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バックナンバー
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能

9月2日? 善徳寺 一心講(ちょんがれ踊り) 記事 記事
9月2日(土) 小矢部・太田神社 願念坊踊り
9月6日(水) 富山・草島神明社 奴ぶり*奴ぶりは現在、定期的には行われていない。
9月10日(日) 櫛田神社秋季例大祭 巡行13:00〜 火渡り18:00頃
9月13日(水) 前田利長公顕彰祭10時〜10時40分  墓所の一般公開10時40分〜14時まで
9月13日(水) 高岡古城公園「石碑」の除幕式 14時〜
9月16日(土) 魚津八幡宮献灯みこし祭り 記事 みこし祭りHP
9月16日(土) 新湊曳山 紺屋町の町内曵き
9月17日(日) 新湊曳山 三日曽根、荒屋町の町内曳き
9月20日(水)? 福岡町赤丸・浅井神社 獅子舞と乙女の舞
9月23日(土) 新湊曳山 長徳寺、奈呉町、東町の町内曳き
9月23日(土) 有磯正八幡宮 獅子頭総覧 10時〜17時
9月23日(土) 高岡大仏まつり お身拭い10時〜
9月23日(土)? 海老江曳山まつり
9月23日(土)、24日(日) 五箇山麦屋まつり
9月24日(日) 布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ) 記事 無料シャトルバスの時刻表 特別乗車券
9月30日(土) 高瀬神社 観月祭 出雲大社「大土地神楽」奉納
10月6日(金) 六渡寺の獅子舞
10月9日(月) 高周波文化ホール とやまのたから2017射水x南砺 新湊浜獅子太鼓 越中五箇山こきりこ
10月 愛本新用水天満宮松明祭
10月 入善町 墓ノ木タイマツ祭り
10月 氷見市谷屋 ふなとかめ
10月21日 宇奈月町下立の獅子舞 映像
10月25日(水)? 伊勢玉神社 柿天神 記事
11月3日? 砺波・頼成の獅子舞
11月20日 氷見市小杉の恵比寿祭
12月27日(水) 福野 歳の大市


朴谷の獅子舞 1月2日
小川寺の獅子舞 宮田・火祭り1月第4日曜日 記事 記事
◯お鍬さま 1月11日 記事記事
◯与四兵衛祭 関野神社 4月3日
◯4月 埴生護国神社 屋根の葺き替え完成の慶賀祭を予定
◯4月第2土曜?10時〜 小矢部 福町神明宮 春福まつり 神獅子(行道獅子)
◯4月15日に近い土曜日? 楡原の獅子舞
◯4月19日 新川神社 春祭り どべ(猿田彦) 記事
◯4月第4日曜日? 富山市中島の獅子舞
利屋町の天神祭り 5月25日前後の土・日曜日 関野神社から木像天神像が運ばれ、龍雲寺へ。
◯射水市三ヶの十社大神 御田植祭
◯6月? 櫟原神社春季例大祭 宵祭に鯛行燈(ヤサコ)や高張提灯の行列が渡る。
◯7年に1度、10月に開催 次は2022年 朝日町山崎 米吊り奉納
◯黒部市中陣のニブ流し
◯高岡大仏まつり
◯下タ北部地区 正月の繭玉作り
◯5年に一度、若手神職でつくる県神道青年会が御田植祭
◯33年に一度 庄川の神賑わい 次回は2023年7月

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事
富山の祭り
*砺波の獅子舞 各地区の日程
年中行事覚書 柳田国男
田の神祭りに見る日本人の神意識

◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

9月30日(土)

 旧暦8月15日の「中秋の名月」は、今年は10月4日だが、南砺市の高瀬神社で一足早く月を愛でる「観月祭」が行われ、神事の後に島根県出雲に伝わる国指定重要無形民俗文化財「大土地神楽」が奉納されると知り見に行くことにした。
 今年のお正月は行かなかったが、毎年のように初詣は父親の運転する車で高瀬神社にお参りしている。
 神事は17時から、神楽の奉納は18時からとなっていたが、撮影の許可をもらったりするのに少し早めに着くようにする。家から戸出駅まで自転車で行き、14時45分の城端行きで福野駅へ。福野駅で自転車を組み立てて高瀬神社に向かう。井波や庄川に行くのに近くまでは何度か自転車で通っているので、地図を見なくても辿り着いた。所要時間は福野駅から30分程だったろうか。
 最初に社務所を訪ねて撮影させてもらいたい旨を伝え、応対していただいた権禰宜の方から許可をいただいた。
高瀬神社01
高瀬神社02
↑高瀬神社。境内入り口にある鳥居。→境内奥にある高瀬稲荷社。
↓本殿。こちらで神事と神楽の奉納が行われる。→拝殿入り口横にある、なでうさぎ。
高瀬神社04
高瀬神社03
高瀬神社05
 観月祭の撮影許可をいただいた後、参拝がてら本殿や稲荷社などを撮影。
 本殿の入り口横には神話「因幡の白うさぎ」に因んだ、自分が治癒して欲しいところを撫でると神様のご加護があるという、なでうさぎが置かれている。
 高瀬神社には境内入り口の鳥居の他に、少し離れた参道入り口の大鳥居もあるので、自転車に乗って撮影してくる。こちらは昭和60年に、昭和天皇御在位60年を祝って㈱ゴールドウィンの創業者が寄付されたものだそうだ。  
 神事の始まる少し前に拝殿に入る。椅子席が用意されているが、座ると撮影できないので立って見学させていただく。
観月祭01
観月祭02
 神事は神饌のお団子を供えられた拝殿で、祓言葉に始まり修祓、献撰、祝詞奏上、玉串奉奠が斎行された。本殿の前にある鳥居の前には、左右2つの篝火が焚かれている。
↓鳥居の前に置かれた篝火。→大土地神楽保存会の方の挨拶。
観月祭04
観月祭03
 神事の後、拝殿にシートが張られ神楽の用意がされた。先ず保存会の方の挨拶があり、予定の18時より少し早めの始まりだった。演目は「八千矛」「八戸」。演目の詳しい内容は、こちらを参考に。
観月祭05
観月祭06

↑上段・中段が「八千矛」。下段が「八戸」。

 演目は2つだが、1時間半にも及ぶ熱演だった。舞は所作が大きく迫力があり、奏楽も力強い音を奏でる。荒ぶれた舞と音で、神を喜ばす感じだろうか。舞人が動きを止めた瞬間に激しい息遣いが伝わるのは、拝殿というさほど広くない空間の醍醐味か。

↓振る舞われたお団子と、境内から見たお月様。

観月祭07
 神楽の後、社務所の前でみたらし団子とお茶が振る舞われた。
 高瀬神社での観月祭は平成22年からで、今回が8回目だそうだ。なぜ観月祭が斎行されるようになったのか聞きそびれたが、高瀬神社の主神は大国主命。大 国主命と言えば、因幡の白うさぎ(高瀬神社の拝殿入り口には、因幡の白うさぎに因んだ撫でうさぎが置かれている)。うさぎと言えば、十五夜お月様。こんな 感じだろうかと想像してみる。
 すっかり暗くなった道を自転車を漕いで福野駅へ。駅で1時間近く待って、20時56分の電車で戸出へ。自転車を組み立てて家へと帰った。

9月29日(金)

 午前中に、ミュゼふくおかカメラ館で10月1日まで開催の高砂淳二写真展『Dear Earth』へ。一時間ほど展示を観てから一旦家に戻り、カメラを持って砺波へと自転車で向かう。
 25日の北日本新聞に <伝統「踊るヨータカ」再現 砺波中野の田祭り 29日発表>という記事が載っていて、中野地区の方々が嘗てのヨータカの様子を再現するらしいので見に行くことにした。会場である砺波市文化センターに問い合わせたところ、開演は14時からだった。
 途中お腹が空いたので、牛丼のすき家に入る。 すき家の牛丼は初めてかもしれない。牛丼並み、とん汁、おしんこのセットを注文。これで490円は安いな。久しぶりの牛丼は美味しかった。
 会場に着いたのは13時15分くらいだろうか。入り口で貰ったプログラムによれば芸能発表会は14時50分からで、その前に式典が行われるようだ。せっかくなので40分程の式典も席で見学した。
 お目当ての「踊るヨータカ」は、一番最初に登場した。 中野地区には嘗て、大島少年団・中島少年団・浦島少年団・西嶋少年団・新明少年団という5つの少年団があり、ヨータカの日にそれぞれ神輿を担いで家々をまわり、そこで踊りを披露して花(祝儀)を貰ったようだ。芝居を観ていると夜高行燈(ヨータカ)は、田楽行燈を持っている。
 田楽行燈を持った子供が家をまわって踊りを披露して歩くのは、今年6月に五鹿屋地区の夜高祭りを見に行った時に北島子供連中の夜高が行っていたが、夜高に子供たちがみこしを担いでいたのは初めて知った。

砺波市老人クラブ01
◯芸能発表会のプログラムより

1.中野地区 踊るヨータカ(劇)
2.出町地区 岩国こぬか踊り(踊り)、高原の駅よさようなら(踊り)
3.鷹栖地区 鷹栖音頭(踊り)、おわら慕情(踊り)
4.油田地区 魅せられて(創作ダンス)、お祭りマンボー(創作ダンス)
5.種田地区 五ヶの種籾(民話)、五ヶ種のチョンガレ踊り(踊り)
砺波市老人クラブ02
↑上段:踊るヨータカ/中段左:岩国こぬか踊り/中段右:おわら慕情/下段左:魅せられて/下段右:五ヶの種籾
チューリップ公園01
チューリップ公園02
 16時頃に大ホールでの芸能発表会が終了。同時に開催されている絵画や写真、生け花、彫刻を展示した『趣味の作品展』を見てから、隣接するチューリップ公園へ。チューリップの時期以外にも、色んな花が植えられているようだ。
 せっかく砺波まで来たので、砺波市立図書館へ寄ってみる。2階にある郷土コーナーへ行き、砺波の夜高に関する資料を探すが欲しい情報の掲載されたものは見つからなかった。

9月28日(木)

 朝から雨。雨が止んでからも気温が上がらず、肌寒い一日だった。
 今日の午後、衆議院が本会議で解散し、その後の臨時閣議で衆院選を10月10日に公示、22日投開票とする日程を正式に決定した。そして民進党は両院議員総会で、小池都知事が代表を務める希望の党に事実上合流する方針を示した。
 ネットで「希望の党は闇鍋のような政党だ」という書き込みを見て上手いこと言うなと思ったが、昨日今日の流れを見ていると、今度の衆議院選自体が闇鍋のようだ。実際に投票が行われる来月22日まで政界の混乱は続くだろうし、選挙の結果でさらに政党の再編が起こるかもしれない。希望の党が大きく票を伸ばしても、自民と希望による二大極右政党制の誕生になるかもしれない。
 個人的には巨大な闇鍋と小さな共産党鍋があって、どっちを選びますか?という選択のような気もしている。

