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3月31日(月)

 昨日の北日本新聞に、私の「知事論」と題した新田八郎・富山県知事の記事が掲載されていた。現在、日本の知事の中で民間出身者は新田氏を含めて二人だけだそうだ。確か、最初の県知事選で新田氏がアピールしていたのも、自身が民間出身だということだった。
 知事に就任する前、彼が社長を務めていた日本海ガスは確かに民間企業だが、創業したのは父方の祖父であり、彼が社長を務める前は父親が社長を継いでいた。民間出身というと荒波を乗り越えてきた人、あるいは社会で揉まれてきた人というイメージがあるが、祖父から父、そして自分と単に敷かれたレールに乗ってきた人だろう。ちなみに彼の長男が現在、日本海ガス絆ホールディングスの社長に就任している。
 知事職についても、母方の祖父が元富山県知事、実の姉・高橋はるみ氏が前北海道知事。こちらも世襲のような感じを受ける。

 先日、旧統一教会に解散命令が出た。地元のマスコミが新田知事にそれをどう受け止めるか記者会見で尋ねていたが、これまで通り関係は持たないけれど関係断絶は明言しないと答えていた。
「司法の場において旧統一教会が、コンプライアンス(法令順守)上、問題がある団体であると判断されたものと、私は理解しております」としつつも、「憲法で政教分離の原則というのがあります。関係を断つとか、そういう言い方になりますと、私はこれはもう憲法で規制されてる圧迫になるという風に思います」という。そもそも司法が問題のある団体として解散命令を出した団体が宗教団体なのかという疑問があるし、県知事が関係を断つということが圧迫なのかという疑問もある。政教分離の原則を守ることと、旧統一教会と断絶すると明言しないことがどう結びつくのかさっぱりわからない。
 チューリップテレビの毛田キャスターが、「教団擁護とも取れる発言が教団側を利しているというのが問題ではないかと、今でも繋がっているのではないかと疑念や不安を抱かせるというのが問題の本質ではないかと問うています」と話すと、最後は「疑念、疑念と言われることによって、それが疑念を生み出しているんですよ。それはまさにマスコミさんの暴力だという風に思いますよ。言葉と映像の暴力だと思いますよ」と返ってきた。どうしてこんなものがマスコミの暴力になるのだろう。

 新田氏は最初の知事選で旧統一教会から組織的な選挙支援を受けており、wikiによると旧統一教会が集めた支援者名簿は6万人分(ちょうど次点の候補者の得票数との差と一致)だったという。旧統一教会の支援がなければ当選しなかった可能性もある。

 この他の気になった記事を備忘録として。
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◯でいご娘

 沖縄には姉妹で歌う民謡グループが古くからあるが、でいご娘はその代表格だ。
 ♪うんじゅん我んにん いゃーん我んにん 艦砲ぬ喰ぇー残さー(あなたも私も お前も俺も 艦砲の喰い残し)と、鉄の暴風(艦砲射撃)が吹き荒れた沖縄戦を生き残った沖縄県民の悲哀を歌った「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」の作者、比嘉恒敏さんが、自身の娘4人に三線や踊りの手ほどきをして結成したのが、でいご娘だった。結成は1964年だという。
 残念ながら恒敏さんは1973年に飲酒運転の米兵の車に衝突されて亡くなったが、娘たちは父の遺作を残したいと、「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」をレコーディング。すると沖縄でヒットし人気を得、積極的に活動を行うようになった。姉妹の一人、千津子さんが結婚することでグループは解散するが、それまでの5年間は休みが1ヶ月に一度という忙しさだったそうだ。
 この「でいご娘」の歌を生で聴いたのは、2012年12月23日に宜野湾海浜公園屋外劇場で開催された、オスプレイ配備反対と米軍基地の撤去を求める『御万人大行進 愛と怒りのサウンドパレード』と題した集会でのステージだった。
 でいご娘という名前のグループが存在することは音楽誌の記事で知っていたが、まさか生で見られるとは思っていなかったので驚いた。彼女たちは1999年にテレビ番組へ出演したのをキッカケに活動を再開したそうだ。
 四女のひがけい子さんは、でいご娘の活動とは別に「ひがけい子&島太鼓♪シュピーズ」としても活動している。

YouTubeから「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー/でいご娘」 「チュイシージーヘイ、かりゆしお祝い/ひがけいこと島太鼓

ひがけい子 母系リズムのウチナー打ち 「でいご娘」再結成は… <新・島唄を歩く>

反戦への思い込めて 島太鼓奏者のひがけい子さん

沖縄・宜野湾海浜公園屋外劇場 2013年12月23日撮影
#でいご娘
#DeigoMusume
#比嘉艶子
#比嘉綾子
#比嘉千津子
#ひがけい子
#アーカイブ

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でいご娘
宮沢和史

◯宮沢和史

 元THE BOOMのボーカリスト、宮沢和史さんは3回撮影している。2回は雑誌の取材で、もう1回は沖縄に移住していた時に見に行った、故照屋林助さんの功績を讃えて開催されている「コザ・てるりん祭」でのステージ。プログラムにはなかったが、我如古より子さんとのステージだった。我如古より子さんとは、THE BOOMの「いいあんべえ」「砂の岬」などのレコーディングで共演しているそうだ。
 雑誌の取材での最初の撮影は、THE BOOMの代表曲となった「島唄(オリジナル・ヴァージョン)」をリリースした直後の1993年7月で、掲載誌は『ミュージック・マガジン』、インタヴュアーは北中正和さんだった。最初に聴いたレコードがビートルズの「レット・イット・ビー」だとか、中村雅俊の白いギターに憧れて小学5年生の時に白いギターを買った話し、4トラックのMTRで多重録音を楽しんでいた小学生がYMOの登場に衝撃を受ける話などが語られている。もちろん、「島唄」についても語っている。

<「ひゃくまんつぶの涙」を作って、喜納昌吉さんと出会って、いろいろ話を聞いていくうちにできたのが「島唄」です。喜納さんと出会ってなければ、あそこまで生命のある曲になってたかどうか。ぼくは最初全編ウチナーグチでうたおうと思ってたんですけど、喜納さんに、それだとヤマトの人間であるあなたの気持ちが入らないだろうから、要所要所ウチナーグチにした方がいいよとアドバイスされて、部分的にウチナーグチに訳してもらったんです。
 この曲は沖縄でウチナーグチ・ヴァージョンの発表が決まった段階でひとつ達成感がありました。その後、沖縄で結婚式とか見送りのときにうたわれてるなんて話を聞いてうれしくてね。月並みな言い方ですけど、曲がどんどん勝手に歩いて行くってこういう感じなんだなって、もうみんなのものなんだなって。1年半前につくったときは、沖縄で10年くらいかかってジワジワ浸透してくれればいいと思ってたし、これからもライヴで重要な位置を占める曲だろうなって認識はありましたが、こんなにヒットするとは思いませんでした。だから、一過性のものとして終わったら淋しいなって。でも、沖縄の人たちのバックアップがあって実現した全国発売ですから、本当に感謝してます>
 この後、話は92年のディック・リー原作によるオペレッタ『ナガランド』に出演し、その時の出会いがアルバム制作に反映されていることなどが語られている。
 2回目の取材撮影はTHE BOOMが活動休止した翌年、最初のソロ・アルバムをリリースする直前の1998年2月だった。掲載誌はこちらも『ミュージック・マガジン』で、インタヴュアーは松永記代美さんだった。この年、ソロ・アルバム2枚をほぼ同時期にリリースしており、3月にロンドン録音の『Sixteenth Moon』、ブラジル録音の『AFROSICK』は取材時は5月リリース予定だったが、ポルトガル語で歌っているブラジル発売盤が7月8日、主に日本語で歌っている日本盤が7月18日に発売された。
 インタヴュー後のフォトセッションでの会話で、彼が「ファド歌手になりたい」だったか「ファド歌手になりたかった」だったか、そんなことを話していたのを記憶している。
 本人の公式ウェブサイトのプロフィールを引用させてもらう。
 1966年山梨県甲府市生まれ。
 1989年にTHE BOOMのボーカリストとしてデビュー。これまでにTHE BOOMとしてCDを14枚、ソロでは6枚、多国籍バンドGANGA ZUMBAとして2枚リリースしている。
 2014年THE BOOM解散後、しばらく充電期間を持ち、2018年より歌手活動を再開。
 2021年にコロナ禍において製作したアルバム『次世界』をリリース。
 2022年は代表曲「島唄」を発表して30年、沖縄日本復帰50年にあたり、沖縄・日本本土で精力的に音楽活動を展開した。
 作家としては、中孝介、大城クラウディア、岡田准一、喜納昌吉、KinKi Kids、坂本龍一、島袋寛子、SMAP、高橋幸宏、ディアマンテス 、夏川りみ、平原綾香、MISIA、矢野顕子など、数多くのアーティストに楽曲や歌詞を提供。
 代表曲のひとつ「島唄」はアルゼンチンの音楽賞3部門受賞。今なお国内外で愛されている。
 現在沖縄県立芸術大学で非常勤講師を務める。
 添付した写真の1~4枚目が1993年、5~7枚目が1998年に撮影したもの。

*「コザ・てるりん祭」でのステージはこちら

YouTubeから「ザ・ブーム 島唄 Live」 「GANGA ZUMBA DISCOTIQUE Live

宮沢和史 公式ウェブサイト

三田ビデオスタジオ 1993年7月15日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年9月号
インタヴュアーは北中正和さん
赤坂・東芝EMI 1998年2月12日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1998年4月号
インタヴュアーは松永記代美さん
#宮沢和史
#KazufumiMiyazawa
#ザブーム
#TheBoom
#ガンガズンバ
#GangaZumba
#アーカイブ

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3月29日(土)

 今日で65歳になった。
 今月の初め頃、市の長寿福祉課から介護保険被保険者証が送られてきた。<今月で65歳となられる方、または先月転入された65歳以上の方は高岡市の第1号被保険者となりますので、介護保険の被保険者証を交付いたします>と書かれていた。とうとう長寿福祉課から連絡が来るまでの年齢なった。そろそろ自治会の長寿会の仲間入りもしなくてはならないのだろうか。
 県内の大型スーパー、アルビスと大阪屋ショップが昨年から毎週木曜日に65歳以上のお客さんを対象に購入金額から10%を割り引くサービスを始めたので、さっそくカードを作らなきゃ。
 なかなか利用する機会もなさそうだが、航空会社のシニア割も65歳から使えるものが多いようだ
子供の頃の写真
 昨年の4月から両親がデイサービスを利用するようになった。これで自分の自由になる時間が作れるかと思ったが、デイサービスに行く日は迎えのバスが来る9時半ごろと、帰って来る午後4時過ぎは家に居なくてはならないので余計に遠出が難しくなった。そこで、昨年の6月20日からこれまで撮影してきたアーティスト写真を中心に、SNS上にアーカイブとして残す作業を始めた。毎日毎日UPしているが、まだまだ終わりそうにないし、データ化していないフィルムもある。アーカイブ作業が一段落したら、スキャナーを手に入れてフィルムのデータ化も再びやりたいと思う。
 沖縄に移住していた時、月に一度、今帰仁村歴史文化センターが主催する「山原のムラ・シマ講座」という各集落に残る御嶽や墓、廃村跡などを訪ねるフィールドワークに参加した。案内と解説をしてくださった文化センターの館長さんが、「こうして遺跡を訪ねて調べることも重要だが、現在あるものを克明に記して残すことがもっと大事」というようなことを話されていたのが印象に残っている。記録が克明に残っていれば、後世の人が調査する時の手助けになるし労力が軽減されるとも。

 4年かけて奄美群島~沖縄本島~先島諸島の祭祀と行事を撮影し記録したフォトブック『琉球弧の祭祀と行事』1~7巻、富山に戻ってやはり5年ほどかけて県内の祭りや行事を撮影し記録したフォトブック『とやま、祭り彩時季』1~11巻は、比嘉康雄さんの『神々の古層』12巻に触発されて作業を始めたが、「現在あるものを克明に記して残すことがもっと大事」という言葉に感化された部分もある。
 昨年、宮古島の奇祭関連の研究をしているという大学の准教授から、沖縄県立図書館に文献を探しにきていて『琉球弧の祭祀と行事』の中から論文に引用させてもらえないかというメールが届いて驚いた。大阪の大学に勤務している方で、明後日から宮古島と大神島へ行くのでその下調べに県立図書館に寄ったという。名前を検索すると「チコちゃんに叱られる!」に出演したこともある社会学部の准教授の方だった。論文への引用はもちろん了承した。誰かの研究に役立てばという思いもあって作っていたのだから。
 現在行なっているミュージシャンや作家、俳優の写真と文字の記録はフォトブックにはできないが、SNS上にアーカイブしておけば誰かがそのアーティストについて調べたいと思って検索した時に、資料として役に立つこともあるかな?と思って作業している。それが撮った者の責任かな、という思いで。

 添付した写真は、下にSEP.1961とあるので1歳半ごろの自分。この写真からやがて64年が経つ。

◯登川誠仁一年忌追悼公演

 もう11年前のことか。

 2014年3月29日、前年の3月19日に亡くなられたセイグヮー(誠小)こと、登川誠仁さんの一年忌追悼公演が、うるま市芸術劇場で開催された。
 18時開場、18時30分開演だが、17時20分頃に着くとすでに行列ができていた。
 会場入り口でプログラムが記載されたパンフレットをいただいた。最初のページに琉球民謡登川流研究保存会会長・徳原清文さんのごあいさつと、顔写真が載っていた。はて、どこかで見たお顔・・・で思い出した。テレビでしょっちゅう流れていた上間不動産のCMに出ている人だ。てっきり上間不動産の社長さんかと思っていた。
 追悼公演は定時に始まった。以下、プログラムより。

司会 #前川守賢
一、幕開け #登川流会員一同 「歌ぬ心・豊節」 二、実行委員長挨拶・・・#儀武 息勇 三、舞踊 爽秋の宴・・・#玉城流舞踊うるま会 儀武 八重子道場 四、ゲスト・・・#大島保克 #よなは徹 #大工哲弘 五、対談<登川誠仁師匠を語る> #中江裕司 #知名定男 #喜舎場盛勝 #備瀬善勝 #藤田正 六、ゲスト・・・#饒辺愛子  #山里ゆき #饒辺勝子 #金城恵子 #フォーシスターズ 七、関東・関西・九州支部合同斉唱「島の花・油断しるな」
~休憩~
八、中幕 登川流会員一同「寄師事る宝・新デンサー節」 九、舞踊 月の浜辺・・・玉城流綾美会 内間 勝美琉舞道場 十、ゲスト・・・#神谷幸一 #大城美佐子 #知名定男 #津波恒徳 十一、登川誠仁作品メドレー センスル節・・#伊禮正哲 おじさん・・#金城みゆき #宮里正則 戦後の嘆き・・#照屋政雄 ヒヤミカチ節・・#金城安紀 琴:#山内貴祐 ペストパーキンママ・・#城間松安 #徳原清文 #大城輝美 三板囃子・・#田場盛信 太鼓:#比嘉マチ子 地謡:#よなは徹 伊江島エイサー・・#伊江島青年会 歌三線:#島袋繁正 #島袋太 #屋我比かつや
フィナーレ 出演者全員

 18時30分に始まった公演が終了したのは、21時30分頃だった。幕の内弁当のように多彩なプログラムで、沖縄が芸の島だと改めて実感させられる。幕開けで緞帳が上がり、現われたステージに200人以上の登川流の会員が並び演奏をする様は圧巻であり、美しかった。
 個人的に見れて嬉しかったのはフォーシスターズだろうか。結成が1960年。ボクが生まれた年だ。沖縄で最初のアイドルグループであり、その後に続くでいご娘やネーネーズの原点ともいえるグループ。沖縄音楽の本や記事でその名を目にする事は多いが、実際に彼女たちが歌う姿を生で見れるとはこれまで思っていなかった。
 芸術劇場を出ると雨が降っていた。バッグから折り畳み傘を出し、急いでバス停に向かう。
 23番・具志川線の上り方面那覇行きの最終が、上平川で22時9分。21時50分頃にバス停に着いたので余裕ができた。
 バス停の看板の時刻表をもう一度確認すると、27番の屋慶名線上りが22時3分にあった。ラッキー。少し遅れて27番が到着したので自宅近くのバス停に止まるか確認して乗車。
 外は雨が降ったり止んだり。風も強い。窓ガラスに付いた雨粒で町のネオンが綺麗に滲んでいる。夜の上り線は日中に比べ道路が空いているからか、バスはスムーズに走っていた。

