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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表 ◯製作中の富山の祭りと芸能 |
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8月1日(火)〜7日(月) 高岡七夕まつり
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◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作 ◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作 ◯久高島の年中行事 平成17年度作成 ◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作 ◯ 「まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作 ◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作 ◯幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】 ◯村踊 沖縄県伊江村伝統芸能 ◯喜屋武(チャン)の綱引き ◯与那国島の行事 ◯ 「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作 |
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○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html ○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/ ○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html ○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm ○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/ ○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/ ○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/、 ○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy ○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/ |
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今日で8月も終わり。なんだか祭りの撮影で忙しい夏だった。日中は青空も出て良いお天気だったが、随分と風が冷たくて半袖に短パンでは寒くなってきた。夏が終わってしまうのは寂しいが、季節的には一番過ごし易い時期になる。 一昨日の早朝、北朝鮮が発射したミサイルが日本の550キロ上空にある宇宙空間を通過して、襟裳岬の東1,180キロという日本の排他的経済水域の遥か向こうの地点に落下した。これを総理は「我が国に北朝鮮が弾道ミサイルを発射」と発言し、「これまでにない深刻かつ重大な脅威」と記者会見で述べている。どの部分が深刻で重大なのだろうか。 |
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←わかり易いイラストがあったので、お借りします。 北朝鮮がミサイルを発射した直後から、ネット上で「なぜ撃ち落とさないんだ」「次は撃ち落とせ」といった書き込みをたくさん見たが、国際宇宙ステーションより遥か上空を飛んで行くミサイルを撃ち落とせる迎撃システムなんてないだろう。 ミリタリー系のサイトにはイージズ艦のSM-3で射程距離は500kmとなっている。PAC3に至っては20kmほどでしかない。 また、仮に撃ち落としたら、日本の方が先制攻撃をしたと見なされるのではないだろうか? |
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29日の午前6時5分頃、ミサイル警報音に気を取られたトラックの運転手がトレーラーにぶつかる事故を起した。テレビのワイドショーではミサイルの落下した地点は漁場で漁船がたくさんいたとスケールを無視したイラストで説明していたが、北のミサイルが漁船や飛行機に当る確率よりも、Jアラートに驚いた運転手が事故を起こす確率の方が遥かに高いだろうと思う。 朝、緊急を知らせるメールの着信音。那覇市からのエリアメールだった。この後、30分程の間に那覇市・浦添市から交互にエリアメールが届く。 お盆休みと北朝鮮のミサイルで、森友、加計学園問題、自衛隊日報問題がすっかり隅にやられてしまったけれど、問題は何も解決していないし忘れてはいけない。 |
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快晴。最高気温は28℃くらいまで上がったが、乾いた冷たい風が吹いていたので過ごし易い一日だった。もう秋の空気だなと思っていたら、隣りの田んぼの稲刈りが始まった。部屋の窓から見ていたが、あっという間に刈り取ってしまった。 夜になると、どこかの神社で練習しているのだろうか、獅子舞らしき太鼓の音が聴こえて来た。 |
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昨日は入善町吉原地区の恵比須祭りと、射水市黒河地区の夜高祭を撮影に行って来た。こちらの様子も後々UPいたします。 | ||
↑木遣りを歌いながらご神体を乗せた長さ5m、重さ400kgの舟を担いで地区をまわる吉原の恵比須祭り。青い空に白の帆が美しい。↓夕方、各地区の夜高屋台がコミュニティーセンターに集合する黒河の夜高祭。昨日は空が激しく焼けた。 | ||
朝起きて最初に飛び込んで来たのが、北朝鮮による日本海への短距離弾道ミサイル3発の発射だった。 今日は入善町吉原地区の恵比須祭りと、射水市黒川地区の夜高祭がある。2つとも見ようと思っていたので、前日にあいの風とやま鉄道の一日フリー切符を購入しておいた。 8月27日(日) |
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↓→祭礼の幟が揚げられた、吉原神社。 |
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↑倉庫から屋形船を運び出して帆を取り付け、船のまわりに白い波を描いた幕を張り、紙垂を付ける。船の長さは5m、重さは400kg。北前船をかたどったそうだ。 |
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↓→飾り付けられ準備が整った屋形船が、拝殿の前に置かれる。 |
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恵比須祭りの神事は午前11時30分に既に済まされており、13時からは地区を巡行する屋形船のお祓いが行われた。神事を司るのは、今年の4月に同じ入善町の芦崎地区のえびす祭りでもお会いした生地の新治神社の宮司さんだった。 | ||
↓吉原神社の拝殿。→屋形船をお祓いする宮司さん。 |
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修祓が行われた後、事前に用意し祭壇に置かれていた榊に紙垂を付けた神籬(ひもろぎ)を両手で持って、宮司さんが拝殿前に置かれた屋形船の前まで駆け足で進む。その間、拝殿の周囲に青年団が並んで立ち、拝殿の戸を激しく手で叩く。これも荒ぶれた事を神様が好むということからだろうか? 宮司さんが神籬を屋形船の神殿に納めた後、船にお神酒がかけられた。 |
