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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表 ◯製作中の富山の祭りと芸能 |
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7月13日(木)、14日(金) 氷見祇園祭 ◯小川寺の獅子舞 宮田・火祭り1月第4日曜日 記事 記事 |
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◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作 ◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作 ◯久高島の年中行事 平成17年度作成 ◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作 ◯ 「まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作 ◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作 ◯幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】 ◯村踊 沖縄県伊江村伝統芸能 ◯喜屋武(チャン)の綱引き ◯与那国島の行事 ◯ 「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作 |
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○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html ○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/ ○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html ○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm ○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/ ○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/ ○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/、 ○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy ○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/ |
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午前中に特定健康診査を受診。一年前に比べて、体重が5キロほど減っていた。ご飯とお酒の量を多少控えるように心がけた成果だろうか。 ◯7月25日、民進党の野田幹事長が都議選の責任を取って辞任する意向を表明。 昨日は城端別院善徳寺の虫干法会と、福光ねつおくり七夕祭りを見に行って来た。こちらの様子も後々UPいたします。 |
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↑善徳寺の虫干法会にて、蓮如上人の生涯を解説する絵解き。 |
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↓かきごおりやさんに なれますように☆・・・自分で食べる気満々だな(笑)@福光ねつおくり七夕祭り。 |
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先日は井波の瑞泉寺で聖徳太子の遺徳をしのび、その生涯を絵解きする太子伝会を見て来たが、城端の善徳寺で22日から28日まで開催されている虫干法会でも蓮如上人と聖徳太子の絵解きが行なわれているので見に行くことにする。 | ||
絵解きは午前と午後の2回だそうなので、善徳寺の寺務所に電話をして時間を確認し、撮影の許可をいただいた。 家から自転車で戸出駅まで行き、12時4分発の電車で城端へ。今日は自転車は戸出駅に置いていく。 城端に12時41分に到着し、歩いて善徳寺に向かう。 寺務所にご挨拶に行くと、絵解きだけではなく山門の天上画を除いて他の宝物も撮影の許可が頂けた。 |
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↑本堂での勤行と本堂に祀られた阿弥陀如来像。 蓮如上人の絵解きは14時からと聞いていたが早めに本堂へ入ると勤行の最中だった。勤行、そして法話が終わると、本堂の右側で絵解きが始まった。 |
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↓→年に一度、この虫干法会の時だけご開帳になる蓮如上人坐像。 |
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◯本堂に貼ってあったプログラムから。 本堂での蓮如上人の絵解きの後、新講堂に移動して最初に親鸞聖人像のご開帳と縁起拝読、そして同じ部屋で名古屋大学の大学院生による聖徳太子の絵解きが行なわれた。 ←親鸞聖人像のご開帳と縁起拝読。 |
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↑聖徳太子の絵解き。↓聖徳太子2歳像の縁起拝読。→ご開帳された聖徳太子2歳像。 |
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聖徳太子の絵解きには、厨子に納められた太子の2歳像を挟んで左右に2幅、計4幅の掛け軸が並べられていた。聖徳太子の絵解きが終わると、また宝物のご開帳と縁起拝読が続く。 | ||
↑善徳寺6世、空勝像のご開帳と縁起拝読。↓→栴檀香木阿弥陀如来像のご開帳。 | ||
阿弥陀如来像のご開帳と縁起拝読までがコースのようで、時間も16時になっていた。ここで拝観者は解散。後は、虫干も兼ねて展示してある様々な宝物を見てまわる。外は土砂降りの雨で、もう既に今日の展示が終了している部屋もあった。 | ||