YouTubeから「ヒヤミカチ節/登川誠仁」 「豊節/登川誠仁」 「めでたい節/フォーシスターズ

沖縄タイムスの記事

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うるま市芸術劇場

3月28日(金)

 昨日は最高気温28℃という夏日を記録したが、今日は19℃と10℃近く下がった。そして明日からは、冬の寒さに逆戻りするという。気温の乱高下に付いていくのが大変だ。

 今日でNHK連続テレビ小説「おむすび」が終わった。連続テレビ小説は2000年からほぼ欠かさず観ていて、基本、朝8時からと昼12時45分の2回観ているが、今回の「おむすび」は2回観るのがちょっとしんどかった。昼は「カムカムエヴリバディ」の再放送と続けて観ることになるので、その出来の差が否が応でも明らかになる。「おむすび」は「純と愛」や「まれ」「ちむどんどん 」のようにストーリーが破綻しているわけではないが、なんだか官公庁の作るPRドラマを観せられているようだった。阪神淡路大震災、新型コロナ、東日本大震災といった大きな出来事を挟み込んでいるが、話が浅く心に残ったり響いたりするものがなかった。
  先日、岐阜県関市が補助金2000万円を出して制作を依頼した、”モネの池”を舞台にしたご当地映画がトラブルになっているというニュースがあった。台本はChatGTPが書いたそうで、主演の伊達直斗さんが「それで、こんなに(内容)が薄っぺらな台本なんだと思った」と話されているが、「おむすび」を観て感じたのも薄っぺらさだ。阪神淡路大震災、新型コロナ、東日本大震災をキーワードにChatGTPに人情ドラマの台本を作らせたら、こんな感じになりそうだと思った。

 公設第2秘書の給与や退職金計約360万円を詐取したとして、詐欺罪に問われた元参院議員の広瀬めぐみ被告に対し、東京地裁は一昨日、懲役2年6月、執行猶予5年の有罪判決を言い渡した。国から騙し取った約360万円は返還したというが、だからといって執行猶予がつくのは甘くないだろうか。

 この他の気になった記事を備忘録として。
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◯ブレイヴ・コンボ

 1990年代の初め、『ミュージック・マガジン』で取り上げられることの多かったバンドの一つが、ブレイヴ・コンボではなかっただろうか。テキサス州デントンを拠点とするバンドで、1979年にギタリストであり、アコーディオン奏者でもあるカール・フィンチによって結成された。ポルカを基本にしながら、そこにサルサやメレンゲ、ジャズやブルース、チャチャ、クンビア、ザディコなど様々な要素をミクスチャーした曲作りで、彼らのホームページのプロフィールから言葉を借りれば、音楽の世界旅行だ。
 彼らを撮影したのは3度目の来日となる1991年の暮で、この年、彼らはP-VINEから『ブレイヴ・コンボのええじゃないか』というミニ・アルバムと『ブレイヴ・コンボのクリスマス』というアルバムを発売している。『ブレイヴ・コンボのええじゃないか』は日本の曲を彼ら流にアレンジして、それを日本語で歌っているというもの。収録されているのは「 Blue Mountains(青い山脈)」「アキラのええじゃないか」「カスタネット・タンゴ」といった服部良一氏の曲のほか、「スキヤキ・トゥイスト(上を向いて歩こう)」「エノケンのダイナ」という全5曲と、「スキヤキ・トゥイスト(上を向いて歩こう)」のカラオケだ。
 ブックレットには各曲のメンバーによる解説が掲載されており、例えば「 Blue Mountains(青い山脈)」ではカール・フィンチが<何たってオリジナル・ヴァージョンはすでにとてもはっきりとしたポルカ/スカ・ビートに乗っていたーーブレイヴ・コンボのヴァージョンは、ポルカとスカを混ぜ合わせたところに、メレンゲをひとつまみっていうところかな」と書いている。「カスタネット・タンゴ」はタンゴから「サクラ」のメロディーになり、その後、ジャズになる。ババ・ヘルナンデスはこの曲の解説で「サクラのメロディー、そして、ビ・バップ/スピード・メタルにもつれ込むエンディングーーこのあたりが特に気に入っている」と書いているが、ビ・バップはわかるが、スピード・メタルはあまり感じさせなかった。確かにスピード・メタルも2ビートだけれど、演奏にメタルっぽさはなかったかな。
 wikiによれば、こうしたカバー曲のレパートリーは他に、ジミ・ヘンドリクスの「パープル・ヘイズ」、ドアーズの「ピープル・アー・ストレンジ」のポルカ版、ローリング・ストーンズの「サティスファクション」のチャチャ版などがあるそうだ。
 掲載したライヴ写真は1991年12月7日の渋谷オン・エア。『ミュージック・マガジン』1992年2月号のカラー・グラビアページ「CONCERT PICUP」に4ページで掲載されている。コンサート評は島原裕司さん。
 モノクロのポートレートは3日後の12月10日、彼らの宿泊先だった渋谷の東武ホテルで撮影した。こちらの写真は『ミュージック・マガジン』1992年4月号の「再発見!世界を巡るアコーディオンの魅力」という田中勝則さん執筆による特集の中で、<アコーディオンについて考えてみよう 来日したブレイヴ・コンボの4人に聞く」という囲み記事で使われている。

YouTubeから「Brave Combo - Must Be Santa」 「BRAVE COMBO&河内家菊水丸『テックス音頭』(1993年)

ブレイヴ・コンボ 公式ウェブサイト

渋谷・オン・エア 1991年12月7日撮影
渋谷・東武ホテル 1991年12月10日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1992年2月号
コンサート評は島原裕司さん
初出『ミュージック・マガジン』1992年4月号
インタヴュアーは田中勝則さん
#ブレイヴコンボ
#BraveCombo
#カールフィンチ
#CarlFinch
#ジェフリーバーンズ
#JeffreyBarnes
#ババヘルナンデス
#BubbaHernandez
#ミッチマリーン
#MitchMarine
#ポルカ
#Polka
#アーカイブ

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ブレイヴ・コンボ

◯ジャッキー・チュン

 最近、facebookに各県ラーメン部によるラーメンの投稿写真がやたらと流れてくるが、しばらく前は香港や台湾、或いは中国も?の投稿記事がたくさん流れてきていた。料理のレシピ動画やDIYのワンポイント・アドバイス的な動画もあるが、一番多かったのが女性の画像や動画でミニスカートをはいた女性のポールダンス動画も頻繁に流れてくるので、つい見入ってしまった。そんな投稿に混じってジャッキー・チュンのファンページ投稿もいっ時毎日のように流れてきた。勧誘されていたのだろうか?
 ジャッキー・チュンはアンディ・ラウ、アーロン・クオック、レオン・ライとともに4大天王と呼ばれた香港の歌手。現在63歳だが、今も人気を誇っている。2018年に中国で行われたコンサート会場に設置された監視カメラの顔認証システムで、指名手配犯が検挙されたのは日本でも話題になった。2018年に行われた彼のコンサートで、100人もの逃亡犯が逮捕されたそうだ。
 ジャッキー・チュンはこれまで3回撮影したことがある。1995年の12月にコンサートとポートレート、1996年12月にもポートレートを撮影している。
 95年は『ミュージック・マガジン』、96年は『ポップ・アジア』での取材だった。これまでコンサートを撮影したのは新宿厚生年金会館だと思い込んでいたが、アーカイブするにあたって調べると日本青年館だった。

コンサートツアーで逮捕者46人!“歌神”ジャッキー・チュン、「公安のレベル高い」謙虚にコメント―香港

YouTubeから「只想一生跟你走/張学友」 「吻別/張学友

ジャッキー・チュン 公式ウェブサイト

新宿・京王プラザホテル 1995年12月19日撮影
日本青年館 1995年12月21日
初出『ミュージック・マガジン』1996年2月号
コンサート評を篠崎弘さん
初出『ミュージック・マガジン』1996年3月号
インタヴュー記事を小倉エージさん
渋谷・NHK 1996年12月15日
初出『ポップ・アジア』(ブルース・インターアクションズ)第10号
インタヴュー記事を関谷元子さん
#張学友
#ジャッキーチュン
#JackyCHEUNG
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。13枚の写真が掲載されています。

ジャッキー・チュン

3月26日(水)

 今日は宮崎県で30.3℃と今年初めての真夏日を記録し、東京都心では今月に入って3回目の夏日を記録したという。富山はそこまで気温は上がらなかったが、日中は暖房がいらないくらいだった。明日は富山も夏日の予想だ。

 昨日、東京地裁は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に対して、宗教法人法に基づいて解散を命じる決定を出した。これは、地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教、霊感商法詐欺事件の明覚寺に次ぐ3例目となる。教団側は記者会見し「明らかに不当。到底受け入れられない」とし、高裁に即時抗告する方針だという。
 旧統一教会の問題がオウム真理教や明覚寺と大きく違うのは、自民党を中心とした政治家との繋がり、政界工作だろう。2022年の安倍晋三元首相銃撃事件をキッカケに自民党と旧統一教会の接点が明らかになり、調査の結果、旧安倍派、麻生派、旧二階派、旧岸田派、旧茂木派など幅広い派閥で接点のある壺議員が180人いたことが明らかになった。しかし、この調査は自己申告制だったので実態は不明だ。銃撃事件後、旧統一教会と政治家の蜜月が問題視されると、教会とは関係を絶ったと壺議員たちは発言したが、自衛隊の明記や緊急事態条項などの改憲案、選択的夫婦別姓の反対など自民党の政策と旧統一教会の掲げる思想・信条はとても近い(これは日本会議も同じだろう)。個人的には旧統一教会や日本会議などの保守層の票を欲しい自民党の議員が、彼らの主張を政策に反映していると考えている。だから、旧統一教会との関係を絶ったなどという政治家の言葉を素直に信用できない。
 今年は来月20日に富山市長選、6月29日に高岡市長選が行われるが、前回の選挙で選ばれた藤井裕久・富山市長、角田悠紀・高岡市長、昨年再選を果たした新田八郎・富山県知事も旧統一教会の応援や繋がりがあったことを忘れてはならない。

 兵庫県の斎藤知事が今日、先週出された第三者委員会の報告書に対する記者会見を行い、パワハラについては認めて謝罪したが、告発文書を巡る県の対応については適切な対応だったという考えを変えなかった。第三者委員会から<通報者探しなどが公益通報者保護法に違反し、元局長の懲戒処分で、文書の作成と配布を理由にした部分は違法で無効>と指摘されても、適切な対応と言い切るなら、何のための第三者委員会か。鉄面皮にもほどがある。

 沖縄戦での米軍上陸から、今日で80年を迎えた。

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◯ザ・ラストショウ

 1974年、泉谷しげるのバックバンドとして結成されたラストショウ。メンバーは日本のブルースハープのパイオニア、ハーモニカの松田幸一、ギターのDr.Kこと徳武弘文、ペダル・スチール・ギターの村上律、ベースの河合徹三、ドラムの島村英二。
 このライヴ写真は1987年7月にインクスティック芝浦で行われた、ニューオーリンズ関連のイヴェントに出演した時のもの。この撮影をする5年ほど前、2年間ほどシマ(島村英二)さんのローディーをしていた。まだバンド・ブームの始まる前、打ち込みによるレコーディングが一般的になる前で、スタジオ・ミュージシャンの全盛期だった。シマさんも多い時は午前中から夜までスタジオからスタジオへ移動して1日で5本のレコーディングをする時もあった。ライヴでは、吉田拓郎さんと松山千春さんの全国ツアーがメインだったろうか。自分がローディーをしていた2年ほどの間にも、ラストショウのライヴは何回かあったように思うが、ローディーとして呼ばれた記憶がない。ラストショウのライヴはシマさんにとって仕事ではなく、楽しみだったのだろうか。
 徳武さんはシマさんのローディーをしていた時に、よくスタジオでお会いしたし、自分がその頃原稿を書いていた自由国民社のギター関係の雑誌でよくコメントをもらっていた。
 ラストショウのディスコグラフィーとしては、1977年にコロムビアから『アリゲーター・ラジオ・ステーション』、1978年『ラストショウ2』、1992年にベスト盤『ANTHOLOGY OF LAST SHOW』、2010年にポニーキャニオンから『家路~My Sweet Home~』、VividからライヴCD『The Noise From 80’s』、また東宝のテレビドラマ『火曜日のあいつ』のサウンドトラック『ブルファイト』というアルバムも1976年にコロムビアから発売されているようだ。
 徳武さんが、現在闘病中ということで、音楽仲間が集まり「Support the Dr.K Special Live KEEP IT UP!TOKU! がんばれ!トクちゃん!」と題したライヴが、今月19日に曙橋のライヴ・レストラン「BACK IN TOWN」で行われたそうだ。

YouTubeから「ザ・ラストショウ 40th Anniv.“Alligator Radio Station” 2016 アンコール - Tiger Rag」 「泉谷しげる ヒマ人クラブ(1975年ライブ)演奏:ザ・ラストショウ

ザ・ラストショウ facebook

松田幸一 オフィシャル・ブログ

インクスティック芝浦 1987年7月20日撮影
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ラストショウ
藤井康一

◯藤井康一

 90年代の初め頃、学生援護会のアルバイト情報誌『デイリーan』の撮影をよくやっていた。巻頭のグラビアページでは、チエコ・ビューティや楳図かずおさんが案内する吉祥寺や、ゼルダの小嶋さちほさんが案内する湘南・江の島といった、ちょっとマニアックな著名人が案内するタウン特集があって、常磐線特集の際には、伝説のR&Bバンド「ウシャコダ」のボーカル、藤井康一さんが教える松戸・五香、常盤平という撮影があった。藤井さんは4歳から27歳まで松戸に住んでいたそうだ。この時は藤井さんに話を聞き、インタヴューの撮影だけして、後日、担当編集者と一緒に藤井さんオススメのスポットを撮影に行った。
 藤井さんのオススメスポットは五香から常盤平の2駅にわたって続く桜並木のほかは、元養豚場だったイトーヨーカドー、いつの間にか潰れたライブハウス「ペイントページ」跡、中学時代の同級生が嫁いだ喫茶店「コロラド」というものだった。
 また、ウシャコダのデビューアルバム『土一揆』の表ジャケットの写真も松戸で撮影されたと聞いて、担当編集者と探して撮影した。

 松戸市千駄堀の田んぼで撮影したそうだが、そこは「21世紀の森と広場公園」に生まれ変わり、ジャケットでは藤井さんがフンドシをしめて松明を握って立っていた場所には、平和と豊かな未来を願った銅像「光風」が立っていた。それを発見して編集者と大笑いして帰ってきた。
 掲載した写真は、この『デイリーan』の撮影よりずっと前、まだ写真を初めて2年ほどの1987年にインクスティック芝浦で撮影したもの。ドクター・ジョンとネビル・ブラザーズの来日ライヴが7月22日に行われたが、それに先立ち20日にウエルカム・パーティが行われた。ピーター・バラカンさんと湯浅学さんのトークショーのほか、ラストショウや松原正樹セッション・バンド、バウンド、そして藤井さんも出演していた。ウシャコダではなくソロでの出演だったと思うが他のメンバーが誰かはわからない。
 藤井康一。1957年、木更津で生まれ松戸で育つ。松戸出身の男性6人でウシャコダを結成。1978年ヤマハ主催のEastWestでシャネルズを敗り最優秀グランプリを獲得。1979年、ワーナー・パイオニアからデビューアルバム『土一揆』をリリース。
 1984年にウシャコダが解散するとソロで活動を始め、1985年に味の素CFソング「シュガーケイン」をキングレコードからリリースし、ソロデビューを果たした。
 1989年、自身がパーソナリティーを務めるラジオ番組に小学校の頃から憧れていた牧伸二さんを招き、弟子入りし「牧伸三」という芸名をもらう。
 2001年、師匠である牧伸二さんの「ダンジイの応援歌」をプロデュース。
 尚、ウシャコダは1997年に再結成し、現在も活動を続けている。

YouTubeから「カモナ・ウシャコダ 松戸市民劇場」 「~哀愁の波止場~ 藤井康一 : (Sittin’ On)The Dock Of The Bay

ウシャコダ・藤井康一 公式ウェブサイト

インクスティック芝浦 1987年7月20日撮影
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#牧伸三
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3月24日(月)

 昨日は年に一度行われる自治会行事のえざらい。朝8時に集合して、11時過ぎまでスコップで水路に溜まった泥を上げていた。5月上旬並みの暖かさで、作業をしているとじわりと汗をかく。家に帰りシャワーを浴びて、着ていた服を洗濯。それがよかったのか、それほど酷い花粉症の症状は出なかった。それより、身体のあちらこちらが筋肉痛に。

