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バックナンバー
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能

7月13日(木)、14日(金) 氷見祇園祭
7月15日(土)、16日(日)? 富山市梅沢町 円隆寺 さんさい踊り
7月19日(水)? 富山市四方 えびす祭り
7月21日(金)〜29日(土) 井波別院 瑞泉寺 太子伝会
7月22日(土)、23日(日)? 芦峅寺 雄山神社例大祭 神輿練り
7月24日(月) 滑川・新屋大磐祭り
7月22日(土)〜28日(金) 城端別院善徳寺 虫干法会 記事
7月27日(木)〜30日(日) 福光ねつおくり七夕祭り
7月29日(土) 万葉衣装で舟下り
7月30日(日) 埴生護国八幡宮 屋根の葺き替え見学会
8月1日(火)〜7日(月) 高岡七夕まつり
8月6日(日) 魚津・せり込み蝶六踊り街流し 割引きっぷ
8月6日(日)? 本法寺の曼荼羅絵図風入れ法要 記事 コミュニティーバス 時刻表
8月6日(日)、7日(月) 魚津 上村木七夕祭
8月7日(月) 黒部市尾山の七夕流し
8月13日(日) 芦峅寺 オショウライ
8月15日(火) 立山町 米道踊り
8月16日? 千保川の灯籠流し 記事
8月26日(土) 黒河夜高祭
8月26日(土) 入善町・吉原神社 恵比須祭り
8月第4日曜日 瑞龍寺 薪能
9月 櫛田神社秋季例大祭
9月6日(水) 富山・草島神明社 奴ぶり
9月13日(水) 前田利長公顕彰祭 墓所の一般公開
9月20日(水)? 福岡町赤丸・浅井神社 獅子舞と乙女の舞
9月23日(土)? 海老江曳山まつり
9月23日(土)、24日(日) 五箇山麦屋まつり
9月24日(日) 布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ) 記事
9月30日(土) 高瀬神社 観月祭 出雲大社「大土地神楽」奉納
10月6日(金) 六渡寺の獅子舞
10月 愛本新用水天満宮松明祭
10月 入善町 墓ノ木タイマツ祭り
10月 氷見市谷屋 ふなとかめ
10月25日(水)? 伊勢玉神社 柿天神 記事
12月27日(水) 福野 歳の大市

小川寺の獅子舞 宮田・火祭り1月第4日曜日 記事 記事
◯お鍬さま 1月11日 記事記事
◯4月 埴生護国神社 屋根の葺き替え完成の慶賀祭を予定
◯4月第2土曜?10時〜 小矢部 福町神明宮 春福まつり 神獅子(行道獅子)
◯4月19日 新川神社 春祭り どべ(猿田彦) 記事
◯射水市三ヶの十社大神 御田植祭
◯7年に1度、10月に開催 朝日町山崎 米吊り奉納
◯黒部市中陣のニブ流し
◯黒部市尾山の七夕流し
◯高岡大仏まつり
◯下タ北部地区 正月の繭玉作り
◯5年に一度、若手神職でつくる県神道青年会が御田植祭

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事
富山の祭り
年中行事覚書 柳田国男
田の神祭りに見る日本人の神意識

◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

7月28日(金)

 午前中に特定健康診査を受診。一年前に比べて、体重が5キロほど減っていた。ご飯とお酒の量を多少控えるように心がけた成果だろうか。
 午後から、このホームページ用に借りているレンタルサーバーの更新手続きをして、郵便局で使用料の振り込み。このホームページを始めて、もう14年が経つ。

◯7月25日、民進党の野田幹事長が都議選の責任を取って辞任する意向を表明。
◯7月27日、日報問題で岡部陸上幕僚長が辞任の意向。
◯7月27日、日報問題をめぐり、防衛省の黒江哲郎事務次官が混乱の責任を取って辞任することが分かった。
◯7月27日、民進党の蓮舫代表が、民進党の代表を引く決断をしたとして辞意する意向を表明。
◯7月27日、稲田朋美防衛相は、日報隠蔽問題を巡り辞任する意向を固めた。
 辞任のオンパレードだな。
 それにしても、防衛省を退庁する際に記者団から心境を問われ「空ですね、空」と答えていたが、この人の言葉選びのセンスの無さを改めて印象づけた。

 昨日は城端別院善徳寺の虫干法会と、福光ねつおくり七夕祭りを見に行って来た。こちらの様子も後々UPいたします。

城端別院善徳寺の虫干法会
↑善徳寺の虫干法会にて、蓮如上人の生涯を解説する絵解き。
↓かきごおりやさんに なれますように☆・・・自分で食べる気満々だな(笑)@福光ねつおくり七夕祭り。
福光ねつおくり七夕祭り

7月27日(木)

 先日は井波の瑞泉寺で聖徳太子の遺徳をしのび、その生涯を絵解きする太子伝会を見て来たが、城端の善徳寺で22日から28日まで開催されている虫干法会でも蓮如上人と聖徳太子の絵解きが行なわれているので見に行くことにする。
善徳寺の虫干法会01
 絵解きは午前と午後の2回だそうなので、善徳寺の寺務所に電話をして時間を確認し、撮影の許可をいただいた。
 家から自転車で戸出駅まで行き、12時4分発の電車で城端へ。今日は自転車は戸出駅に置いていく。
  城端に12時41分に到着し、歩いて善徳寺に向かう。
 寺務所にご挨拶に行くと、絵解きだけではなく山門の天上画を除いて他の宝物も撮影の許可が頂けた。
善徳寺の虫干法会02
善徳寺の虫干法会03

↑本堂での勤行と本堂に祀られた阿弥陀如来像。

 蓮如上人の絵解きは14時からと聞いていたが早めに本堂へ入ると勤行の最中だった。勤行、そして法話が終わると、本堂の右側で絵解きが始まった。
 蓮如上人の生涯を描いた2幅の掛け軸を見ながら僧侶が話しを始める。話されるのは、掛け軸の中の1段だ。
 そして絵解きが終わると掛け軸の後ろにある蓮如上人坐像のご開帳が行なわれる。

↓→年に一度、この虫干法会の時だけご開帳になる蓮如上人坐像。
善徳寺の虫干法会05
善徳寺の虫干法会04
善徳寺の虫干法会06

◯本堂に貼ってあったプログラムから。
午後の部 13時より 1.勤行 2.夏の御文拝読 3.法話 4.蓮如上人絵解き 5.法宝物御開帳 6.聖徳太子絵解き 7.法宝物御開帳

 本堂での蓮如上人の絵解きの後、新講堂に移動して最初に親鸞聖人像のご開帳と縁起拝読、そして同じ部屋で名古屋大学の大学院生による聖徳太子の絵解きが行なわれた。

←親鸞聖人像のご開帳と縁起拝読。

善徳寺の虫干法会07
↑聖徳太子の絵解き。↓聖徳太子2歳像の縁起拝読。→ご開帳された聖徳太子2歳像。
善徳寺の虫干法会09
善徳寺の虫干法会08
 聖徳太子の絵解きには、厨子に納められた太子の2歳像を挟んで左右に2幅、計4幅の掛け軸が並べられていた。聖徳太子の絵解きが終わると、また宝物のご開帳と縁起拝読が続く。
善徳寺の虫干法会10
↑善徳寺6世、空勝像のご開帳と縁起拝読。↓→栴檀香木阿弥陀如来像のご開帳。
善徳寺の虫干法会12
善徳寺の虫干法会11
 阿弥陀如来像のご開帳と縁起拝読までがコースのようで、時間も16時になっていた。ここで拝観者は解散。後は、虫干も兼ねて展示してある様々な宝物を見てまわる。外は土砂降りの雨で、もう既に今日の展示が終了している部屋もあった。
善徳寺の虫干法会13
善徳寺の虫干法会14

↑上段左は舞楽の演目が絵柄の内敷。下段右は、加賀藩10代藩主前田斉泰の十男で、1歳の時に善徳寺住職となり翌年死去した亮麿(すけまろ)が愛用した玩具の木馬。

 一通り見てから寺務所に行きお礼を述べてから、雨足が少し弱まったので本堂の外観や鐘楼堂、式大門などを撮影して歩く。

←本堂。↓左は鐘楼堂と本堂、右は式大門。

善徳寺の虫干法会15
井波のスナップ
 善徳寺を出ると、直ぐ横に4つの蔵が並んだ蔵廻廊がある。
 善徳寺の食堂で販売されるお斎を食べようと思っていたが、こちらは13時半頃でお仕舞いでお昼ご飯を食べ損ねた。スーパーでいなり寿司とカレーパンを買って食べて、井波駅へと向かう。
 空が明るくなって来ており、このまま晴れそうなので、城端駅から福光駅へ。今日から始まる福光ねつおくり七夕祭りを観に行く。
 18時頃に福光駅に着くが、駅前には七夕飾りが3つくらいしかない。こんなものなのか?と思いながら駅前の通りを進むと商店街があり、屋台の準備をしている。七夕飾りはどこですか?と尋ねるともう少し先に沢山あるという。なるほど、しばらく歩くと長い竹竿にビニールの吹き流しと人形を飾り付けた七夕が道の両端に並んでいた。
 各商店街では趣向を凝らした屋台や催し物をやっており、中学校の吹奏楽部のマーチングが通りを賑わしている。
福光ねつおくり七夕祭り01
↓→19時30分からは民謡の街流しが始まった。
福光ねつおくり七夕祭り03
福光ねつおくり七夕祭り02
福光ねつおくり七夕祭り04
 民謡の街流しは商店街を抜けて、駅前ロータリーで輪踊りになり、20時30分頃に終了した。20時48分の高岡方面行きの城端線で戸出駅へ。駅にとめておいた自転車で家へと走る。今日は雨の中を自転車で走る覚悟も少ししていたけれど、なんとか濡れずに帰れた。
*虫干法会についての北日本新聞の記事、富山新聞の記事。福光ねつおくり七夕祭りについての北日本新聞の記事、北國新聞の記事

