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◯毎月1日、15日 7時30分〜8時30分 交通安全運動 乗車
◯9月22日(日) つくりもんまつり 交通整理 12時〜15時 福岡庁舎、Uホール
◯9月23日(月) 午前10時〜 チカシ打ち合わせ
◯9月24日(火)〜27日(金)、30日(月) 秋の交通安全運動 7時30分〜
◯9月28日(土) 大滝神社秋季祭礼 朝6時〜境内清掃 獅子舞16時50分頃(16班)
◯10月未定 防災フェス
◯11月10日(日)公民館まつり 敬老会
◯11月13日(水)6時30分〜8時 資源ゴミ、不燃物仕分け
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9月29日(日)

 昨日は集落のお宮の秋季例大祭だった。今年は班長なので朝6時から1時間ほど、神社と周辺の草むしりを手伝いに。お神輿の巡行はないが獅子舞があり、各班の班長宅には獅子が来るので花(祝儀)とは別に御神酒2本を用意しておいた。
獅子舞01
獅子舞02

↑スケジュール通り、17時少し前に獅子舞の一行が到着。左は地方(じかた)、右は花(祝儀)の読み上げ。

←甥っ子の子供が獅子に頭を噛んでもらいたいと、わざわざやってきた。雌獅子なので布で巻いて口が開かないようになっているそうで、噛む真似だけだった。

↓獅子舞は各家正味10分ほどだろうか。

獅子舞03
松本明子

◯松本明子

 『ミュージック・マガジン』1993年5月号から、「こいこいウナギのぼり」という連載がスタートした。テレビなどのメディアを賑わせている”ウナギのぼり”な人たちに登場していただくという趣旨のページで、構成は編集部となっているが、アイドルやアニメに造詣が深い編集部の高橋修さんが担当していた。
 松本明子さんは、1983年にVAPから「♂×♀×Kiss(オス・メス・キッス)」でアイドル歌手デビュー。デビュー時のキャッチコピーは「アッコ、とんがってるね」。残念ながらアイドル歌手としてはあまり売れなかったようだが、中山秀征の勧めでバラエティ番組に出演するようになり、井森美幸、森口博子とともにバラドルとして人気を博した。
 現在はワイドショーなどでコメンテーターとしても活躍している松本さんは、連載の2回目に登場していただいている。日テレのバラエティ番組『DAISUKI!』『進め!電波少年』などに出演している頃で、まさにウナギのぼりに活躍していた。

 記事の中では久保田利伸の熱烈なファンであることや、かつて同じ事務所だったボイス&リズムのメンバーに遊んでもらったことなどが語られている。
 編集部に写真を届けに行くと、当時編集部員だった野間易通さんが松本明子さんのプリントを見て個人的に欲しいと言われて驚いた記憶がある(笑)。野間さんはミュージック・マガジンに入社する前は関西のアンダーグランドシーンでは有名なロックバンド「花電車」のギタリスト。現在はジャーナリストの安田浩一さんとYouTube番組「No Hate TV」を毎週木曜日に放送している。野間さんには後日、松本明子さんの写真をプリントして差し上げた。
 この松本明子さんの写真はフィルム・スキャンしてデータ化されていなかったので、銀塩のプリントを複写している。

YouTubeから「♂×♀×Kiss(オス・メス・キッス)/松本明子

松本明子 オフィシャル・ブログ

松本明子Instagram

有楽町・ニッポン放送 1993年4月21日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年6月号
#松本明子
#AkikoMatsumoto
#こいこいウナギのぼり
#アーカイブ

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森口博子

◯森口博子

 NHK『勝ち抜き歌謡天国』で準優勝したことがキッカケで、1985年にキングレコードからアニメ『機動戦士Zガンダム』の後期オープニングテーマ曲「水の星へ愛をこめて」でアイドル歌手としてデビュー。デビュー時のキャッチフレーズは「よかった。君がいて」だそう。
 デビューから何年かはヒットが出ず認知度も上がらず、一時は所属事務所から「もう九州帰るか」とリストラ宣告をされたが、バラエティ番組への出演をキッカケにブレイク。『ミュージック・マガジン』の連載「こいこいウナギのぼり」の8回目のゲストとして登場した1993年頃は、『夢がMORI・MORI』などテレビのレギュラーを多数抱える売れっ子タレントだった。
 撮影した場所は六本木の喫茶店。当時のスケジュール帳に”日産ビル カルチェ六本木”というメモがあるので、カルチェ六本木という名前の喫茶店だろうか。ライティングは正面から小さなバンクか傘を付けたグリッド・ストロボ、後ろからアイランプだと思われる。近くにテレビ朝日があるので業界の人も多く、店内での撮影も規制がなくおおらかだった。

 記事の中でディック・リーやサンディ・ラムといったエイジアン・ポップスが好きだと言い、ディック・リーについて熱く語っている。
「いやあ、ディック・リーはいいですよね。シンガポールって多民族じゃないですか。シンガポール人っていうのもいないし、シンガポール語っていうのもないし、その中での自分のアイデンティティみたいなものを見失いそうになったけど、やっぱり自分はアジアの血が流れてるし自信持ってシンガポールにいる人間なんだから、東洋と西洋の交わった独自のシンガポール人っていうのが音楽で表現できればいいと思ったらしいですけど、そういうヒューマンなところが好きなんですよ」
 これまでに34枚のシングル、11枚のオリジナル・アルバムをリリースしている。歌手として、バラドルとして、司会者として現在も活躍中だ。

YouTubeから「水の星へ愛をこめて/森口博子」 「スピード(「夢がMORIMORI」テーマ曲)/森口博子

森口博子 公式ウェブサイト

森口博子 オフィシャル・ブログ

六本木・日産ビル カルチェ六本木 1993年11月5日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年12月号
#森口博子
#HirokoMoriguchi
#こいこいウナギのぼり
#アーカイブ

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9月27日(金)

 今日の午後行われた自民党総裁選は、1回目の投票では過半数を獲得した候補がおらず、1位の高市早苗氏と2位の石破茂氏による決選投票が行われた。結果は高市氏194票、石破氏215票で石破茂氏が新総裁に選出された。これで10月1日に招集される臨時国会で、第102代首相に指名されることになる。一時は高市氏が新総裁になるのではという声が大きかったが、土壇場で石破氏を選んだのは、高市氏では選挙を戦えないと考えた自民党議員の危機感のあらわれだろうか。党の代表選で枝野幸男氏と野田佳彦氏で、最後に野田氏を選んだ危機感のない立憲民主党との違いだ。
 石破氏で思い出すのは、沖縄選出の自民党議員に辺野古移設を容認させた「平成の琉球処分」だ。この時は沖縄に住んでいて、県民の怒りを肌で感じていた。 石破氏が首相になってどんな組閣をするのか興味はある。期待するものがあるとすれば、安倍派、麻生派の一掃だな。
 今回の総裁選で、河野太郎氏の凋落ぶりが顕著になった。 前回、2021年の総裁選では決選投票で岸田文雄氏に敗れはしたが、1回目の投票では岸田氏256票、河野氏255票と迫る勢いがあった。今回の1回目の投票では国会議員票22票、党員票8票の合計30票。推薦人20人と自分の票を入れれば、他に河野氏に入れた国会議員は一人しかいないことになる。候補者が多くて票が割れたのもあるだろうが、マイナンバーカード、マイナ保険証の強引な進め方や不遜な態度が同僚議員からも嫌われたのだろうか。
 不思議なのは加藤勝信氏の国会議員票。推薦人20人と自分の票を合わせて最低でも21票は獲得できるはずが、16票しかない。推薦人のうち5人が他の候補に入れたのだろうか。

 石川県の馳知事が、能登豪雨による浸水被害で昨日「一日も早く泥かきなどのボランティアを大規模で投入する必要があると痛感した」と述べた。ネットでは「ボランティアは知事の部下ではない」というもっともな反発の声が上がっている。

 今日で『虎に翼』が終わり、来週から『おむすび』が始まる。

 この他の気になった記事を備忘録として。
中国の原子力潜水艦、長江で沈没 就役前、事態を隠蔽か 米報道
道路40メートルにわたって陥没、市営住宅傾く 広島市が雨水管工事
「保険証廃止こそ百害あって一利なし」 記録残さぬ政府に「国民の命ないがしろ」 マイナ一本化に反対集会
袴田巌さんに再審無罪の判決、戦後5例目 事件から58年
細江英公さん死去 写真家 三島由紀夫「薔薇刑」

カパーケリー

◯カパーケリー

 アコーディオン奏者のドナルド・ショーと、マーク・ダフによって結成されたスコットランドのトラッドを演奏するグループ。1984年にアルバム『カスケード』でデビューした。
 彼らを撮影したのはデビューから10年経った1994年で、スタジオアルバムとしては7枚目の『シークレット・ピープル~静かなるゲール』が発売された翌年、8枚目のアルバム『カパーケリー』がリリースされる直前のタイミングだった。
 新宿のヒルトンで12時30分~13時15分までインタヴューがあり、同じ日の夕方に渋谷クラブクアトロでライヴの撮影をしている。インタヴュアーは茂木健さんだった。記事によると白石和良さんも同席されている。
<アイルランドではゲール語がゲーリックと呼ばれるのに対し、スコットランドのゲール語はガーリックと呼ばれている。どちらの国(地域)でも、数世紀にわたる英語の浸透によって現住ケルト人の言葉であったはずのゲール語の衰退は著しいが、国を挙げてゲーリックを保護しているアイルランド共和国よりも、スコットランドの方が状況はかなり深刻なようだ>

 茂木さんによる記事の冒頭は、このように言語について語られており、以降、スコットランドのゲール語であるガーリックについて多くのスペースを取ってインタヴューしている。インタヴューに答えてくれたのはドナルド・ショーと、ヴォーカルのカレン・マスィスン、ベースのジョン・サイキだった。
 彼らのホームページのメンバー紹介によると、カレン・マスィスンは、かつてショーン・コネリーに「神に触れられた喉」の持ち主として称賛されたことで有名で、スコットランドのあらゆる言語の中でも最も優れた歌手の一人として評価されている。ドナルド・ショーはプロデューサー兼作曲家として常に人気があり、最近ではBBCのドキュメンタリーシリーズ 「Hebrides – Islands on the Edge 」のサウンドトラックで高い評価を得ていると書かれている。ジョン・サイキは既にグループを脱退しているようだ。
 カパーケリーのインタヴューは、『スコットランド音楽を聞く』という小特集の前半に掲載されており、後半は松山晋也さんによるスコットランドのアーティストのアルバム紹介になっている。

YouTubeから「Four Stone Walls/ Capercaillie」 「Coisich A Ruin/Capercaillie

カパーケリー 公式ウェブサイト

新宿・東京ヒルトンインターナショナル 1994年7月25日ポートレート撮影
渋谷クラブクアトロ 1994年7月25日ライヴ撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年9月号
コンサート評を山岸伸一さん
初出『ミュージック・マガジン』1994年10月号
インタヴュアーは茂木健さん
#カパーケリー
#Capercaillie
#カレンマスィスン
#KarenMatheson
#ドナルドショー
#ジョンサイキ
#JohnSaich
#ケルト
#Celtic
#アーカイブ

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◯ネーネーズ

 1990年に知名定男さんのプロデュースで結成された、沖縄の女性コーラス・グループ。1999年と2003年にメンバーを総入れ替えしているそうで、wikiでは結成から現在までを第1期から第6期に分けて紹介している。
 ネーネーズを撮影したのは1992年7月で、キューン・ソニーから2ndアルバム『ユンタ』が発売される直前だった。1stアルバム『IKAWU』はディスクアカバナーからだったので、このアルバムがメジャーからのデビューとなる。
 インタヴュアーは田中勝則さんで、インタヴューを受けるのはネーネーズの核となる古謝美佐子さんと宮里(吉田)康子さん、そしてサウンド・プロデューサーであり後の古謝さんのパートナーとなる佐原一哉さんだった。
 およそ30年ぶりに読み返してみると、ネーネーズのインタヴュー記事だけれどサウンド・プロデューサーである佐原さんの発言の比重が大きい。これはインタヴュアーの田中さんが音楽評論家であると同時に、自身がブラジル音楽のレコードを製作するプロデューサーをしていたからだろう。ブラジルから来日していたギリェルミ・ジ・ブリートとその一行を、『ユンタ』のレコーディングに参加させるためのコーディネイトを田中さんがしている。
 記事の中にフォーシスターズ、でいご娘というネーネーズの先輩格にあたる4人組女性グループについて触れられているが、この2つのグループとネーネーズの違いについても語られている。
 ちなみに、でいご娘は2012年12月23日に宜野湾海浜公園で開催されたオスプレイ配備反対の抗議集会『御万人大行進 愛と怒りのサウンドパレード』で「艦砲ぬ喰ぇー残さー」を歌うのを聴いているし、フォーシスターズは2014年3月29日に開催された『登川誠仁 一年忌追悼公演』に出演されたのを生で見ているが、ネーネーズのライヴは今まで生で見たことがないのに、このアーカイブ作業をしていて気づいた。
 古謝美佐子さんは1995年にネーネーズを脱退し、ネーネーズのサウンド・プロデューサーだった佐原一哉さんと組んでソロ活動を開始し、「童神」などのヒットを生んだ。カルロス・ヌ二ェスやチーフ・タンズといったケルト系のミュージシャンや東京フィルハーモニー楽団との共演、また、文楽人形の吉田勘緑氏とのコラボなど多岐にわたる活動をされているようだ。
 2013年の2月14日、宮古島で偶然、古謝美佐子さんと佐原一哉さんにお会いした。この日は野原集落に伝わる祭祀、サティパロウを撮影に行ったのだが、宮古島にいらしていたお二人も島の人に案内されて見に来られたようだ。サティパロウは、仮面をつけて全身に泥を塗った3体の神が逃げまどう人や新築の家に泥を塗ってお祓いをする奇祭、島尻集落のパーントゥと同じく、パーントゥ(鬼の仮面)をかぶって集落を払って歩く行事。こちらは泥を塗ったりしないが、仮面をかぶった少年を先頭に集落のご婦人たちが全身に草をまとって集落内を練り歩く。行事が終わった後、お二人に声をかけ、以前『ミュージック・マガジン』で撮影させていただいたことを話すと、佐原さんは覚えていらした。
 6枚目の写真は、宮古島野原集落のサティパロウ。右上に小さく古謝さんが写っている。

