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11月29日(月)

 荒れた天気が続いていたが、昨日と今日は久しぶりに快晴。冬晴れだった。2日続けて小矢部川の土手を自転車で走って来た。特に今日は空気が澄んでいるのか、立山連峰がくっきりと見えた。高岡ではまだ平野部での初雪は観測されていないが、立山はすっかり雪化粧している。
小矢部川の土手から撮影した立山連峰
西干場住宅
 小矢部川の土手に上がる前、西干場住宅の横を通ったら、古い方の住宅の一部が取り壊されて更地になっていた。平屋の古い住宅は、自分が小学校の時には既にあったと思う。築何十年だろうか。同じような住宅が小矢部川の橋を渡った三日市の方にもあったが、こちらは何十年も前に取り壊されて、一般の住宅地になっている。嘗て三日市住宅があったことを覚えっている人も、どんどん少なくなっていくのだろう。
 昨日は父親の誕生日だった。今回初めてジミーのオンラインショップで注文した、クランブルチーズケーキを食べた。
誕生日のケーキ
 音楽雑誌でミュージシャンの撮影をたくさんしていたのは1980年代半ばから、2000年代初めまで。来日した海外アーティストの撮影も多かったが、その中には音楽を聴いたことがなく、名前すら知らない人もずいぶんといた。たぶん撮影依頼の電話で「インドのポップガザル歌手、パンカジ・ウダースさん」「フランスのパンク・バンド<ピガール>のフランソワ・アジ・ラザロさん」「イランから亡命した歌手、レイラ・フォルーハルさん」と言われて、どんな人か理解できるカメラマンはそういないと思う。
 せっかくなら事前にCDを買って聴いてから撮影したいとも思うが、撮影依頼の電話はたいてい急で、前日や当日なんてこともある。今ならYouTubeで検索をかければ、様々な国のミュージシャンの音楽が簡単に聴けるが、当時はそんな環境ではなかった。そんな訳で撮影したけれど、どんな音楽をやっているのか長い間知らなかったミュージシャンも多い。写真のシャンタール・クレヴィアジックも、そんな一人だ。
シャンタール・クレヴィアジック
 この時一緒に取材した今井智子さんの原稿によれば、彼女はカナダ出身のシンガーソングライターで、5歳からクラシック・ピアノと声楽を学んだそうだ。1997年にアルバム『シャンタール』でデビューしている。
 撮影からずっと経ってからYouTubeで検索して、何曲か彼女の歌を聴いていたが、先日ヤフオクでCDが出品されているのを見つけ、送料無料480円で落札した。ヤフオクで使えるポイントが399円あったので、支払いは81円だった。一昨日、クリックポストで届いたので、さっそくiTuneに取り込んで聴いている。
 購入したのは、2002年にリリースされた3枚目のアルバム『What If It All Means Something』(日本では『イン・ディス・ライフ』で発売)。どの曲もキャッチーなメロディーが散りばめられ、よく出来たアルバムだな~と思う。素直にカッコイイ。車どころか免許も持っていない人が言うのもなんだが(笑)、ドライヴしながら車の中で聴くと最高な気がする。
 wikiによれば女優としても活動しているようで、なんとなく松下奈緒さんとイメージが重なる。

↑撮影は1997年4月18日、たしか赤坂プリンスの新館。ピアノ・ロック特集での取材だった。ウクライナ系のカナダ人だそうだ。YouTubeから「Feels like home/Chantal Kreviazuk」。

→ヤフオクで480円で落札したCD。

ヤフオクで購入したCD

 先日、奄美の唄者・中村瑞希さんが鹿児島県の芸術文化奨励賞を受賞したという南海日日新聞の記事が目に入った。RIKKI、元ちとせ、城南海、里アンナなど奄美出身の歌姫は何人もいるけれど、彼女もその一人。個人的には島唄から離れてポップスを歌った時に一番馴染むのは、彼女の柔らかい声ではないかと思っている。YouTubeから「TSUMUGI/中村瑞希&ハシケン」。
 日本での新型コロナ感染は鎮静化しているように見えるが、世界を見渡せば再び感染が広がっている。そんな中、経団連が空港検疫の簡素化を政府に要望し、政府も検疫を緩める動きを見せていた。しかし、南アフリカで新型コロナの新たな変異株「オミクロン株」が見つかり、既にヨーロッパやオーストラリア、香港などでも確認されている。この状況に岸田首相が今日、明日の午前0時から全世界を対象に外国人の入国を禁止にすると表明した。
 マイナカードの取得促進に1.8兆円10万円相当の給付事業に事務経費1200億円。税金をどれだけ無駄に垂れ流す気なのだろう。
 今日の未明、家の近所の線路でワゴン車と貨物列車が衝突する事故があり、ワゴン車を運転していた男性が亡くなった。亡くなった方は家の近所に住んでいる建具屋さんだった。おそらく事故が起きた時は凄まじい音がしたと思うが、寝ていて気づかなかった。

 この他の気になった記事を備忘録として。
日大の田中英寿理事長を逮捕 所得税5300万円脱税の疑いで東京地検特捜部
福島第一原発、凍土遮水壁の一部が解けた可能性 鋼管を地中に打ち込み地下水を止水へ
辺野古沈下の懸念把握、防衛局 埋め立て3年前、業者が報告
首相「敵基地攻撃能力も検討」防衛力強化に言及 陸自観閲式で訓示
局長会10億円政治流用指示 日本郵便、カレンダー問題96人処分
東博と九博で特別展「琉球」が開催。琉球文化を過去最大規模、400点近い展示物でたどる

 Photo Diaryを更新。
*2013年6月14日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダから撮影した那覇市内の朝焼け)
*2013年6月15日のPhoto Diaryはこちら
6月15日のスナップ。宜野座の獅子頭とミルク面
↑15日は今帰仁村歴史文化センターで、「山原のムラ・シマ講座」の2回目が行われる。
 名護西線の始発で名護バスターミナルへ。8時前にターミナルに着いたが、次の今帰仁行きのバスは8時20分。今帰仁城跡入口に着いたのが、時刻表より少し遅れて9時5分くらい。歴史文化センターまで1キロほどの上り坂を、汗をかきながら歩く。
 9時20分頃に着いて講堂に行くと、館長さんが今日観察する国頭村宜野座村の宜野座と漢那について説明されている最中だった。
 歴史文化センターを出て館長さんが自ら運転するバスで、宜野座に向かう。宜野座は金武町の少し北に位置する。沖縄の東海岸にあり、辺野古と金武の間だ。
 1時間ほどで宜野座に到着し、最初にノロドゥンチを見学。ノロドゥンチの後ろにトートーメー(位牌)が祀られた祠があり、ここが元々ノロドゥンチのあった場所だそうだ。トートーメーの横には獅子とミルクの面も祀られていた。すいぶんと整った顔立ちのミルク様だった。
 バスで移動して漢那へ。ここには「ヨリアゲ森」という名の御嶽が2つあるそうで、一つは現在の公民館の横にあるお宮。もう一つは集落の後方にあるダキヤマ(嶽山)と呼ばれる御嶽で、ここも「ヨリアゲ森」。また、ダキヤマはウェーヌアタイ(上方の中心?)とも呼ばれ、漢那の集落が現在の低地に移動する前に使われていた土地のようです。
 御嶽(ウタキ)とイビについて、山原のムラ・シマ講座の過去の記事に分かり易く書かれた文章がある。要約すると、
 血族単位で集落が出来ると居住地の近くの高い所に御嶽を作る。御嶽は聖地である山全体をさす。イビ(イベ)はその中にある最も聖なる場所。
 また、 イビとは女性の陰部から来ている語との考えがあるそうだ。かつて(今でも場所によっては)御嶽は男子禁制の場所だったというのは、そうした事からだろうか。また、亀甲墓が女性の子宮を型どり、死んだら再び生まれたところへ帰って行くという感覚と同じ、とも記されている。これらは奄美、沖縄に伝えられるおなり神信仰との関係もあるのだろうか。
*おなり神については、こちらこちらが詳しい。奄美の島唄を代表する一曲「よいすら節」はおなり(うなり)神信仰に基づくもので歌詞は、船ぬ高艫に 居ちゅる 白鳥(しるどぅり)ぐゎ 白鳥やあらぬ 姉妹神(うなりがみ) 加那志(がなし)<標準語:船の高い舳先に 白い鳥が居る 白い鳥ではない 姉妹神様だ>。
 漢那集落の観察が終わり、バスで歴史文化センターへ戻る途中、名護バスターミナルの横を通るので降ろしてもらう。一日乗り放題のチケットを買ったので、少しターミナルで待って辺土名行きの路線バスに乗車。
 辺土名に着いて、港近くの波止場食堂へ。600円のカツ丼を注文。しばらく待っておばさんが持って来たカツ丼を見て、やはり吹き出しそうになる。
 大きい丼の中に、ご飯がぎっしり詰め込まれ、その上にトンカツ2枚半と野菜を甘辛く炒めて卵でとじた具が乗っている。力仕事の漁師達にたくさん食べてもらうためにこうなったとネットの記事で読んだが、それにしても・・・。
 とりあえず持ち帰り用のプラ容器にトンカツの上の部分を避難。そうしないとご飯が出て来ない。今日は2/3位は食べようと思っていたが、結局半分以上をプラ容器に詰めた。
 このカツ丼の凄いのは、量もさることながら妙に美味しいこと。慣れ親しんだカツ丼の味ではないが、これはこれでありだと思う。トンカツが作り置きでなく揚げたてだからだろうか。
 クーラーはなくドアと窓を全開にした店内で、なかなか減らないカツ丼と格闘。食べ終わり(詰め終わり?)、空いた食器を厨房へ持って行く。暑い日にトンカツを揚げるのは大変でしょう、と声をかけると笑っていた。それにしてもおばさんは、一日何枚のトンカツを揚げるのだろうか。
 南の島の北の果ての小さな食堂で、毎日もくもくとこんな凄いカツ丼を作っているおばさんがいる。思い出す度に勇気がでそうだ。
 16時30分辺土名BTを出る辺土名線で名護BTへ。乗り継ぎが上手く行き、名護BTを17時30に出る名護西線に乗れた。それでも嘉手納、北谷辺りの58号線は少し渋滞もしていて時刻表よりも遅れて到着。今日一日で10時間近くバスに揺られていたかもしれない。写真は宜野座の獅子頭とミルク面。
*2013年6月16日のPhoto Diaryはこちら。(解体が進む神里原社交街、借りてきた本、天ぷらとマグロステーキ)
*2013年6月17日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダから撮影した夕暮れの那覇市内)
*2013年6月18日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダからの那覇市内)
*2013年6月19日のPhoto Diaryはこちら
6月19日のスナップ。国立劇場おきなわ
↑昨日、台風4号が発生した。梅雨が明けて、沖縄は台風の季節。昨年はやけに多かったが、今年はお手柔らかにお願いします。
 午後から国立劇場おきなわの小劇場で、ドキュメンタリー映画「イザイホウ」の無料上映会。
 13時半に開場、14時に開演なので12時半過ぎに家を出て、最寄りのバス停から勢理客(じっちゃく)まで。勢理客から10分ほど歩いて13時少し前に劇場に着いた。
 今日の催し物の正式なタイトルは、第32回公演記録鑑賞会で、映画「イザイホウ」上映の前に第7回民俗芸能公演南城市の民俗芸能」(2007年)」)を鑑賞する。こちらは、先日海神祭を見に行ったばかりの奥武島の「ウスデーク」に始まり、津波古の狂言「天人」、稲嶺の「獅子舞」、古堅の「ミーミンメー」という4つの演目が上映された。
 古堅のミーミンメーは、首里赤田のみるくウンケーを真似たものが伝承されているそうだが、旧暦の4月1日に行われる道ズネーを見てみたいな〜と思う。ミルクはお面ではなく、首里赤田と同じくすっぽりと被るタイプです。
 南城市の民俗芸能の後、10分休憩時間があり、楽しみにしていた映画「イザイホウ」の上映。1966年に行われた祭祀を撮影したドキュメンタリーだが、僅か49分の中に祭祀だけではなく久高島の暮らしや風景も挟み込まれ、上手く纏められていた。イザイホウは12年毎の丑年に行われるが、1978年を最後に行われていない。
 尚、この映画「イザイホウ」のDVDが、制作した海燕社から発売されています。
 また、今年3月に国立劇場おきなわで坂東玉三郎さん主演で行われた新作組踊「聞得大君誕生」が、6月21日(金)の12時〜にっぽんの芸能「坂東玉三郎・琉球舞踊に挑む」と題してNHKで放送されます。
 劇場を出ると曇り空で、ポツポツと小さな雨が降ったり止んだり。勢理客のバス停に行くと、直ぐに那覇行きのバスが来た。
 家に帰りパソコンに向かって作業。ふと外を見ると虹がかかっていた。何枚か写真を撮ると、虹はゆっくりと消えて行き、消えた直後に激しい雨が降って来た。台風4号の影響か、その後も日差しが出たり土砂降りになったりと忙しない空模様。
 夜中になって、木々を揺らし空気を震わす強風が吹き始めた。写真は国立劇場おきなわ。
*2013年6月20日のPhoto Diaryはこちら。(那覇市内の虹、歯医者さんの診察券)
*2013年6月23日のPhoto Diaryはこちら
6月23日のスナップ。ジョン・ルース駐日大使と随行者
↑今日、沖縄は慰霊の日
 1945年6月23日に第32軍司令官・牛島満大将はじめ司令部が自決を行い、これにより沖縄戦においての組織的戦闘が終結したとされ、この日を沖縄では慰霊の日と定めている。
  各地で慰霊式や追悼式があるようだが、オーソドックスに糸満の摩文仁にある平和祈念公園で開催される沖縄全戦没者追悼式に出席する事にした。式典への参加者のために、県庁から会場までシャトルバスを運行してくれるのがありがたい。
 式典自体は午前11時50分からだが、慰霊の日の様々な表情をスナップしようと思い、家を8時頃に出て、8時30分過ぎに県庁を出発するバスに乗り込んだ。バスは国道7号を走り、国道331号とぶつかったところで左折して40分ほどで会場に着いた。このルートは昨年、沖縄に引っ越して間もない7月11日に自転車で2時かけて走ったコースだった。
 とりあえず公園のベンチに座って、朝早くに起きて作ったおにぎり、ウインナー、卵焼きの弁当を少し食べる。お腹が落ち着いたところで戦没者の名前が刻まれた平和の礎(いしじ)を見てから、今日は無料で開放されている平和祈念資料館へ。常設展の中を見て歩いたが、戦争で亡くなった方の遺体が散乱した写真やパネルが多数展示されている。死体・遺体の写真を極力見せない社会のこの国で、それでも展示しなくてはならないほど沖縄戦が壮絶なものだったという事だと思う。
 常設展はいくつかのブースに区切られているが、戦後の沖縄の暮らしを再現したコーナーがあり、そこにワタブーショウのポスターが張ってあった。張ってあった場所は、アーニーパイル国際劇場。このポスターが当時の物なのか、復刻した物かはわからないが、僕が思っている以上に照屋林助さんのワタブーショウは人気だったのかもしれない。少し離れた場所に、カンカラ三線も展示してあった。
 ちなみにアーニー・パイルは、沖縄の地上戦で亡くなったアメリカの従軍記者。現在のてんぷす那覇の付近にアーニーパイル国際劇場という映画館があったらしい。当時は何もなかったこの通りに劇場が出来た事で、現在の国際通りという名前が付いたようだ。
  資料館を出て、また平和の礎に行き写真を撮っていると、近くで小さな人混みが出来ていた。ジョン・ルース米駐日大使と随行した関係者だった。
 式典は式次第の通りに進んだ。最後に一般の焼香があり、しばらく焼香の様子を撮影した後に、自分も列に並んで焼香をした。式場の外では沖縄タイムス、琉球新報がそれぞれ号外を配っていた。 
 公園の坂を上った丘のような場所に霊域というゾーンがあり、国立沖縄戦没者墓苑や各都道府県の慰霊塔が建っている。しばらく歩いていると富山県の立山の塔があった。塔の前に男性が一人座っている。お話しを聞くと富山の遺族会の方だそうで、わざわざ追悼式に出席するためにいらしたそうだ。この立山の塔には沖縄戦戦没者876柱、南方諸地域戦没者13,996柱が合祀されている。
 平和祈念公園の後に、ひめゆりの塔にも行ってみようかと思っていたけれど、歩きっ放し立ちっ放しで少し疲れたので14時半過ぎのシャトルバスで県庁へ戻る。
 県庁から、自転車を停めて置いたモノレールの県庁前駅へ。歩行者天国になっている国際通りを自転車で走る。梅雨明けの日曜日なので、観光客でごった返しているかと思ったが、そうでもなかった。
 かつてアーニーパイル国際劇場が建っていた場所に近いてんぷす那覇の前で、琉球QT-BLUEというダンスユニットがパフォーマンスをしていた。しばらく彼女達のライヴを見てから、家に帰った。
 ネットを見ているとスーパームーンが騒がれていたので、22時過ぎにベランダから撮ってみた。一昨年の3月にもスーパームーンが騒がれたが、この時は金作原原生林へオオトラツグミのさえずり調査に行く早朝に見たんだった。
 夜、テレビで都議選の選挙速報を見る。自民、公明は全員当選。民主は共産にも抜かれ第1党から第4党に転落した。選挙結果もさることながら、投票率が前回の都議選から10.99ポイント下がる43.50%と言う数字が気になる。写真はジョン・ルース米駐日大使と随行した関係者。

