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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能
◯製作中の富山の祭りと芸能歴史年表

9月2日(日) 善徳寺 一心講踊り
9月13日 魚津八幡宮 御神幸 猿田彦
9月22日(土) 福岡町沢川 愛宕神社12時〜 獅子舞12時30分〜13時
9月22日(土)、23日(日) 沓掛の獅子舞 資料1 資料2 資料3*22日は8時半〜17時、23日は8時半〜17時町回り 17時〜18時沓掛八幡社での奉納 
9月23日、24日 五箇山麦屋まつり
9月29日(土)新川神社 稲刈り 午後1時45分〜(午後1時10分集合)
10月6日 射水市 六渡寺の獅子舞
10月8日、9日?(14、15日前の土・日曜) 入善 新屋の獅子舞 住吉社
10月14日、15日に近い土日 椚山の獅子舞
10月17日(水) 栃屋の獅子舞
10月21日(日) 下立の獅子舞
10月27日(土) 魚津市東山(東山神社?) 10時〜小川寺の獅子舞
入善町の獅子舞状況

2019年
5月18日(土)、19日(日)? 利屋町の天神祭り

◯上市町 日石寺 1月20日 寒修行 記事
◯新川神社 御田植祭5月
◯高瀬神社 御田植祭5月 抜穂祭9月
◯射水市三ヶの十社大神 御田植祭
◯埴生護国八幡宮、亀保里神社(長岡神社0766-67-1402)除蝗祭 6月
◯上市町 日石寺 7月1日 大岩山滝開き・火渡り修法(10時)
◯7年に1度、10月に開催 次は2022年 朝日町山崎 米吊り奉納
◯福岡町沢川の獅子舞 9月の第4土曜日?
◯加茂神社 出雲へ神を送る神送祭 9月30日と10月31日?
◯岩稲八幡社の神送り・神迎え 10月下旬と11月下旬の日曜日 
◯5年に一度、若手神職でつくる県神道青年会が御田植祭
◯2019年 白山宮の本尊。秘仏十一面観世音菩薩をご開帳(33年毎)。
◯33年に一度 庄川の神賑わい 次回は2023年7月

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事
富山の祭り
築山行事
*砺波の獅子舞 各地区の日程
年中行事覚書 柳田国男
田の神祭りに見る日本人の神意識
山の民の祈り
立山に生きる村ー宗教集落芦峅寺のくらし
五箇山の獅子舞の起源
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

9月30日(日)

 大型の台風24号が日本列島を縦断している。今夜遅くから未明にかけて、富山に最接近するようだ。この台風により沖縄・鹿児島で49人が重軽傷を負っている。奄美大島の名瀬港では高さ11mの灯台が根元から折れて消失している。
 一方、インドネシアでは28日に起きた地震による津波でスラウェシ島を中心に832人が亡くなり、死者は今後さらに増える恐れがあるという。インドネシアでは7月、8月にもロンボク島で大きな地震が相次ぎ515人が犠牲になっている。
 その他の最近気になった記事を備忘録として。
トランプ氏「日本はすごい量の防衛装備品を買うことに」
新安倍政権で「年金受給開始を70才に遅らせる」計画が本格化
生活保護、67%世帯で減額 10月から、食費や光熱費
LGBT叩きで大炎上中の杉田水脈議員、今度は「日本のテレビが売れないのは技術力が落ちたからでなく慰安婦問題のせい」と訴え
近畿財務局など財務省の財務局OB職員6人がカメラ取材に応じたのだ。それも、全員が顔出し・実名での告白<森友公文書改ざん>2018年9月25日午後11時~放送 テレビ東京WBS
三菱電機、裁量制3人労災 15~17年 過労自殺、脳疾患
安倍首相が米国に差し出す農産物 受ける打撃は2兆円規模
防衛装備品の購入を米に伝達 官邸幹部「必要なものを」
 昨日は新川神社の「田んぼ学校」での稲刈りを撮影に行って来た。こちらの様子も後々UPいたします。
新川神社の稲刈り
↑神職について神饌田へ参進する早乙女姿と田男姿の子供たち。生憎の雨だったので、一株ずつの稲刈りとなった。
 明日から10月だ。昨日でNHKの連続テレビ小説『半分、青い。』が終了した。途中、ジェットコースター並みに急展開するストーリーに着いて行けなくなりそうだったが、最後まで観た。まあ、とりあえず怪作だな。

9月29日(土)

 5月に田植を行った新川神社の「田んぼ学校」で、今日は植えた稲を収穫する稲刈りが行われるので撮影に行って来た。
東新庄駅
 ホームページの案内には午後1時45分開始で、雨天の場合は稲刈りをしないと書かれている。あいにく今日は雨模様なので、稲刈りの様子は撮れないかな?と思いながら神社に向かう。
 12時4分に富山駅に着き、電鉄富山駅へ。これまで新川神社へは2回来ているが、その時は晴れていたので富山駅から自転車を組み立てて行った。
 時刻表を確認すると東新庄駅に止まる電車は本数があるので、コンビニでおにぎりとパンを一つずつ購入。
 12時29分発の立山行きに乗り、車内でおにぎりを食べて昼食。12時36分に東新庄駅に着いた。通過する事は何度もあるが下車するのは初めて。趣きのある駅舎だ。
新川神社
神饌田

↑新川神社。
←境内横の神饌田。

 5分ほど歩いて新川神社に到着。境内には「田んぼの学校」と書かれた看板が立っている。
 拝殿でお参りしてから境内横にある神饌田を見に行くと、縄が張られ紙垂が取り付けられていた。
 5月に植えた稲はたわわに実り、雨に濡れていた。
 

実った稲穂
 神饌田の写真を撮ってから社殿に戻ると舩木宮司さんが歩いて来られたので、田植の時の写真をお渡しする。雨なので稲刈りは中止か尋ねると、開始時間を変更し少しだけ刈る事にするそうだ。
 式次第をいただいたので転載しておく。

平成三十年度「田んぼ学校 稲刈り体験」実施要綱

一、趣旨 子供たちに稲作を通じて、収穫の喜び・感謝の気持ちを感じ取ってもらい、神道、昔ながらの日本の生活文化に親しんでもらう。
一、開催場所 新川神社(宮司 舩木信光)
       奉耕者 吉田榮一氏 田添啓一氏
一、開催日 稲刈り 九月二十九日(土)
一、内容 田植を行った田んぼにて、稲刈りを行う。
一、日程
  十二時四十五分 助勢者集合
  一時十分    田男・刈り女集合
  一時四十五分  受付開始 ◯「かんさつにっき」回収
  二時      開校式(総代挨拶、宮司挨拶、日程説明)
 *天候により稲刈りを先に実施する事があります。
  二時十分    抜穂奉告祭 奉耕者挨拶
 *二時四十五分 稲刈り
  三時三十分  脱穀・精米体験・クイズ
  四時三十分  閉校式(宮司挨拶)

抜穂奉告祭 次第
・神楽
・修祓
・献餞
・祝詞奏上 ◯参加児童が描いた「かんさつにっき」奉典
・玉串拝礼 斎主・宮総代・奉耕者(吉田榮一・田添啓一)田男・刈り女
・撤饌
・神楽

参進
 予定では開校式と抜穂奉告祭が先だが、時間が経つに連れて雨足が強くなりそうなので、初めに稲刈りが行われた。
 参集殿で子供たちが田男、刈り女姿に着替え、雨合羽を着用。
 14時少し前、神職を先頭に参集殿から拝殿の前まで参進し一礼、拝殿から境内を通って神饌田まで進む。
 宮司さんから一人一人鎌を手渡される。
 大幣と切幣でお祓いをした後、子供たちが一列に並び手前の稲を一株切り取ると、稲刈りは終了した。残りは来週、奉耕者の方々が刈り取って下さるそうだ。
 稲刈りが終わると子供たちは参集殿で雨合羽を脱ぎ、拝殿へ。
神饌
↑拝殿に用意された神饌。稲穂は晴れていた昨日の内に刈り取ったもの。
抜穂祭
 一度神饌を子供たちが伝供でお供えする練習を行ってから、「田んぼ学校」の開校式が行われ宮総代が挨拶。引き続き、抜穂奉告祭が執り行われた。
 14時20分頃から始まった神事は神楽(太鼓)、修祓、献餞、祝詞奏上、玉串拝礼、撤饌、神楽と進み30分ほどで終了した。
記念の集合写真
↑神事の後、拝殿で記念の集合写真。
脱穀・精米・クイズ
帰りの電車
 抜穂奉告祭の後、参集殿で「田んぼの学校」の授業として昔の製法による脱穀、精米体験を行った後、「古事記」の紙芝居が行われた。そして紙芝居の中身を題材にしたクイズを開催。正解者にはお菓子がもらえるので、盛り上がる。最後は宮司さんが挨拶して16時半過ぎに終了した。
 神社を出て東新庄駅へ。コンビニで買ったパンを食べて電車を待つ。やってきた16時56分発の電車で電鉄富山駅へ。

9月25日(火)

 連休明けの今日は雨、部屋の中に居てもちょっと肌寒い。昨日、一昨日と地元の奇祭つくりもんまつりが行われた。昨年は2日間とも他所の祭りや行事を撮影に行って見れなかったので、昨日の夕方、少し早めに晩ご飯を食べてから2年ぶりのつくりもんを楽しんできた。
 町の中心部は混雑していて自転車も通行できないので、少し外れたところのつくりもんを自転車で見てまわってから無料開放されているミュゼふくおかカメラ館へ。現在は『牧野貞之万葉写真展/富士フィルムフォトコンテスト入賞作品展』が開催されている。
ミュゼふくおかカメラ館01
ミュゼふくおかカメラ館02