YouTubeから「うむかじ(面影)/ネーネーズ」 「童神/古謝美佐子・城南海

ネーネーズ Instagram

ネーネーズ オフィシャルファンサイト

古謝美佐子 公式ウェブサイト

青山・キューン・ソニー 1992年7月27日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1992年10月号
#ネーネーズ
#Nēnēs
#古謝美佐子
#MisakoKoja
#宮里康子
#YasukoMiyasato
#佐原一哉
#KazuyaSahara
#アーカイブ

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ネーネーズ

9月25日(水)

 9月21日から秋の全国交通安全運動期間となり、昨日から交通安全協会の車に乗車して、朝7時30分から45分ほどかけて町内を巡回。交差点に立つ指導員の方たちに「ご苦労様で〜す」と声をかけている。

 マイナンバーカードと保険証の一体化で現行の健康保険証の廃止が決まったが、その廃止決定に関わるやり取りの記録が残っていないことが東京新聞の取材で明らかになった。となれば、今からでも健康保険証廃止は撤回するべきだろう。

 この他の気になった記事を備忘録として。
大の里の大関昇進「ほかに類を見ないお相撲さんに」【動画も】
【能登豪雨 随時更新】新たに3人、死者は計11人に 捜索続く
使用済み核燃料を積んだ船が柏崎刈羽原発を出発…その後のめども立たないのに 再稼働のための地元対策か

カルロス・ヌニェス

◯カルロス・ヌニェス

 スペインのガリシア地方ビーゴ出身のバグパイプとリコーダーの奏者。1971年生まれで、8歳の時からバグパイプの演奏を始めている。マドリードの王立音楽院でリコーダーを学び、すぐに若手の名手として知られるようになる。やがてチーフタンズのパディ・モロニーと出会い、レコーディングやツアーに参加。チーフタンズの<7人目のメンバー>と呼ばれるようになる。
 これまでチーフタンズの他に、ライ・クーダー、シネイド・オコナー、アルタン、ドゥルス・ポンテス、ジェイムス・テーラーなど様々なミュージシャンと共演している。
 カルロス・ヌニェスを撮影したのは、2ndアルバム『アモーレス・リーブレス』のプロモーションのために来日した1999年で、『ミュージック・マガジン』での取材だった。インタヴュアーは松山晋也さん。インタヴューの中で松山さんがアルバムでのジャクソン・ブラウン起用について質問すると、

「うん、彼と空港でばったり会ったのは事実だけど、実際は、その前から何度も手紙をやりとりしてて、つきあいはあったんだ。僕は将来この人と共演したいというリストを作っててね、ブラウンもその中に入ってた。沖縄のミュージシャンともいつか共演してみたいと思っている。リズムなんか、僕らの音楽とかなり共通してるし、もっと研究しなくちゃ」と答えている。
 そして、その言葉通り数年後に元ネーネーズの古謝美佐子さんと共演している。彼のリストの中に古謝さんの名前が書かれていたのだろう。
 カルロスの出身地、ガリシア地方はスペインの北西にあり、アイルランドやスコットランドなどと共にケルト連盟に入っていた時期もありケルト文化圏だ。
 このアルバムでカルロスは、フラメンコの要素も取り入れている。松山さんがガリシアの人がフラメンコにトライすることは珍しいのではないかと尋ねると、面白い答えが返ってきた。
「うん、僕たちガリシア人にとっては、フラメンコ=フランコというイメージが定着してるからね。だから、僕がフラメンコの連中と録音してるっていう噂をききつけて、ガリシアのミュージシャンたちはナイフを磨き出したんだ(笑)。でも、そういった偏見は、パコの仲間たちやカルメン・リナーレスなどと共演していく過程で、僕の中でも消えていったし、しかも、彼らと話すうちに、フラメンコのある様式が元々はガイタ音楽からきているということもわかった。だから、今回の仕事を通して、音楽家として来るべきところに来たんだという実感を持つことができたよ」
 フラメンコ=フランコというのは、スペイン内戦後に長く独裁政権を敷いたフランシスコ・フランコ総統が統一国家スペインのシンボルとしてフラメンコを奨励したからだろう。しかし、フランコもまた、ガリシア地方の出身だ。
 これまでに13枚のアルバムをリリースしており、一番新しい作品は2023年の『Celtic Sea』となる。

YouTubeから「Mambo/Carlos Núñez」 「Making Of "Celtic Sea”/Carlos Núñez」 「Amazing Grace/古謝美佐子・Carlos Núñez

カルロス・ヌニェス 公式ウェブサイト

渋谷・BMGファンハウス 1999年8月17日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1999年10月号
インタヴュアーは松山晋也さん
#カルロスヌニェス
#CarlosNúñez
#ケルト
#Celtic
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メアリー・ブラック

◯メアリー・ブラック

 アイルランドの女性シンガーでその魅力に一番ハマったのは、メアリー・ブラックだった。撮影したのは5枚目のアルバム『ノー・フロンティアーズ』が発売された翌年、1990年の年末で、インタヴュー撮影とコンサートの撮影をしている。
 インタヴュアーは小林慎一郎さんで、記事のタイトルは「トラッドとポップスのはざまで アイルランドの都会派シンガー、メアリー・ブラックの微妙な位置」とつけられている。
 アイルランドからアメリカへ渡った移民により、アイルランドのトラッドがアメリカに伝承され、それがヒルビリー、フォーク、カントリーにつながったと思っているという持論を小林さんがメアリー・ブラックにぶつけると、
「アイルランドのような小さな国がアメリカの音楽に大きな影響を与えていると言ってもらえることは大変な誇りです。確かに私もその通りだと思います。アメリカのTV番組に”ブリング・イット・オール・バック・ホーム”というのがありまして、エミルー・ハリスやリチャード・トンプソン、ドロレス・ケーン、そして私が出演したんですが、そこでは、アイルランドの音楽がアメリカのケイジャンやカントリーに大きな影響を与えていることが明確にわかりましたよ」と答えている。

 この取材の前か直後か忘れたが、『ノー・フロンティアーズ』と4枚目の『暗くなるまえに』を買い、曲の美しさと親しみやすさにハマってデビュー・アルバムの『メアリー・ブラック』まで遡って聴いた。その親しみやすさの理由の一つは、アイルランドのトラッドだけではなく誰もが知っているようなスタンダードなポップスがアルバムの中に散りばめられているからだと思う。『ノー・フロンティアーズ』にはバカラックの「I Say a Little Prayer」が、『暗くなるまえに』には「ムーン・リヴァー」というように。
 インタヴューをした小林慎一郎さんは記事のタイトルから窺われるように、彼女がこうしたポップスをアルバムの中に加えることに肯定的ではないようだったが。
 1991年にリリースした6枚目のアルバム『ベイブス・イン・ザ・ウッド』に収録された「THORN UPON THE ROSES」はJR東海のCM曲として使われ一年間オンエアーされた。これで彼女を知ったという人も多いかもしれない。
 残念ながら2014年に海外ツアーから引退したので、もう来日コンサートを観ることは出来なくなってしまった。

YouTubeから「No Frontiers/Mary Black

THORN UPON THE ROSES/Mary Black

メアリー・ブラック 公式ウェブサイト

メアリー・ブラック 公式YouTubeチャンネル

品川・高輪プリンスホテル 1990年11月28日ポートレート撮影
ラフォーレ・ミュージアム赤坂 1990年12月1日コンサート撮影
初出『ミュージック・マガジン』1991年2月号
インタヴューは小林慎一郎さん、コンサート評は山岸伸一さん
#メアリーブラック
#MaryBlack
#ケルト
#Celtic
#アーカイブ

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9月23日(月)

 一昨日の豪雨による能登半島での死者が7人になった。また、行方不明者2人の他、安否不明者も4人いるという。孤立した集落は56カ所に上る。元旦の地震の時と同じく、今回の災害でも県の顔であるはずの馳浩知事の顔が全然見えない。どこで何をしているのだろう。

 立憲民主党代表選が今日行われ、決選投票で枝野幸男氏を破って野田佳彦氏が代表の座についた。個人的に野田氏は顔を見たくない政治家の上位に入る。これまでも自民党よりはマシだと心に言い聞かせ、共産党の候補者がいない選挙では鼻をつまんで立憲候補に1票を投じてきた。共産党が候補を立てる選挙は別にして、これからは鼻をつまんで眼をつむり立憲に投じなくてはならないのだろうか。これから頻繁にあの顔をテレビで見ることになるのかと思うと気が滅入る。

 大谷翔平選手が、今日のロッキーズ戦で53号ホームランと2つの盗塁を決め記録を「53−55」に伸ばした。

 秋分の日だった昨日から、空気がガラッと代わり秋めいてきた。半袖半ズボンではちょっと寒いくらい。
 昨日は12時から15時まで交通安全員の仕事で、つくりもんまつりに来る人の駐車場の案内。3時間ほぼ立ちっぱなしで駐車スペースの確認などをしていたので、けっこう歩いた。駐車場の案内を終えて一旦家に帰り、休んでから18時半過ぎから町中のつくりもんを見てきた。今年のつくりもんは18カ所で、年々減っている。高齢化による人手不足と、今年は材料になる野菜の不作と値段の高騰があるのかもしれない。歩きまわったので携帯電話の万歩計は、久しぶりに1万歩を超える1万7,167歩だった。
つくりもんまつり01
つくりもんまつり02
つくりもんまつり03
舞の海

◯舞の海秀平

 一昨日、千秋楽を待たずに大の里が2場所ぶり2度目の優勝を決めた。相撲にあまり関心はないが、雑誌や書籍の仕事をしていると力士や相撲部屋の撮影をすることもある。北沢図書出版から山内雄喜さんとサンディーさんの共著『ハワイ音楽パラダイス』が出版される時、本の帯に載せる小錦さんのコメントに添える小錦さんの顔写真を撮りに行ったこともある。

 舞の海さんは青森県出身の元大相撲力士で、現在は相撲解説者、スポーツキャスター、タレントとして活躍している。
 身長171cmと小柄で、入門時に身長が規定に足らなかったため頭部にシリコンを注入して合格したというエピソードが有名だ。その小柄な体格を活かした戦い方で、現役時代は「技のデパート」「平成の牛若丸」などと呼ばれていた。
 舞の海さんを撮影したのは健康雑誌のダイエット特集で、相撲の四股の基本形となる腰割りで、下半身を引き締めるというものだった。取材が決まったのが急だったのか、当日に撮影のオファーがあったと記憶している。17時に舞の海さんの事務所がある両国駅で担当編集者、ライターさんと待ち合わせて17時30分から取材した。

「力士の腰割りは、両足を開き、ひざを90度曲げた位置に腰を落とし、その体勢をできるだけ長く保ちます。やってみるとわかりますが、この体勢をじっと保つのが苦しいのです。ひざから太ももにかけて熱を持ってきて、じんわりと効いてきます。そして、続けていると背筋、腹筋からおしりにまで効いてきて苦しくなります。こういう苦しい鍛練ですから、忍耐力も養われます。毎日、腰割りを一生懸命行うと、ひざのすぐ上の太ももの内側に、こぶができてきます。こうなって初めて一人前の力士です。そして、太ももの前側の筋肉が発達し、おしりの向きも上がってきます。腰割りに日々励んでいる力士は、左右のおしりの筋肉が2つの山のように盛り上がっているので、すぐわかります。おしりが垂れている力士はいませんが、特に腰割りに熱心な力士は、みごとなまでにヒップアップしています」
 取材の後は、せっかく両国に来たのだからと担当編集者、ライターさんと3人で「ちゃんこ屋」さんで一杯呑んで帰った。
 この特集のタイトルは<インリン・美人歯科医・83歳アスリートも実践!下半身キュッ、ヒップアップ、下腹ペコン!「腰割り」ダイエット>と名付けられている。インリンは台湾出身のグラビア・アイドル、インリン・オブ・ジョイトイ だろうか。こちらの撮影もしたかった。