7月26日(水)

 昨日は土砂降りの雨だったが、今日は雲が多いながらも晴れ間も見えた。乾いた冷たい風が吹いて、過ごし易い一日だった。富山もそろそろ梅雨明けかな?
今日の空

 今日、宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで催された大田昌秀元沖縄県知事の県民葬に、政府代表として安倍首相が出席し「基地負担軽減に引き続き全力を尽くす」と述べたそうだ。
 この記事を読んで<草蝉や弔辞は一行あれば足る>を思い浮かべた。末吉發さんの俳句と写真で綴られた『どこにも仏桑華』に載せられている俳句の一篇だ。
 この俳句の解説に「六月二十三日、毎年沖縄慰霊の日には総理をはじめ多くの方々が祭壇の前で弔辞を読み上げる。多くの人を戦場へ送り、死ねばやって来て 慰霊の辞を滔々と述べる。マッチポンプの感がしないでもない。決まりきった虚しい言葉の羅列より「辺野古に基地は造りません」とひとこと言えばそれがなに よりの慰霊の言葉になるのだが」という文章が添えられている。
  末吉發さんは、1928年伊是名村生まれとあるので、今年89歳になられるのだろうか。大田昌秀元沖縄県知事と同じく、沖縄戦では鉄血勤皇隊として参 加。本部半島の守備隊、宇土部隊に配属になるが、米軍上陸の約2週間後の4月半ばに撤退して解散。その後は敗残兵としてヤンバルの山中を徘徊したという。

 富山出身で、ユーミンなどのバック・バンドでギターを弾いていた中川雅也君が亡くなって、昨日で一年になる。
 36〜7年前にシマさんのローディーをしていた頃、中川君もギタリストの青山徹さんのローディーをしていて、当時録音スタジオでよく顔を合わせていた。一度、河口湖にあったスタジオへシマさんと青山さんが誰かのツアーのリハーサルか何かで行った時に中川君と一緒になり、スタジオに置いてあった卓球台で温泉卓球をした。
 何年かして彼はローディーからプロのギタリストになり、テレビの音楽番組でも何回か見かけた。先日ふと卓球したことを思い出して彼の名前を検索、そして訃報を知った。
  2013年に亡くなったよっちゃんバンド、THE GOOD-BYEのベースだった加賀八郎君もその頃ローディーをしていて、よくスタジオで顔を合わせた。誰のローディーだったかはっきり思い出せないが、パーカッションの斉藤ノブさんのローディーじゃなかったかな?
 そう言えば、この頃に売れっ子のギタリストとして活躍していた矢島賢さんも、一昨年の4月に亡くなられた。 たくさんの歌謡曲やニューミュージックのレコーディングに参加した矢島さんだけれど、自分名義のレコードは1982年にワーナーから発売されたKen Yajima&Visions名義の『REALIZE』だけのようだ。
  80年代はスタジオ・ミュージシャンの黄金時代だったかもしれない。当時のスケジュール帳にシマさんの予定が書いてあるが、午後の1時〜3時(サウンド・シティ)、6時〜8時30分(コロンビア)、9時〜12時(信濃町ソニー)と昼過ぎから夜中まで、一日に3つのスタジオを移動してレコーディングしたりしている。こんな日が、週に5日ほどあったと思う。このスタジオ仕事の間に、吉田拓郎さんや松山千春さんの全国ツアーもこなしていた。
 こうした70年代〜80年代のスタジオ・ミュージシャンの仕事にもスポットを当てて書かれた『ニッポンの編曲家』という本が、昨年3月に発売された。第二章の「編曲家が愛したミュージシャンたち」には、矢島賢、野口五郎、吉川忠英、島村英二、松武秀樹といった方々のインタヴューが掲載されている。こちらの書評が面白く、参考になる。
 スタジオのロビーでは楽器のセッティングを終えたローディーたちが、自分の楽器を手にして黙々と練習している。急なアレンジの変更で、写譜屋さんはロビーのテーブルに五線紙を広げて譜面を書き直している。インペグ屋さんはスケジュール帳と電話帳を手に、ミュージシャンの手配で忙しい。まだ携帯電話もなく、バンドブームが訪れる前の話し。
 取材されている編曲家にハネケン(羽田健太郎)さんの名前がないのは残念だが、そうか、もう亡くなられて10年が経つ。

7月24日(月)

 昨日、今日と富山は梅雨らしく雨。昨日は秋田で、今日は新潟で豪雨による被害が出ている。このところの雨の降り方は、やはり尋常ではない。
 安倍首相や側近等が出席しての衆院予算委員会閉会中審査が、今日、行なわれた。テレビでも中継されたが、観ているとパソコン作業が進まないので断念。ニュースで概要だけ見たが、相変わらず記憶のない人と記録を捨てた人ばかりで、この国は大丈夫だろうか?
 内閣支持率は順調に続落しており、毎日新聞の調査では支持するが26%ととなった。安倍政権はいつまで保つのだろうか?

病気と闘う子のために無菌室を クラウドファンディング
残業時間の上限規制「東京五輪まで猶予を」 運輸・建設業界
 国立病院が無菌室を増設するためにクラウドファンディングで資金を募集し、人手不足だからと残業時間の上限規制を猶予する。繰り返し、この国は大丈夫だろうか?
 一昨日は井波別院瑞泉寺の太子伝会へ、昨日は芦峅雄山神社の例大祭を見に行って来た。こちらの様子も後々UPいたします。
井波別院瑞泉寺の太子堂
↑絵解きが行なわれた井波別院瑞泉寺の太子堂。↓芦峅寺の布橋。
芦峅寺の布橋

7月23日(日)

 22日、23日は芦峅寺にある雄山神社の例大祭。昨日は2基のお神輿が集落の大通りを巡行し家々で祝詞をあげ、今日は2基のお神輿が境内を競うように神幸する。
 雄山神社は峰本社、中宮祈願殿、前立社壇の三社で構成されており、芦峅寺の雄山神社は中宮祈願殿にあたる。
 事前に閻魔堂の「おんば様のお召し替え」の際にもお世話になった、芦峅女性の会の会長さんに問い合わせたところ、神事は13時から。あいにく朝から雨が降っているが、立山博物館にも行きたいので、少し早めに到着するように家を出る。
千垣駅
 富山地方鉄道の富山駅を9時7分に出発して、芦峅寺集落の最寄り駅である千垣に到着したのは9時57分。駅の隣りにはバス停があるが、集落行きのバスは日曜は運休のようだ。
 富山でも呉西の平野部に住んでいると、呉東の山の方は見慣れない景色なのでとても新鮮。雨の降る中、風景を写真に収めながら雄山神社を目指して歩く。

←千垣駅と富山地方鉄道の電車。
↓常願寺川。→芦峅雄山神社。
芦峅寺の雄山神社01
常願寺川
 写真を撮りながら歩いたので、千垣駅から雄山神社まで30分ほどかかった。あいにくの雨だが、雨に濡れた鎮守の杜の緑が美しい。ただ、この雨でお神輿が出るのか不安になる。境内の奥にある祈願殿に行くと、昨日町内を練り歩いた2基のお神輿が安置されていた。お神輿が出せるかどうかは、ギリギリまで分からないという。
 今日の神事の内容が、立山町のサイトの立山歳時記に詳しく掲載されているので引用させてもらう。
26日は境内の巡行で、大宮と若宮からそれぞれ霊代を勧請した神輿が、大宮参道の分岐点で対面し、出会いの挨拶をします。そして、若宮の神輿を先頭に鳥居前まで移動しここで神事が執り行われます。続いて大宮が先行して境内に進み、石舞台で「立山の舞」が奉納された後、ふたたび分岐点に戻ります。ここで、告別の挨拶を交わすと2基の神輿は勢いよく各宮に駆け戻り、霊代を納め、祭を終えます。
  動画がこちらにあります。
 嘗ては旧暦の6月14日、15日に開催されていたようだが、新暦の7月25日、26日になり、現在は25日、26日に近い土日に行なわれているようだ。 
雄山神社例大祭01
↑祈願殿に安置された2基のお神輿。
 神事が始まるまでだいぶ時間があるので、境内の各宮を撮影して歩く。3月におんば様のお召替えで来た時は境内に雪がまだ残っていたので、これほど木々が美しいお宮だとは思っていなかった。
芦峅寺の雄山神社02
芦峅寺の雄山神社03
教纂坊

↑上段左:斎館/上段右:祈願殿 中段左:若宮/中段右:大宮 下段左:開山堂/下段右:苔むした切り株。

←教算坊。

 境内を出て近くの教算坊へ。嘗て立山中宮寺にあった三十三の宿坊の一つだそうだが、建物自体は宿坊の面影を残していないようだ。教算坊の室内の展示を少し見てから、立山博物館へ。尋ねたいことがあって受付に行くと、学芸員の方が対応して下さった。 

