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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表 ◯製作中の富山の祭りと芸能 |
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6月1日 瑞龍寺 ひとつやいと ◯小川寺の獅子舞 宮田・火祭り1月第4日曜日 記事 記事 |
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◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作 ◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作 ◯久高島の年中行事 平成17年度作成 ◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作 ◯ 「まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作 ◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作 ◯幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】 ◯村踊 沖縄県伊江村伝統芸能 ◯喜屋武(チャン)の綱引き ◯与那国島の行事 ◯ 「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作 |
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○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html ○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/ ○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html ○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm ○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/ ○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/ ○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/、 ○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy ○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/ |
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一年の半分が過ぎる。早いな。今日、各地の神社ではこの半年間の罪や穢れを祓う、夏越の大祓(なごしのおおはらえ)が行われる。どこかに撮影に行きたいなと思っていたら、今朝の北日本新聞に射水神社の記事が掲載されており、大伴家持の生誕1300年に合わせて今年から夏越の大祓で古式の祭儀を再現すると書いてあった。念のため射水神社のホームページでも確認すると、神事は18時から執り行うと書かれていた。 |
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高岡駅から射水神社までは少し歩くので、16時38分に高岡駅に着くあいの風とやま鉄道に乗車。高岡駅から御旅屋通りを歩いて、古城公園に向かう。途中、高岡大仏の前を通ったので、パシャリ。 古城公園の中にある射水神社に着いたのは、17時頃だろうか。拝殿の前には茅の輪が設置され、外拝殿には祭壇と、今年から用意された人形代(ひとかたしろ)を納める水を張った檜樽が置かれていた。 |
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嘗ては罪や穢れを移した人形代は川に流していたが、環境問題がクローズアップされる中、お祓いの後は御焚き上げされるようになったそうだ。しかし本来の儀式に近い形で再現するため、射水神社と所縁のある射水川(小矢部川の河口)の斎水(いみづ)を早朝に酌んで来て、川の流れに見立てた3本の斎串(いぐし)御弊を付けた檜樽に入れ、ここに人形代を浮かべるという古式の祭儀を今回から再現するという。 | ||
↓拝殿の前に設置された茅の輪。→社務所の前で参列者の受付が行われていた。 |
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17時になり、先ずは拝殿の外で神事が始まった。参列者は拝殿の前に並ぶが、始まりと同時に雨が激しくなったので拝殿の屋根の軒下に避難。なるべく雨に濡れないよう、外拝殿をコの字に囲んで並ぶ。巫女さんから一人一人に「大祓詞」と書かれた本が配られる。 | ||
撮影をしていると巫女さんが、式次第を下さった。それによれば以下のように進行する。 |
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↓お祓い。→先ずは、神職が人形代を川に見立てた檜樽に納める。 |
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↓→神職の次に参列者が、自分の体を撫でて穢れを移した人形代を檜樽に納める。 |
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参列者が人形代を水に浮かべ終わると拝殿に入り、人形感謝清祓式が斎行された。本来は夏越の大祓の後に別の神事として執り行われるものだが、雨が降ったので茅の輪くぐりより先となった。 式では宮司の祝詞奏上の後、二人の神職が供養のために持ち込まれた人形たちを祓い清めた。 |
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式次第では以下の進行となっていた。 ・神楽太鼓 ・宮司一拝 ・禰宜神饌を供す ・宮司祝詞を奏す ・人形清祓の儀 ・神楽「末広の舞」奉奏 ・宮司玉串を奉りて拝礼 ・参列者玉串を奉りて拝礼 ・禰宜神饌を徹す ・宮司一拝 ・神楽太鼓 ・宮司挨拶 |
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人形感謝清祓式が終わり、雨が止んだ境内に出て神職、参列者が一列に並び茅の輪くぐりが斎行された。先頭の神職二人が長持を担いでおり、この中には事前に送られて来た人形代が納められている。 | ||
茅の輪くぐりは拝殿に向かって左回り、右回り、そして真っ直ぐに進む3回行われる。最後に境内に整列して、宮司さんからお話しがあり20分ほどで終了した。 本来の儀式では、参列者は茅の輪くぐりの後に人形代を檜樽に納めるのだが、雨で順序が逆になった。 最後に長持に納められていた事前に郵送等で送られて来た人形代を取り出し、水を張った檜樽に納め、清め祓いを行って神事は全て終了した。 |
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↓→茅の輪くぐりが終わり、事前に送られていた人形代の清め祓いが行われた。 |
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↓日が暮れて厳かな雰囲気の射水神社。→ライトアップした高岡大仏。 |
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射水神社を出て、駅へと向かう。途中にある高岡大仏がライトアップされている。帰りの電車は20時13分で待ち時間があったので駅地下の広場に行くと、高校生がいっぱいいて勉強したりだべったりしていた。 | ||
*中日新聞の記事、富山新聞の記事。 | ||