↑上段左は舞楽の演目が絵柄の内敷。下段右は、加賀藩10代藩主前田斉泰の十男で、1歳の時に善徳寺住職となり翌年死去した亮麿(すけまろ)が愛用した玩具の木馬。 ←本堂。↓左は鐘楼堂と本堂、右は式大門。 |
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善徳寺を出ると、直ぐ横に4つの蔵が並んだ蔵廻廊がある。 善徳寺の食堂で販売されるお斎を食べようと思っていたが、こちらは13時半頃でお仕舞いでお昼ご飯を食べ損ねた。スーパーでいなり寿司とカレーパンを買って食べて、井波駅へと向かう。 空が明るくなって来ており、このまま晴れそうなので、城端駅から福光駅へ。今日から始まる福光ねつおくり七夕祭りを観に行く。 |
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18時頃に福光駅に着くが、駅前には七夕飾りが3つくらいしかない。こんなものなのか?と思いながら駅前の通りを進むと商店街があり、屋台の準備をしている。七夕飾りはどこですか?と尋ねるともう少し先に沢山あるという。なるほど、しばらく歩くと長い竹竿にビニールの吹き流しと人形を飾り付けた七夕が道の両端に並んでいた。 各商店街では趣向を凝らした屋台や催し物をやっており、中学校の吹奏楽部のマーチングが通りを賑わしている。 |
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↓→19時30分からは民謡の街流しが始まった。 |
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民謡の街流しは商店街を抜けて、駅前ロータリーで輪踊りになり、20時30分頃に終了した。20時48分の高岡方面行きの城端線で戸出駅へ。駅にとめておいた自転車で家へと走る。今日は雨の中を自転車で走る覚悟も少ししていたけれど、なんとか濡れずに帰れた。 | ||
*虫干法会についての北日本新聞の記事、富山新聞の記事。福光ねつおくり七夕祭りについての北日本新聞の記事、北國新聞の記事。 | ||
昨日は土砂降りの雨だったが、今日は雲が多いながらも晴れ間も見えた。乾いた冷たい風が吹いて、過ごし易い一日だった。富山もそろそろ梅雨明けかな? | ||
今日、宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで催された大田昌秀元沖縄県知事の県民葬に、政府代表として安倍首相が出席し「基地負担軽減に引き続き全力を尽くす」と述べたそうだ。 富山出身で、ユーミンなどのバック・バンドでギターを弾いていた中川雅也君が亡くなって、昨日で一年になる。 |
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昨日、今日と富山は梅雨らしく雨。昨日は秋田で、今日は新潟で豪雨による被害が出ている。このところの雨の降り方は、やはり尋常ではない。 ◯ 残業時間の上限規制「東京五輪まで猶予を」 運輸・建設業界 国立病院が無菌室を増設するためにクラウドファンディングで資金を募集し、人手不足だからと残業時間の上限規制を猶予する。繰り返し、この国は大丈夫だろうか? |
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一昨日は井波別院瑞泉寺の太子伝会へ、昨日は芦峅雄山神社の例大祭を見に行って来た。こちらの様子も後々UPいたします。 | ||
↑絵解きが行なわれた井波別院瑞泉寺の太子堂。↓芦峅寺の布橋。 |
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22日、23日は芦峅寺にある雄山神社の例大祭。昨日は2基のお神輿が集落の大通りを巡行し家々で祝詞をあげ、今日は2基のお神輿が境内を競うように神幸する。 雄山神社は峰本社、中宮祈願殿、前立社壇の三社で構成されており、芦峅寺の雄山神社は中宮祈願殿にあたる。 事前に閻魔堂の「おんば様のお召し替え」の際にもお世話になった、芦峅女性の会の会長さんに問い合わせたところ、神事は13時から。あいにく朝から雨が降っているが、立山博物館にも行きたいので、少し早めに到着するように家を出る。 |
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富山地方鉄道の富山駅を9時7分に出発して、芦峅寺集落の最寄り駅である千垣に到着したのは9時57分。駅の隣りにはバス停があるが、集落行きのバスは日曜は運休のようだ。 富山でも呉西の平野部に住んでいると、呉東の山の方は見慣れない景色なのでとても新鮮。雨の降る中、風景を写真に収めながら雄山神社を目指して歩く。 ←千垣駅と富山地方鉄道の電車。 |
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↓常願寺川。→芦峅雄山神社。 |
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写真を撮りながら歩いたので、千垣駅から雄山神社まで30分ほどかかった。あいにくの雨だが、雨に濡れた鎮守の杜の緑が美しい。ただ、この雨でお神輿が出るのか不安になる。境内の奥にある祈願殿に行くと、昨日町内を練り歩いた2基のお神輿が安置されていた。お神輿が出せるかどうかは、ギリギリまで分からないという。 今日の神事の内容が、立山町のサイトの立山歳時記に詳しく掲載されているので引用させてもらう。 26日は境内の巡行で、大宮と若宮からそれぞれ霊代を勧請した神輿が、大宮参道の分岐点で対面し、出会いの挨拶をします。そして、若宮の神輿を先頭に鳥居前まで移動しここで神事が執り行われます。続いて大宮が先行して境内に進み、石舞台で「立山の舞」が奉納された後、ふたたび分岐点に戻ります。ここで、告別の挨拶を交わすと2基の神輿は勢いよく各宮に駆け戻り、霊代を納め、祭を終えます。 動画がこちらにあります。 嘗ては旧暦の6月14日、15日に開催されていたようだが、新暦の7月25日、26日になり、現在は25日、26日に近い土日に行なわれているようだ。 |
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↑祈願殿に安置された2基のお神輿。 |
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神事が始まるまでだいぶ時間があるので、境内の各宮を撮影して歩く。3月におんば様のお召替えで来た時は境内に雪がまだ残っていたので、これほど木々が美しいお宮だとは思っていなかった。 | ||
