HOME TOP | ||
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表 ◯製作中の富山の祭りと芸能 |
||
9月2日? 善徳寺 一心講(ちょんがれ踊り) 記事 記事
|
||
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作 ◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作 ◯久高島の年中行事 平成17年度作成 ◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作 ◯ 「まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作 ◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作 ◯幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】 ◯村踊 沖縄県伊江村伝統芸能 ◯喜屋武(チャン)の綱引き ◯与那国島の行事 ◯ 「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作 |
||
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html ○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/ ○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html ○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm ○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/ ○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/ ○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/、 ○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy ○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/ |
||
旧暦8月15日の「中秋の名月」は、今年は10月4日だが、南砺市の高瀬神社で一足早く月を愛でる「観月祭」が行われ、神事の後に島根県出雲に伝わる国指定重要無形民俗文化財「大土地神楽」が奉納されると知り見に行くことにした。 今年のお正月は行かなかったが、毎年のように初詣は父親の運転する車で高瀬神社にお参りしている。 神事は17時から、神楽の奉納は18時からとなっていたが、撮影の許可をもらったりするのに少し早めに着くようにする。家から戸出駅まで自転車で行き、14時45分の城端行きで福野駅へ。福野駅で自転車を組み立てて高瀬神社に向かう。井波や庄川に行くのに近くまでは何度か自転車で通っているので、地図を見なくても辿り着いた。所要時間は福野駅から30分程だったろうか。 最初に社務所を訪ねて撮影させてもらいたい旨を伝え、応対していただいた権禰宜の方から許可をいただいた。 |
||
↑高瀬神社。境内入り口にある鳥居。→境内奥にある高瀬稲荷社。 |
||
↓本殿。こちらで神事と神楽の奉納が行われる。→拝殿入り口横にある、なでうさぎ。 |
||
観月祭の撮影許可をいただいた後、参拝がてら本殿や稲荷社などを撮影。 本殿の入り口横には神話「因幡の白うさぎ」に因んだ、自分が治癒して欲しいところを撫でると神様のご加護があるという、なでうさぎが置かれている。 高瀬神社には境内入り口の鳥居の他に、少し離れた参道入り口の大鳥居もあるので、自転車に乗って撮影してくる。こちらは昭和60年に、昭和天皇御在位60年を祝って㈱ゴールドウィンの創業者が寄付されたものだそうだ。 |
||
神事の始まる少し前に拝殿に入る。椅子席が用意されているが、座ると撮影できないので立って見学させていただく。 | ||
神事は神饌のお団子を供えられた拝殿で、祓言葉に始まり修祓、献撰、祝詞奏上、玉串奉奠が斎行された。本殿の前にある鳥居の前には、左右2つの篝火が焚かれている。 | ||
↓鳥居の前に置かれた篝火。→大土地神楽保存会の方の挨拶。 |
||
神事の後、拝殿にシートが張られ神楽の用意がされた。先ず保存会の方の挨拶があり、予定の18時より少し早めの始まりだった。演目は「八千矛」「八戸」。演目の詳しい内容は、こちらを参考に。 | ||
↑上段・中段が「八千矛」。下段が「八戸」。 演目は2つだが、1時間半にも及ぶ熱演だった。舞は所作が大きく迫力があり、奏楽も力強い音を奏でる。荒ぶれた舞と音で、神を喜ばす感じだろうか。舞人が動きを止めた瞬間に激しい息遣いが伝わるのは、拝殿というさほど広くない空間の醍醐味か。 ↓振る舞われたお団子と、境内から見たお月様。 |
||
神楽の後、社務所の前でみたらし団子とお茶が振る舞われた。 高瀬神社での観月祭は平成22年からで、今回が8回目だそうだ。なぜ観月祭が斎行されるようになったのか聞きそびれたが、高瀬神社の主神は大国主命。大 国主命と言えば、因幡の白うさぎ(高瀬神社の拝殿入り口には、因幡の白うさぎに因んだ撫でうさぎが置かれている)。うさぎと言えば、十五夜お月様。こんな 感じだろうかと想像してみる。 すっかり暗くなった道を自転車を漕いで福野駅へ。駅で1時間近く待って、20時56分の電車で戸出へ。自転車を組み立てて家へと帰った。 |
||
午前中に、ミュゼふくおかカメラ館で10月1日まで開催の高砂淳二写真展『Dear Earth』へ。一時間ほど展示を観てから一旦家に戻り、カメラを持って砺波へと自転車で向かう。 |
||
◯芸能発表会のプログラムより 1.中野地区 踊るヨータカ(劇) 2.出町地区 岩国こぬか踊り(踊り)、高原の駅よさようなら(踊り) 3.鷹栖地区 鷹栖音頭(踊り)、おわら慕情(踊り) 4.油田地区 魅せられて(創作ダンス)、お祭りマンボー(創作ダンス) 5.種田地区 五ヶの種籾(民話)、五ヶ種のチョンガレ踊り(踊り) |