昨日こちらに書いた満島ひかり主演の『海辺の生と死』の予告編の最後に出てくる浜は、海の両側にある岩の形から嘉徳の浜ではないだろうか。嘉徳は奄美大島の瀬戸内町にあり、歌手・元ちとせの生まれシマだ。住用の青久、瀬戸内町の西古見と並ぶ奄美大島の陸の孤島ベスト3の一つだと個人的に思っている。 |
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↑人工物の無い、嘉徳の浜。小川の水が流れ込み、海面が刻々と表情を変える不思議な海だ。 |
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交通の便が悪い分自然がそのままの状態で残っており、コンクリートのブロックや護岸壁といった人工物のない海岸は、奄美大島では嘉徳の浜くらいではないだろうか。 You Tubeから『嘉徳なべ加那/元ちとせ』 |
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奄美大島の唄者、築地俊造さんが4月14日に亡くなられていたことを、今日になって知った。 |
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↑客席の坪山豊さんと即興の歌掛けをする築地さん。2010年11月13日撮影。→RIKKIの『miss you amami』のレコーディングで。1998年夏、湘南にて撮影。 |
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↑オランダ船籍の巨大な客船、ザーンダム号が名瀬の観光バースに寄港した際、お見送りのセレモニーで土砂降りの中、島唄を歌う築地さん。2012年4月13日撮影。 | ||
2010年6月16日の朝、鹿児島からフェリーに乗って奄美大島の名瀬に着いた。初めての土地で右も左も分からないので市役所の観光課を尋ね、不動産屋を見て歩き、昼ご飯を食べて歩いていると築地さんが経営するおもちゃ屋さんが目に飛び込んで来た。おもちゃ屋さんには息子さんがおり、築地さんは向かいのライブハウス「かんも〜れ」に居ると教えて下さった。 築地さんに、これから1年間の予定で名瀬に部屋を借りて住むという話しをし、築地さんの携帯でRIKKIと久しぶりに少し話しをした。まだ梅雨の真っ只中で外は激しい雨が降っていて、山の上の方にあるホテルまで築地さんの運転する車で送っていただいた。部屋に入って休んでいると、今しがた別れた築地さんから電話があり、何だろうと思ったら「今年はハブが多いから、気をつけなさい」というメッセージだった。 1年の予定が2年奄美に居て、今度は沖縄に行くことにした2013年6月。この頃、築地さんはもう「かんも〜れ」を閉めていたかもしれない。名瀬のお店をやめて、笠利にある自宅を改造してちょっとしたライブもできる喫茶店をするという話しをされていたと思う。2年の滞在中に、奄美まつりや島唄のコンサートなどで築地さんの島唄は何回も聴いたが、「かんも〜れ」に聴きに行ったのは1回だけだった。 奄美の島唄で一番好きになったのが「イトゥ」という曲だが、「イトゥ」という言葉の意味がわからなかった。何人かに聞き、ネットで調べても仕事唄であることしか分からなかったのが、築地さんに尋ねて「イトゥ」そのものの意味が<掛け声・お囃子>だと教えてもらった。 名瀬に住んでいた間に、この本、面白いよと貸して下さったのが『民俗学の愉悦/谷川健一』(現代書館)だった。 唄者というのは唄を歌う人ではあるけれど、それだけではなく郷土の知恵袋・知恵者でもあると思っている。今月の21日に『唄者 築地俊造自伝ー楽しき哉、島唄人生』というCD付の単行本が南方新社から発売になっている。唄者人生の知恵(知識)がたくさん詰まった本になっているのだろう。 東京でRIKKIと一緒にやっていた「R'sアートコート奄美島唄ライブ」は、昨年11月20日に行われたvol.24が最後になった。 |
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富山は明日からしばらく曇りと傘のマークが続くが、奄美が今日、梅雨明けした。もう8月の奄美まつりに向けて、舟漕ぎの練習が本格的にスタートしている頃だろうか。 沖縄のハーリーほど規模は大きくないが、奄美大島でも舟漕ぎは盛んだ。競技への熱心さは、沖縄にも決して引けを取らない。 毎日のように海を眺めていた朝仁海岸では、舟漕ぎ大会が近づくと早朝や仕事の終わった夕方、何隻もの舟が波の上を滑っていた。 三方が山に囲まれた集落が多い奄美大島では、嘗ては集落から集落の移動に舟が使われた。今は道路も舗装されトンネルも出来て移動に舟が使われることもないが、やはり舟を自在に操れるのはシマンチュとしての心意気であり、誇りだろうか。 |
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↑2010年6月30日、朝仁海岸にて。 |
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加計呂麻島を舞台にした満島ひかり主演の映画『海辺の生と死』が、来月29日から公開になる。島尾敏雄が自身と妻・ミホとの生活を描いた私小説「死の棘」が、ストーリーの基になっているようだ。 奄美大島滞在中によく利用していた鹿児島県立奄美図書館の初代館長が島尾敏雄氏だったので、1階には島尾敏雄コーナーがあり、小説やエッセイ集を何冊か借りて呼んだ。『死の棘』』『出発は遂に訪れず』ももちろん読んだが、個人的には『離島の幸福・離島の不幸 名瀬だより』や『琉球弧の視点から』といったエッセイ集の方が好きだった。 こちらの記事によると、満島ひかりの祖母が奄美の生まれだという。加計呂麻島出身の唄者・朝崎郁恵さんに歌唱指導を受けて、彼女自身この映画で島唄を披露するようだ。沖縄と奄美の島唄は音階も発声も違うが、どのように歌うのかとても楽しみだ。 島尾敏雄が特攻隊隊長として赴任した加計呂麻島の呑之浦には魚雷艇を格納した洞穴が今も保存されているし、他にも加計呂麻島と奄美大島の大島海峡側の集落には戦跡がいくつかあり、割りと原型を留めて残されている。 それにしても満島ひかり、凄い役者だな。You Tubeから中島みゆきの「ミルク32」を歌う満島ひかり。 ところどころ黒柳徹子にも見える不思議(笑)。 |
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◯虚構新聞が<3人に1人が参加 プレミアムフライデー、定着の兆し>で、日テレNEWSが<”そもそも=基本的に”答弁書を閣議決定>って、現実の方が虚構に見えるおかしな世の中ではあるな。そして、森友問題で国会の答弁に立ち、時の人になった佐川理財局長が国税庁長官になるという、虚構新聞の斜め上を行くようなニュースまで流れてきた。 ◯福島第一原発の「凍土遮水壁」について説明する東電に、原子力規制委の更田委員長代理が「人を欺こうとしているとしか思えない。ウソだもん、これ」と激怒。なんか凍土遮水壁とアベノミクスって、似てるな。 |
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今年の1月7日に撮影した庄川町の厄払い鯉の放流の様子を、Photo Albumにしました。こちら。 | ||
↑桶に入れた鯉を神明社に奉納する厄年の男女。神明社でお祓いを受けた後、庄川で鯉にお神酒を飲ませて放流する。 |
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エアバックのリコール問題で経営が悪化したタカタが、民事再生法を申請し受理された。負債総額は1兆円越えで、戦後最大の倒産だという。 昨日は雨の降る中、24日から26日まで3日間続く黒部市三日市の「じんじん祭り」へ行って来た。たくさんの露店が並ぶことで知られる祭りだそうだが、じんじんとは三日市の三島神社で執り行う「地神祭」が「ちじん祭」→「じんじん祭」に訛ったものと言われている。 |
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24日のうちに買っておいたあいの風とやま鉄道の一日フリー切符で黒部駅に12時38分に到着。一つ手前の魚津、一つ先の生地には降りたことがあるが、黒部駅で降りるのは初めてかも知れない。 駅前の道をまっすぐ10分ほど歩いて三島神社に到着。思っていたよりも境内が広い。鳥居を潜り中に入って社務所のところに行くと、ガレージの中に祭壇が組み立てられていた。 ←黒部駅。 ↓三島神社。 |
