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6月30日(月)

 昨日、高岡市長選挙が行われた。当確の判明は午後11時半ごろと言われていたが、蓋を開ければゼロ打ちで新人の出町譲氏の当選が決まった各候補の得票数は出町譲氏が4万3223票、自民・公明・連合富山から推薦を受けた現職の角田悠紀氏が2万6582票、やはり新人で元市議会議長の中川加津代氏が5437票だった。
 自民党高岡市連は能登半島地震からの復旧復興にスピード感をもって取り組んできたことなどを評価し現職の角田氏の推薦を決めたそうだが、高岡市民の多くはスピード感のある復旧復興など実感しなかったのではないだろうか。実際、任期半ばで病で辞職し今月8日に死去された林正之・前氷見市長の被災者に寄り添い地域に出向いて話を聞く姿と対照的に、角田氏は被災住民への説明を市の職員に任せて姿すら見せなかった印象がある。高岡市連が現職を推薦するのはわからないでもないが、能登半島地震への対応を評価するとした見識はどうかと思う。
 他に、角田氏が4年の任期中で話題になったのは姉妹都市フォート・ウエーンへの訪問にビジネスクラスを利用して批判を浴びたことと、出発当日の報道の仕方を理由に報道機関に対して事前に取材申請するようにという事実上の取材制限をしたこと、初当選した前回の市長選の前に旧統一教会、世界平和家庭連合の支援集会に参加し、選挙応援を受けていたことなどだ。今回の選挙期間中に角田氏の実績をアピールするやたら項目の多いパンフが届いていたが、個人的には公費の使い方や取材制限、旧統一教会など負のイメージしかない。
 SNSでは自民・公明の推薦を受けた角田氏が敗れたことで自公離れが進んだなどと言っている人もいるが、出町氏も中川氏も自民党高岡市連に推薦願を出していた。
 ところで、今日の北日本新聞に新田八郎・富山県知事が、角田選挙事務所にも出町選挙事務所にも登場しているが、この人は誰を応援していたのだろうか。

 この他の気になった記事を備忘録として。
閉鎖、シャッター… 「中国化」で未曽有の消費不況 香港デモ5年
ラサール石井氏、参院選出馬表明へ 社民、政党要件確保へ正念場
「外国人優遇」「こども家庭庁解体」広がる情報を検証すると…

安田宝英

◯安田宝英

 徳之島・伊仙町出身の唄者で、民謡指導者でもある安田宝英さんを撮影したのは、奄美大島に移住していた2011年7月のことだった。2回目の喜界島旅行の時で、1回目に訪れた時はホテルの別館だという一泊2000円の3DKの一軒家に5月14日から17日まで宿泊。2回目に訪れたのは2ヶ月後の7月6日から7月9日で、この時はカトリック喜界島教会の助祭、四條さんにお世話になり教会に泊めていただいた。泊めていただいただけではなく、車で観光名所から戦跡までいろいろ案内していただいた。
 安田宝英さんを撮影したのは偶然で、喜界島での滞在最後の夜に、四條さんが三味線を習っている喜界島中央公民館へついて行ったことから。四條さんが習っている教室の先生は安田宝英さんの孫、安田博樹さんだったが、安田宝英さんもロビーで子供達に指導されていた。
 撮影してもいいですか?と声をかけると宝英さんの奥さんが、どんどん撮って下さいと答えられた。なんでも宝英さんが認知症を患われたそうで、カメラを向けると良い刺激になると考えられたようだ。

 安田宝英さんは1927年1月20日、徳之島の伊仙町目手久生まれ。1961に仕事の移動で喜界島に移り住み、1968年ごろから大人に、1971年ごろから子供達に島唄と三味線を教えるようになったそうだ。牧岡奈美や川畑さおりなど多くの門下生がおり、これまでに1000人を超える人たちに指導を行ったそうだ。
 自主制作アルバム『しまうた』の他、ジャバラ・レコードの『あさばな 奄美しまうた紀行』『花染 奄美しまうた紀行II』『湾処WANDO 奄美しまうた紀行III』などにも参加されている。
 2017年11月18日に門下生が喜界町体育館で安田民謡教室50周年イヴェントを開催し600名以上が集まったそうだが、2021年4月に94歳で亡くなられた。

YouTubeから「俊金節/安田宝英 西田ナスエ」 「しゅみち長浜節/安田宝英」 「アンコール 安田宝英/喜界やよい島

安田民謡教室の50周年盛大に祝う

喜界町中央公民館 2011年7月8日撮影
#安田宝英
#TakahideYasuda
#奄美唄者
#アーカイブ

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◯西和美

 島内を活動拠点にしている唄者には、歌うこと以外に本業(副業?)を持っている方も多い。坪山豊さんは舟大工だったし、築地俊造さんはおもちゃ屋さんやライヴハウスを経営していた。若手でも前山真吾さんは老人保健施設のケアマネージャーとして働いているし、中村瑞希さんは歌手と同時に幼稚園の先生。喜界島の川畑さおりさんも、喜界町役場に勤めていた。西和美さんは1983年から名瀬の繁華街で郷土家庭料理店「かずみ」を経営しながら、現在も唄者として活動している。
 wikiによると1942年に奄美大島南部、瀬戸内町西古見で4人兄弟の長女として生まれたそうだ。歌を始められたのは遅く、結婚し子供を産んだ後の1978年頃で、1981年に坪山豊さんに弟子入りしてから本格的に島唄に取り組まれた。そして、この年「嘉徳なべ加那節」で南海日日新聞主催の奄美民謡大賞で新人賞を受賞している。
 奄美大島に移住していた2010年6月から2012年6月の2年間で、西和美さんのステージは何度も見た。一番最初は移住してひと月ほど経った7月22日で、ライヴハウス「アシビ」で開催されていた島唄のイヴェント。お店に行った時はもう終盤だったが、1ドリンク付きで500円だったので入場した。その後も、名瀬の商店街夏祭り、奄美文化センターで行われた「島口・島唄の夕べ」、名瀬中央公民館での「奄美歌掛けの夕べ」、奄美文化センターでの「シマあすびの夕べ」など歌の催し物には引っ張りだこの様子だった。
 奄美も沖縄も節約生活で食事は基本的に自炊、夜に呑みに出掛けることもほとんどなかったが、東京から知人が島へ訪れた時に一度だけ西さんのお店「かずみ」に入った。お店では食事やお酒を楽しむお客さんへのサービスとして、三味線を弾く人がいれば、西さんの歌が聴けるサービスがある。この日は唄者の竹島信一さんが三味線を弾いて、西さんの歌を聴かせていただいた。
 録音物としてはセントラル楽器から『西 和美の世界~情感こもるカズミ節』『西 和美 傑作集』、ジャバラ・レコードから『島かなしゃ/西 和美』がリリースされている。
 掲載した写真の1、2枚目はライヴハウス「アシビ」にて、3、4枚目は商店街夏祭り、5、6枚目は島口・島唄の夕べ、7、8枚目は奄美歌掛けの夕べ、9~11枚目はシマあすびの夕べ、12、13枚目はかずみにて。手前で三味線を弾いているのが竹島信一さん。竹島さんは第35回奄美民謡大賞を受賞した2014年に、41歳の若さで急逝されてしまった。

YouTubeから「長雲節/西和美 坪山豊(三味線)」 「朝花節/竹島信一 西和美

西和美 公式ウェブサイト

アシビ 2010年7月22日撮影
名瀬商店街夏祭り 2010年8月14日撮影
島口・島唄の夕べ 2010年10月23日撮影
奄美歌掛けの夕べ 2010年11月13日撮影
シマあすびの夕べ 2011年8月4日撮影
かずみ 2012年4月12日撮影
#西和美
#KazumiNishi
#かずみ
#奄美唄者
#アーカイブ

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西和美

6月28日(土)

 北陸はもう少し先のようだが、昨日、九州・四国・中国・近畿が記録的早さで梅雨明けしたそうだ。
 庭の花にはカエルだけではなくトンボも休憩に訪れる。窓を開けっ放しにしているとツバメが飛び込んでくる。そんな時、サッチモの歌うこの曲がふと思い浮かぶ。
カエル
トンボとカエル

 気になった記事を備忘録として。
スペイン首相、ガザは「ジェノサイドの壊滅的な状況」
200万人超に「追加支給」の可能性 生活保護の引き下げは「違法」と最高裁 政府の対応、謝罪が焦点に
JOC 新会長に橋本聖子氏選出 女性の就任は初

小林亜星

◯小林亜星

 1993年に創刊した東京都公衆浴場業環境衛生同業組合が発行する『1010』という銭湯のPR誌の撮影をしばらくやっていたことがある。銭湯の紹介のほか、美容や健康ネタの撮影もあったが一番多かったのは「われらお風呂大好き人間」という連載の撮影だった。漫画家のアオシマ・チュウジさん、NHKアナウンサーの草野満代さん、女優の里美羽衣子さん、放送作家の小山薫堂さん、そして作曲家で俳優の小林亜星さんもこの連載で撮影させていただいた。カラーページだったのでポジフィルムで撮影して、撮ったフィルムは編集プロダクションにそのまま渡してしまったが、小林亜星さんだけはモノクロフィルムでも少しだけ撮っていて手元に残っていた。
 銭湯のPR誌なので、インタヴュー記事ではお風呂についての話も多く出てくる。
 子供の頃は、亜星さんの家での役割は薪を割って風呂を焚くことだったそうだ。

「火をつけるのにけっこう要領がいるんですよ。終戦近くの4月のある日、永福町あたりも空襲で焼けたんです。幸い僕の家は無事で、翌朝不発の焼夷弾拾いをしたのを覚えてます。土中に突きささったのを掘り出して、信管を抜いて中の樹脂を取り出し、それを薪のまわりに水飴みたいにくっつけて風呂の釜につっ込んで火をつけるんです。一発で燃え上がりましたね」
 亜星さんは渋谷の幡ヶ谷生まれだが、小児喘息だったことから5歳の時に緑の多い杉並の永福町に家族で引っ越しされたそうだ。
 亜星さんといえば『寺内貫太郎一家』の頑固親父役だが、その頃は体重が150キロ近くあったそうで、医者に脅されてダイエットを始めて取材撮影当時は80キロまで減量されていた。そのダイエット方法がお風呂を使ったもの。亜星さんの家には2階にジャグジー、3階に入浴剤を入れる普通のお風呂があるそうで、
「まず、3階に行って体操をします。そのあとエアロバイクをやって、入浴剤のお風呂に5回、入ったり出たりします。砂時計の砂が落ちきるまで10分間ほど湯につかり、外に出てまた入るという手順です。それから2階のジャグジーに行って同じことを繰り返します。こうすると、1kgは完全に減りますね」
 掲載誌に記載されていた30年前のプロフィールをそのまま引用させてもらう。
<昭和7年8月11日生まれ。昭和30年慶應義塾大学経済学部卒業。作曲を服部正氏に師事する。昭和36年CMソング「レナウン・ワンサカ娘」「イエイエ」でCM界の第一人者となる。つづいてサントリー・オールド、明治チェルシー、日立「この木なんの木」などのヒットCMを作曲。そして、昭和47年には「ピンポンパン体操」が200万枚を越す大ヒット。レコード大賞童謡賞を受賞。昭和49年には、向田邦子作のテレビドラマ『寺内貫太郎一家』に主演。昭和51年には、都はるみ「北の宿から」でレコード大賞を受賞する。そして再び、「夜が来る」のタイトルで、サントリーニューオールドのBGMが帰ってきた>
 2015年には第57回日本レコード大賞・功労賞を受賞されたが、2021年5月30日に心不全のため亡くなられた。88歳だった。

YouTubeから「ワンサカ娘(レナウンCMソング) シルヴィ・バルタン& 弘田三枝子(Re-Up)」 「ピンポンパン 小林亜星さん」 「夜が来る~オリジナル・ヴァージョン~

小林亜星 公式ウェブサイト(アーカイブ)

東京・赤坂 アストロミュージック出版 1995年6月27日撮影
初出『1010』第16号(東京都公衆浴場業環境衛生同業組合)
#小林亜星
#AseiKobayashi
#アーカイブ

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◯東京チンドン

 1991年の7月、東京でチンドン屋さんの追っかけをした。中村とうようさんが創刊した季刊『ノイズ』という雑誌の第11号で、「東京チンドン」とタイトルが付けられた特集の撮影だった。
 その頃、サックス奏者の篠田昌巳さんのソロや、篠田さんのユニット、コンポステラのCDアルバムが注目されていて、その篠田さんがチンドン屋さんの楽士としても活動しており、そのチンドンのサウンドが東欧のクレツマーと類似性があるんじゃないかといったことで盛り上がり36頁もの特集が組まれたんじゃなかったろうか。
 朝倉喬司さんが<東西屋からチンドン屋へ 成立・発展の過程を追う>、細川周平さんが<チンドン・リズム・マシーン 音楽的ルーツと独自性を探る>、田中勝則さんが<CD『東京チンドンVOL1』若手学士3人と制作者に聞く>、後藤幸浩さんが<91年7月・東京チンドン日記 元気に営業を続けるチンドン屋さんたち>という記事を書いており、後藤さんの記事に添える写真を撮るために4組のチンドン屋さんの追っかけ撮影をした。
 7月13日は葛飾区総合スポーツ・センターで防犯運動の集いのアトラクションとして出演したみどりやさん、7月17日と24日は人形町に新規開店した弁当屋「じゃぱんらんち」と田町のパチンコ屋さんの呼び込みをする小鶴家さん、7月21日は初台駅から少し離れた不動通り商店街の大売り出しの宣伝をする都家やっちゃん宣伝部さん、7月28日は埼玉県小川町の七夕まつりで街流しをする高田宣伝社さん。高田宣伝社にはサックスの篠田昌巳さん、木村真哉さん、クラリネットの大熊亘さんが参加していたので、この写真は田中さんの記事でも使用されている。また、小鶴家さんの親方の写真が佐藤晃一さんのデザインで雑誌の表紙に使われたのが嬉しかった。
 この『ノイズ』でチンドン屋さんの追っかけをやっていた頃は、『ミュージック・マガジン』でラス・チカス・デル・カンというドミニカ共和国から来日した女の子だけの大編成メレンゲ・グループの追っかけ撮影もやっていて、昼にチンドン屋さんを撮影し、夕方からラス・チカスの撮影という日もあった。
 ’91年、’92年は日本でもウオーマッドが開催され、ワールド・ミュージックという言葉が広く認知された。そんな頃のお話しだ。
 1992年にpuff upレーベルから、『東京チンドン vol.1』という2枚組のCDアルバムが発売された。この年の年末、アルバムの中心メンバーである篠田昌巳さんが34歳という若さで急逝してしまいvol.2が発売されることなく、『東京チンドン』が彼の遺作となった。
 篠田さんのソロや、コンポステラのアルバムなどをリリースしていたpuff upレーベルを主宰していたレコーディング・エンジニアの藤井暁さんも2013年11月に急逝。『東京チンドン vol.1』ほかpuff up作品のジャケットを撮影していた桑本正士さんも2016年の11月に亡くなられた。高田宣伝社の高田光子さんも2018年6月に亡くなられたようだ。
 掲載した写真の1~3枚目はみどりやさん、4~8枚目は小鶴家さん、9~11枚目が都家やっちゃん宣伝部さん、12~14枚目が高田宣伝社さん。

YouTubeから「The Street Band, "Tokyo Chindon Hasegawa Sendensha" (Extract from "Masami Shinoda act 1987”)」 「2001 小川町七夕まつり チンドン屋さん街流し 高田光子さん 高田演芸宣伝社」 「Compostela/僕の心は君のもの

葛飾区総合スポーツ・センター 1991年7月13日みどりやさん撮影
中央区人形町 1991年7月17日小鶴家さん撮影
初台・不動通り商店街 1991年7月21日都家やっちゃん宣伝部さん撮影
港区・田町 1991年7月24日小鶴家さん撮影
埼玉県小川町 1991年7月28日高田宣伝社さん撮影
初出季刊『ノイズ』11号(ミュージック・マガジン)
#東京チンドン
#みどりや
#小鶴家
#都家やっちゃん宣伝部
#高田宣伝社
#高田光子
#MitsukoTakada
#篠田昌巳
#MasamiShinoda
#木村真哉
#ShinyaKimura
#大熊亘
#WataruOhkuma
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東京チンドン