||
↑上段:踊るヨータカ/中段左:岩国こぬか踊り/中段右:おわら慕情/下段左:魅せられて/下段右:五ヶの種籾 |
||
16時頃に大ホールでの芸能発表会が終了。同時に開催されている絵画や写真、生け花、彫刻を展示した『趣味の作品展』を見てから、隣接するチューリップ公園へ。チューリップの時期以外にも、色んな花が植えられているようだ。 せっかく砺波まで来たので、砺波市立図書館へ寄ってみる。2階にある郷土コーナーへ行き、砺波の夜高に関する資料を探すが欲しい情報の掲載されたものは見つからなかった。 |
||
朝から雨。雨が止んでからも気温が上がらず、肌寒い一日だった。 今朝、ネットを眺めていて沖縄の葬制に纏わる記事を2つ見つけた。 沖縄には、玉陵(たまうどぅん)と呼ばれる陵墓がある。首里にある玉陵には、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている。また、第二尚氏の初代国王となった尚円の生まれ島・伊是名島の玉陵には尚円の親族が葬られている。伊是名島の玉陵では毎年、古文書の通りに再現された公事清明(シーミー)祭が執り行われるが、首里にある歴代国王が眠る玉陵では長く途絶えている。その首里の玉陵で、来年のシーミーには古文書に沿った儀式を実施し継続して行きたいというニュース。実現されれば素晴らしい。 |
||
今年の4月8日に撮影した上大久保の獅子舞の様子をPhoto Albumにしました。こちら。 | ||
↑天満宮の春季例大祭に行われる、上大久保の獅子舞。獅子は2人立ちの金蔵獅子だ。 |
||
しばらく秋晴れの良い天気が続いたが、明日の午後から少し崩れるようだ。 23日は午前中に高岡大仏のお身拭いと有磯正八幡宮の獅子頭総覧、午後から海老江曳山まつりを撮影。24日は、芦峅寺で3年に一度開催される布橋灌頂会を撮影に。こちらの様子も後々UPいたします。 |
||
↑23日に行われた海老江曳山まつりにて。 |
||
↑24日に芦峅寺で開催された、布橋灌頂会。 |
||
かつて立山信仰の拠点であった芦峅寺で3年に一度開催されている布橋灌頂会が、今日行われる。 |
||
あいの風とやま鉄道で6時59分に富山駅に到着。改札を出て富山地方鉄道の乗り場へ。改札口で布橋灌頂会を記念した特別乗車券を購入。和紙製で立山線が一日乗り放題で2000円。富山から最寄り駅の千垣駅を往復するだけでも元が取れるのに、布橋の一般橋渡り券まで付いてかなりお得だ。 7時19分に富山駅を出て、8時8分に千垣駅に到着。千垣駅から今日だけの無料シャトルバスが出ており、会場へ。 |
||
8時30分頃に布橋近くの多目的広場に到着。広場は、10時から郷土料理を販売するごっつお祭りの準備中だった。広場から布橋の方へ歩いて行き、撮影場所を確認して場所取りのために持って来た三脚を設置する。場所取りは好きではないのであまりやらないが、3年に一度の行事で大勢の人が集まるようなので三脚を置かせてもらった。 |
||
10時になって遥望館の前にある、うば堂基壇前広場で開会式が行われ、開会を告げるふれ太鼓として立山権現太鼓が演奏された。 そして女の子3人による神楽「立山の舞」が立山に向かって奉納された。 神楽の奉納を見てから、急いで閻魔堂へ向かう。途中、明念坂の下にあるテントで乗車券に付いていた一般橋渡り体験の受付をすると、ドリンク引換券や記念バッジ、御朱印等が入ったお土産が渡された。 |
||
↓→橋渡りをする女人衆が儀式を行っている閻魔堂。 |
||
閻魔堂に到着すると入り口は白い布で覆われており、中で橋渡りをする白装束の女人衆が儀式を行っている最中だった。中の様子はわからないが、地元のケーブルテレビ・Net3の過去の映像によれば、お香を振りかけて身を清め、読経の響くお堂の中で己の罪を償う懺悔をするようだ。 10時半頃、白い布が開けられ儀式を終えた女人衆が境内に降りて来た。今年は県内外から110人が女人衆として参加したそうだ。 境内でサポートの女性に白い布で目隠しをしてもらい菅笠を被る。 |
||
女人衆の準備が出来ると、僧侶や楽人と共に明念坂を下りて布橋に向かう。 | ||
↓→雅楽が奏でられる中、坂を下る。雅楽は福岡町の洋遊会が担当している。 |
||
↓→目隠しをした女人衆は、ボランティアの女性に手を引かれて坂を下る。 |
||
11時頃に橋のたもとに先頭の僧侶が到着し、いよいよ女人衆が3本の白布を敷いた橋を渡る。 布橋灌頂会では橋の下を流れるうば堂川を三途の川、橋の手前をこの世(現世)、橋を渡った先をあの世(彼岸)に見立てている。布橋はあの世とこの世の境だ。 声明と雅楽、そしてホラ貝の音色が響く中、僧侶(引導衆)、楽人、女人衆の順に並んで行列がゆっくりゆっくり橋を進む。橋の中央に来ると、対岸から来た迎えの僧(来迎衆)が出迎えて女人衆が引き渡される。 |
||
↑煩悩の数と同じ108枚の敷板で組まれた布橋を、僧侶に導かれて渡る白装束の女人衆。 |
||
橋の中央で引導衆から来迎衆に引き渡された女人衆は、橋の向こうの他界(あの世)にある遥望館で再生の儀式を行う。遥望館は、廃仏毀釈で取り壊されたうば堂にあたる。 他界であるとされる橋の向こう側には、芦峅寺住民の墓地がある。沖縄で言うところのグソー(後生)だ。 遥望館では勤行の後、立山に向いた大きな窓ガラスのスクリーンが開けられ、女人衆は暗闇から一転して霊山・立山を仰ぎ見る。 |
||
遥望館では声明の流れる中、僧侶が立山から酌んで来たお水を女人衆に振り掛ける灌頂の儀式が行われたそうだ。布橋灌頂会の灌頂の意味が、ようやく分かった。 |
||
↑↓あの世とこの世の境である布橋を渡って、現世に帰って来る女人衆。 |
||
布橋を渡った女人衆は、明念坂を上って閻魔堂へ。境内で僧侶の講話を聞いて、儀式は終了した。 12時半になったので、明念坂の下に一般橋渡り体験をする人が集合した。午前中に受付を済ませているので列に並ぶ。参加者が多いので何回かに分けて橋を渡るようだ。 |
||
↓→普段着のまま目隠しだけして橋を渡る、一般橋渡り体験。 |