 袴田巌さんが、47年7ヶ月に渡って身柄を拘束されたことへの刑事補償として、2億1700万円あまりを交付されることが決まった。袴田さんは89歳。2億円をもらって、残りの人生でどれだけそのお金を有意義に使えるのだろう。

 マイナンバーカードと運転免許証が一体化したマイナ免許証の運用が今日から始まったが、さっそくトラブルが相次いだそうだ。ところで、運転免許証に対しては、1.マイナンバーカードと免許証を一体化させてマイナ免許証を取得する。2.従来の免許証を今後も持つ。3.マイナ免許証と従来の免許証の両方を持つ、の3つの選択肢があるそうだ。なぜ健康保険証の場合は廃止して、マイナ保険証への一本化を強引に進めるのか。

 明日は北陸地方で、今季初の本格的な黄砂飛来が予測されている。

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T-BIRD

◯T-BIRD/3SENTI 春待ちJoint Concert

 ヘッケル田島さんのソロ・シングル「すこし眠ろう」の発売日である2009年3月29日に、金沢市民芸術村パフォーミングスクエアで開催された、T-BIRDとセンチメンタル・シティ・ロマンスによるジョイント・コンサート。この年に還暦を迎えた田島さんは、誰が用意したのか後半は赤いラメのちゃんちゃんこを着てステージに立っていた。
 T-BIRDからは、ヘッケル田島さん、小室良さん、越中克彦さん。センチメンタル・シティ・ロマンスからは告井延隆さん、中野督夫さん、細井豊さんが出演。ゲスト・ミュージシャンとしてドラムのジョニー吉長さん、ベースの湯川トーベンさん、ギターの今剛さん、キーボードの難波弘之さん、ベースの鮫島英樹さんが登場した。この豪華なメンバーをバックに、田島さんの娘さんが確か「アメイジング・グレイス」を歌うという場面もあった。
 まだ川崎に住んでいた頃で、ギリギリまで見に行こうか迷っていたが、春休みということにして3月28日から4月3日まで実家に戻り参加した。

 このコンサートからまだ16年しか経っていないが、この間にジョニー吉長さん、小室良さん、中野督夫さんが鬼籍に入られた。良さんとは、この時が久しぶりの再会で、最後になってしまった。ギリギリまで迷って、やっぱり行って良かったのだろう。

YouTubeから「トゥナイト・イン・ザ・レイン/T-BIRD」 「夏の日の想い出/センチメンタル・シティ・ロマンス

金沢市民芸術村パフォーミングスクエア 2009年3月29日撮影
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宮村優子

◯宮村優子

 ”みやむー”の愛称で知られる神戸出身の声優で女優、歌手。wikiによると芝居好きだったため、高校時代は演劇部に所属し、高校卒業後は桐朋学園短期大学演劇科に入学。桐朋学園を卒業後は日本ナレーション演技研究所に入所。1994年にゲーム『拳聖土竜』の春麗役で声優デビューした。
 彼女を一躍有名にしたのは1995年に放映されたテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の惣流・アスカ・ラングレー役だった。以降、声優として多くのテレビアニメ、劇場アニメ、オリジナルビデオアニメなどで活躍。また、女優としても2001年の朝ドラ『ちゅらさん』などに出演している。
 歌手としてはこれまでにシングル12枚、オリジナルアルバム4枚をリリースしているようだ。

 宮村優子さんを撮影したのは劇場版の『新世紀エヴァンゲリオン』が公開された1997年で、声優として人気絶頂の頃だった。前年の1996年2月に、マンガ家のまつもと泉がCD-ROMで見せる「21世紀の次世代マンガ」として『COMIC ON』のvolume1をプロデュースし、東芝EMIから発売。この『COMIC ON』のvolume4で彼女に登場してもらうことになり、その撮影を担当した。
 最初に東芝EMIの会議室で声優の古谷徹さんとの対談風景を撮影し、その後、1階のロビーの壁をバックにポーズ写真を何枚か撮影。その撮影したポジフィルムをコダックのフォトCDに焼いてもらい、そのデータを使ってフォトショップで風景写真と合成したりフォトショップで背景そのものを作ったりした。フォトショップのバージョンが3.0か4.0の頃で、レイヤー機能が搭載されて合成作業が格段にやり易くなり加工することが楽しかった。
 この時は加工した”みやむー”の写真を『COMIC ON』の編集長だった西野めぐみさんがディレクターというオーサリング・ソフトで動かし、その映像にヒカシューのベースで『COMIC ON』の音楽全般を担当していた坂出雅海さんが音楽をつけてくれた。
 どんな映像と音楽だったか確認しようと思ったが、やがて30年近く前のソフトなので自分が今使っているパソコンでは残念ながらCD-ROMを認識しなかった。
 プライベートでは2度の結婚と2度の離婚を経て、二人の子供のお母さんになられたようだ。

YouTubeから「名台詞 - アスカ「あんたバカァ?」 | 新世紀エヴァンゲリオン | Netflix Japan」 「だいじょうぶの笑顔/宮村優子

宮村優子 公式ウェブサイト

赤坂・東芝EMI 1997年3月15日撮影
初出『COMIC ON volume4』(東芝EMI)
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3月22日(土)

 しばらく前に、イワシが豊漁で氷見の鮮魚店では一尾10円で売られているというニュースが地元のテレビで流れていた。そこまで安くはないが、近所のスーパーで頭と腹ワタを取ったイワシが7尾200円以下だった。小ぶりのイワシだったが1尾30円以下、米も野菜もなんでも値上がりする中、これはありがたい。イワシ料理を検索して、さっそく昨日、イワシの梅煮を作った。まだ安値が続くなら、今度はシンプルに塩焼きかな。
池間島のイワシ
 上の写真は2012年10月11日に池間島で撮影した。宮古島の奇祭パーントゥを撮影に行った時で、宮古島と橋でつながっている池間島へ足をのばした。しばらく集落の中を散歩して浜の方へ行くと人が集まっている。何事かと思って近くの人に尋ねると、イワシの群が浜に押し寄せてきていると教えてくれた。浜のすぐそば、サンゴかと思っていた水面下の黒い大きな塊はイワシの群だった。漁師が2人、網を投げるタイミングを伺っていて、若い方の漁師が意を決したように投げた。網には大量のイワシが入っていた。頭とワタを取って海水で洗ったイワシを一尾貰ったので、その場で食べた。お醤油が欲しかった。
ヘッケル田島

◯ヘッケル田島

 掲載した写真は、2009年3月29日にリリースされたヘッケル田島さんのソロ・シングル「すこし眠ろう」のジャケットとインナー(ブックレット)用に撮影した写真。たしかこの年の誕生日で田島さんは還暦を迎え、3月29日の発売日にはT-BIRDとセンチメンタル・シティ・ロマンスによる『T-BIRD/3SENTI 春待ちJoint Concert』が金沢市民芸術村パフォーミングスクエアで開催された。このコンサートでは、途中から田島さんは赤いちゃんちゃんこを着てステージに立っていた。
 ヘッケル田島さんに初めて会ったのは、1978年の夏。高校を卒業してしばらく経った頃で、プロのドラマーになりたいが、どうすればいいかわからなかった時に、高岡の米島にあったライヴハウス「タムタム」のマスター新田弥信さんから、ビクターからデビュー・アルバムを発売したばかりの金沢のロック・バンド、T-BIRDのローディー(バンド・ボーイ)をやってみないかと紹介された。

 スケジュール帳なんて持ち慣れていなかったので落としたり忘れてきたりで、1978年のスケジュール帳だけが無くてローディーとして一番最初にどこへ行ったか忘れてしまったけれど、夏には九州と東北・北海道のツアーがあった。ビクターからの契約金で買った大型バスを改造した赤いT-BIRD号に楽器を積み込んで、メンバーと一緒にあちこちのライヴ・ハウスを巡った。
 ツアーに出発する時は楽器車に乗るためギターの小室良さんの家へ行くこともあったし、前日に犀川のほとりにあった田島さんの経営する喫茶店だったかスナックへ行き、お店を閉めてから田島さんの家に泊まって翌朝バスに乗り込んでツアーに出発することもあった。
 T-BIRDのローディーをやっていたのは半年ほどだろうか。その後はダディ竹千代と東京おとぼけcatsのドラマー、そうる透さんの家に居候しながらローディーをやらせてもらっていた。
 そのうちメンバー・チェンジした新生T-BIRDは活動拠点を東京に移し、1979年に『Lightning』、1980年に『Liner』という2枚のアルバムをフライングドッグからリリースしている。
 今回、アーカイブを作るのにT-BIRDと田島さんのプロフィール、バイオグラフィーをネットで探したが詳細に書かれたものは見つからなかった。誰かT-BIRDと田島さんのwikiを作ってくれないだろうか。
 田島さんのT-BIRD以前、グループ・サウンズ時代のことはザ・ラヴのmixiに簡単に触れられていた。
 ザ・ラヴは1968年9月、元アウトキャストの藤田浩一を中心に結成。9月3日横浜プリンスを皮切りに都内ジャズ喫茶、GOGOホールなどで活動。1969年1月、日劇ウエスタンカーニバルに初出演。1969年3月、越路吹雪さんとの競作でデビュー・シングル「イカルスの星」を発売。ザ・ラヴの時代は、本名の田島康史ではなく島田史雄になっている。
 ソロ・シングル「すこし眠ろう」は今剛さんがプロデュースで、ドラム・ジョニー吉長、ベース・松原秀樹、キーボード・森俊之、ギター・今剛という布陣。
 ということで、昨日3月21日が田島さんの誕生日。おめでとうございます!

YouTubeから「ヘッケル田島 -すこし眠ろう- 2017.2.4 @金沢有松そうるめいと」 「イカルスの星/ザ・ラヴ」 「35年振り 【T-BIRD】 @磔磔 #7<オレンジ色の風>

世田谷・BS&Tスタジオ 2009年2月22日撮影
初出「すこし眠ろう/ヘッケル田島」(The Voice)
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かまやつひろし

◯かまやつひろし

 ムッシュの愛称で親しまれた、かまやつひろし(釜萢弘)さん。1939年生まれで、父親はジャズ・シンガーのティーブ・釜萢。ザ・スパイダース時代は「かまやつひろし」で活動していたが、1989年以降は「ムッシュかまやつ」が正式な活動名だったそうだ。
 かまやつさんを撮影したのは、『ミュージック・マガジン』の高橋修さんの連載『スター千夜一夜』。場所は六本木交差点近くの雑居ビルで、自宅とは別にかまやつさんが借りている部屋だった。
 スパイダース時代の話から、好きな音楽の話まで多岐にわたって話されているが、一番面白いのは「ゴロワースを吸ったことがあるかい」の誕生についてだろうか。

「ゴロワースを吸ったことがあるかい」は、75年にぼくの知ってる呼び屋さんがタワー・オブ・パワーを呼んだんですよ。ぼくはアルバムのレコーディングをやってたんですけど、ベイ・エリアのファンク好きだったから、何か一緒にアルバムで出来たらいいなと思って。ダメモトで電話したら、いいよ、っていうんですよ。それでとりあえず(彼らが)スタジオにきたんだけど、曲なんか出来てなくて(笑)。
 で、ぼくね、自分が一番楽に弾けるコード進行があるんですよ、ちょっと小洒落た。仲間の結婚式なんか行くと、それにアドリブでふざけた歌をつけて祝辞の代わりにしていたということがあったんで、じゃこのコード進行でとりあえずカラオケ作っちゃえ、って作って、そのあと詞を書いた。それが「ゴロワーズ」なんですけどね。

 当時のスケジュール帳によれば取材は午後3時から4時となっている。インタヴューの後に部屋の中で少し写真を撮らせていただいてから、東京タワーの見える屋上でも何カットか撮影している。
 部屋のソファーの上には『ゲンズブール または出口なしの愛』『さよならゲンズブール』という本が置かれていた。
 かまやつさんには2010年4月23日に、もう一度お会いしている。この時はT-BIRDのボーカル&ドラムのヘッケル田島さんと、ボーカル&ギターの越中克彦さんのコンサートが金沢市民芸術村であり、ゲストがかまやつさんだった。他のメンバーは今剛(G)、鮫島秀樹(B)、中山努(Key)という顔ぶれで、リハーサルから撮影に行っていた。この時に、『ミュージック・マガジン』で撮影した写真を何枚かお渡しすることができた。
 かまやつさんはオープニングの2曲、後半の3曲、アンコールの2曲で登場し、「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」「バン・バン・バン」を目の前で聴くことができた。
 残念ながら2017年3月1日に膵癌のため亡くなられてしまった。78歳だった。

YouTubeから「ゴロワーズを吸ったことがあるまい/Hiroshi Kamayatsu」 「やつらの足音のバラード/ムッシュかまやつ」 「バン・バン・バン/ザ・スパイダース

ムッシュかまやつ WEB記念館

港区・六本木 1995年2月24日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1995年4月号
インタヴュアーは高橋修さん
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3月20日(木)

 今日でオウム真理教による地下鉄サリン事件から30年が経った。今年の1月17日にも阪神・淡路大震災から30年が経ったと書いている。この頃は家にテレビは無く、新聞もとっていなかったのでニュースには疎かったが、1995年というのは凄まじい年だったのだと改めて思った。

 石破首相の10万円商品券問題に端を発して、岸田文雄前首相が在任時に首相公邸で開いた政務官との会食で10万円の商品券を配ったことがわかった。また、安倍晋三元首相が在任中に開いた会食で、5万円や10万円の金券を受け取ったことがあると複数の自民党議員や関係者が証言したという。10万円商品券問題は石破首相個人の問題では無く、歴代の首相が行なっていた自民党の金権政治の問題だろう。石破首相はポケットマネーで10万円の商品券を用意したというが、15人に配れば150万円だ。政治家はお金は持っているが、自分のお金は使わない。安倍晋三元首相の資金管理団体「晋和会」は、アイスのガリガリ君を買うお金を政治資金から支出していたことが発覚して問題になったこともある。そんな歴代の首相たちが行なっていたなら、お金の出どころはやはり官房機密費ではないだろうか。

 この他の気になった記事を備忘録として。
斎藤知事は適切な対応だったと強調 「違法」指摘の第三者委報告書に
杉田水脈氏「人権侵犯の認定は受けておりません」 発言は「誤り」

山本丈晴

◯山本丈晴

 1948年は、歌謡曲史では、次の2曲が登場した年として記憶されている。一つは服部良一作・編曲、鈴木勝作詞で笠置シヅ子がうたった<東京ブギウギ>、もう一つは古賀政男作・編曲、野村俊夫作詞で近江俊郎がうたった<湯の町エレジー>。
 こんな北中正和さんの文章で始まる『レコード・コレクターズ』の連載「戦後ニッポンのポピュラー音楽」は、古賀政男さんの弟子で、ギタリストとして古賀メロディーを支えた山本丈晴さんの回だった。「湯の町エレジー」を中心に古賀さんの曲作りを、第二ギターとして身近に見ていた山本丈晴さんに取材している。本当なら古賀政男さんに直接取材できればいいのだろうが、古賀さんは1978年に73歳で亡くなっており、山本丈晴さんに白羽の矢が立ったのだろうか。