6月26日(木)

 昨日、46年の歴史を持つ旧安倍派(清和会)31年の歴史を持つアイドル・グループTOKIOが解散を発表した。大きくニュースとして取り上げられたのはTOKIOの方だった。

 先日の都議会議員選挙で立候補者4人のうち3人が当選した参政党。その参政党を支持した人々について、評論家の古谷経衡氏が「無党派層」ではなく「無関心層」であると『参政党支持者の研究』という記事で解説している。支持者全てに当てはまるものではないかもしれないが、興味深い分析。<彼らにとって「八紘一宇」という掛け声は、例えば「整理整頓」「節電節水」などと大して変わらないのではないかと私は思っている。そこにイデオロギー性は無い>。割りと長文だが一読をオススメする。

 この他の気になった記事を備忘録として。
核燃再処理、事業費が5千億円増 青森・六ケ所村、工場完成延期で
バッド・カンパニーとモット・ザ・フープルの創設メンバー ミック・ラルフス死去
国民・玉木代表「女性にはうちの政策は難しくて理解できない」と発言。「女性蔑視」との批判に玉木氏が回答

キーボード01
 しばらく前からiMacで使用していたキーボードのキーがいくつか反応しなくなったので、代わりにeMacで使用していたキーボードを繋げていた。しかしiMacの薄いキーと違い、こちらはキーに厚みがあって押すのに力が必要で文字が打ちにくい。そこでキーの薄いキーボードを新調することに。純正は高くて買えないし、ヤフオクは当たり外れがあるのでこちらにした。
キーボード02
近田春夫

◯近田春夫

 ラップ、ヒップホップにあまり興味のない自分が、唯一カッコイイ、面白い!と思ったアルバムが近田春夫率いるビブラストーンの『ENTROPY PRODAUCTIONS』で、今でもたまに聴くことがある。
 自分が近田さんの名前を知ったのはジューシィ・フルーツの作詞・作曲、プロデューサーとしてだから1980年頃だと思うが、wikiによると活動歴は古く1970年にGS末期のバンド、ロック・パイロットにまで遡るようだ。その後、やはりGSのエモーション、カルメン・マキ&タイムマシーン、クニ河内のバンド羅生門、ハルヲフォン、近田春夫&BEEF、近田春夫&ビブラトーンズ、プレジデントBPM、ビブラストーンなどで活動してきた。ビブラストーンを解散してからは、Afromix、SCSI -TR、NO CHILL OUT、Riceなどの名義でも活動されているようだ。

 近田さんを撮影したのは『ミュージック・マガジン』1989年5月号の「ビブラストーン結成から1年、近田春夫の近況」と題した8ページの特集で、3月11日に青山のビクタースタジオでレコーディング風景とポートレートを、3月24日にライヴを撮影している。インタヴューと文はハルヲフォン・ファン・クラブ会員番号9番で長年の近田春夫ファンを自認する川勝正幸さんだった。
 ビクタースタジオでのレコーディングは、1989年5月21日に発売された小泉今日子の『KOIZUMI IN THE HOUSE』で、10曲中5曲を近田さんがプロデュースし、ビブラストーンのメンバーが録音に参加していた。
 近田さんへのインタヴュー自体は3月14日に渋谷のマックスローチで、川勝さんが単独で行っている。
 川勝さんがラッパーになったキッカケを尋ねると、
「それが複合的なんだよ。まず、当時マネージャーだった神崎が元ディスコのDJでそのへんの音楽に詳しかったり、その頃事務所に誘った加納基成(近田のレーベル=BPMのDJ、プロデューサーだった)もそうだったし。昔から仲良かった高木完とか藤原浩もそういうのが好きで。あと、デフ・ジャムのプロモーション・ビデオを見て<ワーッ!カッコいい!>と思ったこととかね。それまでもヒップホップを聞いてはいたんだけど、ディスコ・ミュージックの一ジャンルとして、ふんふんカッコいいなと思っていた程度で。いわゆる”オールド・スクール”には専門家的な興味はなかったんだよ。それがラン・DMCを聞いて、今までと全く違うものなんでワーッ!ガ~ン!!とショックを受けて、今まで自分が作ろうと思ってモヤモヤしていたものが、そこでいい形で融合して、気持ちが盛り上がって、これっきゃない!と思ったわけよ」と話している。
 プレジデントBPMから近田春夫&ビブラストーンというバンドに移行したことについては、
「DJという技術は非常に難しいものでさ、とおり一遍のことはできるんだけど、たった2枚のレコードで生き物みたいな音楽にするというのは手品みたいに大変なことなんだ。ホント、黒人ならではの魔法。もう一つは、僕はずーっと楽器をやってきた人間なんで生の楽器が恋しくなったというのもある。
 このバンドの形になってから、音楽家としての安心感というのかなあ、誇りを持ってどこでもやれる!っていうね、これは今までの自分になかった。間違いなく言えるのは、自分たちが作り上げた音楽が閉鎖系の音楽じゃないこと。例えば、パンク・バンドみたいなものって閉鎖系でしょ。今僕らがやっている音楽で一番核になっているものはなんで黒人はあんなに音楽が好きなんだろう!ってことなんですよ。言ってみれば<小乗仏教>的なもの。あくまでも自分の楽しみのために音楽をやる。その道すがら他の人も幸せになるという。今まで、僕も含めて日本で音楽やってる人って、楽しむってことが最後になっちゃってて。俺、今ね、ホント、仕事でも何でもないんだ、音楽をやるってことが。一回しかない人生の中で音楽をやる時間をいっぱい入手できるありがたみというのをね、しみじみ思っているというのが今のバンドのあり方かしらねぇ」と語っている。
 撮影はレコーディング風景の後、メンバーの集合写真をミキサー室と階段で撮っている。ビブラストーンのメンバーは近田さんを入れて10人だが、なぜか11人写っている。ラッパーのECDが普通の顔して紛れているのだが、そのことに気づいたのは10年以上も後のことだった。
 ビブラストーンはこの後、1992年に開催されたウォーマッド’92横浜でのステージを撮影している。
 掲載した写真の8~13枚目はインクスティック六本木、14~18枚目はウォーマッドにて。

YouTubeから「VIBRASTONE / PUBLIC ENEMY」 「近田春夫& BEEF - LADY HURRICANE ああ、レディハリケーン (1979)」 「ブルドッグ - 近田春夫&ハルヲフォン (Haruo Chikada) 1978

近田春夫 公式ウェブサイト

青山・ビクタースタジオ 1989年3月11日撮影
インクスティック六本木 1989年3月24日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1989年5月号
インタヴュアーは川勝正幸さん
横浜みなとみらい 1992年9月5日撮影
#近田春夫
#HaruoChikada
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#Vibrastone
#ドクタートミー
#DrTommy
#オト
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#岡田陽助
#YousukeOkada
#沖山優司
#YujiOkiyama
#渡辺貴浩
#TakahiroWatanabe
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#野毛ユキオ
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#佐藤公彦
#KimihikoSato
#都並清史
#KiyoshiTsunami
#梅沢幸之助
#アーカイブ

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小泉今日子

◯小泉今日子

 1966年生まれ、神奈川県厚木市出身でKYON2(キョンキョン)の愛称で知られる歌手、俳優。2015年には自身が代表取締役を務める制作会社「明後日」を設立し、プロデューサーとしても活動している。
 1981年に日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』に出場し、合格。翌82年3月21日にシングル「私の16歳」でアイドル歌手としてデビューした。”花の82年組”と呼ばれ、同期には堀ちえみ、松本伊代、三田寛子、早見優、石川秀美、中森明菜、シブがき隊らがいる。

 キョンキョンを撮影したのは、『ミュージック・マガジン』1989年5月号の近田春夫さん特集だった。「ビブラストーン結成から1年、近田春夫の近況」と題した8ページの記事で、この年の5月21日にリリースされる彼女の14枚目となるアルバム『KOIZUMI IN THE HOUSE』を近田さんが5曲プロデュースし、ビブラストーンが録音に参加していたことから青山のビクタースタジオへ撮影に行くことになった。ライターは近田春夫、小泉今日子のファンを自認する川勝正幸さん。
 記事は近田さんへのインタヴューがメインだが、キョンキョンにも近田さんが作る音楽について、感想を聞いている。
「一番の特徴は言葉のセンス。それが凄く気持ちがいいです。あと、言葉尻とかフザケた感じが。言葉そのものにあるリズムみたいなものが自然とメロディーになったりするところが好き」と話している。
 川勝さんはキョンキョンの歌入れも見学していたようで、その様子をこう書いている。
<近田さんは、近田的黄色い黒人音楽の世界と小泉的アイドルの世界を合体すべく、スタジオで踊りながら「そこは青江三奈風のため息」「エンディングはヘヴィメタの人にありがちな意味のないシャウトで」と細かい指示を出し、KYON2は笑いをこらえながらも一生懸命頑張っていた>

 残念ながら音楽や映画といったポップカルチャーに造詣が深いライターであり編集者であった川勝正幸さんは、2012年1月31日に自宅マンションの火災で亡くなられた。55歳だった。
 掲載した写真4枚目と5枚目、キョンキョンの後ろで近田さんとソファーに座っているのが川勝さん。

YouTubeから「小泉今日子 - Fade Out (Official Video)」 「小泉今日子 なんてったってアイドル」 「あまちゃん 潮騒のメモリー【天野春子】小泉今日子

明後日 公式ウェブサイト
https://asatte.tokyo

Abate Instagram(小泉今日子が投稿)

青山・ビクタースタジオ 1989年3月11日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1989年5月号
#小泉今日子
#KyokoKoizumi
#キョンキョン
#KYON2
#近田春夫
#HaruoChikada
#川勝正幸
#MasayukiKawakatsu
#アーカイブ

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6月24日(火)

 また昨日から梅雨らしい天気に戻ったので、田んぼのカエルが家の敷地に上陸してきた。紫陽花や百合の花は、彼らの恰好の隠れ家で休憩所になるようだ。
カエル01
カエル02
スピーチ

◯スピーチ

 スピーチ(本名はトッド・トーマス)は、ジョージア州アトランタ出身のヒップ・ホップ・グループ、アレステッド・ディベロップメントのフロントマン。グループは1988年に結成され、1992年に『3 Years, 5 Months And 2 Days In The Life Of…』でデビューした。このアルバムからは「Tennessee」「People Everyday」「Mr.Wendal」の3曲が、ビルボードのHot100でトップ10ヒットを記録し、グラミー賞では最優秀新人賞と最優秀ラップ・パフォーマンス賞の2つを受賞した。また、スパイク・リー監督の映画『マルコムX』のテーマソングとして「Revolution」を提供し、注目を浴びる。しかし、1994年に3枚目のアルバム『Zingalamaduni』をリリースした直後、グループは解散。スピーチはソロでの活動に移行する。
 スピーチを撮影したのは、ソロになって2枚目のアルバムとなる『フープラ』を発表した1998年だった。『ミュージック・マガジン』での取材で、インタヴュアーは当時の編集長、高橋道彦さん。夫人のヨランダさんも同席していて、インタヴューの後のフォトセッションでは一緒の写真も撮っている。

 話は当然、新作『フープラ』のことから。
「前作はいろんな要素を詰め込みすぎた。今回、この『フープラ』を作るときに気をつけたのは、シンプルな作品にすること。録音を始めたのは97年の1月。96年の11月にフーティ&ザ・ブロウフィッシュと一緒にトゥアーに出て、それが終わってから1カ月半くらいでレコーディングしたんだ。素早い?そうだね。バンドでセッションして、乗ってきたらライヴ・レコーディングのように録音し、あとでいい感じの部分をエディットしてぼくのラップをかぶせた曲が多いんだ。
 今回、ギターを弾いてるリック・ワードはすごいヤツだ。最初にあったとき、彼はホームレスだった。彼がギターを弾くってことも偶然知ったんだ。エンジニアのマイク・ムスマンノはフィラデルフィア出身で、G・ラヴ&スペシャル・ソースなどを手掛けていた人。とてもオールド・スクールなエンジニアで、アナログ楽器の扱い方など上手いもんだよ。
 <ザ・ヘイ・ソング>に4・ノン・ブロンズがクレジットされているのは、彼らのコーラスを盗んだから(笑)。フーティたちとトゥアーしていたとき、彼らと4・ノン・ブロンズのコーラスが似ているなと思って、4・ノン・ブロンズのコーラス部分をちょっと借りてこの曲を作って歌ったら、観客にとても受けがよかったんだ」
 そして、アレステッドの再結成についても触れている。
「ラップというより歌のアルバム?そうだね。スピーチ名義のアルバムは生楽器をふんだんに使って、歌が多くて。フォーキー、だね。アレステッドはもっとヒップ・ホップな感じにしたい。アレステッドはこの4年間くらい内部分裂していて、みんなお互いにしゃべろうともしなかった。だけど、この6カ月ぐらいでそんなわだかまりもなくなってきて、またレコードを作ろうって話もしているんだ」
 実際、アレステッド・ディベロップメントは2001年に再結成し、現在もコンスタントに活動しているようだ。
 新型コロナ禍が開けた2023年の暮れから2024年には横浜、東京、大阪のビルボードで、ヒップ・ホップ誕生50周年を祝う来日公演も行っている。

YouTubeから「Arrested Development - "People Everyday" | The Kennedy Center」 「Arrested Development - Revolution

アレステッド・ディベロップメント 公式ウェブサイト

アレステッド・ディベロップメント Discogs

赤坂・東芝EMI 1998年1月23日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1998年3月号
インタヴュアーは高橋道彦さん
#スピーチ
#Speech
#トッドトーマス
#アレステッドディベロップメント
#ArrestedDevelopment
#アーカイブ

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ウータン・クラン

◯ウータン・クラン

 1992年頃、RZA(レザ、本名はロバート・ディグス)の下にメンバーが集結して結成された、ニューヨークのヒップ・ホップ・グループ。
 wikiによると、ウータンという名前は、カンフー映画「少林寺武者房」(Shaolin and Wu Tang)に登場する武当派(中国武術の一派)から取られ、クランは氏族という意味の英語だそうだ。
 1993年にデビュー・アルバム『Enter the Wu-Tang』をリリースし、全米で200万枚を売り上げている。ちなみに日本でのタイトルは「燃えよウータン』だった。
 彼らを撮影したのは、2度目の来日ツアーを行った1997年で、2ndアルバムとなる『Wu-Tang Forever』がリリースされるタイミングだった。
 ツアー日程は、5月14日・15日が赤坂ブリッツ、16日が川崎クラブチッタ、17日が横浜ベイホール、18日が梅田ヒートビート。『ミュージック・マガジン』での取材で、ライブは16日のクラブチッタを撮影し、その日の昼間にグループの中心人物であるRZAのインタヴュー写真を撮影している。インタヴュアーは印南敦史さん。

 取材は彼が宿泊していたホテルの部屋で行った。部屋の中には機材が置かれていて、「ああ、こっちに来てからも何曲か作ったよ。今は全く新しいフォームにトライしてて、すげえクレイジーなんだよそれが」と話していた。印南さんが記事で書いているが、彼らのライヴではラスト近くに何十人もの女の子をステージに上げ、終了後はグルーピーの女の子がメンバーと一緒にホテルへ向かうバスに乗り込んでいた。そんな中で、RZAは一人部屋に籠ってトラックを作っていたようだ。
 新作『Wu-Tang Forever』は29曲、2枚組(アナログは4枚組)。なぜこんな大作に?という質問には、
「いくらでも曲があるからさ。現時点で100曲ぐらいはあるし、どんどん出てきちゃうんだよ、曲が。俺らの作品は言ってみりゃ人生の表現なんだから当然だよな。生きてるとそれに即して新しい物事を覚えるだろ、俺たちはその過程で学んだことを音楽を通して表現してるんだ」と話していた。
 デビュー・アルバムの『Enter the Wu-Tang』は全米で200万枚を超え、1994年から1996年にかけてRZAのプロデュースによるメンバーのソロ・アルバムも発売されている。商業的には大成功をおさめているが、そのことでストリートとの間に距離が生じることはないのか尋ねられると、
「俺たちはもともとストリートの人間だからね。だから今でもストリートのために作ってる。ただ、それをメイン・ストリートの奴らが気にし出しちまったもんだから、結果的に双方から支持されてるっていうだけのことだよ。(しばし考えた後)実際、ウータンは名前が売れてるよな。それに、俺だってR&Bだろうが何だろうが、やろうと思えばどんな音楽もできる。だけどさ、そんなことをして人を騙したくないんだよ。やっぱり照準はストリートだから」
 2ndアルバムの『Wu-Tang Forever』は、ビルボード200で初登場1位を獲得、全米で200万枚売り上げ、1998年のグラミー賞で最優秀ラップ・アルバムにノミネートされたそうだ。
 2019年にはRZAを中心に、ウータン・クラン結成の背景を描いた『ウータン・クラン:アメリカン・サーガ』というドラマが制作され、日本でもディズニープラスで2022年から配信されたようだ。
 尚、RZAはウータン・クラウンの結成前は、プリンス・ラキーム名義で活動を行っていたこともある。