||
自分で白い布で目隠しをして、列に並んで橋を渡る。生地が薄いからか、思っていたよりも様子が分かる。上の写真の左、橋を渡る人たちの後ろ姿は、目隠しをしたまま撮影した。 橋を渡った後は遥望館ではなく基壇に上がり、そこで目隠しを外す。あいにく立山は雲に隠れていたが、何となく気分は味わえた。基壇の上で僧侶と一緒に南無阿弥陀仏を3回唱えて体験は終了。 多目的広場に行き、 芦峅寺の郷土料理・つぼ煮(300円)を食べる。 |
||
多目的広場から儀式の終わった布橋を渡り、明念坂、閻魔堂と歩いてから雄山神社の横にある立山博物館へ。博物館の前には特設のカフェがあり、そこで橋渡りの受付をした時に貰ったドリンクチケットでジュースとクッキーをいただく。 博物館では『布橋灌頂会がわかる!!ー天の浮橋にかけた白布への願いー』と題した企画展が開催されていた。通常の入場料300円+企画展200円だったが、企画展で貰える布橋灌頂会の冊子が美しくてお得感がある。 入館した時に丁度学芸員による展示解説が終わって残念に思っていたら、しばらくして解説会のアナウンスがあった。観覧者が多く急遽開催されたのだろうか。 解説を聞いてわかったのは、布橋の正式な名前が天の浮橋だということ。また女人禁制時代の儀式ということで現在のイベントでは女人衆が橋を渡っているが、昔は老人や自力で登山できない男性も儀式に参加していたようだ。また当時の参加費は一番先頭なら現在のお金で400万円、最後尾なら2万円と値段にかなりの差があったようだ。いずれにしても、裕福な人でなければ参加できない儀式だったのだろう。 企画展、常設展と見て博物館を出ると15時半頃だった。帰りは橋梁を渡る富山地方鉄道の電車を撮りたいので、千垣駅まで歩いて行く。途中、立山芦峅ふるさと交流館の前を通ると婦人会の会長さんが声をかけて下さりコーヒーをご馳走になる。 しばらく芦峅寺の行事のお話しなどお聞きしてから、また駅へと歩く。千垣駅の少し手前にあるガソリンスタンドの角を曲がると常願寺川にかかる橋があり、そこから地方鉄道の橋梁を狙う。事前に時刻表を調べて通りそうな時間にカメラを構えて待っていた。立山方面行き、富山方面行きの2本が立て続けに通った。 |
||
↑夕日を浴びて橋梁を渡る電車。こちらは立山から富山方面に向かう電車。雪が積もった日の風景は綺麗だろうと思う。 |
||
←↑風情のある千垣駅。 |
||
◯儀式の意味を理解 24日布橋灌頂会 ◯儀式の舞台きれいに 24日、芦峅寺で布橋灌頂会 ◯立山信仰の里満喫 布橋灌頂会 ◯女人衆厳かに橋渡り 立山で布橋灌頂会 ◯極楽往生を願って布橋灌頂会 ◯ネット3 布橋灌頂会 |
||
秋分の日。富山県内のアチコチでお祭りやイヴェントが開催されているが、その中から高岡大仏のお身拭いと有磯正八幡宮の獅子頭総覧、そして海老江の曳山まつりを見て来た。 奈良、鎌倉に並ぶ日本三大大仏の一つ、高岡大仏。 9月23日に開催される大仏まつりでは、一年の汚れを落とすお身拭いと交通安全祈願が行われる。毎年テレビや新聞で白装束を着た人たちが大仏様に梯子をかけて顔や身体を拭いている映像が流れて来るので、一度実際に見てみたいと思っていた。 |
||
↑提灯と吹き流しが飾られた境内。本堂ではお身拭いの説明が行われていた。 |
||
↑お身拭いまで時間があったので、大仏様の台座の下にある回廊に入る。回廊の中には仏像や仏画、 1900年の大火で焼け残った二代目高岡大仏の仏頭が展示されている。 | ||
↓→お身拭いの開始前に、僧侶と共に読経が行われた。 |
||
↓→大仏様のお身拭いは30分程で終了し、境内の灯籠をキレイに掃除。 |
||
大仏様のお身拭いは30分程で終わり、この後、境内の灯籠などが磨かれる。交通安全祈願は14時からなので高岡大仏を後にして、獅子頭総覧を見るため有磯正八幡宮へ急ぐ。この獅子頭総覧は氏子町内の獅子頭30基ほどが社務所に展示披露され、午前11時からは和田保育園の園児による獅子舞、13時からは横田本町の獅子舞が境内で奉納される。 高岡大仏から自転車で有磯正八幡宮に駆けつける、ちょうど園児を乗せたバスが神社に到着したところだった。 |
||
↑拝殿前に並んで参拝した後、境内で踊りと獅子舞を奉納した和田保育園の子供たち。 |
||
↑獅子舞奉納を見た後、社務所で開催されている獅子頭総覧へ。こうして獅子頭を見比べられる機会はあまり無い。 |
||
↓社務所の2階には、日本一大きい桐製の獅子頭が展示されていた。 |
||
社務所に展示されている獅子頭を見終えて拝殿に行くと、こちらでは井波彫刻・山崎新介氏による獅子頭製作の実演が行われていた。拝殿横にある神饌田に植えられた稲が随分成長していた。今年はあまり実らなかったそうだが、10月の始めに保育園の子供たちが来て稲刈りを行うそうだ。 | ||
↓神饌田。→御神木の<親子抱き合いの欅>。 |
||
有磯正八幡宮の獅子頭総覧を見て、正午頃に高岡大仏に行くと白装束の方々は居らずキレイになった大仏様が鎮座していた。大佛寺から高岡古城公園の横を通り広小路の万葉線乗り場へ。ホームで自転車を輪行袋に仕舞って電車に乗り込む。 | ||
↑左が万葉線の路面電車。右は終点の越の潟駅に隣接する渡船乗り場。 万葉線の終点、越の潟駅まで行き隣接する発着場から無料の渡船で富山新港を渡り、海老江に向かう。越の潟発着場から対岸の堀江発着場までは5分程だろうか。 |
||
海老江に入ると通行規制がされていた。西町から入り中町の方に来ると人が大勢いたので行ってみると、3基の曳山が巡行しているところだった。 海老江の曳山は江戸時代中期から続く海老江加茂神社の秋季例大祭に行われ、西町・中町・東町の3基が出る。昼は花山、夜は提灯山に飾り付けられ「イヤサーイヤサー」の威勢の良い掛け声と共に町内を曳きまわされる。 |
||
↑3基の花山。↓中町は女の子も威勢良く曳いていた。 |
||
今年の曳山の巡行図を見ると14時50分に東町の海岸沿いの道路で3基が並び、曳山からくり人形の実演が行われる。始まりまで時間があったので、海老江加茂神社へ参拝に行く。 | ||
↑↓→海老江加茂神社。 |
||
