HOME TOP  
バックナンバー
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能

8月1日(火)〜7日(月) 高岡七夕まつり
8月6日(日) 魚津・せり込み蝶六踊り街流し 割引きっぷ
8月6日(日)? 本法寺の曼荼羅絵図風入れ法要 記事 コミュニティーバス 時刻表
8月6日(日)、7日(月) 魚津 上村木七夕祭
8月7日(月) 黒部市尾山の七夕流し 記事
8月9日、10日 守山町の西の宮祭 関野神社
8月13日(日) 芦峅寺 オショウライ
8月13日(日) ふるさと観光上市まつり花火大会・おしょうらい
8月14日(月) 黒部市朴谷の獅子舞
8月15日(火) 立山町 米道踊り 18時30分〜
8月16日? 千保川の灯籠流し 記事
8月19日、20日 通町の布袋祭 高岡関野神社 18時30分頃
8月24日(木) 小矢部・大念寺の地蔵盆 19時30分〜お勤めとご詠歌?
8月26日(土) 入善町・吉原神社 恵比須祭り *例年は午後1時半に神社を出発
8月26日(土) 黒河夜高祭*17時半に各町内を出発し18時半に黒河コミュニティーセンターに集合し、20時半頃まで。
8月第4日曜日 瑞龍寺 薪能
9月2日? 善徳寺 一心講(ちょんがれ踊り) 記事 記事
9月2日(土) 小矢部・太田神社 願念坊踊り
9月6日(水) 富山・草島神明社 奴ぶり
9月10日(日) 櫛田神社秋季例大祭 巡行13:00〜 火渡り18:00頃
9月13日(水) 前田利長公顕彰祭 墓所の一般公開 高岡古城公園「石碑」の除幕式
9月20日(水)? 福岡町赤丸・浅井神社 獅子舞と乙女の舞
9月22日? 高岡大仏まつり お身拭い
9月23日(土)? 海老江曳山まつり
9月23日(土)、24日(日) 五箇山麦屋まつり
9月24日(日) 布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ) 記事
9月30日(土) 高瀬神社 観月祭 出雲大社「大土地神楽」奉納
10月6日(金) 六渡寺の獅子舞
10月 愛本新用水天満宮松明祭
10月 入善町 墓ノ木タイマツ祭り
10月 氷見市谷屋 ふなとかめ
10月21日 宇奈月町下立の獅子舞 映像
10月25日(水)? 伊勢玉神社 柿天神 記事
11月20日 氷見市小杉の恵比寿祭
12月27日(水) 福野 歳の大市


朴谷の獅子舞 1月2日
小川寺の獅子舞 宮田・火祭り1月第4日曜日 記事 記事
◯お鍬さま 1月11日 記事記事
◯与四兵衛祭 関野神社 4月3日
◯4月 埴生護国神社 屋根の葺き替え完成の慶賀祭を予定
◯4月第2土曜?10時〜 小矢部 福町神明宮 春福まつり 神獅子(行道獅子)
◯4月15日に近い土曜日? 楡原の獅子舞
◯4月19日 新川神社 春祭り どべ(猿田彦) 記事
◯4月第4日曜日? 富山市中島の獅子舞
利屋町の天神祭り 5月25日前後の土・日曜日 関野神社から木像天神像が運ばれ、龍雲寺へ。
◯射水市三ヶの十社大神 御田植祭
◯6月? 櫟原神社春季例大祭 宵祭に鯛行燈(ヤサコ)や高張提灯の行列が渡る。
◯7年に1度、10月に開催 次は2022年 朝日町山崎 米吊り奉納
◯黒部市中陣のニブ流し
◯高岡大仏まつり
◯下タ北部地区 正月の繭玉作り
◯5年に一度、若手神職でつくる県神道青年会が御田植祭

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事
富山の祭り
年中行事覚書 柳田国男
田の神祭りに見る日本人の神意識

◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

8月31日(木)

 今日で8月も終わり。なんだか祭りの撮影で忙しい夏だった。日中は青空も出て良いお天気だったが、随分と風が冷たくて半袖に短パンでは寒くなってきた。夏が終わってしまうのは寂しいが、季節的には一番過ごし易い時期になる。

 一昨日の早朝、北朝鮮が発射したミサイルが日本の550キロ上空にある宇宙空間を通過して、襟裳岬の東1,180キロという日本の排他的経済水域の遥か向こうの地点に落下した。これを総理は「我が国に北朝鮮が弾道ミサイルを発射」と発言し、「これまでにない深刻かつ重大な脅威」と記者会見で述べている。どの部分が深刻で重大なのだろうか。
 北朝鮮の日本への脅威なら、もう10年以上も前から始まっており、それは当時から深刻なものだった。既に準中距離弾道ミサイルのノドンは日本に向けられており、向けられた日本海側にはズラリと原発が建ち並んでいる。2014年3月26日には、実際に日本海に向けて2発、発射されている。
 アメリカを威嚇し牽制するために日本の遥か上空の宇宙空間を通過して排他的経済水域の向こうに落ちるミサイルよりも、日本を射程圏内とするノドンの方が脅威であり、そこに原発が建ち並んでいる事のほうが深刻な問題だろう。
「国民の生命を守るために万全の態勢を取ってきた」と話すが、原発がミサイル攻撃されたら?という質問に、政府が明確な答えを出したのを見た事がない。軍事ブロガー氏が以前、原発の主要部コンクリート壁は航空機が突入した程度なら耐えられると発言しているが、彼は福島第一の過酷事故の引き金が外部電源だった事をもう忘れたのだろうか?

ミサイルの飛行ルートと地球
←わかり易いイラストがあったので、お借りします。
 北朝鮮がミサイルを発射した直後から、ネット上で「なぜ撃ち落とさないんだ」「次は撃ち落とせ」といった書き込みをたくさん見たが、国際宇宙ステーションより遥か上空を飛んで行くミサイルを撃ち落とせる迎撃システムなんてないだろう。
 ミリタリー系のサイトにはイージズ艦のSM-3で射程距離は500kmとなっている。PAC3に至っては20kmほどでしかない。
 また、仮に撃ち落としたら、日本の方が先制攻撃をしたと見なされるのではないだろうか?

 29日の午前6時5分頃、ミサイル警報音に気を取られたトラックの運転手がトレーラーにぶつかる事故を起した。テレビのワイドショーではミサイルの落下した地点は漁場で漁船がたくさんいたとスケールを無視したイラストで説明していたが、北のミサイルが漁船や飛行機に当る確率よりも、Jアラートに驚いた運転手が事故を起こす確率の方が遥かに高いだろうと思う。
 総理が「政府としては発射直後からミサイルの動きを完全に把握している」と語り、小野寺防衛大臣が「日本に飛来する可能性がないと判断」したのなら、今回Jアラートは本当に必要だったのだろうか?落下物などの不測の事態に備えてというなら、原発の上に落ちる事もあるわけだから、原発の付近になぜPAC3を配備しないのか。矛盾だらけの対応と言うしかない。
 実際にJアラートが鳴っても、津波の警報と違って対処できることは、それほどないだろう。ところで、北朝鮮のノドンが実際に原発を破壊したら、政府は今回のようにJアラートを鳴らすだろうか。本当に必要な時には鳴らない気もする。
 2012年12月11日、まだ那覇に住んでいた時に北朝鮮のロケットと称する飛翔体が沖縄本島の上空を通過して行った。その時に書いたメモがある。頻繁に注意を促すエリアメールが届いたが、8階にある部屋の窓からポカンと空を見上げるくらいしかできることはなかった。以下が、その時のメモ。

 朝、緊急を知らせるメールの着信音。那覇市からのエリアメールだった。この後、30分程の間に那覇市・浦添市から交互にエリアメールが届く。
9:59 発射情報 こちらは那覇市です。北朝鮮より飛翔体が発射された模様です。テレビ・ラジオの情報に注意してください。(那覇市)
10:00 北朝鮮ミサイル発射情報 発射情報。さきほど、北朝鮮からミサイルが発射された模様です。(浦添市)
10:03 通過情報 こちらは那覇市です。北朝鮮からの飛翔体は、沖縄本島地方上空を通過した模様です。引き続き、テレビ・ラジオの情報に注意してください。(那覇市)
10:04 北朝鮮ミサイル発射情報 通過情報。さきほど、沖縄県上空をミサイルが通過した模様です。(浦添市)
10:30 ミサイル発射情報 こちらは那覇市です。北朝鮮からの飛翔体は、フィリピン東の太平洋に落下した模様です。引き続き、テレビ・ラジオの情報に注意してください。(那覇市)
 今日打ち上げられた飛翔体(那覇市)は、地球周回軌道に乗ったということなので、今の時点ではミサイルではなくロケットと表記するべきなのか?ラジオイランのニュースによれば、衛星「光明星」3号は、現地時間で12日の午前9時51分に、北朝鮮のソヘ衛星発射場から打ち上げられ、長距離ロケット銀河3号により地球周回軌道に乗せられました、となっている。光明星3号、銀河3号という名前があるのを初めて知った。
 沖縄についてはモノレールを一時停止したが、県内に被害はないとしている。
  今日一日TVのニュース番組はこの話題を大きく取り上げ、今後北朝鮮の核開発、核弾頭搭載を心配する声が聞かれる。ところで今月7日にアメリカが臨界前核実験を行なったと言うニュースは、どれだけ伝えられただろうか。

 お盆休みと北朝鮮のミサイルで、森友、加計学園問題、自衛隊日報問題がすっかり隅にやられてしまったけれど、問題は何も解決していないし忘れてはいけない。
財務省側が森友学園に便宜の揺るぎない証拠。大阪地検特捜部は近畿財務局を強制捜索すべき

8月27日(日)

 快晴。最高気温は28℃くらいまで上がったが、乾いた冷たい風が吹いていたので過ごし易い一日だった。もう秋の空気だなと思っていたら、隣りの田んぼの稲刈りが始まった。部屋の窓から見ていたが、あっという間に刈り取ってしまった。
 夜になると、どこかの神社で練習しているのだろうか、獅子舞らしき太鼓の音が聴こえて来た。
隣りの田んぼの稲刈り
 昨日は入善町吉原地区の恵比須祭りと、射水市黒河地区の夜高祭を撮影に行って来た。こちらの様子も後々UPいたします。
吉原神社の恵比須祭り
↑木遣りを歌いながらご神体を乗せた長さ5m、重さ400kgの舟を担いで地区をまわる吉原の恵比須祭り。青い空に白の帆が美しい。↓夕方、各地区の夜高屋台がコミュニティーセンターに集合する黒河の夜高祭。昨日は空が激しく焼けた。
黒河夜高祭

8月26日(土)

 朝起きて最初に飛び込んで来たのが、北朝鮮による日本海への短距離弾道ミサイル3発の発射だった。

 今日は入善町吉原地区の恵比須祭りと、射水市黒川地区の夜高祭がある。2つとも見ようと思っていたので、前日にあいの風とやま鉄道の一日フリー切符を購入しておいた。
 恵比須祭りの方は13時半に神社を出発して地区を巡行すると聞いていたので、 自転車を輪行して最寄り駅である西入善に11時57分に到着。自転車を組み立て、地図を見ながら吉原神社に向かう。迷わず走れたので20分ほどで着いた。
 拝殿に行くと祭りの実行委員会の方々がいらしたので、ご挨拶して撮影の許可をいただく。大漁と航海安全を祈願して、嘗ては2日間かけてご神体を乗せた屋形船が地区をまわったそうだが、近年は祝い花をうって屋形船を呼ぶ個人のお宅がないので公民館を中心に一日でまわってしまうそうだ。
 今年の恵比須祭りの進行表を、複写させてもらった。
8月26日(土)
午前11時30分 神社で恵比須祭り祭典、玉串奉奠神事
午後12時10分 柳原公民館でお祓い 
午後1時00分 屋形船へのお祓い(実行委員会出席)
午後1時30分 屋形船 神社お発ち
午後1時50分 恵比須とんの浜に到着(総代は お祓い酒持参)
午後2時10分 (有)目合又大謀網に到着
午後3時25分 1区公民館に到着
午後4時40分 2区公民館に到着
午後6時00分 3区公民館に到着(夕食)
午後8時00分 屋形船 火渡り神社入り 神事お祓い