YouTubeから「Wu-Tang Clan - "C.R.E.A.M." | Live at Sydney Opera House」 「Wu-Tang Clan - Method Man (Official HD Video)]」 「Wu-Tang Clan - C.R.E.A.M. (American Saga Video Edit)

ウータン・クラン 公式ウェブサイト

横浜・インターナショナル・プラザ・ホテル 1997年5月16日撮影
川崎・クラブチッタ 1997年5月16日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1997年7月号
インタヴュアーは印南敦史さん
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#オールダーティーバスタード
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6月22日(日)

 今日は35℃超えの猛暑日。明日から天気予報は雨の多い下り坂なので、少しは気温も下がるだろうか。今朝の新聞に中学時代の担任の先生の訃報が載っていた。85歳だった。一度友達と自転車で遊びに行ってインスタントラーメンをご馳走になった記憶がある。

 気になった記事を備忘録として。
米軍、イラン核施設攻撃 トランプ大統領「大成功」
高岡市長選告示 保守3人の三つ巴の選挙戦へ
米、防衛費3.5%要求か 日本、2プラス2取りやめ
「熟議」の理想、にじんだ党略 夫婦別姓、企業献金…先送り相次ぐ
那覇市泊の「崇元寺跡」国の史跡に 歴代琉球国王の位牌まつった国廟 文化審議会が答申
「入らず、ほこらも建てないで、眺めるだけに…」新たな名勝に追加される国頭村「辺戸ノ安須森」 村や地権者が呼びかけ

山城トヨ

◯山城トヨ

 山城トヨさんは、2012年9月11日に行なわれた大宜味村・塩屋のウンガミ(海神祭)で撮影させていただいた。沖縄で一番最初に撮影させていただいた神人(カミンチュ)の方だ。
 沖縄に滞在した2年で様々な祭祀を見てまわり、神人の方も随分と撮影させていただいたが、ノロの肩書を持つ方にお会いしたのは山城トヨさんだけだった。
 ノロは神人の役職の一つ。琉球神道の最高神女が聞得大君(きこえおおきみ)だが、その聞得大君に任命された祈念祭祀を司る女性神職がノロで、琉球王国と奄美群島に配置されていた。首里王府から辞令書や勾玉、簪、神扇、神装束が与えられ、国家公務員のような待遇でもあったようだ。実際、『塩屋・ウンガミ/塩屋ウンガミ刊行委員編』という本の中で、山城トヨさんはインタヴューに答えて、「戦前は国から年棒も支給されていました。今のようになかなか名護にも行けない時代だったので2、3年分まとめて銀行で受け取っていました」と答えておられる。

 各シマ(集落)の祭祀を司るのがノロで、その下にウメーギなどノロを補佐する役職の神人が存在する。ノロに限らず神人は基本的に家継ぎ(世襲制)で、継ぐべき女性が居らず途絶えることも多い。奄美から沖縄へと祭祀を撮影して歩いて、ノロの肩書きを持った神人の方にお会いしたのは山城トヨさんだけだった。だだ、琉球朝日放送の<つながるxウンガミ 神事支える96歳の「ノロ」>の中で、「おのオバーにウートートーさせたら私の線香がばちみかしたわけよ。それで、私にさせたって話していたよー」と答えているので、トヨさんは家継ぎではないのかもしれない。
 琉球新報2019年の塩屋ウンガミを紹介する記事の中で「かつては約20人いたカミンチュも、今回は4人に」と書かれているが、今や神人が一人も居らず区長さんが祭祀を執り行っている集落も少なくない。渡名喜島のシマノーシ、粟国島のヤガンウユミも撮影に行ったが、ともにノロ殿内は残っているがノロは不在。久高島も根神(ニーガン)やノロを補佐するウメーギといった神人はいらしたが、久高ノロも外間ノロも既に不在となっていた。 
 山城トヨさんは琉球新報の記事によると、2022年11月9日に102歳で亡くなられたそうだ。トヨさんは大宜味村田港生まれで、1933年に前任者の死去に伴いノロになったそうだ。<13歳でノロになって89年、国の重要無形民俗文化財「塩屋ウンガミ」をはじめ塩屋周辺の拝み行事をつかさどってきた>と書かれている。トヨさんの後任は現時点で不在だが、2014年に若ノロに就任した50代の女性がおり、今後は若ノロと70代以上の神人3人で伝統を引き継いでいくそうだ。
 尚、神人のことを八重山や宮古諸島では司(ツカサ)、神司(カミツカサ)と呼んでいる。与那国島ではカァブとも呼んでいた。その継ぎ方も島々で微妙に異なっているが、神人の継承はどのシマでも困難なようだ。久米島には聞得大君に直属の三十三君の一つ君南風(チンベー)という高級神女の役職があるが、2014年6月に久米島へ五月ウマチー(稲穂祭)を撮影に行った時は、君南風(チンベー)の女性が君南風殿内とローカーヤーと呼ばれる仮設小屋で神事を司っていらした。
 神人の減少ともう一つ、沖縄でも御嶽(ウタキ)が何であるかや、ノロとユタの違いがわからない島人(シマンチュ)も多くなっていると思われる。沖縄から奄美にかけての琉球弧には「おなり神」信仰と呼ばれる、姉妹(おなり・うない)が、兄弟(えけり/えーり)を霊的に守護するという信仰がある。奄美民謡の「よいすら節」の<舟ぬ高艫(たかども)に ヨイスラ 白鳥(しるどり)ぬ いしゅり スラヨイ スラヨイ>は、舟の高い舳先に白い鳥がいる。あれは鳥ではなく「おなり神」だと歌っている。

YouTubeから「ノロの祈願の唱え(大宜味村)/山城トヨ

つながる × ウンガミ 神事支える96歳の「ノロ」

大宜味で唯一のノロ、山城さんが死去 102歳、地域の安寧祈り8

塩屋のウンガミ 沖縄アーカイブ研究所

大宜味村・塩屋 2012年9月11日撮影
#山城トヨ
#ToyoYamashiro
#ノロ
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◯村山キヨ

 2013年9月、池間島と池間島から移住した人たちが住む宮古島西原地区と、伊良部島の佐良浜地区の3ヶ所で行われる池間民族最大の祭祀、ミャークヅツを撮影に行った。西原地区のミャークヅツでは神事が終わった後、ジャーと呼ばれる場所(本島で言うアシビナーと思われる)で映画『スケッチ・オブ・ミャーク』にも登場される村山キヨさんの歌う西原に伝わる古謡を聴いた。手拍子だけを伴奏にしたキヨさんの歌は味わい深く、その歌に合わせて女性たちがクイチャーを踊っていた。ザラザラとした声だが、不思議に力のある歌だった。キヨさんは暦を読みながら神行事の日程を取り決めるヒューイトゥインマを務めており、ミャークヅツの日取りも彼女が決定すると聞いた。
 大西功一さん制作・監督、久保田麻琴さん原案・監修の『スケッチ・オブ・ミャーク』は封切られた2012年の11月に那覇の桜坂劇場で観た。映画.comからあらすじを引用させてもらうと、
<沖縄県宮古諸島に古くから伝わる民謡と、その歌を歌い継いでいく人々の姿を追ったドキュメンタリー。厳しい島での暮らしや神への信仰から生まれ、宮古諸島の村々でひっそりと歌い継いできた「アーグ(古謡)」と「神歌(上歌)」。何世紀にもわたり口伝されてきたそれらの歌が失われつつある現状や、歌い継ぐ人々の暮らし、秘められた島の神事の様子などをとらえ、神や自然への畏敬の念や、生きることへの希望を見出していく。タイトルの「ミャーク」は宮古島の意味>
 村山キヨさんはこの映画で、長崎トヨさん、高良マツさんと共に「西原キャンディーズ」と呼ばれて登場する。映画のサイトに掲載されているプロフィールによれば大正15年生まれだが、2017年9月に永眠されたそうだ。高良マツさんも2013年9月に、長崎トヨさんも2017年9月に永眠されている。
 
YouTubeから「カンナーギアーグ (神名揚げ歌) 後のアーグ (歌)」 「宮古島神歌古謡 2007年12月の録音」 「Sketches of MYAHK trailer スケッチ・オブ・ミャーク(宮古島神唄の世界)」 「2024年西原ミャークヅツ

スケッチ・オブ・ミャーク 公式ウェブサイト

宮古島・西原 2013年9月26日撮影
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村山キヨ

6月20日(金)

 今日は朝から副菜の酢の物とマカロニサラダ、茹でたブロッコリーを作り置きした。
 昨年の6月20日から、これまで撮影してきたアーティストの写真を中心にSNS上にアーカイブとして残す作業を始めて昨日で丸一年が経った。スティーヴ・アルビニから始まって毎日休まず(こちらでは一日置きに)公開してきたので365回の投稿となり、イヴェントやフェスティバルでは複数のアーティストの写真をUPしているので400組みほどのアーティストやグループのアーカイブを公開したことになるだろうか。
 
 気になった記事を備忘録として。
斎藤知事とPR会社社長を公選法違反容疑で書類送検 知事「適法に」
PayPayで一瞬にして73万円を騙し取られた話
アベノマスク、国の敗訴確定 契約過程記す文書開示へ

マリア・カラニエミ

◯マリア・カラニエミ

 1964年5月27日、フィンランド・エスポー生まれのアコーディオン奏者。彼女を撮影したのは2001年の来日公演の時だった。会場は台場のTLG(Tributes to the Love Generation)で、コンサートの始まる前に楽屋で取材している。インタヴュアーは北中正和さん。
 wikiによると、彼女は1992年にシベリウス音楽院で音楽博士号を取得しているが、在学中に結成されたグループ、ニエク(Niekku)で3枚のアルバムを録音。また、こちらも在学中に結成されたグループ、アルダルガス(Aldargaz)で1999年にアルバム『アハマ』をリリースしている。アルダルガスは彼女の他にフィドル奏者アルト・ヤルヴェラ、ピアニストのティモ・アラコティラ、マンドリン奏者のペトリ・ハカラ、ギタリストのオリ・ヴァリス、タバニ・ヴァリスという編成だったようだ。
 アルダルガスについて北中さんのインタヴューで、彼女はこう話している。

「アルダルガスはフィンランドの伝説に出てくる冗談好きな巨人の名前です。95年に『イホ』というアルバムを作ったとき、こんな楽器の音が欲しいと思ったメンバーが自然に集まったんです。それから何年も一緒にやってきたから『アハマ』ではよりバンド的になりました。バンドにドラマーがいないのは、みんながドラムのリズムにしたがうダンス・ミュージックも嫌いじゃないけど、アルダルガスは小さな色彩や出来事がいっぱいあるバンドにしたかったので、必要ないと思ったんです。アレンジは譜面なしにアイデアを持ち寄って一緒に演奏して、必要ならそれをメンバーのティモ・アラコティラが整理して譜面にまとめるという感じでやってます」
 アルダルガスの後には、ティモ・アラコティラとのデュオ、デュオにオリ・ヴァリスが加わったマリア・カラニエミ・トリオ、アメリカ、スロベニア、スウェーデン、オーストラリアのアコーディオン奏者との国際的なアコーディオン・グループ「アコーディオン・トライブ」や「ウント・タンゴ・オーケストラ」など様々な形で活動を行っているようだ。
 来日コンサートはフィルムでは撮影していないが、当時日記がわりに毎日持ち歩いていたフロッピーディスクに画像を記録するソニーのマビカに何枚かコンサートの様子が残っていた。その画像にはマリア・カラニエミともう一人、男性のアコーディオン奏者も写っている。誰だろうと『ミュージック・マガジン』のコンサート情報欄を遡って確認したが、この時のコンサート情報は掲載されていなかった。諦めかけていた時、検索でアコーディオ二ストの来日公演を記録した、こちらのサイトが引っかかり、コンサートのタイトルが「キンモ・ポヨネン&マリア・カラニエミ、フィンランド発・驚異のアコーディオン・ナイト!!」で、公演は8月11日と12日の2日間だったことがわかった。大学の教授で、アコーディオン愛好家の方が作られたサイトだが、こうして記録(データ)が残っていることは本当に大切。
 キンモ・ポヨネン(ポーヨネンの表記もある)を検索すると、フィンランドを代表する若手アコーディオン奏者で、キング・クリムゾンのドラマー、パット・マステロットらとKTU(クラスター&ティー・ユー)というユニットを組んで2005年にデビュー・アルバムを、2009年にセカンド・アルバムをリリースしているようだ。
 The Music Plantのブログには、こう紹介されている。
 掲載した写真の6~9枚目はマビカによるスナップ。8、9枚目に写っている男性がキンモ・ポヨネン。

YouTubeから「ahma/Maria Kalaniemi」 「Ellin polkka/Maria Kalaniemi

マリア・カラニエミ Instagram

マリア・カラニエミ hoedown内ウェブサイト

台場・TLG 2001年8月12日撮影
初出『ミュージック・マガジン』2001年11月号
インタヴュアーは北中正和さん
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#アコーディオン
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へティ・クース・エンダン

◯へティ・クース・エンダン

 1990年代にインドネシアの歌手は何人か撮影したが、一番最初は西ジャワ出身の女性歌手、へティ・クース・エンダンだった。日本でボンバ・レコードから『うぶ毛がそそり立つ』というポップ・インドネシアのアルバム(インドネシアでは『Berdiri Bulu Romaku』というタイトルで1988年に発売されている)が発売された翌年、1991年に来日した時で『ミュージック・マガジン』と『季刊ノイズ』の2誌に写真が使われている。『ミュージック・マガジン』の1991年7月号では後藤幸浩さんがカラー2ページのコンサート評を、中村とうようさんが8ページのインタヴュー記事を、『季刊ノイズ』10号でも田中勝則さんが8ページの記事を書いており、当時の注目度の高さが伺える。
 とうようさんのインタヴュー記事によると、この時は4回目の来日だったが、2回はヤマハ主催のフェスティバルへの出演、もう1回はプライベートでの来日で、単独公演での来日は初めてだった。