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祭壇の横に普段着のままの宮司さんがいらしたので神事のことをお尋ねすると、敷地の中を道路が通り飛び地になっている鳥居の向かいに大欅があり、根元に地神が埋まっている塚があるそうだ。本来はその塚の横に祭壇を設けて神事を行うが、雨が降ってしまったので今日は急遽ガレージに祭壇を作ったとおっしゃる。 神事が始まるまで少し時間があったので、先に塚を見学に行く。 |
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↑↓→近隣にあった地神が、供養のために埋められた塚。 |
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塚を撮影して祭壇の方へ戻ると宮司さんは神職の服に着替えられ、町内の方々も集まっていらした。一昨年までは塚に地神を供養のために埋めた家も代替わりして2〜3人がお参りに来る程度だったが、町内会長さんがじんじん祭りの由来を知り町内に呼びかけて地元民が参集するようなったため、20人ほどの人が集まっていた。 雨のために塚から離れたガレージに祭壇が置かれたため、遥拝する形で地鎮祭が行われる。先ずは山の幸、海の幸が供えられた祭壇の前で、宮司が太鼓を叩いて始まった。 |
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↑↓→じんじん祭りの由来となる地神祭(地鎮祭)。 |
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神事はおよそ30分ほどで終了し、参加した町内の方々は神饌のおまんじゅうとお神酒を持って隣接する公民館で直会をされる。公民館の前には立派な土俵があり、ここも三島神社の敷地だそうだ。 ちなみに三島神社と呼ばれているが、正式には八心大市比古神社(やごころおおいちひこじんじゃ)。境内は黒部市指定史跡で、塚のある大欅も市指定の天然記念物になっている。 ところで、じんじん祭りの名物となっている露店は三島神社の周辺には見当たらない。宮司さんに尋ねると富山地方鉄道の東三日市駅周辺の方に出ているそうなので、歩いて行ってみる。ちなみにお話しを聞いた桜井都嘉佐宮司さんのインタヴューが、こちらにあった。大正14年に地神を供養して埋めた宮司さんは、曾祖父にあたる。また、都嘉佐宮司さんの時代になってからも、2軒ほど地神を塚に埋めて供養されたそうだ。 歩いて10分ほどで東三島駅に到着し、この辺りから天神社までの通りの両脇に露店が並んでいる。あいにくの雨だが、傘をさした小学生や中学生が通りを行き交っている。天神社の境内にも露店が並んでいる。 『とやまの民俗芸能』によれば<ジンジン祭りの日は、農家の田の草取りが一段落する間を選んで決められたといわれ、農家の人たちは、「ヤシマッツリ」とも呼んでいる。また、三島町近くの下町天神様の祭礼日は八月十七日だったが、近年、ジンジン祭りと同じ六月二十五日に催されるようになった」との記述がある。ヤシは香具師、マッツリは祭りだろう。 じんじん祭りの由来は三島神社の地神祭だが、天神社の祭礼だと思っている人も多いのかもしれない。 こちらの富山県観光公式サイトのじんじん祭りのページでも三島神社のお祭りとしながら、天神社の写真が載っている。 |
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↑境内にも露店が並び天神社。↓ヤシマッツリ=香具師祭りだけあって色んな露店(香具師)が出ている。 |
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露店の並ぶ通りを往復してから、駅の近くにあった肉屋さんでハムカツとコロッケを一つずつ買って駅の構内で食べる。富山地方鉄道の駅は味のある駅舎が多いが、この東三日市駅も懐かしい趣きの建物だ。 | ||
↓→外観も駅舎内もレトロな東三日市駅。 |
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晴れていればもう少し散歩して帰るのだが、スニーカーが雨に濡れて中の靴下もぐしゃぐしゃで気持ち悪いので駅へと向かう。途中、三島神社の大欅の前を通ったが、改めて見るとその大きさに驚く。さっきは根元の塚に集中していたので、欅の全体を見ていなかったのだ。それにしても、よく葉っぱが繁っている。 | ||
↓→市の天然記念物に指定されている、三島神社の大欅。 |
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せっかく一日フリー切符を買ったのだから何処かに電車で寄りたい気持ちはあるが、とにかく靴下が濡れているのが気持ち悪くて真っ直ぐ帰ることにする。スニーカーじゃなくて、防寒靴でも履いてくればよかった。 15時50分発の高岡行きに乗車。高岡で金沢行きに乗り換える。乗り換え時間が少しあったので、今庄のうどんを食べようとも思ったが、我慢して家に帰る。 |
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6月22日(木) |
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昨日、富山が梅雨入りし、今日、沖縄が梅雨明けした。沖縄と一緒に梅雨入りした奄美の梅雨明けは、もう少し後だろうか。 | ||
一昨日は高岡開町の祖である加賀藩二代目藩主・前田利長公の遺徳をしのぶ御印祭の本祭を、昨日は宇奈月町下立(おりたて)で開催される愛本姫社まつりを見に行って来た。こちらの様子も後々UPします。 ←梅雨入りした昨日、下立にて撮影した紫陽花。 今年1月2日に撮影した伊勢玉神社の新年大祭の様子をUPしました。こちら。 |
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↑弓を鳴らして邪気を祓う「鳴弦の儀」。 ↓鬼という字が左右反転して書かれた縦横1mの的に矢を放ち、鬼を追い払い幸せを祈願する「奉射式」。 |
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黒部市宇奈月町の下立(おりたて)に、お光という大蛇に見初められて嫁いだ娘の伝説がある。 この下立地区に愛本姫社という神社があり、ここのご神体は江戸時代後期に活躍した浮世絵師の池田(渓斎)英泉が描いた花魁の版画。その絵はお光がいなくなり嘆き悲しんでいる時に、茶店で休憩していた英泉が二人に同情して描いていったお光の絵だとも言われている。 |
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あいの風とやま鉄道で魚津まで行き、富山地方鉄道に乗り換え。新魚津を11時9分発の電車に乗り、11時41分に下立に着いた。線路は単線で、無人駅だ。 一緒に降りたおばあさんに「お祭りを見に来たんですか」と声をかけられ、「はい」と答えると顔に笑みを浮かべ、私も後で行列を見に行くといって家に帰って行った。 愛本姫社に行く前に、ちょっと聞きたいことがあるので、下立公民館に向かう。 |
