones
#レイモンドロナルドジョーンズ
#RaymondRonaldJones
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。5枚の写真が掲載されています。

5月25日(日)

 昨日、写真家セバスチャン・サルガドの訃報を伝えるニュースが流れてきた。共同の記事では死因は不明になっているが、白血病だったようだ。サルガドについては、2020年12月にこんな文章を書いている。

 自民党の森山幹事長が昨日、宮崎市内で開かれた党県連大会で講演し、夏の参院選で過半数割れが起きると、本当の意味での政権交代が起きてしまうと危機感を訴えたという。ぜひ過半数割れに!政権交代が起きると、捨てた、処分したという公文書も出てくるだろう。

 この他の気になった記事を備忘録として。
除染土受け入れ都道府県アンケート 「受け入れる」回答は0
ガザ攻撃拡大で16万人避難 国連「住民閉じ込め」批判

岩崎宏美

◯岩崎宏美

 1974年、オーディション番組『スター誕生!』でグランド・チャンピオンを獲得し、1975年4月25日に「二重唱(デュエット)」でビクターより歌手デビュー。同年7月25日に発売した2枚めのシングル「ロマンス」が90万枚近くの大ヒットを記録し、多くの新人賞を受賞。この年のNHK『紅白歌合戦』に紅組のトップバッターとして初出場した。以降、「センチメンタル」「思秋期」「シンデレラ・ハネムーン」「すみれ色の涙」「聖母たちのララバイ」など多くのヒット曲を歌い、女性歌手として不動の人気を得る。
 岩崎宏美さんを撮影したのはデビュー20周年となる1995年。オリジナル・アルバムとしては23枚目となる『FULL CIRCLE』をリリースするタイミングだった。結婚・離婚を経て益田宏美から岩崎宏美に戻り活動を再開するという時期でもあった。媒体は『ミュージック・マガジン』の高橋修さんの連載「スター千夜一夜」。
 『FULL CIRCLE』はLA録音で、沼澤尚氏がドラマーを務める13CATSがプロデュースを行なっている。

 沼澤氏とは彼が文化祭の実行委員をやっていた高校生の時に、”文化祭で歌ってみませんか”と岩崎さんを呼んだのが最初の出会いで、その後も一緒にコンサートへ行ったりしていたそうだ。
「今回、沼澤君なんかと仕事をしたので、シング・ライクとかキャットやジェーン・チャイルドや、あとオルケスタ・デ・ラ・ルスの塩谷(晢)君とかに私が仲間入りをさせてもらったんですけど、いきなり回りの景色が変わっちゃったんですよ。ミュージシャンのお友だち、普段ご飯食べながら音楽の話をするような仲間っていなかったから。例えば同級生で同じ歌い手をやっていても、ご飯食べながら音楽の話をする人はいないですよね。例えば森昌子さんであり山口百恵さんであり・・・音楽の話は出ないですよね」
 高橋修さんの記事とは関係ないが、自分自身が沼澤尚氏のドラムを初めて聴いたのは『YOSHIDA MINAKO CONCERT 1995 VISION 1~BEAUTY』という吉田美奈子さんのライヴ・ビデオで、彼のドラムの心地良いグルーヴが印象に残っていた。
 岩崎宏美さんも吉田美奈子さんが好きで、コンサートに行かれているそうだ。
「美奈子さんは昔からずっと聞いてるし、大好きだったんですよ。でも・・・聞くのはあっち(ポップス)、歌うのはこっち(歌謡曲)と、分けてるつもりはなくても、あっちには行けないだろうと初めから思ってたし、楽曲はずっとこっちだったし・・・まぁそれが間違いだったと思いたくないですけど(笑)。美奈子さんはあっちの世界ですよ。矢野顕子さんや尾崎亜美さんや・・・歌謡ショーには出てこない人じゃないですか。だから、美奈子さんにはすごく影響を受けてるんですけど、私の世界の中で美奈子さんの影響を出すというようなことはなかなかなかったんです。
 でも今は、私の中であっちとこっちみたいなものが取っ払われてしまってね。いいと思ったり気持ち良いと思えるサウンドを、私とは違うとか思わないで、どんどん取り入れていきたいって思ってます」
 この撮影をした時がデビュー20周年。それから30年が経ち、今年はデビュー50周年を迎えた。3月5日にはデビュー50周年DVD6枚組BOX『HIROMI IWASAKI 50th TBS Special Collection』が発売されている。
 今年の11月で67歳になられるそうだが、彼女のInstagramにUPされているスナップ写真を見ると、デビュー当時からあまり変わっていないように見える。それがスターの輝きだろうか。

YouTubeから「ロマンス/岩崎宏美」 「FULL CIRCLE Part1/岩崎宏美

岩崎宏美 公式ウェブサイト

岩崎宏美 Instagram

青山・ビクタースタジオ 1995年10月24日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1995年12月号
インタヴュアーは高橋修さん
#岩崎宏美
#HiromiIwasaki
#益田宏美
#HiromiMasuda
#スター千夜一夜
#アーカイブ

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朝日美穂

◯朝日美穂

 大阪府出身の東京・千葉育ちのシンガーソングライター。1995年に「しあわせを歌おう」で、リットーミュージック主催AXIAアーティストオーディションの優秀賞とサウンド&レコーディング賞を受賞。1996年にリットー・ミュージックの新設したパイ・レコードから高橋健太郎プロデュースのミニアルバム『Apeiron」でデビュー。インディーズからの発売ながら注目を集め、ソニーの新設レーベル、オフィス・シックスからメジャー・デビューを果たす。
 wikiによれば2000年にソニーとの契約を解消し、2001年に直枝政広、江口寿史と共にビキニレコードを発足、2002年には自身のレーベル朝日蓄音を運営する。
 彼女を撮影したのは『ミュージック・マガジン』で松尾潔さんが連載していた「松尾潔の照明係」というページだった。原稿によれば、松尾さんと彼女は早稲田大学の先輩と後輩に当たるそうだ。ソニーからメジャーデビューしたばかりの頃で、「私、大学4年の時ソニーに就職しようかって履歴書まで書いたんです。それが今じゃソニーさんの方から頭下げられて。うちの親なんて私がやっと就職したとカン違いしてますもん。”保険とか福利厚生とかきっちりしてるのか”って(笑)」と話している。

 彼女のプロデューサーでマネージメント・オフィスを設立した音楽評論家の高橋健太郎さんが、取材に同席していたのを覚えている。インタヴューの後の撮影で、室内にあった秤を机の上に置き、彼女に片足を乗せてもらったりしていると心配そうな顔で見ていた記憶がある。アーティスト・イメージを心配していたのかもしれない(笑)。

YouTubeから「さかさまパラシュート/朝日美穂」 「朝日美穂プライベート・スタジオ・ライブvol.1

朝日美穂 公式ウェブサイト

市ヶ谷・ソニー 1997年6月19日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1997年8月号
#朝日美穂
#MihoAsahi
#松尾潔の照明係
#アーカイブ

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5月23日(金)

 一昨日の暑さから一変、昨日から気温がグッと下がって少し肌寒い日が続いている。
遮光カーテン01
 この何年かでリフォームした部屋の窓は遮光カーテンを取り付けたが、自分の部屋のカーテンは遮光性の無いカーテンが吊るされていて、最近は朝5時を過ぎると太陽の光が眩しくて目覚めてしまう。そこでヤフーショッピングで遮光カーテンを注文。
幅100センチx丈110センチ2枚1組を2セット購入した。 昨日届いたので、さっそく取り替えた。
 これで朝もぐっすり眠れるだろうか。
遮光カーテン02
遮光カーテン03

 気になった記事を備忘録として。
森友文書、「欠落」部分存在か 財務省、別の情報公開で開示済み
トランプ政権、ハーバードの留学生受け入れを停止 在校生に転校要求
郵便網維持へ公的資金年650億円 郵政民営化に逆行案、自民が了承

マーティン・カーシー&デイヴ・スウォーブリック

◯マーティン・カーシー&デイヴ・スウォーブリック

 英国のトラッドやフォークは門外漢なのだが、1995年から96年に英国フォークの重鎮が相次いで来日し、新宿ロフトでライヴを行った。
 95年5月にマーティン・カーシー&デイヴ・スウォーブリック、6月にフェアポート・コンヴェンション。96年になってからは、7月にジョン・レンボーン&ジャッキー・マクシーとウイズ・ジョーンズ、10月にバート・ヤンシュ、スティーヴ・ティルストン&マギー・ボイル。この流れとは別に、97年5月にはドノバンが来日して渋谷クラブクアトロでライヴをしている。
  これらのライヴを撮影する機会があって、その時に勉強も兼ねてCDを色々と買って、以来好きになったミュージシャンもたくさんいる。
 マーティン・カーシーは1941年5月21日、イギリス・ハットフィールド生まれ。デイヴ・スウォーブリックは1942年4月5日、イギリス・ニューモールデン生まれ。2人のプロフィールについて、『ミュージック・マガジン』1995年7月号で松山晋也さんが書いたコンサート評の中で触れられているので引用させてもらう。

「ギタリスト/シンガーのマーティン・カーシーは60年代前半からブリティッシュ・トラッド・フォークの復興運動を先導し、今日まで常に第一線で活躍してきた。まさに同シーンの生き証人である。ソロ活動以外にもスティーライ・スパンやウォーターソンズ他のメンバーとして名高いし、また、ボブ・ディランやポール・サイモンといったアメリカン・フォークのイノヴェイターたちに与えた影響も甚大だ。一方のフィドラー、デイヴ・スウォーブリックもまた、フェアポート・コンヴェンションを革命的なトラッド・フォーク・バンドに導いたキーパースンとして、あるいは職人気質のスゴ腕プレイヤーとして、トラッド・ファンの間では長年最大限の評価を維持してきた」
 彼らの写真は『ミュージック・マガジン』1995年9月号の「ブリティッシュ・トラッド流行の外側から訪れる甦りの風」という山岸伸一さんの記事でも、翌月に来日したフェアポート・コンヴェンションのベーシスト、デイヴ・ペグへのインタヴューと共に掲載されている。
 マーティン&デイヴのライヴは5月7日に撮影しており、ライヴ前に店内でポートレートも撮っている。記事にはこの時の写真が使用されているが、山岸さんのインタヴューは前日の5月6日に新宿スターホテル東京で行われたもの。
 山岸さんがトラッドのこれからについて尋ねると、マーティンは、
「これから2、3年で、とても活発になると思うよ。新しい若い世代に素晴らしい人達がいっぱいいる。スコットランドのハミッシュ・ヘンダースンが30年前のインタヴューで言っていたことがある。リヴァイヴァルは新しい革新的な頭脳を持った人間が現われれば必ずそれは繰り返されると。60年代初期がそうだった。それ以降はみんなが冒険をしなくなってしまったね。80年代は害のない音楽で毒されてしまった。90年代にはいって面白い人達が出てきた。若い人達と手をつなぐことは大切なことだ」と話し、デイヴは、
「サンディ・デニーやリチャード・トンプスンのような素晴らしい人が出てくるのを待っているんだが、なかなか現われない。若手で素晴らしい演奏ができる人達はいる。演奏するパブやクラブもたくさんある。けれど自分たちの経験を歌詞にして他人の共感を得てしまう親近感を持つ人がいない。サンディやリチャードは不幸な体験や幸せなことを、みんなとうまく分かち合える歌にしていた。そんな若手は残念ながら出てきていない」と話していた。
 この時の来日ツアーのスケジュールは、5月4日大阪・ミューズホール、5月6日、7日東京・新宿ロフト。
 2人並んでのポートレートを撮影した時も左手にタバコの箱、右手にライターを持っていたデイヴは、長年の喫煙のため慢性閉塞性肺疾患に罹り1999年4月に胸部感染症で入院。2004年10月には二重肺移植を受けた。しかし、残念ながら2016年6月3日に肺炎のため75歳で亡くなってしまった。

YouTubeから「Dave Swarbrick & Martin Carthy - Sovay」 「Martin Carthy performs 'Scarborough Fair' (Live at The Broadside Hacks Folk Club)」 「Richard Thompson and Dave Swarbrick

マーティン・カーシー Discogs

デイヴ・スウォーブリック 公式ウェブサイト

新宿ロフト 1995年5月7日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1995年7月号
コンサート評は松山晋也さん
初出『ミュージック・マガジン』1995年9月号
インタヴュアーは山岸伸一さん
#マーティンカーシー
#MartinCarthy
#デイヴスウォーブリック
#DaveSwarbrick
#アーカイブ

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フェアポート・コンヴェンション

◯フェアポート・コンヴェンション

 1967年にリチャード・トンプスン、サイモン・ニコル、アシュリー・ハッチングス、ショーン・フレイターによって結成されたイギリスのフォーク・ロック・バンド。当時のメンバーで現在も在籍しているのはギターとボーカルのサイモン・ニコルだけ。wikiによると彼も1971年から76年まで脱退していたようだが。
 フェアポートを撮影したのは1995年の来日ツアーの時で、ライヴ・スケジュールは6月23日、24日東京・新宿ロフト、26日大阪・ミューズホール。『ミュージック・マガジン』1995年8月号に掲載されている小山哲人さんのコンサート評によれば、21年ぶりの来日だったそうだ.。また、演奏曲目は「ダーティ・リネン」で始まり、当時の新作である『ジュエル・イン・ザ・クラウン』のナンバーと「クレイジー・マン・マイケル」など昔の代表曲を織り交ぜる構成で、アンコール最後の曲はリチャード・トンプスンが書いた「ミート・オン・ザ・レッジ」をサイモン・ニコルが朗々と歌ったと記されている。