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↑屋形船に乗っている神殿に神籬を納める宮司さん(左)、屋形船の幕にお神酒をかける青年団の団長。 |
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↓木遣りを歌う担ぎ手。→社を一周した後、鳥居を出る屋形船。 |
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お祓いが終わり、ご神体(神籬)が屋形船に祀られると担ぎ手の青年団員が船の下にしゃがみ、木遣りを歌う。そして船を持ち上げると先ずは社を一周し、その後、鳥居を潜って地区の巡行が始められた。 | ||
鳥居を出た屋形船は快晴の青空の下、とんの浜に向かった。巡行中も、道を左右に大きくふれながら担ぎ手は木遣りを歌っている。 鳥居を出て10分ほどで、とんの浜に着いた。半漁半農だった吉原の漁師は船を砂浜に上げていたそうだが、もう浜はなくテトラポットが置かれている。現在は魚津市の経田の方に船を置いているそうだ。 |
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とんの浜でも宮司さんによる修祓、祝詞奏上が行われた。そして担ぎ手が木遣りを歌い、船を担ぎ上げる。町の無形文化財になっているこの吉原木遣りの歌詞を書いた紙を複写させてもらった。 一、柱起し歌(その一)屋形船がお宮をでるときに歌う 二、柱起し歌(その二)氏家で御迎幸になり次の家へ出発するときに歌う ドットコセドーットコセ また、道中に歌う木遣りもある。 木遣の名所 屋形が名物 エンヤラホーエンヤ 丸いもんな 太鼓の胴じゃ エンヤラホーエンヤ |
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↑とんの浜から海岸沿いの道を少し歩いて、(有)目合又大謀網に。建物の前でグルグルと3回ほど船をまわした後、持ち上げて船を揺さぶる。そして、ここで白い帆が外された。 ←屋形船に向かい、宮司さんによる神事が執り行われる。 ↓神事の後は、子供と青年団による「花笠音頭」「ソーラン節」「よさこい」「新川古代神」「恋ダンス」「八木節」の奉納。 |
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民謡などが奉納されている間に、青年団や子供たち、見学に来た近所の方にもスイカが配られて、少し休憩。演目と演目の間に、花(祝儀)の披露も行われた。 | ||
(有)目合又大謀網での奉納芸が終わると、子供たちが道具を積んだ2台のリヤカーを引いて次の祭場となる1区の公民館へと向かう。 少し時間を置いて、屋形船も1区の公民館へと巡行する。船は道幅いっぱいに、左右にクネクネしながら進むので時間がかかる。芦崎のえびす祭りでは、一軒一軒で花を貰いその度に担いでいた屋形船を下ろす。どちらにしても、担ぎ手は大変だ。 |
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15時20分頃に、屋形船は1区の公民館に到着。先ずは敷地でグルグルと船を3回ほど回転させ、そして持ち上げて揺らしてから祭壇の正面に下ろした。これから神事が行われ、また奉納芸が始まるが、今日は夕方から始まる射水市黒河地区の夜高祭に行くので自転車を置いて来た吉原神社へ寄って、西入善駅へと向かう。 *9月5日に追加 |
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西入善駅で自転車をたたみ、16時28分の富山行きに乗車。富山駅で乗り換えて小杉駅に17時29分に着いた。小杉駅で自転車を組み立て、黒河コミュニティーセンターへ向かう。プリントアウトしてきた地図を見ながら走ったが、20分ほどだったろうか。 センターには田楽行燈を持った子供を先頭に、各地区の行燈屋台(山車)が集まってきた。会場の一角にはかき氷コーナーがあり、無料で振る舞われていた。 |
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黒河夜高祭の進行表と由来などを記した資料があったので、一部いただいた。次第は以下の通り。 |
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☆寸劇 『岩見重太郎のヒヒ退治』:19時30分〜55分頃 実行委員会の方に聞いたところ、昨年までは行燈行列の後に広場で式典を行っていたそうだが、それだと子供たちが式典の時に眠くなるので先に式典を開始する事にしたそうだ。また、地区を練り歩くだけの行燈行列ではなく、今年から黒河神社と西養寺を参拝する神事・仏事を復活させたということだった。 |
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上段左:竹に切り込みを入れて透過光でヒヒ退治の場面を再現したオブジェ/上段右:開会のご挨拶/中段左:歌の森太鼓/中段右・下段左右:寸劇『岩見重太郎のヒヒ退治』 | ||
小学生による寸劇が終わり、20時頃より行燈行列がスタートした。広場に設けられた行燈のアーチがあるゲートを出て順番に神社、お寺へと歩く。 東太閤山、5区、6区、1区は黒河神社を参拝した後に西養寺へ。4区、2区、3区は西養寺を参拝した後に黒河神社へ。そしてそれぞれの地区に帰って行く。 広場から黒河神社へと向かう5区の行燈行列に着いて行った。 |
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↑広場を一周してから行燈のアーチを潜り、大きな声で「チョーサイタニワカ ゴモンザイタニワカ サンモンザケニヨータヨータ」と囃子唄を歌いながら地区を練り歩く。 | ||
↑黒河神社の鳥居の前で行燈を置き、竹灯籠が並べられた参道を通り参拝をする。 |
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↑黒河神社から西養寺へは、1区の子供たちの行燈行列に着いて歩いた。 |
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↓行燈が並ぶ境内を進み、本堂の前で礼拝する子供たち。そして地区の代表者が鐘をつく。 |
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1区の子供たちが西養寺の参拝を終えたのは21時近かった。お寺の山門の前に置いておいた行燈を再び持ち、囃子唄を歌いながら地区へ戻って行った。 ところで黒河夜高祭の由来がよくわからない。Wikipediaや観光案内のサイトには岩見重太郎のヒヒ退治伝説にちなんでと書かれているが、どう関わっているのかもわからない。実行委員会の方にいただいた資料の中にある、史実と思われる箇所を抜き出してまとめてみた。 *『とやまの民俗芸能』(北日本新聞社)にも黒河夜高祭の記述がある。 |
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雷の音と、屋根に叩き付ける激しい雨の音で目が覚めた。富山県で1時間に約110mmの猛烈な雨が降ったようだ。 昨日は小矢部の大念寺の地蔵盆を撮影に行ったが、途中にあるアウトレットパークに寄ってテナントで入っているJ!NSで新しいメガネを作った。 今まで使っていたメガネは奄美から沖縄に引っ越した時に県庁前のリウボウに入っていたJ!NSで購入したもので、もう5年使っていた事になる。最近右のレンズのコーティングが部分的に剥げてきて、そこだけボヤけるので違和感がある。早く新しいメガネを作ろうと思っていたが、時間がなくて昨日になった。 小矢部川の堤防を自転車で走ってアウトレットパークへ。2階にある店舗へ行き視力を測定してもらう。そしてフレームのチョイス。セールでどの商品も3900円+消費税。今まで小さいフレームだったので、今回は気持ち大きいフレームに。30分ほどで出来るというので、アウトレットモールの中を散歩して時間を潰してから受け取りに行った。その商品が、下の写真。せっかくなので、ストロボの可動チェックを兼ねて部屋で撮影してみた。 |