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下立公民館は駅から3分ほどで、まちおこしセンター、いこいの館を併設した真新しそうな建物だった。受付にいらした女性に、下立地区では今も「えびす様迎え」の行事は続いているのか尋ねたところ他所から来たので分からないと言われるが、しばらくして年配の女性が現われて色々と教えていただいた。 富山にはえびす信仰が色々あり、海沿いの地域では豊漁の神様として漁師に崇められている。ところが黒部川周辺の農村地域では、稼ぎの神とか行商の神、商売繁盛の神として崇められている。 下立地区では、正月が終わって1月20日に出稼ぎに出たえびす様が11月20日に電車に乗って帰って来ると信じられて、提灯を持って駅まで迎えに行くという風習があると『とやまの民俗芸能』(北日本新聞社)に記されている。そしてえびす様を家に招き入れ神棚の下に神座をつくり、風呂を沸かして入ってもらった後、料理を神座に運んでおもてなしをする。 『習俗 富山歳時記/漆間元三』(巧玄出版)には、その様子が詳細に記されている。 宇奈月町下立は三百六十戸の純農家があるが、耕作面積が少ないので、農閑期は男衆の大半が長野、新潟、岐阜の砂防工事に出稼ぎする。 昨年九十三歳で没した松本藤治郎さんの家では、十一月二十日の夕刻、沢山の金をもうけたエビスサマが電車に乗って帰ってくるという(大正十一年に富山と宇奈月間に電車が通じて以来のことで、それまでは村境である現在の下立駅まで迎えに出た)。迎えに出るのは当人で、ちょうちんを持って行く。「ながい間、ご苦労さまでした。さあどうぞおいでください」といいながら、ちょうちんで足もとを照らしながら、家まで案内する。家のなかはきれいに掃き清められていて、エビスサマはしばらく神座で休んでもらう。このあと奥さんが風呂に案内する。タオルも準備されている。風呂のふたを取り除くと、手で湯をかき回しながら、 「湯かげんは、どうでしょう」「あついですか、ぬるいですか」と問いただしてから「では、ゆっくりおはいりください」と言上して勝手元で控える。勝手元はエベスサマの夕食準備で忙しい。〜略〜 もちろんえびす様は目に見えるわけではなく、言わばエアーえびす様だが、その見えない神様を相手におもてなしをする。 公民館の女性の話しでは提灯を持って駅へ迎えにいくという風習はもうないが、今でも2〜3軒の家ではこの日に神棚に料理を供える風習は残っているということだった。また、一部で提灯を持ってえびす様を駅へ迎えに行く風習を復活しようという動きもあるそうだ。 公民館を出て愛本姫社へ向かう途中、道路脇の斜面から水が流れ落ちており、その隣りに「史跡 流灌頂・ながれかんちょう」と書いた案内板が立っていた。 |
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←流れ灌頂の史跡。 |
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案内板の文面には「流灌頂は、昔は北陸街道の各地にあったが、道路整備とともに徐々に無くなり、今は大変珍しいものとなった。下立地区には東山公園付近にもあったが、今は跡を留めていない。 流灌頂とは、禅宗や真言宗における仏事の一つで、死者の霊を弔うため、初七日の法要が終わると、供花や塔婆をこの場所へ運び、七如来の塔婆や名号を書いた白布を流れる清水に浸しておき、親族や街道を往来する人々が、竹で作ったヒシャクで酌んだ水を塔婆に注いで、新仏の冥福をお祈りすることをいう。一般的にはこの仏事とともに場所も含めて流灌頂といっている。 亡き仏を弔うために向かって右手側に三体の石仏が安置されている。馬頭観音を中央に、その右が千手観音、左が聖観音である。 また、左手側には西国巡礼や地蔵菩薩・如意輪観音の石仏などが奉納、移転により建立されている。平成三年七月 黒部市教育委員会」と記されていた。 家が並ぶ集落に入って少し歩くと小さなお宮さんがあり、そこが愛本姫社だった。お宮の前にはテントが張られ、お宮の中には宮司さんと氏子の方が一人座っていらした。お賽銭を入れ、参拝した後、ご開帳された花魁の絵を撮影させてもらった。氏子の方からお神酒をすすめられて、お猪口に一杯いただく。 名物にもなっている粽の販売は13時からで、神社の前で行われる。まだ30分ほどあるので写真を撮ったり、販売所で5つ500円のヨモギ餅を買ったりして過ごす。 |
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↓愛本姫社。→ご開帳された愛本姫社のご神体である、英泉作の花魁の版画。 |
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13時になって粽の販売が始まった。せっかくなので家へのお土産に買って行く。笹の葉に包んだ粽は8つ束ねたものが2つ、合計で16個入って1000円だった。 | ||
行列がスタートするのは14時30分で、まだ大分時間がある。スタート地点は黒部川の土手にある黒部川神社の鳥居なので、様子を見に行くがまだ何もない。面白いのは黒部川神社の社は、川を挟んだ対岸にある。 | ||
↑左が黒部川神社の鳥居。右は杉に囲まれた、対岸にある神社の社。共に愛本橋から撮影。 ←愛本橋の横には平三郎茶屋冬期歩道と書いた建物とトンネル状の通路がある。現在の愛本橋は1972年に掛けられたもの。その前の橋は刎橋だったが、1969年の豪雨で流されてしまった。 |
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ところで、この愛本姫社まつりが行われる6月21日に、「御影様渡し」という行事が行われると『とやまの民俗芸能』(北日本新聞社)に書かれている。下立公民館の女性も、かつては愛本姫社まつりではなく、御影様の日と言っていたという。お祭りの案内チラシには、愛本姫社まつりの前に”御影様迎えと大蛇の姫迎え”というフレーズが付けられている。 14時半になって大蛇の行列がスタートした。爆竹が鳴らされ、鳥居の下の階段に置かれた発煙筒から煙が流れる中、横断幕を持った男の子を先頭に大蛇の化身である花婿がお光の元へ歩いて行く。 |
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↓龍のようにも見える大蛇。→黒部川神社の鳥居から行列はスタートする。 |
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↓→お光は粽の加工場も兼ねた下立一区の公民館で、大蛇の迎えを待っている。 |
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保存会長の長谷川さんによれば、黒部川に棲む大蛇の化身の花婿がお光を迎えに行き、そこから一緒に愛本姫社まで歩く。愛本姫社に着くと、宮司さんに祝詞をあげてもらい三三九度の杯を交わす。そしてお光は母親に粽を渡し、新婚旅行に出かけるため黒部川に戻って行くというストーリーだそうだ。 お光を迎えに来た下立一区の公民館と、三三九度が行われる愛本姫社では宇奈月小学校の女の子たちによる「愛本ちまきおどり」が踊られる。 →挨拶をする保存会長の長谷川さん。 |
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↑左は粽の加工場を兼ねた下立一区の公民館の前で、愛本ちまきおどりを踊る小学生。左は愛本姫社へ向かう行列。 |
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愛本ちまきおどりは「愛本粽」という曲に合わせて踊られ、その歌詞はお光と大蛇の伝説が元になっている。 一、愛本見たか 橋見たか 淵の大蛇の 影見たか 橋に人見りゃ なお騒ぐ 二、茶屋の平三郎の 十六娘 娘お光は きりょ娘 娘どこへ行った夜の間に失せた 淵じゃその夜から 波騒ぐ 三、娘三年目でひょいと帰って来た 身重からだで 産みに来た 見まい産屋を 親御が見たら 生んだ子どもは 蛇の子供 四、見ない約束 見られた娘 娘泣き泣き 淵瀬へ帰る 帰る形見に 教えた粽 愛本粽は よい土産 |
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↑↓→愛本姫社で結婚式をあげる、お光と大蛇の化身の花婿。 |
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結婚式の後、愛本姫社の前でもう一度愛本ちまきおどりが踊られた。そして行列は黒部川へ戻って行く。 | ||
ストーリーとしては黒部川に到着したお光と大蛇の化身はこれから新婚旅行に出かけるそうだが、行列は土手の手前で終了し朱色のアーチが目を魅く愛本橋をバックに記念写真を撮って終了した。 黒部川から愛本姫社に戻ると、テントが撤去され16時から例大祭が行われるという。しばらくすると下立一区の住民の方々が集まって来られた。例大祭の神事は10分ほどで終わり、お神酒と神饌のするめをご馳走になった。 |
