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◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
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◯都内の最新感染動向 https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/
◯山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信 https://www.covid19-yamanaka.com/index.html
◯新型コロナウイルス感染速報 https://covid-2019.live/
◯ 福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
◯DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
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◯独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
◯小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
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◯チョ 10イさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
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7月30日(水)

 今朝8時25分ごろ、ロシア・カムチャツカ半島付近を震源とするマグニチュード8.7の地震があった。この地震による津波警報・注意報が太平洋側を中心に出され、テレビのニュース、情報番組は今日一日この話題で持ちきりだった。お昼放送の朝の連続テレビ小説「とと姉ちゃん」「あんぱん」は放送が飛んでしまった。海水浴場が閉鎖され、海岸付近の飲食店は臨時休業、鉄道や空の便、高速道路にも影響が出たのでしょうがないのだが。今のところ国内では津波による直接的被害はないようだが、津波警報で高台の待避場所へ自動車を置きに行った女性が、道路から崖下に車ごと約20メートル転落し亡くなった。

 この他の気になった記事を備忘録として。
兵庫・丹波市で41.2度を観測 国内史上最高気温を更新
旧統一教会本部を仮差し押さえ 献金被害救済で財産確保
参院選で加わった「新たな支持層」とは…参政党を観察してきたライターが気づいた変化
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3号機デブリ大規模取出し準備に12~15年 “2030年代初頭の取出し着手”は困難に<福島第一原発>
石破首相の退陣要請、11県連に拡大 下部組織含めて不満が拡散

◯すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り 2008

 今年も今日7月30日、明日31日の2日間、竪川親水公園特設会場で「すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り」が開催される。
 一番最初にこの大盆踊りに行ったのは、学生援護会の発行する『デイリーan』の取材だった。会場は現在の竪川親水公園ではなく、丸井裏の都有地で、今のように大きなステージではなく櫓が組まれていた。1991年8月28日のことで、記事には<今年で10年、錦糸町の大盆踊り大会>と書かれている。記事は編集部の干野文夫さんが書いていたと思うが、それによるとルポライターの朝倉喬司さんを隊長とする河内音頭にとりつかれた面々が全関東河内音頭振興隊を結成し、その魅力を関東の人々にも知らしめたいという思いで1982年に錦糸町のパチンコ屋さんの2階でコンサートを開いたのが始まりだそう。85年から丸い裏の都有地に場所を移し、97年から現在の竪川親水公園で開催されている。また2009年7月に全関東河内音頭振興隊は解散し、それと同時に首都圏河内音頭推進協議会(イヤコラセ東京)が発足した。そして、翌2010年に全関東河内音頭振興隊の隊長だった朝倉喬司さんが死去されている。 
 2008年の夏。湯島にあったマキノ出版へ写真を納品に行った帰り、散歩がてら17年ぶりに錦糸町の大盆踊りを見に行った。歩いたコースは湯島~台東~三筋~蔵前~本所~錦糸~江東橋で、時間にして1時間半ほどだったと思う。開演時間の5時30分を少し過ぎた頃に到着し、ビールを飲みつつ、ポテトを食べつつ、焼き鳥や肉まんを頬張りつつ、時々写真を撮ったりしながら会場をウロウロしていたら、ビクター・レコード宣伝部の粕谷雅昭さんに声をかけられた。毎年来ているそうで、そういえば『デイリーan』で撮影に来た時も粕谷さんに声をかけられた覚えがある。話をしていると、もうビクターは辞められていた。粕谷さんに初めて会ったのはT-BIRDのローディーを始めた1978年、18歳の時だった。フライング・ドック・レーベルで平田国二郎さんがプロデューサー、粕谷さんがディレクターだった。その後、粕谷さんは宣伝部に移り何度か取材撮影の場所でお会いしたし、粕谷さんが担当するアーティストの宣材写真を撮影する仕事をもらったりもした。中国のロック・バンド、黒豹(ヘイバオ)を撮影に北京・南京へ行ったのも粕谷さんからの依頼だった。
 散歩がてら見に行って1~2時間楽しんだら帰ろうと思っていたが、結局終演まで4時間ほど会場をウロウロしていた。アーカイブするにあたって出演者を調べようと当時貼っていたリンクを辿るが、すでに切れていた。2019年にそれまで運営していたイヤコラセ東京が錦糸町河内音頭大盆踊りから撤退し、それまでの出演者情報を掲載していたブログも消えてしまったようだ。
 wikiによると2020年、2021年は新型コロナで開催が中止され、2022年は新型コロナ感染拡大防止のため予約制で定員のみ、生演奏なしで開催。2023年から例年通りの態勢で開催されているが、今年から開催日を7月末に変更したそうだ。
 尚、撤退したイヤコラセ東京も音頭のイベント企画や情報発信を続けているようだ。掲載した写真の一番最後は、1991年に撮影した『デイリーan』の記事。

YouTubeから「2008年すみだ錦糸町河内音頭大踊り」 「東京で河内音頭大盆踊り!

すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り 公式ウェブサイト

イヤコラセ東京 公式ウェブサイト

竪川親水公園 2008年8月27日撮影
#すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り
#河内音頭
#竪川親水公園
#アーカイブ

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すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り2008
すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り2009
◯すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り 2009
 
 イヤコラセードッコイセー♪
 2008年は湯島にあったマキノ出版へ写真データを納品に行った帰り、17年ぶりに大盆踊りを見に行ったが、2009年はマキノ出版の地下スタジオで10月に発売となるフィトセラピスト・池田明子さんの書籍用のブツ撮りをした帰りに大盆踊りを見に行った。大盆踊りは2日間開催されるが、2008年は初日、2009年は2日目を見た。
 すみだ錦糸町河内音頭大盆踊りを運営していたイヤコラセ東京が2019年に撤退し、それまでの出演者情報を掲載していたブログが消えてしまったが、会場に貼られていた出演予定表を撮影していたので2009年の出演者の名前がわかった。 
 8月27日の出演予定表より#司家貴嗣 #永田光康 #桑舞昇永 #堺家小利貴丸 #月乃家小菊 #浅照 #生駒家一夫 #鳴門家寿美若 #鳴門家寿々佳 #大月一若 #井筒家小石丸 #司家征嗣 #鉄砲光丸