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↑これが昨日購入した新しいメガネ。メガネケースにクロス、クリーニングペーパーも付いて4,212円。メガネも安くなったと思う。半年以内なら見え方に不具合があればレンズを交換してくれるようだ。 ←ただ、このメガネ、なんか端っこに違和感があると思ったらレンズがフレームに収まっていない。サイドが曲線になっているフレームを選んだのだが、こんなのありだろうか??? |
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アウトレットモールでメガネを作ってから、自転車で石動へ。大念寺に行くと、丁度住職の方が門の前に出て来られたので19時半からの地蔵盆の様子を撮影させてもらいたい旨を伝え、許可をいただく。了解を貰ったところで、まだ時間があるので5月に天神様の絵を撮影させてもらった観音寺へ。その時に撮った絵の写真や奉納獅子舞の写真をお渡ししようと寄ったが人の気配がなかったので、石動駅の立食いうどんで天ぷら月見うどんを食べる。食べてからもう一度観音寺に行くと、寺務所に灯りがついていた。ドアを開けて声をかけると、住職の方が出て来られたので写真をお渡しする。 | ||
観音寺から大念寺へ。自転車だと5分もかからない。 ←小矢部のアチコチに散らばっていた160体ほどのお地蔵さんが納められている、大念寺の地蔵堂。 |
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↑お地蔵さんの並んだ棚の下の方にある名前は、現在わかっているお地蔵さんの元の所有者。30名ほどの名前が記されている。 |
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↑19時半から地蔵堂で住職の読経が始まった。初めはお堂の前に椅子が並べられていたが、一瞬だが雨がパラッと降ったので椅子を軒下に移動。少し風が吹いてお線香の匂いが漂い、なんだか居心地が良い。参集されたのは14名だった。 |
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↓読経の後は、集まった方々でご詠歌の唱和。三十三番までうたわれた。 |
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住職の読経、ご詠歌の唱和が各30分ほどで20時半頃に地蔵盆の行事は終わった。片付けの途中、昼間に町内をまわってお菓子を集めた子供たち4人が集まってきた。町内とお地蔵さんの元の所有者の方からいただいたお菓子が子供たちに分配され、持参してきた大きな袋に詰められた。 は〜、ようやく日記が追いついた(笑)。 |
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Facebookに沖縄の三大綱引きの一つである、与那原大綱曳きが昨日行われたという記事が流れてきた。富山では神事としての綱引きはあまり馴染みがないが、沖縄では豊年祭での奉納綱引きや、雨乞いの神事としてよく行われている。 三大綱引きで一番大きな綱はギネスに認定されている那覇の大綱、二番目が糸満、三番目が与那原だが、一番大きな那覇の綱はもはや人力では運べずにクレーン車を使う。また、他の綱は毎年作り替えているが、那覇の綱は傷んだ所を補修して使うので毎年大きくなっているようだ。 |
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上の写真は2013年8月4日に撮影した与那原大綱曳きでのイリ(西)の雌綱。沖縄の綱引きは雌綱の輪っかに雄綱の輪っかを入れて、そこにカヌチ棒と呼ばれる大きな棒を差し込んで固定して1本の綱にする。与那原は地区をイリ(西)とアガリ(東)に分けて綱を引っぱる。 沖縄では弥勒様のことをミルクと発音する。ニライカナイから弥勒が現われて、幸せな世の中(ゆがふ=世果報)をもたらしてくれるというミルク信仰が、八重山地方を中心に広く浸透している。 ところで、弥勒というと弥勒菩薩の端正な顔とスマートな身体をイメージし、沖縄のミルクとは似ていないようにも思うが、弥勒は布袋様の化身だとも言われている。そう言われれば沖縄のミルクは布袋様によく似ている。 |
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↑赤田のみるくウンケーにて、スネーイ(練り歩き)に出発するみるく。2012年8月19日撮影。 |
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昨日、一昨日と高岡山町筋にある通町で布袋祭が行われた。山町筋では8月に各町内で夏まつりが行われ、通町は曳山の本座に飾られる布袋様から名前をとって布袋祭としている。 祭りは町内の守り神を関野神社に迎えに行き、一晩祭宿(御旅所)にお泊りいただき、次の日の夜に関野神社にお帰りいただく。その守り神は布袋様ではなく高御産霊大神(たかみむすびのかみ)と神御産霊大神(かむみむすびのかみ)で、嘗ては通町にあった産霊社(むすびのやしろ)に祀られていた。現在は関野神社に安置され、年に一度、夏まつりの時だけ町内に鎮座する。 御車山祭の際に本座に飾られる人形の布袋様は依り代で、鉾(心柱)から降臨して人形に依り憑く神は、この高御産霊大神(たかみむすびのかみ)と神御産霊大神(かむみむすびのかみ)だそうだ。 山町筋の夏まつりは町によって開催日の違いがあるが、関野神社に守り神を迎えに行き、翌日に送るというスタイル(二番町は御車山の宵祭で神迎えをするので、夏まつりに神迎えはなかったようだ)で行なわれてきたが、少子高齢化などから時代と共に簡略化したり廃止になる町も出てきた。そんな中で通町は浴衣の女の子が提灯を下げ、紋付羽織袴姿の総代と唐櫃を担ぐ少年が神社に出向き、昔ながらの形を一番残しているという。 通町の布袋祭の様子も、後々UPいたします。 |
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↑通町の布袋祭。一晩祭宿にお泊りいただいた神様を唐櫃に納め、神職の笛と提灯を下げた子供たちに先導されて町内を巡行した後、関根神社までお送りする。8月20日撮影。 | ||
通町布袋祭の2日目、今日が本祭になる。19時から祭宿で神事を行った後、ご神体が町内を巡行してから関野神社にお還りになる。 | ||
18時半頃に、祭宿となっている交流館に到着。昨日はお参りしていなかったので、お賽銭を置いて参拝。 |
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↑修祓、祝詞奏上、玉串奉奠。そして部屋の灯りが消され、祭壇の神殿から唐櫃へご神体が移される。 |
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↑唐櫃に入れられ少年に担がれたご神体は、20分ほどかけて巡行した後、関野神社にお還りになった。 |
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拝殿の灯りが消され、唐櫃からご神体が移された後、神事が行われた。浴衣を来た小さな女の子たちもお行儀よく列席している。 神事が終わり、歩いて交流館に戻ると既に祭壇は片付けられ、木箱に納められていた。この木箱は明日の朝、関野神社にある曳山倉庫に仕舞われるそうだ。ご挨拶をして自転車で家に帰る。通町を20時頃に出て、家に着いたのは21時少し前だったろうか。 |
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御車山祭の曳山を保有する通町、御馬出町、守山町、木舟町、小馬出町、一番街通り(一番町・三番町・源平町)、二番町、そして曳山を先導する源太夫獅子を保有する坂下町のある一帯を山町筋と呼ぶ。 |
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関野神社の禰宜、酒井さんから夕方18時半頃に通町の方々が神社の方に来られると聞いていたが、祭宿(御旅所)を出て迎えに行くところから撮影したいと思い、17時半頃に自転車で通町へ。通町御車山交流館に提灯が提げられていたので中に入ると、紋付袴姿の自治会長さんが居られたので撮影の許可をいただく。 ←交流館の中には祭壇が設けられていた。 |