↑上段左:斎館/上段右:祈願殿 中段左:若宮/中段右:大宮 下段左:開山堂/下段右:苔むした切り株。 ←教算坊。 境内を出て近くの教算坊へ。嘗て立山中宮寺にあった三十三の宿坊の一つだそうだが、建物自体は宿坊の面影を残していないようだ。教算坊の室内の展示を少し見てから、立山博物館へ。尋ねたいことがあって受付に行くと、学芸員の方が対応して下さった。 |
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聞きたかったのは『とやまの民俗芸能』(北日本新聞社)の「御霊信仰と祇園会」の項目に書かれている文章で、そこには<藩政期に越中の十村役人が綴った「杉木文書」によれば、旧暦の六月十五日に催された有峰地区の薬師祭りは、祇園祭りであって、この日に津島(現在の愛知県西端部)から御師(祈祷師)が来ていた。同書には、芦峅寺地区でも、六月十四、十五の両日は、津島と京都祇園社の祇園祭りと同時刻に御霊会としての夏祭りを催したと記されている。立山町宮路地区では、祇園祭りの日に津島の神官が猿駒曳きの絵像を持って厩の祈祷に訪れたとの伝承もある。さらに、芦峅寺地区の祇園祭りにみられる山祭りと融合した形は、祇園信仰(御霊信仰)が京都方面からだけではなく、岐阜県の飛騨地方からも山を越えて富山県に伝わったことをしめしている>と記されている。 芦峅寺で旧暦の6月14日、15日に行なわれる祭りは雄山神社の例大祭で、嘗ては祇園祭りとして催されていたのではないかという疑問を聞いてみた。残念ながら学芸員の方はそのような話しは聞いたことが無く、少し調べてもらったが資料もないそうだ(後に雄山神社で神職のお一人に尋ねたところ、可能性は否定できないというお答えだった)。 尚、先日祇園会の際にさんさい踊りが行なわれた富山市梅沢町の円隆寺は立山信仰の芦峅寺と密接な関係があり、同寺に祀られている観音菩薩坐像はもと立山山中に祀られていたと推測されている。 閻魔堂で行なわれる「おんば様のお召し替え」の際も、円隆寺の住職が読経されていた。 博物館を出て、今度は山岳集古未来館へ。現在祭りに使われているお神輿は新しいもので、前田利長公より寄進されたといわれる2基のお神輿がこちらに展示されている。展示されたお神輿の前に、「芦峅寺の立山大権現祭と神輿」と題したパネルがあり、以下の説明があった。 芦峅寺では、毎年旧暦の6月14日と15日の両日に立山大権現祭が行なわれてきました。立山曼荼羅にも獅子頭を先頭に、芦峅寺衆徒や社人が神輿とともに練り歩く様子が描かれています。この祭礼には、立山大権現と立山開山の佐伯有若・有頼父子を祀る意味があり。御霊を2基の神輿に遷座して境内や村内を練り廻りました。 ここに展示する2基の神輿は、加賀藩主(二代目前田利長公といわれる)より寄進され、立山大権現で使用されたものです。嘉永6(1853)年に大修復されていますが、製作当初の形態を今に残しており、大きさ、煌びやかな装飾は他の神輿に比べるべくもない豪華さです。修復には、富山・高岡・井波の優れた工芸技術が凝集されています。所要経費は当時、130両1分2朱と金1匁7分3厘、現在の価格にして3900万円余となり、大変な額です。当時の芦峅寺の人々のステイタスであり、立山の豊穣と息災を祈る象徴がこの神輿でした。 |
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12時半頃になり祈願殿の方に戻ると、雨のためお神輿の巡幸は中止が決まった。祈願殿に安置されている2基のお神輿を青年団の若者が、境内の蔵へと運び入れる。そしてお神輿の巡行なしで、神事が執り行われる。 |
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神事の始まる13時少し前に、列席者が祈願殿に参集。 |
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↓→神職が柄杓で掬った水で手と口を清める。 |
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2日目の神事は本来鳥居の下の広場で、巫女による「立山の舞」の奉納は境内の石舞台で行なわれるが、雨のためにどちらも祈願殿で行われることになった。 祓言葉、修祓が行なわれた後、神職が二人ずつ2組に別れて大宮と若宮に安置されているご神体を取りに行く。 ←祈願殿での神事。 ↓神職の一人が若宮にご神体を取りに行き、もう一人は下で「オー」と警蹕(けいひつ)を発する。 |
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↑若宮と大宮にそれぞれ祀られていたご神体を、お神輿の代わりに神職が抱えて祈願殿に勧請する。 |
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↑献撰。巫女が運ぶのは初めて見た。そして祝詞奏上が行なわれた。 |
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↑「立山の舞」の奉納。↓玉串の奉奠と、撤饌。 |
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↓→玉串奉奠と撤饌が終わり、再び神職の手によってご神体が大宮と若宮に還される。 | ||
↑大宮にて。神職の一人が殿に入りご神体を還す間、もう一人の神職が「オー」と警蹕を発する。 |
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↑神職がご神体を還御している間、祈願殿の軒先では神楽が演奏されている。 |
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↓ご神体がお還りになり神事が終了。→今日は出番がなかった、神輿を先導する天狗。 |
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神事は、お神輿が出なかったことで色々と変則的な進行となったようだが、14時頃に終了した。15時半から雄山神社に隣接する芦峅公民館で、地域を盛り上げようと青年団が企画した「第1回あしくらサマージャンボ抽選会」が開催されるので、それまで今年の9月24日、3年に一度の布橋灌頂会が行なわれる布橋や閻魔堂の辺りを散策。雨に濡れた木々の間に見える、朱色の布橋が美しかった。 | ||
抽選会は芦峅寺の住民は各戸に1枚、そして例大祭を手伝った人に1枚応募用紙が配られ、名前を記入して抽選箱に入れる。それを箱の中から引いて当選者が決まる。1等から5等まであり、5等だけは3名。合計7名にプレゼントがある。旅行券など豪華な賞品で、かなり盛り上がっていた。 |