↑ライトアップされたミュゼふくおかカメラ館を、中庭から撮影。

←カメラ館のエントランスでは「福岡つくりもんまつり写真コンテスト」の歴代入賞作品をプロジェクターを使って上映。

↓写真展を見た後は自転車をカメラ館に置いて、散歩がてら写真を撮りながら町中のつくりもんを見て歩いた。

つくりもん祭り
*北日本新聞の記事1記事2。富山新聞の記事。つくりもんのリポート

 22日は福岡町沢川(そうごう)の獅子舞、23日は黒部市沓掛の獅子舞を撮影。こちらの様子も後々UPいたします。

沢川の獅子舞
↑沢川の獅子舞にて、天狗に抱えられて泣き出す子供。中学時代同級生だった女の子のお孫さん。
↓沓掛の獅子舞にて、町回りを終えて宮入りの様子。傘や刀を持った子供を肩に乗せて境内に入って行く。
沓掛の獅子舞

 撮影、現像、写真データの整理とバタバタしているうちに自民党総裁選も少し過去の話しになってしまった。
 20日に投開票が行われた自民党総裁選では安倍晋三氏が石破茂氏を破り3選を果たした。予想された通りの残念な結果になったが、救いは石破氏が地方の党員標で181票獲得と善戦したことだ。中でも富山での地方票が安倍氏より石破氏の方が上回ったのは、個人的に大きな慰めになった。
 安倍陣営は今後の人事で石破氏の側についた議員を冷遇するのではないかとも言われているが、果たしてそんな事ができるのだろうか。国会議員票でも石破氏には73票が入っている。この人達が現内閣に反旗を翻せば、首相の念願である憲法改正も出来なくなるのではないか。
 日々流れて来る記事もなかなか追えていないが、ここ数日で気になった記事を備忘録として。
自宅に突然、米兵侵入 少女「殺される」 沖縄・読谷 不法侵入事件 5カ月の妹抱きかかえて逃げる
私設原発応援団たちによる、間違いだらけの「泊原発動いてれば」反論を斬る
安倍総理3選決定。前日に行われた「秋葉原演説の光景」は向こう3年の日本の社会になるのか
自民党総裁選、満面の笑みの石破氏、顔面蒼白の甘利氏、無表情の進次郎氏
【選挙ウォッチャー】 「新潮45」で発表された杉田水脈議員のエクストリーム擁護について。
「保守論壇」はなぜ過激化するのか?「新潮45」問題から見えたこと
甘利氏「石破氏への苦言」への”国民的違和感”
安倍首相、斎藤農水相を交代の方針 石破派からの唯一の閣僚

 貴乃花親方が相撲協会に引退届を提出し、新潮45が休刊を発表した。

9月23日(日)

 昨日は沢川の獅子舞を撮影に行ったが、今日は黒部市沓掛(くつかけ)の獅子舞を撮影に。沓掛の獅子舞は下新川系の獅子舞で、獅子は二人立ちで赤くて太い襷をかけた天狗が複数登場する。
 沓掛八幡社の祭礼で行われるのだが、秋の祭礼は昨日と今日で、昨日は朝8時半〜17時まで町中を巡行。今日も朝8時半から17時まで巡行した後、17時から18時まで八幡社の境内で奉納の獅子舞が行われると聞いた。
 事前に購入しておいたあいの風とやま鉄道の一日フリーきっぷを使い、11時49分に黒部駅へ。黒部駅で自転車を組み立て沓掛に向かうが、途中三島神社の名で親しまれている八心大市比古神社の前を通るので、午前中にプリントしておいた昨年の八心大市比古神社のじんじん祭りの写真と宮司さんが兼務社で祭主を務めた墓ノ木松明祭の写真をお渡しする。
 神社を出てから地図を見ながら東三日市駅の手前を左に曲がって走る。途中にスーパーの大阪屋があったので、食料品コーナーで焼き鳥3本とおにぎり1個を購入してお昼ご飯。食べ終わって、また自転車を漕いで沓掛を目指すがどうも道を間違えている予感。十字路の手前で自動車から降りて来る女性がいたので尋ねると、どうも曲がる道を一本間違えていたようで十字路を右に曲がると沓掛に行くという。
 教えられた通り十字路を右に曲がり暫く走ると、左手に小さな屋根が見えた。気になって見に行くと、「県指定遺跡 北野の石龕(せきがん)」と書いてある。
 以下、案内板から。

指定  昭和四十年二月一日
所在  黒部市北野字稲場囲五七
管理者 二本松 敏彦

 石龕とは、石を彫りくぼめ仏像を安置するものである。この石龕は一辺が約八十センチの板状の切石を組み合わせ、上に別石をおくもので、奥壁に阿弥陀如来坐像と向かって左に合掌する勢至菩薩と右が蓮台をもつ観世音菩薩、左右壁に、六道(天道・人道・修羅道・餓鬼道・畜生道・地獄道)で衆生を救済する僧形の六地蔵が刻まれている。
 この石龕は「北のミョウドウ」とも呼ばれている。また永海(または栄海)という僧の作、あるいは塚であるという言い伝えがある。永海の名は、建暦二年(一二一二)造立の阿弥陀如来立像(京都・浄土宗蔵)胎内から発見された「越中国百万遍勤修人名(えっちゅうこくひゃくまんべんごんじゅじんめい)」中に見える。また、加賀藩が貞享二年(一六八五)に領内の寺社に差し出させた「寺社由緒書上」に、栃屋・法伝寺、浦山・法伝寺、魚津・西願寺、三日市・西徳寺、石田・西往寺、永正四年(一五〇七)開基の猪谷・宝樹寺の開山(初代住職)として見える名でもある。いずれとも決しがたいが製作は南北朝頃との説がある。 平成二十七年三月二十九日 富山県教育委員会 黒部市教育委員会

石龕01
石龕02
↑↓→北野の石龕。
石龕03
 石龕を後にして、しばらく走ると右側に杜が見えて来た。神社だろうと思い交差点を右に曲がって杜の方角に進むと目指す沓掛八幡社だった。
↓→祭礼の行われる沓掛八幡社。
沓掛八幡社02
沓掛八幡社01
 境内で準備をしていた男性に、獅子舞は今どの辺りにいるか尋ねると昼休みの時間なので参道を出て直ぐの集落センターだという。歩いて行くと、そろそろ出発なのか大勢の人が外に出ていた。その中に生地にある新治神社の宮司さんがいらした。沓掛八幡社には普段宮司さんが居らず、新治神社の兼務社になっているそうだ。
 13時5分になって巡行が始まった。獅子舞の一行を先頭に、お神輿が後を着いて行く。
町まわり

 昨日は4区から3区を巡行し、今日は2区をまわるそうだ。獅子舞が演目を行い、その後に神職が祈祷をする。そうして一軒一軒まわって行くので時間がかかる。時々、箒を持った願念坊が現れて子供を追いかけ回す。昔はずっと獅子舞と一緒に歩いていたのだろうが、今は追いかけ回す子供が少なくなったため、子供が集まった場所だけ現われるようだ。
 下立や栃屋、新愛本で獅子舞や松明祭の先導をする願念坊を見たが、それらはジジとババの面を被っていた。 沓掛の願念坊は虚無僧のように顔をスッポリ覆う笠を被っている。この被り物は籠に紙粘土をつけてペイントしているそうだ。大正時代の写真にも願念坊はこのスタイルで登場しているという。ただ、古いお面もあるそうで嘗ては他の地区のようにジジ面、ババ面を被っていたのかも知れない。

↓→子供を追いかけたり、追いかけられたりして道化を演じる願念坊。
願念坊02
願念坊01
 17時を過ぎて境内では鳥居の横に置かれた篝火台に点火。ほどなくして祈祷を終えた神職が八幡社に帰って来られた。
還御の準備
 17時半頃、傘や刀を持った子供を肩に乗せて獅子舞の一行が参道を歩いて宮入りをする。
宮入り01
宮入り02
↑↓→祭りのハイライトとも言える宮入り。
宮入り03
還御
 獅子方の後にお神輿が境内に入り、宮司が御神体(神籬)を本殿に遷す。
 境内では奉納獅子舞が始まり、社殿では還幸祭が執り行われた。
 演目は以下の通り。
1.樽割り 2.さくる 3.乱丸 4.天狗相撲 5.受太刀(うけたち) 6.天狗 7.刀合わせ 8.傘相踊り 9.神楽 10.天狗 11.舟越し 12.二人天狗 13.もちまき
←還幸祭。
↓奉納の獅子舞。 
奉納獅子舞01
↑上段左:樽割り/上段右:振る舞い酒/中段左:さくる/中段右:乱丸/下段左:天狗相撲/下段右:受太刀(うけたち)
奉納獅子舞02
↑上段左:天狗/上段右:刀合わせ/中段左:傘相踊り/中段右:神楽/下段左:天狗/下段右:舟越し
奉納獅子舞03
↑二人天狗。↓願念坊の寸劇。
願念坊の寸劇
餅まきと団長の胴上げ
↑餅まき(左)と団長の胴上げ(右)。↓最後は全員揃って挨拶。
揃って挨拶
 13の演目があるが一つ一つは短いので、おおよそ1時間ほど。18時半過ぎには終了した。
 日が暮れるのが早くなり、空はすっかり暗くなった。参道の前の道を左折してひたすら真っ直ぐ走り、突き当たりの道を右折すれば黒部駅に着くと教えてもらったのでその通りに走る。駅横のコンビニでパンを一つ買って自転車を折りたたみ、パンを食べて19時23分発の電車を待った。