 聞きたかったのは『とやまの民俗芸能』(北日本新聞社)の「御霊信仰と祇園会」の項目に書かれている文章で、そこには<藩政期に越中の十村役人が綴った「杉木文書」によれば、旧暦の六月十五日に催された有峰地区の薬師祭りは、祇園祭りであって、この日に津島(現在の愛知県西端部)から御師(祈祷師)が来ていた。同書には、芦峅寺地区でも、六月十四、十五の両日は、津島と京都祇園社の祇園祭りと同時刻に御霊会としての夏祭りを催したと記されている。立山町宮路地区では、祇園祭りの日に津島の神官が猿駒曳きの絵像を持って厩の祈祷に訪れたとの伝承もある。さらに、芦峅寺地区の祇園祭りにみられる山祭りと融合した形は、祇園信仰(御霊信仰)が京都方面からだけではなく、岐阜県の飛騨地方からも山を越えて富山県に伝わったことをしめしている>と記されている。
 芦峅寺で旧暦の6月14日、15日に行なわれる祭りは雄山神社の例大祭で、嘗ては祇園祭りとして催されていたのではないかという疑問を聞いてみた。残念ながら学芸員の方はそのような話しは聞いたことが無く、少し調べてもらったが資料もないそうだ(後に雄山神社で神職のお一人に尋ねたところ、可能性は否定できないというお答えだった)。
 尚、先日祇園会の際にさんさい踊りが行なわれた富山市梅沢町の円隆寺は立山信仰の芦峅寺と密接な関係があり、同寺に祀られている観音菩薩坐像はもと立山山中に祀られていたと推測されている。 閻魔堂で行なわれる「おんば様のお召し替え」の際も、円隆寺の住職が読経されていた。

 博物館を出て、今度は山岳集古未来館へ。現在祭りに使われているお神輿は新しいもので、前田利長公より寄進されたといわれる2基のお神輿がこちらに展示されている。展示されたお神輿の前に、「芦峅寺の立山大権現祭と神輿」と題したパネルがあり、以下の説明があった。
 芦峅寺では、毎年旧暦の6月14日と15日の両日に立山大権現祭が行なわれてきました。立山曼荼羅にも獅子頭を先頭に、芦峅寺衆徒や社人が神輿とともに練り歩く様子が描かれています。この祭礼には、立山大権現と立山開山の佐伯有若・有頼父子を祀る意味があり。御霊を2基の神輿に遷座して境内や村内を練り廻りました。
 ここに展示する2基の神輿は、加賀藩主(二代目前田利長公といわれる)より寄進され、立山大権現で使用されたものです。嘉永6(1853)年に大修復されていますが、製作当初の形態を今に残しており、大きさ、煌びやかな装飾は他の神輿に比べるべくもない豪華さです。修復には、富山・高岡・井波の優れた工芸技術が凝集されています。所要経費は当時、130両1分2朱と金1匁7分3厘、現在の価格にして3900万円余となり、大変な額です。当時の芦峅寺の人々のステイタスであり、立山の豊穣と息災を祈る象徴がこの神輿でした。
 12時半頃になり祈願殿の方に戻ると、雨のためお神輿の巡幸は中止が決まった。祈願殿に安置されている2基のお神輿を青年団の若者が、境内の蔵へと運び入れる。そしてお神輿の巡行なしで、神事が執り行われる。
雄山神社例大祭02

 神事の始まる13時少し前に、列席者が祈願殿に参集。

↓→神職が柄杓で掬った水で手と口を清める。
雄山神社例大祭04
雄山神社例大祭03
雄山神社例大祭05
 2日目の神事は本来鳥居の下の広場で、巫女による「立山の舞」の奉納は境内の石舞台で行なわれるが、雨のためにどちらも祈願殿で行われることになった。
 祓言葉、修祓が行なわれた後、神職が二人ずつ2組に別れて大宮と若宮に安置されているご神体を取りに行く。

←祈願殿での神事。
↓神職の一人が若宮にご神体を取りに行き、もう一人は下で「オー」と警蹕(けいひつ)を発する。
雄山神社例大祭06
雄山神社例大祭07
↑若宮と大宮にそれぞれ祀られていたご神体を、お神輿の代わりに神職が抱えて祈願殿に勧請する。
雄山神社例大祭08
↑献撰。巫女が運ぶのは初めて見た。そして祝詞奏上が行なわれた。
雄山神社例大祭09
↑「立山の舞」の奉納。↓玉串の奉奠と、撤饌。
雄山神社例大祭10
↓→玉串奉奠と撤饌が終わり、再び神職の手によってご神体が大宮と若宮に還される。
雄山神社例大祭12
雄山神社例大祭11
雄山神社例大祭13
↑大宮にて。神職の一人が殿に入りご神体を還す間、もう一人の神職が「オー」と警蹕を発する。
雄山神社例大祭14
↑神職がご神体を還御している間、祈願殿の軒先では神楽が演奏されている。
↓ご神体がお還りになり神事が終了。→今日は出番がなかった、神輿を先導する天狗。
雄山神社例大祭16
雄山神社例大祭15
 神事は、お神輿が出なかったことで色々と変則的な進行となったようだが、14時頃に終了した。15時半から雄山神社に隣接する芦峅公民館で、地域を盛り上げようと青年団が企画した「第1回あしくらサマージャンボ抽選会」が開催されるので、それまで今年の9月24日、3年に一度の布橋灌頂会が行なわれる布橋や閻魔堂の辺りを散策。雨に濡れた木々の間に見える、朱色の布橋が美しかった。
雄山神社例大祭17
 抽選会は芦峅寺の住民は各戸に1枚、そして例大祭を手伝った人に1枚応募用紙が配られ、名前を記入して抽選箱に入れる。それを箱の中から引いて当選者が決まる。1等から5等まであり、5等だけは3名。合計7名にプレゼントがある。旅行券など豪華な賞品で、かなり盛り上がっていた。
雄山神社例大祭18
 20分ほどで抽選会が終了して、公民館を後にする。来る時と同じように、雨の中を風景を撮影しながら千垣駅へと歩く。観光バスが頻繁に通り過ぎて行く。そう言えば、立山博物館にも観光バスで訪れる人が多かった。
↓→降った雨が次々に蒸発している。→常願寺川の水が茶色く濁っていた。
常願寺川
芦峅寺の風景
千垣駅
 千垣駅に着いて、待合室で16時39分の富山行きを待つ。千垣駅より先はまだ行ったことがない。どんな景色だろうか。

*富山新聞の記事

7月22日(土)

 井波の瑞泉寺で聖徳太子の遺徳をしのび、聖徳太子の掛け軸8幅を並べて僧侶が絵解きをする太子伝会が7月21日から29日まで開催されている。1710年頃に始まったとされる、瑞泉寺の伝統行事のようだ。
  新聞に掲載されていた記事によると初日は13時30分〜、29日は正午までで、他の日は9時30分〜16時まで。25日〜28日までは19時からの夜間もあるようだ。一回の絵解きはどれくらいか瑞泉寺に電話で問い合わせたところ、約40分だそうで僧侶が順番に絵解きをする。
 ところで『とやまの民俗芸能』(北日本新聞社)には、瑞泉寺の太子影像や絵解きについて次のような記述がある。
太子影像を巡回する習俗も興味深いものである。一例をあげると、東砺波郡井波町の井波別院・瑞泉寺にある聖徳太子の影像や宝物が、農閑期に県内各地の農村地帯を巡回する。この巡回習俗は、江戸期に財政難に落ち入った瑞泉寺が苦肉の策として始めたと伝えられているが、神巡行(神遊幸)によって利益が得られるとの古くからの信仰が庶民の間に浸透していたからこそ歓迎されたともいえる>とある。また、「門付芸の主役たち」という項目の中に<「絵説き」と呼ばれる人たちも明治期に県内各地を訪れた。五、六人が一組となり、それぞれ大きな屏風を背負って来て宿を借り、ここで立山地獄屏風図絵とか聖徳太子絵伝などの絵説きをした。絵説きの人がやってくると、村の有志が「さあ盆(注・休日という意味)じゃ、立山盆じゃ」と村内をふれまわり、村人たちが集まってきて絵説き師の説明に耳を傾ける地域も多かった。このほか、阿呆陀羅経を読んで歩く人、虚無僧、六部、お札くばり、山伏らも明治期には町や村をよく訪れた。以上に紹介した各種の芸人たちは、社会的には決して恵まれてはいなかったが、辛苦とたたかいながら庶民に笑いや娯楽を提供してまわった人々である>とも記されている。
 せっかくの機会なので、絵解きを実際に見て、また本に書いてあることを尋ねてみようと出かけることにした。交通の便が悪くて、これまでは中々井波まで行けなかったが、折りたたみ自転車を買ったので少しは行き易くなった。

 明日までとなってしまったミュゼふくおかカメラ館での『世界遺産x富井義夫ー地球への讃歌ー』を見てから、家にカメラを取りに行き、戸出駅まで自転車で走る。自転車を折りたたんで12時4分発の城端線で福野駅へ。12時24分に福野駅に到着して自転車を組み立て、プリントアウトしてきた地図を見ながら井波を目指して走る。
 先月の3日に福野から庄川まで自転車で走っており、途中まで同じ道なので少し土地勘が出来ていたので市街地までは迷うことなく走れた。井波の市街地に入ってから瑞泉寺までの行き方を一度尋ねたが、今回は思ったよりスムーズに到着できた。

太子伝会01
太子伝会02

↑井波別院瑞泉寺の山門(大門)と、山門の下から見た本堂。
←太子堂。右に少し写っているのが渡り廊下で繋がった本堂。

 13時10分過ぎに瑞泉寺に到着し、絵解きが行なわれている太子堂へ。僧侶の方が絵解きをしている途中だったので、空いている椅子に座ってその話しに耳を傾ける。
 祭壇の左右には4幅ずつ、計8幅の聖徳太子の生涯を描いた掛け軸が並べられている。