 撮影は初日である6月23日の新宿ロフトで行い、ライヴが始まる前にベースのデイヴ・ペグのポートレートを撮っている。もう一人、ペグと一緒に写っているのは1985年からフェアポートに参加しているフィドルのリック・サンダースだったと思う。
 これらの写真は『ミュージック・マガジン』1995年9月号に掲載されている「ブリティッシュ・トラッド流行の外側から訪れる甦りの風」という山岸伸一さんの記事の中で、デイヴ・ペグへのインタヴューと共に使用されている。
 <フェアポートはイギリスのトラッドを若い人達にロックという手法で身近なものにしてくれました。今でもフェアポートというとトラッドをロックでというイメージがつきまとうのですが>という山岸さんの問いかけに、
<自分たちでもトラッドを見つけようと努力しているんだが、もう誰も演奏したことのないトラッドを見つけるのは不可能だと思う。今度のアルバムで取り上げたトラッドもカナダのものを引っ張り出してきているんだ。幸いなことに色々ないいソングライターに恵まれ、新曲を贈ってくれるので、そのなかからいかにもトラディショナルなサウンドの曲を選ぶことができる。まずサイモン・ニコルが歌詞を読み、心を込めて共感できて歌えるかが選曲のポイントとなる。そしてメンバー全員が気にいるものを選ぶ。オールコックとサンダースはインスト・ナンバーだったら幾らでも作れるんだが、我々は歌詞を書かないんでほかの人に手伝ってもらっている。みんなが知っているトラッドはあまり好きになれないので、古い知られていないものを選んだりする。今度のアルバム(『ジュエル・イン・ザ・クラウン』)にある「ジ・アイランズ」は、ラルフ・マクテルがシェトランド諸島で貨物船が沈没し原油が大量に流れ環境破壊となったことを書いた現代的なものだが、音楽は古いものだ。またスティーヴ・ティルストンの「ザ・ネイキッド・ハイウエイマン」は何十年も前の曲のように思えるのだが、ほんの2年前に作られた曲なんだ。フェアポートはありとあらゆるスタイルをこなせるバンドなんだが、皆に知られているのはフォークやトラッドなので、そのイメージを壊さないようにはしているよ>と語っていた。
 ちなみにデイヴ・ペグはジェスロ・タルのベーシストでもある。
 この『ミュージック・マガジン』でのインタヴュー記事と写真は、フェアポート・コンヴェンションの活動50周年にあたる2017年にシンコーミュージック・エンタテイメントから発売されたムック『フェアポート・コンヴェンション featurling リチャード・トンプソン』に加筆して再掲載されている。

YouTubeから「Who knows where the time goes - Fairport Convention」 「Fairport Convention Live at Cropready Festival

フェアポート・コンヴェンション 公式ウェブサイト

新宿ロフト 1995年6月23日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1995年8月号
コンサート評を小山哲人さん
初出『ミュージック・マガジン』1995年9月号
インタヴュアーは山岸伸一さん、通訳は藤林初枝さん
『フェアポート・コンヴェンション featurling リチャード・トンプソン』(シンコーミュージック・エンタテイメント)
監修は五十嵐正さん
#フェアポートコンヴェンション
#FairportConvention
#サイモンニコル
#SimonNicol
#デイヴペグ
#DavePegg
#デイヴマタックス
#DaveMattacks
#リックサンダース
#RicSanders
#マーティンオールコック
#MaartinAllcock
#アーカイブ

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5月21日(水)

 富山市で32.6℃、高岡市でも32.4℃と、今日は富山県が全国でもっとも暑くなったようだ。と、思ったら岐阜・飛騨で今年全国初の35℃の猛暑日を記録。まだ5月なんだが・・・
 今日SNSに首相官邸で沖縄県の玉城デニー知事と面会し、うなだれながら西田昌司参院議員の発言を謝罪している石破首相の写真が掲載された朝日新聞の記事が流れてきた。これを見た瞬間に”平成の琉球処分”ともいわれた当時自民党幹事長だった石破茂氏の横でうなだれている沖縄選出の自民党国会議員5人が並んだ写真を思い出した。
 2013年11月25日、自民党本部での写真で、辺野古移設反対を公約にして当選した沖縄選出の自民党議員5人が、辺野古移設容認に転じ壇上の椅子に座ってうなだれているものだ。この5人の中には西田氏の問題発言があった憲法シンポジウムに、西田氏と共に講演者として名を連ねていた国場幸之助議員もいる。
 この2枚の写真の間には12年の時が流れており、一強独裁だった自民党が衆院選で少数与党に転落。感慨深いものがある。夏の参院選でも自公の連立与党が過半数を割れば、もう少しまともな政治に向かうかもしれない。破棄したといわれる公文書が出てくることがあるかもしれない。
中野律紀

◯中野律紀

 奄美大島出身の島唄とポップスの歌い手。『ミュージック・マガジン』1994年11月号の<PROPLE>というページで撮影したのが最初だった。撮影はしたが、当時は奄美の島唄がどんな音楽で、奄美大島がどこにあるかすら知らなかったかもしれない。
 インタヴュアーは編集部の高岡洋志さんで、原稿の始まりは<中野律紀(リッキ)は、スヌープ・ドギー・ドッグと並ぶ、ぼくの94年度最優秀新人である>と熱く飛ばしている。
 高岡さんが原稿の中でリッキのプロフィールを書いているので、そのまま引用すると<75年1月19日、奄美大島生まれの19歳。4歳で奄美の島唄を歌い始め、翌年から各種大会に出場して数々の賞を獲得、90年、15歳の時には日本民謡大賞全国大会でグランプリに輝いたという大変なエリートなのである。昨年5月、BMGビクターから島唄集『むちゃ加那』を九州地区限定発売した後、12月にミニ・アルバム『風の声』でポップ・シンガーとしてデビュー。今年8月には第2弾『太陽の下で』をリリースしている>。ここまでが1994年までのプロフィールで、翌95年には久保田麻琴プロデュースのアルバム『RIKKI』を発売している。

 取材はBMGビクターで9月19日に行なったが、高岡さんの原稿の終わりに取材日が9月19日、29日と記されている。2ページの記事だが、高岡さんは再取材でもしたのだろうか。
 この時、撮影の背景に使ったのは薄いグレーの背景布。一週間ほど前の9月11日にこの年のベンチャーズの来日オフィシャル・カメラマンとして中野サンプラザでのコンサートと楽屋でのポートレートを撮ることになって、集合写真の背景用に買ったもの。せっかく買ったのだからと彼女の撮影にも持って行った。折りたたみの布ではなくロールになっていて嵩張るので、あまり使った記憶がない。ひょっとするとベンチャーズと彼女だけかもしれない。
 この撮影から4年ほど経って、中野律紀からRIKKIに改名した彼女を撮影することになる。たぶんその撮影がなかったら奄美大島に移住することはなかったし、琉球弧の祭祀に興味を持つこともなかっただろう。琉球弧の祭祀を撮影しなければ、富山に帰ってから富山の祭りを撮影することもなかったと思う。

YouTubeから「朝は来るから待てば来るから/中野律紀」 「太陽の下で/中野律紀

RIKKI 公式ウェブサイト

渋谷・BMGビクター 1994年9月19日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年11月号
#中野律紀
#RikkiNakano
#リッキ
#Rikki
#アーカイブ

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RIKKI

◯RIKKI

 奄美大島出身の歌手、中野律紀を『ミュージック・マガジン』の仕事で撮影してから4年ほど経って、今度はRIKKIと改名した彼女を撮影することになった。1998年の夏のことだ。
 音楽評論家で音楽プロデューサーでもある田中勝則さんから連絡がきて、RIKKIのアルバムを田中さんが主宰するレーベル、ライス・レコードからリリースすることになり、そのアルバム・ジャケットを撮って欲しいということだった。
 1994年に『ミュージック・マガジン』で中野律紀として撮影した時は、BMGビクターから3枚目となるアルバム『太陽の下で』を発売したばかりだった。この後、1995年に久保田麻琴さんプロデュースで4枚目のアルバム『RIKKI』を発売するが、それ以降はBMGビクターと契約が切れていた。そんな彼女がRIKKIと改名しライス・レコードから自主制作のアルバム発売するようになった経緯はわからないが、8月13日から14日に湘南にあるスタジオでレコーディングするので、近くの海で撮影できないだろうかと言われスタジオのある平塚へ向かった。

 平塚ではレコーディング風景と近くの海でジャケットに使うポートレートを撮るはずだったが、イメージしていた砂浜の海岸ではなく漁港のような海だった。それでも何カットか撮影し、ジャケットに使うメインの写真は後日、自宅で撮ることになった。
 レコーディング風景はRIKKIと、奄美大島から三線とチヂン(奄美の民謡で使われる太鼓)で参加した築地俊造さん、バック・コーラスの里アンナちゃんの歌入れを撮影している。NHKの大河ドラマ『西郷どん』のメインテーマを歌い、今では奄美を代表する歌手となった里アンナちゃんだが、この時のアルバム『miss you amami』が彼女の初レコーディング体験ではないだろうか?
 ジャケットに使うメインの写真は8月29日に、当時住んでいた川崎市宿河原のアパートのリビングで撮影した。CDはワールド・ミュージックの棚に並ぶが、当時ワールド・ミュージック系のジャケットは派手で鮮やかなものが多いので、逆に色調を抑えたシンプルなジャケットの方が目を引くだろうとプロデューサーである田中さんから提案され、背景はシンプルに白、入稿データは彩度を少し落とした写真にした。
 田中さんの戦略が功を奏したのかはわからないが、RIKKIは3年後の2001年にゲーム『ファイナルファンタジーX』の主題歌「素敵だね」の歌手に抜擢される。
 『ミュージック・マガジン』2001年9月号のインタヴューで、その経緯をRIKKIはこう話している。
「スクウェアサウンズのプロデューサーの松下健介さんが、レコード店でたまたま『miss you amami』を見つけて聞いてくれて、すごい衝撃を受けたんですって。植松さん(植松伸夫。FFシリーズの作曲家)に聞かせたら、彼も衝撃を受けて。当時は事務所もマネージャーと二人だけでやってたんで、連絡先も公表してなかったんですけど、わざわざ捜して連絡してきてくれたんです。私は鹿児島で温泉につかってたんですけど、『ファイナル・ファンタジー』のお話が来たからすぐ帰って来いって言われて(笑)」。この取材に同席していた松下健介さんも「今回はゲーム自体がこれまでの中世ヨーロッパじゃなくてアジアのイメージだったので、主題歌も日本語でやりたかったんです。植松も僕も琉球音楽が好きだったので、そのへんから捜していた中でRIKKIさんのCDを見つけて。他と比べて印象がまるで違ったというか、これこそ望んでた声だ!って思いました」と話している。
 掲載した写真の1~9枚目は『miss you amami』用に自宅で撮影したもの、10~12枚目は平塚で、13~15枚目は南青山のマンダラで行われたアルバム発売記念ライヴ、16~17枚目は『ミュージック・マガジン』2001年9月号用に撮影したもの。南青山マンダラでのライヴは、コーラスに里アンナちゃん、ギターに山内雄喜さん、ピアノに黒田亜樹さんが参加している。
 ちなみに『miss you amami』はRIKKIの希望で、島の人たちが車の中で聴けるようにとカセット・テープでも作られた。

YouTubeから「Irabu Yuri no Hana/RIKKI」 「素敵だね Suteki da ne LIVE/RIKKI

RIKKI 公式ウェブサイト
 
フリースタジオ湘南 1998年8月13日、14日
川崎・宿河原 1998年8月29日撮影
初出『miss you amami』(ライス・レコード)
南青山マンダラ 1999年4月4日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1999年6月号
コンサート評を北中正和さん
東京・南青山 2001年7月3日撮影
初出『ミュージック・マガジン』2001年9月号
インタヴュアーは高岡洋詞さん
#RIKKI
#リッキ
#中野律紀
#アーカイブ

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5月19日(月)

 昨日、一日限りの写真展が無事終了した。一昨日の設営は時間がかかったが、昨日の撤収は手伝ってくださるスタッフが多かったので1時間ほどで完了した。トリのライヴを見終えてから車で家まで展示した写真を運んでいただいた。両親の通うデイサービスのスタッフの方も何人か見に来てくださって、今日、その中のお一人が写真展の会場で両親を撮影した記念写真をわざわざプリントして持って来て下さった。
写真展の様子

 イスラエル軍が昨日、ガザで大規模な地上作戦を開始したと発表。ガザでは一連の激しい空爆で、連日100人を超える死者が出ており犠牲者の急増に歯止めがかからない。そんな中、今月15日のナクバの日に坂本龍一氏の娘でミュージシャンの坂本美雨さんがイスラエルのサール外相の来日を受けて起きた抗議デモの様子を伝えた参加者の投稿を引用。「虐殺に反対するデモが警察に弾圧される光景 デモ参加者が身体拘束される様子 異常だよ 日本もここまで来てしまったか 抗議の自由、表現の自由が奪われていく これ、異常だからね」と訴え、「音楽家!アーティスト!!このまま黙ってていいの???」と呼びかけた

 江藤拓農相が昨日、佐賀市で行われた講演で「(私は)買ったことがありません」「支援者の方々がたくさんコメをくださるので、まさに売るほどあります。私の家の食品庫には」などと発言したそうだ。今日、記者団に発言の真意を問われ「玄米でもぜひ消費者の人に手に取って欲しいということを強調したかったのでそういう言い方をした」などと釈明したが、玄米があれば多くの人が手に取るだろう。家の近くに精米機があっても、その玄米も流通していないからみんな困っているのがわからないのだろうか。また、「売るほどある」と発言したことについては「ちょっと受けを狙って強めに言った」そうだが、この発言がウケると思うセンスがわからない。