 これまで8、9月に開催されていた大盆踊りは、今年から7月に変更となり今日7月30日、明日31日が開催日となっている。

YouTubeから「すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り大会

すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り 公式ウェブサイト

イヤコラセ東京 公式ウェブサイト

竪川親水公園 2009年8月27日撮影
#すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り
#河内音頭
#竪川親水公園
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7月28日(月)

妙に怒りっぽいんだ なんでもシャクの種なんだ
だからイザコザ 起こすんだ
ご機嫌 ナナメなんだ
あつさで気がくるった みんな
あつさのせい

 連日の猛暑で気が狂いそう。大瀧詠一の「あつさのせい 」、名曲です。
 このホームページを置いているサーバーの更新手続き。使い始めた2010年の年間使用料は3,150円だったが、徐々に値段が上がり、2022年は3,960円、2023年は5,016円、今年は5,940円。さすがにこの値上げ幅はキツイと思い、1年契約から3年契約に変更した。3年間で9,504円。1年毎に振り込みに行くのも面倒だし、かなり割安感もある。

翁長雄志

◯翁長雄志

 第4代沖縄県知事・大田昌秀と第7代沖縄県知事・翁長雄志という二人のティダ(沖縄で太陽を表す言葉。転じて沖縄で首長=リーダーを表す言葉)にスポットを当てた佐古忠彦監督の映画『太陽(ティダ)の運命』の上映が、昨日26日から富山・ほとり座、石川・シネモンド、福井・メトロ劇場で始まった。
 沖縄に移住していた2012年6月から2014年7月の約2年間に、何度か翁長雄志さんを見かけてスナップ撮影したが、翁長さんが沖縄県知事になられたのは沖縄から富山に戻った後の2014年12月で、自分が撮影したのは那覇市長時代の翁長雄志さんだけだ。
 一番最初は2012年10月27日で、栄町市場商店街で行われる屋台祭りを見に行った時。翌月に那覇市長選挙が控えていて、その挨拶回りでマイクを握っていた。
 次にお見かけしたのは翌日で、首里城祭の3日目に国際通りで行われる琉球王朝絵巻行列を撮影に行ったら、行列のスタート地点で翁長さんが開会宣言をしているところだった。

 栄町市場も国際通りの琉球王朝絵巻行列も偶然お見かけしたのだが、その次の2013年1月22日に那覇市民会館で開催された「オスプレイ配備反対那覇市民大会」は撮影しようと思って出かけて行った。翁長さんは那覇市長として市民大会の共同代表になり、壇上で主催者あいさつをされていた。2012年10月1日に初めて普天間飛行場へオスプレイが配備されたが、この頃、米兵による強姦事件が起こり米軍人の深夜外出禁止令が出されていたにもかかわらず、米兵による住居侵入、少年への暴行事件などの不祥事が続いていた。12月23日にはオスプレイ配備反対、米軍基地の撤去を求める「御万人大行進 愛と怒りのサウンドパレード」が宜野湾海浜公園で開催されている。
 自分が翁長さんをお見かけした最後は、2013年の那覇ハーリーの時だった。初日の5月3日の朝、会場となる那覇新港に行くと開会式の真っ最中で、来賓挨拶のあとテープカットが行われてハーリー大会が始まった。ハーリー3日目の最終日、メイン・イヴェントの泊、那覇、久米が競う本バーリーでは翁長さんがスタートのフラッグをふられていた。
 この年の12月27日、第6代沖縄県知事・仲井真弘多氏が辺野古埋め立て申請を承認。その前後、12月25日、27日、28日には沖縄県庁を人間の鎖で包囲する抗議行動が行われた。この辺野古埋め立て承認を巡って仲井真氏と決裂した翁長さんは2014年10月3日に那覇市長を辞職し、11月16日に開催された沖縄県知事選で仲井眞氏に10万票近くの差をつけて県知事選挙に当選した。
 「辺野古が唯一」を押し通す2012年12月に発足した第2次安倍政権に対し法廷闘争を重ねたが、2018年5月15日にステージ2の膵臓がんであることを公表。8月8日に知事在職中のまま67歳で死去された。
 2018年9月30日に行われた県知事選挙で、玉城デニー氏が当選し第8代沖縄県知事となり、翁長さんの意志を継いでいる。

YouTubeから「【再配信 日米首脳会談に寄せて】翁長さんと魂のことば~翁長雄志さん菅原文太さん翁長樹子さん【 新沖縄通信 別冊】

翁長雄志 X(旧ツイッター)

太陽(ティダ)の運命 公式ウェブサイト

那覇・栄町市場商店街 2012年10月27日撮影
那覇・国際通り 2012年10月28日撮影
那覇市民会館 2013年1月22日撮影
那覇・新港埠頭 2013年5月3日撮影
那覇・新港埠頭 2013年5月5日撮影
#翁長雄志
#TakeshiOnaga
#那覇市長
#沖縄県知事
#アーカイブ