YouTubeから「技のデパート 舞の海」 「思わず笑ってしまう 大相撲 舞の海の神業取り組み5選

舞の海秀平 公式ウェブサイト

東京・両国 2006年4月5日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2006年7月号
#舞の海秀平
#MainoumiSyuhei
#長尾秀平
#SyuheiNagao
#アーカイブ

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針すなお

◯針すなお

 佐賀県出身の漫画家、イラストレーター、そして武道家。実家は旧佐賀藩の菩提寺である高伝寺。本名は高閑者 順(たかがわ すなお)     
 漫画家としてのデビューは1956年で、初期の頃はナンセンス漫画や大人向けの漫画を書いていたが、やがて1コマの似顔絵漫画に専念するように。以降、政治家や芸能人、スポーツ選手などの顔を上手くデフォルメした似顔絵で知られるようになる。
 また、武道の方は独自の武術「体の杖(たいのじょう)を考案し、著書や教則DVDも出版されている。
 針すなおさんを撮影したのは簡易保険郵便年金加入者協会のPR誌『保険年金 展望』での取材で、西麻布のご自宅へお伺いした。PR誌の中で、武道を始めるきっかけについても話されている。
「合気道をやってみようと思い立ったのは、最初は仕事の関係で、漫画ルポを頼まれて道場に足を踏み入れたのが、そもそもの始まりです。それまでも武道をやりたいと、漠然と思っていたのが、仕事で訪ねた先で、ミイラ取りがミイラになってしまったということでしょうね(笑)」

 1978年頃から朝日新聞政治欄の風刺漫画を担当し、産経新聞でも人物似顔絵カットを2008年頃まで担当した。また、郷里の佐賀新聞には1994年から政治漫画を連載しているそうだ。
 今年91歳だが、YouTubeにUPされていた佐賀新聞創刊140周年へのメッセージ・ビデオを見ると、とてもお元気なご様子だ。

YouTubeから「佐賀新聞創刊140周年メッセージ・針すなおさん」 「合気道 体の杖 高伝館 池袋道場 針すなお師範演武

西麻布 1989年10月30日撮影
初出『保険年金 展望』(財団法人 簡易保険郵便年金加入者協会)1989年12月号
#針すなお
#SunaoHari
#高閑者順
#アーカイブ

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9月21日(土)

 能登半島に線状降水帯が発生し川が氾濫、浸水被害や土砂崩れの被害をもたらしている。線状降水帯がもう少し南下していれば、富山県でも大きな災害が起っただろう。
【随時更新】能登地震被災者の仮設住宅、床上浸水 大雨特別警報
石川県に大雨特別警報 救助要請相次ぐ 輪島の行方不明2人に

 昨日のマーリンズ戦で、大谷翔平がメジャー史上初の「50本塁打、50盗塁」を達成し、その勢いのまま「51−51」まで到達した。前日までは48本塁打、49盗塁だったが3打席連続ホームランで、一挙に記録を伸ばした。そして今日のロッキーズ戦でも52号本塁打と52盗塁を決め、「52−52」に。残り8試合あるので「55−55」に期待が膨らむ。

 全国保険医団体連合会が、全国の医療機関を対象に5〜8月のトラブルの実態を調査したところ、いまだにマイナ保険証のトラブルが相次いでいる状況がわかった。これに対し河野デジタル相は「マイナ保険証を使う人が増えれば、トラブルが増えるのは当然」とし「こうしたアンケートが役に立つとは私は思っていない」と一瞥したそうだ。いやいやいや、利用者が少なかろうと多かろうと医療機関で使う保険証に、本来トラブルなどあってはいけない。そんな認識も謙虚さもないなら、不完全なマイナカードと一緒に消えて欲しい。

 岸田首相が19日、能登半島地震で液状化の被害が出た石川県かほく市と内灘町を視察し、今年中に復興計画を策定できるように支援する考えを示した。地震の発災から既に9ヶ月が経つが、今まで何をしていたのだろう。岸田首相だけでなく今回の総裁選に出馬した9人の議員も総裁選が始まった途端、アチコチ視察に行き尤もらしいことを言っているが、今まで与党の議員として何をしていたの?という話でしかない。総裁選が終われば、また放っておかれるのだろう。

 あいにくの雨模様だが、今日からつくりもんまつりが始まった。
 今月15日に親族だけ集まった甥っ子の結婚お披露目食事会があり、昨日はその時の記念写真をプリントしていた。しばらく前からシアンのインクの残量が少なくなっているというアラートが出ていたので、事前にヨドバシカメラの通販サイトで取り寄せておいた。驚いたのは到着の速さ。18日にコンビニから入金すると19日の早朝5時39分に出荷のお知らせが届いた。到着は20日だろうと思っていたら、19日の19時18分に配達があった。もう玄関に鍵をかけ灯りも消していたので留守だと思い、配達通知が残されていた。翌朝配達通知を見たので、連絡しようかと思っていたら朝方に再配達されて無事にインクを受け取れた。
シアンのインク

 シアンの予備インクが準備できたので、A4サイズ3枚、2Lサイズ6枚プリントした。心配したインク切れは起こらず、まだ予備のインクを開封しないで済んでいる。

←ヨドバシの通販サイトで購入したインク。

↓お店の人にシャッターを押してもらって、自分も入った記念写真を撮ったが、メガネに白髪のあご髭、スーツでカーネル・サンダースのようだった(笑)。

記念写真のプリント
 定点観測していた近所の新築の家だが、ちょっと前に完成したようで、施工会社か不動産屋による内覧会の旗が立っている。内覧会が終われば建て主に引き渡されるのだろう。解体から新築までおよそ8ヶ月ほどだった。
解体開始
↑2024年2月12日撮影。↓2024年9月20日撮影。
新築完成
長嶺ヤス子

◯長嶺ヤス子

 日本を代表する舞踊家だが、愛猫家としての認知度も同じように高い。
 長嶺さんを撮影したのは、健康雑誌のプラセンタ(胎盤エキスを主成分とした製剤)特集の取材だった。知人から貰ったという100%純粋なプラセンタ・エキスをつけた瞬間、肌にスーッと馴染み、翌朝は肌がふっくらツヤツヤになったというお話を聞いた。
 取材場所は、自宅代わりにしているホテルで、ここを拠点に仕事をされていた。自宅は故郷福島の猪苗代湖のそばにあるそうで、当時はそこに家族である猫150匹、犬15頭が暮らしており、長嶺さんは年に3回程度戻るという生活をしてらした。
 長嶺さんが猫を飼い始めたきっかけは、ある夜、猫を車で轢いてしまったこと。病院に運び込んだが、手当の甲斐もなく死んでしまったそうだが、この事件で、それまで近寄れなかった犬や猫を拾って面倒を見るようになったという。

 取材したのは1999年の暮れで、この時、長嶺さんのイラストによる2000年のカレンダーを頂いた。1989年より毎年銀座プランタンで油彩展を開くなど、画家としても活動されている。もっとも絵は家族である猫や犬を養うための生活費を稼ぐために描き、踊り続けるのも「踊っている長嶺ヤス子の絵だから」売れると認識しているので踊り続けるのだと語っておられた。
「今は、この動物たちとの時間が何物にも代えがたいたいせつなもので、私の人生は、彼らとともに過ごすためにあるようなものです。事実、私が、踊り、絵を描いて生活費を作り出すのは、彼らとずっといっしょにいたいからなのです」
 インタヴュー中の写真はホテルの部屋だったかロビーだったか忘れてしまった。インタヴューの後、ホテルの外に出てもらい木漏れ日の降り注ぐ中でポートレートを撮影した。
 掲載された雑誌のプロフィールには、福島県出身。19歳のときにスペイン舞踊に進む。1960年青山学院大学を中退し、単独マドリッドに留学。75年、芸術祭優秀賞と舞踊批評家協会賞を受賞。以後、芸術家大賞をはじめとした数々の賞を受賞し、82年にはニューヨークでも舞台を成功させ、国際的ダンサーの地位を不動のものにする。89年より毎年10月には銀座プランタンにて、油彩展を開く。
 2001年には紫綬褒章を受章されている。
 wikiによれば昭和11年2月13日生まれだそうだ。自分の母親とほぼ同い年だ。

YouTubeから「長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ~予告編~

長嶺ヤス子78歳・烈しく熱く舞う!!

長嶺ヤス子 公式ウェブサイト

長嶺ヤス子Instagram

1999年12月15日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2000年3月号
#長嶺ヤス子
#YasukoNagamine
#アーカイブ

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津川雅彦

◯津川雅彦

 2007年5月に、雑誌の仕事で撮影させていただいた。東京・九段の事務所に伺うと、しばらくして津川さんが到着されたがそのまま取材とはならず、控え室で椅子に座り酸素注入器をつけて休まれていた。
 インタヴュー中の顔写真を撮った後にポートレート撮影となったが、用意した背景布の前に立つと腕を前に組んで仁王立ちになり、真っ直ぐにカメラを見据える。もちろん俳優さんなのでそのまま撮影すれば絵になるが、撮らされた感があるので何枚か撮影した後に「津川さん、ちょっとボクに気を許してもらえないでしょうか?」と声を掛けてみた。
 キョトンとされた後、「男に気を許すわけにはいかねー」と言って口元を緩められた。その瞬間に一枚撮った。また真顔に戻られたので、結局全部で9回シャッターを押して「ありがとうございました」と言って撮影を終えた。デジタルになってからは、あまりたくさんカット数を撮る方ではないが、9枚は自分でも少ない。でも、口元を緩められた瞬間の写真が撮れた時点で撮影を終えても良かったと思っている。

 日本の俳優さんタレントさん、ミュージシャンの場合、たいてい写真チェックがある。後日ポートレートとインタヴュー中の写真をセレクトして送ったが、ほとんどの写真にOKが出て安堵した。
 津川さんの政治的な発言は受け入れ難い部分もあるが、日本を代表する名役者に変わりはない。個人的には年を重ねてからの風貌に魅かれていた。
 テレビドラマはあまり観ない方だが「サラリーマン金太郎」は毎回楽しみにしていた。津川さんの演じる大和守之助と、野際さんの演じる謎の資産家・中村加代が良い味を出していて面白かった。野際陽子さんは2017年6月13日に81歳で亡くなられた。津川さんは2018年8月4日に78歳で亡くなられた。
 津川さんの死は、4月27日の朝丘雪路さんの死から僅か4カ月足らずで、あとを追うような感じでもあった。おしどり夫婦だったのだろう。

YouTubeから「津川雅彦、長門裕之CM集

東京・九段 2007年5月18日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2007年9月号
#津川雅彦
#MasahikoTsugawa
#アーカイブ

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9月19日(木)

 一昨日、東電は福島第一原発2号機のデブリの採取にまた失敗したと発表した。今回は採取装置に搭載したカメラ2台の画像が遠隔操作室に届かなくなったためという。採取目的のデブリの量は3gほど。福島第一原発の1〜3号機には溶け落ちた燃料デブリが約880トンあるとみられている。そのうちの僅か3gも取り出すことができない。
 デブリの熱で土台が損傷し圧力容器が倒壊する恐れもあるし、建屋自体も爆発でそうとう傷んでいる。デブリを取り出すのが早いか、原子炉が倒壊するのが早いかという競争でもあるが、仮にデブリを取り出したとしても安全に保管する方法も場所もまだ決まっていないはずだ。こんな状況で次世代の新型原子炉で世界をリードする国になるなど思い上がりにも程がある。

 日刊ゲンダイの記事によると、自民党総裁選に立候補した9人の推薦人にも壺議員が入っていることがわかった。多い順に小林鷹之氏11人、高市早苗氏と茂木敏充氏9人、河野太郎氏7人、小泉進次郎氏6人、林芳正氏5人、上川陽子氏と石破茂氏4人、加藤勝信氏3人。
 茂木氏と同じく9人で2番目に壺議員が多かった高市早苗氏は一昨日放送されたTBSの番組で「私は(告示)翌日の新聞を見るまで誰が推薦人になったか知らなかった」と述べたそうだ。にわかに信じられない話だが、もしそれが本当ならこんな慎重さもなく脇の甘い人が総理大臣になっては困るし、これ以上政治家を続けて良いのだろうかと思う。何より、こんなことを言って恥ずかしくないのかと不思議でしょうがない。

 この他の気になった記事を備忘録として。
大谷48号、通算でアジア最多 ドジャース記録にあと1本
ミュージカル『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』 ブロードウェイで上演決定