8月27日(日) 
午前8時00分 神殿開放(総代表)
午後3時00分 総代全員神社集合 後方付け お賽銭開 お祓い米集計 直会

↓→祭礼の幟が揚げられた、吉原神社。
吉原恵比須祭り02
吉原恵比須祭り01
吉原恵比須祭り03
↑倉庫から屋形船を運び出して帆を取り付け、船のまわりに白い波を描いた幕を張り、紙垂を付ける。船の長さは5m、重さは400kg。北前船をかたどったそうだ。
↓→飾り付けられ準備が整った屋形船が、拝殿の前に置かれる。
吉原恵比須祭り05
吉原恵比須祭り04
 恵比須祭りの神事は午前11時30分に既に済まされており、13時からは地区を巡行する屋形船のお祓いが行われた。神事を司るのは、今年の4月に同じ入善町の芦崎地区のえびす祭りでもお会いした生地の新治神社の宮司さんだった。
↓吉原神社の拝殿。→屋形船をお祓いする宮司さん。
吉原恵比須祭り07
吉原恵比須祭り06
吉原恵比須祭り08
 修祓が行われた後、事前に用意し祭壇に置かれていた榊に紙垂を付けた神籬(ひもろぎ)を両手で持って、宮司さんが拝殿前に置かれた屋形船の前まで駆け足で進む。その間、拝殿の周囲に青年団が並んで立ち、拝殿の戸を激しく手で叩く。これも荒ぶれた事を神様が好むということからだろうか?
 宮司さんが神籬を屋形船の神殿に納めた後、船にお神酒がかけられた。
吉原恵比須祭り09
吉原恵比須祭り10
↑屋形船に乗っている神殿に神籬を納める宮司さん(左)、屋形船の幕にお神酒をかける青年団の団長。
↓木遣りを歌う担ぎ手。→社を一周した後、鳥居を出る屋形船。
吉原恵比須祭り12
吉原恵比須祭り11
 お祓いが終わり、ご神体(神籬)が屋形船に祀られると担ぎ手の青年団員が船の下にしゃがみ、木遣りを歌う。そして船を持ち上げると先ずは社を一周し、その後、鳥居を潜って地区の巡行が始められた。
吉原恵比須祭り13
吉原恵比須祭り14
 鳥居を出た屋形船は快晴の青空の下、とんの浜に向かった。巡行中も、道を左右に大きくふれながら担ぎ手は木遣りを歌っている。
 鳥居を出て10分ほどで、とんの浜に着いた。半漁半農だった吉原の漁師は船を砂浜に上げていたそうだが、もう浜はなくテトラポットが置かれている。現在は魚津市の経田の方に船を置いているそうだ。

 とんの浜でも宮司さんによる修祓、祝詞奏上が行われた。そして担ぎ手が木遣りを歌い、船を担ぎ上げる。町の無形文化財になっているこの吉原木遣りの歌詞を書いた紙を複写させてもらった。

一、柱起し歌(その一)屋形船がお宮をでるときに歌う
ドットコセドーットコセ フンエー
ホォーラーヨイヤサー エーエーヨイヤナー
ドナタ様もヨーイヤサー エーエーヨイヤナー
お頼みまするがヨーイヤサー エーエーヨイヤナー
ヨーオオエトウナー
ホーラエーサン 一の間天照オ ヤーエ
ヨー一の間天照 皇大神宮 ヨーオオエトウナー
ホーラエーサン 二の間春日のオ ヤーエ
ヨー二の間春日の 大名神 ヨーオオエトウナー
ホーラエーサン 三の間八幡のオ ヤーエ
ヨー三の間八幡の 大ボサツ ヨーオオエトウナー

二、柱起し歌(その二)氏家で御迎幸になり次の家へ出発するときに歌う 
ドットコセドーットコセ
ヨーオオエトウナー
ホーラエーサン みよしは波切 ヤーエ
ヨーみよしは波切り 不動様 ヨーオオエトウナー
ホーラエーサン 柱は大杉 ヤーエ
ヨー柱は大杉 黄金のせみよ ヨーオオエトウナー
ホーラエーサン 帆は法華経の ヤーエ
ヨー帆は法華経の 八の巻 ヨーオオエトウナー

ドットコセドーットコセ
ヨーオオエトウナー
ホーラエーサン 今日は吉日 ヤーエ
ヨー今日は吉日 日がらも良いね ヨーオオエトウナー
ホーラエーサン 屋形に宝来 ヤーエ
ヨー屋形に宝来 鶴と亀との舞い遊び ヨーオオエトウナー
ホーラエーサン 花を見たくば ヤーエ
ヨー花を見たくば吉野にござれ 今日は吉野の花盛り ヨーオオエトウナー

 また、道中に歌う木遣りもある。

ホラホーサノサ エンヤラホーエンヤ
今日はこぼりじゃ あいの風あ凪(な)いだよ エンヤラホーエンヤ
甚平のばあさん 下汐たのむぞ エンヤラホーエンヤ
胸板黒金 腕(かいな)にゃ筋金 エンヤラホーエンヤ
鰤なら黄金じゃ ススキは幸だよ エンヤラホーエンヤ
福来魚やタカラじゃ 大敷やだいばじゃ エンヤラホーエンヤ
あねこも出て見よ 大漁旗なびくよ エンヤラホーエンヤ
 

木遣の名所 屋形が名物 エンヤラホーエンヤ
黄金のお米の 稲穂がぞよめく エンヤラホーエンヤ
秋風そよふけ 豊年満作 エンヤラホーエンヤ
屋形のおふねは 千石積みだよ エンヤラホーエンヤ
千石積んだる 黄金のお米は エンヤラホーエンヤ
恵比須がみよしに 大黒ともべに エンヤラホーエンヤ
金比羅帆を上げ 出船じゃ追風(おいて)じゃ エンヤラホーエンヤ

丸いもんな 太鼓の胴じゃ エンヤラホーエンヤ
若いときゃ二度ない 三度はなおない エンヤラホーエンヤ
三百とられて カイかく勢がない エンヤラホーエンヤ
三百おきまり 四百もやらしゃんせ エンヤラホーエンヤ
負けるときゃ負けても 勝ときゃ又ある エンヤラホーエンヤ 

吉原恵比須祭り15
吉原恵比須祭り16

↑とんの浜から海岸沿いの道を少し歩いて、(有)目合又大謀網に。建物の前でグルグルと3回ほど船をまわした後、持ち上げて船を揺さぶる。そして、ここで白い帆が外された。

←屋形船に向かい、宮司さんによる神事が執り行われる。

↓神事の後は、子供と青年団による「花笠音頭」「ソーラン節」「よさこい」「新川古代神」「恋ダンス」「八木節」の奉納。 

吉原恵比須祭り17
 民謡などが奉納されている間に、青年団や子供たち、見学に来た近所の方にもスイカが配られて、少し休憩。演目と演目の間に、花(祝儀)の披露も行われた。
吉原恵比須祭り18
吉原恵比須祭り19
 (有)目合又大謀網での奉納芸が終わると、子供たちが道具を積んだ2台のリヤカーを引いて次の祭場となる1区の公民館へと向かう。
 少し時間を置いて、屋形船も1区の公民館へと巡行する。船は道幅いっぱいに、左右にクネクネしながら進むので時間がかかる。芦崎のえびす祭りでは、一軒一軒で花を貰いその度に担いでいた屋形船を下ろす。どちらにしても、担ぎ手は大変だ。
吉原恵比須祭り20

 15時20分頃に、屋形船は1区の公民館に到着。先ずは敷地でグルグルと船を3回ほど回転させ、そして持ち上げて揺らしてから祭壇の正面に下ろした。これから神事が行われ、また奉納芸が始まるが、今日は夕方から始まる射水市黒河地区の夜高祭に行くので自転車を置いて来た吉原神社へ寄って、西入善駅へと向かう。
 吉原の恵比須祭りは、この後2区、3区の公民館をまわり、20時に吉原神社へ入る。この時、鳥居の両側に藁で篝火が焚かれ、その間を屋形船を担いだ青年たちが通り抜けて行く。そして拝殿の前で船を回転させ、持ち上げて揺らした後、一気に船を担いで拝殿へ駆け上がり、船を入れられるだけ中に突っ込むそうだ。機会があれば、こちらも見てみたい。

*9月5日に追加
 下新川郡入善町吉原地区では、大正三年(一九一四)に各神社が神明社に吸収された。これが現在の吉原神社である。ここでは、八月三十一日にエビス祭りが催される。江戸末期に同地区の八幡吉右衛門という人が屋形船を神社に寄進した。この船は、千石船の小型で、長さは約四メートルである。
 祭礼の日には、装飾したエビスの神をこの船にのせ、木遣音頭に合わせて青年たちがかつぎながら地区内の家々を回る。
 青年たちは、手拭で鉢巻きをし、法被に草鞋ばき姿である。
 青年たちの行列は、拍子木を打つ人を先頭に尺八、太鼓の囃子に合わせて進む。行列には、女性や子供たちも加わり、吉原木遣節、入善音頭、越中おわら踊りなどを披露しながら地区内を練り、夜は同地区の光明寺の境内で踊りがくりひろげられる。
 翌日も、若衆は屋形船をかついで地区内を回る。いわば、ご巡幸である。
 青年たちにかつがれた屋形船が、いよいよ神社の鳥居に向かってくると、宮総代が稲わらに火をつけて、鳥居をくぐる火渡りの儀式をし、それから船は神社に入る。ついで、神官が船を受けて神殿に納める。その時、屋形船をかついできた青年たちが、いっせいに神社の戸や板壁をたたく。これは、エビス神に豊漁を祈るためであり、新湊市・西宮神社(祭神はエビス)で不漁の年の四月二十日に催されるボンボコ祭りと類似している。

『とやまの民俗芸能』(北日本新聞社)エビス祭りより

黒河夜高祭01
 西入善駅で自転車をたたみ、16時28分の富山行きに乗車。富山駅で乗り換えて小杉駅に17時29分に着いた。小杉駅で自転車を組み立て、黒河コミュニティーセンターへ向かう。プリントアウトしてきた地図を見ながら走ったが、20分ほどだったろうか。
 センターには田楽行燈を持った子供を先頭に、各地区の行燈屋台(山車)が集まってきた。会場の一角にはかき氷コーナーがあり、無料で振る舞われていた。
黒河夜高祭02
黒河夜高祭03

 黒河夜高祭の進行表と由来などを記した資料があったので、一部いただいた。次第は以下の通り。

☆集合 各町内場所よりスタートし、18時30分までに黒河コミュニティーセンター広場に集合します。山車の位置、配列は後日連絡いたします。
☆式典 開式、来賓挨拶:18時50分より
☆歌の森太鼓 歌の森小学校太鼓クラブ:19時05分〜25分頃

☆寸劇 『岩見重太郎のヒヒ退治』:19時30分〜55分頃
☆夜高行燈行列:20時00分頃スタート
・コミュニティーセンター広場を町内会ごとに分かれて出発します。1区、5区、6区、東太閤山は黒河神社方面へ、2区、3区、4区は西養寺方面に向かいます。
・黒河神社では、町内会ごとに拝殿まで行き、町内会長を中心に全員で拝礼します。(一部工事中のため、無理をせず、入れる所で行います。)
・西養寺では、町内会ごとに鐘楼の下に行き、町内会長と6年生の代表が、礼式に従い梵鐘を叩きます。その後、全員が本堂前で礼拝します。
・神社・西養寺の神事、仏事が終わった町内より各町内へ戻っていきます。

 実行委員会の方に聞いたところ、昨年までは行燈行列の後に広場で式典を行っていたそうだが、それだと子供たちが式典の時に眠くなるので先に式典を開始する事にしたそうだ。また、地区を練り歩くだけの行燈行列ではなく、今年から黒河神社と西養寺を参拝する神事・仏事を復活させたということだった。