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◯石垣金星

 沖縄・西表島の郷土史家で伝統芸能継承者。亡くなられた後に出版された著作集『西表島の文化力 金星人から地球人へのメッセージ」(南山舎)の著者紹介からプロフィールを引用させていただく。
<1946年1月15日琉球八重山西表島祖納生まれ。西表小学校・那覇中学校・首里高校・順天堂大学体育学部卒業。1968年浦添市仲西中学校教諭、1972~75年西表中学校教諭。祖納公民館長、竹富町史編集委員、沖縄県文化財保護指導員などを歴任。学校教員を退職後、島おこし運動を牽引して、実践・情報発信・交流を進める。西表をほりおこす会、西表ヤマ大学、金星文庫などの文化運動を展開。「紅露工房」で昭子夫人の染織を支え、省力の「ピラチカ養蚕」に挑戦。ヤマネコやサンゴの海と共存する「ヤマネコ印西表安心米」を推進。三線を携え、西表島の伝統文化をめぐって国内外の幅広い交流を重ねた。2022年6月30日永眠。法名は釈郷星>
 西表島の祖納集落には節祭(シチ)と呼ばれる農作業上の正月儀礼があり、旧暦8、9月の己亥(ツチノトイ)から3日間続く豊作感謝と来年度の豊作祈願を行う神事が行われる。1日目がトゥシヌユー(大晦日)で、行事の準備と夜にはスリズ(公民館)の庭で奉納芸のウブシクミ(総合リハーサル)が行われる。2日目がユークイ(世乞)で、スリズでミリク(ミルク)起こしが行われた後、旗頭を先頭にミリクやフダチミの行列が祭場となる前泊浜へ向かい、浜で数々の奉納芸が披露される。3日目は祭祀を締めくくるトゥズミ(納めの日)で午前中はミリク役を務めた男性の家に村の役員が揃ってお礼参りに訪れ、午後からはウヒラカー(大平井戸)での神事の後、二手に別れそれぞれ旗頭を玄関に突っ込み集落の家々を清めてまわる。
 祖納の節祭を撮影に行ったのは2013年で、この年は9月30日から10月2日までの3日間が祭祀の期間だった。石垣金星さんを初めてお見かけしたのは、2日目のユークイにステージの上で行われたミリク起こしの時だった。この年のミリク役を務める男性の横でお面を被せる介添人をされていた。もっとも石垣金星さんだと知っていて撮影したわけではなく、ただならぬ風貌のこの人は誰だろうと思い、のちに調べて石垣金星という名前でどんな人物であるかわかった次第だ。
 沖縄、特に八重山諸島はミリク(ミルク)信仰の盛んな地域で、それは年に一度ニライカナイからミルク(弥勒)が集落を訪れて平和な世界=みるくゆがふ(弥勒世果報)をもたらしてくれるという来訪神信仰に基づいている。ミルクの面を被り両側の女の子に手を引かれて集落や祭場を道ジュネー(行列)して歩く。ミルクの面が御堂や奉安殿に祀られている姿を見ることはあるが、祖納のミリク起こしのように面を被せるところを公開しているのはとても珍しい。

生生流転|Us 4 IRIOMOTE THE MOVIE |世界自然遺産に登録された西表島を舞台にしたドキュメンタリー映画

石垣金星さんのうたう、でぃんさー節 と 安里屋ユンタ

西表島の文化力 金星人から地球人へ」(南山舎)

西表島・祖納 2013年10月1日、2日撮影
#石垣金星
#KinseiIshigaki
#祖納節祭
#シチ
#ミリク起こし
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石垣金星

7月26日(土)

 訃報が続く。1978年に大ヒットした「フィール・ソー・グット」で知られるフリューゲルホルン、トランペット奏者のチャック・マンジョーネが今月22日に亡くなったそうだ。84歳だった。
 沖縄初の大型テーマパーク「ジャングリア沖縄」が昨日の午前9時15分、今帰仁村に開業したそうだ。これまでも通勤時間帯や祝日は国道58号の渋滞で路線バスの運行に遅延が出たりしていたが、ジャングリアの開業で渋滞が酷くならないかちょっと心配。

◯電気グルーヴ

 1980年代の後半、雑誌『宝島』の撮影を時々していたが一番最初に撮影したアーティストが人生だった。人生は電気グルーヴの前身のバンドで、石野卓球が高校2年生の時に地元静岡で結成したバンドだった。撮影したのはライヴではなくて、渋谷の丸井でのイヴェントだったかな?
 それから、雑誌『ポップティーン』で、電気グルーヴ対ヤンキーの女の子という企画があって2回ほど撮影している。最後は和解して電気グルーヴのライヴに女の子たちが招待され、確か楽屋で一緒の記念写真を撮った。当時のポップティーン読者には、ちょっとヤンキーな女の子やパンクスの女の子たちも多かった。
 掲載した写真は、1991年11月17日渋谷公会堂でのライヴ。『ミュージック・マガジン』の「CONCERT PICUP」というカラーグラビア・ページでの撮影だった。wikiによると1990年にアルバム『662 BPM BY DG』でインディーズ・デビュー、1991年にシングル「RHITHM RED BEAT BLACK」でメジャー・デビューということなので、まだソニーからメジャー・デビューして間もない頃のステージだ。コンサート評は田口史人さんが担当しており、
「76基のスピーカー(そのうちの半分は自分達に向いている)から溢れ出す轟音の中で、走り回り、歌いまくり、喋りまくる。気分は常に全開。だからこそ、見ている方もやってる方も爽快だ。ビブラストーンやボアダムズを見た感じと似ている(まぁ電気グルーヴが彼らに対抗できるのは体力ぐらいだけど)。確かに器用とは言い難いし、稚拙さも拭えないが、変にまとめずに、このままハチャメチャなパワーをムキ出しに突っ走っていった方だ得難い個性につながると思う。今は何より、卓球の音楽に対する態度を熱烈に支持したい」と、そのエネルギー溢れるステージに好意的だ。
 現在のメンバーは石野卓球とピエール瀧の2人だけになっているようだが、砂原良徳(まりん)や若王子耳夫なども在籍していた。掲載した写真は砂原良徳らがいた頃だろう。
 電気グルーヴの公式ウェブサイトに掲載されているプロフィールを引用させてもらう。
<1989年、石野卓球とピエール瀧らが中心となり結成。1991年、アルバム『FLASHPAPA』でメジャーデビュー。 1995年頃より、海外でも精力的に活動を開始。 2001年、石野卓球主宰の国内最大級屋内ダンスフェスティバル”WIRE01″のステージを最後に活動休止。それぞれのソロ活動を経て、2004年に活動を再開。 以後、継続的に作品のリリースやライブを行う。 2015年、これまでの活動を総括したドキュメンタリームービー「DENKI GROOVE THE MOVIE?-石野卓球とピエール瀧-」(監督・大根仁)を公開。 2016年、20周年となるFUJI ROCK FESTIVAL‘16のGREEN STAGEにクロージングアクトとして出演。 2019年、結成30周年を迎えた>

YouTubeから「Shangri-La/電気グルーヴ」 「人生 (電気グルーヴ) - 第二回ナゴム総決起集会

電気グルーヴ 公式ウェブサイト

石野卓球 公式ウェブサイト

ピエール瀧 Instagram

渋谷公会堂 1991年11月17日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1992年1月号
コンサート評は田口史人さん
#電気グルーヴ
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#DenkiGroove
#石野卓球
#TakkyuIshino
#ピエール瀧
#PierreTaki
#砂原良徳
#YoshinoriSunahara
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電気グルーヴ
コーネリアス