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通町の夏祭りは曳山の本座人形である布袋和尚から名前をとって布袋祭となっているが、明治の初めまでは産霊社祭と呼ばれていたそうだ。この辺りの詳細は交流館のガラスケースに入った資料に書かれている。少し長いが、引用させてもらう。 通町布袋祭は、毎年8月19日、20日に行われる夏祭りの行事である。 つまり通町の人たちが関野神社に迎えに行くご神体は布袋様ではなく、嘗て通町にあった産霊社(むすびのやしろ)に祀られていた高御産霊大神(たかみむすびのかみ)と神御産霊大神(かむみむすびのかみ)。そして御車山祭の際に本座に飾られる人形の布袋様は依り代で、鉾(心柱)から降臨して人形に依り憑く神も、この高御産霊大神と神御産霊大神だそうだ。 |
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↑17時50分頃、正装をした総代と唐櫃を担ぐ男の子、提灯を提げた女の子たちが列を作って祭宿から関野神社に向かう。 |
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↑10分ほどで神社に到着し、お祓いを受け、玉串を奉奠する。 |
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↑拝殿の灯りが消され、薄暗い中で神職の手によりご神体が唐櫃に納められる。 |
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↑提灯を提げた浴衣の女の子と神楽(笛)を奏する神職に先導されて、袴姿の少年に担がれたご神体が町内を神幸する。 ←町内を一通りまわった後、祭宿となっている交流館に入り、唐櫃から神殿へご神体が移される。通町御車山交流館が出来るまでは、自治会長の家などが祭宿に使用され、夜は祭壇の前に布団を敷いて過ごしたという。 |
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↑祭宿での神事には、神迎えに参加した子供たちも列席する。↓神事の後、町内の人々が順に参拝。そして納涼祭に移行する。 |
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通行止めになった道路にテーブルを出して児童クラブや、青壮年、老人会と3ヶ所に分かれて親睦がはかられる。流しそうめんやヨーヨー釣りなど年によって、町によって様々なイベントも行われるようだ。今年は20時半から子供たちが花火をするという。子供たちの花火も少し気になったが、お腹も空いたし自転車なので断念して帰路に着いた。 | ||
午後の早い時間までは、雲が多いながらも久しぶりに青空が見えた。午前中は朝からパソコン作業、午後からは少しだけプール。プールの後、一旦帰宅してから先月受診した特定健康診査の結果を聞きに行く。数値は全て範囲内で、異常認められずにチェックが付いていた。個人的には、あと5キロほど痩せたら身体が軽くなるんじゃないかと思う。 | ||
先日アマゾンでポチった本が、今日で全て届いた。 ←電話帳より厚い1,014Pある『LOVE CALL 時代の肖像/坂田栄一郎』(朝日新聞出版)は89円+送料、2冊セット箱入り『愛蔵版 暮らしの歳時記ー石川編・富山編』(北國新聞社出版局)は定価21,600円が、ほぼ新品で290円+送料だった。 |
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↓左は、『丘の夏/前田真三写真美術館』(講談社)、『世界遺産・屋久島/三好和義写真集』(小学館)、『ベトナム低空飛行/赤瀬川原平』(ビジネス社)。右は、『神々の古層 世を漕ぎ寄せるシチ・西表島/比嘉康雄』(ニライ社)、『知っておきたい日本の仏教』(エイ出版社)、『仏教入門/三枝充悳』(岩波書店)。 |
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昨日は千保川の灯籠流しで知られる、中島町の水天宮祭に行って来た。こちらの様子も、後々UPいたします。 | ||
↑児童クラブの子供らの手によって千保川に流された灯籠。大正時代から続く行事。 |
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高岡の千保川では毎年この時期になると、灯籠流しが行われる。昨年も撮影に来ようと思ったが、確か雨が降って断念した。 17時半頃に千保川沿いにある中島町の公民館に到着すると、既に祭壇が設けられて有磯正八幡宮からの祭神を迎えた後だった。聞けば、午前9時頃には神社へ迎えに上がり宮司さんによる神事が行われたそうだ。祭壇には右大臣、左大臣が並びご神体は中央の祭殿に祀られている。夏の行事のように考えていたが、元々は水天宮祭という神事が始まりだった。 中島町の水天宮は、明治四年の「社号祭神等書上帳」によれば、有磯神社正八幡宮神社々内鎮座(有磯神社の氏子地内)祀られてあり、鎮座された年月は不詳であるが古くより祭られたものである。(昔から川、河、湖などの地所には、水の神様である水天宮をつくり、安徳天皇、罔象女神を祀るところが数多くある。) 「高岡沿革史」、「高府安政録」に見られるように、中島町はたびたび水害にあい、そのうち水天宮だけに関しては、明治三十年代の水害の際(別記録では明治二十九年(一八九六)七月中旬より八月上旬の数回にわたる洪水)社殿(御堂)が流出する恐れがあったので、前もって中島町の人々が川巴良諏訪神社にご神体をあずけ、二・三日後に有磯神社々司(当時)上田郁太郎が川巴良神社にお迎えに赴き、有磯神社の本殿左座に安鎮したのである。 水天宮の行事として行なわれる「灯籠流し」は全国至る所で行われているもので、水害でなくなった人々の霊を慰めるのと、水天宮の神である安徳天皇、罔象女神を神鎮まるようにと行われるものであります。 要約すると中島町は水害の多い場所で、嘗ては水神である安徳天皇と罔象女神を祀った水天宮が町内にあった。ところが明治30年代の水害の際に水天宮の社が流されそうになったので、中島町の住人は川巴良諏訪神社にご神体をあずけ、その後、有磯正八幡宮に移して本殿左座に安鎮した。それから毎年有磯正八幡宮で水天宮祭を行って来たが、金屋町の御印祭のように年に一度町に神様をお迎えして神事を行いたいという住民の要望があり大正3年(1914年)から御旅所にご神体を迎えるようになったという事だろう。 資料では中島町の水害にも触れられており、以下が記されている。 |
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↓ご神体を祀った神殿を運ぶ唐櫃。→中島公民館に設えられた祭壇。 |
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↑公民館の入り口にはお地蔵さんも祀られており、水天宮祭と一緒に地蔵祭も行われる。玄関上部の公民館の看板中央に、「水天宮」と書かれた扁額が飾られている。 | ||
また、祭壇に飾られた右大臣、左大臣や扁額などの祭器についても詳しく書かれている。 公民館などに保存されている水天宮に関わる祭器は、永らいに中島町に伝えられているもので、八月十六日の水天宮祭のおりに町の方々の前に飾られている。 ◯扁額「水天宮」 たて約一尺五寸、よこ一尺の木製でトタンの縁取りがある。表に水天宮の墨書、裏に判読がやや難しいが明治二十六年八月と読める。祭当日は公民館の玄関上に掲げられる。 明治二十九年の水害時にご神体とともに避難させた可能性が考えられる。 ◯神殿 幅三尺、奥行き二尺、高さ約二尺の神殿で、日ごろは有磯神社に鎮座されている。祭礼当日にご神体を安置して中島町に運ばれる。 屋根の裏側に明治三十四年五月高岡市桧物屋町和泉市三郎製、寄進人荒崎太平・たつねの記載が読みとれる。 ◯右大臣・左大臣 祭礼時にご神体の両側に、二尺ほどの高さの赤色の右大臣像、黒色の左大臣像が鎮座される。像の台後ろの記載によるとこれは明治四十三年(一九一〇)八月に横田亀二郎 山本巳三次郎 近松善次郎 木津貞次郎 紺 繁 堀岡越郎 金谷栄吉 金森太一郎 大野栄八 日野源七 小杉伊吉 大野亀次郎 以上の方々により奉納されたものである。 ◯鏡 真鍮製の鏡で、裏に奉納、水天宮、大正元年八月謹製、炭谷外吉の彫り込みがされている。 ◯御唐櫃 ご神体を入れた神殿を収める木製の箱。蓋の裏に大正三年八月大野和三郎の製作により中島町有志に十三名の寄進人の記名がある。洪水後の町内での祭典再興に併せて寄進された可能性が高い。 |