11月26日(金)

 荒れ模様の天気で、寒い日が続いている。この一週間ほどで、秋から冬に季節は移ったようだ。
 今年の5月に買った27インチのiMacは、まだプリンターと接続していなかったのだが、妹の還暦記念写真をプリントする為に一昨日接続してみた。昨年11月に買ったMacBook Proの時はプリンターに付属していたソフトウエアディスクを挿入し、セットアップガイドにしたがってクリックしていくと全て自動で完了し、無線接続でプリントができるようになった。ところが昨年12月に買った21.5インチのiMacの時は、ソフトウエアディスクを挿入しても途中でエラーメッセージが出て接続できなかった。後日、エプソンのサポートに電話で相談し検証すると、wifiの回線が混雑して不安定だということだった。
 そんなこともあってプリンターとの接続は億劫だったのだが、ダメ元でソフトウエアディスクを挿入してみると、あっさりプリンターと無線接続で繋がった。実は何日か前、夜中に急にインターネット回線が切断した。iMacの問題かと思い、MacBook Proのサファリを起ち上げたが、やはりネットに繋がらなかった。翌朝、1階に置いてあるルーターのランプを確認したが、いくつかあるランプの点灯状況は正常に見えた。それでもルーターのコンセントを抜いて、もう一度電源を入れ直すとネットに接続することができた。そしてネットの繋がり具合が以前より少し良くなった気がしている。デトックスされたのだろうか。
  さっそく妹の還暦の写真をプリントしてみた。プリント作業をするのは、半年ぶりくらいだろうか。長く使っていなかったのでインクノズルが目詰まりしていないか心配だったが、詰りもなくインクが掠れることもなく、キレイにプリントできた。
アマゾンで購入したカーラ・ボノフのCD01

 22日にアマゾンで注文したアメリカのシンガーソングライター、カーラ・ボノフのCDが一昨日届いた。1977年のデビューから順に、3枚のアルバムを、2枚のCDに収録したものだ。
 3枚目の『麗しの女〜香りはバイオレット』はアナログレコードで持っていて、昔はよく聴いていた。曲も良かったが、ジャケットが美しかった。

←2枚組のCDを配送するには、随分と大きな箱に入れられてきた。

カーラ・ボノフのCDの中身
ブリンドル

↑CDの中身。紙のボックス(筒)の中に、プラスチック・ケースのCDが収まっている。 

 さっそく2枚のCDに収まっている3枚のアルバムをiMacのiTunesに取り込んで、現像作業のBGMとして聴いている。『麗しの女〜香りはバイオレット』を聴くのは何十年ぶりかと思うが、案外メロディラインを覚えている。 2枚目のアルバム『ささやく夜』も、聴いたことのある曲が流れてきて、ひょっとするとこちらもアナログレコードで持っているのかもしれない。

 カーラ・ボノフは、一度音楽雑誌の仕事で撮影したことがある。彼女単体ではなく、ブリンドルというバンドの一員としての撮影だった。撮影した当時、ブリンドルのことは知らなかったのだけれど。

←ブリンドル。左下の女性がカーラ・ボノフ。1995年6月23日に都内のホテルで撮影。

 YouTubeより「The water is wide/Karla Bonoff
Trouble again/Karla Bonoff

 昨日、沖縄の玉城デニー知事が辺野古新基地建設をめぐり、軟弱地盤の改良工事のため沖縄防衛局が提出していた埋め立て変更承認申請を、公有水面埋立法に適合しないため不承認とすると発表した。記者会見で「最も重要な地点で必要な調査がされていない」と述べ、軟弱地盤が最深部まで広がる地点の調査が不十分と指摘したそうだ。
 これに対し、国側は対抗措置を講じる見通しだと言われているが、そもそも工事後に軟弱地盤が見つかったために砂の杭を約7万7000本打ち込むという前代未聞の工事変更だ。砂の杭を打ち込めば、軟弱地盤の泥が押し出されるわけだが、その泥はどこで処理するのだろうか。また、辺野古の埋め立ての始まる前にたくさんの予算をかけて環境アセス(環境影響評価手続き)を行ったはずだが、工事の計画変更をするなら改めて環境アセスをするべきだろう。沖縄県側に対抗措置を講じると喧嘩腰になる前に、環境への調査や総事業費を提出して欲しい。沖縄県は辺野古への移設工事の総事業費を2.5兆円と試算しているが、国側は総事業費きちんと示せていない。
 もう忘れている人が多いだろうが、辺野古の新基地建設に関する環境アセスを巡っては色々とゴタゴタがあった。工事の始まる前の2011年11月28日、今から10年前に当時の沖縄防衛局の田中聡局長がアセスの評価書の提出時期を明言しない理由について、報道各社との非公式の懇談の場で「これから犯す前に犯しますよと言いますか」などという発言をしていたことがわかり、翌29日に沖縄防衛局長を更迭され、12月9日には懲戒処分を受けた。また、アセスの評価書は2011年の12月28日に沖縄県庁に提出されたが、抗議の市民団体を避けるため業務時間外の午前4時ごろに運び込まれた。田中元防衛局長の発言を見ても、辺野古新基地建設が沖縄県と県民を蹂躙しているという認識がありながら行われている。
 リニアモーターカーは新幹線の何倍もの電力を消費すると言われているが、2012年の週プレの記事によれば稼働には原発2〜5基分の電力が必要だという。世の中的にSDGsが叫ばれている中で、それと逆行しているのがリニア建設と辺野古新基地建設ではないだろうか。
 今年の9月に新設されたデジタル庁に、10月4日からデジタル大臣として就任した牧島かれん議員が、デンマークとデジタル分野における協力覚書を締結したとするプレスリリースの送信時に、アドレスを誤まってCC欄に記載した。このため報道各社の担当者約400人分のアドレスが、同庁のメーリングリストの登録者に閲覧できるようになってしまったそうだ。先が思いやられる。

 この他の気になった記事を備忘録として。
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 Photo Diaryを更新。
*2013年6月9日のPhoto Diaryはこちら
6月9日のスナップ。神送りが終わり、庭に干された神装束

↑9日は早朝4時半前にヌルヤーに行くが、ガンジュナの方はいらしていないので家の近所を一回り。45分を過ぎて一人また一人とヌルヤーに到着。
 5時10分過ぎ、ギレーミチャンのお一人である比嘉春子さんがヌルヤー横の三叉路に立って太鼓を打ち、始まりを告げる。これはクビリ殿の殿ニンジュへの合図で、クビリ殿の人もガンジュナの後ろに着いて神送りの儀式に参加する。ちなみにギレーミチャンは今回3人いらしたが、これは神迎えの日にンチャブイ(草の冠)を装着し、遠来神のギレーミチャンが神職者であるガンジュナにより憑き顕現していることを表現しているそうだ。
 5時20分頃にヌルヤーを出発して、神送りの行われる里へ向かう。ガンジュナの後ろを太鼓の合図を聞いたクビリ殿の人が着いて行く。里の上がり口で殿ニンジュからガンジュナに酒杯がさし上げられる。この後ガンジュナはターチイシ(二つ重なった大きな石)まで上がり、クビリ殿の人は里を降りた。
 ターチイシの前で二名が海に向かって立ち、二名がマーイイビ(石)を周り、二名が里殿に上りシマノーシ終了の礼拝をする。里殿の礼拝が済んだ2名のガンジュナがターチイシのところまで降りて来て6名のガンジュナがクバ扇や手ぬぐいを振り上げながら神送りのウムイをうたい、少しずつ里を降りて行く。儀式は厳かだけれども、ウムイをうたいながら手を振ってギレーミチャンを送るガンジュナの顔が晴れやかで和やかだったのが印象深い。
 里を降り集落の入口に来た時に、主婦の方がガンジュナ一人一人に「ご苦労様でした」と声をかけ頭を下げていらした。
 神道を通りヌルヤーに戻ったのが6時半頃だった。庭で神装束を脱ぎ、平服で神ブンの前で合掌祈願が行われた。この後各自の家で終了祈願を行い、9時過ぎにヌルヤーに戻り最後の合掌祈願が行われるというので、一旦宿へ戻る。
 10時15分の泊港行きの船、ニューくめしまに乗船して那覇に帰るためチェックアウト。大きな荷物を宿の食堂に置かせてもらって、再びヌルヤーへ。
 9時半過ぎに神ブンの前に饅頭が供えられて合掌祈願が行われた。祈願の途中だったが船に乗り遅れるといけないので静かにヌルヤーを出て、ターミナルに向かう。ニューくめしまは10時に入港し、10時15分に渡名喜港を出た。
 事前の天気予報では渡名喜島に滞在する3日間は曇り時々雨の予報だったが、結局雨は降る事なく快晴だった。一度も使わなかった傘を持って家に帰る。

ノーイガミ(神送り)のウムイ
イジュクムトゥワミヤ(イジュクムトゥである神は)
ミユニカミラチ(澪に整えさして)
クニガム(ド)ヌタル(雲が根に△乗った)
カジガニ(ド)ヌタル(風が根に△乗った)
ナハヘーカジニナタル(早や南風になったよ)
イトゥカジニナタル(糸風<おだやかな風>になったよ)
ヒンナトゥイニヌシティ(<ヒンナトゥイ>に乗せて)
ハンナトゥイニヌシティ(<ハンナトゥイ>に乗せて)
ナンジャジュク(シーグ)カキティ(銀の艪を掛けて)
クガニバヤタティティ(黄金柱<帆柱>を立てて)
アカラヤホアホラチ(真赤な弥帆をゆらめかせて)
ミズルヤホムタチ(聖なる弥帆を上げて)
ヒドムイニヌウェーチ(辺戸森に乗り合わせ)
アシムイニアシバチ(安須森に遊びなさって)
ミチュマワイニナリワ(三年廻り<島直し>になったら)
インチキニナリワ(同じ月になったら)
イヌウイニナリワ(同じ頃になったら)
ユシリトゥイアワチ(寄せ手を合わせ)
クンリトゥイアワサヤ(組み手を合わそう)

*本日の出費 宿泊費8000円(素泊まり4000円2泊)、フェリーでレモンティーのペットボトル160円。写真は神送りが終わり、ヌルヤーの庭に干された神装束。

*2013年6月11日のPhoto Diaryはこちら
6月11日のスナップ。ニライカナイに向かって祈願する神人の方々
↑海神祭は明日だが、先日奥武島の公民館に電話したところ、神人による神事は前日である今日の朝から行われると聞いたのでカメラを持って那覇バスターミナルへ。神事は9時に観音堂から始まり、島の拝所をまわるという。
 バスの時刻表を調べると那覇バスターミナルから奥武島まで行ける53番の最初のバスは、那覇BTを9時58分に出て奥武島着が10時42分。これだと間に合わないので50番か51番のバスで奥武入口まで行き、島まで10分ほど歩く事にする。
 那覇BTの乗り場で待っていると6時42分発の51番の始発バスが来たので乗車。奥武入口には7時29分に着く。もう一つ遅らせて那覇7時45分発、奥武入口8時35分でも間に合いそうだが朝の渋滞があって遅れるかもしれないので余裕をみて始発にした。
 ほぼ時刻表通りに奥武入口に到着。入口と言いながら奥武島まで長い坂道を10分ほど歩く。奥武島に渡る橋の入口には万国旗が飾られ、欄干には海神祭の幟が並んでいる。
 まずは観音堂に行き、横の御嶽へ。ガジュマルの気根が岩に根を絡め、その下に石が並べられている。朝の木漏れ日の中、やはり美しい御嶽だと思う。御嶽の中をオオゴマダラが一匹ヒラヒラと舞っている。飼育室や観察室以外でオオゴマダラを見たのは初めてだ。
 観音堂を出て集落を散策。そしてもう一度観音堂に戻って神事の始まりを待っていたら、先月の泊外人墓地のメモリアルデーでお世話になった新垣さんがカメラを持って登場。自宅から車で10分ほどだそうだ。
 観音堂に神人の方が集まり、区長さん、それに明日のハーリーで競うアガリ(東)とイリ(西)の代表者も御堂の中に入り御願が始まった。観音堂から隣りにある祠へ、そして車で龍宮神のある海岸へ移動するという。歩いて龍宮神に行っても間に合わないだろうな~と困っていたら、神人の方が私と新垣さんを乗せて下さった。ありがとうございます。
 海岸でニライカナイに向かって祈願をする。爬龍船競漕(ハーリー)は、航海安全や豊漁を祈願する御願を主旨とした海の神事だ。
 海岸から今度は漁港近くにあるハマヒチぬ主と書かれた拝所で合掌祈願。案内には、海からの恵みに感謝し豊漁航海安全を祈願する拝所であると書かれている。ここでは2カ所の方向に、沖縄独特のヒラウコーが手向けられた。一つは玉城の方向だそうです。この後、少し集落の中に入った拝所で合掌祈願が行われ、観音堂の前にある公民館で休憩。9時から始まった拝所巡りは1時間ほどで終わった。
 公民館でお供えに使ったお刺身、焼き魚が振る舞われ、天ぷらをお土産にいただいた。冷たいお茶をご馳走になり、明日のハーリーの事を教わったりした後、公民館を後にした。
 新垣さんの車で南城市の大里庁舎へ。南城市の教育委員会の方を紹介していただき文化財ガイドマップをもらった。
 兼城十字路のバス停まで車で送ってもらい、那覇BT行きに乗る。
 那覇バスターミナルの2階にある食堂でみそ汁定食サンマ付550円を注文。普通のみそ汁定食が500円なのでサンマは50円だろうか?ちなみにサンマは副菜で、あくまでもみそ汁がメイン料理です。
 食べ終わり、自転車で家へ。撮影データをバックアップする。外付けの2つのハードディスクに保存しているが、一つは空き容量が1.23GBになってしまった。写真は海岸でニライカナイに向かって祈願する区長さんや神人の方々。
*2013年6月12日のPhoto Diaryはこちら
6月12日のスナップ。3番バーリーで海に飛び込む漕ぎ手たち
↑今日はユッカヌヒー(旧暦の5月4日)、海神祭の日です。昨日と同じく、那覇バスターミナルを6時42分に出る51番の百名線の始発に乗って奥武入口へ。奥武入口から長い下り坂を歩いて奥武島へ。
  ハーリー競漕は8時30分からだが、その前に観音堂で行われる神事は7時30分から。奥武入口に着いた時点で7時30分は過ぎていて、奥武島集落の中にある観音堂に着いたのが7時45分頃。神事は始まっていた。
 観音堂隣りの祠での祈願が終わり、観音堂の前に並べられていた爬龍船が路地を通って海まで運ばれた。
 ハーリー競漕の前に神人と区長さん、海頭を乗せたボートと、イリとアガリの漕ぎ手を乗せた爬龍船4隻が奥武島の対岸の岩の近くでお祈りをするミシラギ御願が行われ、引き続き御願バーリーが開始された。
 御願バーリーが終わり本バーリーの最中、神人による拝所での御願も行われていた。
 集落のイリ(西)とアガリ(東)が競う本バーリーは、この御願バーリーに始まり、二番バーリー、流れ船(三番バーリー)、四番バーリー、五番バーリー、クンケーラーシー(転覆競漕)、上がいバーリーの7番勝負。流れ船は、橋の上から漕ぎ手が海に飛び込み、近くで待っている船に乗ってスタートする。クンケーラーシーは、途中で一旦船を転覆させ、もう一度戻して競漕する。勝負の度に勝った方は船を持ち上げて相手の陣地に行き、気勢を上げてガーエーを行う。
 御願バーリーが始まったのが8時半頃で、7番目の上がいバーリーが終わったのは10時半頃だった。ちなみに今年は4対3でイリの勝ち。プログラムによれば本バーリーの後は一般の職域ハーリー競漕で、最初に男子の予選が14レース行われ、次に男子の準決勝、女子の職域ハーリー、男子の決勝となっていた。
  男子の予選の後に、十何年ぶりかでアヒル獲り競漕があるというので撮影。海に飛び込んで泳いで逃げるアヒルを捕まえる競漕で、捕まえたアヒルは持って帰らないといけない。
 アヒル獲り競漕を見終えて、歩いて奥武入口へ。50番のバスで那覇BTへ。琉球バスの営業所で、今週の土曜日に使う1日乗り放題チケット2000円を購入。
 時間が知りたくてポケットから携帯を取り出すと、画面が真っ黒。電池がなくなったのか?この一週間ほど携帯の電池が直ぐに消耗する。メールも通話もしていないのに電池の残量が減っている。
 家に帰る途中にあるドコモショップへ。症状を話すと、修理対応は1時間待ち。とりあえず充電させてもらい、一旦部屋に戻って撮影データのバックアップと着替えをする。
 再びドコモショップへ行き、テクノマイスターという肩書きの男性に先ほどの受付担当の女性に話した症状を再び説明。そして画面にいくつか出ているアイコンが原因の可能性はないか聞いてみる。アイコンの中にはGPSのアイコンもあり、話しを聞くと位置情報を発信中のアイコンで、これは電池を使うかもしれないという説明。初期設定では表示されず自分でも覚えがないので、何かの拍子にオンになったのかもしれない。  
 GPSのアイコンを消し電池のチェックをしてもらい、携帯そのものの清掃もしてもらう。電池は3年以上使っているので能力は60%少し越える位に減っているとの事。GPSの発信をやめた事で電池の消耗が普通になるか様子を見る事に。
 ドコモを出ると雨。梅雨なのに久しぶりな雨。バックからヤッケを取り出して、自転車で新都心のスーパーへ。渡名喜島へ行く前に生鮮食品はほぼ使い切っていたので、アレコレとたくさん買って帰る。写真は3番バーリーの流れ船。漕ぎ手が橋の上から海に飛び込み、待機している船に乗ってスタートする。

