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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能
◯製作中の富山の祭りと芸能歴史年表
◯2010~2014 Photo Diary
◯奄美・沖縄撮影リスト
◯wangan 水路の都市TOKYO2006~2009
◯戦後ニッポンのポピュラー音楽 |
◯4月19日(土) ボンボコ祭り
射水神社 御遷座150年祭
◯4月22日(火) 射水神社 本殿遷座祭
◯4月23日(水) 19時30分〜打ち合わせ 高岡文化ホール
◯4月23日(水) 射水神社 例祭 並びに奉祝祭
◯5月18日(日) タカブン・ミュージックステージ
◯9月13日(土) 射水神社 神賑奉納行事(稚児社参 等)
◯9月14日(日)・15日(月) 射水神社 御神幸
◯9月16日(火) 射水神社 式年大祭
*パスポート 2030年6月9日
*住宅定期診断 2026年9月(施行5年目)
*住宅定期診断 2029年9月(施行8年目)
*住宅満了診断 2031年9月(施行10年目) |
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
*富山県内のお祭り、イベント
*富山の祭り
*築山行事
*砺波の獅子舞 各地区の日程
*年中行事覚書 柳田国男
*田の神祭りに見る日本人の神意識
*立山に生きる村ー宗教集落芦峅寺のくらし |
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
◯久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
◯ 「まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
◯幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
◯村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
◯喜屋武(チャン)の綱引き
◯与那国島の行事
◯ 「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作 |
◯富山県 新型コロナウイルス感染症について
http://www.pref.toyama.jp/cms_sec/1205/kj00021629.html?fbclid=IwAR1Z5J0FxdUdIrb0KWEPHX-VTzevMn1SYkafoJbL0IrfRBBnTG5k0vO_t1U
◯都内の最新感染動向 https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/
◯山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信 https://www.covid19-yamanaka.com/index.html
◯新型コロナウイルス感染速報 https://covid-2019.live/
◯ 福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
◯DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
◯HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
◯独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
◯小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
◯やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
◯辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
◯チョ 10イさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
◯沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/ |
メディア関連
◯木原盛夫写真展「とやま、祭り彩時季」ミュゼふくおかカメラ館
◯富山の祭り写真集に 福岡町の木原さん 北日本新聞
◯木原盛夫 写真展「とやま、祭り彩時季」 たかおかストリート
◯カメラ館で木原盛夫展 高岡ケーブルテレビ
◯写真で巡る富山の祭り 木原盛男写真展 高岡ケーブルテレビ
◯歴史ある寺社・文化紹介 高岡御旅屋セリオで木原さん写真展 北日本新聞
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◯高岡まちなかギャラリー - 御旅屋セリオ
◯祭りの写真で地域を学ぶ 高岡・福岡の寺子屋サロン
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◯木原盛夫さん写真展 県内の祭りなど題材に 北日本放送
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◯県内の祭礼や伝統行事写す 木原さんが写真集寄贈 北日本新聞
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◯2020年9月18日OA分 いいねとやま#219 チューリップテレビ
ブログなど
◯木原盛夫写真展「とやま、祭り彩時季」 ゆきれぽ
◯今年のお祭りは 写真展で・・・・・・ yoshijunのブログ
◯たかのたわごと 新川神社のブログ
◯200814木原盛男写真展高岡彩時季御旅屋セリオ5階
◯200805ミュゼ福岡カメラ館とやまの祭り木原盛男写真展6 26
◯ミュゼふくおかカメラ館(富山県高岡市)の木原盛夫 写真展 『とやま、祭り彩時季』(~9/27)
◯祭りの色彩に思いをはせて タビノイロドリ
◯カメラ館 フクチアンの日記
◯ミュゼふくおかカメラ館「とやま、祭り彩時季」へ とやまおでかけ日記 |
*web電卓
*漢字辞典
*2024年カレンダー |
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| スギ花粉の飛散もそろそろ終わり、新緑が爽やかな季節になった。 |
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スーパーへ買い物に行ったついでに、レジで提示すれば65歳以上は毎週木曜日の買い物が10%引きになるというカードを作った。シルバーカードという名前だろうと思っていたら、プラム友の会カードという名前だった。酒やタバコ、ギフト券や指定ゴミ袋は対象にならないが、食品が10%引きで買えるのは助かる。
◯スーパー、高齢者1割引き アルビスと大阪屋 毎週木曜 |
気になった記事を備忘録として。
◯「面白い、と『犬笛』に加担」 向けられる矛先、中傷なお止まらず
◯備蓄米の放出21万トン、店頭に届いたのは3018トン 2回目調査
◯日本軍と戦った父…パンクの女王パティ・スミス、広島で被爆者に謝罪
◯スペイン全土で異例の大規模停電 ポルトガルやフランスの一部でも
◯スペイン・ポルトガル大規模停電、一部復旧 原因なお不明 |
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◯緒川たまき
1971年山口県周南市生まれ、広島県出身の女優、ナレーター。旧姓の本名は佐川典子だが、2009年にケラリーノ・サンドロヴィッチ(有頂天のKERA)と結婚し小林典子に。
緒川たまきさんを撮影したのは、NHKの番組『土曜ソリトンSIDE-B』がスタートした直後で、この番組で彼女はミュージシャンの高野寛さんと一緒に司会を務めた。それまでも映画や、テレビ・ドラマで女優として活躍されていたが、この番組の出演で知名度がより広がった。個人的に印象に残っているのは2005年から放送されたバラエティ番組『トリビアの泉』内のコーナー「ガセビアの沼」で<ウソつき>と喋りかける役だろうか。
取材は『ミュージック・マガジン』の高橋修さんの連載「スター千夜一夜」だった。
普段聴いている音楽を尋ねられると、
「すごく好きでよく聞いているのが、パスカル・コムラードとかクリンペライ・・・クリンペライというのはおもちゃピアノとかを演奏する人たちで、フランスの現代音楽というのかしら。もしくはニュー・モダンとか、ありますよね、ジャンルではどんな風に言っていいかわかんないですけど」と答えている。 |
パスカル・コムラード、クリンペライはわからないが、これまで聴いてきたものではスラップ・ハッピーが好きだと話されているので、ポップでアヴァンギャルドな音楽が好みなのかもしれない。
日本の音楽では、あがた森魚さんが好きだという。
「3枚組の『永遠の遠国』、あれがすごい好きなんですよ。サインしてもらっちゃいました(笑)。あがたさんはですね・・・どういうところが良かったんでしょうねぇ・・・あの、ある意味で・・・心象風景的な音楽だと思ったんですね。暑苦しさがない。あがたさんの思想だとか主張はすごくあると思うんですけれども、暑苦しさとか、引いてしまうようなエゴは感じられなくて、どこかで大切にしてきた心象風景にスーッとハマるような魅力があったと思うんですよね。それ以前に日本のアーティストで、そんな素直に”あ、私の心象風景にぴったりだな”と思えるものってなかったんです。どこかその人のエゴを感じてしまって。そういう意味ではあがたさんの『永遠の遠国』は、ぴったしだったんです」
現在も映画・テレビと女優として活躍されているが、2020年には夫のケラリーノ・サンドロヴィッチと演劇ユニット「ケムリ研究所」を結成しコンスタントに公演を行なっているようだ。
YouTubeから「(CM) メルシャン あんずのお酒 緒川たまき」 「【土曜ソリトンSIDE-B】 ゲスト:甲田益也子」
緒川たまき NHK人物録
渋谷・NHK 1995年5月1日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1995年6月号
インタヴュアーは高橋修さん
#緒川たまき
#TamakiOgawa
#スター千夜一夜
#アーカイブ
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◯青木さやか
愛知県尾張旭市出身のお笑いタレント、女優。wikiによると、元々は地元の中京ローカルでフリーのアナウンサーとして活動されていたようだが、中京テレビの『めざせ!総・楽・天』という番組に出演した際、「面白いタレントになりたい」という自己PRをしたことがきっかけでお笑いに転身することになったそうだ。
しばらくフリーで活動していたが、ワタナベエンターテイメントのライヴにゲスト出演した際、社長からスカウトされ、2003年1月よりワタナベエンターテイメント所属となり、本格的に東京での活動をスタートさせる。
決め台詞「どこ見てんのよ!!!」でブレイクし『ネプリーグ』『エンタの神様』などのバラエティー番組に出演。その後、女優としてテレビドラマなどでも活躍している。
彼女を撮影したのは「笑っていいとも!」に出演していた2009年、人気絶頂の頃だろうか。健康雑誌の「NOPETNOLIFE ペットと私」という連載で、取材場所は事務所から指定された等々力のペットホテル兼レストランだった。ヘアメイク、スタイリストも同行していたように思う。 |
青木さんのペットは「おっぽ」と名付けられたトイプードルだった。ネットで検索(https://fujinkoron.jp/articles/-/10407#google_vignette)すると、2010年に女の子を出産したのを機に一時実家に預けられていたそうだが、青木さんのお母さんが亡くなりお祖母さんだけで犬の世話をするのも大変だろうとまた引き取ったという。その「おっぽ」も2022年に亡くなったようだ。
2017年に肺がんに罹患し2019年にも再発が疑われ、2度の肺切除手術を経て人生観が変わったそうだ。現在は動物の保護活動を精力的に行い、自身も「シティ」「クティ」と名付けた保護猫2匹を飼われている。
YouTubeから「青木さやか 犬と猫とわたし達の人生の楽しみ方」 「ノコギリガール~ひとりでトイレにいけるもん~/青木さやか」
青木さやか ワタナベエンターテイメント
青木さやか Instagram
世田谷・等々力 2009年2月3日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2009年5月号
#青木さやか
#SayakaWatanabe
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ
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今朝、facebookに<4月28日は「屈辱の日」 玉城デニー知事、基地負担に「異常な状況」 沖縄>という琉球新報の記事が流れてきた。
沖縄で「屈辱の日」という言葉が生まれたのは、2013年のことだと記憶している。前年に誕生した第2次安倍政権が、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日になぞらえて4月28日を「主権回復の日」とし、2013年4月28日に憲政記念館で「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」を開催した。しかし、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日は沖縄や奄美、小笠原がアメリカの政権下に組み入れられ日本から切り捨てられた日でもある。沖縄や奄美からは「屈辱の日」だと政府に抗議する声が上がり、沖縄では宜野湾市野外劇場で「4・28政府式典に抗議する『屈辱の日』沖縄大会」が開かれた。
沖縄に移住していた時で、那覇から宜野湾まで国道58号を自転車で1時間ほど走り抗議大会を撮影に行った。今から12年前、その2013年4月28日に、こんな文章を書いている。
・国会議員168人が靖国参拝 87年以降で最多。
・日本NPTの核不使用声明に署名せず。
・安倍晋三首相の指示を反映し、参院選で改憲を公約の柱に。
そして今日、政府は沖縄、奄美から抗議が寄せられる中「主権回復の日」の式典を開催した。いつの時代に戻ろうとしているのだろうか。
サンフランシスコ講和条約が発効した1952年の4月28日は、沖縄や奄美、小笠原がアメリカ政権下に組み入れられ、日本から切り捨てられた『屈辱の日』であると政府の歴史認識を疑う声もアチコチから聞こえてくる。
式典で安倍首相は、沖縄について
<「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」。佐藤栄作首相の言葉です。沖縄の本土復帰は昭和47年5月15日です。日本全体の戦後が初めて本当に終わるまで、主権回復からなお20年という長い月日を要したのでありました。沖縄の人々が耐え、忍ばざるを得なかった戦中、戦後のご苦労に対し、通り一遍の言葉は意味をなしません。私は若い世代の人々に特に呼び掛けつつ、沖縄が経てきた辛苦に、ただ深く思いを寄せる努力をなすべきだということを訴えようと思います>
通り一遍の言葉は意味をなしません、と言いながら、まさに通り一遍の言葉しか発していない。 若い世代に沖縄が経てきた辛苦に深い思いを寄せる努力をなすべきだと訴えようと思うなら、先ず自分自身が深く思いを寄せてみたらどうか。沖縄の本土復帰は主権回復からなお20年を要したと言うが、そもそも在日米軍が日本で犯罪を起こしても日本の警察が調査、逮捕が出来ない日米地位協定が続いていて主権が回復していると言えるのか。歴史認識、現状認識の欠如としか思えない。
閣僚の靖国参拝を批判された事に対し安倍首相は「(中国、韓国から)靖国の英霊に冥福を祈ることを批判されても痛痒を感じず“おかしい”と思わないのはおかしい」と述べたそうだが、A級戦犯の合祀問題はどうなったのだろうか。何年も前から取り上げられていながら、議論が進んでいないように思う。
高市早苗・自民党政調会長は、真に独立した主権国家たる私たちのプライド、未来への責任を大切に共有しながら新しい日本国憲法を私たちの手で、日本人の心によって書き上げていくと述べたそうだが、 真に独立した主権国家というなら、先ずは憲法改正の前に日米地位協定の見直しをするべきだろう。
第2次安倍政権が定着させようとした「主権回復の日」という言葉は定着せず、逆に沖縄から発せられる「屈辱の日」という言葉が毎年のように流れてくる。
先日、普天間飛行場の辺野古移設を巡って、中谷防衛相が「もっと沖縄県が努力をしていれば、もっと早く普天間の移設も進んだ」などと発言した。
普天間飛行場を含む沖縄県にある米軍施設の土地の返還を取りまとめたSACO(沖縄に関する特別行動委員会)が設置されたのは1995年9月に発生した米兵による12歳の女子小学生への集団レイプ事件が契機だが、今も沖縄では米兵によるレイプ事件は繰り返されている。これ以上沖縄にどんな我慢と努力を求めるのか。
政府は辺野古の軟弱地盤に杭を打って埋め立てる工事を始めたが、防衛省が沖縄県に辺野古についての環境アセスメント(環境影響評価書)を提出した2011年12月の時点では軟弱地盤についてはわかっていなかった。本来ならば軟弱地盤が発覚した時点で工事を中止して、環境アセスを作り直すべきだろう。
◯青木理が語る『主権回復の日と憲法改正。安倍政権の矛盾。』
http://radiotalkrecording.blog.fc2.com/blog-entry-122.html |
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| 2013年4月28日、宜野湾市野外劇場で開かれた抗議集会の様子↓と、その会場から僅か200メートルほどしか離れていないトロピカルビーチ↑。撮影時間は1時間も違わない。ともに沖縄の現実で、沖縄の日常だ。 |
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◯金田芳一
1949年に見砂直照(みさごただあき)によって結成された、日本で初めての本格的なラテン・バンドが東京キューバン・ボーイズだった。金田芳一さんは、そのキューバン・ボーイズの元トロンボーン奏者で、20年間在籍した後、撮影した当時はOB会の最長老として会長を務められていた。
金田さんを撮影したのは、『レコード・コレクターズ』の「戦後ニッポンのポピュラー音楽」という連載だった。インタヴューと文は田中勝則さん。
記事の中で田中さんはキューバン・ボーイズを取材しようとしたキッカケをこう書いている。
<とにかく東京キューバン・ボーイズは、日本で最初の本格的なラテン・バンドを目指して結成されたグループだ。彼ら以前に、この日本にラテン・バンドはなかった。どんな音楽でも、最初に何かをやったグループなり人には、上手いとか下手とかを超えた独特の面白さがあるもので、それは完成された音楽にある面白さとは違うものなのだ。そんな初期のキューバン・ボーイズのことを知りたくて、現在ではOB会の会長をされているトロンボニストの金田芳一さんにお話をうかがうことにした> |
元々はラテンではなくジャズを目指していた金田さんが、キューバン・ボーイズに入ったのは1951年1月。
