HOME TOP  
バックナンバー
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能
◯製作中の富山の祭りと芸能歴史年表
2010~2014 Photo Diary
奄美・沖縄撮影リスト
wangan 水路の都市TOKYO2006~2009
戦後ニッポンのポピュラー音楽
*パスポート 2030年6月9日
*住宅定期診断 2026年9月(施行5年目)
*住宅定期診断 2029年9月(施行8年目)
*住宅満了診断 2031年9月(施行10年目)
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
富山県内のお祭り、イベント
富山の祭り
築山行事
*砺波の獅子舞 各地区の日程
年中行事覚書 柳田国男
田の神祭りに見る日本人の神意識
立山に生きる村ー宗教集落芦峅寺のくらし
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
富山県内のお祭り、イベント
富山の祭り
築山行事
*砺波の獅子舞 各地区の日程
年中行事覚書 柳田国男
田の神祭りに見る日本人の神意識
立山に生きる村ー宗教集落芦峅寺のくらし
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】

村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
◯富山県 新型コロナウイルス感染症について 
http://www.pref.toyama.jp/cms_sec/1205/kj00021629.html?fbclid=IwAR1Z5J0FxdUdIrb0KWEPHX-VTzevMn1SYkafoJbL0IrfRBBnTG5k0vO_t1U
◯都内の最新感染動向 https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/
◯山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信 https://www.covid19-yamanaka.com/index.html
◯新型コロナウイルス感染速報 https://covid-2019.live/
◯ 福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
◯DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
◯HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
◯独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
◯小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
◯やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
◯辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
◯チョ 10イさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
◯沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

メディア関連
木原盛夫写真展「とやま、祭り彩時季」ミュゼふくおかカメラ館
富山の祭り写真集に 福岡町の木原さん 北日本新聞
木原盛夫 写真展「とやま、祭り彩時季」 たかおかストリート
カメラ館で木原盛夫展 高岡ケーブルテレビ
写真で巡る富山の祭り 木原盛男写真展 高岡ケーブルテレビ
歴史ある寺社・文化紹介 高岡御旅屋セリオで木原さん写真展 北日本新聞
高岡の文化伝える写真 御旅屋セリオ 木原さんが個展 中日新聞
高岡まちなかギャラリー - 御旅屋セリオ
祭りの写真で地域を学ぶ 高岡・福岡の寺子屋サロン
祭りの雰囲気 写真で感じて 中止相次ぐ中 福岡の木原さん展示 中日新聞
木原盛夫さん写真展 県内の祭りなど題材に 北日本放送
富山の祭りを写真で紹介 木原盛夫写真展 朝日新聞
県内の祭礼や伝統行事写す 木原さんが写真集寄贈 北日本新聞
木原さん、祭りの写真集を寄贈 高岡ケーブルテレビ
2020年9月18日OA分 いいねとやま#219 チューリップテレビ

ブログなど
木原盛夫写真展「とやま、祭り彩時季」 ゆきれぽ
今年のお祭りは 写真展で・・・・・・ yoshijunのブログ
たかのたわごと 新川神社のブログ
200814木原盛男写真展高岡彩時季御旅屋セリオ5階
200805ミュゼ福岡カメラ館とやまの祭り木原盛男写真展6 26
ミュゼふくおかカメラ館(富山県高岡市)の木原盛夫 写真展 『とやま、祭り彩時季』(~9/27)
祭りの色彩に思いをはせて  タビノイロドリ
カメラ館 フクチアンの日記
ミュゼふくおかカメラ館「とやま、祭り彩時季」へ とやまおでかけ日記

web電卓
漢字辞典
2025年カレンダー

8月31日(日)

 夏の終わりと同時に、秋の始まりを感じさせる越中八尾の「おわら風の盆」だが、明日の富山の最高気温は36℃の猛暑予想だ。風の盆とは立春の日から210日の風の厄日(台風等の風の被害が多い頃)で、9月1日から3日まで開催されている。     
 どこかもの悲しい胡弓の音色と、顔が見えそうで見えない編み笠をかぶって坂の町を流す優雅な踊り手。風の盆期間中、人口2万人ほどの山あいの町に、県内外から30万人ほどの観光客が訪れる。今年はニューヨーク・タイムズの「2025年に行くべき52か所」に富山市が選ばれ、その中で越中八尾の「おわら風の盆」も紹介されたので例年よりも多くの観光客が訪れるかもしれない。
 ところで、情緒あふれる「おわら」だが、その始まりは藩への御収納銀をめぐる取り立てのイザコザという情緒もへったくれもない話。「越中婦負郡志」にると1702年(元禄15)3月に、加賀藩から下付された「町建御墨付」を八尾の町衆が、町の開祖米屋少兵衛家所有から取り戻した祝いに、三日三晩踊り明かしたことが始まりとされている。
 この辺りの詳細は『風の盆 おわら案内記』(言叢社)に、次のような記述がある。
<八尾町建ての功労者・米屋少兵衛は代々御収納銀請負を職として、藩への御収納銀を納めることのできない者の一時立て替えの業を行なってきたが年々貸し倒れが多くなり、ついにその業をやめて八尾町を立ち退き、野積の水口村へ転退したという。この時、八尾町建てに関する書類を残らず持ち去った。~略~困った町役人たちは一計を案じて、花見がてらにかこつけ多くの芸人をともなって米屋方に押し掛け、酒宴にまぎれて書類を取り戻した>
 これをきっかけに盂蘭盆会(お盆)や、風の盆に風神鎮魂と豊作祈願を込めて踊られるようになったとされる。
 おわらの語源については、唄の中に「おわら(大笑い)」という言葉を差し挟んだからとか、豊年を祈年した「おおわら(大藁)」や、小原(おわら)村の娘が歌い始めたからなど諸説あるようだ。
おわら風の盆
↑おわら風の盆は2012年、2014年、2016年の3回見に行っている。2016年の写真がこちらに。

◯ラス・チカス・デル・カン

 ドミニカ共和国出身の女性だけのメレンゲ・グループ、ラス・チカス・デル・カンを撮影したのは、第2回目となるカリビアン・カーニバルに合わせて来日した1991年の夏だった。日本ではボンバ・レコードから発売された彼女たちのアルバム『SUMBALEO』の日本語によるライナーノーツの最後に、来日スケジュールが掲載されており、7月23日(火)東京・CAY、24日(水)東京・クラブクアトロ、25日(木)大阪・クラブクアトロ、27日(土)川崎・クラブチッタ、28日(日)東京・日比谷野外音楽堂となっている。この内、25日の大阪・クラブクアトロ以外のライヴを撮影している。いわゆる追っかけ撮影で、唯一ライヴのなかった26日も田中勝則さんと一緒に彼女たちが宿泊していた九段のホテルから新宿へ連れ出して、オフの日の彼女たちを撮影させてもらった。
 掲載誌は『ミュージック・マガジン』1991年10月号の巻頭グラビアで、田中勝則さんが「メレンゲ娘たちはひたむきなプロフェッショナル 来日したラス・チカス・デル・カンに同行して」という8ページの同行記を書かれている。
 ボンバ・レコードから発売されている『SUMBALEO』のライナーノーツには小嶋さちほさんと真保みゆきさんの対談、『JUANA LA CUBANA』のライナーノーツは藤田正さんが書かれているが詳しいプロフィールのようなものが記載されていない。そこでwikiに掲載されているヒストリーを参考にまとめると、
 元々はピアニストのベルキス・コンセプシオン(Belkis Concepcion)によって1981年に結成されたそうで、80年代を通じて数多くのヒット曲を出し、シングル・アルバムの多くがゴールドやプラチナ・ディスクを獲得。大成功を収めた彼女たちはベネズエラ、エクアドル、コロンビア、ペルー、プエルトリコ、アメリカ、ヨーロッパなど世界各地をまわる大規模なツアーを行う。
 グループの創設者であるベルキス・コンセプシオンは1985年に脱退してソロ活動を始めたが、その後、歌手のミリアム・クルースとエウニーセ・ベタンセスがチームを組み、ベロニカ・メディナなどからサポートを受ける。
 1988年、ヴェロニカ・メディナに代わって歌手のヘイディ・ペロがラス・チカス・デル・カンに加入したが、1991年にアリスマール・エドゥアルドとロサナ・エウゼビオに交代したと書かれている。彼女たちが来日したのは、この頃で、ライヴ初日の23日の昼に田中さんが加入したばかりのベネズエラ出身でボーカルのアリスマールと、当時でグループに入って5年目のトランペッター、シオラーマにインタヴューしている。彼女たちの話によればチカスのツアーはハードで、一年の内、地元の家に居られるのは3ヶ月ほどだという。演奏だけではなくボディコンシャスな服で全員がイケイケなダンスをする熱いステージのツアーを精力的にこなしているだけあって、みんな下半身が健康的な力強さとお色気に溢れていた。
 また、メンバー・チェンジは多く、彼女たち自身いちいち細かく覚えていられないほどだという。その理由は結婚だそうで、来日メンバーの中で結婚しても音楽活動を続けているのは3人だけだった。
「それはね、ドミニカの男がみんなマッチョ(男尊主義者)だからよ。ベネスェーラもそうだけど、ドミニカはもっとヒドい」とアリスマールが、田中さんのインタヴューに答えていた。
 尚、wikiによれば初来日の翌年、1992年にボーカルのミリアムの名前を冠したミリアム・クルース・イ・ラス・チカスという名前のグループが誕生し『Nueva Vida』というヒット・アルバムをリリース。94年にも「Con Aqua de Sal」という曲をヒットさせ、95年にヨーロッパツアーを成功させたそうだ。
 そして本家のラス・チカス・デル・カンの方はメンバーを一新、ミシェル・フローレス、グリセル・バエズ、フロランヘル・デル・ビリヤールがチームを結成し、ウィルフルド・バルガスのプロデュースのもと『EXPLOSIVO』というアルバムを制作しており、こちらは日本でもボンバ・レコードからリリースされている。彼女たちのアルバム紹介はこちらに。
 1996年のアルバム『Derramando Sueños』をリリース後、リード・ボーカルのミシェル・フローレスがソロ活動を開始し、グループは1998年に解散。1999年に3度目の再結成を果たしたが以前ほどの成功を収めることはできなかったそうだ。
 掲載した9枚目がトランペットのシオラーマ、10枚目がボーカルのアリスマール、11枚目の男性はラス・チカスのプロデューサーだったウィルフルド・バルガスの実弟、ファン・バルガス氏。ツアーに同行しサウンド・チェックやマネージャーのような仕事をされていた。

YouTubeから「JUANA LA CUBANA LAS CHICAS DEL CAN.wmv」 「QUE ES LO QUE QUIERE EL NEGRO (WACA WACA) - LAS CHICAS DEL CAN - VIVO」 「THE CAN GIRLS - FEVER AND FIRE - 1988 - VIVO

九段・グランドパレス 1991年7月23日インタヴュー撮影
青山CAY 1991年7月23日撮影
渋谷クラブクアトロ 1991年7月24日撮影
新宿西口 1991年7月26日撮影
川崎・クラブチッタ 1991年7月27日撮影
日比谷野外音楽堂 1991年7月28日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1991年10月号
インタヴュー・文は田中勝則さん
#ラスチカスデルカン
#LasChicasDelCan
#ミリアムクルース
#MiriamCruz
#エウニーセベタンセス
#EuniceBetances
#マリアテレサドミンゲス
#MariaTeresaDominguez
#アリスマールエドゥアルド
#シオラーマ
#カリビアンカーニバル
#CaribbeanCarnival
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。11枚の写真が掲載されています。

ラス・チカス・デル・カン
エステール・テファナ

◯エステール・テファナ パトリック・ノーブル

 1998年にエイベックスから、タヒチ音楽の今を伝えるシリーズ<タヒチアン・クレオール>と名付けられたタヒチのポピュラー音楽のCDが発売された。家のCD棚には『キング・ストリート/ボビー・ホルカム』『テメハニに咲く花/エステール・テファナ』、そしてオムニバス『タヒチの夜』の3枚しかないが、全8枚のシリーズだった。このシリーズを監修したのが当時『ミュージック・マガジン』の編集長だった高橋道彦さん。その関係から『ミュージック・マガジン』1998年5月号から8月号まで4回にわたり、短期集中連載「タヒチアン・クレオール」という記事が掲載された。執筆はもちろん道彦さんで、タヒチの音楽(ミュージシャン)から楽器、歴史まで幅広く紹介されている。
 その連載1回目のリード文には、こう書かれている。

<太平洋って、地球の表面の約3分の1を占める広大な地域だってこと知ってます?そして太平洋を中心に地球を捉えると、タヒチはそのほぼ真ん中に位置することになる。そんな「地球のヘソ」の音楽が、いま、とても面白い。人口約23万人の文化圏に「なんでこんなにいろんな混血音楽があるんだぁ!」とビックリするほど。同じポリネシアのハワイはもちろん、ズーク、カリプソ、ハイチ、アフリカ、欧米、さらにはインドネシアのクロンチョンまで飲み込んで、自分のものにしてしまう。CD発売と連動して「懐深くておっちょこちょい」なタヒチ音楽ににじり寄る短期集中連載スタート!>
 タヒチ出身のベテラン女性歌手エステール・テファナと男性歌手のパトリック・ノーブルを撮影したのは、彼らが1998年のゴールデン・ウイークに東京ビッグサイトで開催された「フランス祭り」にタヒチ政府から派遣されて来日していた時だった。タヒチの音楽大使の異名を持つエステールは、この時が3度目の来日。日本だけではなくこうしたイヴェントがあれば、アラスカ、ノルウェイ、スウェーデン、スイスなど世界中の何処へでも出かけて歌ったそうだ。
 この時に撮影した写真は短期集中連載「タヒチアン・クレオール」の3回目に掲載されている。タヒチでは二十代で消え去る歌手やグループが多いそうだが、記事の中からエステールのプロフィールに触れた部分を引用すると、
<エステール・テファナは1964年に16歳でデビュー、四十代さえ楽々と乗り切り、歌手生活34年めに突入した女性歌手だ。まず間違いなく、エステールの記録がタヒチの歌手としての最長不倒距離となるはず。ご主人の仕事の関係で、1970年から4年間をコート・ディヴォワールのアビジャンで過ごしたが、そんな空白期間さえものともせずに、以後も毎年のようにアルバムを発表してきた。
 民俗音楽を含めてタヒチの音楽全般を知れば知るほど、エステールの歌の素晴らしさは見えてくる。ただ単純に心地よい歌としても聴けるエステールの歌だが、その声のなかには、タヒチ音楽の特徴やクセなどが凝縮されて宿っている。だからこそ、人々の支持を失わずにアルバムを29枚も発表し、いまでも第一線で活躍しているのである>
 一緒に来日したパトリック・ノーブルについて記事で触れられているのは、アルバムを20枚ほどリリースしていることと、エステールのアルバム『テメハニに咲く花』でデュエットしていること。ネットで検索しても詳しいプロフィールなどを載せた情報はなかった。
 wikiによると、エステールは2021年5月14日に亡くなったそうだ。

YouTubeから「Clips : Esther Tefana et Patrick Noble chantent "Tabu”」 「Vahine tui hei ratere/Esther Tefana 」 「Patrick NOBLE - " Tei Roto Ta'u Tino Ite Fare “

江東区・東京ビッグサイト 1998年5月2日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1998年7月号
インタヴュアーは高橋道彦さん
#エステールテファナ
#EstherTefana
#パトリックノーブル
#PatrickNoble
#タヒチ
#Tahiti
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。5枚の写真が掲載されています。

8月29日(金)

 昼間は盛夏のようだが、一昨日の午前中の激しい雷雨の後に空気が夏から秋に入れ替わったのか、朝晩は少し涼しく感じられる。
 午後から明後日で終了する土肥美帆写真展「北に生きる猫ーみんなケンジを好きになるー」を観てきた。

 第2次世界大戦時にナチスによって略奪され80年以上行方がわからなかったイタリアの名画が、アルゼンチンの不動産広告に写り込んでいたことによって発見されたそうだ。何か物語が書けそうなエピソードだ。

 この他の気になった記事を備忘録として。
「汚染土」最終処分の工程表がまとまったが…再利用が進まず、イメチェンへ「復興再生土」と呼ぶ案も浮上した
福島原発除染土の再利用、理解促進へ国前面に 工程表を正式決定
「ホームタウン=移民受け入れ」はデマなのに…苦情電話に疲れ果てる自治体 過剰反応でこの国が失うものは
防衛省、長射程ミサイルを熊本に配備へ 「反撃能力」保有に向け一歩
静岡・伊東市長、学歴詐称疑惑巡る質問に答えず 1カ月ぶり記者会見

◯メタリカ ジェイムズ・ヘットフィールド

 90年代は柴田書店の雑誌やムックの撮影が多くて、そこに音楽雑誌の撮影が重なることも多かった。アメリカのへヴィメタル・バンド、メタリカのライヴを撮影した日も、昼過ぎにメキシコ料理店「エルトリート」の撮影があって、撮影したフィルムを外苑の堀内カラーへ現像に出し、ついでにライヴ撮影では使わないストロボなどを預かってもらって代々木オリンピック・プールへ撮影に行った。ライヴの2日後にはフロントマンのジェイムズ・ヘットフィールドのインタヴュー撮影が六本木プリンスホテルであったが、この日もこの後に銀座のオーセンティック・バー「ひみこ」の撮影に行っている。
 wikiによるとメタリカは1981年にドラムのラーズ・ウルリッヒがジェイムズを誘う形で結成されたそうだ。1982年にリード・ギターのデイヴ・ムスティンが加入するが、サンフランシスコに拠点を移した1983年2月にデイヴは解雇され、カーク・ハメットが参加。また、1982年にはベースのロン・マクガウニーの脱退もあり、12月に新たなベーシストとしてクリフ・バートンが加入。そして、1983年7月にインディーズ・レーベルのメガフォースよりアルバム『キル・エム・オール』でデビューしている。

ジェイムズ・ヘットフィールド

 1986年9月27日にベースのクリフ・バートンがヨーロッパ・ツアー中に事故で亡くなり、急遽10月にオーディションで選ばれたジェイスン・ニューステッドが新たなベーシストとして迎え入れられた。
 彼らを撮影したのはデビューから10年目の1993年、4度目の来日公演の時だった。掲載誌は『ミュージック・マガジン』で、ライヴ評は今井智子さん、ジェイムズのインタヴューは大鷹俊一さんが担当している。ツアー・スケジュールは3月16日・17日代々木オリンピック・プール、18日横浜アリーナ、21日福岡サンパレス、22日大阪城ホール、23日名古屋センチュリーホールで、初日の代々木オリンピック・プールを撮影した。今井さんの記事によると、このジャパン・ツアーは、3年がかりのワールドツアーの一環だった。
 ステージの下から撮影できると思っていたら、撮影ピットがずいぶんステージから離れたところにあり200mmのアポレンズでは全然寄れなかった。