大地真央

◯大地真央

 最近は「そこに愛はあるんか?」のアイフルのCMが印象的な、元宝塚歌劇団月組のトップスター。本名は森田真祐美。
 1973年に59期生として宝塚歌劇団に入団。星組公演「花かげろう/ラ・ラ・ファンタシーク」が初舞台となる。翌年、月組に配属となり新進男役スターとして早くから注目される。
 1985年に宝塚を退団後も、舞台を中心に映画やテレビなどでも活躍。多くの作品に出演し人気を博している。
 大地さんを撮影したのは健康雑誌の美容特集「朝摘みバラの化粧水」という企画だった。特集の巻頭に、バラの花びらを浮かべて入浴しているという大地さんに登場していただいた。また、せっかく大地さんに登場していただくならと、新しく始まる『ペットのいない人生なんて!NO PET,NO LIFE, ペットと私』という連載用に愛猫と一緒に撮影させていただいた。
  撮影は、バスタブのある都内のハウス・スタジオ。担当編集者が用意したバラを抱えてもらったり、ソファーに座ってポーズをとってもらったりしながら撮影。その後、流石に入浴は無理なので、バスタブにバラを浮かべ大地さんに手だけ入れてもらって撮影した。

 特集用の撮影が終了したら、ヘアメイクも衣装も変えて連載用の撮影。ペットと一緒の撮影だが、3階のスタジオには扉がなく、猫が脱走しては大変なので入口の前で担当編集者が構えていた。
 特集用と連載用合わせても撮影時間は30分ほどだったと思うが、ヘアメイクや着替え、お昼ご飯休憩で3時間ほどかかっただろうか。
 ペットと一緒の写真は自然光だけで、他の写真はストロボと自然光のミックスだったと思う。
 この撮影が2007年2月だったが、翌月にインテリアデザイナーの森田恭通さんとの再婚が発表され、7月25日にフランスの教会で挙式を行ったそうだ。
 2014年に宝塚歌劇団創立100周年を記念して創設された「宝塚歌劇の殿堂」最初の100人の一人として殿堂入りされている。

YouTubeから「エニシングゴーズ&あなたに夢中、夜明けまで踊り明かそう/大地真央」 「情熱のバルセロナ/大地真央、黒木瞳

大地真央 公式ウェブサイト

目黒区駒場 ART WORKS KOMABA 2007年2月1日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2007年5月号
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2007年6月号
#大地真央
#MaoDaichi
#NOPETNOLIFEペットと私
#宝ジェンヌ
#アーカイブ

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◯剣幸

 富山県出身の、元宝塚歌劇団月組トップスター。宝塚の中でも歌が上手いことで知られ、愛称は”ウタコ”さんだった
 高校卒業後、宝塚音楽学校を受験し合格、1974年に60期生として宝塚歌劇団に入団。芸名の剣は立山連峰の剱岳に由来し「剱岳のような厳しい頂を目指してほしい」と、母校・富山工業高等学校の恩師が名付けたという。
 1985年に大地真央さんの退団を受け、月組の男役トップスターに就任。以来、1990年に退団するまでの5年間トップを務めた。
 剣さんを撮影したのは、宝塚を退団してまだ1年ほどの頃だった。知人のデザイン事務所から依頼されて、彼女のファン向け冊子『MT PRESS』の撮影や編集を手伝った。
 一番最初にお会いしたのは稽古場で、1991年11月発行の『MT PRESS vol.1』創刊号に載せるインタヴューを行なった気がする。そして、その年のクリスマス・イヴに北品川にあったホテル・ラフォーレ東京でのディナーショーを撮影している。
 ディナーショーの写真は1992年1月発行の『MT PRESS vol.2』(新春特別号)の中ページ、2月発行の『MT PRESS vol.3』の表紙で使われている。
 掲載した写真は、豪華客船「おりえんとびーなす」に乗船して、剣幸と楽しむ一泊2日のクルージングという企画を紹介するページ用に撮影したもの。クルージングではショーやオークションの他に、「ウタコを探せ」というゲームが用意され、これは変装した剣さんが船内に出没するので探すというもの。そのゲーム用のイメージ写真として撮影した。
 1992年のスケジュール帳を見ると、1月21日の欄に<12時~MTスタッフ撮影、4時30分~剣幸変装Photo撮影>とあるので、この日だろう。変装というより仮装のようになっている(笑)。撮影場所は、舞台道具のレンタル屋さんではなかったか。覚えているのはスタッフと車で剣さんの自宅マンションへ迎えに行き、途中に青山のかおたんラーメンへ寄ったこと。剣さんの奢りでラーメンをご馳走になった。
 ディナーショーの写真はフィルムごと事務所に渡して無いが、このモノクロの変装写真は自分の記録用として撮影して手元に残っていたのだろう。
 2011年から2015年まで、富山のオーバード・ホール名作ミュージカル上演シリーズの全作品に出演。2016年には「宝塚歌劇の殿堂」顕彰者に選出されている。
 昨日から、北日本新聞の連載「人生(たび)のあとさき」剣幸編が始まっている。

YouTubeから「愛の讃歌/剣幸

SUPER GIFT! 舞台映像

剣幸 公式ウェブサイト

1992年1月21日撮影
初出『『MT PRESS vol.3』1992 February
#剣幸
#MiyukiTsurugi
#ウタコ
#宝ジェンヌ
#アーカイブ

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剣幸

9月17日(火)

 大型のコンバインが来て、家の隣の田んぼの稲を30分ほどで刈っていった。今日は中秋の名月だそうで、景色はすっかり秋だが、気温は夏のままだ。
コンバイン

 朝日新聞が、安倍元首相と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の会長らが自民党本部の総裁応接室で面談した際のものとされる写真を公開した。まぁ、そんなこともあるだろうと写真自体に驚きはしないが、一緒に写っている萩生田光一議員が写真は自分であると認めながらも、事務所には面会記録はなく記憶もないと臆面もなく話したことに驚く。事務所に記録はなくとも、一緒に写った写真が何よりの記録だろう。この新たな事実に対して、岸田首相は再調査をしない考えを示した。そもそも岸田首相自身が2019年、世界平和統一家庭連合の友好団体トップと自民党本部で面会しているが、そのことの説明責任すら果たしていないのだから当然か。旧統一協会問題も裏金問題もウヤムヤにしたまま総裁選で新たな顔を選んでも、自民党が生まれ変わるとはとても思えない。
 自民党と立憲民主党のダブル党首選で他の党の影が相対的に薄くなるのはしょうがないが、そんな中でも維新の党は不祥事続きでマスコミを賑わしている。兵庫県の斎藤知事に始まり、日本維新の会・元衆院議員による中学1年の女子生徒に対する性的暴行や、日本維新の会・無所属の会に所属する市議二人による議会への自作自演の請願提出。こんなもの政党ではなく単なる反社組織だろう。
 奄美大島に接近し最大8000戸が停電した台風13号 の記憶もまだ鮮明だが、明日から明後日にかけて台風14号が沖縄・奄美に近づく見込みだ。

 この他の気になった記事を備忘録として。
『ブラタモリ』8ヶ月ぶり復活&番組史上初の三夜連続放送 タモリ「道は面白いです」【コメント全文】
東電、福島デブリ採取装置に異常 第1原発2号機、カメラに写らず
下北沢の伝説的ジャズバー「LADY JANE」来春閉店へ 松田優作が愛し、中島みゆきが歌にした半世紀
ビーチ・ボーイズのかからないビーチ・ボーイズ特集 『山下達郎サンデー・ソングブック』9月22日放送
浅草サンバカーニバル、5年ぶり「完全復活」 47万人を魅了「見ているだけで元気に」

トッド・ラングレン

◯トッド・ラングレン

 米国フィラデルフィア出身のミュージシャンであり、プロデューサー。自身で全ての楽器を演奏し自宅録音を行う、マルチプレイヤーとしても知られている。ApplelⅡ時代からアップルのユーザーであり、アップルのコマーシャル映像やイベントにも登場したことがあるそうだ。
 これまでにプロデュースしたバンドやアーティストは、ザ・バンド、ニューヨーク・ドールズ、グランド・ファンク・レイルロード、ホール&オーツ、パティ・スミス・グループ、チープ・トリック、XTC、レピッシュ、高野寛など多岐にわたる。高野寛は、トッド・ラングレンに大きな影響を受けたことを公言している。
 写真は、CD-lというフィリップス社のフォーマットを採用したアルバム『ノー・ワールド・オーダー』を発売した1993年の来日ライヴ。『ノー・ワールド・オーダー』は専用の再生装置があればリスナーが再生を制御できるなど、インタラクティブ(双方向性)をコンセプトにしていたが、ライブの方も前列の客にスティックを渡して参加させるなど、インタラクティブな方向を目指していた。

 フロアの中央にキーボードやパソコン、照明や音響設備が組み込まれた小さなステージが設けられ、360度まわりを観客に囲まれたトッド・ラングレンが全ての装置をコントロールする。
 来日時のものではないが、『ノー・ワールド・オーダー』のライヴ映像がYouTubeにUPされていたので、リンクしておきます。
 撮影した当時、この『ノー・ワールド・オーダー』を買ってCDプレイヤーで再生したが、インタラクティブ機能がないだけで、普通にCDとして再生できた。

YouTubeから「No World Order/Todd Rundgren

トッド・ラングレン 公式ウェブサイト

渋谷オン・エア 1993年10月26日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年12月号
コンサート評は小野島大さん
#トッドラングレン
#ToddRundgren
#アーカイブ

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ダン・ヒックス

◯ダン・ヒックス

 1941年生まれ、アメリカのアーカンソー州出身の歌手。5歳の時にサンフランシスコに移住し、高校時代は地元ラジオ局で『Time Out For Teens』という毎日15分の番組を受け持っていたという。
 1965年にサンフランシスコのフォーク・バンド、ザ・シャーラタンズに加わりドラムを担当する。その後、ダン・ヒックス&ヒズ・ホット・リックスを結成し、1969年にエピック・レコードから1stアルバム『ダン・ヒックス&ヒズ・ホット・リックス』をリリースした。
 ダン・ヒックスを撮影したのは、1989年以来12年ぶりとなる来日コンサートが行われた2001年。前年にリリースした9枚目のアルバム『ビーティン・ ザ・ヒート』が高く評価され、『ミュージック・マガジン』4月号では「スウィングでビーティン・ザ・ビート ダン・ヒックスとアコースティック・スウィングの魅力」と題した巻頭カラー24ページの大特集が組まれた。その特集の中のインタヴュー頁の撮影だった。インタヴュアーは今野雄二さんで、取材場所はダン・ヒックスが宿泊していた九段のホテルグランドパレス。

 ジャズやフォーク、カントリーやラグタイムなどの要素を持った彼の音楽だが、今野さんが若くして亡くなったシンガー・ソングライター、ティム・ハーディンについてどう思っているか尋ねると、こんな風に答えていた。
「ティム・ハーディンは好きだ。彼のいくつかの曲はジャジーなフィーリングに溢れていて、例えば<ミスティ・ローゼス>などには共感するね。ギターを手にとりシンプルに歌い始めると自然にフォークからスタートすることになるのだ。ぼくは今でもフォーク・シンガーであり、ジャズ・シンガーであり・・・ドラマーでもあったからジャズは特にね。それからカントリー・シンガーでもあったりして、それらすべての融合がホット・リックスの音楽に発展したのだ」
 ダン・ヒックスは69年から78年までに5枚のアルバム、94年から2017年にかけて12枚のアルバムを残しているが、80年代にリリースしたアルバムは1枚もない。
 今野さんが1980年前後、来日中だった写真家のノーマン・シーフにダン・ヒックスの消息を尋ねたところ、シーフから「アルコール中毒で、姿を消してしまった」という答えが返ってきたそうだ。そのことをダン・ヒックスに伝えると、
「そうだね。消えたかどうかはともかくとして、ぼくは色々な小さなコンボを組んで絶えず演奏は続けていたのだから・・・飲み過ぎで、断酒を余儀なくされたのは1985年だった。確かに彼(シーフ)の言う通りだね。リハビリ?今も定期的にA・A(アルコホリック・アノニマス)というサポート・グループの集まりに顔を出しているんだ」
 ダン・ヒックスはこのインタヴューをした年の12月8日で60歳、還暦を迎える年齢だった。それから15年たった、2016年2月6日、喉と肝臓の癌を患って亡くなってしまった。74歳だった。
 掲載したポートレートは、今野さんのインタヴューの後、ホテルの周辺で撮影した。靴の片方を頭に乗せた写真は、こちらが指示してお願いしたわけでもなく、彼が急に地面に座り靴を脱いで頭に乗せたので、急いでレンズを向けた。靴の質感もキレイに出ていて好きな写真だ(笑)。
 当時メモがわりに持っていたフロッピーディスクに記録するデジカメ、ソニーのマビカで今野さんとダン・ヒックスのツーショットを撮影したので、今野さんにメールで送りましょうか?というとパソコンがないのかネット回線がないのか忘れたが、メールでは送れなかったのでプリントして代官山のご自宅へ郵送した。後日、”前略 ダン・ヒックスとの写真、ありがとうございます。大感激!!”と書かれたハガキが届いた。
 