黒河夜高祭04
上段左:竹に切り込みを入れて透過光でヒヒ退治の場面を再現したオブジェ/上段右:開会のご挨拶/中段左:歌の森太鼓/中段右・下段左右:寸劇『岩見重太郎のヒヒ退治』
黒河夜高祭05
 小学生による寸劇が終わり、20時頃より行燈行列がスタートした。広場に設けられた行燈のアーチがあるゲートを出て順番に神社、お寺へと歩く。
 東太閤山、5区、6区、1区は黒河神社を参拝した後に西養寺へ。4区、2区、3区は西養寺を参拝した後に黒河神社へ。そしてそれぞれの地区に帰って行く。
 広場から黒河神社へと向かう5区の行燈行列に着いて行った。
↑広場を一周してから行燈のアーチを潜り、大きな声で「チョーサイタニワカ ゴモンザイタニワカ サンモンザケニヨータヨータ」と囃子唄を歌いながら地区を練り歩く。
黒河夜高祭06
↑黒河神社の鳥居の前で行燈を置き、竹灯籠が並べられた参道を通り参拝をする。
黒河夜高祭07
↑黒河神社から西養寺へは、1区の子供たちの行燈行列に着いて歩いた。
↓行燈が並ぶ境内を進み、本堂の前で礼拝する子供たち。そして地区の代表者が鐘をつく。
黒河夜高祭08

 1区の子供たちが西養寺の参拝を終えたのは21時近かった。お寺の山門の前に置いておいた行燈を再び持ち、囃子唄を歌いながら地区へ戻って行った。
 自転車を取りに黒河コミュニティーセンターに戻り、小杉駅まで走る。お腹が空いたので、駅前のコンビニでおにぎり1つと肉まんを1つ買って食べる。昼間は日差しが強かったけれど、夕方からはからっとしていて、もう秋の空気に入れ替わったようだ。
 小杉駅を21時56分発の電車で、家に帰る。

 ところで黒河夜高祭の由来がよくわからない。Wikipediaや観光案内のサイトには岩見重太郎のヒヒ退治伝説にちなんでと書かれているが、どう関わっているのかもわからない。実行委員会の方にいただいた資料の中にある、史実と思われる箇所を抜き出してまとめてみた。
 黒河の夜高(昔はヨータカと呼ばれていた)が興ったのは江戸時代の文化12年(1815)字竹山の加茂社の本殿の建て替えがなされ、その遷宮のお祝いに5月5日の夜、村の子供達が夜高をしたのが起源で、以降毎年続けられてきた。当時は加茂社と西養寺の間を3回まわっていたと伝えられている。尚、字竹山にあった加茂社は明治5年11月15日に星丸にあった神明社とともに現在の黒河神社に合祀された。また、黒河神社も当初は神明社と称したが昭和4年2月21日黒河神社と改称された。
 戦争で一時中断されたが昭和40年頃までは児童会の子供たちが中心になり黒河神社の春の宵祭に行なわれ、行燈を持って神社に集合して大行燈を先頭に神殿と西養寺の鐘楼の間を「チョーサイタニワカ ゴモンザイタニワカ サンモンサケニヨータヨータ」と囃しながら豊作と一年の平和、無病息災を願って3回まわっていた。
 昭和48年、 衰退しつつあったヨータカを黒河商盛会が地域活性化の核に考えて復活と存続に取り組み行燈の材料を学校や子供たちに提供、ヨータカを夜高と改めてこの年の4月8日に盛大に行った。
 昭和49年には夜高奉賛実行委員会が組織され、4月上旬は天候が不順であり大人も楽しめるようにと、8月23日の地蔵盆の夜に行う事になる。ここまでが史実だろう。そうすると黒河の夜高は田んぼに田の神を迎えて豊作を祈る田祭りとしての砺波や津沢の夜高よりは、伊勢神宮からの分霊を迎えるための行燈行列が始まりの福野の夜高祭に近いように思う。
  岩見重太郎のヒヒ退治伝説との関わりについては、<岩見重太郎が諸国を廻っての修行の途中、富山の地に来た時に病気に罹り、栗崎道庵の治療を受け全治しました。その時、黒河の黒田家の一人娘の千代が人身御供になることを聞き、「それでは身代わりになって化け物を退治してやろう」と黒河にやってきました。重太郎は竹山の加茂社で人身御供の長持に入り、待っていると、なるほど、夜になると恐ろしいヒヒが出てきて娘を食べようとしました。重太郎は長持の中から飛び出し、ヒヒと戦い、とうとう退治しました。村ではこの出来事を言い伝え、さらに、村の子供らが夜高行灯で竹山に行くのは人身御供の娘を神前へ送る風習の名残りだとしている>と記されている。日本全国にある岩見重太郎のヒヒ退治の伝説が黒河にもあり、これを講談師が流布したのだろう。資料には<黒河の場合、夜高に岩見重太郎伝説が入って来て展開したわけですが、直接的には夜高と岩見重太郎伝説とは本来別ものです>とも記されている。
 夜高祭りの成り立ちを考えるとき、俄と囃子唄の意味を是非解明する必要があります、とも書かれている。囃子唄とは行燈行列の際に子供たちが大きな声で歌っていた「 チョーサイタニワカ ゴモンザイタニワカ サンモンザケニヨータヨータ」で、意味は「面白く、楽しい俄だ、今即興に思い出したニワカを演じて、少しばかり酒に酔うて、快く楽しんでいるところだ」だそうだ。資料には俄とは何かなどが記されているが、何度読んでもこれが黒河夜高祭とどうして関わったのかがわからない。 

*『とやまの民俗芸能』(北日本新聞社)にも黒河夜高祭の記述がある。
 射水郡にも広くみられた風習だそうだが、いまでは同郡小杉町黒河地区の神明社(『正徳社号帳』には加茂社とある)の夜高祭りが存続しているにすぎない。もとは、春祭りの前夜(四月五日だったが、昭和五十年(一九七五)からは、八月二十三日に実施)、子供たちが夜高行燈を手に持って神社に集まり
チョーサイタ ニワカ ゴモンサイタ ニワカ サンモン酒ニ ヨータ ヨータ
と歌いながら神社から地区内の寺院まで三回まわって歩く行事であった。この祭りの起源を岩見重太郎(桃山時代の伝説的豪傑)のヒヒ退治の伝説に求めているが、これは後代に付加されたものである。
 同型の祭りに、滑川市西町、雪嶋神社( 旧山王社)のニワカ(俄、仁輪加)がある。この祭りは、ヤサコ(小さな物の意)と呼ばれるもので、五月第二の申の日に催されていたが、六月七日にかわり、さらに今は五月二十二日夜に催されている。
 最初のころは、子供たちが五、六人一組となって一つの行燈をつくり、それをかついで町の中をねり歩いたものだが、次第にいろいろの趣行をこらしたものが作られるようになり、リヤカーなどにのせて引きまわす大きな行燈もみられる。ヤサコは同市の櫟原神社でも催される。

(夜高祭りとタテモン祭りより)
 また、ニワカについては同書の(八尾の風の盆)に以下の記述がある。
  同町の伝承によると、現在みられるような越中おわら節や越中おわら踊りの町流しが盛んになる以前は、九月一日に町の男衆が、いろいろな服装で俄芝居を演じ、大勢の見物人で賑わったそうである。
 ニワカは即興の芸で、風刺、しゃれ、こっけいさが本義とされており、今日流にいえば、ニュースや社会時評なども盛り込んでアピールし、大衆の共感を呼んだのである。町内の家々では、九月一日に赤飯やウドン、オハギを作って食べ、墓参りをする人もいた。越中おわら踊りが栄えてから、このニワカは廃止されたといわれる。
 ニワカは、越中(富山県)でも江戸期にかなり流行しており、風の盆のニワカも、悪霊としての風を鎮める意味から演じられたのである。おわら踊りも、元は風の悪霊を祓い鎮めるために行われたと考えられる。

(八尾の風の盆より)

8月25日(金)

 雷の音と、屋根に叩き付ける激しい雨の音で目が覚めた。富山県で1時間に約110mmの猛烈な雨が降ったようだ。
 昨日は小矢部の大念寺の地蔵盆を撮影に行ったが、途中にあるアウトレットパークに寄ってテナントで入っているJ!NSで新しいメガネを作った。
 今まで使っていたメガネは奄美から沖縄に引っ越した時に県庁前のリウボウに入っていたJ!NSで購入したもので、もう5年使っていた事になる。最近右のレンズのコーティングが部分的に剥げてきて、そこだけボヤけるので違和感がある。早く新しいメガネを作ろうと思っていたが、時間がなくて昨日になった。
 小矢部川の堤防を自転車で走ってアウトレットパークへ。2階にある店舗へ行き視力を測定してもらう。そしてフレームのチョイス。セールでどの商品も3900円+消費税。今まで小さいフレームだったので、今回は気持ち大きいフレームに。30分ほどで出来るというので、アウトレットモールの中を散歩して時間を潰してから受け取りに行った。その商品が、下の写真。せっかくなので、ストロボの可動チェックを兼ねて部屋で撮影してみた。
新しいメガネ01
新しいメガネ02
↑これが昨日購入した新しいメガネ。メガネケースにクロス、クリーニングペーパーも付いて4,212円。メガネも安くなったと思う。半年以内なら見え方に不具合があればレンズを交換してくれるようだ。
←ただ、このメガネ、なんか端っこに違和感があると思ったらレンズがフレームに収まっていない。サイドが曲線になっているフレームを選んだのだが、こんなのありだろうか???
 アウトレットモールでメガネを作ってから、自転車で石動へ。大念寺に行くと、丁度住職の方が門の前に出て来られたので19時半からの地蔵盆の様子を撮影させてもらいたい旨を伝え、許可をいただく。了解を貰ったところで、まだ時間があるので5月に天神様の絵を撮影させてもらった観音寺へ。その時に撮った絵の写真や奉納獅子舞の写真をお渡ししようと寄ったが人の気配がなかったので、石動駅の立食いうどんで天ぷら月見うどんを食べる。食べてからもう一度観音寺に行くと、寺務所に灯りがついていた。ドアを開けて声をかけると、住職の方が出て来られたので写真をお渡しする。
大念寺の地蔵盆01

 観音寺から大念寺へ。自転車だと5分もかからない。
 20年ほど前は大念寺の地蔵盆も子供が中心で行われていたそうだが、現在集まって来られるのは年配の方ばかりだ。それでも旧上新田の町内30軒ほどを、昼間、4人の子供たちがお菓子を集めにまわったそうだ。

←小矢部のアチコチに散らばっていた160体ほどのお地蔵さんが納められている、大念寺の地蔵堂。

大念寺の地蔵盆02
↑お地蔵さんの並んだ棚の下の方にある名前は、現在わかっているお地蔵さんの元の所有者。30名ほどの名前が記されている。
大念寺の地蔵盆03
↑19時半から地蔵堂で住職の読経が始まった。初めはお堂の前に椅子が並べられていたが、一瞬だが雨がパラッと降ったので椅子を軒下に移動。少し風が吹いてお線香の匂いが漂い、なんだか居心地が良い。参集されたのは14名だった。
↓読経の後は、集まった方々でご詠歌の唱和。三十三番までうたわれた。
大念寺の地蔵盆05
大念寺の地蔵盆04
大念寺の地蔵盆06

 住職の読経、ご詠歌の唱和が各30分ほどで20時半頃に地蔵盆の行事は終わった。片付けの途中、昼間に町内をまわってお菓子を集めた子供たち4人が集まってきた。町内とお地蔵さんの元の所有者の方からいただいたお菓子が子供たちに分配され、持参してきた大きな袋に詰められた。
 21時頃に大念寺を出て、自転車で家に向かう。小矢部川の堤防は真っ暗だろうから、国道を走るが、こちらも思っていたほど明るくはなかった。

 は〜、ようやく日記が追いついた(笑)。

8月21日(月)

 Facebookに沖縄の三大綱引きの一つである、与那原大綱曳きが昨日行われたという記事が流れてきた。富山では神事としての綱引きはあまり馴染みがないが、沖縄では豊年祭での奉納綱引きや、雨乞いの神事としてよく行われている。
 三大綱引きで一番大きな綱はギネスに認定されている那覇の大綱、二番目が糸満、三番目が与那原だが、一番大きな那覇の綱はもはや人力では運べずにクレーン車を使う。また、他の綱は毎年作り替えているが、那覇の綱は傷んだ所を補修して使うので毎年大きくなっているようだ。
与那原大綱曳き