 今朝、ネットを眺めていて沖縄の葬制に纏わる記事を2つ見つけた。
龕甲祭 準備に熱 12年ぶり、29日向け住民協力 八重瀬町当銘・小城
琉球王家のシーミー 来年復活へ 世界遺産「玉陵」で古文書参考に
 八重瀬町当銘・小城の龕甲祭は、沖縄に住んでいた時から見たいと思っていたが当時は開催されなかった。豊見城市高安でも2012年の9月24日に12年ぶりに行われたが、その情報を知った時には終わっていた。
 龕は棺を入れて担ぐ輿で、現代で言う霊柩車のようなものだ。西表島や与那国島の集落で、龕を仕舞う龕屋を見たことがある。沖縄本島の病院ではなく島で亡くなった場合は、今でも龕を使用することがあると聞いた。
 久高島にもアカウマーと呼ばれる龕があり、神人の葬儀の時などに使われる。『神々の古層 女が男を守るクニ/比嘉康雄』(ニライ社)に、アカウマーが登場する葬儀の描写がある。
 当日朝、五十歳以上の男・ウプシュたちによって作られたプン(船)と呼ばれる木棺に納められた亡骸は、アカウマー、つまり沖縄本島あたりでいうガンで葬所に運ばれる
 シズさんの出棺の時には雨があがり、太陽も出て真夏のようなうだる暑さになった。
 葬列の先頭は、ハチマチ(王府時代に士族が用いた冠と同形のもの)に着物の正装をした龍宮神・ソールイガナシー(男神職者)二人である。そのあとにティンゲー(龍頭のようなものを棒の先につけたもの)持ち、旗(紙製の白旗)持ち、ウプシュたち、そのあとにアカウマーがつづく。最近、アカウマーには車輪がとりつけられて引っぱるようになっているが、以前は親戚から選ばれた七名の男たちによって担がれた。アカウマーの後方から親戚の女たち、それに白衣のヌル以下のヤジク(神女)たちがつづく。鳴り物など一切なく、葬列は静かに進む。トゥグゥ道という葬儀の道を過ぎると、ムラはずれである。
 しばらく行くと十字路になっているが、ここまで来るとアカウマーをおろし、アカウマー担ぎの七名の男たちがその場で東方に座し、合掌する。全参列者も東方に向かいこれに和す。
(ニラーハラーへの旅立ちより)

 沖縄には、玉陵(たまうどぅん)と呼ばれる陵墓がある。首里にある玉陵には、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている。また、第二尚氏の初代国王となった尚円の生まれ島・伊是名島の玉陵には尚円の親族が葬られている。伊是名島の玉陵では毎年、古文書の通りに再現された公事清明(シーミー)祭が執り行われるが、首里にある歴代国王が眠る玉陵では長く途絶えている。その首里の玉陵で、来年のシーミーには古文書に沿った儀式を実施し継続して行きたいというニュース。実現されれば素晴らしい。

 今年の4月8日に撮影した上大久保の獅子舞の様子をPhoto Albumにしました。こちら
上大久保の獅子舞
↑天満宮の春季例大祭に行われる、上大久保の獅子舞。獅子は2人立ちの金蔵獅子だ。

9月26日(火)

 しばらく秋晴れの良い天気が続いたが、明日の午後から少し崩れるようだ。
 昨日の夕方、安倍首相が官邸で記者会見を行い、28日招集の臨時国会冒頭で衆議院解散に踏み切ることを表明した。以前にもこちらで書いたが、28日に開かれる臨時国会は森友、加計、自衛隊文書の説明を求めて民進、共産、自由、社民の野党四党が憲法五三条に基づき招集を求めたものだ。その冒頭で解散とは国会軽視も甚だしい。
 それにしても自ら「国難突破解散」と名付けるとは盗人猛々しい。自分で火をつけておきながら「火事だ火事だ」と叫んでいる放火魔のようだ。
 安倍首相の会見にぶつけるように小池都知事が昨日、国政政党である「希望の党」を結成し自身が代表を務めることを発表した。「原発ゼロ」や「消費増税の一時凍結」といった具体策も公表したが、さて、都知事選で訴えた公約はどうなったのだろうか。豊洲移転はウヤムヤのままで、待機児童問題も、通勤電車も混雑も解消されたという話は聞かない。パフォーマンスはメディアから伝わって来るが、公約は未だ一つも果たされていないのではないだろうか?

 23日は午前中に高岡大仏のお身拭いと有磯正八幡宮の獅子頭総覧、午後から海老江曳山まつりを撮影。24日は、芦峅寺で3年に一度開催される布橋灌頂会を撮影に。こちらの様子も後々UPいたします。

海老江曳山まつり
↑23日に行われた海老江曳山まつりにて。
布橋灌頂会
↑24日に芦峅寺で開催された、布橋灌頂会。 

9月24日(日)

 かつて立山信仰の拠点であった芦峅寺で3年に一度開催されている布橋灌頂会が、今日行われる。
 霊山・立山が女人禁制だった江戸時代に、極楽往生を願う女性を救済するために営まれた儀式だが、明治時代に施行された廃仏毀釈により長い間途絶えていた。それが1996年に国民文化祭富山において約130年ぶりに復活し、以降は不定期に開催されていたものが2011年から3年ごとに行われるようになった。立山に登ると極楽往生が叶うとされた時代に、それが許されなかった女性たちの救済策として行われた儀式だが、現在は仏事というよりイベントのような感じだ。
 イベントガイドには10時30分〜12時30分と書いてあるが、 準備の様子から撮影したいので早朝に家を出る。

布橋灌頂会01
 あいの風とやま鉄道で6時59分に富山駅に到着。改札を出て富山地方鉄道の乗り場へ。改札口で布橋灌頂会を記念した特別乗車券を購入。和紙製で立山線が一日乗り放題で2000円。富山から最寄り駅の千垣駅を往復するだけでも元が取れるのに、布橋の一般橋渡り券まで付いてかなりお得だ。
 7時19分に富山駅を出て、8時8分に千垣駅に到着。千垣駅から今日だけの無料シャトルバスが出ており、会場へ。
布橋灌頂会02

 8時30分頃に布橋近くの多目的広場に到着。広場は、10時から郷土料理を販売するごっつお祭りの準備中だった。広場から布橋の方へ歩いて行き、撮影場所を確認して場所取りのために持って来た三脚を設置する。場所取りは好きではないのであまりやらないが、3年に一度の行事で大勢の人が集まるようなので三脚を置かせてもらった。
 撮影場所を確保したので、橋を渡る女人衆が最初に到着し懺悔を行う閻魔堂へ。布橋から閻魔堂へ続く明念坂の地蔵菩薩や、境内の石仏には赤い前掛けが着けられていた。
 まだ時間がたっぷりあるので多目的広場に戻ると、名物の物販が始まっており1つ100円の焼き付けを2つ購入。 1つ食べてみたがヨモギのおやきみたいだった。
 詳しいタイムスケジュールを書いたパンフレットはないかとスタッフの方に聞いてみるが無いそうで、かわりに自分の持っているプリントを見せて下さったのでカメラで複写。以下がそのタイムスケジュール。
◯平成29年 布橋灌頂会 タイムスケジュール
6時30分       実施の決定         閻魔堂前にて、実行委員会事務局
9時45分       女人衆 集会        閻魔堂にて集合
10時00分      布橋灌頂会 開会式     うば堂基壇前広場(遥望館前)
10時00分      一般橋渡り体験受付     明念坂下テントにて
10時00分~20分  閻魔堂入堂・着席      女人衆は閻魔堂に入堂
10時20分~45分  閻魔堂儀式
10時45分~50分  閻魔堂出動・整列
10時50分~     進列            閻魔堂から布橋へ
11時05分~40分  橋渡り儀式
11時40分~     進列・着席         布橋から遥望館へ
12時00分~30分  うば堂儀式
12時30分~55分  退堂・進列         遥望館→閻魔堂横
12時30分~     一般橋渡り体験:集合    明念坂下テントに集合
13時00分~     一般橋渡り体験       普段着、目隠し、声明の先導、雅楽
*12時50分~14時00分 芦峅ごっつぉまつり(本部前広場にて、芦峅寺の郷土料理等の提供)

布橋灌頂会03
布橋灌頂会04
 10時になって遥望館の前にある、うば堂基壇前広場で開会式が行われ、開会を告げるふれ太鼓として立山権現太鼓が演奏された。
 そして女の子3人による神楽「立山の舞」が立山に向かって奉納された。
 神楽の奉納を見てから、急いで閻魔堂へ向かう。途中、明念坂の下にあるテントで乗車券に付いていた一般橋渡り体験の受付をすると、ドリンク引換券や記念バッジ、御朱印等が入ったお土産が渡された。
↓→橋渡りをする女人衆が儀式を行っている閻魔堂。
布橋灌頂会06
布橋灌頂会05
布橋灌頂会07
 閻魔堂に到着すると入り口は白い布で覆われており、中で橋渡りをする白装束の女人衆が儀式を行っている最中だった。中の様子はわからないが、地元のケーブルテレビ・Net3の過去の映像によれば、お香を振りかけて身を清め、読経の響くお堂の中で己の罪を償う懺悔をするようだ。
 10時半頃、白い布が開けられ儀式を終えた女人衆が境内に降りて来た。今年は県内外から110人が女人衆として参加したそうだ。
 境内でサポートの女性に白い布で目隠しをしてもらい菅笠を被る。
布橋灌頂会08
 女人衆の準備が出来ると、僧侶や楽人と共に明念坂を下りて布橋に向かう。
↓→雅楽が奏でられる中、坂を下る。雅楽は福岡町の洋遊会が担当している。
布橋灌頂会10
布橋灌頂会09
↓→目隠しをした女人衆は、ボランティアの女性に手を引かれて坂を下る。
布橋灌頂会12
布橋灌頂会11
 11時頃に橋のたもとに先頭の僧侶が到着し、いよいよ女人衆が3本の白布を敷いた橋を渡る。
 布橋灌頂会では橋の下を流れるうば堂川を三途の川、橋の手前をこの世(現世)、橋を渡った先をあの世(彼岸)に見立てている。布橋はあの世とこの世の境だ。
 声明と雅楽、そしてホラ貝の音色が響く中、僧侶(引導衆)、楽人、女人衆の順に並んで行列がゆっくりゆっくり橋を進む。橋の中央に来ると、対岸から来た迎えの僧(来迎衆)が出迎えて女人衆が引き渡される。
布橋灌頂会13
布橋灌頂会14
↑煩悩の数と同じ108枚の敷板で組まれた布橋を、僧侶に導かれて渡る白装束の女人衆。
布橋灌頂会15
布橋灌頂会16
 橋の中央で引導衆から来迎衆に引き渡された女人衆は、橋の向こうの他界(あの世)にある遥望館で再生の儀式を行う。遥望館は、廃仏毀釈で取り壊されたうば堂にあたる。
 他界であるとされる橋の向こう側には、芦峅寺住民の墓地がある。沖縄で言うところのグソー(後生)だ。
 遥望館では勤行の後、立山に向いた大きな窓ガラスのスクリーンが開けられ、女人衆は暗闇から一転して霊山・立山を仰ぎ見る。
布橋灌頂会17
布橋灌頂会18

 遥望館では声明の流れる中、僧侶が立山から酌んで来たお水を女人衆に振り掛ける灌頂の儀式が行われたそうだ。布橋灌頂会の灌頂の意味が、ようやく分かった。
 目隠しと菅笠を外した女人衆が遥望館を出て、もう一度布橋を渡る。
  布橋灌頂会とは、閻魔堂で自分の罪を悔いた女性が僧侶に導かれてあの世に渡り、そこで再生の儀式を受けて、もう一度橋を渡ってこの世に帰って来るという儀式のようだ。