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18時半頃、流れ具合を見るために灯籠が川に入れられる。テストのはずが随分たくさん流すので、全部で幾つくらいの灯籠があるのか尋ねたところ1万個ほどだそうだ。思っていた以上の数で驚いたが、1軒の家の製作ノルマが100個だそうで、100軒の家が作れば1万個になる。 そのうち児童クラブの子供たちも川岸に下りてきて、灯籠のローソクに火を灯し、流し始めた。 |
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公民館の前にはテーブルが出され、一つ200円で小さな灯籠に願い事などを書いて流す事ができるようになっている。灯籠流しも時代により色々な試みがなされたようで、資料には「灯籠流しの変遷考」という文章もある。 灯籠流しがいつ頃から、何のきっかけで始められたのか記録も言い伝えも見あたらないが、水天宮の祭具の記録などから推測して、大正三年に始められたとすることが妥当であろうと考えられる。明治二十九年(一八九六)に有磯神社に安鎮されていた水天宮を、年に一度中島町にお迎えして祭典を執行し始めた大正三年(一九一四)八月をもって灯籠流しの始まりと見ることにさほど無理はないのでないであろうか。 |
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↑公民館での神事。↓→神事を終えて唐櫃に納められたご神体が還御される。 |
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用意された灯籠が大方流された20時半頃、有磯正八幡宮の神職により公民館で神事が行われ、その後、唐櫃にご神体を祀った神殿が納められた。そして提灯、太鼓、ご神体を納めた唐櫃の行列が有磯正八幡宮へと向かった。 ←↓ご神体が有磯正八幡宮に到着。唐櫃は拝殿に上げられ、灯りを消して暗闇の中、宮司によってご神体が本殿へと移された。 |
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ご神体が本殿に安鎮され、神社でも修祓、祝詞奏上、玉串奉奠が行われて全ての神事が終了した。 神社から自転車の置いてある中島町公民館に戻る。公民館は後片付けの真っ最中だった。お礼のご挨拶をして、自転車を漕いで家路に着いた。 |
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午前中から両親と4つの霊園をまわり、お墓参り。家に帰りテレビをつけると、日本武道館での全国戦没者追悼式の中継が流れていた。 奄美群島で特攻というと、作家・島尾敏雄が率い、自殺艇とも呼ばれた特攻艇「震洋」が配備された加計呂麻島が真っ先に思い浮かぶが、喜界島もまた特攻の島だった。 |
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↑喜界空港に咲く、特攻花。2011年7月7日撮影。 |
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一昨日は上市町で開催された、ふるさと観光上市まつりへ。昨日は黒部市の朴谷地区の納涼祭「獅子舞 IN SUMMER 2017」へ。こちらの様子も後々UPいたします。 | ||
↑ふるさと観光上市まつりでは上市川の河川敷に大勢の住民が集まり、火のついた棒を振り回して祖先の霊を迎える「おしょうらい(お精霊)」が行なわれる。7月13日に撮影。 ↓朴谷地区の「獅子舞 IN SUMMER 2017」。写真の演目は、猩々(しょうじょう)。7月14日撮影。 |
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一週間前の月曜日に尾山地区の七夕流しを見に行った際、地区の方から来週は隣りの朴谷(ほおのきたに)で獅子舞があると聞いた。尾山からの帰り、朴谷公民館の前を通ると中からお囃子が聴こえて来た。家に帰り調べてみると東布施公民館だよりに14日に朴谷町内納涼祭があると書かれていた。平成元年(1989)から毎年8月14日に『獅子舞IN SUMMER』と題して獅子舞を披露しているようだ。朴谷は富山では珍しいお正月の1月2日に家々をまわる「疫病退治・悪魔払い」の獅子舞が行われるので、一度見に行きたいと思っていた。その取っ掛かりとして、この納涼祭に出かけてみた。 相変わらず不安定な天気で、少し雨の心配をしながらも前日に買っておいたあいの風とやま鉄道の一日フリーきっぷで黒部駅へ。納涼祭のスタートは19時半からだが、17時42分に駅に着いて自転車を組み立て、駅前のコンビニで菓子パンを買ってから朴谷に向かう。一週間前に尾山へ行くのに通った道なので、もう地図を見なくても分かる。 |
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↓獅子舞のリハーサル。→公民館入り口に貼られたプログラム。 |
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1.開会のあいさつ |
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↑19時になると笛と太鼓のお囃子が軽トラの荷台に乗り込み、地区内に納涼祭の開始を触れてまわる。 |
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↑公民館の中では獅子舞の最初の演目に出演する子供たちが準備をしている(左)。出演者が全員舞台に登場して、納涼祭である「獅子舞 IN SUMMER」が始まった(右)。 | ||
↑上段左:獅子舞(刀合わせの段)/上段右:獅子舞(腕つっぱりの段)/中段左:花(祝儀)の披露/中段右:すみれの会(想い出の九十九里浜)/下段左右:獅子舞(もっこがえしの段) ←↓アトラクションの抽選会と、子供たちによるグレープジュースの早飲み競争。早飲みに出場した子供たちへの賞品は、花火セットだった。 |
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↑獅子舞(車返しの段)。 ←↓すみれの会による麦屋節。演目の合間合間に花の披露が行われ、目録がステージの後ろに並べられる。 |
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↑最後の演目は、獅子舞の猩々。新川地方の獅子舞の演目に登場する「猩々」だが、webで検索すると<中国の伝説上の動物。または、それを題材にした能楽などにおける演目。 さらにそこから転じて、大酒家や赤いものを指すこともある>と書かれている。天狗と獅子が桶に入ったお酒を取り合って共に酔っぱらう話のようなので、この場合は大酒飲みを指しているのだろう。 | ||
獅子舞の演目が全て終わったところで、集まった人たちに餅が配られた。私にも2つ。そして大抽選会の続き。21時を過ぎて、1等の折りたたみ自転車が出た。抽選会はまだまだ続くようだったが、電車の時間もあるので黒部駅へと自転車を走らせる。 1月2日のお正月の獅子舞は、13時に公民館に集まり、神社に参拝してから集落をまわり15時くらいには終わるそうだ。この頃は雪が積もっていて自転車で行くのは厳しいかな?上手く路線バスが運行していれば良いんだけれど。 |