◯コーネリアス

 コーネリアスこと小山田圭吾さんは、wikiによると和田弘とマヒナスターズのリード・ボーカルだった三原さと志(本名は小山田晃)さんと、元妻・伊都子(田辺靖雄の姉)さんの長男として1969年に生まれた。
 1989年にフリッパーズ・ギターでデビューするが、1991年、3rdアルバム『DOCTOR HEAD’S WORLD TOWER~ヘッド博士の世界塔~』をリリース後にバンドは解散し、1993年よりソロ・ユニットCornelius(コーネリアス)として活動を始める。
 コーネリアスを撮影したのは、3枚目のスタジオ・アルバム『ファンタズマ』のリリースを控えた、1997年7月だった。『ミュージック・マガジン』での取材で、インタヴュアーは北中正和さん。このアルバムは特殊パッケージに特製イヤフォンの付いた初回限定版が8月6日、通常盤が9月10日に発売されている。発売はポリスター内にあった、小山田圭吾主宰のレコード・レーベル、トラットリアから。

 このレーベルからは1992年のスタートから2002年に終了するまでの10年間で、コーネリアスをはじめ思い出波止場、カヒミ・カリィ、ROVO、嶺川貴子他様々なアーティストの作品、およそ250点がリリースされている。
 『ファンタズマ』はコーネリアスの作品として初めてアメリカのインディーズ・レーベル、マタドール・レコードからもリリースされたアルバムで、世界21カ国で発売された。この頃より、ツアーなどを含む海外での活動が盛んに行われるようになり、1999年にはアメリカのロック・バンド、ザ・フレーミング・リップスとコーチェラ・フェスティバルやレディング・フェスティバルなどを含むアメリカ・ヨーロッパツアー、2002年にはフランスのバンド、エールとグランストンベリー・フェスティバルなどを含むヨーロッパツアーを行なっている。
 ソロ以外でも2009年からオノヨーコと息子ショーン・レノンらと共にYOKO ONO PLASTIC ONO BANDで、2011年から女性ボーカリストSalyuと多重録音をコンセプトとしたsalyu x salyuで、2016年から高橋幸宏、砂原良徳、テイトウワ、ゴンドウトモヒコ、LEO今井らと結成したバンド、METAFIVEなどでも活動している。
 さて、小山田さんを巡っては障害のある友達をいじめていた過去を『ロッキン・オン』や「クイック・ジャパン』のインタヴューで悪びれることなく語っていたことが問題となり、2021年の東京五輪開会式の楽曲担当辞任や、NHKの担当番組放送中止などの騒動が起こった。掲載された雑誌の発売は1994年~1995年頃なので25年も前の発言だが、発端となったと思われる孤立無援のブログ「小山田圭吾のいじめを次世代に語り継ぐ」の記事はすでに削除されている。このブログの記事の内容はそれまでも周期的にネットで話題になっていたそうだが、東京五輪という大規模イベントを前に大炎上したのだろう。
 当時、小山田氏の楽曲を開会式に使わないというのは正しい判断だと思った。オリンピック開会式で使われる曲は、テレビで開会式を観なくてもニュース番組やダイジェスト番組で流れる可能性があり、彼の作った音楽を聴きたくないという人の耳に届く可能性がある。彼が音楽を担当したNHKの教育番組もそうだろう。2019年に麻薬取締法違反で逮捕されたピエール瀧の時のようにCDや映像商品の出荷停止や回収などが行われたとしたら問題だが、そういうことはなかったと記憶している。
 CDやコンサートなどは、聴きたい見たい人が主体的に選べるので制限されるべきではないと思っている。

YouTubeから「STAR FRUITS SURF RIDER/Cornelius」 「METAFIVE - The Paramedics (Live at METALIVE 2021)」 「【昭和のテレビ】【No.24】CM編  森永製菓ー小枝  小山田圭吾(女装)小森のおばちゃま【懐かしいCM】

小山田圭吾 公式ウェブサイト

目黒・青葉台スタジオ 1997年7月13日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1997年9月号
インタヴュアーは北中正和さん
#コーネリアス
#Cornelius
#小山田圭吾
#KeigoOyamada
#アーカイブ

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7月24日(木)

 暑い!北海道の各地で観測史上1位を更新する暑さで、北見市で最高気温が39℃を記録した。この暑さでJR北海道は、気温の上昇で根室線のレール温度が上がっているとして、ゆがみを防ぐために普通列車8本を運休すると発表した。ヤフー天気を見ると那覇が29℃と全国で一番気温が低い。奄美大島の名瀬も31℃。沖縄、奄美は今日は雨というのもあるが、周りが海に囲まれているので35℃を超える猛暑になることはほとんどない。沸騰する日本、これからは避暑に行くなら沖縄か?
奥菜恵

◯奥菜恵

 奥菜恵さんを撮影したのは、『ミュージック・マガジン』の松尾潔さんの連載「松尾潔の照明係」だった。松尾さんの記事によると、街中でのスカウトを経て芸能界に入り、92年秋にフジテレビと松竹映画がメディアミックスとして仕掛けた『パ★テ★オPART1~3』に13歳で女優としてデビューしている。芸名の奥菜恵が珍しいことから、この芸名が役名で使用されたそうだ。ちなみにwikiによると本名は非公開となっている。
 1995年8月にはシングル「この悲しみを乗り越えて」で歌手としてもデビューし、9月にはアルバム『BLOSSAM』をリリースしている。以来、この取材をした1998年2月までにシングルとアルバムを合わせて10枚を超す作品を発表していた。
 松尾さんがこの連載で彼女にスポットライトを当てた理由が、ある雑誌で見かけた奥菜恵の自宅勉強部屋の写真に、ラッパーのアイス・キューブのポートレートが飾られていて、その記事では「田中フミヤとトリップ・ホップも好き」と発言していたのが気になったからのようだ。