 ギタリストのDr.Kこと徳武弘文さんが、今月14日に亡くなられたそうだ。73歳だった。ザ・ラストショウのアーカイブを作るのに検索していて、徳武さんが難病を患い闘病されていることを知ったばかりだった。
 ギター雑誌の原稿を書いていた二十歳くらいの時に、テクニカルなことを何度か取材させていただいたし、吉田拓郎のコンサートツアーは80年と82年にスタッフとして同行したが、80年のツアーは徳武さんと鈴木茂さんのツイン・ギター、キーボードは松任谷正隆さんだったと思う。

 気象庁は奄美地方が今日梅雨入りしたと見られると発表した。

クリス・ディフォード

◯クリス・ディフォード(スクイーズ)

 イギリスのパワー・ポップ・バンド、スクイーズの中心人物。彼を撮影したのは、スクイーズの2度目の来日公演が行われた1997年3月だった。媒体は『レコード・コレクターズ』で、予定ではスクイーズのもう一人の中心人物でありソングライティングのパートナーでもあるグレン・ティルブルックも一緒に撮影するはずだったが、グレンは前日にコンビニで買った寿司に当たって体調を崩し、クリス単独の取材となった。インタヴュアーは服部武さんで、取材場所は彼らが宿泊していた渋谷のクレストンホテル。『レコード・コレクターズ』という特性で、バンドの結成からの歩みを順を追って聞いている。
 クリス(本名クリストファー・ヘンリー・ディフォード)は1954年11月4日、ロンドンのグリニッジで3人兄弟の末っ子として生まれたそうだ。
 スクイーズ結成のきっかけは1973年のある日、彼が楽器店に出したバンド・メンバー募集の告知で、それにグレン・ティルブルックが応募したことから始まった。その文面は<好きなバンドはキンクスとヴェルヴェット・アンダーグラウンド。ギタリスト募集>というものだったという。

「音楽に夢中になったきっかけは、ビートルズやローリング・ストーンズ、それにキンクスといったビート・グループかな。ホリーズも大好きだったね。しばらくして、今度はドノヴァンやキング・クリムズンのレコードを集めたり・・・。とにかく幅広くいろいろ聴いていたよ。そのうちに、自分でもバンドがやりたくなって、メンバー募集の告知を出したんだ。毎日そわそわしながら電話を待っていたのに、結局のところ連絡をくれたのはグレンだけだった(笑)」
 スクイーズは1974年にクリス、グレンにキーボードのジュールズ・ホランド、ドラムのポール・ガンで結成。76年にはベースのハリー・カクーリが加入し、ドラムはガンからギルソン・レイヴィスに交代し、1978年にアルバム『スクイーズ』でデビューする。以降、メンバーチェンジを繰り返しながら5枚のアルバムをリリースするが、1982年に最初の解散をする。
「すべてに疲れてしまった。その一言につきるよ。レコーディングとツアーの連続でメンバーの誰もが消耗していたし、マネージメント側とのトラブルや、キーボード・プレイヤーが固定化しないという問題もあった。それでプラグを抜くことにしたのさ」 
 解散した後、クリスはグレンと84年に『ディフォード&ティルブルック』というアルバムをリリース。そして翌85年には新たなベーシストを加えてスクイーズを再結成している。
 95年には12枚目となるスタジオ・アルバム『リディキュラス』を発売しているが、取材した97年当時、A&Mから契約の終了を告げられ、移籍先は決まっていなかった。
「しばらくはスクイーズ以外の活動にも取り組んでいくことになるだろうね。この前もアンディ・パートリッジと曲を書いたよ。6曲仕上げたけれど、アンディはXTCのアルバムには使わないと言ってきた。もしぼくがソロ・アルバムを作るのならば、そのうちの何曲かはやってみたいね。それとブライアン・フェリーのためにも詞を書いたよ。スクイーズのこれから?スクイーズは地図もコンパスも持たずに、航海に出た船みたいなものだから、どこに向かっているかなんて、辿り着いてみるまでわからないな(笑)」
 こう話していたクリスだが、wikiによると1998年にインディーズから『ドミノ』を発売。1999年にツアー終了後、2度目の解散。2002年、ポール・キャラックのコンサートでディフォードとティルブルックが期間限定でライヴ再結成。以降単発で活動。2015年、ヴァージンより17年ぶりの新曲による新作『Cradle to the Grave』発売で活動再開。
 スクイーズの長い航海は、今も続いているようだ。

YouTubeから「Up The Junction/Squeeze」 「Cool For Cats (Official Music Video)/Squeeze」 「Take Me I'm Yours/Chris Difford

クリス・ディフォード 公式ウェブサイト

スクイーズ 公式ウェブサイト

渋谷クレストンホテル 1997年3月21日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1998年2月号
インタヴュアーは服部武さん、通訳は染谷和美さん
#クリスディフォード
#ChrisDifford
#スクイーズ
#Squeeze
#アーカイブ

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◯ジョー

 1973年生まれ、アメリカ・ジョージア州出身のR&B、ソウル・シンガーで、音楽プロデューサー。出生名はジョー・ルイス・トーマス。
 ジョーを撮影したのは『ミュージック・マガジン』での取材で、インタヴュアーは河地依子さんだった。wikiによると、彼は高校を卒業後、ニュージャージー州に出てプロデューサーのヴィンセント・ハーバートと出会い、1982年にポリグラムレコードと契約。93年に1stアルバム『Everything』でデビューする。このアルバムは米国ビルボード200で最高105位、ビルボードのトップR&Bヒップホップアルバムで最高16位を記録したが、セールス的には失敗だったようだ。そのため、シンガーではなくソングライターやプロデュース活動を余儀なくされていたが、1996年に犯罪コメディのパロディ映画『ドント・ビー・ア・メナス』のサウンドトラックに、自身の「オール・ザ・シングス」を提供したところ大ヒットとなり、これが1997年に発売された4年ぶりとなる2ndアルバム『All That I Am』のリリースにつながったという。
 取材したのは、この『All That I Am』発売直後だった。
「ファーストの時は、ニュー・ジャック・スウィングとかの流行りものに僕自身が傾倒していて、そういう音楽を継承していた部分があるけれど、セカンドではもう少し自分自身を理解したから、僕の心からの音楽になっていると思う。実はファーストは、レコーディングをしながら何が起こっているのかよくわからず、自分がアルバム作りに参加しているっていう気が全然しなかったんだ。それはひとえに僕の未経験さからきていたことだ。今回はすべてに関わることができて、プロデューサーも殆ど自分で選んだ。ジェラルド・リヴァートはレコード会社からの提案だけど、彼とは一緒にやりたいと僕も思っていたんだ。一番、重視したことは、ひとつはヴォーカル・コントロール。あまり声を張り上げすぎないように気をつけた。あとは音をシンプルにとどめて置くこと。せわしい音は理解しづらいと思うんだ。静かな状況の中でもエンジョイしてもらえるようなアルバムにするよう心がけた」
 1stアルバムがセールス的に失敗に終わり、2ndアルバムが発売できるまでの4年間は「イライラしていた」と語っていた。そして「誰のための曲でもなく、何となくリハーサル・トラックとして曲を作ったりしていたし、僕に同じようなレコーディングの機会が与えられればもっといいものが作れるのに、と思っていた」とも話していた。
 ジョーはこれまでに13枚のスタジオ・アルバムをリリースし、2001年~2003年に7つの曲がグラミー賞にノミネートされている。

YouTubeから「All The Things (Your Man Won't Do)/Joe」 「No One Else Comes Close/Joe

ジョー Instagram

青山・エイベックス 1997年8月25日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1997年10月号
インタヴュアーは河地依子さん
#ジョー
#Joe
#ジョールイストーマス
#JoeLewisThomas
#アーカイブ

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ジョー

5月17日(土)

 今日は午前中から、高岡文化ホールで明日開催される『タカブン・ミュージックステージ』で行う写真展の設営。展示ボードの組み立てから始まり、額をワイヤーで吊るす作業、そしてキャプションの貼り付け。スタッフの方々に手伝っていただいて、完了したのが17時ごろ。携帯の万歩計は13916歩で、その歩数の大部分は写真展を行う大ホールのロビーを歩き回ってのもの。おかげさまで、ほぼレイアウト模型の通りに設営できました。
 写真展は10時〜18時まで。また写真展を行う大ホールのロビーでもアコースティックのコンサートがあり、こちらは10時〜15時までのようです。詳細はこちらから。
写真展の設営

◯ステイタス・クオー

 イギリスのハード・ブギー・バンド、スティタス・クオーのフロントマン、フランシス・ロッシとリック・パーフィットを撮影したのは、20年ぶりの来日(wikiでは21年ぶり3度目の来日)を果たした1997年。『レコード・コレクターズ』の仕事で、インタヴュアーは服部武さん。彼らが宿泊していた赤坂のキャピトル東急ホテルでの取材だった。

ステイタス・クオー
 服部さんの原稿に結成からデビューまでの経緯が書かれているので引用すると、
<ステイタス・クオーの歴史は、フランシス・ロッシとリック・パーフィットのふたりが出会った65年に始まる。当時のロッシはクオーの前身バンド=スペクトルズの一員。一方のパーフィットはハイライツというグループに在籍していた。パイ傘下のピカデリーから3枚のシングルを発表したスペクトルズだったが、いずれも不発に終わり、67年5月にはトラフィック・ジャムと改名して再起を図る。ところが同時期にあのスティーヴ・ウィンウッドがトラフィックをスタートさせていたために、彼らのグループ名は使用停止を宣告されてしまう。土壇場に追い込まれたロッシは、旧知のパーフィットを迎え入れ、心機一転グループ名を”ザ・ステイタス・クオー”と改めた(69年、5枚目のシングル「アー・ユー・グロウイング・タイアード・オブ・マイ・ラヴ」から”ステイタス・クオー”に)。親会社のパイと契約したクオーは、68年1月に「ピクチャーズ・オヴ・マッチスティック・マン」で再々デビュー。サイケデリック調のカラフルなジャケットというポップなイメージ戦略も手伝って同曲は全英7位まで上昇する>

 wikiによれば初期のメンバーはフランシス・ロッシ(ボーカル、ギター)、リック・パーフィット(ギター)、アラン・ランカスター(ベース)、ジョン・コーラン(ドラム)、ロイ・ラインズ(キーボード)となっている。
 この取材の前年、1996年に彼らはビーチ・ボーイズからスティーライ・スパンまで取り上げたカバー・アルバム『ドント・ストップ』をリリースしていた。
 このアルバムについてフランシスは、
「そもそもは僕らのマネージメントが持ってきた企画だったんだ。以前からリハーサルやサウンド・チェックではカヴァー・ソングを演っていたけどね。でもスタジオ・アルバムを作るのは乗り気じゃなかったな。カヴァー・ソングは楽しくやれなきゃ意味がないけど、いざレコーディングとなるとシリアスな面も要求されるだろ。それに売れる企画とも思えなかったしね(笑)。ところが実際はこれまでになく楽しいレコーディングだったし、アルバムもヒットした。つまり僕の方が間違っていたわけだ(笑)」と話している。
 リックは、
「完成したアルバムには全部で15曲収録されているけど、最初は200曲近い候補があった。メンバー5人がそれぞれ好きな曲を持ち寄ったら、そこまで膨らんでしまったんだ。それでミーティングを重ねて曲を絞って、次にアレンジを組み立てながらリハーサルをした。僕らの予想以上にうまくいった曲もあったけど、煮詰まって断念した曲も多かったね。今回のアルバムは、そんなレコーディングに至るまでの過程が充実していたと思うよ。選びに選び抜いた15曲なんだ」と振り返った。
 このインタヴューで彼らは「ブギひとすじと捉えられるのは息苦しいね」と答えている。
 残念なことにリック・パーフィットは2016年12月24日、肩の負傷に起因する感染症で亡くなってしまった。また、創設時のベーシスト、アラン・ランカスターも多発性硬化症による合併症で2021年9月に亡くなったそうだ。

YouTubeから「Status Quo - Whatever You Want」 「Status Quo and The Beach Boys 'Fun Fun Fun' (Official Video)

ステイタス・クオー 公式ウェブサイト

赤坂・キャピトル東急ホテル 1997年2月26日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1997年8月号
インタヴュアーは服部武さん、通訳は丸山京子さん
#ステイタスクオー
#StatusQuo
#フランシスロッシ
#FrancisRossi
#リックパーフィット
#RickParfitt
#アーカイブ

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5月16日(金)

 今日、気象台は九州南部が梅雨入りしたとみられると発表した。九州南部の梅雨入りが沖縄より早いのは1976年以来49年ぶり、奄美より早いのは1954年以来71年ぶりで、九州南部が全国で最初に梅雨入りとなるのは1951年からの統計史上初めてだそうだ。

 自民党の裏金問題をめぐり、下村博文・元文部科学相が今月14日に自身のSNSで「事実を正直に誠実に申し述べたい」と投稿。15日に開かれた衆院予算委員会理事懇談会では野党は改めて下村氏の招致を求めたが、自民党はすでに政治倫理審査会に出席したことなどを理由に招致に反対したという。本人が申し述べたいと言っているなら、反対する理由などない。結局、自民党は疑惑を解明するつもりがないのだろう。

 昨日、5月15日はナクバの日だった。その15日、ハマスが運営する民間防衛隊はイスラエル軍の空爆により、パレスチナ人100人超が死亡したと発表した。ガザで起きているのは戦争や紛争ではなく、イスラエルによるパレスチナ人へのジェノサイドに過ぎない。
 ナクバについては今年2月6日にこんなことを書いている。