9月22日(土)

 福岡町の中心から車で40分ほど山の方へ入ったところに、沢川(そうごう)という集落がある。中学校には沢川出身の同級生が男子4人、女子4人いたが、みんな学校の近くにあった若竹寮に入っていた。同級生はいたが、ず〜っと集落に行ったことがなかった。どこにあるのかもよくわかっていなかった。
 昨年の11月に高岡市公営バスに乗れば片道100円で沢川まで行けるのを知って、ふらっと行ってみた。バス停にとまりながら終点の沢川まで50分ほどかかり、乗って行ったバスが町へ折り返す最終バスだったので初沢川の滞在は5分ほどだった。
 帰りのバスで沢川出身の運転手さんと話していると、毎年9月に行われる獅子舞もいつまで続けられるかわからないとのこと。獅子舞は山を下りて町で生活している人たちの息子や孫が演じている。無くなる前に写真に納めておこうかと思い、今月に入って役場に問い合わせて、第4土曜日の22日に行われることを知った。 愛宕社の秋季例祭で、始まりは12時頃だという。
 沢川行きのバスは4本あるが家の近所を12時37分発のバスだと到着が13時41分なので、一つ前で始発の8時41分発に乗る。これだと沢川に9時30分で早く着き過ぎるが、ゆっくり集落を撮影して歩ける。
 
 少し遅れて来たバスに乗ると、お客さんはお婆さんが一人。乗客2人を乗せてバスは山の方へと入って行く。先に乗車していたお婆さんは山ぼうし前で降り、終点の沢川まで貸し切りになってしまった。
 9時半過ぎに着いて先ずは祭礼の行われる愛宕社へ。境内と鳥居の間を道路が横切っている。境内に人はいないが、鳥居の横に祭礼の幟が立っている。
愛宕社01
愛宕社の鳥居
↑愛宕社。→愛宕社の鳥居。祭礼の幟には愛宕神社と書かれている。
↓→愛宕社の境内と、高岡市指定天然記念物の大いちょう。
境内の大いちょう
愛宕社02
 境内に御神木と思われる大きないちょうの木が立っており、市の天然記念物に指定されていることや愛宕社の由来を記した案内板が立っていた。

高岡市指定 天然記念物
沢川愛宕社の大いちょう 昭和四十五年十一月二十四日指定

 この大いちょうは、幹回りが約四・五mあり、地上四mのところで数本に枝分かれし、高さは約三〇mに達しています。
 樹齢は五百~六百年と推定されています。幹には乳根(枝が発育できずに変形したもので、内部に粉を蓄えている。主として雄木にみられる)が多くみられ、樹齢の古さを印象づけます。
 沢川集落の成立と愛宕社の関係は深く、治承元年(一一七七)の「鹿ヶ谷の謀議」による俊寛僧都の流罪にまつわる七軒百姓開村の伝承が伝えられています。伝承では、俊寛は鬼界ヶ島流罪をまぬがれて小矢部市の宮島にかくまわれていたとされている。彼を慕い集まった七人の百姓が沢川の地に留まってこの地を開拓し、俊寛の没後、守護神が現れ「我、汝らと共にここに鎮座す」と神託されたため、これを祀るために社殿を建てたのがこの愛宕社であるとされています。愛宕社の御神体は中央に不動明王、左右に地蔵菩薩と十一面観世音菩薩を祀っています。 高岡市教育委員会

集落の様子
 境内を出て、集落内を写真を撮りながら散歩。一番栄えていた頃は100戸ほどの家があったというが、現在住んでいるのは高齢者ばかりで20世帯ほどだという。住む人が居なくなり、廃屋となった家も何軒かある。
 沢川に到着した時は青空だったが、雲が流れてきてやがて雨も降り出した。持って来た傘をさし愛宕社へ戻ると、氏子の方が祭礼の準備をされていた。
 澤川営農通信というサイトに沢川の成り立ちを綴った澤川物語というページがあり、そこに 「ばんぶち(力石)」のことが書かれていた。
里では「盤持」と言います。
お宮さんの境内に形、重さ、の違った、数個の石が置いて有りました。(現存します)
その石を、膝の高さまで、上げる事ができるか、腰の高さまで上げられるか、肩に担ぐ事が出来るかを競い、力自慢。をしたのでした。
石、そのものは、「力石」で全国に通用します。

この力石はどこにあるか氏子の方に尋ねると、たぶん木の根っこに埋もれている石がそうだという。合計で5つほどが半分埋もれている。境内を修理するのに砂を敷いた時に埋もれたそうだ。
絵馬と力石

↑拝殿に飾られている絵馬と、境内で半分埋まっている力石。
←愛宕社での祭典。

 12時半になり、祭典が始まった。参加された氏子の方は3名。修祓、祝詞奏上、玉串奉奠が執り行われ30分ほどで終了した。
 祭典の途中に団長さんが獅子の到着が少し遅れると報告にいらした。団長さんは昨年初めて沢川に来た時に乗ったバスの運転手さんだった。

獅子舞01
 神事が終わったので愛宕社から200mほど離れた地区の集会所へ。ちょうど獅子舞の一行が出発するところで、男の同級生4人も揃っていた。一人は先月の中学の同窓会で会っているが、他の3人は中学の卒業以来か。
 13時過ぎに集会所を出た獅子舞は鳥居をくぐり境内に入ると、しばらく獅子舞を踊って拝殿に入った。
獅子舞02
 2頭の獅子がお祓いを受け、続いて拝殿の前に並んだ獅子方連中がお祓いを受ける。お祓いが終わると、神の御霊である紙垂を付けた獅子が、境内で奉納の獅子舞を演じる。そして村まわりが行われる。
 村まわりは、集落の一番上にあるお寺から始まった。お寺が終わると、次は田畑家へと移動する。 田畑家の入口横に杉の大木があり、その横に案内板が立っていた。

高岡市指定 天然記念物
沢川 田畑家の大杉 昭和四十五年十一月二十四日指定

 田畑家正門の入口に立つこの大杉は、樹齢約五百年と推定され、樹種はヤワラ杉(葉が柔らかい杉の変種)と思われます。幹回りは四・七m、樹高約三〇mに達します。鬱蒼とした樹勢もあってかつては天狗が棲むと恐れられていました。
 田畑家の先祖は能登口郡の領主、三宅弾正家秀配下の武士と考えられ、家秀から宝達山麓の二百数十町歩の山林を安堵されています。
 天正十二年(一五八四)の末森城の戦い(佐々成政x前田利家)では、田畑兵衛が成政勢の道案内を行い、わざと山中をさまよわせて前田方を勝利に導いた話は有名です。
 この結果、前田利家により従来からの所領を安堵され、寛永四年(一六二七)以降には、代々加賀藩の御扶持人山廻役に任命されています。
 江戸時代の初めに田畑家がこの地へ屋敷を移築し、土塁や堀をつくる際には、この木を残すために大変苦労したという話が伝えられています。 高岡市教育委員会

獅子舞03
花の読み上げ
田畑家の杉
↑花を読み上げる同級生。↓4人とも中学の同級生。→田畑家の大杉。

 田畑家では庭の隅にテーブルが出され、飲み物と食べものが並べられている。同級生から缶ビールを1本もらい、飲み干すと日本酒が紙コップに注がれた。
 獅子舞は夜の12時頃に境内で獅子ごろしを演って終わりだそうだ。現在は20戸ほどの集落で何でそんなに時間が掛かるのか不思議だったが、合間にお酒を飲んでる時間がたっぷりありそうだ。

 同級生が中学生だった頃は60〜70戸ほどだったそうで、その時は獅子舞をまわり終えると次の日の未明になり、疲れて歩けなくなって神社から家まで道を這って帰ったこともあるそうだ。 
獅子舞04
獅子舞05
 何軒か獅子舞について歩くと、同級生の女の子と遭遇。彼女の実家だった。実家に住んでいるのはお母さん一人のようだが、祭りの時には彼女や彼女の姉妹、彼女の子供や孫が集まり賑やかになる。せっかくなので家族揃った記念写真を撮ったら、出来立てのお赤飯をお土産にいただいた。
 夜まで獅子舞について歩きたいが、町に戻る最終バスは17時だ。
 心地よく酔っぱらってバス停に行くと、既にバスが待っていた。

9月19日(水)

 昨日今日と天晴な秋晴れ。ネットの天気予報を見て前日に決め、昨日、日帰りで立山登山に行って来た。おかげで昨日から太もも、ふくらはぎを中心に身体全体が筋肉痛だ。こちらの様子も後々UPいたします。
尾山神社の峰本社
↑雄山神社の峰本社がある、標高3,003mの雄山頂上。
松本路子さんの写真集
 富士山、石川県の白山と並ぶ日本三霊山の立山。小学生の時に学校の行事で一度雄山に登っているので、46年ぶりくらいだろうか?その時は一泊二日だったが、登山の様子はすっかり忘れていて、覚えているのは前日の夜に山荘で同級生達と電気を消して怖い話しをしていたことぐらいだ。
 小中学生の頃は修学旅行なんかで観光地へ行くと、三角のペナントを買ったりしたが、昨日見た立山の売店には置いてなかった。
 16日にアマゾンのマーケットプレイスでポチった写真集『Portraitsー女性アーティストの肖像ー/松本路子』(河出書房新社)が、17日に届いた。