YouTubeから「Canned Music/Dan Hicks & The Hot Licks

"I Don't Want Love" on Conan/Dan HIcks

ダン・ヒックス 公式ウェブサイト
http://www.danhicks.net

九段・グランドパレス 2001年2月15日撮影
初出『ミュージック・マガジン』2001年4月号
インタヴュアーは今野雄二さん
#ダンヒックス
#DanHicks
#ホットリックス
#HotLicks
#アーカイブ

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9月15日(日)

◯松竹大歌舞伎

 バブルの頃はメセナという言葉が流行り、企業が文化事業に進出することもよくあった。英国の紅茶「トワイニング」の輸入販売で知られる片岡物産も、バブルの頃に片岡物産株式会社出版事業部を立ち上げて『ゴールドエイジ』というシニア向けの雑誌を出版していた。
 定年退職後の人生を実りあるものにするための参考書的な雑誌で、毎号「PEOPLE」というコレクションの収集やツーリング、書道や仏師など趣味を生かして充実した生活をおくっている方を紹介するページでの撮影を担当した。
 松竹大歌舞伎を撮影したのは、秋田県の小坂町にある芝居小屋「康楽館」での公演だった。康楽館は明治43年(1910年)、小坂鉱山の福利厚生施設として建てられたもので、東北地方では唯一の廻り舞台がある芝居小屋だった。しかし、建物の老朽化やテレビの普及によって昭和32年に閉鎖された。その後は、天井がムクドリの棲み家に、奈落は近所の人の漬物置き場に、そして小屋自体が倒壊の恐れがあるほど痛んでいたという。
 そんな康楽館に再び灯りをともそうと有志が集まり、昭和59年に町の負担で復元工事が開始され、2年後の昭和61年7月に竣工した。同年の3月25日には秋田県の有形文化財にも指定されている。
 取材先の主役は松竹大歌舞伎ではなく、康楽館再建に尽力した一人で、元小学校教師の木村忠夫さん(当時65歳)だった。幼い頃から芝居が好きで康楽館に出入りし、教員になってからも児童劇団を作ったり演出をしたりしたそうだ。取材当時は「康楽館を守る友の会」副会長兼事業部長という肩書きだった。
 康楽館は和洋折衷の木造芝居小屋としては日本最古だそうだ。2002年には国の重要文化財に指定されている。コロナ禍で休止されていた時期もあったようだが、今も毎年松竹大歌舞伎の公演が行われている。

YouTubeから「康楽館『松竹大歌舞伎』2023.7.8~9

松竹大歌舞伎 公式ウェブサイト

康楽館 公式ウェブサイト

秋田県小坂町・康楽館 1989年7月1日?撮影
初出『ゴールドエイジ』(片岡出版)1989年11月号
#市川團十郎
#DanjuroIchikawa
#澤村田之助
#TanosukeSawamura
#中村芝雀
#ShibajyakuNakamura
#河原崎権十郎
#GonjuroKawarazaki
#アーカイブ

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松竹大歌舞伎
梅沢富美男 池田明子

◯梅沢富美男 池田明子

 梅沢富美男、池田明子ご夫妻を撮影したのは、健康雑誌の「NO PET,NO LIFE,ペットと私』という連載だった。
 下町の玉三郎こと、梅沢富美男さんは大衆演劇における女形のスター。2012年からは兄の梅沢武生氏から引き継いで「梅沢劇団」の座長を務めている。また、舞台だけではなくテレビにCMにと引っ張りだこのご様子だ。
 奥さんの池田明子さんは、フィトセラピスト(植物療法師)。2006年に東京・自由が丘に植物療法師とハンドケアセラピストを養成する「ソフィアフィトセラピーカレッジ」を設立し、校長を務めている。
 この連載にご夫婦で登場していただくキッカケは、マキノ出版から発売された池田明子さんの著書『草花のオーラで幸せを呼ぶ本』の撮影を担当したからで、2009年の8月に田園調布のご自宅で庭の植物やポートレートを撮影させていただいた。その時に大きな犬を飼われているのを知って、連載への出演をオファーした。返事は直ぐにいただけて、10月7日に再びご自宅へお伺いして、ペットと一緒の写真を撮らせていただくことになった。

 当時飼われていた犬はアレックスと名付けられたジャーマンシェパードで、警察犬訓練所から譲り受けたそうだ。梅沢さんからはペットというより番犬として飼っているといわれ、あまり近づかないよう注意を受けた。
 当日は朝から雨で、2階のテラスにカフェのような布製の庇を出してもらってアレックスと一緒の写真を、そして玄関前の通路で相合い傘をさしてもらってポートレートを撮った。
 残念ながらジャーマンシェパードのアレックスは亡くなったそうだが、チワプー(チワワとプードルのミックス)の夢ちゃん、保護犬だったヨークシャーテリアのマリさんが家族に加わっているようだ。

YouTubeから「夢芝居/梅沢富美男

梅沢富美男 公式ウェブサイト

池田明子 オフィシャル・ブログ

田園調布 2009年8月24日撮影
田園調布 2009年10月7日撮影
初出『草花のオーラで幸せを呼ぶ本/池田明子』(マキノ出版)
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2010年2月号
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9月13日(金)

 音楽プロデューサーの川添象郎さんが、今月8日に亡くなったそうだ。1977年に村井邦彦さんとアルファ・レコードを創設し、荒井由実やサーカス、ハイ・ファイ・セットなどをリリースした。父親はイタリアンレストラン「キャンティ」の創業者・川添浩史さん、元妻は女優の風吹ジュンさん。
 台風13号が明日未明から奄美・沖縄に接近し、通過していくようだ。
 多良間島の豊年祭「八月踊り」が9月10日〜12日に豊見城市高安で12年に一度辰年の旧暦8月9日に行われる「龕(がん)ゴウ祭」が9月11日に行われた。どちらも撮影したかったが、スケジュールがあわなくて出来なかった祭祀だ。
出光ケイ

◯出光ケイ

 80年代後半から90年代初め、<文系ビジネスマンが楽しむハイテク生活の本>というキャッチフレーズがついた『ALEK』というビジネス雑誌があった。出版元はアレック情報出版といい、確かSANYOの系列会社だと聞いた。
 リニアモーターカーや書斎、健康ランド、リゾートなど様々なテーマの特集があって取材は大変だったけれど面白かった。まだライターの仕事とカメラマンの仕事が半々くらいの頃だった。
 スポーツキャスター、スポーツジャーナリストの出光ケイさんを取材したのは、「いま29歳がおもしろい」という巻頭特集だった。雑誌のメインターゲットが30歳前後のサラリーマンだったので、こういう特集が組まれたのだろう。なぜ出光さんを取材相手に選んだのか忘れたが、1961年生まれの出光さんは、ちょうど29歳だった。

 この取材の際、彼女が「コンピューターが好きなんです」と話したことがきっかけで、当時撮影していた毎日コミュニケーションズ(現・マイナビ)のパソコン雑誌『THE 1・2・3 MAGAZIN』の連載をお願いすることになった。女優で投資家のあいはら友子さんがパソコンを活用している企業を取材する「あいはら友子のハイテクトーク」という連載が終了する頃で、編集部が次に連載を担当してくれる人を探していた。出光さんがパソコンに興味があると言っていたと担当編集者に伝えると、話が進み「出光ケイのフリートーク」という連載が始まった。
 当時のスケジュール帳を確認すると<2:30に京王プラザのフロントあたり、出光ケイ取材>というメモがあり、同じ日の欄に<高市さなえ 5:00キャピトル東急のメインラウンジ>というメモがある。高市さんも「いま29歳がおもしろい」という特集で取材している。
 以下は、当時書いた原稿の全文。

<自分に何ができて、何ができないか試行錯誤の29歳>

「まだまだ可能性は大いにあるし、もっと野望を抱いてもいい年齢だと思うんです。自分で決めつけたり、フケこむ年ではない」
 29歳という年齢を出光さんはこう語る。実際、自分自身も昨年TBSのスポーツチャンネルを降りた時点で、ドラマ、クイズ番組、ワイドショー等にも出演し、自分に何ができるのか試行錯誤していると話す。
「それに自分の弱い所を他人に見せたっていいと思うの。甘えるところは甘えていいし、泣きたければ泣けばいいし、わかんない事は、わかんないと聞ける年齢でもある。で、教えてもらった時に、自分にはコレが足りなかったナと感じたら、それから勉強するのも手ですしね。そういう意味では私達、まだ取り返しのつく年齢だと思うから」
 確かに平均寿命が伸び、定年が伸びた現在なら今からやりたいことを始めても遅くはないのかもしれない。
「私、今からでもOLできると思ってる」と、笑う。
「私はコンピューターが好きなんです。だから場合によっては今から専門学校に通って勉強すればSEになれると思うし、これから語学をやってバイリンガルになることも可能だと思ってます(笑)。
 これはズーズーしい私の性格もあるけれど、でも、まだそういった余地はある」
 では、自分が何をするべきか、ハッキリとした目的意識・目標を立てる年齢は?
「私は一生決めないかもしれない。”目標を立てなくちゃいけないよ”という人もいるけれど、私は自分の好奇心が人より勝っていると思うし、それが向上心に継がるだろうから、あえて目標はいらないと思ってるんです。それに、自分に必要のないものは自然と振り落とされていくと思うんですね」
 自分の好奇心を信じ、流れるままに生きながらも小さい頃からの夢だったスポーツマスコミの世界で活躍する出光さん。そこには、流れるままと言いながらも、チャンスに対しては常に積極的であったという姿が見える。
「チャンスは前側でつかむようにしてきた。チャンスの神様は長い前髪しか生えていなくて、横に並んだ時にはもうつかめない。この言葉は大学の時に聞いたんだけど、私のそれまでの生き方、考え方とマッチしたんです」

「今、本を読みたいですね。色んな人の生き方を知りたいから歴史小説をもう一度」「英会話も勉強したい」「あと1年か2年のうちにアメリカかヨーロッパのツアーに1年程同行して、一人のゴルファーを追いかけてみたい。ゴルフは個人スポーツであり、メンタルな意味で一番厳しいスポーツだと思うから」
 次々に意欲的な言葉が飛び出してくる。凛とした態度で、淀みのない口調で語られるその言葉の数々に29歳という年齢の可能性を、改めて考え直させられる。
「だって、これからじゃないですか私達」

新宿・京王プラザホテル 1990年5月14日撮影
初出『ALEK』(アレック情報出版)1990年8月号
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#いま29歳が面白い!!
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高市早苗

◯高市早苗

 昨日、自民党総裁選の告示が行われ、過去最多の9人が立候補した。
 高市早苗経済安全保障担当相も自民党総裁選に出馬することを表明し、すでに今月9日に記者会見を開いている。国力を強化するには何よりも経済成長が必要だとして、「経済成長をあくまでも、どこまでも追い求める。日本をもう一度、世界のてっぺんに押し上げる」と語った。世界のてっぺんにもう一度、ということは一度は世界のてっぺんに上ったことがあるという認識なのだろうか。パナソニックがユニバーサルを、ソニーがコロンビア・ピクチャーズを、三菱地所がロックフェラー・センターを買収したバブルの頃を指しているのだろうか。
 バブルの頃に、高市早苗さんにインタヴューをしたことがある。<文系ビジネスマンが楽しむハイテク生活の本>というキャッチフレーズがついた『ALEK』というビジネス雑誌の取材だった。「いま29歳がおもしろい」という特集で、当時29歳の彼女に話を聞いた。