 この他の気になった記事を備忘録として。
選択的夫婦別姓「裏切った党や議員を忘れない」 今国会で実現難しく、当事者ショック「参院選で…」
“日の丸連合”ジャパンディスプレイ 11年連続赤字と国内1500人規模の人員削減を発表
維新が退潮傾向、地方議員の離党相次ぐ…吉村代表「政治家の身分を確保したい人は他党でやればいい」

◯ネヴィル・ブラザーズ

 ニューオーリンズ生まれのアート、チャールズ、アーロン、シリルのネヴィル家4兄弟が1977年に結成した、R&B、ソウル・バンド。結成のキッカケは1976年に、彼らの叔父にあたるビッグ・チーフ・ジョリー率いるワイルド・チャピトゥーラスのバック・バンドを務めたことだという。ネヴィル・ブラザーズを結成する前、アート・ネヴィルは1960年代半ばにジョージ・ポーターJr.らとミーターズを結成、後期にはシリル・ネヴィルも参加していたが、1977年にミーターズは解散してしまう。
 ネヴィル・ブラザーズは1978年、デビュー・アルバム『ネヴィル・ブラザーズ』をキャピトルからリリース。その後、A&Mに移籍し2ndアルバム『ファイヨー・オン・ザ・バイユー』をリリースした。
 彼らを初めて撮影したのは、3rdアルバムとなる『アップタウン』を発売した1987年。インクスティック芝浦で行われたドクター・ジョンとのジョイント・ライヴで、ドクター・ジョンのサポートも彼らが務めていた。まだ写真を始めて(カメラを買って)2年も経たない頃で、この時に撮影した写真を持って音楽雑誌に売り込みに行ったのを覚えている。
 次にネヴィル・ブラザーズを撮影したのは9年後の、1996年。『ミュージック・マガジン』の取材で、インタヴュアーは湯浅学さんだった。「ニュー・オーリンズから届く、ホット・ガンボ・ミュージック」という特集の中で5ページのインタヴューが掲載されている。複数の音楽雑誌から取材の申し込みがあったのだろう、2人ずつに分かれ、『ミュージック・マガジン』はアーロンとシリルが答えている。
 1996年は『ミタケ・オヤシン・オヤシン~オール・マイ・リレイションズ』という7枚目のスタジオ・アルバムがリリースされているが、記事を読み返すとアルバムのことには触れず、ニューオーリンズという街とその音楽状況についてのインタヴューに終始していた。
「外から来た人たち、ニュー・オーリンズに移り住んだ人たちは、新しい要素をニュー・オーリンズにもたらすというより、むしろ移住したとたんにガンボの鍋の中に吸い込まれちゃう感じだな。ニュー・オーリンズに同化してしまうというか。すぐに”地元民”にしてしまう力がニュー・オーリンズにはあるね」とシリルが話し、
「人と文化のクロスロードとしての役割をニュー・オーリンズは今も昔も、変わらずに果たしていると思うよ。基本的に観光地、という性質も強く作用しているけど、なにしろ気候と食べ物のよさに皆
イカレる。ゆったりしたペースで物事が運ばれてゆく、その居心地のよさが人々を引きつけるのだろう」とアーロンが話した。
 インタヴューはアーロンとシリルの2人だけだったが、インタヴューの後にアートとチャールズも合流してメンバー全員の写真を撮ることができた。
 この取材から9年後の2005年、ハリケーン・カトリーナがニューオーリンズを襲い、アーロンとシリルは自宅を失い、アーロンはナッシュビルに、シリルはオースティンに移住することになった。
 2008年10月、約12年ぶりに来日公演を行い、2009年にはフジロック・フェスティバルに初出演したが、2012年にバンド活動を休止。アーロン・ネヴィルはソロ活動に専念するためバンドを脱退した。
 2018年4月26日、チャールズがすい臓がんのため79歳で死去し、翌2019年7月22日にはアートが81歳で亡くなった。アーロンは2021年に80歳になったのを機にツアーからの引退を表明し、現在も活動を続けているのはシリルだけのようだ。

YouTubeから「The Neville Brothers - Yellow Moon - 6/19/1991 - Tipitinas (Official)」 「The Neville Brothers - Drift Away - 4/29/1987 - unknown (Official)

ネヴィル・ブラザーズ ALL MUSIC

アーロン・ネヴィル 公式ウェブサイト

インクスティック芝浦 1987年7月22日撮影
赤坂・全日空ホテル 1996年11月14日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1997年1月号
インタヴュアーは湯浅学さん、通訳は藤林初枝さん
#ネヴィルブラザース
#TheNevilleBrothers
#アートネヴィル
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#シリルネヴィル
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ネヴィル・ブラザーズ
バウンド

◯バウンド

 1987年7月22日にインクスティック芝浦でドクター・ジョンとネヴィル・ブラザーズのライヴが行われたが、それに先立ち20日にウエルカム・パーティーが開催された。ラストショウや松原正樹セッション・バンド、ウシャコダのボーカルだった藤井康一さんなどと共に、彼らも出演した。
 バウンドのボーカル、古田光郷さんのホームページに、バンドのバイオグラフィーが掲載されていたので引用させてもらう。
 バウンドは、1981年に、古田光郷(vo)がネッシー木村昭夫(dr)にバンド結成の話をもちかけたことから始まった。その後、彼ら二人が考えるブラックミュージックを吸収した独創的なロックバンドを作っていこうとする中で、1982年、岸田”ゴンベ”良朗(g)、1983年、井本直樹(b)、そして1985年に高木親(t.sax)をメンバーに迎える。そのサウンドはパワフルかつ躍動感の溢れるもので、エスノミュージックにまで手を広げ「ビート」カラーの多彩なR&Rバンドとしての地位を築いていく。ホームグラウンドであった京都の「磔磔」や「拾得」をはじめ、東京~奄美大島まで精力的にツアーを行うようになる。

 1986年、活動拠点を東京に移し、6月、アポロン音楽工業より「オン・ザ・ロック」でメジャデビューする。7月にはアルバム『踊れ!若者』を発表。8月には読売ランド・イーストで開催された「レゲェ・ジャパンスプラッシュ’86」に出演するなど、この年は約100回のギグを重ねた。
 1987年、セカンド・アルバム『REAL BEAT」を発表。同時にFROM A、ポカリスエットのCM曲など2枚のシングルをリリース。しかし、1988年、メンバー間の方向性の違い、所属事務所との摩擦などにより解散してしまう。
 その後、2011年にネッシー木村が古田他メンバーに再結成の相談を始め、約2年の準備期間を経て、2013年12月にかつてのホームグラウンドだった京都「磔磔」で復活ライヴを行った。

YouTubeから「BOUND Works (フロムA CMソング 80年代後期)」 「錆びかけたBeat/BOUND/2024.7.13/あんだんてな夜

古田光郷 公式ウェブサイト

インクスティック芝浦 1987年7月20日撮影
#バウンド
#BOUND
#古田光郷
#MitsusatoFulta
#木村昭夫
#岸田良朗
#井本直樹
#高木親
#アーカイブ

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5月14日(水)

 現職国会議員の関係団体のほか、自民、立憲民主、公明、日本維新の会、国民民主の5党の政党本部など約2360団体の収支報告書をデータベース化し、自由に閲覧できるサイトがオープンした。
 制作したのは西田尚史さんという経営コンサルタント会社を営む個人で、2020年から独自のデータベース作りに取り組んでいたという。
 このデータベースを公開しようと思った動機は、国会での企業・団体献金を巡る議論だそうで、「誰がどこから幾らもらっているかがわからないと、是非も評価できない。議論の前提を提供できるのではないか」と東京新聞の記事で答えている。
 さっそく富山選出の裏金不祥事議員、田畑裕明氏の名前で検索すると、収入総額8130万円で機関紙誌の発行その他の事業による収入がもっとも多く4304万円、次が寄付で2505万円などと収入の構成が表示される。企業・政治団体による寄付ランキングも掲載されており、1位が自由民主党富山県第一選挙区支部で500万円、次いで整形外科医政協議会100万円、日本医師連盟100万円となっている。県内からの寄付ではリードケミカル、アイザックがそれぞれ50万円となったいた。支出の総額は6373万円で、経常経費や政治活動費の内訳も見ることができる。
 今度は企業側、北陸電力がどこに献金しているか検索してみると、北陸電力労働組合政治連盟がヒットし、国民民主党石川県総支部連合会と国民民主党福井県総支部連合会に60万円ずつ献金していた。
 現在サイトで閲覧できるのは2024年11月に公開された2023年分だが、今後は2020年~22年分の公開も予定しているという。
 東京新聞の記事によると政治資金規正法改正で、国も2027年からデータベースを作ることが決まったそうだが、このデータベースを作った西田さんは「少なくともこの水準を下回らないものを作ってほしい」と話したという。

 トルコ警察がディヤルバクル県の小さな村リジェの空き地で2023年から24年まで実施した薬物取り締まり作戦で押収した大麻20トンを燃やしたところ、村全体が煙で覆われ、住民たちは窓を閉めて外出を自制するなどしたが目眩や吐き気、浮いているような症状にみまわれ一部の住民は病院に搬送されたという。大麻30トンを燃やせば、そりゃそうなるだろう・・・。

 この他の気になった記事を備忘録として。
「日本軍は県民を殺していない」 沖縄戦を巡り参政党・神谷代表 自民・西田氏の発言に同調 青森で街頭演説
羽田空港ビルに厳重注意 古賀氏長男への利益供与で―国交省
古賀氏長男のコンサルが申告漏れ 羽田空港ビル側からの9千万円―東京国税局

島倉千代子

◯島倉千代子

 1938年北品川生まれ。歌手としてデビューする前から地元では”のど自慢荒らし・北品川の千代ちゃん”として有名だったそうだ。
 1955年、16歳の時に「この世の花」でデビューするが、wikiによれば1949年にテイチクレコードで童謡「お山のお猿」をレコーディングしているという。しかし誤植により<戸倉千代子>名義になったため<島倉千代子>のデビュー作とはならなかった。
 「この世の花」は発売半年で200万枚を売り上げ、一躍人気歌手に。1957年に発売した「東京だョおっ母さん」が150万枚、1958年に発売した「からたち日記」も130万枚を売り上げ不動の人気を得て1957年から1986年まで30回連続でNHKの『紅白歌合戦』に出場している。30回連続出場を達成し、一度出場を辞退したが、「人生いろいろ」が大ヒットし1988年に2年ぶりで出場。通算で2004年まで35回出場されている。

 歌手生活40周年となる1995年に発売された36枚目のアルバム『LOVE SONG』は、小田和正、平松愛理、奥居香、吉田拓郎といったニューミュージック、ポップス畑のアーティストの曲に、全曲島倉さんが作詞をした意欲作。この意欲作をリリースした直後に、『ミュージック・マガジン』の高橋修さんの連載「スター千夜一夜」で撮影させていただいた。
「この『ラブソング』は、40周年の締めくくりということで、スタッフから”ニューミュージックの人たちに書いてもらったらどうか”というお話がありましてね。私にすれば全く分野の違う人たちですから、書いていただけるかどうか、歌えるかどうかと心配でした。でも、自分の歌い手生活の未来というものを考えた時に、先取りって言うのかな。私がニューミュージックの人たちの歌に挑戦させてもらって、5年とか10年先にね、その時の若い人たちと一緒のステージの上で一緒に歌えるように、ということで挑戦させてもらったんです。40年一区切りにして、これから未来に向かって歩いていく島倉千代子。ということで」
 2000年代に入っても数々のベスト・アルバムは発売されたが、オリジナル・アルバムとしてはこの『LOVE SONG』が最後のようだ。
 2013年11月8日、肝臓がんのため75歳で亡くなられたが、亡くなられる直前の11月5日にデビュー60周年に向けた記念曲「からたちの小径」をレコーディングされている。この曲を作曲した南こうせつさんは録音に立ち会い「奇跡の歌声だった」と語ったそうだ。
 島倉千代子さんは1989年6月にも一度撮影している。こちらは『月刊カラオケ大賞』という雑誌の取材で、山形県民会館で行われたコンサートの撮影だった。コンサートだけではなく、控え室での様子や、コンサートの後に近くの神社でポートレートを撮影している。取材の後、帰りは同じ電車で帰ってきた。コンサートは歌謡祭のような催し物で、他にも多くの演歌歌手の方が出演されていた。帰りの電車では島倉さん、坂本冬美さんと同じ座席で雑談しながら帰った記憶がある。

YouTubeから「人生いろいろ/島倉千代子」 「からたちの小径/島倉千代子

島倉千代子 日本コロムビア
https://columbia.jp/artist-info/chiyoko/

赤坂・コロムビア・レコード 1995年3月30日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1995年5月号
インタヴュアーは高橋修さん
#島倉千代子
#ChiyokoShimakura
#スター千夜一夜
#アーカイブ

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眞鍋かをり

◯眞鍋かをり

 2004年6月30日に開設したブログ「眞鍋かをりのココだけの話」がたちまち人気となり、一つの記事でトラックバック数が3000を超えることもあって、マスコミから「ブログの女王」の称号を与えられた。2010年10月31日に「眞鍋かをりのココだけの話」は閉鎖したが、翌2011年5月31日から新たに「眞鍋かをり Offcial Blog」を開設されているので、アーカイブをするにあたり見に行ったが、2018年11月20日で更新がストップしていた。SNSの時代になり、かつてのブログの女王も、現在はインスタに移行したようだ。
 眞鍋さんを撮影したのは、まさにブログの女王と呼ばれていた2005年から2006年。健康雑誌の取材で2回お会いしている。
 1回目は2005年10月で、納豆に黒ゴマを混ぜて食べる「黒ゴマ納豆」という特集。テレビ東京の天王洲スタジオのタレントルームでインタヴュー写真と納豆を持った写真を撮らせていただいた。
 2回目は2006年7月で、こちらはパワーストーン特集。六本木にあったRyuStudioにご自身がお持ちのパワーストーンを持ってきてもらって撮影。