お神輿は既に境内の蔵に納まっていた。神職の方に伺ったところ、お神輿は朝の神事の後、8時頃に神社を出て町内をまわり14時頃に還って来たそうだ。お神輿の巡幸には子供が扮した右大臣、左大臣がついて歩くようだ。 14時40分頃に3基の曳山が海岸沿いの道路に並んだ。西町の標識(だし)は打出の小槌、中町は振鼓、東町は軍配。王様は西町が恵比須、中町が猩々、東町が三番叟。前人形が西町は唐猿童子、中町が唐子懸垂廻転、東町が唐子遊び。 |
||
↓→からくりの実演で注目を浴びる西町の唐猿童子。 |
||
からくりの実演は15分くらいだったろうか。3基の曳山は実演した後も少し巡行してから、各自の町内に戻り提灯山に変身する。 からくりの実演で注目を浴びたのは西町の唐猿童子で、22本の絹糸を操ることで人形が瞬時に猿になったり童子になったりする。西町の曳山蔵の前に案内板があったので、引用させていただく。 射水市指定文化財 海老江西町曳山の由来 |
||
3基の曳山が町内に戻ったので近くのコンビニを教えて貰い、焼き鳥とおにぎりとパンで遅いお昼ご飯を食べる。食べ終わってから各町内の提灯山の組み立てを見てまわった。 |
||
↓→花山から提灯山へと飾りつけを替える中町の曳山。 |
||
↓提灯山になった東町の曳山。→提灯山になった西町の曳山。 |
||
提灯山に変身した3基の曳山は17時45分に、町の中程にある海老江こども園横に揃う。そして国道415号を東町の端、西町の端と連なって巡行した後、19時半頃にもう一度こども園の横に並ぶ。ここで曳山からくり実演、木遣り実演、やんさおどりが行われて、20時20分頃に別れてそれぞれが町内曳きをする。 海老江の曳山木遣りは、もともとは漁業の網起こし木遣り唄で弁財船の帆柱起し木遣り唄だったそうだ。しかし、明治初期より西洋式帆船や蒸気船、発動機船などの発達、機械科で帆船が消えて帆柱起しの木遣りも唄われなくなった。その帆柱起し木遣りが、海老江では曳山木遣りとして受け継がれているそうだ。 |
||
19時半過ぎ、3基の曳山がこども園横に揃った。 富山新港を渡る渡船の最終が、20時29分。3基が揃ったところを写真に収めてから、自転車で堀岡の発着場へ向かう。ほぼ一本道だが、発着場の入り口がわからなくて明りのついていた商店で教えて貰って辿り着いた。 越の潟へ渡る船から、新港にかかるライトアップした新湊大橋を撮影した。 20時37分発の電車は米島口止まりだったので、21時7分まで待って高岡へ。 |
||
21時54分に高岡駅に到着し、21時57分の金沢方面行きのあいの風とやま鉄道で家に帰って来た。 たぶん今回の海老江の曳山で、富山の祭りで現在動いている曳山は全て撮影できたはず。 ◯高岡大仏輝き一層 奉賛会が「お身ぬぐい」 ◯囃子継承へ担い手育成 新湊海老江曳山まつりで中町 ◯西町の山車新調 射水・海老江曳山まつり えびす様衣装も、あすの本番で披露 ◯海老江曳山、威勢良く 3基、地区内を巡行 ◯曳山3基、勇壮に練る 射水・海老江でまつり ◯山車 昼も夜も魅了 海老江曳山まつり ◯海老江中町曳山のホームページ |
||
朝起きてパソコンを開くと、メキシコでM7.1の地震。8日にもメキシコ沖を震源とする地震があり、61人が犠牲になったばかりだ。 | ||
昨日、五十嵐正さん監修による『フェアポート・コンヴェンションfeaturingリチャード・トンプソン』というムックがシンコーミュージックから届いた。 英国のトラッドやフォークは門外漢だが、1995年から96年に英国フォークの重鎮が相次いで来日し、新宿ロフトでライヴを行った時に撮影する機会があった。 |
||
↑フェアポート・コンヴェンション。1995年6月23日、新宿ロフトにて撮影。 |
||
◯安室奈美恵さん引退へ 来年9月、HPで表明 | ||
3連休の最終日。台風18号が、今日の未明に富山を通過して行った。暴風と強雨の音で夜中に目が覚めるだろうと思っていたが、熟睡していたのか起きたら外は穏やかな天気だった。 連休初日の16日に、魚津市にある魚津八幡宮の献灯みこし祭りを見に行った。正式には魚津八幡宮の秋の例祭の本祭りで、13日に宵祭が行われ宮神輿が町内を巡行した。本祭りは本来14日に行われていたが、本祭りには氏子である旧12町の神輿が出るため人手を確保するために第3土曜日に変更されたそうだ。それでも今年は忌と人手不足で3町が断念して、9町になったと聞く。 |
||
↑拝殿に向かって駆け上がる八幡町の神輿。神輿にはそれぞれ名前があり、八幡町は「天乃川」。 |
||
今月の28日から予定されている臨時国会の冒頭で、安倍総理が衆議院の解散・総選挙に踏み切るのではないかとのニュースが流れている。 立て続けに日本の遥か上空を通過して行った北朝鮮のミサイル発射を受けて、「これまでにない脅威」「深刻な事態」とさんざん不安を煽っておきながら、この時期に選挙を行い自ら政治空白を作るとはどういうことだろう。 そもそも今回の臨時国会は森友、加計、自衛隊文書の説明を求めて民進、共産、自由、社民の野党四党が憲法五三条に基づき招集を求めたものだ。 丁寧に説明すると言いながら国会を開かず、ようやく開いたと思ったら解散。国会軽視も甚だしい。昨今の北朝鮮の動向を考えれば、森友・加計・自衛隊などの問題を追及する野党はお花畑だと批判する安倍総理を擁護する人たちもいるようだが、こんな中でも政治的空白が生まれる解散総選挙を行おうというのだから、北朝鮮の脅威などその程度のレベルだと総理自らが証明しているようものだろう。 北朝鮮の脅威というなら、日本を射程圏内にするノドンが日本海に向けて配備された10年以上も前から続いているが、標的となるような原発を林立させたままにしている方がお花畑で、より深刻な問題だ。 先ずは解散総選挙の前に森友、加計、自衛隊文書の説明を臨時国会で丁寧にするべきだろう。それとも北朝鮮よりも、総理にとっては森友、加計、自衛隊文書の方が脅威なのだろうか。 山本太郎氏の、このツイートが簡潔だ。 >北朝鮮への対応と言いながら解散総選挙で政治的空白期間を作り、ミサイルガーと言いながら原発の停止さえしない。政権にとって北朝鮮問題は利用はするが優 先順位が低い事がよくわかり、政権にとっての安全保障上、最大の脅威である森友・加計問題の真相究明を阻止するための解散と理解できる。あほくさ ◯冒頭解散強まる(その1) 問われる大義名分 公明、改憲回避の思惑 ◯衆院選、10月22日が有力 9月28日の臨時国会冒頭解散が軸 |