布橋灌頂会19
↑↓あの世とこの世の境である布橋を渡って、現世に帰って来る女人衆。
布橋灌頂会21
布橋灌頂会20
布橋灌頂会22
 布橋を渡った女人衆は、明念坂を上って閻魔堂へ。境内で僧侶の講話を聞いて、儀式は終了した。
 12時半になったので、明念坂の下に一般橋渡り体験をする人が集合した。午前中に受付を済ませているので列に並ぶ。参加者が多いので何回かに分けて橋を渡るようだ。
↓→普段着のまま目隠しだけして橋を渡る、一般橋渡り体験。
布橋灌頂会24
布橋灌頂会23
布橋灌頂会25
布橋灌頂会26
 自分で白い布で目隠しをして、列に並んで橋を渡る。生地が薄いからか、思っていたよりも様子が分かる。上の写真の左、橋を渡る人たちの後ろ姿は、目隠しをしたまま撮影した。
 橋を渡った後は遥望館ではなく基壇に上がり、そこで目隠しを外す。あいにく立山は雲に隠れていたが、何となく気分は味わえた。基壇の上で僧侶と一緒に南無阿弥陀仏を3回唱えて体験は終了。
 多目的広場に行き、 芦峅寺の郷土料理・つぼ煮(300円)を食べる。
布橋灌頂会27
 多目的広場から儀式の終わった布橋を渡り、明念坂、閻魔堂と歩いてから雄山神社の横にある立山博物館へ。博物館の前には特設のカフェがあり、そこで橋渡りの受付をした時に貰ったドリンクチケットでジュースとクッキーをいただく。
 博物館では『布橋灌頂会がわかる!!ー天の浮橋にかけた白布への願いー』と題した企画展が開催されていた。通常の入場料300円+企画展200円だったが、企画展で貰える布橋灌頂会の冊子が美しくてお得感がある。
 入館した時に丁度学芸員による展示解説が終わって残念に思っていたら、しばらくして解説会のアナウンスがあった。観覧者が多く急遽開催されたのだろうか。
 解説を聞いてわかったのは、布橋の正式な名前が天の浮橋だということ。また女人禁制時代の儀式ということで現在のイベントでは女人衆が橋を渡っているが、昔は老人や自力で登山できない男性も儀式に参加していたようだ。また当時の参加費は一番先頭なら現在のお金で400万円、最後尾なら2万円と値段にかなりの差があったようだ。いずれにしても、裕福な人でなければ参加できない儀式だったのだろう。
 企画展、常設展と見て博物館を出ると15時半頃だった。帰りは橋梁を渡る富山地方鉄道の電車を撮りたいので、千垣駅まで歩いて行く。途中、立山芦峅ふるさと交流館の前を通ると婦人会の会長さんが声をかけて下さりコーヒーをご馳走になる。
 しばらく芦峅寺の行事のお話しなどお聞きしてから、また駅へと歩く。千垣駅の少し手前にあるガソリンスタンドの角を曲がると常願寺川にかかる橋があり、そこから地方鉄道の橋梁を狙う。事前に時刻表を調べて通りそうな時間にカメラを構えて待っていた。立山方面行き、富山方面行きの2本が立て続けに通った。
富山地方鉄道01
↑夕日を浴びて橋梁を渡る電車。こちらは立山から富山方面に向かう電車。雪が積もった日の風景は綺麗だろうと思う。
千垣駅
富山地方鉄道02

←↑風情のある千垣駅。

 橋梁を渡る電車の写真を撮り終えて、千垣駅へ。西日が当った駅舎が薄いオレンジに染まっている。鉄道関係にまるで興味はないが、富山地方鉄道の駅舎は趣のある佇まいが多く、ついついシャッターを切る。
 駅でしばらく待って、17時41分発の電車で富山へ。
 朝早かったので、随分と長い一日だった。

儀式の意味を理解 24日布橋灌頂会
儀式の舞台きれいに 24日、芦峅寺で布橋灌頂会
立山信仰の里満喫 布橋灌頂会
女人衆厳かに橋渡り 立山で布橋灌頂会
極楽往生を願って布橋灌頂会
ネット3 布橋灌頂会

9月23日(土)

 秋分の日。富山県内のアチコチでお祭りやイヴェントが開催されているが、その中から高岡大仏のお身拭いと有磯正八幡宮の獅子頭総覧、そして海老江の曳山まつりを見て来た。

 奈良、鎌倉に並ぶ日本三大大仏の一つ、高岡大仏。 9月23日に開催される大仏まつりでは、一年の汚れを落とすお身拭いと交通安全祈願が行われる。毎年テレビや新聞で白装束を着た人たちが大仏様に梯子をかけて顔や身体を拭いている映像が流れて来るので、一度実際に見てみたいと思っていた。
 お身拭いは午前10時からと聞いていたので、あいの風とやま鉄道で高岡駅に9時26分に到着。自転車を組み立て、5分程走って大佛寺へ。境内には既にたくさんの見物客がおり、カメラを持った方も多かった。

高岡大仏01
↑提灯と吹き流しが飾られた境内。本堂ではお身拭いの説明が行われていた。
高岡大仏03
高岡大仏02
↑お身拭いまで時間があったので、大仏様の台座の下にある回廊に入る。回廊の中には仏像や仏画、 1900年の大火で焼け残った二代目高岡大仏の仏頭が展示されている。
↓→お身拭いの開始前に、僧侶と共に読経が行われた。
高岡大仏05
高岡大仏04
↓→大仏様のお身拭いは30分程で終了し、境内の灯籠をキレイに掃除。
高岡大仏07
高岡大仏06
 大仏様のお身拭いは30分程で終わり、この後、境内の灯籠などが磨かれる。交通安全祈願は14時からなので高岡大仏を後にして、獅子頭総覧を見るため有磯正八幡宮へ急ぐ。この獅子頭総覧は氏子町内の獅子頭30基ほどが社務所に展示披露され、午前11時からは和田保育園の園児による獅子舞、13時からは横田本町の獅子舞が境内で奉納される。
 高岡大仏から自転車で有磯正八幡宮に駆けつける、ちょうど園児を乗せたバスが神社に到着したところだった。
獅子頭総覧01
↑拝殿前に並んで参拝した後、境内で踊りと獅子舞を奉納した和田保育園の子供たち。
獅子頭総覧02
↑獅子舞奉納を見た後、社務所で開催されている獅子頭総覧へ。こうして獅子頭を見比べられる機会はあまり無い。
↓社務所の2階には、日本一大きい桐製の獅子頭が展示されていた。
獅子頭総覧04
獅子頭総覧03
 社務所に展示されている獅子頭を見終えて拝殿に行くと、こちらでは井波彫刻・山崎新介氏による獅子頭製作の実演が行われていた。拝殿横にある神饌田に植えられた稲が随分成長していた。今年はあまり実らなかったそうだが、10月の始めに保育園の子供たちが来て稲刈りを行うそうだ。
↓神饌田。→御神木の<親子抱き合いの欅>。
有磯正八幡宮02
有磯正八幡宮01
 有磯正八幡宮の獅子頭総覧を見て、正午頃に高岡大仏に行くと白装束の方々は居らずキレイになった大仏様が鎮座していた。大佛寺から高岡古城公園の横を通り広小路の万葉線乗り場へ。ホームで自転車を輪行袋に仕舞って電車に乗り込む。
万葉線と渡船乗り場
堀岡発着場

↑左が万葉線の路面電車。右は終点の越の潟駅に隣接する渡船乗り場。
←渡船にて堀江発着場へ。 

 万葉線の終点、越の潟駅まで行き隣接する発着場から無料の渡船で富山新港を渡り、海老江に向かう。越の潟発着場から対岸の堀江発着場までは5分程だろうか。
 堀江の発着場で自転車を組み立てて、海老江に向かって走る。道はほぼ一本道で15分程で到着した。

 海老江に入ると通行規制がされていた。西町から入り中町の方に来ると人が大勢いたので行ってみると、3基の曳山が巡行しているところだった。
 海老江の曳山は江戸時代中期から続く海老江加茂神社の秋季例大祭に行われ、西町・中町・東町の3基が出る。昼は花山、夜は提灯山に飾り付けられ「イヤサーイヤサー」の威勢の良い掛け声と共に町内を曳きまわされる。
海老江曳山まつり01
↑3基の花山。↓中町は女の子も威勢良く曳いていた。
海老江曳山まつり03
海老江曳山まつり02
海老江曳山まつり04
 今年の曳山の巡行図を見ると14時50分に東町の海岸沿いの道路で3基が並び、曳山からくり人形の実演が行われる。始まりまで時間があったので、海老江加茂神社へ参拝に行く。
海老江曳山まつり05
↑↓→海老江加茂神社。
海老江曳山まつり07
海老江曳山まつり06
海老江曳山祭り08
 お神輿は既に境内の蔵に納まっていた。神職の方に伺ったところ、お神輿は朝の神事の後、8時頃に神社を出て町内をまわり14時頃に還って来たそうだ。お神輿の巡幸には子供が扮した右大臣、左大臣がついて歩くようだ。
 14時40分頃に3基の曳山が海岸沿いの道路に並んだ。西町の標識(だし)は打出の小槌、中町は振鼓、東町は軍配。王様は西町が恵比須、中町が猩々、東町が三番叟。前人形が西町は唐猿童子、中町が唐子懸垂廻転、東町が唐子遊び。
海老江曳山まつり09
↓→からくりの実演で注目を浴びる西町の唐猿童子。
海老江曳山まつり11
海老江曳山まつり10
海老江曳山まつり12
 からくりの実演は15分くらいだったろうか。3基の曳山は実演した後も少し巡行してから、各自の町内に戻り提灯山に変身する。
 からくりの実演で注目を浴びたのは西町の唐猿童子で、22本の絹糸を操ることで人形が瞬時に猿になったり童子になったりする。西町の曳山蔵の前に案内板があったので、引用させていただく。

射水市指定文化財 海老江西町曳山の由来
 海老江加茂社の秋祭り(秋分の日)には、氏子中から三本の曳山が出される。海老江の曳山祭りは、江戸中期から現在まで伝承されている「名物祭り」である。
 西町曳山は、海老江地区が江戸中期から明治にかけて、漁業を中心として最も栄えた時期につくられたものである。海老江大宝寺文書によれば、西町曳山は海老江で最初につくられたとあるが創建は不明である。
 再建は天保十二年(一八四一)である。この曳山は、明治二十九年八月二十三日昼に出火した俗称「炒菓子焼け」といわれる西町大火で焼失。今のものは明治三十四年(一九〇一)に新調された。大工は、井波の松井角平である。
 標識(だし)は、もとは「錨・いかり」であったが、天保十二年から「打出の小槌」となった。今の標識は、昭和五十三年に新調したもので、井波の久村角之助の作である。王様は、大漁の「恵比須」である。
 前人形は、もとは「猿公・えてこう」であったが、昭和五十四年に「唐猿童子」という本からくり人形に改めた。
 この前人形は、日本一の人形師、七代目玉屋庄兵衛(名古屋)の名作である。二十二本の絹糸の操作によって小太鼓を叩いて歩いたり走ったりして、瞬時に唐子や猿の顔に変身するという北陸地方唯一の名物人形である。
 山体は、すべて欅材で、彫刻部分には檜材が使われている。もとは白木であったが、昭和五十三年と五十六年の二回にわたって彫刻を除く全面の漆塗装を完成した。塗りは、井波の新敷晃仙(労働大臣賞受賞)の力作である。
 この曳山の誇りは彫刻である。木目を活かした白木の高肉彫りで、山体のすべてが花鳥と動物や仙人と童子などを描いたみごとな彫刻でいっぱいである。作者は明確でないが、その作風から井波の彫刻の祖、大島五作であろうといわれている。
 昭和五十八年(一九八三)三月吉日 海老江西町文化財保存会

 3基の曳山が町内に戻ったので近くのコンビニを教えて貰い、焼き鳥とおにぎりとパンで遅いお昼ご飯を食べる。食べ終わってから各町内の提灯山の組み立てを見てまわった。

↓→花山から提灯山へと飾りつけを替える中町の曳山。
海老江曳山まつり14
海老江曳山まつり13
↓提灯山になった東町の曳山。→提灯山になった西町の曳山。
海老江曳山まつり16
海老江曳山まつり15
 提灯山に変身した3基の曳山は17時45分に、町の中程にある海老江こども園横に揃う。そして国道415号を東町の端、西町の端と連なって巡行した後、19時半頃にもう一度こども園の横に並ぶ。ここで曳山からくり実演、木遣り実演、やんさおどりが行われて、20時20分頃に別れてそれぞれが町内曳きをする。
 海老江の曳山木遣りは、もともとは漁業の網起こし木遣り唄で弁財船の帆柱起し木遣り唄だったそうだ。しかし、明治初期より西洋式帆船や蒸気船、発動機船などの発達、機械科で帆船が消えて帆柱起しの木遣りも唄われなくなった。その帆柱起し木遣りが、海老江では曳山木遣りとして受け継がれているそうだ。
海老江曳山まつり17
海老江曳山まつり18
新湊大橋
 19時半過ぎ、3基の曳山がこども園横に揃った。
 富山新港を渡る渡船の最終が、20時29分。3基が揃ったところを写真に収めてから、自転車で堀岡の発着場へ向かう。ほぼ一本道だが、発着場の入り口がわからなくて明りのついていた商店で教えて貰って辿り着いた。
 越の潟へ渡る船から、新港にかかるライトアップした新湊大橋を撮影した。
 20時37分発の電車は米島口止まりだったので、21時7分まで待って高岡へ。
 21時54分に高岡駅に到着し、21時57分の金沢方面行きのあいの風とやま鉄道で家に帰って来た。
 たぶん今回の海老江の曳山で、富山の祭りで現在動いている曳山は全て撮影できたはず。
高岡大仏輝き一層 奉賛会が「お身ぬぐい」
囃子継承へ担い手育成 新湊海老江曳山まつりで中町
西町の山車新調 射水・海老江曳山まつり えびす様衣装も、あすの本番で披露
海老江曳山、威勢良く 3基、地区内を巡行
曳山3基、勇壮に練る 射水・海老江でまつり
山車 昼も夜も魅了 海老江曳山まつり
海老江中町曳山のホームページ