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愛本姫社から下立駅へ向かう途中、史跡の案内板があり「粕塚」と書いてあった。案内板の横には安山岩の大きな石がある。伝説によれば、昔一人の僧がこのあたりの酒屋に立ち寄って酒粕を所望したところ、店の主が「これは酒粕ではございません。石です」といって断った。そして僧の立ち去った後をみると酒粕はみんな石になっていた。目の前の安山岩が、その石のようだ。 下立地区には色んな史跡や風習が残ってそうだ。 |
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↑左の写真が粕塚。 下立駅には16時半頃に着いた。16時42分の富山行きに乗車し、新魚津で下車。あいの風とやま鉄道に乗り換えて帰宅。家に着いたのは19時15分頃だったろうか。 |
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なお、ゴッホの作品「ジャポネズリー:おいらん」は、愛本姫社のご神体となっている英泉が描いた花魁を模写したものだといわれている。 | ||
*北日本新聞の記事、 | ||
19日、20日の2日間に渡り高岡開町の祖であり高岡鋳物発展の基礎を築いた前田利長公を偲ぶ御印祭が、千本格子の家並みで知られる高岡鋳物発祥の地・金屋町を中心に行われた。旧暦5月20日が命日ということで、6月20日が本祭、前日の19日が宵祭となっている。宵祭は昨年見ているので、今年は本祭を見に行って来た。 |
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↑↓→前田利長公墓所。9月13日の顕彰祭には柵の中も一般公開される。 |
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30分ほど前に到着するとマイクや椅子の設営が出来ていた。暫くすると踊りを奉納する子供たちと地謡、関係者の方々がお見えになった。16時になり、鳥居の下に設けられた臨時の祭壇の前で代表の方々が黙礼をし、その後子供たちによる「弥栄節・やがえふ」が奉納された。 弥栄節は、鋳物作りの作業唄として生まれ、歌い継がれてきたという。一番の歌詞は、 河内丹南鋳物の起こり (ヤガエフ) 今じゃ高岡金屋町エー (エンヤシャ ヤッシャイ) 今じゃ高岡金屋町エー (エンヤシャ ヤッシャイ) * こちらに、他の歌詞も載っている。 |
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黒の法被に竹の棒、着物に手拭いを持った子供たち11人による踊りの奉納は10分足らずで終了し、この後祭壇に供えられていたお神酒や塩が墓所を囲む堀に撒かれた。 奉納踊りは17時から金屋緑地公園にある石碑の前でも行われるので、自転車で金屋町へと向かう。 |
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↓→高岡鋳物発祥地の石碑の前での、奉納踊り。 |
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奉納踊りが終わると、奉納した11人の子供に幼児が加わって町流しが行われた。町流しと言ってもずっと踊りながら歩くのではなく、金屋町の旧町名である宮川町、西町、東町、古町、上町、中町、本町の7町を順番にまわって踊る。 音楽は録音ではなく、緑地公園で地謡が演奏し、その音が各町に取り付けられたスピーカーから流され、それに合わせて踊る。顔の見えないライブ演奏だ。 ←町流しで移動する子供たち。 |
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町流しは1時間ほどだったろうか。18時過ぎに踊りが終了し、子供たちにはジュースが配られる。 | ||
18時半から御旅所となっている金屋公民館で還御の儀が行われるので、後ろの方で見せていただいた。 |
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お神輿は本町、中町、上町と旧7町を巡るように路地を入って巡行して有磯正八幡宮へ戻る。 町角に取り付けられたスピーカーからは、お神輿が巡行していることが告げられる。 昨年の宵祭の際には神社から公民館までの巡行を見ているが、その時に比べて還りは随分と長い距離を歩く。 お神輿は30分ほどかけて、神社に到着した。 |
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灯りが消され、拝殿の中央に置かれたお神輿から宮司がご神体を取り出し、本殿へと運ばれる。最後に神職による神楽で、儀式は終了した。 そう言えば、有磯正八幡宮で御田植祭が行われたという記事を読んだので、どのようなものか宮司さんに聞いてみたところ、そこですと教えられたのは拝殿の横にあるプランターだった。このプランターが神饌田で、ここに当番町の児童クラブの子供たちが5月に苗を植えたそうだ。このまま育てて9月下旬に収穫し、11月の新嘗祭で神前にお供えするそうだ。 |
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↓5月に御田植祭が行われた、境内にある神饌田。→神事が終わったお神輿。 |
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19時半過ぎに神社を出て、家へと向かう。今日一日でどれくらい走っただろうか。携帯電話の時計で確認すると、55分ほどで家に着いた。 | ||
*北日本新聞の記事は、こちらとこちら。富山新聞の記事は、こちらとこちら。 | ||
9日から開催されている、頼成(らんじょう)の森での花しょうぶ祭り。会期は明日までなので、午後から出かけて来た。 県民公園「頼成の森」までは、会期中に限り砺波駅から無料のシャトルバスが出ている。13時25分発のシャトルバスに乗車するため、戸出駅を13時5分発の城端線で砺波駅へ。砺波駅に到着して、バスが出る南口に行くと既にバスが待機していた。 |
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砺波駅を出て庄川を渡り、およそ25分で頼成の森に着いた。帰りは15時50分のバスで砺波駅へ帰る予定なので、滞在できるのは2時間ほどだ。 公園は細長く、案内図を見ると1kmほどある。往復2kmなので歩くだけでも時間がかかる。イヴェントスペースではオカリナの演奏があり、知人が出演していたが、最後の曲だった。アンコールもありそうだったが、花菖蒲を見る時間が惜しいので挨拶もせずに立ち去った。 |
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花菖蒲は600品種70万株が植えられているそうだが、半分も咲いていなかったかもしれない。明日で花しょうぶ祭りは終わりなので、残念ながら見頃はイベントが終わってからになるだろう。今年の富山はまだ梅雨入りもせず、紫陽花も少し開花が遅れているようだ。自然相手のイベントは難しい。 |
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↓→「除蝗頒幣」と書かれた御幣が立てられた田んぼ。 |
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6月15日(木) |
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朝起きて居間へ連続テレビ小説「ひよっこ」を観に行ったら、共謀罪(テロ等準備罪)が可決・成立していた。施行されるのはもう少し後だが、第一号はこの人でいいんじゃないか?予告してるんだし。 加計学園問題での総理の意向文書が、追加調査で省内にあったことが公表された。松野文科相は「申し訳ない」と述べたそうだが、これまで文書は無いと言い続けたことで貴重な審議時間を無駄に消費し、それに伴うお金が費やされたことを考えると簡単に済まされる問題ではないだろう。また、文書を怪文書とした菅長官はその考えを撤回せず、「怪文書という言葉だけが一人歩きして極めて残念だ」と述べたという。言葉が一人歩き・・・怪文書怪文書と繰り返し発言したのは貴方ではないのか。 <「小池1強」ならイエスマンばかりになって議会のチェック機能が失われる>と下村博文・自民党東京都連会長が言い、<言うことを聞く人間だけで、知事が都政を進める。大混乱を起こすことは、北朝鮮を見れば明らかだ>と石原伸晃・前都連会長が言ったそうだ。それなら「安倍1強」の今は、まさに北朝鮮じゃないか。 12日に亡くなられた大田昌秀元沖縄県知事の告別式が、今日行われた。 野際陽子さんが、亡くなった。存在感のある女優らしい女優さんだったな。 ◯IS系武装勢力が市民を奴隷に、逃げれば射殺 フィリピン |