9月18日(火)

 行こう行こうと思いながら他の撮影があったりお天気が良くなかったりで、延び延びになっていた立山登山。撮影したい雄山の頂上にある峰本社の開山期間は7月1日〜9月30日までなので焦っていたが、天気予報では今日と明日は晴れの予報だったので昨日のうちに食料などを準備して登山を決行した。
 ところで立山という名の山はなく、高い山の連なりが立山連峰で、その主峰が雄山だ。雄山に登るのは小学生の時以来で不安もあるが、とりあえず登れるだけ登ってみようと始発のあいの風とやま鉄道で富山駅へ向かった。
 6時11分に富山駅に着いて、立山行きの電車に乗り換える為に電鉄富山駅へと向かう。立山黒部アルペンルートのサイトに立山から室堂までの切符が電鉄富山駅で購入出来ると書いてあったので駅員に尋ねると、窓口は6時50分からだが40分に受け付けが始まると教えてもらう。
 待合室で昨日のうちにスーパーで買っておいたおにぎりを食べてから、窓口の方に行くと既に列ができていた。40分頃になると職員の女性が並んでいる一人一人に行き先と片道か往復、現金かカードを尋ねてまわりそれを記入した紙を手渡される。そして50分になり窓口が開くと、窓口の女性に紙を渡して料金を支払う。
 電鉄富山駅から室堂までは、先ず電鉄立山まで電車で行き、立山駅でケーブルカーに乗り換えて美女平駅へ。美女平から立山高原バスに乗り換えて室堂に到着する。片道3,630円だが、5日間有効の往復切符が6,710円と割安なので往復切符を購入。7時5分発の立山行きに乗車した。 

富山駅から室堂まで
↑上段左:早朝の富山駅/上段右:電鉄富山から室堂までの往復チケット/中段左:千垣駅と有峰口駅の間を流れる常願寺川/中段右:電鉄立山駅/下段左:ケーブルカーに乗り換えて美女平駅へ/下段右:美女平から室堂までのバスの車窓から剣岳を撮影
 8時16分に電鉄立山駅に到着し、8時40分のケーブルカーで美女平駅へ。7分程で美女平に到着してバスに乗り換える。バスは9時出発の予定だったが乗客が多いので、8時50分出発の室堂直行の臨時便が出た。
 運転手一人のバスだが、観光ガイドの映像と音声が車内に流れて外の景色を説明してもらえる。出発して直ぐに道路の真中に猿の子供が座っていて、バスが徐行する場面もあった。およそ50分程で室堂のバスターミナルに到着した。ターミナルの案内所で雄山への行き方を尋ねると、登山計画書は出されましたかと言われ、名前・電話番号・住所・行き先などを記入する。日帰りで雄山神社に登るのに登山計画書を出している人は他にいなさそうだったが。
室堂から雄山の方を見る
↑標高2,450mの室堂バスターミナル付近から雄山(左側の山)を見る。
室堂から一の越へ
一の越山荘

↑上段左:登山道のあちらこちらにお地蔵さんが/ 上段右:石を敷きつめた道を黙々と歩く。若い女性や海外からの登山客が多くて驚いた/中段左:紅葉も少しずつ/中段右:ナナカマド?/下段左:振り向けばみくりが池とみどりが池が見える/下段右:写真中央の人が集まっている広場に祓堂がある

 一時間程歩いて標高2,700mの一の越山荘に到着。魚肉ソーセージを1本食べて少し休憩。

一の越から雄山山頂へ
雄山神社の峰本社

↑上段左:一の越で休憩する人たち/上段右:一の越から頂上まではガレ場が続く/中段左:一の越山荘を見下ろす/中段右:山頂が見えてきた/下段左:振り返れば絶景。人が集まっているところが三の越だろうか/下段右:屋根に石を積んだ小さな祠

 途中休憩しながら、尻餅をつきながら一の越から1時間半ほどかけて雄山の山頂に到着。社務所の前で冷たいお茶を飲み、バナナを1本食べて休憩。

石碑と鳥居
↑立山雄山神社本宮と書かれた四角い碑と登山と彫られた岩(写真左)。鳥居の先に峰本社がある(写真右)。
峰本社
 鳥居の手前にある受け付けで初穂料500円を納めて、標高3,003mの頂上に建つ雄山神社の峰本社へ。ある程度参拝者が集まったところで、ご祈祷が行われる。
峰本社からの景色とご祈祷
↑峰本社から見下ろす社務所(お守りの授与所)と、峰本社でのご祈祷。
山頂から室堂へ
 登山は体力を使ってお腹が空くだろうと思い、おにぎり、菓子パン、魚肉ソーセージ、バナナ、キャラメルなど食料をたくさん持ってきたが、何故か食欲が無くバナナ1本食べるのがやっとだった。疲れ過ぎたのか、あるいは軽い高山病だったのかもしれない。
 50分程山頂に滞在して、下山を始める。下りは少し楽かなと思ったが、滑りやすく足を踏ん張らなくてはならないので、これはこれで大変。登っている時よりも、尻餅をつく回数は多かったかもしれない。
 2時間ちょっとで雄山山頂から室堂まで下りて来た。
立山玉殿の湧水と立山の石碑
↑室堂ターミナルの前にある立山玉殿の湧水(左)と、中部山岳国立公園立山と彫られた碑。
 室堂ターミナルに到着したのが15時半過ぎで、次の美女平行きのバスは16時20分。バス乗り場に行くと、係の男性が人数が揃えば16時10分に美女平直行の臨時バスが出ますので列に並んで下さいという。列に並んでいると人数に達したのか、臨時便が出た。
 バスの車内では、また観光ガイドのビデオと音声が流れ剣岳や称名滝を案内してくれる。
↓中央の尖った山が剣岳。→雲の中に浮かぶ称名滝。
車窓から見る称名滝
車窓から見る剣岳
 美女平駅から17時発のケーブルカーで、電鉄立山駅へ。
 電鉄立山から17時30分の電車で、電鉄富山へ。
 電鉄富山から富山駅へと歩くと、改札の電光案内板に18時42分の金沢行きの表示があった。出発まで後2分程。急いで切符を買い、改札を抜けてホームへのエスカレーターを上がる。
 ちょっと慌ただしかったが、思っていたよりスムーズに移動出来た。
↑美女平から電鉄立山駅へ向かうケーブルカー。所要時間は約7分。
峰本社でいただいたお札や鈴と履いて行ったトレッキングシューズ
↑初穂料を納めていただいたお札や鈴(左)。履いて行ったトレッキングシューズ。先月小矢部のアウトレットで購入(右)。

 先日読み終えた『とやま民俗文化誌/富山民俗文化研究グループ編』(シー・エー・ピー)より、立山と立山信仰に関する記述を引用させていただく。

半僧半俗の芦峅寺の衆徒
 ところで、日本各地の霊山ではこうした宗教者は一般的に御師(おし)と称されたが、芦峅寺衆徒たちの間では学問を重んじる気風が強く、自分たちのことを御師ではなく、あえて経論の学習や法会を司る学僧を意味する衆徒と称していたのである。
 江戸時代、芦峅寺は門前に三八軒の宿坊を有し、加賀藩政のもと、宗教的には寺社奉行の支配下におかれ、藩の祈祷所としての役割を果たすとともに、その衆徒たちは活発な勧進布教活動によって立山信仰を各地に広めたので、立山には修験者に限らず、一般庶民の参詣登山者も多くやって来るようになった。
(220P)

諸国での廻檀配札布教
 一方、経帷子はそれぞれの宿坊家で一一月頃から製作され、その際、家族の女子が裁縫を受け持ち、できあがった帷子に男子が種子や経文を木版で刷り込んだ。ちなみに、材料の白布は、芦峅寺で毎年秋の彼岸中日に執行された布橋灌頂会で使用された麻布で、さらに種子や経文を刷り込むときには立山別山の硯ヶ池の霊水を使用したと伝えられる。
(222P)

江戸での布教
 このほか、遊郭街の新吉原には立山信仰の講組織が結成されており、田町の枡九兵衛店の伊勢屋三四郎を世話人として、男女あわせて三五人の各店経営者が信徒として登録されている。こうした苦界に身を置く女性たちの間で、あるいはそれに関与した男性たちの間で、女人救済を力強く打ち出す立山信仰は魅力的なものとして受け入れられたのであろう。
(224P)

立山曼荼羅の絵解き
 さて、衆徒は檀那場で定宿に泊まり、近隣の村人を集め、この立山曼荼羅を絵解きしたが、先の五つの内容を曼荼羅から順々に引き出し、話芸を駆使し、身振り手振りもまじえて解説した。そして、男性に対しては夏の立山の地獄、浄土禅定登山を勧誘し、女性に対しては秋の彼岸の中日に芦峅寺で行われる布橋灌頂会への参加などを勧誘した。そのおり、自坊への宿泊を勧め、道案内などの便宜をはかることを約束した。立山の山容や立山信仰の内容をよく知らない人々に、それを立山曼荼羅の具体的な図柄で視覚的に紹介したので、庶民のあいだでは、難解な教理にもとづく説教よりも、こうした絵解きによる娯楽性の強い布教のほうが好まれたようである。なお、芦峅寺宝泉坊の元治二年(一八六五)の廻檀日記帳から、立山曼荼羅の絵解き代がわかるが、ほかの諸供養も含めて二三〇文から九五〇文のあいだである。
(225−226P)