11月23日(火)

 朝から時折り激しい雨が降る荒れた天気で、気温も上がらず肌寒い一日だった。勤労感謝の日の今日は、妹の誕生日。長男から還暦のお祝いに赤いちゃんちゃんこの衣装セットを贈られたので、記念に写真を撮って欲しいと頼まれた。妹一人で撮影した後、両親と一緒に。
妹の還暦の記念写真
 建物の正面にある立派なヒンプン。ヒンプンとは屏風のことで、外から家の中が見えないようにする目隠しの役割と、直進しかできない魔物が入れないようにする魔除けの意味がある。
 散歩していて見つけた、このヒンプンに赤瓦の屋根という沖縄でも数少なくなった古民家、実は与那国島の電話交換局だった。なるほど電線からたくさんの線が家の中に引き込まれている。
 この写真は2014年1月に撮影したが、ネットで調べると今も現役で電話交換局になっているようだ。
与那国島の電話交換局01
与那国島の電話交換局02
 母親の実家が昔、電話交換局をやっていた。ただ単に場所を貸していただけかもしれないが、小学生の頃だから昭和40年代前半頃だろうか、母親の実家に行くと母屋とつながった一室に機械があって女の人がコードを差し込んでいた。いつ頃までやっていたんだろうか、すぐに従兄弟の子供部屋になっていた気もする。

 このところ、円安が進んでいる。アマゾンで輸入CDの値段が上がっているのは、円安の影響だろうか。

 地図製作会社大手ゼンリンが、SNS公式アカウントで自社の社員が撮影した北海道函館市にある五稜郭の写真を掲載したところ、ちょっとした騒動となった
  秋の五稜郭がこんなにも美しいとは・・・という文章とともに投稿されたその写真は紅葉の木々に覆われた五稜郭の風景だったが、あまりに色が鮮やかだったので「画像を加工しているのでは?」といった指摘が相次ぎ、後日ゼンリンは画像を加工していたことを認めて謝罪した。しかし、謝罪するほどの問題なのだろうか、とも思う。投稿された写真を見たが、明らかに彩度が高すぎて色が飽和している。個人的にはやり過ぎだと思うが、ここまでではなくても彩度が高くコントラストを強くした写真がSNSを中心に増えている。どこまでが許容範囲で、どこまで上げたら謝罪しなくてはならないのだろう。実際、自分の写真も以前に比べれば、RAW現像時に明度や彩度、コントラストを若干あげるようになった。
  TBSの番組「世界遺産」は好きでよく観ているのだが、たまに驚くほど彩度の高い映像が出てくることがある。特に木々や草のグリーンが、ホント!?と思うほど鮮やかだったりする。
 考えてみれば、フィルム時代だって発色をよくするために増感現像をしたり、フィルターで色の補正を行なっていた。デジタルだフィルムだということでもなく、写真が現実世界を忠実に再現するというのは幻想だということ。当たり前のことだけれど、案外この幻想を持っている人は多い気がする。
 ところで、フィルム時代は店舗撮影をする時に蛍光灯のグリーン被りが嫌でマゼンタのCCフィルターで補正していたが、デジタルになってからは仕事の撮影でない限りグリーン被りをわざと少し残す(加える)こともある。あの少し寂しい感じが懐かしくて。オートホワイトバランス機能の付いたデジタルから始めた人は、そんなことは考えないかもしれないな。

 この他の気になった記事を備忘録として。
福島第一で内部被曝か 東電社員2人、全面マスク・防護服着用せず
一方的に「契約終了」 コロナ禍で急増の宅配配達員、保護策は置き去り
コロナワクチン 接種直後に死亡は1300人超 割り切れぬ遺族の思い

 Photo Diaryを更新。
*2013年6月5日のPhoto Diaryはこちら。(泡盛・ゆいま〜る、ベランダからの那覇市内)
*2013年6月7日のPhoto Diaryはこちら
6月7日のスナップ。ヌルヤーを出て、神道を通りニシバラ殿に向かうガンジュナ

↑朝7時30分に家を出て、近所のキロ弁でトリ唐弁当を買って、とまりんへ。渡名喜島までの往復チケットを購入。8時30分出航のフェリー琉球で、渡名喜島に向かう。
 渡名喜島で2年に一度行われる祭祀・シマノーシ(島直し)が、始まっている。準備は旧暦の4月15日から行われていて、祭祀の中心となる神迎え、クビリ殿(ドゥン)の日が旧の4月27日、里殿(サトドゥン)の日が翌28日、ニシバラ殿(ドゥン)の日が29日、ウェーグゥニ殿(ドゥン)の日が30日、そして5月1日に神送りであるノーイガミを迎える。
 6月7日の今日は旧暦の4月29日でニシバラ殿で神事が行われる。本当は神迎えから見たかったが、スケジュールと予算の関係で2泊3日の日程を組んだ。
 シマノーシについて、「神々の古層 来訪するギレーの神 シマノーシ/比嘉康雄」(二ライ社)から引用。

 この祭祀は渡名喜島最大のもので、今日まで連綿と続けられてきたという。
 一七一三年に編集された『琉球国由来記』にその概要が記されていることを考えると、すくなくとも一七一三年以前からおこなわれていたことは確かであり、古い伝統を持つ祭祀と言える。この祭祀を祝詞などでミチュマールガナシー とも言うが、これはミチュマール、すなわち3年まわりという意味であると言われ、隔年ごとにおこなわれている。旧暦四月十四日から五月一日にわたっておこなわれる。
 現在の祭祀の内容はヌルら女性神職者が、ギレーミチャンという遠来の神々を迎え、シマの四つの草分け家をまわり、シマ人の健康、豊作、豊漁、海上安全などを願うものである。
 「ノーシ」とは直す、正常にするというほどの意と解せられる。この祭祀をシヌグとも言っている。

 〜略〜
  このシマノーシ祭は、渡名喜島の採取時代から農耕時代までの歴史が表現された、いわば創世神話的な祭祀である。海の彼方から渡名喜島の始原の神ギレーミチャンを、農耕時代の神々(ヌル、ウブチミチャン)が迎え、農耕時代の草分家をまわり、シマを祓い清め、シマに新しい力を充満させ、三年後の再訪を約し、ヌル、ウブチミチャンが再び海の彼方にギレーミチャンを送るという壮大な神々のドラマが展開される、すばらしい祭祀である。

 渡名喜島のフェリー乗り場から一本道を歩いて3分ほどの民宿へ。宿のご主人が観光パンフレットの地図で、今日の祭場ニシバラ殿や明日の祭場ウェーグゥニ殿、そしてヌルヤー(ノロの家)を教えて下さった。宿のご主人はニシバラ殿に所属するそうで、今日の神事に参加するという。
 1時間ほど部屋で休んでから、集落を散策。ふくぎの並木、砂を敷いた道、赤瓦の屋根。家は台風対策で道路より少し掘り下げて建てられている。
  神女(ガンジュナ)の方々がニシバラ殿にいらっしゃるのが午後1時頃、まだかなり時間があるので集落を外れ山を上ったところにある里殿に行ってみた。
 里殿は島随一の信仰地で、14〜15世紀のグスク時代の遺跡だそうです。長い坂道を上がった先にあり、高齢のガンジュナの方には大変だろうと思う。里殿にある祠の一つ、ジョウイカドゥムイ祠を覗くと、昨日の神行事の名残か、青々としたクバの葉が敷き詰められていた。クバの葉の間を何か動くものがあったので遠くから観察していると大きなオカヤドカリだった。
 里を降りてニシバラ殿に近いヌルヤーへ。ガンジュナの方々がヌルヤーを出て、神道を通りニシバラ殿へ向かう後を着いて行く。
 13時頃に殿に到着し、殿の祠に供え物をし祝詞を唱える。殿頭からミキやお酒の接待を受け、その後殿に集まった殿ニンジュの方々と会食。この1時間ほどの神行事の後、アーラシートゥイ (神の舟でを意味したものといわれ、神扇で竹を叩きながらアーラシートゥイ、アーラシートゥイと連呼する)の儀式を行い、近くのメーンジャクで接待を受ける。5分ほどでこの神行事は終わり、また神道を通りヌルヤーへ。
 ヌルヤーで休憩されているところへお邪魔して、今日から明後日の神送りまで撮影させていただく許可を貰う。
 今日はこの後16時20分にヌルヤーを出て、ヘーバラガニクと呼ばれる場所(観光パンフレットには、神様の休憩所と書かれている)で、ユレーヌユバルという神事が行われる。 2時間ほど時間があるので、島の東側にある、あがり浜を散策。
 16時10分頃にヌルヤーを尋ねて行くと既に準備が出来ていて、太鼓を鳴らし神道を通りヘーバラガニクへ。
 ユレーヌユバルの儀式を 「神々の古層 来訪するギレーの神 シマノーシ」から引用する。

 ギレーミチャンはンチャブイをはずしている。南北側にウコウがつけられ、全員座す。
 1.南面しておたかべ 2.北面しておたかべ 3.南面しておたかべ 4.立って南面して太鼓を打ち、扇で手を打ちながら調子をとり、ユレーヌユバルが歌われる。最後は右手で神衣の袖を握り、ハイハイと囃子を入れて、扇と袖をふりながら舞う。 5.座して南面しておたかべ 6.北面しておたかべ 7.立って南面し4と同じ要領でユレーヌユバルが行われる。終わると南面して座し、合掌礼拝して終わる。おたかべは全員で唱和しているが、ユレーヌユバルはニートゥ(先唱)のヌルが歌い、他の神女はハートゥイ(復唱)するという形式である。

*ユレーヌユバルの意味は不詳であるらしい。今回ギレーミチャンはンチャブイをしたままだった。
 ユレーヌユバルが終わり、神道を通りヌルヤーへ。平服に着替えて神ブンの前に座り、今日の報告だろうか、祈願をしてこの日の神行事を終えた。
 明日の撮影のお願いをしてヌルヤーを出て宿へ帰る。荷物を置いて無料の自転車を借りて渡名喜港へ。もうすぐ行われるハーリー競漕の練習をしている、しばらく練習を眺めてから自転車で西側の海岸を行けるところまで走る。
 日も傾いた19時少し前、宿へと帰る。汗を流しにシャワーを浴びていたら、窓からオレンジに光り輝く夕日が見えた。早めにシャワーを済ませて急いでベランダに出たが、もう雲に隠れてしまった。
 朝キロ弁で買ったトリ唐弁当の残り、昨日スーパーで買っておいたパンで夕ご飯。家から持って来た泡盛を呑んで早めに布団に入る。
*本日の出費 とり唐弁当500円、那覇ー渡名喜島の往復乗船券4970円。写真はヌルヤーを出て、神道を通りニシバラ殿に向かうガンジュナ。

*2013年6月8日のPhoto Diaryはこちら
6月8日のスナップ。ヌルヤーでのウシャギムンの拝
↑8日はヌルヤーで朝の9時過ぎからウシャギムンの拝を見せていただく事になっているが、その前に今日の祭場であるウェーグゥニ殿へ行くとテントが張られ準備の真っ最中だった。殿の隣りの家が元家で、昨日作ったというミキを味見させてもらった。家の中には殿所属の各家から届けられた魚が置いてある。
 ウシャギムンとは献上品の事で、この日神事を行う殿所属の神女の親戚の人がウシャギムンを持参する。これを神ブンと一緒に供え、神女全員で合掌祈願が行われる。
 9時半頃から1時間ほどヌルヤーに伺い、その間に少し合掌祈願を見学。本来ならこの後正午頃に吉元屋(この家に王府からグインバン=御印判をいただいたヌルが出たと言われているそう)を訪問しおたかべするが、今年は忌み中で中止となった。
  お腹が空いたのでフェリーターミナルの食堂へ行くが、メニューは沖縄そばだけだそうで、定食が食べたければ集落の中にあるふくぎ屋さんがいいと薦められる。ふくぎ屋さんで日替わり定食の、ヘチマの味噌炒め650円を注文。副菜にさかな天ぷら2個、ゴーヤの天ぷらが2個付いて来た。
 一旦部屋に戻り少し休んでから、今日の祭場であるウェーグゥニ殿へ。この殿に所属する家、殿ニンジュの方々が徐々に集まってテントの下のシートに座っている。13時半少し前に殿頭の男性が、ヌルヤーの門の前で参拝。13時半過ぎにガンジュナがヌルヤーを出て神道を通り、ウェーグゥニ殿へ向かった。
 殿での神事の開始時刻は潮の満ち潮で決まり、今日は昨日より30分ほど遅く始まった。神事そのものは昨日のニシバラ殿と同じ内容で、最後にアーラシートゥイを行い、近くのメーンジャクで接待を受けてヌルヤーに戻る。
  14時50分頃にヌルヤーの神ブンの前で昨日と同様に合掌祈願。その後しばらく休憩して16時15分過ぎにヌルヤーを出て神道を通り、昨日と同様にヘーバラガニクでユレーヌユバルが行われた。
 17時頃にヌルヤーに戻り合掌祈願が行われ、この日の神事は終了した。
 明日はいよいよこの祭祀のクライマックスである神送りが行われる。朝の5時にはヌルヤーを出発するので今日は早めに寝ないといけないが、日が落ちるまで昨日と同様に島の西海岸の端まで行って夕焼けを見ていた。
 水平線の近くに雲があり、太陽が海に沈むのを見ることは出来なかったが綺麗な夕焼けだった。
 宿に戻りシャワーを浴びて、昨日ニシバラ殿でいただいたビールと、今日ウェーグゥニ殿でいただい焼き魚、それに那覇から持って来た魚肉ソーセージとパンで夕食。
*本日の出費 日替わり定食650円。写真はヌルヤーでのウシャギムンの拝。

11月20日(土)

 昨日は風も強くなく暖かかったので、自転車で赤丸にある浅井神社まで山裾の道を通って行って来た。途中何度もトンボの大群に遭遇。目の前を横切るだけではなく、平気でぶつかって来る。写真を撮っていて油断すると、頭にトンボが止まる気配がする。
 山裾の道の横は川が流れていてガードレールや柵が設けてあるが、そこに滑走路に駐機している飛行機のごとく何十匹というトンボが羽を休めたりしていた。秋だな。
トンボ

 鹿児島~奄美群島~沖縄を結ぶ航路は、マルエーフェリーとマリックスラインが交互に運行している。
 奄美大島の名瀬から徳之島や沖永良部島、与論島といった奄美群島への旅や、沖縄への移動にはこの2つのフェリー会社の船を利用した。マルエーフェリーでは「フェリーあけぼの」「フェリーなみのうえ」、マリックスラインでは「クイーンコーラルプラス」「クイーンコーラル8」が就航していて、どのフェリーにも4年間の旅の中で乗船した。
 2012年6月、奄美大島から沖縄へ移住した際は、引越しの荷物と一緒にクイーンコーラル8に乗船した。荷物はスカシと呼ばれる密閉型ではなく柵で出来たコンテナで運んだ。港に行くと牛や豚がこのスカシに入れられて船に積まれるのを待っているのを見たが、まさか自分の引っ越しでこのスカシにお世話になるとは思わなかった。
 当初はクロネコに頼もうと思っていたが、どういうわけか奄美大島から沖縄への輸送は一度鹿児島を経由することになっていて、料金がとても高くなった。どうしたものかと思案していたら、サバクリ人さんがフェリーのコンテナで運ぶ手があることを教えてくれた。2つのフェリー会社に見積もりを出してもらい、マリックスラインのスカシで運ぶことになった。部屋から名瀬港までは歩いても5分かからないので大きな荷物以外は少しずつ手で運ぼうと思っていたが、引越しの3日ほど前にサバクリ人さんとその軍団が来て一気に運んでくれた。おかげで随分と安く引越しができた。
  さて、その思い出深いクイーンコーラル8が一昨日から昨日までの航海を最後に引退した。1999年の就航から22年間、鹿児島から沖縄を2日に1度結んでおり、進学や就職、旅行などでこの船を利用した人は数多いだろう。引退後は廃船になるのだろうか、それとも「フェリーなみのうえ」のように海外の船会社に譲渡されるのだろうか。
 そしてクイーンコーラル8の後釜となるクイーンコーラルクロスが、今日から鹿児島と沖縄までの定期航路に就航する。

クイーンコーラル8
クイーンコーラル8から撮影した名瀬港

↑2012年6月15日の早朝、名瀬港に入港するクイーンコーラル8。市役所から大雨・洪水警報を知らせるエリアメールが届く中、この船に乗って奄美大島から沖縄へと移住した。