 ライヴ撮影した2日後の18日に行われたジェイムズ・ヘットフィールドのインタヴューは、彼らの宿泊先だった六本木のプリンスホテル。このインタヴューの行われた日も、夜には横浜アリーナでライヴがあり、3年がかりのワールドツアーの中で、すでに2年近くこうしたハードなスケジュールをこなしていた。そのハードなツアーをやり遂げるコツを大鷹さんが尋ねると、
「充分なビールと睡眠さ、ハハハ。いや、ホントは沢山の人が見にきてくれることだ。俺たちはライヴ・バンドだから声がかかるところはできるだけ行くようにしてる。途中にちゃんと休みをとれればやっていけるよ」と答えている。
 今年で結成44年。wikiによると2019年までにアルバム総売上枚数が世界中で1億2000万枚を記録している。しかし、オリジナル・アルバムは11枚と決して多くはない。また、結成初期からのメンバー、ジェイムズもラーズもソロ・アルバムを出していない。
 バンドでは収まりきれないものをソロ・アルバムの形でやることを考えないのかと大鷹さんが問うと、
「ああ、俺たちは、ちょうどそのことでひと月ほど前にミーティングを持ったんだ。というのもラーズ(ドラムス)に、デンマークのマーシフル・フェイトの再結成にあたってレコードでプレイしてくれないかって話があったことが発端で、そのとき他にジェイスン(ベース)がカナダのヴォイヴォドの誰かと一緒に曲作りまでしていることがわかった。で、俺は曲作りまでやったって聞くとちょっと苛立ってしまうんだ。メタリカというのは一つの強固なユニットであり、そのことに俺たち自身誇りを持っていたし、多くの人に尊敬されてもいた。誰のレコーディングにも出掛ける、誰が来ても一緒にやるというような、単なるミュージシャンの集合体とは違う。俺たちはもっともっと自分たちのやることに集中してきたんだ。
 もちろんミュージシャンとして、バンド以外の人間とセッションしたりジャムをやって刺激を得ることは、とても健全なことだと思う。それまで止めろなんて言うつもりはない。でもバンド以外の人と曲作りまで始めるのは行きすぎじゃないだろうか。だから俺自身はソロ・プロジェクトをやる気はまったくない。曲を書くということはメタリカの中ではある種の聖性があり、バンド外の人と曲を作るのは言わば裏切りのようなものだ(笑)。俺たちはみんな100%メタリカだよ」
 大鷹さんはインタヴュー記事の冒頭で、<メガデス、スレイヤーなどメタル系のコンサートにマメに足を運んだが、やはりメタリカは特別だった。音楽スタイルがどうこうという以前に、バンドやアーティストのリアリティが常に一番問題である自分にしてみれば、なぜメタリカだけが?なのだった>と書いているが、その秘密がジェイムズの言う彼らのバンドに対するストイックなまでの忠誠心にあるのかもしれない。
 1枚目の写真はモノクロのプリントに調色したもの。新宿ヨドバシ本店の暗室用品コーナーで購入した薬品で、黒の部分がソラリゼーション(反転現象)を起こしメタル風になるので気に入って使用していた。ジェイムズが両手に持っているのはパーティー用クラッカーで、中の紙テープを取り出して撮影している。

YouTubeから「Metallica - Enter Sandman Live (Stranger in Moscow, Moscow Russia 1991)」 「Metallica: The Unforgiven (Live - San Diego '92) [Live Shit: Binge & Purge]」 「Metallica - Enter Sandman (Live in Mexico City) [Orgullo, Pasión, y Gloria]

メタリカ 公式ウェブサイト

代々木オリンピック・プール(第一体育館) 1993年3月16日撮影
六本木プリンスホテル 1993年3月18日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年5月号
インタヴュアーは大鷹俊一さん
コンサート評は今井智子さん
#メタリカ
#Metallica
#ジェイムズヘットフィールド
#JamesHetfield
#ラーズウルリッヒ
#LarsUlrich
#カークハメット
#KirkHammett
#ジェイスンニューステッド
#JasonNewsted
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。8枚の写真が掲載されています。

プライマス

◯プライマス

LA山火事で自宅が全焼したプライマスのラリー・ラロンデ 「自宅にはギターは58本くらいあった」 長年収集してきたギターの大半を失ったと語る

 今年1月に起きたロサンゼルスの山火事は多くのセレブや著名人の家を焼失させたが、プライマスのギタリスト、ラリー・ラロンデ の自宅もその一つだった。amassの記事によると、正確な数はまだわからないとしながらも、彼が長年にわたって収集してきた58本のギターの大半が火事によって失われたという。
 プライマスは6弦ベースを超絶技巧で弾きこなすレス・クレイプールが中心になって1984年に結成された、米国・西海岸のバンド。彼らを撮影したのは3枚目のアルバム『ポーク・ソーダ』がリリースされた翌年の1994年が最初で、その後、1996年にも撮影している。

 1994年は彼らの初来日で、インタヴュー撮影とライヴを撮っている。掲載誌は『ミュージック・マガジン』でインタヴュアーは安部財司さん、コンサート評を小堺雄三さんが書かれている。
 彼らの音楽性について安部さんは記事の中で<ファンク/メタル/ジャズ/フュージョン/プログレ・・・その他諸々のあらゆる音楽を混在させ、それを想像を絶する超絶的かつ変態的とも言えそうなテクニックで演奏するプライマスの音楽性は、とてもじゃないが一言で説明できるようなものではない>と書いている。
 84年の結成当時から現在のようなヘンな音楽を演ろうと思ってたんですか?という安部さんの質問に、
「ヘンか(笑)。まあ、人が何て呼んだらいいかわからないような不思議な音楽っていう意味では、あんまり変わってないかもな。ただ、全く変わっていないってワケでもなくて、やっぱり俺達の音楽性ってのもそれなりに展開してきてると思う。メンバー・チェンジも激しかったしね。でも3人編成で、といった基本的な部分は変わってないけど」とレスが答えている。
 また、プライマスの音楽って結構複雑だし、暴れるだけっていうんじゃなくて、(聞き手にも)音楽的な素養とか知的な部分も必要ですよね?という質問に、ドラムのティム・アレキサンダーは「そうは思わない。大体俺達自身、音楽について何もわかってないしね(笑)」と話し、レスは「俺達には技術は確かにあるけど。そうだな、超絶テク・バンドとかフュージョンとかとは思わない。俺達の音楽に対しては両極端な意見があってさ、テクもあって歌詞も深いって言われることもあれば、逆に曲も歌詞もマンガみたいで中身がないって言われることもある。まあ、後者の意見は無視するとして(笑)、プライマスがしようとしているのは、音楽そのものとそれを取り巻く音楽業界を茶化すことなんだよ。音楽をシリアスに考え過ぎるヤツが多過ぎるね。だから俺達は何でも軽目にやってやるんだ。曲によっては社会や政治の問題について歌ったりもするけど、決して他人に意見を押し付けたりはしない。パブリック・エネミーみたいにね。俺達はもっと冗談半分でやっていたいんだよ」と答えていた。
 前年にリリースされたアルバム『ポーク・ソーダ』についてレスは、
「作品のタイトルっていうのはその時々の俺達自身を表現してて、例えば”ポーク・ソーダ”ってのは架空のソフト・ドリンクなんだけど、コレステロールやカロリーが異常に高いっていう誰も望んでないような代物なんだ(笑)。で、それって俺達の音楽のことじゃないか、ってことでああいうタイトルにしたんだよ」
 2回目となる96年の撮影は『クロスビート』の「米田実の音楽の穴」という連載。第6回目でレス・クレイプールへのインタヴュー記事だが、インタヴューの後にメンバー3人揃った写真も撮影している。前回長髪だったレスの髪型が短髪になり、髭も剃っていたので<同じ人?>と最初戸惑いながら撮影した。
 wikiによると2000年に一度解散し、2003年に活動を再開。この間、レスとギターのラリーはずっと一緒だが、ドラムのティムは何度か抜けているようだ。

YouTubeから「Primus - My Name Is Mud (Live at MTV's Haunted House Party) (1993) (1990s Les Claypool)」 「Primus - "Tommy The Cat" - Bonnaroo 2011 (Official Video)

プライマス 公式ウェブサイト

プライマス Instagram

北青山・イーストウエスト・ジャパン 1994年1月19日撮影
渋谷・クラブクアトロ 1994年1月20日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年3月号
インタヴュアーは安部財司さん、通訳は河原雅子さん
ライヴ評は小堺雄三さん
港区・シェラトン都ホテル 1996年2月18日撮影
初出『クロスビート』1996年4月号
インタヴュアーは米田実さん、通訳は川原真理子さん
#プライマス
#Primus
#レスクレイプール
#LesClaypool
#ラリーラロンデ
#LarryLaLonde
#ティムアレキサンダー
#TimAlexander
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。13枚の写真が掲載されています。

8月27日(水)

 午前中に激しい雷雨があったせいか、晴れた午後もわりと涼しく過ごせた。夜の空気に、少しだけ秋を感じる。
 4年ほど前に、聞いていて、耳障りの良い声や喋り方があると、こんな文章を書いた。その時はNHKの火曜昼の番組「BENTO EXPO」に時々ゲストで登場するウクライナ出身のモデル・アンナさん、「サンデー・モーニング」に登場するTBSのアナウンサー・水野真裕美さん、朝ドラ「おかえりモネ」で神野マリアンナ莉子を演じる今田美桜さんの声をあげていたが、その後、NHK「ニュース7」のサブキャスターを務めていたアナウンサーの川崎理加さんの声や喋り方に魅かれていた。幼少期をアメリカで過ごし英語が堪能だそうだが、とにかくニュースを伝える声がスーッと耳に入り心地良かった。サブではなくぜひメインキャスターで登場して欲しいと思っていたが、昨年9月から国際放送局へ移動。残念に思っていたら、昨日、NHKを退局していたという記事が流れてきた。
渡辺文樹

◯渡辺文樹

 1953年福島県いわき市生まれの映画監督。
 彼を撮影したのは3作目となる『ザザンボ』を発表した翌年の1993年。民俗学者・評論家の大月隆寛さんが『ミュージック・マガジン』1993年3月号に寄稿した「渡辺文樹ーー活劇を自ら生きる明るいほど”アブない”男 『ザザンボ』自主映画の現場をたずねて」という6ページの記事に添える写真だった。17時ごろの新幹線で担当編集者の加藤彰さんと3人で福島市に向かい、映画が上映されていた「フォーラム3/4」という映画館の前で撮影した。撮影の後に映画を観た記憶はあるが、インタヴューに同席した記憶がないので一人だけその日の夜に帰ってきたのかもしれない。
 映画『ザザンボ』は1976年12月に福島県田村郡三春町で実際に起きた中学生の自殺事件をベースに制作されたが、完成後にスポンサーだった松竹が公開・配給を拒否したため、7000万円の借金を抱えて上映権を買い取っての自主上映だった。しかし、地元の三春町では上映を拒否されたという。

「なんだっちゅうのね。自分の街のことなのにどうしてわざわざ郡山まで、それも顔隠してみんなコソコソ見にこなきゃなんねんだろうね」
 このインタヴューでは、次回作についても語っており、
「俺、この間地元のラジオで次回作のこと言ったんだよ。千代田区千代田一番地の住人たちを殺す映画を作る、って。そしたらたまたま高校2年になる俺の女房の甥っコが聞いてたんだ。おかあさん大変だ、あのおじさん今度天皇殺す映画作るよ、って大騒ぎ。天皇尊敬してるってんだってさ。愕然としたよ。俺の女房もそうだからね。あんたそんな映画作ったら離婚だ、って。おお、離婚で結構じゃねえか、って言うんだ」と話していた。その内容なら、また山ほど妨害があるでしょうねと大月さんが振ると、
「そうだね。右翼、やっぱり来るだろうねぇ、でも俺、やられてもやられても映画撮るからね。俺がやられて、なんであの人あそこまでやって映画撮ったんだろう、って思われたらそれで意味あると思うからね。なぁにが天皇に戦争責任ないんだ、ふざけんじゃねぇ、って思うよ。長崎の本島市長ばっかりにあんないい役やらせるわけいかないからね」
 実際には次回作は1994年に制作された『バリゾーゴン』という映画だったが、99年制作の『腹腹時計」では昭和天皇の暗殺計画という内容を扱い、2008年制作の『ノモンハン』と『天皇伝説』ではノモンハン事件における皇族将校の奇行、さらには天皇家をめぐる血の争いを描いているそうだ。
 インタヴューの最後に、
「幸せだと思いますよ、俺は。映画という大きな遊びを通して言いたいこと言ってきたな、と思うね。深刻になっちゃしゃあねえし。俺もアフガン行ったりしてたから、今こうやって生きてることはありがたいな、って思うね。そりゃ借金はあるけど、そんなのなんでもないでしょ。暴力団がきてコノヤローって世界でもないしね。なんとかなっぺよ(笑)」と話していた。
 wikiによれば今のところ2015年に制作した『安倍晋三 CIAにいいなりの男』が最後の作品のようだ。また、wikiには<ちまちまとした小騒動を起こすことで作品に注目を集める炎上スタイルの活動を行なっている>と紹介されている。
 尚、『ザザンボ』のあらすじや公開までの顛末などはwiki(https://ja.wikipedia.org/wiki/ザザンボ)に掲載されている。ザザンボとは福島県の方言で葬式のことだという。
 また、この時のインタヴュー記事は大月隆寛さんのブログで全文が読める。こちら。
 フィルムをスキャンしてデータ化済みだと思っていたがまだだったので、掲載した写真は入稿した銀塩プリントを複写している。

YouTubeから「ザザンボ」 「2008年10月30日@ロフトプラスワン 渡辺文樹監督1/2

福島市・映画館「フォーラム3/4」 1993年1月20日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年3月号
インタヴュアーは大月隆寛さん
#渡辺文樹
#FumikiWatanabe
#ザザンボ
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。5枚の写真が掲載されています。

エゴ・ラッピン

◯エゴ・ラッピン

 エゴ・ラッピンの音楽を初めて聴いた時、頭に浮かんだ単語は「フェイク」だった。借り物のジャズと歌謡曲の要素がミックスしたような彼らの音楽は、貪欲に世界の音楽を吸収しながら自分たちの音楽を作っていった戦後まもなくの日本の歌謡曲=ポピュラー音楽にどこか似ているように感じたから。だから、戦後のブギの女王と言われた笠置シヅ子をモデルにした2023年後期の朝の連続テレビ小説『ブギウギ』の主題歌「ハッピー☆ブギ」を、ヒロインの趣里、さかいゆうと共にエゴ・ラッピンの中納佳恵が歌ったのは自分の中ではとても納得のいく出来事だった。
 彼らを撮影したのはポリドールに自分たちのレーベル「Minor Swing」を立ち上げ、メジャー第一弾となるセカンド・アルバム『満ち汐のロマンス』をリリースするタイミングだった。『ミュージック・マガジン』2001年6月号での取材で、インタヴュアーは志田歩さん。

 記事の中でギターの森雅樹さんは「ジャズでよく聴いてきたのはジャンゴ・ラインハルトくらい。全然体系的じゃなく、その時々で年代も関係なく好きなものを聴いてきただけ」と話し、ボーカルの中納良恵さんは「よく昭和歌謡的とかいわれるんですけど、そういうものを聴いていたわけでもないし。ただ元々は英語で歌っていたので、歌の中での言葉の発し方を日本語でどうゆう風にやったらおもしろいかというのは、自分なりに意識するようになりました」と話している。
 彼らはデビュー以来、2010年まで7インチや12インチのアナログ・レコードでのリリースも行っていた。取材した2001年もアルバムから「PARANOIA」がシングル・カットされ7インチのアナログ・レコードでリリースされている。
「今回はアナログのカッティング作業も見せてもらいました。髪の毛みたいな溝のひとつひとつに、キックはちょっとはみ出していて、ハットとかはちょっと白い感じで彫りが浅いんですよね。カッティングの現場まで見たいと思うのは、アナログ盤が大好きだし、可愛いから(笑)。最後まで立ち会うのは普通のことだと思うんですよ。私たちは別にTVに出るわけじゃないし、着飾るわけでもなくて、やることは音楽しかないんだから」。そして「リアルなものにしたい。音楽を作るプロセスに執着とか愛着とかなかったら何の意味もないし」。
 そう中納良恵さんは話していた。

YouTubeから「色彩のブルース/EGO-WRAPPIN'」 「くちばしにチェリー/EGO-WRAPPIN'」 「ハッピー☆ブギ/中納良恵 さかいゆう 趣里

エゴ・ラッピン 公式ウェブサイト

中納良恵 公式ウェブサイト
https://nakanoyoshie.com

池尻大橋・ポリドール 2001年4月13日撮影
初出『ミュージック・マガジン』2001年6月号
インタヴュアーは志田歩さん
#エゴラッピン
#EGOWRAPPIN
#中納良恵
#YoshieNakano
#森雅樹
#MasakiMori
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。2枚の写真が掲載されています。

8月25日(月)

 日本地図が真っ赤。酷暑の夏、エアコンの使用率も大幅に上がっているだろうが、なぜか今年は不思議と節電要請が聞こえてこない。電力は足りているんだろう。
りんけんバンド

◯りんけんバンド

 沖縄音楽の重鎮である照屋林山を祖父に、照屋林助を父に持つ照屋林賢が1977年に結成したバンド。三線、島太鼓といった沖縄の伝統楽器とドラム、キーボード、ベースなどの洋楽器を融合させて独自のオキナワン・ポップスを演奏する。ウチナーグチ(沖縄方言)の歌詞と琉球音階を取り入れたオリジナル曲は全て林賢さんの手によるもの。
 1985年にオリオンビールのCMソングに起用された「ありがとう」が話題となり、1987年にマルテル・レコードよりデビューアルバム『ありがとう』をカセット・テープでリリース。その後、1990年にCD化されて全国発売されると彼らの名前が広く知られるようになった。
 個人的には80年代の終わりから兆しのあったワールド・ミュージックのブームに乗り、ネーネーズと共に沖縄音楽の人気を牽引して行った印象を持っている。

 りんけんバンドのライヴは1991年と1994年の2回撮影している。どちらも『ミュージック・マガジン』の取材だった。1991年は渋谷・オン・エアでのライヴで、コンサート評を後藤幸浩さんが書いている。林賢さんが三線、林賢さんのパートナーでもある上原知子さんがボーカル、それに玉城滿さん、我喜屋良光さん、藤木勇人さんがフロントを務めていた。
 1994年のライヴは新高輪プリンスホテルで行われたディナーショーで、前年にメンバーチェンジが行われ島太鼓とベース、キーボードに若手が起用されている。30年以上前なのでその時の演奏のことは思い出せないが、ホテルでのライヴだったので、ホテルの従業員からお客様にお尻を向けないように撮影して下さいという難しい注文があって困惑したのを覚えている。
 この1994年のライヴ写真は、松村洋さんによる「究極のりんけんバンドは15枚目のアルバムで完成します」とタイトルが付けられた林賢さんへのインタヴュー記事の中で掲載されている。
 記事の中で、この頃の沖縄音楽ブームについて林賢さんが少し苦言を発している。
「やっぱり、自分をあんまり誉めない方がいいと思いますよ。恥ずかしいですよ。沖縄音楽は世界に類を見ないものだなんて言われても、世界中にそれぞれ類を見ないものがいっぱいあるわけですからねえ(笑)。とんでもないなあと思いますよ(笑)。
 本当は、音楽って、ふつうの生活のなかにふつうにあるふつうのものなんですよ。沖縄の音楽も、沖縄の暮らしのなかで沖縄の人が自然に楽しんでれば、それがいちばん自然なかたちだと思うんです。ただ、ぼくらみたいに音楽を職業にしてしまうと、またべつの次元のことが発生しますけどね。でも、沖縄の音楽が世界でウケてるとか簡単に言われると、がくっとくるんですよ。ちょっと違うんじゃないか、誤解してるんじゃないかと」
 りんけんバンドのライヴはこの2回しか撮影していないが、沖縄に移住していた2014年に、林賢さんの父で2005年に亡くなった林助さんを偲んで開催されている『コザ・てるりん祭』でソロでステージに立つ上原知子さんを撮影している。この時は夫の林賢さんもステージの横から写真を撮られていた。林賢さんは『Rinken Blue』(ステレオサウンド)というCD付き写真集を発表している写真家でもある。
 『コザ・てるりん祭』の様子はこちらに。

YouTubeから「ありがとぅ - りんけんバンド WOMAD '92」 「黄金三星/りんけんバンド」 「なんくる節/りんけんバンド

りんけんバンド 公式ウェブサイト

渋谷・オン・エア 1991年2月26日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1991年4月号
コンサート評は後藤幸浩さん
新高輪プリンスホテル 1994年7月21日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年9月号
インタヴュアーは松村洋さん
#りんけんバンド
#RinkenBand
#照屋林賢
#RinkenTeruya
#上原知子
#TomokoUehara
#玉城滿
#MitsuruTamaki
#我喜屋良光
#YoshimitsuGakiya
#藤木勇人
#HayatoFujiki
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。7枚の写真が掲載されています。

東京スカパラダイスオーケストラ

◯東京スカパラダイスオーケストラ

 1985年にパーカッショニストのASA-CHANGこと朝倉弘一さんによって結成されたスカ・バンド。スカパラは2回撮影しているが、1回目はリズム・セクションの3人、2回目はホーンセクション中心の撮影だった。共に『ミュージック・マガジン』で、1回目は1993年5月号での11ページにわたる特集のインタヴュー記事。インタヴュアーは北中正和さんだった。2回目は1996年9月号で、ブラス(ホーンセクション)を取り入れた日本のバンド特集の中の囲み記事。こちらは三田真さんがインタヴューをしている。
 93年5月号の北中さんのインタヴューには、朝倉弘一さん、ドラムの青木達之さん、ベースの川上毅さんが答えている。日本武道館での公演を成功させ、ヨーロッパやアジアのフェイスティバルにも出演し、人気が高まっている頃だったが、先ずはスカパラの結成当時の話から。
 スカパラ創設者の朝倉さんは、