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富山の一部の地域では8月13日を迎え盆とし、火のついた棒をゆっくりと振り回して祖先の霊を迎える「おしょうらい」が行なわれる。おしょうらいは、<お精霊>や<お招来>とも書くようだ。このおしょうらいという言葉を初めて知ったのは、立山町のホームページの中にある芦峅寺を紹介したこのページだった。 |
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↓赤浜地区の櫓。→森尻の櫓。 |
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赤浜から上市町の駅まではほぼ一本道だった。駅の構内に観光案内所があったので、地図を貰い、祭り会場を教えて貰う。 駅から少し離れた商店街にあるまちなか交流プラザ・カミールの隣りには屋台が並び、ステージが設営されていた。おしょうらいが行われる上市川の河川敷は、カミールから歩いても5分ほどだった。 |
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↑上市川の河川敷に立てられた、精霊やぐら。上市の方では、<におとんぼ>ともいうらしい。白竜橋から見ると、上流、下流の両岸に9基の櫓が並んでいたが、もう少しあるのかもしれない。七夕飾りを一緒に燃やす櫓もいくつかあった。 ←カミール1階には、専用の「おしょうらい棒」が売っていた。どれくらいの数を作って、どれくらい売れるものなんだろうか? |
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河川敷の場所を確認してから、イベントが催されているカミールの駐車場を使った広場へ戻る。ステージ横には、上市まつりのプログラムがあった。以下、 17:30〜18:00ステージイベント1(大橋ヒカルさん、ひでよしっとさん)/18:30〜町流しの夕べ/19:30〜やぐら焼き・盂蘭盆精霊大供養読経/20:00〜花火の夕べ/20:40〜21:10ステージイベント2(大橋ヒカルさん、ひでよしっとさん) |
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↓屋台やステージが設営された、カミールの駐車場。 |
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18時半になると商店街の両端から上市保育園、三日市保育園の園児による上市音頭の町流しがスタートした。翌日の富山新聞によると、この町流しには12団体、380人が参加したそうだ。 | ||
20分ほど町流しを見てから、河川敷に向かう。 19時30分に白竜橋の真ん中に設営されたテントの中で僧侶の読経が始まり、それに合わせて河川敷の櫓に火がつけられる。火のついた櫓の周辺で、個々人がおしょうらい棒を振り回して、祖先の霊を迎える。中にはまだ櫓に火がつけられる前に、おしょうらい棒を振る人もいるそうなので早めに来てみた。 |
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↑まだ空に明るさが残る19時頃。読経が始まる前に、火のついたおしょうらい棒をゆっくりと円を描くように振って祖先の霊を迎える人たち。 | ||
19時半に読経が始まり、同時に河川敷の櫓に火がつけられた。炎を上げる櫓の周辺では、おしょうらい棒を持った人たちが火の粉を飛ばしながらグルグルと回している。黙々と棒を振る人もいれば、「ジージコイ、バーバコイ、ショウライ」(←よく聞き取れないので、大体の感じです)と口ずさみながら振る人もいる。 八月十三日を宵盆、または迎え盆とよんでいる。十三日の宵、迎え火をたくところは富山市、高岡市、黒部市嘉例沢など。魚津市天神新、細入村楡原、石動町内山などの山間地帯では、子どもが村から離れた高台の遠く見通しのきくところで、麻殻の松明に火をつけて振り回す。おしょーらい おしょーらい と叫び、小杉町ではジーマ、バーバ、イラッシャイヤーとかジージのショウライー、バーバのショウライといって迎える。 県内各地では13日をはじめとして盆行事が行われる。その13日に迎え火を焚いて先祖を家まで導く光景がオショウライと呼ばれる。漢字では「精霊来」「お招霊」などと当て、いずれもオショウライのことである。 |
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*北日本新聞の記事、富山新聞の記事。 | ||
昨日の山の日から全国的にお盆休みのようだ。テレビの帰省ラッシュの話題も少し下火になって、まったりとした時間が流れている。 今年の3月13日に撮影した芦峅寺の伝統行事、おんば様のお召し替えの様子をPhoto Albumにしました。こちら。 |
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↑閻魔堂で縫った白装束を風呂敷に包み、代表の女性たちが雄山神社にある開山堂へ運びお祓いを受ける。 ↓宮司によりお祓いを受けた白装束を再び閻魔堂に持ち帰り、祀られているおんば様に着せ替える。 |
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8月8日(火) |
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朝起きると、台風5号は新潟沖に抜けていた。TVニュースで進路図を見ると富山を直撃したようだが、ぐっすり寝ていて気配を感じなかった。今日は一日雨。家のまわりは時折強く降るくらいで豪雨とまではならなかったが、南砺市の方は雨量が多く城端線が砺波と城端駅間で運転を見合わせたりした。 一昨日は、魚津の「第48回 じゃんとこい魚津まつり」と、魚津の線路を挟んで山側の上村木地区の七夕祭を見に行って来た。じゃんとこい魚津まつりで「せり込み蝶六踊り」の街流しを一時間ほど見た後、輪行した自転車で上村木へ行き地元の人たちと一緒に七夕祭で登場するあじろと呼ばれる神の化身の出現を待っていた。すると新聞社の人が来て雨の予報が出たため中止になったと教えられる。せっかく魚津まで来たので諦めきれず活動拠点の神社まで行って、4体だけだがあじろの写真を撮らせてもらった。 |
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↑じゃんとこい魚津まつりの、せり込み蝶六踊り街流し。8月6日撮影。 |
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↑上村木七夕祭に登場する神の化身、あじろ。8月6日撮影。 |
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↑尾山の七夕流しで、アネサマと呼ばれる人形を流す女の子。8月7日撮影。 |
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今日は布施谷(ふせんたん)と呼ばれる黒部市南東部にある尾山地区で、平成16年に県の無形民俗文化財に指定された、江戸時代末期から続くと思われる伝統行事の七夕流しが行なわれる。流すのは短冊を吊るした七夕の棹ではなく、女の子は紙で作ったアネサマと呼ばれる人形、小さな男の子は板で作った船、中学生の男の子は行燈だ。ちょっと変わったこの七夕祭りを見に行こうと思ったが、天気予報は夕方から雨になっている。多少の雨でも開催されるのか心配になり尾山コミュニティーセンター(公民館)に電話するが、繋がらない。そこで、以前にも尾山の七夕流しについて問い合わせた東布施公民館に電話。すると、今まで雨で中止になったという話しは聞いたことがないとのこと。それでも台風5号も接近している。弱い雨の予報が、激しい雨になったらどうしよう。尾山地区までは黒部駅から自転車で30分以上はかかりそうだ。そんな事を考えていると、今年は撮影を諦めて来年にしようか。でも来年必ず晴れるとも限らない。もし出かけて行って中止になってもダメージは往復2220円の交通費と身体がびしょ濡れになるだけだが、行かなければ「何であのとき・・・」と後悔するに決まっている。よし!と覚悟を決めて駅へと向かった。 | ||