 山本さんの本名は古屋武治で、山梨県南都留郡河口村(現・富士河口湖町)出身。1944年の暮れ、古賀さんに弟子入りするため上京し、1945年に入門が叶いギターと作曲法を学ぶ。音楽活動を始めた当初は古屋雅章を名乗っていたが、1948年には古賀政男さんの正式な養子となり古賀丈晴に改名。その後1958年からのキングレコード専属作曲家時代は古屋丈晴を名乗り、1962年に女優の山本富士子さんと結婚後は婿養子となり、山本丈晴となった。
 記事によると、山本さんの初めてのレコーディングは1946年3月録音の古賀政男作曲、西條八十作詞、霧島昇が歌う「麗人の歌」。
「戦前のテイチク時代の名コンビ渡辺邦男監督の『麗人』という映画の主題歌でした。そのときはじめて”おまえ、セカンド・ギターを弾け”と言われましてね。弟子入りしたものの、毎日ギターや作曲を教えてくれるのかと思ったら、自分で覚えろと言われて、朝の掃除からはじまる徒弟制度でしたから、こんなに早く弾けるのかとうれしかったんですが、舞い上がっていたから細かいことは何も覚えてないんですよ(笑)。レコーディングは内幸町のコロムビアのスタジオでやりました。ぼくたちワックスと言ってましたけど、当時の録音はテープ・レコーダーじゃなく、ワックスを塗った盤に直接カッティングするんです。カッティングすると、ロウがヒューッと糸のようにとれて上に吸い込まれるようになっていました。毎朝そのワックスが何十と運ばれてくるんですが、高価なものらしくて、大隈さんという泣く子も黙るようなこわい録音課長がいて、歌や演奏を失敗するたびにグワーっと睨まれるんですよ(笑)」
 1948年に録音された「湯の町エレジー」では異例の時間がかけられ、この貴重なワックスが24枚も使われたそうだ。
「近江さんはこの曲が勝負だと思っていたから、古賀先生がいろいろ注文をつけるんですよ。それがこっちまで影響して、いつもほとんどミスのない吉田さんや新野さんまでトチッたの(笑)。ぼくがまちがえる。今度は古賀先生がつかえる。近江さんの声が出なくなる。そんな調子で、一日のワックスを使い果たすくらいまでやった。緊張して緊張してやっと仕上げたレコードですから、できたときはうれしかったですね」
 この取材をした1999年当時、山本さんは財団法人古賀政男音楽文化振興財団理事長に就任されており、2005年には財団法人古賀政男音楽文化振興財団終身名誉顧問になられた。2006年に第48回日本レコード大賞功労賞を受賞されたが、2011年9月7日、86歳で亡くなられた。
 古賀政男さんについては、2002年に平凡社から発売された北中さんの著書『ギターは日本の歌をどう変えたか』でも触れられている。

YouTubeから「湯の町エレジー/ギター共演 山本丈晴・アントニオ古賀・鶴岡雅義」 「麗人の歌/霧島昇

古賀政男音楽博物館 公式ウェブサイト

渋谷区・古賀政男音楽博物館 1999年1月20撮影
初出『レコード・コレクターズ』1999年3月号
初出『レコード・コレクターズ』1999年4月号
インタヴュアーは北中正和さん
#山本丈晴
#TakeharuYamamoto
#古屋武治
#古屋丈晴
#古屋雅章
#古賀政男
#MasaoKoga
#戦後ニッポンのポピュラー音楽
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岡村和恵

◯岡村和恵

 岡村和恵さんといっても、知らない人がほとんどだろう。自分も取材で撮影するまでは知らなかったが、昭和初期に「あきれたぼういず」「ミルク・ブラザース」「ダイナ・ブラザース」などで人気を博した俳優で歌手、ボードビリアンの川田義雄(後に川田晴久)さんのご息女。川田義雄さんの本名は、岡村郁二郎といい、1957年に50歳で亡くなっている。
 岡村和恵さんを撮影したのは、『レコード・コレクターズ』の連載「戦後ニッポンのポピュラー音楽」で、インタヴューと文章は田中勝則さんだった。テレビ朝日系列のドキュメンタリー『驚きももの木20世紀』で「天才ボードビリアン 川田晴久の生涯」という番組が放送され、川田さんの遺品をご息女の和恵さんが受け継いで管理されていることを知ったのが取材するきっかけのようだ。
 取材でお伺いしたご自宅には、あきれたぼういずのファンから送られた活動初期の興行パンフレットなども保管されていた。
 田中さんの原稿によると、川田義雄さんはあきれたぼういずを結成する以前から浅草で活動していたそうで、そんな川田さんの音楽体験とはどんなものか尋ねている。

「父の音楽体験ですか。それは私にはあまりわからないですね。というのも、父の子どもの頃の話というのは、断片的にしか聞いたことがないんです。父は明治の生まれですし、当時はみんな貧しかったから、いまのように音楽的な環境が恵まれていたとは思えないんですよね。ただ、これは母から聞いた話ですが、父が子どもの頃、どこで覚えてきたのか、突然義太夫のマネをやっていたとかいうんです。きっと近くで一度見たくらいだと思うんですが、なんでもすぐに覚えてしまったんですね。それと、最初に演奏した楽器はギターじゃなくて、ヴァイオリンでした。これも母から聞いた話ですが、ハッキリ覚えています」
「ただ、音楽に関して言うなら、むしろそんな子ども時代のことより、浅草で芸人をはじめてから吸収したものの方が多かったのではないでしょうか。というのも、当時の芸人さんたちは、とにかく何でもやらないと食べてゆけなかったそうです。歌うとか演奏するだけじゃなくて、寸劇にも出ていたし、コントもやった。そうそう、父はオペラにも出ていたことがあるそうです。これも食べてゆくためだったんでしょうね。おそらくギターを覚えたのも浅草で仕事をしながらでしょう。ただ、父はあまりギターは上手じゃなかったみたいですが」
 あきれたぼういずは1937年に川田義雄、坊屋三郎、芝利英、益田喜頓の4人で結成されるが、1939年に新興キネマ演芸部が吉本興業の芸人を大量に引き抜き、川田義雄さんを除いた3人も新興キネマに移った。一人になった川田さんは弟の岡村龍雄らとミルク・ブラザースを結成し、「地球の上に朝が来る」を大ヒットさせた。しかし、戦争の激化に加えて川田さんが脊椎カリエスを患い闘病生活を送ることになり、ミルク・ブラザースも長くは続かなかった。
 田中さんの記事によると昭和22年にようやく療養が終わり舞台に復帰することになり、その際、芸名を義雄から晴久に変えたそうだ。これは病気が治った晴れ晴れしい状態が久しく続くようにという意味が込められているという。そして結成したのがダイナ・ブラザースだった。
 取材は少女時代の美空ひばりとの出会いにも及ぶ。
「川田がひばりさんと知り合ったのは、ひばりさんがまだレコード・デビューする前のことでした。横浜国際での舞台で一緒になって、それから川田は亡くなるまで、ひばりさんをずっと見守っていました」
 そして、笠置シヅ子との確執。NHK朝ドラ『ブギウギ』で福来スズ子(笠置シヅ子)と水城アユミ(美空ひばり)が演じている。
「正直言って、この時父は困っていたと思います。父は<東京ブギウギ>の作者である服部良一さんとも良い関係にありましたし。でも、自分がひばりさんを守らないとという気持ちだったのでしょうね。それだけ才能にほれこんでいたのでしょう」
 取材の後、岡村和恵さんが保管されている川田さんと少女時代のひばりの貴重な写真を何枚か複写させていただいた。
 この記事は川田義雄という天才ボードビリアンの取材だったが、どこか美空ひばりの影を追う取材でもあったのかと思っている。
 田中さんの原稿の最後は、こんな文章でしめられている。
<川田が戦前に作り上げた川田節に聞ける浪曲の要素は、言ってしまえば、本格的なそれから見たら間違いなくニセモノだ。そして子どもの頃のひばりが歌謡曲で聞かせてくれた多種多彩なスタイルも、実に立派なニセモノだった。ぼくはそんなニセモノに開き直った両者がノビノビと歌っていた時代こそがすばらしかったのではないかと思う。
 ちなみに、川田が亡くなったのは昭和32年。ひばりの最後の傑作である<港町十三番地>を発表したのが、この年だった。唯一の師匠を失ったひばりは、たった一人でニセモノに開き直ることはできず、結局演歌に行くしかなくなってしまった>
 川田さんの33回忌に作られたカセット・テープを取材の帰りにいただいた。A面には地球の上に朝が来る、浪曲セントルイスブルース、遠山の金さん、恋のカチューシャ物語、B面に牡丹燈ろう、ダイナ、珍カルメン、歌のカクテルが収録されている。
 掲載した写真の4枚目から12枚目が、岡村さんが保管されていた貴重な写真や資料を複写したもの。

YouTubeから「地球の上に朝が来る/川田義雄とミルク・ブラザース」 「湯の町エレジー~トンコ節/美空ひばり・川田晴久

川田晴久 日本映画データベース

東京・新宿区? 1999年3月12日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1999年5月号
初出『レコード・コレクターズ』1999年6月号
インタヴュアーは田中勝則さん
#岡村和恵
#KazueOkamura
#川田義雄
#YoshioKawada
#川田晴久
#HaruhisaKawada
#あきれたぼういず
#ミルクブラザース
#ダイナブラザース
#戦後ニッポンのポピュラー音楽
#アーカイブ

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3月18日(火)

 国民民主党の玉木雄一郎代表が高額療養費制度について、先月15日、読売テレビの番組で「3カ月日本いれば外国人でも制度を使える。数万円払ったら1億6千万円の治療が受けられるのは、日本の納税者や社会保険料を払っている人の感覚からすると『どうなんだ?』というところも踏み込んだ見直しが必要」と発言し、波紋を呼んでいる。専門家からは「医療には、社会保険料だけではなく多額の税金も投入され、外国人も消費税を含め税負担はしている。このため、特別な事例をもとに、『日本人が払った保険料だから保険医療は日本人だけに』と考えるのは論理の飛躍だ」と指摘された。実際、厚生労働省によると、2022年3月〜23年2月の高額療養費制度の支給総額9606億円のうち、受給資格をもつ中長期在留者ら外国人への支給額の割合は1.15%(111億円)で、国保に加入している外国人の割合の3.6%よりもさらに低いそうだ。
 玉木氏は自身のYouTubeで「排外主義的と言われるが、そんな気持ちは全くない」と述べているが、排外主義者からの支持と票を狙った発言と思われても仕方がない。でなければ、調査もしないで制度や政策を語るいい加減な人物。国民民主党が支持率を拡大しているというが、残念でしかない。

 今日、東京ドームでの大リーグ公式戦「カブス対ドジャース」で、シーズンが開幕した。結果は4−1でドジャースが勝利した。

 昨日、歌手で俳優のいしだあゆみさんが今月11日に亡くなられたことが、所属事務所から発表された。76歳だった。YouTubeから「ブルーライトヨコハマ/いしだあゆみ」。

 この他の気になった記事を備忘録として。
ヤマダHD、TBS「報道特集」スポンサー契約終了へ 3月をもって...理由は明かさず
イスラエル軍、ガザで大規模攻撃 404人死亡 停戦崩壊の危機
万博リハ、取材NG 参加国「間に合ってない姿報じてほしくない」

グレアム・パーカー

◯グレアム・パーカー

 グレアム・パーカーを撮影したのは、1978年の初来日から15年ぶりとなる2度目の来日の時だった。初来日の時はザ・ルーモアを従えてのツアーだったが、この時はギター2本とハーモニカを数本だけ持っての身軽な来日で、同伴者は奥さんと、ヘビメタ出身のマネージャーだけだった。
 ツアースケジュールは4月4日名古屋クラブクアトロ、5日大阪クラブクアトロ、7~9日渋谷クラブクアトロで、ライヴは4月7日の渋谷クラブクアトロで撮影している。『ミュージック・マガジン』の取材で、コンサート評は志田歩さんが書いている。
 志田さんの原稿によれば、オープニングは元ルースターズの花田裕之氏のバンドが務め、その後、グレアム・パーカーがアコースティックとエレクトリック・ギターを持ち替えながら、時にハーモニカも奏でて弾き語りで聴かせた。そして、最初のアンコールは花田裕之バンドを率いてグレアム・パーカーが3曲歌い、2度目のアンコールではまた弾き語りで聴かせた。

 4月4日からのツアーが始まる前の4月1日に、ポートレートも撮影している。こちらもやはり『ミュージック・マガジン』の取材で、「街酒場のエンタテインメント 楽しきゃそれがパブ・ロック 夜毎のロンドンを盛り上げる愛すべきヴェテラン達の現在」と題された駒形四郎さんの記事の中でグレアム・パーカーへのインタヴューが2ページ収められている。
 弾き語りでのステージについて聞かれると、
「ああ、ギターだけのソロ・ライヴを始めてからその方が曲を大きく捉えられるのが分かった。曲を表情豊かに表現する自由があるってことがね」と答えている。
 グレアム・パーカーといえばパブ・ロックの人脈というイメージだが、本人は1980年からずっとアメリカに住んでいるそうだ。アメリカではクラブを中心に、ソロの時は500人、あるいは1500人くらい入る場所でライヴをしているそうだが、ロンドンでは?と尋ねられると、
「ロンドンはヨーロッパ・ツアーのうち4日寄るとか、クリスマスに帰るぐらいだ。何故なら俺はアメリカでの方が人気があって、今のイギリスじゃほとんど知られていない。まぁ、小さなパブで俺のファンのためのライヴってのも演る意志がないわけじゃないが、実際そんなオファーはないんでね」と話していた。
 インタヴューは彼が宿泊していた渋谷のクレストン・ホテルで行われたが、ポートレートはホテルを出て渋谷センター街で撮影した。まだ明るい時間帯だったが、センター街の真ん中に黒の背景布を広げストロボを焚いて撮っている。
 尚、この来日時の演奏は『ライヴ・アローン!ディスカヴァリング・ジャパン』というライヴ・アルバムになってMSIからリリースされた。ツアー中、大阪へ向かう新幹線で寿司をつまむのに使った割り箸からインスピレーションを受けた「チョップスティックス」という曲も収録されている。

 俺たちはそれを割り箸に 割り箸に作り変えるんだ
 使い捨ての割り箸に 
 そうして俺たちは割り箸を捨てちまうんだ
 俺たちにはブラジルのナッツなんて必要ない
 薬も麦ワラ帽子も

YouTubeから「Girl In Need/Graham Parker」 「Graham Parker & The Rumour Don't Ask Me Questions, Live 1977

グレアム・パーカー 公式ウェブサイト

渋谷・センター街 1993年4月1日撮影
渋谷クラブクアトロ 1993年4月7日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年6月号
インタヴュアーは駒形四郎さん、コンサート評は志田歩さん
#グレアムパーカー
#GrahamParker
#パブロック
#Pubrock
#アーカイブ

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デヴィッド・バーン

◯デヴィッド・バーン

 ニューヨーク・パンクの拠点となったライヴハウス「CBGB」出身で1974年から1991年まで活動したロック・バンド、トーキング・ヘッズのボーカル&ギター。トーキング・ヘッズは70年代のニュー・ウエーブ、パンクブームを牽引するバンドとなり、83年12月に行ったライヴは映画『ストップ・メイキング・センス』として映像化された。
 トーキン・ヘッズ解散後はラテン音楽への傾倒を強め、ワールド・ミュージック専門のレーベル「ルアカ・バップ」を設立。南米やカリブを旅して現地のミュージシャンと交流し、音楽の発掘と紹介を行った。また、自身のソロ活動でもワールド・ミュージック色の強い音楽性となった。
 デヴィッド・バーンを撮影したのはソロ・アルバムとしては5枚目となる『フィーリングス』の発売直前で、自身の写真展『奇妙な儀式』のために来日した1997年4月のことだった。媒体はシンコーミュージックの洋楽雑誌『クロスビート』で、インタヴュアーは山下泰司さん。

 インタヴューは新作のアルバムについてが中心で、山下さんがソロ・デビュー盤の『レイ・モモ』の頃は中南米リズムの研究発表作品みたいな印象だったが、新作はワールド・ミュージック的なサウンドを使っていても「お勉強」って感じはせず、デヴィッド・バーン・ミュージックになっていると感想を述べると、
「うん、今はブラジル、キューバ、ダンス・ミュージック、ロックン・ロール・・・これまで聴いてきたあらゆる音楽が全部僕の中で混じり合ってきているね。ある曲にはある要素がちょっと顔を出し、他の曲にはまた別のものが出ているという・・・うん、今はもうあまり考えてやってるんじゃないんだ。全てが僕の一部になってしまっている」と答えていた。
 この取材した時点でデヴィッド・バーンは最初のソロ・アルバムを発表して10年近くになる。トーキング・ヘッズ時代と、ソロでの自分で一番変わったことは何だと思いますか?という質問に、「より自由を感じているね。ミュージシャンにとってはとても重要なことだ。ちょっとだけの自由ってやつが。あんまり自由が過ぎるとクレイジーになるからね。何をしていいかわからなくなっちゃう。少しだけだといいんだよ。考えてみれば、ミュージシャンになる人の大きな動機はそこにあるんだよね。僕たちには何かを表現する自由・・・何かを言い、音楽を作る自由が必要だ。それがヤバイ方向になって緊迫してきたら、その時は別の手段を探すべきなんだ・・・でも、僕はトーキング・ヘッズでやってきたことを気に入っているし、本当に素晴らしい作品を作ったとも思っているよ」
 ところで、赤いシャツにストライプのオーバーオールというラフな格好にも驚いたが、喉にバンドエイドが貼ってあり、その絵柄が「101匹わんちゃん」だった。なんでも、髭を剃っていて切っちゃったそうだ。
 83年12月のライヴ映画『ストップ・メイキング・センス』が、2024年に4Kレストア版としてスクリーンに復活し、全国で上映された。このレストア版上映を記念しそれに合わせたのか、シンコーミュージックから五十嵐正さん監修の『デヴィッド・バーン /トーキング・ヘッズ アルバム・ガイド&アーカイヴス』が発売された。この本に『クロスビート』での記事と写真が再掲載されている。