「85年ごろ、スカのレコードをたくさん持ってて、いろいろ聞いてんだけど、自分たちでやりたくなって、ただ<音を出したい>ってレベルではじめた。最初から今と同じような編成で、この名前で、Tシャツもつくったんだけど、2年で2曲もできない(笑)。なにしろおれとクリーンヘッド・ギムラがトランペット吹いてたんだから(笑)。2年間ライヴもやらないし、うまい人が来ても、ほかが滅茶苦茶すごい音出してたから、1回だけでやめてっちゃうとかね(笑)。居心地いい人だけが残って、メンバーが固まりだしたころから、じゃあライヴでもやろうかって、新宿のジャムってライヴハウスに出たのが最初。月一で六本木のインクスティックに出るようになったのは89年ごろからだった」と話している。ドラムの青木さんは、
「ぼくはちょうどYMO世代で、ぼくやメンバーの何人かは、スペシャルズなんかのツー・トーン・ブームをちょうど中学生くらいにリアル・タイムで経験してる。スペシャルズとかって、カッコよかったけど、ニュー・ウェイヴやパンクの流れの中で聞いてたように思う。そのときオリジナルがあるということをライナー・ノーツで知って、ツー・トーンとまた違うところで、スカタライツなどのオリジナル・スカも好きになっていった。当時、川上や沖と同じ高校で一緒にバンドやってたけど、メンバーがそろわないから、スカをやろうとしてもできない。ASA-CHANGを人伝に知ったときは、そういう人がいるってだけで会いたい状態だった(笑)」
 1991年6月にリリースされた2ndアルバム『ワールドフェイマス』には「ジャングル・ブギ」、1993年3月にリリースされた3rdアルバム『PIONEERS』には「ラッパと娘」という服部良一の作品が収録されている。こうした服部作品をやりはじめたのはいつ頃から?という北中さんの問いに、青木さんは「インクスティック時代から」と答え、朝倉さんは、
「やるのとは別に愛好する部分で、全集とか聞いたんだけど、すごいですよね、日本語をリズムにのっける作業が。服部メロディっていうけど、服部良一のあのリズム解釈、日本語のっける作業がすごいと思う。かつて日本語とロックの論争があって、いままた、ラップと日本語ってのがすごくあるじゃないですか。それ以前にこんなすごいことやってるっていう、ぜんぜんおれなんかレトロ的な見方は出来なかった。<ジャングル・ブギ>とか、スカ聞いた時と同じくらいの、オオーッていう驚きがありましたね」と話している。
 このインタヴューは1993年3月19日に行っているが、ASA-CHANGはこの直後にスカパラを脱退。98年にギタリストの浦山秀彦さんとASA-CHANG&巡礼を結成している。
 また、ドラムの青木さんは1999年に小田急線の豪徳寺駅で電車に轢かれて亡くなってしまった。32歳だった。青木さんが亡くなった直後は中村達也さんがドラマーとしてサポートに入ったが、その後、フィッシュマンズの茂木欣一さんが正式なドラマーとして加入している。
 96年9月号のブラス特集では北原雅彦(トロンボーン)さん、GAMO(サックス)さん、NARGO(トランペット)さん、谷中敦(バリトン・サックス)さん、冷牟田竜之(アルト・サックス)さん、そしてベースの川上毅さんを撮影している。このうち冷牟田さんは1996年のワールドツアー中、タイで事故に遭い、重傷を負う。2008年7月17日、療養に専念するため脱退。脱退後は「THE MAN」、「MORE THE MAN」、「PULP」といったバンドを結成し活動を続けているようだ。

YouTubeから「1992 Tokyo Ska Paradise Orchestra - Live」 「東京スカパラダイスオーケストラ / 美しく燃える森」 「東京スカパラダイスオーケストラ / ジャングルブギ

東京スカパラダイスオーケストラ 公式ウェブサイト

新宿・日本テレビ音楽学院 1993年3月19日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年5月号
インタヴュアーは北中正和さん
オンエア大久保スタジオ 1996年7月11日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1996年9月号
インタヴュアーは三田真さん
#東京スカパラダイスオーケストラ
#TokyoSkaParadiseOrchestra
#朝倉弘一
#アサチャン
#ASACHANG
#青木達之
#TatsuyukiAoki
#川上毅
#TsuyoshiKawakami
#蒲生俊貴
#GAMO
#名古屋君義
#NARGO
#北原雅彦
#MasahikoKitahara
#谷中敦
#AtsushiYanaka
#冷牟田竜之
#TatsuyukiHiyamuta
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。11枚の写真が掲載されています。

8月23日(土)

 今日、第107回全国高校野球選手権大会の決勝戦が行われ、沖縄尚学が日大三を破り優勝。県勢としては2010年の興南高校以来、15年ぶりの夏制覇だという。高校野球もあまり興味がないので中継を見ることはないのだが、たまたま昼ごはんを作るのに台所へ行き、テレビをつけたら8回表で沖縄尚学が追加点を入れたところだった。
 沖縄タイムスが決勝戦のドキュメントを掲載している。
ティナリウェン

◯ティナリウェン

 1979年、サハラ砂漠西部のトゥアレグ族によって結成されたバンド。2005年9月に初来日した際、ライス・レコードの田中勝則さんからのオファーでライヴとポートレートを撮影している。以下は、その時に書いておいたメモ。

 いよいよ今日が”砂漠のブルース”ティナリウェンの初来日ライヴ。今回、オフィシャル・カメラマンということで楽屋もステージもフリー。どこでも撮影自由ということなのでメンバーと一緒にホテルからタクシーで会場のSHIBUYA-AXへ。今日のライヴの後に、ステージ衣装を着たメンバーを渋谷のセンター街で撮影する予定だが、どうなるかわからないので楽屋の一つを借りて砂漠色?の黄色のバックドロップとストロボをセッティングしておく。
 メンバーの楽屋では リーダーのイブラヒムが、細いパイプを切って何やら工作を。パイプを切ってそれに穴を開け、今日のステージで使う笛を作っているらしい。

 ライヴ本番の直前、ステージ衣装に着替えたメンバーのポートレートを撮影。メンバー全員の集合写真とイブラヒムのソロ。撮影時間は5分程。来日ミュージシャンの撮影はいつも慌ただしい。ストロボは先日買った150wモノブロックを2灯。
 7時過ぎにライヴがスタート。仕事でライヴを撮影するのはなんだか久しぶり。最近は好きなミュージシャンのライヴを観に行ってお酒を飲みながら撮る事ばかりなので、しらふでライヴ写真を撮る事も久しぶり(笑)。このライヴ撮影用にコニカミノルタからαー7DIGITAL1台とレンズ80~200mmHIGH SPEED APOを借りてきた。さすがに80~200mmHIGH SPEED APOは手持ちだと重いけど、AFのスピードの素早さにちょっとびっくり。シャッター半押しでピピッとピンが合うのが気持ちいい。
 今回撮影した写真は全て自由に使ってかまわない、もちろん自分のホームページに載せてもかまわないとマネージャーのアンディー・モーガンさんから了承を得た。
 ライヴ終了後、一度ホテルに戻って渋谷で撮影・・・は、中止になりました(笑)。やっぱりね、ライヴで疲れ果てているメンバーを連れ出すのは可哀相です。楽屋で黄色いバックドロップを背景に撮影していた時に、マネージャーのアンディーさんも立ち会っていて、この写真でいいか~と思ったのかもしれません。
 明日の朝に日本を離れるというメンバー、スタッフとホテルの近くのお蕎麦やさんで打ち上げ。
 今日のライヴ写真を明日のお昼の12時までに新聞社にメールで送って欲しいという依頼があったので、打ち上げの途中で帰宅。家に帰り撮影データをバックアップ。ブラウザ-でデータを見て、セレクト。9枚選んでメールに添付して新聞社に送信。簡単に書いていますが、撮影したカット数が多かったのでパソコンにデータをバックアップするだけでも時間がかかる。で、その中から選んで、解像度をかえて、ファイル形式を変換して、トーンを調整したりしていると。。。3時過ぎ(汗)、疲れました。お酒をちびちび飲んで朝方近くに就寝。でもホント、いいライヴだったし面白い一日でした。

 彼らは現在までにスタジオ・アルバム11枚、ライヴ・アルバム1枚、ライヴDVD1枚をリリースしている。2018年、第60回グラミー賞において最優秀ワールドミュージック・アルバム賞を受賞。2023年12月にも6年ぶり4回目?の来日公演を行なっている。

YouTubeから「Sastanàqqàm/Tinariwen (+IO:I)」 「Tinariwen & Red Hot Chili Peppers - "Cler Achel”

ティナリウェン 公式ウェブサイト

SHIBUYA-AX 2005年9月2日撮影
初出『朝日新聞』
#ティナリウェン
#Tinariwen
#イブラヒムアグアルハビブ
#IbrahimAgAlhabib
#アルハッサンアグトウハミ
#AlhassaneAgTouhami
#アブダラアグアルハウセイニ
#AbdallahAgAlhousseyni
#エヤドゥアグレチェ
#EyadouAgLeche
#サイードアグアヤド
#SaidAgAyad
#エラガアグハミド
#ElagaAgHamid
#ミナワレットオウマール
#MinaWaletOumar
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。44枚の写真が掲載されています。

アビブ・コワテ

◯アビブ・コワテ

 昨日22日から福野のヘリオスでスキヤキ・ミーツ・ザ・ワールドが始まった。アフリカ・マリ出身のギタリスト、シンガーソングライター、アビブ・コワテも2005年の第15回にアビブ・コワテ&バマダとして出演している。
 本人のサイトに書かれているプロフィールによると、アビブはハソンケ族のグリオの家系で17人兄弟姉妹に囲まれて育ったそうだ。グリオとは歴史上の英雄譚や各家の系譜などをメロディーに乗せて人々に伝える西アフリカの伝統伝達者で、世襲制となっている。セネガルのミュージシャン、ユッスー・ンドゥールもグリオの家系に生まれ育ったそうだ。
 アビブは1988年に幼馴染の若いマリのミュージシャンたちと自身のバンド、バマダを結成。1995年にファースト・アルバム『Muso Ko』をリリースする。1998年にはセカンド・アルバム『Ma Ya』がヨーロッパで発売され、ヨーロッパのワールドミュージック・チャートで2位を獲得した。

 アビブを撮影したのは『Ma Ya』がリリースされた翌年の1999年10月だった。2月に単独で来日していたが、10月はバンド、バマダを引き連れての来日だった。ライヴ・スケジュールは10月9日、11日青山CAYで、初日の9日は午前0時からDJを交えてのクラブ・イベント、11日は午後6時から通常のコンサートだった。両日とも参加したが撮影は仕事ではなく、『Ma Ya』の日本での発売元だったメタ・カンパニーのスタッフから誘われて見に行き、撮影もさせてもらったのだと思う。『ミュージック・マガジン』1999年12月号に原田尊志さんによる9日のルポと翌10日に行われたアビブへのインタヴュー記事が掲載されている(ライヴの写真は富井昌弘さん)。その記事を読み直して思い出したが、チャリチャリこと井上薫、アレックス、山崎真央のDJを挟んでアビブ・コワテ&バマダの演奏が2回行われた。当時メモがわりに持ち歩いていたソニーのマビカで撮った映像を見ると、アビブの2回目の演奏の後もDJタイムがあり朝5時過ぎまでフロアでみんな踊っていたようだ。アフリカのミュージシャンの撮影をライフワークにしている高桑常寿さんに初めてお会いしたのも、このイベントの時だった。
 原田さんの記事にバンド編成について触れられた箇所があるので引用させてもらうと、
「総勢6名、アビブに加えてもう一人のアコースティック・ギタリストはブルース・ハープも吹いた。低音のコラといった風情の6弦ハーブ、カマレ・ンゴニも操るベーシスト。変拍子もタイトにこなし、ワイルドなビートのかなめになっていたドラマー。乾いた打音のジェンベ、小型のトーキング・ドラムのタマ、半切りの大きな瓢箪を伏せて叩くカラバス、カマレ・ンゴニの演奏には欠かせない金属製の小型グィロ、カリニャンといった民俗的打楽器を次々にこなすパーカッショニスト。そして、演奏全体に奥行きの深さを与えていた旋律打楽器バラフォンと、まるで西洋的ではない独特の音色を聞かせるヴァイオリンもこなした最年長メンバー。このバラフォン奏者、ケレティギ・ジャバテと民俗打楽器をこなすパーカッショニストは、去年加わった新メンバーで、他の三者は88年バマダ結成以来、不動のメンバーだそうだ。ちなみにケレティギは60年代、マリ・ポップ黎明期からのキャリアを持つ有名ミュージシャンで、レイル・バンド、サリフ・ケイタのグループを経てバマダに参加したという」
 原田さんのインタヴュー記事によると、アビブは若い頃はロックを聞いていてジミ・ヘンドリックスやデヴィッド・ギルモアといったギタリストが好きだったそうだ。それが首都バマコの国立芸術学院に入ってからはクラシック・ギターを始め、西洋の音楽理論も学んだという。卒業後は音楽教師のかたわらバマコのクラブでジャズ、ロック、ソウルなど外来のポップ・ミュージックを演奏していたが、マリにも美しい旋律やリズムの音楽がたくさんあることにある日、気づく。
「それからというもの、僕はカンソケ人だけど、マリに住むたくさんの言語グループ、マリンケやバンバラ、フラニやソンガイといった人々の音楽を、ひとつひとつ学んで、自分なりのフィルターを通して演奏するようになったんだ。例えば、フラニの人々の村を訪ねてカセット・テープに何本も老人達の話や歌を録音して来る。そしてフラニ人の詩、リズムやメロディーのあり方を学び、何か月もかけて自分なりの曲を作って演奏する。なるべく伝統を活かしてね」
 マリの様々な民族楽器も少しずつバンドに取り入れてきたという。
「初めは民俗楽器をバンドに入れようと言ったら、メンバー達から驚かれたよ。カマレ・ンゴニやバラフォンの伝統的な持ち味を、ギターやベース、ドラムスのアンサンブルの中で無理なく響かせることには、本当に時間がかかった。できる限りバンドの音をアコースティックにしているのも、民俗楽器とのバランスを考えてのこと。バマコの今のミュージシャン達はすぐにシンセに頼って、即席で曲を作り上げてしまうけど、なにか大切なものを見落としてるような気がする」
 wikiでは2014年『Soô』まで8枚のアルバム情報しか掲載されていないが、アビブの公式サイトによると2019年にニュー・アルバム『KHARIFA』がリリースされている。また、結成時期はわからないが、アビブが中心となりバラフォン奏者のアリ・ケイタ(コートジボワール出身)、コラ奏者のラミン・シソコ(セネガル)の3人にアビブと長年活動を共にしてきたパーカッショニストのママ・コネが加わる形のアコースティック・プロジェクト<マンデ・シラ>としても活動を行なっているようだ。

YouTubeから「Putumayo Presents Africa – Habib Koite "Wassiye" (Live)」 「Habib Koité - Fatma - clip」 「Soo | Habib Koité & Bamada | Dhaka International FolkFest 2019」 「MANDE SILA feat. Habib Koite, Aly Keïta, Lamine Cissokho, Jamama Kone "Benkan" (by Aly Keïta)

アビブ・コワテ 公式ウェブサイト

マンデ・シラ 公式ウェブサイト

青山CAY 1999年10月9日?11日?撮影
#アビブコワテ
#バマダ
#HabibKoité
#Bamada
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。7枚の写真が掲載されています。

8月21日(木)

 今日は午後から先週まわれなかった二上霊園にある弟の墓と、弟の墓の近くにある母親の妹(叔母)のお墓をお参り。その後、母親の両親や兄(叔父)の眠るお墓参りをしてから、一昨年亡くなったもう一人の母親の妹(叔母)のお墓へ。
 お墓参りの後は、スーパーで買い物をして帰る。
笈田敏夫

◯笈田敏夫

 1997年10月号から始まった『レコード・コレクターズ』の連載「戦後ニッポンのポピュラー音楽」は、2001年5月号、6月号でご登場いただいたジャズ・ヴォーカリスト笈田敏夫さんで最終回となった。この間に岩田喜代造さん、原六朗さん、田端義男さん、佐野博美(佐野鋤さんのご子息)さん、二葉あき子さん、池真理子さん、山本丈晴(古賀政男さんの弟子)さん、岡村和恵(川田晴久さんのお息女)さん、三橋渡さん、金田芳一さん、野々村直造さん、レイモンド・コンデさん、黒田美治さん、浜口茂外也(浜口庫之助さんのご子息)さんなど15人の方々を撮影させていただいた。
 笈田さんは1925年2月21日、ドイツ・ベルリン生まれ。父の光吉氏は絶対音感教育の提唱者で、著書の『絶対音感及和音感教育法』はベストセラーになったそうだ。港区白金の大邸宅はピアノ教室も兼ねており、光吉氏の師匠でナチスに追われて亡命してきたクロイツァーも同居していた。笈田敏夫さんも父親のお弟子さんからピアノを習わされていたが、3日に1回はサボってバイエルンが終わったあたりでやめてしまったそうだ。

 そんなクラシック音楽に囲まれていた笈田さんが魅かれたのが、アメリカ映画の音楽だったり、日本の音楽では川田義雄のあきれたぼういずだった。
「浅草六区の劇場まで見に行ったことがあります。中学生だったから、授業に出ないで行ったら、すぐつかまっちゃうんで、学生服を着ないで(笑)。たしかステージでは4人でマイク1本でやってましたね。坊屋さんはウォッシュボード、芝(利英)さんと益田(喜頓)さんがギター、川田さんはハモニカを持ってたかな。マラスカを振ったりもしてました。坊屋さんはジャズ・ソングもうたってました。<ダイナ>や<ミルクメン>、あるいはエノケンさんのうたっていたような曲とか、とにかくモダンでけっこうしゃれたものをやってましたよ」
 そんな笈田さんが音楽を聴く方から演奏する方へと変わったのは、慶応の予科で出会った友人たちの影響。大橋節夫やボス宮崎と同学年だった笈田さんは灰田兄弟に刺激されて、彼らとハワイアン・バンドを結成。軍人会館(九段会館)や日比谷公会堂、共立劇場、日本青年館などが演奏場所だったそうだ。しかし、戦争が激しくなると徐々に音楽に規制がかけられるようになった。
「最初は、堕落した扇情的な楽器だからとサックスが制限されたりスティール・ギターが禁止されたりしましたが、進軍ラッパに使うから、トランペットはよかったんです(笑)。43年ころにアメリカのレコード供出命令が出たときは、正直に出した者もいましたが、ぼくはつまんないのを適当に出して、好きなのは残しておいて、灯火管制の中でも、押し入れの中で竹針でこっそり聞いてました(笑)。イギリスの<蛍の光>が禁止されなかったくらいだから、徹底のしようがないんですよ」
 そんな笈田さんだが43年には徴兵検査に通ってしまい、いつ召集されるかわからない状態に。それならと、自ら海軍を志願した。笈田さんは、大分県・佐伯の海軍基地で電波関係の部屋の電探長という職責をもらっていた。そこには山のように無線機があり、レシーバーを触っていると、アメリカの放送が入って、それまで聞いたことのない若くて新鮮な歌声が聞こえてきた。それがフランク・シナトラだった。
 1945年8月14日の晩、笈田さんに沖縄への進撃命令が出た。この時はいよいよ海の藻屑だと思ったそうだが、一年半以上動かしていなかった機関は一晩炊かないと走らず、そうこうしているうちに夜が明けて、昼にはラジオから終戦の放送が流れた。
 終戦後は大橋節夫さんらとバンドを組み、初めは箱根の富士屋ホテルの将校クラブでビング・クロスビーなどを歌い、それからキャンプのクラブや日本人向けのダンスホール巡りの日々となった。笈田さんは大橋節夫さん、ボス宮崎さんらとのハワイアン・バンドの他にディック・ミネさんのトラで渡辺弘さんのスター・ダスターズというビッグ・バンドでも歌っていたが、49年からはグラマシー・シックスというコンボでも歌い始め、ここでビ・バップに触れた。そして、黒人のジャズ・シンガー、ビリー・エクスタインを知る。
「ビ・バップをはじめて聞いたときは、より男らしい音楽、これこそマッチョの音楽、みたいな印象がありました。でも彼はポップス歌手として紹介されたんです。黒人にもかかわらず、白人の女がキャアキャア騒ぐ歌手、シナトラ、クロスビーにかわる黒人がはじめて出てきたという感じでした。まだナット・キング・コールが登場する前だったから、そりゃ驚きましたよ。エクスタインのまねをしていたとき、黒人兵向けのクラブで2、3回うたったら、めちゃくちゃうけましたね。清水のキン坊(グラマシー・シックスの初代ドラマー清水潤)がアメリカ兵に懸命に習って、はじめてビ・バップ風に叩いたときは、誰もついて行けなかったんですよ。間が多すぎて、ツトツトツトツトツッタ~ンっと来て、突然、カーンとアタックが入ったりするから、”おいおいおい、何でそこで入るんだよ””何言ってんだ、お前。これがビ・バップよ”ってな感じでね(笑)。いくらがんばっても日本人はこういうリズム感にはならないだろう、と最初は思っていたのに、3年も経つと結構馴染んでるんだよね(笑)」
 北中さんの原稿によると、笈田さんは56年にキャンプの仕事をやめ、以後はずっと日本のジャズの第一線で活動されてきたそうだ。また、wikiによると53年からは8年連続でNHKの「紅白歌合戦」に出場されている。
 残念ながら、この取材から2年半後の2003年9月2日に腎盂がんのため78歳で亡くなられた。最後のステージは2003年4月28日に開催された『ゲソの気まぐれコンサート スペシャル 78th 笈田敏夫』で、詳細はこちらにUPされている。
 ゲソというのは笈田さんの愛称だそうだ。