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20分ほどで抽選会が終了して、公民館を後にする。来る時と同じように、雨の中を風景を撮影しながら千垣駅へと歩く。観光バスが頻繁に通り過ぎて行く。そう言えば、立山博物館にも観光バスで訪れる人が多かった。 | ||
↓→降った雨が次々に蒸発している。→常願寺川の水が茶色く濁っていた。 |
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千垣駅に着いて、待合室で16時39分の富山行きを待つ。千垣駅より先はまだ行ったことがない。どんな景色だろうか。 | ||
*富山新聞の記事。 |
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井波の瑞泉寺で聖徳太子の遺徳をしのび、聖徳太子の掛け軸8幅を並べて僧侶が絵解きをする太子伝会が7月21日から29日まで開催されている。1710年頃に始まったとされる、瑞泉寺の伝統行事のようだ。 明日までとなってしまったミュゼふくおかカメラ館での『世界遺産x富井義夫ー地球への讃歌ー』を見てから、家にカメラを取りに行き、戸出駅まで自転車で走る。自転車を折りたたんで12時4分発の城端線で福野駅へ。12時24分に福野駅に到着して自転車を組み立て、プリントアウトしてきた地図を見ながら井波を目指して走る。 |
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↑井波別院瑞泉寺の山門(大門)と、山門の下から見た本堂。 13時10分過ぎに瑞泉寺に到着し、絵解きが行なわれている太子堂へ。僧侶の方が絵解きをしている途中だったので、空いている椅子に座ってその話しに耳を傾ける。 |
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絵解きが終わると、お手伝いの方々が籠を持ってお布施を集めに来られる。するしないや金額も決まりはないが、ポケットの中から小銭を出して籠に入れる。 絵解きを2つ聞いて、祭壇から出て来られた僧侶の方にお話しを伺った。先ず、太子影像(聖徳太子の掛け軸)は、今回の太子伝会以外にも要望があれば農閑期だけではなく一年を通して村々に運び絵解きを行なっているそうだ。その場合、8幅はかさばるので、1番と2番だけとか、枚数を減らして持ち運ぶ。また持って行く掛け軸は、巡回用のものが在るそうだ。宝物として展示されるもの、太子伝会でご開帳するもの、巡回用と聖徳太子の掛け軸は3種類存在することになる。 また、瑞泉寺の影像と言えば乗如の姿を達如が絵師に描かせた影像を、毎年正月に井波を出発して県内各地を回って12月末に瑞泉寺に戻って来る御影様渡しが知られている。嘗ては年間に700ヶ所ほどまわっていたそうだが、現在は50ヶ所ほどだそうだ。昔は正月から年の暮れまで村々を旅していた御影様だが、今は要望がある時だけ出張に出かける感じだろうか。 お話しを聞かせていただいた後、絵解きの写真を撮らせていただいた。僧侶それぞれ話しの内容も話し方も違い、ありがたい講話なのだけれど、どこか話芸を楽しむところもある。昔は、貴重な娯楽としても人々は太子伝会に集まったのではないだろうか。そのことも僧侶の方に尋ねたところ、教化ではあるけれど、そういう面もあるかもしれませんとのお返事だった。 |
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太子伝会では絵解きの他に、宝物の特別展示もある。太子堂から渡り廊下で本殿に行き、その先にある虎之間で開催されている瑞泉寺11代応眞院常照「浪化上人と俳諧」展を観に行く。中に入ると係の人が解説して下さる。しばらく聞いていると聖徳太子像を指し、この本物の太子像が絵解きの時にご開帳になると教えていただいた。絵解きの後に、僧侶が揃ってお経をあげ、その時に太子像がご開帳になるそうだ。 特別展は後でもう一度見に来ることにして太子堂に戻り、絵解きを聞き、お経を聞き、ご開帳を待った。ようやくご開帳の写真が撮れたので、特別展に戻る前にお寺の厨房で食べられるというお斎(おとき・お寺の食事)がまだ食べられるか行ってみる。もう16時近く他にお客さんは居なかったが、厨房のカウンターにお弁当がいくつか残っており食べることが出来た。 |
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←ご開帳された南無仏太子像(聖徳太子2歳の尊像)。 ↓お斎。お麩、茄子、福神漬け、そして鯖のなれ鮨。これにペットボトルに入ったお茶が付いて500円だった。 |
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お寺の食事をいただき、特別展を観てから、せっかく来たので瑞泉寺の建物を少し撮影。 | ||
上段左:5色の幕が風に揺れる太子堂/上段右:太子堂と本殿の渡り廊下から撮影した山門 中段左:太子堂と本殿/中段右:太子堂の屋根 下段左:山門/下段右:式大門 |
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瑞泉寺の太子伝会に合わせて、今日と明日は太子伝会観光祭も行なわれている。瑞泉寺から観光案内所へ行き、プログラムや地図を貰う。 今日は木遣り町流しと、木彫り音頭町流し等。明日はよさこいや、氷の彫刻が行なわれる。 木遣りは旧井波駅舎から18時に出発で、まだだいぶ時間があったので市街地を自転車で走り、町の大きさや建物の場所を把握する。たぶん、もう地図なしでもなんとかなりそうだ。 |
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17時半頃に旧駅舎に行くと徐々に踊り手が集まって来た。巨大な丸太の作り物も運ばれて来た。団扇が配られたので観ると、井波木遣り唄の歌詞が書いてあった。 忝(かたじけ)なくもこの寺は 百一代の御代(みよ)の時 瑞泉寺はこれまで3度焼失したと言われており、その再建のために五箇山や利賀村から切り出した木を運ぶ際に歌った唄が「井波御大門建立木遣り唄」として利賀村に伝わっていた。その唄を、昭和38年に井波町青年団の一行が利賀村の長谷甚六氏から「木遣り唄」として習い受けたそうだ。詳しくはこちら。 |
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18時になり、踊り手の一団は旧駅舎から少し町中に移動し木遣り踊りをスタートした。踊っては場所を移動して、最後は瑞泉寺の境内で踊るが、明日は午前中から立山の方へ行くので30分ほど見て自転車で福野駅へ急いだ。 | ||