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7年前の5月30日に富山を出発し、ずいぶん寄り道をしながら鹿児島まで辿り着いた。そして6月15日の夕方にフェリー「きかい」で奄美大島に向かい、16日の朝に名瀬港に到着した。その日泊る宿だけは決めてあったが、他の事は何の予定も当てもなかった。乗って来たフェリーを見送って、右も左も分からないまま不動産屋を尋ねてこれから生活する部屋を探し始めた。色んな不安と期待でいっぱいだった。 | ||
昨日、一昨日と2日続けて五鹿屋地区の夜高祭を見に行って少し疲れているが、あまりに天気が良いので昼前から疲れた身体に気合いをいれて小矢部川の河川敷で今日から開催されている、小矢部の花菖蒲祭りを見に行った。 | ||
小矢部川の堤防沿いに自転車を走って、11時半過ぎに会場に到着。ステージでは最後の演目、石動西部こども園の児童によるダンスが始まるところだった。 プログラムより 10:25〜10:30 呼び込み太鼓(下中夢太鼓) 10:30〜10:50 開会式 11:00〜11:15 石動きらりこども園 11:20〜11:35 太鼓(下中夢太鼓) 11:40〜11:55 石動西部こども園 |
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↑左は、花菖蒲祭りの会場。右は、石動西部こども園の児童によるダンス。 |
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←↑天気に恵まれた祭りの初日だが、花自体は一割りも咲いていなかったかな。 「しょうぶ」と「あやめ」はどちらも菖蒲と書くそうだ。また菖蒲と花菖蒲は別のものだそうです。 |
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ステージのイベントが終了したので、隣接する菖蒲池で12時15分から行われる金魚の掴み取り大会を見に行く。開始の少し前に2つの大きなビニール袋に入れられていた金魚が、池に放される。開始の合図と共に子供たちが池に入ると、あっという間に池は泥で茶色くなった。 | ||
花菖蒲祭りのメインイベントで人気があるらしく、参加希望者が多くて金魚を入れる小袋が足りなくなるほどだった。13時30分から2回目の掴み取りがあるが、お腹が空いたので来た道を引き返して家に帰る。 昔(60年ほど前?)は、現在の河川敷のところまで家があったそうだ。 |
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↑帰り道の小矢部川の堤防から。美味しいお米が穫れそうな風景。 |
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9日、10日の五鹿屋地区の夜高祭の様子も後々UPしていきます。 | ||
6月10日(土) |
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五鹿屋夜高祭の2日目。昨日の天気とは打って変わって、昼前から激しい雨。それでもネットで天気予報を見ると、夕方からは天気が回復する模様。 予報通り、午後も遅くになるにつれ振ったり止んだりになり雨も弱くなって来た。ほとんど雨が止んだのを確認して、自転車で戸出駅へ向かう。今日は、昨日より一本遅い17時41分発の城端行きに乗車。17時53分に東野尻駅に着いて、自転車を組み立てる。もう、あぐり館への道は覚えたので、寄り道せずに走って時間を計ってみると駅から10分ほどだった。 あぐり館のある農協の敷地中央にテントが一つ張られているだけで人もいないので、また自転車を走らせて夜高の練り歩きを探す。しばらくすると太鼓の音と「ヨイヤサー ヨイヤサ」「ヨイヤサー ヨイヤサ」の掛け声が聴こえて来たので、近づいて行くと荒高屋の夜高行燈が練り歩いていた。 |
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荒高屋の練り歩きを追いかけて撮影していると、昼間の土砂降りがウソのように綺麗な夕焼け。一時間以上ついてまわって撮影して、すっかり暗くなったのでイベント会場のあぐり館へ行ってみる。 来賓用のテントの前にスタッフの方が集まり、打ち合わせ中だった。まだ20時で、スタートは21時過ぎからのようだが風が冷たく寒いので大人しくここで始まりを待つことにする。 |
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最初に会場に入って来たのは上村の夜高行燈で、それから間を置いて寺島、北島、荒高屋と行燈が揃った。 会場に入った行燈はテント前で止まり、審査員にアピールしてから会場の奥に整列する。 イベントが始まったのは21時半頃だろうか。最初に開会の挨拶があり、北島子ども行燈唄、荒高屋子供太鼓が披露され、いよいよ夜高行燈の突き合わせが開始された。 |
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1回戦目は寺島と荒高屋の大行燈同士の対戦。ぶつけ合う前側をお互いに低くし、突き合わせる。1回戦目だからか、それほど激しさはなかった。 寺島と荒高屋の対戦が終わった時点で、22時10分頃だった。全ての対戦が終わるのは23時半頃だと聞いていて、最初は電車を諦めて家まで2時間以上かけて自転車で帰ろうとも考えていたが、余りにも寒いので終電に間に合うように駅へと急いだ。 |
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高岡方面行きの最終電車は、東野尻を22時50分に発車する。あぐり館から自転車で駅まで10分で、30分ほど前に到着して自転車を輪行袋に仕舞い電車が来るのをホームで待つ。 ところで夜高の突き合わせ、ぶつかり合う喧嘩はなぜ行われるのか。出町の夜高については昔は道幅が狭く、行燈同士が擦れ違うことができなかったので、相手の行燈を力ずくで退かし、道を譲らせるために始まったという説がある。しかし、神を喜ばせるため、或は神の威力を高めてもらうために行われると言う考えもあるようだ。 |
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9日、10日は田植えが終わり農家がひと息つけるヤスゴト・ヤスンゴトの日で、豊年満作や五穀豊穣を祈って出町のとなみ夜高まつりや五鹿屋地区の夜高祭が行われる。となみの方は2回ほど見ているので、今年は五鹿屋の夜高を見る。砺波市教育委員会の運営するデジタルミュージアム・砺波正倉によれば、出町や庄川の夜高祭りよりも発祥は古いようだ。 初日の今日は地区内を行燈が練り歩き、明日は農協のあぐり館で行燈のコンクールや突き合わせが行われる。地区内の練り歩きといっても、どこへ行けば良いのかわからないので、とりあえず明日の突き合わせが行われるあぐり館へ行ってみることにする。 地図で探すと、最寄りの駅は城端線の東野尻だった。 |
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自転車で戸出駅まで行き、自転車を折りたたんで輪行袋に入れ、16時58分の城端行きに乗車。17時11分に東野尻駅に着いた。 福野や福光、城端へ行くのに通り過ぎたことはあるが、この駅で下車するのは初めてだ。 輪行袋から自転車を出して組み立てて、出発しようと思ったら、高岡方面行きの電車が到着したのでカメラを取り出す。時間帯から、高校生がいっぱい降りて来た。 |