YouTubeから「ビギン・ザ・ビギン(Begin the Beguine) - 笈田敏夫(Toshio Oida)」 「ペギー葉山&笈田敏夫 / 五つの銅貨~ラグタイムの子守歌 King of Swing (日本のジャズレジェンドBig Band)」 「What a Wonderful World / 笈田敏夫 Dolly Baker

FRIEND OF OZSONS 笈田敏夫のページ

渋谷・アガサス 2001年3月15日撮影
初出『レコード・コレクターズ』2001年5月号
  『レコード・コレクターズ』2001年6月号
インタヴュアーは北中正和さん
#笈田敏夫
#ToshioOida
#ゲソ
#戦後ニッポンのポピュラー音楽
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。7枚の写真が掲載されています。

雪村いづみ

◯雪村いづみ

 1953年にカバー曲「想い出のワルツ」でビクターからデビュー。いきなり20万枚のヒットを記録し、その後も「青いカナリヤ」「マンボ・イタリアーノ」などヒットを連発。同年代の江利チエミ、美空ひばりと共に三人娘と呼ばれた。本名は朝比奈知子で、愛称は<トン子><トンちゃん>。1937年3月20日、目黒区大岡山に朝比奈愛三の長女として生まれる。
 雪村いづみさんを撮影したのは、『レコード・コレクターズ』での取材で、彼女の歌手生活50周年を記念した3枚組のCD『フジヤマ・ママ 雪村いづみ スーパーアンソロジー1953-1962』がビクターから発売されるタイミングだった。インタヴュアーは北中正和さん。新譜が雪村さんの初期作品を集めたものだということもあり、話がデビュー前から1950年代の音楽が中心となっており、前年まで北中さんと田中勝則さんが交互に担当していた『レコード・コレクターズ』での連載「戦後ニッポンのポピュラー音楽」から繋がる取材に感じられた。

 父の愛三さんは会社員の傍らハワイアン・バンド、カルア・カマアイナスの一員としてギターやウクレレ、スティール・ギターを弾いたり、歌ったりしていたそうだ。終戦後はAP通信に勤めたこともあり、進駐軍の人が家を訪れ、そうした人たちからレコードをもらうこともあったという。そうしたことから、
「生理的にアメリカの音楽のサウンドが大好きになって、意味もわからないまま<センチメンタル・ジャーニー>とか<ザッツ・マイ・ディザイア>とか<ジプシー>とか、いろんな曲を聞いて覚えて口ずさんでいました」
 ところが父親の死で生活は一変する。
「終戦の翌年、父が亡くなって、家庭が大変になっちゃいまして、子供心にもなんとかしなくちゃと思いまして、中学を卒業するときに、父がお世話になっていたAP通信支局長ミスター・パロットの乃木坂のお家に、お手伝いさんにならしていただきたいとお願いしに行ったんです。そしたら、私があまりに痩せっぽちで小さかったものですから、かわいそうで使えないと言われた。ほんとにがっかりしたんですが、気を取り直すのも早くて、母の知り合いが新橋のダンス・ホール、フロリダの支配人をしてましたんで、そうだ、帰りにそのおじちゃんのところにアイスクリームをごちそうになりに行こうって(笑)。フロリダの喫茶室でメロン・クリーム・ソーダをごちそうになったのをいまでも覚えてます(笑)。それでバンド演奏でみんなが踊っているのを見ていたときに、気がついたんですね。<そうだ。わたしは英語の歌がうたえるんだ>って。<もしかしたら、英語の歌をうたって、お金がもらえるかもしれない>って。そのころわたしは、トニー・ベネットの歌のほうがヒットしたそうですけど、グロリア・デヘヴンの<ビコーズ・オブ・ユー>という曲を、電蓄を持っている友だちの家で聞いて、完璧に覚えてたんです。その曲がわたしの人生を変えたんです」
 フロリダの支配人のおじさんに歌わせてもらえないかと雪村さんがお願いしたところ、バンドの方に頼んでくれて、歌わせてもらえることになった。彼女が歌うと、ダンスをしていたお客が全員ステージの前の方に寄ってきて、拍手をしてくれた。支配人のおじさんからは<お金は払えないけれど、明日から練習に来てもいいよ>と言われ、それからは毎日フロリダに通い、歌を覚えていったそうだ。
 その後、日劇ミュージック・ホールや米軍キャンプまわりの仕事をしているうちにビクターのオーディションに受かり「思い出のワルツ」でデビューする。16歳の時だった。
「<想い出のワルツ>は、わたしの声がテレサ・ブリューワーの声に似ているということで選ばれて、彼女のレコードを聞いて、彼女のようにうたおうと思って覚えました。この曲で印象に残っているのは、ワン・コーラス終わって、間奏で転調して、また元のキーに戻るのがすごくむつかしかったことですね。とにかく同時録音で一発で決めなきゃいけないですから、いまの方たちとは必死さがちがったと思います。恋する歌詞の内容は、小学校の頃から恋してラブレター書いたりしてましたから、ワンス・アゲイン・ウィズ・ユーの気持ちは十分わかっておりました。はい(笑)」
 北中さんの記事にはないがwikiによると、この後、1959年に初めての渡米をし、1961年にはアメリカ公演時に知り合った学生、ジャック・セラーと結婚。長女・朝比奈マリアをもうけるが、1966年に離婚し、この年に3度目の渡米を果たす。1967年にアメリカでバリトンサックス奏者の原田忠幸と再婚するが、後に離婚。なかなか波乱万丈な人生を送られている。
 これまでNHKの連続テレビ小説には戦前から戦後に活躍した作曲家・古関裕而さんをモデルにした『エール』、笠置シヅ子さんをモデルにした『ブギウギ』があるが、いつか雪村いづみさんをモデルにした連続テレビ小説が観れるだろうか。

YouTubeから「雪村いづみ Izumi Yukimura - 想い出のワルツ Till I Waltz Again With You (1953)」 「マンボ・イタリアーノ 雪村いづみ」 「MVI 1097 1964 三人よれば 美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみ」 「トンちゃんCHACHA(1955)」 「雪村いづみ&キャラメル・ママ(細野晴臣、鈴木茂、松任谷正隆、林立夫)」 「蘇州夜曲 - 雪村いづみ

ビクター青山ビル 2002年3月12日撮影
初出『レコード・コレクターズ』2002年5月号
インタヴュアーは北中正和さん
#雪村いづみ
#IzumiYukimura
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。5枚の写真が掲載されています。

8月19日(火)

 今日も猛暑日。午後からタヒチ音楽のCDを流しながら、昔、雑誌に掲載されていたタヒチの記事を読む。ときおり窓から吹き込む風が心地よかった。
ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ

◯ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ

 アメリカのフィリー・ソウルを代表するボーカル・グループ。
 wikiによれば1950年にペンシルベニア州フィラデルフィアでハロルド・メルヴィンを中心に結成されたザ・チャルマネーズが前身で、54年にザ・ブルー・ノーツに改名されたという。
 1972年にフィラデルフィア・インターナショナル・レーベルと契約し、グループ名もハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツとなり、1996年に解散するまでこの名前が使われた。
 メンバー・チェンジが頻繁に行われており、1972年時点ではハロルド・メルヴィン、テディ・ペンダーグラス、バーナード・ウィルソン、ローレンス・ブラウン、ロイド・パークスの5人体制。
 74年にはロイド・パークスに代わりジェリー・カミングスが参加、また女性ボーカリストのシャロン・ペイジも加わっている。
 76年にはペンダーグラスがグループを去り、デヴィッド・エヴォが加入。また同時期にカミングスとウィルソンもグループを離れている。

 80年にMCAレコードに移籍した時のメンバーは、メルヴィン、エヴォ、それに新メンバーのドゥワイト・ジョンソン、ウィリアム・スプレイトリー、復帰したジェリー・カミングスだったという。82年にはエヴォに変わり、ジル・サンダースがリード・シンガーに迎えられている。自分が彼らのステージを撮影したのは1988年5月なので、この顔ぶれだったのかも知れない。
 1988年のスケジュール帳には5月13日九段会館、5月14日青山CAY、5月15日インクスティック芝浦と書き込みがあるが、ステージの背景から撮影したのは初日の九段会館だと思う。雑誌の撮影ではなく、当時自身が招聘した海外のアーティストを撮影させて下さっていたサロンゴ・ミュージックの木下さんに誘われて撮影に行ったのではないかと思う。ちなみに、この撮影の数日前、5月10日・11日にやはりサロンゴが招聘したミリアム・マケバのライヴが青山CAYで予定されていて、撮影に行ったらお店の入り口で木下さんから中止になったと言われてショックだったのを覚えている。
 ハロルド・メルヴィンは96年に脳梗塞で倒れ、97年3月24日に57歳で亡くなっている。76年からのメンバーだったデヴィッド・エヴォも93年に43歳で、また98年には初期ザ・ブルー・ノーツ時代のジョン・アトキンスが鬼籍に入っている。
 その後も2008年4月6日にローレンス・ブラウン、2010年は1月13日にテディ・ペンダーグラス、7月13日にザ・ブルー・ノーツ時代のルーズヴェルト・ブロディー、12月26日にバーナード・ウィルソンと3人が他界。2020年7月5日にはシャロン・ペイジ、2021年2月4日にはジル・サンダースが死去しているそうだ。

YouTubeから「Harold Melvin & The Blue Notes - The Love I Lost (Official Soul Train Video)」 「Harold Melvin & The Blue Notes - Wake Up Everybody (Official Soul Train Video)

ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ ALL MUSIC

千代田区九段会館 1988年5月13日撮影
#ハロルドメルヴィン
#HaroldMelvin
#ザブルーノーツ
#TheBlueNotes
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。8枚の写真が掲載されています。

ニューオーリンズ・カーニバル

◯ニューオーリンズ・カーニバル

 アール・キングは1934年2月7日生まれ、ニューオーリンズ出身のギタリストで、シンガーソングライター。本名はアール・サイラス・ジョンソンIV世。15歳の頃にギターを始め、1953年にサヴォイ・レーベルからSP盤「Have you Gone Crazy」をアール・ジョンソン名義でリリース。その後、スペシャリティ・レコード、エイス・レコード、インペリアル・レコードと渡り歩くが、最初のオリジナル・アルバムのリリースは1977年の『That Good Old New New Orleans Rock 'n Roll』となる。1972年にアラン・トゥーサン、ミーターズとスタジオに入って製作した『Street Parade』というアルバムもあるが、アトランティックが興味を示したもののリリースはされず、1982年になってイギリスのチャーリーから発売されて日の目を見た。
 1986年にジョニー・アダムスとのジョイント・ツアーで初来日している。

 ジョージ・ポーター・ジュニアは1947年12月26日生まれ、ニューオーリンズ出身のベーシストでファンク・バンド、ミーターズでの活動で知られている。ミーターズは1968年11月にシングル「Sophisticated Cissy」でデビュー。1977年に一度解散するものの1989年には再結成したが、2019年にアート・ネビルが亡くなったことにより活動を休止した。ミーターズ以外にセッション・プレイヤーとしてドクター・ジョン、ポール・マッカートニー、ロバート・パーマー、デイヴィッド・バーン、アール・キングなど様々なミュージシャンのステージやレコーディングに参加している。

 エディー・ボー は1930年9月20日生まれ、ニューオーリンズ出身のピアニスト、シンガー。本名はエドウィン・ジョセフ・ボケイジ。1955年にエイス・レコードよりデビュー。翌1956年にアポロ・レーベルよりリリースした「I’m Wise」が、「Slippin’ and Slidin’」の名でリトル・リチャードに取り上げられることで広く知られるようになった。1960年代には地元のマイナー・レーベルからシングルを単発的にリリースし、また、ほかのアーティストのプロデューサーとしても活躍した。1970年代になると、自身のレーベル「Bo-Sound」を設立し、作品をリリースした。

 この3人を撮影したのは1991年に五反田の郵便貯金会館で行われたコンサートだった。ネットで検索すると、『ニューオーリンズ・カーニバル』と銘打たれたライヴで、当時のスケジュール帳のメモによると18:30~21:00までのステージだったようだ。ライヴの様子はすっかり忘れてしまったが、こちらのブログによると、ジョン・ムーニーやアール・キングの後にトリでエディー・ボー が出演し、バックを務めたのはジョージ・ポーター・ジュニア 率いるニューオーリンズ・ファンク・オールスターズだったそうだ。
 このコンサートの撮影は仕事ではなく、チョコレート・クリームの木下茂さんに誘われて撮りに行った。チョコレート・クリームは、ウシャコダのマネージメントや渋谷にあった「ライヴ・イン」の運営などをしていたサロンゴ・ミュージックを畳んだ木下さんが、ソウル・バーを経営していた川畑満男さんと立ち上げた会社で、自分たちの好きなソウル・アーティストを招聘していた。
 このコンサートを撮影してからやがて34年になる。アール・キングは2001年に3度目の来日を果たしたが、2003年4月17日に69歳で亡くなった。エディー・ボー も2009年3月18日に心臓発作により78歳で亡くなっている。
 チョコレート・クリームがいつまであったかわからないが、木下さんはだいぶ前に故郷の福岡へ帰られた。川畑満男さんは2023年に亡くなられたようだ。

YouTubeから「Earl King The Things i used to do」 「The Original Meters 5/5/12 New Orleans, LA @ The Howlin' Wolf - 5 songs」 「Eddie Bo ► Hook & Sling @ Jazz à Vienne • 2006

アール・キング ディスコグラフィー

ジョージ・ポーター・ジュニア 公式ウェブサイト

エディー・ボー 公式ウェブサイト

五反田・郵便貯金会館 1991年3月1日撮影
#ニューオーリンズカーニバル
#NeworleansCarnival
#アールキング
#EarlKing
#ジョージポータージュニア
#GeorgePorterJr
#エディーボー
#EddieBo
#ジョンムーニー
#JohnMooney
#ニューオーリンズファンクオールスターズ
#NeworleansFunkAllStars
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。20枚の写真が掲載されています。

8月17日(日)

 少しずつ日が暮れるのが早くなってきたが、気温は相変わらず高いまま。この先一週間の天気予報も最高気温は夏日と猛暑日が続いている。昼間の気温が高いのも辛いが、夜になっても気温が下がらないのも困る。
 今日でお盆休みが終わり、明日から通常の生活に戻る人も多いのだろう、
貴月あゆむ

◯貴月あゆむ

 元タカラジェンヌ(花組男役)でウォーキングインストラクターの貴月あゆむさんを撮影したのは、健康雑誌の<モデル脚になるための歩き方>という企画だった。撮影場所はデサントが経営する目白にあった「椿の坂スタジオ」という女性専用のフィットネススタジオで、当時、貴月さんはこのスタジオでもインストラクターをされていたようだ。
 宝塚歌劇団は愛の媚薬のパラダイスというブログに掲載されていた、貴月さんのプロフィールを引用させていただくと、<東京家政学院高校出身。愛称は「みみ」。1986年、74期生として宝塚音楽学校へ入学。1988年、宝塚歌劇団に入団。花組『キス・ミー・ケイト』にて初舞台を踏み、後に花組に配属される。同期生には、和央ようか(元星組トップスター)、森奈みはる(元花組トップ娘役)、麻乃佳世(元月組トップ娘役)、白城あやか(元星組トップ娘役)、渚あき(元星組トップ娘役)、汐風幸、初風緑などがいる。2002年、『琥珀色の雨に濡れて』/『Cocktail-カクテル』の東京公演千秋楽付けをもって、宝塚歌劇団を退団。退団後は、ウォーキングインストラクターとして活動している>

 アマゾンで検索すると、『宝塚のように歩く!エイジレス・ウォーキング』(アメーバブックス新車)、『BEAUTIFUL WALKING&EXERCISE AYU+トレ』という単行本とDVDを発売されている。また、検索していて東儀秀樹さんのツイートが引っかかり、東儀さんの義理の妹さんになるそうだ。

YouTubeから「アユトレ 貴月あゆむが教える、美しく生きるためのウォーキング&エクササイズDVD」 「真丘奈央のちょっとココだけ宝塚!#17 (ゲスト:貴月あゆむ)5/9放送回

貴月あゆむ Instagram

目白・椿の坂スタジオ 2009年4月8日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2009年7月号
#貴月あゆむ
#KizukiAyumu
#みみ
#Mimi
#タカラジェンヌ
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。6枚の写真が掲載されています。

宇井美智子

◯宇井美智子

 掲載誌のプロフィールには<1935年生まれ。57年、明治大学商学部卒業。元TBSアナウンサー。動作、表情、心理研究、生活評論と多方面で活躍。西洋占星術をはじめ、易経、八卦、声風水など東洋の占いにも通じている開運の水先案内人。行動心理学を長年研究しており、また、全国の商工会議所でコンサルタント活動した経験もあり、都道府県民別の行動パターンに精通。財界人などにもファンが数多い。愛称は、ウィッチー>と書かれている。
 宇井美智子さんを撮影したのはマキノ出版の雑誌『ゆほびか』だった。創刊は1995年11月で、当初は小学館の『サライ』のような雑誌を目指していたと聞いた。しかし、すぐにマキノ出版の得意分野である健康路線に変更。ただ、同社の『爽快』や『安心』と差別化するためかカラーグラビアを多用し、美容関係の記事も多く掲載されていた。それがいつ頃からか少しずつ開運、パワーストーン、手相といったスピリチュアル系の企画が増えていった。

 撮影した当時の宇井さんの肩書きはUCA研究センター所長・地域振興コンサルタント・明治大学情報コミュニケーション学部講師で、記事のタイトルは<運命の人が見つかる!金運超アップ!財界人もこぞって実践する「守護県占い」>というものだった。守護県とは、出身県とは別に誰もが持っている”もう一つの故郷(ふるさと)”で、そこでは自分の波長と共鳴するような不思議な安らぎを得られるそうだ。記事には自分の守護県の見つけ方と、守護県別のアドバイスが掲載されている。wikiによると、この守護県占いは2001年に旭屋出版から書籍になって発売されているようだ。旭屋出版といえば柴田書店と同じく料理・食の専門出版社だと思っていたが、ホームページを覗いてみたら株式投資や不動産関係の書籍も僅かながら発行していた。
 SOMPOケアの記事によると、腰の圧迫骨折手術をされた後、介護施設に入居されたが、現在も著作の執筆活動は続けられているようだ。

楽しい開運モール Produced by ウィッチー・ウイ・美智子

江東区白河 2007年12月16日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2008年4月号
#宇井美智子
#MichikoUi
#ウィッチー
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。6枚の写真が掲載されています。