 公演スケジュールは5月5日、6日、7日が新宿・東長寺のギャラリー、5月8日が青山CAY、5月9日が玉川高島屋アレーナ・ホールで、バックの演奏はカトゥリスティワ・バンドという学生グループだった。
 ライヴは5月6日の東長寺、8日の青山CAY、9日の玉川高島屋アレーナ・ホールを撮影し、5月7日のライヴ前に東長寺でインタヴュー写真とポートレートを撮影している。もう34年も前のことなので記憶もあやふやだが、強く印象に残っているのはインタヴューの場に現れたへティが素顔に近かったこと。CDジャケットで見る彼女と違うので、「誰れ?」と思い、彼女だと判ってからはすっぴんに近い状態の彼女を撮影して大丈夫なのだろうか?と心配になった。しかし、ストロボを焚いてシャッターを切っていてもどこからもクレームが来ないのでそのまま撮影を続けた。ネットで画像検索しても素顔に近い状態のへティの写真は見当たらないので、貴重かもしれない。田中勝則さんの記事によればインタヴュー時間は『ミュージック・マガジン』と『季刊ノイズ』を合わせて1時間という短さだったようだ。
 とうようさんのインタヴュー記事からへティのプロフィール部分を抜き出すと、
<1957年8月6日生まれで、10人きょうだいの6番目。両親はスンダ地方の出身者で、父親はクロンチョン歌手。本人は医者になりたかったが、母親の勧めで歌手になった。14歳の時にフェスティバルでグラン・プリを獲得し、本気で歌手を志す。以降、83年までフェスティバルに毎年出場した。初めてレコード(カセット)を出したのはグラン・プリを取って間もない73年で、レコマから発売された。レコマとの契約は75年までで、76年からはムジカ・スタジオと契約。最初のレコード(カセット)はポップで、それからダンドゥット、クロンチョン、スンダ、ジャワ、パダンなど様々なスタイルでこれまでに120本くらいのアルバムを発売している>
 前年に日本で発売され話題になったアルバム『うぶ毛がそそり立つ』は、アルバム・ジャケットの写真も含めてこれまでになかったコミカルな路線だった。
「実はあのアルバムを作る前はずいぶん悩みました。プロデューサーからは”もっと有名になりたいなら、こういう曲をやりなさい”と言われましたが、私はどちらかというとクラシックなスタイルの歌手ですから。こういう曲では歌い方ももっとリラックスしたものに変えないといけないし・・・。でも、それから一日考えて、やっぱりやることにしたんです。そしたら大変な成功で、プロデューサーから”良かっただろう”って言われました」
 ちなみに、『うぶ毛がそそり立つ』という邦題は中村とうようさんが訳したものだそう。また、このアルバムのライナーノーツもとうようさんが書かれており、その文章は1991年9月に筑摩書房から出版されたレコード解説やエッセイ、コラムを一冊にまとめたとうようさんの著書『地球の回る音』に収載されている。そして自分が来日時に撮影したライヴ写真もレコード解説に添える形で『地球が回る音』に掲載されている。
 wikiによれば1993年からマレーシアに本拠地を移し、ポニー・キャニオン・マレーシアと契約して幅広い歌を発表しているそうだ。
 へティのコンサートが何故新宿にあるお寺、東長寺で開催されたのかわからないが、とうようさんの遺骨は東長寺で眠っている。なんだか不思議な縁を感じている。

YouTubeから「Hetty Koes Endang - Berdiri Bulu Romaku (1986 Selekta Pop TVRI)」 「Dato' Sri Siti Nurhaliza & Hetty Koes Endang - Berdiri Bulu Romaku」 「HETTY KOES ENDANG - Kasih

へティ・クース・エンダン Instagram

新宿・東長寺 1991年5月6日ライヴ撮影
新宿・東長寺 1991年5月7日インタヴュー撮影
青山CAY 1991年5月8日ライヴ撮影
玉川高島屋アレーナ・ホール 1991年5月9日ライヴ撮影
初出『ミュージック・マガジン』1991年7月号
コンサート評を後藤幸浩さん インタヴュアーはを中村とうようさん
初出『季刊ノイズ』10号(ミュージック・マガジン)
インタヴュアーは田中勝則さん
『地球が回る音/中村とうよう』(筑摩書房)
#へティクースエンダン
#HettyKoesEndang
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6月18日(水)

 北陸地方は今月10日に梅雨入りしたばかりだが、一昨日くらいから梅雨とは思えない夏日が続いている。

 G7(先進7カ国)の首脳が、イスラエルとイランの交戦で、イスラエルの自衛権を確認したという記事を見て驚いた。イランがたとえ問題を抱えた国だとしても、イスラエルが自国への脅威だとしてイランの核施設を攻撃して良いはずがない。イスラエルは核施設のみならず生放送中のイラン国営放送局まで爆撃している。自衛権の範疇を超えているだろう。また、G7はイランの核保有を認めないとする共同声明を発表したが、G7のメンバーであるアメリカが5177発、フランスが290発、イギリスが225発の核弾頭を保有している。これらは誰が承認したのだろう。オバマ政権で締結したイランとの核合意を一方的に離脱したのは第一次トランプ政権だった。
 尚、ニューヨーク・タイムズによるとイランは米軍がイスラエルの軍事作戦に加わった場合に備えて、中東各地の米軍基地を攻撃する準備をしているという。これは日本も対岸の火事ではない。台湾をめぐりアメリカと中国が、あるいは北朝鮮とアメリカが戦争を始めたら一番最初に攻撃を受けるのは在日米軍基地ということ。

 1985年の11月に発売して間もなかったミノルタのα-7000を買い、翌年の4月にそのカメラを持ってイベリア半島を旅した。7月に帰国してから撮影した写真や企画書を持って出版社へ売り込みにまわった。その頃は電話でアポを取り売り込みに行くと、どこの編集部でも会って写真を見てくれた。そしてかなりの高確率で仕事に繋がった。そのうち売り込みにいかなくても仕事が回るようになって自分から営業をすることも無くなったが、最後に売り込みに行ったのが雑誌『東京人』だった。家の書棚に並んでいる一番古い『東京人』は1992年3月号なので、この頃に売り込みに行ったのだろう。『東京人』の読者ではなかったが、書店に行って面白そうな雑誌、仕事をしてみたい雑誌を探していたら『東京人』が目についた。
 誰かのコラムに添えるモノクロの写真から、カラーグラビアの特集ページまで1992年から1993年にかけて色々撮影させてもらったが、1993年11月号の特集「私鉄沿線物語」もその一つだった。カラーのグラビアで、京急・京成・東急の車両を撮り、モノクロページで東急沿線の自由が丘の街を撮影している。この頃は小田急線沿線に住んでいたので、小田急線は誰が撮影するのか担当編集者に尋ねると、廃墟写真で知られる丸田祥三さんがいち早く手をあげたそうだ。西武・東武の撮影は小松健一さんが担当している。
 何故こんな30年以上も前の話を持ち出したかというと、先日、BS朝日で放送されている『関口宏の雑誌の記憶』という番組を担当している女性から、『東京人』1993年11月号の記事「私鉄沿線物語」を取り上げるので、掲載されている写真の使用許可をいただきたいというメールが届いたから。オリジナルのポジフィルムを使いたいとかではなく雑誌に掲載された写真をそのまま番組内で紹介するだけなので使用許可もいらないだろうとも思うが、わざわざ連絡をいただいたので、改めてメールで使用していただいて構いませんと返事をした。しかし、自分も丸田祥三さんも小松健一さんもホームページを持っているのでネットで検索すればコンタクトは取れるが、すでに写真の仕事をやめて連絡のつかない人も多いと思われる。毎回こうして写真の使用許可を取るのは大変だろう。
 番組は150年分80万冊の雑誌を保存する大宅壮一文庫を舞台に、毎回テーマを決めてゲストと一緒に雑誌を手に取り関口さんが話を進めるようだ。今週の土曜日、6月21日は「東京の私鉄」がテーマで、この回に『東京人』の特集「私鉄沿線物語」が取り上げられるそうだ。
 放送は6月21日の16時~、ゲストは六角精児さん。
 関口宏さん絡みで、以前、こんな投稿もしている。

東京人

 この他の気になった記事を備忘録として。
「アベノミクス」の負の遺産…日銀の「国債大量保有」どう減らす? 買い入れ減額の背景と影響は<Q&A>
イスラエルの自衛権確認 G7、中東情勢で共同声明
【速報】石垣市長の不信任決議が可決 議案日付を偽造、虚偽答弁も 「辞職か議会解散これから判断」 沖縄

ルイス”ペリーコ”オルティス

◯ルイス”ペリーコ”オルティス

 1949年、プエルトリコの首都サンファン生まれのトランペット奏者で作曲家、アレンジャー、そして音楽プロデューサーでもある。
 プエルトリコ音楽学院で学んだ後、プエルトリコ大学で音楽教育を続け学士号を取得。1967年、18歳でプエルトリコ交響楽団に客員ソリストとして参加したそうだ。
 1970年に活動拠点をニューヨークに移し、ティト・プエンテ、モンゴ・サンタマリア、ファニア・オールスターズ、ウイリー・コロン、ブロンディ、デヴィッド・ボウイなどの作品にトランペット奏者、作曲家、アレンジャー、プロデューサーなどでかかわる。
 1971年には自身のバンドを結成し、プエルトリコで年間最優秀トランペット奏者としてディプロ賞を、1981年にはサルサ音楽の最優秀解釈者としてAEC賞を受賞している。

 ルイス”ペリーコ”オルティスを撮影したのは1992年のカリビアン・カーニバルで、7月19日の日比谷野外音楽堂でのステージだった。この日は他にチカブーン 、ミリー、ジョセリン&ロス・ベシーノスがステージに立っている。このライヴの写真は『ミュージック・マガジン』のCONCERT PICKUPというカラーグラビア・ページで使われており、コンサート評は関谷元子さんが書いている。
 また、翌日の7月20日にはポリスターレコードで彼のインタヴュー写真とポートレートを撮影した。インタヴュアーは岩村健二郎さんで、当時は東京外語学院大学院でキューバの黒人文化を研究されていたが、現在は早稲田大学で教授をされているようだ。
 記事は「ロマンティカの後、サルサはどこへ行く 次々に来日した立場の違うニューヨーク・サルサのベテランたちに会って」と題されて、ホセ・アルベルト、ジェリー&アンディ・ゴンサーレスと並んでペリーコのインタヴューが掲載されている。
 ペリーコは1988年に自社スタジオで広告制作、音響エンジニアリング、アレンジメントなどをできるダイアレンプロモーションズを設立しており、サルサのプレイヤーとしては4年ぶりの復帰だったようだ。
「うん、会社の設立の仕事が忙しかったからね。ただ、昔みたいに週に4~5回のクラブ・サーキットはやらない。プロデュースや映画の仕事なんかもやってて、いろんな面で自分の才能を表現するチャンスをつかんできてるんだ」
 そう答えた彼は、1993年にプエルトリコに別の会社、ルイス”ペリーコ”オルティスプロダクションズ社を設立。新しい顧客はウォルト・ディズニーやクインシー・ジョーンズだったそうだ。 
 wikiによると1978年から2021年までの間に21枚のオリジナル・アルバム、4枚のコンピレーション・アルバムをリリースしているようだが、これは一部にすぎないかもしれない。

YouTubeから「Luis "Perico" Ortiz y Domingo Quiñones - Perico lo tiene」 「DE PATITAS Luis Perico Ortiz CHIMPUN CALLAO 2009

ルイス”ペリーコ”オルティス 公式ウェブサイト

日比谷野外音楽堂 1992年7月19日撮影
恵比寿・ポリスター 1992年7月20日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1992年9月号
コンサート評は関谷元子さん
インタヴュー記事は岩村健二郎さん
#ルイスペリーコオルティス
#LuisePericoOrtiz
#サルサ
#Salsa
#カリビアンカーニバル
#CaribbeanCarnival
#アーカイブ

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◯ミリー、ジョセリン&ロス・ベシーノス

 ミリーとジョセリンの姉妹によるボーカルと、リーダーでトランペットのラファエル、キーボードのマルティンという4人が中心になって結成したファミリーによるメレンゲ・バンド。ベシーノスとは、隣人たちという意味のスペイン語だそうだ。
 wikiによると彼女たちはドミニカ共和国の首都サントドミンゴ出身だが、ドミニカ内戦(1965−1966)から逃れるためニューヨーク・マンハッタンのワシントンハイツに移り住む。当時、ラテン音楽ブームの中心地であったワシントンハイツでドミニカ共和国発祥のダンス・ミュージック、メレンゲを学んだという。
 バンドの結成年月日などはネットで探してもわからなかったが、wikiには70年代、80年代、90年代に人気が高まったヒット曲には、「Volvio Juanita」、「La Guacherna」、「Tengo」などがあると書かれているので、ニューヨークに移り住んで直ぐに結成されたのだろうか。
 彼女たちを撮影したのは1992年のカリビアン・カーニバルで、7月19日の日比谷野外音楽堂でのステージだった。この日は他にチカブーン 、ルイス”ペリーコ”オルティス が出演した。このライヴの写真は『ミュージック・マガジン』のCONCERT PICKUPというカラーグラビア・ページで使われており、関谷元子さんがコンサート評を書いている。それは、こんな文章だった。
「(チカ・ブーンに)続くロス・ベシーノスは、前回来日時と印象が大きく変わったわけではないが、ますます充実、より安定と、バンドの力を見せつけた。メレンゲだけが求められがちな自身の
コミュニティでのショウとは違い、ベシーノス本来の持ち味である種々の音、サルサのバチャータなども披露したのは、彼らがインタナショナルなショウを意識したからに違いない」
 彼女たちは90年に初来日しており、92年のカリビアン・カーニバルは2度目の来日だった。
 92年3月にBad Newsレコードからアルバム『フライング・ソロ』を発売したばかりでの2度目の来日で、藤田正さんのライナーによると、このアルバムにはルイス”ペリーコ”オルティス がエンジニアとして参加しているそうだ。
 ベシーノスとしての活動がいつまで続いたのかわからないが、姉のミリーは現在も「メレンゲの女王」としてソロ歌手で活躍しているようだ。

YouTubeから「MILLY, JOCELYN Y LOS VECINOS - Volvio Juanita (80’s)」 「Milly Quezada - Entre Tu Cuerpo y El Mío (Solo Contigo)

ミリー・ケサダ 公式ウェブサイト

日比谷野外音楽堂 1992年7月19日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1992年9月号
コンサート評は関谷元子さん
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ミリー、ジョセリン&ロス・ベシーノス

6月16日(月)

 世界の軍事情勢を分析しているスウェーデンの研究機関の年次報告によると、今年1月時点での世界の核弾頭の総数は1万2241発で、最も多いロシアが5459発、次にアメリカが5177発を保有し、この2カ国で全体の9割近くを占めている。3番目に多い中国は600発だが、毎年100発とどの国よりも早いペースで増やしているという。世界全体の核弾頭の3割以上にあたる3912発が配備され、そのうちの2100発は弾道ミサイルに搭載されていて短時間で発射できる状態にあるそうだ。核抑止の名目ですでに地球を何十、何百回と破壊できる核弾頭を保有して人類はこの先どうするのだろう。スウェーデンの報告書はさらに、防御システムへのAI(人工知能)の導入によって意思疎通や状況認識の誤り、それに技術的なトラブルが起きるなどして核紛争の危険性が高まるおそれがあるとも指摘している。ちなみにフランス290発、イギリス225発、インド180発、パキスタン170発、北朝鮮50発、イランの核開発が自国への脅威だとして攻撃しているイスラエルは90発を保有している。
 たぶん同じ研究機関だと思うが、スウェーデンにあるストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が4月28日、2024年の世界の軍事費を発表している。それによると過去最高の2兆7180億ドル。日本円にすると約390兆円で、2025年度の日本の国家予算115兆1978億円の3倍以上になるそうだ。戦争や紛争の要因はいろいろあるだろうが、これだけの軍事費をその要因に向ければ解決できることもたくさんあるのではないだろうか。それができないのはネタニヤフのような汚職裁判を抱えた為政者が、戦争を続けることで裁判を長引かせる、あるいは敵を作り国民の目をそちらに向けさせようと考えているからか。アメリカのように戦争が産業になっている国もある。ネタニヤフに限らず為政者にとって、戦争は自分たち(政府)への国民の批判を他者(敵国)へとかわすツールにもなる。しかし、気候変動や環境変化など地球全体で考えれば戦争をやっている余裕はもうないだろう。
 「政治の役割は二つあります。一つは国民を飢えさせない事、安全な食べ物を食べさせる事。もう一つは・・・、これは最も大事です。絶対に戦争をしない事!」。これは2014年の沖縄知事選の際に応援演説した菅原文太さんの言葉だ。貧困世帯が増えて民間ボランティアによるこども食堂やフードバンクが全国に次々と開設され、主食であるお米が高騰して手に入らず、放出された備蓄米に長い行列ができる。集団的自衛権行使、武器輸出三原則から防衛装備移転三原則への転換、敵基地反撃能力の保有、2012年から始まった安倍政権から今に至る自民党政権により戦争をしないための鍵がいくつも外され、もはや砦は憲法だけとなった。このことをとっても、もう自民党には政治を任せてはいけないだろう。
 忌野清志郎さんがこんな文章を書いている。
<この国の憲法9条はまるでジョン・レノンの考え方みたいじゃないか?戦争を放棄して世界の平和のために頑張るって言ってるんだぜ。俺達はジョン・レノンみたいじゃないか。戦争はやめよう。平和に生きよう。そしてみんな平等に暮らそう。きっと幸せになれるよ>
 全文はこちら
 YouTubeから「忌野清志郎 IMAGINE