 上の写真は2013年8月4日に撮影した与那原大綱曳きでのイリ(西)の雌綱。沖縄の綱引きは雌綱の輪っかに雄綱の輪っかを入れて、そこにカヌチ棒と呼ばれる大きな棒を差し込んで固定して1本の綱にする。与那原は地区をイリ(西)とアガリ(東)に分けて綱を引っぱる。
 イリ、アガリ両方の陣地から、シタク(支度=郷土の英雄や伝説上の人物に扮した青年)を乗せた大綱の行列が会場までの数百メートルを歩いて来る様は圧巻だ。ただ、綱が大きくなればなるほど、近くで見ているとほとんど動きがないので、どっちが勝ったかさえよく解らない(笑)。

 沖縄では弥勒様のことをミルクと発音する。ニライカナイから弥勒が現われて、幸せな世の中(ゆがふ=世果報)をもたらしてくれるというミルク信仰が、八重山地方を中心に広く浸透している。
 今日の琉球新報に、首里赤田町で伝統行事の「みるくウンケー」が地域の公民館・赤田クラブを中心に行われたという記事が載っていた。この行事は、みるく(弥勒)をウンケー(迎えて)地区を練り歩いた後、みるく神を舞台に祀り芸を奉納する。沖縄に行ったら撮影したいと思っていたものの一つがミルク神で、一番最初に撮影できたのがこの赤田町の「みるくウンケー」だった。
 八重山地方のミルクはお面だが、沖縄本島のミルクは首里・赤田にしろ、那覇・辻にしろ、南城市・古堅にしろ頭がすっぽり入る被りものが多いようだ。赤田のミルクには胴体もあって、胸毛もワンポイントで付いている。

 ところで、弥勒というと弥勒菩薩の端正な顔とスマートな身体をイメージし、沖縄のミルクとは似ていないようにも思うが、弥勒は布袋様の化身だとも言われている。そう言われれば沖縄のミルクは布袋様によく似ている。

赤田のみるくウンケー
↑赤田のみるくウンケーにて、スネーイ(練り歩き)に出発するみるく。2012年8月19日撮影。
 昨日、一昨日と高岡山町筋にある通町で布袋祭が行われた。山町筋では8月に各町内で夏まつりが行われ、通町は曳山の本座に飾られる布袋様から名前をとって布袋祭としている。
 祭りは町内の守り神を関野神社に迎えに行き、一晩祭宿(御旅所)にお泊りいただき、次の日の夜に関野神社にお帰りいただく。その守り神は布袋様ではなく高御産霊大神(たかみむすびのかみ)と神御産霊大神(かむみむすびのかみ)で、嘗ては通町にあった産霊社(むすびのやしろ)に祀られていた。現在は関野神社に安置され、年に一度、夏まつりの時だけ町内に鎮座する。
 御車山祭の際に本座に飾られる人形の布袋様は依り代で、鉾(心柱)から降臨して人形に依り憑く神は、この高御産霊大神(たかみむすびのかみ)と神御産霊大神(かむみむすびのかみ)だそうだ。
 山町筋の夏まつりは町によって開催日の違いがあるが、関野神社に守り神を迎えに行き、翌日に送るというスタイル(二番町は御車山の宵祭で神迎えをするので、夏まつりに神迎えはなかったようだ)で行なわれてきたが、少子高齢化などから時代と共に簡略化したり廃止になる町も出てきた。そんな中で通町は浴衣の女の子が提灯を下げ、紋付羽織袴姿の総代と唐櫃を担ぐ少年が神社に出向き、昔ながらの形を一番残しているという。
 通町の布袋祭の様子も、後々UPいたします。
通町の布袋祭
↑通町の布袋祭。一晩祭宿にお泊りいただいた神様を唐櫃に納め、神職の笛と提灯を下げた子供たちに先導されて町内を巡行した後、関根神社までお送りする。8月20日撮影。

8月20日(日)

 通町布袋祭の2日目、今日が本祭になる。19時から祭宿で神事を行った後、ご神体が町内を巡行してから関野神社にお還りになる。
布袋祭の2日目01

 18時半頃に、祭宿となっている交流館に到着。昨日はお参りしていなかったので、お賽銭を置いて参拝。
 チリンチリンと音がするので通りを見ると、浴衣の女の子が鈴を鳴らしながら歩いて町内に祭りの開始を知らせているようだ。
 そして、10分前に関野神社の禰宜、酒井さんが祭宿に到着し、神事が始まった。

布袋祭の2日目02
布袋祭2日目03
↑修祓、祝詞奏上、玉串奉奠。そして部屋の灯りが消され、祭壇の神殿から唐櫃へご神体が移される。
布袋祭2日目04
↑唐櫃に入れられ少年に担がれたご神体は、20分ほどかけて巡行した後、関野神社にお還りになった。
布袋祭2日目05
布袋祭2日目06

 拝殿の灯りが消され、唐櫃からご神体が移された後、神事が行われた。浴衣を来た小さな女の子たちもお行儀よく列席している。

 神事が終わり、歩いて交流館に戻ると既に祭壇は片付けられ、木箱に納められていた。この木箱は明日の朝、関野神社にある曳山倉庫に仕舞われるそうだ。ご挨拶をして自転車で家に帰る。通町を20時頃に出て、家に着いたのは21時少し前だったろうか。

布袋祭2日目07

8月19日(土)

 御車山祭の曳山を保有する通町、御馬出町、守山町、木舟町、小馬出町、一番街通り(一番町・三番町・源平町)、二番町、そして曳山を先導する源太夫獅子を保有する坂下町のある一帯を山町筋と呼ぶ。
 これらの町では8月になると各町内で夏祭りが開催される。関野神社に鎮座する各町の守護神を迎えに行き、町内に設けた御旅所にお泊りいただき、次に日にはまた関野神社にお送りする。この夏祭りは納涼祭も兼ねており、御旅所に安置されたご神体にお参りした後は道路に出したテーブルを囲んでお酒や料理で親睦をはかり、子供たちは花火やゲームなどのイベントを楽しむ。
 しかし、近年では少子高齢化等の時代の変化で神事が簡略化されたり、夏祭り自体が廃止になった町もある。そんな中で、比較的古くからのスタイルを継承していると言われる通町の夏祭りを撮影に行った。

通町布袋祭01
 関野神社の禰宜、酒井さんから夕方18時半頃に通町の方々が神社の方に来られると聞いていたが、祭宿(御旅所)を出て迎えに行くところから撮影したいと思い、17時半頃に自転車で通町へ。通町御車山交流館に提灯が提げられていたので中に入ると、紋付袴姿の自治会長さんが居られたので撮影の許可をいただく。

←交流館の中には祭壇が設けられていた。

 通町の夏祭りは曳山の本座人形である布袋和尚から名前をとって布袋祭となっているが、明治の初めまでは産霊社祭と呼ばれていたそうだ。この辺りの詳細は交流館のガラスケースに入った資料に書かれている。少し長いが、引用させてもらう。

 通町布袋祭は、毎年8月19日、20日に行われる夏祭りの行事である。
 現在、高岡関野神社に預かって頂いている通町の鎮守の神様は、産霊社(むすびのやしろ)に祀られる、高御産霊大神・たかみむすびのかみ、神御産霊大神・かむみむすびのかみ(通町御車山護符袋に密封されている木製の板の鎮符に記載あり)である。そのご神徳は、清く、正しく、睦まじく、お互いは生かし合い、助け合い、育て合えよと教えられている。
 明治時代初期までは、産霊社祭と呼ばれていたがその後、通町御車山本座の布袋和尚に因んで布袋祭として行われている。
 8月19日午後6時、自治会長、御車山理事、唐櫃を担ぐ子供さん2人が紋付羽織袴で正装し、子供達、町内の皆さんは提灯を持ち、神様を高岡関野神社までお迎えに出かける。神主さんの雅楽の演奏と共に町内を巡回し、祭宿にて神事を執り行う。町内は、歩行者天国とし、青年会、児童クラブ、女性部、生き生きサロン、長寿会等の行事が行われる。
 8月20日午後7時、祭宿にて神事お祓いの後、町内あげて神主さんの雅楽の演奏と共に町内を巡回し、高岡関野神社までお送りする。
 山町の夏祭は、どの山町でも行われていたが、近年は簡略化され、古いしきたりを守って祭りを継続しているのは、通町だけのようである。歴史あるお祭りなので、神事を中心として先人の教えと伝統を守り伝えていきたい。通町布袋祭は、平成20年3月に「とやまの年中行事百選」に選ばれている。

 つまり通町の人たちが関野神社に迎えに行くご神体は布袋様ではなく、嘗て通町にあった産霊社(むすびのやしろ)に祀られていた高御産霊大神(たかみむすびのかみ)と神御産霊大神(かむみむすびのかみ)。そして御車山祭の際に本座に飾られる人形の布袋様は依り代で、鉾(心柱)から降臨して人形に依り憑く神も、この高御産霊大神と神御産霊大神だそうだ。
 他の町も同様に、嘗ては町内の祠に祀られていたが現在は関野神社に預けてある守護神を、夏祭りの時だけ御旅所に迎えて神事を行っているようだ。
  『愛蔵版 暮らしの歳時記 富山編』(富山新聞社)には「高岡御車山と日本の曳山」(高岡教育委員会)を参考にした各町の夏祭り名や祭神(ご神体)、開催日、本座人形が書かれている。それによると
◯通町   布袋はん祭(祭り名)/8月20日(祭日)/産霊社(祭神)/布袋和尚(曳山の本座人形)
◯御馬出町 秋葉祭/8月23日/不動明王/佐野源佐衛門(・・・「鉢木」)
◯守山町  恵比寿さん祭/8月10日/事代主命(西の宮)/恵比寿
◯木舟町  大黒さん祭/8月10日/大国主命(大国社)/大黒天
◯小馬出町 市姫祭/8月10日/ー/猩々(・・・「猩々」)
◯一番街通 住吉祭/8月20日/住吉明神/尉と姥(・・・「高砂」)
◯二番町  ー/ー/熊野神/無し・・・(カラス←熊野権現)
 以上の内、木舟町と小馬出町は既に夏祭りを行っておらず、一番街通はご神体を迎えずに関野神社で玉串奉奠などを行っている。二番町は御車山祭の宵祭の祭に神迎えを行っているが、夏祭りはご神体を迎えずに8月下旬に納涼祭を行っていたようだが最近はないようだ。
 坂下町は、古木大神宮祭という名で8月2日に行っているそうだ。  

通町布袋祭02
↑17時50分頃、正装をした総代と唐櫃を担ぐ男の子、提灯を提げた女の子たちが列を作って祭宿から関野神社に向かう。
通町布袋祭03
↑10分ほどで神社に到着し、お祓いを受け、玉串を奉奠する。
通町布袋祭04
↑拝殿の灯りが消され、薄暗い中で神職の手によりご神体が唐櫃に納められる。
通町布袋祭05
通町布袋祭06
↑提灯を提げた浴衣の女の子と神楽(笛)を奏する神職に先導されて、袴姿の少年に担がれたご神体が町内を神幸する。

←町内を一通りまわった後、祭宿となっている交流館に入り、唐櫃から神殿へご神体が移される。通町御車山交流館が出来るまでは、自治会長の家などが祭宿に使用され、夜は祭壇の前に布団を敷いて過ごしたという。
通町布袋祭07
↑祭宿での神事には、神迎えに参加した子供たちも列席する。↓神事の後、町内の人々が順に参拝。そして納涼祭に移行する。
通町布袋祭08
 通行止めになった道路にテーブルを出して児童クラブや、青壮年、老人会と3ヶ所に分かれて親睦がはかられる。流しそうめんやヨーヨー釣りなど年によって、町によって様々なイベントも行われるようだ。今年は20時半から子供たちが花火をするという。子供たちの花火も少し気になったが、お腹も空いたし自転車なので断念して帰路に着いた。

8月17日(木)

 午後の早い時間までは、雲が多いながらも久しぶりに青空が見えた。午前中は朝からパソコン作業、午後からは少しだけプール。プールの後、一旦帰宅してから先月受診した特定健康診査の結果を聞きに行く。数値は全て範囲内で、異常認められずにチェックが付いていた。個人的には、あと5キロほど痩せたら身体が軽くなるんじゃないかと思う。
購入した本01