 絵解きが終わると、お手伝いの方々が籠を持ってお布施を集めに来られる。するしないや金額も決まりはないが、ポケットの中から小銭を出して籠に入れる。
 絵解きを2つ聞いて、祭壇から出て来られた僧侶の方にお話しを伺った。先ず、太子影像(聖徳太子の掛け軸)は、今回の太子伝会以外にも要望があれば農閑期だけではなく一年を通して村々に運び絵解きを行なっているそうだ。その場合、8幅はかさばるので、1番と2番だけとか、枚数を減らして持ち運ぶ。また持って行く掛け軸は、巡回用のものが在るそうだ。宝物として展示されるもの、太子伝会でご開帳するもの、巡回用と聖徳太子の掛け軸は3種類存在することになる。
 また、瑞泉寺の影像と言えば乗如の姿を達如が絵師に描かせた影像を、毎年正月に井波を出発して県内各地を回って12月末に瑞泉寺に戻って来る御影様渡しが知られている。嘗ては年間に700ヶ所ほどまわっていたそうだが、現在は50ヶ所ほどだそうだ。昔は正月から年の暮れまで村々を旅していた御影様だが、今は要望がある時だけ出張に出かける感じだろうか。
 お話しを聞かせていただいた後、絵解きの写真を撮らせていただいた。僧侶それぞれ話しの内容も話し方も違い、ありがたい講話なのだけれど、どこか話芸を楽しむところもある。昔は、貴重な娯楽としても人々は太子伝会に集まったのではないだろうか。そのことも僧侶の方に尋ねたところ、教化ではあるけれど、そういう面もあるかもしれませんとのお返事だった。
太子伝会03
太子伝会04
 太子伝会では絵解きの他に、宝物の特別展示もある。太子堂から渡り廊下で本殿に行き、その先にある虎之間で開催されている瑞泉寺11代応眞院常照「浪化上人と俳諧」展を観に行く。中に入ると係の人が解説して下さる。しばらく聞いていると聖徳太子像を指し、この本物の太子像が絵解きの時にご開帳になると教えていただいた。絵解きの後に、僧侶が揃ってお経をあげ、その時に太子像がご開帳になるそうだ。
 特別展は後でもう一度見に来ることにして太子堂に戻り、絵解きを聞き、お経を聞き、ご開帳を待った。ようやくご開帳の写真が撮れたので、特別展に戻る前にお寺の厨房で食べられるというお斎(おとき・お寺の食事)がまだ食べられるか行ってみる。もう16時近く他にお客さんは居なかったが、厨房のカウンターにお弁当がいくつか残っており食べることが出来た。
太子伝会05
←ご開帳された南無仏太子像(聖徳太子2歳の尊像)。
↓お斎。お麩、茄子、福神漬け、そして鯖のなれ鮨。これにペットボトルに入ったお茶が付いて500円だった。
太子伝会06
 お寺の食事をいただき、特別展を観てから、せっかく来たので瑞泉寺の建物を少し撮影。
太子伝会07
上段左:5色の幕が風に揺れる太子堂/上段右:太子堂と本殿の渡り廊下から撮影した山門
中段左:太子堂と本殿/中段右:太子堂の屋根
下段左:山門/下段右:式大門
太子伝会08
 瑞泉寺の太子伝会に合わせて、今日と明日は太子伝会観光祭も行なわれている。瑞泉寺から観光案内所へ行き、プログラムや地図を貰う。
 今日は木遣り町流しと、木彫り音頭町流し等。明日はよさこいや、氷の彫刻が行なわれる。
 木遣りは旧井波駅舎から18時に出発で、まだだいぶ時間があったので市街地を自転車で走り、町の大きさや建物の場所を把握する。たぶん、もう地図なしでもなんとかなりそうだ。

 17時半頃に旧駅舎に行くと徐々に踊り手が集まって来た。巨大な丸太の作り物も運ばれて来た。団扇が配られたので観ると、井波木遣り唄の歌詞が書いてあった。

夫栴檀(それせんだん)は二葉にて 名も恐ろしき伊蘭樹(いらんじゅ)の
劇(はげ)しき毒を消滅し 崑崙山(こんろんざん)の徳として
石を転じて黄金とす 琥珀の徳は塵を吸い
磁石は鉄に付く慣い 山木石(さんぼくせき)の類すら 
其の約束を違(たが)はねば 謂(いわ)んや深き誓いあい
無碍光如来(むげこうにょらい)の名号(みょうごう)は 無量生死(むりょうしょうじ)の罪消へて
逆悪摂取(ぎゃくあくせっしゅ)の利益(りやく)ある 何に疑ひのあるべきや
濁悪邪見(じょくあくじゃけん)の我等には かの名号を与へてぞ
救いましますしるしには 深山(みやま)の奥の埋れ木も
井波御坊(いなみごぼう)の材木と 曳き出(い)ださるる不思議さよ

忝(かたじけ)なくもこの寺は 百一代の御代(みよ)の時
後小松院(ごごまついん)の帝より 勅願所(ちょくがんしょ)のお寺なり
綽如様(しゃくにょさま)の開基(かいき)にて 教へは尽きせぬ瑞泉寺
綽如上人砺波野(しゃくにょじょうにんとなみの)に 太子の絵伝をお供して
何処に寺を建つべしと 此処(ここ)や彼処(かしこ)を見給(みたま)ふに
乗らせ給(たま)ひし御馬(おんうま)が 三度嘶(いなな)きしずしずと
足にて大地を掘りければ にわかに清水(せいすい)わき上がり
臼浪水(きゅうろうすい)とて今にあり 夫故(それゆえ)井波と付け給(たま)ふ
その越中の井波には かの有名な瑞泉寺
人の心も荒磯(あらいそ)の 砺波の里を此処彼処(ここかしこ)

 瑞泉寺はこれまで3度焼失したと言われており、その再建のために五箇山や利賀村から切り出した木を運ぶ際に歌った唄が「井波御大門建立木遣り唄」として利賀村に伝わっていた。その唄を、昭和38年に井波町青年団の一行が利賀村の長谷甚六氏から「木遣り唄」として習い受けたそうだ。詳しくはこちら

太子伝会09
太子伝会10
 18時になり、踊り手の一団は旧駅舎から少し町中に移動し木遣り踊りをスタートした。踊っては場所を移動して、最後は瑞泉寺の境内で踊るが、明日は午前中から立山の方へ行くので30分ほど見て自転車で福野駅へ急いだ。
*北日本新聞の記事1記事2。中日新聞の記事。*You Tubeに2013年の街流しの様子がありました。こちら

7月21日(金)

 北陸はまだ梅雨明けしていないのに、連日夏日で、今日は高岡で35℃、富山で37℃の猛暑日となった。昨日と今日は、午後から水浴びのつもりでプールに泳ぎに行って来た。
 さすがにこの暑さだと帽子を被らなければ危険だと思い、スーパーに入っている100円ショップで購入した。

 原発関連の気になったニュースを備忘録として。
東電会長 汚染水放出発言報道で全漁連が抗議
東電会長発言 波紋呼ぶ 田中氏「私を口実…はらわたが」
原子力委員会「原発は低コスト利用推進」
 一昨日は、富山市四方のえびす祭りを見に行って来た。こちらの様子も後々UPいたします。
四方のえびす祭り
↑本殿のご神体を御船代に移し、御船代ごと漁船に乗せて漁場に行き、豊漁と航海安全を祈願して神職によるお祓いを行なう。
 
 今年の2月3日に撮影した、富山市日枝神社の節分祭の様子をPhoto Albumにしました。こちら
日枝神社の節分祭01
↑豆まきの前に、宮司と禰宜による鳴弦の儀が行なわれ、邪気が祓われた。↓拝殿の中を豆まきした後、拝殿の外廊下から参拝客の方へ豆がまかれた。
日枝神社の節分祭02

 今日は、中村とうようさんの命日か・・・もう、亡くなって6年が経つ。今年は、田中勝則さんの手による書籍『中村とうよう 音楽評論家の時代』(二見書房)と、CD『とうようズ・チョイス・スペシャル』が発売になった。

7月19日(水)

 午後から富山市四方で、えびす祭りが行なわれる。事前に富山漁港に問い合わせたところ、神事は14時からということだった。四方には今年の4月、四方神社の春季例大祭で曳き回される子供曳山を撮影に来ており、この時は富山駅からバスで四方に行った。今回は呉羽駅まであいの風とやま鉄道に乗車し、呉羽駅から自転車で四方まで行くことにする。
四方のえびす祭り01

 呉羽から四方までは初めて走る道なので、余裕をみて11時58分に呉羽駅に到着する電車に乗る。
 呉羽駅で自転車を組み立て、プリントアウトしてきた地図を見ながら四方へと向かう。道順はシンプルなので、ほとんど迷うことなく到着。途中のコンビニで昼ご飯用のパン等を買ったりしたが、所要時間は40分ほどだろうか。

←あいの風とやま鉄道の呉羽駅。しょっちゅう通過するが、降りるのは初めて?