 そのことを尋ねられると、「あ、それは本当です。中学生の時はそういう音楽が好きでした」と答え、「アイス・キューブなんかは、中学の時、創作ダンスのための曲を決めるためにクラスの友だちが持ってきたのを好きになって。今はああいうの全然聴いてないんです」と話していた。
 1979年生まれの彼女は、この取材をした時はまだ高校生だった。「今はグリーン・デイとか好きです。本屋さんに行って自分で雑誌読んで知ったりするんです。洋楽だけじゃなくてチャラさんとかも聴きますけど」と話しながら、でも今はそんなに聴く時間がないとも。
 高校を卒業すれば時間もできるのでは?と松尾さんが聞くと、
「ええ、私、学校の勉強はちゃんとやっていたんです。卒業したらその分の時間が生まれますよね。いろんなことやりたいです」
 ところで、この取材では松尾さんのインタヴューより、撮影の方が先になった。松尾さんが記事でも書いているが、車で取材場所に向かおうとしたら渋滞に巻き込まれ、急いで引き返して電車に乗ろうと駅に行ったら改札も混雑していたそうで取材の集合時間を30分ほど遅れてしまった。そこで、松尾さんが到着するまでフォトセッションを先にすることになった。
 松尾さんのこの連載の撮影は4回ほど担当したが、この時ほどではないが、集合時間ギリギリか、集合時間を少し遅れて到着することが多かった気がする。松尾さんは当時、海外へ頻繁に取材に行かれていたようだが、担当編集者の高橋道彦さんと「よく飛行機に乗り遅れることなく帰ってこれるな~(笑)」と話していた。

YouTubeから「そんなの悲しいね/奥菜恵」 「CM '96年 奥菜恵 グリコチョコレート絹練り

奥菜恵 公式ウェブサイト

奥菜恵 Instagram

渋谷・コロムビア代々木公園ビル 1998年2月21日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1998年4月号
インタヴュアーは松尾潔さん
#奥菜恵
#MegumiOkina
#松尾潔の照明係
#アーカイブ

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はいだしょうこ

◯はいだしょうこ

 NHK『おかあさんといっしょ』の第19代うたのおねえさん。
 父親はミュージカルアカデミー・ドリーム学院長で、立川市地域文化振興財団評議委員の拝田正機氏、母親は声楽家でミュージカルアカデミー・ドリーム声楽コース講師の由見子さん。
 中学生の頃から宝塚歌劇団を目指し、高校2年生の時に宝塚音楽学校に合格。国立音楽大学附属高等学校声楽科を中退し入学。
 1998年に卒業後、千琴ひめかの芸名で宝塚歌劇団に入団。宙組公演『シトラスの風』で初舞台を踏み、その後、星組に配属され主に娘役で活躍した。
 2001年には星組公演『ベルサイユのばら2001』で、普通は最低6年以上でないと務められないとされるエトワールを、異例の入団3年目で務めた。
 2002年の秋、宝塚歌劇団を退団。2003年4月7日から2008年3月28日までの5年間、『おかあさんといっしょ』のうたのおねえさんとして活躍。芸名を本名のひらがな表記「はいだしょうこ」に改名した。
 以上がwikiを参考にまとめた彼女のプロフィールだ。

 はいだしょうこさんを撮影したのは、「NOPETNOLIFEペットと私」という健康雑誌の連載だった。NHKの『おかあさんといっしょ』は普段見る習慣がないので、この撮影があるまで彼女のことはほとんど知らなかった。たぶん、担当編集者から「うたのおねえさん」だったということを教えてもらい、撮影依頼のファックスに書かれていた「笑っていいとも!」にレギュラー出演されているという情報くらいで撮影に向かった。
 撮影場所はご自宅で、彼女の部屋の中だった。ご年配の芸能人をご自宅で撮影することはあったが、まだ若い女性の方をご自宅でというのは、この連載では初めてだった。迎えてくださった彼女のファッションも部屋の中もなんだかファンシーだった。
 撮影したのは2010年1月で、この年の3月に奄美大島へ移住するため川崎のアパートを引き払うので連載の撮影を降りることにしていた。はいださんが自分が撮影する連載の最後だった。
 取材が終わり、はいださんの家からタクシーで国立駅へ行き、担当編集者とお疲れ様のランチを食べた。駅前を少し歩くとインド料理屋とロシア料理屋とタイ料理屋のある多国籍な一角があり、少し悩んでロシア料理にした。

YouTubeから「にじ きっと明日はいい天気/はいだしょうこ」 「ベルサイユのばら2001 エトワール:千琴 ひめか」 「スプーの絵描き歌 しょうこお姉さん

はいだしょうこ オフィシャル・ブログ

はいだしょうこ Instagram

ミュージカルアカデミー・ドリーム 公式ウェブサイト

東京・国立市 2010年1月14日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2010年5月号
#はいだしょうこ
#拝田祥子
#ShokoHaida
#千琴ひめか
#HimekaChikoto
#NOPETNOLIFEペットと私
#うたのおねえさん
#タカラジェンヌ
#アーカイブ

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7月22日(火)

 永く闘病生活を送っていた金尾義郎くんが、今月13日に亡くなった。
 こまめに更新されていたfacebookの書き込みがしばらく途絶えていて、もう居ないのかな?と感じた17日の夜、久しぶりに彼のアルバム『夢からさめたら』を聴いた。エアコンも扇風機もない暑い部屋の窓を開け、照明も消して聴いていたら冷たい風が突風のように吹いて一瞬たじろいだ。
 翌日、facebookのラインに彼の訃報を伝える書き込みが流れてきて、夜にはかわさきFMで毎週金曜にパーソナリティーを務めていた『金尾よしろうの音楽魂』のアーカイブ映像がYouTubeにUPされ、正式に訃報が伝えられた。13日の明け方に亡くなり、17日に家族葬で送ったという。17日の突風は彼の仕業だろうか。
 1998年の暮れから2004年ごろまでフロッピーディスクに記録するカメラ、ソニーのマビカを持ち歩いていて、その中には彼や彼の家族、友人らと過ごしたプライベートな写真もいっぱい入っている。療養生活の気分転換になればとセレクトしては何回かに分けてメッセンジャーで送っていた。最後に送ったのは先月の25日で、<思い出の写真ありがとう>というコメントが返ってきた。
 昨年10月16日に彼のアーカイブを作った時、ライヴ写真は1980年代後半のモータース時代のものをUPしたが、ハードディスクから2000年代後半の金尾義郎BANDの写真を引っ張り出してアーカイブに追加した。こちら

 横浜に引っ越し、ライヴハウス「グッピー」を拠点に活動を開始した金尾義郎BANDは3回バックメンバーが変わっている。今回UPしたのは自分が知っている最後のメンバーで、ギターが酒井泰三、ベースがナスノミツル、ドラムが嶋田吉隆という布陣だった。
 掲載した写真の21~31枚目は2006年9月の横浜・7thアベニュー、32、33は2007年8月の寿町フリー・コンサート、34~36枚目は2009年7月の横浜・グッピー。