||
魚津市にある魚津八幡宮で、神輿を社殿に乗り上げさせる「宮あげ」を行う献灯みこし祭りというものがあると知ったのは、12日の北日本新聞に掲載されていた記事からだった。 献灯みこし祭りは、現在、八幡宮の秋季例大祭の本祭りとして行われている。元々は9月13日に宮神輿が町内を巡行する宵祭の翌日、14日に行われていたが、本祭りでは氏子である旧12町の神輿が出るため人手が確保できるように平成17年から第3土曜日に変更されたそうだ。 |
||
魚津駅に着いて自転車を組み立て、駅前の観光案内所へ。自分でも一応地図をプリントしてきたが、魚津駅周辺の地図を貰う。魚津駅から、線路沿いに富山方向へ走れば八幡宮に到着するようだ。 自転車で10分程だったろうか。境内はまだひっそりしている。 近くの神社から祭りのためにお手伝いにいらしたという神職の方に、色々とお話しをうかがい、打ち首が行われた所に建立された塚の場所を教えて貰う。 ←魚津八幡宮。 |
||
↓鳥居と社を結ぶ参道の上を、あいの風とやま鉄道の線路が通っている(左)。参道の横には各町内の神輿を収納する蔵がある。 | ||
↓→境内にある、八幡騒動の犠牲者を偲ぶ顕彰碑(昭和39年4月に建立)。 |
||
保育園児たちのお神輿は16時半頃に境内に入るそうだが、せっかくなら巡行から見ようと思い、自転車で探しに行く。場所の宛はなかったが、少し広めの道路を走っていると上口保育園の神輿が待機しており、直ぐに巡行を始めた。太鼓と笛のお囃子、そして「ヤッサヤーレ ヤッサヤーレ」という子供たちの大きな掛け声が響く。 | ||
↑上口保育園と魚津保育園の神輿巡行。 上口保育園の神輿を撮影して歩いていると、反対側から魚津保育園の神輿が歩いて来て合流。揃って八幡宮へと巡行する。ちょっと担いでは休憩するので、30分程かかって境内に到着。 |
||
↑上口保育園の宮あげ。神輿は3度担ぎ上げる。You Tubeにあった上口保育園の宮あげの映像。 |
||
↑魚津保育園の宮上げ。園児たちが拝殿の前に到着した時に、参道の上を通るあいの風とやま鉄道の高架を電車が走って行った。魚津保育園の宮あげの映像。 ←保育園の神輿の宮あげが終わると19時頃まで何もないので、三人の首謀者が打ち首になった場所に建立された八幡騒動犠牲者納経塚を見に行った。八幡宮から自転車で5分程の塚には、祭礼の幟が立っていた。 |
||
塚のある場所は、海岸から一つ中に入った道路沿いだった。塚の写真を撮ってから海岸に出て、堤防に座って魚津駅前のコンビニで買って来たパンを食べる。台風がやって来る前の海は、不思議に穏やかな表情をしている。そう言えば、魚津の海と言えば蜃気楼だが、どの辺りで見えるのだろうか。 | ||
海岸から町中に戻って自転車でウロウロしていると、お神輿を入れた建物があった。他の町内の神輿は道路に置かれている。建物の前にいた人に尋ねると、紺屋町会館と言い旧町名である紺屋町の公民館のようなもので、奥には神輿蔵も併設している。他の町内は八幡宮の参道脇に並んでいる神輿蔵に仕舞っているが、紺屋町だけは町内に神輿を安置しているそうだ。子供がたくさん居た昔は子供神輿も出たそうで、神輿蔵には当時の子供神輿があるというので写真を撮らせてもらった(上の写真右側)。 紺屋町は19時になったら神輿を外に出し、午前中に神社でいただいた神籬(神の依り代)を役員が神輿の中に入れるというので、その頃にまた尋ねて来ることにした。 紺屋町会館を出て、少しずつ暗くなる町を自転車でブラブラしていると、道路で組み立てられた各町の神輿の雪洞(ぼんぼり)に灯りがつき始めた。 |
||
↑上段左:路上で待機している八代町の神輿。各町内の神輿には名前が付いており、八代町は「冨川」。神輿自体が珍しい形態で、神輿の周囲に雪洞(ぼんぼり)が取り付けられている。台は大勢で担げるように長く組んであり、後方には太鼓が備えられている。/上段右:雪洞に灯りがついた岡町の「白帆」。/中段左:唯一町内に神輿蔵のある紺屋町会館。/中段右:紺屋町会館から神輿「名月」が出され、バッテリーを乗せたり鳳凰を取り付けたりの作業が行われる。/下段左:担ぎ手の肩が当る部分に分厚い座布団のようなパッドが括り付けられる。/下段右:神輿の屋根に鳳凰を取り付ける。この後、役員が神棚に納めていた神籬を神輿の中に祀って巡行に出た。榊に紙垂をつけた神籬は、本来は神輿の扉の前に備え付けるもののようだが、宮あがりの時など神輿を激しく動かすので落とさないように中に入れるようになったそうだ。 |
||
紺屋町の神輿が巡行を始めたのは19時半過ぎだった。神輿は数メートルから数十メートル進んでは止まる。そしてお神酒を持った役員が家々の玄関を開けて家主にお酒を注いで挨拶してまわる。お囃子の音と「ヤッサヤーレ ヤッサヤーレ」の掛け声を響かせて、自分たちの町内を中心に神輿は進んで行く。 紺屋町の神輿をしばらく撮影してから、他の神輿も見たいと思い自転車で探す。今年は12町のうち、忌と人手不足で3町が神輿を断念したと聞いたので9基だ。見物しているのは、地元の方ばかりのようだった。 お祭りのハイライトである宮あげは21時半頃だと聞いたので、21時過ぎに境内に戻る。 参道に一番最初に到着した八幡町の神輿「天乃川」が待機していた。宮あげは、神輿が3基参道に揃ったら始まるそうだ。 |
||
21時40分頃、八幡町の神輿が拝殿の前に。宮あげは拝殿の中に神輿が乗り入れるので、神輿の屋根に取り付けてあった鳳凰は外されている。 役員が拝殿でお祓いを受け、その後神職が拝殿の外に出て、担ぎ手と神輿のお祓いを行った。 そしていよいよ宮あげ。 階段を一気に駆け上がり拝殿入り口に乗り上げる。3回拝殿に神輿を突っ込み神輿を揺さぶったところで境内の脇に下がり、次の町内と交代する。 |
||
↑左は「宮あげ」の前に鳳凰が外される橋場町の神輿「高砂」。右は拝殿の中に突っ込んだ紺屋町の「名月」。 |
||
↑太鼓を打ち鳴らし、拝殿に向かって進む南町1の「白菊」。 |
||