レンチ

◯WRENCH

 2001年の暮れに取材した時点で、結成以来メンバーチェンジすることなく前身のバンドから数えれば10年のキャリアだった。そんな彼らは24年経った今も現役で活動を続けている。ただ、wikiによるとドラムの名越藤丸が”クリック聞いてやるのは嫌”と2003年10月に脱退し、代わりにヘヴィメタル・バンド、ココバットのドラマー、Murochin(室田政孝)が加入。また、2020年に一時そのMurochinが活動休止していた際にサポートとして参加していたドラムのMasatoも正式にメンバーとなり、現在はツインドラムの5人編成のバンドになったそうだ。
 取材は『ミュージック・マガジン』の巻頭グラビア<Tune In!>というページ用で、インタヴュアーは小野島大さん。山田幹郎、小西康司、内田直之という3人のエンジニアを迎えて制作された新作アルバム『CIRCULATION』が発売されるタイミングだった。

 このアルバムについて小野島さんは、<ヘヴィ・ロックをベースに、トランス、ヒップホップ、レゲエ/ダブ、ポスト・ロック的実験などの要素が織り込まれたサウンドは多彩だが、決してばらけた感じはしない。これらの要素はそれまでのレンチの音楽に少しずつ存在していたものだが、一切の制約を排し、3人のエンジニアと作業することで必然的に、さらに先へと進化することになる>と書いている。
 3人のエンジニアを起用したことについて、ギターの坂元東は「単なるエンジニアじゃなく、第5のメンバーとしてセッションに加わってもらった感じ」と言い、ボーカルのシゲ(和田成文)は「それぞれのエンジニアと組むことで、自分たちの中から新しいものが生まれたという実感はすっごくある」と話している。また、ベースの松田友大は「3人がそれぞれ自分なりの主張と世界観で、俺たちのちがった面を引き出してくれた。そうすることで、それぞれの要素により説得力が出てきた」と語っている。
 見開きのグラビアページで写真は1ページ断ち切り使用だったので、カメラはマミヤの645を使いブローニーのポジフィルムで撮っている。ちょっと濁った色にしたくてストロボのヘッドに、確かグリーンのゼラチン・フィルムをかぶせている。

YouTubeから「WRENCH - SKY,LIQUID,MEN,」 「WRENCH-Breaking Man

WRENCH 公式ウェブサイト

北青山・ビクター 2001年12月18日撮影
初出『ミュージック・マガジン』2002年2月号
インタヴュアーは小野島大さん
#レンチ
#Wrench
#和田成文
#ShigefumiWada
#松田友大
#TomohiroMatsuda
#坂元東
#Sakamoto
#名越藤丸
#FujimaruNagoshi
#アーカイブ

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ファット

◯PHAT

 彼らのメジャー・デビュー・アルバム『色 (siki)』の宣伝コピーには<テクノ↔︎JAM BANDをクロスオーヴァーする無敵トリオ エレクトロニクスとファンク・グルーヴそして鉄壁のジャズ・スキルを武器にクラブ・フロアへと乗り込む>と書かれていた。
 1970年生まれ、1996年にバークリー音楽大学を卒業。ジョージ・ラッセルが提唱したジャズ理論のリディアン・クロマチック・コンセプトの教員ライセンスを取得したテナーサックス、フルート奏者の藤原大輔が1997年に結成したグループがPHATだった。ブルーノートからメジャー・デビュー・アルバム『色 (siki)』がリリースされた2002年の時点では1971年生まれ、山口県出身で高校卒業後にジャズ・ドラマーのジョージ大塚氏に師事した沼直也、そして岡山県出身のウッドベース、鳥越啓介によるトリオだったが、それ以前にはDJ・加藤昌寛が加わり4人編成だったこともあるようだ。

 取材は『ミュージック・マガジン』の巻頭グラビア<Tune In!>というページ用で、インタヴュアーは今村健一さんだった。『色 (siki)』がメジャー・デビュー・アルバムだが、前年には高橋健太郎さんが主宰するメモリー・ラボからファースト・アルバム『ZOOM』、ミニ・アルバム『King of pimp』をリリースしている。
 今村さんは<詰まるところPHATの魅力は、既成のスタイルを徹底して避けながら音楽を紡ごうという姿勢にこそあり、今回ブルー・ノートからリリースされるメジャー・デビュー盤『色 (siki)』でそれは更にエスカレートしている。3人ともジャズを音楽的背景に持っているだけにそれらしいフレーズが散見されるものの、すぐに過剰なまでのエレクトリック・サウンドの中へエッシャーの騙し絵のように溶け込んでしまう>と書いている。
 藤原大輔さんは「昔からジャズという言葉に縛られることに抵抗があって、バークレーに通っていた頃からミニマル・ミュージックとか、違うジャンルの音楽に興味があって、スティーヴ・ライヒを意識したビッグ・バンドのスコアを書いて教師に”曲が全然変化しないじゃないか”なんて怒られてましたね(笑)」と話していた。
 ブルー・ノートから2002年に『色(SIKI)』『date』、2003年に『tayutaf』を発表して、PHATは解散したようだ。
 使用カメラはマミヤの645で、ブローニーのポジフィルムを使用。ストロボは2灯で、それぞれのヘッドにオレンジとブルーのゼラチン・フィルムをかぶせている。

YouTubeから「PHAT "Mexican Pusher”」 「Primitive Jungle/Phat」 「KING OF PIMP/Phat

藤原大輔 公式ウェブサイト

鳥越啓介 Instagram

沼直也 Instagram

赤坂・東芝EMI 2002年1月29日撮影
初出『ミュージック・マガジン』2002年3月号
インタヴュアーは今村健一さん
#ファット
#PHAT
#藤原大輔
#DaisukeFujiwara
#鳥越啓介
#KeisukeTorigoe
#沼直也
#NaoyaNuma
#アーカイブ

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6月14日(土)

 イスラエルはイランの核開発が自国への脅威だとして、イラン中部にあるウラン濃縮施設などを攻撃した。その報復としてイランは100機以上の無人機(ドローン)をイスラエルに向けて発射。報復合戦の様相を呈してきた。
 他国の核開発が脅威だからといって攻撃して良いはずがない。そんな理屈が通るなら、すでに核を持っているイスラエルの方がイランにとって脅威だろう。核開発を脅威と感じやめさせたいなら、核保有国は自分たちの持っている核兵器を処分するのが先だろう。
 岩屋毅外相は昨日の記者会見でイスラエルによるイランへの攻撃に対し、「わが国は事態をエスカレートする今回の行動を強く非難する。中東地域の平和と安定は日本にも極めて重要で、全ての関係者に最大限の自制と事態の沈静化を強く求める」と語っている。しかし日本と同盟国のアメリカでは国防相の関係者が、イランからイスラエルへの攻撃に対しアメリカ軍が迎撃の支援をしたことを認めたという。アメリカにはテロ支援国家を指定する制度があり、現在、北朝鮮、キューバ、イラン、イラク、シリア、スーダン、リビアの7カ国が指定されているようだが、イスラエルを支援するアメリカこそテロ支援国家ではないのか。
 今月14日のトランプ大統領の誕生日に首都ワシントンで軍事パレードが行われるというが、これでは独裁国家の北朝鮮と同じだろう。この軍事パレードに合わせて全米で1500件以上の「ノー・キングス・デー」と呼ばれる抗議デモが計画中だという。
  ロシアのプーチン、イスラエルのネタニヤフ、アメリカのトランプを見ていれば為政者に過剰な権限を与えるべきではないことがよくわかる。ところが日本では自民党、日本維新の会、国民民主党、公明党が衆議院憲法審査会の幹事会で大規模災害などで選挙を行うことが困難な事態に国会の機能を維持するため、国会議員の任期を延長できる「国会機能維持条項」の骨子案を示したそうだ。「国会機能維持条項」と名称を変えているが、中身は「緊急事態条項」だろう。憲法は為政者の権限を縛るものであって、さらなる権限を与えるものではない。「NO KINGS」、王様はいらない。

 日本郵便が配達員の法定点呼を適切に実施していなかったとして、国交省から貨物運送許可を取り消されたトラックやバン約2500台を売却する方向で検討しているそうだ。それで配送に支障はないのだろうか。郵便料金の値上げ、土曜日配達の休止、不適切な法定点呼、配送車の売却。なんのための郵政民営化だったのだろう。

山崎浩子

◯山崎浩子

 スポーツにあまり興味のない自分だが、健康雑誌の仕事をしていると様々なジャンルのアスリートを撮影する機会に恵まれる。元オリンピアンで、現在は新体操の指導者としても活動されている山崎浩子さんも、2002年に2度取材で撮影している。
 1回目はお酢の特集で、山崎さんが愛飲しているというハチミツリンゴ酢の取材だった。記事によると暑い時期にはハチミツリンゴ酢を一日1リットルほど飲むそうで、常に冷凍庫にペットボトルで10本くらいストックしているという。作り方は簡単で、
「ハチミツ入りのリンゴ酢が市販されています。どのくらいハチミツが配合されているのかわかりませんが、けっこう甘みがあります。これを、容量が500mlの空きペットボトルに1.5~2cmの高さまで入れます。このペットボトルに水道水を8分目くらいまで加え、軽く振ります。そして、ペットボトルを冷凍庫に入れておけば出来上がりです」
 飲む時はペットボトルを室温にしばらく置き、机にコンコンと打ち付けると中の凍ったハチミツリンゴ酢と溶けたものが混ざり合ってシャーベット状になるそうで、これをチビチビと飲むそうだ。

 このハチミツリンゴ酢を飲むようになって疲れにくくなったという。
 2回目にお会いしたのは<「下着を脱ぐ」だけで冷え症・生理痛・腰痛・アトピーが治った、美肌になった!」という特集の取材で、山崎さんは靴下を重ねばきしても眠れない冷え症が裸で寝たら汗をかくほど温まったと話されている。
 子どもの頃から冷え症で、特に指先や足元が冷える末端冷え性というべき症状に悩まされていたという。そんな山崎さんが引退後に週刊誌の連載で「脱パンツ健康法はほんとうに効くのか?」と題してその健康法を提唱した北海道の病院の院長を取材し、自分でも試したところ素晴らしい体温上昇効果があったそうだ。
「昔、北国では寒い環境に対処するために裸で寝る習慣がありました。人間そのものが発熱体であることを、北国の人々は生活の知恵として知っていたのです。だから、いちばんいい方法は、スッポンポンで寝ることなんですよ」
 以来、何度やってもポカポカして汗をかくので、寒くなると”脱パンツ”を実践するようになったという。ただ、夜にトイレなどで起きるたび、いちいち服を着るのが面倒なので、いまはゴムの入っていない腰ではくルーズタイプのスウェットを着用していると話されていた。
 雑誌に掲載された当時のプロフィールをそのまま引用させてもらう。
<1960年、鹿児島県生まれ。79~83年に新体操全日本選手権5連覇を達成し、84年のロサンゼルス5輪で8位入賞。現在はインストラクター、スポーツライター、舞踊家として幅広く活躍中>
 掲載した写真は1回目の撮影のもので、出版社のスタジオで撮っている。女性のマネージャーが同席していたが、元々はスポーツ系のカメラマンだと話されていた記憶がある。

YouTubeから「山崎浩子 新体操 (84`ロサンゼルス五輪)」 「資生堂 MIEUX 山崎浩子 15" 1986-87

山崎浩子 X(旧ツイッター)

山崎浩子 YouTubeチャンネル

文京区本郷・マキノ出版 2002年4月12日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2002年7・8月号
文京区本郷・マキノ出版 2002年11月14日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2003年3月号
#山崎浩子
#HirokoYamasaki
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久里千春

◯久里千春

 1938年生まれ、東京都墨田区出身の女優で歌手。実弟はお笑いトリオ、トリオ・ザ・パンチの栗実(久里みのる)。所属事務所EAGLEBAYに掲載されているプロフィールによると、
<元々オペラ歌手を目指しており、藤原義江が主宰する藤原歌劇団の研究科に入団。その後、劇団新作座を経て20歳で女優としてデビュー。以降、映画「渡り鳥シリーズ」「男はつらいよ」、テレビドラマ「あばれはっちゃくシリーズ」の他、中部日本放送の長寿番組「天才クイズ」の初代司会者も務めた。現在は自身の豊富な経験と話術で、講演会を全国各地で行っている>
 久里さんを撮影したのは、健康雑誌の「お尻すぼめの超効果」という特集だった。健康診断を受けたら子宮がろうそくのように細くなっていて驚き、テレビ番組で知り合った産婦人科の医師に相談したところ、「一日30回、朝、昼、晩と10回ずつ、お尻の穴を締めるといい」とアドバイスされたそうだ。

「最初は、そんなことで効果があるのかしらとも思いましたが、とにかく先生の言われるとおり、続けることにしました。すると、どうでしょう。いつの間にか、すごく体調がよくなっていたのです。
 まず、便秘がなくなりました。それから、私はもともと顔色が青白かったのですが、血色もよくなりました。また、夏でも夜は電気毛布が欠かせないほどの冷え性でしたが、その冷えも取れたのです。
 そして、あれほどひどかった突然ののぼせも、いつの間にかまったく起こらなくなりました。
 お尻の穴を締めるだけで、こんなにもいろんな効果が現れるなんてこれはすごいと思い、そのほかにどんな効果があるのか、先生にうかがってみました。お聞きしたところ、尿失禁の予防にもなるとのこと、男性は前立腺肥大を防ぐのにも有効だそうです。また、美容面ではヒップアップ効果もあるそうです」

YouTubeから「花王石鹸 ザブ酵素CM 1980年 久里千春」 「セコニック8ミリカメラの歌 /久里千春、デューク・エイセス」 「男!あばれはっちゃく(1980)

久里千春 所属事務所イーグル・ベイ公式プロフィール

虎ノ門・ホテルオークラ 2000年9月8日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2000年12月号
#久里千春
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6月12日(木)

 朝ご飯の用意をして、シャワーを浴びて、洗濯をして、昼ご飯の用意をして、買い物に行って、晩ご飯の用意をしたら一日が過ぎていく感じ。
 ビーチ・ボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソンが亡くなった。82歳だった。

 この他の気になった記事を備忘録として。
インドの旅客機墜落、100人の死亡確認 離陸して数分後に降下か
川口や蕨のクルド人 ヘイトスピーチ、盗撮被害… 募る恐怖と危機感
あの「炎上」を通して、参政党が躍進しそうな予感に包まれた選挙前
ガザの死者数、5万5千人超える 食料配給拠点の周辺で攻撃相次ぐ
なぜだ?米品薄のはずが、突然店頭に「米が山積み」「おかしい」の声…進次郎農相、大手柄!そして「悪いのは誰?」
別姓採決、国民が見送り主張 衆院委
森友文書、遺族に2回目開示 9000ページ、欠落分も
政党支持率「支持政党なし」37.8% 自民の支持率が上昇
マイナ保険証、国家公務員でも「3割」切る利用率 一本化後も利用は伸び悩み、むしろ「登録解除」に勢い

バート・ヤンシュ

◯バート・ヤンシュ

 <43年11月3日、グラスゴウ生まれ。65年にソロ・デビューし、68年にジョン・レンボーンらと結成したペンタングルでトラッドの新解釈を促したフォーク界の巨人。デイヴィ・グレアムの直弟子にしてジミー・ペイジのアコギの師匠>
 これは『レコード・コレクターズ』1997年10月号に掲載された和久井光司さんの「短期インタヴュー連載 英国音楽の源流としてのフォーク その3バート・ヤンシュ 」から抜き出したバート・ヤンシュのプロフィール部分。他に<60年代にはアン・ブリックスと深い関係にあり、有名な若手女優とも浮名を流したフォーク界きっての色男>とも書かれている。
 バート・ヤンシュを撮影したのは新宿ロフトでのライヴが行われた1996年10月26日で、リハーサルが始まる前にホテル近くの喫茶店でインタヴュー中の写真を撮影し、その後、路上でポートレートを撮影。ライヴはオープニングアクトをスティーヴ・ティルストン&マギー・ボイルが務め、彼らのポートレートもリハーサルの前にロフトの店内で撮影している。