 頂いた名刺の肩書きは「亜細亜大学日本経済短期大学専任教員 (財)松下政経塾 塾員」と書かれていたが、前年に初めての著書『アズ・ア・タックスペイヤー』(祥伝社)を出版し政治評論家としてテレビにも出ていた頃だ。
 バブル崩壊後の30年、日本の舵取りをしてきたの主には自民党だ。彼女自身、1993年から政治家となり、1996年11月に新進党を離党してからは自民党所属議員となっている。2006年の第1次安倍内閣で初入閣して以降は、大臣経験も積んでいる。その自民党の舵取りで日本経済は低迷し、第2次安倍内閣が掲げたアベノミクスのおかげで、抜き差しならない状況に陥っている。安倍路線を継承しアベノミクスに続くサナエノミクスを打ち出し、さらなる金融緩和も提唱しているというが、「何よりも経済成長だ」というなら、あなたも閣僚として関わったアベノミクスの検証と反省を先ずするべきだろう。円の価値が暴落し金利を上げると株価が下がるなどは、まさにアベノミクスの弊害で、日本経済は重病に陥っている。
 記者会見では「国家の主権と名誉を守り抜く」という発言があり、主権国家を強調していたが、それならば不平等極まりない日米地位協定の見直しをするべきだろう。
 サイバーセキュリティ対策など国家安全保障についても触れていたが、旧統一教会問題が湧き上がった2年前、彼女は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)系の世界日報社が発行する月刊誌に自身の対談記事が掲載されていたことを明らかにした上で「旧統一教会と関わりがある雑誌だとは知らなかった」と釈明している。その雑誌は「ビューポイント」だそうだが、それが本当なら雑誌で対談したことより、そんな情弱な人が政治家として要職に就いている方が問題だろう。こんな情弱で脇の甘い人が、やれ敵基地攻撃能力だ防衛費増額だなどと騒いでいるのが滑稽であり恐ろしい。
 選択的夫婦別姓については、ビジネスネームとして使う通称使用の拡大など法律を整備して別姓でなくても不都合が生じないようにするというが、アレコレ法律をいじるより選択的夫婦別姓を実現する方が合理的だろう。選択的夫婦別姓で家族感や絆が崩壊することなどないだろうし、合理的判断ができないのは選択的夫婦別姓に反対している日本会議や旧統一教会からの票を念頭に置いているとしか思えない。
 政治資金収支報告書への不記載のあった議員の選挙での公認・非公認といった処遇について聞かれると、決着した処分を総裁が変わったからといってちゃぶ台返しするということはしないと答えている。裏金議員の容認だ。それはそうだろう、彼女の推薦人20人のうち13人が裏金議員だった。安倍派の裏金問題に彼女の名前はないが、彼女自身も過去に支部交付金150万円の不記載や、国の公共事業を請け負っていた事業者からの寄付を受け取っていたなどの不祥事がある。決してお金にクリーンなイメージの政治家ではない。 
 世界のてっぺんを目指よりも、政治家が不祥事を起こしたらちゃんと罰せられる、三権分立が機能するまともな国になって欲しい。先ずは、そこからだろう。
 出馬会見の最後は「私達が生きている今、それは誰かが命懸けで守ろうとした未来だった」と抒情的に結んだが、太平洋戦争で亡くなった兵士の6割は餓死だと言われている。
 彼女の最初の著作『アズ・ア・タックスペイヤー』とは「納税者として」といった意味だ。そして本の副題には<政治家よ、こちらに顔を向けなさい>とついている。今この本を読まなくてはならないのは、彼女自身ではないだろうか。
 以下は、当時雑誌に書いた原稿の全文。インタヴューは1990年に行ったが、この2年後にはバブルが崩壊した。彼女だけではないが、当時バブルは2010年頃まで続くと思われていたようだ。

<私達の世代が政治家を作って行けば、政治は変わる>

『アメリカのビジネスマンはより良い条件で転職するために、会社で働いた後に大学院へ行ったり、専門書を山程買い込んで毎晩勉強している人が多いわよね。中には5年間かけて修士を取る人もいる。だから、彼らと3カ月おきに電話で話すと、常に新しい話題を持ってたり、新しい専門を開拓してて”ワァ、負けた”っていう敗北感を感じるの。ところが日本の同じ年頃のエリートは、確かに会社でやってる仕事はグレートなんだけどアフター5は残業と接待で終わってるわよね」
 アメリカ連邦議会立法調査官として勤務した経験を持つ彼女は、29歳のビジネスマンを比較して、まずアフター5の違いを指摘した。そして「何か一つの事件がおきた時、どこまでの範囲でものを考えられるか」の違いもあげる。
「例えば株が大暴落した時に向こうのコは”今ニューヨークが落としたから、次に東京が買い支えてくれないとロンドンへ行って、その後またニューヨークに戻ってくる。もし東京が買い支えられないと海部政権はブッシュからの信頼を失うことになる”そんな風に、日本の政権に与える影響にまでピッと頭が行くわけ。金融に携わっていないコでも」
 この違いは教育システムの差だという。
「向こうは小学6年生でも円高や為替ルートについて、新聞の切り抜きを持ち寄って議論しているの。日本だと政治の話をするのはウサンクサイけれど、アメリカでは政治の話ができなきゃバカだから」。そして彼女自身も「日本的な教育を受けてきたから、20歳過ぎてもしばらくは政治なんか全然興味なかった」と、続けた。
 日本を評して”経済一流、国民生活二流、政治は三流”という言葉がある。これはその政治意識の低い国民ということに継がる。
「一つには政治に期待しないのよね、私達。どうせ日本は政治三流だから、あのオヤジ達に勝手にやらせときゃイイヤっていう。
 でも、私達、あのオヤジ達に、ムチャクチャ税金を払ってて、それを無駄に使われてるわけじゃない。
 アメリカは経済がいい状態の時に社会資本を整備したから道路は広いし、家も広いし、高速道路はタダ。福祉施設も育児施設もいっぱいある。そういうところに日本も今からお金を使ってくれないと、年をとったら安楽に暮らせないじゃないの。
 日本の経済力なんて、ある程度土地の値段でしょ。アメリカの研究所が今、日本の繁栄は後何年続くかレポートを出して来ている。一番早いのは1991年。それは極端にしても2010年というレポートがいくつも出ている。そんなのあと20年じゃない。その間に日本の社会資本が整備されるかっていうと・・・まァできないわよね。今のお金の使い方じゃ。だから、その辺のことを私達がそろそろ考えていかないと」
 しかし、29歳・・・あるいは20代、30代の人間が政治意識を変えたからといって、簡単に政治が変わるとは思えないのだが?
「変わると思う。だって私たちの世代で政治家を創って出して行けば、確実に20年後はその人達が力を持っているんだから」
 気負いもなく、おだやかな京都訛で鋭い政治改革を口にする。表情豊かに嘆いたり、笑ったりしながら話す彼女に”政治を語るウサンクササ”は無く、身近ささえ感じさせる。
 大学の講師、TV出演、講演という多忙な毎日をおくる彼女。中でも自分の考えを伝えられる講演に力を入れているという。その数は平均して月に20本。
「話をして歩きたい。私が話すことで政治が変わるなんて思っていないけれど、話すことが自分にとって一番勉強になるから。話した結果、いろんな反論や質問が返ってくる。そうすると私は勉強できるし、お互い一緒に考えている土壌ができるじゃない」

高市早苗 公式ウェブサイト

赤坂・キャピトル東急ホテル 1990年5月30日撮影
初出『ALEK』(アレック情報出版)1990年8月号
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9月11日(水)

 9月に入って少し涼しくなってきたかと思ったら、昨日と今日はまた高岡も猛暑日一歩手前で、夜になっても気温が下がらず熱帯夜だ。
 昼間、スーパーへ買い物に出かけると、道路上に今月21日、22日に行われる「つくりもんまつり」の提灯の飾り付けが行われていた。つくりもんが終わると、28日は集落の秋祭りで、今年は班長なので家に獅子舞が来る。

 気になった記事を備忘録として。
JCJ大賞に赤旗日曜版 自民党裏金問題スクープ
やっと着手した「デブリ取り出し」を阻むあまりに高い放射線 福島原発「880トン」回収へ果てしない道のり

シュガー

◯シュガー

 ニルヴァーナが影響を受けたと公言しているハードコア・パンクバンド、ハスカー・デューを解散したボブ・モールドが、1992年に結成したロックバンド。92年9月にリリースしたデビューアルバム『Copper Blue』は全英10位を記録、NMEのアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞した。『Copper Blue』からシングルカットされた「If I Can't Change Your Mind」は、まさにパワーギター・ロックバンドという感じで、そのシンプルな音と疾走感が気持ち良かった。
 このデビューアルバムの高評価を受けて、翌93年に初来日。2月2日大阪クラブ・クアトロ、3日名古屋クラブ・クアトロ、4日渋谷オン・エア、5日渋谷クラブ・クアトロというスケジュールで、ライヴは4日の渋谷オン・エアを撮影した。また、ライヴに先立つ2月1日に日本での発売元である日本コロムビアで、インタヴュー撮影をしている。
 シュガーとしては3枚のアルバムを残し、1996年に解散。ボブ・モールドは現在、ソロ・アーティストとして活動している。

YouTubeから「If I Can't Change Your Mind/SUGAR

ボブ・モールド 公式ウェブサイト
https://bobmould.com

赤坂・日本コロムビア 1993年2月1日撮影
渋谷オン・エア 1993年2月4日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年4月号
インタヴュアーは岡村詩野さん、通訳は丸山京子さん
コンサート評は大鷹俊一さん
『ミュージック・マガジン』1993年6月号で再使用されている
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#デヴィッドバーブ
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レイ・デイヴィス

◯レイ・デイヴィス

 1963年に弟のデイヴ・デイヴィスと結成したイギリスのロック・バンド、キンクスのヴォーカルであり、サイド・ギターであり、ソングライター。
 1964年にデビューし、3rdシングル「ユー・リアリー・ガット・ミー」が世界的なヒットとなった。バンドは1990年にロックの殿堂に入ったが、1996年に解散してしまう。解散後、ソロ活動を行いキンクス時代の1枚を含め、これまでに6枚のソロ・アルバムをリリースしている。
 レイ・デイヴィスを初めて撮影したのはライヴだった。1995年の暮で、よみうりホール。掲載誌を読み返すとサポート・ミュージシャンはギタリスト1名だけの、アンプラグドなコンサートだったようだ。
 次に撮影したのは’99年の夏、フジ・ロック・フェスティバルのために来日した際に、『レコード・コレクターズ』の取材でインタヴュー写真を撮っている。大鷹俊一さんがインタヴュアーで、そのインタヴュー記事の冒頭で取材した理由を、こんな風に書いている。

<ボックスや初期BBCライヴものがそう遠くない時期には出そうな雲行きだったので、インタヴューをとってタイミングを合わせ特集でも、という遠大な計画だったのだが、さすが年季の入ったキンキー・オヤジ。さっぱり大ネタ企画が進む気配すらない。このままでは古びていくばかりなので、掲載してもらうことにした。題して”早くやってよ、キンクス決定版ボックス”待望会談記>
 取材内容は初期のアルバムから順に振り返る内容、そしてレイ・デイヴィスのソング・ライターとしての方法論の話しから、最後はキンクスの再結成について触れている。
「オリジナル・ドラマーのミック・エイヴォリーはいまもコンク・スタジオで仕事をしてるので、キンクスのレコードを作ろうという話もしているんだ。でもいつのキンクスでやるか、という点で話がまとまらない。オリジナルのバンドか?それとも『ギヴ・ザ・ピープル・ホワット・ゼイ・ウォント』を作った頃のバンドか?デイヴは後者を希望してるが、ミックと僕は前者でやりたいと思っててそこで話が折り合わないんだ」
 最近もレイと弟のデイヴの音楽誌でのコメントなどがネットで時折流れてくるが、今だに再結成に至っていないのは、まだ話が折り合わないのだろうか。

YouTubeから「you really got me/The Kinks

Working Man’s Caf’e/Ray Davies

レイ・デイヴィス 公式ウェブサイト

キンクス 公式ウェブサイト

有楽町・よみうりホール 1995年12月18
初出『ミュージック・マガジン』1996年2月号
コンサート評は小塚昌隆さん

赤坂・キャピトル東急ホテル 1999年8月1日
初出『レコード・コレクターズ』2000年1月号
インタヴューは大鷹俊一さん
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#キンクス
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9月9日(月)

 今日は昭和99年9月9日だそうだ。

 長崎で原爆投下の被害に遭いながら、国が引いた被爆地域の線引きからはみ出しているため被爆者とは認められなかった被爆体験者44人が、長崎市や長崎県に被爆者健康手帳の交付を求めて訴訟を起こしていた。その判決が今日行われ、一部の原告に手帳の交付が命じられた
 被爆体験者という奇妙な言葉は写真家・大石芳野さんの『長崎の痕』(藤原書店)で知った。昨年の長崎原爆の日に、被爆体験者について触れている。

 この他の気になった記事を備忘録として。
大谷翔平 46号 ホームラン・盗塁ともに「46」大リーグ記録更新
沖縄路線バスの無料乗り放題「遠出は久しぶり」 初の日曜日 バス停に行列、ぎゅうぎゅう詰め車内も

黒沢年雄

◯黒沢年雄

 ヒット曲「3年目の浮気」で知られるヒロシ&キーボーのヒロシこと黒沢博さんが亡くなったことを、兄の黒沢年雄さんが自身のブログで発表した。
 ブログには「3年目の浮気」の作詞作曲をした佐々木勉さんから黒沢年雄さんに歌って欲しいと打診されたが断ったこと、すると経緯はわからないが弟の博さんが歌うことになったことなども綴られている。
 黒沢さんを撮影したのは『月刊カラオケ大賞』というカラオケ雑誌で、1989年のこと。黒沢年男から黒沢年雄に改名されたのは2000年なので、この時はまだ黒沢年男さんだった。ちなみに本名は黒沢年男。
 撮影場所は赤坂の東芝EMIの会議室で、wikiによるとこの年に日本コロムビアから東芝EMIに移籍し「媚薬」というシングルをリリースされている。
 インタヴューの撮影だが、本人から「話している時に写真を撮られると気が散るので、話しているジェスチャーをするから、それを撮ってくれ」と注文があり、しばらく身ぶり手ぶりで表情を作っているところを撮影した。これまでインタヴュー写真もたくさん撮ってきたが、このような珍しい注文をされたのは後にも先にも黒沢さんだけだった。

 1978年に発売された黒沢さんの代表曲ともいえる、なかにし礼作詞の「時には娼婦のように」は大ヒットし、オリコンのチャートで2位を記録している。
 俳優としては1964年の映画『女体』(東宝)がデビュー作で、以降、映画、テレビドラマに多数出演されている。
 近年は夢グループと提携し、同社が運営するコンサートに出演されているようだ。