9月20日(水)

 朝起きてパソコンを開くと、メキシコでM7.1の地震8日にもメキシコ沖を震源とする地震があり、61人が犠牲になったばかりだ。

 昨日、五十嵐正さん監修による『フェアポート・コンヴェンションfeaturingリチャード・トンプソン』というムックがシンコーミュージックから届いた。
 先月末に編集部から1995年に彼らが来日した時に撮影した写真を使用したいと連絡をいただき、デジタル・データにしてあった写真を送ったのが掲載され、献本していただいたのだった。

 英国のトラッドやフォークは門外漢だが、1995年から96年に英国フォークの重鎮が相次いで来日し、新宿ロフトでライヴを行った時に撮影する機会があった。
 95年5月にマーティン・カーシ&デイヴ・スウォーブリック、6月にフェアポート・コンヴェンション。96年になってからは、7月にジョン・レンボー ン&ジャッキー・マクシーとウイズ・ジョーンズ、10月にバート・ヤンシュ、スティーヴ・ティルストン&マギー・ボイル。この流れとは別に、97 年5月にはドノバンが来日して渋谷クワトロでライヴをしている。ポートレートだけだが1997年の3月には、クライヴ・グレッグスンも撮影した。
  この頃に勉強も兼ねてCDを色々と買って、以来好きになったミュージシャンもいる。好きになったとは言え、英国フォークの深い森を遠くから眺めるだけで、ずーっと門外漢のままなのだけれど(笑)。
 送られて来た本を見て驚いたのは、自分が撮影した写真の初出が「ミュージック・マガジン」1995年9月号になっていたこと。ずっと一連の写真は「レコード・コレクターズ」用に撮影したものだと思い込んでいた。
 フェアポートは、今年結成50周年だそうだ。自分が撮影した95年の時点で、結成28年。もう既に伝説のバンドだったのだけれど。
 昨年、フェアポートの初期のフィドル奏者だったデイヴ・スウォーブリックが亡くなった。You Tubeにあった「Farewell Farewell」をUPしておきます。プロモーション・ビデオのようですが、若いデイヴ・スウォーブリックも映っている。1970年というと自分は10歳だけれど、時代の雰囲気が「あ、こんな感じ」と既視感を覚える映像だ。
 「Farewell Farewell」はアイルランドの歌姫、メアリー・ブラックのアルバムで最初に聴いたのだけれど、サンディ・デニーの歌もとても素敵。メアリー・ブラックの「Farewell Farewell」は、こちら

フェアポート・コンヴェンション
↑フェアポート・コンヴェンション。1995年6月23日、新宿ロフトにて撮影。
安室奈美恵さん引退へ 来年9月、HPで表明

9月18日(月)

 3連休の最終日。台風18号が、今日の未明に富山を通過して行った。暴風と強雨の音で夜中に目が覚めるだろうと思っていたが、熟睡していたのか起きたら外は穏やかな天気だった。
 台風の通過が未明だったこともあって、富山での秋の例祭やイベントは心配していたよりも影響が少なかったのではないだろうか?昨日の夜も、どこからかお囃子の音が聴こえて来た。

 連休初日の16日に、魚津市にある魚津八幡宮の献灯みこし祭りを見に行った。正式には魚津八幡宮の秋の例祭の本祭りで、13日に宵祭が行われ宮神輿が町内を巡行した。本祭りは本来14日に行われていたが、本祭りには氏子である旧12町の神輿が出るため人手を確保するために第3土曜日に変更されたそうだ。それでも今年は忌と人手不足で3町が断念して、9町になったと聞く。
 本祭りのハイライトは、「宮あげ」。19時頃から各町内を中心に2時間ほど巡行した後、12町の神輿が八幡宮の境内に並び、神職からお祓いを受けた後、階段を一気に駆け上がり拝殿入り口に乗り上げる。3回拝殿に神輿を突っ込み神輿を揺さぶったところで、次の町内と交代する。
 富山県の祭りで、これだけ町内神輿が出る祭りは珍しい。自分が見た祭りでは、富山・日枝神社の山王さんくらいじゃないだろうか。
 また、神輿自体が珍しい形態で、神輿の周囲に雪洞(ぼんぼり)が取り付けられている。台は大勢で担げるように長く組んであり、後方には太鼓が備えられている。
 昨年、諏訪神社の「タテモン行事」がユネスコの無形文化遺産に登録されたが、直ぐ近くの八幡宮でもこんな勇壮なお祭りが行われていると初めて知った。
 お祭りの様子は、後々UPいたします。
*なぜ「宮あげ」が行われるようになったかの詳しい由来を記したホームページがあるので、こちらを。

魚津八幡宮献灯みこし祭り
↑拝殿に向かって駆け上がる八幡町の神輿。神輿にはそれぞれ名前があり、八幡町は「天乃川」。
 今月の28日から予定されている臨時国会の冒頭で、安倍総理が衆議院の解散・総選挙に踏み切るのではないかとのニュースが流れている。
 立て続けに日本の遥か上空を通過して行った北朝鮮のミサイル発射を受けて、「これまでにない脅威」「深刻な事態」とさんざん不安を煽っておきながら、この時期に選挙を行い自ら政治空白を作るとはどういうことだろう。
 そもそも今回の臨時国会は森友、加計、自衛隊文書の説明を求めて民進、共産、自由、社民の野党四党が憲法五三条に基づき招集を求めたものだ。
 丁寧に説明すると言いながら国会を開かず、ようやく開いたと思ったら解散。国会軽視も甚だしい。昨今の北朝鮮の動向を考えれば、森友・加計・自衛隊などの問題を追及する野党はお花畑だと批判する安倍総理を擁護する人たちもいるようだが、こんな中でも政治的空白が生まれる解散総選挙を行おうというのだから、北朝鮮の脅威などその程度のレベルだと総理自らが証明しているようものだろう。
 北朝鮮の脅威というなら、日本を射程圏内にするノドンが日本海に向けて配備された10年以上も前から続いているが、標的となるような原発を林立させたままにしている方がお花畑で、より深刻な問題だ。
 先ずは解散総選挙の前に森友、加計、自衛隊文書の説明を臨時国会で丁寧にするべきだろう。それとも北朝鮮よりも、総理にとっては森友、加計、自衛隊文書の方が脅威なのだろうか。
 山本太郎氏の、このツイートが簡潔だ。
北朝鮮への対応と言いながら解散総選挙で政治的空白期間を作り、ミサイルガーと言いながら原発の停止さえしない。政権にとって北朝鮮問題は利用はするが優 先順位が低い事がよくわかり、政権にとっての安全保障上、最大の脅威である森友・加計問題の真相究明を阻止するための解散と理解できる。あほくさ
冒頭解散強まる(その1) 問われる大義名分 公明、改憲回避の思惑
衆院選、10月22日が有力 9月28日の臨時国会冒頭解散が軸

9月16日(土)

 魚津市にある魚津八幡宮で、神輿を社殿に乗り上げさせる「宮あげ」を行う献灯みこし祭りというものがあると知ったのは、12日の北日本新聞に掲載されていた記事からだった。
 面白そうなのでネットで検索するとホームページも見つかり、宮あげの由来も記されていた。いくつかの記事を調べて由来を要約すると、次のようになる。
 文政十一(一八二八)年、加賀藩前田家から魚津八幡宮に賜った剣梅鉢の御定紋付きの提灯4つを紛失(もしくは破損)したことから、町奉行が宮の祭りを禁止した。
 その翌年、当時神明社と八幡宮が交代で受け持っていた市内にある諏訪社の祭りのことで争いが起こり、双方が藩の寺社奉行に訴えたが神明社に有利な判決が下され、その結果に不満を持った八幡宮の氏子二十余か町の町民たちが町内一ヶ所に集まって太鼓を鳴らし、声を上げて騒ぎ、奉行所に押しかけて三晩にわたり春祭り執行の請願を行った。
 これに対し、寺社奉行は役人に楯突く行為だとして厳しく取り締まり、首謀者を検挙。氏子67名が入牢され、漁師市右衛門(猟師市右衛門の表記もある)、浜屋彦助、吉見屋幸助が打ち首の後、晒し首にされた。 これが八幡騒動と呼ばれる。
 この騒動から約60年後の一八九〇年頃、金沢で八幡宮の神輿が見つかり、氏子が大金を払って取り戻して祭りが再開された。祭りが復興できた喜びと八幡騒動で犠牲になった者たちへの慰霊が献灯みこし祭りとなった。

 献灯みこし祭りは、現在、八幡宮の秋季例大祭の本祭りとして行われている。元々は9月13日に宮神輿が町内を巡行する宵祭の翌日、14日に行われていたが、本祭りでは氏子である旧12町の神輿が出るため人手が確保できるように平成17年から第3土曜日に変更されたそうだ。
 お祭りの進行は午前10時頃、氏子町内の各役員が 揃って打ち首となった小塚に詣り、続いて境内にある顕彰碑に参拝し、神職から各町内の神輿に祀る神籬(ひもろぎ。榊に紙垂が付いたもの)が授けられる。それから間を置いて16時から2つの保育園がお神輿を巡行し、16時半頃に宮あげ。またしばらく間を置いて、今度は19時頃から町神輿が巡行し、21時過ぎから宮あげが行われる。
 16時からの保育園児たちによる神輿巡行から見ようと、15時7分に魚津駅に到着するあいの風とやま鉄道の電車に乗った。

献灯みこし祭り01
 魚津駅に着いて自転車を組み立て、駅前の観光案内所へ。自分でも一応地図をプリントしてきたが、魚津駅周辺の地図を貰う。魚津駅から、線路沿いに富山方向へ走れば八幡宮に到着するようだ。
 自転車で10分程だったろうか。境内はまだひっそりしている。
 近くの神社から祭りのためにお手伝いにいらしたという神職の方に、色々とお話しをうかがい、打ち首が行われた所に建立された塚の場所を教えて貰う。
←魚津八幡宮。
↓鳥居と社を結ぶ参道の上を、あいの風とやま鉄道の線路が通っている(左)。参道の横には各町内の神輿を収納する蔵がある。
献灯みこし祭り02
↓→境内にある、八幡騒動の犠牲者を偲ぶ顕彰碑(昭和39年4月に建立)。
献灯みこし祭り04
献灯みこし祭り03
 保育園児たちのお神輿は16時半頃に境内に入るそうだが、せっかくなら巡行から見ようと思い、自転車で探しに行く。場所の宛はなかったが、少し広めの道路を走っていると上口保育園の神輿が待機しており、直ぐに巡行を始めた。太鼓と笛のお囃子、そして「ヤッサヤーレ ヤッサヤーレ」という子供たちの大きな掛け声が響く。
献灯みこし祭り05
献灯みこし祭り06

↑上口保育園と魚津保育園の神輿巡行。

 上口保育園の神輿を撮影して歩いていると、反対側から魚津保育園の神輿が歩いて来て合流。揃って八幡宮へと巡行する。ちょっと担いでは休憩するので、30分程かかって境内に到着。
 先ずは上口保育園の園児が拝殿の前に並び、神輿と共に神職からお祓いを受ける。そして大人に付き添われながら、神輿を拝殿までゆっくりと担ぎ上げる。