 先日アマゾンでポチった本が、今日で全て届いた。
 6月後半からこれまで8冊購入したが、読了したのはまだ1冊しかない。積ん読だ(汗)。

←電話帳より厚い1,014Pある『LOVE CALL 時代の肖像/坂田栄一郎』(朝日新聞出版)は89円+送料、2冊セット箱入り『愛蔵版 暮らしの歳時記ー石川編・富山編』(北國新聞社出版局)は定価21,600円が、ほぼ新品で290円+送料だった。

↓左は、『丘の夏/前田真三写真美術館』(講談社)、『世界遺産・屋久島/三好和義写真集』(小学館)、『ベトナム低空飛行/赤瀬川原平』(ビジネス社)。右は、『神々の古層 世を漕ぎ寄せるシチ・西表島/比嘉康雄』(ニライ社)、『知っておきたい日本の仏教』(エイ出版社)、『仏教入門/三枝充悳』(岩波書店)。

購入した本02
 昨日は千保川の灯籠流しで知られる、中島町の水天宮祭に行って来た。こちらの様子も、後々UPいたします。
千保川の灯籠流し
↑児童クラブの子供らの手によって千保川に流された灯籠。大正時代から続く行事。

8月16日(水)

 高岡の千保川では毎年この時期になると、灯籠流しが行われる。昨年も撮影に来ようと思ったが、確か雨が降って断念した。
 とやま観光ナビというイベントを紹介するサイトに、<有磯正八幡宮から祭神を迎え>という記載があったので、高岡市商業観光課に問い合わせて調べてもらったところ、有磯正八幡宮から御旅所となる中島町の公民館に祭神が神幸し神事が行われ、19時から灯籠流しが行われた後、再び有磯正八幡宮へ還御されるということだった。神幸される時間や還御される時間まではわからないということだったが、とりあえず早めに中島町の公民館に着くようにと16時半くらいに自転車で家を出る。

 17時半頃に千保川沿いにある中島町の公民館に到着すると、既に祭壇が設けられて有磯正八幡宮からの祭神を迎えた後だった。聞けば、午前9時頃には神社へ迎えに上がり宮司さんによる神事が行われたそうだ。祭壇には右大臣、左大臣が並びご神体は中央の祭殿に祀られている。夏の行事のように考えていたが、元々は水天宮祭という神事が始まりだった。
 地区の方が水天宮について書いた資料を見せて下さったので、カメラで複写した。少し長くなるが、解り易いので引用させていただく。

 中島町の水天宮は、明治四年の「社号祭神等書上帳」によれば、有磯神社正八幡宮神社々内鎮座(有磯神社の氏子地内)祀られてあり、鎮座された年月は不詳であるが古くより祭られたものである。(昔から川、河、湖などの地所には、水の神様である水天宮をつくり、安徳天皇、罔象女神を祀るところが数多くある。)
 中島町も名のごとく千保川にはさまれた島であったので、水天宮を祀ったのです。
 場所を特定する記録は見あたらないが、中島町西通りの柴米穀店の横、元北陸銀行中島支店倉庫(後に伊勢屋の倉庫、現在中島町アパート)の奥の方のあたりにあり、幅一尺五寸(約四十五cm)で深さ一尺の(約三十cm)の御堂に鎮座され、お祭りが執行されていた。杉の木があったと伝えられています。

 「高岡沿革史」、「高府安政録」に見られるように、中島町はたびたび水害にあい、そのうち水天宮だけに関しては、明治三十年代の水害の際(別記録では明治二十九年(一八九六)七月中旬より八月上旬の数回にわたる洪水)社殿(御堂)が流出する恐れがあったので、前もって中島町の人々が川巴良諏訪神社にご神体をあずけ、二・三日後に有磯神社々司(当時)上田郁太郎が川巴良神社にお迎えに赴き、有磯神社の本殿左座に安鎮したのである。
 それから毎年祭典を続けてきたが、数年経つと中島町有志より金屋町の御印祭のように年に一回中島町に神様をお迎えして祭典を執行したいとの声が挙がり、大正三年(一九一四)八月より、その年に中島町で家を建てた人や、中島町に移り住んだ人の家を主に御旅所と定め祭典を行い今日に至ったのである。

 水天宮の行事として行なわれる「灯籠流し」は全国至る所で行われているもので、水害でなくなった人々の霊を慰めるのと、水天宮の神である安徳天皇、罔象女神を神鎮まるようにと行われるものであります。

 要約すると中島町は水害の多い場所で、嘗ては水神である安徳天皇と罔象女神を祀った水天宮が町内にあった。ところが明治30年代の水害の際に水天宮の社が流されそうになったので、中島町の住人は川巴良諏訪神社にご神体をあずけ、その後、有磯正八幡宮に移して本殿左座に安鎮した。それから毎年有磯正八幡宮で水天宮祭を行って来たが、金屋町の御印祭のように年に一度町に神様をお迎えして神事を行いたいという住民の要望があり大正3年(1914年)から御旅所にご神体を迎えるようになったという事だろう。

 資料では中島町の水害にも触れられており、以下が記されている。
一、寛永四年(一六二七)六月千保川洪水 六月二十七日横田大橋掛直し
二、寛政七年(一七九五)八月二十八、二十九日洪水の為横田中島の両橋流失し、一時舟橋を架して往来したり。
三、天保十年(一八三九)四月二十六日千保川洪水暴瀧 人家田畑の被害頗る多かるが如し。
四、安政六年(一八五九)五月二十日前後に小矢部、千保川の諸川に大洪水あり。浸水被害多かるが如し。横田大橋危し、人家危く急速御出ナリ。
五、明治二十九年(一八九六)七月二十一日千保川洪水のため川巴良諏訪社地全部跌壊し、本殿並びに社務所流失し、また八月四日川洪水にて宝庫並びに拝殿流失せり。

↓ご神体を祀った神殿を運ぶ唐櫃。→中島公民館に設えられた祭壇。
水天宮祭02
水天宮祭01
水天宮祭03
↑公民館の入り口にはお地蔵さんも祀られており、水天宮祭と一緒に地蔵祭も行われる。玄関上部の公民館の看板中央に、「水天宮」と書かれた扁額が飾られている。
 また、祭壇に飾られた右大臣、左大臣や扁額などの祭器についても詳しく書かれている。

 公民館などに保存されている水天宮に関わる祭器は、永らいに中島町に伝えられているもので、八月十六日の水天宮祭のおりに町の方々の前に飾られている。
◯扁額「水天宮」
 たて約一尺五寸、よこ一尺の木製でトタンの縁取りがある。表に水天宮の墨書、裏に判読がやや難しいが明治二十六年八月と読める。祭当日は公民館の玄関上に掲げられる。
 明治二十九年の水害時にご神体とともに避難させた可能性が考えられる。
◯神殿
 幅三尺、奥行き二尺、高さ約二尺の神殿で、日ごろは有磯神社に鎮座されている。祭礼当日にご神体を安置して中島町に運ばれる。
 屋根の裏側に明治三十四年五月高岡市桧物屋町和泉市三郎製、寄進人荒崎太平・たつねの記載が読みとれる。
◯右大臣・左大臣
 祭礼時にご神体の両側に、二尺ほどの高さの赤色の右大臣像、黒色の左大臣像が鎮座される。像の台後ろの記載によるとこれは明治四十三年(一九一〇)八月に横田亀二郎 山本巳三次郎 近松善次郎 木津貞次郎 紺 繁 堀岡越郎 金谷栄吉 金森太一郎 大野栄八 日野源七 小杉伊吉 大野亀次郎 以上の方々により奉納されたものである。
◯鏡
 真鍮製の鏡で、裏に奉納、水天宮、大正元年八月謹製、炭谷外吉の彫り込みがされている。
◯御唐櫃
 ご神体を入れた神殿を収める木製の箱。蓋の裏に大正三年八月大野和三郎の製作により中島町有志に十三名の寄進人の記名がある。洪水後の町内での祭典再興に併せて寄進された可能性が高い。
水天宮祭04
 18時半頃、流れ具合を見るために灯籠が川に入れられる。テストのはずが随分たくさん流すので、全部で幾つくらいの灯籠があるのか尋ねたところ1万個ほどだそうだ。思っていた以上の数で驚いたが、1軒の家の製作ノルマが100個だそうで、100軒の家が作れば1万個になる。
 そのうち児童クラブの子供たちも川岸に下りてきて、灯籠のローソクに火を灯し、流し始めた。
水天宮祭05
水天宮祭06

 公民館の前にはテーブルが出され、一つ200円で小さな灯籠に願い事などを書いて流す事ができるようになっている。灯籠流しも時代により色々な試みがなされたようで、資料には「灯籠流しの変遷考」という文章もある。

 灯籠流しがいつ頃から、何のきっかけで始められたのか記録も言い伝えも見あたらないが、水天宮の祭具の記録などから推測して、大正三年に始められたとすることが妥当であろうと考えられる。明治二十九年(一八九六)に有磯神社に安鎮されていた水天宮を、年に一度中島町にお迎えして祭典を執行し始めた大正三年(一九一四)八月をもって灯籠流しの始まりと見ることにさほど無理はないのでないであろうか。
 明治二十九年生まれの佐野権兵衛(眞次)から聞いた話では、子どもの頃杉の屋根板の上に、油を染み込ませた真綿を載せ、それに火を付けて川に流したと云うことであった。
 その後、屋根板の裏から釘を出して、各家の仏壇のろうそくの燃え残りを集め、それを釘に刺して火を付けて流したと云うことも伝えられている。ただいつ頃かの特定はできていない。聞いたことのある方は教えて欲しい。
〜略〜
 せっかくの立派な行事をより盛大にして、多くの人に公開してにぎにぎしくやろうという声が挙がり、若い人を中心に大がかりな行事に変貌させていった時期があったのは記憶に新しい。発砲スチロールに載った大型の行燈、花火、協賛金の募集、ドラム缶の筏(下流まで流したのは何年だったでしょう)、トラックタイヤの筏、灯籠の紙のフード、高岡市の協賛、等々について開始年を明確にしたり、関連の写真を保存したりしておきたいので、各家に何らかの記録が残されていたらぜひお知らせ下さい。
〜略〜
平成十九年八月 中島町自治会

水天宮祭07
↑公民館での神事。↓→神事を終えて唐櫃に納められたご神体が還御される。
水天宮祭09
水天宮祭08
水天宮祭10

 用意された灯籠が大方流された20時半頃、有磯正八幡宮の神職により公民館で神事が行われ、その後、唐櫃にご神体を祀った神殿が納められた。そして提灯、太鼓、ご神体を納めた唐櫃の行列が有磯正八幡宮へと向かった。

←↓ご神体が有磯正八幡宮に到着。唐櫃は拝殿に上げられ、灯りを消して暗闇の中、宮司によってご神体が本殿へと移された。

水天宮祭11
 ご神体が本殿に安鎮され、神社でも修祓、祝詞奏上、玉串奉奠が行われて全ての神事が終了した。
 神社から自転車の置いてある中島町公民館に戻る。公民館は後片付けの真っ最中だった。お礼のご挨拶をして、自転車を漕いで家路に着いた。

8月15日(火)

 午前中から両親と4つの霊園をまわり、お墓参り。家に帰りテレビをつけると、日本武道館での全国戦没者追悼式の中継が流れていた。

 奄美群島で特攻というと、作家・島尾敏雄が率い、自殺艇とも呼ばれた特攻艇「震洋」が配備された加計呂麻島が真っ先に思い浮かぶが、喜界島もまた特攻の島だった。
 現在の喜界空港は旧海軍の飛行場で、太平洋戦争では本土から沖縄に向かう特攻機の中継基地として使われた。2011年の7月に訪れた時、空港のまわりには特攻花とも呼ばれるテンニンギクが一面に咲いていた。
 島の娘から出撃の際に手渡されたテンニンギクの種子が溢れたのか、自分の生きた証に咲いてくれと特攻隊員が滑走路に撒いたり飛行機から落としたのが根付いたものなのかわからないが、喜界島では平和を願う花とされている。