 四方の港に着くと、ちょうど神職の方が歩いていらしたので神事の時間を確認すると、13時半からだった。神事の行なわれるのは港に面した恵比須神社で、境内には既に御船代が置かれていた。恵比須神社のご神体をこの御船代に移し、御船代を担いで50メートルほど離れた漁港に停泊している漁船に乗せて東西2ヶ所の漁場で航海安全と豊漁を祈願するという。祭主は、四方神社の宮司さんだった。
 漁業関係者の方が神社へいらしたので、ダメ元で漁船に乗れないか頼んでみたところ許可が出た。
四方のえびす祭り02
↑左は恵比須神社、右は四方の漁港。漁船は日の丸の旗や大漁旗を揚げている。
四方のえびす祭り03
 13時半になり、神事が始まった。広くはない拝殿に入りきれない漁師たちは鳥居の向こうに並んで神事を見守っている。
 祓言葉、修祓、祝詞奏上。そして本殿よりご神体が運び出され、境内に置かれた御船代に移される。てっきりご神体はえびす様の像かと思っていたが、偶像ではなく神の依り代としての神籬(ひもろぎ)だった。
四方のえびす祭り04
四方のえびす祭り05
四方のえびす祭り06
 神職が道を祓い、ご神体を乗せた御船代が目の前の漁港に向かう。
 漁船にはゴザが敷かれ、縄で結界が作られていた。その中に御船代が置かれて、漁場へと向かう。大漁旗を掲げた漁船十数隻が、後に着く。
 出発して間もなく、富山市消防局の消防艇「神通」が放水で華を添える。
 10分ほどで最初の漁場に到着し、修祓、祝詞奏上の後、お米、塩、お神酒が海に撒かれ、豊漁と航海安全の祈願が行なわれた。
四方のえびす祭り07
四方のえびす祭り08
 2ヶ所の漁場で祈願して港に戻って来た。その間、40分ほどだろうか。
 御船代が神社に戻って来ると、鳥居の下の藁束に点火。あいにく火は上手くつかなかったが、迎え火だろう。
四方のえびす祭り09
↓→ご神体が、御船代から本殿に還られる。
四方のえびす祭り11
四方のえびす祭り10
 ↓→ご神体が還御された後、拝殿の中と外で玉串奉奠が行なわれて神事は終了した。
四方のえびす祭り13
四方のえびす祭り12
四方のえびす祭り14
 神事の後、神饌のお神酒と烏賊、昆布が配られ神職とともに直会が行なわれた。せっかくなので、お神酒と烏賊をいただいた。
四方のえびす祭り15
四方のえびす祭り16

 神社の前の港湾では、直ぐに漁師たちによるボートレースが始まった。漁師のボートレースと聞いて激しいものを想像していたが、見ているとなんだかほのぼのとした競漕だった。
 ボートレースは16時頃に終了。この後、流し火が19時半から、花火が20時から開催されるが、3時間以上も暑い中で待っているのも大変なので、残念だけれど帰ることにした。
←流し火に使われるダンボール。中に藁と綿が入っている。

 尚、今日は宵宮であり、本祭は明日の朝8時から恵比須神社で執り行われる。
*富山新聞の記事

7月17日(月)

 安倍内閣の支持率が順調に下落を続け、危険水域と言われる30%を割り込み29.2%となった。
 昨日は北海道で、今日は秋田で集中豪雨。もう、連日のことになっている。
 九州北部の豪雨災害は、新たに2人の遺体が見つかり、これで死者34人、行方不明者7人となった。
 昨日で中越沖地震から10年が経った。この地震では柏崎刈羽原発の稼働中の全原子炉が停止し、微量の放射性物質が漏れ出した。緊急時対策室のドアが歪み、その教訓から免震棟が作られるようになり、同じ東電の所有する福島第一原発にも免震等が建設された。もしこの地震がなければ、福島第一に免震棟が作られることはなかったかもしれない。その場合、東日本大震災での原発事故による被害はもっと甚大なものになっていただろう。
 個人的には10年前の中越沖地震よりも、13年前の中越地震の方がよく覚えている。この日は中村とうようさんの『収集百珍』の撮影のため、とうようさんのご自宅に居た。地下(1階だが、入り口が2階にある家だった)でとうようさんのコレクションを撮影中に揺れたが、物が倒れたりすることはなかったと記憶している。撮影が終わった帰り、駅のホームでまだ揺れている感じがしたのを覚えている。

 最近の気になったニュースから。
東電、トリチウム水は海に放出へ 川村会長が明言、漁業者ら反対
リニア3兆円借り入れ完了、JR東海の損得勘定
排外主義的な言動の男性が予告 川崎でデモ、抗議者と騒然

 13・14日は2日続けて氷見の祇園祭へ。15日は円隆寺の祇園会で行なわれる、さんさい踊りを見に行って来た。こちらの様子も追い追いUPします。

氷見の祇園祭
↑氷見の祇園祭。日吉神社のお神輿が巡行する。後ろには提灯を飾り付けた曳山が見える。↓円隆寺のさんさい踊り。
円隆寺のさんさい踊り

7月15日(土)

 富山市の寺町である梅沢町にある円隆寺の祇園会の際に踊られる盆踊り、さんさい踊りを見に行く。
 祇園会とは祇園神である牛頭天王(ごずてんのう)を祀った京都の祇園社(八坂神社)の祭礼だが、八坂神社から祇園神を勧請した各地の神社やお寺でも夏の疫病除けとして催される。
 円隆寺の祇園会はこれまで7月14日、15日の2日間行なわれていたが、電話で問い合わせたところ、今年から多くの人が参加し易いように14・15日に近い土日の開催になったそうだ。夕方7時頃から始まるそうなので、少し早めに着くように電車に乗る。
 今日も自転車を輪行して、16時56分に富山駅に到着。駅の観光案内所で梅沢町の詳しい地図を貰い、自転車で向かう。梅沢町まで歩いて行けないこともないが、30分くらいはかかるだろうか。
 17時半頃に円隆寺に着くと、境内には提灯が飾られパイプ椅子が並べられ、準備の最中だった。境内には「円隆寺とさんさい踊り」と題した案内板があり、以下のようなことが書かれていた。
 本寺は正覚山円隆寺と称する天台宗のお寺で、初代富山藩主、前田利次公の富山城入り以来、代々前田家の祈願所としての格式をもっていた。はやり病を払うという京都の祇園さまや、女性の川流れ除けの神さまとされ「かわうそ大明神」の呼び名で親しまれている如意輪観世音菩薩坐像を祀り、特に女性の参詣が多い。
 さんさい踊りは、毎年七月十四・十五日の両日円隆寺の祇園会の宵に、同寺の境内を中心にくりひろげられる盆踊りで、女の子だけの盆踊りということでは全国的にも珍しい民衆芸能といえる。この踊りの起源は、利次公が初代藩主として入城した寛永十六年(一六三九年)頃であろうと伝えられる。「サーイサンサイ、ヨンサノヨヨナーイ」というはやしことばには、「もう佐々(成政)の世ではない」という、前田家の治世を謳歌する意味あいがこめられているという。
◯富山市無形民俗文化財 さんさい踊り(昭和四十六年三月指定)
◯富山市有形文化財・彫刻 如意輪観世音菩薩坐像(昭和五十四年三月指定)

さんさい踊り01

↑提灯が飾られた円隆寺とお堂の中。

 さんさい踊り保存会の清水会長さんのお手隙の時に、お堂の中で少しお話しを聞き、資料をいただいた。今年の5月に婦中の鵜坂で開催された売比河鵜飼祭(めひかわうかいさい)を見に行った際に、さんさい踊りの他に、さんさい踊りの原型だという古さんさい踊りというのが出て来たが、どういうものかご存知か聞いてみたがわからないそうだ。また、円隆寺のさんさい保存会と鵜坂のさんさい踊りはあまり交流がないようだった。
 18時を過ぎると子供たちが集まって来た。既に浴衣を着た子もいれば、普段着で来てお堂で浴衣を着せてもらう小さな子もいる。さんさい踊りは元々は女性だけで踊る盆踊りだが、近年は少子化で女の子も少ないので小学生の男の子にも参加してもらっている。一応大人は婦人だけが踊るが、中には見に来て簡単な踊りなので輪の中に入る男性もいるようだ。
 19時になって保存会の清水会長が挨拶をし、そして踊りがスタートした。時期的に富山で一番早い盆踊りだろうか。
↓18時を過ぎると子供たちが集まって来た。→挨拶をする保存会の清水会長。
さんさい踊り03
さんさい踊り02
 提灯を吊り下げた円柱を囲むように、子供たちと婦人が輪になる。いただいた資料によると、現在のさんさい踊りは昭和46年に富山市の無形民俗文化財に指定されたのを機に振り付けされたもので、それ以前は浴衣に前掛け姿の子供たちが手をつないで輪を作り、唄に合わせてぐるぐる廻るだけだったそうだ。
 一つ気になるのは、女の子たちの浴衣に前掛けという姿で、昨年の9月4日に見た小矢部の綾子地区に伝わる願念坊踊りで法被に前掛けをしている姿とどこか似ている。さんさい踊りと願念坊踊りに何か接点があるのだろうか?
さんさい踊り04
さんさい踊り05
さんさい踊り06

↑女性は浴衣に「さんさい踊り」と書いた前掛けをして踊る。

 途中に短い休憩を挟んで、1時間ほどでさんさい踊りは終了し、子供たちは用意されたお菓子を貰って帰って行った。
 さんさい踊りは、明日も19時から行なわれる。雨が降れば、お堂の中で踊るそうだ。
 保存会長さんにご挨拶して、自転車で富山駅へと向かう。富山の中心部は歩道の中に自転車レーンが設けられているので安心して走れる。