YouTubeから「時には娼婦のように/黒沢年男」 「ゆかいなじいちゃんMV Full Ver./黒沢年雄

黒沢年雄 オフィシャルブログ

赤坂・東芝EMI 1989年7月5日撮影
初出『月刊カラオケ大賞』(中村出版)
#黒沢年雄
#黒沢年男
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石鍋裕 小山裕久

◯石鍋裕 小山裕久

 1990年代は音楽雑誌と料理雑誌の仕事が多かった。仕事が重なると昼間にメキシコ料理の撮影をして、夕方からヘビメタのライヴ撮影ということもあった。
 料理は主に柴田書店の発行する雑誌『フード・ビジネス』や『月刊食堂』、それから各種ムック本での撮影で、飲食関係は原稿を書くことも多かった。柴田書店の雑誌の中でも『専門料理』はプロの料理人のための雑誌で、料理撮影のレベルが高く、基本4X5のカメラなので料理の撮影依頼はなかったが、食材のルポルタージュやシェフのポートレートなどを撮っていた。今はどうかわからないが、当時、料理写真のクオリティーは柴田書店か世界文化社といわれていたように思う。
 石鍋裕さんはご存知『料理の鉄人』の初代フレンチの鉄人で、「クイーン・アリス」のオーナー・シェフ。小山裕久さんは徳島の料亭「青柳」の3代目主人。このお二人を、広尾のクイーン・アリスで撮影した。「フランス料理と日本料理、技術論について語ろう」と名づけられた対談の撮影だった。担当編集者からの注文は、堅苦しく真面目なイメージのある『専門料理』らしくないポートレートということだったので、バー・カウンターに寄りかかって雑談している風な写真も撮っている。

 編集者の注文に応えられたかどうかは判らないが、この当時、自分の髪型がなんちゃってドレッド・ヘアだったので、石鍋さんから「柴田書店も変わったね(笑)」と言われたのは覚えている。
 この撮影が1995年で、『専門料理』を引っ張り出して調べると2001年にも石鍋さん、小山さん、そして中国レストラン「トゥーランドット游仙境」の総料理長、脇屋友詞さんを交えた3人の対談も撮影していた。こちらも広尾のクイーン・アリスだったかもしれない。フィルムがないので、撮影してそのまま編集部に渡したのだろう。
 イタリアンのシェフ3人の対談というのも撮影したことがある。銀座「エノテーカ・ピンキオーリ」の辻智一さん、西麻布「アルポルト」の原宏治さん、大阪「ポンテ・ベッキオ」の山根大介さんがパスタについて語り合っていて、「ひと皿のパスタにはイタリア料理のすべてが盛り込まれている」というタイトルで記事はまとめられている。対談中の写真と、対談後に一人一人のポートレートを撮影した。
 取材が終わって、そのまま食事ということになった。対談場所を提供した「エノテーカ・ピンキオーリ」の辻さんから「カメラマンさんもどうぞ」と声がかけられ、「ラッキー!」と思ったら、横にいた担当編集者が「木原はこれから次の撮影が」と。後で編集者に聞いたら、取材の後の食事の支払いは編集部持ちだったそうだ。もう29年も前の話だが、こういうことは忘れない(笑)

青柳 公式ウェブサイト

広尾クイーン・アリス大使館? 1995年11月26日撮影
初出『専門料理』(柴田書店)1996年1月号
  『専門料理』(柴田書店)1996年8月号
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#YutakaIshinabe
#クイーン・アリス
#料理の鉄人
#小山裕久
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#青柳
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9月7日(土)

 今朝、デイサービスの迎えの車を待っていたら、隣の家の前に止まっている。しばらく見ていると、隣のご主人が付き添われて玄関から出てきて車に乗り込まれた。その後、車は自分の家に。スタッフの女性に聞くと、隣のご主人も今日からデイサービスを利用されるそうだ。

 ブラジル音楽界の巨匠、セルジオ・メンデスが今月5日に亡くなった。83歳だった。ブラジルのメディアによると、新型コロナウイルス感染の影響で呼吸器系の問題を抱えていたそうだ。セルジオ・メンデスについて、昨年の4月にこんなことを書いている。
 YouTubeから「Mas que nada/Sergio Mendes & Brasil66」。今聴いても都会的だが、60年代当時は本当に洒落た音楽だったのだろう。

 大谷翔平がガーディアンズ戦で45号ソロホームランを放ち、すでに達成していた46盗塁と合わせて史上初の「45本塁打、45盗塁」を記録した。

杉林仁一

◯杉林仁一

 近畿日本ツーリストが発行していた旅行雑誌『ジョイフル』1992年3月号の下町特集で撮影した、新門組の杉林仁一さん。<東京の粋人探訪>というページでの取材だった。
 新門組は三社祭のほか、浅草寺・浅草神社の祭りの設営から陣頭指揮までを代々執り行っている。 初代は江戸の火消しで鳶頭、侠客であった新門辰五郎。杉林さんは、その新門辰五郎の末裔であり、7代目組頭になる。
 身につけている半纏は浅草寺の礼服で、浅草寺の行事の時に着るそうだ。手前が跳ね上がった草履は、つっかけ草履という履き方。自宅の玄関前で撮影させていただいた。

YouTubeから「三社祭2022令和4年度宮出し(出御)宮頭による一本締めで本社宮神輿三基の同時発進

株式会社 新門 公式ウェブサイト

台東区松が谷 1991年12月
初出『ジョイフル』(近畿日本ツーリスト)1992年3月号
#杉林仁一
#JinichiSugibayashi
#新門組
#Shinmon
#東京の粋人探訪
#アーカイブ

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小安四郎

◯小安四郎

 撮影した当時は木場角乗保存会と木場木遣保存会の会長をされていた、小安四郎さん。近畿日本ツーリストが発行していた旅行雑誌『ジョイフル』1992年3月号の下町特集で撮影した。
 明治36年、月島の生まれで、10歳の頃に川並を志し、20歳の時に小安組を作る。川並とは江戸時代から昭和まで、東京・木場で木材の管理や運搬を行っていた職業で、東京湾に着いた原木をまとめて筏に組んで木場まで運んだ。この川並(筏師)が仕事の余技として始めたのが角乗で、四隅の角を取った角材を水に浮かべ、その上でバランスを保ちながら様々なポーズを決めたり梯子乗りをする。基本の「地乗り」、二人で乗る「相乗り」、片足を上げて手で扇子を開く「義経の八艘飛び」、扇子を口にくわえて逆立ちする「鶴の餌拾い」などがあるそうだ。
 木遣も粋筋の川並が編み出したそうで、歌の中の「エホー」という掛け声は、新年にその年の縁起のいい方角(恵方)に木の末口(細い方)を向けて祈願するところからきているという。もとは仕事歌だが、今ではめでたい結婚式などに招かれて半纏姿で歌うと話されていた。

 木場川並の最長老で生き字引だった小安四郎さんは平成8年3月に92歳で亡くなられたようだが、木場角乗保存会・木場木遣保存会は現在も活動されている。

YouTubeから「江東区民まつり・木場の角乗り・木場角乗保存会」 「祝いのきやり 木場木遣保存会 千客万来本日開業

江東区・東京木場筏株式会社 1991年12月21日撮影
初出『ジョイフル』(近畿日本ツーリスト)1992年3月号
#小安四郎
#ShirouKoyasu
#東京の粋人探訪
#木場角乗保存会
#木場木遣保存会
#アーカイブ

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9月5日(木)

 2000年に開館した隈研吾さん設計の馬頭広重美術館が、部材である八溝杉材のルーバーの痛みなどが激しく大規模改修するそうだ。風雨にさらされる外観に杉を使えば腐食するだろう。家のリフォームでテーブルやベンチなどの家具を杉のカフェ板で自作した。ワックスを表面に塗ってはあるが、水に濡れて気づかずに放っておいた箇所は黒ずんでいる。
 隈研吾さんといえば、2020東京オリンピックのメイン会場である国立競技場の設計も手掛けている。こちらも外観の軒庇には全国47都道府県から集めた杉材(沖縄はリュウキュウマツ)が使用されている。こちらも何十年か後には木が腐食して改修せざるを得ないのだろうか。巨大な建築物なだけに、その改修費用も莫大な金額になるのではないだろうか。

 開港から30年を迎えた関西国際空港。この空港島は埋め立てた土の重さによって海底の粘土に含まれる水分が絞り出されて沈下するそうで、概ね20年に1度かさ上げする必要があるそうだ。当然、軟弱地盤の上に建設する辺野古新基地の滑走路も沈下するのだろう。完成するかどうかもわからず、完成しても沈下する恐れのある物を造るのは防衛などのためではなく、やはりゼネコンにお金を流すための工事なのだろう。

 自民党総裁選に立候補した河野太郎デジタル相が記者会見を開き、将来的には年末調整を廃止して全ての納税者に確定申告してもらう案を主張したそうだ。全ての納税者が確定申告したら税務署はパンクして、職員はパニックになるだろう。国民に確定申告を促す前に、国会議員が全てのお金の流れを透明にして自分で確定申告してみればどうか。そうすれば還付金と裏金の違いも理解できるようになるだろう。マイナカード の普及よりも、政治家専用に全てのお金の収支を一つのカードで済ませられる仕組みを作り、そのカードに記録された収支を公表し、それを元に確定申告すれば国民の信頼を少しは得られるようになるのではないか。

 この他の気になった記事を備忘録として。
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ニック・ロウ

◯ニック・ロウ

 パブ・ロック系と称されるミュージシャンで一番最初に撮影したのがニック・ロウで、1992年にポートレートを、1994年にライヴを、1998年にライヴとポートレートを撮影している。今あらためて考えたら、来日アーティストの中で一番多く撮影した人かもしれない。
 ちなみに1992年に撮影したポートレートは、1996年の来日ツアーのパンフレットの表紙に使用されている。パンフはLPサイズのアルバム・ジャケット仕様で、中にCD-ROMが入っており、CD-ROMには1994年に撮影したライヴ写真が収められていたと思う。確かCD-ROMはハイブリッドではなくMac専用だったと思うので、Winユーザーは観れなかったんじゃないだろうか。
 1992年の来日ライヴはニック・ロウがアコースティック・ギターを抱えて一人でステージに立ち、1994年のライヴはニック・ロウ&ジ・インポシブル・バーズと名付けられたバンドを従えて、1998年もドラムにボビー・アーウィン、キーボードにゲラント・ワトキンス、ギターにスティーヴ・ドネリーというバックを従えてのライヴだった。

 92年に来日した際は彼が宿泊していた六本木プリンスで取材もしており、インタヴュアーは大鷹俊一さんだった。大鷹さんの原稿によると、87年に初来日した時から毎回取材を申し込んでいたが断られ、ようやく実現したのがこの時のインタヴューだった。原稿の最初の一行は<念願通りこし宿願というべきか>で始まっている。宿願のインタヴューだけに幼少期の頃からブリンズリー・シュウォーツ時代、ダムドのプロデュース、ロック・パイル結成、そしてソロ活動からリトル・ヴィレッジまで制限時間いっぱいに尋ねている。
 98年の来日は新作『ディグ・マイ・ムード』を携えて。これは前作『インポッシブル・バード』から4年ぶりのアルバムだった。日本でのツアーを終えてからのインタヴューを宿泊先の京王プラザで行っている。インタヴュアーは服部武さんで、インタヴューが終わってから外に出てもらって都庁をバックにポートレートを撮った。写真をよく見るとニックの手にルームキーが握られているのはご愛嬌だ。
 このインタヴューを撮影した日だと思うが、ニック・ロウのツアーのために来日したキーボードとアコーディオンのゲラント・ワトキンスと、ドラムのボビー・アーウィンが新宿西口のアイリッシュ・パブで急遽ライヴを演るというので撮影に行った。この時に撮影した写真が、ワトキンスの初ソロ・アルバム『Watkins Bold As Love』のインナーに使われている。
 ニック・ロウの代表曲といえば「恋するふたり(Cruel to Be Kind)」。この曲を三遊亭圓丈さんが日本語でカバーしたのはよく知られている。1981年にトリオ・レコードから発売されたアルバム『リハビリテーション/三遊亭圓丈』の中に「恋のホワン・ホワン」という曲名で収録されている。2018年には7インチシングルとしても再発された。熱心なニック・ロウ・コレクターは、こちらも蒐集対象だろうか。ちなみにサンプル盤だけれど家に帯付きの『リハビリテーション』がある。