8月15日(金)

 今日は80回目の終戦記念日。そしてお盆の中日。お墓参りは昨日の午前中に、木原家と町内にある父方の親戚のお墓をいくつかまわった。弟と母方のお墓参りは後日に。
 昨日の夜は小矢部の台湾料理屋・福来順でお食事。
黒田美治

◯黒田美治

 1950年頃に活躍した日本のカントリー・バンド、チャック・ワゴン・ボーイズ。チャック・ワゴンとは幌馬車隊が旅するときに、酒や食料や楽器などを積むワゴンのことだそうだ。このチャック・ワゴン・ボーイズのヴォーカルとギターを担当されていたのが黒田美治(クロダビジ)さんだった。
 wikiによると旧福岡藩大老・黒田男爵家の次男として、1930年9月25日にロンドンで生まれたそうだ。
 美治さんを撮影したのは『レコード・コレクターズ』の連載「戦後ニッポンのポピュラー音楽」で、インタヴューと文は北中正和さんが担当の回だった。
 北中さんの原稿によると、当時日本ではカントリー系の音楽は、カントリー&ウエスタン、もしくはウエスタンと呼ばれていたそうで、ウエスタンは公開される西部劇映画の主題歌が流行したことによって広まった呼称だという。美治さんが音楽を始めたキッカケも、西部劇の映画からだった。

「『駅馬車』とか西部劇映画がアメリカから入ってきて、おもしろいんで、よく見に行ってたんですよ。そのうち同級生の井原(高忠)たちと一緒に、映画のカウボーイのような格好がしたい、ああいう格好で何かできないだろうかということになってね。楽器なんかそれまで持ったことがなかったんで、急いで音楽のできる奴に聞いて、1曲か2曲できればいいや、というんでやったんです(笑)。コードを二つか三つしか知らないという状態ですから、楽器に触っているだけで、ちゃんと演奏するわけじゃない。ところが、まわりが、もっとやれ、やれ、とけしかけるものだから、その気になってね(笑)」 
 1949年のことで、メンバーは美治さんの他はサイド・ギターが知野光志、ベースが井原高忠。当初は続ける気持ちはなかったそうだが、2、3回やったときに芸能社の人がたまたまパーティに来ていて渋谷の松濤にあった将校が来るクラブのパーティーに連れて行かれた。そのパーティーで演奏したところ受けて、本格的にやりだしたという。
 レパートリーはキャンプのクラブに出演しながら増やしていったそうだ。芸能社の人が資料を集めてくれたり、クラブに来る兵隊さんから教えられたり、友達になるとレコードを貸してくれる人もいたという。そして、ラジオの存在。
「アメリカの新しい音楽が聞けるのは、WVTR(いまのFENの前身)しかなくて、4時から5時までだったかな、<チャック・ワゴン・タイム>という番組があって、カントリーを流していました。それを聞きながら、兵隊さんが書いてくれた歌詞の歌が流れてくると、あ、これだと、一生懸命覚えた。兵隊さんが書いてくれたのはヒット曲が多かったから、けっこうラジオでかかったんです」
 そうしたことから、プロになってバンドの名前を決める必要が出たときに、このラジオ番組の名前から取ることにしたという。
 1950年にはフィドルのラーフ・モフタデインとスティール・ギターの曽我部博士が加わり5人となり、日本人の客を相手に演奏する仕事も増えて人気が上昇。1952年4月にメンバーが全員退団するまでの2年5ヶ月間に通算996回ものステージをこなしたそうだ。
 52年にチャック・ワゴン・ボーイズをやめてから、黒田さんはジャズの世界に転身する。
「(ジャズが)音楽的にぼくの好みに合ったんですね。ナベシンから誘われたときは、渡りに船と、一緒にやることにしたんです。ジョージ・シアリングが流行した頃で、シックス・ジョーズはそういう感じでした。グループに加入したわけではなく、彼らのステージで何曲かうたうという組み方でした」
 ナベシンとは後に渡辺プロダクションを起こした渡辺晋さんだ。その後、56年に黒田さんは渡米する機会を得るが、「そのとき本場のジャズを聞いて、あまりに日本と違うので、もう音楽をやりたくなくなっちゃったんです(笑)」
 チャック・ワゴン・ボーイズに再加入した時期もあるそうだが、60年代~80年代にかけては音楽の世界から離れた仕事をし、取材した2000年頃は北中さんの原稿によれば<横浜のランドマークタワーや品川パシフィック・ホテル、銀座ナッシュヴィルなどで定期的に演奏しながら、悠々自適の日々>を過ごされていた。しかし、この取材から7ヶ月ほど経った2001年2月28日に70歳で亡くなられてしまった。
 wikiによると黒田美治とチャック・ワゴン・ボーイズのSPは1950年7月「東京バガボンド」、1950年7月「牧場は牛ばかり」、1950年9月「陽気なマダム」、1951年「銀座フーピー娘」、黒田美治さんソロのSPは1952年1月「僕らの青春」、1953年6月「アイアイ銀座」、1953年9月「ささやき」、1953年10月「ノー・アザー・ラヴ」がリリースされていたようだ。また、北中さんの記事によると1969年にLPで発売された美治さんのアルバム『ゴーイング・マイ・カントリー・ウェイ』はCD化されたそうだ。
 掲載した写真の4~13枚目は、美治さんが保管されていた貴重な資料や写真を複写させていただいたもの。 

YouTubeから「懐かしの J/ カントリー 黒田 美冶」 「黒田 美治 ♪楽園に帰る♪ 1953年 78rpm record.」 「Various - 日本のウェスタン歌手たち (Japanese Western Singers)

世田谷 2000年7月20日撮影
初出『レコード・コレクターズ』2000年9月号
  『レコード・コレクターズ』2000年10月号
インタヴュアーは北中正和さん
#黒田美治
#BijiKuroda
#YoshiharuKuroda
#戦後ニッポンのポピュラー音楽
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。13枚の写真が掲載されています。

浜口茂外也

◯浜口茂外也

 ハマクラさんこと浜口庫之助さんは戦後の日本を代表する作詞・作曲家であり、シンガーソングラーターでもあった。ご子息の茂外也さんもまた、日本を代表するパーカッショニストで、シマ(島村英二)さんのローディーとしてレコーディングの現場にいた80年代前半は斎藤ノブさん、ペッカーさんと共にスタジオでよくお見かけするお一人だった。このパーカッション御三家の少し上の世代にラリー寿永さんがいらしたというのが当時の印象だ。残念ながらラリーさんは2024年3月8日に84歳で亡くなられたそうだ。
 茂外也さんを撮影したのは『レコード・コレクターズ』の連載「戦後ニッポンのポピュラー音楽」で、インタヴューと文は田中勝則さんが担当の回だった。
 ハマクラさんの代表曲は「黄色いさくらんぼ」「僕は泣いちっち」「星のフラメンコ」「バラが咲いた」「夜霧よ今夜も有難う」など様々あり、記事の冒頭で田中さんは<浜口庫之助は、戦後に登場した作曲家の中でももっともユニークな感覚を持った人のひとりだ。あまりにユニークすぎて、どの系統の音楽家という感じでまとめられない。この人くらい、ワン・アンド・オンリーという言葉の似合う人はいない>と評している。

 ハマクラさんは大正9年(1917年)7月22日生まれ。最初のヒット曲「黄色いサクランボ」を世に出した時点で40歳を過ぎていた。田中さんの興味は、40歳を過ぎて作曲家としてデビューしたハマクラさんが、それ以前に一体何をしていたのか。しかし、ハマクラさんはこの取材の10年ほど前に亡くなられている。そこで白羽の矢が立ったのが、ご子息の茂外也さんだった。
「親父は神戸の生まれだったんですけど、祖父(庫之助さんのお父さま)の仕事の都合で子供の頃に東京に引っ越してきたそうです。音楽をはじめたのも東京で、中学校の頃だったみたいですね。というのも、私の叔母が音楽好き。小さい時からピアノを弾いていた。きっと、金持ちだったんでしょうね、夏には御殿場のなんとかというホテルで避暑生活をしていたそうです。そこで日系ハワイ人のバンドがやってきて、ハワイ音楽をやっているのを見たら、叔母はスゴく気に入ってしまった。さっそく祖父にギターとウクレレを買ってくれってねだったそうなんですね。ただ、当時はハワイアン・バンドが使っていた鉄弦のギターがなくて、祖父は東京中探し回ったそうです。そうしてウクレレと、鉄弦はないのでふつうのクラシック・ギターだったと思うんだけど、とにかくギターを手に入れて、そこで叔母がウクレレ、そしてギターを親父が演奏することになったそうです」
 こうしてハワイアンからハマクラさんの音楽人生はスタートする。茂外也さんの話によれば、その後、大学在学中の昭和14年か15年頃にコロムビア・オーケストラに参加するが、やがて戦争が激化すると戦争に行かせたくないという祖父の思いからインドネシアのジャカルタへ行き、南国興産という会社に入社。この会社はコーヒーや紅茶の輸出をしていたそうだが、ハマクラさんが歌が歌えるということでジャカルタ母の会というところで日本の歌を教えることが仕事になったという。
 終戦後は仲間たちとバンドを組んで進駐軍のクラブで歌ったりと、再び日本で音楽活動を始める。当初は軍関係の仕事が中心だったが、その後はダンス・ホールや日劇にも出演。アフロ・クバーノという楽団を結成し、ラテン音楽も歌った。そして、「紅白歌合戦」にも歌手として出場している。田中さんの記事では<たぶん第1回と第2回に出ているのではないかとのことだ。ここでもハマクラさんは外国の曲を歌ったものと思われる>と書かれているが、wikiによると、第4回(昭和28年)「国境の南」、第5回「セントルイス・ブルース・マンボ」、第6回「インディアン・アブコール」と3回出場されているようだ。
 そんなハマクラさんが歌手をやめて作曲家に専念する。
「親父が歌手をやめたのは、別に、歌うのがイヤになったとかじゃないんです。一つには、英語の曲は歌えても、いざ日本語の曲を歌おうと思った時に、歌う曲がなかったと言うんですね。自分が歌いたい日本語の曲が当時の日本にはなかった。だから、自分で作ってしまおうと。それがいちばんの理由だったようです。それともうひとつは、歌手でやっていくと、どうしても興業があるでしょう。そこではヤクザの人たちと関わらないといけなくなる。それがイヤだったようですね。作曲家だったら、レコード会社との関わりだけで済むから、その方が良いと・・・」
 そんなハマクラさんが最後に残したヒット曲は、島倉千代子に提供した「人生いろいろ」。茂外也さんによれば、当時流行っていたディスコの8ビートを歌謡曲に取り入れようという意欲的な試みの下に生まれた作品だったそうだ。
 ところで、茂外也さんがパーカッションより以前、フルート奏者としても活動されていたのをこの取材の時に知った。早稲田大学在学中にニューヨークに渡り、フルート奏者のジェレミー・スタイグに師事し、帰国後の1974年にフュージョン・バンド、バンブーにフルートとパーカッションで参加、1975年にはティン・パン・アレーにもフルートとパーカッションで参加している。YouTubeに茂外也さんがフルートを吹いているティン・パン・アレーの映像があったのでリンクしておきます。
 それにしても、ハマクラさんと茂外也さん、親子なのだから顔が似ているのは当たり前なのだが、あまりにそっくりなので取材時にハマクラさんの昔の写真と同じポーズを茂外也さんにリクエストして撮影させてもらった。

YouTubeから「浜口庫之助とアフロクバーノ「スコキアン」(昭和30年5月)」 「小さな思い出(サントリー)/浜口庫之助」 「黄色いさくらんぼ/スリー・キャッツ」 「Underneath the Mango Tre/浜口茂外也」 「アップル・ノッカー/ティン・パン・アレー 1975年 LIVE

SWAN SONG 浜口茂外也 プロフィール

世田谷 2000年11月12日撮影
初出『レコード・コレクターズ』2001年1月号
  『レコード・コレクターズ』2001年2月号
インタヴュアーは田中勝則さん
#浜口茂外也
#MotoyaHamaguchi
#浜口庫之助
#KuranosukeHamaguchi
#戦後ニッポンのポピュラー音楽
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。12枚の写真が掲載されています。

8月13日(水)

 アマゾンのマーケットプレイスで今月9日にポチった大石芳野さんの写真集『沖縄に活きる』が昨日届いた。この本は沖縄に移住していた時に、2回ほど県立図書館で借りて見ているので買わなくてもいいかな?と思っていたが、784円+送料300円と手頃な値段だったのでポチってしまった。写真に添えられた沖縄戦に関する人々の証言など重要と感じた部分は当時メモしておいたが、やはり写真や文章も忘れていたものが多く買って良かった。ステージに立つ喜屋武マリーの写真が掲載されていたことも忘れていたし、目次もノンブルもない本だと今更気づいた。
↓『沖縄に活きる』の下は、2年前にミュゼふくおかカメラ館で大石さんの写真展が開催された時に、それに合わせてやはりアマゾンのマーケットプレイスでポチった写真集『福島 FUKUSHIMA 土と生きる』と『長崎の痕(きずあと)』。これにエッセイ集『沖縄若夏の記憶』の3冊で送料込み1,517円だった。
沖縄に活きる
 気になった記事を備忘録として。
U2メンバー、ガザの惨状めぐり声明 「共通の人間性が試されている」
オーストラリア、パレスチナ国家承認へ 主要同盟国内で米国の孤立深まる
創業133年の米コダック、事業停止の危機か
ピーター・バラカン 今野雄二

◯ピーター・バラカン 今野雄二

<いま、東京では2本の音楽映画が上映されている。ひとつはトーキング・ヘッズのライヴ映像『ストップ・メイキング・センス』(84年)の再上映であり、もうひとつがキューバのベテラン・ミュージシャンたちを捉えて大ヒット、ロング・ラン中の『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』である。この2本は、映画としての評価もさることながら、音を聞くだけでは分からない音楽の魅力を知らしめた点で、映像の力の大きさを音楽ファンに再認識させた。こうした作品を踏まえた上で、音楽にとって映像が果たす役割について、もう一度考えてみよう。奇しくもプレイステーション2の発売で、映像メディアもDVDへと移行しつつある。こうしたハードの転換の先に、音楽と映像の関係も変わっていくのだろうか>

 これは『ミュージック・マガジン』2000年6月号の特集「音楽にとって映像とは何か」のリード文で、この特集の巻頭に企画されたのがピーター・バラカンさんと今野雄二さんの対談だった。音楽と映像について語るにはピッタリな人選で、話は『ストップ・メイキング・センス』に始まり『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」で終わっているが、途中、

今野 ぼく、改めて思い出したんだけど、『イージーライダー』っていうのは、映画と音楽の歴史の上で画期的な作品でしたね。あれだけ既成のヒット曲をサウンドトラックに使ったというのも。
バラカン 初めてだよね。ああいう音楽の使い方をしたのはね。
今野 あそこで映画音楽のあり方がガラッと変わって。
バラカン ステッペン・ウルフはあの映画がなければ二流のバンドで終わっちゃったと思う。
ーー 『イージーライダー』は何年でしたっけ。
今野 69年。
バラカン ウッドストックと同じ年。でもウッドストックの映画は翌年か。モンタレー・ポップも70年かな。だからあの辺で、ぐっとロックと映像の相互関係が。
今野 そういう意味ではウッドストックの映画版というのも落とせないね。

 と、ラフな感じで様々な監督、映画の名前を出しながら話は進んでいった。対談が行われたのはモンスーンカフェ南青山店で、対談のために個室が用意されていたわけではなく他のお客さんに混じってのテーブル席。ストロボをセットする場所もなく、店内のタングステンの灯りだけで撮っている。2人揃った写真はお店のスタッフにお願いして、お客さんのいないスペースで撮らせてもらった。
 対談記事に添えられた2人のプロフィールをそのまま引用させてもらう。
*ピーター・バラカン 1951年、ロンドン生まれ。ブロードキャスター。’74年に来日、シンコーミュージック に入社。’80年に退社し、放送の仕事を始める。’84年から始まった「ボッパーズMTV」は、見る者のヴィデオ・クリップの概念を根底から変えさせた。現在も「CBSドキュメント」(TBS)、「pbs」(Viewsic)などで活躍中
*今野雄二 1943年、北海道室蘭生まれ。平凡出版に入社し、「平凡パンチ」「anan」編集部を経て、映画/音楽評論家として独立。一般には「11pm」の映画紹介コーナーで有名になった。本誌では連載「ビッグ・スクリーン・バンケット」でおなじみ。現在はスターチャンネル(CS)で毎月の見どころ紹介を担当中

 ピーター・バラカンさんはスウィンギン・ロンドン特集やロビー・ロバートソンへの公開インタヴューでも撮影している。今野雄二さんはウォズ(ノット・ウォズ)へのインタヴューでも撮影している。

スウィンギン・ロンドンはこちら

ロビー・ロバートソンはこちら

ウォズ(ノット・ウォズ)はこちら

YouTubeから「ある日の ポッパーズMTV (1984年) Rod.Stewart , メトロポリス , The Pretenders , Giorgio Moroder」 「11PM1986 09 07(水曜)司会―愛川欽也、アシスタントー朝倉匠子、解説ー今野雄二

ピーター・バラカン 公式ウェブサイト

モンスーンカフェ南青山店 2000年4月28日撮影
初出『ミュージック・マガジン』2000年6月号
#ピーターバラカン
#PeterBarakan
#今野雄二
#YujiKonno
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。3枚の写真が掲載されています。

黒沢健一

◯黒沢健一

 2016年12月5日に脳腫瘍により48歳の若さで亡くなられたが、彼の公式サイトは現在も運営されているのでバイオグラフィーを引用させてもらう。
<1968年8月11日生/B型 19歳で南野陽子、島田奈美などへ楽曲提供やCM曲提供など、作家としてデビュー。1991年弟 秀樹、木下裕晴と共にL⇔Rを結成。1995年オリコンNO.1シングル「Knockn’ on your door」を初めとした純度の高いポップスを送り続ける。1997年活動休止までレギュラーラジオ番組・全国ツアー、など精力的に音楽活動を行う。L⇔R活動休止以降、ソロ活動開始。シングル、アルバムのリリース、ツアーを行い、3枚目のアルバムリリースとツアー終了後に、制作意欲が爆発。2003年~2005年にかけてcurve509、健’z、Science Ministry、MOTORWORKSと4つのバンド、ユニットで活動の幅を広げる。また、森高千里・湯川潮音などへの楽曲提供、徳山英智・hi*limitsなどのプロデュースなど活動は多岐にわたる>

 黒沢健一さんを撮影したのは『レコード・コレクターズ』での大鷹俊一さんの連載「レコード・コレクター紳士録」の取材だった。この取材、基本は登場していただくコレクターの方のご自宅へお伺いしてレコードのコレクション棚なども撮影させてもらうのだが、この時は目黒にあった黒沢さんの事務所での取材。コレクションの一部だけを持参してもらっての撮影だった。
 黒沢さんが洋楽に親しむようになったのは幼稚園に上がる前からだという。
「そもそもってのは、一人がアメリカン・ロックのマニアとは言わないけど当時の新譜をほとんど買ってる人と、もう一人がブリティッシュ・ロックのマニアで日本で出てないものを輸入盤でリアルタイムで買ってるような人、いま50歳前後なんですけど、その二人のロック・ファンのいとこがきっかけだったんです。あと、家の並びの何軒かに住んでいた人たちって僕が幼稚園に行ってた頃大学生くらいで、その頃の若者といえばロックが定番じゃないですか。そういう人とばっかり遊んでたんで、自然に教えてもらったというか。
 で、幼稚園に上がる前くらいなんですけど、たまたま近所の電気屋さんにステレオ・セットが置いてあって、パネルが綺麗だったんでこれが欲しいとか言ってたら、おじいさんが孫可愛さに買ってくれたんです(笑)。当時まわりの大学生やいとこが聞いてるセットといってもそんな大きなやつじゃなかったから、レッド・ツェッペリンを爆音で聞こうとか言って自分たちが買ってきた新譜を僕の家で聴く、みたいになったんですよ。で、20枚くらい持ってくると、そのうち半分くらい置いて帰っちゃうんで、残されたレコードは自分のもののようにわけもわからず聴いてたっていうのが最初なんです」
 そういう恵まれた?環境だったので初めて観た映画も幼稚園の時にいとこのお兄ちゃんに連れていってもらった、『ギミー・シェルター』『レット・イット・ビー』『ア・ハード・デイズ・ナイト』の3本立てだったそうだ。
 黒沢健一さんの取材は『レコード・コレクターズ』2001年4月号に掲載されており、この年は俳優でミュージシャンの佐野史郎さんを取材した記事も2001年12月号に掲載されている。2019年に発売された書籍『レコード・コレクター紳士録2/大鷹俊一』に佐野史郎さんの回は再掲載されたが、黒沢さんは亡くなってしまって再掲載の許可の確認ができなくて断念したのではないだろうか。
「これまで自分で見つけて嬉しかったのというと、バリー・マンの『フー・プット・ザ・ポンプ』は、レコード・フェアでけっこう高い値段だったんだけどどうしても欲しくて買っちゃったとか。あとキャロル・キングがソングライターやってた頃のを聞きたいと思ってもオムニバスに入っている何曲しかないという状態でしたから、彼女が歌ってる<クライング・イン・ザ・レイン>が入ってる『ディメンション・ドールズ』を見つけたときには、コレ買うとお金なくなるけど、よしいっちゃえとかありましたね(笑)。いまやCDでボーナス・トラックつきで出てたりするんですけどね(笑)」と、楽しそうに話されていた。