*北日本新聞の記事1、記事2。中日新聞の記事。*You Tubeに2013年の街流しの様子がありました。こちら。 | ||
北陸はまだ梅雨明けしていないのに、連日夏日で、今日は高岡で35℃、富山で37℃の猛暑日となった。昨日と今日は、午後から水浴びのつもりでプールに泳ぎに行って来た。 |
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原発関連の気になったニュースを備忘録として。 ◯東電会長 汚染水放出発言報道で全漁連が抗議 ◯東電会長発言 波紋呼ぶ 田中氏「私を口実…はらわたが」 ◯ 原子力委員会「原発は低コスト利用推進」 |
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一昨日は、富山市四方のえびす祭りを見に行って来た。こちらの様子も後々UPいたします。 | ||
↑本殿のご神体を御船代に移し、御船代ごと漁船に乗せて漁場に行き、豊漁と航海安全を祈願して神職によるお祓いを行なう。 |
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今年の2月3日に撮影した、富山市日枝神社の節分祭の様子をPhoto Albumにしました。こちら。 |
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↑豆まきの前に、宮司と禰宜による鳴弦の儀が行なわれ、邪気が祓われた。↓拝殿の中を豆まきした後、拝殿の外廊下から参拝客の方へ豆がまかれた。 | ||
今日は、中村とうようさんの命日か・・・もう、亡くなって6年が経つ。今年は、田中勝則さんの手による書籍『中村とうよう 音楽評論家の時代』(二見書房)と、CD『とうようズ・チョイス・スペシャル』が発売になった。 |
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午後から富山市四方で、えびす祭りが行なわれる。事前に富山漁港に問い合わせたところ、神事は14時からということだった。四方には今年の4月、四方神社の春季例大祭で曳き回される子供曳山を撮影に来ており、この時は富山駅からバスで四方に行った。今回は呉羽駅まであいの風とやま鉄道に乗車し、呉羽駅から自転車で四方まで行くことにする。 | ||
呉羽から四方までは初めて走る道なので、余裕をみて11時58分に呉羽駅に到着する電車に乗る。 ←あいの風とやま鉄道の呉羽駅。しょっちゅう通過するが、降りるのは初めて? |
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四方の港に着くと、ちょうど神職の方が歩いていらしたので神事の時間を確認すると、13時半からだった。神事の行なわれるのは港に面した恵比須神社で、境内には既に御船代が置かれていた。恵比須神社のご神体をこの御船代に移し、御船代を担いで50メートルほど離れた漁港に停泊している漁船に乗せて東西2ヶ所の漁場で航海安全と豊漁を祈願するという。祭主は、四方神社の宮司さんだった。 漁業関係者の方が神社へいらしたので、ダメ元で漁船に乗れないか頼んでみたところ許可が出た。 |
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↑左は恵比須神社、右は四方の漁港。漁船は日の丸の旗や大漁旗を揚げている。 |
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13時半になり、神事が始まった。広くはない拝殿に入りきれない漁師たちは鳥居の向こうに並んで神事を見守っている。 祓言葉、修祓、祝詞奏上。そして本殿よりご神体が運び出され、境内に置かれた御船代に移される。てっきりご神体はえびす様の像かと思っていたが、偶像ではなく神の依り代としての神籬(ひもろぎ)だった。 |
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神職が道を祓い、ご神体を乗せた御船代が目の前の漁港に向かう。 漁船にはゴザが敷かれ、縄で結界が作られていた。その中に御船代が置かれて、漁場へと向かう。大漁旗を掲げた漁船十数隻が、後に着く。 出発して間もなく、富山市消防局の消防艇「神通」が放水で華を添える。 10分ほどで最初の漁場に到着し、修祓、祝詞奏上の後、お米、塩、お神酒が海に撒かれ、豊漁と航海安全の祈願が行なわれた。 |
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2ヶ所の漁場で祈願して港に戻って来た。その間、40分ほどだろうか。 御船代が神社に戻って来ると、鳥居の下の藁束に点火。あいにく火は上手くつかなかったが、迎え火だろう。 |
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↓→ご神体が、御船代から本殿に還られる。 |
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↓→ご神体が還御された後、拝殿の中と外で玉串奉奠が行なわれて神事は終了した。 | ||
神事の後、神饌のお神酒と烏賊、昆布が配られ神職とともに直会が行なわれた。せっかくなので、お神酒と烏賊をいただいた。 |
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神社の前の港湾では、直ぐに漁師たちによるボートレースが始まった。漁師のボートレースと聞いて激しいものを想像していたが、見ているとなんだかほのぼのとした競漕だった。 |
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尚、今日は宵宮であり、本祭は明日の朝8時から恵比須神社で執り行われる。 | ||
*富山新聞の記事。 | ||
安倍内閣の支持率が順調に下落を続け、危険水域と言われる30%を割り込み29.2%となった。 最近の気になったニュースから。 13・14日は2日続けて氷見の祇園祭へ。15日は円隆寺の祇園会で行なわれる、さんさい踊りを見に行って来た。こちらの様子も追い追いUPします。 |
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↑氷見の祇園祭。日吉神社のお神輿が巡行する。後ろには提灯を飾り付けた曳山が見える。↓円隆寺のさんさい踊り。 |
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富山市の寺町である梅沢町にある円隆寺の祇園会の際に踊られる盆踊り、さんさい踊りを見に行く。 |