YouTubaから「恋するふたり(Cruel to Be Kind)/ニック・ロウ」 「恋のホワン・ホワン/三遊亭圓丈

ニック・ロウ 公式ウェブサイト

渋谷・NHKホール 1992年10月17日ライヴ撮影
六本木プリンス・ホテル 1992年10月19日ポートレート撮影
中野サンプラザ・ホール 1994年11月26日ライヴ撮影
渋谷クラブ・クアトロ 1998年3月3日ライヴ撮影
新宿・京王プラザ・ホテル 1998年3月8日ポートレート撮影
初出『ミュージック・マガジン』1992年12月号
コンサート評を駒形四郎さん
初出『ミュージック・マガジン』1993年1月号
インタヴュアーは大鷹俊一さん
初出『ミュージック・マガジン』1995年1月号
コンサート評を小尾隆さん
初出『ミュージック・マガジン』1998年5月号
コンサート評を安斎明定さん
初出『ミュージック・マガジン』1998年7月号
インタヴュアーは服部武さん
『1996JAPAN TOUR/NICK LOWE』来日ツアー・パンフレット
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ゲラント・ワトキンス

◯ゲラント・ワトキンス ボビー・アーウィン

 ゲラント・ワトキンスは南ウェールズ出身のソングライターで、ピアニストで、アコーディオン奏者。wikiによればニック・ロウをはじめ、デイヴ・エドマンズ、ヴァン・モリソン、マーク・ノップラー、ポール・マッカートニー、ステイタス・クォーなど多くのミュージシャンのバックを務めている。
 ボビー・アーウィンはイギリス人のドラマーで、プロデューサーで、ソングライターでもある。彼もニック・ロウをはじめ、ヴァン・モリソン、ブライアン・フェリー、ジョン・ハイアットなど多くのバンドやミュージシャンと共演している。
 二人を撮影したのは、ニック・ロウの1998年の来日ツアーの時だった。ニックのツアーが全て終わった後、急遽彼らのセッションが新宿西口のアイリッシュ・パブで行われるという情報があり撮影に行った。なにぶん25年以上前のことなので記憶もあやふやだが、この日は新宿の京王プラザ・ホテルでニック・ロウのインタヴュー撮影を行っていたが、その最中にワトキンスとアーウィンのライヴがあるという情報が入ってきた気がする。

 急遽決まったのか前から計画されていたのかわからないが、お店に行くとパブ・ロック関係の音楽ライターの方々が揃っていた記憶がある。ちなみに、ワトキンスとアーウィンは1994年のニック・ロウの来日ツアーの際も、ジ・インポシブル・バーズのメンバーとして来日している。
 このアイリッシュ・パブで撮影した二人の写真は、MSIからリリースされたワトキンスのアルバム『ワトキンス・ボールド・アズ・ラヴ』のインナーブックに使用されている。ライナーノーツは五十嵐正さん。
 ボビー・アーウィンは残念ながら、2015年5月8日に癌のため62歳で亡くなってしまった。彼はロバート・トレハーンの名前でも知られ、この名前でクレジットされている作品もある。
 ワトキンスのGeraintは、ゲラントとしたが、ゲレィンやジェラントと表記されている記事もある。

YouTubeから「Easy To Say, Bon Temps Rouler/Geraint Watkins」 「Only a rose/NICK LOWE & GERAINT WATKINS

新宿・アイリッシュ・パブ 1998年3月8日?
初出『ワトキンス・ボールド・アズ・ラヴ/Geraint Watkins』(MSI)
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9月3日(火)

 9月になった途端、朝晩は涼しくなって過ごし易くなった。台風10号により、屋久島の推定樹齢3000年の弥生杉が倒れたそうだ。
GAO

◯GAO

 まだデビュー前のGAOを撮影したきっかけがハッキリ思い出せないでいる。レイズ・インのレイ(長戸秀介)さんの紹介なのは間違いないんだけれど。
 三原順子がJUNKOに改名してロックバンドを始めた時に、GAOがステージでバックコーラスを務めていたのを覚えている。『SO DEEP/JUNKO』というロック色の強いアルバムには、コーラスとしてGAO FUJINOのクレジットがある。
 この時に初めて彼女を見て興味を持ち、GAOの単体ライヴを撮影に行ったのかもしれない。2回ほどライヴハウスで撮影していて、このアーカイブを作るに当たって古いスケジュール帳をパラパラ捲っていると1986年2月10日の欄に、<藤野ガオーLive station リハ3:00頃~>とメモがあった。
 プロ・デビューして「サヨナラ」という曲がヒットした頃のGAOは全然知らない。家にテレビを置いてない時期が長くあって、邦楽もあまり聴いていなかったから。

 以前、You Tubeで杉本誘里が歌番組に出演している映像を見つけた。司会がつのだ☆ひろさんと三雲孝江さん。バックバンドを従えて歌っているが、バックコーラスはGAOだった。残念ながら今は「この動画は再生できません」になっている。
 杉本誘里は、もともとロックを歌うアイドルの位置付けで一色ゆかりの名前でビクターからデビューしたが、その後、本格的なロック・シンガーに転向する際に杉本誘里に改名した。
 一色ゆかりの時代、1982年頃だろうか、しばらく彼女のバックバンドでドラムを叩いていた。でもアイドルの位置付けだったのでライヴそのものがあまりなくて、結局3回ほどしかやっていない。そのうちの1回は新宿ACBホールで、レコード会社の関係者を集めたお披露目ライブだった。一色ゆかりと一緒にステージに立ったのは浜田麻里で、まだ浜田麻里はデビュー前だったかも知れない。
 wikiによると、GAOは1996年3月までメジャーでの活動を続けた後、ニューヨークに渡りプロデュースを勉強。ヒップホップの世界に移り、2000年頃からギャングスターラッパー、RealGを名乗って活動していたこともあるようだ。
 現在は、またGAOとして活動を再開している。

YouTubeから「サヨナラ/GAO」 「24Heaven/RealG

GAO 公式ウェブサイト

GAO 公式YouTubeチャンネル

目黒Live station 1986年2月10日撮影 
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バービーボーイズ

◯バービーボーイズ

 1982年に結成され、84年にEPIC・ソニーからシングル「暗闇でDANCE」でデビューした男女ツインボーカルのロックバンド。
 1992年に解散したが、その後に何度か再結成を繰り返し、2018年からは本格的に活動を再開している。
 彼らを撮影したのは『ポップティーン』での仕事で、NHKの番組『ジャストポップアップ』にバービーボーイズが出演した時のもの。本番は無理なので、カメリハに撮っている。
 『ジャストポップアップ』は『ヤングスタジオ101』の後継番組として1988年4月9日からスタートした音楽番組で、1991年3月2日まで続いたようだ。
 YouTubeに彼らが出演した際の映像があった。
バービーボーイズ BARBEE BOYS「負けるもんか」 80s POP & ROCK

YouTubeから「目を閉じておいでよ/BARBEEBOYS」「バービーボーイズ解散ライブ 1992.1.24

バービーボーイズ 公式ウェブサイト

渋谷・NHN101スタジオ 1988年12月3日
初出『ポップ・ティーン』(飛鳥新社)
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9月1日(日)

 東海道沖で停滞していたノロノロ台風10号は熱帯低気圧に変わったそうだが、これから明日にかけて北上し予報円の中央に富山が入っている。風は弱まっただろうが、まだまだ豪雨には注意が必要なようだ。

 マングースバスターズの努力で、奄美大島からマングースが根絶したそうだ。
 ハブを退治してくれると期待して、1979年に30匹ほどのマングースが島内に持ち込まれたが、マングースはハブをほとんど捕食せず天然記念物のアマミノクロウサギを襲ったりするため、害獣として駆除の対象となっていた。ピーク時には1万匹ほどに繁殖したそうで、危機感を持った地元住民らが捕獲専門チーム、マングースバスターズを結成した。
 草の茂みなどにマングースを捕まえる罠が仕掛けてあるのを見たことはあるが、実際にマングースが捕獲されているのは見たことがない。一度だけ見たマングースは車にぶつかって道路に倒れていた死骸で、この時は一緒にいたサバクリ人さんが役場に電話で知らせていた。
 奄美大島で住んでいたアパートのすぐ裏に奄美観光ハブセンターという施設があって、ここでハブ対マングースの闘いというショーをやっていたが、動物愛護団体からクレームが来て、2012年5月で中止になったそうだ。現在はビデオを流しているようだ。
 ハブ退治のために連れてこられて、ハブを退治しないとわかると自分が退治される身となってしまったマングース。これも人間の身勝手だな。

 バイデン米大統領が、ハマスのイスラエル襲撃で人質になった米国男性がハマスに殺害されたことを確認したとして、「犯罪の代償を払わせる」と宣言した。
 これまでにガザでは4万人以上がイスラエル軍によって殺害され、その内の3分の1以上が子供だとされている。これ以上、どんな代償を払わせるのか。イスラエルによるパレスチナへの大虐殺を唯一止められる可能性のある国がアメリカだと思うが、止めるどころかイスラエルを支援している。先ずはイスラエルの暴力を止めろ。

◯神崎愛

 女優であり声優であり、フルート奏者にしてソプラノ歌手でもある。本名は神崎敦子。
 幼少期はピアノと声楽を習い、中学生になってからフルートを始めて東京大学音楽学部別科に進学。大学では日本フルート協会の会長を務めた重鎮・吉田雅夫氏に師事。また、スイスでマルセル・モイーズ氏の師事を受ける。
 NHKの番組のフルート教室に出演するためNHKを訪れた時、食堂でたまたま隣に座っていた俳優の仲代達矢さんからスカウトされ、仲代さんが主宰する無名塾に入り、女優の道に進む。以降、テレビや映画、舞台で活躍するかたわら、フルート奏者としてレコードやCDで多くの作品を残している。
 神崎さんを撮影したのは、簡易保険郵便年金加入者協会のPR誌『保険年金 展望』の仕事だった。1989年の夏だったが、掲載誌によれば<一ヶ月平均でほぼ二十日間の演奏活動、加えて舞台、テレビ、ラジオへの出演。来年2月まで休暇はお預け>という忙しさだった。
 撮影した場所が思い出せないが、当時のスケジュール帳に、”インタヴュー撮影12時にウエンズデイ”と書かれているので、青山の方だろうか。ウエンズデイは旅行作家の下川祐治さん、イラストレーターの佐藤竹右衛門さん、フリーの編集者でこの取材を担当していた岩本篤さんの3人で作った編集プロダクションで、当時は南青山の骨董通り沿いのビルに入っていた。 
 神崎さんは、この撮影をした当時でゴールデン・アロー賞、エランドール賞、芸術祭奨励賞を受賞されている。
 2000年に駐チェコ大使、駐キューバ大使を務めた外交評論家の宮本信生氏と結婚され、2016年には宮本氏と共著で『邪馬台国女王卑弥呼の生涯 歴史小説』を出版されている。

YouTubeから「ロシア紅茶はいかが?/神崎愛」 「恋人たちのロンド/神崎愛」 「愛のリフレイン(江戸・中町奉行所op)/神崎愛

港区・青山? 1989年8月4日撮影
初出『保険年金 展望』(財団法人 簡易保険郵便年金加入者協会)1989年9月号
#神崎愛
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神崎愛

◯A・LA・LA・DREAM

 モノクロのネガを保管しているケースの中から出てきた、ライヴを撮影したポジ・フィルム。もちろん撮影したことは覚えているが、いつ撮影したのかわからなかった。フィルムを入れた現像所の袋にWhat's inと書いてあったので、CBSソニー出版の音楽誌『ワッツイン』を引っぱり出してきて詳細がわかった。雑誌を見ると撮影だけではなく、簡単なルポも自分が書いていた。
<錚々たるメンバーが集まり、一日限りの素敵なR&Bナイトをプレゼントしてくれた。2時間半近くのライヴは、アラン・トゥーサン、クリーム、クラプトン等の曲が飛び出し、まるでお祭り。こうなりゃ酔ったが勝ち>
 その錚々たるメンバーだが、チャー(Vo,G)、カンナ(Vo)、チアキ(Vo)、チャールズ清水(Key,Vo)、正木五郎(Dr)、藤井裕(B)、西慎嗣(g)、包国充(Sax)、ボーン助谷(Tb)、石垣三十郎(Tp)という布陣だった。
 チャーはスモーキーメディスン、ピンククラウドのギタリスト、チャールズ清水はアイドル・ワイルド・サウスやソー・バッド・レビューのキーボード、正木五郎と藤井裕は上田正樹とサウス・トゥ・サウスのドラムとベース、西慎嗣はスペクトラムのギタリスト、包国充はおとぼけキャッツや竜童組のサックス、ボーン助谷はおとぼけキャッツや佐野元春のザ・ハートランドのトロンボーン、石垣三十郎はダウン・タウン・ブギウギ・バンド、ザ・ハートランドのトランペットで知られる。
 当時のスケジュール帳にサロンゴというメモがあるので、サロンゴ・ミュージックの木下さんが企画したライヴだろうか。『ワッツイン』からの依頼で撮影したのではなく、木下さんに誘われて撮影に行って、『ワッツイン』に写真を持ち込んだのかもしれない。
 A・LA・LA・DREAMがイヴェントのタイトルなのか、このセッションバンドの名前なのかも分からない。

チャー 公式ウェブサイト

正木五郎 公式ブログ

西慎嗣 公式ウェブサイト

包国充 公式ウェブサイト

インクスティック芝浦 1988年6月19日撮影。
初出『ワッツイン』(CBSソニー出版)1988年8月号
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A・LA・LA・DREAM

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