「実はね、最初は腰掛けのつもりだったんですよ。でも、なんでこんなに長くいることになったのかなあ」と笑って話されている。
「私が入った時点での東京キューバン・ボーイズは、正直言って、まだ大したグループではなかった。ちょうどバンドが再編成の時でね、まだメンバー全員が本気でラテンを目指している人ばかりではなかったんですよ。だいたい私だって、少しだけやって、またジャズに戻ろうと思っていたんだから」
キューバン・ボーイズの創立時の楽器編成はヴァイオリン、フルート、トランペット、ピアノ、ベース、チェロ、コンガ、ボンゴ、マラカス。タンゴ・バンドでベースを弾いていた見砂さんがマラカスと指揮、コロムビア・オーケストラでアコーディオンを演奏していた吉田秀士さんがコンガを担当した。この創立時に苦労したのが、コンガやボンゴという楽器が手に入らなかったことだそうだ。
「コンガとボンゴは木下孝一というヴァイオリンの修繕屋さんに頼んで作ってもらったんですよ。これがなんとも重いコンガでね。後で本場の楽団が来日した時にホンモノのコンガというのをはじめて見たわけだけど、これが実に軽いんですよ。それをポンと軽く叩いて、でもスコーンと良い音がする。でもね、見砂さんはね、あいつらは日本には本当のコンガを持ってきてないんだよ、あれはニセモノだ、コンガってのは、この重いのをパシーンと思いきり叩いたところに良さがあるんだよって、しばらく木下のコンガを使っていましたよ」
田中さんの記事によると1952年に発売となった美空ひばりの名曲「お祭りマンボ」にはキューバン・ボーイズの見砂さんがマラカス、吉田さんがコンガ、斉藤俊雄さんがボンゴで参加している。そのコンガは手作りの重いコンガだったのだろうか。
キューバン・ボーイズは1956年のペレス・プラード楽団の初来日ではじめて共演し、その後は1959年のトリオ・ロス・パンチョス、1961年のトリオ・ロス・パラグァージェス、1969年のロス・パピーネスとの共演を果たしている。
wikiによると1975年にはソビエト連邦の各都市でコンサートを開催し、1979年にはメキシコやキューバなどの中南米諸国でもライヴを行なったそうだが、1980年に解散。リーダーの見砂直照さんは1990年6月20日に亡くなられた。
1999年の結成50周年に、ご子息の見砂和照さんが中心となって「東京キューバンボーイズ結成50周年記念コンサート」を開催。2005年には和照さんがリーダーとなって東京キューバン・ボーイズが再結成された。
3~8枚目の写真は、金田さんが保管されていた貴重な写真を複写したもの。
YouTubeから「el cumbanchero/東京キューバンボーイズ」 「動画で見る見砂直照と東京キューバンボーイズ エル・クンバンチェロ」
見砂和照と東京キューバンボーイズ 公式ウェブサイト
川崎市中原区 1999年8月21日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1999年10月号
初出『レコード・コレクターズ』1999年11月号
インタヴュアーは田中勝則さん
#金田芳一
#YoshikazuKaneda
#東京キューバンボーイズ
#TokyoCubanBoys
#戦後ニッポンのポピュラー音楽
#アーカイブ
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◯三橋渡
バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ、大橋節夫とハニー・アイランダースと並び、戦後人気を博したハワイアン・バンド、ポス宮崎とコニー・アイランダースのギタリストだったのが三橋渡さんだ。
三橋さんは『レコード・コレクターズ』の連載「戦後ニッポンのポピュラー音楽」で撮影させていただいた。インタヴューと文は北中正和さん。 |
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アーカイブするにあたってネットで検索すると、2012年11月27日に心不全で亡くなられていた。享年88歳。訃報を伝えるブログに、三橋さんの略歴が書いてあるので引用させてもらう。
三橋渡 日本ハワイアン音楽協会相談役
1924年東京都出身(北中さんの連載には実家が銀座5丁目と書かれている)
1940年ワイメアハワイアンズ(慶応商工部4年)
1941年慶應義塾大学入学
1944年土浦海軍航空隊入隊
1945終戦(海軍少尉にて)
1945年11月ベニー島田とブルーハワイアンズにて、クラブヒルトップ出演
1946年ベニー島田とブルーハワイアンズにて、クラブエーワン出演
1948年ベニー島田とブルーハワイアンズにて、クラブエスクワイア出演
その後ポス宮崎とコニー・アイランダースのギターとして活躍。MCとしても定評があった。
いつも電話をかけるために10円玉を大量にポケットに入れていたことでも有名だった。
三橋ミジンコの愛称で親しまれていた。 |
ワイメア・ハワイアンズというのは三橋さんの1年先輩が1939年に結成したバンドで、三橋さんは翌年の1940年に加わっている。北中さんの記事によるとアマチュア・バンドといっても演奏のレベルはトップクラスで、結成の翌年には日本青年館で行われた新春音楽会に、慶応普通部のノベルティー・スヰング・ハワイアンズと合同でワグ・アイランダースを編成し、東宝専属の永岡志津子のバックで出演したそうだ。
土浦海軍航空隊で特攻隊の訓練を受けたことや終戦のことも、北中さんの取材で話されている。
「いや、特攻隊といっても、もう飛行機がないんですから(笑)。バカなことを言うなといいながら、でもやんなきゃしょうがない。グライダーに乗ってぶつかれ、という時代ですよ(笑)。末期には加賀山明雄さんという慶應の応援団長の先輩が上官として赴任してきて、<おい、8月15日の夜に、ハワイアンの夕べをやろう。楽器を集めてこい>と言うんです。海軍の士官は、みんなけっこうハワイを知ってるから、自分がやりたいのね。バンドは作らなかったけど、遊びではやってましたよ。おまえちょっとギターを弾いて<タフワファイ>をやれ。これは戦の歌だからいいんだ。アメリカにやられた先住民の歌だからいいんだと言ったりしてね。で、ぼくは三国中を探し回って、三味線でも何でもいい音が出るものを集めてきて、雰囲気だけヤシの木の舞台を作って準備していたんですが、それは昼間の敗戦の放送でパーになっちゃいました」
三橋さんは1951年、ポス宮崎(宮崎英雄)から誘いを受けて、コニー・アイランダースに参加する。ちょっとのつもりが、ギターとマネージメントの担当で20年近く関わったそうだ。
ポス宮崎さんは1977年に54歳で亡くなられている。
この取材をした1999年当時、三橋さんは渋谷道玄坂で「コニー・アイランド」というハワイアンのお店を経営されていた。バンド仲間の集うお店で、ここで後輩バンドの世話をしたり、イヴェントなどを開催されていたようだ。
YouTubeから「ハワイアンサンセット/ポス宮崎とコニー・アイランダース」 「小さな竹の橋/ポス宮崎とコニー・アイランダース」
元ポス宮崎&コニー・アイランダースの三橋渡さん死去
渋谷・コニー・アイランド 1999年5月19日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1999年7月号
初出『レコード・コレクターズ』1999年8月号
インタヴュアーは北中正和さん
#三橋渡
#WataruMitsuhashi
#ポス宮崎とコニーアイランダース
#PossMiyazakiAndConeyIslanders
#コニーアイランド
#ConeyIsland
#戦後ニッポンのポピュラー音楽
#アーカイブ
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| 朝、突然居間にあるテレビの画面がブラックアウトし、音声も消えた。ブレイカーが落ちたか?と思ったが居間の明かりはついている。家のテレビはケーブルテレビの回線を使っているので、回線が原因かと思ったがキッチンの小さなテレビのスイッチを入れたら問題なく映った。となれば居間にあるテレビ本体の問題だ。何年か前から冬になると画面の端にブロックノイズが現れて、昨年、ケーブルテレビの人が通信速度の点検に来た時に液晶がへたって来ているのだろうと言っていた。買い替えか?しかし、リモコンでチャンネルを切り替えると画面はブラックアウトしたままだが、チャンネルは切り替わっている。とりあえず電源を切って様子見。パソコンで原因を検索してみるが、わからない。そういえば、居間のテレビにはB-CASカードが差し込まれている。ダメ元でこのB-CASカードを差し直して電源を入れると・・・映った!B-CASカードが接触不良になっていたのだろうか? |
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◯レミー・オンガーラ
レミー・オンガーラはタンザニアのスークース(アフリカン・ルンバ、リンガラ)の歌手でありギタリスト。リアルワールドのプロフィールには<「ドクター」として知られるレミー・オンガラは、もともとは現在のコンゴ民主共和国のキンドゥ出身です。彼は16歳の時からバンドで演奏し、尊敬を集める伝統音楽家だった父親から技術を学びました。1978年、レミーはタンザニアのダルエスサラームに渡り、オーケストラ・スーパー・マカッシーに入団し、後に自身のバンド、スーパー・マティミラを結成しました>と書かれている。
彼を撮影したのは、日本では初めての開催となったウォーマッド’91のために来日した時で、屋外でのコンサートとホテルでのインタヴューの撮影を担当した。インタヴュアーは深沢美樹さんだった。
音楽との出会いについて深沢さんが尋ねると、 |
「父が民俗音楽のミュージシャンでね、タムタムとかマリンバなんかを演奏していた。小さいころからそんな音楽を聞いて育ったんだ。でも、音楽家になるとは自分でも思っていなかったよ。7歳のときに父が、15歳のときに母が亡くなって、回りにギターとかが弾ける人間がいたんで、まあ家計を助けるためにも音楽を始めたという訳さ」と答えている。
ザイールからタンザニアへ行ったことについても、
「金だよ、ザイールで演奏するよりもタンザニアで演った方が金になるんだ。今、タンザニアには日本の企業がたくさん進出している。鹿島建設とかね。それも金のためだろ」と話していた。
再びリアルワールドのプロフィールから引用すると、「タンザニアでは、レミーの人気は他に類を見ないものでした。彼の評判は、奥地の奥地にまで伝わっていました。彼の聴衆は彼の歌詞を寓話とみなし、国の支配層を攻撃することが多かったのです。彼は大衆の代弁者という肩書きを決して引き受けませんでしたが、例えばエイズに関する曲『マンボ クワ ソクシ』で、タンザニアの一般人の懸念を表明し、議論を巻き起こしました」と書かれている。
残念ながらレミー・オンガーラは2010年12月13日に亡くなった。死後、2012年のタンザニア音楽賞で殿堂入りのトロフィーを受賞したそうだ。
1989年に『Songs For The Poor Man/REMMY ONGALA & ORCHESTRE SUPER MATIMIL』、1992年に『Mambo/REMMY ONGALA & ORCHESTRE SUPER MATIMILA』がリリースされている。
レミー・オンガーラ、レミー・オンガラの表記がある。
YouTubeから「Remmy Ongala and Orchestre Super Matimila - I Want To Go Home (live at Real World Studios)」 「Dunia - Remmy Ongala」
横浜みなとみらい 1991年8月31日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1991年10月号コンサート評
『ミュージック・マガジン』1991年11月号インタヴュー記事
インタヴュアーは深沢美樹さん
#ウォーマッド91横浜
#WOMAD91YOKOHAMA
#レミーオンガラ
#RemmyOngala
#アーカイブ
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◯ファン・デ・マルコス アフロ・キューバン・オールスターズ
2000年に日本でも大ヒットしたキューバの音楽ドキュメンタリー 映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』。この年の夏にはブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ・プレゼンツと冠した来日公演も行われた。当時の音楽誌を見ると8月20日・富山ヘリオスと書いてある。初っぱなが福野のヘリオスだったのかな?
映画のヒットを受けて、この年は他にもキューバ人ミュージシャンがずいぶんと来日した。自分自身は7月にはオルケスタ・アラゴンを、10月にはブエナ・ビスタのバンド・マスターでコーディネーターでもあったファン・デ・マルコス・ゴンザーレス率いるアフロ・キューバン・オールスターズを撮影している。
先ずはファン・デ・マルコスを10月22日に宿泊先の赤坂プリンスホテルで撮影した。『ミュージック・マガジン』の取材で、インタヴュアーは山本幸洋さんだった。 |
「ブエナ・ビスタのアイデアは私のもので、ムシカ・クバーナ(キューバ音楽)を作るのに昔の世代のミュージシャンを探しました。A&Rコーディネイターとしての仕事もしたし、曲も作ったし、オリジナルのブエナ・ビスタの最初の3公演の指揮もした。ヴィム・ヴェンダースの映画で有名になったけど、映画に描かれていることはすべて正しいわけじゃなくって、最初は若い世代と古い世代とをミックスしたアフロ・キューバン・オールスターズ(以下、ACAS)を作ることだったんだ。それと、(結果的にブエナ・ビスタになった)アコースティックなムシカ・クバーナを作るために、エリアデス・オチョーア、コンバイ・セグンド、バルバリート・トーレスの3人のプレイヤーを呼んだ。映画では語られていないことだけど、オリジナルはACASであって、ブエナ・ビスタはそこから派生したものなんだ」
この発言を受けて、山本さんが「あなたがやりたかったのは、ACASだったのですね」と尋ねると、ACASの1996年にリリースされたファースト・アルバム『A Toda Cuba le Gusta』を指差して、「これだ」と答えている。
そして、彼がやりたいことは世代を超えたミュージシャンたちを使って、様々な音を入れていくことだと話している。
「自分の経験として、世代を超えて様々な世代のミュージシャンが一緒に仕事をするのは素晴らしいことなので、それは続けていきたい。アーティストとして重要なことは、ルーツを失わずに、できるだけ多くの要素を取り入れること。美術館のように飾っておくのではなくて、それらを混ぜて進化させていきたい。それによって、アイデンティティを確立することが可能だから。私たちのアイデンティティとは、ラテン音楽の中で、ソンという形式を持っている音楽を表現していくことなんだよ」とも語っている。
この取材には歌手のフェリ・バローイが同席していた。ACASの新作で3枚目のアルバムとなる『バイラ・ミ・ソン』は、ACASプレゼンツ、フェリ・バローイと彼の名義のアルバムになっていたからだろうが、フェリ・バローイの発言は出てこない。
ACASのコンサートを撮影したのは、このインタヴューの2日後、10月24日の東京国際フォーラム・ホールCでのステージだった。事前に客席後方にある調光室からしか撮影できないと聞いたので、ミノルタから600㎜と300㎜のアポレンズを借りた。通常のカメラバックの他に、レンズを入れたアルミケースが2つ増えて、電車で運ぶだけでも苦労した。
山本さんの原稿によれば、この日のステージはファースト・アルバムを中心にしたレパートリーだったそうだ。
YouTubeから「Afro-Cuban All Stars Live in Japan」
赤坂プリンスホテル 2000年10月22日撮影
東京国際フォーラム 2000年10月24日撮影
インタヴュアーは山本幸洋さん
初出『ミュージック・マガジン』2001年1月号
#アフロキューバンオールスターズ
#AfroCubanAllStars
#ブエナビスタソシアルクラブ
#BuenaVistaSocialClub
#ファンデマルコスゴンザーレス
#JuandeMarcosGonzalez
#フェリバローイ
#FelixBaloy
#アーカイブ
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明日が弟の命日だが、明日は父親も母親もデイサービスに行く日なので、今日の昼前に墓参りに行ってきた。墓参りをした後は、高岡駅南にあるすし食いねぇ!でランチ。ランチの後は、今月10日にオープンしたディスカウントスーパー、ラ・ムー高岡東店で買い物。店内も混んではおらず、レジもスムーズだった。ただ、店頭の6個100円のたこ焼きには行列ができていた。
気になった記事を備忘録として。
◯NYなど12州がトランプ関税の停止求めて提訴「阻止しなければさらなる経済的損害」
◯石丸伸二前市長の名誉毀損確定 「どう喝」発言、最高裁
◯森友学園開示文書 欠落部分は“政治と接点あった時期”
◯不倫公表の国民民主・平岩衆院議員、無期限の党員資格停止処分に
◯在沖米兵、基地従業員に不同意性交疑い 別の隊員は知人女性に不同意性交容疑 県警、2人を書類送検
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◯細野晴臣 あがた森魚
世界規模で行われていたワールド・ミュージックの祭典、ウォーマッド(World Of Music Arts and Dance)が、初めて日本でも開催されたのが1991年だった。これにより、日本でもワールド・ミュージックという言葉の認知度が広がった。個人的には1991年という年が日本でのワールド・ミュージック元年かな?と思っている。そしてワールド・ミュージック前夜と言っていい89年に『ミュージック・マガジン』の誌面で細野晴臣さんと、あがた森魚さんの対談がセッティングされた。
シェブ・ハレド、シェブ・カデールらが来日し、アラブのポップスが注目される最中、テレビの取材やレコーディングを兼ねてアラブからヨーロッパを巡り、13作目となるオリジナル・アルバム『オムニ・サイト・シーイング』を発表したばかりの細野さんと、4カ月かけてシルクロードを横断して帰国したばかりのあがたさんの対談だった。記事のタイトルは「アラブの音楽は日本人の文化的な破綻を刺激する」と、なんだか難しい。
あがた 帰って来てからまだ東京にピントが合ってなくて、うまく言えないんだけど、日本から一番遠いところの音楽をいろいろピックアップしつつ、ワールド・ミュージックって言ってるんだっけ?じゃ、実際にアジアには、ぼくたちが波動なり鼓動なりを共に打ち出すだけの音楽があるのかないのか、潜在的には大いにあるわけなんだけども、ただ、少なくとも日本人であるぼくらは、まだあまり鼓動を一緒に打ち出し始めてはいない。
結局、ヨーロッパナイズされたものばかりじゃないんだよ、っていういろんなキーワードを日本から遠い地区で探してて、やっぱりそのうち、ぼくたちが長い歴史の中で故郷だったユーラシアのこっち側の東の方に、そのキーワードをだんだん見つけ始めるんじゃないかな、みたいな気はしますね。
細野 かつてぼくがやってたことは、非常にエキゾチシズムが強かったんだけど、そういう意味ではエキゾチシズムの中で遊ぶ時間がなくなっちゃった。
あがた それはなに? やっぱり物理的に?