YouTubeから「KNOCKIN' ON YOUR DOOR/L⇔R」 「Rock'n Roll Band / 黒沢健一

黒沢健一 公式ウェブサイト

東京・目黒 2001年2月16日撮影
初出『レコード・コレクターズ』2001年4月号
インタヴュアーは大鷹俊一さん
#黒沢健一
#KenichiKurosawa
#エルアール
#LR
#レコードコレクター紳士録
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。3枚の写真が掲載されています。

8月11日(月)

 一週間ほど前は国内の観測史上最高の気温を観測する酷暑だと騒いでいたが、ここ数日は九州から山口県で線状降水帯が発生して、豪雨災害に見舞われている。富山も今夜から明日にかけて大雨が予想されている。
 明日で日航機墜落事故から40年になる。この年の暮れに初めての一眼レフカメラ、ミノルタのα7000を買ったので、そろそろ写真を初めて40年ということになる。そして来年、チェルノービリ(チェルノブイリ)原発事故から40年。
野々村直造

◯野々村直造

 野々村直造さんはビクター・オーケストラの元トロンボーン奏者。1927年6月5日生まれなので、まだご健在なら現在102歳になられる。
 野々村さんを撮影したのは『レコード・コレクターズ』の連載「戦後ニッポンのポピュラー音楽」で、インタヴューと文は北中正和さんが担当だった。60年代までビクターとコロムビアは勢力を二分するライバル会社だったそうで、共に専属のオーケストラを持っていた。コロムビア・オーケストラについては連載2回目に楽長でピアニストだった岩田喜代造さんに北中さんがお話を伺い記事を書かれている。
 北中さんの原稿からプロフィール部分をかいつまんで紹介すると、岐阜市で生まれた野々村さんは小学生の頃からアメリカ人の牧師がいる教会でオルガンを弾いたり賛美歌を歌ったりしていたそうだが、本格的に音楽と関わったのは、戦後、薬科大学でブラス・バンドに入ってから。トロンボーンを選んだのは、すぐに音が出せたからだそうだ。

 大学在学中から米軍キャンプで演奏したりもしていたが、卒業後は名古屋のバンドを経て大阪へ行き、飯山茂雄のバンドに参加。その後、名古屋時代に知り合った金田芳一(1951年からキューバン・ボーイズのトロンボーン奏者)さんの紹介で上京。銀座の美松に出演中だった大島喜一とグランド・スターズにサード・トロンボーンとして加わった。1948年のことで、このバンドにはトランペット・上原善志、松本文夫、サックス・鈴木昭次、尾田悟、トロンボーン・服部元彦、ピアノ・秋吉敏子といったメンバーが在籍していたという。また、時期ははっきりしないが大島喜一とグランド・スターズから野々村さん、松本文夫、鈴木章治が抜けて白木ハイライトというバンドに加入したこともあったそうだ。このバンドは日本橋の東急百貨店の前身、白木屋の6階、7階にあった白木クラブの専属バンドでリーダーは作曲家でピアニストの松井八郎だった。
 その松井八郎さんから、日本で最高のプレイヤーが集まってレコーディングするからビクターのスタジオに見学に来るように誘われ、見学に行くと南里文夫さんに”吹いてみろ”と声をかけられた。こうして野々村さんが録音に参加したのが1949年6月のビクター・ホット・クラブの「マイ・ディア・オールド・アベニュー(思い出の並木道)」だったそうだ。
 この「思い出の並木道」での演奏が認められた野々村さんは翌7月からビクター・オーケストラの準専属に、数年後には本専属メンバーとなった。昭和生まれの第1号専属ミュージシャンだった。
 北中さんの記事によれば1949年7月にサックス奏者で作・編曲家の多忠修(おおのただおさ)がゲイ・スターズを結成。ピアノに秋吉敏子、ドラムにフランキー堺、そして野々村さんもトロンボーンとして加わっている。ゲイ・スターズは経営難から活動を休止したこともあるが、メンバーチェンジをしながら1953年にはビクター・オール・スターズ、さらにビクター・ゲイ・スターズとバンド名を変えて活動を続けたという。このビクター・ゲイ・ズターズについて、北中さんは当時のビクター・オーケストラの中核を担っていたのではないかと推察されている。
<専属オーケストラにはストリングスなどのメンバーもいたから、ゲイ・スターズと専属オーケストラのメンバーは重ならない部分があるとはいえ、当時のビクターの歌謡曲のサウンドの中核は、多忠修を中心とするジャズ・バンドが握っていたわけだ。その点が、同じようにジャズ畑出身あるいは現役ジャズメンで構成されながら、ゲイ・スターズのように核になるグループがなかったコロムビアの専属オーケストラとのちがいと言えるだろう。推測するに、ゲイ・スターズは、歌謡曲の仕事もするが、本業はジャズ・バンドという気持ちの方が強かったのではないだろうか。野々村さんのお話をうかがっていても、歌謡曲のレコーディングの記憶以上に、ジャズ的な体験の記憶が鮮明なのだ>
 ところで、レコード会社の専属メンバーが他社のレコーディングに参加することは禁止されていたが、そこはバンドマン同士、トラ(エキストラ)で呼ばれることもあったという。
 野々村さんがトラで吹き込んだ曲の一つに石原裕次郎の「夜霧よ今夜も有難う」(1967年)がある。
「庫(浜口庫之助)さんから頼まれて、堀之内のテイチク・スタジオまで行ったんです。最初違う調子で吹いてたら、庫さんが、いつもクラブで吹いているようなきれいな音で吹いてくれんか、と言うんですよ。”いやあ、それやると、音で会社にバレて怒られるからまずいよ””そう言わないで吹いてよ”と頼まれるし、そんなにヒットする曲とは思わなかったから、まあいいかと、いつものとおりきれいに吹いたら、これがヒットしたんだよね(笑)。案の定、ディレクターから”お前が吹いてるんだろう。とぼけても音を聞きゃわかるんだぞ。あれだけよそに行くなって言ってるだろう”と怒られました。それでもすみませんと謝ったら済んじゃういい時代でした(笑)」
 野々村さんがトラで吹き込んだものかわからないが、YouTubeに1967年発売テイチクレコードの「夜霧よ今夜も有難う」がUPされていたのでリンクしておきました。

岩田喜代造さんのアーカイブはこちら

金田芳一さんのアーカイブはこちら

YouTubeから「Victor All Stars - JUST YOU ,JUST ME」 「Victor All Stars - ALL OF ME」 「夜霧よ今夜も有難う 石原裕次郎

青山ビクター・スタジオ 2000年1月21日撮影
初出『レコード・コレクターズ』2000年3月号
  『レコード・コレクターズ』2000年4月号
インタヴュアーは北中正和さん
#野々村直造
#NaozouNonomura
#ビクターオーケストラ
#VictorOrchestra
#戦後ニッポンのポピュラー音楽
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。3枚の写真が掲載されています。

レイモンド・コンデ

◯レイモンド・コンデ

 フィリピンから来日して活躍したミュージシャンというと、サックス奏者のジェイク・H・コンセプションさんが頭に浮かぶ。1964年、23歳の時に単身来日し松田聖子、大瀧詠一、中島みゆき、吉田拓郎など70年代、80年代の歌謡曲、ニュー・ミュージックのレコーディングに多数参加している。80年代前半にスタジオでよくお見かけしたスタジオ・ミュージシャンのお一人だった。古希を超え2017年1月までミュージシャンとして活動されていたが、その年の12月に81歳で亡くなられたそうだ。
 ジェイクさんが来日するはるか以前にフォリピンから来日し、日本の音楽家に影響を与えたミュージシャンがいた。ヴィディ、ゴリオ、レイモンドのコンデ3兄弟だ。中でも1934年に来日し日本女性と結婚され、帰化して終生日本で暮らしたジャズ・クラリネット奏者でヴォーカリストのレイモンドさんの日本の音楽界への功績は大きい。

 レイモンド・コンデさんを撮影したのは、『レコード・コレクターズ』の連載「戦後ニッポンのポピュラー音楽」で、インタヴューと文は田中勝則さん。二子玉川園駅に近いご自宅にお伺いしての取材だった。
 田中さんがアジアのポピュラー音楽の古い時代のことを調べていると、ひょんなところで出てくるのがフィリピン人の音楽家たちだった。その理由について<ある時期までのアジアの音楽の中で、フィリピン人音楽家たちはことジャズを演奏することにおいて、アジアの他の国の音楽家たちを圧倒的にリードしていた。それはフィリピンが戦前にアメリカの植民地だったからに他ならないが、それはともかく、当時のフィリピンに生まれた最先端のジャズ感覚がこうして自国のみならず、アジアの他の国の音楽にまで影響を与えていたことは、アジアにおけるポピュラー音楽の成り立ちを考える上で重要だ。アジア音楽の貴重な交流の歴史の一段面(一断面?)でもある>と分析している。そして、その影響は日本にも及び、戦前に来日しジャズを日本で根づかせるのに貢献したフィリピン人としてコンデ3兄弟を挙げている。
 それほど優れたミュージシャンが多くいたフィリピンで、なぜ彼らは自国ではなく外国で演奏することになったのかという問いに、
「フィリピンではみんな音楽が大好きで、演奏はうまいです。でも、フィリピンには仕事場が少ないんですよ。だから、ミュージシャンはみんな外国に行きます。シンガポールに行った音楽家ですか?いますよ。わたしはジミー・エンジェルという人の名前を聞いたことがあります。あと、多くの人は上海に行きました。上海には仕事がいっぱいあった。それと日本に来たフィリピン人のミュージシャンも、私たち以外に何人かいました。当時、フィリピン人だけのオールスターズで演奏したことがあります」とレイモンドさんは話していた。
 レイモンドさんが来日したのは1934年(wikiでは1932年)、先に来日していた兄のヴィディさんが久しぶりにフィリピンに帰って来たとき、腹痛のレイモンドさんを見て盲腸じゃないかと心配し、日本のお医者さんに診せた方が良いと判断し連れてこられたのが始まり。診断結果は盲腸でもなんでもなかったそうだが、来日してからは音楽の演奏が面白くなり戦前、戦中、戦後と日本のジャズ界と深く関わっていく。
 戦時中は日本に見切りをつけてジャズが演奏できる上海や香港に向かうフィリピン人ミュージシャンも多かったが、レイモンドさんは日本にとどまった。
「上海には一度、兄のヴィディを尋ねて行ったんです。戦争前のことです。でも、わたしは上海は好きになれなかった。日本の方がよかったです。わたしはすでに日本で結婚していて、日本人になっていましたから」
 戦後はジャズ・ミュージシャンとして活動を再開し、昭和21年にスタートした飯山茂雄とゲイ・シックスで大阪の米軍専用キャバレーや、カブキに出演。昭和22年には自身がリーダーとなりレイモンド・コンデとゲイ・セプテットを結成している。このバンドからはジョージ川口、ナンシー梅木、小野充、平岡精二、ペギー葉山、マーサ三宅、松尾和子といったスターが生まれているという。
 レイモンド・コンデさんは取材させていただいた約3年半後の2003年12月23日に、87歳で亡くなられている。wikiによると、1981年日本レコード大賞顕彰プレイヤー賞、1987年第3回日本ジャズボーカリスト大賞特別賞、1998年芸能功労者表彰を受賞されているそうだ。
 掲載した写真の6~13枚目はレイモンド・コンデさんが保管されていた貴重な写真を複写させていただいたもの。
 尚、レイモンド・コンデさんについては劇作家・斎藤憐さんの著書『昭和のバンスキングたち ジャズ・港・放蕩』(ミュージック・マガジン)に<港町に混血児は生まれる レイモンド・コンデ アルト・サックス>で紹介されている。この本には他に、大川幸一、ジミー原田、ディック・ミネ、フランシスコ・キーコ、森山久、ベティ稲川、東松二郎、周東勇が登場する。もう絶版だが中古では入手しやすいと思う。

YouTubeから「レイモンド・コンデ パディード Pardido」 「Dahil Sa Yo / ダヒル サヨ / レイモンド コンデ」 「Yasuko Agawa 阿川泰子・Judy Ongg・Raymond Conde / Medley of famous songs from the SP era. SP時代の名曲メドレー

二子玉川園 2000年4月17日撮影
初出『レコード・コレクターズ』2000年6月号
  『レコード・コレクターズ』2000年7月号
インタヴュアーは田中勝則さん
#レイモンドコンデ
#RaymondConde
#吉場レイモンド
#戦後ニッポンのポピュラー音楽
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。13枚の写真が掲載されています。

8月9日(土)

 先の参議院選挙中に「核武装が最も安上がりであり、最も安全を強化する策だとは考えています」と述べた参政党のさや氏が66万票以上を獲得して当選。その参政党の代表である神谷宗幣氏は「原爆を落とされた広島と長崎で世界一の原子力潜水艦を作って欲しい。その上で、それらを日本中の海に浮かべ核を持っていると思わせて他国を牽制すると。韓国などから指摘されたら、対馬あたりを独立させればいい。そして核を持たせて日本と同盟を結べばいい」というトンデモな発言を行ったいた。
 6日に広島で原爆死没者慰霊式が行われ、今日は長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が行われた。被爆から80年の今年、まさか核武装を政策に掲げる政党が現れ躍進するとは思わなかった。
 その参政党が、定例記者会見について、出席希望者に事前登録を求めるメールを報道各社に送信し、登録フォームに所属会社や氏名、電話番号などの記入を求めた。また、<参政党の会見やイベントで妨害や迷惑行為をした人は取材を断る場合がある>とも注意書きし、承諾の意思表示をしなければ送信できない仕組みだという。妨害や迷惑行為かの判断は参政党が行うわけで、記者からの党に不利益な質問も妨害や迷惑行為と見なされる恐れが十分にある。こんなもの、国から(=税金)政党交付金を支給される公党の開く記者会見ではないだろう。報道各社が一つになってこんな理不尽な条件を撤廃させられるか、試されている。

 兵庫県の内部告発文書問題にからみ、今年1月に自死した竹内秀明・元県議の妻が、NHK党党首の立花孝志氏を名誉毀損容疑で県警に刑事告訴し、受理された。本来は奥さんが刑事告訴など起こす前に、兵庫県警は虚偽や誹謗中傷でさっさと立花氏を逮捕するべき事案だろう。立花氏の犬笛に踊らされて、SNSで竹内元県議に誹謗中傷を繰り返していた悪質な人間も同罪だろう。

岩井俊二 鈴木慶一

◯岩井俊二 鈴木慶一

 ムーンライダーズが結成20周年を迎えた1996年は、20周年を記念した15枚目のオリジナル・アルバム『Bizarre Music For You』がリリースされたのを始め、これまでのアルバムをまとめたBOXやCD-ROMなども発売された。また、糸井重里さん作詞の新曲「ニットキャップマン 」のビデオ・クリップが制作されたが、そのビデオの監督を務めたのが岩井俊二さんだった。
 岩井さんはムーンライダーズのファンであり、岩井監督の94年制作の映画『PICNIC』、96年製作の『スワロウテイル』には鈴木慶一さんが俳優として出演している。しかし、映画の撮影現場は慌ただしく、これまでお二人でゆっくり話す機会はなかったそうだ。それを知ってか知らずか『ミュージック・マガジン』でお二人の対談が企画され、その撮影を担当した。

 慶一さんが岩井俊二さんの名前を初めて知ったのは、たまたまテレビをつけたら岩井さんが製作した深夜ドラマ『夏至物語』をやっていて、すごいドラマだ、監督は誰だろうとエンディング・ロールで名前を探し岩井俊二という名を知る。そして、エンディング・ロールで流れていたのが自身の曲、『火の玉ボーイ』に収録されている「午後のレディ」だったことに後から気づいたそうだ。
 すごくいい映像を作っていて、音楽もムーンライダーズを使っていたから自分たちに興味もあるのかと思い、次の日、マネージャーに「岩井俊二」という人を調べくれと連絡したそうだ。そうこうしているうちに、今度は岩井さんのスタッフから『PICNIC』への出演のオファーがきた。
「そりゃ出ますよ。演技に関してはぼくはまったくの素人なので普通は二の足を踏むんですけど、でも彼にはこちらも興味があったから。
 初めてロケの現場でお会いして。挨拶の時、両方で<ファンです>みたいなことを言い合った(笑)。ただ、現場というのは本当にあわただしいもので・・・」
 一方、岩井さんがムーンライダーズを聴き始めたのは80年代初期、『青空百景』の頃からだそう。
「18~19だと思います。その頃は自主映画を作ってたんですけど、ムーンライダーズの曲を聞くと、こういう映画を撮りたいなという気分にどんどんさせられたんですよね。ホント、何かの映画から影響を受けたというより、ムーンライダーズの曲を聞くと、こういう画が撮りたい、というアイディアが浮かんできたんですよ。
 実際に当時、夏がテーマの実験映画みたいなものを撮った時、実は「午後のレディ」をすでに使ってるんですね。あの曲は自分の中で夏のテーマ・ソングになってるんです。2枚目の赤いアルバムは冬のアルバムという感じがしたんですけど、ちょうどその頃読んでた宮沢賢治とか三好達治とかの詩と重なり合って、それを題材に撮影しようと思って雪山のふもとまでカメラ持って行った覚えもあるんですけどね。その時、雪が降ってなくて中止になったんですけど(笑)」
 この対談はムーンライダーズの結成20周年を記念して行われたが、岩井さんがムーンライダーズはこれからまた10年で変化していくんでしょうね、と尋ねると、
「かいもく見当がつかないね。少なくとも来年のことまでは決まってない。
 ただね、ムーンライダーズを好きな人がパソコン通信のネットワーク上で見えてきたり、岩井さんみたいに好きだという人がいてくれたり。それが一番、何かを作る上で安心感を与えるね。ムーンライダーズを好きな人の特徴なのかもしれないけど、あまり人に言わないというかさ、(聞き手が)見えてこないことがずーっと続いてたわけだよ。分かられてるのか分かられてないのかさっぱり分からない、不安の日々だったんだ。そのぶん、ともするとどんどん聞き手のことを考えなくなるわけだよ。それが、ニフティとか見てると思うんだけど、こんなにたくさん熱狂的なファンがいて、しかもちゃんと分かってくれている。そういうことがわかったのが最近。詞を作る時にいろんな意味を隠したり出したり、けっこう複雑なことをしてるんだけど、それがちゃんと伝わっている。すごく分かられてて涙が出るくらい嬉しい時があるんだよ、これが。
 それを思うと、取材の時に<20年間はどうでした>と聞かれて、普通だったら絶対<あっという間ですよ>とか言うんだけどーーあっという間はあっという間なんだけどーーやれてきたのはやっぱり我々だけの・・・なんかいい人みたいだけどさ(笑)、我々だけでやってきたわけじゃないです、ということしかないですよね。
 例えば岩井さんのようにムーンライダーズを好きな人が、私の好きな映像をとるという、このことだけでね、実に安心するんですよ」
 この時の雑誌掲載時の岩井俊二さんのプロフィールを引用させてもらう。
・いわいしゅんじ=1963年、仙台生まれ。大学卒業後、音楽ヴィデオとCATVの仕事を始め、桑田佳祐らのプロモ・ヴィデオを数多く作った。91年からドラマの演出を手掛けるようになり、93年の「Fried Dragon Fish」「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」で注目される。94年から劇場用映画に進出し、短編「Undo」を経て、95年「Love Letter」、96年「スワロウテイル」と、話題作を連発している。