 1995年5月のマーティン・カーシー&デイヴ・スウォーブリックから始まった英国フォークの重鎮の来日ラッシュも、このバート・ヤンシュで一区切りついた感じだった。
 デイヴィ・グレアムの直弟子にしてジミー・ペイジのアコギの師匠・・・という部分では実際にデイヴィ・グレアムに教わったわけではないという。
「デイヴィはめちゃくちゃなんだ。普通に話していても話題がコロコロ変わる人で、それについていくだけで疲れちゃう。彼は人に何かを教えられるようなタマじゃないよ(笑)。だからステージを観ていて、オープン・チューニングや何かを盗むしかなかったんだ」
 それでも他のギタリストと比較しても、彼からの影響が最も強いのがあなただと思うという質問に、
「その自覚はある。ブルースとデイヴィからの影響で俺のスタイルが作られたと言っても過言ではないね。他の誰よりもデイヴィから受け継いだテクニックを使ってるってことも認めるし、彼が発見した方法論は俺の中に染み付いてるはずだよ」と答えている。
 また、1966年にリリースした3作目のスタジオ・アルバム『自画像』に収められた、アイルランド民謡に独自のギター伴奏を加えた「Black water side」のギター伴奏部分がジミー・ペイジによって「Black Mountain Side」としてアルバム『レッド・ツェッペリン』に収録されていることについては、
「頭にきてたこともあったよ、実際は。でも、ギター・テクニックなんて盗み盗まれて受け継がれていくものだし、<ブラック・ウォーター・サイド>みたいな伝承曲は誰がオリジナルってわけでもない。だから、道義的な問題を別にすれば、彼が悪いとは思わないし、それぞれのやり方があるってことなんじゃないのかな」と話していた。
 2001年のBBC RADIO2のフォーク・アワードで、ライムタイム・アーカイブメント・アワード(生涯の功績を讃える賞の意)を受賞。2003年にはローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリストにおいて94位に選出されたが、2011年10月5日に癌のため67歳で亡くなってしまった。

YouTubeから「Bert Jansch "Black Waterside”」 「Bert Jansch One-Take - "Blues Run The Game”」 「Bert Jansch - Angie

バート・ヤンシュ 公式ウェブサイト

新宿ロフト 1996年10月26日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1997年10月号
インタヴュアーは和久井光司さん 通訳は茂木健さん
#バートヤンシュ
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#ハーバートヤンシュ
#HerbertJansch
#ペンタングル
#Pentangle
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スティーヴ・ティルストン&マギー・ボイル

◯スティーヴ・ティルストン マギー・ボイル

 アーカイブするにあたって検索していると、<ジョン・レノンの手紙、34年ぶりに受取人の元へ>という記事が引っかかった。
 スティーヴ・ティルストンが21歳だった1971年、ジョン・レノンが雑誌『ジグザク』に掲載されていたティルストンのインタヴューを読んで励ましの手紙を書いたそうだ。ところがその手紙は、なんらかの理由でティルストンの手元に届かなかった。彼がその手紙の存在を知ったのは2005年、米国人の収集家が7000ポンド(約93万円)の予想落札額をつけた手紙が本物かどうか確かめたいと連絡してきた時だったという。レノンからの手紙には、
「裕福になることはあなたの考え方を変えるものではない。唯一の違いは、お金や食べるもの、住む所に悩まなくてもよくなるということだ。でも感情や人との関係などはすべて他の人と同じ。私もお金持ちになったり貧乏になったりしているし、ヨーコも同じ。だからそんなことを心配する必要はない」と書かれていたそうだ。

 スティーヴ・ティルストン&マギー・ボイルを撮影したのは、バート・ヤンシュのオープニングアクトとして来日した1996年10月26日の新宿ロフトでのステージだった。ライヴが始まる前に、ロフトの店内でポートレートも撮影しており、その写真は『レコード・コレクターズ』1997年10月号に掲載された和久井光司さんの「短期インタヴュー連載 英国音楽の源流としてのフォーク その3バート・ヤンシュ 」の中、2ページの囲み記事で使用されている。
 記事の冒頭に2人のプロフィールが書かれているので要約して以下に引用させていただく。
 スティーヴ・ティルストンは50年3月26日にリヴァプールで生まれ、71年にソロ・デビュー。スモール・レーベルからの作品が多いせいか日本ではあまり知られていないが、英国のフォーク人脈の中では優れたソングライターとして高い評価を得ている。マギー・ボイルは56年12月24日にロンドンのアイルランド人家庭に生まれた。77年にスティーヴと出会い、やがて二人は結婚。80年代半ば頃から音楽活動を共にするようになり、87年には初のソロ・アルバム”Reaching Out”を発表。その直後には夫婦揃ってジョン・レンボーンのグループ、シップ・オブ・フールズに参加して2枚のアルバムを残した。夫婦デュオ最初の作品は92年の”Of Moor And Mesa”で、その後は2枚のアルバムがある。
 和久井さんのインタヴューによると、マギー・ボイルの一家は音楽一家で、ティルストンは「ボイル・ファミリーっていえばロンドンではちったあ有名で(笑)」と話し、ボイルは「まあね(笑)。二十歳の時にこの人に会うまで、私は無伴奏で伝承歌ばかり歌っていたわ。兄弟のバンジョーやギターと一緒に演る、ファミリーコンサートもあったけど。子供の頃はティン・ホイッスルを吹いてたんだけど、それをフルートに持ち替えてクラシックを勉強したり・・・」と答えていた。
 ティルストンによれば、プットーニというところに「ハーフ・ムーン」というクラブがあり、フェアポートやウィズ・ジョーンズ、バート・ヤンシュ、ジョン・レンボーン、ラルフ・マクテルなどが出演していたそうだ。そうした名の知れたミュージシャンの前座をやっていたのがボイル・ファミリーで、レコードは出ていないが名前の知られた存在だったようだ。
 仲良く取材に応じていた二人だが、wikiによると、この取材から3年後の1999年に彼らは離婚。そしてマギー・ボイルは2014年11月6日に癌のため亡くなってしまった。
 彼らの娘、マーサはソロ・アーティストとしてフォーク・ミュージックを、息子のジョー・ティルストンはスカ・パンク・バンドのランダム・ハンドのメンバーとして活動しているそうだ。

YouTubeから「Steve Tilston & Maggie Boyle 'The Slip Jigs & Reels' VRC0132」 「Steve Tilston - The Road When I Was Young」 「Maggie Boyle with Paul Downes - The Trees They Do Grow High (traditional)

スティーヴ・ティルストン 公式ウェブサイト

マギー・ボイル 公式ウェブサイト

新宿ロフト 1996年10月26日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1997年10月号
インタヴュアーは和久井光司さん 通訳は茂木健さん
#スティーヴティルストン
#SteveTilston
#マギーボイル
#MaggieBoyle
#アーカイブ

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6月10日(火)

 今日は雨一時曇り。気象庁が関東甲信と北陸地方が梅雨入りしたとみられると発表した。北陸地方は平年より1日早く、昨年より12日早いそうだ。
 夜になると家の隣の田んぼからカエルの大合唱が聞こえてくるが、まだ家の敷地にまでは上がってきていないようだ。裏庭の紫陽花が咲き始めた。そのうち紫陽花の花がカエルたちの休憩所になるのだろう。
紫陽花

 昨夜、深刻な人道危機状態にあるガザへ支援物資を運ぼうとしていたスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさんらを乗せた船が、ガザ近くの地中海でイスラエル軍により拿捕された。乗員12人は無事で、グレタさんは飛行機でフランスへ送還されている途中のようだ。
 このニュースに対してコメントを求められたトランプ氏は「彼女は変わった人物だ。若くて、怒りっぽい人物だ。彼女は怒りを制御することを学ぶクラスに行くべきだ。それがアドバイスだ」などと語ったそうだ。しかし、アメリカ大統領選挙の最中から就任直後は蜜月関係にあったイーロン・マスク氏から法案を批判され、激しい罵り合いの果てにマスク氏への信頼の証として3月に購入したばかりのテスラ車を売却しようとしているアナタの方が怒りっぽい人物に見えるし、怒りを制御することを学ぶクラスに行った方がいいのはアナタのように思える。グレタさんはトランプ氏のコメントどころではないだろうから、代わりに言っておく「落ち着けドナルド、落ち着け!」。
 ところで”力による一方的な現状変更を許さない”として近年、日米による合同軍事訓練が盛んに行われているが、今まさに力による現状変更を行なっているのがロシアとイスラエルだ。ところが国連の安全保障理事会でガザ地区での「無条件かつ恒久的な」即時停戦を求める決議案で拒否権を発動したのがアメリカ。そして、イスラエルによるガザ地区への攻撃に抗議してデモに参加した留学生らを反ユダヤ主義として国外追放しようとしているのがトランプ政権。イスラエルがガザで行なっているのは戦争でも紛争でもなく民族浄化で、これに抗議するのは反ユダヤ主義などというものではない。
 大統領就任前はロシアによるウクライナ侵攻について「24時間で戦争を終わらせる」などと主張していたが、収束の気配はまったく見えない。以前、週刊現代に善意の暴走族<安倍昭恵夫人の中身のない「万能感」がキモチワルイ>という記事が掲載されていて、なるほどと思いながら読んだが、中身のない万能感はトランプ氏にも当てはまる気がする。だから二人は気があうのだろうか。

 昨年8月に膵臓がんであることを公表し、任期途中の11月に治療に専念するため辞職した前氷見市長の林正之氏が8日の夜に亡くなった。能登半島地震で被災した氷見市民に対して率先して対話をし、復興を指揮していた印象がある。

スティーヴ・ウィリアムスン

◯スティーヴ・ウィリアムスン

 イギリスのサックス奏者、スティーヴ・ウィリアムスン(ウイリアムソンの表記もある)を撮影したのは、日本でもアシッド・ジャズという言葉が浸透した1992年だった。12月13日に青山CAYでのライヴを、翌14日にインタヴュー写真とポートレートを撮影している。
 ライヴの方はロンドンのクラブ・シーンを日本で再現しようという企画で、アシッド・ジャズの普及に貢献した雑誌として知られる『Straight No Chaser』の編集長だったポール・ブラッドショウがDJとして同行。ウィリアムスンはザット・ファス・ウォズ・アスという自身のバンドを従えてのステージだった。
 来日スケジュールは12月10日京都・クラブメトロ、12月11日、12日東京・ゴールド、13日東京・青山CAY。
 14日のインタヴュアーはジャズ評論家の村上寛さん。最初にアシッド・ジャズをどう認識し、自分がアシッド・ジャズのミュージシャンだと思っているかを尋ねると、

「僕がやろうとしていることは、アシッド・ジャズとは何の関係もないんだ!全く関係ないよ。アシッド・ジャズの定義は、別に否定的になるつもりはないけれど、マーケティングからきた発想なんじゃないかな。ロンドンにアシッド・ハウスとかそういう表現が広まって、それでアシッド・ジャズという言葉も必然的に生まれたんだろう。音楽の形態ではないわけで、ブラン・ニュー・ヘヴィーズみたいなグループもいるけれど、一連のミュージシャンがやろうとしていることはダンス・ミュージックの枠の中で語られることだ。新しいジャズだと認識する人も多いけれど、”ジャズ”とは呼べないな。ダンス・マーケット向けの表現に過ぎないし、僕のやっていることとは全く関係がないのさ」と答えている。
 村上さんの記事の最後にウィリアムスンのプロフィールが書かれているので、少し長くなるが引用させてもらう。
<スティーヴ・ウィリアムスン。1965年6月28日ロンドンの生まれ。両親共にジャマイカ人。したがって生まれてからずっとレゲエがそばにあった。他にアレサ・フランクリンとかゴスペル、ブルース等色んな種類の音楽が家のなかに流れていた。でもジャズはほとんどなくて、サックスを始めたのも16歳の時。初期のころはレゲエばかりやっていたそうだ。ミスティ・イン・ルーツのバック・バンドのメンバーだったことも。マイティー・ダイアモンズ、シュガー・マイノット、デニス・ブラウン・・・ありとあらゆるレゲエ・ミュージシャンと共演。喋る事の好きだった彼はディスク・ジョッキーも経験している。グローヴァー・ワシントンJr.でジャズ・ファンクに目覚め、それがきっかけでジャズにのめり込んでいく。90年にスティーヴ・コールマンのプロデュースのもとファースト・アルバム『ワルツ・フォー・グレイス』を録音。91年には自己のプロデュースで『ライム・タイム』を製作。共にM・ベイス路線の音作りの傑作。92年の晩秋に出た、ドラマー、ロイ・ヘインズの息子グレアム・ヘインズの『ノクターン・パリジャン』にも参加。印象的なプレイをおこなっている>
 こんな経歴のウィリアムスンが自身の音楽について、
「おかしいかもしれないが、僕は自分のやっている音楽をファンクだと思っているんだ。もしもレッテルをはったり、カテゴリーを決めなくてはならないのであればファンクだって定義したいんだ。ファースト・アルバムの『ワルツ・フォー・グレイス』の頃はジョン・コルトレーンを研究したり、チャーリー・パーカーといった偉大なインプロヴァイザーを聞きまくってた。ジャズの楽しさはインプロヴィゼーションにあると思う。今のバンドの基本はファンクだけど自由な空気がふんだんにあって、とことん動きまわれるジャズっぽさがある。そんな部分が気に入っている」と語っていた。
 wikiによると1994年に日本フォノグラムからサード・アルバムとなる『Journey To Truth』をリリースしているようだが、それ以降の情報が更新されていない。
 ところで、インタヴューは銀座のソニービル8階で行われたが、ビルから眺めた銀座の街が灯りも暗く閑散としていたのが強く印象に残っている。”あ、バブルは崩壊したんだ”とこの取材の時に実感した。スティーヴ・ウィリアムスンはバブルの崩壊と共に自分の中で記憶されている。

YouTubeから「A FLG Maurepas upload - Steve Williamson feat. Jhelisa - Journey To Truth - Jazz Avant-garde」 「Steve Williamson & Steve Coleman - Circle C (Live) 1992

青山CAY 1992年12月13日ライヴ撮影
銀座ソニービル8F 1992年12月14日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年2月号
コンサート評を渡辺亨さん
初出『ミュージック・マガジン』1993年3月号
インタヴュアーは村上寛さん
#スティーヴウィリアムスン
#SteveWilliamson
#アーカイブ

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ポール・ブラッドショウ

◯ポール・ブラッドショウ

 1980年代の終わりからロンドンを中心に巻き起こったアシッド・ジャズのムーブメント。そのムーブメントを広めたのが、1988年に創刊されたイギリスの音楽誌『ストレート・ノー・チェイサー』だといわれる。この雑誌の発行人で編集長だったのがポール・ブラッドショウ。
 彼を撮影したのは日本でもアシッド・ジャズという言葉が浸透した1992年。ロンドンのクラブ・シーンを日本でも再現しようという企画で、イギリスのサックス奏者、スティーヴ・ウィリアムスンのライヴにDJとして招かれていた。この時の来日スケジュールは12月10日京都・クラブメトロ、12月11日、12日東京・ゴールド、13日東京・青山CAY。撮影したのは最終日の青山CAYでのライヴだった。
 この時のコンサート評を渡辺亨さんが『ミュージック・マガジン』1993年2月号で、このように書いている。

<M-BASE系のアルバムはおろか、スティーヴ・ウィリアムスンの『ライム・タイム』さえ聴いたことがないんじゃないだろうか?ーー会場をほぼ埋めつくした観客を見て、こう思った。つまりアシッド・ジャズ世代というか、いわゆるジャズのライヴではほとんど見かけないタイプの若者たちで占められていたのである。僕はスティーヴ・コールマンの92年の来日公演を観ていないので、なんとも言えないが、少なくともカサンドラ・ウィルスンの客層とは全然違っていた。これは、ポール・ブラッドショーのDJとセットにした企画の勝利である。UKジャズとUKクラブ・サウンドの橋渡し的存在であるウィリアムスンには、このような客層こそがふさわしいと思った>
 こちらのインタヴュー記事によると20年にわたって発刊された『ストレート・ノー・チェイサー』は2007年夏号をもって休刊になったようだが、『ANCIENTNTO FUTURE』というサイトが立ち上がっており、その中でポール・ブラッドショウは、
<このブログは、その名の通り「Beyond Chaser…」ですが、よく考えてみると、Straight No Chaserを始めたのと同じ理由で始めたことに気づきます。変わりゆく私たちの文化的、政治的、そして精神的な風景に、私はどうしても関わってしまうのです。おしゃべりが好きで、面白い話が大好きで、興味の対象は多岐にわたります。ですから、以前と同じように、私の友人たちは「黙って書き続けろ」と言ってきます。そういうわけで、Ancient To Futureはまだ進行中のプロジェクトです。音楽、映画、ダンス、本…何でもいいので、今、私の心に触れるものに向き合わなければなりません。私たち自身の歴史にも光を当てる必要があり、Chaserのアーカイブを掘り起こして、いくつか復活させるつもりです。そして最後に、秘伝の中国武術とその実践への情熱にも没頭したいと思っています。フィードバックはありがたいですね…そうでないと、ネット上に既に溢れている膨大なデジタルゴミに、ただ盲目的に加担しているだけのような気がしてしまいます>と書いている。