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グーグルマップからプリントしてきた地図を見ながら自転車を走らすが、目印になる建物がないので自分がどこを走っているかわからなくなり、鹿島集落センターの近くで通りがかりの人に聞いてようやく到着。 あぐり館の従業員の方に夜高行燈の練り歩きはどこで見られるか尋ねるが、分からないと言われる。自転車で走って 探すしかないようだ。 しばらく周辺を走り回っていると太鼓の音が聴こえて来たので近づいて行くと 神社の前に夜高行燈が止まり、境内には法被を着た子供たちが集まっている。田楽行燈を持った北島子供連中で、後で地図を確認すると神社は五郎丸神明社だった。 |
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子供たちは拝殿に入り、二礼二拍手一礼の参拝をする。この土地の神様、産土神への参拝だろうか。 参拝が済むと子供たちは境内に並び、 ♪ササどっこいさのサー ヨイヤサ ヨイヤサ♪ と行燈唄を奉納する。 歌詞をネットで探しても見つからなかったが、 北島こども行燈唄と思われる映像がYou TubeにUPされていた。こちら。 |
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神社の境内を出ると、田楽行燈を持った子供たちを先頭に太鼓と笛の子供、そして小さめの夜高行燈を引く大人たちが列を作って練り歩きを始めた。決められた家では庭に子供たちが並んで行燈唄を歌い、花(祝儀)をもらう。 夜高というと巨大な行燈の美しさを競う祭りのようになっているが、本来は田楽行燈を持った子供たちが田んぼの畦道を歩いて五穀豊穣を祈る素朴な行事だったと思われる。行燈の灯りは田の神に供える御神燈だろうか。 夜高行燈は、この田楽行燈が進化し巨大化したものだと言われている。また、こちらには夜高祭の始まりは江戸中期で、福野町が大火から再建をはかる際に伊勢神宮の分霊をお迎えするために町民が行燈を持って迎えたのが始まりで、それが砺波地域に伝わり、田祭りとして定着したとも書かれている。 面白いのは昭和48年発行『習俗 富山歳時記/漆間元三』(巧玄出版)の虫送りの頁に、<ヨタカは夜高く火をかかげるところからでたことばだといわれ、 害虫をおびきよせて殺し、その年の豊作を祈るものであった>と記され、畦道を田楽行燈を持った子供たちが歩いているイラストが掲載されている。御神燈と害虫をおびき寄せる灯り。行燈の灯りをどう考えるかによって田祭りになり虫送りにもなり、地域によっては2つの行事がごっちゃになっているのかもしれない。 ともかく、北島子供連中の練り歩きは昔の田祭りの面影を残していて興味深かった。 |
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しばらく北島の夜高行燈について歩いてから、他の夜高も見たくて自転車で探しに行く。先程の五郎丸神明社の近くに寺島公民館があり、その前に行燈が2基並んでおり、子供たちが記念写真を撮っていた。 | ||
↑寺島の夜高行燈と、神明社への参拝。 記念撮影が終わると、2基の行燈は五郎丸神明社に移動し、子供たちが拝殿に上がり参拝する。北島子供連中の時もそうだったが、参拝が終わると神社から子供たちにジュースが配られた。 ←上村の夜高行燈。 |
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北島の夜高の次は、参拝が済んで神社を出ていく寺島の夜高行燈を追いかけることにした。 | ||
寺島の子供行燈と大人の行燈は途中で分かれてしまった。子供たちの行燈は21時頃まで、大人達の行燈は23時頃まで練り歩くそうだ。 日が暮れて、美しい夕焼けが水田に写る。暗くなった村を、華やかな夜高行燈の灯りが移動して行く。 20時頃に撮影を切り上げて駅へ向かう。先ずはあぐり館を目指し、そこから来た道を通って東野尻駅へ。 高岡方面行きは21時2分。 |
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自転車をたたんで輪行袋に入れ、電車を待つ。なんだか夜道が明るいと思っていたら、満月だった。東野尻から電車に乗り、戸出駅に21時14分に到着。自転車を組み立てて家へと走る。家に着いたのは22時頃だったろうか。遅い晩ご飯を食べ、報道ステーションとドキュメント72時間を観て、ようやく就寝。 | ||
先週、アマゾンで古書を物色して購入した5冊の本が、昨日で全て届いた。この内3冊は奄美と沖縄の図書館で一度は借りて読んでいる本だが、手頃な値段で販売していたのでポチってしまった。 | ||
↑左から、『OKINAWA 沖縄 報道カメラマンが見た復帰25年/山城博明」(琉球新報社)、『奄美 静寂と怒涛の島ー日本復帰から平成への記録/越間誠』(南方新社)、『うつぐみの竹富島(たきどぅん)/大塚勝久』(琉球新報社)、『真南風(マフェー)/太田ちづる』(クレオ)、『パリの猫』(フレックス・ファーム)。 |
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田中勝則さんによる、中村とうようさんの人生を追ったドキュメンタリー『中村とうよう 音楽評論家の時代』が二見書房から今月21日に発売になる。 |
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昨年の大晦日から今年の元旦にかけて撮影した、小境の朝日神社・夕日神社の宮ごもりの様子をPhoto Albumにしました。こちらとこちら。 | ||
↑宮ごもりした子どもたちは、神に代わって参拝客を出迎え声を揃えて「あけましておめでとうございます」と挨拶する。 ↓宮ごもりが終わった早朝、神饌として供えてあったお餅を大人に切り分けてもらい、手分けして家々に配ってまわる。 |
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今日の沖縄タイムスに、こんな記事が。 ◯ 【墓参り】着物かぶり泣く女性たち 「泣き女」の風習、今も形変え 泣き女・・・別役実の童話の世界のような話しだが、昔の沖縄にも「泣き女」という風習はあったのか。 |
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昨日、九州と山口県が梅雨入りし、今日は四国から関東甲信までが一挙に梅雨入りした。富山も今日と明日は曇り時々雨で、そろそろかな? 昨日の沖縄タイムスに名護市でアブシバレーが行われたという記事があり、4日の北日本新聞には氷見の床鍋地区で虫送りが行われたという記事が載っていた。 氷見の床鍋地区は山の方の集落で、こちらの虫送りは神事を行った後、直径1メートル、長さ8メートルの巨大な松明を集落の中心部から外れの広場まで、子供たちが中心となって「ドロムシホーイ ドロムシホイ」と囃しながら引いて歩く。 |
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上段左:御幣を飾った巨大な松明の前で神事を行う宮司さん。 上段右:松明に付けられた縄を大勢の子供たちで引き、集落の外れの広場まで運ぶ。 中段左:子供たちは太鼓を叩き、「ドロムシホーイ ドロムシホイ」と囃しながら歩く。 中段右:巨大な松明の後ろを、消防車が着いて走る。 下段左:村外れまで来ると、松明の後ろに火がつけられる。燃えている松明を、旧床鍋小学校のグランドだった広場まで引きずって行く。 下段右:村外れの広場で、御幣をてっぺんにして巨大な松明が立てられる。 |
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先月の4日に滑川市の赤浜地区で行われたショーブツも豊作を祈願する伝統行事で、藁束の中に魔除けの菖蒲の葉を一枚入れて、それを縄で巻いて棒を作る。きつく縄を巻かれた藁は棒のように固い。この藁棒を持った子供たちが家を一軒一軒まわり、「ゴガツノショーブツ ゴガツノショーブツ」と声を出しながら地面を叩き、モグラの退散と五穀豊穣を願う。ショーブツは「菖蒲を打つ」から来ている。 虫送りが終わり、砺波の方では田の神を迎える行事である田祭りの最中で、大きな夜高行燈が町練りをしている。そして、それが終われば農耕行事は福光町の「熱おくり」へと続く。 |