献灯みこし祭り07
↑上口保育園の宮あげ。神輿は3度担ぎ上げる。You Tubeにあった上口保育園の宮あげの映像
献灯みこし祭り08
献灯みこし祭り09

↑魚津保育園の宮上げ。園児たちが拝殿の前に到着した時に、参道の上を通るあいの風とやま鉄道の高架を電車が走って行った。魚津保育園の宮あげの映像

←保育園の神輿の宮あげが終わると19時頃まで何もないので、三人の首謀者が打ち首になった場所に建立された八幡騒動犠牲者納経塚を見に行った。八幡宮から自転車で5分程の塚には、祭礼の幟が立っていた。

魚津の海岸
 塚のある場所は、海岸から一つ中に入った道路沿いだった。塚の写真を撮ってから海岸に出て、堤防に座って魚津駅前のコンビニで買って来たパンを食べる。台風がやって来る前の海は、不思議に穏やかな表情をしている。そう言えば、魚津の海と言えば蜃気楼だが、どの辺りで見えるのだろうか。
献灯みこし祭り10
 海岸から町中に戻って自転車でウロウロしていると、お神輿を入れた建物があった。他の町内の神輿は道路に置かれている。建物の前にいた人に尋ねると、紺屋町会館と言い旧町名である紺屋町の公民館のようなもので、奥には神輿蔵も併設している。他の町内は八幡宮の参道脇に並んでいる神輿蔵に仕舞っているが、紺屋町だけは町内に神輿を安置しているそうだ。子供がたくさん居た昔は子供神輿も出たそうで、神輿蔵には当時の子供神輿があるというので写真を撮らせてもらった(上の写真右側)。
 紺屋町は19時になったら神輿を外に出し、午前中に神社でいただいた神籬(神の依り代)を役員が神輿の中に入れるというので、その頃にまた尋ねて来ることにした。
 紺屋町会館を出て、少しずつ暗くなる町を自転車でブラブラしていると、道路で組み立てられた各町の神輿の雪洞(ぼんぼり)に灯りがつき始めた。
献灯みこし祭り11

↑上段左:路上で待機している八代町の神輿。各町内の神輿には名前が付いており、八代町は「冨川」。神輿自体が珍しい形態で、神輿の周囲に雪洞(ぼんぼり)が取り付けられている。台は大勢で担げるように長く組んであり、後方には太鼓が備えられている。/上段右:雪洞に灯りがついた岡町の「白帆」。/中段左:唯一町内に神輿蔵のある紺屋町会館。/中段右:紺屋町会館から神輿「名月」が出され、バッテリーを乗せたり鳳凰を取り付けたりの作業が行われる。/下段左:担ぎ手の肩が当る部分に分厚い座布団のようなパッドが括り付けられる。/下段右:神輿の屋根に鳳凰を取り付ける。この後、役員が神棚に納めていた神籬を神輿の中に祀って巡行に出た。榊に紙垂をつけた神籬は、本来は神輿の扉の前に備え付けるもののようだが、宮あがりの時など神輿を激しく動かすので落とさないように中に入れるようになったそうだ。

献灯みこし祭り12
献灯みこし祭り13
 紺屋町の神輿が巡行を始めたのは19時半過ぎだった。神輿は数メートルから数十メートル進んでは止まる。そしてお神酒を持った役員が家々の玄関を開けて家主にお酒を注いで挨拶してまわる。お囃子の音と「ヤッサヤーレ ヤッサヤーレ」の掛け声を響かせて、自分たちの町内を中心に神輿は進んで行く。
 紺屋町の神輿をしばらく撮影してから、他の神輿も見たいと思い自転車で探す。今年は12町のうち、忌と人手不足で3町が神輿を断念したと聞いたので9基だ。見物しているのは、地元の方ばかりのようだった。
 お祭りのハイライトである宮あげは21時半頃だと聞いたので、21時過ぎに境内に戻る。 参道に一番最初に到着した八幡町の神輿「天乃川」が待機していた。宮あげは、神輿が3基参道に揃ったら始まるそうだ。
献灯みこし祭り14
献灯みこし祭り15
 21時40分頃、八幡町の神輿が拝殿の前に。宮あげは拝殿の中に神輿が乗り入れるので、神輿の屋根に取り付けてあった鳳凰は外されている。
  役員が拝殿でお祓いを受け、その後神職が拝殿の外に出て、担ぎ手と神輿のお祓いを行った。
 そしていよいよ宮あげ。 階段を一気に駆け上がり拝殿入り口に乗り上げる。3回拝殿に神輿を突っ込み神輿を揺さぶったところで境内の脇に下がり、次の町内と交代する。
献灯みこし祭り16
↑左は「宮あげ」の前に鳳凰が外される橋場町の神輿「高砂」。右は拝殿の中に突っ込んだ紺屋町の「名月」。
献灯みこし祭り17
↑太鼓を打ち鳴らし、拝殿に向かって進む南町1の「白菊」。
 通年、総ての神輿の宮あげが終了するのは24時頃だそうだ。終電が魚津駅を23時5分に出る金沢行きなので、余裕をみて22時半頃に神社を出て駅に向かった。
 今日は町神輿の巡行はバラバラに始まったが、暦の関係で第3土曜日が本来の祭日である14日の時に限って総ての神輿が神社近くの川沿いに並んでから町内巡行が行われるそうだ。
*北日本新聞の記事、記事「魚津が荒れ狂う夜」。

9月13日(水)

 高岡開町の祖である加賀藩前田家2代目当主・前田利長公の遺徳を偲ぶ顕彰祭が、利長公が高岡に入城した日に因み、今日、国指定史跡に指定されている利長公墓所で行われる。

前田利長公顕彰祭01
 普段、利長公墓所は立ち入り禁止となっているが、顕彰祭の行われる日だけは一般に開放される。高岡市に問い合わせたところ顕彰祭は午前10時から10時40分まであり、その後14時まで開放されるという。せっかくなら、顕彰祭も一度見てみようかと思い、朝ドラ「ひよっこ」を見た後に自転車を漕いで高岡に向かった。
 9時半過ぎに墓所に到着。墓所の前にはテントが張られ、椅子が並べられている。
↑前田利長公墓所の入り口。鳥居の先にお堀りがあり、その先が墓所となっている。普段でもお掘りに架かる橋までは行ける。
前田利長公顕彰祭02
前田利長公顕彰祭03

 式は10時に始まり、10時50分頃に終了した。
 受付でいただいた式次第より。
導師入場/前◯(◯は、金へんに祓という字のつくり)/散華道場/祭文/御奉茶の儀/献花/献歌「ながれ雲」/導師香語/読経/回向文/後◯(◯は、金へんに祓という字のつくり)/導師退場

←顕彰祭の後は、一般のお参りが行われたので、最後にお参りして来た。

前田利長公顕彰祭04

  御廟の前はテントの撤去作業中なので後ろにまわり、130枚ある戸室石製の蓮華陽刻の中で一枚だけ絵柄の違うものがあるというので探してみる。
 それは後ろ側の一番上の段の中央にあった。上の写真の左が基本の絵柄で、右が一枚だけ違う絵柄の陽刻。この一枚だけ違う絵柄の陽刻を開けると通路になっているという都市伝説のようなものを聞いたので、後で高岡市の職員の方に聞いてみたがそのようなことはないそうだ。しかし、なぜ一枚だけ違う絵柄なのかという理由も謎のままだという。

 テントの撤去にはしばらく時間がかかりそうなので、墓所の向かいにあり墓所の廟守の寺として造られたという繁久寺へ。顕彰祭の後、こちらのお寺で列席者を招いたお茶会が催されるという情報以外知らずに入ったら、山門を入って直ぐにある回廊に500羅漢が安置されていて驚いた。

繁久寺
看板

↑繁久寺。五百羅漢というと屋外に並んだ石仏をイメージするが、こちらの五百羅漢は彩色がされ、表情も仕草も豊かで面白い。

←お腹が空いたので近くのコンビニで焼き鳥、おにぎり、肉まんを食べて墓所に戻る。途中、信号待ちしていたら目についた看板。「ピット・イン」か「ピィト・イン」か?3対2で、ピット・インの勝ち。そもそも何で看板が5つもあるのか(笑)。

前田利長公墓所01
 12時過ぎに墓所に戻ると既にテントは撤去されており、市の職員が墓所の概要を書いたパンフレットを配ったり、質問に答えたりしている。なぜ毎日開放しないのか尋ねたところ、この墓所は前田家の私有地なのだそうだ。
↓→鳥居の前にある6mを超す大灯籠。
前田利長公墓所03
前田利長公墓所02

 墓所の入り口、鳥居の前には一際目につく大きな灯籠がある。日本三大化灯籠というのが上野寛永寺東照宮、尾張熱田神宮、京都南禅寺にあるそうだが、それらに匹敵する高さだという。本来灯籠は2つで一対だが、もう一つの灯籠は船で運んでいる途中、千保川に沈んでしまったそうだ。
 一年に一度しか開帳されない前田利長公の墓所を撮り終えて、今度は高岡古城公園に向かう。
 高岡古城公園は、2015年に高岡城跡として国史跡に指定された。高岡志貴野ライオンズクラブが結成50周年の記念事業として古城公園の大手口に「高岡城跡」と書いた石碑を建立し、その除幕式が今日の14時から催される。
 場所を確認しに行くと、テントが張られ太鼓を演奏する女性が2人打ち合わせをしていた。式が始まるまで後一時間以上あったので、自転車で周辺をぷらぷら走り、公園内の動物園で動物を眺めて過ごした。

→高岡大仏の裏手の方にある、味な雰囲気の飲食店街。

大仏飲食店街
↓高岡古城公園動物園。ずっと空を見上げているペンギン。
動物園02
動物園01
 15分ほど前に式典会場に来ると、テレビや新聞のカメラが並んでいた。そして14時になり、射水神社の神職の方々が祭壇に到着して式が始まった。
 除幕式次第
お祓い 太鼓の揃い打 除幕 神事 挨拶 石碑建立事業概要説明 祝辞 祝電披露 感謝状贈呈 祝いの太鼓 閉会の挨拶
石碑の除幕式01
↑左は射水神社の神職によるお祓い。右は万葉華太鼓の揃い打。
石碑の除幕式02
↑除幕式。石碑の高さは2.7m、幅1.4m、重さは12トン。
石碑の除幕式03
木漏れ日

 除幕式の式典は、1時間ほどで終了した。
 空気は乾いていて秋だけれど、今日の日差しは夏のようだった。公園に植えられたもみじの葉から溢れる陽が美しい。あと一月ほどで赤く色付くのだろうか。
 サイクリング日和の空の下、ゆっくり自転車を漕いで家に帰る。

*顕彰祭の北日本新聞の記事、富山新聞の記事。石碑の除幕式の北日本新聞の記事、富山新聞の記事、中日新聞の記事

9月12日(火)

 午前中は雨時々曇り、午後からは晴れ間も見えた。夜になって、また雨。忙しい空模様。
 昨日で9.11から16年。9.11から3.11を経て、世界が目に見えて崩壊を始めた気がするというツイートを見かけたが、同意する部分が多い。
 正午頃、Facebookに三上智恵さんの読谷村にあるチビチリガマが荒らされたという報告が流れて来た。その後、沖縄タイムスと琉球新報が記事を掲載。
チビチリガマ荒らされる 沖縄戦「集団自決」の壕 遺品など破壊
チビチリガマが破壊 内部荒らされる 遺骨や遺物、折り鶴も 遺族「ひどすぎる」

 一昨日は、お神輿の火渡りで知られる櫛田神社の秋季例大祭に行って来た。ネットの情報で巡行が13時〜となっていたので、あいの風とやま鉄道で越中大門駅に11時49分に到着する電車に乗るが、6分ほどの遅れが出ていたので駅に着いて自転車を組み立てたら12時頃だった。
  プリントアウトしてきた地図を見ながら櫛田神社へ向かう。地図の感じだと駅から5kmほどだろうか。駅から2回しか曲がらず、ほとんど一本道なので迷うことなく30分ほどで着いた。神社に向かう時、周辺の家には祭礼の幟が立っていた。