細野 まぁ、そういうこともあるし、たとえば日本の民謡のこと考えると、とてもエキゾチシズムでは処理できないのね。もっと深刻な問題が立ちはだかってて。邦楽界の閉鎖性だったり、伝統の重いルールだったり。それをひとつひとつ封印を解いていかなくちゃならない。これからね。そういうことをやんないと、本当は一番接しなくちゃならない部分といつまでたっても接することができない、という気持ちがしててね。
そんなお二人の会話を35年を経て読み返すと、やはり小難しいが、その生真面目さがとても新鮮に感じられた。そして、この会話の後に話題が”コブシ”へと続き対談が終わる。この<脱国境対談>と題した細野xあがた対談の次のページはブレイヴ・コンボの特集で、中村とうようさんが「柔軟な発想で描かれたポルカ世界地図」という文章を書いている。
添付した写真の1枚目はスキャンしてデジタル・データにしてあった画像、2~7枚目は銀塩プリントの複写。いつかちゃんとスキャンしてデジタル・データにしたい。
YouTubeから「オムニ・サイト・シーイング/細野晴臣」 「バンドネオンの豹/あがた森魚」
細野晴臣 公式ウェブサイト
あがた森魚 公式ウェブサイト
青山・エピックソニー 1989年7月24日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1989年9月号
#細野晴臣
#HaruomiHosono
#あがた森魚
#MorioAgata
#アーカイブ
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◯ウォーマッド’91横浜
ウォーマッド(WOMAD)はWorld of Music,Arts and Danceの略で、1982年以来世界各地で開催されているワールド・ミュージックの祭典だ。ピーター・ガブリエルが中心となって企画され、第一回はイギリスで開催された。
世界各地の音楽家による演奏の他、ワークショップや物販なども行われる。1988年からはイギリス以外でも開催されるようになり、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、ロシア、スペイン、シチリア、シンガポール、韓国、カナリア諸島などでも行われたそうだ。アメリカは9.11テロ事件により演奏家が入国ビザを取得することが難しくなったことから、2001年以降は行われていないという。
日本では1991年に横浜みなとみらい地区の「パシフィコ横浜」の開館事業として初めて開催され、その後5年間、横浜で行われた。
ウォーマッド’91は、『ミュージック・マガジン』の仕事で撮影した。同誌からは石田昌隆さん、大熊一実さん、菅原光博さん、前原猛さんも派遣されてそれぞれ担当したミュージシャンのコンサートやインタヴューの撮影をしている。 |
ボクは8月31日のレミー・オンガーラのコンサートとインタヴュー撮影、9月1日のスザンヌ・ヴェガのコンサート撮影を担当した。
撮影用パスを貰っているので担当以外のコンサートも撮影できたと思うが、第1回の91年は担当以外で撮影したのはサンディーと都はるみの2人だけ。もっとたくさんのミュージシャンを撮影したと思っていたが、初めてのウォーマッドで遠慮したのだろうか。
『ミュージック・マガジン』10月号では全てのステージのリポートと、石渡希和子さんによる「海風と音楽とお祭りを満喫するの記」と題したルポ。また、当時の編集長・脇谷浩昭さんの司会で行われたOTOさん、関谷元子さん、高橋健太郎さん、田中勝則さん、原田尊志さんによる座談会の様子が掲載されている。
11月号ではデティ・クルニア、マルタ・セベスチェン&ムジカーシュ、レミー・オンガーラのインタヴューやカラーのステージ写真、そしてウォーマッドの日本委員会顧問だった中村とうようさんの「日本開催までを振り返って」という文章が掲載されている。この文章の中で、出演者選定の裏話などが綴られていた。
インタヴュー撮影したタンザニアの歌手、レミー・オンガーラは2010年12月13日に亡くなっている。
YouTubeから「Remmy Ongala and Orchestre Super Matimila - What Can I Say? (live at Real World Studios)」「Suzanne Vega - Luka (Live At Montreux 2004)」
出演者リスト
8月30日(金)
桜川唯丸/トトー・ラ・モンポシーナ/シェブ・ハレド、フラーコ・ヒメネス/ザ・ポーグス/篠田昌己と東京チンドン長谷川宣伝社/上々颱風/照屋林助&りんけん/クォ・ユェ、ジョージ・ヒロタ、ポル・ブレナン/デティ・クルニア
8月31日(土)
りんけんバンド/マルタ・セベスチェンとムジカーシュ/レミー・オンガーラ/ジェイ・チャンドラン、ウンミ/シャインヘッド/ユッスー・ンドゥールとスーパー・エトワール・ド・ダカール/林英哲+坂田明ユニット
9月1日(日)
デティ・クルニア/スザンヌ・ヴェガ/ロッシー、アユブ・オガタ/サンディー/都はるみ/GALAコンサート
ウォーマッド 公式ウェブサイト
スザンヌ・ヴェガ 公式ウェブサイト
サンディー 公式ウェブサイト
YouTubeから「Flaco Jimenez y Oscar Tellez YOKOHAMA JAPAN 8/30/1991」
横浜みなとみらい 1991年8月31日、9月1日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1991年10月号
『ミュージック・マガジン』1991年11月号
#ウォーマッド91横浜
#WOMAD91YOKOHAMA
#レミーオンガラ
#RemmyOngala
#スザンヌヴェガ
#SuzanneVega
#サンディー
#Sandii
#都はるみ
#HarumiMiyako
#アーカイブ
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| 天気予報では今日の最高気温は20℃となっていたが、体感温度はもう少し高かった気がする。特にトタン屋根の下の2階の部屋は、4月とは思えない暑さ。今日から砺波のチューリップフェアが始まった。 |
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先日、介護保険料の納付書が送られてきたので、午後から郵便局へ行き保険料を支払ってきた。そして、次回から自動引き落としになるように手続きをした。
郵便局の帰り、スーパーにテナントとして入っている100円ショップで、USBメモリーを購入。32GBのメモリーで700円だった。データの受け渡し用なので、32GBも必要ないが、店頭に置いてあるのはこれだけだった。 |
◯マッドハニー
<凄まじかった。バンドより客の方が・・・。小学校のプールぐらいの大きさの所に、400人近い人が詰め込まれていると聞いただけで、異常な熱狂ぶりが伝わるだろう。国内盤も出てないのにこれだけの人が集まるというのは、いかにグランジ・サウンドやシアトル・ローカル・シーンに飢えているかという証拠だ。情報が少ないだけに、生で見れるこの機会を逃すまいという熱気で一杯なのだ。殆ど満員電車のような状態が、マッドハニー を見るには打ってつけだなんて皮肉な話だ>
『ミュージック・マガジン』1991年12月号に掲載された関口弘さんの、新宿のライヴ・ハウス「アンティノック」で行われたマッドハニー のコンサート評の記事は、このように始まっていた。
この満員電車のような状態のハコで、彼らのステージを撮影した。初めはステージの下で撮影していたが、ギュウギュウの客席からステージに向かって人が押し寄せてくるので、危険を感じたスタッフによってステージ横に上げられ、そこから撮影することを余儀なくされた。
マッドハニー はワシントン州シアトル出身のロック・バンド。バンド名の由来は、ラス・メイヤー監督の映画『マッド・ハニー』から。グランジの先駆け的存在で、wikiによると、ニルヴァーナのカート・コバーンは1993年の日記の中で、彼らの1990年にリリースしたコンピレーション・アルバム『スーパーファズ・ビッグマフ』をお気に入りのアルバムの1つに挙げているそうだ。ニルヴァーナに限らず当時のグランジ、オルタナティヴ・ロック・シーンに多大な影響を与えたと言われている。
1988年にデビューEP「スーパーファズ」とデビュー・シングル「タッチ・ミー・アイム・シック」をサブ・ポップから発売している。
メンバーはボーカルとギターのマーク・アーム、ギターとボーカルのスティーヴ・ターナー、ベースがマット・ルーキンだったが、彼は1999年に脱退し、現在はガイ・マディソンがベースを担当、ドラムがダン・ピータース。長く活動しているが、メンバーチェンジが少ないバンドだ。
マッドハニー のステージは、1993年にも撮影している。この時は渋谷のクラブ・クアトロで、オープニング・アクトを日本のサイケデリック・ロック・バンド、ハイ・ライズが務めた。この時のコンサート評を『ミュージック・マガジン』1993年9月号で、行川和彦さんが書いているが、その記事によるとハイ・ライズの出演はマッドハニー からの要請だったそうだ。
そのコンサート評は、このような文章でしめられている。
<ハイライズがある種の情緒も感じさせたのに対して、マッドハニー はとっちらかったオモチャ箱のようであった。凛とした大人と無邪気な子供。どちらが優れているとかあまり言いたくない。コピーとは違う、日米のガレージ・サウンドを続けて聴けたことは貴重な体験だった>
マッドハニー はこれまでにスタジオ・アルバム10枚、ライヴ・アルバム6枚、コンピレーション・アルバム3枚をリリースしている。
掲載した写真は1、2枚目がアンティノック、3~7枚目がクラブ・クアトロのステージ。
YouTubeから「Mudhoney - Touch Me I'm Sick [OFFICIAL VIDEO]」 「Mudhoney - Suck You Dry (Video)」
マッドハニー 公式ウェブサイト
新宿・アンティノック 1991年10月16日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1991年12月号
コンサート評は関口弘さん
渋谷クラブ・クアトロ 1993年7月24日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年9月号
コンサート評は行川和彦さん
#マッドハニー
#Mudhoney
#マークアーム
#MarkArm
#スティーヴターナー
#SteveTurner
#マットルーキン
#MattLukin
#ダンピータース
#DanPeters
#アーカイブ
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◯ハイ・ライズ
グランジとガレージとサイケデリックとオルタナの境界線というものがよくわからないのだけれど、マッドハニー はシアトル出身のそうしたジャンルのバンドだ。1991年が初来日だと思うが、その2年後の1993年にも来日しておりライヴを撮影した。初来日を新宿のアンティノックで撮影した時は彼らのワンマン・ライヴだったが、1993年の渋谷クラブ・クアトロでのライヴには日本のハイ・ライズというサイケデリック・バンドがオープニング・アクトとして出演した。ハイ・ライズの出演は、マッドハニー 側からの要請だったそうだ。
撮影はしたが、彼らについては情報を持ち合わせていないのでwikiを参考にそのプロフィールをまとめると、ベース&ボーカルの南條麻人とギターの成田宗広を中心に結成されたサイケデリック・ロック・バンド。1982年にサイケデリック・スピード・フリークスとして結成し、1984年に明大前のレコード店「モダーンミュージック」が主宰するPSFレコードの第1弾として、初のアルバム『Psychedelic Speed Freaks』をリリースすると同時に、バンド名をハイ・ライズに改名。
1986年に2ndアルバム『High Rise Ⅱ』、1994年にライヴ・アルバム『Live」、2002年にアルバム『Destination:Best of High Rise』をリリースしているそうだ。
彼らを撮影したのは『ミュージック・マガジン』での取材で、コンサート評を行川和彦さんが担当しており、
<ベースの音があまりブンブン唸ってなかったのは惜しいが、約25分のキレのいいプレイでハイライズが多少なりとも観客にアピールしたことは、なぜか普段はあまりない歓声と拍手でわかる。轟くギター、微妙なタッチで重みのあるビートを打つドラム、そしてベースが、我を張り合いながらもひとつになり、スリリングに加速していくに従って、僕の気分も高揚していった。鼓膜を突き破らんばかりにギターを弾きまくるといった強烈にやかましい面に加え、周囲の喧騒の中に繊細なヴォーカルが響いていくという、ハイライズ の真骨頂を堪能できたのだ>と書かれている。
YouTubeから「High Rise - Psychedelic Speed Freaks (Live, Tokyo, Dec. 15)」 「Psychedelic Speed Freaks Live 1986, pt. 1」
成田宗広 X(旧ツイッター)
ハイ・ライズ Discogs
渋谷クラブ・クアトロ 1993年7月24日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年8月号
コンサート評は行川和彦さん
#ハイライズ
#HighRise
#南條麻人
#AsahitoNanjo
#成田宗広
#MunehiroNarita
#アーカイブ
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今日は曇りと雨で夏日にはならなかったが、昨日一昨日あたりは真夏日一歩手前の暑さ。4月でこれ、7月8月が思いやられる。
今日は富山市長選と富山市議選の投票が行われた。北日本新聞が20時の開票時間に、現職の藤井裕久氏の再選確実の報を出している。 |
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◯テイ・トウワ 久保田麻琴
ウォズ(ノット・ウォズ)をアーカイブした時にも書いたが、ハウス(ミュージック)の定義がよくわからない。ドン・ウォズもインタヴューの中で「ぼくはどうもテクノとアシード・ハウスの区別がよく判らないんだ」と話している。
ネットで検索すると・DJによってクラブで流されることの多い音楽・DJによってサンプリングやリミックスなどがなされ、打ち込みによって作られている・BPMは120~130程度である・4つ打ちのリズムである・音圧がある・リズムの繰り返しを基本としている・ダンスミュージックである、などと定義している人がいた。
wikiには<ニューヨークの「パラダイス・ガレージ」のDJであったラリー・レヴァンの友人で、自らも有能なDJであったフランキー・ナックルズは、1977年にシカゴに新たにオープンした「ウエアハウス」の主力DJとしてニューヨークから招かれ、彼のDJは独特のミックス手法であって、特にゲイたちから高い人気を博したため、地元のレコード店が「ハウス・ミュージック(ウエアハウス・ミュージック)」と称して販売したのがハウスという名称の始まりと言われている>と書かれている。 |
『ミュージック・マガジン』1992年10月号の特集は「超ハウス主義」というカラー32ページの大型企画だった。その大特集の巻頭を飾ったのが、テイ・トウワと久保田麻琴さんの対談だった。
記事掲載時の、それぞれのプロフィールを引用させていただく。
*テイ・トウワ 新作『インフィニティ・ウィズィン』を発表したディー・ライトのメンバー。横浜生まれの韓国人で、87年にニューヨークに渡り、90年にディー・ライトでデビュー。個人としては、坂本龍一の「Heartbeat」や立花ハジメ「バンビ」、その他メロンなどのリミックスでも活躍している。28歳。
*久保田麻琴 本誌読者にはすでにお馴染みの、アジアを股にかけるプロデューサー。サンディー、メリアナ、エルフィ・スカエシ、さらに日本とインドネシアの共同プロジェクトであるチャンプルDKIの作品などを通して、ハウス/ヒップホップを通過したアジアのグルーヴを追求し続けている。43歳。
この対談が行われた1992年当時、テイ・トウワはニューヨークに住んでいたが、「このままニューヨークにいるのかなって、悩みだしましたよ、少し。いままでは考えたこともなかったんだけど。沖縄とかに住みたいかなって思って」と話すと、久保田さんが「沖縄はね、ヴァイブがある。生きてるんだよね、なんかがね。僕は音楽の最初のインスピレーションは、実は沖縄なんですよ。それまで、普通のアメリカっぽいアマチュア・バンドやってたんだけど、沖縄に行って、ああすごいなぁっていう。特に喜納昌吉の<ハイサイおじさん>聴いて「すげぇなぁ」っていうショックがあって、それでいまやってる音楽のタネができた」と答えている。
テイ・トウワは1994年、ディー・ライトを脱退し、アルバム『Future Listening!』でソロ・デビューし、活動拠点を日本に移した。
久保田さんは実家が大正時代から続く映画館だったこともあり、音楽活動だけに留まらず、2011年には『スケッチ・オブ・ミャーク』という沖縄県宮古諸島に伝わる神歌・古謡を題材にした映画の原案、監修を行い、自らも出演している。
ところで、この『ミュージック・マガジン』の特集「超ハウス主義」では、テイ、久保田対談の次のページでは、ハウスの先駆者とされるラリー・レヴァンを今野雄二さんがインタヴューしている。7月8日に品川パシフック・ホテルで行われたそうだが、ラリー・レヴァンはちょうど4ヶ月後の11月8日に心臓疾患で亡くなってしまった。
今野さんが文中で、「すでに2度も来日済みの彼だが、今回は芝浦のクラブ”ゴールド”が企画した、ラリーの39回目の誕生日を記念する”ガラージュ”再現パーティへ出演するのが目的とあってか、これまでになく血色のいい元気な姿をみせ、かつてないほど意欲的なDJ・プレイを展開したのだった」と書いていたのだが・・・。