 ところで牛頭天王は、蘇民将来説話に登場する武塔神と同一視されている。蘇民将来の話とは、旅の途中で宿を乞うた武塔神を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、蘇民の娘を除いて皆殺しにして滅ぼした。その茅の輪が、夏越の大祓の茅の輪くぐりに繋がって行く。
 つまり6月30日の夏越の大祓、7月の祇園祭、祇園会ともに牛頭天王に因んだ祭りということだ。また牛頭天王は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)とも同一視されているそうだ。
*富山新聞の記事

7月14日(金)

 氷見の祇園祭の2日目。今日の日吉神社での神事は12時からで、その後に昨日神幸した御座町以外の残り十町を御神輿が巡行する。北の日宮神社の御神輿も今日、旧六町を巡行する。南と北の御神輿を追いかけたいので、自転車を輪行して氷見まで行くことにした。
 11時40分に氷見駅に到着して急いで自転車を組み立てる。12時から神事が行なわれる日吉神社の横を通ると、各町の太鼓台が集合していた。日吉神社を通り過ぎ、湊川を渡って日宮神社の前に来ると御神輿が鳥居を出るところだった。もう既に神事は終わり、御神輿の巡行が始まる様子。日宮神社の御神輿は大小2基あり、先ずは大きい御神輿が一ヶ所参詣に行くというので着いて行く。
祇園祭01
 御神輿が参詣に訪れたのは300メートルほど歩いた光明寺で、僧侶に迎えられて神社総代の方々がお堂に入る。短い挨拶の後にお堂を出て、直ぐに日宮神社へ戻って行く。
 光明寺の方にお聞きしたところ、日宮神社の本殿が建っている場所は元々光明寺の敷地だったそうで、それを無償で譲った際に、祇園祭では一番に参詣するという取り決めになったようだ。
←日宮神社の鳥居を出る、大御輿。
↓光明寺への参詣。
祇園祭02
 大きな御神輿が一旦神社に戻り、小さな御神輿、六町の太鼓台と共に町内巡行を始める。北の方は神職と一緒に子供の右大臣、左大臣も行列に加わっている。新湊の「澗建のえびす様渡し」でお世話になった西宮神社の宮司さんも、供奉されていた。
祇園祭03
 しばらく北の巡行を見てから、氷見市立博物館と氷見市役所の観光課へ行き用事を済ます。14時半頃に戻って来て、今度は南の曳山巡行を見学。4基が露店が並ぶ中心商店街の国道415号を、ゆっくり巡行していた。写真を撮っていると、南上町の曳山の前に高校の後輩の加納君が居た。休憩中で、息子は曳山の上でソフトクリームを食べている。食べますか?と聞かれてモナカアイスをご馳走になる。氷見の曳山は各自の町内を廻る以外は国道415号を少し巡行するくらいだそうだ。また、昼の花笠山が終わったら山倉に戻り、提灯山になって巡行するのはたぶん地蔵町だけだという。
↓露店が両側に並ぶ中心商店街を巡行する曳山。→南上町の曳山と、加納君。
祇園祭05
祇園祭04
祇園祭06
祇園祭07

←↑御旅所となっている伊勢玉神社で休憩。お神酒が振る舞われる。

 伊勢玉神社の鈴木宮司さんが昨日、明日は15時に伊勢玉神社から御神輿が出ると仰っていたので自転車で向かうと、鳥居の下に御神輿と臨時の祭壇が設けられていた。既に神事は終わり、お神酒を呑んで休憩されていた。酒まんじゅうが配られ、一ついただく。
 日吉神社の御神輿の御旅所となっている神社は、伊勢玉神社と愛宕神社だそうだ。

 御神輿は15時20分頃に伊勢玉神社を出て、また各町内を巡行する。
祇園祭08
 こちらには16時頃に北と南を分ける中の橋に南の曳山が揃うと書かれているので待っていたが、御座町の曳山が橋まで来てUターンしていった。曳山が何基も揃うスペースもないようだ。
祇園祭09
祇園祭10
 氷見中心部の国道415号では曳山同士、曳山と太鼓台、曳山と御神輿がすれ違う。今年から7月14日を「ふるさと氷見に親しむ日」と決め、小中学校を学校給食後に放課としたそうで、いつの間にか通りには子供たちが溢れていた。
祇園祭11

 御座町、南上町、南中町、上伊勢町の曳山は国道415号を巡行しているのを見たが、地蔵町の曳山を見かけなかったので探しに行くと、もう少し海岸寄りの道を巡行していた。地蔵町は初日である昨日の夜は曳山を出さないが、今晩提灯山となって出るようだ。一昨年撮影に来た時は、地蔵町だけが夜の巡行を行なっていた。
 地蔵町の曳山をしばらく見た後、日吉神社へ行くと、ちょうど御座町の曳山が山倉に戻って来た。

←地蔵町の曳山巡行。
→17時頃、山倉に戻る御座町の曳山。

祇園祭12
祇園祭13
 南の方の御神輿と曳山を追いかけていたので、今度は湊川を挟んで反対側の北の御神輿の様子を見に行く。歩いて探すのは大変なので、自転車を持って来て良かった。
 探していると魚取神社の横に太鼓台が休んでいたので尋ねてみると、北の巡行は18時まで休憩に入っており、各町の太鼓台は町内に戻って休んでいるそう。18時頃に漁協に集合するという。
 漁協の方へ行くと、しばらくして雨がザーザー降り出した。
祇園祭14
 だんだん強くなる雨の中、休憩していた各町の太鼓台が漁協の方へ集結してきた。雨が少し弱くなるのを待って、透明のビニールで覆われた2基の御神輿と太鼓台が巡行を開始した。
 再び巡行が始まって30分ほどした頃だろうか、四つ辻で太鼓台同士のぶつかり合いが始まった。太鼓台に立てられた松の木に青年団の男たちがぶら下がり、「イヤサー イヤサー」の掛け声と共に台を左右に揺らす。そして双方の台をぶつけた後、押し競饅頭のように押し合う。ぶつけ合いが激しくなると、相手の太鼓台に飛び移る。太鼓台には衝撃に耐えられるように鉄板が貼られるなどして重さが1トン以上あるらしい。これがぶつかり合うのだから、軽乗用車の衝突くらいの迫力がある。
 曳山や夜高のように大きくないのでテンポよく次々とぶつかって行くので、これも面白い。例えれば曳山のケンカが闘牛なら、太鼓台のケンカは闘山羊といったところだろうか。
↓→突然始まる太鼓台のケンカ。
祇園祭16
祇園祭15
祇園祭17
祇園祭18
 2ヶ所ほどで北の太鼓台のケンカを見て、駅へと向かう。途中、日吉神社の横を通ると露店の前は子供たちで賑わっていた。
 太鼓台のケンカは夜も遅くなるほど激しくなるようだ。
 この日のケンカの様子がYou Tubeに色々UPされている。こちらこちら
 氷見駅で自転車を輪行袋に仕舞い、20時17分の電車で高岡へ。あいの風とやま鉄道に乗り換えて21時半頃に帰宅。

←露店でにぎわう日吉神社。

 氷見の祇園祭は15日までで、その様子を『氷見の祭りと年中行事』(氷見市立博物館)から引用。
<7月15日夕刻、例大祭と神幸が行なわれる。この日、神事の後、日吉神社正面を出た神輿は、同神社の玉垣の外側の道路を右回りに3回巡行した後、還御する。日吉神社の周囲を回るのは昭和13年の大火まで行なわれていて現在廃止された、13日夜の日吉神社から御旅所である手向神社への神輿の渡御と、15日の御旅所から日吉神社への還御の事を後世に伝えるため、とされる(平成7年7月15日夕刻、日吉神社)>
<15日の神幸に供奉するのは、斎主・副斎主ら神職と南十町の正副神社総代のほか、御座町と当年の年行司と次年の年行司にあたる三町の太鼓台で、平成7年度は上伊勢町、翌8年度は川原町が年行司をつとめる。祭典終了後、上伊勢町から川原町神社総代へ年行司の受渡し式が行なわれる(平成7年7月15日夕刻、日吉神社)>

*北日本新聞の記事、富山新聞の記事

7月13日(木)

 7月13・14・15日の3日間に渡り、氷見で祇園祭が行なわれる。氷見中心部を流れる湊川を挟んで町は南北に分かれ、それぞれ京都の八坂神社から疫病封じの神である祇園神(牛頭天王)を勧請した南の日吉神社と北の日宮(ひのみや)神社が御神輿を巡行する。
 祭りの由来は江戸時代に氷見の御座町で悪疫が流行し、住人が悪疫除けの神として京都・八坂神社の祇園神を分霊してもらい、朝日山王権現(現在の日吉神社?)に勧請して祀り、悪疫退散を願ったところ平癒したことから始まったとされる。やがて御座町に加えて南十一町(嘗ては十町)、北六町が加わり大きな祭りとなった。
 御座町が発祥ということで、初日の十三日は御座町だけが神幸される。そして14日は、南では残りの十町を日吉神社の御輿が、北では日宮神社の御輿が六町を巡行する。
 嘗ては南の御神輿には十町の曳山が、北の御神輿には六町のたてもん(移動式の10メートルを超える大人形)が供奉したが、現在は南北ともに太鼓台(屋台)が御神輿を挟むようにして先導している。
 北のたてもんは、町に電線が張り巡らされるようになり曵き回しが困難になったことから、大正四年の即位の大礼奉祝祭を最後に出されなくなった。
 南町の曳山は昭和の大火で5基が焼失。現在は5基がそれぞれの町内を中心に巡行する。