←クイーンコーラル8から撮影した名瀬港。写真中央のベージュの建物の最上階角部屋に住んでいた。建物が古いからか港に近いからか、台風が来るとビルごと揺れた。

 エンゼルスの大谷翔平選手が、今季のア・リーグ最優秀選手=MVPに満票で選出された。スポーツにもスポーツ観戦にもさほど興味がない自分でも大谷選手の活躍にワクワクするのは、マンガのような、いやマンガを超えるストーリーを感じるからだろうか。

 この他の気になった記事を備忘録として。
望月衣塑子×三上智恵対談 第1回 テレビ、新聞、映画でも、見ている人の気持ちを揺さぶらないと意味がない
ドイツ 1日のコロナ感染者6万人超 段階的に規制強める方針発表

 Photo Diaryを更新。
*2013年5月20日のPhoto Diaryはこちら。(借りてきた本)
*2013年5月24日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダからの那覇市内)
*2013年5月25日のPhoto Diaryはこちら。(新垣辰雄写真展「泊外人墓地」の案内ハガキ)
*2013年5月26日のPhoto Diaryはこちら
5月26日のスナップ。泊外人墓地
↑夕方、パソコンに向かって作業をしていると、突然の激しい雨。明日撮影すればいいやと思っていたけれど、カメラを1台持って泊外人墓地へ。お墓の横には小さな星条旗が飾られている。昼間に通った時は既に飾られていたので、午前中に作業が行われたのだろう。
 星条旗や芝生が雨に濡れている。墓石に当たった雨が、白い水しぶきを上げている。こんな雨の中、遺族の方が2組ほどお花を供えにいらしていた。明日のメモリアルデーだけ撮影すればいいと思っていたけれど、雨に濡れた外人墓地の様子が撮りたくて歩いて来た。やはり来て良かったと思う。 
 昨日、新垣辰雄さんの写真展「泊外人墓地」を見に行った際、27日がメモリアルデーだと教えていただいた。
 沖縄に引っ越してきて一番最初に撮影に訪れたのが、この泊外人墓地だった。普段の外人墓地は、ほとんど訪れる人を見ない。妙に鮮やかな色合いの造花が、いくつかお墓にポツンと供えられているだけだ。美しいけれど寂しい光景。それがメモリアルデーの前後には星条旗が飾られ、遺族の方がお参りに訪れるということを教えていただいた。
 嘗ては空砲が鳴らされ、音楽隊の演奏もあったそうだが、2008年から正式なセレモニーはキャンプで開催されるようになったようだ。それでも退役軍人の方達や遺族の方が集まり、慎ましやかに慰霊の式典が行われているという。
 式典の開始時間は、明日の朝一番に那覇市に電話して聞こうと思っていたが、お花を供えにいらしていた遺族の方に尋ねると、朝の8時ではないかと答えて下さった。お礼を言い、もう少し写真を撮って家に帰った。写真は雨に濡れる泊外人墓地。
*2013年5月27日のPhoto Diaryはこちら
5月27日のスナップ。メモリアルデー
↑朝起きてコーヒーを2杯淹れて飲む。それから薬缶でさんぴん茶を沸かす。窓外に朝の日差し。ベランダに出て那覇の市街を眺めると、どことなく変。うん?空の境が何だかおかしいと思ったら、市街に朝靄が立ちこめていた。
 今日は9時から夕方6時まで水道の配管工事で断水になるというので、 使ってない鍋に水を張っておく。バスタブにも昨日の夜のうちに水を張っておいた。
 慰霊のセレモニーが朝の8時から行われると聞いていたので、自転車で泊外人墓地へ。昨日雨で濡れていた星条旗は、朝の陽を浴びて輝いている。ポツリポツリと参拝をする方を見るが、セレモニーが始まる様子はない。ボランティアだろうか、墓地の周りを清掃されている方にセレモニーの開始時間を確かめてみると、10時ですよと言われる。あら、2時間ほど早いようだ。一度家に戻ろうかとも思ったが、どんな瞬間があるかもわからないので墓地の中や外をスナップ写真を撮りながら待つ。
 墓地の角の方にある十字架が木漏れ日にあたって、白く輝いている。その光に引き寄せられ、近寄って墓碑を見る。1970年5月9日に生まれ、翌日の10日に亡くなった赤ちゃんのお墓だ。墓碑を見て歩くと、中には生まれた日と亡くなった日が同じものもある。
 10時に15分ほど前、セレモニーの関係者と思われる方々がいらしたので写真を撮影しても構わないかと尋ねると、「ありがとう」の言葉とともに了解の返事をいただいた。
 掲揚台の近くのお墓に小さなスピーカーが置かれ、音楽が流される。退役軍人の方だろうか、ポールに星条旗と日の丸の旗をセットし、参拝者が見守る中、ゆっくりと揚げられて行く。
 代表の方がメッセージを読み上げ、掲揚台の下に花束が捧げられる。そして順番に胸に手を当て、二つの国旗の下で祈りが捧げられた。
 一時間ほどでセレモニーは終了し、2つの旗はゆっくり降ろされ綺麗に畳まれ片付けられた。今日のメモリアルデーを教えて下さった新垣辰雄さんと少しお話をさせていただいて、お昼前に墓地を後にした。
 新垣さんの写真展「泊外人墓地」の案内チラシには”ここに琉球 沖縄の歴史が眠る。”と言う一文がある。なるほど、この外人墓地に並ぶ墓碑に記された年代や名前を見て行くと沖縄の世替わりが見えて来る。
 琉球王国、廃藩置県から琉球処分による大和世、そして太平洋戦争で激しい地上戦が繰り広げられた戦世、日本の敗戦によりアメリカ軍政下に置かれたアメリカ世、そして1972年の日本復帰。この繰り替えされる世替わりは沖縄に様々な矛盾を生んだはずで、そんな事を想像させ思いを馳せさせる写真展だった。写真も素晴らしかったが、案内のチラシに書かれた文章や会場で配られた4ページの資料も、この外人墓地の歴史を丁寧に紹介する貴重なものだった。この写真展が一回ではなく、巡回展となれば良いと思うのだけれど。
 部屋に戻り、バスタブに張ってあった水で手を洗う。ウインナーと鮭を焼いて、昨晩の残りの味噌汁でご飯を食べる。朝早く起きたので布団にゴロンと横になる。水道の配管工事で使っているドリルだろうか、屋上でガガガガガと何かを削るような大きな音。窓と玄関を開け、扇風機を回し、工事の騒音を聞きながら昼寝をする。
  梅雨の中休み。那覇は一日快晴だったが、今日九州・四国・中国が梅雨入りした。写真はメモリアルデーのセレモニーにて。 
*2013年5月30日のPhoto Diaryはこちら。(メモリアルデーから数日経った泊外人墓地)
*2013年6月2日のPhoto Diaryはこちら
6月2日のスナップ。福州園にある東屋の天井

↑梅雨どこ?那覇は今日も快晴の真夏日。まあ、天気予報によれば梅雨の中休みも今日までで、明日からは梅雨らしい天気に戻るそう。
 県立図書館の本の返却期限は明日だけれど、雨の降る中を自転車で返しに行くのも嫌なので、晴れている今日の内に返して来た。 
 読み終えた2冊を返し、読み切れなかった1冊を延長してもらい、新たに2冊借りた。
 県立図書館から、歩行者天国になっている国際通り、県庁前を通り若狭方面へ。しょっちゅう前を通るが入った事のなかった福州園へ。福州園は那覇市と中国福州市の友好都市締結10周年と、那覇市制施行70周年の記念事業として1992年に造られた中国式の庭園だそうです。池があり築山があり起伏にとんだ庭園です。入場無料なので、涼みに寄ってもいいですね。   
 家に帰り、昼にスーパーで買った沖縄そばとコロッケで晩ご飯。夜になって、激しい雨が降り出した。久しぶりにビールの缶を開けた。
 昨日、6月1日は写真の日だったそうです。毎日のように写真を撮っているのに、昨日は部屋で本を読んでいて一枚も写真を撮らなかった。こんな事もある。

「東松照明と沖縄 太陽へのラブレター」から。
 写真は、選択の連鎖で成り立つメディアアートである。
 カメラとレンズを、感光材料を選ぶ。 
 被写体を選択する。広がる空間の部分を選んで切り取る。日時を定め、光や風を選ぶ。対象との距離を選び、アングルを選ぶ。そしてシャッターチャンスを選ぶ。
 コンタクトプリントから数点選んで引き伸ばし、更にその中から一点を選んで、展示作品ができあがる。
 写真家は、医師のように治療せず、学者のように分析もせず、神父のように支えない。落語家のように笑わせもせず、歌手のように酔わせない。ただひたすら見るだけ。見ることと選ぶことに終始するのが写真家である。(西日本新聞『時を削る』東松照明の60年 2010.7.5より)

「感性のバケモノになりたい/十文字美信」から。
 僕が写真を好きな理由は、一度シャッターを切ったら、二度と同じ写真は撮れないからだ。撮り直しは出来ないのだ。したがって、恥ずかしくても前を向いていくしかない。

「植草甚一主義」から。
 植草さんはコレクターである。何の?と聞かれると困るけれども。植草甚一の人生、人間がコレクションで構築されているのである。植草甚一の目に触れると、ただの石が宝石になってしまうのだ。写真家というものの資質のひとつがコレクターだと、ぼくは思っているのだが、その考えでいけば、植草さんは、もっとも写真家に向いているのではないだろうか。ただ、ありがたいことに、このライバルは、他に多くの楽しみを知っており、写真は軽くやっておられることが幸いであった。けれども、そうはいかなくなってしまったらしい。というのも、昨日、ロボットと称する最新カメラをたずさえてニューヨークへ出かけていったからだ。ああ。  ~「ライバルはニューヨークへ」浅井慎平~
 写真は福州園にある東屋の天井。見事な装飾が施されている。

11月17日(水)

 昨日、今日は秋晴れの良い天気。昨日は買い物前に2時間ほど小矢部川の土手を自転車で走って来た。
小矢部川
 先日、岸防衛大臣が日本の人工衛星に対する妨害行為を監視する第2宇宙作戦隊という浮世離れした名前の部隊を新設すると表明したが、日本最西端の島・与那国島にはかつて宇宙放送社があったらしい。らしいというのは痕跡しか見ていないから。
 2014年の1月、与那国島最大の祭祀であるマチリを撮影に行った時に、この宇宙放送社のプレートを見つけた。建物の入り口上部に建設会社の名前が書いてあるが、その下に小さく宇宙放送社という文字が見える。沖縄では台風対策か、看板は付けずに建物に直接店名などを書いていることが多い。お店が代替わりして店名が変わると、前の店名を塗りつぶして書き換える。それが風雨にさらされて剥げていくと、何代にも渡った店名の跡が地層のように表出する。
 建設会社の名前の上に、<冷蔵庫 洗濯機 ステレオ>の文字も見える。宇宙放送社は電気屋さんがやっていたのかも知れない。
宇宙放送社01
 さて、この宇宙放送社の建物。検索してみると全体を白く塗られ、「てんだ花」というカフェとして営業しているようだ。
 それにしても宇宙放送社、どんな放送を流していたのだろうか。ネットの書き込みには、まだ本土からテレビ中継がなかった頃、台湾から電波を捉えて与那国島内で放送していたという話もあるが、名前の由来と共に気になる。
宇宙放送社02

 先の衆院選で当選した新人と元職が、実質1日しか活動していない10月も月額100万円の文書通信費を満額支給されたことが問題となっている。今後は議員歳費と同じように日割りでの支給も検討されているようだが、そもそも文書通信費(正式には文書通信交通滞在費)とは、通信費や交通費、滞在費など政治活動を行う際の経費だろう。それが一律毎月100万円と決まっており、尚且つ領収書の添付義務や使途報告義務もないというのは国民感覚からは相当にズレている。
 フリーランスで仕事をしていると、毎年確定申告で必要経費を申告する。文書通信費も領収書を添付して、使った額を国から貰うようにすればどうか。