YouTubeから「Deee-Lite - Groove Is In The Heart (Official Video)」 「ハイサイオジサン/久保田麻琴と夕焼け楽団」 「Kopi Dangdut/Campur DKI」
テイトウワ 公式ウェブサイト
久保田麻琴 公式ウェブサイト
赤坂・キャピトル東急ホテル 1992年7月23日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1992年10月号
#テイトウワ
#TowaTei
#JungleDJTowaTowa
#ディーライト
#DeeeLite
#久保田麻琴
#MakotoKubota
#ハウス
#House
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◯YOSHIKI(X JAPAN)
掲載した写真は、X JAPANのドラマーでありリーダーであるYOSHIKIの記者会見。1992年7月23日に東芝EMIの1Fロビーで行われたものだ。ミュージック・マガジンの取材で撮影したのだが、掲載ページが見つからない。
この日は東芝EMIの近くにあるキャピトル東急ホテルで午後3時15分からテイ・トウワと久保田麻琴さんの対談があり、その撮影を担当したのだが、担当編集者の野間易通さんから対談の後に急遽YOSHIKIの記者会見の撮影を依頼されたのではなかったか。
記者会見の撮影だが、対談撮影用に大型のストロボを持っていたので、邪魔にならないようロビーの離れたところに傘をつけたストロボをセッティングして撮っている。アシスタントにストロボをテスト発光してもらい、ストロボメーターで光量を測った記憶がある。この撮影の数日前に船上レストランの撮影があって、その際に海岸で転んでカメラレンズのフードが肋骨に当たり、骨にひびが入っていた。雑誌の取材でアシスタントを頼むことはほとんどなかったが、この時は大型ストロボ、ブローニーと35mmのカメラ、背景用のペーパーなど大量の機材があって、それらを持ってもらうのにアシスタントを頼んであった。 |
掲載ページが見つからないので記者会見の詳しい中身がわからないが、wikiには1992年7月23日に東芝EMIと初めてとなるソロ契約の締結を発表と書かれているので、その記者会見なのは間違いないだろう。
YOSHIKIはX JAPANがメジャー・デビューした1989年にライヴを撮影している。『ポップティーン』という10代の女の子向け雑誌での取材で、会場は渋谷公会堂だった。当時のスケジュール帳のメモにはボーカルとドラムを中心に撮影するよう編集者からの指示が書いてある。このライブの写真はベタ焼き(コンタクトシート)が一枚家にあったが、フィルムは無いようだ。ベタ焼きと一緒にフィルムは編集部に渡してしまったのだろう。今考えると、ちょっと残念なことをした。写真は『ポップティーン』1989年6月号の<ほりだし者>というページに掲載されている。
1965年11月20日生まれ、千葉県館山市出身。本名は林佳樹。林さんという普通な名字に、かえって驚いた。
YouTubeから「X Japan Rusty Nail from "The Last Live" HD」 「X JAPAN - 紅 (Tokyo Dome 2009.05.03) [1080P HD]」 「YOSHIKI-DRUM SOLO 人工椎間板手術後のドラムソロ after 2 neck surgeries - No Audience Live 無観客ライブ-X JAPAN (LINE CUT)」
YOSHIKI 公式ウェブサイト
X JAPAN 公式ウェブサイト
赤坂・東芝EMI 1992年7月23日撮影
初出『ミュージック・マガジン』
渋谷公会堂 1989年3月16日撮影
初出『ポップティーン』(飛鳥新社)1989年6月号
#YOSHIKI
#ヨシキ
#林佳樹
#エックスジャパン
#XJAPAN
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昨日に続き今日も夏日で、最高気温が28℃まで上がった。晩ご飯は今年初めての冷やし中華にした。
昨日はレンタカー屋で軽トラを借りて、不用品の処分。処分するのは昨年の暮れから玄関前の車庫に置きっ放しになっている畑の道具と妹の家の要らなくなった家具、それからまだ畑に置いたままになっている浴槽とコンポスト。先ずはレンタカー屋で軽トラを借りてからお金になりそうな妹の家にある大きな犬小屋と、家にある金属類を近所の産廃業者へ持ち込む。それから畑へ行って浴槽を軽トラに積み込み、家で泥を洗い流す。キレイになった浴槽とイボ竹やら木材などの畑で使っていたものを軽トラに積み込み、また妹の家に行き積めるだけの家具を乗せて高岡市のゴミ処理施設へ。せっかく持ち込んだ浴槽は市の施設では処理できないので、民間の産廃業者に持って行って下さいとのこと。帰りは通り道にあった楽ya(たのしや)という五平餅のお店で、お昼ご飯用に五平餅を4本テイクアウトで購入。
五平餅を食べしばらく休憩してから、軽トラに乗せた浴槽を午前中に金属類を売りに行った産廃業者へ持ち込む。1キロ80円の処分費用がかかり、1600円+消費税で1760円の出費。家に戻り1回目で積み込めなかったイボ竹を乗せ、また妹の家に行き残りの家具を積んで市の処理施設へ。ようやく不用品の処分が済んだ。
妹は使えそうな畑の道具を親戚に届けに行き、自分は畑へ行って泥に埋まっている2つのコンポストを掘り出す作業。コンポストの中には堆肥ではなく、なぜか大量の泥が詰まっている。鍬とスコップで中と周りの泥を吐き出す。途中から妹も加わり、なんとか2つのコンポストを取り出すことができた。これを軽トラで家に運び水でキレイに洗った。
軽トラを返却した後、妹家族と一緒に小矢部の台湾料理屋で晩ご飯。 |
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↑処分しなくてはいけない畑道具で散らかっていた車庫。↓処分して少しはスッキリした車庫。緑色の容器がコンポスト。 |
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| ようやく昨日、借りていた畑から浴槽やコンポストを運び出したので、今日、両親がデイサービスから帰ってきてから3人で畑を借りていた近所の地主さんへ野菜作りはやめてお返ししますという挨拶に伺い、お礼の商品券をお渡ししてきた。 |
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◯早川めぐみ
1980年代の前半、アイドル的なヘヴィメタル・クイーンが何人も誕生した。早川めぐみもそんな中の一人だった。
1982年に本城未沙子が高崎晃プロデュースのアルバム『魔女伝説』でテイチクからデビュー。続いて1983年に浜田麻里が「麻里ちゃんは、ヘビーメタル。」という糸井重里氏によるキャッチコピーと共に、樋口宗孝プロデュースによるアルバム『Lunatic Doll~暗殺警告』でビクターからデビュー。そして1985年、早川めぐみが歌謡メタル・エンジェルとしてシングル「横須賀17エレジー」でデビュー。3人のイニシャルは偶然なのか戦略だったのかHM(ヘヴィ・メタル)で共通していた。イニシャルはHMではなかったが、1981年にシングル「ギャンブラー」、アルバム『LET’S BEGIN』でビクターからデビューした一色ゆかり(後に杉本誘里に改名)がこの路線の先駆けだったように思う。 |
早川めぐみを撮影したのはデビューの翌年、1986年で目黒のLIVE STATIONだった。なぜ彼女のライヴを撮影することになったのか覚えていないが、たぶん、音楽事務所レイズ・インのレイ(長戸秀介。ビーイングの創始者・長戸大幸さんの弟)さんに声を掛けられて撮影に行ったのだろう。初めてカメラを買って2ヶ月ほどの時だが、この頃、レイさんに声を掛けられ1985年11月5日に『So Deep』というロック色の強いアルバムをリリースしたばかりのJUNKO(三原じゅん子)のライヴを新宿ロフトで、1986年2月10日にはまだデビュー前でJUMKOのバックコーラスもしていたGAOのライヴを目黒のLIVE STATIONで撮影している。早川めぐみもレイさんがプロデュースかマネージメントで関わっていたのかもしれない。
早川めぐみのwikiも彼女自身のサイトも見当たらないが、「BEAT OF JAPANESE METAL MOTION」というサイトの早川めぐみという項目に簡単なプロフィールとディスコグラフィーが掲載されていた。それによると1985年から1986年に掛けて2~3ヶ月おき、1年半ほどの間に6枚のアルバム(ミニ・アルバムを含む)をリリースしている。レコーディング・メンバーには松本孝弘、北島健二、山本恭司といった名前がクレジットされている。
YouTubeから「横須賀17エレジー/早川めぐみ」 「Body To Body/Megumi Hayakawa」
1986年1月10日 目黒・LIVE STATION
#早川めぐみ
#MegumiHayakawa
#ヘヴィメタクイーン
#アーカイブ
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◯野坂昭如
小説家であり、歌手であり、作詞家であり、タレントであり、政治家でもあった。放送作家としての別名は阿木由起夫、歌手としての別名はクロード野坂、落語家としての高座名は立川天皇と名乗っていたそうだ。
作家としてのデビューは1963年に書いた小説『エロ事師たち』で、1967年には『火垂るの墓』『アメリカひじき』で直木賞を受賞している。また歌手としても1950年代から活動を行っていたそうで、1969年にレコード・デビュー。代表曲に「マリリン・モンロー・ノーリターン」「黒の舟歌」、本人がCMに出演して歌った「ソクラテスの唄」などがある。
野坂さんを撮影したのは『ミュージック・マガジン』の取材で、インタヴュアーは当時編集長だった高橋修さん。 |
なぜ音楽雑誌で野坂さんのインタヴュー?とも思うが、記事によれば<99年から歌手・野坂の旧作がCD化され始めたが、最近も、71年録音のファースト・アルバム『鬱と躁』(Pヴァイン)と、74年の”武道館花の御三家大激突ノーリターン・コンサート”から野坂の歌唱をまとめた『武道館の野坂昭如』(アンサンブル)がCD化された。それとともに野坂自身も歌手活動を再開、「チンタマケの唄」などの新曲を発表したり、クレイジーケンバンドのライヴに客演、その模様を収録した『青山246深夜族の夜』も発売された(いずれもPヴァイン)。本業の作家としても、国書刊行会から”野坂昭如コレクション全3巻”の刊行がスタート>と、活動が活発になり注目を集めていた時期だったようだ。冠こそないが、高橋修さんが以前連載していたメディアを賑わせている旬な人を取り上げる「こいこいウナギのぼり」「スター千夜一夜」の延長のような記事だった。
小説家、歌手、タレントなどマルチに活動されている野坂さんだが、業界入りは放送作家。また、いずみたくさんと組んでCMソングの作詞家としても活躍した。ちなみに童謡「おもちゃのチャチャチャ」の作詞は野坂さんで、第5回日本レコード大賞童謡賞を受賞している。
「世の中に出てくのはなんでも金ですよ。金と女ですよ。小説家になるまで、コマーシャルやってたから、もう莫大な金が入ってきますよ。ぼくは昭和34年に運転手つきの車に乗ってたんだからね。だから金は入ってくるんですよ。でも、釈然としないというか、やってて面白くなかったから、雑文の方に移ったら、がくっと(収入が)減っちゃったのね。それで、雑文の目で見てると小説家の方が、あの頃は今と全然違って金が入ったんですよ。仮に雑誌に連載すれば原稿料が入るでしょ。本になれば本のお金が入るでしょ。今度はそれが映画化されれば原作料入るでしょ。で、原作者というのはしばしば主演女優とヤレるという話があったんだよ(笑)。そりゃこっちの方がいいや、ってもんだよ」。
では、実際になってみたらどうでした?という高橋さんの質問には、
「その時、映画はもう下り坂だったから、原作者として特権を振るうということはなかったけどね。ただ、ぼくは年中、いつもブームのところにいるわけ。民放がブームの時は民放にいるし、コマーシャルが初めてできた時にも、ぼくはそこにいたしね。雑誌ブームの時には小説雑誌のところにいた。いつもいいところにいたし、いくらかは自分で作ってきたというところもあるんですよね」
取材は渋谷・東武ホテル内のカフェのテラス席。インタヴュー中もずっと煙草を離されなかった。煙草が好きでという感じではなく、煙草がなければ話せないようなシャイな感じが伝わってきた。
インタヴューの後のフォトセッションはホテルから出て、公園通りの雑踏で撮影した。野坂さんのバックスバニープリントのセーターと、背景のファッキンなデザインのチラシが気に入っている。
中年御三家の小沢昭一さんは2012年12月10日、野坂昭如さんは2015年12月9日、永六輔さんは2016年7月7日に亡くなられてしまった。
YouTubeから「野坂昭如「黒の舟唄」(1974年ライヴ)」 「マリリン・モンロー・ノー・リターン/CKB・野坂昭如」 「野坂昭如 ソクラテス サントリーゴールド900 1976年」
野坂昭如 NHK人物録
野坂昭如 新潮社プロフィール
渋谷・東武ホテル 2000年10月26日撮影
初出『ミュージック・マガジン』2001年1月号
インタヴュアーは高橋修さん
#野坂昭如
#AkiyukiNosaka
#阿木由起夫
#YukioAki
#クロード野坂
#立川天皇
#アーカイブ
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| 昨年の暮れに空気が抜けた後輪タイヤの修理をするのが面倒臭くてずっと放置していたが、いつまでも放置しておくわけにもいかず、自分でパンク修理するか自転車屋さんに持って行くか思案していた。でも、もしかして虫ゴムが原因だったら・・・と空気の抜けた後輪タイヤのバルブを外してみるとゴムが途中で切れている。そこで前輪のバルブを外して後輪のタイヤに取り付けて空気を入れ、しばらく時間を置いた後に確認すると空気が抜けていない。なんだ、虫ゴムが原因だったのか。そこでスーパーにテナントとして入っている100円ショップへ虫ゴムを買いに行く。とは言え、虫ゴムだけでは売っていないのでパンク修理セットを購入。以前も虫ゴムが欲しくてこのパンク修理セットを買ったことがあり、虫ゴム以外のゴムのりやヤスリなどがそのまま残っている。110円と手軽な価格だが、虫ゴム10本セットとかもあると嬉しい。虫ゴムを使わないスーパーバルブという商品もあるようだ。 |
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松田優作など多くの俳優やミュージシャンなどが通ったことで知られる下北沢のジャズバー「LADY JANE」が先日の日曜日、13日で営業を終了し、50年の歴史に幕を下ろした。建物の賃貸契約を結んでいたオーナーが世代交代し、更新が認められず退去を命じられたためだという。
プライベートで「LADY JANE」に入ったことはないが、何度か取材で撮影に行ったことはある。一番最初は1989年に出版された『東京★横浜 BAR GUIDE』(KKロングセラーズ)の取材で、その後にも雑誌のタウン特集で撮影に行っているはず。オーナーの大木雄高さんは、2003年から始まった下北沢駅周辺の再開発に異を唱え、反対運動の急先鋒として奔走されていたそうだ。小田急線の沿線に長く住んでいたので下北沢は馴染みの深い街だったが、奄美大島に移住するためアパートを引き払ってからもう15年ほど行っていないので、どれほど様変わりしているのか見当もつかない。
閉店ライブ「終幕式」が17日〜20日の4日間、下北沢の劇場「ザ・スズナリ」で開催されるそうだ。
下の写真は 『東京★横浜 BAR GUIDE』で入稿したLADY JANEの写真。DTP以前なので版下原稿にデザイナーがトレペの上から手書きで指示を書いている。原稿に使ったプリント(印画紙)はイルフォード ・マルチグレードのグロッシーかな。『東京★横浜 BAR GUIDE』では100軒のBARを撮影している。今でも営業を続けているお店の方が少ないだろうが、いつかこれらのフィルムもスキャンしてデータにしたいと思っている。
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◯「つらい」「他にない場所」下北沢の象徴的ジャズバー「LADY JANE」閉店…再開発が進む街の今後は
◯シモキタ半世紀の聖地LADY JANE、13日消灯 再開発に怒り
◯下北沢「LADY JANE」4月13日に50年4カ月の歴史に幕 “街は人と共に生きる”オーナー・大木雄高さんに聞く |
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◯スクエアプッシャー
テクノ、ドラムン・ベース系のミュージシャンで、テープレコーダーやサンプラーなど様々な機材を駆使し、自身が弾く超絶技巧のベースと融合させて実験的で新しいサウンドを創り上げる。言葉での説明より、まずはYouTubeでライヴ映像を見た方が理解できるだろうか。初来日の新宿リキッドルームでのライヴを収録したMTVの映像を下にリンクしておきます。
スクエアプッシャーはアーティスト・ネームで、本名はトーマス・ジェンキンソン。1975年生まれ、イングランド出身で、ジャズドラマーの父親の影響で幼い頃から音楽活動に親しんでいたそうだ。wikiによると10歳頃からギターを手にし、11歳からベースと電子機器を使用して実験的な録音を楽しんでいたという。12歳でスラッシュメタルのバンドに加入し、その後、偶然手にしたウェザー・リポートのアルバム『Heavy Weather』でジャコ・パストリアスのベースと出会う。
スクエアプッシャーを撮影したのは初来日した1997年で、シンコーミュージック の洋楽誌『クロスビート』での取材だった。インタヴュアーは安部薫さん。その時の記事が、ソニー・ミュージックのサイトに掲載されている。 |