通年、総ての神輿の宮あげが終了するのは24時頃だそうだ。終電が魚津駅を23時5分に出る金沢行きなので、余裕をみて22時半頃に神社を出て駅に向かった。 今日は町神輿の巡行はバラバラに始まったが、暦の関係で第3土曜日が本来の祭日である14日の時に限って総ての神輿が神社近くの川沿いに並んでから町内巡行が行われるそうだ。 |
||
*北日本新聞の記事、記事「魚津が荒れ狂う夜」。 | ||
高岡開町の祖である加賀藩前田家2代目当主・前田利長公の遺徳を偲ぶ顕彰祭が、利長公が高岡に入城した日に因み、今日、国指定史跡に指定されている利長公墓所で行われる。 |
||
普段、利長公墓所は立ち入り禁止となっているが、顕彰祭の行われる日だけは一般に開放される。高岡市に問い合わせたところ顕彰祭は午前10時から10時40分まであり、その後14時まで開放されるという。せっかくなら、顕彰祭も一度見てみようかと思い、朝ドラ「ひよっこ」を見た後に自転車を漕いで高岡に向かった。 9時半過ぎに墓所に到着。墓所の前にはテントが張られ、椅子が並べられている。 |
||
↑前田利長公墓所の入り口。鳥居の先にお堀りがあり、その先が墓所となっている。普段でもお掘りに架かる橋までは行ける。 | ||
式は10時に始まり、10時50分頃に終了した。 ←顕彰祭の後は、一般のお参りが行われたので、最後にお参りして来た。 |
||
御廟の前はテントの撤去作業中なので後ろにまわり、130枚ある戸室石製の蓮華陽刻の中で一枚だけ絵柄の違うものがあるというので探してみる。 テントの撤去にはしばらく時間がかかりそうなので、墓所の向かいにあり墓所の廟守の寺として造られたという繁久寺へ。顕彰祭の後、こちらのお寺で列席者を招いたお茶会が催されるという情報以外知らずに入ったら、山門を入って直ぐにある回廊に500羅漢が安置されていて驚いた。 |
||
↑繁久寺。五百羅漢というと屋外に並んだ石仏をイメージするが、こちらの五百羅漢は彩色がされ、表情も仕草も豊かで面白い。 ←お腹が空いたので近くのコンビニで焼き鳥、おにぎり、肉まんを食べて墓所に戻る。途中、信号待ちしていたら目についた看板。「ピット・イン」か「ピィト・イン」か?3対2で、ピット・インの勝ち。そもそも何で看板が5つもあるのか(笑)。 |
||
12時過ぎに墓所に戻ると既にテントは撤去されており、市の職員が墓所の概要を書いたパンフレットを配ったり、質問に答えたりしている。なぜ毎日開放しないのか尋ねたところ、この墓所は前田家の私有地なのだそうだ。 | ||
↓→鳥居の前にある6mを超す大灯籠。 |
||
墓所の入り口、鳥居の前には一際目につく大きな灯籠がある。日本三大化灯籠というのが上野寛永寺東照宮、尾張熱田神宮、京都南禅寺にあるそうだが、それらに匹敵する高さだという。本来灯籠は2つで一対だが、もう一つの灯籠は船で運んでいる途中、千保川に沈んでしまったそうだ。 →高岡大仏の裏手の方にある、味な雰囲気の飲食店街。 |
||
↓高岡古城公園動物園。ずっと空を見上げているペンギン。 |
||
15分ほど前に式典会場に来ると、テレビや新聞のカメラが並んでいた。そして14時になり、射水神社の神職の方々が祭壇に到着して式が始まった。 除幕式次第 お祓い 太鼓の揃い打 除幕 神事 挨拶 石碑建立事業概要説明 祝辞 祝電披露 感謝状贈呈 祝いの太鼓 閉会の挨拶 |
||
↑左は射水神社の神職によるお祓い。右は万葉華太鼓の揃い打。 |
||
↑除幕式。石碑の高さは2.7m、幅1.4m、重さは12トン。 |
||
除幕式の式典は、1時間ほどで終了した。 |
||
午前中は雨時々曇り、午後からは晴れ間も見えた。夜になって、また雨。忙しい空模様。 一昨日は、お神輿の火渡りで知られる櫛田神社の秋季例大祭に行って来た。ネットの情報で巡行が13時〜となっていたので、あいの風とやま鉄道で越中大門駅に11時49分に到着する電車に乗るが、6分ほどの遅れが出ていたので駅に着いて自転車を組み立てたら12時頃だった。 |
||
鳥居を潜ると真っ直ぐに伸びた参道があり、少し先まで両側に縄が張ってある。すでに場所取りの三脚がいくつか並んでいる。 ←参道奥に安置されたお神輿。 |
||
↓神輿出御祭の執り行われている社。→例祭の予定表。 |
||
境内に秋季例祭の予定表が貼られていた。それによると、 宵宮祭 九月九日(土) 十九時三〇分 例祭 九月十日(日) 例祭 神輿出御祭 正午 御旅所祭 宮新田 十三時三〇分 御旅所祭 西村 十四時五〇分 御旅所祭 牧田 十六時 御旅所祭 ・出立祭 本村 十七時 還御祭 十八時 火渡りの催しは還御祭前に正面鳥居辺りで行います |
||
↑↓宮司さんが拝殿を出て、階段下のお神輿にご神体を祀られる。 |
||
↑12時45分頃にご神体を抱えた宮司さんが、拝殿を出られる。 |
||
↓宮新田へ向かう神輿行列。→高下駄を履く、猿田彦。 |
||
神社を出て10分ほどで、宮新田の御旅所に到着。直前に猿田彦が高下駄を履くが、少し歩いて断念したようだ。 | ||
御旅所に到着すると神職と祭り役員、神楽を奉納する稚児は中へ入り神事が行われる。獅子方は御旅所となった公民館の前で獅子舞を奉納する。 | ||
御旅所での神事は修祓、祝詞奏上、神楽「乙女の舞」、玉串奉奠と続く。神事が終わると、飲み物と料理が出されしばし休憩。休憩の後、御旅所の前でもう一度獅子舞が奉納されて、次の御旅所に向かって出発する。 | ||
宮新田で神事と休憩で40分ほど過ごし、14時頃に次の御旅所である西村の公民館へ向かって巡行を開始する。村の入り口付近には代表者が正装で立ち、お神輿をお迎えする。 | ||
西村の公民館でも最初に獅子舞が奉納され、中で修祓、祝詞奏上、「乙女の舞」奉納、玉串奉奠が行われた。 西村の次は牧田の公民館が祭場となる。先に行って場所を確認してから近くにのコンビニを教えてもらい焼きそばパンと、おにぎりで遅い昼食。牧田公民館へ行くと神事が終わり休憩中だった。しばらく休んだ後、獅子舞を舞って次の御旅所へ出発。 |
||
↑上段左:西村から牧田に向かうお神輿行列/上段右:牧田の御旅所を出るお神輿/中段左:獅子舞の道具と一緒に移動する剣持の少年/中段右:牧田から本村の御旅所へ向かうお神輿/下段左:御旅所となった本村公民館の前で獅子舞の奉納/下段右:本村での神事 本村公民館での獅子舞の奉納を見てから、自転車で櫛田神社に向かう。鳥居の先にある参道の両側はカメラを構えた人がズラリと並んでいる。お神輿の巡幸に付いて行く前に自分の場所として折りたたみの踏み台を置いていったのだが、退かされたりしないでそこにあった。 |