*以前、鈴木慶一さんをアーカイブしたものがこちらにある。XTCとの対談時はこちら

YouTubeから「スワロウテイル 岩井俊二監督 予告」 「The Knit Cap Man」 「午後のレディ/ムーンライダーズ

岩井俊二 X(旧ツイッター)

鈴木慶一 X(旧ツイッター)

恵比寿・ファンハウス 1996年11月26日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1997年1月号
#岩井俊二
#ShunjiIwai
#鈴木慶一
#KeiichiSuzuki
#ムーンライダーズ
#Moonriders
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。7枚の写真が掲載されています。

くるり

◯くるり

 1996年に立命館大学の音楽サークル『ロックコミューン」に所属していたボーカル・ギターの岸田繁、ベース・ボーカルの佐藤征史、ドラムの森信行の3人によって結成されたくるりは、結成から現在までメンバーの編成により第8期まであるそうだ。自分が撮影した2002年2月はギターの大村達身が加わり4人となった第2期で、4枚目のアルバム『THE WORLD IS MINE』がリリースされている
 取材は『ミュージック・マガジン』2002年4月号で、インタヴュアーは松山晋也さん。彼らにとって初の海外=イギリスでのレコーディングだったこのアルバムのことを中心に聞いている。

「場所が、ロンドンからちょっと離れた郊外で、牧草地の真ん中にサイロが立ってて、そこがスタジオになってて。街灯ひとつないような田舎。見渡す限り地平線。音楽以外することが何もないし、余分な情報も何も入ってこない。でかい音で音楽聴いても怒られない。感覚がヴィヴィッドになって、東京にいる時とは響いてるところが違うし、それによって働きかけられる部分も違う。なんか、みんな子供みたいだった」と森が話すと、「うん、子供っぽい感覚にはなるね。今回のテーマとして、一つは、子供っぽさというのがあると思う」と岸田が引き継ぐ。
 このアルバムが初参加となる大村は、自分が加入することでバンドにどんな変化が起きるか問われると、
「いや、特には。バンドのルックスがいかつくなるな、ぐらいで(笑)。ただ、僕なりに思っていたことは、コードをわかりやすくするというか・・・、僕は自分ではリード・ギターでもリズム・ギターでもなくシーケンス・ギタリストだと思ってまして。テーマ・フレーズを見つけて自分で肉付けする、そうすれば曲がわかりやすくなるかなと。たとえばコードが三つ四つ入ってると、弾いてないメロディが聞こえてきたりする。そういうのを表に出してあげたりとかするわけです。ギター4本ダビングして、そこから浮き上がってくるテーマぽいフレーズを弾いて、余計な部分を消してやるとか」と答えていた。それを受けて岸田が「今まで僕はややこしいコード専門のギタリストだったんだけど、彼のギターが入ると、そういうのもある意味ポップに聞こえてしまうんですよ」と話している。
 ちなみに大村達身は、「ロックコミューン」での3人の先輩にあたる。この後、2006年12月までくるりに在籍していたが脱退し、Coccoのバックバンドに参加。しかし、彼のお姉さんのブログによると、現在は夫婦で宮城に引っ越して飲食店を経営されているようだ。
 ドラムの森信行はこの取材の後に脱退し、『THE WORLD IS MINE』がくるりでの最後のアルバムになった。脱退後は遠藤賢司、斉藤和義、スガシカオなどのライヴやレコーディングに参加。現在も様々なミュージシャンと勢力的に活動しているという。
 また、取材をした2002年の12月には彼らのアンテナに引っかかったアーティストを、世の中のリスナーに届けることをコンセプトにしたレコードレーベル、NOISE McCARTNEY RECORDS(NMR)を設立。2012年までレーベルとして活動した後、2014年からはNOISE McCARTNEY を新事務所の名称として使用している。

YouTubeから「Remember me/くるり」 「奇跡 Live/くるり」 「言葉はさんかく こころは四角 オーケストラVer./くるり

くるり 公式ウェブサイト

岸田繁 公式ウェブサイト

佐藤征史 X(旧ツイッター)

森信行 公式ウェブサイト

西麻布J・WAVE 2002年2月22日撮影
初出『ミュージック・マガジン』2002年4月
インタヴュアーは松山晋也さん
#くるり
#quruli
#岸田繁
#ShigeruKishida
#佐藤征史
#MasashiSato
#森信行
#NobuyukiMori
#大村達身
#TassinOhmura
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。7枚の写真が掲載されています。

8月7日(木)

 午前9時ちょうどに高岡市から警戒レベル4避難指示発令のエリアメールが届く。避難指示を指定されたのは小矢部川を挟んで対岸、山側の方にある上向田、西明寺、上野。西明寺は一昨年の豪雨でも川が氾濫し床上浸水した家があった。
 9時53分には高岡市長江付近で河川の水位が上昇し、小矢部川で氾濫のおそれというエリアメールが届いた。
 猛暑から一転、豪雨災害。今日未明から激しく降り続いた雨で、道路の冠水、電車の運休など様々な影響があった。被害の詳細が分かるのは明日になってからだろうか。
高岡、黒部で3人重軽傷 7日の県内大雨、ピーク過ぎるも土砂災害警戒
黒部峡谷鉄道に土砂流入 7日午前11時以降運休

 この他の気になった記事を備忘録として。
首里城火災から6年、よみがえった朱色の輝き 正殿の外観工事が終了
奄美のシャーマン文化に誇りを
七夕飾りで鮮やかに 名瀬の中心商店街 奄美大島法人会女性部会
クルド人差別を批判したら「テロ組織員」と言われ…埼玉・鶴ケ島の福島恵美市議、ジャーナリスト石井孝明氏を提訴
ついに軍艦を輸出する国になった日本 武器「3原則」なし崩し、官民一体でセールスをかける戦後80年の風景

オル・ダラ

◯オル・ダラ

 1941年生まれ、ミシシッピ州出身のコルネット奏者、ギタリストで歌手。wikiによると出生名はチャールズ・ジョーンズ3世で、1963年にニューヨークへ移住してからオル・ダラと名乗るようになったそうだ。
 アーカイブするにあたって彼のアルバムのライナーノーツを読んでみようとCD棚を探したが、どの区分に入れたかわからなくなった。あちこち探して見つかったのは「ジャズ・フュージョン」のコーナー。彼の音楽にはR&Bからブルース、カリブやニューオーリンズまで様々な要素があるが、デヴィッド・マレイ、アート・ブレイキー、カサンドラ・ウィルソンなどと共演していることから「ジャズ・フュージョン」に入れたのだろう。
 彼を撮影したのはリーダー・アルバムとしては2枚目の『ネイバーフッズ』がリリースされた翌年、2002年の7月に来日した時だった。前年にも来日しており、これが2度目の来日。

 ライヴ・スケジュールは7月3日広島クラブクアトロ、4日大阪クラブクアトロ、5日東京・渋谷クラブクアトロ、6日東京・赤坂ブリッツで、5日の渋谷クラブクアトロでのステージを撮影した。その写真は『ミュージック・マガジン』2002年9月号に掲載されており、コンサート評を宮子和眞さんが書いている。
 オル・ダラについては『ネイバーフッズ』が発売されるタイミングに、北中正和さんが『ミュージック・マガジン』2001年4月号で本人に電話インタヴューされている。その中で、
「わたしはミシシッピーの小さな町の祖母の家で育ったが、家にはラジオもレコード・プレイヤーもなく、記憶に残っている最初の音楽は、1900年生まれの祖母の歌声だった。いま思うと、彼女の歌声は最高のライヴ・ミュージックだった。だからわたしの音楽は、祖母のカントリー・ブルースのスタイルの影響を受けている。ネイティヴ・アメリカン、アフリカン・カントリー・ブルース、カントリー・ブルース・リヴァー(いろんな影響が川の流れのように一つになっているということか?)。それに歌手だった父はポール・ロブソンのようなオペラ・スタイルの歌い方をする人だった。他には、R&Bとジャズの中間のようなミシシッピー・スタイルのビッグ・バンドや、ゴスペルっぽいスピリチュアルなカントリーを聞いたり、近所の誰かがギターの伴奏で歌っているのを聞いたりした」と語っている。
 最初のリーダー・アルバム『イン・ザ・ワールド フロム・ナッチェス・トゥ・ニュー・ヨーク』がリリースされたのは1998年だから、彼が57歳だろうか。北中さんの記事によると17歳で家を離れ、テネシー大学に入学。ルームメイトの影響でジャズを聴くようになり、大学を卒業後は海軍の音楽学校へ。海軍のバンドで世界各地を旅している間にアフリカやカリブ海の音楽に出会う。除隊後、ニューヨークに出てアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズを皮切りにジャズ界で活動を始める。80年代からは自分のバンド、オクラ・オーケストラとナッチェシッピー・ダンス・バンドを率いて劇場の音楽に携わる。
 オル・ダラの息子はラッパーのナズで、ヒップ・ホップをどう思うか、好きなラッパーは誰かという北中さんの質問に、
「もちろん息子(NAS)がいちばん好きだ(笑)。ヒップホップはクリエイティヴな音楽だ。歌詞が聞こえないことがあるが、歌詞は音楽の一部なので、一語一語がわからなくてもかまわない。ヒップホップとワールド・ミュージックとの融合やそのコンセプトが好きだ。それはわたしの音楽の中にもあるものだと思う。それにヒップホップのリズムや、フリースタイルの歌詞など、音楽的なコンセプトは、わたしがバンドでやってきたものに近い感じがする。わたしも若かったら、ヒップホップをやっていたと思う」と答えている。

YouTubeから「OLU DARA - Your Lips - LIVE」 「Olu Dara, live at Montreal Intl. Jazz Festival 1998

渋谷クラブクアトロ 2002年7月5日撮影
初出『ミュージック・マガジン』2002年9月号
コンサート評を宮子和眞さん
#オルダラ
#OluDara
#チャールズジョーンズ3世
#CharlesJones III
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。7枚の写真が掲載されています。

デイヴィッド・グラッブス

◯デイヴィッド・グラッブス

 ロック・ミュージシャンのイメージから遠いところにある服装がポロシャツだと思うが、そんな普通の青年のようないでたちで現れたのが1967年生まれ、イリノイ州シカゴ出身のシンガーソング・ライター、デイヴィッド・グラッブス(デヴィッド・グラブスの表記もある)だった。
 2001年6月に来日し、16日青山CAY、17日吉祥寺スターパインズカフェ、18日京都クラブメトロでライヴを行った。ライヴはフランス勢2人=ノエル・アクショテ、カンタン・ロレとのコラボ。ライヴの方は撮影していないが、15日に『ミュージック・マガジン』の取材でインタヴュー写真を撮っている。インタヴュアーは湯浅学さん。

 wikiには<最初に所属したバンドはThe Happy Cadaversというパンクバンドで、1枚のシングルをリリースした。その後スクワール・バイトの前身であるハードコア・パンクバンド、Squirrelbait Youthを結成。スクワール・バイト・ユースの後もバストロやビッチ・マグネット、ガスター・デル・ソル、コデイン、その他多数のバンド/アーティストにメンバーもしくはゲストとして参加し、ミュージシャンとしてのキャリアを深めて行く>と書かれているが、テキサスのアヴァンギャルド・ロック・バンド、レッド・クレオラのメンバーでもあった。
 1995年のレッド・クレオラ初来日の時にその一員であったデイヴィッド・グラッブスに湯浅さんがインタヴューしており、記事はその時のことから始まる。デイヴィッド曰く、
「メイヨ・トンプソンは自分はレッド・クレイオラのリーダーではない、というふりをする。バンドの他のメンバーみんながやりたいようにやっているんだ、というふうに見せたがる。でもみんなは他ならぬメイヨのためにやっている。レッド・クレオラはマインド・ゲームの交錯によって成り立っているんだ」
 湯浅さんの質問に対するデイヴィッドの答えは時に文学的すぎて、禅問答のようでもあった。
ーー活動していく上で、これだけはやるまいと思っていることは?
「それはいい質問だ・・・ユーモアのセンスを衰えさせ、失うことだな」
ーーでは逆に、いつもこれは欠かしていないというモットーは何でしょう。
「ふむむむ・・・そうだなあ・・・(爆笑)・・・抽象的に聞こえるだろうけど、ジェスチャーの持つユニークさを大切にすること・・・例えば、僕のレコードには、僕の手書きのものが使われている。人の手書きというのは読めないような字でも美しくなくても、それには価値があると僕は信じている。多少矛盾する話かもしれないけれど、僕は毎回異なるレコードを作る勇気のある人を尊敬している。同時に自分のスタイルというものにある種の一貫性を持っている人たちにも大きな尊敬を抱いている。手書きの字にそれぞれのスタイルがあるように、デレク・ベイリーとか、トニー・コンラッドなど、毎回異なったレコードを作っても、彼等だけの特徴が見出せる。個人の統一性があるよね」
ーーあなたもそうなりたいと思っている?
「僕はまさにそうなんだ、と思っているんだけどなあ(笑)」

YouTubeから「David Grubbs 02/04/13 Paris, Ensa」 「Nothing New - The Happy Cadavers [1982 Synth-Punk]」 「Squirrel Bait "Sun God" LIVE 1985」 「Gastr Del Sol - Camoufleur

デイヴィッド・グラッブス 公式ウェブサイト

青山・アジア会館 2001年6月15日撮影
初出『ミュージック・マガジン』2001年8月号
インタヴュアーは湯浅学さん、通訳は渡瀬ひとみさん、木村麗子さん
#デイヴィッドグラッブス
#DavidGrubbs
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。5枚の写真が掲載されています。

8月5日(火)

 群馬県伊勢崎市で国内の観測史上最高となる41.8℃を記録。東京都青梅市でも40.4℃、八王子市でも40.3℃と、都内で今季初めての40℃越えとなった。また、環境省と気象庁は過去最多となる44都府県に熱中症警戒アラートを出した。一方、北海道釧路市では統計開始以来1位の激しい雨が降り、市内の広範囲で道路が冠水し市役所の地下に水が入り込む被害があった。

 この他の気になった記事を備忘録として。
これから「小泉備蓄米」がじわじわ問題化してくる…現役農家が今もっとも恐れていること
安倍昭恵さん「いつか自分の手で調べたい」 森友問題巡りNHK番組で

鮎川いずみ

◯鮎川いずみ

 時代劇『必殺シリーズ』の<何でも屋の加代>で知られた元俳優で歌手の鮎川いずみさん。wikiによると1992年に事故で足を骨折し、準レギュラーだった『大岡越前』を途中降板。その後、芸能界を引退し、実業家の道を歩まれたようだ。
 鮎川さんを撮影したのは、『きれい de げんき』という美容と健康の雑誌だった。この雑誌は1998年にマキノ出版から創刊されたが、途中から発行がマキノ出版のグループ会社・爽快薬品となっている。純粋な雑誌というより、爽快薬品が扱っている商品の販売促進用のPR誌だった。
 鮎川さんを撮影したのも、彼女がプロデュースしている化粧品の記事広告。三陸海岸のメカブとアワビを配合したリッチラメラというシリーズの商品だが、時代劇俳優ならではの悩みから商品開発されたようだ。

「女優業は、撮影現場でライトや埃にさらされるうえ、生活も不規則になりがちで、肌への負担がとても大きい仕事です。私は16歳でデビューして以来、舞台でも時代劇が多かったものですから、メイクも厚塗りになって、40代になったころからさまざまな肌トラブルがいっきに出てきたんです。
 そこで食生活から見直そうと調理師免許を取り、食材選びに全国を回るようになりました。そのとき三陸の漁師町で遭遇したのが、この<リッチラメラ>シリーズに配合されるメカブとアワビです。長年酷使してきた私の肌は当時、食事だけでは改善されず、化粧品についても勉強を始めていた、そんな矢先の幸運な出会いです。
 今回お届けするソープとローションは、素肌を健康にしたいという私の願いを形にしたもの。驚きの回復力と喜びをぜひあなたもご体験ください」
 撮影は彼女の事務所と思われる港区のタワーマンションの一室で、眼下に芝離宮恩賜庭園が見渡せた。
 掲載誌に記載されている当時のプロフィールを引用させていただく。
<1967年松竹映画「また会う日まで 恋人の泉」に三田明の恋人役としてデビュー。代表作に「必殺仕事人シリーズ」「江戸を斬る」などがある。14年前からビジネス界に転身、メディアプランナー、ビューティーアドバイザーとして活躍。リッチラメラ代表>
 1951年生まれだそうなので、撮影させていただいた当時は55歳だろうか。

YouTubeから「【必殺仕事人(激闘編)】女は海 / 鮎川いずみ」 「【必殺仕事人III】冬の花 / 鮎川いずみ (主題歌)歌詞付き」 「ケイビー CM チルドフライ 鮎川いずみ 山内敏男

リッチラメラ 公式ウェブサイト

東京・港区 2006年12月19日撮影
初出『きれい de げんき』2007.3-4月号(爽快薬品)
#鮎川いずみ
#IzumiAyukawa
#鮎川いづみ
#玉尾千枝
#ChieTamao
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。3枚の写真が掲載されています。

観月環

◯観月環

 気功家で、観月流和気道代表・創位。公式ウェブサイトのプロフィールを引用させていただくと、
<「気」を生活の中に取り入れた気的生活を提案し、人生をグレードアップさせるための方法としての「気」の活用法を開発。薬剤師免許取得後、漢方、整体、気功、アーユルヴェーダなどの各種健法を研究し自ら実践。1993年観月流和気道(旧日本医療気功協会)設立。2012年一般社団法人和気道に名称変更。全国各地で講演会の傍ら、数多くの大手企業にて企業戦略としての「氣」の活用のセミナーを行う。ビジネスのみならず、スポーツ選手のメンタルトレーニング、子どもの能力開発など、様々な分野で「氣」を活かす方法の指導にあたる>
 観月さんにお会いしたのは、マキノ出版から発売された『チャクラ・ストレッチ7』というDVDとCDをボックスにした商品用の撮影だった。そのDVDとCDのパッケージに使う写真や、中に入っている解説紙に使う写真などを撮影している。

 チャクラとはサンスクリット語で「車輪」を意味し、体内を巡るエネルギーである「氣」が体を出入りすると考えられるポイントだそう。尾てい骨にある第1チャクラから順に、体の中心線上に7つ存在するそうだ。DVDでは1週間毎日5分間の簡単な動作で第1から第7まで一つずつチャクラを整えるストレッチの仕方を紹介している。CDにはストレッチを楽しく続けられるように谷川賢作さんが作ったBGMが収録されている。
 DVDに付属する解説紙用とタイアップの雑誌記事用に撮影したストレッチの手順写真は、マキノ出版の地下スタジオで観月さん本人がモデルとなっている。パッケージや盤面に使うイメージ写真、動画収録風景などの写真は江東区潮見にあるスタジオで撮影している。動画の方は別の制作会社が担当し、AIMINGに所属していた久良夏樹さんがモデルとして出演。ショップチャンネルで販売するということで、ショップチャンネルのプロデューサーも同席していた。
 商品完成後の打ち上げには、音楽を担当された谷川賢作さんも顔を出されていた。
 
観月環 公式ウェブサイト

観月環 Instagram

湯島・マキノ出版 2009年9月9日撮影
潮見・STUDIO CANAL 2009年9月13日撮影
初出『チャクラ・ストレッチ7 DVD&CD/観月環』(マキノ出版)
『ゆほびか』(マキノ出版)2010年2月号
ヘアメイクは喜久絵美さん、スタイリストはしみずちえこさん
#観月環
#MizukiTamaki
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。16枚の写真が掲載されています。

8月3日(日)