取材場所がどこだったか確かめるため当時のスケジュール帳を調べたが、住友ビル15Fとしか書かれていなかった。たぶん、市ヶ谷のソニーではないかと思う。
スクエアプッシャー以外に、Tom Jenkinson、Chaos A.D.、The Duke of Harringayというアーティスト名でもシングルやアルバムをリリースしている。
YouTubeから「Squarepusher on MTV Japan, 1997」 「Squarepusher - Mibas Rhoja (Live in Tokyo, 2022)」
スクエアプッシャー 公式ウェブサイト
市ヶ谷・ソニー? 1997年8月29日撮影
初出『クロスビート』(シンコーミュージック )1997年10月号
インタヴュアーは安部薫さん、通訳はブライアン・バートン・ルイスさん
#スクエアプッシャー
#Squarepusher
#トーマスジェンキンソン
#ThomasJenkinson
#TomJenkinson
#ChaosAD
#TheDukeofHarringay
#アーカイブ
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◯ジャズ・コールマン
1978年にロンドンでインダストリアル・ロック系のバンド、キリング・ジョークをポール・ファーガソン(ドラム)と共に結成したジャズ・コールマン。
1979年にギターのジョーディー・ウォーカー、ベースのマーティン”ユース”グローヴァーが加わり「Turn to Red」をリリースし、イギリスの独立系レコードレーベル、EGレコードと契約。
wikiによると初期の音楽は厚いギターサウンドと激しいドラムビートの反復が特徴だったそうだが、徐々にシンセサイザーをメインに据えたニュー・ウェイヴ・サウンドに近づいていったという。
1980年代の終わりにはメンバーの相次ぐ脱退でバンドは崩壊しかけたが、1994年、初期のメンバー、マーティン”ユース”グローヴァーが復帰して4年ぶりのアルバム『パンデモニウム』をリリースする。
ジャズ・コールマンを撮影したのは、その『パンデモニウム』をリリースしたタイミングだった。『ミュージック・マガジン』での取材で、インタヴュアーは小野島大さん。 |
今回のアルバムの焦点の一つは喧嘩別れしていたユースとあなたの仲が復活したことにあると思う。10年以上違うことをやっていた2人が今回一緒にやるにあたって、どこに共通点を感じたのか?と小野島さんが尋ねると、
「・・・パンクは勢いまかせの音楽だった。ポスト・パンクで初めてグルーヴ感を取り戻したバンドが、キリング・ジョークだったんじゃないかと思う。今回再び一緒にやることになって、ユースがもたらしたのが、そんなグルーヴ感を自分の中に蘇らせてくれたことだ。奴はヘヴィなダブ・ベースを駆使したリズム・セクションのパイオニア的存在だったからな。ついでにハシシの種もいっぱい持って帰ってきてくれたけど(笑)」
ジャズ・コールマンの公式ウェブサイトによると、彼は1960年にチェルトナムで、イギリス人の父とベンガル系イギリス系インド人の母の間に生まれたそうだ。
今回のアルバムにはアラブ/イスラム音楽の要素が感じられると、小野島さんが述べると
「おれの肌の色を見て、おれをイギリス人だと思うか?おれにはペルシャやヒンドゥーの血が流れてる。おれはブリストルの近くのチェルトナムという町に生まれ育ったんだが、終始、イギリス人としてのアイデンティティを持てなかった。自分のルーツを確かめたくなって、89年から90年の間にカイロの音楽大学に通い、ヴァイオリンの勉強をした。そこでアラブ音楽を学んで、自分自身の中のイギリスに属さない部分を見つけていったんだ。7歳から16歳の少年期、肌の色が違うために学校で毎日苛められ、トラブルの絶えない戦いの日々を送っていた。キリング・ジョークを結成した背景には、そうした戦いの日々が刻まれていると思う」と語っていた。
キリング・ジョークは1996年にアルバム『デモクラシー』をリリースするが一度解散。2002年に再活動し、2003年にはセルフタイトルの『キリング・ジョーク』を発表する。このアルバムにはデイブ・グロールがドラムで参加しているそうだ。
ジャズ・コールマンはキリング・ジョークを結成する前、イギリスのいくつかの大聖堂の聖歌隊のメンバーだったという。キリング・ジョークを一時離れたときにはクラシック音楽の作曲家になるために勉強し、その後は世界有数のオーケストラで指揮をとったり交響楽のアレンジなども手掛けている。
YouTubeから「Killing Joke - Love Like Blood (Official Video)」 「K÷93 (Jaz Coleman, Peter Hook, Geordie Walker) Giving Up The Ghost」
ジャズ・コールマン 公式ウェブサイト
青山・ビクタースタジオ 1995年2月14日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1995年5月号
インタヴュアーは小野島大さん
#ジャズコールマン
#JazColeman
#キリングジョーク
#KillingJoke
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| 桜はここ数日の雨や風で、少しずつ散り始めている。今日はチューリップ農家が球根を育てるために摘んだ花を田んぼに撒いたところを撮影しようと、片道40分ほど自転車を漕いで戸出方面へ。しばらく農道をアチコチ自転車で走るが、チューリップ畑が見当たらない。収穫したチューリップの球根が道路脇に置いてある畑の先で作業されていた農家の女性に尋ねたところ、チューリップ畑は縮小されたとのこと。球根が置いてある畑の花は切り花として出荷したそうで、あとは156号線の近くに3面ほどあるくらいだという。昨年はキッチンのリフォームに忙しくて撮影に来れなかったが、一昨年はもう少しチューリップ畑があって肥やしにするため花びらを撒いた田んぼもあった。初めて田んぼに撒かれたチューリップの花びらを撮影したのが2010年5月で、15年が経っている。行くたびにチューリップ畑が減っているように感じていたが、まさかこんなに少なくなるとは。 |
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昨日開幕した大阪・関西万博の会場で異臭と発煙騒ぎがあり、消防車8台が駆けつけた。消防は「火災ではありませんでした。原因は分かりませんが、確認したところ異常は見られませんでした」と話して引き上げたという。誤報だったということで騒動は収まったが、問題は万博協会が報道陣に対し撮影NGという通達を出したということだろう。不都合なことは隠蔽するという体質、さすが民主党政権時代の2010年に11位だった報道の自由度ランキングを、第2次安倍政権以降の自民党政治で先進7カ国では最下位、180カ国・地域中70位にまで貶められた国の面目如実だろう。
スマートフォンと事前予約で並ばない万博を標榜していたが、入場する段階で長蛇の列。パビリオンへ入るにも食事をするにも並ばなくてはならないようだ。現金は一切使えないそうだが、それは来場者に対して親切なのだろうか。保険証を廃止してマイナカード との一体化を進めた政策と一緒で、使う側(来場者・国民)の利便性や安全性を無視した強引なDX推進でしかない。
開幕初日の昨日は暴風雨にも見舞われ、悪天候を理由に自衛隊によるインパルスの飛行も中止になった。激しい雨風に吹きさらしの大屋根リングは役に立たず、他に雨宿りできるところもなく雨に濡れて肌寒く過ごした人も大勢いたようだ。万博は半年間開催されるようだが、台風シーズンの落雷などの安全性も危惧される。埋め立てた人口島で交通インフラは脆弱、何か大きな事故や災害が起こった時に島から脱出するのも容易ではないかもしれない。X(旧ツイッター)ではすでに#万博ヤバいのハッシュタグが賑わっている。
今回の万博の目玉の一つだという「空飛ぶクルマ」のデモ飛行が今日行われたが、あれは「空飛ぶクルマ」ではなく大きなドローンだろう。夢に描いていた空飛ぶクルマはスポーツカーのような外観で道路を走り、いざ空を飛ぶとなったら車体から翼が伸びでジェットエンジンが噴射するというイメージだった。
この他の気になった記事を備忘録として。
◯中国が報復関税打ち止め宣言 対米125%も今後「相手にしない」
◯下北沢「LADY JANE」4月13日に50年4カ月の歴史に幕 “街は人と共に生きる”オーナー・大木雄高さんに聞く
◯移民6千人勝手に「死亡」 米政権、出国促す狙い |
◯ラン・DMC
ヒップ・ホップに疎い自分でも名前は知っているニューヨーク出身のヒップ・ホップ・グループ。wikiを参考に略歴を記すと、
<1980年代初期より、ジャム・マスター・ジェイ(本名ジェイソン・ミゼル)とRun(本名ジョセフ・シモンズ)、D.M.C.(本名ダリル・マクダニエルズ)は、オレンジ・クラッシュとして活動していたが、1982年にRun-D.M.C.に改名し、翌年「It’s Like That」でシングル・デビュー。1984年のファースト・アルバム『Run-D.M.C.』は、ミリオン・ヒットを記録し、ヒップ・ホップのアルバムとして、初のゴールド・ディスクを獲得。1985年の主演映画「クラッシュ・グループ」は、全米週末興行収入成績第2位を記録するヒットとなった>
彼らが着用していたアディダスのスニーカー「スーパースター」やカンゴールのハットは、オールドスクール・ヒップ・ホップのヒップ・ホップ系ファッションとして定着した。
ラン・DMCを撮影したのは、6枚目のアルバム『Down With the King』をリリースした1993年で、『ミュージック・マガジン』の取材だった。デビュー・アルバムをリリースしたばかりのニューヨーク出身のハードコア・ヒップ・ホップ・グループ、オニクスと一緒の来日だった。
彼らが宿泊していた京王プラザホテルで昼の1時からインタヴューがあり、その日の夜に渋谷のオン・エアでライヴを撮影している。
インタヴュアーは河地依子さんだったが、<元祖の意地でラップ界の西高東低を打ち破れ 再び活性化しはじめた米東海岸ラップシーンを概観する>と題したフードゥーフシミさんの10ページの記事の中の囲み記事として掲載されている。
新作アルバムの話というより、例えば、「最近のオールド・スクール回帰の傾向はどう映りますか」というようなシーンについての取材になっている。この質問に
「80年代は俺達が支配してただろ。その後からいろんなヤツらが出てきて、ジャズを乗っけたりしたヤツらもいた。でも根底には必ずオールド・スクール、つまり俺達がやってきたことがあったわけだ。それらは一時的にはクリエイティヴだと受けとめられても、つまるところ、アンダグラウンドでロウでラフな、俺達の所へ戻ってくるんだよ。同じことをやり続けるのがハードコアだ。暴力、ドラッグ、セックスがハードコアじゃないんだぜ」とDMCが答えている。インタヴューにはRunも同席したがほとんど喋らず、DJのジャム・マスター・ジェイはスタジオ入りしていて不在だった。
今後の東海岸のラップがどんな方向に発展していくと思うかという問いには、
「東と西は大いに違う。東の方が多彩だね。特にメッセージの部分で。西のヤツらの大部分は暴力、セックス、ドラッグ、女、金、目に見えるもののことしか言わない。まあ実際にLAって街はしょっちゅうドンパチやってるから、目の前で起こっていることを描写しているんだろうけど。でも東はそれだけじゃないぜ。もう少しインテリジェントな要素が加わっている。それに、ラン・DMC、ノーティ・バイ・ネイチャー、パブリック・エネミー、LL・クール・J、デ・ラ・ソウル、オニクス、いろんなタイプがいるだろ」と語っていた。
ライヴの方は、日本勢のユー・ザ・ロック&DJベン、ボーイ・ケンが登場し、次にミューヨーク勢のオニクス、そしてラン・DMCがステージに立った。
残念ながら、2002年10月30日、ジャム・マスター・ジェイがレコーディング・スタジオで射殺され、グループは活動休止を余儀なくされた。
2009年にラン・DMCはロックの殿堂入りを果たしたが、2013年、DMCは再結成は絶対にないと話したそうだ。
YouTubeから「Run DMC - It's Like That (Like At Montreux 2001)」 「RUN DMC - Walk This Way (Official HD Video) ft. Aerosmith」 「RUN DMC - Christmas In Hollis (Official HD Video)」
DMC 公式ウェブサイト
https://me-dmc.com
新宿・京王プラザホテル 1993年11月12日撮影
渋谷・オン・エア 1993年11月12日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年1月号
インタヴュアーは河地依子さん、通訳は丸山京子さん
#ランDMC
#RunDMC
#ラン
#Run
#ジョゼフワードシモンズ
#JosephSimmons
#DMC
#ダリルマシューズマクダニエルズ
#DarrylMatthewsMcDaniels
#ジャムマスタージェイ
#JamMasterJay
#ジェイソンウィリアムミゼル
#JasonWilliamMizell
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◯オニクス
オニクス(オニキスとする表記もある)はニューヨーク出身のハードコア・ヒップ・ホップ・グループ。1988年に同級生だったフレドロ・スター、ソニー・シーザ、ビッグ・DSによって結成され、1990年4月にデビュー・シングル「Ah,And We Do It Like This」をリリースしている。
1991年にラン・DMCのDJで音楽プロデューサーのジャム・マスター・ジェイと出会い、ジャム・マスター・ジェイ・レコードと契約。この年、オニクスのマネージャー、ジェフリー・ハリスの従兄弟のカーク・ジョーンズがスティッキー・フィンガズという芸名でグループに加わった。
1993年にジャム・マスター・ジェイのプロデュースによるデビュー・アルバム『Bacdafucup』をリリース。このアルバムはRIAAからプラチナ認定を受け、ビルボード200で10位を記録。ソウルトレインミュージックアワードで最優秀ラップアルバム賞を受賞した。
これがwikiを参考にまとめた彼らのデビュー間もない頃のプロフィールだ。 |
オニクスを撮影したのはデビュー・アルバムをリリースした1993年で、やはりニューヨーク出身のヒップ・ホップ・グループ、ランDMCと一緒に来日した時だった。『ミュージック・マガジン』の取材で、インタヴュアーは本根誠さん。彼らの宿泊先のホテルで、午後1時から河地依子さんによるラン・DMCのインタヴューの後、2時からオニクスのインタヴューが行われた。そして、その日の夜に渋谷オン・エアでライヴを撮影している。
東海岸のラップの特集で、<元祖の意地でラップ界の西高東低を打ち破れ 再び活性化しはじめた米東海岸ラップシーンを概観する>と題したフードゥーフシミさんの10ページの記事の中の囲み記事として掲載されており、本根さんが西海岸のラップとの違いを尋ねると、
「76年、NYにはすでにギャング・チームはあった。今じゃギャングが氾濫して、街歩いてるだけでも撃たれちまう。LAだとチームに入ってると撃たれちまう。わかるか?」「西海岸は元々がギャング・ラップで当てた地域なんで、今でもイメージ先行だ。対して東は、より技を追求しているんだ。それと、西はラップ、喋りがよければプラチナ。東はヒップホップ、すべてにおいて良くなければ支持されない」
ちなみにインタヴューをすると、メンバーが一斉にバラバラの返事をするのでどの発言が誰のものかわからない。
彼らのパフォーマンスは大声で叫ぶ、攻撃的でお互いに喧嘩し、ステージをダイブし水を投げつけるといったスタイルだそうで、
「ご覧のとおり俺たちは声がでかくてさ。俺も言いたいことがある、奴もなんか言っている・・・そのうち叫ぶように会話するようになってさ、それが”スラム”なんだ。(4人でおしくらまんじゅうをして見せ)実際に争うんじゃなく、オープンで、ダンス・ファイトな気分が一番だろ」
全員がボール・ヘッドで黒服というヴィジュアル・イメージは誰が考えたのかという質問には、
「これはヴィジュアル・イメージじゃねえ!」「現実だ!」「暗闇で撃たれないためさ」「白い服着てトゥアーなんか出たら一週間で汚れちまうぞ」「おいっ!」と声が乱れ飛んだ。
ビッグ・DSは1994年にグループを脱退し、2003年5月22日にニューヨークの病院で31歳で亡くなった。ソニー・シーザもソロ活動を始めるため2009年に脱退し、オニクスは現在2人で活動しているようだ。
これまでにスタジオ・アルバム13枚、コンピレーション・アルバムを2枚リリースしている。
YouTubeから「Onyx - Slam」 「Onyx - Throw Ya Gunz」
オニクス 公式ウェブサイト
新宿・京王プラザホテル 1993年11月12日撮影
渋谷・オン・エア 1993年11月12日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年1月号
インタヴュアーは本根誠さん、通訳は丸山京子さん
#オニクス
#Onyx
#フレドロスター
#FredroStarr
#ソニーシーザ
#SonnySeeza
#ビッグDS
#BigDS
#スティッキーフィンガズ
#StickyFingaz
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大阪・関西万博の開会式が今日行われ、いよいよ明日から開幕するが、8カ国が工事の遅れなどで開幕日にオープンしないそうだ。メタンガスの問題で、万博を修学旅行で訪れる予定だった千葉県船橋市立の中学校が、生徒の安全が担保できないとして行き先をUSJに変更したという。