 眞鍋さんがパワーストーンを愛用するきっかけは、知人から「水晶とトルマリンをおふろに入れるといい」とアドバイスされたから。パワーストーンの中でも、この2つの石が一番浄化作用があると言われたそうだ。
「この2つの石を入れたおふろに入ると、その日についた悪い気が浄化されると聞いて興味を持ち、軽い気持ちで始めました。そのころ、仕事が忙しく、ストレスも限界まできていたので、ちょうどいいきっかけでした。
 浄化作用を心の底から信じたわけではありません。でも、もし浄化のパワーがなくても、石をおふろに入れるだけでも悪くないので、早速、水晶とトルマリンを購入することにしました」
 眞鍋さんは、ある科学番組に出演してから、モノの見方や考え方が変わったという。
「以前、宇宙の90%くらいは物質でないものでできている、という話を聞いたことがあります。世の中には目に見えないものが90%もあって、それによって宇宙は成立しているという科学的な研究があり、それは地球においても例外ではないそうなんです。
 世の中でわかっていることは、10%程度しかないという話を聞いたとき、さまざまな可能性を感じました。
 石は、何億年という気の遠くなる歴史を刻んでいますから、そこにはやはり、なんらかのパワーがあると思います。
 そういったことも考えつつ、私は楽しみながらパワーストーンを使用しています」
 グラビアアイドル、マルチタレントとして活躍されていたが、2015年にザ・イエロー・モンキーのボーカル、吉井和哉氏と結婚。9月に婚姻届を提出し、10月に女の子を出産されたそうだ。
 最近はコメンテーターとしてテレビ番組に出演されているのを観ることも多いが、以前、彼女のワイドショーでのコメントについてfacebookに書いたことがある。
 この時は出版社のラウンジで撮影と書いているが、天王洲スタジオのタレントルームでした。

YouTubeから「プロアクティブ CM/眞鍋かをり」 「モナ王 CM/眞鍋かをり

眞鍋かをり オフィシャル・ブログ

眞鍋かをり Instagram

品川・天王洲スタジオ 2005年10月31日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2006年2月号
六本木・Ryuスタジオ 2006年7月12日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2006年11月号
#眞鍋かをり
#KaworiManabe
#アーカイブ

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5月12日(月)

 今月8日に選出された新ローマ教皇レオ14世が11日、サンピエトロ広場で即位後初めての講和を行い、「もう戦争をやめよう」と訴えた
 スウェーデンにあるストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が4月28日、2024年の世界の軍事費を発表した。それによると過去最高の2兆7180億ドル。日本円にすると約390兆円で、2025年度の日本の国家予算115兆1978億円の3倍以上になるそうだ。戦争や紛争の要因はいろいろあるだろうが、これだけの軍事費をその要因に向ければ解決できることもたくさんあるのではないだろうか。それができないのはネタニヤフのような汚職裁判を抱えた為政者が、戦争を続けることで裁判を長引かせる、あるいは敵を作り国民の目をそちらに向けさせようと考えているからか。ネタニヤフに限らず為政者にとって、戦争は自分たち(政府)への国民の批判を他者(敵国)へとかわすツールにもなる。しかし、気候変動や環境変化など地球全体で考えれば戦争をやっている余裕はもうないだろう。

 中居正広氏の代理人弁護士が、フジテレビと親会社フジ・メディア・ホールディングスが設置した第三者委員会に対し、調査報告書の「性暴力」の認定をめぐって「極めて大きな問題がある」と反論した上で、関連する証拠の開示を求めたと発表した。そんなことより、一番の当事者である中居正広氏はいつ記者会見を開くのだろうか。

 先日、長寿会から会費の徴収があり1500円納めた。これで正式に長寿会に入会したわけだが、地区の長寿会だけかと思ったら、領収書には高岡市の老人クラブ200円、町の長寿会200円と書かれており市町村の各長寿会にも加入したようだ。 

 この他の気になった記事を備忘録として。
政治家のおカネの「出入り」がカンタンに分かる…データベースをネットで公開 ホテルや飲食、店名まで詳しく
森友文書の一部欠落で財務省が回答…公表された概要リストに「安倍昭恵」の名前

◯サウンズ・オブ・ブラックネス

 1969年にミネソタ州セントポールのマカレスター大学の学生によって結成されたゴスペルを基調とするアーバン・コンテンポラリー・アンサンブル・グループ。この頃はマカレスター・カレッジ・ブラック・ヴォイセスと名乗っていたが、1971年にキーボード奏者のゲイリー・ハインズがディレクターとして参加し、サウンズ・オブ・ブラックネスに改名した。
 当初はボーカルの他、ギター、ベース、ドラム、パーカション、キーボード、ブラスセクションなど40人を越す大所帯のグループだった。大所帯であることや”黒人のサウンド”というグループ名が敬遠され長らくレコード・デビューできなかったという。1991年に音楽プロデューサー・ユニット、ジャム&ルイスが立ち上げたパースペクティヴ・レコーズから、アルバム『エヴォリューション・オブ・ゴスペル』をリリース。デビューまで結成から20年以上が経っていた。
 これまでにスタジオ・アルバム11枚、コンピレーション・アルバム4枚をリリースしており、アルバムの内容は半数以上がゴスペル以外の曲で、自らはゴスペル・グループとは名乗らず、ジャズ、ブルース、ロックン・ロール、スピリチュアル、レゲエ、ゴスペルなど、黒人音楽を全般を扱うグループであり、グループ名のサウンズ・オブ・ブラックネスがカテゴリーだとしている。
 共演したりレコーディングに参加したアーティストは、クインシー・ジョーンズ、スティーヴィー・ワンダー、プリンス、スティング、サンタナ、エリック・クラプトン、アッシャー、ジミー・ジャム&テリー・ルイス、L.A.リード&ベイビーフェイス、エルトン・ジョン、アンドリュー・ロイド・ウェバー、ルーサー・ヴァンドロス、アレサ・フランクリン、アニタ・ベイカー、アシャンティ、ドリー・パートン、ヴィンス・ギル、ライル・ラヴェット、ボブ・ディラン、ジョン・クーガー、パティ・ラベル、アース・ウィンド&ファイアー、シャーリー・シーザー、ヨランダ・アダムス、カーク・フランクリン、ケニー・G、ビル・クリントン大統領、ジェイ・レノ、レナ・ホーン、アイザック・ヘイズ、リトル・リチャード、B.B.キング、ミネソタ管弦楽団、ジョニー・マティス、ビリー・クリスタル、ロビン・ウィリアムズ、ジム・キャリー、ウーピー・ゴールドバーグ、ロバート・デュヴァル、マヤ・アンジェロウなど多岐にわたる。
 彼らのステージを撮影したのは、4枚目のアルバム『タイム・フォー・ヒーリング』がリリースされた1997年。長らくリード・ボーカルを務めていたアン・ネズビーが脱退した翌年だった。『ミュージック・マガジン』の取材で、会場はラフォーレミュージアム六本木。MINI REVIEWSというページに掲載され、コンサート評を鈴木啓志さんが書いている。

YouTubeから「Sounds of Blackness - Optimistic LIVE at the Apollo 1994」 「Sounds Of Blackness - Soul Holidays

サウンズ・オブ・ブラックネス 公式ウェブサイト

ラフォーレミュージアム六本木 1997年7月8日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1997年9月号
コンサート評は鈴木啓志さん
#サウンズオブブラックネス
#SoundofBlackness
#アーカイブ

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サウンズ・オブ・ブラックネス

◯逹明一派

 ギターの劉以達(ラウ・イダ)とボーカルの黄耀明(アンソニー・ウォン)により、1985年に結成された香港を活動拠点とするグループ。
 彼らを撮影したのは1990年9月に新宿厚生年金会館で開催された、アジアの恵まれない子供達のためのチャリティー・コンサート「こどもAID・フォー・アジア」に出演した時だった。『ミュージック・マガジン』1990年11月号の小倉エージさんによる逹明一派へのインタヴュー記事に掲載する写真として撮影している。エージさんの記事によると、このコンサートには彼らの他に韓国の新村ブルース、日本の上々颱風、人間椅子、シンガポールのディック・リーが出演している。
 インタヴューはコンサートの翌日、28日に新宿プリンスホテルで行われているが、自分は同席していない。
 1990年は、中国で天安門事件が起きた翌年だ。そして7年後の1997年には香港の主権がイギリスから中国に返還されることが決まっていた。
 エージさんが「現在のところ最新作にあたる『神經』のことだけど、その根底には、昨年6月4日の天安門事件のことがあるわけですよね。以前『我等著你回來』というアルバムを作り、97年という目前に迫った現実をテーマにしてきたわけだけど」と話しを振ると、アンソニー・ウォンが「『我等著你回來』は、アルバムを通して87年当時の香港の状況や雰囲気を伝えたものです。87年当時、香港の人々は将来に対する不安を持ちながら、撃たれる恐れはないと考えていた。しかし、天安門での虐殺があってから、その現実を目の当たりにして大きな衝撃を受け、神経過敏になって」「<6・4事件>以降<97年>に至る時期の中で、今こそ叙述しておくべき時だ、と。つまり、今ある緊張を描きたかった。もう一つには、生物学的な意味での神経、ある感覚が伝わってくる様子を表現しようと試みたわけです」と答えている。
 エージさんの「あの事件(1989年6月4日の天安門事件)の時、あなたたちはどうしていたのですか?」という質問には、ラウ・イダが「ちょうど香港大学であったコンサートに出演していて、事件を知ったのは家に帰ってからでした。TVを見て愕然とし、朝までTVに釘づけになっていました。当然それまで北京の学生達の動向に関心を持っていましたし、事件が起きる前にデモにも参加し、特に8号台風をついて行われたデモの時には、ある種の感慨を覚えたこともあったのですが。事件のあとは<97年>のことに思い及ぶよりも、すべてが混乱していましたし、何か曲を書かねばならない、そんなことばかりが頭の中にありました。といって何を書けばいいのかもわからないような状態でしたが、ともかくその時の自分の素直な気持ちをメロディにして、黄耀明に見せ、話し合いながら歌詞の内容を煮詰めていったわけです」と話している。
 wikiによると1990年に最初の解散をしているそうなので、このインタヴューの直後だろうか。その後、1996年から2003年、2011年から活動を再開しているようだ。
 劉以達(ラウ・イダ)は1963年2月27日生まれ。高校時代にロック・ギタリストのコンテストで入賞し、それをきっかけに音楽界に入ったという。逹明一派を解散してからは劉以達與夢というユニットやソロでも活動。映画界にも進出し、93年の香港映画「誘僧」の音楽などを担当する他、俳優として「新不了情」、「大內密探零零發」などに出演しいるそうだ。
 黄耀明(アンソニー・ウォン)は1962年6月16日生まれ。1990年の逹明一派解散後はソロ歌手として、また俳優として活動。wikiによると1992年から2014年までの間にベストやコラボレーションを含む31枚のアルバムをリリースしている。1999年には「人山人海」名義のライブなどで共同作業していた蔡德才、梁基爵、李端嫻、亞里安、于逸堯らと音楽製作&レーベル会社人山人海音楽製作公司を設立し社長を務めている。
 自分自身は逹明一派を撮影した1990年に、双葉社の『格安航空券ガイド』という雑誌の仕事で香港へ初めて行った。ファクトリーバーゲン(アメリカやヨーロッパのブランド品が安く買えるショップ)の取材だった。まだ九龍城砦があった時代。それから35年、一国二制度は形骸化し政治活動への締めつけが強まった。今の香港を35年前に予想できていた人はどれだけいるだろうか。

YouTubeから「達明一派 天 問 1990」 「石頭記/逹明一派

人山人海 公式ウェブサイト

新宿厚生年金会館 1990年9月27日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1990年11月号
インタヴュアーは小倉エージさん
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逹明一派

5月10日(土)