立山曼荼羅の浄土真宗の影響と製作年代
 ところで、北陸地方では中世後期に浄土真宗の信仰が広まり、聖徳太子や親鸞聖人、蓮如上人といった高僧の絵伝が製作された。とりわけ「蓮如上人絵伝」については、寛政一〇年(一七九八)の蓮如上人の三百回忌を契機として、北陸地方や東海地方を中心に蓮如忌が盛んに行われるなかで、浄土真宗末寺の住職や信徒の志願から地方の絵師によって数多く製作された。
 寺々では、それを蓮如忌の際に掛けて参詣者に見せ、自寺あるいはその地域と蓮如上人とのかかわりを絵解きして民衆に対する教化活動に役立てたが、このように近世末期に盛んに行われた蓮如上人絵伝の絵解き布教の形態も、芦峅寺衆徒による立山曼荼羅の絵解き布教に大いに影響を与えたと考えられる。
(226P)

布橋灌頂会の執行
 布橋灌頂会は、毎年秋の彼岸の中日に芦峅寺の閻魔堂とうば堂、布橋を利用し、芦峅寺一山衆徒によって女性の極楽浄土への往生を願って執行された。まず初めに、全国から訪れた女性の参詣者は閻魔堂で懺悔の儀式を受ける。それが終わると芦峅寺の宿坊の衆徒(引導師)に導かれ、声明曲や楽器の演奏で賑やかな中を行道し、それから布橋を渡る。ちなみに芦峅寺の伝承では、女性の参詣者は、白布が敷き渡された布橋を目隠しをして渡らせられたが、悪人はこの橋から大蛇が口をあけて待ちうける谷川へ転落したといわれ、この様子は立山曼荼羅にも描かれている。布橋を渡り終えると、衆徒(来迎師)に導かれうば堂へ入る。堂内に入ると扉が閉め切られ、薄暗い中で籠の儀式を行う。その後、堂の扉がいっせいに開けられると、まばゆい光りが入り込み、まさに極楽浄土からの仏の来迎を疑似体験したのであった。女性の参詣者は、この儀式に参加することによって来世の極楽浄土を約束され、生まれ変わった気持ちで日常の生活に帰っていった。
(229P)

山岳信仰と立山の名称
 この立山とは、富山県の南東部に位置し、北アルプス(飛騨山脈)の北部にあたる山である。立山は、三つのピーク(頂上)がある。雄山(3,003メートル)、大汝山(3,015メートル)、富士ノ折立(2,999メートル)で、この三つの頂上が一つの巨大な山塊を構成している。
 立山をさす場合、どこまでを立山とするか、いろんな解釈がある。狭義的には、この三つのピークを立山と呼び、俗に立山連峰ともいう。もっと狭く解釈し、雄山神社の峰本社が鎮座する雄山だけをさす場合と、その三ピークで最も高い大汝山だけをさす場合がある。あるいは、この立山本峰とその南北に聳える浄土山、そして別山をあわせて立山三山と呼ぶこともある。また、鬼岳、獅子岳をも加えて立山連峰という呼び方もある。さらには広義的に、剣岳や大日岳などの峰々をはじめ、かつて立山本峰を中心に周辺の山々で行われた山岳信仰、俗にいう立山信仰の舞台となった連峰全体を立山という場合もある。
 立山が、最初に文献上に見えるのは、『万葉集』巻十七の「すめ神の頷き坐す多知夜麻(タチヤマ)」である。すなわち尊い神の領有支配をうけた神山と詠われている。立山そのものが神であり、神が宿る聖地として古来から畏敬されてきた山である。立山を中心に、同山中の地獄信仰に浄土の思想が習合され、法華、観音、地獄、大日、不動の信仰を混在しながら仏の本地を阿弥陀如来とし、立山権現の信仰形態を基本として宣布されてきた。これが、いわゆる神仏混淆の山岳仏教の一つ「立山信仰」である。この立山信仰に関係する地名が、今も数多く残っている。
(252−253P)

立山信仰に関する山名と峰
 立山三山の一つ、別山は立山本峰(本山)と対になる名称で、頂上には帝釈天を祀る祠があるので、別名「帝釈岳」とも呼ぶ。別山とは、神社の本宮と別宮、寺院の本山と別院と同様の意である。浄土山は、仏教の浄土に見立てて命名された。立山曼荼羅の中では、浄土山の上空に紅の日輪とともに二十五菩薩来迎の姿が描かれている。
 別山の西方に延びる山稜に大日岳がある。大日岳は、大日如来に由来する。峰(頂上)からは平安時代初期の錫杖頭が出土している。別名、金峯山(きんぶせん)とも呼ばれている。これは同じ修験者の聖地とされている、奈良の吉野の金峯山になぞらえたものである。
 立山の峰の一つ、雄山から北方に聳える山、剣岳は、剣の刃を並べ突き立てたような山容から、そう呼ばれるようになった。剣岳は古くから山そのものが不動明王として拝されてきた。
 地獄谷の西寄りに聳える伽羅陀山(からだせん)は、梵語で地蔵浄土のことをいう。
 浄土山の南方に聳える2,700メートル余りの鬼岳や獅子岳は、霊山である立山の一角で、神社における狛犬や獅子のように、守護神的役割を担った山の意からの命名ではなかろうか。
 浄土山に隣りあうように聳える龍王岳は、水神である龍神の山である。
 立山火山の火口壁のところにある天狗山は、妖怪的山神として畏怖された天狗にちなんで命名された。
 立山の麓である芦峅寺にある標高900メートル余の来拝山は、この山から立山を望み拝んだことから命名された山である。芦峅日光坊の「金峯山修行之次第」によると、修験者らが立山へ登る時は、麓の芦峅寺から、まずはこの来拝山に登って、そして大辻山、大日岳へと峰伝いに登り、立山へ向かったという。他にも、立山信仰に関する峰がいくつかあるが、立山連峰の南端に聳える薬師岳などは、ミサノマツという職人が薬師如来に導かれて登頂したので薬師岳と名付けられたという山である。
(253−254P)

その他の地名
 原が付く地名には、弥陀とは阿弥陀の略の意の弥陀ヶ原、千手観音の御堂があったという千寿ヶ原、仏教用語の五正色、五大色の意からか五色ヶ原、仏道、修験道を修行する人の意より付いた行者ヶ原などがある。
 平が付く地名には、妖怪的山神として畏怖された天狗にちなんで付けられた天狗平、大日如来の意のある大日平、古来、立山禅定者が岩屋で宿泊し、その岩屋にこもった堂という室堂平、女人禁制とされた立山に、若狭国の止宇呂尼という女僧の連れて来た壮女が、山の神の怒りに触れて、その美女の壮女が杉にされたという伝説がある美女平など。
 滝が付く地名は、大日如来の化身した不動明王にちなむ不動滝、涅槃の意のハンノキ滝、来世からの仏のお迎えの意である来迎の滝、滝の音が南無阿弥陀仏と称名念仏を唱えているように聞こえるから付いた称名滝などがある。
 池が付く地名には、御厨(みくり)は神様のための食物を料理するところの意であるみくりが池、世俗を断って神変自在の術を有する仙人の意より付いた仙人池がある。
 谷が付く地名には、現世に悪業をなしたものが死後に苦行を受けるところという地獄谷、仙人谷(仙人池と同じ)などがある。
(255P)

9月16日(日)

 安室奈美恵さんが今日で引退。昨日は故郷の沖縄で最後のステージに立ったが、今日の新聞はその記事でいっぱいだった。まさに平成を駆け抜けた歌姫だな。
奈美恵!奈美恵!奈美恵! 安室さんの「ありがとう」に
終わらぬ「奈美恵」コール 安室さんラストライブ 感謝の声相次ぐ
安室さん「本当に本当にありがとう」 最後のライブ、1曲歌うたびにガッツポーズ!
「本当に本当にありがとう」 安室奈美恵さん、感謝のラストライブ パワフルに全8曲を歌いきる
沖縄県民の安室愛が氾濫している

 一昨日、日本記者クラブ主催による自民党総裁選の討論会が行われた。NHKが中継していたので、途中からネットで観ていた。相変わらず本来なら3行で終わる話しが、無駄な接続詞と改行で延々と続くから何の話しかわからなくなる安倍話法。2部は記者団からの質疑応答で、珍しく記者団が突っ込んだ質問をして頑張っていたが、噛み合ない答弁が多い安倍話法。衣ばかりの天ぷら並に中身のない答弁を繰り返す。
 石破さんの考えに同意するかは別にして、彼が何を言っているかは国語能力として理解出来る。公開討論会の内容を「信号無視話法」分析した記事があった。こうしてわかりやすく可視化することは、大切だな。少なくとも対話の成り立つ人が総裁=総理になってもらいたい。
 この討論会のノーカット映像がYou TubeにUPされている。こちら。2時間弱と長いですが、見逃した方は是非。特に2部の記者団からの質疑応答は、とても面白い。発言内容以上に、表情や挙動が多くを語っている。