YouTubeから「TALKING HEADS - Psycho Killer (1980)」 「Brian Eno & David Byrne "Strange Overtones”」 「AGFマキシムCM デヴィッド・バーン」 「『ストップ・メイキング・センス 4Kレストア』本予告 2024年2月2日(金)公開

デヴィッド・バーン 公式ウェブサイト

六本木プリンスホテル 1997年4月24日撮影
初出『クロスビート』(シンコーミュージック )1997年7月号
再掲載『デヴィッド・バーン /トーキング・ヘッズ アルバム・ガイド&アーカイヴス』(シンコーミュージック )
インタヴュアーは山下泰司さん、通訳は染谷和美さん
#デヴィッドバーン
#DavidByrne
#トーキングヘッズ
#TalkingHeads
#アーカイブ

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3月16日(日)

 一昨日までの暖かさから一転、昨日から冬に逆戻り。
 ローリング・ストーンズのミック・ジャガーのマネージャーを名乗る人物からSNSで、「ジャガーがお金を増やしてファンに還元する」などと言われ、50代の女性が12万5000円を騙し取られたそうだ。普通に考えれば、ミック・ジャガー、そんなことしてる暇はないだろう。

 元衆院議員の今村洋史氏が院長を務める愛知県一宮市の病院が、新型コロナ対策の補助金およそ4億5000万円を不正受給していたことが明らかになったそうだ。今村氏は「今月中に返納する」とコメントしたそうだが、返納して済む話ではないだろう。wikiによると、たちあがれ日本→太陽の党→日本維新の会→次世代の党→自由民主党(安倍派)と政党を渡り歩いてきた人物のようだ。

 昨日の報道特集の切り抜き動画拡散の取材、今日の東京新聞に掲載されたクルド人問題の記事。昨年の兵庫県知事選で既存のマスコミをオールドメディアと批判し、ネットにこそ真実があると斉藤元彦氏を応援した人たちに読んでもらいたい。
「真実かどうかよりも、極端なコンテンツほどたくさん見られる」選挙期間中に拡散される誹謗中傷や虚偽を含む動画 作成に報酬も…背景を
事実はどこだ?ネットに流れる「クルド人批判」 記者が現場を歩き、投稿者に会って事情を尋ねた結果は

北野大

◯北野大

 言わずと知れたビートたけしこと北野武氏の実兄。最近はテレビでお見かけすることは少なくなった気がするが、かつてはタレントとして「サンデーモーニング」「クイズダービー」「マジカル頭脳パワー」などの番組に出演されていた。
 wikiによるとビートたけし氏との縁で大橋巨泉さんに見出され、1987年からタレント活動を始めたそうだ。テレビ初出演は1987年10月、「関口宏のサンデーモーニング」だったそうで、そのつながりで現在も三桂(旧関口宏事務所)に所属されている。
 北野大さんを撮影したのは、本業である学者としての取材で健康雑誌の「北野大センセイの食の安全ゼミ 店先・キッチンでだれでもできるコツ公開!」という12ページの大特集だった。中国産輸入食品の残留農薬や偽装コロッケ問題などで、食料品への安全に関心が高まっていた時期だった。
 北野大さんに白羽の矢がたったのはタレントとしての地名度と、分析化学の専門家として財団法人化学品検査協会(現・一般財団法人化学物質評価研究機構)に勤務し、主任研究員を務めたという実績があったからだろう。

 当時の雑誌に掲載されているプロフィールをそのまま引用すると、
<1942年、東京都生まれ。明治大学理工学部教授・淑徳大学客員教授。専門は環境化学、工学博士。経済産業省化学物質審議会委員、環境省中央環境審議委員を務め、2004年(社)日本分析化学会の技術功績賞受賞。タレント・ビートたけし氏(映画監督・北野武氏)の実兄。大学で教鞭を取る傍ら、テレビや講演でも活躍。著書に『北野家の訓え』(PHP研究所)『できる子どもは環境で決まる』(ダイヤモンド社)ほか多数>
 記事の中で農薬や食品添加物については分析のプロとして、
「個々の物質の安全性は、動物を使った気の遠くなるような回数の毒性試験を繰り返し、多くの時間と費用をかけて確認されています。
 その結果によって、毒作用を現さない無作用量を求めたうえで、動物とヒトの種の違いを10、人間の個体差の違いを10と考えて、計100倍の安全率を見込んで一日摂取許容量を算出し、使用基準が決められているわけです。
 私たち科学者は、その数値をじゅうぶんな安全値と確信しています。でも、人間は大きなネズミではないと、なかには疑問視する人もいます。しかし医薬品のように、ヒトを使った臨床試験は倫理的にもできませんから、今の技術で最大限可能な安全確認がなされていることは、皆さんに知っていただきたいと思っています」と、話されていた。
 この特集ではインタヴューの他に、「あなたの化学物質摂取度は?食の好みなどから瞬時にわかるチェック法」やQ&Aなどのページが盛り込まれていた。

YouTubeから「JARO 1995年 北野大編 ラジオCM(1995年11月)

所属事務所・三桂 公式プロフィール

港区南青山 2007年7月26日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2007年11月号
#北野大
#MasaruKitano
#アーカイブ

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◯森末慎二

 日本の元体操選手。1984年のロサンゼルス・オリンピックでは鉄棒で金、跳馬で銀、団体で銅を獲得している。1986年に体操選手を引退してからは、ニコニコ笑顔の明るいキャラクターを活かしてタレントに転向された。
 森末さんを撮影したのは『ミュージック・マガジン』の「スター千夜一夜」という高橋修さんの連載だった。なぜ音楽雑誌に元体操選手が?とも思われるだろうが、1988年に歌手として『サマー・レインボー』というアルバムを出されている。これは高橋達也と東京ユニオンとの共演によるジャズ・ボーカル作品で、故野口久光さんが雑誌『レコード・コレクターズ』で「日本のジャズ・ヴォーカリストに少ないエンタテイナーとしての素質、リズム感の良さに惹かれた」と評されたほどのアルバムだった。

森末慎二

「あれはレコードを出すに当たって、スポーツ選手=演歌っていうのが浸透してましたから、それだけはやりたくないっていうことで。たまたま高橋達也さんと歌番組で一緒になったんですけど、リハーサルでみんな歌謡曲を歌ってる中で”いいや<スタンド・バイ・ミー>歌おう”って歌ったら、ヘエーッてことになって、高橋さんの東京ユニオンとレコード作ろうということになったんですよ。ビッグ・バンドとか聞いてなかったから”俺は誰とだっていいよ”ということで(笑)」
 森末さんの音楽歴は高校の頃から始まったという。
「高校の頃からバンドやってました。最初はバンドにコーラスで入れてもらってハモったりして、そのうち歌い出して・・、そういう形だったですね。その頃は<ジョニー・B・グッド>だとか<ハウンドドッグ>だとか、ロックンロールばっかりですよね。”ダンパ”みたいなものがあったときに、”バンドどこかにない?”ってことで、うまいヘタ関係なしに”鳴らせるぞ”みたいな感じで出ていきました」
 2007年から2013年まで日本体操協会の理事を務め、2013年にはオリンピアンズ協会の理事に就任されたそうだ。

 沖縄好きがこうじて宮古島に土地を購入し、現在、車海老を使った天丼が名物の居酒屋「みゃ~く商店」を経営されているそうだ。

YouTubeから「森末慎二  鉄棒  (84‘ロサンゼルス五輪)」 「森末慎二バンド - 矢祭ライブ♪2018 10 20

森末慎二 Instagram

佐藤企画 公式プロフィール

宮古島みゃ~く商店 公式ウェブサイト

港区・テレビ東京 1994年7月2日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年8月号
インタヴュアーは高橋修さん
#森末慎二
#ShinjiMorisue
#スター千夜一夜
#アーカイブ

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3月14日(金)

 北陸新幹線の金沢開業から今日で10年が経った。この北陸新幹線の金沢開業により、東京と金沢間の所要時間はおよそ1時間20分短縮されたそうだ。自分のことで言えば、この10年で北陸新幹線に乗車したのは奈良県に行くのに新高岡〜金沢までの区間を一回往復しただけだ。

 石破首相が首相公邸で開いた自民党衆院1期生との会食に際し、首相事務所から1人10万円分の商品券が配られた問題。首相は「会食のお土産代わりに、ご家族へのねぎらいなどの観点から用意した」と話したそうだが、10万円のお土産とは豪勢で国民感覚とのあまりのズレに驚いている。野党ばかりか身内の自民党内部からも批判が出ているようだが、過去の自民党政権下でも同様の事例があったと複数の関係者が証言したという。もしそうなら、石破首相はポケットマネーから支出したというが、官房機密費を使って歴代の首相が同じことをしていたのではないかとの疑念も湧く。とりあえず、首相の首が変わっても自民党の金権体質は変わらないということがよくわかった。野党には、企業団体献金に加えて、官房機密費についても追求してもらいたい。
 自民党内で石破下ろしの急先鋒に立っている 西田昌司参院議員は「(新年度)予算を通すこと自体も大変になってくる。けじめをつけてもらいたい」と迫ったそうだが、裏金議員で壺議員の貴方が先ずはけじめをつけて議員辞職してはどうだろう。

 この他の気になった記事を備忘録として。
森友文書改ざん 佐川元理財局長の賠償責任認めない判断確定 最高裁
【震災・原発事故14年】2051年廃炉「できない」60% 工程表の明示課題 原発の全国世論調査
福島第1原発、廃炉計画見直さず 首相「大きな支障は生じてない」

スウィンギン・ロンドン

◯スウィンギン・ロンドン

 掲載した写真はフィルムをスキャンしてデータにしたものではなく、銀塩プリントを複写したもの。写真の周りの黒枠は引き伸ばし機のネガキャリアをヤスリで削って自分で作っている。フィルム撮影時代、音楽やファッションを撮影しているフォトグラファーには、こうしてネガキャリアを削ってプリントに黒枠をつけていた人も多かったように思う。一人一人微妙に違う枠の形がそれぞれの紋章であり、枠をつけることでトリミングした写真ではないことの証明でもあった。
 写っているのはピーター・バラカンさんとザ・コレクターズの加藤ひさしさん、音楽評論家の小松崎健郎さんだ。『レコード・コレクターズ』が2000年11月号で「スウィンギン・ロンドンの狂騒」という48ページの大特集を組んだ時に、その時代の音楽状況に詳しい加藤ひさしさん、実際に当時ロンドンに住んでいたピーター・バラカンさん、この企画段階から参加されていた小松崎さんの座談会が企画され、その撮影を担当した。担当編集者は寺田正典さんだった。
 特集のリード文には、このように書かれている。

<一般に”スウィンギン・ロンドン”という言葉でイメージされるのは、ツイッギーのミニスカートに、カーナビー・ストリート発の”最新”モードだろう。そんな60年中~後半のロンドンの音楽シーンは、ちょうどモッズ・ムーヴメントからサイケデリックに向かおうとしていた。そして、アメリカを征服したビートルズは女王陛下から勲章を授与され、ストーンズのマネージャー、アンドルー・オールダムはその成功の余力で自ら新しいレコード会社イミディエイトを立ち上げるなど多くのポップ・スターたちが「成功」を謳歌する中で、新しいファッションとも結びついたカラフルなサウンドを世界に向けて発信し続けていた。一方、地元のコアな若者たちには、ソウル/R&B全盛のクラブ・シーンが用意されていたのだった>
 担当編集者の寺田さんも交えて4人の座談会だが、3人からの質問に当時中学生でスウィンギン・ロンドンを体験したピーターさんが答えている感じだ。6ページの記事の中から、スウィンギン・ロンドンとは何か、を簡潔に語っているピーターさんの話を引用させてもらう。
「”スウィンギン・ロンドン”っていうのはやっぱり風俗の部分だからね、ナイトクラブというと踊る、踊るといったらモータウン!
 もちろん、実際は、当時のイギリスのシーン全体を指してスウィンギン・ロンドンって言ってたとは思うけど、でもどちらかと言えば、子供じゃなくて、もうちょっと・・・でも二十歳ぐらいの若い大人たちが作るシーンのことだと思うな。だから主役は、ファッション・デザイナーとか、映画を作る人たちとか、アーティストとか、俳優たちとか、そういう華々しいことをやっている人たち。ぼくがスウィンギン・ロンドンに参加してたとは思ってない。
 ナイトクラブがたくさんあって順番に流行っていって・・・。そこは、遅くまでやってて、夜中までお酒が飲めるようなところで、たいてい演奏できるスペースがあってね。ミュージシャンが仕事終わったらそこに飲みに行ってね、そこでエリック・クラプトンが演ってるところにジミ・ヘンドリクスが飛び入りしたりとかさ、そういうのが毎晩のようにあったわけね。で、ぼくらはそういうのを後で雑誌で読むんだけどさ、実際には行けないんだよね。そのシーンこそがぼくはスウィンギン・ロンドンだったと思う」

YouTubeから「Swinging London 1967」 「Swinging London (60s) - Mods, people, fashion.」 「お願いマーシー/THE COLLECTORS

ピーター・バラカン 公式ウェブサイト

ザ・コレクターズ 公式ウェブサイト

自由が丘・カフェ・アンセーニョダングル 2000年9月20日撮影
初出『レコード・コレクターズ』2000年11月号
#ピーターバラカン
#PeterBarakan
#加藤ひさし
#HisashiKato
#小松崎健郎
#TakeoKomatsuzaki
#スウィンギンロンドン
#SwinginLondon
#アーカイブ

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◯ピチカート・ファイヴ

 90年代の初めにヘビーローテーションで聴いていたアルバムの一枚が、1991年9月にリリースされたピチカート・ファイヴの『女性上位時代』だった。彼らの音楽は渋谷系というカテゴリーに括られるそうだが、渋谷系の定義がいま一つわからないので、そういう事とは関係なしに、そのどこまでもポップな音と詞の世界が心地良かったのだと思う。
 彼らを撮影したのはソニーから日本コロムビアに移籍し、ボーカルが田島貴男さんから野宮真貴さんにバトン・タッチされ、『女性上位時代』をリリースした直後に行われた日本青年館でのコンサートだった。ピチカート・ファイヴは1984年に小西康陽、高浪慶太郎、鴨宮諒、佐々木麻美子の4人をオリジナルメンバーとして結成されたそうだが、その頃は全く知らず、この時が初ピチカート体験だった。
 逆に野宮真貴さんは、鈴木慶一さんが中心となっていた水族館レーベルのオムニバス・アルバム『陽気な若き博物館員たち』に彼女が在籍していたポータブル・ロックが何曲か収録されていて知っていた。
 コンサートの写真は『ミュージック・マガジン』での取材で撮影したもので、1992年2月号の<”女性上位”を受け入れたとき、君はすでにハマっている!>という田口史人さんの8ページの特集記事と、荏開津広さんによるコンサート評で使われている。
  昔は、プリント作業で暗室に籠る時に一番音楽を聴いていた。プリントを始める前に聴きたいCDを何枚か並べておくのだが、ピチカート・ファイヴの『女性上位時代』『ボサ・ノヴァ2001』の他にサンディーの『マーシー』『コム・アゲイン』、エヴリシング・バット・ザ・ガールの『エッセンス&レア82−92』も定番で、ヘビーローテーションでかけていた。
 ピチカート・ファイヴは2001年に解散するが、コロムビアのサイトに結成から解散までをまとめたプロフィールが掲載されているので、そのまま引用させてもらう。

1984年、小西康陽、高浪敬太郎、鴨宮諒、佐々木麻美子によって結成。翌年、細野晴臣プロデュースにより12インチシングル「オードリィ・ヘプバーン・コンプレックス」でデビュー。1987年、鴨宮諒、佐々木麻美子が脱退。1988年から1990年までオリジナル・ラヴの田島貴男が在籍。1990年、野宮真貴がヴォーカリストとして加入。1994年、高浪敬太郎が脱退し、小西と野宮のユニットとなる。
「スウィート・ソウル・レヴュー」「東京は夜の七時」「ベイビィ・ポータブル・ロック」など、ヒット曲を数多く生み出し、90年代に日本の音楽シーンを席巻した「渋谷系」アーティストのひとつとして支持を得た。
また、1994年5月にはシングル「5×5」でアメリカ・デビュー、秋に発売したアルバム「Made In USA」のセールスは全世界で20万枚を突破。1995年2月(アメリカ10都市、ヨーロッパ4都市)、1997年9月(アメリカ14都市)に2度のワールドツアーを敢行した。
その後も意欲作を次々と発表し、精力的な活動を続けたが、2001年3月31日にベスト・アルバム第3集「Pizzicato Five R.I.P. Big Hits and Jet Lags 1998-2001」をリリースし、その長い歴史に幕を下ろした。