 フェーン現象で、日中は高岡市でも最高気温が30℃まで上がったようだ。明日はグッと下がって最高気温20℃の予想。
 今月3日の憲法記念日に那覇市内で開催された憲法シンポジウムで講演を行った自民党の西田昌司議員が、ひめゆりの塔を訪れた際に見た説明書きに「要するに日本軍がどんどん入ってきてひめゆりの(学徒)隊が死ぬことになった。アメリカが入ってきて沖縄は解放されたという文脈で書いている」「まるで亡くなった方々が報われない。歴史を書き換えられると、こういうことになっちゃう」と発言し、沖縄の関係者のみならず自民党や連立を組む公明党からも批判を浴び、昨日になって急遽お詫びと訂正の記者会見を行った。しかし、訂正は講演の中で「ひめゆりの塔を持ち出したこと」に対してであり、ひめゆりの塔の説明書きについて「歴史の書き換え」という印象を受けたことは改めないとしている。しかし、ひめゆり平和祈念資料館の普天間朝佳館長はそもそも過去にも現在にもそうした展示は行なっていないと話し、西田氏自身も記者団に詰め寄られると「展示の文章は私自身、覚えていない」と開き直り、あくまでも自分が受けた印象だという。いったい西田氏はどこでどんな展示を見たのだろうか。
 「白旗の少女」という写真がある。沖縄戦でアメリカ軍によって撮影されたもので、おかっぱ頭の少女が木の棒の先に白旗をつけて手を振る様子が写されている。アメリカ軍による沖縄戦の記録映画を募金によって買い取る「子供達にフィルムを通して沖縄戦を伝える会」の「1フィート運動」で手に入れたフィルムの中にも、同じ場面を撮影したものがあったという。この写真の被写体になった女性は判明しており、その女性が自身の体験をもとに執筆した小説や、それを元にしたテレビドラマも作られている。
 wikiにそのあらすじが載っているが、<住民の敵はアメリカ軍だけでなく、日本軍も敵と言ってよい存在であった。日本兵は沖縄の人々を守ってくれなかった。彼女は日本兵に軍刀で切りつけられようとさえした。死んだ日本兵はなんども目にし怖くはなかったが、生きている日本兵は恐ろしい存在だった><とあるガマ(洞穴)に入ったところ、そこには老夫婦がこもっていた。その老人は両手両足がなく、目の不自由な老婆に身の回りの世話をさせ、その洞窟で暮らしていた><洞窟の外からアメリカ軍の呼びかけが聞こえた。これから爆弾を投げ込むから、その前に投稿することを呼びかけるものだった。老人は老婆へ指示し、自分のふんどしで白旗を作らせ、その旗を彼女に持たせた。そして「世界中の約束だから、これを持ってれば大丈夫だ」と言い聞かせ、自分たちを残して1人で投稿するよう促した>
 このような「白旗の少女」のストーリーをどこかで読んだか見たかした記憶が、西田氏の頭の中で脳内変換されてひめゆりの塔の展示に書かれていたことになったのではないかと想像している。ひめゆりの塔も、ガマの上に建っている。
 「白旗の少女」に限らず日本兵にガマを追い出されたり自決を命じられた話は数多くあり、アメリカ軍に投降を呼びかけられて命拾いした話は他にもある。しかし、それでアメリカが入ってきて沖縄は解放されたと思っている沖縄の人はいないと思うが。
 西田氏は「これは我々京都の中でもですね、共産党が非常に強い地域ですけれどもね。ここまでなんていうか、間違った歴史教育は、まだ京都ではしてません。沖縄の場合にやっぱり地上戦の解釈を含めてですね、かなりむちゃくちゃなこの教育のされ方をしてますよね」とも発言している。展示の文章は覚えておらず、あくまでも自分が受けた印象だという人が、何を根拠に沖縄の歴史教育を間違いだと言っているのだろうか。こんな雑な話を聞かされた主催者の沖縄県神社庁と日本会議沖縄県本部の感想を聞いてみたい。

 この他の気になった記事を備忘録として。
憲法記念日に世界の軍事費を考えた 願うだけで平和は来ない、でも…〈世界と舫う 畠山澄子〉
「国会で質問されないよう廃棄」 森友文書の欠落、財務省が説明
戦争検証の中止申し入れ 自民保守系、官房長官に

◯にしん

 下町のパフィーとも呼ばれた女の子のデュオ・グループ。
 にしんを初めて見たのは、2005年4月24日に横浜のThumbs Upで開催されためおと楽団ジキジキが主催する『第3回 面白音楽祭り』だった。77歳のノコギリ演奏家や落語家に混じって、6月に徳間ジャパンからメジャーデビューするという彼女たちが登場した。驚いたのは、彼女たちが「江戸川大橋」「EASY GIRL」というダディ竹千代こと加治木剛作詞作曲のおとぼけCatsのナンバーを歌ったことだ。アイドル然とした衣装と振り付けで昭和歌謡風な曲を歌う、平成のザ・ピーナッツといった印象だった。
 掲載した写真は、彼女たちのホームグラウンドだった錦糸町アルカキット前での2005年5月19日の路上ライブと、2005年6月19日に亀戸駅前のコロナレコード店でのCD発売記念店頭ライブ。
 彼女たちのライブは、この後、もう1回錦糸町の路上ライブを見に行っただけでCDで楽しんでいたが、いつの間にか活動を停止してしまった。
 サイトも閉鎖され、YouTubeにも音源が見つからなかった。資料としては、六本木のmorf tokyoのサイトに少しまとまった記事があるくらいだ。
 家にある彼女たちのCDで製作したディスコグラフィーが下の4枚。
 インディーズからのデビューアルバム『にしんのKAYO-SONG』以外は、マキシシングルになっている。
『にしんのKAYO-SONG』(LaLaLa Records)2004年11月8日発売 8曲入り
『にしんの唄(メジャー盤)』(徳間ジャパン)2005年6月17日発売 4曲入り
『GO! GO! ASAXXY アサクサ』(徳間ジャパン)2005年11月2日発売 3曲+カラオケ
『TABOO』(徳間ジャパン)2006年3月22日発売 3曲入り
 『にしんのKAYO-SONG』には、ダディ竹千代作「江戸川大橋」「ヨコハマクラブⅡ」「EASY GIRL」「意欲」の4曲も収録されている。
 江戸川ひとみ、荒川よしみと下町を流れる川を芸名に付けたセンスは、ダディさんが名付け親か?とも思うが、どうだろう。

錦糸町アルカキット前 2005年5月19日撮影
亀戸・コロナレコード店 2005年6月19日撮影

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にしん
魅川憲一郎

◯魅川憲一郎

 沖縄県浦添市出身のものまねタレント。芸名からも判るように、美川憲一さんのものまねで人気を博している。沖縄以外ではあまり知られていないと思うが、沖縄に住んでいるとテレビ番組やCMでしょっちゅう見る人気タレントだ。
 沖縄アクターズスクール出身で、早坂好恵さんと同期。美川憲一さんのものまねをキッカケにタレント活動を始めたそうだ。
 沖縄県那覇市にある公設市場に近い平和通り商店街にあった「ひやみかちマチグヮー館」というイベント会場で、無料のものまね歌謡ショーがあるというので見に行ったことがある。年配の女性を中心に大人気で、開演直前に椅子を追加したが、それでも立ち見の人が大勢いらした。
 2009年7月1日に活動10周年を記念してオリジナルCDを発売。自らのイベントの後に手売りして、発売5カ月で累計販売数1000枚を達成したそうだ。

YouTubeから「蟹座の男/魅川憲一郎

魅川憲一郎さんによる沖縄ファミマのCM映像

ファミンチュ 魅川憲一郎インタヴュー

魅川憲一郎 Instagram

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5月8日(木)

 自民党のお騒がせ議員、西田昌司氏が憲法記念日の今月3日、沖縄・那覇市内で開催された憲法シンポジウムで講演したそうだが、その時の沖縄南部にあるひめゆりの塔に関する発言が波紋を呼んでいる。
 西田氏は数十年前にひめゆりの塔を訪れた時に見たという説明書きについて「要するに日本軍がどんどん入ってきてひめゆりの(学徒)隊が死ぬことになった。アメリカが入ってきて沖縄は解放されたという文脈で書いている」「まるで亡くなった方々が報われない。歴史を書き換えられると、こういうことになっちゃう」と批判したが、ひめゆり平和祈念資料館の普天間朝佳館長はそもそも過去にも現在にもそうした展示は行なっていないという。西田氏が記者からその見たという展示について問われると「展示の文章は私自身、覚えてない」とし、発言は自分が受けた印象だと答えている。展示の文章を覚えておらず、自分の印象だけでこの人は堂々と講演会で発言するのか。それこそ書き換えと捏造だろう。
 また、西田氏の発言については自民党内や連立を組む公明党からも批判が出ているが、「私の意図とは無関係に切り取られた記事が、この誤解を生んだ」と報道した側を批判した。RBC琉球放送が西田氏の発言をノーカットで掲載しているが、発言そのままだろう。
 このシンポジウムを主催したのは沖縄県神社庁、日本会議沖縄県本部で、自民党県連が共催している。この西田氏の発言について神社庁と日本会議の意見を聞いてみたい。また、西田氏はマスコミをクローズしたシンポジウムだったと記者会見で述べているが、統一教会系の世界日報が堂々と記事を配信している。
 この憲法シンポジウムには沖縄選出の国場幸之助議員も講演者として出席しており、西田氏の発言に対して「なぜ憲法に関するシンポジウムでこんなことを話しているのか、理解できなかった。自民党県連は共催者として、招いた講師がどのような内容を話すのか、事前に確認するべきだった」と、県連の責任を指摘したそうだが、それならその場にいたあなたが西田氏に直接認識の誤りを指摘すればよかったのではないか。西田氏の発言がこのように炎上しなかったら彼は何の問題意識も持たなかったのではないだろうか。
 ちなみに国場幸之助氏は沖縄の大手建設会社、国場組の創業家の親族で、国場組は辺野古の新基地建設工事を受注している沖縄県内最大の建設会社だ。2014年、2017年、2021年、2024年の衆議院選挙で赤嶺政賢氏に敗れているが、全て比例で復活している。
 国場氏から名刺を渡されたことがある。糸満市で開催された「おきなわ豊かな海づくりフェスタ in 糸満」のために来沖された天皇皇后両陛下を歓迎する「天皇陛下奉迎提灯大パレード」が2012年11月18日に行われ、そのパレードの出発地である国際通り近くの緑ヶ丘公園を歩いていると、公園の入り口に立っていた国場氏が来場者に名刺を配っていた。この「天皇陛下奉迎提灯大パレード」は天皇陛下奉迎沖縄実行委員会が主催となっているが、熱心に情報発信していたのは日本会議の印象がある。
 西田氏については、今年3月に自民党衆院1期生に石破首相が1人10万円分の商品券を配って問題になった時に、こんな文章を書いている。
<自民党内で石破下ろしの急先鋒に立っている 西田昌司参院議員は「(新年度)予算を通すこと自体も大変になってくる。けじめをつけてもらいたい」と迫ったそうだが、裏金議員で壺議員の貴方が先ずはけじめをつけて議員辞職してはどうだろう>
 憲法シンポジウムという冠のようだが、県神社庁、日本会議沖縄県本部が主催なら憲法改正へのシンポジウムだろう。そのシンポジウムに登壇して講演する人物がこのレベル。憲法改正などさせてはいけない。

西田氏「新聞見てない」 展示は「覚えていない」ひめゆり発言根拠問われ 沖縄
西田議員の「歴史書き換え」発言、ひめゆり館長否定「非常に疑問」
【ノーカット】 "ひめゆり"は「歴史の書き換え」 自民党・西田昌司参院議員発言の全容と真意は 独自映像
自民“裏金議員”西田昌司氏が沖縄戦に許しがたいイチャモン…次期参院選に推薦した公明は真っ青
西田氏のひめゆり発言、研究者ら批判 「証言や資料を無視」「歴史修正主義者だ」

天皇陛下奉迎提灯大パレード
↑2012年11月18日に那覇で開催された「天皇陛下奉迎提灯大パレード」。
 この他の気になった記事を備忘録として。
「私は闇献金をしてきました」石破首相“元側近”が週刊文春に告白する「3000万献金」《収支報告書不記載の疑い》
イギリスが核燃料サイクル断念 プルトニウム「ごみ扱い」、地中処分に
トランプ米政権、激化する「知」への攻撃 助成金削減で大学に圧力―人材流出、先行きに影

◯ダディ竹千代

 ダディさんが亡くなって、今月9日で一年となる。亡くなる1週間ほど前のfacebookに、<賢明に生きます。だが、3年もつかな?>と投稿があって、そんなに具合が悪いの??と思っていたら、3年どころではなく1週間・・・突然すぎるお別れだった。
 昨年3月、『Dr.スランプ』の作者、鳥山明さんが亡くなり、その2ヶ月ほど後に『Dr.スランプ』の登場人物・則巻千兵衛のモデルだといわれるダディさんも亡くなってしまった。不思議な巡り合わせだな。
 カルメン・マキ&OZの曲の中では「私は風」ももちろん好きだが、高校生の頃は「午前1時のスケッチ」や「六月の詩」が好きでよく聴いていた。この素敵な詞を書いた加治木剛という作詞家はどんな人だろうと思っていたら、数年後にダディ竹千代という名前で目の前に現れ”し~びれちゃった し~びれちゃった し~びれちゃったよ”と「電気クラゲ」という曲を歌っていて驚いた。
 1979年から1980年ごろにダディ竹千代&東京おとぼけCatsのドラマーだったそうる透さんのローディーをしていて関東、関西、九州とおとぼけCatsのツアーに同行したりしていたが、透さんのローディーをやめてから何十年とダディさんとも会う機会がなかった。それが、2007年にダディさんが「新橋ZZ」というライヴハウスをオープンする少し前に乃木坂の駅でバッタリと会った。
 外苑東通りから乃木坂駅の改札に向かって階段を降りる途中で、外苑東通りに向かって階段を上って来るダディさんとすれ違った。あれ!?と思って「ダディさん?」と声をかけた。向こうはわからないようだったので、「もりお」と言うと、風貌の変化に「こりゃ、わからないよ~」と笑っていた。
 名刺交換して別れて、どれくらい経ってか覚えていないが、ある日電話がかかってきて新橋でライヴハウスをオープンするにあたりメニューの試食会をするというので呼び出された。お店に行くとお店のスタッフとしてボーン助谷さんがいて、これまた何十年ぶりかの再会。お店で出す料理、ツマミについての感想・意見を求められた。柴田書店の雑誌で飲食店の取材も多かったので、料理の値段を500円なり300円なりに統一したらどうかと提案した。都内にそうした均一料金の居酒屋がポツポツ出店していた時期だった。
 お店がオープンしてからは年に何回かライヴやイベントを見に訪れたし、ダディさんがプロデュースするというので、GSバンド「サニー多咲とバブルジェッツ」のCDジャケット用の写真も撮りに行った。一番最後は奄美大島に移住する前年、2009年6月のヘッケル田島さんと越中さん2人によるアコースティックT-BIRDのライヴだったかもしれない。

 OZに提供した「午前1時のスケッチ」「六月の詩」「空へ」、おとぼけ時代の「船乗りの夢」「青年」「Eazy Girl」など名曲だなっと思うダディさん作詞の曲はたくさんあるが、個人的に隠れた名曲だと思うのが「航海」だ。ロマンチスト、ダディ竹千代の真骨頂。