七夕流しは20時30分からだが、18時からアネサマ人形を台車に乗せての集落曵きまわしがある。駅から自転車で30分以上かかることを考えて、黒部駅に16時42分に到着する電車に乗った。 黒部駅で自転車を組み立て、地図を見ながら県道125号線を目指す。125号に入れば、尾山までは1本道だ。40分ほど山裾を走って、尾山コミュニティーセンターに到着した。 |
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コミュニティーセンターの前には七夕が飾られ、18時から集落を曳きまわすアネサマ人形が台車に乗せて用意されていた。よほど酷い雨にならない限り、七夕流しは行なわれるという。人形の引きまわしまで少し時間があったので、近くを散策してみた。 湧き水を集めて集落内を流れる泉川の脇には、七夕飾りを付けた笹竹が並べられている。水深は浅く、用水路と言った方がピッタリとくる。この川で七夕流しが行なわれる。 |
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↑集落内を流れる小川に、七夕が飾られている。この川で七夕流しが行なわれる。 |
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18時少し前、集落の中にある「尾山の七夕流し」と書かれた石碑の前に大きなアネサマ人形が運ばれて来た。この人形の曳きまわしは昭和63年から始まったそうだ。昭和56年に黒部市の無形民俗文化財に指定されたのを機に保存会が作られ、寄付金を募るようになったため、七夕行事を村の人に広く公開する意味で行なわれるようになったという。 ←保存会のメンバーや子供が揃ったところで、先ずは記念撮影。 |
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18時。太鼓と笛のお囃子が先頭になり、大きなアネサマ人形の曳きまわしが始まった。通常の川に流すアネサマ人形は高さ40cm、幅25cmほどだが、曳きまわされるものは高さが90cmほどもある。この大きなアネサマ人形は、集落の婦人らの手によって毎年作り替えられる。 およそ40分ほどかけて、集落内を縫うようにアネサマ人形が曳きまわされてコミュニティーセンターに戻って来た。ここで一旦解散し、七夕流しが始まる20時半頃までそれぞれ家に帰る。 |
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↓→七夕流しで女の子が川に流す、アネサマ人形。 |
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↑→色紙で満艦飾に見立てた船。現在は軍艦風だが、昔は屋形船の形だったと言う。 |
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↑手作りの行燈も流される。 コミュニティーセンターには、人形や船を観賞に来る人もいる。実際、想像していたよりも現物の人形や船は美しく仕上げられていた。 |
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↓→嘗ては21時からだったが、30分ほど早まったそうだ。 |
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↓→流す直前、船や人形の台座に立てられた蝋燭に火が灯される。 |
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小さい子供は親に付き添われながら人形や船を持って川に入り、下流に向かって押しながら進んで行く。途中にはテントが設営されており、その中で笛と太鼓のお囃子が奏でられていた。 | ||
七夕流しは30分ほどで終わった。人形や船は流さず、抱えて川から上がる。環境問題で流せなくなったのではなく、昔からの習わしだそうだ。 天気予報では夕方から弱い雨が降る予想だったのでずぶ濡れを覚悟して来たが、3回ほどパラパラっと降っただけで直ぐに止み、傘も必要なかった。 ←川から上がった子供たちにはジュースとお菓子が配られる。 |
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コミュニティーセンターに行くと、打ち上げの用意がされていた。いつ雨が降ってもいいように100円ショップで購入した雨合羽を着て、黒部駅へと自転車を漕ぐ。途中、朴谷の公民館の前を通るとお囃子が聴こえて来た。一週間後に朴谷で獅子舞があるそうだ。 地図を見ないで駅まで行けたので、30分ほどで着いた。終電は黒部駅を22時59分発だが、その一つ前の21時53分発に乗れればいいな〜と思っていたら、21時25分発にギリギリで乗車できた。まあ、富山で乗り換えのための待ち時間があって、結局家に着くのは同じで23時過ぎだったけれど。 それにしても、奇跡的と思えるほど雨が降らなかった。もし行かなかったら、とても後悔しただろう。 |
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*七夕と夏まつり。 | ||
8月4日から6日まで(7日は関連イベントとして経田七夕祭りがある)、魚津市で第48回じゃんとこい魚津まつりが開催されている。4日は開会式と昨年ユネスコの無形文化遺産に登録されたたてもん祭り、5日はたてもん祭りと花火、そして今日はせり込み蝶六踊りの街流しが行なわれる。 たてもん祭りは昨年見たので、今年はせり込み蝶六踊りを見に行くことにした。また、この日は魚津の上村木地区の七夕祭も開催されているので、自転車を輪行して両方見る気で出かけて行った。 せり込み蝶六踊りの街流しは18時30分からだが、上村木七夕祭の場所などを観光案内所で確認したいので、少し早めの16時36分に魚津駅に到着。自転車を組み立てて駅前の観光案内所を訪ねる。 じゃんとこい魚津まつりのパンフレットと上村木地区が掲載された地図をもらい、上村木の七夕で屋形船と神の化身であるあじろが巡行を始める場所を教えてもらう。七夕祭は今日が宵祭、明日が本祭で両日共に巡行がある。 |
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せり込み調六の街流しは海側にある電鉄魚津駅に近い22m通り、上村木は線路を挟んで山側で歩くとけっこうな距離があり、自転車を持って来て正解だった。 先ずは駅前の大通りを1kmほど走り、あじろと屋形船の巡行が始まる場所を確認。場所を覚えたので、今度はじゃんとこい魚津まつりの会場へ向かおうとしたら、ポツポツと雨が降り出した。急いで公園の木の下へ避難。 ←雨宿りした公園。 |
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しばらく木の下のベンチで様子を見る。降り始めは木の葉っぱで濡れずに済んだが、時間が経つにつれて木の下も雨が落ちて来たので傘をさす。空を見上げると海側の方は、なんだか陽が射していて明るい。ちょっと小降りになったので、思い切って自転車を漕いで線路の向こうへ走る。 街流しの行なわれる22m通りに行くと、ちょうど17時からのブラスバンドパレードが終了したところだった。どうも僅かな距離だが、こちらは雨が降っていなかったようだ。 ブラスバンドの次は魚津蜃気楼節愛好会と、魚津蜃気楼節保存会による演舞が17時45分から行なわれた。 |
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↑魚津蜃気楼節愛好会(左)と、魚津蜃気楼節保存会(右)による踊り。 |
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蜃気楼節の踊りはイベント本部のある、街流しのゴール地点で行なわれた。18時半から魚津東部中学校、西部中学校の生徒による「中学生蝶六踊り街流し」、そして19時から41チーム3000人による「せり込み蝶六踊り街流し」がスタートする地点に自転車で移動して始まりを待つ。 | ||
せり込み蝶六は魚津市で歌い継がれている民謡で、浄土真宗の仏教口説きを起源にし、江戸時代になって越後の瞽女さんの唄の影響を受けて変化したものと言われている。毎年お盆に寺や神社の境内で扇子や提灯、傘などを持って祖先の御霊と豊作を祈って踊りあかしたそうで、富山に伝わる盆踊り唄の一つでもある。 街流しは21頃まで行なわれるが、19時30分からは上村木七夕祭のあじろと屋形船の巡行が始まるので、急いで自転車で駆けつける。 |