||
17時半頃、鳥居の傍に杉の枯れ枝や葉が積まれる。17時50分過ぎにお神輿の一行が神社に入る。神職が杉の枝葉を積んだ場所でお祓いを行う。17時55分頃に火がつけられ、炎があがったところで、獅子方とお神輿の火渡りが一気に行われる。 | ||
獅子とお神輿の火渡りは正味1分ほどで終わってしまった。 急いで参道の奥に向かうと、ちょうどお神輿の中からご神体が運び出されるところだった。 宮司さんに抱えられて、ご神体は本殿に還される。 拝殿の前では獅子舞が奉納され、中では還御祭が執り行われる。 |
||
神事の後、拝殿で神職にお神酒がまわされ直会が行われていた。 |
||
太鼓台の横に同級生の天近君がいた。もうしばらく道中(町中)で舞い、22時頃に表の宮で獅子殺しをやるという。たぶん今日は、裏の宮(八幡宮)も秋季例祭で獅子が出ている。一旦家に帰り晩ご飯を食べ、撮影したデータをバックアップし、少し休憩してから表の宮へ自転車で向かった。 21時15分頃にお宮さんに着くと、剣持の子供たちが並び獅子舞が始まりそうだった。天近君に聞くと、まわる家が年々少なくなり時間が早くなったそうだ。 太鼓台に演目が書いてあったので、複写した。獅子殺しの前に、一通りの演目が行われる。 1.会長の挨拶 2.やっさぶ 3.がめ 4.一足 5.きょうぶり 6.のったか 7.げんばやし 8.二足 9.ぼんぼこ 10.二足 11.ばえがえし 12.やっさぶ 獅子殺し |
||
表の宮の獅子殺しは、天狗が獅子を殺した後、獅子おこしで蘇らせる。一度お宮を出て再び鳥居から入り、天狗に先導されて拝殿に入って終わる。獅子殺しの時に、観客にお菓子が配られた。総てが終わったのは、22時40分頃だった。 表の宮を出て、自転車で5分ほどの裏の宮へ。まだやっているだろうかと心配していたら、まだ始まってもいなかった。裏の宮の獅子殺しは、お宮さんの斜め向かいにある公民館の前で行われる。しばらく待っていると、23時10分頃に始まるという案内があり、演目を書いた紙が配られた。裏の宮の獅子殺しは「一刀振」と呼ばれているようだ。 平成二十九年度 一刀振 演目(注目ポイント) 剣持の敗北(剣持の丸飲み) 天狗の様子見(傘を使った華やかさ) 剣持の救出(傷口を舐める獅子の様子) 泥酔獅子(獅子の酔い具合) 火舞(豪快なタイマツの動き) 天狗の失敗(獅子の斬り損ね) 大天狗の一振り |
||
裏の宮は獅子殺し(一刀振り)した後、剣持に先導されて神社に入り、拝殿で神職の手により神の御霊である角に付けられた紙垂(しで)が取り外される。総てが終わったのは、0時30分頃だった。 | ||
*櫛田神社秋季例大祭に関する北日本新聞の記事、富山新聞の記事。 こちらには、櫛田神社の火渡りについて「神社南方の大沢山丘陵に、串田本村の真宗大谷派勝連寺の前身天台宗三学院があったことから、天台山伏によって伝えられたといわれています」と記されている。 |
||
秋晴れ。 髪が伸びたので、自転車を漕いで切りに行く。散髪した後、しまむらとダイソーで買い物をして帰る。 |
||
←しばらく放置していたトップ画面を、模様替えしました。撮り鉄でも乗り鉄でもないけれど、電車が来るとついついシャッターを押してしまう。曇り空で、本当は全体にブルーだったのを現像時に色温度を調整して暖色系にしています。 ↓これまでのトップ画面。 |
||
今年の4月8日に撮影した下大久保の高砂山願念坊祭りの様子をPhoto Albumにしました。こちらとこちら。 | ||
↑巫女さんの格好をした女の子と、法被を着た男の子たちが下大久保会館の前で願念坊踊りを披露する。後ろの見える下大久保の曳き山は、八尾町の今町が1862年に二代目の曳き山に造り替えた際に、初代の曳き山を譲り受けた(購入した)もの。祭神は尉(じょう)と姥(うば)の高砂で、高砂山と呼ばれている。 | ||
今日、mixiを覗いたら(何かを書き込むことはあまりないが、今でも覗いている)、「森口博子&荻野目洋子の22年前の写真に驚きの声」というニュースがUPされていた。 この頃に二人とも撮影したように思って確認したら、森口博子さんは24年前に、荻野目洋子さんは22年前に撮影していた。 今の彼女たちの活動をよく知らないけれど、なるほど外見的には昔とあまり大きく変わっていないのかも。それよりも、久しぶりに見た自分の撮影した写真が古くさく見えてしょうがない(笑)。今だったら、こんなポーズで撮らないだろう。 不思議なもので、こうして写真を見ると普段は頭の隅にもないような当時の事を思い出す。どちらも雑誌の仕事でインタヴュー後の5分か10分ほどで撮影しているのだけれど、荻野目洋子さんの時はスリランカに興味があると言ったので、その頃取材したばかりの新宿にあるスリランカ・レストランの話をしながら撮った。 森口博子さんを撮影した場所は、六本木の麻布警察署近くの喫茶店。お店も場所柄馴れたもので、他のお客さんがいる中で普通に撮影させて下さった。 年を取るとつい今しがたの事を忘れるのに、昔の事はよく覚えているというが、そう言う事だろうか。どちらの撮影も遠い昔のようであり、つい2、3年前のようにも思える。 |
||
↑荻野目洋子(左)さん、1995年撮影。森口博子(右)さん、1993年撮影。 |
||
相変わらず北朝鮮とアメリカの緊張関係が続いている。ところで、アメリカからの石油輸入を止められたことが一因で開戦(真珠湾攻撃)した日本が、北朝鮮への制裁強化として石油輸出禁止を働きかけるっておかしいだろう。”窮鼠猫を噛む”を自らの事として一番知っているはずの国なのに。 | ||
◯太陽フレア「1000倍規模」のコロナガス、予想より早く地球到達 民進党の前原誠司代表が、維新と連携したい意向だという。民進党、ホントにバカなんだろうか。 |
||