この他の気になった記事を備忘録として。
◯八代亜紀さん 20代のヌード写真入りアルバム発売に「尊厳を守れ」SNSで猛抗議
◯日本の「思いやり予算」で買った米軍機材が全て「未導入」と判明 3年計92億円分 詳細は「ブラックボックス」
◯森友開示文書に「安倍昭恵夫人スリーショット写真」前後の期間の欠落が通し番号から判明 意図的な抜き取りの疑いも《弁護団は週明けにも財務省に見解を求める方針》 |
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◯荻野目洋子
1985年に発売した7枚目のシングル「ダンシング・ヒーロー」が大ヒットし、一躍トップ・アイドルの仲間入りをしたが、wikiによると、芸能界デビューは小学生時代に組んだ「ミルク」というユニットだという。『ちびっこ歌まねベストテン』に出演しているところをスカウトされ、小畑和美(ミミ)、大森絹子(クミ)と小学生女子3人グループ「ミルク」を結成し、1979年4月に「ザ・あれから いちねん」でCBS・ソニーからデビューしている。
中学2年生の頃にキティ・フィルム製作のアニメ『みゆき』のヒロイン若松みゆき役の声優に抜擢され、以来、歌手としてソロ・デビューした後も声優の仕事も行っている。
彼女を撮影したのは『ミュージック・マガジン』での高橋修さんの連載「スター千夜一夜」で、記事によればNHKのドラマ『名古屋お金物語』の主題歌「幸福への時間」、2枚組ベスト・アルバム『HISTORI』を立て続けに発売し、デビュー11年目を迎えてますますノッている時期ということだった。 |
荻野目洋子さんといえば、どうしても「ダンシング・ヒーロー」の話となるが、
「<ダンシング・ヒーロー>っていう曲は、もともと歌う予定じゃなかったんですよ。それまでの路線とも違うし。ただ、ヒットを出さなきゃ、事務所がつらいのはもちろんだけど(笑)、アーティストとしてもやっていけないじゃないですか。だからああいう曲を冒険でやってみたら、初めてヒットして。で、いきなりみんながワーッて応援してくれて。ダンスもあの時に覚えたんですから(笑)。さあ特訓だ!とかいって。だからほんとにワケわかんなくて、もう頑なに”これが売れたんだからこれで頑張るしかない”って、16歳ですよその時(笑)、少女が思うワケですよ。やっぱり世の中、厳しいですよね(笑)」
彼女は1988年にナラダ・マイケル・ウォルデンをプロデューサーに迎えて『VERGE OF LOVE』というアルバムをリリースするが、この時にナラダから大きな影響を受けたという。
「精神ですね。ナラダさんが宗教とか精神をとても大事にしてる方だったんで。最初は私、そういうことに無知で、オドロオドロしくて怖かったんですけど(笑)。
やっぱり仕事をしていればいやな顔を見せたりするじゃないですか。でもナラダさんは、いつも顔を合わせているスタッフと、すごくいいコミュニケーションが取れているんですよ。みんな笑顔で、ナラダさんと仕事をするのを楽しんでいるという感じで。それは、人を気持ちよくさせているナラダさんの精神から生まれてるんですよね」
「ダンシング・ヒーロー」は平野ノラさんがネタにして、それを元にした大阪府立登美丘高等学校ダンス部が「バブリーダンス」として踊って注目を集め、何度もブレイクしている。
プライベートでは高校時代の同級生でもあるプロ・テニス選手の辻野隆三さんと2001年に結婚し、今は3人の娘さんのお母さんのようだ。
YouTubeから「ダンシング・ヒーロー/荻野目洋子」 「荻野目洋子 Yoko Oginome - Verge Of Love: Live At Budokan - Japanese Laserdisc」
荻野目洋子 公式ウェブサイト
荻野目洋子 X(旧ツイッター)
青山・ビクタースタジオ隣り 1995年6月30日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1995年8月号
インタヴュアーは高橋修さん
#荻野目洋子
#YokoOginome
#スター千夜一夜
#アーカイブ
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◯相沢まき
新潟出身のモデル、女優、ものまねとマルチに活躍するタレント。1999年に矢野麻衣子の名前でレースクイーンとしてデビューするが、2000年に相沢真紀に改名し、TBSの深夜番組『ワンダフル』にワンギャル4期生として出演。
2004年、日本テレビ『ものまねバトル』の「ものまねスター誕生」コーナーに出演し、グランプリを獲得。以降、ものまねタレントとしてもバラエティー番組などで活躍する。また、『2004年サマースペシャルミュージカル 美少女戦士セーラームーン~新かぐや島伝説~』にてルーフ・メロウ役でミュージカルに初出演している。
2009年、29歳になったのを機に、芸名を相沢真紀から相沢まきに改名した。 相沢まきさんを撮影したのは2007年の暮れ、まだ相沢真紀だった頃で健康雑誌の取材だった。取材場所は当時の所属事務所ケイダッシュで、1回の取材で2つのテーマの撮影をさせていただいた。一つは3月号用の「おでん大根」というテーマのダイエットだったか美容だったか忘れたが特集の取材、もう一つは4月号の「NOPETNOLIFEペットと私」という当時担当していた連載だった。 |
取材場所のケイダッシュへ行くと、彼女と仲の良いという同じ所属事務所だったスザンヌが居て明るい声で挨拶されたのを覚えている。
撮影データを見ると部屋の中でのインタヴュー写真、おでんの大根を箸で持ち上げる写真、ライムという愛犬(チワワ)を抱いているバストアップ写真を撮ってから、外に出てもらって立ち姿の全身写真を撮っている。
2018年の結婚と出産を経て、現在はフリーでタレント活動をされているようだ。
wikiによればチワワのライムは、2021年2月18日にかかりつけの動物病院で亡くなったそう。
YouTubeから「マキマキマキ/相沢まき」 「未来へ カラオケ/相沢まき」
相沢まき 公式ウェブサイト
相沢まき オフィシャル・ブログ
渋谷区・ケイダッシュステージ 2007年12月4日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2008年3月号
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2008年4月号
#相沢まき
#相沢真紀
#MakiAizawa
#矢野麻衣子
#ワンギャル
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ
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| 岸渡川の桜は満開。今日からお天気は下り坂の予報だったので、昨日のうちに川沿いの桜並木を眺めながら2時間ほど散歩してきた。デイサービスやケアサービスの施設の車が何台も行き交っていて、車からお年寄りを降ろしてスタッフの人たちが桜をバックに記念写真を撮っている様子がアチコチで見られた。マスクをかけ、出かける前にナザールを鼻に注入したのが効いたのか、夜になっても花粉症の症状はほとんど出なかった。 |
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トランプ大統領が9日に発動したばかりの相互関税の一部について、わずか13時間あまりで90日間一時停止すると発表した。その理由について「私はみんなちょっと過剰に反応しているなと思ったんだ。みんなちょっと神経質になりすぎ、怖がりすぎだ」と述べたという。一方的な取引を仕掛けておいて、神経質だ怖がり過ぎだもないだろう。呆れてものも言えない。個人的には今後、彼がまた関税をかけると言い出したら、関税分をそのまま製品の値段に上乗せして放っておけばいいと思う。最終的に困るのはアメリカ国民であり、トランプ氏を大統領の座から引きずり降ろせるのもまたアメリカ国民だけなのだから。
昨年6月に維新から党員資格停止の処分を受けた足立康史氏を、国民民主党が夏の参院選大阪選挙区で擁立するそうだ。このこと一つとっても、国民民主がどうしようもない党だとわかる。国民民主の玉木代表が選択的夫婦別姓問題で<結婚前の旧姓の使用を広く認めるため、法的効力を付与する案を検討する考えを示した>という。企業団体献金問題に続いて、ここでも自民党をフォローする案を出してきた。
この他の気になった記事を備忘録として。
◯【経済産業省】東電HDが新たな再建計画 1.9兆円の追加支援を要請
◯沖縄でコシヒカリ5000円突破、全国一の高値 届かぬ備蓄米「値下がり見通せず」
◯兵庫県、新規採用の4割超辞退 斎藤知事のパワハラ疑惑影響か
◯iPhoneを米消費者が「パニック買い」--計104%関税、アップル製品の9割中国製
◯川重、国税が10億円を追徴 防衛予算が裏金化「指摘に従い納税」 |
◯サタール&レイラ・フォルーハル
バブルの頃とバブルが崩壊してしばらくは、東京や近郊でイランから働きに来ていた若者をたくさん見かけた。1974年に日本とイランはビザ相互免除協定を締結していたため、渡航しやすかったのだろう。休日になると代々木公園や上野公園に集まって来て、青空床屋やフリーマーケットが開かれ食べものを売る屋台も出た。ちょっとしたイラン村のようになっていて、その光景をなんだか怖いという人もいたが、フリーマーケットで売られている雑多なものを見るのは楽しかった。金沢明子・寺田創一のCD『東京音頭 平成ミックス』を買ったのは、代々木公園のイラン人のフリーマーケットだった。見本盤と印刷したシールが貼ってあって、どこから仕入れたのか不思議だった。
1992年の5月4日には在日パキスタン人やバングラデシュの人たち向けに、インドのポップガザル歌手、パンカジ・ウダースが来日して一日限りのコンサートを行い、翌日の5月5日には在日イラン人に向けたイランのポップス歌手(イランではポップスは禁止なので、ロサンゼルスに亡命したイラン人歌手)サタール&レイラのコンサートが浦和の埼玉会館で行われた。チケットは1万円ほどで、出稼ぎに来ている彼らにはそうとう高い値段設定だったろうと思う。 |
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レイラ・フォルーハル(フォルハールの表記もある)はwikiによると、故イラン人俳優ジャハンギル・フォルーハルの娘で、1959年2月23日にイランのエスファハーンで生まれた。ペルシャのポップスおよびクラシックの歌手で、3歳から子役として映画にも出演していたようだ。10代の頃にファッション雑誌のモデルも始めたが、イラン・イラク戦争の最中、1986年に家族で隣国のトルコ、その後パリに移った。1988年からはロサンゼルスに移住している。
サタールはwikiによると本名アブドルハッサン・サッタルプール。1949年11月19日、アバダニ人の母とアゼルバイジャン人の父との間に生まれた。彼もペルシャのポップスとクラシックの両方を専門とする歌手で、1970年代後半の政治的混乱まではパフラヴィー王家の宮廷歌手だったそうだ。1978年にイランを離れ、カリフォルニアに渡った。 |
サタール&レイラのコンサートは『ミュージック・マガジン』の取材で撮影し、北中正和さんによる<となり町で出会ったペルシャン・ポップの”伝説”>という記事で使われている。
コンサートはレイラ、サタールの順で、北中さんの記事によるとそれぞれ1時間弱、10曲ぐらいずつ歌ったようだ。バック・バンドはキーボード、ベース、ドラム、パーカッションの4人に、日本人のブラスが3人加わった編成。基本は8分の6拍子のリズムなのだけれど、跳ねるような、そして少し訛ったようなリズム。歌謡ディスコ風でもある。わりと色んな音楽を聴いている方だと思うが、このペルシャン・ポップがこれまでで一番カルチャーショックを受けた音楽だった。
ちなみに何年か後にイランのクラシック(伝統音楽)を聴く機会があったが、こちらも基本は8分の6拍子で、ポップスとクラシックの違いは演奏が打ち込みや電気楽器を使うか、民族楽器を使うかのように感じたのを覚えている。
コンサートの後、急遽楽屋でポートレートを撮ることになった。担当編集者の野間易通さんにカメラバッグの中に入っていたサンパックの小型ストロボを持ってもらい、バウンスなしのダイレクトで当てて撮影した。
サタールとレイラは夫婦かと思っていたが、wikiによるとレイラは2004年にロサンゼルスを拠点とするビジネスマン、エスマイル・ナビと結婚したと書かれている。
家のレコード棚にはレイラのCDが2枚、サタールのCDが1枚ある。 代々木公園のフリーマーケットでイラン人から買ったのか、都内の輸入盤店で買ったのか忘れたけれどレイラ・フォル-ハルのCD『Shance』は、今でも時どき聴く愛聴盤だ。
コンサートの写真は、『ダンスマガジン』に掲載された松村洋さんの「日本でしか聴けないイラン」という記事にも使われた。
YouTubemkara「Shance/レイラ・フォルーハル」 「Leila Forouhar - Del Ey Del | لیلا فروهر - دل ای دل」 「Sattar - Hamsafar ستار - همسفر」
レイラ・フォルーハル 公式ウェブサイト
レイラ・フォルーハル YouTubeチャンネル
浦和・埼玉会館 1992年5月5日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1992年8月号
記事は北中正和さん
初出『ダンスマガジン』(新書館)1992年8月号
記事は松村洋さん
#サタール
#Sattar
#アブドルハッサンサッタルプール
#AbdolhassanSattarpour
#レイラフォルーハル
#LeilaForouhar
#アーカイブ
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◯グレイト・ペルシャン・コンサート92
1992年5月5日にイランのポップス歌手、サタール&レイラのコンサートが埼玉会館で行われたが、5月31日には千葉県の松戸市民会館で「グレイト・ペルシャン・コンサート92」と題したイベントが開催された。共に東京近郊に住む日本に働きに来ているイラン人に向けたコンサートだった。
出演したのは女性歌手のホメイラ、シンガーソングライターでサックス・プレイヤーでもあるシャマイザーデ、そしてコメディアンのガーセム・ゴリー。『ミュージック・マガジン』の取材で撮影し、5月5日のサタール&レイラのコンサートと共に、北中正和さんによる<となり町で出会ったペルシャン・ポップの”伝説”>という記事の中で写真が使われている。
当時のスケジュール帳を見ると午後1時と5時の2回ステージで、4時に現地に集合して会場周辺の様子を撮影し、5時からのコンサートを撮っている。
ステージ内容は、北中さんの記事によるとホメイラをはさんでシャマイザーデ が前後に、ガーセム・ゴリーが何度か登場するという構成だったようだ。
wikiによるとホメイラは1945年3月17日にテヘランで、イランの貴族の家庭に生まれたそうだ。本名はパルヴァネ・アミール=アフシャリ。イラン革命後も1982年まで国内に留まっていたが、アフガニスタン、パキスタン、スペイン、コスタリカへと渡り、カリフォルニアに移住した。スタジオ・アルバムを20枚、コンピレーション・アルバムを5枚リリースしているようだ。
ハッサン・シャマイザーデは1943年1月15日、エスファハーン生まれ。30年間にわたりグーグーシュ、ダリウス、モエイン、エビ、アレフ、ホメイラ、ファルハドなどのアーティストのために曲を書いてきたとwikiに記されている。13歳の時からエスファハーンの劇場オーケストラでサックス奏者として演奏していたそうで、1960年代にはペルシャの人気バンド、ブラックキャッツのメンバーとしてプレイしていたという。
ガーセム・ゴリーに関しては伝統的なイランのスタンダップ・コメディアンで、クラブやイランのフェスティバルでパフォーマンスを披露するという程度の情報しか見つけられなかった。
北中さんの記事ではこのイヴェントを開催した国際コーポレーションというハラル・フードやヴィデオ・カセット類を輸入販売している会社の代表取締役で、当時来日6年目のゼディさんにも話を聞いている。
「日本にいるイラン人は、仕事ばかりで娯楽がないから、楽しんでもらえると思ってやった。好きで呼んだわけでなく、ビジネスとしてやろうと思った。出演者は友人と相談して決めた。入場券はうちと同じような仕事をしている会社を通じて売った。こういう会社は関東近県に二~三十ある。パキスタン人がやっている会社が多い。入場料1万円は高いけど、特別なコンサートだからね。雑誌広告などけっこうお金がかかったし」
入場者数は昼夜合わせて1200人で、大きな赤字が出たそうだ。今後もイランやパキスタンの歌手のコンサートをやっていきたいと話されていたが、この後、日本経済は下降し多くのイラン人が職を解雇され、中には犯罪に手を染める人や不法滞在する人も出て日本とイランとのビザ相互免除協定は終結した。
バブルの頃は日本人がやりたがらない3Kの労働を担っていた彼らだが、経済が悪化すると解雇された。仕事を求めて来日した彼らには不幸なことだった。ただ、SNSなどなかった時代で現在問題になっているクルド人に対してのような、イラン人へのヘイトはなかったように思う。
この記事の担当編集者は野間易通さんで、彼が現在行なっているC.R.A.C.や「No Hate TV」といった活動は、ここから道が繋がっているのかと想像している。
YouTubeから「Homayra - Vasam az Eshgh Begoo」 「Hassan Shamaeezadeh - Man Barat Yar Misham」 「Ghassem Goli - Singers (Comedy) 」
ホメイラ Discogs
ハッサン・シャマイザーデ Linktree
ハッサン・シャマイザーデ Instagram