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↑提灯が飾られた円隆寺とお堂の中。 |
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さんさい踊り保存会の清水会長さんのお手隙の時に、お堂の中で少しお話しを聞き、資料をいただいた。今年の5月に婦中の鵜坂で開催された売比河鵜飼祭(めひかわうかいさい)を見に行った際に、さんさい踊りの他に、さんさい踊りの原型だという古さんさい踊りというのが出て来たが、どういうものかご存知か聞いてみたがわからないそうだ。また、円隆寺のさんさい保存会と鵜坂のさんさい踊りはあまり交流がないようだった。 18時を過ぎると子供たちが集まって来た。既に浴衣を着た子もいれば、普段着で来てお堂で浴衣を着せてもらう小さな子もいる。さんさい踊りは元々は女性だけで踊る盆踊りだが、近年は少子化で女の子も少ないので小学生の男の子にも参加してもらっている。一応大人は婦人だけが踊るが、中には見に来て簡単な踊りなので輪の中に入る男性もいるようだ。 19時になって保存会の清水会長が挨拶をし、そして踊りがスタートした。時期的に富山で一番早い盆踊りだろうか。 |
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↓18時を過ぎると子供たちが集まって来た。→挨拶をする保存会の清水会長。 |
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提灯を吊り下げた円柱を囲むように、子供たちと婦人が輪になる。いただいた資料によると、現在のさんさい踊りは昭和46年に富山市の無形民俗文化財に指定されたのを機に振り付けされたもので、それ以前は浴衣に前掛け姿の子供たちが手をつないで輪を作り、唄に合わせてぐるぐる廻るだけだったそうだ。 一つ気になるのは、女の子たちの浴衣に前掛けという姿で、昨年の9月4日に見た小矢部の綾子地区に伝わる願念坊踊りで法被に前掛けをしている姿とどこか似ている。さんさい踊りと願念坊踊りに何か接点があるのだろうか? |
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↑女性は浴衣に「さんさい踊り」と書いた前掛けをして踊る。 途中に短い休憩を挟んで、1時間ほどでさんさい踊りは終了し、子供たちは用意されたお菓子を貰って帰って行った。 |
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ところで牛頭天王は、蘇民将来説話に登場する武塔神と同一視されている。蘇民将来の話とは、旅の途中で宿を乞うた武塔神を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、蘇民の娘を除いて皆殺しにして滅ぼした。その茅の輪が、夏越の大祓の茅の輪くぐりに繋がって行く。 つまり6月30日の夏越の大祓、7月の祇園祭、祇園会ともに牛頭天王に因んだ祭りということだ。また牛頭天王は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)とも同一視されているそうだ。 |
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*富山新聞の記事。 | ||
氷見の祇園祭の2日目。今日の日吉神社での神事は12時からで、その後に昨日神幸した御座町以外の残り十町を御神輿が巡行する。北の日宮神社の御神輿も今日、旧六町を巡行する。南と北の御神輿を追いかけたいので、自転車を輪行して氷見まで行くことにした。 11時40分に氷見駅に到着して急いで自転車を組み立てる。12時から神事が行なわれる日吉神社の横を通ると、各町の太鼓台が集合していた。日吉神社を通り過ぎ、湊川を渡って日宮神社の前に来ると御神輿が鳥居を出るところだった。もう既に神事は終わり、御神輿の巡行が始まる様子。日宮神社の御神輿は大小2基あり、先ずは大きい御神輿が一ヶ所参詣に行くというので着いて行く。 |
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御神輿が参詣に訪れたのは300メートルほど歩いた光明寺で、僧侶に迎えられて神社総代の方々がお堂に入る。短い挨拶の後にお堂を出て、直ぐに日宮神社へ戻って行く。 光明寺の方にお聞きしたところ、日宮神社の本殿が建っている場所は元々光明寺の敷地だったそうで、それを無償で譲った際に、祇園祭では一番に参詣するという取り決めになったようだ。 ←日宮神社の鳥居を出る、大御輿。 ↓光明寺への参詣。 |
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大きな御神輿が一旦神社に戻り、小さな御神輿、六町の太鼓台と共に町内巡行を始める。北の方は神職と一緒に子供の右大臣、左大臣も行列に加わっている。新湊の「澗建のえびす様渡し」でお世話になった西宮神社の宮司さんも、供奉されていた。 | ||
しばらく北の巡行を見てから、氷見市立博物館と氷見市役所の観光課へ行き用事を済ます。14時半頃に戻って来て、今度は南の曳山巡行を見学。4基が露店が並ぶ中心商店街の国道415号を、ゆっくり巡行していた。写真を撮っていると、南上町の曳山の前に高校の後輩の加納君が居た。休憩中で、息子は曳山の上でソフトクリームを食べている。食べますか?と聞かれてモナカアイスをご馳走になる。氷見の曳山は各自の町内を廻る以外は国道415号を少し巡行するくらいだそうだ。また、昼の花笠山が終わったら山倉に戻り、提灯山になって巡行するのはたぶん地蔵町だけだという。 | ||
↓露店が両側に並ぶ中心商店街を巡行する曳山。→南上町の曳山と、加納君。 |
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←↑御旅所となっている伊勢玉神社で休憩。お神酒が振る舞われる。 伊勢玉神社の鈴木宮司さんが昨日、明日は15時に伊勢玉神社から御神輿が出ると仰っていたので自転車で向かうと、鳥居の下に御神輿と臨時の祭壇が設けられていた。既に神事は終わり、お神酒を呑んで休憩されていた。酒まんじゅうが配られ、一ついただく。 |
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御神輿は15時20分頃に伊勢玉神社を出て、また各町内を巡行する。 | ||
こちらには16時頃に北と南を分ける中の橋に南の曳山が揃うと書かれているので待っていたが、御座町の曳山が橋まで来てUターンしていった。曳山が何基も揃うスペースもないようだ。 | ||