 1981年にエピック・ソニーから、金尾義郎&WESTでアルバム『ON THE WIND』をリリースしてデビュー。1988年に徳間ジャパンからMOTORSとしてアルバム『LONG DISTANCE』を発売。2014年に自身のレーベルKINDAMA recordsから金尾義郎名義のアルバム『full bodied』をリリース。そして昨年、10年ぶりの新作『夢からさめたら』を発表した。音楽活動を休止していた時期があるとはいえ、デビューから44年で発表したアルバムが4枚はやはり寡作だろう。
 2000年代の初め頃、アルバム発売に向けて録音していた時期があり、その時の音源を収めたCD-Rが2枚ある。1枚は『Early Days』という11曲入りで、もう一枚は『Demo Tracks』とタイトルがついた6曲入り。『Early Days』のジャケット写真は『夢からさめたら』に使われている写真と同じ日に撮影した自分の写真、『Demo Tracks』のジャケットはファッション・カメラマンの廣田治基さんが義郎くんの家の庭で撮ったものだ。
 エピック・ソニーの『ON THE WIND』はレコード棚にあるが、徳間ジャパンの『LONG DISTANCE』がない。レコードの発売前にカセット・テープで渡されたのかもしれない。音は見つからなかったが、販促用のポスターが出てきた。裏にはプロフィールやメンバー紹介が書かれている。一ヶ所付箋のついている文章がある。自分が書いた文章だが、確か『レコード・マンスリー』という雑誌の新譜紹介記事として書いたものを、レコード会社がそのまま宣材に流用したと記憶している。

<遅れてきたナチュラル・ロッカー”MOTORS”徳間ジャパンよりデビュー>
生きていく原動力ーーといった意味でつけられたバンド・ネーム”MOTORS”。シャープ&タイトなサウンドにのせて歌われる詞は、街に生き、そして夢見る若者の日常だ。なにかを追いつづけたことのある人間ならば、誰でも一度は味わう挫折、そして眠れない夜・・・・・。リーダーでありボーカルの金尾義郎は、そんな街に生きる若者の気持ちを、わかり易い言葉で歌う。6年前に、エピック・ソニーより金尾義郎&WESTという名で彼らは一度デビューしている。その後メンバーチェンジをへてMOTORSとなり現在まで、地道にライブ活動を行ってきた。「成功した友達がTVでひきつった笑いをみせている時、俺は工場で泥まみれで生きていた。しかし、俺は自分の言葉とメロディーを手に入れた・・・」こんな彼らだから、わかり易い言葉で綴られた詞に説得力があり、強さがある。デビュー・アルバム『LONG DISTANCE』のなかに都会で生きている自分自身を見つける人が、きっとたくさんいると思う。都会の中でアイデンティティを求め、歩く人が・・・。

金尾よしろうの音楽魂 特別ゲスト 山本恭司・白浜久 2025.7.18

義郎くんの音源CD-R
↑左が『Early Days』、右が『Demo Tracks』。

 ロッキング・オン・グループ代表・渋谷陽一さんの訃報が伝えられた。昨日が中村とうようさんの命日で、とうようさんと渋谷さんの命日が続くのか!?と思ったら、亡くなられたのは今月14日だそうだ。
 とうようさんが享年79歳、渋谷さんが享年74歳か。もう二人とも丸くなって、あっちで論争が勃発することもないかな。

 この他の気になった記事を備忘録として。
「Tシャツ販売が俺たちの主な収入源だ」 エクソダスのゲイリー・ホルトがメタルバンドの経済的現実を語る
参政党、さや氏―異色の履歴・不遇の遍歴
新興政党なのに…参院選当選者ゼロの石丸新党「再生の道」はもはや“再生不能”

レイ・カーネ

◯レイ・カーネ

 ハワイの名高いスラックキー・ギター奏者で、日本のスラックキー・ギターの名手・山内雄喜さんの師匠にあたる。
 レイ・カーネさんを撮影したのは1996年9月1日に青山CAYで開催された山内雄喜さんのコンサートの時で、この時にハワイから来日してゲスト出演された。その時の写真は『ミュージック・マガジン』1996年10月号に掲載され、三田真さんがコンサート評を書いている。カーネさんが登場する場面を引用させていただくと、
<休憩を挟み、いよいよレイ・カーネだ。客席後方からステージまでは車椅子だし、ステージでも鼻に管を通して酸素を吸入し続けていた(レイは胸を患っている。ちなみにこの日は全面禁煙)。しかし、ステージでのレイは、元気そのものに見える。歌はさすがにきつい感じもするが、そんなことを気にするおれではない。レイはサム・ピックを使って弾いているため、そのギターからは、指弾きによる高音部の優しさと、サム・ピックによる低音部の力強さが、同時に感じられる。聴いているだけでホッとするというか、ホロリとするというか、そんな感じだ。奥さんのイローディアの歌もいい>