 温暖化による猛暑で下がる地球全体の労働効率は、どれほどの経済損失になるのか?明日の高岡の最高気温は37℃・・・
小川銀次

◯小川銀次

<17歳よりギターを始め、数々のセッションを経て、18歳、「ねずみ小僧」(後に「Bem」と改名)を結成。1976年7月『絵の見える音楽』をコンセプトにCROSSWINDを結成。コンテストでの優勝やメディアにも登場し1978年にファースト・アルバム『CROSSWIND』でデビューを果たす。翌79年にセカンド『CROSSWIND 2』をリリース、この間に自らのバンド以外でのバンド活動にも参加。「川上シゲ&Zone」、「カルメン・マキBand」、「鳴瀬&Quyz」などに精力的に参入、そしてチャボと清志郎と出会い日本語ロックのパイオニアである存在のRCサクセションに参加する>
 ここまでが本人の公式ウェブサイトに掲載されている活動初期のプロフィール。
 銀次さんに初めて会ったのは、セカンド・アルバム『CROSSWIND 2』をリリースする1979年ごろ。クロスウィンドのドラマーが、杉本清さんからそうる透さんに代わり、透さんのローディーとしてクロスウインドのライヴやレコーディングについて行った。

 銀次さんがクロスウインドとRCサクセション、透さんがクロスウインドとおとぼけCatsを掛け持ちしていた時期だ。
 1979年のスケジュール帳には、2月26日~3月1日まで埼玉県本庄市にあったDigという音楽スタジオでクロスウインドの合宿と書かれており、4月の欄には赤坂にあったエルボンレコードでの『CROSSWIND 2』の録音日程が書き込まれている。
 透さんのローディーをやめてからは銀次さんと会う機会もなかったが、20年ぶりくらいだろうか、地下鉄の表参道駅でバッタリ会った。それをキッカケに小川銀次バンドのライヴに足を運ぶようになった。銀次さんが自身のレコード会社「POWER RECORD」を設立し、12枚組CDボックス『大銀譲』をリリースする前だから2000年頃だろうか。初めは六本木のピットインへ見にいっていたが、やがて吉祥寺のシルバーエレファントが活動拠点になっていった。
 CDボックス『大銀譲』は1995年から2000年までの5年間、自宅スタジオでレコーディンした約4000曲の中から選曲し、『MUSIC/Private Diary』と名付けられた12枚のアルバムで構成されている。どの曲も全楽器を一人で演奏して録音したもので、ドラムは打ち込みだが、その打ち込みのフレーズがギタリストとは思えない(笑)。ホントにドラムが好きなんだろうなと思う。
 クロスウインドから小川銀次バンドまで、歴代のドラマーには杉本清、そうる透、日山正明、宗修司、山口鷹という名前が並ぶ。ドラム好きのギタリストとのプレイは、ドラマーにとっても刺激的で切磋琢磨の季節だったんじゃないだろうか。
 銀次さんは入退院を繰り返し、2015年8月2日に亡くなってしまった。訃報を知って、8月5日のfacebookにこんな文章を書いた。
<小川銀次さんが、亡くなった。この一年余りの闘病日記をリアルタイムで見ていたので、悲しいというより「おつかれさまでした」という気持ちの方が強い。2度目の入院から自宅に戻って来ての日記には、読んでいる方も辛くなる様な尋常ではない身体の不調が記されていた。それでも横になってギターを弾き、新しいギターのデザインが浮かんだこと等も書かれていて、本人はまだまだ弾きたかったんだろうと思うと切なくなる。今は長い闘病から解放されたのだから、ゆっくり休んで下さいという気持ちでいっぱいだ。ギターを弾くことが好きで、ギターのことを考えることが好きで、永遠のギター少年だったと思う>
 掲載した写真の1~4枚目は2008年4月4日に新橋ZZで開催された渋谷・屋根裏同窓会でのライヴ。この写真は2009年に発売された『”Unknown Titles”Private Pieces 1986~1987、Inner‐WIND I、Inner‐WIND II』という2枚組CDアルバムのインナージャケットに使用されている。5~15枚目はディレーなどエフェクターを駆使して一人で演奏する<the Orchestra>と題したソロ・ライヴ、16~25枚目は永井敏己(ベース)、山口鷹(ドラム)との小川銀次バンド。
 昨日で亡くなって10年が経った。

YouTubeから「CROSSWIND(小川銀次)@渋谷屋根裏1981/6/28」 「GINJI OGAWA SOLO 小川銀次」 「糸まきと飛び道具 小川銀次BANDライブ

小川銀次 公式ウェブサイト

新橋ZZ 2008年4月4日撮影
初出『”Unknown Titles”Private Pieces 1986~1987、Inner‐WIND 1、Inner‐WIND II』(POWER RECORD)
吉祥寺シルバーエレファント 2008年11月22日小川銀次ソロ・ライブ撮影
吉祥寺シルバーエレファント 2009年11月21日小川銀次バンド撮影
#小川銀次
#GinjiOgawa
#クロスウインド
#CROSSWIND
#小川銀次バンド
#永井敏己
#ToshimiNagai
#山口鷹
#TakaYamaguchi
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。25枚の写真が掲載されています。

遠藤賢司

◯遠藤賢司

 このアーカイブ作業を始めて、たくさんのアーティストのウェブ・サイトを見ているが、エンケンこと遠藤賢司さんのサイトほど資料が充実しているものも珍しい。エンケンさんは3度取材で撮影させていただいているが、サイト内の歴史年表に3つとも媒体名、記者・撮影者、記事のタイトルが掲載されている。一番最初は1990年で、学生援護会のアルバイト・ニュースの撮影だったが、1990年の歴史年表の【遠藤情報掲載誌】に、雑誌「デイリーアン」1990年12月17日号 インタビュー(湯浅学)写真(きはらもりお )「INTERVIEW 遠藤賢司全編勢いに満ちた入魂のライブ盤には遠藤賢司の基本が詰まっているのだ。」と記録されている。
 その次に撮影でお会いしたのは1996年の11月で、こちらは1997年の歴史年表に、雑誌「レコード・コレクターズ」1997年2月号特集「遠藤賢司」インタビュー(北中正和)写真(きはらもりお )「嘘の数だけ命を燃やすのが俺は仕事だと思ってるんだ。遠藤賢司が語った28年、不滅の足跡」と記録されている。

 最後にお会いしたのは2005年で、こちらも2005年の歴史年表に、雑誌「ロック画報」21号2005年9月16日発売 写真(きはらもりお )「Japanese Rock 存在証明 Vol.7 不滅の男を鼓舞するギター」と記録されている。撮影したのは、エンケンさん使用のボディにガムテープでエフェクターが貼り付けられたギターだった。雑誌の方にもインタヴュアーの名前は記されてなく、話=遠藤賢司というクレジットになっているので編集部の人間がインタヴューしたのだろう。編集部からの依頼はギターの撮影だったが、撮り終わったあとにポートレートの撮影もお願いしてみたが、「疲れているので・・」と断られてしまった。実際、少し疲れた顔をされていた記憶がある。2005年はエンケンさんが監督・音楽・主演を務めた映画『不滅の男 エンケン 対 日本武道館』が公開された年で過密スケジュールだったのだろう。
 仕事で3回撮影させてもらったが、生のエンケンさんのステージは一度しか見たことがない。それもエンケンさんのソロではない。1979年にダディ竹千代と東京おとぼけCats、ウシャコダ、野毛スマイルが東京ロッカーズに対抗して関東ロッカーズを結成、その結成コンサートが目黒公会堂で行われたが、そのゲストがエンケンさんだった。このライヴもエンケンさんの1979年の歴史年表に<東京おとぼけCats、ウシャコダらと共に「極東ロッカーズ」結成。総帥に推挙される>と記録されている。極東ロッカーズ?関東ロッカーズの間違いでは、と思いコンサートを記録したDVDを観ると結成式にエンケンさんが乱入し、極東ロッカーズに改名。ステージ後方に掲げられた幕も関東から極東に変えられ、総帥になっていた。このコンサートではおとぼけCateをバックに、「東京ワッショイ」を歌っている。
 下記の文章はギターを撮影した『ロック画報』の「Japanese Rock 存在証明 Vol.7 不滅の男を鼓舞するギター」に掲載されている文章。短い中にエンケンさんがギュッと詰まっている感じなので引用させていただく。
<「不滅の男」を、野外のライヴで歌うとき、背中にローランドの小さいアンプをつけて歌ってるけど、ちょっとモノ足りないなあ、ディストーションがあったらなあ~と思うときがあってね。足元にエフェクターがない時があるんだよね。俺はガンガン客席に入って行くから。それで、音がグォーンとこだましたらいいなあって自分でギターにディストーションとフェイザーを取り付けた。そうすると”骨伝導”で背骨を通して音が響いてくる。俺は、まず自分のために歌ってるんだ。自分が気持ち良くないとお客さんにも伝わらない。その状況を作るのに、このギターは理想的だね。バンドじゃなくて自分一人でやる時だけだけど。
 今度作った俺の映画のタイトルバックにはこのギターが映っている。映画の話が来た時、言うだけ言ってみようと思って、”監督やっていい?”って聞いたら、プロデューサーがいいって言った。俺の音楽で、俺の映画だから頭の中には漠然とストーリーがあったんだよ。それに、監督って最終責任者だから、どうせなら自分で責任をとろうって思ったんだ。
 撮影の時、北朝鮮と日本のサッカーじゃないけど、お客さんのいない中で歌うのは凄く怖かった。でも歌うってことはどんな状況であれ自分との闘いであるから負けないぞって全力でやり切ったけどね。だから、もう人の反応なんか気にしない。映ってるのは俺だし、監督の観たい映画を作るのが一番だと思うから。この『不滅の男エンケン対日本武道館』って映画は俺の言いたいことと観たいものがばっちり映ってる。映画館に色々な人が来てくれると嬉しいね>
 純音楽家で不滅の男、エンケンさんは2017年10月25日に亡くなってしまったが、作品が人々の記憶に残っている限り不滅の男で在り続ける。
 掲載した写真の1~3枚目は『デイリーan』で撮影。肩に乗せているフクロウの剥製はエンケンさんからの一緒に写してというリクエスト。4~9枚目は『レコード・コレクターズ』、10~12枚目は『ロック画報』で撮影。13枚目は関東ロッカーズ結成コンサートのチケット。
 
YouTubeより「Kenji Endo (遠藤賢司) - Curry Rice (カレーライス) - Live」 「遠藤賢司 - 夢よ叫べ @ 世界同時多発フェスティバルFUKUSHIMA!」 「不滅の男 エンケン対日本武道館 - 遠藤賢司

遠藤賢司 公式ウェブサイト

東京・渋谷 1990年11月17日撮影
初出『デイリーan』(学生援護会)1990年12月17日号
インタヴュアーは湯浅学さん
広尾・ミディ 1996年11月23日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1997年2月号
インタヴュアーは北中正和さん
渋谷・アルタミラピクチャーズ 2005年8月9日撮影
初出『ロック画報』21号
#遠藤賢司
#KenjiEndo
#エンケン
#Enken
#純音楽家
#不滅の男
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。13枚の写真が掲載されています。

8月1日(金)

 六文銭と共演した「出発の歌(たびだちのうた)」で知られる歌手・俳優の上條恒彦さんが、先月22日に老衰のため亡くなったそうだ。85歳だった。時代劇『木枯らし紋次郎』の主題歌「だれかが風の中で」も、上條恒彦さんだったのを思い出した。久しぶりに聴くとアレンジが西部劇の主題歌風だ。
 昨日から奄美まつりが始まった。今年は奄美市市制施行20周年記念だそうだ。メイン・イヴェントの舟こぎ競争は明日。奄美まつりのYouTubeチャンネルでライブ配信されるようだ。

◯コスタ・カリーべ

 コスタ・カリーべ(カリべの表記もある)=カリブ海岸と名付けられたこのベネズエラ出身のグループを撮影したのは、『季刊ノイズ』12号の「カリブ海音楽」特集だった。64ページにもわたる大特集で、田中勝則さんによる<カリブ海から世界に広がる”赤い糸”>、海老原政彦さんによる<歴史と地域性が織りなす優雅な色彩 カリとの対話をきっかけに探るマルチニック音楽の秘密>、西成彦さんによる<回転木馬とタンブウが島の生を奏でる>、後藤幸浩さんの<歌あっての弦、弦あっての歌 ヨーモ・トーロのクアトロとプエルト・リコ音楽>、田中勝則さんによる<多様な音楽にひそむ共通のルーツ ベネスェーラから来日したコスタ・カリーべ>という記事で構成されている。
 1991年10月10日に撮影した五反田・簡易保険ホールでのコスタ・カリーべとアンサンブル・グルフィーオという2つのグループのライヴ写真は、田中勝則さんの記事<カリブ海から世界に広がる”赤い糸”>と<多様な音楽にひそむ共通のルーツ ベネスェーラから来日したコスタ・カリーべ>の中で使用されている。また、『ミュージック・マガジン』1991年12月号でもミニ・レヴューのページに使用され、コンサート評を竹村淳さんが書かれている。ステージの様子がわかるよう竹村さんの記事を少し引用させてもらう。
<この国の音楽については、ホローポ、パサーへ、それにワルツや「コーヒー・ルンバ」で知られたオルキデアといったリズムしか伝えられてこなかったが、パランダ、フーリアといったアフロ系のリズム、本家トリニダードとは違ってアフリカ伝来の太鼓ブンバックを継承して演唱するカリプソなどにふれられただけでも大収穫だった。
 クアトロやバンドーラ(マンドリン系の3弦楽器)を弾くチェオ・ウルタードが率いるコスタ・カリべはオスカル・デ・レオーンのクリスマス・アルバムで伴奏を担当していたグループだが、前述のようなベネスエラならではのリズムに乗って繰り広げる演唱はあのアルバムからは想像がつかないほどノリノリで楽しい。弦楽奏者が計4人、パーカッションが3人、トロンボーンが二人、それに男2女3の歌手という編成だったが、女性歌手のカラフルな衣装と踊りも相まってヴィジュアル効果も満点>
 『季刊ノイズ』では、田中さんがコスタ・カリーべのクアトロ(4弦ギター)奏者のチェオ・ウルタード氏(アンサンブル・グルフィーオのリーダーでもある)にインタヴューしており、そのインタヴュー記事によるとコスタ・カリーべは1987年の終わりにベネズエラの首都カラカスで結成されたそうだが、その前身は70年代の後半から活動していたウン・ソロ・プエブロというグループで、コスタ・カリーべの主要メンバーはこのグループに参加していたという。
 ベネズエラには各地方ごとに独自の伝統音楽があり、そういう音楽を積極的に取り上げるのがコスタ・カリーべの方針だとチェオは答えている。
 このウン・ソロ・プエブロについては日本でも発売されたコスタ・カリーべの2枚目のアルバム『QUE TE VAYA BIEN(邦題:カリブの素朴画)』のライナーノーツで石橋純さんが書かれているので引用させてもらう。
<80年代に入ると数え切れないほどのグループが、アフロ・ベネズエラ音楽を専門に活躍するようになる。なかでも決定的に重要なのはウン・ソロ・プエブロだ。強力なコーラスとパーカッション部隊で編成された若者ばかりのこのグループは、正調のコピーから始めたごく初期からフォルクローレを超えるパワーを持っていた。そのためだろう。彼らの演唱するパランダやカリプソは、いつのころからかディスコやパーティ・シーンでも踊られるようになった。はからずも都市のベネズエラ人の下半身にアフロ・ベネズエラ音楽のエネルギーを実感させる結果となったのである。
 85年以降、ウン・ソロ・プエブロは、サルサやメレンゲの要素を積極的に吸収。トロピカル・ダンス・ミュージックとしても通用するベネズエラ音楽を指向するようになる。この試みがひとつの頂点に達したのが87年のアルバム『コン・ス・ムジカ・ア・オトラ・パルテ』。収録曲「カジャオの女」は、なみいるサルサ、メレンゲを押さえ、この年もっとも踊られた大ヒット・ナンバーとなる。同年暮れにオープンしたライブ・ハウス”サグアン・デ・ウン・ソロ・プエブロ”は入りきれないほどの若者を毎夜集め、ベネズエラ音楽史上の重要なエポックを築いた>
 が、88年にメンバー間で音楽的主張の対立やレコード会社との契約のこじれでグループが分裂。そうした中、チェオ・ウルタードのもとにメンバーが集まり新グループ、コスタ・カリーべが結成されたという。
 コスタ・カリーべのホームページもwikiも見つからなかったが、1991年の来日公演の映像がYouTubeにUPされていたのでリンクしておきます。

YouTubeから「Costa Caribe y Ensamble Gurrufio ( Japón )

チェオ・ウルタード Bio&Discography

五反田・簡易保険ホール 1991年10月10日撮影
初出『季刊ノイズ』12号(ミュージック・マガジン)
記事執筆は田坂勝則さん
初出『ミュージック・マガジン』1991年12月号
コンサート評は竹村淳さん
#コスタカリーべ
#CostaCaribe
#チェオウルタード
#CheoHurtado
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。8枚の写真が掲載されています。

コスタ・カリーべ
アンサンブル・グルフィーオ

◯アンサンブル・グルフィーオ

 1991年にビクターからリリースされたアルバム『アロマ』の帯には世界No.1クアトロ奏者チェオ・ウルタードを中心に、マンドリン、ベース、フルートによるベネズエラ発のフレッシュなサウンド。ヨーロッパの粋とラテン・アメリカの躍動感を兼ねそなえた驚異のアンサンブル、遂に日本に上陸と書かれている。
 wikiによるとクアトロ奏者のチェオ・ウルタード、フルートのルイス・フリオ・トロ、マンドリーナのクリストバル・ソトの3人で1984年に結成され、1989年にコントラバスのダビード・ペーニャが加わりカルテットになったそうだ。
 彼らを撮影したのはやはりベネズエラのグループ、コスタ・カリーべと共に来日した1991年で、10月10日に五反田の簡易保険ホールで開催された公演を撮っている。ちなみにチェオ・ウルタードとダビード・ペーニャはコスタ・カリーべのメンバーでもある。

 掲載誌は『季刊ノイズ』12号の「カリブ海音楽」特集と、『ミュージック・マガジン』1991年12月号のレヴュー・ページだった。『季刊ノイズ』では田中勝則さんが2つのグループの中心人物であるチェオ・ウルタードにインタヴューをしている。
 アンサンブル・グルフィーオはブラジルのショーロまでレパートリーに入れているが、レコードで知ったの?という問いに、
「もちろんそうだよ。ジャコー・ド・バンドリンのレコード。ブラジル・プレスの輸入盤だ。カラカスでは音楽学校とかでマンドリーナを勉強する人のためにジャコーのレコードを70年代後半からたくさん置いていて、ミュージシャンの間ではショーロは以前からよく知られていたんだ。ぼくが知ったのは80年代になってからだけど、クリストバル(・ソト。グルフィーオのマンドリーナ奏者)の話では、ジャコーのことが知られたころ、カラカス中のマンドリーナ奏者がみんなジャコーみたいに弾きはじめた時期があったそうだよ。それまではこういう即興性のあるインスト音楽は誰もやっていなかったから、大変な衝撃だったんだろうね」と答えている。
 この年(1991年)7月にグルフィーオのメンバーはブラジルに行き、リオとサンパウロでコンサートを開催。パウリーニョ・ダ・ヴィオーラやアルタミロ・カリーリョといったショーロのミュージシャンがたくさん見にきてくれ、ペドロ・アモリーンという若いバンドリン奏者と親しくなり、セッションもしたという。
 ブラジルのミュージシャンとグルフィーオの共演アルバムができると面白いでしょうね、という田中さんの提案に、
「そうだね。これからはそういう試みをもっとやってもいいかもしれない。ベネスェーラにもブラジルの人たちが気に入ってくれそうな美しい曲がたくさんあるし、それを広めるためにもいいことだろうね」と話していた。

YouTubeから「Ensamble Gurrufío, Apure en un viaje」 「Ensamble Gurrufío - Pajarillo

五反田・簡易保険ホール 1991年10月10日撮影
初出『季刊ノイズ』12号(ミュージック・マガジン)
記事執筆は田坂勝則さん
初出『ミュージック・マガジン』1991年12月号
コンサート評は竹村淳さん
#アンサンブルグルフィーオ
#EnsambleGurrufio
#チェオウルタード
#CheoHurtado
#ダビードペーニャ
#DavidPeña
#クリストバルソト
#CristobalSoto
#ルイスフリオトロ
#LuisJulioToro
#アーカイブ

facebookへの投稿はこちら、Instagramへの投稿はこちら。4枚の写真が掲載されています。

7月へ