喜界空港の特攻花01
喜界空港の特攻花02
↑喜界空港に咲く、特攻花。2011年7月7日撮影。
 一昨日は上市町で開催された、ふるさと観光上市まつりへ。昨日は黒部市の朴谷地区の納涼祭「獅子舞 IN SUMMER 2017」へ。こちらの様子も後々UPいたします。
上市町のおしょうらい
↑ふるさと観光上市まつりでは上市川の河川敷に大勢の住民が集まり、火のついた棒を振り回して祖先の霊を迎える「おしょうらい(お精霊)」が行なわれる。7月13日に撮影。
↓朴谷地区の「獅子舞 IN SUMMER 2017」。写真の演目は、猩々(しょうじょう)。7月14日撮影。
朴谷の獅子舞

8月14日(月)

 一週間前の月曜日に尾山地区の七夕流しを見に行った際、地区の方から来週は隣りの朴谷(ほおのきたに)で獅子舞があると聞いた。尾山からの帰り、朴谷公民館の前を通ると中からお囃子が聴こえて来た。家に帰り調べてみると東布施公民館だよりに14日に朴谷町内納涼祭があると書かれていた。平成元年(1989)から毎年8月14日に『獅子舞IN SUMMER』と題して獅子舞を披露しているようだ。朴谷は富山では珍しいお正月の1月2日に家々をまわる「疫病退治・悪魔払い」の獅子舞が行われるので、一度見に行きたいと思っていた。その取っ掛かりとして、この納涼祭に出かけてみた。

 相変わらず不安定な天気で、少し雨の心配をしながらも前日に買っておいたあいの風とやま鉄道の一日フリーきっぷで黒部駅へ。納涼祭のスタートは19時半からだが、17時42分に駅に着いて自転車を組み立て、駅前のコンビニで菓子パンを買ってから朴谷に向かう。一週間前に尾山へ行くのに通った道なので、もう地図を見なくても分かる。
 30分ほどで公民館に着くと、獅子舞のリハーサルの最中だった。太くて赤いタスキをかけた天狗がたくさん出る、新川地方の獅子舞だ。しばらくリハーサルを見学してから出演者に声をかけ、撮影のお願いをする。
 朴谷の獅子舞についてはこちらに書かれているが、昭和20年代に一度途絶えた獅子舞を、昭和63年に集落の有志が復活に向けて立ち上がり、魚津市小川寺の獅子舞保存会に演技指導の依頼を行ったそうだ。その一度途絶えてしまった獅子舞がどのようなものだったのか尋ねてみたが、わからないそうだ。また、朴谷で演じられている獅子舞の演目はホームページには13となっているが、新作も加わり増えているそうだ。その中から出演時間に合わせて演目をチョイスしている。
 現在、朴谷の獅子舞はお正月の1月2日、8月14日の納涼祭、そして秋に行われる布施谷まつりの年3回見ることができる。

↓獅子舞のリハーサル。→公民館入り口に貼られたプログラム。
朴谷の獅子舞02
朴谷の獅子舞01
朴谷の獅子舞03

1.開会のあいさつ
2.町内会長あいさつ
3.獅子舞(刀合わせの段)
4.獅子舞(腕つっぱりの段)
5.すみれの会(想い出の九十九里浜)
6.獅子舞(もっこがえしの段)
7.アトラクション(子供早飲み、カラオケ、抽選会)
8.獅子舞(車返しの段)
9.すみれの会(麦屋節)
10.獅子舞(猩々)
11.大抽選会
12.閉会のあいさつ

↑19時になると笛と太鼓のお囃子が軽トラの荷台に乗り込み、地区内に納涼祭の開始を触れてまわる。
朴谷の獅子舞04
↑公民館の中では獅子舞の最初の演目に出演する子供たちが準備をしている(左)。出演者が全員舞台に登場して、納涼祭である「獅子舞 IN SUMMER」が始まった(右)。
朴谷の獅子舞05
朴谷の獅子舞06

↑上段左:獅子舞(刀合わせの段)/上段右:獅子舞(腕つっぱりの段)/中段左:花(祝儀)の披露/中段右:すみれの会(想い出の九十九里浜)/下段左右:獅子舞(もっこがえしの段)

←↓アトラクションの抽選会と、子供たちによるグレープジュースの早飲み競争。早飲みに出場した子供たちへの賞品は、花火セットだった。

朴谷の獅子舞07
朴谷の獅子舞08
朴谷の獅子舞09

↑獅子舞(車返しの段)。

←↓すみれの会による麦屋節。演目の合間合間に花の披露が行われ、目録がステージの後ろに並べられる。

朴谷の獅子舞10
朴谷の獅子舞11
↑最後の演目は、獅子舞の猩々。新川地方の獅子舞の演目に登場する「猩々」だが、webで検索すると<中国の伝説上の動物。または、それを題材にした能楽などにおける演目。 さらにそこから転じて、大酒家や赤いものを指すこともある>と書かれている。天狗と獅子が桶に入ったお酒を取り合って共に酔っぱらう話のようなので、この場合は大酒飲みを指しているのだろう。
朴谷の獅子舞12
 獅子舞の演目が全て終わったところで、集まった人たちに餅が配られた。私にも2つ。そして大抽選会の続き。21時を過ぎて、1等の折りたたみ自転車が出た。抽選会はまだまだ続くようだったが、電車の時間もあるので黒部駅へと自転車を走らせる。
 1月2日のお正月の獅子舞は、13時に公民館に集まり、神社に参拝してから集落をまわり15時くらいには終わるそうだ。この頃は雪が積もっていて自転車で行くのは厳しいかな?上手く路線バスが運行していれば良いんだけれど。

8月13日(日)

 富山の一部の地域では8月13日を迎え盆とし、火のついた棒をゆっくりと振り回して祖先の霊を迎える「おしょうらい」が行なわれる。おしょうらいは、<お精霊>や<お招来>とも書くようだ。このおしょうらいという言葉を初めて知ったのは、立山町のホームページの中にある芦峅寺を紹介したこのページだった。
 その後、5月に滑川市赤浜地区の伝統行事ショーブツを撮影に行った時に、赤浜地区では近くを流れる上市川で8月13日におしょうらいを行うと聞いた。赤浜のおしょうらいは河川敷に正月の左義長のように櫓を組んで火をつけるというもので、中には棒に火をつけて振り回す人もいるというお話しだった。
 どちらを撮影に行くか悩んで、今年は赤浜の方にしようと思っていたら前日になって上市町のふるさと観光上市まつりで、大がかりなおしょうらいが行われることを知った。場所を確認すると、赤浜からは自転車でも行けそうだ。赤浜のおしょうらい櫓を見てから、上市町のおしょうらいを見ることにした。
  数日前に赤浜公民館の館長さんに電話したところ櫓は既に立てられており、当日は16時半頃には河川敷で準備をしているということだった。
 
 前日に購入しておいたあいの風とやま鉄道の一日フリーきっぷで、 14時55分に滑川駅に到着。自転車を組み立てて地図を見ながら赤浜に向かうが、曲がる場所を間違えて水橋の方へ行ってしまう。急いで引き返して軌道修正して赤浜に到着したのは、16時半近くだった。櫓が立てられた河川敷には地区の方々がいらしたが、もう準備も終わって一旦家に帰られるところだった。
 赤浜から上市町中心部は自転車でも15分くらいらしい。途中にある森尻という地区でも河川敷に櫓が立てられていたという情報をいただいたので、寄ってみる。

↓赤浜地区の櫓。→森尻の櫓。
おしょうらい02
おしょうらい01
 赤浜から上市町の駅まではほぼ一本道だった。駅の構内に観光案内所があったので、地図を貰い、祭り会場を教えて貰う。
 駅から少し離れた商店街にあるまちなか交流プラザ・カミールの隣りには屋台が並び、ステージが設営されていた。おしょうらいが行われる上市川の河川敷は、カミールから歩いても5分ほどだった。
おしょうらい03
おしょうらい04

↑上市川の河川敷に立てられた、精霊やぐら。上市の方では、<におとんぼ>ともいうらしい。白竜橋から見ると、上流、下流の両岸に9基の櫓が並んでいたが、もう少しあるのかもしれない。七夕飾りを一緒に燃やす櫓もいくつかあった。

←カミール1階には、専用の「おしょうらい棒」が売っていた。どれくらいの数を作って、どれくらい売れるものなんだろうか?

 河川敷の場所を確認してから、イベントが催されているカミールの駐車場を使った広場へ戻る。ステージ横には、上市まつりのプログラムがあった。以下、
17:30〜18:00ステージイベント1(大橋ヒカルさん、ひでよしっとさん)/18:30〜町流しの夕べ/19:30〜やぐら焼き・盂蘭盆精霊大供養読経/20:00〜花火の夕べ/20:40〜21:10ステージイベント2(大橋ヒカルさん、ひでよしっとさん)
↓屋台やステージが設営された、カミールの駐車場。
おしょうらい06
おしょうらい05
 18時半になると商店街の両端から上市保育園、三日市保育園の園児による上市音頭の町流しがスタートした。翌日の富山新聞によると、この町流しには12団体、380人が参加したそうだ。
おしょうらい07
 20分ほど町流しを見てから、河川敷に向かう。
 19時30分に白竜橋の真ん中に設営されたテントの中で僧侶の読経が始まり、それに合わせて河川敷の櫓に火がつけられる。火のついた櫓の周辺で、個々人がおしょうらい棒を振り回して、祖先の霊を迎える。中にはまだ櫓に火がつけられる前に、おしょうらい棒を振る人もいるそうなので早めに来てみた。
おしょうらい08
おしょうらい09
↑まだ空に明るさが残る19時頃。読経が始まる前に、火のついたおしょうらい棒をゆっくりと円を描くように振って祖先の霊を迎える人たち。
おしょうらい10
おしょうらい11

 19時半に読経が始まり、同時に河川敷の櫓に火がつけられた。炎を上げる櫓の周辺では、おしょうらい棒を持った人たちが火の粉を飛ばしながらグルグルと回している。黙々と棒を振る人もいれば、「ジージコイ、バーバコイ、ショウライ」(←よく聞き取れないので、大体の感じです)と口ずさみながら振る人もいる。
 火がつけられたやぐらが崩れた20時、少し離れた河川敷で花火が打ち上げられる。花火は30分ほどの間に、約1000発が打ち上げられた。花火の大輪の下、やぐらの炎と、おしょうらい棒の小さな灯りが暗闇に揺れていた。
 花火を最後まで見てから、祭りで賑わう商店街を抜けて上市駅へと向かう。時間と元気があれば、赤浜地区に近い中加積駅か滑川駅まで自転車で走ろうと思っていたが、諦めて上市駅から富山地方鉄道に乗り、滑川駅へ。滑川駅で、あいの風とやま鉄道に乗り換えて帰って来た。

 八月十三日を宵盆、または迎え盆とよんでいる。十三日の宵、迎え火をたくところは富山市、高岡市、黒部市嘉例沢など。魚津市天神新、細入村楡原、石動町内山などの山間地帯では、子どもが村から離れた高台の遠く見通しのきくところで、麻殻の松明に火をつけて振り回す。おしょーらい おしょーらい と叫び、小杉町ではジーマ、バーバ、イラッシャイヤーとかジージのショウライー、バーバのショウライといって迎える。
『習俗 富山歳時記/漆間元三著』より。

 県内各地では13日をはじめとして盆行事が行われる。その13日に迎え火を焚いて先祖を家まで導く光景がオショウライと呼ばれる。漢字では「精霊来」「お招霊」などと当て、いずれもオショウライのことである。
 一般的には13日を迎え盆、16日を送り盆とするが、14日を迎え盆とする地域も県西部を中心とする射水市や南砺市(旧城端町)に広くうかがうことができる。15日を迎え盆とする地域は、南砺市を中心とする県西部に偏るが、魚津市と黒部市の一部でも見られる。16日はウラ盆といい、富山市婦中町では朝、餅をついて精霊を見送る。
 先祖を迎える場所は川辺や墓地、海辺である。 海岸地帯では先祖が海の彼方から帰って来て、山村で火を焚く地域では空から訪れると解釈している。
 形態は、麻がらや麦藁を芯に束ね、火を付けて回し、「ジージコイ、バーバコイ、ボンノショウライコ」(滑川市本江)、「ジーマ、バーマ、イラッシィヤー」(射水市小杉)、「盆が近なる ショラーイ ショラーイ」(高岡市福岡)などと唱え回したり、藁紐に火を移してぐるぐる回しながら、家まで案内する地域もあった。