 また、写真は翌97年8月に出版された山内さんとサンディーさんとの対談集『ハワイ音楽パラダイス~虹のアロハスピリット』(北沢図書出版)にも使われている。対談の合間に中村とうようさんのコラムが挟まれていて、そのコラムの中でレイ・カーネについても書かれている。少し長くなるが全文を引用させていただく。
<ギャビー・パヒヌイ亡きあと、スラックキーの最高のベテランとして尊敬されているのがカーネさん。本名は、レイモンド・カレオアロハポイナオレオヘレマヌ・カーネと言い、長々しいミドルは「愛の声はどこから来たのか忘れられることはないが、小鳥のように飛んで行ってしまう」という意味だそうだ。
 25年にカウアイ島のエレエレに生まれ、オアフ島のナナクリで育つ。父は漁夫だった。8歳のときからニイハウ島のアルバート・カウェロとヘンリー・カプアナにスラックキー・ギターを学び始める。当時の年配のギタリストたちは人に教えるのを嫌ったが、レイは海に潜るのが得意だったので、魚を取って彼らのところに持って行っては交換にギターを教わったという。戦争中は5年も兵役に服したせいもあってギターから遠ざかっていたが、47年にギャビーに刺激されてスラックキーを再開した。
 61年、トレイドウィンド・レコードからレナード・クァンとふたりで1枚のアルバムを出したのがカーネの最初のレコーディングで、同じレーベルから74年にも『ナナクリのレイモンド・カーネ』を出している。87年には映画『ハワイの虹』に出演、その中のライヴ演奏がラウンダーでLP化された。そして94年にダンシング・キャットから出したCDがわが国でも発売され、ファンが増えた。82年以来、病気をかかえる身だが、持ち前の明るさで頑張っている>
 wikiによると1987年に全米芸術基金からナショナル・ヘリテージ・フェローシップを受賞しているそうだ。これはアメリカ合衆国政府による民俗芸術と伝統芸術における最高の栄誉であると書かれている。
 残念ながらカーネさんは、2008年2月27日に亡くなられてしまった。
 来日時に同伴されていた歌手で妻のイローディア・カーネさんの情報はあまり見つけられなかったが、リスペクトレコードの彼女のアルバム『トリビゥート・トゥ・レナ・マシャード/イローディア・カーネ』を紹介したサイト(https://www.respect-record.co.jp/discs/res29.html)に、<現在までに、1988年6月リリースのファースト・アルバム「イローディア・カーネ」、1995年5月リリースの「トリビュート・トゥ・レナ・マシャード」、2007年7月リリースの「へ・レオ・オハナ」の3枚のソロ・アルバムをリリースしています>と書かれている。
 掲載した写真の5枚目は、左から山内雄喜さん、レイ・カーネさん、イローディア・カーネさん、オジー・コタニさん。

YouTubeから「Ray Kane-1 Ray Kane Tha's Slack Key Guitar
Raymond Kane / Freight and Salvage

青山CAY 1996年9月1日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1996年10月号
コンサート評は三田真さん
『ハワイ音楽パラダイス/山内雄喜・サンディー著』(北沢図書出版)
#レイカーネ
#RaymondKāne
#レイモンドカレオアロハポイナオレオヘレマヌカーネ
#RaymondKaleoalohapoinaoleohelemanuKāne
#イローディアカーネ
#ElodiaKāne
#山内雄喜
#YukiYamauchi
#オジーコタニ
#OzzieKotani
#スラックキーギター
#SlackKeyGuitar
#アーカイブ

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オジー・コタニ

◯オジー・コタニ

<若手スラックキー・ギタリストのナンバー・ワンであるオジーは、山内さんともサンディーさんとも親しい友達。名前からも写真でも見当がつくとおり、日系ハワイ人で、たしか三世だと本人が言っていた。とても温厚な人物であり、まじめで研究熱心なことも定評があるようだから、将来のスラックキー界を背負ってくれるだろう。演奏はフォー・フィンガーを駆使した華麗なテクニックの持ち主である。
 56年生まれ。ホノルル近郊で育ち、少年時代はウクレレをいじっていたが、ハイスクールのころラジオでケオラ・ビーマーのレコードを聞いてスラックキーに興味を抱き、ケオラのテープを聞いて独習した。ハワイ大学の教育学部に入って、75年にピーター・メディロスのスラックキー教室で、さらにその翌年からはサニー・チリングワースに弟子入りしてスラックキーの技術を学んだ。88年には最初のアルバム『クラシカル・スラック』をパシフィック・サウンド・デザインから発売。95年にダンシング・キャットからCDを出し、これは日本でも発売された。96年には山内さんのコンサートにレイ・カーネとともに出演した>

 この文章は1997年8月に出版された山内雄喜さんとサンディーさんの対談集『ハワイ音楽パラダイス~虹のアロハスピリット』(北沢図書出版)に収載されている、中村とうようさんのコラムから引用させてもらった。
 掲載した写真は文章にある山内さんのコンサートにレイ・カーネとともに出演した際のものだ。このコンサートについては、『ミュージック・マガジン』1996年10月号で三田真さんがコンサート評を書いている。最初は山内さんのソロ、次にオジー・コタニと山内さんのデュオ、そしてオジーのソロ、レイ・カーネのソロと続いて最後は出演者全員にサンディーも加わってのステージ。三田さんは、
<オジーのギターは師匠のサニー・チリングワースの形見だというオールド・マーティンだ。マーティンの深味のある低音部を右親指で弾くことによって、硬派な優しさといった感じの音色が出ているのだが、それはそのままオジーの音楽の説明にも当てはまる。アラニ さんのシャキッとしたギターとの混じり合い方が、何とも言えぬいい雰囲気を醸し出していた>と書いている。
 wikiによれば1988年にファースト・アルバム『クラシカル・スラック』、1995年に『カニ・キ・ホアル』、2002年に『トゥ・オナー・ア・クイーン:リリウオカラニの音楽』、2005年に『パカ・ウア(雨だれ)』、2008年に『ホイヒ(敬意)』をリリースしている。また、2000年にはデニス・ラッドと一緒にスラックキー・ギターの初教則本『ギター演奏ハワイアンスタイル:キ・ホアル、スラックキーのためのインストゥ流メンタルメソッド第1巻』を出版。2007年には教則DVD『オジー・コタニとハワイアンスタイル:キ・ホアル第1巻』、2009年には『オジー・コタニとハワイアンスタイル:キ・ホアル第2巻』をリリースしている。

YouTubeから「Kamalani O Keaukaha/Ozzie Kotani」 「Daniel Ho/Ozzie Kotani - Paka Ua ( The Descendants O.S.T)

オジー・コタニ 公式ウェブサイト

オジー・コタニ YouTubeチャンネル

青山CAY 1996年9月1日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1996年10月号
コンサート評は三田真さん
『ハワイ音楽パラダイス/山内雄喜・サンディー著』(北沢図書出版)
#オジーコタニ
#OzzieKotani
#スラックキーギター
#SlackKeyGuitar
#アーカイブ

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7月20日(日)

 午後から参議院選挙の投票へ。夜8時からインターネットで参院選速報を見ている。与党の過半数確保が難しい情勢と報じられているが、代わりに国民民主と参政党が票を伸ばしてはあまり意味がない。
NHKの参院選 特設サイト
朝日新聞の参院選 開票速報
東京新聞の参院選 開票速報
毎日新聞の参院選 開票速報