櫛田神社秋季例大祭01

 鳥居を潜ると真っ直ぐに伸びた参道があり、少し先まで両側に縄が張ってある。すでに場所取りの三脚がいくつか並んでいる。
 参道の一番奥にお神輿が鎮座している。その先の階段を上ると境内で、拝殿では神事の最中だった。
 色鮮やかな衣装を来た、神輿行列に加わる人たちが拝殿の外に並べられた椅子に座っている。

←参道奥に安置されたお神輿。

↓神輿出御祭の執り行われている社。→例祭の予定表。
櫛田神社秋季例大祭03
櫛田神社秋季例大祭02
 境内に秋季例祭の予定表が貼られていた。それによると、
宵宮祭 九月九日(土) 十九時三〇分
例祭  九月十日(日)
    例祭 神輿出御祭     正午
    御旅所祭      宮新田  十三時三〇分   
    御旅所祭      西村   十四時五〇分  
    御旅所祭      牧田   十六時
    御旅所祭 ・出立祭 本村   十七時
    還御祭           十八時
火渡りの催しは還御祭前に正面鳥居辺りで行います

櫛田神社秋季例大祭04
↑↓宮司さんが拝殿を出て、階段下のお神輿にご神体を祀られる。
櫛田神社秋季例大祭06
櫛田神社秋季例大祭05
櫛田神社秋季例大祭07

↑12時45分頃にご神体を抱えた宮司さんが、拝殿を出られる。

← 階段の下に安置されたお神輿にご神体が祀られると、お神輿に向かって、獅子舞が奉納される。

↓獅子舞は10分ほどで終わり、獅子方を先頭に長いお神輿の行列が、参道を通り鳥居を潜って、最初の御旅所である宮新田の公民館へと巡行を始めた。

櫛田神社秋季例大祭08
↓宮新田へ向かう神輿行列。→高下駄を履く、猿田彦。
櫛田神社秋季例大祭10
櫛田神社秋季例大祭09
 神社を出て10分ほどで、宮新田の御旅所に到着。直前に猿田彦が高下駄を履くが、少し歩いて断念したようだ。
櫛田神社秋季例大祭11
 御旅所に到着すると神職と祭り役員、神楽を奉納する稚児は中へ入り神事が行われる。獅子方は御旅所となった公民館の前で獅子舞を奉納する。
櫛田神社秋季例大祭12
 御旅所での神事は修祓、祝詞奏上、神楽「乙女の舞」、玉串奉奠と続く。神事が終わると、飲み物と料理が出されしばし休憩。休憩の後、御旅所の前でもう一度獅子舞が奉納されて、次の御旅所に向かって出発する。
櫛田神社秋季例大祭13
櫛田神社秋季例大祭14
 宮新田で神事と休憩で40分ほど過ごし、14時頃に次の御旅所である西村の公民館へ向かって巡行を開始する。村の入り口付近には代表者が正装で立ち、お神輿をお迎えする。
櫛田神社秋季例大祭15
櫛田神社秋季例大祭16
 西村の公民館でも最初に獅子舞が奉納され、中で修祓、祝詞奏上、「乙女の舞」奉納、玉串奉奠が行われた。
 西村の次は牧田の公民館が祭場となる。先に行って場所を確認してから近くにのコンビニを教えてもらい焼きそばパンと、おにぎりで遅い昼食。牧田公民館へ行くと神事が終わり休憩中だった。しばらく休んだ後、獅子舞を舞って次の御旅所へ出発。
櫛田神社秋季例大祭17

↑上段左:西村から牧田に向かうお神輿行列/上段右:牧田の御旅所を出るお神輿/中段左:獅子舞の道具と一緒に移動する剣持の少年/中段右:牧田から本村の御旅所へ向かうお神輿/下段左:御旅所となった本村公民館の前で獅子舞の奉納/下段右:本村での神事

 本村公民館での獅子舞の奉納を見てから、自転車で櫛田神社に向かう。鳥居の先にある参道の両側はカメラを構えた人がズラリと並んでいる。お神輿の巡幸に付いて行く前に自分の場所として折りたたみの踏み台を置いていったのだが、退かされたりしないでそこにあった。

櫛田神社秋季例大祭18
 17時半頃、鳥居の傍に杉の枯れ枝や葉が積まれる。17時50分過ぎにお神輿の一行が神社に入る。神職が杉の枝葉を積んだ場所でお祓いを行う。17時55分頃に火がつけられ、炎があがったところで、獅子方とお神輿の火渡りが一気に行われる。
櫛田神社秋季例大祭19
櫛田神社秋季例大祭20
櫛田神社秋季例大祭21
 獅子とお神輿の火渡りは正味1分ほどで終わってしまった。
 急いで参道の奥に向かうと、ちょうどお神輿の中からご神体が運び出されるところだった。
 宮司さんに抱えられて、ご神体は本殿に還される。
 拝殿の前では獅子舞が奉納され、中では還御祭が執り行われる。
櫛田神社秋季例大祭22
櫛田神社秋季例大祭23

 神事の後、拝殿で神職にお神酒がまわされ直会が行われていた。
 現在はお神輿巡行は一日だが、嘗ては本村の御旅所で一泊し、2日間に渡って行われたそうだ。
 18時半頃に櫛田神社を後にして、越中大門駅へ。駅で自転車を輪行袋に仕舞い、19時18分の電車で家に帰る。
 19時半過ぎに駅に着くと、お囃子が聴こえる。自転車を組み立てて聴こえる方へ行くと、表の宮(神明宮)の獅子が花を打った家の前で舞っていた。

 太鼓台の横に同級生の天近君がいた。もうしばらく道中(町中)で舞い、22時頃に表の宮で獅子殺しをやるという。たぶん今日は、裏の宮(八幡宮)も秋季例祭で獅子が出ている。一旦家に帰り晩ご飯を食べ、撮影したデータをバックアップし、少し休憩してから表の宮へ自転車で向かった。
 21時15分頃にお宮さんに着くと、剣持の子供たちが並び獅子舞が始まりそうだった。天近君に聞くと、まわる家が年々少なくなり時間が早くなったそうだ。
 太鼓台に演目が書いてあったので、複写した。獅子殺しの前に、一通りの演目が行われる。
1.会長の挨拶 2.やっさぶ 3.がめ 4.一足 5.きょうぶり 6.のったか 7.げんばやし 8.二足 9.ぼんぼこ 10.二足 11.ばえがえし 12.やっさぶ 獅子殺し
表の宮の獅子舞01
表の宮の獅子舞02
 表の宮の獅子殺しは、天狗が獅子を殺した後、獅子おこしで蘇らせる。一度お宮を出て再び鳥居から入り、天狗に先導されて拝殿に入って終わる。獅子殺しの時に、観客にお菓子が配られた。総てが終わったのは、22時40分頃だった。
 表の宮を出て、自転車で5分ほどの裏の宮へ。まだやっているだろうかと心配していたら、まだ始まってもいなかった。裏の宮の獅子殺しは、お宮さんの斜め向かいにある公民館の前で行われる。しばらく待っていると、23時10分頃に始まるという案内があり、演目を書いた紙が配られた。裏の宮の獅子殺しは「一刀振」と呼ばれているようだ。
平成二十九年度 一刀振 演目(注目ポイント)
剣持の敗北(剣持の丸飲み) 天狗の様子見(傘を使った華やかさ) 剣持の救出(傷口を舐める獅子の様子) 泥酔獅子(獅子の酔い具合) 火舞(豪快なタイマツの動き) 天狗の失敗(獅子の斬り損ね) 大天狗の一振り
裏の宮の獅子舞01
裏の宮の獅子舞02
 裏の宮は獅子殺し(一刀振り)した後、剣持に先導されて神社に入り、拝殿で神職の手により神の御霊である角に付けられた紙垂(しで)が取り外される。総てが終わったのは、0時30分頃だった。

*櫛田神社秋季例大祭に関する北日本新聞の記事、富山新聞の記事
『とやまの民俗芸能』(北日本新聞社)の「火渡り」より。
 火渡りは、炭火の上を裸足で歩く行事で、これを修験道では「火生三昧耶法・かしょうさんまいやほう」という。この行事は、火で穢れを焼き去ることによって、己が不動明王(忿怒の形相で悪魔を降伏させるという仏)と一体となり、超自然的な力を発揮することが出来るとの考えによって催されるのである。
 このように火渡り神事は、山伏らが伝えた不動明王信仰に基づく習俗である。
 獅子舞の中にも不動明王信仰の影響を受けているものがある。射水郡大門町二口、串田両地区や新湊六渡寺地区の祭りでは、獅子が火渡りをする。また、射水郡下村加茂地区の加茂神社にある獅子頭には梵字のカン(不動明王)、魚津市小川寺地区の獅子頭(祭りは一月二十六日)にも梵字のカンとマン(文殊)という文字が刻んであり、不動明王信仰の強いことがわかる。
 射水郡小杉町下条笹山の日の宮社も、元は火の宮で、石動山(せきどうざん。富山・石川両県の県境にある山で、古くには霊山としてあがめられ、修験道場も建っていた)信仰によって建立されたと伝えられている。
 とにかく、各種の火祭りを並べてみると、火の呪力を信じた形のもの、神霊迎えのために催すもの、不動明王信仰によるものなどが重層的に併存しており、神仏習合の一面を知ることができる。

 こちらには、櫛田神社の火渡りについて「神社南方の大沢山丘陵に、串田本村の真宗大谷派勝連寺の前身天台宗三学院があったことから、天台山伏によって伝えられたといわれています」と記されている。

9月9日(土)

 秋晴れ。
 髪が伸びたので、自転車を漕いで切りに行く。散髪した後、しまむらとダイソーで買い物をして帰る。
新しいトップページ

←しばらく放置していたトップ画面を、模様替えしました。撮り鉄でも乗り鉄でもないけれど、電車が来るとついついシャッターを押してしまう。曇り空で、本当は全体にブルーだったのを現像時に色温度を調整して暖色系にしています。

↓これまでのトップ画面。

これまでのトップページ
 今年の4月8日に撮影した下大久保の高砂山願念坊祭りの様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
下大久保の高砂山願念坊祭り
↑巫女さんの格好をした女の子と、法被を着た男の子たちが下大久保会館の前で願念坊踊りを披露する。後ろの見える下大久保の曳き山は、八尾町の今町が1862年に二代目の曳き山に造り替えた際に、初代の曳き山を譲り受けた(購入した)もの。祭神は尉(じょう)と姥(うば)の高砂で、高砂山と呼ばれている。

9月8日(金)

 今日、mixiを覗いたら(何かを書き込むことはあまりないが、今でも覗いている)、「森口博子&荻野目洋子の22年前の写真に驚きの声」というニュースがUPされていた。
 この頃に二人とも撮影したように思って確認したら、森口博子さんは24年前に、荻野目洋子さんは22年前に撮影していた。
 今の彼女たちの活動をよく知らないけれど、なるほど外見的には昔とあまり大きく変わっていないのかも。それよりも、久しぶりに見た自分の撮影した写真が古くさく見えてしょうがない(笑)。今だったら、こんなポーズで撮らないだろう。
 不思議なもので、こうして写真を見ると普段は頭の隅にもないような当時の事を思い出す。どちらも雑誌の仕事でインタヴュー後の5分か10分ほどで撮影しているのだけれど、荻野目洋子さんの時はスリランカに興味があると言ったので、その頃取材したばかりの新宿にあるスリランカ・レストランの話をしながら撮った。
 森口博子さんを撮影した場所は、六本木の麻布警察署近くの喫茶店。お店も場所柄馴れたもので、他のお客さんがいる中で普通に撮影させて下さった。
 年を取るとつい今しがたの事を忘れるのに、昔の事はよく覚えているというが、そう言う事だろうか。どちらの撮影も遠い昔のようであり、つい2、3年前のようにも思える。
森口博子さんと荻野目洋子さん
↑荻野目洋子(左)さん、1995年撮影。森口博子(右)さん、1993年撮影。
 相変わらず北朝鮮とアメリカの緊張関係が続いている。ところで、アメリカからの石油輸入を止められたことが一因で開戦(真珠湾攻撃)した日本が、北朝鮮への制裁強化として石油輸出禁止を働きかけるっておかしいだろう。”窮鼠猫を噛む”を自らの事として一番知っているはずの国なのに。