YouTubeから「東京は夜の七時/PIZZICATO FIVE」 「スウィート・ソウル・レヴュー/PIZZICATO FIVE

小西康陽 Instagram

野宮真貴 公式ウェブサイト

日本青年館 1991年12月18日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1992年2月号
特集記事は田口史人さん、コンサート評は荏開津広さん
#ピチカートファイヴ
#PizzicatoFive
#小西康陽
#YasuharuKonishi
#野宮真貴
#MakiNomiya
#高浪慶太郎
#KeitaroTakanami
#アーカイブ

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ピチカート・ファイヴ

3月12日(水)

 今日は雲が多かったが最高気温が15℃程と暖かく、サイクリング日和だった。しかし花粉症なので、花粉が怖くて外に出られない。明日もお天気は良く暖かくなるらしいが、きっと花粉もたくさん飛ぶのだろう。うらめしい。
自家製チャーシューと味玉入りラーメン
 先日、近所の肉屋さんでタコ糸で縛った煮豚用のブロックが値引きされていたので購入。ネットでレシピを検索してチャーシューと味玉を作った。チャーシューの半分は冷凍し、残りで昨日はチャーシュー丼、今日は自家製チャーシューと味玉入りのラーメンを作った。初めて作ったにしては、なかなか上手くできた。
 自民党の西田昌司参院議員が、「石破総理のままでは参院選で大惨敗する」と述べ、新年度予算案の成立後に総裁選を実施し、新しいリーダーのもとで参院選を戦うべきだと主張したそうだ。昨年の衆院選で自民党が大敗し少数与党になった要因には、安倍派議員らの裏金問題や統一教会との繋がりがある壺議員の存在がある。その裏金議員で壺議員の西田氏が、石破総理では参院選で大惨敗するからもう一度総裁選を実施しろとは厚かましいにもほどがある。
  石破首相が良いとは思わないが、総理の首を替えるよりも旧安倍派に属していた裏金議員と壺議員を今からでもキッチリ処分して自浄作用を発揮することの方が有権者から信頼を得られるだろう。
 その石破首相は今日の参院本会議で、杉田水脈氏を参院選の比例代表公認候補としたことについて「最終的には選挙で有権者に判断をいただくべきことだ」と話したそうだ。自民党に比例票を入れてはならない。
山本梓

◯山本梓

 花粉症の季節が到来。
 花粉症デビューは2009年の春で、それまでは何ともなかったのに突然発症した。発症するまでは花粉症?と舐めていたが鼻水、鼻づまりが酷くて夜中に目が覚めたりと、こんなに大変なのかと思い知った。なるべく外出しないようにしたが、撮影が入ると部屋から出ないわけにはいかない。
 2009年の3月12日は当時担当していた連載の仕事で、グラビアアイドルの山本梓さんの撮影だった。待ち合わせた都内の喫茶店の中で少し撮った後に、外に出て彼女の愛犬と一緒に撮影した。彼女の飼っている犬はポーチュギーズ・ウォーター・ドッグという珍しい種類だった。
 撮影は10分ほどで終わり、機材を片付けて彼女の方を見るとマスクをしている。聞いてみると、彼女も今年から花粉症デビューしたという。スチールやムービーで撮られることが仕事のタレントさんは、花粉症だと大変だろうなとこの時に思った。

 山本梓さんは1981年生まれの、タレント、元グラビアアイドル。高校時代から雑誌『東京ストリートニュース』の読者モデルをしていたそうだ。2002年に三愛水着イメージガールに選ばれ、その年、スーパー戦隊シリーズ『忍風戦隊ハリケンジャー』にフラビージョ役で出演。日本テレビのスポーツバラエティ番組『ひらめ筋GOLD』で結成されたチーム「SAMURAIヒーローズ」にも所属していた。
 2014年にソーシャルゲーム会社の創業者でシンガポール在住の実業家・梶原吉広氏と結婚し、現在は夫婦でシンガポールに在住。芸能活動は無期限休止となっているそうだ。
 ところで、2009年にデビューだから今年で花粉症歴16年ということになるが、奄美大島と沖縄に住んでいた4年間は花粉症ではなかった。奄美も沖縄もほとんど杉がないので、症状が出ないのだ。その4年を引けば、花粉症歴は12年ということになる。
 富山に帰って来て再び花粉の洗礼を受けているが、突然発症したんだから、ある日突然治ってくれないだろうかと願っている。できれば明日にでも。

YouTubeから「2000年CM スズキ ワゴンRソリオ1.3 山本梓」 「いいなCM 常口アトム 山本梓

山本梓 オフィシャル・ブログ

渋谷区代官山 2009年3月12日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2009年6月号
#山本梓
#AzusaYamamoto
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ

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藤谷美紀

◯藤谷美紀

 名古屋市の中学2年生だった1987年、「第1回全日本国民的美少女コンテスト」でグランプリを獲得し、14歳で芸能界デビュー。1988年4月5日にシングル「転校生」で歌手デビューしているが、その後は女優としてドラマや舞台、映画を中心に活躍している。
 wikiによれば藤谷美紀という芸名は、後藤久美子の「藤」と、美少女コンテスト出身である証としての「美」を本名の金谷満紀子(旧姓)の一部に付け加えたものだそうだ。所属事務所オスカーの先輩だった後藤久美子のゴクミというニックネームを真似て、フジミと呼ばれることもあったそうだがあまり浸透しなかったようだ。
 掲載した写真は、「NOPETNOLIFEペットと私」という健康雑誌の連載で撮影したもの。指定された取材場所の神奈川県逗子駅近くの公園で撮っている。
 藤谷さんのペットは陸ガメで、撮影するにあたって人物とカメの大きさのバランスが上手くとれず苦労した記憶がある。
 女優さんやモデルさんを撮影していて細い身体だな~と思うことは度々あるが、自分が撮影した中で一番細いと感じたのは藤谷美紀さんだった。

 この撮影は2007年だが、1994年4月22日にも雑誌の記事広告用に彼女を撮影している。何の宣伝広告用でどんな雑誌に掲載されたかわからないが、当時のスケジュール帳には東京・日野市での撮影で、11:00セッティング、12:00過ぎスタンバイ、13:00の撮りとメモがある。池のある日本家屋で映画かドラマの撮影の合間に撮ったのかもしれない。
 2012年11月に一般男性と結婚し、2013年2月に男の子を出産。2015年3月には第2子となる女の子を出産されたそうだ。

YouTubeから「転校生 PV/藤谷美紀」 「藤谷美紀 NTTの携帯電話 1989年

藤谷美紀 オフィシャル・ブログ

神奈川・逗子 2007年6月7日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2007年10月号
#藤谷美紀
#MikiFujitani
#国民的美少女
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ

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3月10日(月)

 昨日の夜は普通にインターネットに繋がっていたのに、今朝、繋がらなくて焦った。こうした現象はたまにあって、ルーターの電源を抜いて入れ直すとたいてい直るが、今日は何度か電源を入れ直してようやく繋がった。
確定申告書

 ギリギリになってしまったが、今日の午前中、郵便局から確定申告書を送った。確か一昨年までは高岡税務署に直接送付していたが、昨年から金沢国税局業務センターという所に送ることになった。
 以前は確定申告書を送付する封筒が同封されていたが、今は自分で封筒も用意しなくてはならない。新しい封筒がなかったので、自治会の資料が入っていた封筒を再利用して送った。

 米軍の空襲により10万人が犠牲となった東京大空襲から今日で80年が経ち、死者1万9,775人、行方不明者2,550人となった東日本大震災から明日で14年となる。
 市の面積の約9%に当たる約2,900ヘクタールを焼いた大船渡市の山林火災は昨日ようやく鎮圧が宣言され、その鎮圧宣言を受けて今日、全ての避難指示が解除された。鎮圧も避難指示解除も住民には吉報だが、火事による建物被害は210棟にのぼり、内、住宅が102棟、それ以外が108棟となっている。また、住宅被害の内、全壊が76棟、大規模半壊が26棟になるという。
中谷彰宏

◯中谷彰宏

 『人間力で、運が開ける。』『女性に尊敬されるリーダーが、成功する』『面接の達人2009 バイブル版』『断られた人が、夢を実現する。』『手相の達人に学ぶ、占いで人生を開く方法』『仕事・恋愛・ライフスタイル~できる女になる7つの方法~』。これら作家で俳優でもある中谷彰宏さんの著作が、家の本棚の一角に並んでいる。買ったわけではなくて、『人間力で、運が開ける。』は中谷さんを取材で撮影した時に直接頂いたもので、他はそのとき撮影した自分の写真が著者近影に使用されており、出版社や中谷さんの事務所から献本されたきたものだ。
 中谷さんを撮影したのは健康雑誌の手相特集で、南青山の中谷さんの事務所で手相家の西谷泰人さんとの対談を撮るというものだった。写真チェックの後だったか、雑誌が発売された後だったか忘れたが、中谷さんからメールが届き、これから発売される自分の作品の著者近影に写真を使いたいという申し出だった。写真使用料は発生しないが、撮影クレジットを入れるのでwin-winの提案だとも書かれていた。win-winかはわからないが、被写体がご本人で断る理由もないので了承した。

 撮影したのは2006年の暮で、2007年から2009年に出された書籍やDVDなど著作のいくつかに写真が使われた。
 中谷さんは1959年、大阪府堺市出身。1984年に博報堂に入社し、8年間CMプランナーとしてテレビ、ラジオCMの企画演出や、ナレーションを担当。1991年に博報堂を退社し中谷彰宏事務所を設立し、フリーランスとなる。代表作に就職手引書『面接の達人』(ダイヤモンド社)がある。
 また、2020年まではオスカープロモーションに所属し俳優としてNHK連続テレビ小説『ひまわり』や火曜サスペンス劇場、土曜ワイド劇場といったテレビドラマの他、『難波金融伝・ミナミの帝王』『修羅のみち3広島四国戦争』といった映画にも出演されていたようだ。

中谷彰宏 公式ウェブサイト

中谷彰宏 YouTubeチャンネル

港区南青山 2006年12月18日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2007年4月号
#中谷彰宏
#AkihiroNakatani
#アーカイブ

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田崎真也

◯田崎真也

 ソムリエの田崎真也さんは何回か撮影しているが、一番最初は1991年に服部栄養専門学校でフランスワイン講座が開かれた時だった。この講座の内容を柴田書店の雑誌『フード・ビジネス』で6回の短期集中連載として再録する事になり、その様子を撮影した。その時の講師が田崎真也さんと高橋時丸さんだった。
 ところで、家の書棚に立花隆さんの『青春漂流』という著書がある。単行本は1985年に刊行されているが、自分の持っているのは文庫本で、1991年2月8日発行の第9刷だ。この『青春漂流』に25歳の田崎真也さんが若者の一人として登場する。
 田崎さんのwikiに生い立ちが載っている。そのまま引用すると、
<東京都渋谷区に生まれるも、間もなくして神奈川県相模原市へ移る。幾徳工業高等専門学校を中退後、レストランでウェイターの仕事を行なっている中でワインの世界に触れ感化される。その後1977年、本場フランスに渡り、ブルゴーニュ地方やボルドー地方のワイン蔵元を訪ね歩く。一度帰国してから再度フランスに渡り、アカデミー・ドュ・ヴァン(ワイン・アカデミー)を卒業する>

 そして1980年に帰国し、1983年に第3回全国ソムリエ最高技術賞コンクールで優勝する。『青春漂流』は、このソムリエ最高技術賞コンクールで優勝したエピソードから始まり、田崎さんの生い立ちを振り返る内容になっている。その文章を引用したいが長くなるので、小見出しだけを並べてみると、
・中学の終わり頃から遊びぐせがついて・・・。悪いことは全部覚えましたよ
・とにかく早く大人になりたいと思って十七歳で社会に出た
・あのソースではとても食えたもんじゃない、でも知らんぷりした
・フランス語は一言も知らず、一人でパリ、オルリー空港に降り立った
・はじめのころは、ほとんどノイローゼでした
・自分の二本足を頼りに、何カ月もかけて産地の端から端まで歩き通した
・朝から晩まで働きづめで毎月十万ずつ貯金した
・ワインのような奥行きが深いものは、体系的に学習してみないとわからない
 こうして小見出しを並べただけで、田崎さんの大胆に生きた青春時代が想像できる。この『青春漂流』を、1991年の服部栄養専門学校でのフランスワイン講座で田崎さんを撮影する前に買ったのか後に買ったのかが思い出せない。なんとなく田崎真也という名前も知らない頃に、面白そうな本だと思って買った気がする。ちなみに田崎さん以外には、稲本裕(オーク・ヴィレッジ塗師32歳)、古川四郎(手づくりナイフ職人33歳)、村崎太郎(猿まわし調教師22歳)、森安常義(精肉職人33歳)、宮崎学(動物カメラマン34歳)、長沢義明(フレーム・ビルダー36歳)、松原英俊(鷹匠33歳)、斎須政雄(コック34歳)、冨田潤(染織家34歳)、吉野金次(レコーディング・ミキサー36歳)といった方々が登場する。
 掲載した写真は柴田書店のMOOK『居酒屋』の「居酒屋のワイン対策 赤ワインブームは居酒屋を変える!?」という大特集用に撮影したもの。柴田書店のセミナールームで田崎さんのワインセミナーがあり、その時に撮っている。この頃の田崎さんの肩書きはホテル西洋銀座のシェフソムリエだった。
 現在は有限会社サンティール、有限会社インターソムリエ、有限会社エルミタージュ、ヴィノテークの各代表取締役社長を務める他、日本ソムリエ協会会長、国際ソムリエ協会名誉会長など要職に就任されている。

田崎真也 公式ウェブサイト

文京区本郷 1998年2月17日撮影
初出『居酒屋 第6号』(柴田書店)
#田崎真也
#ShinyaTasaki
#アーカイブ

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3月8日(土)

 沖縄の米軍基地は、第一義にはアメリカが世界で繰り広げてきた戦争の前線基地だ。1950年代は朝鮮戦争へ、60年代はベトナム戦争へ、90年は湾岸戦争へ、2003年はイラクへと沖縄から軍用機が飛び立って行った。かつて軍用機が飛来したベトナムから、沖縄は”悪魔の島”と呼ばれたという話もある。別に日本を守るためにアメリカが置いているわけではない。
 トランプ大統領が日米安全保障条約の対日防衛義務に関して不満を示したそうだが、日本はアメリカに対して無償どころか思いやり予算まで付けて前線基地の土地を提供してきた。それでも不公平だというなら、沖縄から、いや日本から米軍基地を引き上げたらどうか。たぶん困るのは日本よりアメリカだろう。対中国、対北朝鮮への重要な前線基地を失うことになるのだから。逆に考えると、在日米軍基地こそ、日本の安全を脅かす存在だ。戦争が始まれば、一番最初に狙われるのは軍事基地だ。ちなみに尖閣周辺にスクランブルをかけているのは、米軍の戦闘機ではなく那覇空港から飛び立つ自衛隊のスティルス戦闘機だ。
 今回の日米安全保障条約への不満はトランプ大統領が仕掛ける交渉手段の一つだが、チキンレースのようなものだと思っている。各国にかけると脅している関税もそうだが、折れた方が負けのような気がする。世界の国々に関税を課せば、高いお金で商品を買わなくてはならなくて一番困るのは自国、アメリカの人々だ。そして世界から孤立する。

 石破首相が高額な医療費の患者負担を抑える「高額療養費制度」について、8月に予定されていた負担上限額の引き上げを見送ると表明した。昨年の衆院選で少数与党になった結果、強引な政策が通らなくなった結果だろう。また、今年の夏に控えている参議院選挙を見据え、自民党内からも国民から評判の悪い負担上限額引き上げに反対する声が上がっていた。その参議院選挙にアイヌの人たちや在日コリアンへの侮辱を繰り返し、2023年には札幌法務局から人権侵犯を認定された杉田水脈前衆院議員(旧安倍派の裏金議員でもある)を自民党が擁立するという。結局、自民党というのはなんの反省もしていないのだろう。夏の参院選でもぜひ大敗していただきたい。