 今日は日吉神社で19時から神事が行なわれ、その後、御神輿が御座町を巡行する。今朝の北日本新聞に伊勢玉神社で南十町の曳山の一つだった下伊勢町の曳山の人形と衣装が展示されるという記事が掲載されていたので、少し早めに氷見駅に着くようにした。下伊勢の曳山は昭和の大火からは焼失を免れたものの、当時から傷みが激しかったので、昭和初期以降に曳き回されなくなっていたそうで、29年ぶりの公開だという。

祇園祭01
祇園祭02

↑伊勢玉神社と曳山人形の展示。

 氷見駅に16時49分に着いて、駅から5分ほどの伊勢玉神社へ。入り口には下伊勢の太鼓台が止まっていた。曳山の人形が展示されている拝殿のガラス戸が閉まっていたので、社務所に挨拶に行くと鈴木宮司さんが出て来られた。今年の正月に撮影した火祭の時の写真プリントをお渡ししてから、拝殿の曳山人形を見せていただき写真に撮らせてもらった。伊勢玉神社の鈴木宮司は日吉神社の禰宜として、今日の神事で副齋主をつとめられるそうだ。

 伊勢玉神社から日吉神社に歩いて行くと、ちょうど神社の横にある山倉(収納庫)から御座町の曳山が出るところだった。御座町の山倉には、祇園祭の由来を記した案内板がある。以下、

日吉神社「祇園大祭」の由来

 元禄九年(一六九六年)初夏のころ、交易地湊川沿いにある御座町の朝日小路で「三日ころり」(コレラに似た熱病)が発生した。
 町内の久津呂屋喜太郎なる者もこの病いにかかり、明日をも知れぬ身となった。京都・八坂神社(祇園宮)に行儀見習いに出ていた娘は八坂神社御祭神の分霊を拝受して氷見へ帰り、一心に平癒祈願したところ父親の病状が回復し、さらに氷見町に荒れ狂っていた「三日ころり」がおさまってきた。御座町の人々は祇園の神霊に感謝して旧暦六月十三・十四日に久津呂屋でお祭りする習慣となったが、同人は自宅にご神霊をお預かりするのは畏れ多いことであるとして手向神社(御座町)にお移りいただいた。この噂がひろまり、手向神社(相殿八坂神社)の祭礼は各町内へ広まっていった。
 霊験あらたかなことに感謝した御座町では、相談のうえ氷見町全体の鎮守である「日吉神社」へお移りいただくことにした。その後、日吉神社(相殿八坂神社)のご神霊として御神輿に乗せて十一台の太鼓台が先導役となり、十三日は御座町、続いて十四日は各町内へご巡幸を願い、さらに五台の曳山(氷見大火以前は十台)も彩をそえ、南町挙げて家ごとのお祭りとして盛んになり現在に至っている。            日吉神社宮司 大森 均

祇園祭04

 日吉神社の境内には透明のビニールに包まれた御神輿が鎮座していた。お賽銭を入れお参りした後、神事が始まるまでまだ時間があるので、周辺を見て歩く。町の中心部を走る商店街である国道415号には露店が並び、提灯を飾った曳山が3基出ている。南上町の山宿には本座人形が飾られていた。
 しばらく散歩して18時過ぎに日吉神社に戻って来ると、御神輿のビニールは外され、神社のまわりには十一町の太鼓台が集まっていた。
 やがて拝殿には各町の神社総代が参集し神幸祭が始まり、修祓、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠が行なわれる。

↓祇園祭の神幸祭。→拝殿前に置かれた御神輿を修祓。
祇園祭05
祇園祭04
 玉串奉奠の後、社の灯りが消され八坂神社の御霊代が、本殿から御神輿に移される。
祇園祭06
祇園祭07
祇園祭08

↑社の灯りが消されて薄暗い境内に神職の「オー」と言う咆哮が響く中、八坂神社の御霊代が御神輿に移される。

←神事が終わり、神職と各町の神社総代が拝殿を出て御神輿巡行が始まる。

 鳥居の前では、早くも各町の太鼓台を引く青年たちが威勢の良い「イヤサー イヤサー」の声を上げている。氷見の祇園祭は、曳山よりも太鼓台が祭りの華のようだ。

祇園祭09
 太鼓台を先頭に、幟、御幣を飾った台、御神輿、そしてまた太鼓台が隊列を組んで御座町を巡行する。道路の両端に露店や曳山の並んだ国道では、人混みの中をかき分けるようにして太鼓台と御神輿が進む。太鼓と笛の音がアチコチから聞こえる中、神職が手分けして「御駐輦」と書いた紙が貼られた家を祈願してまわる。
 花(祝儀)を貰った太鼓台は、「イヤサー イヤサー」の掛け声を上げて台を左右に振って荒ぶれる。神様を喜ばせるためだろうか。遅い時間になれば太鼓台同士のぶつかり合いも繰り広げられる。今日は御座町だけの巡行だが、日吉神社に御神輿が戻るのは23時頃だという。
 明日もあるので今日は早めに切り上げて、氷見駅を20時55分発の電車で高岡へ。高岡であいの風とやま鉄道に乗り換えて、家に着いたのは22時半頃だったろうか。
*北日本新聞の記事記事

7月12日(水)

 昨日は富山の最高気温が37.3℃まで上がり、日本一の暑さとなった。高岡も37℃近かったんじゃないだろうか。プールから帰った午後、家で今年初めてのスイカを食べた。

 今日も蒸し暑かったが、夕方に一時激しい雨が降った後は、少し気温が下がったようだ。
 ネットでは、蓮舫議員が戸籍を公開する方針を明らかにしたという話題で論争が起きている。SNSで色んなコメントを読んだが、一番共感できるのは政治学者・山口二郎氏のこの蓮舫が今、「真正な日本人たれ」という同調圧力に屈したら、それは選挙の敗北なんかよりはるかに大きな害悪を後世の日本に残すことになる。公職に就く人が自分の戸籍謄本を公開して自分は神聖な日本人だと言わさ得るような社会を想像してみよう。それは悪夢だ>だ。
 昨年から二重国籍だなんだという批判の声がFacebookにも流れて来るが、何か不都合があり問題があるのだろうか?彼女の戸籍に法的な問題があれば、そもそも選挙に出て議員になることも不可能だろう。出馬するに際して戸籍謄(抄) 本の提出が義務付けられているのだから。例えれば、入り口でガードマンのチェックを受けて手荷物も預けたのに、挙動不審だから皆の前で裸になれと言っているのに等しい。
 今回さらに問題なのは、先日の都議選での敗北を受けて身内である民進党議員の中から彼女の戸籍問題に関する批判が出ていることで、民進党のどうしようもなさがここに現われている。
 戸籍と言う究極のプライバシーを、何の違法性もないのに公開せよというのは単なる人権侵害だろう。この国の色んなところでタガが外れている。

 今年の1月22日に撮影した、山町筋の天神様祭の様子をPhoto Albumにしました。こちら

天神様祭01
↑雪が降る山町筋。↓高岡市土蔵造りのまち資料館での、様々な天神様の展示。
天神様祭02
 核兵器禁止条約が日本時間の8日午前0時頃に賛成多数で採択されたが、核兵器の被爆国であるにも拘らず日本は不参加。
 昨日、277の罪で犯罪を計画し準備を始めた段階で処罰される、共謀罪が施行された。

7月10日(月)

 高岡の今日の最高気温は30℃位だったろうか。あまりの蒸し暑さに、午後から今年初めてプールへ泳ぎに行った。平日の午後、帰り際に小学生の子供たちとすれ違ったが、それまでは貸し切り状態だった。
 沖縄と北海道の最高気温が、共に33℃。そろそろ沖縄と本土の最高気温が逆転する頃だろうか。沖縄や奄美の日差しは肌に刺さる感じで痛いほどの強さだが、海風が吹くこともあり気温そのものは35℃を越えることはあまりない。
 電気代が勿体なかったこともあって、奄美と沖縄で過ごした4年間はエアコンを使わないで過ごした。共に最上階の部屋だったので暑かったけれど、窓や玄関を開けておけば風のある日は気持ちよく過ごせた。特に奄美は名瀬港の横のビルだったので、海を渡る風が抜けて行くと快適だった。
 ところで防衛省が基地周辺の学校を対象とする空調補助費に関し、沖縄県内6校への補助を廃止する決定をしたそうだ。琉球新報のこちらの記事によれば、<空調維持費補助はうるささの度合いに応じ4等級に分かれる。うるささの度合いが高い1、2級の補助は継続されるが、3、4級は16年度以降に空調設備の更新などで実施設計を行う空調維持費補助が廃止されることになる。米軍基地だけでなく自衛隊基地も含まれる。防衛省は3、4級の補助廃止について、国の財政事情の厳しさをあげながら、1、2級よりも「比較的、影響が少ない」ことなどを理由に交付要綱が変更されたと説明した>と書かれている。
 具体的にどこの学校が廃止されるのかわからないが、沖縄である以上米軍や自衛隊のヘリや戦闘機の騒音と無縁では居られない。那覇にしても、普天間や嘉手納からは少し離れているがオスプレイは頻繁に上空を通り、スクランブルをかけに飛び出す自衛隊機も轟音をまき散らして通過して行く。
  国の財政事情の厳しさをあげるなら、もっと他に削れるところはあるだろう。高江の米軍ヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)の警備費が、1日平均1775万円だそうだが、これなど最たるものだろう。