氷見中心部の国道415号では曳山同士、曳山と太鼓台、曳山と御神輿がすれ違う。今年から7月14日を「ふるさと氷見に親しむ日」と決め、小中学校を学校給食後に放課としたそうで、いつの間にか通りには子供たちが溢れていた。 | ||
御座町、南上町、南中町、上伊勢町の曳山は国道415号を巡行しているのを見たが、地蔵町の曳山を見かけなかったので探しに行くと、もう少し海岸寄りの道を巡行していた。地蔵町は初日である昨日の夜は曳山を出さないが、今晩提灯山となって出るようだ。一昨年撮影に来た時は、地蔵町だけが夜の巡行を行なっていた。 ←地蔵町の曳山巡行。 |
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南の方の御神輿と曳山を追いかけていたので、今度は湊川を挟んで反対側の北の御神輿の様子を見に行く。歩いて探すのは大変なので、自転車を持って来て良かった。 探していると魚取神社の横に太鼓台が休んでいたので尋ねてみると、北の巡行は18時まで休憩に入っており、各町の太鼓台は町内に戻って休んでいるそう。18時頃に漁協に集合するという。 漁協の方へ行くと、しばらくして雨がザーザー降り出した。 |
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だんだん強くなる雨の中、休憩していた各町の太鼓台が漁協の方へ集結してきた。雨が少し弱くなるのを待って、透明のビニールで覆われた2基の御神輿と太鼓台が巡行を開始した。 再び巡行が始まって30分ほどした頃だろうか、四つ辻で太鼓台同士のぶつかり合いが始まった。太鼓台に立てられた松の木に青年団の男たちがぶら下がり、「イヤサー イヤサー」の掛け声と共に台を左右に揺らす。そして双方の台をぶつけた後、押し競饅頭のように押し合う。ぶつけ合いが激しくなると、相手の太鼓台に飛び移る。太鼓台には衝撃に耐えられるように鉄板が貼られるなどして重さが1トン以上あるらしい。これがぶつかり合うのだから、軽乗用車の衝突くらいの迫力がある。 曳山や夜高のように大きくないのでテンポよく次々とぶつかって行くので、これも面白い。例えれば曳山のケンカが闘牛なら、太鼓台のケンカは闘山羊といったところだろうか。 |
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↓→突然始まる太鼓台のケンカ。 |
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2ヶ所ほどで北の太鼓台のケンカを見て、駅へと向かう。途中、日吉神社の横を通ると露店の前は子供たちで賑わっていた。 太鼓台のケンカは夜も遅くなるほど激しくなるようだ。 この日のケンカの様子がYou Tubeに色々UPされている。こちらやこちら。 氷見駅で自転車を輪行袋に仕舞い、20時17分の電車で高岡へ。あいの風とやま鉄道に乗り換えて21時半頃に帰宅。 ←露店でにぎわう日吉神社。 |
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氷見の祇園祭は15日までで、その様子を『氷見の祭りと年中行事』(氷見市立博物館)から引用。 |
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*北日本新聞の記事、富山新聞の記事。 | ||
7月13・14・15日の3日間に渡り、氷見で祇園祭が行なわれる。氷見中心部を流れる湊川を挟んで町は南北に分かれ、それぞれ京都の八坂神社から疫病封じの神である祇園神(牛頭天王)を勧請した南の日吉神社と北の日宮(ひのみや)神社が御神輿を巡行する。 今日は日吉神社で19時から神事が行なわれ、その後、御神輿が御座町を巡行する。今朝の北日本新聞に伊勢玉神社で南十町の曳山の一つだった下伊勢町の曳山の人形と衣装が展示されるという記事が掲載されていたので、少し早めに氷見駅に着くようにした。下伊勢の曳山は昭和の大火からは焼失を免れたものの、当時から傷みが激しかったので、昭和初期以降に曳き回されなくなっていたそうで、29年ぶりの公開だという。 |
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↑伊勢玉神社と曳山人形の展示。 氷見駅に16時49分に着いて、駅から5分ほどの伊勢玉神社へ。入り口には下伊勢の太鼓台が止まっていた。曳山の人形が展示されている拝殿のガラス戸が閉まっていたので、社務所に挨拶に行くと鈴木宮司さんが出て来られた。今年の正月に撮影した火祭の時の写真プリントをお渡ししてから、拝殿の曳山人形を見せていただき写真に撮らせてもらった。伊勢玉神社の鈴木宮司は日吉神社の禰宜として、今日の神事で副齋主をつとめられるそうだ。 |
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伊勢玉神社から日吉神社に歩いて行くと、ちょうど神社の横にある山倉(収納庫)から御座町の曳山が出るところだった。御座町の山倉には、祇園祭の由来を記した案内板がある。以下、 日吉神社「祇園大祭」の由来 元禄九年(一六九六年)初夏のころ、交易地湊川沿いにある御座町の朝日小路で「三日ころり」(コレラに似た熱病)が発生した。 |
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日吉神社の境内には透明のビニールに包まれた御神輿が鎮座していた。お賽銭を入れお参りした後、神事が始まるまでまだ時間があるので、周辺を見て歩く。町の中心部を走る商店街である国道415号には露店が並び、提灯を飾った曳山が3基出ている。南上町の山宿には本座人形が飾られていた。 |
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↓祇園祭の神幸祭。→拝殿前に置かれた御神輿を修祓。 |
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玉串奉奠の後、社の灯りが消され八坂神社の御霊代が、本殿から御神輿に移される。 | ||
↑社の灯りが消されて薄暗い境内に神職の「オー」と言う咆哮が響く中、八坂神社の御霊代が御神輿に移される。 ←神事が終わり、神職と各町の神社総代が拝殿を出て御神輿巡行が始まる。 鳥居の前では、早くも各町の太鼓台を引く青年たちが威勢の良い「イヤサー イヤサー」の声を上げている。氷見の祇園祭は、曳山よりも太鼓台が祭りの華のようだ。 |