千葉・松戸市民会館 1992年5月31日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1992年8月号
記事は北中正和さん
#グレイトペルシャンコンサート92
#GreatPersianConcert92
#ホメイラ
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#パルヴァネアミールアフシャリ
#ParvanehAmirAfshari
#ハッサンシャマイザーデ
#HassanShamaizadeh
#ガーセムゴリー
#GhassemGoli
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開幕を目前に控えた大阪・夢洲にある万博会場で昨日、「爆発下限値(ガスが空気と混合して着火によって爆発を起こす最低濃度)」を超えるメタンガスが検知された。万博協会は「引き続き、安心して来場いただけるよう会場運営をおこなってまいります」としているが、このメタンガスを検知したのは万博協会の関係者ではなく、テストランで会場を訪れていた元消防士で日本共産党の守口市義・寺本けんた氏だ。夢洲は元々ゴミの埋立地でメタンガスが発生する。実際、昨年3月に建設工事現場で爆発事故も起こっている。こんな場所が万博会場に選ばれたのは、維新が万博の後にカジノを含む統合型リゾート(IR)を開業したいから。万博を利用して鉄道や道路のインフラ整備をするつもりだが、万博が終わった後もメタンガスの発生に怯え、地盤沈下に怯えて運営していかなくてはならないことになる。2年前、維新の松井一郎氏は夢洲について「塩漬けになっていた負の遺産を有効な資産につくり替える」と発言していたが、負の側面が増大しただけではないだろうか。
自民党高岡市連は今年6月に行われる高岡市長選について、推薦願を提出した3人のうち現職の角田悠紀氏を推薦することに決めた。その理由について、「能登半島地震からの復旧復興にスピード感をもって取り組んできたことなど」角田氏の実績を評価したという。はぁ!?彼の行動のどこにスピード感があったのだろうか。地元のニュースで知る限り被災者との対話は職員任せで、被災した現場を視察している様子もあまり伝わってこなかった。そんな程度の能登半島地震からの復旧復興を実績と言わなければならないほど、他には何もしていなかったのだろうか。 |
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◯大野勝彦
大野勝彦さんは、義手の詩人であり画家だ。1944年、熊本県菊陽町に生まれ、高校卒業後は家業の農業(ハウス園芸)を営んでいたが、1989年に農作業中の事故で両手を切断。しかし、入院3日目より湧き出る”生”への想いを詩に託し、一年間書きためた詩を『両手への賛歌』という一冊の詩集にして自費出版する。その後、生きる歓びを水墨画に表現した画集『両手への賛歌』を出版し、第9回熊本現代詩新人賞を受賞。この他、熊本日日新聞社「豊かさ作文コンクール」グランプリ、障害者芸術祭書画の部金賞、九州あったか絵手紙大賞九州郵政局長賞などを受賞されている。
そして2003年、熊本県の南阿蘇村に「風の丘 阿蘇大野勝彦美術館」を開館された。
大野勝彦さんを撮影したのは、健康雑誌の取材だった。ライターさんはおらず担当編集者と2人での取材だったので、編集の女性がライターを兼務していた。彼女の大野さんに会ってみたいという好奇心から生まれた企画だったように思う。 |
取材経費がたっぷりあるわけではないので、東京ー熊本の日帰り取材だった。それまで日帰りロケで一番遠かったのは岡山だったが、一気に九州の南まで行った。それでも岡山は新幹線だったので、往復飛行機の熊本の方が移動時間的には短く身体も楽だった。
熊本空港からタクシーで美術館へ向かったのだが、想像していたよりも大きな美術館で驚いた。
行きは羽田10時55分発のANA643便で、帰りは熊本20時15分発ANA650便で、アトリエで取材をした後、美術館の中を拝見してもまだ時間がたっぷりあるので、丘の上を散歩しながら大野さんと一緒に夕焼けを撮影したりして過ごした。
せっかく熊本に来たのだからと、晩ご飯は熊本空港内の郷土料理のお店で、馬刺し、辛子レンコン、まる天、馬バラ肉の炭焼き、だご汁、さきいかの天ぷら、生ビール、芋焼酎のお湯割をいただいた。
「風の丘 阿蘇大野勝彦美術館」は2016年の熊本大地震で被災されて一時休館されていたようだが、2017年には再オープンされた。
YouTubeから「風の丘から 義手の画家・大野勝彦の世界」
大野勝彦 Instagram
風の丘 阿蘇大野勝彦美術館 公式ウェブサイト
熊本県南阿蘇村 2006年11月6日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2007年2月号
#大野勝彦
#KatuhikoOono
#アーカイブ
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◯パンカジ・ウダース
パンカジ・ウダースはインド北西部出身のポップ・ガザル歌手。とは言え、撮影するまでは、パンカジさんの名前もポップ・ガザルという音楽も知らなかった。撮影依頼の電話を編集者からもらった時も「どんな人?」と訊いて「インドでは王様より有名な人です」という会話をした記憶がある。
ガザルとは北インドとパキスタンおよびバングラデシュでは、ウルドゥー語(ないしペルシャ語)の詩を北インドのラーガに基づく旋律にのせて歌うものだそう。この軽古典音楽に1970年代以降、同時代の欧米サウンドが採り入れられ、そうした音楽をポップ・ガザルと呼んでいるようだ。
パンカジさんを撮影したのは1992年の5月、埼玉県川口市にあるリリア・ホールでの来日コンサートだった。コンサートの主催者はバングラデシュ人の若い社長さんで、お客さんは主に在日パキスタン人とバングラデシュの人たち。告知が十分ではなかったので、現代インド音楽に興味のある日本人にもほとんど知られていなかったようだ。 |
写真が掲載された『ミュージック・マガジン』では1989年に日本で発売されたCD『シャグフタ~ガザルの華』の解説と訳詞を書かれた、東京外国語大学インド・パーキスターン語学科助教授の麻田豊さんがリポートを書かれているが、その最初の小見出しは<パンカジ・ウダースまさかの来日>で、寝耳に水の思いもよらないコンサートだったようだ。
コンサートは昼の部と夜の部があり、夜の部の前に20分ほどの記者会見が行われたが記者は日本人が6名に、NHK<ラジオ日本>のヒンディー語とベンガル語のプロデューサーだけだった。
コンサートの方は2000人収容できる大ホールだったが、告知不足もあり観客は300人ほどで寂しい限りだったが、演奏は休憩なしで2時間たっぷり。麻田さんの記事によれば曲目は「さあ来たれ、今は雨季」「ちびりちびり飲むがいい」「私が酒飲みでないことは衆知の事実」「壁に顔をつけて泣くのもいいものさ」「君の顔は銀色に、君の髪は金色に輝く」「あなたなしでどうして生きられよう」「あちらにはあの人の家、こちらには酒場」「追憶の突風が私に逢いにきた」「手紙が届いた」「足飾りが壊れてしまった」の10曲。
記者会見で、麻田さんが、どのようなガザルが好きですか?と尋ねた時、
「ガザルの世界は海のようなもので、その一滴でも得られれば嬉しいことです。ガザルにもさまざまな内容のものがありますが、個人的には、苛立ちや悲嘆の感情が強く表現されており、解釈する上で深い意味を探らなければならないものが好きです。”最も悲しい曲こそ最上の歌”というではありませんか」と答えていた。
コンサートで一番客席を沸かせたのは「手紙が届いた」という曲だった。それは、こんな歌詞になっている。
手紙が届いた、故郷から手紙が届いた。
外国へ行ってしまったおまえ
父親の私はいいが、母さんは弱り切っている
世話をしてくれる嫁は未亡人のよう
金を稼ぎに出かけたおまえ
さあ、鳥籠を壊して飛んで帰っておいで
アーカイブするにあたって検索したところ、パンカジさんは2024年2月26日に、ムンバイの病院で長期の闘病の末に亡くなったそうだ。72歳だった。
亡くなられた後、インド政府からインドで3番目に高い民間人賞であるパドマ・ブーシャンを授与されたという。
YouTubeから「'Chandi Jaisa Rang...' sung by Pankaj Udhas」 「Chitthi Aayi Hai | Pankaj Udhas | Naam 1986 Songs | Sanjay Dutt, Nutan, Amrita Singh」
パンカジ・ウダース 公式ウェブサイト
川口総合文化センターリリア・ホール 1992年5月4日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1992年7月号
インタヴュアーは麻田豊さん
#パンカジウダース
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今日は村の神社の春季例祭。とは言え、お神輿が出るわけでも獅子舞があるわけでもないが、「御神供米料」と印刷された封筒が自治会から配られているので、封筒の中に僅かばかりのお金を包んで自転車で持っていった。帰ってきてパソコンを開くと、昨日アマゾンに注文した商品の配送が完了しましたというメールが届いていた。神社に行っている間に届いたようだ。<荷物画像の確認をする>という表示をクリックすると、玄関前に商品が置かれた写真が掲載されていた。
昨日今日と町内のさくらまつりだが、あいにくの空模様で午前中は雨、午後も曇りで一時雨が降ったようだ。岸渡川の桜、満開はもう少し先だろうか。
◯NYダウ急落、2200ドル超安 下げ幅史上3番目―貿易戦争懸念、動揺収まらず
◯米テスラの世界納車台数が13%減、マスク氏の政治活動への反発が相次ぐなか
◯NYダウ2231ドル下落、調整局面入り 関税合戦が市場を揺るがす
トランプ氏の相互関税発言に端を発し、世界同時株安の様相を呈している。相互関税をかけられる国だけではなく、相互関税をかけるという米国の株式市場も売りが殺到している。さすがにこの事態に、全米各地でトランプ大統領や側近のイーロン・マスク氏に対する抗議デモが行われた。ワシントンで抗議活動をしているサム・ゴールドさんが言う「政権を止められるのは国民だけだ。政権が消えるまで、抗議活動を繰り返さないといけない」というのはもっともで、トランプ氏を大統領に選んだのもアメリカ国民なら彼を大統領の座から引きずり降ろせるのもまたアメリカ国民だけだと思う。
この他の気になった記事を備忘録として。
◯X席巻の「高濃度うどん排水処理施設」 実は香川に不可欠、観光客100万人「うどんブーム」弊害を打ち破る
◯王家の墓で厳かに「公事清明」 中学生も参加 伊是名・玉御殿 沖縄 |
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◯土屋昌巳
1982年に「すみれSeptember Love」が大ヒットしたロック・バンド、一風堂のリーダーでボーカリスト&ギタリスト。個人的にはイギリスのロック・バンド、ジャパンにサポートメンバーとして参加したことが印象に残っている。
1990年にロンドンに移住するが、90年代はブランキー・ジェット・シティやマルコシアス・バンプなどのプロデュースを手掛けている。
土屋さんを撮影したのは7枚目のアルバムとなる『森の人』がリリースされる直前だった。発売はLUNA SEAのギタリスト、SUGIZO主宰のCROSSレーベル。前年にもCROSSレーベルからミニ・アルバム『モッド・フィッシュ』をリリースしており、なぜCROSSから発売することになったのかインタヴュアーの志田歩さんが尋ねると、 |
「5年位前にブランキー・ジェット・シティのリズム録りで東京にいた時に、SUGIZOに会って、少年時代に一風堂を聴いて影響されましたってルナシーのCDをもらったのがきっかけで。彼がソロを作った時は、ロンドンにやってきて、1年間うちの近所にフラットを借りていたんです。それで彼が土屋さんも出しましょうよっていってくれて、そういえば自分のアルバムを8年も作ってなかったなと(笑)。プロデュースをやっていると、つい自分でアルバムを作ったような気になってしまうんですよ」と答えている。
取材は新作『森の人』の話しが中心だが、1990年からのイギリスへの移住についても触れられている。
「当時の日本の音楽状況が僕には住み難いものになってしまったから。それまではアルバムが1万枚売れたらどんちゃん騒ぎをしていたのに、1万枚が10万枚、10万枚が30万枚売れなきゃダメだってなってきちゃって、一度ヒットが出ると回りの人達からそれに似たものばかりを期待されるのが寂しくなっちゃって。そこから抜け出したかった」
土屋さんはロンドンで約14年間生活し、2003年12月に帰国。2013年には個人レーベルであるMazzy Bunny Recordsから15年ぶりとなる8枚目のソロ・アルバム『Swan Dive』をリリース。また、2013年から2015年まで新たなロック・バンド、KA.F.KAを結成しシングルとアルバムを製作している。
YouTubeから「すみれ September Love(1982年) 一風堂 ザ・ベストテン 初登場」 「森の人/Masami Tsuchiya」 「Transmission KA.F.KA 土屋昌巳 & SUGIZO スギゾー」
土屋昌巳 公式ウェブサイト
池尻大橋・ポリドール 1998年9月12日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1998年11月号
インタヴュアーは志田歩さん
#土屋昌巳
#MasamiTsuchiya
#アーカイブ
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◯松原正樹
1980年代初頭、レコーディング・スタジオでよくお見かけしたギタリストはエレキ・ギターでは吉野藤丸さん、鈴木茂さん、今剛さん、矢島賢さん、松木恒秀さん、青山徹さん、土方隆行さん、徳武弘文さん、そして松原正樹さん。アコースティック・ギターでは石川鷹彦さん、吉川忠英さん、安田裕美さん、笛吹利明さんといった感じだろうか。
海外ではスタッフやTOTOなどスタジオ・ミュージシャンが結成したバンドが脚光を浴びる中、日本では1979年に松原正樹、今剛というスーパー・ギタリスト2人を擁するフュージョンバンド、パラシュートが誕生した。
1980年5月に1stアルバム『PARACHUTE from ASIAN PORT』、12月に2ndアルバム『6 kinds 6 size』、1981年に3rdアルバム『HAERE MAI』をリリースした。しかし、1982年に海外レコーディングの4thアルバム『Sylvia』を発表するが、活動を休止する。 |
その後は2003年5月に「CROSSOVER JAPAN’03」で21年ぶりに再結成を果たし、1日だけライヴを行う。それから9年後の2012年12月29日、東京国際フォーラムで開催された「LIVE IN TOKYO CROSSOVER NIGHT」で復活ライヴを行い、その後は断続的に活動を継続してきたが、2016年2月8日、松原正樹さんが死去。61歳だった。
wikiによると、1954年生まれ、福井県越前市(旧武生市)出身。パートナーはキーボーディストの南部昌江さん。
1970年代後半からスタジオ・ミュージシャンとして活動し、歌謡曲からニュー・ミュージック、ロックと幅広いジャンルのレコーディングに参加し、その楽曲は1万曲を超えるという。また、ギタリストとして1978年にソロ・アルバム『流宇夢サンド』を発表以後、21枚のソロ作品をリリースしている。また、パラシュート以外にもAKA-GUY、TRIFORCE、ON-DOといったバンドやユニットで活動されていたそうだ。
掲載した写真は、1987年7月20日、インクスティック芝浦でのライヴ。フィルムを入れたファイルには松原正樹SESSION BANDと書かれた付箋が貼ってあるが、他のメンバーの名前はわからない。
ところで、松原正樹さんより少し年上だったが、同じような時期にスタジオ・ミュージシャンとして活躍したギタリストに矢島賢さんがいる。1950年生まれ、群馬県前橋市出身でやはり歌謡曲から、ニュー・ミュージック、ロックとジャンルを超えて多くのレコーディングに参加している。また松原さんと同じくパートナーはキーボーディストで、矢島マキ(旧姓は田代真紀子)さん。矢島さんも松原さんの亡くなる前年に、65歳で亡くなってしまった。
松原さんが21枚のソロ・アルバムを残したのに対し、矢島さんは1982年に「矢島賢&ヴィジョンズ」名義で『REALIZE』というアルバムを一枚残しただけ。しかし、個人的に『REALIZE』というアルバムが好きで、アナログ・レコードを聴ける環境になってからは度々針を下ろしている。「矢島賢+REALIZE」で検索するとYouTubeでも聴けるし、2017年にはCD化もされたようだ。
YouTubeから「『松原正樹25周年記念ライヴ! feat今剛×山木秀夫×高水健司×佐藤準×南部昌江』ライブDigest」 「『SNIPER』(松原正樹) 松原正樹&今剛」
松原正樹 公式ウェブサイト
インクスティック芝浦 1987年7月20日撮影
#松原正樹
#MasakiMatsubara
#パラシュート
#Parachute
#アーカイブ
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来月行われるイヴェントの打ち合わせのため、昼から電車で高岡まで。電車に乗るのは昨年の6月1日以来なので10ヶ月ぶりだろうか。高岡古城公園の横を通ると、お堀の外側の桜はほぼ満開だった。
トランプ大統領が2日、貿易相手国の関税率や非関税障壁を踏まえて自国の関税を引き上げる「相互関税」を導入すると発表した。日本には24%を課すとしている。34%の相互関税を課せられた中国は、対抗措置として米国産品に34%の追加関税を課すとしている。カナダは相互関税からは除外されたが、トランプ政権による外国製自動車への輸入関税に対抗して、米国製自動車に25%の報復関税を課す方針を発表している。