 7月、8月は暑すぎて全然触っていなかったが、涼しくなってきたので一昨日から電子ドラムを叩き始めた。プレイをして直ぐにスティックを握る左指に水ぶくれができた。

秋田と萩へのイージス・アショア配備こそ、日本を逆に窮地に追い込む「平和ボケ」
 前回の記事では 、なぜアメリカから高い金額で迎撃システムを購入して、北朝鮮がアメリカを狙って撃ったミサイルを日本が撃ち落とすのかという話しだったが、今回は、さらにイージス・アショアを配備することで秋田と萩が標的となるという話しです。
 なぜ米軍基地の配備に沖縄の人が反対するのか、それは先の大戦で地下に日本軍の司令部が設置された首里城は破壊され、飛行場などの軍事拠点があった伊江島も激戦地となり終戦後は島の1/3がアメリカ軍の基地として接収された。沖縄の在日米軍基地は抑止力になると本土の人間は言うが、捨て石にされた沖縄の人は、基地というものが抑止力ではなく攻撃対象となることを身を以て体験している。秋田と萩にイージス・アショアを配備するということは、そこが攻撃対象になるということ。
 北朝鮮はノドンやテポドンで充分に日本の国土の大部分を射程圏内に納めているわけで、そのミサイルの数は数百発とも言われている。大陸間弾道ミサイルなど必要なく、一度に数十発のノドンを日本海側に向けて発射されたら2基のイージス・アショアで対処できるわけがない。アショアで撃ち逃がしたミサイルはPAC3で迎撃するというが、PAC3の射程距離は20kmと言われている。これで、どうして日本全土をカバーできるのだろう。
 高額な防衛費を使って危機を招くだけ、と非難されてもしょうがない。

 この他、興味深かった記事を備忘録として。
26歳の右翼活動家は、なぜ保守系出版社を襲撃したのか 右翼と愛国 若手民族派の思考回路
日本を支配する町? 「田布施システム」の謎を安田浩一が解き明かす 前編
後編「明治天皇の末裔」が背負ってきた苦悩

新しいトップページ

トップ画面を模様替え。前回に続いて子供の写真。2012年9月30日(旧8月15日)に行われた、糸満大綱引きを見に行った時のスナップ。離島は「15の春」があるけれど、奄美も沖縄も小さい子供をたくさん町中で見かける。↓これまでのトップ画面。

これまでのトップページ
 昨年の9月13日に撮影した前田利長公顕彰祭の様子をPhoto Albumにしました。こちら
前田利長公墓所
↑顕彰祭の日だけ一般開放される、利長公墓所。
 樹木希林さんが15日に亡くなられた
 芸名が悠木千帆から樹木希林になった時に、えっ?と思ったけれど、40年が過ぎて悠木千帆という芸名を忘れてしまっていた。ホントに、個性的な役者さんでした。いや、存在自体が個性的だったのか。
◯「こんな姿になっても…」若者へ樹木希林さんが直筆メッセージ

9月13日(木)

 稲刈りの季節。昼過ぎに隣の田んぼにコンバインが入った。外側からカクカクカクカクとまわって30分程でキレイに刈り取って行った。
稲刈り01
稲刈り02
 『日本の古社 伊勢神宮』(淡交社)を読み終えた。気になった箇所を備忘録として。

神宮の古儀は語る 小堀邦夫(神宮教学課長)
神を労ぐ人
 神職のことを禰宜さんとよぶのは、かなり遠い時代の記憶を宿しています。語源は「労ぐ・ねぐ」(上二段活用の動詞)の連用形が名詞になったもので、神の心を安め、その加護を願うことと説かれます。願うや労うの語はその派生語です。禰宜さんのつとめの第一は、神の勢いを安め、そのうえで大と小とを問わずおのおのの共同体の平安と繁栄を願うことにあります。

御神体は宝鏡
〜略〜宝鏡は天照大神の御魂の依り憑かれた御神体ですが、神宮では御霊代、または御形(ゴギョウ)とよびます。
 御霊(魂)に相当するもの、あるいはミタマの代わりになるものが、ミタマシロの現代語訳でしょうから、天照大神とミタマシロの関係を国学者・本居宣長の『古事記伝』での考えをもとに解き明かしてみたいと思います。あかあかと灯っている蝋燭を天照大神としますと、そのミタマ(神霊)の力(神威)は灯火と考えられます。そこへ新しい蝋燭を一本持ってきて、前の火から灯したとしますと、前の灯火と同様あかあかと灯ることになります。この後者がミタマシロ(御霊代)と見られるのです。つまり天照大神は高天原にいらっしゃるのだけれども、その神の力とまったく異なることのないミタマシロとして八咫鏡を代々の天皇がお祭りされてきたのです。この理解に立ちますと、全国に数多ある八幡さまや祇園さんの神々と御神体の関係がわかりやすいと思います。では、ミタマシロ(宝鏡=八咫鏡)をはじめ多くの神社の御神体として祭られる鏡が、なぜ先ほどの蝋燭の役目を果たすのでしょうか。鏡の語源は影=見(カガはカゲの交替形と考える)と説かれるのが一般ですが、重要なのはその機能(はたらき)です。モノを映すという働きがただちに思い浮かぶでしょうが、映すは写すや遷すと同語ですから、御霊(みたま・みひ)を移すにもっともふさわしいものがカガミであったと考えられます。剣が御神体とされる場合も同様に、影や光(国語では星影は星の光と同じ)を映(移)すものであったからです。

ヤシロ(社)からミヤ(ミヤ)へ
〜略〜
 さて、内宮が今日のごとく、壮大な祭場へと発達するのは天武天皇・持統天皇の御代を中心とする時代、文化史上の時代区分でいう白鳳時代(大化改新<645>から平城京遷都<710>まで)であろうと考えられます。
 雄略天皇元年(四五七)三月条 伊勢大神の祠(やしろ)
 継体天皇元年(五〇七)三月条 伊勢大神の祠
 敏達天皇七年(五七八)七月条 伊勢の祠
 と「祠・やしろ」の時代がつづいたことを「日本書紀」は伝え、天武天皇二年(六七三)三月十四日条に、「天照大神宮・あまてらすおおみかみのみや」、また同三年十月九日条に「伊勢神宮・いせのかみのみや」と記すように「宮・みや」の時代に入ったことが知られます。ミヤのミは御のことで、ヤは家や屋で建物のことですから、それは”大きな宮殿のような建物”と理解されます。神社(神のヤシロ)から神宮(神のミヤ)へと規模を大いに改めて、神事もまた制度的に整備されてゆくことになりました。制度とは古代の憲法である大宝令(たいほうりょう)や法律の延喜式などに条文化された内容を指します。

神事の循環 
 神事に供えられた御饌(みけ)の品々は、まず神が召し上がられ、そののち人も神とともににぎやかに飲食する(直会の儀)のが一般でした。ナオライの「直る」はもとにもどることで、神事の際の緊張から解かれて日常的時間にもどることを意味します。

神宮の式年遷宮
 なぜ遷宮(宮を遷す)するのかという問には、先に述べたように、ミヤ(宮)と発達する以前のヒモロキ(神籬)やヤシロ(社)の伝統を想起すればよいのです。それらはその年の瑞々しい実りを俟って行う大祭(神嘗)に際して、臨時的仮設的に祭場が設けられていたのですから、ミヤ(壮大な建造物)へと発達した日にも、大祭を迎えるには新たな祭場、清々しい神の御座(みまし)を用意しなければならなかったのです。しかし、神の宮という宮殿のごとき大造営を前にしたとき、毎年それを実施することは到底できないことでしたから、式年を定めなければなりませんでした。

建築形態と信仰・祭祀の形態
 古代王権の祭祀が再編成されて、律令制に基づく国家祭祀(官祭)として神宮祭祀が確立する時期としては、天武・持統朝を重視する説が有力である。神々のための常設の建築が造られるのは、王権に直結する神社から始まったと考えられ、律令制のなかで有力な神社が確立され、各時代における朝廷の崇敬と、各氏族の権勢の継続とが神社の繁栄や社殿の維持、発展に強く関係するとともに、信仰や信仰形態に変化の生じたことも間違いなかろう。
〜略〜
 神宮の祭場にしても、拝殿、幣殿などの施設が発生する以前、野天で祭儀が行われていたころの状況をとどめているし(庭上祭祀)、内宮内玉垣御門前の広場・中重(なかのえ)では石壷がつくられ、勅使や祭官の着座の場所を示し、そこより進み出て幣帛を捧げ、祝詞を奏上する。そのためには律令制のなかでの儀式空間の整備が進んでいなければならない。

心御柱(柱信仰)
 正殿の床下には何人も見ることを許さぬ、古来より神聖視されている「心御柱・しんのみはしら」が囲われて存在する。
 神殿の建つ殿地と「心御柱」が覆われて残る神宮の古殿地は、社殿神道期と自然神道期のすがたをうかがわせ、後者は原始的な「磯堅城の神籬・しかたぎのひもろき」という祭祀の空間に近いものと考えられる。「磯堅城・しかたぎ」とは石で囲まれた、または石を敷きつめた境域を意味し、そこに一本の御柱に象徴される神籬が立てられたすがたが想定される。このことから想起されるのは、内宮別宮の伊雑宮(いざわのみや)の宮域の南にある神田である。そこでは垣で囲われた神田の中央に一本の独立した柱のみが立てられ、鳥居を通して拝される。
 柱は古墳にも立てられた。それは一種の神坐(かみくら)として新来の「魂」をよぶ憑坐(よりまし)で、祖霊を迎えるものであったと考えられる。そうすると、東西両殿地の存在は、建築的には式年造替の古形式の遵守に役立つ一方、そこには原始的な祭祀空間の定着、常設化の意味と、「心御柱」を覆う社殿祭祀、建築的空間が同時併存するすがたとして捉え直すことができる。なお、前述の芝遺跡出土の土器片の図は、一間四方の建物の中央に太い柱の立つ構造であった可能性がある。