『愛蔵版 暮らしの歳時記 富山編』(富山新聞社)より。

*北日本新聞の記事、富山新聞の記事

8月12日(土)

 昨日の山の日から全国的にお盆休みのようだ。テレビの帰省ラッシュの話題も少し下火になって、まったりとした時間が流れている。
 ゆっくり本を読んでいる時間はないんだけれど、アマゾンのマーケットプレイスで纏めてポチった。中古の本は安くなった時に買っておかないと、またとんでもなく高くなっていたりする。

 今年の3月13日に撮影した芦峅寺の伝統行事、おんば様のお召し替えの様子をPhoto Albumにしました。こちら

おんば様のお召し替え01
↑閻魔堂で縫った白装束を風呂敷に包み、代表の女性たちが雄山神社にある開山堂へ運びお祓いを受ける。
↓宮司によりお祓いを受けた白装束を再び閻魔堂に持ち帰り、祀られているおんば様に着せ替える。
おんば様のお召し替え02

8月8日(火)

 朝起きると、台風5号は新潟沖に抜けていた。TVニュースで進路図を見ると富山を直撃したようだが、ぐっすり寝ていて気配を感じなかった。今日は一日雨。家のまわりは時折強く降るくらいで豪雨とまではならなかったが、南砺市の方は雨量が多く城端線が砺波と城端駅間で運転を見合わせたりした。
 江崎鉄磨沖縄・北方担当大臣の地位協定の見直しA級戦犯の分祀発言。正論だわな。

 一昨日は、魚津の「第48回 じゃんとこい魚津まつり」と、魚津の線路を挟んで山側の上村木地区の七夕祭を見に行って来た。じゃんとこい魚津まつりで「せり込み蝶六踊り」の街流しを一時間ほど見た後、輪行した自転車で上村木へ行き地元の人たちと一緒に七夕祭で登場するあじろと呼ばれる神の化身の出現を待っていた。すると新聞社の人が来て雨の予報が出たため中止になったと教えられる。せっかく魚津まで来たので諦めきれず活動拠点の神社まで行って、4体だけだがあじろの写真を撮らせてもらった。
 昨日は黒部市の尾山地区に伝わる七夕流しという伝統行事を見に行った。黒部駅で輪行していった自転車を組み立て、山側の方へ向かって40分ほど走ったところに尾山の集落があった。
 流すのは短冊を吊るした七夕の棹ではなく、女の子は紙で作ったアネサマと呼ばれる人形、小さな男の子は板で作った舟、中学生の男の子は行燈を流す。
 まだ明るい18時から太鼓と笛のお囃子を先頭に、大きなアネサマ人形を台車に乗せて子供たちが大人と一緒に集落を曳きまわす。
 一旦解散してすっかり暗くなった20時30分から、七夕流しが始まる。わき水を集めて集落内を流れる泉川に流すが、水深は浅く用水路と言った方がピッタリとくる。小さな子供は親に付き添ってもらって、水の中を人形や舟を押して歩いて行く。
 七夕流しは30分ほどで終わった。人形や舟は流さず、抱えて川から上がる。環境問題で流せなくなったのではなく、これは昔からの習わしだそうだ。
 天気予報では夕方から弱い雨が降る予想だったのでずぶ濡れを覚悟して行ったが、3回ほどパラパラっと降っただけで直ぐに止んだ。
 じゃんとこい魚津まつり、上村木七夕祭、尾山の七夕流しの様子も後々UPいたします。

せり込み蝶六踊り街流し
↑じゃんとこい魚津まつりの、せり込み蝶六踊り街流し。8月6日撮影。
あじろ
↑上村木七夕祭に登場する神の化身、あじろ。8月6日撮影。
尾山の七夕流し
↑尾山の七夕流しで、アネサマと呼ばれる人形を流す女の子。8月7日撮影。

8月7日(月)

 今日は布施谷(ふせんたん)と呼ばれる黒部市南東部にある尾山地区で、平成16年に県の無形民俗文化財に指定された、江戸時代末期から続くと思われる伝統行事の七夕流しが行なわれる。流すのは短冊を吊るした七夕の棹ではなく、女の子は紙で作ったアネサマと呼ばれる人形、小さな男の子は板で作った船、中学生の男の子は行燈だ。ちょっと変わったこの七夕祭りを見に行こうと思ったが、天気予報は夕方から雨になっている。多少の雨でも開催されるのか心配になり尾山コミュニティーセンター(公民館)に電話するが、繋がらない。そこで、以前にも尾山の七夕流しについて問い合わせた東布施公民館に電話。すると、今まで雨で中止になったという話しは聞いたことがないとのこと。それでも台風5号も接近している。弱い雨の予報が、激しい雨になったらどうしよう。尾山地区までは黒部駅から自転車で30分以上はかかりそうだ。そんな事を考えていると、今年は撮影を諦めて来年にしようか。でも来年必ず晴れるとも限らない。もし出かけて行って中止になってもダメージは往復2220円の交通費と身体がびしょ濡れになるだけだが、行かなければ「何であのとき・・・」と後悔するに決まっている。よし!と覚悟を決めて駅へと向かった。
尾山の七夕流し01
 七夕流しは20時30分からだが、18時からアネサマ人形を台車に乗せての集落曵きまわしがある。駅から自転車で30分以上かかることを考えて、黒部駅に16時42分に到着する電車に乗った。
 黒部駅で自転車を組み立て、地図を見ながら県道125号線を目指す。125号に入れば、尾山までは1本道だ。40分ほど山裾を走って、尾山コミュニティーセンターに到着した。
 コミュニティーセンターの前には七夕が飾られ、18時から集落を曳きまわすアネサマ人形が台車に乗せて用意されていた。よほど酷い雨にならない限り、七夕流しは行なわれるという。人形の引きまわしまで少し時間があったので、近くを散策してみた。
 湧き水を集めて集落内を流れる泉川の脇には、七夕飾りを付けた笹竹が並べられている。水深は浅く、用水路と言った方がピッタリとくる。この川で七夕流しが行なわれる。
尾山の七夕流し02
↑集落内を流れる小川に、七夕が飾られている。この川で七夕流しが行なわれる。
尾山の七夕流し03
尾山の七夕流し04
 18時少し前、集落の中にある「尾山の七夕流し」と書かれた石碑の前に大きなアネサマ人形が運ばれて来た。この人形の曳きまわしは昭和63年から始まったそうだ。昭和56年に黒部市の無形民俗文化財に指定されたのを機に保存会が作られ、寄付金を募るようになったため、七夕行事を村の人に広く公開する意味で行なわれるようになったという。
←保存会のメンバーや子供が揃ったところで、先ずは記念撮影。
尾山の七夕流し05
 18時。太鼓と笛のお囃子が先頭になり、大きなアネサマ人形の曳きまわしが始まった。通常の川に流すアネサマ人形は高さ40cm、幅25cmほどだが、曳きまわされるものは高さが90cmほどもある。この大きなアネサマ人形は、集落の婦人らの手によって毎年作り替えられる。
 およそ40分ほどかけて、集落内を縫うようにアネサマ人形が曳きまわされてコミュニティーセンターに戻って来た。ここで一旦解散し、七夕流しが始まる20時半頃までそれぞれ家に帰る。
↓→七夕流しで女の子が川に流す、アネサマ人形。
尾山の七夕流し07
尾山の七夕流し06
尾山の七夕流し08
尾山の七夕流し09
↑→色紙で満艦飾に見立てた船。現在は軍艦風だが、昔は屋形船の形だったと言う。
尾山の七夕流し10
尾山の七夕流し11

↑手作りの行燈も流される。

  コミュニティーセンターには、人形や船を観賞に来る人もいる。実際、想像していたよりも現物の人形や船は美しく仕上げられていた。
 20時を過ぎると、七夕流しに参加する児童が自分の人形や船を取りに来る。そして、20時20分に集落の少し奥に入った川の上流にある民家の前に集合。

↓→嘗ては21時からだったが、30分ほど早まったそうだ。
尾山の七夕流し13
尾山の七夕流し12
↓→流す直前、船や人形の台座に立てられた蝋燭に火が灯される。
尾山の七夕流し15
尾山の七夕流し14
 小さい子供は親に付き添われながら人形や船を持って川に入り、下流に向かって押しながら進んで行く。途中にはテントが設営されており、その中で笛と太鼓のお囃子が奏でられていた。
尾山の七夕流し16
尾山の七夕流し17
尾山の七夕流し18
 七夕流しは30分ほどで終わった。人形や船は流さず、抱えて川から上がる。環境問題で流せなくなったのではなく、昔からの習わしだそうだ。
 天気予報では夕方から弱い雨が降る予想だったのでずぶ濡れを覚悟して来たが、3回ほどパラパラっと降っただけで直ぐに止み、傘も必要なかった。

←川から上がった子供たちにはジュースとお菓子が配られる。
 コミュニティーセンターに行くと、打ち上げの用意がされていた。いつ雨が降ってもいいように100円ショップで購入した雨合羽を着て、黒部駅へと自転車を漕ぐ。途中、朴谷の公民館の前を通るとお囃子が聴こえて来た。一週間後に朴谷で獅子舞があるそうだ。
  地図を見ないで駅まで行けたので、30分ほどで着いた。終電は黒部駅を22時59分発だが、その一つ前の21時53分発に乗れればいいな〜と思っていたら、21時25分発にギリギリで乗車できた。まあ、富山で乗り換えのための待ち時間があって、結局家に着くのは同じで23時過ぎだったけれど。
 それにしても、奇跡的と思えるほど雨が降らなかった。もし行かなかったら、とても後悔しただろう。
七夕と夏まつり

8月6日(日)

 8月4日から6日まで(7日は関連イベントとして経田七夕祭りがある)、魚津市で第48回じゃんとこい魚津まつりが開催されている。4日は開会式と昨年ユネスコの無形文化遺産に登録されたたてもん祭り、5日はたてもん祭りと花火、そして今日はせり込み蝶六踊りの街流しが行なわれる。
 たてもん祭りは昨年見たので、今年はせり込み蝶六踊りを見に行くことにした。また、この日は魚津の上村木地区の七夕祭も開催されているので、自転車を輪行して両方見る気で出かけて行った。
 せり込み蝶六踊りの街流しは18時30分からだが、上村木七夕祭の場所などを観光案内所で確認したいので、少し早めの16時36分に魚津駅に到着。自転車を組み立てて駅前の観光案内所を訪ねる。 
 じゃんとこい魚津まつりのパンフレットと上村木地区が掲載された地図をもらい、上村木の七夕で屋形船と神の化身であるあじろが巡行を始める場所を教えてもらう。七夕祭は今日が宵祭、明日が本祭で両日共に巡行がある。
雨宿りした公園
 せり込み調六の街流しは海側にある電鉄魚津駅に近い22m通り、上村木は線路を挟んで山側で歩くとけっこうな距離があり、自転車を持って来て正解だった。
 先ずは駅前の大通りを1kmほど走り、あじろと屋形船の巡行が始まる場所を確認。場所を覚えたので、今度はじゃんとこい魚津まつりの会場へ向かおうとしたら、ポツポツと雨が降り出した。急いで公園の木の下へ避難。
←雨宿りした公園。
 しばらく木の下のベンチで様子を見る。降り始めは木の葉っぱで濡れずに済んだが、時間が経つにつれて木の下も雨が落ちて来たので傘をさす。空を見上げると海側の方は、なんだか陽が射していて明るい。ちょっと小降りになったので、思い切って自転車を漕いで線路の向こうへ走る。
 街流しの行なわれる22m通りに行くと、ちょうど17時からのブラスバンドパレードが終了したところだった。どうも僅かな距離だが、こちらは雨が降っていなかったようだ。
 ブラスバンドの次は魚津蜃気楼節愛好会と、魚津蜃気楼節保存会による演舞が17時45分から行なわれた。
魚津蜃気楼節愛好会、保存会の踊り
↑魚津蜃気楼節愛好会(左)と、魚津蜃気楼節保存会(右)による踊り。
 蜃気楼節の踊りはイベント本部のある、街流しのゴール地点で行なわれた。18時半から魚津東部中学校、西部中学校の生徒による「中学生蝶六踊り街流し」、そして19時から41チーム3000人による「せり込み蝶六踊り街流し」がスタートする地点に自転車で移動して始まりを待つ。
せり込み蝶六踊り街流し01
せり込み蝶六踊り街流し02