ポール・ブラッドショウ Instagram

ANCIENTNTO FUTURE 公式ウェブサイト

青山CAY 1992年12月13日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年2月号
コンサート評を渡辺亨さん
#ポールブラッドショウ
#PaulBradshow
#ストレートノーチェイサー
#StraightNoChaser
#アーカイブ

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6月8日(日)

 今日、沖縄気象台は沖縄地方が梅雨明けしたとみられると発表した。平年より13日、昨年より12日早く、1951年の統計開始以降、2015年と並んで最も早い梅雨明けだという。梅雨の期間は12日間で、過去2番目に短いという。

 この他の気になった記事を備忘録として。
マスク氏が米民主党支援すれば「深刻な代償払う」 トランプ氏が警告
「敵基地能力」もつミサイル、陸自演習に初登場 今年度中に配備開始

高村日和

◯高村日和

 2023年に破産手続きをし事業停止となったが、1990年代半ばから奄美大島に移住する2010年まで健康雑誌や書籍の出版を手がけていたマキノ出版の撮影をたくさんさせていただいた。その間には、何人もの美容家の方々の書籍やMOOK本の撮影を担当した。2008年6月に出版された高村日和さんの『やせる!美脚になる!「塩ミルク」マッサージ』もそんな中の一冊だ。
 撮影はマキノ出版の地下にあるスタジオで。当時のメモによると午前11時集合、12時スタート。終了は午後6時を予定していたが、モデルさんを使ったプロセス写真や物撮り、扉や目次用のイメージカットなど撮影カットが60点以上あり、撮り終えたのは2時間オーバーの午後8時ごろだった。使用したストロボは1200Wのジェネ付きが2台4灯、600Wのモノブロック1灯、150Wのモノブロックが3灯と、このスタジオでは一番数を使った(全部一度に使ったわけではないですが)。

 撮影中はおにぎり、サンドイッチをつまみながらの休憩なしだったので、撮影の後は高村日和さん、ヘアメイクの喜久絵美さん、担当編集者の北條真由美さんと出版社の近くにあったへぎ蕎麦のお店で打ち上げをした。
 掲載した写真は本の著者紹介用に撮影したもの。
 高村さんのプロフィールは、著書に掲載されているものをそのまま引用させていただく。
<英国IFA認定アロマセラピスト。ジデスコインターナショナルエステティシャン。アロマセラピーサロン「ミューズ・ハンド」主宰。1991年~93年に渡英し、美容に関してのさまざまな理論を学ぶ。「ナチュラル」をテーマに、アロマセラピーやハーブを中心にした手作りコスメの製作、執筆なども行う。『手作りコスメで至福のエステ』(主婦の友社)、『美人顔になる優しいテクニック』(秀和システム)など著書も多い>

文京区本郷・マキノ出版 2008年4月30日撮影
初出『やせる!美脚になる!「塩ミルク」マッサージ』(マキノ出版)
#高村日和
#HiyoriTakamura
#美容家
#アーカイブ

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黒崎えり子

◯黒崎えり子

 ネイリストの黒崎えり子さんを撮影したのは、健康雑誌の「おんな力がツキを呼ぶ!」という特集の中の<輝く4人に直撃インタヴュー>というコーナーだった。他の3人は優香さん、川上麻衣子さん、堀ちえみさん。
 黒崎さんは19歳の時にネイルスクールに通い始め、講座終了後はスクールでインストラクターを半年間務める。その時に先生からネイルのコンテストに出場することを勧められ、日本ネイリスト協会の「NAIL COMPETITION’94」に出場し、総合グランドチャンピオンを獲得。当時、国内コンテストでグランドチャンピオンになると、後輩を育てるためにも、その後の国内コンテストの出場権を失うという規定があったため、以降は海外のコンテストにチャレンジしながら技術を学んだそうだ。そして、2000年に日本人としては初めて、全米ネイリストランキング1位を獲得。ワールドチャンピオンを獲得したことで、女性誌をはじめとする様々なメディアから注目を集めるようになる。

 取材した2007年にはネイルサロン6店舗、ネイルスクール3校を主宰し、スタッフ80名を抱えるトップという立場だった。
 取材場所は前年にオープンしたばかりの表参道店。ネイルの効用について、このように話されていた。
「女性は、メイクにしろ、ヘアにしろ、きれいになれば心が晴れやかになり、うれしいものですよね。爪というのは、鏡を使わなくても、いつも自分の目でそっと見ることができます。指先がきれいだと、それだけで気分が良くなりますし、手の仕草も女性らしくなります」「爪がきれいだと、しぐさも自然と女性らしくなって、気持ちにもゆとりが出てくるはず。爪や髪、肌をケアすることは、心のケアにもつながります。爪先のおしゃれを楽しみながら、世の女性たちがキラキラと輝いていてくれたら、私自身もとても幸せです」
 撮影には黒崎さん側で手配されたヘアメイクがついた。嶋田ちあきさんのヘアメイク事務所「ヴィエルジュ」の岩尾清司さんで、以前、大地真央さんの撮影でもご一緒したことがあった。

erikonail  公式ウェブサイト

黒崎えり子 ネイルスクール

黒崎えり子 YouTubeチャンネル

港区南青山 2007年7月14日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2007年10月号
#黒崎えり子
#ErikoKurosaki
#ネイリスト
#アーカイブ

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6月6日(金)

 今履いている靴は、2018年の8月に立山の山頂にある雄山神社を撮影するために買ったピンクに黒のストライプが入った登山靴。正確な値段は忘れたが、小矢部の三井アウトレットパークにあるスポーツ用品店で購入し、5,000円もしなかったと思う。以来、洗濯している時以外はほぼ毎日履いているが、靴底が全然減らない。それでも薄汚れてきたので、またアウトレットパークへ行って新しい靴を一足買うことにした。
 せっかく小矢部まで行くならちょっと足を延ばして石動駅裏の台湾料理店・福来順でランチ。担々麺と中華風牛肉ご飯(まぁ、中華丼だ)のセット900円を注文。麺もご飯もフルサイズで登場。担々麺と餃子くらいのセットにすればよかったと後悔したが、なんとか担々麺の汁を少し残したぐらいで食べ終えた。お腹パンパンだ。
 パンパンのお腹で自転車を漕いで、アウトレットパークの近くにある道の駅メルヘンおやべを少し覗いて行く。大根や葉付き人参、椎茸が安く売られていたので今度買いに来るか。
 アウトレットパークに着いて、先ずは今履いている登山靴を買ったスポーツ用品店を探すが、アウトレットはテナントの入れ替わりが結構あるので閉店したようだ。そこでスニーカーの置いてあるショップを見てまわる。アディダスは展示価格から30%引きだといわれて心が動く。プーマを覗くと今日から始まったB級品セールのスニーカーがいくつか並んでいた。ちょっと悩んで自分の足のサイズ24.5の赤い皮のスニーカー税込4,400円を購入した。レディースなので幅が少し狭いが皮なので履いているうちに多少伸びるだろう。左のスニーカーに汚れがあってB級品になっているそう。店員さんに汚れの場所を聞くと5x1mmほど色の禿げた箇所があったが、それも言われなければ気がつかない程度。
 アウトレットパークの帰り、しまむらに寄って夏用にTシャツ3枚、ソックス6足を購入。合計で税込1,727円。
 家に帰って、プーマの店員さんが”このスニーカーは定価が2万円以上する良いものですから”と繰り返し言っていたのでネット検索すると24,200円で売られていた。
プーマのスニーカー

 昨日、「テイク・オン・ミー」の大ヒットで知られるa-haのボーカル、モートン・ハルケットがパーキンソン病と診断されたことを公表したというニュースが流れてきた。65歳。同い年だ。a-haのアーカイブはこちら

 この他の気になった記事を備忘録として。
消えた党費、深まる謎…自民党氷見市支部の不透明会計…説明責任は?富山・氷見市
東電旧経営陣への13兆円賠償取り消し 原発事故の責任否定 東京高裁
布マスクめぐる文書 国の不開示決定 取り消す判決 大阪地裁
アベノマスク裁判が浮き彫りにした官邸主導の実態。思いつきで始まった施策が現場の公務員を破壊していた
万博会場でレジオネラ属菌を検出 海水から、水上ショー中止

ペティ・ブーカ

◯ペティ・ブーカ

 トムス・キャビンの麻田浩さんがプロデュースする女性ポップ・デュオ。1995年にインディーズでデビューしたが、1997年にアルバム『Hawaiian Pure Heart-ハワイの純真』で日本クラウンよりメジャデビューを果たす。ウクレレを持ちハワイアンやカントリーのスタイルで、洋楽のロックやポップスをカバーした。
 wikiによると、現在ペティもブーカも5代目になっているようだが、自分が撮影したのは初代のペティことアサノサトミと、初代のブーカことススキダユウカだと思う。だと思う、と確信が持てないのは本名どころか、国籍不明のキャラクターでハワイ出身とテキサス出身の2組がいる設定になっていたから。
 彼女たちを撮影したのは、『ミュージック・マガジン』で松尾潔さんが連載していた「松尾潔の照明係」だった。松尾さんが記事の中で書いているが、
<ここでご紹介するのはペティ・ブーカFROMテキサスなのだが、彼女たちには世界中にそっくりな日系の従姉妹たちがいる。その中のひと組が既にデビュー済みのペティ・ブーカFROMハワイであり、また他のひと組はペティ・ブーカFROMケンタッキーである、という>

 なかなかゆるい設定で、ハワイアンを演る時はFROMハワイ、カントリー&ウエスタンを演る時はFROMテキサスを名乗る。なのでハワイの従姉妹が活動している時はテキサスの彼女たちは活動ができないそうだ(笑)。
 このようにキャラクターの設定はゆるいが、演奏面では1997年にリリースされた5枚目のアルバム『SWEET HEART OF THE RADIOーラジオの恋人』にはC&WサイドでDr.K(徳武弘文)プロジェクトが、ブルー・グラス・サイドでザ・スーパー・ピッカーズが参加。続く6枚目のアルバム『BLUE LAGOON~ペティ・ブーカの青い体験~』では、マーティン・デニーが参加している。
 初代ペティのアサノサトミは1999年に脱退し、森山奈歩が2代目ペティに就任している。彼女は森山良子さんの娘で2005年までペティとして活動。2006年におぎやはぎの小木博明氏と結婚し活動を休止していたが、2022年にペティ・ブーカに復帰したようだ。

YouTubeから「Petty Booka - Seven Lonely Days」 「PINEAPPLE PRINCES - PETTY BOOKA

ペティ・ブーカ Instagram

世田谷・三軒茶屋 1997年11月15日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1998年1月号
インタヴュアーは松尾潔さん
#ペティブーカ
#PettyBooka
#アサノサトミ
#SatomiAsano
#スズキダユウカ
#YoukaSuzukida
#松尾潔の照明係
#アーカイブ

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知念里奈

◯知念里奈

 沖縄アクターズスクール出身の歌手、俳優。小学校5年生の時にある映画のオーディションがあり、その会場がアクターズだった。オーディションには落ちたが、アクターズの校長先生から声をかけたれたのをきっかけにスクールでレッスンを受けるようになる。
 彼女を撮影したのは、『ミュージック・マガジン』での松尾潔さんの連載「松尾潔の照明係」で、1997年だから、デビュー翌年のことだった。この年、彼女は第39回「日本レコード大賞」最優秀新人賞を受賞している。
 銀行マンの父親の転勤で中学1年生の途中から2年生の終わりまで大阪の中学校へ転向するが、夏休みや連休には沖縄へ通ってレッスンを受け、中学3年生になると両親や妹と離れて沖縄の祖母の家からアクターズに通ったという。
「合間に学校に行ってるって感じで、卒業式の前日も学校には行ってなくて。だから当日は式の進行が全くわからなかったんですよ(笑)。ほら、普通みんな前日までに学校に置いてる荷物持って帰ってるじゃないですか。だから卒業式のあと私だけたくさんの荷物持っててすごく恥ずかしかったです」

 そして卒業後にデビューが決まり、上京。1996年7月にテレビドラマ「学校の怪談R」で女優デビュー、10月21日には「DO-DO FOR ME」で歌手デビューを果たした。
 彼女が音楽の道に進むことになったのは、洋楽好きの父親の影響もあるそうで、
「私が3歳の時のホーム・ビデオがあるんですけど、それ、私がマイケル・ジャクソンの<スリラー>に合わせて踊っているんです。踊ってる私の後ろのテレビではマイケルのビデオが流れているんですよ」。
 父親はマイケル以外にも、デイヴィッド・ボウイ、ドゥービー・ブラザーズなんかも聴かせたようだが、「でも、なんか自然とブラックものばかり好きになっちゃって。ロック好きのお父さん、ちょっと悲しんでるかも(笑)」と話していた。
 松尾さんが現在のお気に入りのアーティストを尋ねると、マイケルの他にボーイズⅡメン、ホイットニー・ヒューストンという名前があがった。マイケルはどのアルバム?と聞けば「今だと一番新しい『ヒストリー・イン・ザ・ミックス』ですね。私、解説とかもきちんと読むんですよ」。
 その解説、ぼくが書いてるんだよと松尾さんが話すと、彼女は一瞬驚き、そして場が和んだ。
 この取材からやがて28年、10代半ばだった彼女も44歳になり、結婚・離婚・再婚を経て2人の子供のお母さんになっている。
 テレビドラマだけではなく、ミュージカル女優や声優、ナレーターなど幅広く活躍されているようだ。

YouTubeから「DO-DO FOR ME」 「博多座『レ・ミゼラブル』歌唱披露 ♪夢やぶれて /知念里奈」 「懐かしいCM 1997年(平成9年) ハウス フルーツインゼリー

知念里奈 Instagram

知念里奈 X(旧ツイッター)

川崎市・生田スタジオ 1997年9月1日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1997年10月号
インタヴュアーは松尾潔さん
#知念里奈
#RinaChinen
#松尾潔の照明係
#アーカイブ

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6月4日(水)

 昨日の朝、長嶋茂雄さんが肺炎のため都内の病院で亡くなられた。89歳だった。昨日のニュース番組や情報番組は、その死去を伝える話で溢れ、今日の新聞のテレビ欄も長嶋茂雄の文字がアチコチで踊っていた。
 小泉農水相が「古古古米」の別名称浸透が望ましいと述べていたが、どうやらヴィンテージ米になったようだ(笑)。
 ようやく立花孝志氏が書類送検された。兵庫県警は今まで何をしていたのだろう。

 この他の気になった記事を備忘録として。
森友文書、自殺した赤木俊夫さんが保有したメールや応接録を6月中にも開示へ
生活保護申請、5年連続上昇 24年度は25万9353件