 九州豪雨、犠牲者が23人になり、避難者はまだ1885人に上る。大きな災害になってしまったが、未だ政府の要人が現地に入ったという話しは聞かない。防衛大臣はどうしたんだろうか?そう言えば、防衛大臣の夫が新潮社などに損害賠償を求めた訴訟で、最高裁は名誉毀損を認めず敗訴が確定した。防衛大臣もその夫も共に弁護士だが、このところ自身の裁判で連敗しているのではないだろうか。
 今回の九州豪雨を引き合いに、またネットでは民主党時代のスーパー堤防の仕分けについて槍玉に挙げている人がいるが、九州の豪雨と関東のスーパー堤防に何の関係があるのだろう。また、昨今の豪雨災害をみれば大きな河川の氾濫より、その支流での決壊による被害が目立っている。
  政権が変わってまたスーパー堤防の整備事業が復活したようだが、一説には完成は300年後で総事業費は66兆円という試算もある。スーパー堤防が費用対効果でどれほど意味のあるものなのか、もう一度検証する必要はないのだろうか。
 近年、毎年繰り返される豪雨による災害を見ていると、未然に防ぐための防災事業ももちろん大切だが、 被災者救済にかける費用も大切だろうと思う。もはやどこがいつ豪雨に見舞われ、誰が被災者になるかわからない時代なのだから。

朝仁海岸
↑2010年の豪雨災害で、たくさんの流木が打ち上げられた朝仁海岸。2010年10月24日撮影。
 今年の1月15日に撮影した塞の神まつりの様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
塞の神まつり01
↑子供たちは二手に分かれて家を一軒一軒まわり、塞の神の歌を唄う。その間、大人たちは正月飾りなどを付けた左義長のやぐらを組んでいる。↓家をまわり終えた子供たちが、火のついたやぐらの前に並んで塞の神の歌を唄う。
塞の神まつり02
 昨日は、各地で安倍政権に対する抗議デモが行なわれた。今日発表された政権支持率は軒並み下落しているが、それでも30%以上ある。まだ3割り以上の人が支持していることが不思議でしょうがない。

7月6日(木)

九州豪雨300人超孤立 死者3人、救助捜索続く
避難者「何もない。跡形もない」 九州豪雨、救助続く
写真特集 大雨特別警報 福岡、大分で発令 九州で初
 昨日からの雨で九州の福岡、大分を中心に大きな被害が出ている。局地的な豪雨による河川の氾濫、土砂崩れによる災害が近年、毎年起こっている。今日も50年ぶりの大雨というフレーズをニュースで聞いたが、これも最近は毎年のように聞く言葉で、毎年どこかで50年に一度の大雨が降っている。
 2010年10月に奄美大島を襲った雨は100年に一度の豪雨と当時言われたが、次の年の9月にも同じような豪雨に襲われた。

 都議選で大敗した自民党が、首相抜きでの閉会中審査を提案佐川宣寿理財局長を国税庁長官とする人事を発表。自民党、凄いな。よくこれだけ自分たちの支持率を下げるアイデアが、次々と浮かぶな。

 青森の六ヶ所村で進めている使用済み核燃料の再処理事業の総事業費が13.9兆円に上る見通しだという。
再処理工場は当初、1997年の完成予定で、建設費は7600億円を見込んでいた。だが、その後、技術的な課題の解決に時間がかかり、完成時期を20回以上延期してきた。それに伴い、建設費は2兆1900億円に膨らんでいた。技術的な問題はほぼクリアしたものの、2011年の東日本大震災と原発事故を受けた新規制基準への対応で今回さらに膨らみ、建設費は3兆円を超える可能性もある>。
 東日本大震災で過酷事故を起こしたのは福島第1原発だが、広瀬隆さん、広河隆一さんらがスリーマイル島、ウィンズケール、チェルノブイリに次ぐ四番目の恐怖として名前を挙げていたのは六ヶ所村の再処理工場だった。
 また、日本原子力研究開発機構が所有する茨城県東海村にある使用済み核燃料の再処理施設の廃止作業に70年間の年月と、1兆円の費用がかかるとする試算が明らかにされた。
 原発のどこが安いんだろうか。ちなみに製造業としては戦後最大の大型倒産であるタカタの負債総額が、1兆7000億円ほどだと言われている。

 クリエイションのドラマー、樋口昌之さんが7月3日に亡くなった。高校生の頃、このアルバムをよく聴いて、樋口さんのドラムをコピーして練習もした。何曲かは学園祭で演ったりもした。ジャケットの写真も含めて、懐かしいアルバムだ。それにしても、63歳は・・・早いな〜。

 今年の1月14日に撮影した伊勢玉神社の火祭の様子をPhoto Albumにしました。こちら。祭は左義長(どんと焼き)と同じく竹でやぐらを組んで、そこにお正月に飾った門松やしめ縄、書き初めなどを持ち寄って焼き、その燃え上がる火で焼いたお餅を食べて無病息災や家内安全を願う行事。民俗学的には門松やしめ飾りで出迎えた歳神を、それらを焼く事で炎と共に見送る意味があるという。

伊勢玉神社の火祭01
↑神前で起こした火を移した行燈を手に持ち、境内に作られた正月飾り等を積み上げた櫓の前で祝詞を奏上する鈴木宮司。↓燃え盛る炎の中に、餅を吊るした棒をかざして焼く参拝者。この火で焼いた延命餅を食べると、一年間無病息災で過ごせるという言い伝えがあるそうだ。
伊勢玉神社の火祭02
 髪の毛が伸びて来たので散髪に。上着は理容院の制服だが下は体操着の女の子が二人、「お疲れさまでした」「ありがとうございました」と元気な声を出し、時々床を掃いたりしていた。中学校の職場体験授業だろうか。

7月3日(月)

 夜中に何度かトタン屋根を激しく打ち付ける雨音を聞いたが、目覚めるとそこそこよいお天気で、30℃を超える真夏日になった。日中は晴れのち曇りだったが、夕方からは時おり激しい雨。梅雨だな。
 一昨日は北陸地方が豪雨に見舞われ、地元の山間部、五位や小野、西明寺などに避難準備、高齢者避難開始の勧告が出た。奄美や沖縄では台風シーズンによくエリアメールが届いたが、富山では初めての経験かな。
 昨日は都議選が行われ、投票が締め切られた20時の段階で自民の大敗、都民ファーストの圧勝が報道された。詳しい結果はこちらに掲載されている。
 しかし小池知事の政策が上手く行って都民から支持されている間は大丈夫だろうが、どこかで政策を誤ったり都民ファーストの議員による不祥事が続いて信頼を失い支持が大きく下がれば、自民の補完政党となるかもしれない。維新のように。それにしても、今回の都議選で維新が根絶やしにされたかと思ったら、まだ1議席残ったのが個人的には残念だ。
  都議選翌日の今日、小池都知事は都民ファーストの会の代表を3日付けで辞任し、後任を野田数氏が引き継ぐことを発表した。野田数氏についてネットで検索しても、あまり良い話しは引っかからない。
「都ファ」新代表の「人柄」とは 「国民主権放棄」「公金横領疑惑」「ハレンチ豪遊」
都民ファースト代表・野田数氏、猪木から横領告訴&六本木豪遊報道に不安の声広がる…
野田数氏とは? 都民ファーストの会・新代表は「日本国憲法は無効」の請願に賛成した過去
 小池都知事は右も左も分からないような新人議員をこの都議選で大量に生み出したが、代表を退くということは自らの手で育てることを放棄したと捕えられてもしょうがない。都民ファーストに票を入れた都民は、どう思うのだろうか。
 今日発表されたJNNの世論調査で、安倍内閣の支持率が第2次安倍政権の発足以来最低の43.3%となり、不支持率が上回った。しかし、まだ40%以上いる支持者はどこがいいんだろうか。不思議でしょうがない。
 
 ところで安倍首相が今回の都議選で唯一街頭演説した一昨日の秋葉原は、凄まじい「帰れコール」が沸き起こった。 この秋葉原の街頭演説に関して元東京都知事の猪瀬直樹氏がツイッターで不用意な発言をして、直ぐに撤回した。
テレビで見たけれど、あの「安倍辞めろ」コールはプラカードなどから、共産党の組織的な行動ですね。ところがふつうの視聴者には、「辞めろ」はあたかも都民の声と聞こえてしまう。そこが安倍首相・自民党がおかれた逆風の厳しさだね
 彼はプラカードのどの部分を見て、共産党の組織的な行動だと思ったのだろうか。 撤回するだけではなく、そのことに対する説明は必要だろう。ノンフィクションとは事実を積み重ねて紡ぐものだと思っている。指摘を受けて直ぐに撤回しなくてはならない不用意な発言は、およそノンフィクション作家の肩書には相応しくない。
  それにしても伸晃・・・(笑)。

 昨日はもう一つ注目の戦いがあった。こちらはデビュー戦以来勝ち続けて来た14歳のプロ棋士、藤井聡太四段が公式戦で初の黒星となり、連勝記録が29でストップした。一回の対局に11時間半かかることが自分の理解を超えていて、驚きでしかない。

 今年の1月9日に撮影した利賀の初午の様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら

利賀の初午01
↑子供が五穀豊穣と家内安全を祈願し一軒一軒門付けしてまわる利賀村の初午。神主役の子が祝詞を奏上した後、お囃子に合わせて馬が首と尻尾を振って踊る。↓門付けした家から祝儀を受け取ると、次の家へと歩いて移動する。
利賀の初午02
 昨日、台風3号が発生した。明日には九州に上陸し、その後は本州を横断しそうな進路だ。

6月へ