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上段左:ショーブツの棒作り。藁束に菖蒲の葉を一枚入れ、杉の幹に片方を固定した縄で巻いていく。力を込めて巻いていくと、スッコンコンでとても固い棒になる。 上段右:藁棒を持った子供が玄関の前で「ショーブツ来ました」と声をかけ、家の人が出て来たら「ゴガツノショーブツ ゴガツノショーブツ」と声をだしながら地面を叩く。3〜5回ほど叩くと終了で、家の人からお礼にお菓子の詰まった袋をもらう。いわゆる門付けだ。 下段左:赤浜地区はおよそ90世帯。3つの班に分かれて各30世帯ほどまわる。16時にスタートして17時過ぎにはまわり終えた。 下段右:最後は子供たち全員で公民館の前の地面を叩く。この後、家々でもらったお菓子を子供たちで山分け。お菓子の袋は公平に、くじ引きをして配られる。 |
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昨日、「最高レベル」発言確認できないが閣議決定された。凄い国だな。 ところで、以前から安倍首相のやたらとセンテンスを区切る話し方が気になっている。 先日の参議院での答弁を文字起こしされた人がいるので、一部を引用させていただく。 それはですね、この予算委員会で、前川さんが参考人として、いわば、皆さんが、その時は、そういう質問をしておられたでしょ、そしてその中で、前川さんがですね、引責、辞任という形ではなくて、まさに、その中心人物として、責任をとった、のは、事実、でございます。そして、その際ですね、 ↑誰か通訳して(笑)。同じ単語の繰り返しと接続詞ばかりで内容がない。答弁が前衛表現過ぎて、呆れるを通り越して感心してしまう。 |
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音楽評論家の鈴木カツさんが、6月5日に亡くなられた。 昨日、茨城県大洗町の日本原子力研究開発機構大洗研究開発センターで、作業員5人がウランとプルトニウムが入った保管容器を点検していたところ、放射性物質が漏れて被曝(ひばく)した。昨夜の記事では「健康に影響はない」だったが、今朝の記事では「命に関わることはない」に変わっていた。「健康に影響」「命に関わる」の判断は、なにを根拠に語られているのだろう。 |
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少し前は真夏のような日が続いていたが、このところ晴れても風が冷たくて朝方は肌寒い。今朝は出しっ放しのファンヒーターの灯油を使い切りたいのもあって、久しぶりにスイッチを入れた。 |
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昨日、一昨日と庄川観光祭が行われた。昨年も行きたいと思いながら、交通の便が悪くて断念した。嘗ては石動〜井波〜庄川を結ぶ加越能鉄道加越線があったが、1972年に廃線となり庄川町の公共交通は路線バスだけになってしまった。その路線バスは便数が少ないだけではなく終バスの時刻が早く、庄川から各電車の駅への便は夕方頃には終わってしまう
。 庄川観光祭のメインイベントは夜高行灯と花火だが、これらが始まる前に帰りのバスが無くなってしまう。それで、先日折りたたみの自転車を購入した。家から城端線の戸出駅まで自転車で行き、戸出駅から福野駅までは自転車を輪行して電車。福野駅で自転車を組み立てて庄川へ。これでなんとかなるだろうと考えて、一昨日の6月3日に行ってきた。 |
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6月3日 |
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↑行燈の町練り。夜の暗闇の中、灯りのついた行燈もきれいだが、風景と共にある昼の行燈の撮影も楽しい。 ←庄川に架かる舟戸橋からの風景。 19時近くになって庄川に架かる舟戸橋を渡って山の方へ。しばらく上っていくと松明を両手に持った人達が降りて来た。 |
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河川敷から町中へ100メートルほど戻った生涯学習センターの前では、子供たちによる小・中行燈のコンクールが始まっていた。ステージの前に1基ずつ行燈がとまり、子供たちが歌を唄ってアピールする。行燈の背後から、河川敷で打ち上げられる花火が色を添えている。 小・中行燈のコンクールが終わると、いよいよ大行燈のコンクールだが、既に夜の21時頃になっていた。大行燈のコンクールの後、行燈をぶつけ合う”合わせ”が行われるようだが福野から戸出までの最終電車は22時43分。夜道で道もよく分からないので余裕をみて、21時半頃に駅へと向かった。 |
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祭り会場付近の交番で最初に道を聞き、その後も駅へ向かう途中に見かけた4人の地元の方に福野駅への道を尋ねてなんとか辿り着いた。自転車を折りたたんで輪行袋に入れ、切符を購入して電車を待った。 |
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最終電車は、戸出駅に23時過ぎに到着。輪行袋から自転車を取り出し、組み立てて家へと向かう。戸出駅から自宅へは何度となく自転車で走っているので、多少道が暗くても迷うことはない。日付が変わる前に家に着いて、焼酎を呑みながら少しネットをチェックして寝た。 この日の午前中、沖縄でお世話になった学芸員の方からお手紙と、渡名喜島のお菓子が送られて来た。 |
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2年に一度行われる渡名喜島最大の祭祀、シマノーシを見学に行かれたことが書かれてあり、6年前にシマノーシを撮影させてもらったお礼に神人の方にお送りした写真を、島で見せてもらったそうだ。神人の女性たちも元気で過ごされているようだった。 | ||
プログラムより |
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*北日本新聞の記事。 | ||
6月2日(金) |
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昨日の夜から今日の未明にかけて、激しい雷雨。今日の日中も時おり激しい雨が降ったり雷が鳴って、不安定な天気だった。季節は春が過ぎて、もう初夏を迎える。富山の春季例大祭は、一昨日から始まった富山・日枝神社の山王さんで最後だろうか。 30日から、共謀罪法案が参議院に移って審議されている。 未だに野党は反対しかしないというネットの書き込みを見るが、平成28年度に公布された法律は115件あり、29年度も1月から既に38件の法律が公布されている。こういう現実を知って”反対しかしない”と書いているんだろうか? 先日、「そもそも」の語意について「首相が自ら辞書を引いて意味を調べたものではない」という閣議決定がされたが、今日は、自衛隊制服組トップの河野克俊統合幕僚長が「ありがたい」と歓迎した発言について、「自衛隊法61条で禁じている(自衛隊員の)政治的行為には該当しない」との答弁書を閣議決定した。 ◯日本政府に特定秘密法の改正勧告 国連特別報告者 |
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昨年の12月25日に行われた、射水市加茂神社の煤払祭の様子をPhoto Albumにしました。こちら。 | ||
↑煤払祭の神饌として供えられる固粥。ズイキと黒豆を入れて味噌で味付けしてある。 ↓煤払で一年の汚れを落とし、新年を迎える加茂神社。 |
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「やんさんま」の名で知られる加茂神社の「加茂祭」が、ダイドードリンコの今年応援する祭りに選ばれ、5月28日に地元のチューリップテレビで放映された。記事はこちら。 | ||
5月へ |