太陽フレア「1000倍規模」のコロナガス、予想より早く地球到達
メキシコ南西沖M8.1 死者33人、沿岸で津波観測
◯国内でも熊本で午後2時20分頃に震度4の地震、秋田で午後10時23分頃に震度5強の地震。

 民進党の前原誠司代表が、維新と連携したい意向だという。民進党、ホントにバカなんだろうか。

9月3日(日)

 真子さまの婚約内定会見が行われ、北朝鮮が6回目となる核実験を行った。

 半袖のTシャツでは肌寒く感じられるほど秋めいているが、今日は旧暦の7月13日で、奄美や沖縄といった琉球弧の島々では今日から3日間お盆に入る。奄美では初日の今日は迎え盆で、提灯を持ってお墓へご先祖さまをお迎えに行く。明日は家でおもてなしをして、明後日はまた提灯を持ってお墓までお送りする。
 沖縄も初日がウンケー(お迎え)、2日目が ナカヌヒ(中日)、3日目がウークイでグソー(あの世)へお見送りする。現在の福島県出身の学僧である袋中上人が伝えた念仏踊りを京からやって来た芸能集団・ニンブチャー(念仏者)によって琉球の村々に広められたエイサーは精霊の供養を目的に旧盆に踊られるものだが、今はイベントや祝い事でもよく踊られるし、歩行者天国の国際通りに行けばどこかの団体がエイサーを踊っているので季節感は薄れているように思う。
 2013年に、石垣島へ行き八重山の旧盆行事・アンガマを見て来た。アンガマはグソー(あの世)からやって来た精霊の一行が家々をまわり、三線と太鼓の地謡をバックに歌と踊りを披露して先祖を供養する。中心となるのはお面を付けたウシュマイ(翁)とンミー(媼)で、顔を隠して花笠を被ったファーマー(子孫)を引き連れている。今年は9月3日が旧暦7月13日で随分と離れているが、2013年は8月19日が旧暦の7月13日だった。

アンガマ
↑訪れた家の仏壇の前で手を合わせる、ウシュマイとンミー。この後、周りを囲んでいるファーマー(花子と呼ばれる子孫)たちが歌と踊りを披露する。登野城青年会のアンガマ。2013年8月20日撮影。

 2014年に久高島の旧正月を撮影に行ったとき、沖縄に永く滞在しているスイス人が家々に掲げられた日の丸の旗を見て、なぜ旧正月なのに中国の国旗を揚げないのかと言っていた。彼は明治6年まで日本も旧暦だったのを知らなかったのだろう。実際、自分自身も奄美へ行くまでは、日本が嘗て旧暦の暦を使っていた事はうっすらとした記憶の中にしかなかった。
 奄美や沖縄でも普段の生活は新暦で、行事や祭祀の日取りに旧暦が使われるくらいだ。農耕や潮の満ち引きが旧暦の暦と結びついているからだろう。多少ズレることもあるが旧暦の1日は新月で、15日が満月。♪うーさぎうさぎ 何見て跳ねる 十五夜お月さん 見て跳ねる♪は、旧暦15日の満月のことだろう。そして奄美では旧暦の1日と15日に、お墓参りをする。

 富山でも祭りの撮影に行くと、嘗ては旧暦で行っていた祭祀を新暦に直し、ちょうど1ヶ月遅らせて開催していることがある。厳密には旧暦と新暦は年により日にちが異なるが、毎年開催日が変わると都合が悪いのだろう。
 件のスイス人ではないが、明治の初期まで日本も旧暦だったということを知らない人が増えているのかもしれない。案外、沖縄が中国に支配されているという妄言を発している人の中にも、その事を知らない人がいるのではないだろうか?

 昨日は城端の善徳寺へ、ちょんがれ踊りを見に行った。普通の民謡のつもりで聴きに行ったら、日本語ラップの源流のような芸能でかなり驚いた。こちらの様子も後々UPいたします。
城端からの夕暮れ
↑善徳寺のちょうんがれ踊りが始まる前、南砺市城南屋内グランドの辺りから撮影。斜面にスキー場が見えるので、正面の山は医王山だろうか。

9月2日(土)

 今日は城端別院・善徳寺で一心講があり、ちょんがれ踊りが開催されるとネットの情報で知った。7月の虫干し法会で撮影させていただいた写真のプリントをお渡ししようと思っていたので、良い機会なので足を運んでみた。
 ちょんがれ踊りは19時からだが、せっかくなので自転車で城端の町を走り風景写真も撮ろうかと早めに家を出る。
 戸出駅に着いて自転車を折りたたみ、15時59分の電車で城端へ。城端駅で自転車を組み立てて、善徳寺へ向かう。先ずは寺務所にお伺いし、虫干し法会のプリントをお渡しした。事務局長さんに19時から行われるちょんがれ踊りの撮影許可をいただき、一心講とはそもそも何か尋ねたところ『善徳寺史』という分厚い本を出してきて下さった。本には、次のように記されていた。
【一心講】 
 城端別院では、九月二日の夜に別院境内にて「一心講踊り(ちょんがれ踊り)」を奉納している。かつては九月一日に行われたこの行事は、一心講の講員によって運営されている。一心講踊りでは、本来、踊り手よりも音頭とりが重要であり、一般の歌い手の中から、ちょんがれの歌詞をしっかり覚えていて、唄の上手な人が東西の大関に選ばれた。また、大関を三年続けると横綱になった。別院の対面所の外側の壁には「城端別院一心講 音頭 千代加礼 五十周年記念」の木額が掲げられ、左右に歴代の大関のところと氏名が書き上げられてある。
 しかしながら、歌い手が少なくなったこともあり、昭和三十年代後半に別院でテープレコーダーを購入し、その後、生唄での音頭とりはいなくなってしまったが、平成に入って、生唄が復活し、現在に至っている。
 現在、「一心講踊り」では、ちょんがれ踊り(一時間ほど踊る)のほかに、麦屋踊り(三十分)、こきりこ(三十分)、炭坑節(二十分)が踊られ、大谷婦人会の協力も得て、ユニークな仮装の人が大勢参加して、楽しい踊りの輪を見せている。

 お寺の行事のようにも読めるが、次に見せてもらった城端古典民謡保存会の記念誌には、<この地も明治初期に一心講、両砺歌道同盟が結成され、昭和三十年頃までは盛んであった>という記述があり、一心講という集団・組織(頼母子講*沖縄の模合の様な組合)とも受け取れる。
 『善徳寺史』と保存会の記念誌の「ちょんがれ踊り」に関係する部分を複写させてもらい、寺務所を出た。

城端からの風景
 城端に来るのは曳山祭りや麦屋踊りといった祭りの時ばかりなので、普段の町の様子を知らない。大通りから外れた道を自転車で走っていると、太陽の光が山に射しているのが見えたので、見晴らしの良い場所を探していたら南砺市城南屋内グランドの裏手に来た。雲の切れ間から天使の階段が降りていた。
 しばらく変化する空模様を眺めて写真に収めていたが、太陽が山に沈んだのを見て引き上げる。スーパーで菓子パン一つとポテトチップスを買って、善徳寺に戻ったのは18時20分くらいだった。
 善徳寺は大規模な改修工事が行われていたため、一心講のちょんがれ踊りは5年ぶりだそうだ。本堂では、婦人会の方々が仮装で踊る人に渡すプレゼントの用意などをしている。仮装は昔から行われていたようで、ちょんがれの語源の一つである、剽軽者の精神がそこにあるのかもしれない。
↓→18時を過ぎて徐々に踊り手が境内に集まって来る。
善徳寺02
善徳寺01
 18時50分頃に城端町古典民謡保存会の会長さんがいらしたので、善徳寺の事務局長さんに紹介していただき、ちょんがれの歌詞が印刷された冊子を複写させてもらう。
ちょんがれの歌を印刷した冊子01
↑複写させてもらった冊子。台本をわかり易く、そして広めるために印刷したものだろう。

↓「目連尊者 初段」と「鈴木主水」を複写した。写真は目連尊者の一部で、全部で17頁まである。

ちょんがれの歌を印刷した冊子02
 お堂の中で複写している間に、境内では踊りが始まった。踊りの輪の中には、思い思いの姿に仮装している人もけっこういる。踊りの輪の中心に置かれたスピーカーからは「麦屋節」「こきりこ節」「炭坑節」の3曲が繰り返し流れて来た。 
踊り01
踊り02
 一時間ほど経った頃、いよいよちょんがれ踊りが始まった。踊りの輪の中央に3人の音頭取りが立つ。手には歌詞を書いた冊子を持っている。題目は先程複写させてもらった「目連尊者 初段」だろう。伴奏は一切付かず、アカペラだ。
音頭取り01
音頭取り02
↑↓→ちょんがれ踊りの音頭取り。法被を着た方が、保存会の会長さん。
音頭取り03
↑途中、手書きで歌詞が書かれた扇子を広げて歌う場面も。
音頭取り05
音頭取り04

 初めは相撲甚句のように朗々と歌うような感じだったが、途中からはリズムに乗せて僅かな抑揚で早口にしゃべるように歌う。聴きながら??「これ、ラップじゃん!」と驚いた。
 歌い終わったのが20時20分過ぎで、一つの題目で20分ほどかかったようだ。嘗ては「麦屋節」や「こきりこ節」といった普通の民謡は歌わず、ちょんがれだけで踊られていたそうだ。
 踊りが総て終了し、婦人会の方から仮装で踊った人たちに賞品が配られた。なぜか写真を撮っていただけの私にも賞品が渡された。善徳寺の事務局長さんに「黒人のラップのようですね」と話すとニコニコと笑っておられた。音頭取りの方にも同じように話すと、キョトンとされてしまった。
 ちょんがれのどの題目にもラップ的な要素があるのかわからないが、初めて聴いた「目連尊者」は想像を超えてカッコ良くて面白かった。しかし、音頭取りの後継者問題に頭を悩ませているようだった。 
  歌い手が少なくなり昭和30年代後半に一度生唄からテープレコーダーに代わった事があるそうだが、平成に入ってからまた生唄が復活した。城端は民謡の宝庫、若手の民謡歌手で音頭取りになる人が出て是非継続して欲しい。リズムトラックを作製して、それにバックに若手の民謡歌手が新しいちょんがれを歌うのも有りだろう。城端はアニメの聖地だそうだから、コスプレイヤーが思い思いに踊っても面白い。
 城端駅へ行き、21時41分の電車で戸出駅へ。涼しいを通り越してTシャツに薄手のヨットパーカーでもちょっと寒いくらいの夜道を、初めて聴いたちょんがれに興奮しながら自転車を漕いで家に帰った。

 ちょんがれ踊りをラップだと感じた人は他にいないだろうかと思い、「ちょんがれ ラップ」で検索するとWikipediaの「あほだら経」がヒットし、日本語ラップの源流として見る向きは多いと書かれている。ちょんがれと阿呆陀羅経は極めて近い芸能だと言われており、『とやまの民俗芸能』(北日本新聞社)によると、井波町にはちょんがれの台本として「阿呆陀羅経」という題目があるくらいだ。
  ところで、誰が日本語ラップと言ってるのかと注釈を見ると、中村とうようさんだった(笑)。出典は『中村とうようの収集百珍』(ミュージックマガジン)の「豊年斎梅坊主」の頁で、阿呆陀羅経「出鱈目」のキャプションに<これぞ梅坊主の最高の名演とつねづね絶賛する作品。「三味線弾きが三味線弾くのが速いかシャベる私が速いか、速い比べのお笑いは・・・」などと言ったあと、ナンセンス・ギャグの速射砲を浴びせ掛ける。日本のラップの真髄。これを超える芸が、彼の後に果たして登場しただろうか>と書いている。 
 阿呆陀羅経は吹き込みがされてレコードになっているが、同じ祭文系でもちょんがれは吹き込みされた物はないようだ。とうようさんが、ちょんがれを聴いたらどんな反応をしただろう。そう言えば、季刊『ノイズ』の撮影で、とうようさんと一緒に谷中にあった新内の四代目・岡本文弥さんの家へお伺いした。文弥さんの撮影の後、とうようさんの依頼で近所にあった豊年斎梅坊主の墓を撮影した記憶がある。梅坊主の墓の写真が何に使われたのか、今でもわからないのだけれど。
 豊年斎梅坊主は願人坊主だったそうだが、 この9月2日は小矢部の太田神社で願念坊踊りの奉納があった。なんとなく色んなものが繋がっている。