ラシッド・タハ

 フランス在住のアルジェリア人ロッカー、ラシッド・タハが9月11日に亡くなったというニュースが、フェイスブックに流れて来た。自宅で就寝中に心臓発作を起こしたという。1958年9月18年生まれだから、ほぼ同級生だ。
 左の写真は2001年に初来日(唯一の来日?)した時に、雑誌の仕事で撮影した。データを見ると2001年10月2日となっている。9.11の直後で、まだ世界がテロに震撼している時に撮影したのか。

 沖縄県知事選の告示が今日行われ、4人が立候補した。
 立候補者の一人、前宜野湾市長の佐喜真淳氏がツイッターで、沖縄の渋滞の深刻さを訴えて「対策待ったなし」とつぶやいていて驚いた。この人、前回の宜野湾市長選で普天間跡地にディズニーリゾート誘致を公約したのではなかったか。只でさ渋滞の激しい普天間周辺にリゾートが出来たら今の渋滞どころではないだろう。

 昨年の9月10日に撮影した福岡町1区のオモテの宮の獅子舞と、2区のウラの宮の獅子舞の様子をPhoto Albumにしました。こちら

オモテの宮の獅子舞
↑オモテの宮の獅子舞。小学生の頃は、よくこの宮で野球をしたりして遊んだ。↓ウラの宮の獅子舞。
ウラの宮の獅子舞
人手不足深刻…土曜の郵便配達取りやめ検討
生活苦7年半 東日本大震災3460世帯 災害援護資金 半数返せず
40歳代の半数が睡眠6時間未満 国民健康・栄養調査
統計所得、過大に上昇 政府の手法変更が影響 補正調整されず…専門家からは批判も
日本の教育公的支出は最低 15年のOECD調査
 この2日間ほどで流れて来たニュースを繋げると、労働力人口の低下に伴う人手不足で睡眠を削って働いているが給料は上がらず、おまけに国が教育機関への公的資金を出し渋っているので家庭の教育費への負担が大きく生活は困窮。でも、その状況を国民に知られないように政府は所得に関する統計を操作して誤摩化している。凄いな日本。

9月10日(月)

 しばらく前はあんなに暑かったのに、9月になって急に秋めいてきた。一昨日は今期初めてのおでんを食べた。
遠征してきた獅子舞

 秋祭りの季節も始まって、今日は朝から獅子舞のお囃子が聞こえて来る。
  お昼前、窓の外が賑やかなので開けてみると、斜め向かいの家にオモテの宮の獅子舞が遠征に来ていた。斜め向かいの家は何年か前まで、オモテの宮のある1区に住んでいらしたからだろう。

←雨の中、遠征して来た1区の獅子舞。獅子舞を終えてトラックの荷台に乗って次の家へと走って行った。

 今日9月10日は、射水市にある櫛田神社で秋季例大祭が行われる。神輿の出御祭の後、獅子とお神輿が各村の御旅所をまわる。そして夕方、神社に還御した獅子とお神輿が境内入り口で火渡りを行う。氏子の繁栄を祈り、村々を祓ってまわった際についた穢れを火で焼き払うのだろう。
 『とやまの民俗芸能』(北日本新聞社)によれば、火渡りを修験道では「火生三昧耶法・かしょうさんまいやほう)」というそうだ。
火で穢れを焼き去ることによって、己が不動明王(忿怒の形相で悪魔を降伏させる仏)と一帯となり、超自然な力を発揮することが出来るとの考えによって催されるのである。このように火渡り神事は、山伏らが伝えた不動明王信仰に基づく習俗である>と書かれている。
 不動明王は真言宗、天台宗、禅宗、日蓮宗等の他、修験道でも信仰されている。櫛田神社の火渡りについては観光ガイドなどに<神社南方の大沢山丘陵に、串田本村の真宗大谷派勝連寺の前身天台宗三学院があったことから、天台山伏によって伝えられたといわれています>という記述がある。
 また『とやまの民俗芸能』によれば、天狗が松明を持って獅子と対峙する六渡寺の獅子舞も不動明王信仰の影響が強いとされている。
 今日が祭礼の福岡町1区(オモテの宮)、2区(ウラの宮)でも、夜に境内で行われる獅子ごろし(2区は一刀振りと呼ぶ)でも天狗が松明を持って獅子と対峙する。どんな経緯で伝わったかわからないが、こちらも不動明王信仰の影響があるのだろう。

 火渡りはしないが、不動明王との関わりを示す獅子舞がある。白山社からお神輿の先導をして、隣接する千光寺の境内をまわる魚津市・小川寺の獅子舞だ。神仏混淆の祭りとして知られる祭りだが、この行道獅子の獅子頭に梵字の「カーン」という文字が刻まれている。梵字のカーンは「不動明王」を表している。
 千光寺は真言宗の寺院で、 小川寺の住民のほとんどが真言宗の信徒だそうだ。『知っておきたい日本の仏教』(えい出版)によれば、「真言宗寺院の本尊は観音菩薩や不動明王などさまざまですが、それも大日如来の現われです」と書かれている。

櫛田神社と二口熊野神社の火渡り
↑左は櫛田神社の火渡り神事。2017年9月10日撮影。右は二口熊野神社の火渡り神事。2015年9月5日撮影。
福岡町1区と2区の獅子舞
↑左は福岡町1区(オモテの宮)の獅子ごろし。2017年9月10日撮影。右は福岡町2区(ウラの宮)の一刀振り。2017年9月10日撮影。
↓六渡寺の獅子舞。→小川寺の獅子舞。獅子頭の鼻に梵字の「カーン」。
小川寺の獅子舞
六渡寺の獅子舞
 昨年の9月10日に撮影した櫛田神社の秋季例大祭の様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
櫛田神社の秋季例大祭01
↑御旅所から御旅所へ巡行するお神輿。↓村々をまわった後、境内入り口で行われる火渡り。
櫛田神社の秋季例大祭02

 政府は北海道地震で被災した方の当面の生活を支援する財源として本年度予算の予備費から5億4000万円を支出することを決定したそうだが、どう考えても少ないだろう。海外へ行く度に莫大なお金をバラまいて来るのに・・・。
 この他の気になった記事を備忘録として。
北海道胆振東部地震「泊原発が動いていれば停電はなかった」論はなぜ「完全に間違い」なのか
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沖縄デマビラ物語
【沖縄の真実】沖縄のウヨ活動と新興宗教の関係

 ようやく『とやま民俗文化誌/富山民俗文化研究グループ編』(シー・エー・ピー)を読み終えて、『日本の古社 伊勢神宮』(淡交社)を読み始めている。

9月6日(木)

 4日に上陸し、5日にかけて暴風雨をもたらした台風21号による被害の全貌も明らかにならないうちに、今度は北海道を震度7の地震が襲った。
 朝起きてパソコンを起ち上げて目にしたニュースが未明に起きた北海道の地震で、朝、昼、晩のニュースはほぼ地震一色だった。台風21号は昨日、一昨日のことなのに、なんだか既に遠い過去のような感じすらする。
 当初は北海道全戸約295万戸が停電したが、午後4時には約32万9000戸で復旧したようだ。地震による停電で一時外部電源が喪失していた泊原発は、非常用ディーゼルで核燃料プールを冷却していたが、午後1時までに1〜3号機全てで外部電源が復旧した。今回の地震は「平成30年北海道胆振東部地震」と命名された。
朝日新聞の北海道地震のニュース
震度2で電源喪失寸前だった北海道・泊原発「経産省と北電の災害対策はお粗末」地震学者
北海道・胆振地方で震度7 写真特集

 それにしても、2011年の東日本大震災以来、気がつけば日本列島はボロボロだ。
 日本経済新聞の2018年3月10日の記事によれば、東日本大震災で全国に散らばっている避難者は今年2月13日現在で約7万3000人、プレハブの仮設住宅に暮らす人が岩手、宮城、福島の被災3県に約1万3000人
 やがて2年半が経つ熊本地震でも、県の調査によれば2018年5月31日現在で、3万2563人が仮設住宅に入居している。
 まだ記憶に新しい西日本豪雨による避難者数は7月12日現在で7085人に上り、呉市では今月2日に漸く仮設住宅への入居が始まったばかりだ。
 2020年の東京オリンピック・パラリンピックは「復興五輪」だそうだが、被災者と仮設住宅が日本のアチコチで増えて満身創痍の中で、何が復興なんだろうか?