アメリカに対して報復関税を課すよりも、相互関税をかけられた全ての国が一致団結して関税分をそのまま製品の値段に上乗せしてはどうか。アメリカはものすごいインフレになり、国民からの不満爆発でトランプ政権が終わるというシナリオは考えられないだろうか。
この他の気になった記事を備忘録として。
◯森友文書、開示始まる 初日2千ページ分、職員の妻は形見のバッグに
◯日本の幸福度、55位に下落 汚職度悪化、国連団体調査
◯大阪・関西万博のパビリオン建設はなぜ進まない? 建築エコノミストが驚愕するほどの「根本的な問題」があった
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◯NOBODY
矢沢永吉のバンクバンドのメンバーだった相沢行夫と木原敏雄が1981年に結成したロック・グループ。矢沢永吉のバックバンド時代からも相沢行夫は「アイ・ラヴ・ユー、OK」、木原敏雄は「世話がやけるぜ」など作詞でも関わっていた。
NOBODY結成後も、グループとしての活動と並行してハウンド・ドッグ、アン・ルイス、吉川晃司、浅香唯など様々なアーティストへの楽曲提供やプロデュースを行い、80年代を代表するヒットメーカーとなった。本人たち自ら「ロック界の藤子不二雄」と名乗ったこともあるという。
彼らを撮影したのはTDKレコードから東芝EMIに移籍し、移籍後初のアルバム(通算では5枚目)『RESTLESS HEART』をリリースした直後で、『テープ・マンスリー』という、かつてレコード店で配っていた『レコード・マンスリー』の姉妹誌での取材だった。
<「レストレス・ハート」っていうのは”落ちつかない”とか”じっとしていられない”という意味なんだけど・・・年齢に関係なく、いつもドキドキしていたいし・・・ナンカ変に固まりたくない気持ちがあるんだよね><今、子供でも変にオトナしちゃってる子が多いよね。「マァ、こんなもんか・・・」みたいな、あきらめ気分でさ>と相沢さんが話すと、<NOBODYは、そういう”あきらめ”に「そうじゃねぇぞ!」って逆らってる部分があるんじゃない?モロ、青春してるしさ(笑)>と木原さんが話を引き継いだ。
東芝EMIに移籍して最初のアルバムということで、<気分的には心機一転のつもり>と相沢さんが言い、木原さんは<レコーディングひとつにしても今までは、デモ・テープをシッカリ作って、そのまま本番でやれるくらいまで完璧にやってたんだけど・・・ちょっとつまんなくなったんだよね、そういう作り方が・・・。今回は”青春しよう”というのが2人の中に強くあったから、サウンドや詞だけじゃなくて、自分達のレコーディング姿勢も青春しなきゃいけない(笑)と思ってさ。結果的には、この方法でやってみて色々な発見があったから、スゴク良かったと思ってる。やっぱり凝り固まってちゃダメだなぁ・・・とも思ったしね>と話している。
この取材はまだ写真を初めて(カメラを買って)1年も経たない頃で、カメラマンとして受けた最初の仕事だったかもしれない。ライティングなんてなくて、カメラに純正のストロボを取り付けて、バシャっと撮っている。インタヴューは、編集部の女性が行っている。
NOBODYはすでに結成から44年。東芝EMIからハミングバード、さらにワーナーミュージック・ジャパンと移籍し、現在までにオリジナル、ライヴ、ベストを含む19枚のアルバムをリリースしている。
一昨々日、facebookに木原敏雄さんの死去を伝える書き込みが流れてきた。ネットで検索してもニュースとしては発表されていなかったので真偽がわからなかったが、昨日になってようやくスポニチが記事を掲載した。
YouTubeから「NOBODY/RESTLESS HEART ノーカット版」 「Don't you go/NOBODY 」
NOBODY 公式ウェブサイト
赤坂・東芝EMI 1986年10月6日撮影
初出『テープ・マンスリー』(日本レコード振興株式会社)
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◯ROLLY
ロック・バンド、すかんちのボーカル兼ギターで、1990年5月21日にCBSソニーよりシングル「恋のTKO」でデビュー。すかんち時代の芸名はローリー寺西。すかんち解散後は現在のROLLYに改め、ソロでの活動やプロデュースの他、タレント・俳優としてテレビや映画、CMなどで活躍している。
ROLLYを撮影したのは、すかんちの6枚目のアルバムでCD2枚組の『ダブル・ダブル・チョコレート』をリリースするタイミング。『ミュージック・マガジン』の取材で、インタヴュアーは萩原健太さん、担当編集者は野間易通さん、取材場所はローリー寺西さんの自宅だった。
取材で自宅へ伺った時の印象を、健太さんが記事の冒頭でこう書いている。
<というわけで、ローリー寺西へのインタヴュー。芝浦湾岸エリアを一望できる高層マンション22階の自宅へと押しかけた。ピンボール・マシンやら、ガイコツやら、これまた古き佳きロック・ミュージシャンの美学を全うするようなインテリアをこれ見よがしに散りばめた部屋で、テレミンの調べに身をまかせながら、化粧ばっちりのローリーが待っていた。くつろげねぇ自宅だな、まったく・・・。> |
ローリーさんは、こうしたインテリアは自分を華やかなロック・スターを演じるローリー寺西の状態にしておくためだと話していた。
「ガンズのスラッシュとかイングリーの部屋にね、ピンボールがあったんですよ、写真で見たら。で、やっぱりロック・スターは部屋にピンボールや!と思って。あと、フリー・ドリンクで、照明はシャンデリアで」
そうしたものへのこだわりは、すかんちの音楽への美学にも通じるという。
「日本のロック・ミュージシャンの方でもぼくよりお金持ちの人はいっぱいいるけど・・・こーんな感じじゃないと思うねん。単なる金持ちだったりすると思うねん。お金があるからといってヘリコプターとか自家用ジェットとか買うようなやつはまだ出てきてないはずや、と。ヨシキぐらいかな。買いそうなのは。そういう意味であの人すごく好きでね。で、ぼくがここまでわかりやすくやってしまうというのは、半分冗談なのね、自分の中では。本気じゃない。こんなの部屋に置いてたらアホなのはわかってて。意味ないじゃないですか、こんなん。このピカソの絵も、ロバート・プラントの写真も、シャンデリアも。だけど、きっとこれを見せたらみんな喜ぶだろうな、と。こんなバカ者がホントにいたんやって思ってくれたら、ね。ホントのぼくは普通の常識人なんですけど、これはあくまでも人生を賭けた最高のジョークなんです。すべてを賭けた。ゲームですな」
6枚目のアルバム『ダブル・ダブル・チョコレート』を2枚組にしたことにも、彼流の拘りがあった。
「スタジオ・レコーディングで2枚組を出すっていうのは、ロック・ミュージシャンにとって勲章みたいなところがあって。特に、自分ではレッド・ツェッペリンなんかのアルバムと毎回毎回勝負してるつもりだったのね。クイーンが『オペラ座の夜』とかやってたからウチも『OPERA』って付けたり。で、今回6枚目。てことは、ツェッペリンで言えば『フィジカル・グラフィティ』じゃないですか。これはちょっといかんなぁ、と。人生において一回しかない6枚目や。やっとかなあかんのちゃうか、と。そう思ったらできた。驚いてるんですよ、個人的にも」
2枚組というロック・ドリームをものにしたすかんちとしての今後は?と健太さんが尋ねると、
「んー。次はね、3曲しか入ってないアルバムというのを・・・」「ポップ・ソングが2曲ぐらいとね、とんでもなく長いやつが1曲入ってるってパターン、昔よくなかったです?」「そういう恐さをね、一回試してみたい。やっぱり、すかんちはそういうものをひとつずつ試していく、こう、何て言うか、ホビーだから(笑)。さっきも言ったみたいに、レコーディングした帰りに車で聞いて自分が楽しめるものを作り続けますよ。売れる売れないは関係ない。それは人にまかせた」
こう答えていたが、取材した翌年、1996年にすかんちは解散してしまう。7枚目のアルバム『SCANCH’N ROLL SHOW ll』がリリースされたのは、2日のみの再結成ライヴツアーを行った2006年で、ライヴ会場のみで限定販売されたそうだ。2007年にも再結成後2度目のライヴツアーが行われ、以後、断続的に活動が継続されているようだ。
ちなみに、wikiによれば結成当初、リハーサルに行ったスタジオで受付の書類に書くバンド名を聞かれ、「適当に書いといて」と言ったところ「ちんかすトリオ」と書かれたのがバンド名の由来だそうだ。
YouTubeから「恋のマジックポーション/すかんち」 「タイムマシンにおねがい/ROLLY」
ROLLY 公式ウェブサイト
港区・芝浦 1995年10月13日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1995年12月号
インタヴュアーは萩原健太さん
#ローリー
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#RollyTeranishi
#寺西一雄
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#SCANCH
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富山地方気象台が今日、富山市で桜の開花宣言を発表した。平年より1日早く、昨年と同じ日の開花だそうだ。
巨人の坂本勇人選手が東京国税局の税務調査を受け、2022年までの3年間で約2億4000万円の申告漏れを指摘されたという。坂本選手は料亭やクラブでの飲食代などを必要経費として計上し、それらを収入から差し引いて確定申告しており、過少申告加算税を含む追徴税額は約1億円で、すでに修正申告を済ませたようだ。巨人の広報によれば、従来認められていた自主トレなどの費用も否認されたという。野球選手は個人事業主になると思うが、接待交際費は認められているはず。3年で2億4000万円はあまりに額は大きいが、自分も個人事業主として居酒屋やバーでの飲食費の一部は接待交際費として経費にしていた。自主トレの費用が認められなかったというのも、ちょっと理解に苦しむ。
坂本選手の場合は自分の稼いだお金を飲食代に使い、それを経費として申告して節税したわけだが、自民党の議員たちは
国民の税金が原資である政治資金で飲み食い。あげく裏金議員に至っては政治資金パーティーを開いて集めたお金からキックバック(裏金)を受け、そのお金を収支報告書にも記載していなかった脱税だ。国税局には坂本選手の前に、自民党の裏金議員にこそ厳しい税務調査を行ってもらいたい。
今朝の北日本新聞に「魚津市、職員名刺を公費負担に」という記事が掲載されていて驚いた。なんでも公費で名刺を作成している富山県内の自治体は県と入善町だけだという。他の自治体は、仕事で使う名刺を職員が自腹で作っているということだろうか。
この他の気になった記事を備忘録として。
◯「米農家は時給10円」「暑さで野菜が育たない」。東京のど真ん中をトラクターが行進。「令和の百姓一揆」で農家が語った危機感
◯天然記念物オカヤドカリ998匹を無許可で所持か 容疑で台湾籍の男2人を逮捕 紫色は中国で人気、1匹2万円で取引も【動画あり】 |
◯山口雅也
1954年、横須賀市生まれの小説家。1989年に<鮎川哲也と十三の謎>という東京創元社から発売された全13冊の推理小説シリーズの11番目に刊行された『生ける屍の死』で作家デビュー。1995年には『日本殺人事件』で、第48回日本推理作家協会賞を受賞。日本推理作家協会、本格ミステリ作家クラブ、日本SF作家クラブの各会員。
山口雅也さんを撮影したのは、大鷹俊一さんが『レコード・コレクターズ』で連載している「レコード・コレクター紳士録」というページで、横須賀にあるご自宅にお邪魔しての取材だった。
山口さんに登場していただく経緯については、大鷹さんの原稿の冒頭にこのように書かれている。 |
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<昨年、僕が読んだ中でのベスト・ミステリーは、山口雅也さんの『奇偶』(講談社)だった。イマジネイションに富んだエピソード、偶発性に対するロジカルな論考、そしてご自身を投影した主人公の運命とが幾重にも重なり合って、じつに読みごたえのある重量感溢れる一冊であった。ジャズについての原稿も多い山口さんの音楽全般に対する造詣の深さ、コレクター的なこだわりについては、2年ほど前に出た『ミステリーDISCを聴こう』(メディアファクトリー)を読んでいただくのが一番早いのだが、ミステリー作家らしいこだわり、緻密に広げられた網などが鮮やかだ。その本に出会ったときからいつかこの連載に登場していただきたいとひそかに願っていたのだが、傑作『奇偶』を仕上げられたこのときを逃してなるかとお願いし、ついに実現した>
取材では、山口さん自身が”信仰に近い”とおっしゃるブートレグまで集めているニール・ヤングの話から、ジャズを聞き始めたキッカケ、レコードだけではなくミステリーの原書を集めていることなども話されている。 |
また、音楽と小説の関わりについての話も、小説家である山口さんならではだろう。
「ミステリーの中のハードボイルドというジャンルは1920年代に出てくるんですけど、ジャズの歴史とほとんどピッタリ合うところがあるんです。ジャズって最初は南部で発生してシカゴに行き、ギャングたちが禁酒法の時代に経営していたスピークイージーって違法酒場のBGMとしてジャズ・ミュージシャンを使ったところから発達していったという流れがある。ちょうどその頃ミステリーの方も、ポアロみたいな戯画的な名探偵じゃなくて、ハンフリー・ボカートの演っているようないわゆるアメリカン・タフガイの探偵が出てくるんですけど、その背景も禁酒法時代の暗黒街なんですね。そこを取り仕切る顔役がいて、そこに男が一人乗り込んでいく、みたいな図式があるんで、結局ミステリーと音楽っていうと、ハードボイルドとジャズという強固な文脈がずーっと続いていたんです。
それが70年代になって50年代生まれの人たちが作家になると、ロックが出てくるんです。例えば、ロジャー・サイモンって作家がヒッピーの探偵を主人公にした小説では、ビーチ・ボーイズを聴きながらレドンド・ビーチをドライヴしたとかいうフレーズが出てくるんで、すごく嬉しかった。以前はミステリー読んでもロックは出てこない。せいぜいアガサ・クリスティーが晩年の作品で”私はビートルズはわからない”って書いたくらいでね(笑)」
掲載誌は2003年2月号だが、2019年に発売された書籍『レコード・コレクター紳士録2/大鷹俊一』にも再掲載されている。
山口雅也 X(旧ツイッター)
神奈川・横須賀市 2002年11月18日撮影
初出『レコード・コレクターズ』2003年2月号
再掲載『レコード・コレクター紳士録2/大鷹俊一』(ミュージック・マガジン)
インタヴュアーは大鷹俊一さん
#山口雅也
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#レコードコレクター紳士録
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◯久田恵
北海道室蘭出身のノンフィクション作家。本名は稲泉恵。
久田さんを撮影したのは健康雑誌での取材だったが、どんな内容だったか忘れたので確認しようと掲載ページを探したが見つからなかった。ん?としばらく考えて、思い出した。
2009年4月、親しかった女性編集者が急逝した。初めての出産を終えて実家に帰省していた時に、家の近くで交通事故に遭い亡くなってしまった。それから一年ほどかけて、ご遺族に渡すために取材時や打ち上げなどで撮影した彼女の写真をまとめたアルバムを作り、彼女と一緒に取材した記事を雑誌から切り出してキンコーズに持っていって、一冊に製本してもらった。久田さんの取材は彼女が編集担当で、だから掲載ページがないのだ。
取材した2005年のスケジュール帳に、彼女からの撮影以来のFAXがホッチキスでとめられていて、こんな風に書かれていた。 |
<4月27日(水)の取材は、ノンフィクション作家の久田恵さんです。大宅壮一ノンフィクション賞を受賞されていますが、先日、息子さんも同じ賞を取られました。この息子さんが高校時代に不登校になったけれど、現在のように成功された道筋について、伺う予定です>
なるほど、wikiには息子の稲泉連は2005年に第36回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、初の親子受賞を果たしたと書かれている。
久田恵さん自身は、学生運動に携わって上智大学文学部を中退し、その後、人形劇団、放送作家、雑誌記者など20以上の職業を転々とした。女性誌のライター時代には『日経ウーマン』の創刊にも立ち会ったそうだ。
1986年にJICC出版局から出された、子連れで炊事係としてキグレサーカスに入り、その時のサーカス団での体験をまとめた『サーカス村裏通り』が大宅壮一ノンフィクション賞の候補となる。そして、1990年に文藝春秋より出版された『フィリピーナを愛した男たち』で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。
2005年に取材で伺った時は練馬にある一軒家のご自宅だったが、2018年より栃木県那須郡に移住。そして2024年2月からまた東京に戻られたようだ。
ファンタスティックに生きる!をテーマにお茶会やワークショップ、人形劇公演などを開催する「花げし舎」を主宰されている。
花げし舎 公式ウェブサイト
東京・練馬 2005年4月27日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2005年8月号
#久田恵
#MegumiHisada
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