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 Photo Diaryを更新。
*2013年5月5日のPhoto Diaryはこちら
5月5日のスナップ。本バーリー
↑ちょっと疲れが溜まっているので、今日はゆっくり。選り取り5個500円のパンを買ってきて昼ご飯に3個食べる。
 14時半頃に家を出て、那覇ハーリー会場へ自転車で向かう。最終日の今日は御願バーリーと本バーリーがある。会場に着いた時は、一般のハーリー競争の後半。それが終わって、メインステージでは与論島出身のシンガー・川畑アキラさんのライヴ。
 30分のライヴの後、一般の部の決勝戦があり、16時30分からいよいよ御願バーリーが始まった。古式に則った衣装を身に着け、泊、那覇、久米のチームが順番に湾内に出て、ハーリー歌を唄いながら回遊する。その後、3隻による本バーリー。今年は7年ぶりに那覇が勝ったそうだ。
 イヴェントはまだまだ続くが、今日は早めに寝ようと帰宅。魚市場の前に出店している天ぷら屋で揚げたてのイカの天ぷらを2つ購入。
  帰りの途中にある那覇ハーリー会館に人が入って行くのが何だか気になってついて行くと、泊港に大型のクレーンが設置されて爬龍船の吊り上げ作業が行われていた。
 近くの人に聞くと、今吊り上げているのは予備で用意していた1隻で、これから競争で使われた爬龍船が戻って来るというので見させてもらう。しばらく待つと鉦を鳴らしながら1隻ずつ船が戻ってきた。順番にクレーンで吊り上げられ、龍の尻尾が外されて大きな倉庫に入れられた。爬龍船を仕舞ってあるこのハーリー会館は建て替えられるそうで、写真に撮っておいた方がいいですよと薦められる。
 2時間ほど作業を見てから、自転車で5分程の家に帰る。撮影したデータをバックアップして、昼に買ったパンと、ウインナー、キャベツで晩ご飯。写真は本バーリーの様子。
*2013年5月6日のPhoto Diaryはこちら
5月6日のスナップ。波止場食堂のカツ丼
↑5日、6日の2日間使える路線バス乗り放題チケット。昨日はバスに乗らなかったので、今日は思い切り遠出。沖縄本島最北端の辺戸岬行きを決行。
 7時28分に最寄りのバス停を出る名護西線は、2分程遅れてやってきた。終点の名護バスターミナルまで行くので乗り過ごしの心配はない、外を眺めながら時々ウトウト。
 名護BTで路線バスの北の終点、辺土名行きに乗り換える。次の辺土名行きは、10時に名護BTを出る。バスに遅れが出なければ、名護BTに9時50分に着く一つ遅い名護西線で来てもよかったが、こればかりは道路状況がわからないので難しい。
 30分程ターミナルで待って、辺土名線に乗車。やはり乗り放題チケットを持っている乗客が多い。
 海岸線の横を走って、およそ1時間弱で終点の辺土名バスターミナルに到着。以前はここから国道58号の始点でもある奥集落まで路線バスが走っていたそうだが、現在は辺土名から奥までは国頭村の村営バスが運行している。
  辺土名BTから村営バスの発着場のある一つ名護寄りの辺土名バス停まで、写真を撮りながら散歩気分で戻る。
 奥行きの村営バスは11時30分に出た。終点の奥まで乗って、辺戸岬まで歩いて戻ろうかと思ったが、運転手さんに聞くと7キロの山道だと言われて諦めた。奥は、また別の機会にチャレンジだ。
 40分程で辺戸岬に到着。乗って来たバスが13時44分に辺戸岬に戻って来るので、それまで岬を観光。天気予報は曇りだったが、徐々に天気は上向きになり青空も見えてきた。それでも海上は靄がかかって真っ白で、先にあるだろう与論島の島影がまるで見えない。
 先月、鹿児島県の最南端である与論島から沖縄の最北端を撮影したので、今日は反対に沖縄の最北端から鹿児島の最南端を撮影しようと思っていたのに、残念だ。
 時間通りに、終点の奥まで行って戻ってきたバスが辺戸岬に到着。乗客の顔ぶれは、行きのバスと同じだ。辺土名のバス停で降りて、歩いて3分程の波止場食堂へ。波止場食堂のカツ丼を食べるのも、今日の旅の目的の一つ。
 店内に入ると子供連れの3人家族、おじさんとおばさんの3人組がテーブルで食べている最中。みんなテーブルの上に、オカズやご飯を詰めた持ち帰り用のプラ容器を並べている。
 厨房にいるおばさんに声をかけてカツ丼を注文し、3つあるテーブルの空いている1つに座って出来上がりを待つ。ほんの少し先にお店に入って注文したご夫婦は、外の海に面したテラスに座っている。 料理を作っているのはおばさん一人のようなので、時間がかかるかな?と思ったが案外早くに出て来た。噂通りの大盛り。カツが丼の上にも横にもはみ出している。はみ出している事に気を取られて、最初は気づかなかったが、丼自体もそうとうにデカい。最初から三分の一位は持ち帰るつもりでいたが、結果、半分以上プラ容器に入れて持ち帰った。ちなみにプラ容器は、厨房のカウンター横に積んである。
 大盛りご飯の上に、甘辛く炒めた野菜とトンカツを卵でとじた具が乗っている。あじくーたーです。
 食べ終わった食器をトレーごと厨房に返しに行き、カツ丼の代金600円を支払い「カツ、2枚は乗っているでしょう〜」とおばさんに声をかけると、してやったりという感じでニコニコ笑いながら「二枚半」と答えてくれた。
 すっかりお腹もふくれたので、那覇へ帰る。まずは、辺土名バス停から名護BTへ。 辺土名バス停は始発となる辺土名BTの一つ名護よりのバス停。歩いて5分程の距離で、バス時刻では1分しか違わない。15時30分に辺土名BT、31分に辺土名だが、時間をだいぶ過ぎてもバスが来ない。心配になった頃、村営バスに続いてやって来た。村営バスが遅れて待ち合わせていたのだろうか。
 名護BTに着いた時には、16時30分の名護西線は出てしまっていた。 30分待って17時のバスで那覇に向かう。ゴールデンウイークの最終日で車が多い。読谷村の辺りでは、渋滞にも巻き込まれた。けっきょく最寄り駅に着いたのは時刻表より30分以上遅れた19時40分過ぎだった。
 撮影した写真データをバックアップし、さんぴん茶を沸かして、お持ち帰りにしたカツ丼を食べる。冷めたカツ丼は、ご飯に味がしみていて、これはこれで美味しい。少し時間をかけて格闘して、ようやくカツ丼を食べ終えた。写真は波止場食堂のカツ丼。
*2013年5月7日のPhoto Diaryはこちら。(サンエーのお買い物券、3パック1,000円、肉じゃが)
*2013年5月10日のPhoto Diaryはこちら。(S&Bスリランカ風キーマカレー)
*2013年5月13日のPhoto Diaryはこちら。(雨の後の夕暮れの那覇市内)
*2013年5月15日のPhoto Diaryはこちら。(前日に梅雨入りした那覇市内)
*2013年5月17日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダからの雨の那覇市内、サラダスパ?)
*2013年5月18日のPhoto Diaryはこちら
5月18日のスナップ。バスの落書き
↑18日は名護西線の始発のバスに乗り、終点の名護バスターミナルへ。名護BTで本部半島線の今帰仁廻りに乗り換えて、今帰仁城跡入口で下車。時刻表より少し遅れて、バス停に着いたのは9時3分くらいだったろうか。
 今日から今帰仁村歴史文化センターで第21期の「山原のムラ・シマ講座」が始まる。1回目の今日は、センターに9時に集合。今帰仁城跡入口から今帰仁城跡の隣りにある歴史文化センターまでは、緩やかな坂道を1キロほど歩かなくては行けない。とりあえず電話でバス停からセンターに向かっている事を伝え、汗をかきながら緩い坂を上る。
 講座は9時集合の回と、9時30分集合の回がある。那覇からバスで今帰仁に来る場合、始発の名護西線に乗れば名護BTには7時44分に着く。けれど今帰仁城跡に行く本部半島線の乗り継ぎが悪く、8時20分までバスが無い。8時20分のバスに乗って、今帰仁城跡入口が9時1分。そこから坂を歩いて行くと10分以上はかかる。
 講座の受講申し込み時にバスの事情を話し、9時からの場合多少集合時間に遅れるだろうことを伝えたが「大丈夫ですよ」という優しい返事と共に受講を受け付けてもらった。ありがたい。
 この「山原のムラ・シマ講座」は奄美大島の名瀬に住んでいた時から知っていた。加計呂麻島の集落に残っているアシャゲやトネヤを撮影してまわっていた時に、今帰仁歴史文化センターのホームページにある奄美加計呂麻島(東方)、奄美加計呂麻島(西方)という調査報告を見つけ、撮影の参考にさせてもらっていた。そしてムラ・シマ講座の存在も知り、沖縄に引っ越したら受講してみたいと思っていた。
 遅れてセンター2階の会場に入ると、今日これから行く名護市の東海岸にある汀間集落の説明を館長さんがされている最中だった。入口で貰った資料を見ながら説明を聞き、その後バスで移動。館長さんが自らバスの運転をされたので、驚いた。
 羽地ダムの横を通り、東海岸に抜けて汀間に着いたのは10時半頃だった。
 *スクミチ=シュクミチ=宿道。 *シルヒラシ墓=仮墓。本墓(ト-シー)と仮墓(シルヒラシ)があるのは、死去するとまず仮墓に葬られ、その後に洗骨をして本墓内に安置するから。 *アジ墓=アジシーのこと。各門中の当世墓に対するもので、遠い先祖を祀った墓とされる。また、アジ(按司)を葬った墓ともされる。横穴式で正面を石垣積みにした古墓が多い。その他、南島のお墓については以前こちらにメモをした。
 館長さんや集落出身の方の説明を聞きながら2時間ほど見て廻り、今日の講座は修了。バスで歴史文化センターに戻り、解散となった。
 坂を降りて、30分ほど今泊集落を散歩してから、バスで名護BTへ。数日前に琉球・那覇バスで使える土日祝1日限定フリー乗車券を購入しておいたので、遠回りになるが来た時と同じ14時16分の今帰仁廻りのバスに乗車。これで本部半島を一周できた。
 せっかく1日フリー乗車券があるので、名護BTから名護東線に乗り換えて辺野古か金武かコザで降りて散歩しようと思っていたら、名護東線は沖縄バスが運行していてフリー乗車券が使えない事が判明。お腹も空いたのでバスターミナルの食堂でとうふチャンプルー500円を食べながら、時刻表を見てアレコレ考える。
  フリー乗車券で名護からコザに行くには名護西線で嘉手納に行き、62番の中部線に乗り換えとなる。別にコザに特別な用事があるわけでもないので、名護西線に乗り嘉手納で降りて町歩きをする事にした。
 名護BTを16時30分に出る名護西線に乗車。1時間15分ほどで嘉手納に到着。自転車で国道58号沿いの嘉手納基地まで来た事は2度あるが、嘉手納ロータリー周辺の町中を歩くのは初めてだ。
 1時間ほど嘉手納の町を散策し、バス停に戻って那覇行きのバスを待つ。名護西線ではなく、読谷BTと那覇BTを結ぶ読谷線が先に来たので乗車。20時少し前に、最寄りのバス停に着いた。写真は帰りのバスの車内にあった落書き。なんだか微笑ましい。

11月15日(月)

 曇りで一時小雨も降ったのでサイクリングはやめて、午後にCD1枚分だけ電子ドラムを叩く。自転車とドラムしか運動していないが、CD1枚分で携帯電話アプリの歩数計で4,500歩ほどになる。基本、手と足の運動だが、今日は叩きながら体を左右に動かして捻りの運動を加えてみた(笑)。

パソコンの受信メール

 先月、2ヶ月弱開いていなかったMacBook Proのメールに566件たまっていたと書いたが、今日は春から半年ほど開いていなかった初代iMacのメールを開いたら、1878件溜まっていた。もちろんほとんどが迷惑メール。
 たぶん一年ほど開いていないMacBookには、どれくらいのメールが溜まっているのだろうか。

 昨日は沖縄のジミーに注文したケーキが届いたが、今日は『ジョージ・ハリスン スワンプ・ロック時代』という本が出版社から送られてきた。スコットランド出身のシンガーソングライター、ドノヴァンが語るビートルズなどのインタビューがあり、その誌面で1997年に撮影した写真が掲載されている。ジョージ・ハリスンに関する本に関わるのは、これが2冊目。2002年に出版された『オール・シングス・アバウト・ジョージ・ハリスン』という本では、ジョージ・ハリスンの貴重本や豪華本 を紹介する物撮り、ポスターの複写や扉ページのイメージ写真などを撮影している。この本も『オール・シングス・マスト・パス』50周年記念で今年8月に復刻版が出た。
 ジョージ・ハリスンの熱心なファンではないが、通常盤の『オール・シングス・マスト・パス』は持っている。良いアルバムです。
↓掲載されたドノヴァンの写真。→献本されて来た本。発売は今月の17日。
送られて来たジョージ・ハリスンの本
再使用されたドノヴァンの写真

 柏崎刈羽原発6号機の施設の1つで、今年7月に建物を支える地中の杭が損傷しているのが見つかった。杭は8本あり、1本は杭の内部にある鉄筋が破断や変形していた他、残る7本はコンクリートのひび割れが見つかったが、東京電力は安全上問題ないと説明している。その問題ないという根拠は、何に基づいているのだろうか。相変わらずの企業体質と対応だ。原子力規制委員会は、2007年の新潟中越沖地震の影響も考えられるとして、年明けにも現地調査するなどして確認するという。
 岸防衛大臣が、日本の人工衛星に対する妨害行為を監視する「第2宇宙作戦隊』を、航空自衛隊、防府北基地に来年度中に新設することを表明した。そんな浮世離れした名前の作戦隊の前に、沖縄や奄美の海で漁や航海を妨害する軽石に対処する作戦隊を作ってくれないだろうか。与論島の白いビーチは軽石で灰色になり、伊江島などの離島を結ぶフェリーが欠航し、市民生活に大きな影響が出ている。最近は伊豆諸島にも軽石が漂着しだしたようだが、政府は東京湾に大量の軽石が押し寄せるなどしないと対策に本腰を入れないのだろうか。
 防衛省は昨日、宮古島にある陸上自衛隊駐屯地の関連施設の弾薬庫に地対艦・地対空ミサイルを含む弾薬を本格搬入した。こうして南西諸島が軍事要塞化され、既成事実化されていく。

 この他の気になった記事を備忘録として。
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星野リゾートで変わる新今宮 地元・西成で懸念の声が上がる理由
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スティーヴ・アルビニ、自身の過去の差別的な言動や表現について語る
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 Photo Diaryを更新。
*2013年4月28日のPhoto Diaryはこちら
4月28日のスナップ。『屈辱の日』沖縄大会

↑9時10分。朝作ったおにぎり、ウインナー、卵焼きをバックに入れて部屋を出る。国道58号を自転車で走り、およそ1時間程で「4・28政府式典に抗議する『屈辱の日』沖縄大会」の会場である、宜野湾市野外劇場に着いた。
 野外劇場近くのトロピカルビーチ横の駐輪場に自転車をとめて、会場に入る。11時の開場まで時間があるが、ステージではミニコンサートが行われていた。
式次第から。
司会 実行委員会常任幹事 玉城 満
★オープニング 登壇者の入場と紹介 ★テーマ曲斉唱 沖縄に返せ(演奏 よなは徹、島袋辰也) 1.開会宣言/司会 2.経過報告とカンパのお願い/実行委員会事務局長 仲村 未央 3.共同代表あいさつ/沖縄県議会議長 喜納 昌春 4.共同代表あいさつ/沖縄の平和創造と人間の尊厳回復をめざす100人委員会世話人 高良 鉄美 5.共同代表あいさつ/沖縄県女性団体連絡協議会長 伊志嶺 雅子 6.青年団あいさつ/中部地区青年団協議会 7.連帯のあいさつ/名護市長 稲嶺 進 8.連帯のあいさつ/座間味村議会議長 中村 秀克 9.沖縄戦体験者あいさつ/青春を語る会代表 中山 きく 10.連帯メッセージ紹介/実行委員会常任幹事 比嘉 京子 11.大会決議及びスローガンの提案・採択 共同代表 東條 渥子 沖縄県生活協同組合連合会長 12.カンパ及び参加者数の報告/司会 13.がってぃんならん五唱 共同代表 崎山 嗣幸・沖縄平和運動センター議長 中村 信正・連合沖縄会長 新垣 繁信・沖縄県統一連代表幹事 中村 司・沖縄県労連議長 新川 秀清・第三次嘉手納基地爆音差止訴訟原告団長 14.閉会挨拶/実行委員会常任幹事/渡久地 修

(沖縄に返せ)
固き土を破りて 民族の怒りに燃える島 沖縄よ
我等と我等の祖先が血と汗をもて 守り育てた 沖縄よ
我等は叫ぶ沖縄よ 我等のものだ沖縄は
沖縄を返せ 沖縄に返せ

 1時間強で大会は終了した。トロピカルビーチのベンチで作ってきたお弁当を食べ、自転車で家へと帰る。

 国会議員168人が靖国参拝、 87年以降で最多。日本NPTの核不使用声明に署名せず。安倍晋三首相の指示を反映し、参院選で改憲を公約の柱に。そして今日、政府は沖縄、奄美から抗議が寄せられる中「主権回復の日」の式典を開催した。いつの時代に戻ろうとしているのだろうか。
 サンフランシスコ講和条約が発効した1952年の4月28日は、沖縄や奄美、小笠原がアメリカ政権下に組み入れられ、日本から切り捨てられた『屈辱の日』であると政府の歴史認識を疑う声もアチコチから聞こえてくる。
 式典で安倍首相は、沖縄について
「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」。佐藤栄作首相の言葉です。沖縄の本土復帰は昭和47年5月15日です。日本全体の戦後が初めて本当に終わるまで、主権回復からなお20年という長い月日を要したのでありました。沖縄の人々が耐え、忍ばざるを得なかった戦中、戦後のご苦労に対し、通り一遍の言葉は意味をなしません。私は若い世代の人々に特に呼び掛けつつ、沖縄が経てきた辛苦に、ただ深く思いを寄せる努力をなすべきだということを訴えようと思います。 
 通り一遍の言葉は意味をなしません、と言いながら、まさに通り一遍の言葉しか発していない。 若い世代に沖縄が経てきた辛苦に深い思いを寄せる努力をなすべきだと訴えようと思うなら、先ず自分自身が深く思いを寄せてみたらどうか。沖縄の本土復帰は主権回復からなお20年を要したと言うが、そもそも在日米軍が日本で犯罪を起こしても日本の警察が調査、逮捕が出来ない日米地位協定が続いていて主権が回復していると言えるのか。歴史認識、現状認識の欠如としか思えない。
 閣僚の靖国参拝を批判された事に対し安倍首相は「(中国、韓国から)靖国の英霊に冥福を祈ることを批判されても痛痒を感じず“おかしい”と思わないのはおかしい」と述べたそうだが、A級戦犯の合祀問題はどうなったのだろうか。何年も前から取り上げられていながら、議論が進んでいないように思う。
 高市早苗・自民党政調会長は、真に独立した主権国家たる私たちのプライド、未来への責任を大切に共有しながら新しい日本国憲法を私たちの手で、日本人の心によって書き上げていくと述べたそうだが、 真に独立した主権国家というなら、先ずは憲法改正の前に日米地位協定の見直しをするべきだろう。

 琉球新報のweb記事。また、奄美大島でも主権回復式典に抗議する集会が開かれた。青木理が語る『主権回復の日と憲法改正。安倍政権の矛盾。』。写真は「4・28政府式典に抗議する『屈辱の日』沖縄大会」の会場。

*2013年4月29日のPhoto Diaryはこちら。(取り壊し中の神里原社交街)
*2013年5月2日のPhoto Diaryはこちら。(泡盛・夢航海、那覇ハーリーの会場となる那覇新港)
*2013年5月3日のPhoto Diaryはこちら
5月3日のスナップ。那覇ハーリーのライブ会場
↑今日から那覇ハーリー。朝9時半過ぎに部屋を出て、会場となる那覇新港に歩いて行くと、開会式の真っ最中。翁長那覇市長の挨拶の途中だった。来賓の挨拶が続いた後、テープカットが行われハーリー大会が始まった。まずは中学男子の部から。
 しばらくハーリーを見てから、会場のメインステージで行われている創作エイサーや、南風原高校の郷土芸能、サブステージの相撲大会を見学。
 中学男子の部が終わり、中学女子のハーリーを2回戦ほど見てから一旦家へ帰る。少し部屋で休んで、最寄りのバス停から泡瀬西線に乗り、泡瀬干潟に向かう。コザを過ぎて運転手さんに泡瀬干潟に一番近いバス停を尋ねたところ、泡瀬三区入口だというので、そこで降ろしてもらう。
 バスを降り、運転手さんに聞いた道を歩き、途中地元の女の子に道を尋ねてようやく干潟に到着。干潟の先端で潮干狩りをしている家族が一組、海の中に入って釣りをしている人が一人。米軍施設を囲む散歩道を歩き、泡瀬の町中を少し散歩してバス停に戻る。
 16時54分の那覇行きのバスに乗り、家の最寄り駅で降りて再び那覇ハーリーの会場へ。19時からメインステージで行われる下地 勇さんのミニライヴを観に行く。30分程早く着いたら前から2列目の椅子が空いていた。近くの人から焼酎を貰い、ライヴの始まりを待つ。
 横に居た宮古出身という男性はだいたい解ると言うが、僕にはミャークフツ(宮古島の言葉)で歌われる歌詞の意味は、ほとんど理解できなかった。
 下地 勇さんのライヴを観たら帰る予定だったが、次の新良幸人さん率いるパーシャクラブのライヴも堪能。20時半過ぎにライヴが終了し、会場を出たところで花火が上がった。
 昼に自分で作ったおにぎりとウインナー、卵焼きを食べただけなので、すっかりお腹が空いた。近所にありながら入った事のない軽食の店ルビーへ。480円のステーキ丼を食べる。
 YouTubeから「希望を注げ/下地 勇」。オリオンビールのCMソングなので、ヤマトンチュにも分かり易い言葉で歌われています。写真は那覇ハーリーのライブ会場。
*2013年5月4日のPhoto Diaryはこちら
5月4日のスナップ。奥武島の海でブタメンを食べる女子
↑4日は日清の焼きそばを食べてから、11時半頃に家を出て自転車で那覇バスターミナルへ。2日間路線バス乗り放題のチケットを使い、今日は南城市の奥武島(おうじま)へ。
 奥武島へは琉球バスが運行しているが、行きのバスは奥武島にある奥武というバス停に止まるが、帰りのバスはどれも奥武にはとまらない。琉球バスの事務所で尋ねたところ、行きは53番の志喜屋線に乗り、帰りは奥武島から橋を歩いて渡り奥武入口のバス停から50番の百名線で那覇に戻れると言う。志喜屋線、百名線の時刻表のコピーと、平成25年度のバス運行時刻表をいただいた。
 11番乗り場から、12時13分発の志喜屋線で奥武島へ。途中、アチコチで空を泳ぐ大漁の鯉を見た。明日は子供の日か。1時間弱で島に到着。バス停を降りると、大勢の観光客で賑わっていた。
 本島南部にある奥武島は、海岸線が1.7キロ、人口が1000人程の小さな島。あいにくの曇り空でしたが風もあり、散歩するには気持ちのいい天気。島の中心をまわる大きな道を一周し、集落の中の路地を歩き、龍宮神や観音堂を見て来た。
  観音堂の後ろに広がる小さな杜は、御嶽だろうか。大きな岩に気根を絡ませた巨大なガジュマル。その根元には石が並べられ、拝所になっているようだ。その佇まいが美しい。
 奥武島の天ぷらは有名なようで、3軒あるお店はどこも大繁盛のようだ。
 3時間ほど島散歩を楽しんで、那覇へ帰るために奥武入口のバス停まで歩く。橋を渡り坂道を上りテクテクと歩き、大きな信号のある交差点を左に曲がる。入口と言いながら奥武島からは少し離れていますね。
 16時4分の百名線に乗り、1時間強で那覇バスターミナルに着いた。お腹が空いたのでバスターミナル2階の食堂に行くが、お休みなのか休憩時間なのかドアが閉まっていたので、久しぶりに若狭の高良食堂へ。魚フライ、ソバ付き600円を注文。大きな魚フライに混じってサービスなのか、天ぷらがひとつお皿に乗っている。以前、うな丼を注文してうなぎの下に天ぷらが一つ隠れていたので、もう驚かない。
 高良食堂を出て、那覇ハーリーの会場へ。19時からmanamiさん、19時40分からのディアマンテスのライヴを観る。ライヴ終了後は、昨日に続いて花火。3日連続で打ち上がるらしい。今日はゆっくり座って観てから、家へと帰った。
 YouTubeから「ファンファーレ/manami」「勝利のうた/ディアマンテス」。写真は奥武島の海に浸かりながらブタメンを食べる女子。美味しそうだ(笑)。