積み上がる日本の武器調達ローン残高、19年度は5兆円突破
  ミサイルで攻められる前に、借金で国が沈没しそうな気配だ。
麻生氏「G7で唯一の有色人種」首相支援の会合で発言
 なんだろう、このアホ発言。この人が現在の副総理だという不幸。

 昨年の9月2日に撮影した善徳寺の一心講踊りの様子をPhoto Albumにしました。こちら

善徳寺の一心講踊り01
↑仮装して踊る参加者。『とやまの民俗芸能』(北日本新聞社)には、「チョンガレ節のチョンガレという語は、ちょうける(ちょぼくれ)、つまり剽軽者(ひょうきんもの)の意味である」と書かれている。↓ちょんがれの「目連尊者」を歌う3人の音頭取り。
善徳寺の一心講踊り02

 明日からしばらく雨のようなので、先月行われた鉄砲町・白銀後町の天神祭の写真とフォトブックを大木白山神社の宮司・高尾宗清さんのところへ届けに行った。高岡まで電車で行けば往復460円、運動も兼ねて自転車にした。写真とフォトブックのお礼に、お茶っ葉をいただいて帰って来た。奥さんが禰宜かと思っていたが、娘さんが禰宜だそうだ。

9月5日(水)

 風はまだ強かったが、台風一過の青空が広がった。奄美や沖縄で台風にはだいぶ慣れたと思ったが、昨日の台風21号の北陸通過は久しぶりに冷や冷やさせられた。今日は朝から台風の被害で孤島になってしまった関西国際空港のことで、テレビは持ち切りだ。
関空孤立5000人、輸送開始 台風21号 死者11人に
台風被害、関空閉鎖の長期化必至 連絡橋の復旧めど立たず
街路樹倒れ、風圧で窓割れる 台風21号、神戸に再上陸
68万人に避難勧告・指示 台風21号の影響広がる
関空が孤立…各地で甚大な被害/台風21号写真特集
台風21号 関西空港滑走路など浸水、最大風速58m
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【写真特集】台風21号被害、大阪の街の被害
昨日の田んぼ
7月初旬の田んぼ
 上の写真は昨日撮影した隣の田んぼ。枝豆とお米を交互に植えていたが、何故か今年は昨年に引き続きお米を植えている。台風が近づいてきて、強い風が稲穂を揺さぶっていた。
 左の写真は同じ隣の田んぼで、こちらは7月の初旬にやはり2階の自分の部屋から撮影した。初夏の風がスーッと渡り、稲の葉を気持ち良さそうに揺らして行った。2カ月で随分と田んぼの表情が変わった。

 前田真三さんの写真集『ふるさと』に、<水田は生産の場であり、季節の鏡である>という言葉が載っていた。なるほど。

 昨年の8月26日に撮影した黒河夜高祭の様子をPhoto Albumにしました。こちら

黒河夜高祭
↑田楽行燈を掲げた子供たちが大きな声で「チョーサイタニワカ ゴモンザイタニワカ サンモンザケニヨータヨータ」と囃子唄を歌いながら黒河神社と西養寺をまわる。

9月3日(月)

 このまま暑い日が延々と続くのかと思ったが、9月になって季節は進み、昨日から空気が秋のそれになった。今日は快晴だったが、サラッとした暑さで心地よかった。
40年前のT-Birdの写真

 あれから18年・・・の「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ☆アディオス」が今月1日から金沢シネモンドで上映されているが、こちらは40年前。確か東北・北海道ツアーの帰り道。赤い「T-Bird」号がちょう4万キロを走破した。色紙には40,000km走破と書いてある。越中さん、嬉しそうだな〜(笑)。

 高校を卒業した1978年。高岡にあったライブハウス「タムタム」のマスターのすすめで、この年にビクターのフライング・ドックからデビューした石川県出身のロックバンド、T-Birdのローディーをする事になった。楽器を詰め込んだ赤い大型の楽器車「T-Bird」号にメンバー全員が乗って毎月のように関西や関東のライブハウスに行き、夏には九州や東北・北海道もまわった。
 九州は長崎の「カボ」、博多の「多夢」。2つとも、もう無い。北海道は札幌の「神経質な鶏」、小樽の「メリーズフィッシュマーケット」、苫小牧の「阿弥陀」。こちらも、もう無い。他にもたくさんのライブハウスをまわったはずだが、当時のスケジュール帳がない。スケジュール帳を持って40年だが、初めて買った1978年の分だけ失くしてしまった。持ち慣れていなくて、半年ほどの間に2、3回落としたり忘れてきたりしたから。

 そう言えば、あの頃、みんなTシャツはジーパンに入れていた。流行は繰り返すというから、またTシャツをジーパンに入れる日がいつか来るだろうか。
 1978年の夏、九州や東北・北海道をまわった時のスナップが古いアルバムに残っている。複写したものを、こちらにUPしました。

 昨日は城端別院善徳寺の一心講踊りを見に行ってきた。こちらの様子も後々UPいたします。
善徳寺の一心講踊り
↑仮装した地元の人にまじって、本格的なコスプレイヤーも参加して踊る善徳寺の盆踊り大会。
 気になった記事を備忘録として。
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9月2日(日)

 今日は、城端別院 善徳寺の一心講踊りが行われる。昨年初めて撮影したが、踊りの後半に歌われる「ちょうんがれ」をまた聴きたくて出かけた。
秋の空
善徳寺01
 自転車で戸出駅まで走り、16時59分の城端線で終点の城端駅へ。17時36分に到着して、ゆっくり善徳寺まで歩く。空はなんとなく秋の空だ。
 18時少し前に善徳寺に到着。境内には提灯が吊るされているが、人の気配はない。
 しばらく写真を撮って過ごしていると、本堂から何のキャラクターかわからないが、本格的なコスプレ姿の女の子が4人出て来た。
善徳寺02
 少しずつ踊り手も観客も集まって来る。ちょんがれの音頭取りであり、城端町古典民謡保存会の会長さんに7月に善徳寺で開催された磐持ち大会での「盤持講甚句」の歌と踊りの写真をお渡しする。この時もちょんがれの「目連尊者」を歌われたが、触りの部分だけだった。今日のちょんがれの曲目を尋ねると、やはり「目連尊者」だった。
一心講踊り
 開始時刻の19時になって一心講踊りが始まった。オカメやヒョットコに虚無僧といった仮装、小学生の男の子はダンボールでパーツを作ってロボットになっている。その中に本格的なコスプレイヤーもまじってスピーカーから流れる「麦屋節」「こきりこ節」「炭坑節」「といちんさ」といった民謡で輪になって踊っている。
 40分ほど踊った後、少し休憩してから、今度は仮装の審査のために番号を書いた札を受け付けでもらって首に下げて踊る。審査員が後で仮装の出来をみてそれぞれに賞品を配る。
ちょんがれの音頭取り
賞品の受け渡し
 しばらく民謡で踊った後、いよいよちょんがれが始まった。音頭取りは昨年と同じ3人の男性だ。
 伴奏は一切なく、最初は甚句のように朗々と歌うように始まる。そして途中から僅かな抑揚でリズムに乗せて早口にしゃべるように歌う。
 昨年初めて聴いた時ほどインパクトはなかったが、やはりラップのようだ。ちょんがれについては、昨年書いたこちらを参考に。
 10分ほどと一曲としては長い「目連尊者」が終わり、一心講踊りは終了した。踊り手たちは本堂の階段下に設けられた受け付けで賞品を受け取る。
 ご挨拶をして帰ろうと思ったが、20時20分近くになっていた。高岡方面の城端線が20時40分なので、そのまま駅へと急いだ。
 20時40分の城端線で戸出へ。戸出駅に21時14分に着いて、駅前の駐輪場にとめておいた自転車で家へと向かう。涼しい秋の空気だ。

9月1日(土)

 今日から9月。
 近いからいつでも行けると思っていたら、気がつけば写真展終了前日。今日の午後、ようやく新美敬子写真展『ねこと、いぬと、いつまでもー世界で出会ったそれぞれの暮らしー』を見に行ってきた。雨が止んだ土曜日の午後、小さな子供を連れた家族での来館が多かった。
 最終日の明日は、新美さんのサイン会が14時から行われる。

 ミュゼふくおかカメラ館では写真展と同時にカメラのコレクション展を開催しているが、現在展示されているのは『カメラとふくおかまちーいま、むかしー』で、大正から昭和に撮られた福岡町の写真がカメラと共にガラスケースに飾られている。
 古い校舎の小学校や中学校、今は移築されて歴史民俗資料館になった嘗ての役場(図書館)などなど。個人的に面白かったのは、小学校が統合された時に、大滝校区の小学生が日の丸の旗を持って池田食料品店の横の道を新しい小学校へ向かって歩いている写真だ。
 こちらのコレクション展は、11月25日まで開催されている。

昔の福岡町の写真

 上の写真は家にあった、昭和40年代初め頃の福岡町の写真。写っているのは祖母、私、従兄弟、妹。たぶん魚竹(片原鮮魚店)の前かな?左後ろに川が少し見えるが、今は暗渠になっている。昔は町中に小さな川(用水路)がアチコチに流れていて、川に落ちた。自転車に乗ってそのまま落ちたこともある。今はほとんどが暗渠になっている。
 この写真を撮ったのは祖父だろうか。良い写真だな。

 昨年の8月26日に撮影した入善町吉原地区の恵比須祭りの様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら

吉原の恵比須祭り01
↑北前船を模して造られた屋形船の神輿に御神体を乗せ、地区を巡行する。
吉原の恵比須祭り02
↑屋形船は漁業関係の会社や公民館を中心にまわり、宮司さんがお祓いをした後、子供と青年団員が余興を披露する。

8月へ