◯メルヴィン・パーカー ジョン”ジャボ”スタークス

 ジェイムズ・ブラウンの黄金期を支えた3大ドラマー、クライド・スタブルフィールド、メルヴィン・パーカー、ジョン”ジャボ”スタークスのうちの2人を撮影したのはJB’sとして来日した1992年のことだった。
 5月15日に渋谷のオン・エアーでJB’sのライヴを撮影し、翌日の15時から彼らの宿泊していた渋谷・東武ホテルで2人のポートレートを撮影しいている。掲載誌は『ミュージック・マガジン』で、取材から少し日にちが経った1993年1月号の「ファンクでGO!」という大特集の、<JB’sのドラマー、メルヴィン・パーカーとジャボ・スタークスに聞くJBサウンドの秘密>という記事の中で使用されている。インタヴュアーは編集部の寺田正典さん。ドラム好きなのかリズムの研究なのか寺田さんが机の端を指で叩きながら、チャーリー・ワッツの真似をしているのを何度か見かけたことがある(笑)。
 インタヴューではジェイムス・ブラウンがレコーディングやステージで、どのように彼らに指示を与えていたかや、それぞれの役割などを尋ねている。
 代表曲「セックス・マシーン」は当初クライドが叩く予定だったが、ジャボによると「あの曲の録音に取り掛かった時、リハーサルではクライドが叩いていたんだが、ブーツィーとのコンビネーションがいまいちしっくりこなかった。それでクライドに<ジャボ、君が試しにやってみてくれ。俺は聴いてるから>と言われて俺が叩いた。すると<俺が叩きたいのはまさにそれだ>と彼も言うんだ。つまりクライドはすべてがディープ・ディープ・ファンクだから、あの曲にはディープすぎたんだ。そうとしか俺には説明のしようがない」。
 ジャボの発言を捕捉するようにメルヴィンが、「つまり<セックス・マシーン>のベース・ラインは十分ファンキーだから、ドラムにはそれほどのファンクさは必要なかったんだ。ベースとのバランスという意味で。ブーツィーとクライドの組み合わせではうまく混じり合わず、ドラムのファンクさをすこし削ってベースを強調すべきだと横で聞いてたジャボには分かったんだ。だからストレート・タイムで叩いた。俺はその場に居合わせてないけど想像つくよ。似た状況は何度かあったからね。ファンクの部分はベースとギターに任せる。それがコツなんだ」。
 彼らのドラムは世界中でサンプリングされている。この事についてメルヴィンは、「サンプルされるのは別に構わないよ。金を支払ってもらいたいけどね」と話し、ジャボも「それがすべてさ。誰かが自分のやったことに耳を傾けてくれてるというのは光栄な話だ。その一部を利用したとしてもね。でも唯一気分を悪くさせられるのは、それに対して金が支払われないという点だ。なぜならそこに至るまでに俺たちは必死でやってたんだ。なぜそれに報いようとしない?俺のビートに乗っかって、やつらがどんどん金持ちになってるのに、こちらには10セントも入ってこないというのは不公平だ。それじゃ文字通り、かっぱらわれているだけだ」と答えていた。
 メルヴィン・パーカーは1944年6月7日、ノースカロライナ州キンストン生まれ。1964年に兄でサックス奏者のメイシオ・パーカーと共にジェームス・ブラウンのバンドに加入。3枚のアルバム『Out of Sight』、『Papa's Got A Brand New Bag』、『 Got You (I Feel Good)』でドラマーを務めた。2021年12月3日、メリーランド州バルティモアで死去した。77歳だった。
 ジョン”ジャボ”スタークスは1937年10月26日、アラバマ州ジャクソン生まれ。1959年ボビー・グランドのバンドに加入。1965年にジェームス・ブラウンのバンドに加入。バンドは1965年から70年にかけてスタークスとクライド・スタブルフィールドのツイン・ドラムとなった。2018年5月1日、白血病と骨髄異形成症候群のためアラバマ州モービルの自宅で亡くなった。80歳だった。
 ちなみにクライド・スタブルフィールドも2017年2月18日に73歳で亡くなっている。
 尚、この時来日したJB’sのメンバーは他にメイシオ・パーカー(アルトサックス)、ピー・ウィー・エリス(テナーサックス)、タイロン・ジェファーソン(トロンボーン)、ロドニー・ジョーンズ(ギター)、ラリー・ゴールディングス(ハモンド)となっている。

*「Get Up sex machine」でJ.Bの隣りで「ゲロンラ(Get on up)とレスポンスしていたボビー・バードのアーカイブはこちら

YouTubeから「James Brown performs and dances to "Out of Sight" on the TAMI Show (Live)」 「Soul Of The Funky Drummers Clyde Stubblefield and John Jab'o Starks」 「The JB's International - Live at Montreux (July 1, 1981)

メルヴィン・パーカー Discogs

ジョン・スタークス IMDb

渋谷オン・エアー 1992年5月15日ライヴ撮影
渋谷・東武ホテル 1992年5月16日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年1月号
インタヴュアーは寺田正典さん
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メルヴィン・パーカー ジョン・スタークス
ジョージ・クリントン

◯ジョージ・クリントン&Pファンク・オールスターズ

 1980年代後半から1990年代初頭にかけてのバブルの頃、広告ではなく雑誌の撮影が中心だった自分にはその恩恵(=金銭的)はあまりなかった。しかし、バブルの頃はブラック・ミュージックのバブルでもあり、たくさんのソウル、ファンク系グループが来日した記憶がある。芝浦のインクスティックや渋谷のライブ・インといった箱だけではなく、MZA有明や汐留サイカといった期間限定の大型施設でもライヴが行われた。そんな来日アーティストを撮影することができたのが、自分にとってバブル時代に享受した恩恵だろうか。
 1990年7月24日~29日まで汐留のサイカで行われたジョージ・クリントン率いるPファンク・オールスターズのライヴもその一つだ。とは言え、自分が撮影したのは純粋なライヴではなくマスコミを集めたお披露目ステージで、確か何曲か演奏した後にメンバー全員が並んだ集合写真を撮影し、その後にジョージ・クリントンがステージを降りてフォトセッションに応じてくれた。

 7月27日のことで、当時のスケジュール帳には5時入り、5時30分から撮影と書かれている。この後、通常のライヴが行われたのだろう。
 サイカは1990年6月30日に汐留のJR貨物駅跡地にオープンした3000人収容の巨大テント。正式名称は<パックス・シアターPSYCHER(サイカ)>。ネットの情報ではライヴハウスとディスコを併せ持つ巨大イベントスペースで、入り口にはソ連からレンタルしたロケットが飾られていたそうだ。パックスコーポレーションが経営していたが、バブル崩壊と同時に会社は消滅したそうだ。
 掲載誌は『ミュージック・マガジン』1990年9月号で、フードゥー・フシミさんによる「また来たぜ ジョージ・クリントン率いるPファンク・オールスターズ再来日」というカラー6ページの記事。自分が撮影したお披露目ステージの集合写真やジョージ・クリントンのポートレートと、大熊一実さんによるライヴ写真が掲載されている。事前告知ではバーニー・ウォーレル、メイシオ・パーカーも来日する予定だったが、フードゥー・フシミさんの記事で来日しなかったことを確認した。また、ベースのブーツィー・コリンズもこの時は来日していない。
 Pファンクについて、wikiから引用すると、
<ジョージ・クリントンが、1970年代に率いた2組のバンド、パーラメントとファンカデリック、およびその構成メンバーによるファンクミュージックを指す音楽ジャンルであり、またこの音楽集団のことである。パーラメント・ファンカデリック以外に、Pファンク・オールスターズ、ブーツィーズ・ラバー・バンド、パーレット、ブライズ・オブ・ファンケンスタイン他のグループや、メンバーのソロ等も含む。なお、2組は揃って「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第58位に選ばれている。”P-Funk ”の頭文字であるPの由来は、サイケデリック・ファンク、ピュア・ファンク、プレインフィールドの頭文字Pとされている>
 9枚目のステージで客席に向かってお尻を突き出している集合写真は、中村とうようさんがテレビ(確かNHK)で音楽講座をした時にPファンクらしいというので使用された。
 3枚目の写真でジョージ・クリントンと並んで写っているのは、息子のトレイ・リュード(トレイシー・ルイス)だったと思う。

YouTubeから「George Clinton & the P-Funk All-Stars - Full Concert - 07/23/99 - Rome, NY (OFFICIAL)」 「P-Funk @ Tokyo, Japan 2002 ジョージ・クリントン」 「Snoop Dogg, George Clinton & Bootsy Collins Live @ Shrine Auditorium, Los Angeles, CA, 10-26-2005

ジョージ・クリントン 公式ウェブサイト

汐留サイカ 1990年7月27日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1990年9月号
コンサート評はフードゥー・フシミさん
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6月2日(月)

 暑くもなく、寒くもなく、風もなく。自転車で走るには良い天気だったので、午後から久しぶりに1時間ほど小矢部川の土手を走ってきた。

 小泉農水相が「古古古米」の別名称浸透が望ましいと述べたそうだが、古米、古古米、古古古米と収穫された年度が分かりやすいし、早口言葉のようでラップになりそうだから、これで良いんじゃないだろうか。どうしてもとあなたが言うなら、「セクシー米」と「クール米」
  国民民主党の勢いに翳りがあるそうで、それは正常なことだと思う。

 この他の気になった記事を備忘録として。
ガザの配給所近くでイスラエル軍が攻撃か、31人死亡 軍「調査中」
米MIT卒業生代表、パレスチナ支持のスピーチで卒業式の出席禁止
ガザ住民の「100%が飢餓の危機」 国連

築地俊造
◯築地俊造
 
 奄美大島北部・笠利町出身の唄者・築地俊造さんと初めてお会いしたのは、奄美大島南部・古仁屋出身の歌手RIKKIの自主制作アルバム『miss you amami』のレコーディングの時だった。
 レコーディングは1998年8月13日から14日にかけて湘南にあるスタジオで行われたが、そこに三線とチヂン(奄美の民謡で使われる太鼓)で参加していたのが築地俊造さんだった。それが縁で、年に何回か行われていた東京での公演を聴きに行ったりしていた。
 2010年6月、奄美大島に移住するため鹿児島からフェリーで島に渡り、名瀬の港に着いた。初めての土地で右も左も分からないので市役所の観光課を尋ね、不動産屋を見て歩き、昼ご飯を食べて歩いていると築地さんが経営するおもちゃ屋さんが目に飛び込んで来た。おもちゃ屋さんは息子さんが引き継いでおり、築地さんは向かいのライブハウス「かんも~れ」に居ると教えて下さった。

 築地さんに、これから1年間の予定で名瀬に部屋を借りて住むという話をし、築地さんの携帯でRIKKIと久しぶりに少し話しをした。まだ梅雨の真っ只中で外は激しい雨が降っていて、山の上の方にあるホテルまで築地さんの運転する車で送っていただいた。部屋に入って休んでいると、今しがた別れた築地さんから電話があり、何だろうと思ったら「今年はハブが多いから、気をつけなさい」というメッセージだった。
 1年の予定が2年奄美に居て、今度は沖縄に行くことにした2013年6月。この頃、築地さんはもう「かんも~れ」を閉めていたかもしれない。名瀬のお店をやめて、笠利にある自宅を改造してちょっとしたライヴもできる喫茶店をするという話しをされていたと思う。2年の滞在中に、奄美まつりや島唄のコンサートなどで築地さんの島唄は何回も聴いたが、「かんも~れ」に聴きに行ったのは1回だけだった。
 奄美の島唄で一番好きになったのが「イトゥ」という曲だが、「イトゥ」という言葉の意味がわからなかった。何人かに聞き、ネットで調べても仕事唄であることしか判らなかったのが、築地さんに尋ねて「イトゥ」そのものの意味が<掛け声・お囃子>だと知った。
 名瀬に住んでいた間に、この本、面白いよと貸して下さったのが『民俗学の愉悦/谷川健一』(現代書館)だった。
 唄者というのは唄を歌う人ではあるけれど、それだけではなく郷土の知恵袋・知恵者でもあると思っている。
 1934年奄美大島笠利町生まれ。1975年、「第一回奄美民謡新人大会」で新人賞を獲得。1979年、「第2回日本民謡大賞」全国大会で大賞を受賞。1992年、ワールドミュージックのフェスティバル「コンダ・ロータ」に出演。ソニー・レコードよりデビュー・アルバム『うたしゃ 築地俊造ライブ』発売。1997年にフランス「カンヌ国際音楽祭」、1999年にルーマニア「日本芸術文化祭」に出演。2003年、11年ぶりとなるアルバム『と~とがなし』を発売。
 残念ながら2017年4月14日、直腸癌のため82歳で亡くなられた。亡くなられた直後に、自伝『楽しき哉、島唄人生』が南方新社より発売されている。
 掲載した写真の1、2枚目は『miss you amami』のレコーディング風景。3枚目は名瀬の商店街夏祭り。一緒に写っているのは西和美さん。4、5枚目は奄美歌掛けの夕べで、客席の坪山豊さんと歌掛けをしているところ。6~8枚目は奄美文化センターで行われたシマあすびの夕べ。一緒に写っているのは前山真吾さん、松山美枝子さん。9枚目は奄美紅白歌合戦。10~12枚目は紬の日のイベントで。13~14枚目は築地さんのお店「かんも~れ」にて。この日は奄美パークの館長でもある宮崎緑さんのバースデイ・パーティーが行われていた。15~19枚目は名瀬に寄港したオランダ船籍の大型客船、ザーンダム号のお見送りで島唄を歌う築地さん。

YouTubeから「なちかしゃや/築地俊造」 「まんこい節/築地俊造」 「イトゥ @奄美文化センター

築地俊造 プロフィール

奄美島唄を全国に知らしめた唄者「築地俊造」さん~伝統と革新の島唄を語る

フリースタジオ湘南 1998年8月13日
初出『miss you amami』(ライス・レコード)
名瀬・商店街夏祭り 2010年8月14日
奄美歌掛けの夕べ 2010年11月13日
シマあすびの夕べ 2011年8月4日
奄美紅白歌合戦 2011年12月25日
紬の日 2012年1月5日
かんも~れ 2012年1月7日
ザーンダム号お見送り 2012年4月13日
#築地俊造
#ShunzoTsukiji
#奄美唄者
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坪山豊

◯坪山豊

 奄美の唄者であり、舟大工としても知られるが、自分が坪山さんの名前を最初に認識したのは新民謡「ワイド節」の作曲者としてだったかもしれない。
 ワイドとは、頑張れとかよくやったといった意味の掛け声で、♪ワイドワイドワイド 我(わ)きゃ牛ワイド 全島一ワイド♪と唄われるこの曲は、闘牛を歌った曲だ。奄美大島・今里出身のレントゲン技師、中村民朗さんが作詞し、坪山さんが曲をつけた。戦前までは奄美大島の名瀬・御殿浜でも闘牛は行われていたが、現在、奄美群島で闘牛が行われているのは徳之島だけになった。
 奄美大島に移住していた時に、一度だけだが徳之島の闘牛を見に行ったことがある。勝った牛の家族、親族が場内になだれ込み、歌詞にあるように”手舞んけ 足舞んけ 指笛吹け 塩まけ”と牛にまたがり大騒ぎしていた。闘牛の興奮や熱い様子を的確に歌詞にした中村民朗さんも素晴らしいし、躍動感のある歌に仕上げた坪山さんの作曲もまた素晴らしい。

 坪山さんは奄美大島に移住していた時に、一度だけ歌を聴いたことがある。2010年11月13日に名瀬公民館で開催された「第7回奄美歌掛けの夕べ」という催しで、その歌掛けのトリを務めたのが、築地俊造さんと坪山豊さんだった。それまでは2人~4人がステージに上がって歌掛けを披露していたが、トリのお二人は築地さんがステージに、坪山さんが客席の最上席に座り最初は島口でやりとりしながら歌掛けが始まった。他の出演者が何を歌ったかはメモがあるのでプログラムに載っていたのだろうが、築地さんと坪山さんは「?」とあるのでプログラムには掲載されず即興で歌われたのかもしれない。
 wikiによると1930年9月29日、奄美大島の宇検村生勝に生まれ、1949年に海老原万吉の工房に入門して舟大工としての技術を学ぶ。1972年に実況録音奄美民謡大会に出場。歌者としては42歳での遅いデビューだったが、1980年に第1回奄美民謡大賞にて大賞を受賞。日本全国並びにアメリカ、ヨーロッパをまわって奄美の島唄の伝道に努めた。
 受賞歴は第1回奄美民謡大賞の他、2000年に南日本文化賞、伝統文化ポーラ地域賞を受賞されているそうだ。
 2020年7月20日、老衰のため奄美市内の病院で亡くなられた。
 添付した写真の7、8枚目は徳之島の闘牛。勝った方の関係者が場内になだれ込み、牛にまたがりワイド節さながら”手舞んけ 足舞んけ 指笛吹け 塩まけ”と喜びを爆発させている。2011年6月11日撮影。

YouTubeから「ワイド節/坪山豊」 「唄者・坪山豊

「天国で思いきり歌って」 奄美市で告別式、坪山豊さん

名瀬公民館・奄美歌掛けの夕べ 2010年11月13日撮影
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