11月10日(水)

 今日は朝から土砂降りの雨。Facebookに流れてきた書き込みで、アラン・トゥーサンの命日なのを知る。亡くなって6年が経つ。YouTubeから「Allen Toussaint/Southern Night」。
 衆院選を受けた第206回特別国会が召集され、衆参両院の本会議で行われた指名選挙の結果、岸田文雄・自民党総裁が第101代首相に選出された。皇居での首相任命式と閣僚承認式を経て、今夜にも第2次岸田政権が発足する。
 岸田首相と公明党の山口代表が新型コロナの経済対策を巡って会談し、年収960万円の所得制限を設けた上で18歳以下の子供への10万円相当の給付をすることで合意した。新型コロナにより困窮している人に、年齢は関係ないように思うが。また、10万円ではなく10万円相当というのは、年内に現金で5万円を給付し、来春までに子育て関連に使える5万円相当のクーポンを支給するそうだ。政府は現金で渡すことを頑なに拒んでいるようにも見えるが、実際に貰う方からすれば商品券やらクーポン券は使い難い。それにクーポンを印刷して配るコストだって必要になる。いっそそんなにクーポンが好きなら、税金の半分も使途限定のクーポンで納めさせてくれないだろうか。
 介護保険料が払えず預貯金や不動産を差し押さえられた65歳以上の高齢者が増えたという。保険料の滞納で貯金や土地が差し押さえられるって、なんのための保険料だろうか。本末転倒だろう。
 下は一昨日のヤフーの画面。<『空白の時代』知る手掛かりに 沖縄・うるま市の洞穴で約1万円前の人骨発見>。1万円は1万年の誤植だが、しばらくこのままになっていた。ネットの記事には誤字脱字が多いけれど、タイトルでここまでの間違いは珍しい。
間違ったニュースの見出し
 この他の気になった記事を備忘録として。
軽石漂着、30市町村に 漁船100隻エンジン異常、出漁自粛は1206隻
金品受領問題で告発された関西電力元役員らを不起訴 大阪地検特捜部
 下の写真は宮古島の平良市で撮影した。森のように見える建物、2013年9月に訪れた時は麻姑山書房という古書店だったが、グーグルマップのストリートビューで確認すると2015年の時点で取り壊されて更地になっていた。
麻姑山書房

 麻姑山書房は那覇市古島に引っ越したようだが、相変わらず入りにくそうな店構えになっている(笑)。

 今月から来月にかけて家族の誕生日が続くので、今年も沖縄の洋菓子店ジミーのオンラインショップにケーキを注文した。2年前は1,490円だったジャーマンケーキのホールは1,540円に、同じく1,490円だったアップルパイのホールは1,590円に値上がりしていた。また、今年は食べたことのないクランブルチーズケーキというのも注文してみた。こちらは小さそうなので2つ。配送料は1,450円で、2年前の1,100円から大幅に値上がりしている。

 Photo Diaryを更新。
*2013年4月10日のPhoto Diaryはこちら。(『多良間島の八月踊り』の複写。不思議な発音)
*2013年4月13日のPhoto Diaryはこちら
4月13日のスナップ。お供えのシンムイ作り
↑昨日は旧暦の3月3日で、各地で浜下りの行事が行われたが、旧の3月4日は那覇の鏡水地区で三月あしびの催しがある。
 早めに起きて、撮影の準備をしていると淡路を震源とする地震のニュース。被災地の状況が気になるが、6時半過ぎに部屋を出て、三月あしびが行われる鏡水ふれあい会館に自転車で向かう。
 鏡水地区は旧日本海軍により接収されて小禄飛行場(現那覇空港)となったため、現在民間住宅はない。それでも様々な地区に分かれて暮らしている嘗ての鏡水地区の人達が集まり、この伝統行事のサングヮチー(三月あしび)を守っている。 家事や農作業に追われる女性達が、この日だけは仕事から解放されて歌や踊りを楽しむ。 
 歌と踊りは午後3時からふれあい会館で行われるが、その前に鏡水地区の拝所をまわる御願があり、その御願の際に供えられるシンムイ作りが朝7時頃から始まるというので、その製作過程も見せていただく。
 7時過ぎに会館に着くと、すでに調理室で作業が始まっていた。
 シンムイは、北谷の旧桑江の伝統行事ニングヮチャーで作られているのをテレビのローカルニュースや新聞のweb記事で見て撮影したいと思っていた。お盆に豚肉やカマボコ、豆腐、天ぷらなどを積み重ねていくもので、鏡水地区のシンムイも嘗てはそのようだったが、今はお菓子やゆで卵が美しく盛られている。
 シンムイが完成した後、ふれあい会館の入口横にある拝所で御願をし、その後近くの井戸まで歩き御願。会館に戻って昼食を食べてから、大型バスに乗って陸上自衛隊基地の中にある鏡水地区の拝所・ミーヌシンへ。
 自衛隊の広報の方が見守る中、拝所にてシンムイやお線香などを供えて御願をし、その後順番に2つあるシンムイを頭に乗せてカチャーシーが踊られた。
 ミーヌシンの後は、鏡水地区の祖先神が祀られた元家(日程表には大平良とある)で御願。次に歩いて御嶽公園(日程表には鏡水ウタキ)で御願と踊りを奉納して、ふれあい会館へ戻った。
 シンムイ作りから拝所での御願が済んで、いよいよサングヮチーの始まり。最初に来場者にシンムイの披露が行われ、挨拶の後に各班や会による演目が行われた。
 プログラムから。
1.かぎやで風/役員 2.あしびかりゆし/しみず会 3.エイサー/鏡鼓会 4.初春の踊り/3・4班 5.秋の踊り/華昌代の会 6.安里屋ユンタ・安波節/鏡原1・2班 7.みやらび貫花/3・4班 8.会いたかった/5・6班 9.うたやびら(カラオケ)/会場全員 10.マイム マイム/1・2・7班 11.ヒップ ホップ/児童 12.海のチンボーラー/琉舞サークル 13.カチャーシー/会場全員
 午後3時を少しまわって始まったサングヮチーは、5時半近くに終了。
 先月、桑名晴子さんと来沖したヘッケル&越中のお二人が昨日から那覇に来ているので、宿泊先のホテルへ。中華料理店で晩ご飯を食べて、若狭のライヴハウスでヘッケルさんの友人がやっているGS、昭和歌謡のバンドを見て帰る。写真はお供え物のシンムイ作り。
*2013年4月16日のPhoto Diaryはこちら。(ベランダからの雨の那覇市内)
*2013年4月19日のPhoto Diaryはこちら。(ゴールデンウイークのフリー乗車券、久高島の年中行事)
*2013年4月20日のPhoto Diaryはこちら。(借りてきた本)
*2013年4月23日のPhoto Diaryはこちら。(キロ弁)
*2013年4月24日のPhoto Diaryはこちら
4月24日のスナップ。与論十五夜踊り

↑24日は、朝5時半頃に部屋を出る。途中、コンビニでカップ麺を一つ買って那覇港へ。港の駐輪場に自転車を置き、6時に窓口の開くのを待合所で待つ。
 今日は与論島の十五夜踊りを観に行く。那覇と鹿児島を結ぶ航路は、マルエーフェリーとマリックスラインが交互に運行しているが、今日はマルエーフェリーのフェリーあけぼのが那覇から出航する。
 6時少し前にチケットの窓口が開いた。前の人が往復切符を買ったので、いくら安くなるのか係の人に尋ねたところ帰りの運賃が1割引で、発売から2週間有効だというので往復を購入。
 6時半から乗船が始まり、7時に那覇港を出港。曇り空なのと少し眠いので甲板に出る事もなく船内のロビーで横になって過ごし、コンビニで買って来たカップ麺と船内の売店で買った100円のワカメおにぎりで朝ご飯にする。
  那覇から与論島まで4時間50分。ほぼ定刻に入港したフェリーを降りると、今晩宿泊する宿のご主人が宿の名前を書いた大きなカードを持って待っていて下さった。さっそく乗車して宿へ向かうが、気を利かせて十五夜踊りが行われる地主神社(とこぬしじんじゃ)を通って下さった。
 宿の食堂でお茶とお菓子をいただき、部屋で少し休んでから地主神社へ歩いて行く。途中、初代与論主「花城真三郎」・二代「殿内与論主」・七代「田畠首里主」の三柱が葬られている琉球式の磯振墓(イシュブリ墓)にも寄ったが、30分ほどで会場に着いた。
 十五夜踊りは神事が15時から始まり、その後に踊りが奉納される。14時半に会場に居れば良いかと思ったが、何かあるかもしれないと14時頃に到着したら、やはりあった。会場となる地主神社・琴平神社の下にある広場近くに建つ与論十五夜踊保存館の二番組の館で、二番組の神事が行われていた。暫く見学してからタイミングをみて撮影してもいいですかと尋ねてみたら、許可が出た。
 神事の後、保存館の庭に立てられていた嶋中安穏と書かれた大旗を外し、二番組の踊り手達が担いで参道を通り、鳥居をくぐって会場入りとなった。一番組は既に会場入りして、二番組の登場を待っていた。
 大旗が二番組の支度場所(サークラ)の横に立てられ、地主神社で神官による神事が行われた。
「与論島の芸能 与論十五夜踊り」と題された資料を役場の方からいただいたので、そのまま引用。
 奄美諸島の最南端、沖縄本島のすぐ北に位置する与論島。この小さな島に脈々と伝えられた「与論十五夜踊り」は、「嶋中安穏・五穀豊穣」を祈る祭事として、旧暦三月・八月・十月の十五夜に神前に奉納される芸能です。
 伝説によると踊りの起源は永禄四(一五六一)年、当時の与論領主が三人の息子を島内・琉球・大和に遣わして各地の芸能を学ばせ、一つの芸能にまとめあげたものといわれています。 この言い伝えを裏付けるように、十五夜踊りには各地の芸能の特色が混じりあって残っており、文化交流の歴史を偲ばせる非常に珍しい芸能です。国の重要無形民俗文化財に指定されています。
 踊り手は「一番組」と「二番組」に分かれ、双方が交互に踊りを奉納していきます。「一番組」は寸劇仕立ての踊りを見せます。ただしせりふはすべて与論の古い方言で、竹と紙で作った大きな仮面を用いるのが特徴です。特に英雄役がかぶる巨大な面は衝撃的な造形です。一方の「二番組」は集団で手踊り・扇踊りを見せます。恋や自然を謳いあげた唄は優雅で美しく、こちらは「シュパ」という頭巾をかぶって踊ります。一番組・二番組とも踊り手は男性のみの世襲でうけつがれています。
 明治時代に数年間踊りを中断したところ、疫病・天災が続いたので復活。その後は現在まで途切れることなく続いており、十五夜踊りはまさに神への祈りとして生き続けているのです。

 地主神社の神事の後、神社から配られたお餅をいただく。関係者の挨拶があり、16時を過ぎて演目が始まった。以下、演目の名前と組。*各演目の詳細はこちらが詳しい。
○雨賜り(あみたぼうり・扇踊り) 二番組・一番組合同
○一度いふて(いちどいうて・扇踊り) 二番組
○三者囃子(さんばすう) 一番組
○この庭(このにわ・扇踊り) 二番組
○頼朝公(よりともこう) 一番組
○今日のふくらしゃ(きゆぬふくらしゃ・手踊り) 二番組
○大熊川(おおくまがわ) 一番組
○君様(きみさま・扇踊り) 二番組
○長刀(なぎなた) 一番組
○六十節(ろくじゅうぶし) 一番組

 他にも「二十四孝」「町奉行」「獅子舞」「沖泊り」という演目もあるようだ。また、今日は演目の順番が変更になった。
 いただいた資料に[禁忌と斎戒]という項目がある。
1.風雨にかかわらず、少なくとも「雨たぼり」の踊りだけは行う。
2.大旗と太鼓は、城字内と朝戸字の上部落以外に移してはいけない。
3.大旗が折れたり倒れたりした場合は、倒れた方向の地域に災害が起こる。
4.座元の家に出産があったり、死者が出た時は不浄なため、一時他の踊り子の家に大旗と太鼓を移して泰安せねばならない。
5.踊り子のうちで、踊りの前15日以内に死亡や出産があった者は出演できない。
6.この踊りに関係する人は、15日前から斎戒をし、出産・死亡・火災等の所に出ること、夫婦関係を持つことは禁じられている。
7. 踊りの3日前からは牛馬の綱を握ったり、肥料を扱ったりしてはいけない。踊りに出る途中牛馬や山羊のつなぎ縄をまたぐことも禁じられている。

 これらの事に関係あるのかもしれない。
 雨乞いの踊りの後、しばらくして急に風が強くなり激しい雨が降って驚いた。雨対策に合羽と傘も用意していたが、やがて雨は止んで無事に予定の演目が奉納された。
 最後の演目である六十節から、二番組・一番組の踊り手に一般の参加者 も加わってカチャーシーが踊られて締めくくられる。奄美の締めは6調が踊られるのが普通なので、奄美群島とは言え与論は琉球文化の色濃い島だと思わされる。
 全員で万歳三唱が行われ、二番組が嶋中安穏の大旗をおろして鳥居をくぐり保存館に戻って行った。続いて一番組が拍手で見送られながら鳥居をくぐる。19時近く、すっかり空も暗くなってきた。
 二番組の館で町の関係者が揃って神事が行われているのを暫く眺めてから、宿へと帰る。
 シャワーを浴びてから、宿のゆんたく処でご主人と与論の黒糖焼酎・有泉を呑みながらゆんたく。名瀬に居た時に有泉を探したがなかったとご主人に言ったら、与論で消費されてほとんど島外には出回らないらしい。 シーズンオフの今は観光客が少ないようで、今日は貸し切りだ。23時頃まで呑んでいただろうか。一応、最後に与論献奉(よろんけんぽう)の真似事で杯に入れて呑んでみた。
 本日の出費。カップ麺168円、おにぎり100円。那覇ー与論島フェリー往復8250円(往路4340円、復路3910円)。与論のスーパーで有泉420円、イケダパン100%レーズン210円、カップ焼きそば118円。与論のスーパーでレモンティーとポテトチップス168円(?)。写真は一番組の三者囃子(さんばすう)。
 与論島在住、さすらいの風来簿さんのブログに、この日の写真がUPされています。お神酒をいただいている私の写真もありました(汗)。