真子さまの婚約内定会見が行われ、北朝鮮が6回目となる核実験を行った。 半袖のTシャツでは肌寒く感じられるほど秋めいているが、今日は旧暦の7月13日で、奄美や沖縄といった琉球弧の島々では今日から3日間お盆に入る。奄美では初日の今日は迎え盆で、提灯を持ってお墓へご先祖さまをお迎えに行く。明日は家でおもてなしをして、明後日はまた提灯を持ってお墓までお送りする。 |
||
↑訪れた家の仏壇の前で手を合わせる、ウシュマイとンミー。この後、周りを囲んでいるファーマー(花子と呼ばれる子孫)たちが歌と踊りを披露する。登野城青年会のアンガマ。2013年8月20日撮影。 |
||
2014年に久高島の旧正月を撮影に行ったとき、沖縄に永く滞在しているスイス人が家々に掲げられた日の丸の旗を見て、なぜ旧正月なのに中国の国旗を揚げないのかと言っていた。彼は明治6年まで日本も旧暦だったのを知らなかったのだろう。実際、自分自身も奄美へ行くまでは、日本が嘗て旧暦の暦を使っていた事はうっすらとした記憶の中にしかなかった。 富山でも祭りの撮影に行くと、嘗ては旧暦で行っていた祭祀を新暦に直し、ちょうど1ヶ月遅らせて開催していることがある。厳密には旧暦と新暦は年により日にちが異なるが、毎年開催日が変わると都合が悪いのだろう。 |
||
昨日は城端の善徳寺へ、ちょんがれ踊りを見に行った。普通の民謡のつもりで聴きに行ったら、日本語ラップの源流のような芸能でかなり驚いた。こちらの様子も後々UPいたします。 | ||
↑善徳寺のちょうんがれ踊りが始まる前、南砺市城南屋内グランドの辺りから撮影。斜面にスキー場が見えるので、正面の山は医王山だろうか。 | ||
今日は城端別院・善徳寺で一心講があり、ちょんがれ踊りが開催されるとネットの情報で知った。7月の虫干し法会で撮影させていただいた写真のプリントをお渡ししようと思っていたので、良い機会なので足を運んでみた。 |
||
城端に来るのは曳山祭りや麦屋踊りといった祭りの時ばかりなので、普段の町の様子を知らない。大通りから外れた道を自転車で走っていると、太陽の光が山に射しているのが見えたので、見晴らしの良い場所を探していたら南砺市城南屋内グランドの裏手に来た。雲の切れ間から天使の階段が降りていた。 しばらく変化する空模様を眺めて写真に収めていたが、太陽が山に沈んだのを見て引き上げる。スーパーで菓子パン一つとポテトチップスを買って、善徳寺に戻ったのは18時20分くらいだった。 善徳寺は大規模な改修工事が行われていたため、一心講のちょんがれ踊りは5年ぶりだそうだ。本堂では、婦人会の方々が仮装で踊る人に渡すプレゼントの用意などをしている。仮装は昔から行われていたようで、ちょんがれの語源の一つである、剽軽者の精神がそこにあるのかもしれない。 |
||
↓→18時を過ぎて徐々に踊り手が境内に集まって来る。 |
||
18時50分頃に城端町古典民謡保存会の会長さんがいらしたので、善徳寺の事務局長さんに紹介していただき、ちょんがれの歌詞が印刷された冊子を複写させてもらう。 | ||
↑複写させてもらった冊子。台本をわかり易く、そして広めるために印刷したものだろう。 |
||
↓「目連尊者 初段」と「鈴木主水」を複写した。写真は目連尊者の一部で、全部で17頁まである。 |
||
お堂の中で複写している間に、境内では踊りが始まった。踊りの輪の中には、思い思いの姿に仮装している人もけっこういる。踊りの輪の中心に置かれたスピーカーからは「麦屋節」「こきりこ節」「炭坑節」の3曲が繰り返し流れて来た。 | ||
一時間ほど経った頃、いよいよちょんがれ踊りが始まった。踊りの輪の中央に3人の音頭取りが立つ。手には歌詞を書いた冊子を持っている。題目は先程複写させてもらった「目連尊者 初段」だろう。伴奏は一切付かず、アカペラだ。 | ||
↑↓→ちょんがれ踊りの音頭取り。法被を着た方が、保存会の会長さん。 |
||
↑途中、手書きで歌詞が書かれた扇子を広げて歌う場面も。 |
||
初めは相撲甚句のように朗々と歌うような感じだったが、途中からはリズムに乗せて僅かな抑揚で早口にしゃべるように歌う。聴きながら??「これ、ラップじゃん!」と驚いた。 ちょんがれ踊りをラップだと感じた人は他にいないだろうかと思い、「ちょんがれ ラップ」で検索するとWikipediaの「あほだら経」がヒットし、日本語ラップの源流として見る向きは多いと書かれている。ちょんがれと阿呆陀羅経は極めて近い芸能だと言われており、『とやまの民俗芸能』(北日本新聞社)によると、井波町にはちょんがれの台本として「阿呆陀羅経」という題目があるくらいだ。 ◯ちょんがれ関係の記述を纏めておく。 城端古典民謡千代音加礼保存会の記念誌より。 由来と沿革 千代音加礼節 『踊り念仏』 城端「保存会の活動」 『とやまの民俗芸能』(北日本新聞社)盆踊り唄を考えるより 高岡市戸出町に伝わるチョンガレ節の題目には、つぎのようなものがある。 Wikipediaのちょんがれより抜粋 語源は「多くの言葉を口早にしゃべる」「口先でうまいことを言って相手を丸め込む」といった意味を持つ四段活用同士「ちょんがる」の命令形と考えられる。「ちょぼくれ」もまた、願人坊主など大道の雑芸人が、江戸の上野、筋違(すじかい)や両国などの広小路や橋のたもとなど殷賑(いんしん)な地で(幕末から明治にかけては簡易寄席とも言えるよしず張りの小屋「ヒラキ」で見られた)、木魚をたたき、舞ったり歌ったりする芸能である。 戦後、富山県において厖大な「ちょんがれ写本」の集積が発見されたが、これは、盆踊りや鎮守の祭礼などでさかんに歌われたのみならず、地域社会において、ちょんがれ節の巧拙を競う競演大会がしばしばあり、その番付が神社に掲額されたなどの諸事実によるものと考えられる。 You Tubeから「出鱈目/豊年斎梅坊主」。 |
||
なんだか俄にドラム・ソロが注目を浴びている。 そして今日、日野さんが帰国した羽田空港で報道陣の取材に応じた。個人的には、ちょっと残念な会見内容かな。 |
||
↑写真は1993年6月にデイヴィッド・マレーのコンサートで来日した、アンドリュー・シリル。ドラム・ソロの途中でいきなり床を叩き出した。ドラム・ソ ロで床を叩くドラマーは、おとぼけキャッツ時代の透さんと、クレイジーキャッツのハナ肇さんの2人を知っていたが、元祖はアンドリュー・シリルかもしれな い(笑)。 |
||
|
||
8月へ |