【航海】
今なら日々の暮らしに
自分をなくすとしても
すぐに話せる あなたがいてくれるならば
素直な気持ちのままで、夜を渡る・・・
やさしい人は
この胸に眠る
めぐりゆく恋の季節を遠くで
ながめたあの日
嵐がやんだら 長い航海へ
あなたは帰る時代の海へと
流されながら
あるがままに

 ダディさんのプロフィールなどはwikiに掲載されているが、掲載されていない情報は1979年製作の日活ロマンポルノ『Mr.ジレンマン 色情狂い』という東京乾電池のメンバーが出演した映画の音楽をダディ竹千代&東京おとぼけCatsが担当したこと。確かちょこっと出演もしているはず。
 1979年のスケジュール帳の9月17日の欄に<日活「Ms.ジレンマン」撮影>、9月25日・26日の欄に<日活 音入れ>と書かれている。

YouTubeから「ダディ竹千代&東京おとぼけCatsー電気クラゲ/なかよし音頭」 「船乗りの夢/ダディ竹千代&東京おとぼけキャッツ」 「航海/ダディ竹千代&東京おとぼけキャッツ

ダディ竹千代と東京おとぼけCats  公式ウェブサイト

 添付した写真の1、2枚目は2007年5月24日に行われたダディ竹千代生誕祭の模様。ゲストはめおと楽団ジキジキ、埼玉おとぼけCats、グレート義太夫さん。3枚目は2008年4月4日に開催された「渋谷・屋根裏同窓会」での小川銀次さんとのツーショット。4~8枚目は1980年前後に当時おとぼけキャッツのライヴ写真を撮っていた宇佐美卓哉さんが撮影したものだと思う。
#ダディ竹千代
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ダディ竹千代
めおと楽団ジキジキ

◯めおと楽団ジキジキ

 世田谷キヨシさんとカオルコさんによる夫婦音楽デュオ。
 初めてジキジキのライヴを見たのはイラク戦争が始まる前日の2003年3月19日、池尻大橋CHADでのステージだった。wikiによればジキジキは1998年から世田谷用賀を拠点として月1回のペースで活動を開始とあるが、その拠点はm-floのメンバー、LISAの実家である焼き鳥屋「やきとり天国」ではなかったか。実際に「やきとり天国」でのライヴは見ていないが、そんな話を埼玉おとぼけキャッツの中島はるさめさんのサイト、つう好み通信で読んで、世田谷きよしことキー坊金太さんこと来往野潔さんの消息を知って会いに行ったんだと思う。
 ジキジキは落語協会とボーイズ・バラエティー協会に在籍しており、ボーイズ・バラエティー協会のサイトに掲載されているプロフィールを引用すると、

・世田谷キヨシ(ギター、コーラス、作、編曲)
小学校6年生の時に聴いたビートルズとクレージーキャッツをきっかけに音楽を始め、1978年「ダディ竹千代と東京おとぼけキャッツ」のギタリストとして、ビクターよりデビュー、各種音楽製作に携わる傍ら、青山レコーディングスクール講師などで、後進の指導に当たる。
・カオルコ(歌、ピアニカ、アコーディオン)
4歳よりピアノを始め、武蔵野音楽大学声楽科にてドイツ歌曲を専攻。卒業後はベビーシッターとしてドイツに3年間在住。帰国後、旅行代理店・YAMAHAピアノ講師など様々な仕事を経験。
 ダディ竹千代と東京おとぼけキャッツ時代の芸名がキー坊金太で、自分が知っているのは1970年代後半から80年代前半のキー坊金太さんの時代。自分の中ではおとぼけの金太さんから、ジキジキの世田谷キヨシとして目の前に現れるまで20年ほどの空白があった。
 ジキジキのステージは何回か撮影しているが、掲載したのは2014年沖縄・那覇市桜坂のバー「ドラミンゴ」でのステージと、2015年白馬村でのノーキー・エドワーズさんと共演した際のステージ。

YouTubeから「聖地巡礼2/めおと楽団ジキジキ」 「ホテル北津軽/めおと楽団ジキジキ

ダディ竹千代と東京おとぼけCATSとは何だったのか? キー坊金太(来住野潔)が語る〈お笑いロックバンド〉のヒストリー

めおと楽団ジキジキ 公式ウェブサイト

那覇市桜坂・バー「ドラミンゴ」 2014年4月11日撮影
白馬村・ウイング21文化ホール 2015年10月5日撮影
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5月6日(火)

 先週『カムカムエヴリバディ』の再放送が終了し、昨日から『とと姉ちゃん』の再放送が始まった。再放送で『カムカムエヴリバディ』のストーリーの面白さ、脚本の素晴らしさを改めて認識した。昼の時間帯は『カムカムエヴリバディ』と『おむすび』が続けて放送され、そのドラマの質の差に『おむすび』が可哀想になるくらいだった。
 さて、『とと姉ちゃん』と言えば宇多田ヒカルが歌う主題歌「花束を君に」。2016年に放送が始まった時、ドラムがあまりに気持ちいいので誰か調べたらイアン・トーマスだった。ミュージシャンの名前を気にして音楽を聴くことがなくなってイアン・トーマスの名前も知らなかったが、エリック・クラプトンやスティング、スティーブ・ウィンウッド、ロビー・ロバートソンなどのレコーディングやライヴにも参加しているイギリスの売れっ子セッション・ドラマーだそうだ。スネアやベードラ、フィルインなどのタイム感が絶妙で気持ちいい。

 普段からメイクしない君が薄化粧した朝
 始まりと終わりの狭間で
 忘れぬ約束した

 以前も書いたが、彼女の母親、藤圭子さんの訃報を聞いたのは石垣島のゲストハウスに流れていたTVニュース。2013年8月22日、石垣島へ旧盆行事の撮影に来ていた。この年は前日の21日がウークイ(送り盆)だった。美しい詞だけれど、この詞を書き上げるまでの彼女の心の葛藤を想像すると壮絶な詞だなとも思う
 その宇多田ヒカルの新曲「Mine or Yours」が今月2日に配信リリースされた。その歌詞に「どの道を選ぼうと 選ばなかった道を失う寂しさとセット 令和何年になったらこの国で 夫婦別姓OKされるんだろう」という一節があり、ネトウヨ界隈がSNSで「宇多田ヒカル、誰にいくら貰ったんでしょうね?最低な人です 大嫌いになりました」「宇多田さんはインター育ちなので日本の歴史、文化を知らないから利用されたと思います」「残念です デビュー当時から応援してたのに日本が侵略されることに後押しするなんて酷いよ」「こんな事歌詞で入れるなんて異常だぜ?100%金貰っとるやん でもこのクラスを金でここまでやらせるのには数十億必要だよね もっとか?」などと訳の分からないコメントをしていて草。どうしたらここまで非常識になれるのか?

宇多田ヒカル、新曲歌詞で「夫婦別姓」めぐりSNSで賛否多様

◯ウォーマッド’92横浜

 1992年9月、前年に続き日本で2回目の開催となるウォーマッドが横浜で行われた。この様子を『ミュージック・マガジン』が1992年11月号で37ページという大特集を組んで紹介している。
 特集記事のリード文が、その概要をわかり易く紹介しているので引用させてもらう。
<昨年に続いて、日本でのウォーマッドが9月5、6日の二日間、横浜で行われた。第1回が晩夏の陽射しの下だったのに対して、今回は初秋の爽やかな風の中での開催。会場は昨年と同じ横浜市の臨港パーク周辺だったが、開発が進んで昨年とはかなり違う状況になっており、横浜港に接した屋外ステージ”海のアリーナ”と、パシフィコ横浜・展示ホールを使った”陸のステージ”でのライヴとなった。昨年より出演者の数は減ったけれど、ひとつひとつのコンサートは熱演ぞろいで、会場の温度は上がりっぱなし。来日が待たれていたインドネシアのロマ・イラマや、ヌスラット、パパ・ウェンバといった、本誌ではおなじみの人たちをはじめ、参加アーティストたちが皆、その実力を見せつけた。この特集では、素晴らしいライヴを見せてくれた彼らへのインタヴューを中心に、今年のウォーマッドを振り返ってみたい。37ページという前代未聞のヴォリュームで堪能して欲しい>
 コンサートは9月5日、6日の2日間だったが、4日の18時からレセプション・パーティーも開かれていた。92年も『ミュージック・マガジン』から石田昌隆さん、板垣真理子さん、大熊一実さん、菊地昇さん、酒井透さん、菅原光博さん、前原猛さんとたくさんのカメラマンが派遣されて、それぞれ担当アーティストのコンサートやインタヴュー写真を撮影している。ボクの担当は4日に行われたレセプションの撮影と、南インドのマンドリン奏者、U.シュリニヴァースのコンサートとインタヴュー撮影。掲載誌を見るとおおたか静流さんのコンサートもボクの写真が使われているので担当だったのかもしれない。91年の時は担当したアーティスト以外は2人しか撮影していなかったが、92年は担当以外のステージもまわって出演したアーティストを一通り撮影することができた。

出演者リスト
9月5日(土)
ディ・ダナン・/おおたか静流/パパ・ウェンバ/ロマ・イラマ&ソネタ・グループ/ヌスラット・ファテ・アリー・ハーン/U.シュリニヴァース/ビブラストーン/パッツイー・リキッツ&カール・メサード
9月6日(日)
ボ・ガンボス/U.シュリニヴァース/シーラ・チャンドラ/ザイナル・アビディン/都はるみ/河内家菊水丸/サンディー/ロマ・イラマ&ソネタ・グループ/S.E.ロジー/フィナーレ

YouTubeから「Nusrat Fateh Ali Khan - Mustt Mustt (Live at WOMAD Yokohama 1992)」 「U. Shrinivas ji at WOMAD, 1992YOKOHAMA U.シュリーニヴァース:インド」 「Acara TV Jepang ’92 Rhoma Irama.」 「Papa Wemba - Bakwetu (live at World In The Park 1992)」 「Sheila Chandra / Womad festival 1992 in Seinäjoki Finland」 「De Danann - The Arrival of the Queen of Sheba (in Galway)」 「S.E. Rogie 'I wish I was a cowboy' Dutch TV live 1989」 「Womad '92 Yokohama - finale (1/2)

ウォーマッド 公式ウェブサイト

横浜みなとみらい 1992年9月4日、5日、6日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1992年11月号
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ウォーマッド'92
U.シュリニヴァース

◯U.シュリニヴァース

 1969年生まれの南インド古典音楽(カルナータカ)のマンドリン奏者。
 彼を撮影したのは、1992年に開催された日本では2回目となるウォーマッドへの出演の時だった。『ミュージック・マガジン』での取材で屋外で行われたコンサートと、彼が宿泊していたホテルでのインタヴューの撮影を担当した。インタヴュアーは井上貴子さんで、当時のプロフィールには<岐阜生まれ。名古屋芸術大学講師。故小泉文夫氏の門下で民俗音楽を研究。インド声楽家としても活躍中>と書かれている。最近になって、彼女とダディ竹千代こと加治木剛さんが繋がりがあると知って驚いた。
 カルナータカ音楽は主にヴォーカルとムリダンガムと呼ばれる両面太鼓、ヴァイオリンやフルートの伴奏で行われるそうで、彼が登場するまでマンドリンが使われることはなかったようだ。
 インタヴューは、マンドリンを始めたキッカケからスタートしている。

「マンドリンを始めたのは6歳の時だった。僕は音楽一家に生まれたし、父はクラリネット奏者だから、音楽家になるのは当然のことだと思っていた。ただ、インド音楽ではシタールやヴィーナーは誰もがやっているが、僕は何か新しいことがしたかったんだ」
 またアコースティックからエレクトリック・マンドリンに変更したことについては、
「最初はアコースティックを使っていたんだけど、音がダンダンって切れてしまうんだ。エレクトリックは、音がつながるからラーガの演奏には向いている。インドでは、もう25年も前からエレクトリック・マンドリンが作られているし、これもマドラス製だよ。だけど、アンプは普通ヤマハを使っている」と話している。
 wikiによれば、彼はインド古典音楽のモーツァルトと呼ばれ、天才児だったと紹介されている。1998年にインド政府からバドマ・シュリー賞、2009年にインドの国立音楽・舞踊・演劇アカデミーであるサンギート・ナタック・アカデミーからサンギート・ナタック・アカデミー賞が贈られている。
 残念なことにU.シュリニヴァースは2014年9月11日に肝臓移植手術を受け、その後、合併症で9月19日に病院で亡くなってしまった。45歳という若さだった。
 彼が亡くなったのを知ったのは、小川銀次さんのブログからだった。彼の余りに若い死にも驚いたが、銀次さんがインドの若きマンドリン奏者、U.シュリニヴァースを聴いていたのにも驚いた。でも、U.シュリニヴァースはジョン・マクラフリンとも共演しており銀次さんが聴いてそうなミュージシャンだと思い直した。
 パコ・デ・ルシアが2014年2月25日、U.シュリニヴァースが2014年9月19日、小川銀次さんが2015年8月2日と超絶技巧のミュージシャンが相次いで亡くなった。

YouTubeから「Amazing young indian mandolin player U. Shrinivas (or Srinivas) and violin player Kanyakumari」 「U. Srinivas (slide mandolin maestro) live in Spain - Festival "La Mar de Músicas" - Cartagena 2003」 「John Mclaughlin,U Srinivas,Zakir Hussain,V Selvaganesh,Mahadevan- Jazz a Vienne