*2013年4月25日のPhoto Diaryはこちら
4月25日のスナップ。帰りのフェリーから撮影した那覇港
↑二度寝をしてしまい、起きたら8時半。8時に朝食をお願いしていたので、食堂へ行くと料理が並んでいた。
 ネットで予約したのは4畳半素泊まり2500円だったが、宿に着くと貸し切り状態で、素泊まり一人のために港と宿の送り迎えをしてもらうのも何だか申し訳なくて、急遽昨日の夕方に朝食を頼んだ。
 おかずは冷めてしまったが、おひつに入った温かいご飯と味噌汁を出してもらって、普段より時間をかけて食べる。食後にインスタントのコーヒーを貰い、部屋で少し休んでから荷物を片付けて下に降りて行く。チェックアウトはいつでもいいですよと言われたが11時には部屋を空け、大きい荷物を食堂の隅に置かせてもらって散歩に出た。
 宿の横の道を赤崎海岸に向かって歩く。途中、昨年の15号、16号、17号という3つの台風に直撃されてほぼ全壊した建物をいくつか見た。
 与論民俗村の横を通り、赤崎海岸に到着。海岸で5分程休んでから、来た道を戻って宿へと向かう。宿の少し手前、右に曲がる道がふと気になって歩いてみたら、下の方に潮が引いた時に現われる百合ヶ浜が見えた。
 食堂のテレビで朝の連続テレビ小説の再放送を見てから、港へ送ってもらう。来る時は十五夜踊りの会場がある城を通って来たが、今日は前浜を通り海沿いの道を走って港まで。往復のチケットを買ってあるが、待合所で乗船名簿用に名前を記入してから港まで送ってもらう。
 帰りの船はマルエーフェリーのフェリー波之上。13時半過ぎに入港し、コンテナを積み込んで予定の14時を少し過ぎて出航。昨日スーパーで買った、イケダパンの100%レーズンを食べる。与論は琉球文化だけれどイケダパンがスーパーに並んでいるのを見ると、やっぱり奄美群島だと思う。名瀬に2年居る間に、この100%レーズンを何十個食べただろう。
 19時那覇港に到着。昨年の5月に名瀬から那覇へ部屋を探しにフェリーで来た時は全然わからなかったが、今日は残波岬や牧港、泊港が船から確認できた。港の駐輪場にとめておいた自転車に乗り、家へと急ぐ。
 帰りの船の中で、田端義夫さんの訃報を知る。You Tubeから「島育ち/田端義夫」。
♪加那も年頃 大島育ち♪名瀬港に大型のクルーズ船が入って来ると、お見送りにこの歌がよく流れていた。
 本日の出費。宿泊費4000円(素泊まり2500円、朝食1500円)。写真は帰りのフェリーから撮影した那覇港。

11月7日(日)

 一昨日、先月受けた特定健康診査の結果を聞きに行ってきた。腹囲がメタボ判定基準、収縮期血圧が受診勧奨の140には達していないが133でメタボ判定基準の130越え。結果、メタボリックシンドローム予備群となった。他の数値は基準内だった。腹囲も血圧も食事と運動不足が原因だろう。
特定健康診査結果通知表
 ネット専用のプリペイドカード、V-プリカが今月29日までローソン限定でキャンペーンを行っている。5,290円で販売している5,000円券を購入すると、もれなく350円分のV-プリカが貰えるというもの。クレジットカードを持っていないので、ネットショッピングの際にこのV-プリカを使うこともあるので嬉しいキャンペーンだ。
V-プリカギフト
 5,000円券を1枚購入すると60円お得になる。一昨日町内のローソンに買いに行ったらV-プリカギフトが置いていなくて、パソコンで近くの店舗を調べて、今日あらためて西高岡のローソンで3枚購入した。
 60円お得になるのは良いが、不正使用防止のため、ネットで使えるようにするまで数字やらアルファベットを何度打ち込まなくてはいけないやら。時間と手間がかかる。
 琉球国王の子孫でつくる尚家門中「水魚会」の尚厚さんが沖縄県庁を訪れ、一昨年の首里城火災で焼失した螺鈿玉座を門中で復元し県に寄付する旨を玉城デニー知事に伝え目録を贈呈したそうだ。玉座(ぎょくざ)とは国家の君主である国王や皇帝などが座る座具のことで、日本の場合は高御座が天皇の玉座にあたる。
首里城正殿の玉座01
首里城正殿の玉座02
 写真は首里城正殿に置かれていた螺鈿玉座。なるほど、台や背もたれの部分に美しい螺鈿細工が施されている。
 首里城は年間パスポートを購入してなんども訪れたが、イベントなどは正殿の前の御庭(うなー)で行われるので、正殿の中に入ったのは最初の一回だけだった。
 まさか焼失してしまうとは夢にも思わなかったので、今となればもっと細部まで撮影しておけばよかったと悔やまれる。

 森友学園の国有地売却問題で、決済文書改ざんを苦に自殺した赤木俊夫さんの労災認定の文書の開示を妻の雅子さんが求めていた件。人事院は「業務に支障が出る恐れがある」などとして不開示にしていたが、先月29日付けで不開示決定を取り消したことが明らかになった。不開示については総務省の審査会も「不開示決定の理由や根拠の記載が皆無。決定は違法で取り消すべきだ」と人事院に答申していた。
 山形の自民党県議、野川政文氏が総額500万円以上の政務活動費を不正に受給していた問題で、氏は「一身上の都合」として議員辞職願を提出したそうだ。辞職したり返金すれば許される問題ではなく、明らかに詐欺事件。法で裁かれることを願う。
 先の衆議院選挙で高市早苗政調会長が自民党の文部副大臣・田中英之氏の応援演説で、「落選したら天皇陛下に迷惑がかかる」と発言したそうだ。なんで?と思うが大臣と副大臣は天皇陛下の認証を受けるので、副大臣の田中英之氏が落選すると天皇陛下がもう一度違う人を認証しなくてはいけなくなるので迷惑がかかるということらしい。これを記事では天皇の政治利用と書いているが、それ以前の問題で彼女がここまで浅はかだったのかと呆れている。安倍政権下では法務大臣の河井克行氏や経産大臣の菅原一秀氏が不祥事で辞任しており、その度に新たな大臣を任命・承認してきた。天皇陛下に迷惑がかかると思うなら、こんなことが繰り返されないよう不祥事で大臣を辞した議員や、彼らを任命した安倍総理を先ずはちゃんと批判したらどうだろう。

 この他の気になった記事を備忘録として。
岸田首相、核燃料サイクルへの認識の甘さ露呈 「止めるとプルトニウムが積み上がってしまう」
行き詰まった核燃料サイクル 施設の廃止作業は遅れ、工場完成は見通せず
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得意先に「自由民主党」 「Dappi」沖縄県民のDNAについても不正確ツイート #ファクトチェック
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 Photo Diaryを更新。
*2013年4月1日のPhoto Diaryはこちら。(桜坂劇場の映画鑑賞券、糸洲雨合羽店)
*2013年4月2日のPhoto Diaryはこちら
4月2日のスナップ。伊是名島の床屋
↑明日行われる公事清明祭を見るために、伊是名島へ向かう。
 最寄りのバス停を9時18分に出る名護行きのバスに乗ろうと部屋を出るが、エレベーターに乗ってから傘を忘れたのに気づいて取りに行く。マンションを出た時点でバスの出発時間だったが、多少遅れてるかもしれないと思い歩いて5分ほどのバス停に向かうと、ちょうどバスがやって来た。
 2時間程で名護バスターミナルに到着。しばらく来ていなかった間にトイレが新しくなっていた。大きなリュックをコインロッカーに預けて、しばらく名護の町を散歩。写真を撮りながら、ヒンプンガジュマルまで行って戻って来た。
 名護BTを13時に出る今帰仁廻りの本部半島線に乗車。伊是名島には運天港からフェリーで渡るが、運天港までのバスが廃止になったので一番近いバス停で降りて歩いて行く事になる。ネットで調べると仲宗根バス停が近いが、運転手さんに聞くと手前のワルミ入口の方が近いというので、そこで降ろしてもらう。降りると運天港まで3キロの標識があった。ん?仲宗根からだと2.2キロじゃなかったか??とりあえず教えられた一本道をテクテク歩いて運天港を目指す。30分ほど歩いただろうか。14時頃に港に到着。切符売り場で伊是名島までの往復切符を購入。
 待合室でしばらく休んでから、フェリーに乗船。船は定刻の15時30分に出航した。しばらくして沖にMARIX LINEが見えた。鹿児島〜奄美大島〜徳之島〜沖永良部島〜与論島を経由して、沖縄本島の本部港に行くのだろう。
 フェリー・ニューいぜなは55分で伊是名島の仲田港に到着。フェリー乗り場の近くにあるレンタカー屋に寄って、レンタサイクルの値段を確認すると24時間で700円だった。ついでに今日泊まる民宿の場所を教えてもらう。教わった通りに歩いて民宿へ。とりあえず部屋に荷物を置き、短パンに着替えて島内を散歩。
 宿から近い尚円王御庭公園へ行き、諸見集落をぶらぶらし、海岸沿いに歩いて明日公事清明祭が行われる伊是名玉御殿へ行ってみた。しばらく玉御殿の写真を撮ってから、日が暮れて来たので民宿へ戻る。
 宿に着き、シャワーを浴びて晩ご飯。宿のご主人が伊是名島の本と、雑誌オキナワグラフを見せて下さる。最新号だというオキナワグラフのページを捲っていたら、先月行われた辻のジュリ馬行列を撮影している自分が写っていて驚いた。晩ご飯は、かき揚げ、茹でキャベツ、刺身、イカスミ汁、ご飯。
 この旅行の為に買って来た、残波の360ml瓶を呑みながら就寝。
 本日の出費。名護バスターミナルまでのバス代1770円、コインロッカー400円、名護BT〜ワルミ入口400円、運天港〜伊是名島往復フェリー3350円、環境協力税100円、レモンティー150円。写真は伊是名島の床屋さん。
*2013年4月3日のPhoto Diaryはこちら
4月3日のスナップ。公事清明祭のお供え

↑3日は、7時頃に宿の食堂に行き朝ご飯。雨が降ったら公事清明祭を見た後に那覇へ帰ろうと思っていたが、晴れそうなので素泊まりで一泊延長してもらう。自転車も港のレンタカー屋で借りようと思っていたが、宿でも自転車の貸し出しをしているというのでお借りする。
 朝ご飯を食べ終わり、部屋で少し休んでから自転車を借りて公事清明祭が行われる伊是名玉御殿へ。清明祭は10時からと聞いていたが、準備の様子から見たいと思っていたので8時過ぎに会場に着くと、ちょうど役場の人が一人車でいらしたので撮影の許可を貰い、ついでにブルーシートとゴザを敷くのを手伝う。
 8時40分頃に道具や供え物を乗せた車が到着し、職員の方が玉御殿に運び入れてセッティングが始まる。古文書に記された通りに再現しており、豚の頭やアヒルも並ぶ。
 準備が整ったということで、9時40分に清明祭が始まった。以下、公事清明祭の進行表から。

<公事清明祭> 午前10時〜10時20分
1. 銘苅親雲上が拝礼の座へ進み、そこで立拝をする。
2. 付き添い役である下知役・検者、銘苅家の一族の者が、御小飯の蓋を開き、盃包紙をとって茶湯を供える。
3. 付き添い役から銘苅親雲上はお香5本を受けとって供え、手を合わせる。
4. 付き添い役が御茶碗の蓋を開き、少し隙間を開け、御紙鉢を用意して、銘苅親雲上は初めの1回分(10枚)を受け取り燃やす。
5. 付き添い役は御玉貫のかんすをはずし、御酒をついで供える。
6. 付き添い役が御紙鉢を供台の下に片付けると、銘苅親雲上はその場で「四つ御拝」(立って手を合わせて座る動作を4回繰り返す)を行う。
7. 銘苅親雲上は自身用の拝みのため、短香5本を受け取り供え、手を合わせて「四つ御拝」を行う。
8. 続いて伊平屋の阿母加那志、南風の二かや田の阿母、北の二かや田の阿母がそれぞれ短香5本受け取り供え、手を合わせる。
9. その他の参加者が続いて焼香を行う。
10. 焼香終了後、銘苅親雲上が手を合わせて一礼し、供物が下げられる。
11. 一同が手を合わせて一礼し、玉御殿を出る。

 9時40分に始まった清明祭は10時5分に終わった。この後、奉納芸と直会が産業支援センターで行われるというので急いで自転車で向かう。
 どういうわけだか直会の席が正面に村長さん、横に議長さんという場所になってしまった。テーブルの上にはサンピン茶のペットボトル、清明祭で供えられた料理やお菓子を職員の女性達が紙皿に取り分けて配って下さる。ふるまいだ。
  残すと怒られますよと隣りの議長さんに言われて、昆布、厚揚げ、豚肉を食べて、お菓子とバナナは袋に入れて持ち帰った。

<直会> 午前10時30分〜11時30分
1.開会のことば     教育長/仲田允碩
2.村長あいさつ     伊是名村長/前田政義
3.銘苅家旧蔵品修復・復元事業報告     琉球漆工藝舎
4.御座楽演奏      首里王府路次楽・御座楽保存会
5.奉納舞踊       野村流古典音楽協会伊是名支部
1).四つ竹 *生演奏
2).上い口説 *生演奏
3).谷茶前 *CD
*伊是名村観光大使あいさつ    伊是名村観光大使/西昇
4).日傘踊り *CD
5).加那よー天川 *生演奏
6.尚家・四殿内代表者謝辞 銘苅家親族/銘苅朝則
7.閉会のことば      教育委員会教育振興課長/高良修

(機械のトラブルにより、3の銘苅家旧蔵品修復・復元事業報告は奉納舞踊の後になった)

 10時50分くらいにスタートした直会は、12時30分くらいに終了した。
 撮影したかった行事を無事に撮り終えて、後は自転車で島内をのんびりサイクリング。まずはフクギと石垣と赤瓦の屋根の家が残る伊是名集落へ。国の重要文化財に指定されている銘苅家住宅に行くが、管理している人もいなく自由に見学出来る。昨日、諸見集落でも見た神アサギが伊是名集落にもあった。
 伊是名集落から島の海岸線近くを一周する道路を時計回りに走り、勢理客集落へ。家の瓦に漆喰を塗っている人達がいたので写真を撮らせてもらう。下塗りを入れると5回塗るそうで、大変だ。
 勢理客から内花集落へ。内花港の近くでお墓の周りを掃除しているオジさんがいたので話しかけてみると、お墓は昨年作ったばかりで、隣りにご先祖様が眠る立派な亀甲墓があった。まだ真っ白いお墓と一緒に写真を撮らせていただいた。
 内花から諸見を通り過ぎて、仲田港へ。朝からどんよりと曇っていた空が、だんだん晴れて来た。仲田港にはちょうどフェリー・ニューいぜなが入港して来た。
 フェリーをしばらく撮影してから、午前中に清明祭が行われた玉御殿へ。昨日の夕方も伊是名城跡と玉御殿を撮影したが、曇っていたので、晴れて来た今、もう一度撮影。
 玉御殿からシラサギ展望台、ギタラ展望台、、アハラ御嶽に寄り、伊是名集落に到着して島を一周した。もう一度銘苅家に向かい、建物に日が当たる光景を撮りに行く。
 集落を自転車でぶらぶらしてから、来た道を戻りシラサギ展望台から夕景を撮影し、玉御殿を通り仲田集落の売店でパンとポテトチップス、カップ焼きそばを購入。焼きそばにお湯を入れて、お店の横で食べて19時頃に宿に戻った。
 本日の出費。パン、ポテトチップス、カップ焼きそば358円。民宿への支払い8700円(1泊2食4500円、素泊まり3000円、今日一日と明日午前中のレンタサイクル代1200円)。写真は公事清明祭のお供物。

*2013年4月4日のPhoto Diaryはこちら
4月4日のスナップ。伊是名島の民家
↑4日は、朝9時に民宿をチェックアウト。大きいバックを預かってもらい、自転車を借りてサイクリング。
 諸見集落の尚円王御庭公園、みほそ所を見た後、昨日直会が行われた産業支援センター傍にある伊是名村ふれあい民俗館に行ってみるが、残念な事に休館日だった。しょうがないので民俗館の前庭にある休憩所で、昨日買ったパンや昨日の直会でいただいたお菓子を食べて一休み。
 民俗館から伊是名集落へ。フクギとサンゴの石垣が美しい集落内を自転車で走り、銘苅家住宅、ノロ殿内、伊是名酒造所等を見て回る。
 伊是名集落から海岸沿いの道路を走り、昨日公事清明祭が行われた玉御殿へ。伊是名城跡を上がれる道を、少しだけ歩いてみる。
 玉御殿から仲田港に寄り、12時少し前に宿へ戻る。自転車を返却し、預けていた大きなバックを背負ってフェリー乗り場へ。昨日今日と自転車に乗りっ放しでお尻が痛い。待合所のソファーに座り、乗船時間を待つ。
 出航の30分前、13時に乗船開始。いつもなら一番上のデッキで風に当たりながら風景を見ているのだが、なんだか疲れていて、ほとんどの時間を船内のソファーでウトウトして過ごした。
 運天港に着いて、名護までの移動に悩む。来る時はバスの運転手さんに薦められたワルミ入口から緩い下り坂を歩いて来たが、今度は上り坂になる。名護までタクシーだと2300円位だそうだが、一番近いバス停なら800円位。でも800円あれば食堂で豪華な定食が食べられる・・・。
 運天港のチケット売り場で一番近いとされている仲宗根バス停について尋ねると、ワルミ入口のように1本道ではないが、仲宗根までは緩い下り坂だというので、やっぱり歩く事にした。
 事前にプリントしておいた仲宗根〜運天港の地図を見ながら歩いたが、なぜか着いたバス停は隣りの山岳バス停だった。時刻表を見ると15分程でバスが来る。
 到着したバスに乗車して、那覇に行くには名護十字路で乗り換えるのと、終点の名護BTで乗り換えるのとどちらが良いか聞いてみると、名護十字路で乗り換えた方が運賃は少し安くなるそうなので十字路で下車。那覇行きのバス停で時刻を確かめ、近くの市場で天ぷらを買って食べ、自販機でレモンティーを買って那覇行きのバスに乗る。
 バスは58号を那覇に向かってひた走る。最寄りのバス停で降りて、部屋に着いたのは19時を少し過ぎた頃だった。疲れているけど、お腹が空いたのでツナとオニオンのパスタを作る。味付けは塩こしょう、マヨネーズと卵黄。トッピングに海苔を散らした。
 とりあえず伊是名島で撮影した写真を、パソコンにバックアップする。
 本日の出費。山岳から名護十字路530円。さかな天ぷら2つ80円、紅芋天ぷら50円、レモンティー150円。名護十字路から最寄りのバス停1730円。写真はヒンプンが素敵な伊是名島の民家。
*2013年4月7日のPhoto Diaryはこちら。(与儀公園、デイゴの花)