◯ちょんがれ関係の記述を纏めておく。

城端古典民謡千代音加礼保存会の記念誌より。 
ちょんがれについて
 元陰陽道系統のじう詞から発祥したともいわれる。
 佛教会では、真言宗、天台宗で盛んに用いられた。藩政時代になるとそれが俗化し、下級山伏などが、もじり祭文の様な娯楽本位の祭文を作り出し、それを専用にして生計を立てるようになった。滑稽諧謔(かいぎゃく)の物語に節を付け、人を笑わせ、門に立って手の内を乞う無頼漢であった。こうした変化した祭文が諸国でうたわれた。

由来と沿革 
 ちょんがれは、古くから民衆の娯楽として、砺波地方一円の村々の神社境内で盆踊りとして唄い踊られてきた郷土芸能である。戦後直後までは、各村々の境内で老若男女が夜明けまで盛んに唄い踊られていた。
 戦後中断しそのごは、生活様式の変化と共に「ちょんがれ」は姿を消した。しかしながら、平成元年にはいり、町民のあいだで、これを保存する動きが起こり『城端千代音加礼保存会』が結成された。この保存会ではちょんがれを普及するため、台本を読み易くした冊子の印刷配布やテープに録音するなどの保存普及活動を続け、城端別院境内での一心講に協力参加している。

千代音加礼節
 ちょんがれ節は、「語りもの」、「庶民教訓」、「落書き」的なもの等に分けられるが、一番多く見られる語り物には、佛教説話調の「釈迦八相記」、「目連尊者地獄めぐり」武勇伝調の「鈴木主水」、講談調の「岩見重太郎」、人情調の「八百屋お七」端物調とも言われる「何々尽くし」等色々な歌詞がある。ちょんがれは「釈迦一代記」、「石山合戦」、「親鸞経」、等の如く、非常に宗教性に富んだものが多くみられる。最初は祖先の霊を祀る盆に仏の功徳を歌に作って民衆に踊らせるという浄土真宗の唱導と教化の方便として定着したが、「講」と同様次第に宗教性から遠退き、民衆の喜ぶ軍談や人情、伝説物をとりいれ、当時の庶民大衆の慰安娯楽の為のものとなって行った。

『踊り念仏』
千代音加礼踊りについて
 平安中期より空也上人が貴賎を問わずに口承念仏をひろめ、弟子の定盛等により空也踊り念仏が展開された。
 鎌倉時代に入り、一篇上人が時宗を開き、諸国を遊行して踊り念仏を民衆に勧めた。
 この地方でも福光吉江野『田中』の仏導寺が拠点となって、砺波地方に時宗を布教し、念仏踊りが広まった。
 その後、十四世紀中頃に、浄土真宗の北陸進出の際、蓮如により真宗の布教に伴い、一般民衆の教化の手段として「チョンガレ」の唄と踊りへと転化して普及した。
 これらは全て踊り念仏、時宗を土壌として発展し継承され現在に遺された。
 この地も明治初期に一心講、両砺歌道同盟が結成され、昭和三十年頃までは盛んであった。
 その後、(戦後)城端、福光、高瀬、石動、五ヶ山地方各地で、活動継承するようになった。

城端「保存会の活動」
 城端古典民謡千代音加礼保存会も、昭和六十三年に結成され、現在会員三十数名で、音頭取りが六名で毎月一回、唄の練習を行い、年に二回、唄と踊り合わせの研修をして継承している。
 行事として善徳寺の一心講、虫干し時の奉納チョンガレ踊りの他、善徳寺での盤持ち講、踊りにも参加協力している。
「城端千代音加礼踊り」は、城端町の民俗無形文化財に指定されその後、市町村合併南砺市の民俗無形文化財に指定されている。
 平成二十五年三月 記念誌編集委員 松下博志

『とやまの民俗芸能』(北日本新聞社)盆踊り唄を考えるより
 チョンガレ節のチョンガレという語は、ちょうける(ちょぼくれ)、つまり剽軽者(ひょうきんもの)の意味である。この語は、江戸期に関西方面で活躍した「ちょろけん」という大道芸人の呼び名と同義語である。
 チョンガレ チョンガレ というチョンガレ節の囃子言葉も、道化言葉から生まれたものとみられている。
 石川県能登地方に多いジョンガリという盆踊り唄は、砺波地方のチョンガレ節が伝わって変化したものであろう。チョンガレ節を砺波地方でもチョンガリとかジョンガレと呼んでいる地域があり、加賀ジョンガリとの結びつきを示している。従って、加賀ジョンガリの名を、念仏踊りで鳴らす鉦鼓の音から生まれたとみる説は、当らないであろう。
〜略〜
 チョンガレ節(千代音加礼節)が、ユーモラスな盆踊り唄であることは、上述の通りだが、本来は陰陽道で唱えた呪文であり、主に仏教の宗祖や高僧をたたえる祭文(祝詞)だったようである。それが江戸時代に俗化して娯楽本位の口説き唄に変化したといわれている。
 以下に、富山県内で歌われるチョンガレ節の主な題目を列挙する。カッコ内は、台本の書かれた年代である。

 高岡市戸出町に伝わるチョンガレ節の題目には、つぎのようなものがある。
 大塩平八郎(安政五年=一八五八)、石山軍記豊若之段(文久元年=一八六一)、白石噺敵討之段(文久三年=一八六三)、釈迦ねはん(明治十二年=一八七九)、田畑和寿礼章(明治二十三年=一八九〇)、いざり勝五郎、越後伝吉一代記、牛若丸鞍馬之段、新造改銭屋五平之段(明治三十五年=一九〇二)、橋本屋半左衛門(明治三十六年=一九〇三)、岩見重太郎歳助之段、稲葉小僧一代記、笠松峠鬼神お松、宮本武蔵、太閤記、天下茶屋返り討ち之段。
 砺波市鷹栖地区のものは、童子丸(慶応二年=一八六六)、かいかいずくし(明治七年=一八七四)、染色ずくし、あしやどうまん(明治八年=一八七五)、小栗判官万屋之段(明治十年=一八七七)、新語志京段、目連尊者(明治十一年=一八七八)などがある。
 西砺波郡福光町には、笠松峠三巻千太郎之段(弘化五年=一八四八)、驕判官殿、奢判記噺(慶応三年=一八六七)、宮本左門之詠や之段(慶応四年=一八六八)、蜈蚣(むかで)退治(明治九年=一八七六)のほか、広瀬館村(現・福光町)甚左衛門ちょぬかり、茶ずくし、釈迦如来噂噺一段目、釈迦如来、目連尊者、箱根利源などが伝承されている。
 東砺波郡井波町にも、綽如上人記五段次第(元禄三年=一六九〇)、奢判頑道親之笑い節、いなば寺蔵籠之段(嘉永四年=一八五一)、焼山崎二段(嘉永七年=一八五四)、釈迦八相記(安政三年=一八五六)、小栗判官(安政五年=一八五八)、石山一代記(安政六年=一八五九)などのほか、阿呆陀羅経、目連道行初段、親鸞経や、昭和十年(一九三五)、同十二年(一九三七)に書かれた釈迦一代記、目連尊者地獄めぐりなどがあり、太平洋戦争に突入した同十六年(一九四一)ごろまで歌われていた。
 同郡城端町でも、昭和十五年(一九四〇)ごろまで、城端別院・善徳寺(浄土真宗大谷派)の一心講にチョンガレ節がよく歌われた。台本には釈迦八相記、目連尊者地獄めぐり、石山合戦、八百屋お七、忠臣蔵、太閤記などがあった。
 チョンガレ節が流行していたことは、各地の神社に残っているチョンガレの奉納額をみてもわかる。奉納額は、砺波市内の各神社、東砺波郡庄川町青島地区の神明社、同郡福野町の神明社などにあり、小矢部市の鴨島神社境内には、チョンガレ節の師匠の供養碑(明治五年建立=一八七二)も建っている。

Wikipediaのちょんがれより抜粋
ちょんがれは、ちょぼくれとも呼ばれる門付芸である。しばしば阿呆陀羅経とも極めて近い芸能とされる。同じ祭文系の芸能は概ねレコード吹き込みがされているが、この芸能は吹き込みされておらず音源はない。

語源は「多くの言葉を口早にしゃべる」「口先でうまいことを言って相手を丸め込む」といった意味を持つ四段活用同士「ちょんがる」の命令形と考えられる。「ちょぼくれ」もまた、願人坊主など大道の雑芸人が、江戸の上野、筋違(すじかい)や両国などの広小路や橋のたもとなど殷賑(いんしん)な地で(幕末から明治にかけては簡易寄席とも言えるよしず張りの小屋「ヒラキ」で見られた)、木魚をたたき、舞ったり歌ったりする芸能である。

戦後、富山県において厖大な「ちょんがれ写本」の集積が発見されたが、これは、盆踊りや鎮守の祭礼などでさかんに歌われたのみならず、地域社会において、ちょんがれ節の巧拙を競う競演大会がしばしばあり、その番付が神社に掲額されたなどの諸事実によるものと考えられる。

You Tubeから「出鱈目/豊年斎梅坊主」。

9月1日(金)

 なんだか俄にドラム・ソロが注目を浴びている。
 色々とSNSでコメントを見たが、一番共感したのは中島ノブユキさんの<(その1)何故、何かしらの演奏会が何かしらの教育論と結びつけられて語られて いるのか全くよく分からないのですけれど、一つ腑に落ちないのは何故、誰か バンマスが(もしそういった役割の人がいたのであれば)ここで終わりだよってタイミングで曲のテーマを奏でなかったのだろう。><(その2)「あんたのソ ロ、いい加減おしまいにしなさいな」ってサインとして最もわかりやすいのはその曲のテーマに戻る(もしくはテーマの冒頭を数小節奏でる)って事じゃないの かしら?たとえそのドラムソロがその曲のテンポを見失っていたとしても…。>というツイートだ。
 日野さんがステージに上がってビンタをする代わりに、自身がトランペットでテーマを吹いて、他の子供たちがそれに追随してエンディングを迎えたら違う感動があったかもしれない。それが音の力だろう。
 スティックを投げられた子供が、それを拾いあげて床を叩き、さらにテーマに戻ろうとする日野さんに対抗すれば、それもまたジャズかという妄想まで膨らむ。
 もう一つ妄想すれば日野皓正さんではなく、不破大輔さんならどうしていただろう。逸脱し混沌としながら音が絡み合い疾走し、やがて壮大なテーマに戻って 行く渋さ知らズの「本田工務店のテーマ」。それをステージ上で音の猛獣遣いの如く采配する不破さんなら、どうしていただろう。
 初めて横浜・寿町で生の「本田工務店のテーマ」を聴いたときは鳥肌が立って、ボロボロと泣けて来た。忌野清志郎さんも巻き込んだライヴがYou Tubeにあった。こちら。それにしても、不破さんカッコいい。

 そして今日、日野さんが帰国した羽田空港で報道陣の取材に応じた。個人的には、ちょっと残念な会見内容かな。

アンドリュー・シリル

↑写真は1993年6月にデイヴィッド・マレーのコンサートで来日した、アンドリュー・シリル。ドラム・ソロの途中でいきなり床を叩き出した。ドラム・ソ ロで床を叩くドラマーは、おとぼけキャッツ時代の透さんと、クレイジーキャッツのハナ肇さんの2人を知っていたが、元祖はアンドリュー・シリルかもしれな い(笑)。


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