太陽肛門スパパーン

◯太陽肛門スパパーン

 太陽肛門スパパーン、へんてこりんな名前のバンドである。撮影した当時のメモには、こんな風に書いていた。
「音楽雑誌の仕事でバンドのライヴを撮影に。バンド名が、太陽肛門スパパパーン。太陽肛門はなんだかイヤだけど、スパパパーンは弾けていて良いですね(笑)。ブラスの入った大編成で、渋さっぽいバンドという風に編集者さんから聞いていたけど、音はもう少しプログレ調?5時半スタートで8時半までのライヴと聞いていたが、会場に着いて受付で聞くと9時半まで。4時間!?ミュージカル仕立てのライヴとか。ステージに立つミュージシャンは14~5人ほど。ヴァイオリンとチェロの二人以外は全員ブリーフ一枚で演奏」
 スパパーンではなくスパパパーンだと思っていたようだ。でもスパパパーンの方が弾けていて素敵だと思う(笑)。
 メモにある音楽雑誌は『ロック画報』の21号で、担当編集者は元ミュージック・マガジン編集部の加藤彰さん。ライヴ写真の撮影だったが、コンサート評ではなく太陽肛門スパパーンのリーダー、花咲政之輔氏へのインタヴュー頁だった。インタヴュアーはミュージック・マガジン編集部の斉木小太郎さんが行なっている。

 記事の冒頭で斉木さんがバンドの音楽性を紹介している。
<ビッグ・バンド・ジャズを多少シンフォニックにして、スキャットではなく言葉が、器楽的なビバップ風のフレーズに乗り、シュプレヒコール風のかけ声がシンプルなメッセージでそれに応える。編成は固定されていない。ファゴットとフレンチ・ホルンが聞こえることもあれば、ピアノとギターが中心のシンプルな演奏の時もある。ダンサーを含む主要メンバーは、ほぼ裸体であり、演劇的要素も混入している。ある時はジョン・ゾーンのように、ある時はパーラメント/ファンカデリックのように、ある時はフォークのように、そのサウンドは響く>
 4ページのインタヴュー記事だが、「左翼」という言葉がこれでもかというほど並ぶ。記事のタイトルは「左翼歌劇派の信念と葛藤」だ。
 記事の最後は斉木さんのこんな文章で締められている。
<花咲の「弱さ」「力量不足」という表現は音楽のメッセージ性の強さと、”左翼”であることの有効性を突き詰めて考えているからなのか。音楽が持つ、メッセージを伝えたり聞く者に考えさせる力を、直接の”オルグ”に限定させてしまう必要はないと考え、「左翼らしい左翼」が「左翼らしくない左翼」よりも現実的な歯止めとなるかということに懐疑的なぼくには、その”突き詰め”が過剰なものだと映る。花咲が「左翼らしい左翼」をやるのであれば、”左翼とは何か”という対話をまた、どこかでやりたいと思う。「左翼らしい左翼」になれなくても、太陽肛門スパパーンの音楽は、ぼくには優れてメッセージ・ソングだと思うのだ>
 短い文章の中に”左翼”が10個も登場する。
『ロック画報』にはサンプラーCDが付いていて、この号では「加川良withすぎの暢/教訓1」「頭脳警察/さようなら世界夫人よ」「喜納昌吉&チャンプルーズ/石笛のうた」「ルナパーク・アンサンブル/血と砂と風」「遠藤ミチロウ/先天性労働者」「REAL/牙」「ECD/言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」「太陽肛門スパパーン/女子高生組曲~『帯状ヘルペス 呪いの曼珠沙華のテーマ」が収録されている。

YouTubeから「青春! 夢!仏教徒!/太陽肛門スパパーン」 「グッド・バイ・マイ・ラブ@太陽肛門スパパーン

太陽肛門スパパーン 公式ウェブサイト

太陽肛門スパパーン YouTubeチャンネル

花咲政之輔 X(旧ツイッター)

中野区沼袋地域センター地下1階音楽室 2005年8月14日撮影
初出『ロック画報 21』(ブルース・インターアクションズ)
#太陽肛門スパパーン
#TaiyoukoumonSupaparn
#花咲政之輔
#MasanosukeHanasaki
#アーカイブ

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みるく

◯みるく

 1992年、染谷由紀子をリーダーに、本橋麻衣子と堀口綾子を加えたイエローキャブ所属の3人の女の子によるセクシー・アイドルグループとして発足。のちに本橋麻衣子に変わり星野貴代子が加入した。1994年1月25日に初CD「瞳にKiss2 笑顔にKiss2」をリリース。以後『ミート・ザ・ミルク』『ウィズ・ザ・ミルク』と2枚のアルバムを発売している。また、日本テレビのバラエティー番組『スーパージョッキー』にアシスタントとしてレギュラー出演していた。
 彼女たちを撮影したのは、『ミュージック・マガジン』での高橋修さんの連載「スター千夜一夜」だった。その記事によれば、それぞれが楽器を持ちアイドル・ポップ・バンドとしての活動を始め、突然段ボール&モーリー・ロバートソンや、音楽評論家・湯浅学さんのバンドなどと一緒にステージに立っていたそうだ。

 みるく結成に至る経緯は、「同じくらいの年代の子がいっぱいいて、みんな歌やダンスのレッスンしたりしてたんですけど、社長が”これとこれとこれ”みたいな話で(笑)。何も分からないうちに雑誌に載って、名前を募集したあたりから”あ、3人組になるんだ”と分かったみたいな。特に最初から説明を受けたり、”いいな”と念を押されたわけでもないんです」と、ユキコこと染谷由紀子さんが話すと、「ウチの社長はその当時、グループを作りたがってたんですよ」とアヤコこと堀口綾子さんが引き継いだ。
 バンド活動を始めたわけは「楽器をやってる女の子のグループって少ないし、やらないよりやった方がいいんじゃないかって。ライヴハウスを回ったりできているし。楽器やってなかったらこういう経験もできなかったんだろうなと思います」と、キヨコこと星野貴代子さんが話している。
 この取材は1994年12月22日に行っているが、高橋さんの記事によると彼女たちは1995年の3月4日にクラブチッタ川崎で行われる”幻の名盤解放同盟プレゼンツ春風ガレージ祭り”というオールナイト・ライヴに、多くのガレージ・バンドと並んで出演する予定になっていた。このイヴェントに彼女たちが出演したかわからないが、1995年3月にテレビの『スーパージョッキー』を降板し活動停止。4月19日に堀口綾子さんが亡くなり、事実上解散となった。自殺だった。
 彼女の死から1年以上経って、太田出版のサブカル雑誌『クイック・ジャパン』に、「自ら死を選んだセクシーアイドル堀口綾子さん(”みるく”)のこと」と題した文章が前編・後編と2号に渡って掲載された。書いたのは大塚ゆきよさんという堀口綾子さんと同世代の女性で、肩書きには売文家卵と書かれている。大塚さんは堀口さんの知人でもなく、ただ<ビキニやミニスカートで胸や脚を出して、テレビに出て笑って、バンドをやって歌をうたって、最後に自分の部屋でひとりで首を吊って自殺した、同い年くらいの女の子がいた>ことが気になって自身が作っていたフリーペーパーにそのことを書いたところ、『クイック・ジャパン』の編集者の目に止まり、彼女のことを追ってみませんかと連絡がきたのだという。
 大塚さんは彼女が所属していたレコード会社の人や、堀口さんがファンだった突然段ボールの蔦木兄弟、堀口さんと一緒にミニコミ『アンズ』を作っていた女性の友人らに会って話を聞く。遺書もなく、なぜ彼女が自死を選んだのかわかるわけもないが、一緒にミニコミを作っていた友人の「これ以上の理由はないよね『生きる意味がわからない』って」が唯一の結論のようだった。
 大塚さんの記事に”みるく”時代の堀口さんの写真を掲載したいと『クイックジャパン』の編集部から連絡があり、『ミュージック・マガジン』で撮影したこの写真の中から一枚お貸しした。
 このアーカイブを作るにあたって、一度もお会いしたことはないが大塚ゆきよさんはどうしているかと検索してみたら、2015年3月に亡くなられたようだ。売文家の卵だった彼女は大塚幸代として『クイック・ジャパン』編集部に入り、その後はフリーのライターとして活動されていたようだ。
 デイリーポータルZでは初期からライターとして執筆されていたという。デイリーポータルZでの彼女の記事一覧がこちら

YouTubeから「みるく ダイヤモンドを探しに行こう! 1995-04-16」 「MiLK 瞳にKiss2

恵比寿・徳間ジャパン 1994年12月22日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1995年3月号
インタヴュアーは高橋修さん
再掲載『クイック・ジャパン』vol.10
#みるく
#Milk
#染谷由紀子
#YukikoSomeya
#星野貴代子
#KiyokoHoshino
#堀口綾子
#AyakoHoriguchi
#スター千夜一夜
#アーカイブ

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3月6日(木)

 昨日、市の長寿福祉課から介護保険被保険者証が送られてきた。<今月で65歳となられる方、または先月転入された65歳以上の方は高岡市の第1号被保険者となりますので、介護保険の被保険者証を交付いたします>と書かれていた。そろそろ地区の長寿会の仲間入りもしなくてはならないのだろうか。

 大船渡の山林火災はまだ鎮火はしていないが、昨日の雨で延焼は抑えられたようだ。先月26日に発生した火災で、これまでに2900ヘクタールが焼失したそうだ。

 この他の気になった記事を備忘録として。
世界最悪レベルの原発事故なのに…その責任は一切問わず 東京電力の旧経営陣、無罪確定へ 最高裁が上告棄却
米軍車両の通行を妨害、抗議活動家に有罪判決 公務執行妨害は無罪に
立憲、参院比例代表に蓮舫氏擁立で調整 24年に都知事選出馬
東北新幹線はやぶさ・こまち また連結部分が外れて西日暮里で走行停止 東北、上越、北陸新幹線は運転見合わせ
国民民主・玉木代表「90日滞在の外国人が数万円で1.6億円の治療が受けられるのはおかしい」高額療養費制度への発言が物議…「完全に論点のすり替え」と専門家が警鐘

デヴィッド・アレン

◯デヴィッド・アレン ゴング

 ゴングの創設メンバーであり、バンドのリーダーだったデヴィッド・アレン。1996年6月、ゴングとしての初来日の際に、音楽雑誌の仕事で撮影することができた。彼を撮影する前から持っていたゴングのレコードは1枚だけで、音楽的なことより彼にはヒッピーの親玉のような人という印象を持っていてそちらの方に興味があった。たぶんデヴィッド・アレンのことを知ったのは1970年代後半にクロスウインドのギタリスト、小川銀次さんから話を聞いてだったと思うが、当時、銀次さんもまたミュージシャンが集まるコミューンを作りたいという風なことを渋谷の屋根裏でビールを飲みながら話していたように記憶している。
 まず、6月8日に渋谷のオン・エア・ウエストで行われたゴングのライヴを撮影し、6月10日にデヴィッド・アレンのインタヴュー写真とポートレートを撮影している。取材場所は六本木交差点の近くにあったホテル「アイビス」で、彼の泊まっている部屋だったと思う。インタヴュアーは大鷹俊一さんで、決して広くはない部屋で話を聞き、ポートレートを撮影した。ゴングのアルバムに宝来の銅鑼(ゴング)を使ったデザインのジャケットがあったので、撮影小道具として家にあった宝来の小さな銅鑼を持参した。

 この小さな銅鑼は自分がドラムを叩いていた時の名残りで、本当はBBAのドラマー、カーマイン・アピスのように大きな銅鑼をドラムセットの背後に置きたかったが、お金がなくて小さなものしか買えなかった。まあ、カーマイン・アピスもイントロで一発”ゴ~~ン”と鳴らしているくらいで使い道はそれほどないが、あの頃は大きな銅鑼をセッティングしているロック・ドラマーは結構居たように思う。最近はあまり見かけない気もするが、SHOW-YAの角田美喜さんがツーバスにパイステの大きな銅鑼というセッティングだったのをYouTubeで見たことがある。
 大鷹さんのインタヴューが終わり、デヴィッド・アレンに黒の背景布の前に置いた椅子に座ってもらった。小さな銅鑼ともう一つ撮影小道具としてカメラバッグに入れておいた壊れた額縁を取り出し、それを担当編集者に持ってもらった。細かい説明をしなかったが、どういう風な写真を撮りたいか察した彼が壊れた額縁越しにポーズを決めてくれた。銅鑼あり銅鑼なしの2パターンを撮影した後、こちらから求めたわけではないのに、その宝来の銅鑼にサインを入れて返してくれた。名前の下にPlanet of Gong、そしてイラストが添えられていた。
 この初来日以降、ゴングは何度も来日し、2009年にはFUJI ROCK FESTIVALにも出演している。残念ながら2015年3月13日に77歳で亡くなってしまったが、彼の場合、宇宙に帰ったという表現の方があっている気がする。
 この時の大鷹さんのインタヴューは、こんな会話でしめられている。
ーーじゃあ最後に、宇宙人はいると思いますか?
「ハハハ。いないとする証拠はないよね」
ーー会ったことは?
「きっと。どこかで。たぶん」
 大鷹さんのインタヴュー記事は『レコード・コレクターズ』に掲載されているが、『ミュージック・マガジン』で行なった松山晋也さんのインタヴュー記事にも、この時の写真が使われている。

YouTubeから「I Never Glid Before - Live 1973/Gong」 「Magdalene/Gong

プラネット・ゴング 公式ウェブサイト

渋谷・オン・エア・ウエスト 1996年6月8日撮影
六本木・ホテル・アイビス 1996年6月10日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1996年8月号
インタヴュアーは大鷹俊一さん、通訳は田中まこさん
初出『ミュージック・マガジン』1996年8月号
インタヴュアーは松山晋也さん、コンサート評は小山晢人さん
#ゴング
#Gong
#デヴィッドアレン
#DaevidAllen
#ジリスマイス
#GilliSmyth
#ピップパイル
#PipPyle
#ディディエマレルブ
#DidierMalherbe
#マイクハウレット
#MikeHowlett
#ステフィシャープストリングス
#SteffySharpstrings
#アーカイブ

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ロブ・エイリング

◯ロブ・エイリング

 1990年にゴングやソフト・マシーンなどプログレッシブ・ロックの古い音源を発掘し再リリースするヴォイスプリント・レコードを設立したのが、ロブ・エイリングだった。
 彼を撮影したのはゴングが初来日した1996年で、彼もゴングのツアーに付き添う形で来日していた。6月10日に六本木のホテル・アイビスでデヴィッド・アレンの取材があったが、急遽、同席していたロブ・エイリングも撮影することになった。インタヴューはデヴィッド・アレンの取材の延長で大鷹俊一さんが行っている。
 元々は電気技師だった彼が、ヴォイスプリントを始めたきっかけを大鷹さんが尋ねると、
「とにかくゴングの音楽がすごく好きで、レコードを欲しいと思ったのに手に入らないものが多いから、どうしたら手に入るだろう?って考えたのがきっかけだった。それ以前からGASに関わってたんだけど、彼らに話すとやる気があって若い君みたいな人がやるのが一番いいって言われて、あれよあれよとこうなっちゃったっていう感じ」と答えている。取材した1996年で彼は29歳。GASというのはゴングのファン・クラブだ。

 そして、彼が最初にリリースしたのはデヴィッド・アレンの『The Australian Years』と『The Seven Drones」だった。設立した当初は赤字で、電気技師の仕事との両立だったようだが、1992年10月には黒字になったという。取材した1996年時点で、総発売点数200種近くのイギリス屈指のリイシュー・発掘レーベルになっていた。
 今後、レコード会社として新しい才能とかを発掘したりという欲求はありませんか?という質問には、
「それが普通考えることですよね。でもデイヴィッドみたいな才能のある人たちが、音楽をやめなきゃいけないという状況になってしまったとしたら、この世にとってこれほど大きな損失はないと思うわけです。まだまだ埋れている過去のいいものがあるなら、それを出して、そういった人たちがちゃんとお金を得ることができるようにしたい。このレーベルをやっているそもそもの意味は、その辺にあるんです。
 レコード会社としてこのぐらいの規模になっちゃったら、売っ払っちゃうのが一番儲かるよ、なんて言う人もいますけどね」
 インタヴューは六本木のラ・パンセ、撮影はホテル・アイビスの前だったと思う。
 ヴォイスプリントからはゴングの他に、ティム・ブレイク、レナード・コーエン、フィッシュ、ホークランド、スティーヴ・ヒレッジ、パトリック・モラーツ、アンソニー・フィリップス、セオ・トラヴィス、リック・ウェイクマン、イエスなどのアルバムがリリースされたようだ。
 wikiからそのまま引用すると、ヴォイスプリント・レコードは<持株会社であったZeit Distributionが2010年に倒産し、その年のうちにフェニックス・カンパニー(倒産により他の会社が崩壊したことから生まれた商業団体)であるGonzo Multimediaに置き換えられた。新会社はより広い権限を持ち、はるかに広い範囲の音楽をリリースしている>そうだ。