11月4日(木)

 今日は雲が多いながらも過ごし易い陽気だったので、午後から小矢部川の土手を1時間ほどサイクリング。少しずつ紅葉が里の方に下りてきている。
 サイクリングから帰って、久しぶりに電子ドラムを叩く。一年ほど前から、ちょっと腕に力を入れると痛みがある。特に左腕。たぶんパソコンのキーボードを毎日毎日何時間も操作しているので、それによる疲労だと思うが全然治る気配がない。それで腕を休めようとドラムを叩くのをやめていたが、自転車に乗るだけでは運動不足なのでCD1枚分だけドラムを叩いた。
 沖縄にいる時、歩けないほど膝が痛む時があった。腕や手首が痺れたり、首が痛むこともあった。ちょっと心配になり、大きな病院の整形外科で診てもらった。レントゲンを撮ったが骨に異常はなく、コリだろうとのことだった。病院内のリハビリ施設で首を伸ばしたり電気を当てたり少し治療をしてもらって、薬と湿布薬を貰って帰って来た。その後もしばらく膝が痛かった記憶があるが、いつの間にか治っている。
小矢部川からの風景01
↑↓→小矢部川の土手から。少しずつ紅葉が里に下りて来ている。
小矢部川からの風景03
小矢部川からの風景02

 選挙の余波が色々と続いている。自民党は衆院選の小選挙区で敗北し幹事長職を辞任した甘利明氏に代わり、茂木敏充外相が幹事長に就任することが今日の総務会で決定した。幹事長候補に茂木氏の名前が出た直後から、茂木外相の政治団体に1億2000万円もの使途不明支出があるという昨年暮れの記事がSNSで拡散されている。またもこんな人で大丈夫だろうか。
  立憲民主党は議席数を減らしたという選挙結果を踏まえ、枝野幸男代表が辞任することが決まった。今回議席数を大きく伸ばした日本維新の会は、さっそく来年夏の参院選までに憲法改正原案を纏めて、参院選と同じ日に国民投票を実施するべきだと発言している。
 衆議院選挙と同時に行われた最高裁裁判官の国民審査は11人全員が信任されたが、それでも夫婦別姓を認めない民法を合憲とした4人の裁判官にX(罷免票)がより多く集まったようだ。
 0コロナを目指す中国は、上海ディズニーランドに入園した1人から新型コロナウイルスの検査で陽性が判明したため、来園していた約3万4000人にコロナ検査を行ったという。0コロナを目指す良し悪しは別に、1人の感染者が出たからといって、すぐに3万人以上を検査できる体制に驚く。

 この他の気になった記事を備忘録として。
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紀子さまの父・川嶋辰彦氏が死去 学習院大名誉教授、81歳

 Photo Diaryを更新。
*2013年3月22日のPhoto Diaryはこちら。(泡盛・瑞穂、中トロのブツ、天ぷら)
*2013年3月25日のPhoto Diaryはこちら
3月25日のスナップ。ゲンキ食堂

↑天気予報によれば、今日と明日は晴れなので午前中に洗濯。
 大根おろしと青ネギ、濃縮うどんつゆをかけた冷やしうどんで昼食を済ませ、お米が残り僅かになったので、午後から新都心のスーパーで買い物。
 昨日「折口信夫と古代を旅ゆく/芳賀日出男 写真・文」と「沖縄オバー食堂/撮影・円山正史 編著・平岩モトイ」を読み終えたので、県立図書館へ返却に行く。「てぃーあんだ/山本彩香の琉球料理」は延長してもらい、新たに2冊借りて来た。
 県立図書館の帰り、「沖縄オバー食堂」に紹介されているゲンキ食堂に寄ってみるがドアが閉まっていた。店先のショーケースにはサーターアンダギーが並んでいたが、入口のドアは閉まっている。オバーさん1人で切り盛りしているそうなので、用事が出来てどこかへ出掛けたんだろうか。天ぷら1個30円だそうだ。また散歩がてら来てみようと思う。
 スーパーへお米を買いに行ったついでに、豆腐ようも購入した。豆腐ようは、豆腐を麹、紅麹、泡盛に漬け込んで発酵させた食べ物。濃厚な味わいで、畑のチーズと例える人もいる。
 初めて食べたのは、琉球料理の撮影で山本彩香さんのお店に伺った時。今読んでいる「てぃーあんだ/山本彩香の琉球料理」には豆腐ようのレシピは載っていないが、豆腐ようを調味料として使った『イカとキュウリの豆腐ようあえ』が掲載されている。市販の豆腐ようは1粒100円ほどから400円くらいまで様々あるが、色々と食べ比べてみたい。1粒1.5〜2センチ角程だけれど、ちびりちびりと味わうもの。1粒で充分楽しめる。
 今日返却した「折口信夫と古代を旅ゆく/芳賀日出男 写真・文」(慶應義塾大学出版会)から、興味深い箇所を抜粋。

○依代 よりしろ

「依代」とは祭りの時に神が降臨するための装置といえよう。柱を立て、その先端に祭りに縁のあるものを付けるのである。神はそれを目印にして祭場へ現れるとされている。依代は折口信夫によって作られた言葉で、和歌山県粉河の夏祭りの山車から得た発想である。祭りをする人の立場からいえば神を招くための仕掛けなので「招代・おぎしろ」という。折口は大正四(一九一五)年発表の論文「髯籠の話」の中で、「依代」「招代」のほか柱や樹を立てる場所の「標山・しめやま」という三つの新しい言葉を使った。それが今日の民俗学ではよく使われ、急速に広がり定着していった。

 依代には樹木、岩石、宝石、貝、野獣の牙などがあるが、樹木が圧倒的に多い。祭場に神の注目を得るために柱として立てるからである。それ以前のはるか古代では海辺では常世の神の漂泊地にたぶの木、山地では榊、椿の木が依代になっていた、と折口は推測している。いずれも、東アジア大陸につながる照葉樹であることに注目したい。「依代」は折口によって作られた新語であるが、現在では「広辞苑」にも掲載され、「神霊が招き寄せられて乗り移るもの。樹木・岩石・人形などの有機物で、これを神霊の代わりとして祭る」と記されてある。

 依代の例として、以下が挙げられている。
1.ひげこ 2.目籠 3.天道花 4.山笠に立てたバレン 5.諏訪大社の御柱祭の柱 6.向笠春の神事の御幣 7.ほいのぼり 8.木幡の幡祭り 9.端午の節句の鯉幟り 10.吹貫き、吹流し
 沖縄の旗頭や、奄美の立神も依代という事だろうか。

○沖縄の旅
 古代が迎えにくる

 折口信夫は大正十(一九二一)年七月から八月にかけて約四十日間沖縄本島を巡った。
~略~
 どこの村にも御嶽(うたき)、拝所(うがんじょ)といわれる聖地があり、祝女(のろ)とよばれる女性の祭司者が村人の暮らしを管理して信仰が活きている。琉球王朝時代には王の姉妹が最高の巫女「聞得大君・きこえおおきみ」という役につき、全島の祝女を統率していた。
 祝女たちは村ごとにある「神あしゃげ」とよばれる萱葺きの小屋の中で祭礼をおこなっていた。神あしゃげを見た折口は切妻屋根が地表までふきおろした建物の形から「天地根元宮造りの掘立て合掌式の、地上に屋根篷の垂れたのから一歩進めたもの」とのべ、古式の祭祀建物に関心を示した。
 折口はその後も二回の沖縄旅行をおこない、後日体験を次のように語っている。
「直ちに古代の知識が迎えに来てしまった、古代研究やら現代観察やら訣らなくなることが多かった」。また「琉球諸島ー現在の生活ー殊に内部ーには万葉人の生活を、その儘見る事も出来る」そして「古代生活の研究に、暗示と言ふより、其儘むき出しにしてくれる事すら度々あった」とものべている。万葉びとの境地を彷徨っている気分になったのであろう。 
 

  歌舞伎役者の坂東玉三郎さんが今月、東京と沖縄で新作組踊「聞得大君(ちふぃじん)誕生」で主演を務めた。Wikipediaによれば、聞得大君という役職は十八代まで続き、戦後廃職となったそうだ。写真はゲンキ食堂。

*2013年3月26日のPhoto Diaryはこちら
3月26日のスナップ。幸地腹・赤比儀腹両門中墓
↑明日から暫く曇りと雨のマークが並んでいるので、昼ご飯を食べた後にサイクリング。久しぶりに糸満へ。
 まずは、海神が祀られており糸満ハーリーの時には祭祀が行われる御願所・白銀堂に行ってみる。境内の奥には巨岩がそびえ、小さな拝所がいくつも置かれている。ちょうど御願をされているオバーさんがいらしたが「とーとぅがなし」という単語しかわからなかった。白銀堂の由来は、こちら
 白銀堂から糸満漁港へ。自転車を置いて、人気の少ない公設市場を歩いてみる。食堂からお酒の入った感じのカラオケを歌う声が流れて来る。漁師町らしい風情。
 漁港から糸満ロータリー、そして沖縄で一番大きいと言われる幸地腹・赤比儀腹両門中墓へ。門中については、こちらが詳しい。
 夕方5時を過ぎて、来た道を辿りながら那覇へと向かう。途中にあるJAおきなわの直売所・菜々色畑でお買い物。行きにも寄って新タマネギ1袋6個入り150円を買ったが、帰りはトマト1パック5個入り150円、小松菜1袋70円、アップルパイのホールが100円引きで550円だったので購入。
 寄り道しなければ糸満漁港から家まで、ゆっくり自転車で走って1時間半ほどだろうか。運動したのでお腹ぺこぺこ。晩ご飯はカレーの残りで作ったドライカレーと、スパゲティ・ナポリタン、デザートにアップルパイと先日買ったタンカンを搾ったフレッシュジュース。写真は幸地腹・赤比儀腹両門中墓。
*2013年3月28日のPhoto Diaryはこちら
3月28日のスナップ。ケラマツツジの原種

↑28日は朝早く起きておにぎり3個と卵焼きを作り、ゆっくり歩いても10分程のとまりんへ。渡嘉敷島の往復チケットを購入して、フェリーとかしきに乗船。船の屋上のデッキに座り、10時の出航を待つ。春休みだからか、子供達の団体が多い。
  慶良間諸島の中でも有人島としては一番那覇に近い渡嘉敷島は、普通のフェリーで70分、高速船を使えば35分で着く。乗船中に船内放送で、右前方にクジラがいますと流れたのでカメラの望遠レンズで覗いてみるが発見できず。
 ホエールウオッチングやマリンレジャーの島々として知られる慶良間諸島だが、先の沖縄戦では多くの命が失われている。今日3月28日は、その沖縄戦において渡嘉敷村で集団自決が行われた日。午後から白玉之塔で慰霊祭が開催される。尚、渡嘉敷村の集団自決についてはこちらに詳しく書かれている。
 慰霊祭が行われるのは13時30分から。2時間以上空きがあるので、11時30分に渡嘉敷港を出発するとかしき観光バスが運行している路線バスで阿波連ビーチへ。
 阿波連集落の入口にある新垣商店の前から、13時に白玉之塔行きの無料バスが出るので、それまでビーチの周辺を散歩する。
 12時45分頃に新垣商店の前に行くと、黒い服を身に着けたお年寄りの方々が少しずつ集まって来られた。村役場のマイクロバスが到着。昨日役場に電話して、島外の者も乗車できるか問い合わせて、大丈夫との返事を貰っていたので乗車。村役場の前でも何人か乗車して、白玉之塔へ向かった。
 渡嘉敷港と阿波連の間はいくつもの山が連なっている。急なヘアピンカーブを走った先に海岸が広がる光景は、加計呂麻島を思い出させた。

式次第から 

司会 民生課長 島村 清
一.開会の辞 渡嘉敷村総務課長 宮平 昌治
二.式辞 渡嘉敷村長 座間味 昌茂
三.黙祷 司会
四.追悼の言葉 渡嘉敷村遺族代表 新崎 直恒様
五.平和の詩 (児童・生徒代表)
六.歌 「命どぅ宝」 宮城 千恵 第五代渡嘉敷村長 真喜屋 実意(お孫さん)
七.来賓挨拶 渡嘉敷村議会議長 小嶺 源市様
八.献花・焼香 村長・遺族代表・村議会議長
九.一般焼香
十.閉会の辞 司会

(*3月30日の琉球新報のweb記事

 慰霊祭が終わり、白玉之塔に植えられているケラマツツジを撮影していたら、役場の人だろうか?港へ下りて行く坂の途中にケラマツツジの原種が2本咲いていると教えて下さった。今まで見ていたケラマツツジよりも赤が濃い。花が重なるように咲いていて、豪華さがある。
 帰りの船は16時に出航。1時間以上あるので港のある渡嘉敷集落を散歩しながら、スナップ撮影。
 幼稚園の先生が島を離れるんだろうか。小さな子供達がお見送りに来ていた。離島の春は、お別れの季節です。奄美大島の名瀬港は今週末がピークだろうか?
 今日の出費。泊港〜渡嘉敷港フェリー往復3080円、渡嘉敷村環境協力税100円、さんぴん茶98円、渡嘉敷港〜阿波連ビーチ路線バス400円。写真はケラマツツジの原種。

*2013年3月29日のPhoto Diaryはこちら。(頂き物の「さくらの香りの緑茶」)
*2013年3月31日のPhoto Diaryはこちら。(名刺のプリント)

11月1日(月)

 選挙から一夜明けて、結果が出た。今日の曇り空と同じで、どんよりとした気持ちになる結果だった。
 まず、高岡市議会議員選挙だが新人8人が全員当選し、共産党がこれまで持っていた2議席とも失うという残念な結果になってしまった。
 衆議院選挙の富山県内の結果は昨夜20時の開票直後に1区、2区、3区ともに自民の議員に当確が出たが、その後小選挙区で敗れた維新の吉田豊史氏が比例で復活当選した。
 全体を見ると当初大きく議席を減らすと言われた自民党は15席しか減らず、全体安定多数を確保した。野党共闘をうたった立憲民主と日本共産党は14議席と2議席減らす結果となった。今回一番議席数を伸ばしたのは日本維新の会で、11議席から4倍近い41議席となり第3党へ躍進した。しかし、自民党への批判票の受け皿が維新だと考える人が多いことに絶句する。
 維新の副代表である吉村洋文大阪府知事の人気が追い風となったという記事があるが、そもそもなぜ彼が人気なのかわからない。TBSの新型コロナウイルス都道府県データによると、今回の新型コロナによる大阪府の死者は現在3,047人で、東京都の3,148人とあまり変わらない。人口は大阪府が881万2117人、東京都は1,403万7872人。人口比で見ると大阪府の死者の数が突出している。明らかに大阪府知事の失政だと思うが、それでもこれ程までに支持する大阪府民の心情がどうにも理解できない。
 SNSで<維新の躍進というのは、ブラック企業でメンタルやられて辞めて、冷静な判断できないまま次に飛びついた就職先が輪をかけてブラック。という社会ではありふれた悲劇である気がする。私も経験ある>というつぶやきを見たが、上手いこと言うなと感心した。
 最高裁国民審査は全11裁判官が信任された。
 今日は朝からテレビの話題は衆議院選挙の結果と、昨日の夜に起こった京王線の車内での殺傷事件だった。

 この他の気になった記事を備忘録として。
時給は常に最低賃金、夢は早く楽に死ぬこと…世界的にも低い日本の賃金に苦しむ女性ライター
新500円硬貨、何が変わった? 21年ぶりにデザイン刷新。「詐欺に注意」と日銀

 今日は両親が妹と一緒に朝から紅葉を見に出かけるので、チャーシュー麺でも食べたいなと思っていた。最初は外へ食べに行こうと思っていたが、チャーシューやメンマを買ってきて自分で作った方が豪華なチューシュー麺が出来るかな?と思い先日ドラッグストアで他のものを購入するついでに買っておいた。
 チャーシュー6枚にメンマたっぷり。これで原価は300円ちょっと。ちなみに今年はまだ一度も外食していないはず。
チャーシュー麺

10月へ