 せり込み蝶六は魚津市で歌い継がれている民謡で、浄土真宗の仏教口説きを起源にし、江戸時代になって越後の瞽女さんの唄の影響を受けて変化したものと言われている。毎年お盆に寺や神社の境内で扇子や提灯、傘などを持って祖先の御霊と豊作を祈って踊りあかしたそうで、富山に伝わる盆踊り唄の一つでもある。
 『とやまの民俗芸能』(北日本新聞社)には、こんな記述もある。<せり込みは「口速や」の意味であり、蝶六は「ちょろける」という語が訛ったものとの説もある。事実、せり込み蝶六には、願人坊(願念坊)踊りで歌われるチョボクレ語りと似た淫らな文句の唄があり、双方の類似性を示している。とにかく、せり込み蝶六の踊りは、非常にテンポが速く、踊るのがむつかしい。また、唄の多くは、仏教的な口説き調なので、後述する滑川古代神と同系統の盆踊り唄とみられている>。
  一昨年の富山・日枝神社の山王さんで、せり込み蝶六保存会による演舞を見たが、街流しは初めてだった。テンポの早い歌、スピード感のある踊りがなかなか魅力的だ。両手に扇子を持つ扇子踊りが最もポピュラーだが、手先を器用に扇子をくるくるまわす様は、チョウチョが舞っているようにも見える。

 街流しは21頃まで行なわれるが、19時30分からは上村木七夕祭のあじろと屋形船の巡行が始まるので、急いで自転車で駆けつける。
 ちょっと遅れて出発場所の上村木東の交差点に着くと、子供連れのお母さんたちも大勢待っていた。出発時刻を過ぎても現われないので??と思っていたら、新聞記者の人がやってきて雨の予想が出たので中止になったようですと報告して下さった。海側の街流し会場は降らなかったが、上村木の方では直前に”ザー”っとひと降りあったようだ。

上村木七夕祭の屋形船
 せっかく来たのに全然見れないのも悲しいので、あじろが控えているという上村木神明社に向かうと保存会の青年が何人か居た。あじろの所在を尋ねると、寄付をもらったお店に行って記念写真の撮影をしており、もう直ぐ戻って来るということだった。
 拝殿の隣りにはテントが設置され、中に曳きまわす屋形船が置かれていた。テントの奥には倉庫があり、ここにあじろの衣装なんかも普段は置かれているそうだ。

 上村木七夕祭の由来は保存会のホームページに詳しく書かれており、大正初め(2年とも言われる)に3人の少年が入善町の吉原や芦崎のえびす祭りで曳きまわされる屋形船を見て、自分たちでもこんな祭りをやりたいと船を造ったのが始まりだそうだ。当時上村木神社(今の神明社だろうか?)は上村木東交差点、現在のアップルヒル敷地内にあり、そこにあった杉の御神木には天狗が住んでいるという伝説があったので、天狗の面を着けたあじろと呼ばれる神が屋形船と一緒に練り歩くことになったようだ。あじろ=網代だろう。後で衣装に触れたが、薄い木のパサパサした感触だった。このあじろの衣装が雨に濡れると色が落ちて作り直さなくてはならず、今日の雨天中止になったようだ。
 当初は天狗とひょっとこだけだったが、昭和初期から赤い般若(通称バツ)や白狐などが生まれ、2012年の百年祭には全ての神(あじろ)を束ねる大鬼神が誕生し、現在は総勢13体となった。何となく神様というより、ポケモンのような感じがしないでもない(笑)。あじろは七夕祭だけではなく、交通安全のキャンペーンなどの地域イベントにも出演しているようだ。 

 神社の境内で30分ほど待っていただろうか、やがてカラフルな4体のあじろが写真撮影から戻って来た。子供を連れた地元のお母さんたちも集まって来て、子供の頭を撫でてもらったり記念撮影。子供たちが一通りあじろと記念撮影するのを待って、最後にあじろだけの写真を撮らせてもらった。

あじろ01
↑全てのあじろには病気平癒、家庭円満、水難防止などのご利益があり、子供たちは握手してもらったり一緒に写真を撮ったり。
↓鳥居の前で4体揃ったあじろ。左から白髭天狗、青般若、白緑狐、しかみ。
あじろ02
 今日の宵祭は中止になったが、本祭は明日。明日も夕方から雨の予報だ。どちらにしろ明日は魚津の方へ撮影に行くので見れないのだが。
 自転車で魚津駅に戻る途中、コンビニでパンとコーヒー牛乳を買って遅い晩ご飯。魚津を21時1分発の電車で、家に帰る。
*北日本新聞の記事、北國新聞の記事。尚、上村木七夕祭の本祭は7日に無事行なわれたようだ。こちら。You Tubeから「2013年の上村木七夕祭」。

8月5日(土)

 今日の高岡の最高気温は32℃となっていたが、体感的には35℃以上の真夏日。堪らず午後からプールへ。プールよりも、その前後に浴びるシャワーが気持ちいい。市営プールなので、これで無料なのが嬉しい。
 プールから一旦家に帰った後、駅へ昨日から開催中のじゃんとこい魚津まつりとタイアップした割引きっぷを買いに行く。最寄り駅から魚津までは片道1110円だが、割引きっぷなら往復で1000円になる。

奄美地方で50年に一度の大雨、1人死亡9000人に避難指示
 タイトルを見ると奄美で人が亡くなったように読めるが、亡くなられたのは屋久島の方だ。7年前の奄美豪雨も50年に一度と呼ばれ、その翌年にも50年に一度の雨が降った。もう50年に一度ではないな。映像を観ると、農作物への被害が心配だ。しーまブログを読むと、断片的ではあるがリアルタイムな 奄美の様子が伝わって来る。
台風5号 屋久島の南の海上をゆっくり北上
 台風の進路予想を見ていると鹿児島の川内原発、愛媛の伊方原発、福井の高浜原発という再稼働した原発の横を通って行く。 大丈夫か?
 夜になってキャンプ・ハンセン所在の第31海兵遠征部隊のオスプレイが、オーストラリア北東部で墜落したというニュースが流れてきた。

 昨日は自転車で高岡の七夕祭りを見に行って来た。

8月4日(金)
 8月1日から始まっている高岡七夕まつり。昨年は、見に行く途中で自転車がパンクして諦めた。
 高岡へ行くため、15時頃に家を出る。ミュゼふくおか館近く、いっぷく処の通りにも大きい七夕飾りが7本ほど飾られている。福岡町の七夕は、6日までのようだ。雅楽の館の少し先にある千本格子の家の前に、町の特産品「菅笠」の菅が天日干しされていた。ここ、中学の同級生の家かな?
↓福岡町の七夕飾り。→菅の天日干し。
菅
福岡町の七夕飾り
 炎天下を自転車で走って、高岡に到着。先ずは春に御車山祭の宵祭で行なわれた「二番町の神迎え」を撮影させていただいた関野神社へ、その時の様子を纏めたフォトブックを奉納に。宮司さんにお渡ししたところ、お返しに奥能登の方で信仰されているあえのことの小冊子をいただいた。
 関野神社の参道にも笹竹が両脇に立てられ、願い事を書いた短冊が下がっている。昨年から始めたそうで、8日には境内で七夕のお焚き上げも行なわれるそうだ。
関野神社
↑関野神社と「あえのこと」の冊子。
高岡七夕まつり01
 関野神社から駅前大通りの七夕を見て、御旅屋通り、高岡大仏、射水神社と自転車でまわるが、どこも七夕が飾られており沢山の短冊が下がっている。高岡だけで何万、何十万もの願い事が書かれているだろうから、お願いされる神様も大変だろう。
 お腹が空いたので、駅地下で開催している昔の高岡ステーションビルの写真を展示した写真展を見てから、駅ビル2階にある今庄できつねチャンポンを食べる。ゆっくり食べて外に出ると、そろそろ七夕の提灯に灯りがつき始めた。また駅前の大通りを七夕を撮影しながら歩く。御旅屋通りの入り口では、ライヴが始まっていた。大和の前にとめていた自転車に乗って駅前まで戻り、駐輪場に自転車をとめておく。
高岡七夕まつり02
 昔は七夕飾りの数が多くて、もっと綺麗だったそうだ。高校の通学路だったので見ているはずなんだが、その頃は他の事に夢中であまり七夕の記憶がない(笑)。
高岡七夕まつり03
 すっかり日が暮れたので駅前の駐輪場にとめた自転車を取りに行き、家へと帰る。しばらく走っていると背後から”ドーン”という音と共に花火が上がった。自転車を漕ぎながら、音が鳴ると時々後ろを振り返って花火を見る。ずいぶん離れた西高岡の辺りでも、花火の上がっているのを確認できた。

8月2日(水)

 今日、富山が梅雨明けした。高岡の最高気温は29℃だったそうだが、乾いた冷たい風が吹いていたのでトタン屋根の下の部屋でも快適に過ごせた。
名瀬

 上の写真はちょうど6年前。2011年8月2日の、奄美大島・名瀬。行ったことはないが、何となく西海岸という言葉からイメージするのは、こんな景色だったりする。ちなみに写真の右手の先に山があり、その中腹に『カリフォルニア』という名のホテルがある。名瀬に到着した日に泊った。まだ梅雨の時期で宿泊客は他に居らず、階下のレストランも閉まっていて夕飯を買いに近くのダイエーまで行くのに、従業員が車で送ってくれた。
 それから部屋を探して2年間住んでいたのは、写真の対岸、灯りが点々とついている辺りだった。
 明日から奄美大島最大のイヴェント、奄美まつりが始まる。おかしな動きをしている台風5号の影響で、4日に予定していた花火は10日に、5日に予定していた舟こぎ競争は11日に変更になった。花火も舟こぎも、この港を舞台に行なわれる。

銀次さん

 小川銀次さんが亡くなって、今日で2年。なんだか月日の流れるのは早いな。写真は1979年頃だろうか。埼玉県の本庄にあったスタジオDIGでクロスウインドが合宿した時のもの。2ndアルバム『CROSSWIND 2』のレコーディングのための合宿だったかな?バンドの練習の後、透さんのドラムを借りて銀次さんに遊んでもらっているところ。誰が撮ってくれたんだろう、ミキサーの大関さん?それともスタジオのオーナーかな?銀次さんが持っているギターは、グレコに特注したアレンビックモデル。
 この合宿の時に、スタジオに出入りしている銀次さんファンの地元の大学生たちと知りあった。セッションをして、今度一緒にバンドを演ろうという話しになって再び本庄に行った。結局一度もライブをする事はなかったけれど、この時に彼らのオリジナルを何曲か録音した。そのテープを知らない間に彼らが雑誌『ロッキンf』のアマチュア・バンド・コンテストに応募していて、それが演奏賞を獲得した。副賞でもらったイバニーズのギターを銀次さん好きでそっくりなギターを弾くギタリストが買い取り、その金額をバンドのメンバーで分けた。
 そういえば彼はどうしているだろうと名前で検索したら、病院の理事長がヒットした。珍しい名前だし、病院の場所から考えて彼だろう。病院のホームページによると、父親の後を継いだようだ。長かった髪は短くなり白くもなっている。やがて40年前の写真と見比べて面影を捜すが、わからない。でも、こうなっていてもおかしくないか。
 あれからそれぞれ色んな時間を過ごしたのか。彼も今日は、クロスウインドの曲を聴いているだろうか。You Tubeから「Crosswind / Into The Dreamland (1982) 」。 

 今年の2月11日に撮影した、氷見市小杉地区で行なわれている起舟祭の様子をPhoto Albumにしました。こちら

起舟祭
↑神事の後、直径約50センチの大杯に注いだお神酒を参列者がまわし呑みする。

7月へ