Gonzo Multimedia  公式ウェブサイト

港区六本木 1996年6月10日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1996年8月号
インタヴュアーは大鷹俊一さん、通訳は田中まこさん
#ロブエイリング
#RobAyling
#ヴォイスプリントレコード
#VoiceprintRecords
#アーカイブ

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3月4日(火)

 昨日がひな祭りだったが、昨日は母親が体調を崩したので1日遅らせて、今日ちらし寿司を作った。すし酢と市販の甘く炊いた油揚げと、さつま揚げを混ぜて酢飯を作り、トッピングはネギトロ、サーモン、ツナマヨ、アボカド、卵焼き、大葉、キュウリ、カイワレ。カニカマを買うのを忘れていた。卵焼きは砂糖を入れて甘くすればよかったと反省。
ひな祭りのちらし寿司
 昨日から寒さがぶり返した。寒さに加えて風も強い。首都圏でも今日の夕方から明日にかけて大雪に見舞われる見込みで、15時過ぎから首都高中央環状線の入口が封鎖されたようだ。予防的通行止めは国道1号や国道246号も対象となっているそうだ。

◯フィッシュマンズ

 フィッシュマンズのボーカルでギター、そしてほぼ全ての作詞・作曲を担当していた佐藤伸治が急逝して、やがて26年になる。
 彼らを撮影したのはオリジナルのスタジオ・アルバムとしては最後となる『宇宙 日本 世田谷』がリリースされる直前のタイミングだった。『ミュージック・マガジン』での取材で、インタヴュアーは小野島大さん。記事の冒頭の方で小野島さんが<レゲエ・/ダブをベースに、ロック、アンビエント、ヒップホップ、ドラムン・ベースなどを自然に織り込んだサウンド・プロダクションの自在なセンスや、哀感を帯びたメロディアスな楽曲の美しさは、以前からの彼らの美点である>と書いているが、『宇宙 日本 世田谷』は、まさにそんなアルバムだ。個人的には後半の「バックビートにのっかって」「WALKING IN THE RHITHM」「DAYDREAM」の浮遊する感じが好きで、今でもたまに寝る前に聴いたりしている。
 インタヴュー記事は6ページあるが主に答えているのは佐藤伸治で、ドラムの茂木欣一は2回、ベースの柏原譲は一言も答えていない。答えていたが原稿に反映されなかったのかもしれないが、ほとんど佐藤が話している。
 掲載した写真は、この時の取材で撮影したもの。左から佐藤伸治(足は柏原譲)、茂木欣一(足は佐藤伸治)、柏原譲(足は茂木欣一)。ダブルトーンに仕上げた画像を、エプソンのインクジェットプリンターで出力している。今なら入稿はデータで、プリントは色見本に付けるくらいだが、撮影した1997年はDTPがまだ普及しておらずデータ入稿は出版社も印刷会社もあまり良い顔をしなかった。それでわざわざプリントし、版下原稿にしていた。
 この写真のオリジナルはポジフィルム。レコード会社の会議室で撮影していて、ライティングはフラット。そのポジフィルムをコダックのフォトCDに焼いてデータにしたものを、フォトショップで加工している。人物に当たっているライトは、フォトショップのフィルターメニューにある「描画」→「照明効果」で作っている。1997年なのでフォトショップのバージョンは4.0だろうか。調整レイヤーが使えるようになって、画像を加工し易くなったと記憶している。この頃は、まつもと泉と一緒にCD-ROMで見せるマンガ『COMIC ON』を製作している時で、撮影した写真をフォトショップで様々に加工できるのが面白くてしょうがなかった。
 オリジナルのポジフィルムを探してみたが、ファイルボックスの中には無かった。どこかのダンボール箱に紛れ込んでいるのだろうか。
 インタヴューの最後に、佐藤伸治がこんな風に話している、
「なんか、音楽の可能性をまた感じたんですよ、今回のレコーディングで。レコードのパワーっていうかね。なんか・・・バンドって一杯いるじゃないですか、しょぼいバンドも。そういうのの一生分ぐらいはやったなって気はするけどなあ。だからもういいじゃん!て(笑)。みんな許せよ!みたいな(笑)」
 佐藤伸治は1999年3月15日に急逝、33歳だった。柏原譲は1998年12月28日の「男たちの別れ」ツアーファイナルをもってフィッシュマンズを脱退。現在はSo many tears、Polaris、OTOUTAなどのメンバーとして活動する他、プロデュースの仕事もしているようだ。茂木欣一は2001年から東京スカパラダイスオーケストラのドラマーとして正式に加入している。
 尚、フィッシュマンズは2005年の『RISING SUN ROCK FESTIVAL』で再始動ライブを敢行。メインボーカルは茂木欣一のほか、ゲストボーカルを招いて断続的にライヴ活動を行っているようだ。

YouTubeから「FISHMANS - Long Season [LIVE]」 「Fishmans + UA - 頼りない天使

フィッシュマンズ 公式ウェブサイト

池尻大橋・ポリドール 1997年6月24日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1997年8月号
インタヴュアーは小野島大さん
#フィッシュマンズ
#Fishmans
#佐藤伸治
#ShinjiSato
#茂木欣一
#KinichiMotegi
#柏原譲
#YuzuruKashiwabara
#アーカイブ

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フィッシュマンズ
マリマリ・リズムキラー・マシンガンズ

◯マリマリ・リズムキラー・マシンガン

 ボーカルのマリマリと、フィッシュマンズのドラマー、茂木欣一を中心としたユニット。サポート・メンバーとして沖祐市、木暮晋也、波多野恵二らが参加していた。
 彼らを撮影したのはフィッシュマンズのボーカル・ギターだった佐藤伸治の急逝から1年半ほど経った頃に、『ミュージック・マガジン』で組まれた「フィッシュマンズよ永遠なれ」という特集ページだった。彼らの初となるライヴ・ビデオ『記憶の増大』の発売直前で、茂木欣一、映像ディレクターでビデオの監督を務めた川村賢輔、エンジニアのZAKに音楽評論家の小野島大さんが話を聞いている。この取材の延長で、マリマリ・リズムキラー・マシンガンを取材している。取材場所はどちらも池尻大橋のポリドールだったが、マリマリ・リズムキラーのインタヴューは、安斎明定さんだった。
 アーカイブを作るにあたって記事を読み返そうと思ってページを開いたが、1ページに写真と級数を下げた小さい文字の原稿がビッシリで、老眼には辛かった。ハズキルーペをかけて、ようやく読めた(笑)。

 マリマリ・リズムキラー・マシンガンとは、1994年にソロ・デビューする前のマリマリが、音楽雑誌『米国音楽』の付録CDに参加した際に、バックで参加したフィッシュマンズを中心としたレコーディング・メンバーにつけられた名称だという。
 2000年にマキシ・シングル「TTAGGG/Since Yesterday」でメジャー・デビュー。取材した時はアルバム『US』を完成させたばかりだった。現在は活動していないようだ。
 茂木欣一氏はサポート・ドラマーを経て2001年から正式に東京スカパラダイスオーケストラのメンバーとなっている。

YouTubeから「Since Yesterday/MariMari rhythmkiller machinegun」 「J/MariMari

池尻大橋・ポリドール 2000年9月29日撮影
初出『ミュージック・マガジン』2000年11月号
インタヴュアーは安斎明定さん
#マリマリリズムキラーマシンガン
#MariMarirhythmkillermachinegun
#マリマリ
#MariMari
#茂木欣一
#KinichiMotegi
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3月2日(日)

 3月になった。県森林研究所は、昨日3月1日からスギ花粉の本格的な飛散が始まったと発表した。
佐野博美

◯佐野博美

 佐野博美さんは作曲家、編曲家でありクラリネット・サックス奏者としても活躍された佐野鋤(たすく)さんのご子息であり、自身もサックス奏者として数々のレコーディングやコンサートで活躍されている。
 佐野博美さんを撮影したのは『レコード・コレクターズ』の連載「戦後ニッポンのポピュラー音楽」の取材で、インタヴュアーは田中勝則さんだった。この連載は田中さんが文中で書いているが、基本的にご本人にお話を聞くことを主眼にしているが、鋤さんはこの取材の2年ほど前、1996年9月20日に87歳で亡くなられていた。しかし亡くなられた翌年、1997年に三一書房から『佐野鋤・音楽とその生涯』という伝記本が発売された。その本を執筆されたのが博美さんだった。
 この本は昭和53年頃、鋤さんが70歳の時に自分の生涯を記録しておこうと吹き込んだ90分テープ10本が元になっている。当時は博美さんを始め兄弟みんな忙しくて、そのテープを聞いていなかったそうだが、鋤さんが亡くなる3年くらい前にテープを元に本にしようという話が出て聞き始めたそうだ。聞き始めると、それが実に面白かったという。

「もちろんそれぞれの話は、親父と飲んだ時とかに聞いていたんですよ。でも、それがどうつながっていたのか、このテープを聞くまで知らなかったことがたくさんあった。それに親父の世代というのは、激動の時代を生きているでしょう。一番大きかったのが戦争でしょうけど、でもそんな中ですごく密度の濃い人生を送っているんですね。それがわかり始めたら、もう完全にノメリ込んでしまって、それからはもう夢中ですよ。テープの話を全部書き写して、親父が残した資料を見て、夢中に書いていって、気がついたら本になっていた。最初は親父も本にするということにあまり関心を示さなかったんです。きっと、俺はまだ若いからいいよ、という気分だったんでしょうね。でも、亡くなる三日前くらいでしたか、本のことはまかせたぞと言ってくれました」
 鋤さんは作曲家、編曲家として多くの曲を作られているが、代表曲の一つが昭和17年に発売された「ジャワのマンゴ売り」だ。この曲の作詞は門田ゆたか、歌は灰田勝彦と大谷洌子だが、『佐野鋤・音楽とその生涯』によれば歌詞の一番は鋤さんが作られたそうだ。この曲のもともとのタイトルは「ジャワの焼き飯売り」で、当時の新聞に掲載されていたビルマの焼き飯売りの写真からインスピレーションを得て鋤さんが一番の歌詞とメロディーを作った。しかし、レコード会社のディレクターから”焼き飯売り”ではハイカラなイメージとマッチしないとクレームがつき、作詞家の門田さんが”焼き飯売り”を”マンゴ売り”に変え、二番以降の歌詞を仕上げたという。
 また、佐野さんの家に残された資料から、インドネシアの「ブンガワン・ソロ」を日本に紹介した最初の一人が鋤さんではないかと田中さんが記事の中で推察している。そして、楽譜を紹介しただけではなく昭和18年にビクター・オーケストラ名義で「ブンガワン・ソロ」の録音を残されているそうだ。その「ブンガワン・ソロ」を博美さんも『南太平洋・アジア諸国の名歌』というアルバムの中で録音されていて、この演奏がYouTubeにあったのでリンクしておきます。
 掲載した写真の4枚目から12枚目は、佐野鋤さんが残された貴重な資料を複写したものだ。
 ところで、佐野博美さんとはこの取材が初対面ではなかった。1980年代の前半、シマ(島村英二)さんのローディーをしている頃にお会いしている。当時シマさんは吉田拓郎と松山千春の全国ツアーにドラマーとして参加していたが、松山千春のバック・バンドのバンマスが佐野博美さんだった。松山千春のツアーには同行しなかったが、都内のスタジオで行われたリハーサルで何度かお目にかかっていた。
 YouTubeに1982年の札幌真駒内屋外競技場での松山千春のコンサートの映像があった。この時のサックスは佐野博美さんではないだろうか。
 また、サックスを演奏している博美さんの写真は取材した年の11月に行われた佐野さんのソロ・コンサートの様子。この取材が縁で撮影することになったものだ。

YouTubeから「ジャワのマンゴ売り/灰田勝彦」 「ブンガワン・ソロ(ジャワ民謡)/佐野博美」 「季節の中で/松山千春~札幌真駒内屋外競技場5万人LIVE~

東京都世田谷区 1998年4月28日?
初出『レコード・コレクターズ』1998年7月号
初出『レコード・コレクターズ』1998年8月号
インタヴュアーは田中勝則さん
新宿・朝日生命ホール 1998年11月27日撮影
#佐野博美
#HiromiSano
#佐野鋤
#TasukuSano
#戦後ニッポンのポピュラー音楽
#アーカイブ

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二葉あき子

◯二葉あき子

 二葉あき子さんを撮影したのは、『レコード・コレクターズ』の連載「戦後ニッポンのポピュラー音楽」だった。二葉・・・と聞いて最初「岸壁の母」の人かと思ったが、そちらは二葉百合子さんだった。
 この連載は田中勝則さんと、北中正和さんが交互に担当しており、二葉あき子さんは北中さんによる取材だった。北中さんがつけたタイトルは<歌謡曲の王道を歩んできた元祖「純情歌手」>というもの。
 二葉さんは「昔の歌は乙女の歌がとっても多いの。今は乙女が、あなたが欲しいって、いきなりませた歌をうたうでしょ(笑)。なんだかねえ(笑)。ほのぼのとした時代がなくて、すぐ色気づいちゃうのね。昔の歌はずいぶん長い間乙女でいられたわね(笑)」と話されていた。
 レコードデビューは、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)在学中にコロムビアで吹き込んだ教育レコードで、それ以降も専属歌手として長きにわたってコロムビアに在籍された。

「わたしは藤山(一郎)先生を尊敬してたの。(東京音楽学校の)校庭を散歩されてるのをよく見てたの。それでわたしも、卒業して音楽の先生になるよか、歌をうたっていけたらいいなと思っていたら、在学中に(コロムビアで)教育レコードを録音したとき、英国人のミキサーの人がほめてくださったので、なんとなくこの世界に入ることになっちゃってね。ちょうどそのころ、作詞家の西條(八十)先生もビクターからコロムビアに移籍してらしたの。”逃げない小鳥は魅力がない”とおっしゃってね。でも、わたしは”逃げない小鳥”なの。旅館なんかでも、いったん部屋に入ると、後で、いい部屋が空きましたからお移りくださいと言われても、もう動くのは嫌なの。横着なこと(笑)。来年で65年もコロムビアにお世話になることになるのよ」
 そんなコロムビアのサイトに掲載されている二葉さんのプロフィールを引用させていただく。
<本名:加藤芳江 生年月日:大正4年2月2日 出身地:広島県広島市 東京音楽学校(現:東京芸術大学)師範科卒業後、広島へ戻って教員となったが、昭和11年にコロムビア専属となり歌手デビュー。「白蘭の歌」や「なつかしの歌声」などをヒットさせる。昭和20年8月6日、帰郷のために乗った汽車でトンネル内を走行中に原子爆弾が投下され、間一髪で被曝を逃れて終戦を迎えた。戦後も「夜のプラットホーム」や「フランチェスカの鐘」などのヒット曲を放って長く活躍。昭和57年に紫綬褒章を、平成2年には勲四等瑞宝章を受章したが、平成15年に歌手を引退した。平成23年8月16日、96歳で死去>
 引退されたのは平成15年(2003年)で、この取材をした1998年は現役の歌手として活動されていた。
 NHKの「紅白歌合戦」は1951年から1959年まで連続出場されている。
 掲載した写真の1枚目はインタヴュー中のもの、2、3枚目はインタヴューの後のポートレート撮影。なんとなく表情が違うのは、まだ撮影があるとは知らず入れ歯を外されたから。こんなエピソードも、この連載ならではかもしれない(笑)。4枚目と5枚目はPhotoshopで作成した背景との合成写真。

YouTubeから「夜のプラットフォーム/二葉あき子」 「フランチェスカの鐘/二葉あき子

二葉あき子 コロムビアのプロフィール

二葉あき子 NHK人物録

赤坂・コロムビアレコード 1998年7月21日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1998年9月号
初出『レコード・コレクターズ』1998年10月号
インタヴュアーは北中正和さん
#二葉あき子
#AkikoFutaba
#加藤芳江
#戦後ニッポンのポピュラー音楽
#アーカイブ

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