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せっかく来たのに全然見れないのも悲しいので、あじろが控えているという上村木神明社に向かうと保存会の青年が何人か居た。あじろの所在を尋ねると、寄付をもらったお店に行って記念写真の撮影をしており、もう直ぐ戻って来るということだった。 拝殿の隣りにはテントが設置され、中に曳きまわす屋形船が置かれていた。テントの奥には倉庫があり、ここにあじろの衣装なんかも普段は置かれているそうだ。 |
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上村木七夕祭の由来は保存会のホームページに詳しく書かれており、大正初め(2年とも言われる)に3人の少年が入善町の吉原や芦崎のえびす祭りで曳きまわされる屋形船を見て、自分たちでもこんな祭りをやりたいと船を造ったのが始まりだそうだ。当時上村木神社(今の神明社だろうか?)は上村木東交差点、現在のアップルヒル敷地内にあり、そこにあった杉の御神木には天狗が住んでいるという伝説があったので、天狗の面を着けたあじろと呼ばれる神が屋形船と一緒に練り歩くことになったようだ。あじろ=網代だろう。後で衣装に触れたが、薄い木のパサパサした感触だった。このあじろの衣装が雨に濡れると色が落ちて作り直さなくてはならず、今日の雨天中止になったようだ。 神社の境内で30分ほど待っていただろうか、やがてカラフルな4体のあじろが写真撮影から戻って来た。子供を連れた地元のお母さんたちも集まって来て、子供の頭を撫でてもらったり記念撮影。子供たちが一通りあじろと記念撮影するのを待って、最後にあじろだけの写真を撮らせてもらった。 |
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↑全てのあじろには病気平癒、家庭円満、水難防止などのご利益があり、子供たちは握手してもらったり一緒に写真を撮ったり。 |
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↓鳥居の前で4体揃ったあじろ。左から白髭天狗、青般若、白緑狐、しかみ。 |
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今日の宵祭は中止になったが、本祭は明日。明日も夕方から雨の予報だ。どちらにしろ明日は魚津の方へ撮影に行くので見れないのだが。 自転車で魚津駅に戻る途中、コンビニでパンとコーヒー牛乳を買って遅い晩ご飯。魚津を21時1分発の電車で、家に帰る。 |
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*北日本新聞の記事、北國新聞の記事。尚、上村木七夕祭の本祭は7日に無事行なわれたようだ。こちら。You Tubeから「2013年の上村木七夕祭」。 | ||
今日の高岡の最高気温は32℃となっていたが、体感的には35℃以上の真夏日。堪らず午後からプールへ。プールよりも、その前後に浴びるシャワーが気持ちいい。市営プールなので、これで無料なのが嬉しい。 ◯奄美地方で50年に一度の大雨、1人死亡9000人に避難指示 昨日は自転車で高岡の七夕祭りを見に行って来た。 |
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8月4日(金) 8月1日から始まっている高岡七夕まつり。昨年は、見に行く途中で自転車がパンクして諦めた。 高岡へ行くため、15時頃に家を出る。ミュゼふくおか館近く、いっぷく処の通りにも大きい七夕飾りが7本ほど飾られている。福岡町の七夕は、6日までのようだ。雅楽の館の少し先にある千本格子の家の前に、町の特産品「菅笠」の菅が天日干しされていた。ここ、中学の同級生の家かな? |
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↓福岡町の七夕飾り。→菅の天日干し。 |
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炎天下を自転車で走って、高岡に到着。先ずは春に御車山祭の宵祭で行なわれた「二番町の神迎え」を撮影させていただいた関野神社へ、その時の様子を纏めたフォトブックを奉納に。宮司さんにお渡ししたところ、お返しに奥能登の方で信仰されているあえのことの小冊子をいただいた。 関野神社の参道にも笹竹が両脇に立てられ、願い事を書いた短冊が下がっている。昨年から始めたそうで、8日には境内で七夕のお焚き上げも行なわれるそうだ。 |
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↑関野神社と「あえのこと」の冊子。 |
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関野神社から駅前大通りの七夕を見て、御旅屋通り、高岡大仏、射水神社と自転車でまわるが、どこも七夕が飾られており沢山の短冊が下がっている。高岡だけで何万、何十万もの願い事が書かれているだろうから、お願いされる神様も大変だろう。 お腹が空いたので、駅地下で開催している昔の高岡ステーションビルの写真を展示した写真展を見てから、駅ビル2階にある今庄できつねチャンポンを食べる。ゆっくり食べて外に出ると、そろそろ七夕の提灯に灯りがつき始めた。また駅前の大通りを七夕を撮影しながら歩く。御旅屋通りの入り口では、ライヴが始まっていた。大和の前にとめていた自転車に乗って駅前まで戻り、駐輪場に自転車をとめておく。 |
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昔は七夕飾りの数が多くて、もっと綺麗だったそうだ。高校の通学路だったので見ているはずなんだが、その頃は他の事に夢中であまり七夕の記憶がない(笑)。 | ||
すっかり日が暮れたので駅前の駐輪場にとめた自転車を取りに行き、家へと帰る。しばらく走っていると背後から”ドーン”という音と共に花火が上がった。自転車を漕ぎながら、音が鳴ると時々後ろを振り返って花火を見る。ずいぶん離れた西高岡の辺りでも、花火の上がっているのを確認できた。 | ||
今日、富山が梅雨明けした。高岡の最高気温は29℃だったそうだが、乾いた冷たい風が吹いていたのでトタン屋根の下の部屋でも快適に過ごせた。 | ||
上の写真はちょうど6年前。2011年8月2日の、奄美大島・名瀬。行ったことはないが、何となく西海岸という言葉からイメージするのは、こんな景色だったりする。ちなみに写真の右手の先に山があり、その中腹に『カリフォルニア』という名のホテルがある。名瀬に到着した日に泊った。まだ梅雨の時期で宿泊客は他に居らず、階下のレストランも閉まっていて夕飯を買いに近くのダイエーまで行くのに、従業員が車で送ってくれた。 |
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小川銀次さんが亡くなって、今日で2年。なんだか月日の流れるのは早いな。写真は1979年頃だろうか。埼玉県の本庄にあったスタジオDIGでクロスウインドが合宿した時のもの。2ndアルバム『CROSSWIND 2』のレコーディングのための合宿だったかな?バンドの練習の後、透さんのドラムを借りて銀次さんに遊んでもらっているところ。誰が撮ってくれたんだろう、ミキサーの大関さん?それともスタジオのオーナーかな?銀次さんが持っているギターは、グレコに特注したアレンビックモデル。 今年の2月11日に撮影した、氷見市小杉地区で行なわれている起舟祭の様子をPhoto Albumにしました。こちら。 |
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↑神事の後、直径約50センチの大杯に注いだお神酒を参列者がまわし呑みする。 |
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7月へ |