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太鼓台を先頭に、幟、御幣を飾った台、御神輿、そしてまた太鼓台が隊列を組んで御座町を巡行する。道路の両端に露店や曳山の並んだ国道では、人混みの中をかき分けるようにして太鼓台と御神輿が進む。太鼓と笛の音がアチコチから聞こえる中、神職が手分けして「御駐輦」と書いた紙が貼られた家を祈願してまわる。 花(祝儀)を貰った太鼓台は、「イヤサー イヤサー」の掛け声を上げて台を左右に振って荒ぶれる。神様を喜ばせるためだろうか。遅い時間になれば太鼓台同士のぶつかり合いも繰り広げられる。今日は御座町だけの巡行だが、日吉神社に御神輿が戻るのは23時頃だという。 明日もあるので今日は早めに切り上げて、氷見駅を20時55分発の電車で高岡へ。高岡であいの風とやま鉄道に乗り換えて、家に着いたのは22時半頃だったろうか。 |
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*北日本新聞の記事、記事。 | ||
昨日は富山の最高気温が37.3℃まで上がり、日本一の暑さとなった。高岡も37℃近かったんじゃないだろうか。プールから帰った午後、家で今年初めてのスイカを食べた。 今年の1月22日に撮影した、山町筋の天神様祭の様子をPhoto Albumにしました。こちら。 |
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↑雪が降る山町筋。↓高岡市土蔵造りのまち資料館での、様々な天神様の展示。 |
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核兵器禁止条約が日本時間の8日午前0時頃に賛成多数で採択されたが、核兵器の被爆国であるにも拘らず日本は不参加。 昨日、277の罪で犯罪を計画し準備を始めた段階で処罰される、共謀罪が施行された。 |
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高岡の今日の最高気温は30℃位だったろうか。あまりの蒸し暑さに、午後から今年初めてプールへ泳ぎに行った。平日の午後、帰り際に小学生の子供たちとすれ違ったが、それまでは貸し切り状態だった。 九州豪雨、犠牲者が23人になり、避難者はまだ1885人に上る。大きな災害になってしまったが、未だ政府の要人が現地に入ったという話しは聞かない。防衛大臣はどうしたんだろうか?そう言えば、防衛大臣の夫が新潮社などに損害賠償を求めた訴訟で、最高裁は名誉毀損を認めず敗訴が確定した。防衛大臣もその夫も共に弁護士だが、このところ自身の裁判で連敗しているのではないだろうか。 |
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↑2010年の豪雨災害で、たくさんの流木が打ち上げられた朝仁海岸。2010年10月24日撮影。 |
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今年の1月15日に撮影した塞の神まつりの様子をPhoto Albumにしました。こちらとこちら。 | ||
↑子供たちは二手に分かれて家を一軒一軒まわり、塞の神の歌を唄う。その間、大人たちは正月飾りなどを付けた左義長のやぐらを組んでいる。↓家をまわり終えた子供たちが、火のついたやぐらの前に並んで塞の神の歌を唄う。 |
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昨日は、各地で安倍政権に対する抗議デモが行なわれた。今日発表された政権支持率は軒並み下落しているが、それでも30%以上ある。まだ3割り以上の人が支持していることが不思議でしょうがない。 |
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◯ 九州豪雨300人超孤立 死者3人、救助捜索続く 都議選で大敗した自民党が、首相抜きでの閉会中審査を提案。佐川宣寿理財局長を国税庁長官とする人事を発表。自民党、凄いな。よくこれだけ自分たちの支持率を下げるアイデアが、次々と浮かぶな。 青森の六ヶ所村で進めている使用済み核燃料の再処理事業の総事業費が13.9兆円に上る見通しだという。 クリエイションのドラマー、樋口昌之さんが7月3日に亡くなった。高校生の頃、このアルバムをよく聴いて、樋口さんのドラムをコピーして練習もした。何曲かは学園祭で演ったりもした。ジャケットの写真も含めて、懐かしいアルバムだ。それにしても、63歳は・・・早いな〜。 今年の1月14日に撮影した伊勢玉神社の火祭の様子をPhoto Albumにしました。こちら。祭は左義長(どんと焼き)と同じく竹でやぐらを組んで、そこにお正月に飾った門松やしめ縄、書き初めなどを持ち寄って焼き、その燃え上がる火で焼いたお餅を食べて無病息災や家内安全を願う行事。民俗学的には門松やしめ飾りで出迎えた歳神を、それらを焼く事で炎と共に見送る意味があるという。 |
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↑神前で起こした火を移した行燈を手に持ち、境内に作られた正月飾り等を積み上げた櫓の前で祝詞を奏上する鈴木宮司。↓燃え盛る炎の中に、餅を吊るした棒をかざして焼く参拝者。この火で焼いた延命餅を食べると、一年間無病息災で過ごせるという言い伝えがあるそうだ。 | ||
髪の毛が伸びて来たので散髪に。上着は理容院の制服だが下は体操着の女の子が二人、「お疲れさまでした」「ありがとうございました」と元気な声を出し、時々床を掃いたりしていた。中学校の職場体験授業だろうか。 | ||
夜中に何度かトタン屋根を激しく打ち付ける雨音を聞いたが、目覚めるとそこそこよいお天気で、30℃を超える真夏日になった。日中は晴れのち曇りだったが、夕方からは時おり激しい雨。梅雨だな。 昨日はもう一つ注目の戦いがあった。こちらはデビュー戦以来勝ち続けて来た14歳のプロ棋士、藤井聡太四段が公式戦で初の黒星となり、連勝記録が29でストップした。一回の対局に11時間半かかることが自分の理解を超えていて、驚きでしかない。 |
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↑子供が五穀豊穣と家内安全を祈願し一軒一軒門付けしてまわる利賀村の初午。神主役の子が祝詞を奏上した後、お囃子に合わせて馬が首と尻尾を振って踊る。↓門付けした家から祝儀を受け取ると、次の家へと歩いて移動する。 | ||
昨日、台風3号が発生した。明日には九州に上陸し、その後は本州を横断しそうな進路だ。 | ||
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