横浜・インターコンチネンタル・ホテル 1992年9月5日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1992年11月号
#Uシュリニヴァース
#USrinivas
#ウォーマッド92横浜
#WOMAD92YOKOHAMA
#アーカイブ

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5月4日(日)

 昨日、外注したA1サイズのプリント2枚が到着した。5年前のミュゼふくおかカメラ館での写真展では山田写真製版所にお願いしたが、今回は以前ネットで見つけて気になっていたサイビッグネットに発注。梱包送料が全国一律税込1,100円かかるが、価格はA1サイズで税込3,025円。若干紙が薄手な気もするが、半光沢紙なのがポイント高い。プリントの色も濃度も問題なし。さっそくA1サイズのフレームに額装。
 これで64枚のプリントと額装が完了。キャプションもできているし、レイアウト模型もできている。
 と言うわけで、1日限りですが5月18日(日)、高岡文化ホールで開催されるイヴェント『タカブン・ミュージックステージ』で、写真展をさせていただきます。展示場所は大ホールのエントランスになります。
  まだまだ先だと思っていたら、もう2週間後ですね
昨日届いたA1サイズのプリント
写真展用の制作物
↑昨日届いたA1サイズのプリント。↓レイアウト模型。→写真展用の制作物。
レイアウト模型
 気になった記事を備忘録として。
教皇に扮した画像、トランプ氏が投稿 キリスト教団体などから批判
ひめゆりの塔の展示は「ひどい。歴史の書き換えだ」自民・西田参院議員が発言 憤る平和祈念資料館長「沖縄戦体験者の思いを踏みにじる」
下地イサム

◯下地イサム

 沖縄県宮古島出身のシンガーソングライター。ミャークフツ(宮古口、宮古方言)の歌詞を、ブルースやレゲエなど様々なジャンルの音楽に乗せて歌う。ミャークフツは「ン」から始まる言葉があったり、「パピプペポ」と言った破裂音がたくさん使われるなど沖縄本島の方言とも違い、今ではユネスコの絶滅危惧言語の<危険>に分類されている。その発音はフランス語に似ているといわれ、実際ボソボソっとした発音は異国の言葉を聞いている趣がある。
 自分が沖縄に滞在している2013年~2014年頃にテレビCMでよく流れていたのが、彼が歌うオリオンビール・ドラフトのCMソング「希望を注げ」だった。まだ名前の表記をイサムではなく勇としていた。この曲はミャークフツではなく、珍しくやまと口(本土の言葉)で歌われていた。
 下地イサムさんのステージを見たのは2013年の那覇ハーリーの時で、会場である那覇新港ふ頭に設けられたオリオンビールのステージだった。「希望を注げ」以外はミャークフツで歌われるため、歌詞の意味はほとんど理解できなかったが、それでも楽しいライヴだった。

 下地さんのライヴを見たら帰る予定だったが、次の新良幸人さん率いるパーシャクラブのステージも堪能した。
 本人の公式サイトからプロフィールを引用させてもらう。
 1969年生まれ沖縄県宮古島市平良出身。オリジナル曲のほとんどを、自身の出身地宮古島の言葉(ミャークフツ)で歌うオンリーワン・アーティスト。
 沖縄県立宮古高校を卒業し18歳で上京。音楽とは全く無縁の7年間の東京生活を終え、25歳で沖縄本島に戻る。サラリーマンをしながら30歳の時に転機が訪れ、シンガーソングライターになる。
 2002年8月にインディーズでシングル「我達が生まり島」をリリース。同年12月にアルバム『天~tin~』をリリース。2005年にはインペリアルレコード(テイチクエンタテイメント)からメジャーデビューを果たす。現在は沖縄本島を拠点に、県外・海外でのライブ活動を展開中。「THE SAKISHIMA meeting」(新良幸人x下地イサム)や「シモブクレコード」(BEGINのギタリスト島袋優とのユニット)など、ソロ以外でも活動の幅を広げている。また、数々のアーティストへの楽曲提供も行っている。

 今年も昨日から那覇ハーリーが始まっている

YouTubeから「希望を注げ/下地勇 第39回那覇ハーリー 2013.05.03」 「おばぁ/下地勇」 「シモブクレコード (うたの日コンサート2013in嘉手納 前夜祭より)

下地イサム 公式ウェブサイト

那覇・新港ふ頭 2013年5月3日撮影
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新良幸人

◯新良幸人 パーシャクラブ

 1967年、沖縄県石垣市白保に生まれる。11歳から八重山古典民謡を、父である新良幸永に師事。
 1985年、高校在学中の17歳の時に最年少で八重山古典音楽コンクール最高賞を受賞。その後、進学のため那覇に移住。
 1993年よりバンド「パーシャクラブ」のメインボーカルとして活動。また、パーシャクラブの太鼓、仲宗根晢とアコースティック・パーシャのボーカル&三線奏者としても活動を行なっている。
 2003年11月にはソロ・アルバム『月虹(げっこう)』を発表。以上が本人のホームページとwikiを参考にしたプロフィールだ。
 パーシャクラブは新良幸人の他、上地正昭(コーラス・ギター)、神村英世(コーラス・ベース)、津波古慈乃(コーラス・ドラム)、仲宗根”サンデー”晢(コーラス・ドラム)からなり、楽曲は日本トランスオーシャン航空のCMや、オリオンビールのCMソングに起用されている。

 パーシャクラブのステージを見たのは、2013年の那覇ハーリー。会場である那覇新港ふ頭に設けられたオリオンビールのステージで、沖縄の女の子3人組ユニット、サンサナー も加わりパーシャクラブwithサンサナーというライヴだった。
 ソロでのステージは、2014年4月13日に沖縄市中央パークアベニューで行われた「第6回コザ・てるりん祭」で一度見ている。
 不定期ながら宮古島出身のアーティスト、下地勇とSAKISHIMA meetingという音楽ユニットでの活動も展開しており、2013年に1stアルバム『SAKISHIMA meeting THE BEST』、2017年に2nd アルバム『THE SILENCE OF SAKISHIMA』をリリースしている。

YouTubeから「小浜節/新良幸人」 「パーシャクラブ『五穀豊穣』 Parshaclub 那覇ハーリー」 「夏至南風 カーチバイ HONGKONG EN LIVE Sakishima Meeting 新良幸人 下地勇

新良幸人 公式ウェブサイト

パーシャクラブ 公式ウェブサイト

那覇・新港ふ頭 2013年5月3日撮影
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5月2日(金)

 5月になった。昨日は甥っ子が帰省しているので妹家族とお食事に。その帰りに2度目となるディスカウント・スーパー、ラ・ムーへ。予定になかったものまで、ついつい買ってしまう。
 今日、こんな記事がfacebookに流れてきた。モロヘイヤ。茹でてから水気を切って包丁で叩いてネバネバになったところに昆布つゆをかけ、ご飯にのせると美味しいんだが。注意しましょう。

 この他の気になった記事を備忘録として。
下水道管で遺体を発見 八潮の道路陥没 家族「信じること出来ない」
安倍夫妻が直接関与している期間が全ヌケ。森友学園事件の記録文書“公開されなかった75ページ”に何が書かれているのか
中学修学旅行先 万博取りやめ 習志野市など相次ぐ ガス検知、熱中症の懸念…行き先変更
ブリティッシュ・フォークの名ギタリスト、ウィズ・ジョーンズ死去
奇抜なヌードも「AIでしょ」で終わり──’90年代に「Yellows」でデジタルの可能性を示した写真家が生成AIを駆使する現実的な理由

◯渡辺隆雄 山開き

 トランペット奏者の渡辺隆雄さんがリーダーの「山開き」というバンドを、荻窪のライヴハウス「ルースター」に見にいったのは、T-BIRDのキーボーディストで山開きではキーボードとギターを担当していた中山努さんに声をかけてもらったから。2008年12月5日のことだった。
 その2ヶ月ほど前の10月11日にダディさんがプロデュースしていたライヴハウス「新橋ZZ」にT-BIRDのヘッケル田島さんと越中HU克彦さんのライヴを聴きにいったら、中山さんがキーボードで参加していた。中山さんと会うのは何十年ぶりかだったが、やはり渡辺隆雄さんがリーダーのMissing Linkというバンドでプレイしているのは知っていた。Missing Linkは元ミュージック・マガジンの編集長だった脇谷さんが立ち上げたレーベルStudio Weeから、『The Spell Was Cast』というアルバムをリリースしている。そんな話をしていて、山開きのライヴに誘ってもらったのだと思う。
 撮影した2008年当時は山開きのホームページがあったはずだが、今はリンクが切れている。名前の由来は登山好きのミュージシャンと、苗字に”山”という文字が入っているミュージシャンの集まりだからというものだったと記憶している。
 メンバーは渡辺隆雄(トランペット)、片山広明(テナーサックス)、中山努(ギター、キーボード)、早川岳晴(ベース)、ロジャー高橋(ドラム)。渡辺さん、早川さん、ロジャーさんが登山好きということか。
 当時のメモにこんな感想を書いている。
<早川さんのベース、ロジャーさんのドラムが刻む骨太なリズムに乗って展開するジャズ、ロック、ファンク、ラテン。1ステージで4曲。休憩を挟んで2ステージ。曲数が示す通りどの曲もわりと長尺です。プレイする方もパワーが要りますが、聴く方も体力が必要。で、そんなライヴを見に来ていたお客さんですが、女性ばかり(゜▽゜*)。私とお店のスタッフ以外はたぶん全員女性でした。やっぱり女性の方が元気ありますね>
 山開きがいつ頃まで活動していたのかわからないが、テナーサックスの片山広明さんが2018年11月13日に亡くなられてしまった。山開きの音源もYouTubeで探したが見つからなかったので、リーダーの渡辺隆雄さんが関係する音源を2つUPしておきます。

YouTubeから「The spell was cast(T.Watanabe) / missing link」 「雨あがりの夜空に / 忌野清志郎 & NICE MIDDLE with NEW BLUE DAY HORNS @日比谷野外大音楽堂 [2003.9.23]

渡辺隆雄 Instagram

片山広明 公式ウェブサイト

中山努 facebook

早川岳晴 公式ウェブサイト

高橋ロジャー 公式ウェブサイト

荻窪・ルースター 2008年12月5日撮影
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山開き
忌野清志郎

◯忌野清志郎 with デ・ガ・ショー

 生のRCサクセションを初めて見たのは1979年、時々バイトをさせてもらっていた渋谷のライヴハウス屋根裏だったと思う。まだ透さんの家に居候してローディーをしていた頃かな。ステージ横の製氷機やドリンクのディスペンサーが置いてあった狭い厨房でお客さんに飲み物を渡している、その直ぐ横に出番を待っている清志郎さんが立っていた。45年以上も前なのであやふやだけれど、そんな記憶がある。
 当時の屋根裏は色んな人が出入りしていた。RCの事務所だったりぼんの坂田さんや藤井さんもよく遊びに来ていて、そんな繋がりで1980年4月5日久保講堂でのライヴをお手伝いしに行く事になったんだと思う。ステージ上のマイクコードをガムテープで止めていた記憶はあるけれど、ライヴの様子は残念ながら覚えていない。
 自分の1980年のスケジュール帳には屋根裏の昼の部、夜の部のライヴを印刷した小さな紙が毎月ホッチキスで留められている。1月の紙には19日~22日夜の部4日間RCサクセションと印刷されている。このライヴがRCの屋根裏での最後のライヴだろうか?

 この頃は祖父が使っていたと思われる古いカメラを一台持っていたが、写真を本格的に始めるのは1985年頃だったので、残念ながらRCサクセションも、キヨシローさんも撮影することはなかった。
 掲載した写真は『ミュージック・マガジン』1997年8月号の、三田真さんによる清志郎さんのインタヴューページに使用するために撮影したデ・ガ・ショーとのライヴ。インタヴューはRCサクセション後の活動について聞いているが、この頃、片山広明、林栄一、古澤良治郎、酒井泰三といったジャズ・ミュージシャンらが結成したデ・ガ・ショーと共演している。共演のきっかけは、デ・ガ・ショーの2枚目のアルバムのライナーノーツに清志郎さんが、「一緒にやらせろ」と書いたことだとインタヴューの中で語っている。すると片山さんから、やろうと返事がきて共演することになったという。
 ライヴでは清志郎さんがフルートやサックスを吹く場面もある。このことについて三田さんのインタヴューで、
「フルートに関しては、去年の8月ぐらいにワイト島のヴィデオを観て、おれの好きだった頃のジェスロ・タルの映像を初めて観たんですね。メチャ、カッコよくってね。それで始めたんだけど、簡単に音が出たんですね、これが(笑)。サックスも、そう。リトルのリハの時、片山が来て、アルトを借りて吹いたら鳴ったの。で、次の日からツアーで吹いてたんだよ(笑)。そしたら、どんどん鳴るようになっちゃってさ(笑)。最初は全部、デタラメだったんですけど、2割ぐらいは音が合うようになって(笑)、現在に至るっていうか」
 忌野清志郎 with デ・ガ・ショーのライヴは5月15日に渋谷クラブクアトロで撮影、三田さんのインタヴューは6月3日に東芝EMIで行われ、撮影は富井昌弘さんが担当している。
 清志郎さんは2009年5月2日に、ドラムの古澤良治郎さんは2011年1月12日に、サックスの片山広明さんは2018年11月13日に鬼籍に入ってしまった。

YouTubeから「雨上がりの夜空に/RCサクセション」 「デイ・ドリーム・ビリーバー/THE TIMERS」 「North East/de-ga-show

忌野清志郎 公式ウェブサイト

渋谷クラブクアトロ 1997年5月15日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1997年7月号
コンサート評は今井智子さん
初出『ミュージック・マガジン』1997年8月号
インタヴューは三田真さん
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