◯ハシケン

 レコード評を別にすれば、『ミュージック・マガジン』にハシケンの記事が最初に掲載されたのは2002年5月号ではないだろうか。<Tune In!>という巻頭グラビアページで、高橋道彦さんが「ハシケン=大所帯バンドを率いて”日本のアフロ・ビート”を奏でる絶好調ヴォーカリスト」という記事を書き、自分が撮影した下北沢クラブ・キューでのライヴ写真が添えられている。
 2000年代の初め、プライベートで一番ライヴに足を運び、新譜を買い求めていたのがハシケンだった。RIKKIのライヴを吉祥寺のスターパインズ・カフェへ見にいき、ライヴ終了後の打ち上げの席に居た彼にライヴのフライヤーを渡されたのがキッカケだった。最初に見たライヴのドラムはツノ犬さんだったが、レギュラーではドラムが宮田繁男(元オリジナル・ラヴ)、ベースに松永孝義(元ミュートビート)、ヴァイオリンの太田恵資、キーボードに佐藤五魚、ペダルスティールが高田連、これにサックス、トランペットそれぞれ2人のホーンセクションが加わる。そしてボーカルのハシケンは曲によってギター、三線、ジャンベを持ち替える。その大所帯バンドが繰り出す、強靭なグルーヴと分厚いサウンドに魅了された。バンドとしては一番勢いのあった頃で、道彦さんも記事の中で、
<実は今、ハシケンは絶好調だ。先月号でライヴ評を書いたイヴェント「夜ネヤ、島ンチュ、リスペクチュ!!」でのハシケン・バンドを観た編集部・久保も一発で気に入り、めでたくここに早くも単独で再登場する次第。聞けばカメラマンのきはらさんも、以前観たステージで一発でハマり、それ以来気にかけているという。かくいうぼくも一発ハマり組。奄美民謡「ワイド節」「稲スリ節」のパワフルなカヴァーを収録した自主制作ミニ・アルバム「Hasiken Presents “WAIDO “』を聴いて圧倒され、昨年6月に行われた奄美でのハシケン・ライヴに押しかけたほどなのだ>と書いている。
 ただ、10人以上の大所帯=フルバンドを維持していくのは大変で、ソロで全国のライヴハウスをまわって稼いで、フルバンドでのライヴに補填していたと本人から聞いたことがある。2003年7月には待望のフジロックフェスティバルにフルバンド編成で出場しているが、徐々にソロやユニットでの活動が多くなった気がする。
 奄美大島の唄者・中村瑞希とのユニット「中村瑞希&ハシケン」、SAKEROCKの元トロンボーン奏者で俳優の浜野謙太とのユニット「ハシケンハマケン」、ヴァイオリニストの江藤有希とのユニット「ハシケンx江藤有希」までは追いかけていたが、それ以降は自分が奄美大島に移住したこともあって追いきれなくなってしまった。2006年から奄美観光大使に就任したハシケンのライヴは自分が移住していた期間にも奄美大島で何度か行われたが、その頃は自分の興味が音楽よりも琉球弧の祭祀に移っていたというのもある。
 それでもハシケンに最後に会ったのも奄美大島だった。2012年のある日、ダイエー(現在はイオンプラザ)にスニーカーを買いに行ったら、小さな子供を連れたハシケンとバッタリ会った。東日本大震災を経験し、家族で奄美大島に引っ越してきたという。こちらは奄美大島に2年住んで、そろそろ沖縄に引っ越そうとしていた頃で、入れ違いのようになった。
 wikiによるとハシケンは、2021年に奄美大島から沖永良部島へ拠点を移したようだが、変わらず日本各地のライヴハウスをまわっているようだ。
 添付した写真は『ミュージック・マガジン』に掲載した下北沢クラブ・キューでのライヴと、2003年1月に当時自分が住んでいた宿河原のアパートで撮ったアーティスト写真。
 残念なことに、フルバンド時代のハシケンを支えたベースの松永孝義さんは2012年7月12日に、ドラムの宮田繁男さんは2014年3月30日に亡くなられてしまった。

YouTubeから「ハシケン フルバンドスタイル!!! ”Shake me, Shake you”20101124」 「中村瑞希&ハシケン TSUMUGI (Full Ver.)」 「美しい島(くに)/ハシケン

ハシケン 公式ウェブサイト
https://hasiken.com

下北沢クラブ・キュー 2002年3月27日撮影
初出『ミュージック・マガジン』2002年5月号
コンサート評を高橋道彦さん
川崎市宿河原 2003年1月23日撮影
#ハシケン
#Hasiken
#橋本兼一
#KenichiHashimoto
#奄美観光大使
#アーカイヴ

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ハシケン
山内雄喜

◯山内雄喜

 スラックキー・ギターの名手、アラニ (ハワイ語でオレンジの意味)さんこと山内雄喜さんを最初に撮影したのは、1996年9月1日に青山CAYで行われたコンサートの時だった。このコンサートには山内さんの師匠であるレイ・カーネさん、オジー・コタニさんがゲスト出演された。撮影したライヴ写真は『ミュージック・マガジン』1996年10月号に掲載されているが、撮影依頼は編集部ではなく、中村とうようさんからだったかもしれない。
 山内さんとその仲間たちが結成したハワイアン・バンド、パイナップル・シュガーが1979年にポリドールから発表したLP『虹のアロハ・スピリッツ』をCD化してリリースするという話があり、とうようさんがスーパーバイザーを務めていた。とうようさんから、CDのジャケットに使うかもしれないのでコンサートの始まる前にポートレートを撮って欲しいと頼まれた。CDは翌97年6月にリリースされ、撮影したポートレートは青空の背景と合成されてジャケットに使用されている。

 また、97年8月に出版された山内さんとサンディーさんとの対談集『ハワイ音楽パラダイス~虹のアロハスピリット』(北沢図書出版)にも写真が使われていて、こちらの本には対談の合間にとうようさんのコラムが挟まれており、企画・出版の仕掛け人はとうようさんではないだろうか。
 本の著者紹介に掲載されている山内さんのプロフィールを引用させてもらうと、
<1948年、東京生まれ。少年時代にハワイ音楽、特にスラックキー・ギターの素朴な味わいにひかれ、この謎の奏法に独学で挑戦。大学卒業後、ハワイに渡り、レイ・カーネに師事。帰国してからは家業のこんにゃく屋を継ぐかたわら、七五年にパイナップル・シュガーを結成。七九年にポリドールからLP『虹のアロハ・スピリット』をリリース。以後も地道な活動を続け、九六年には師匠レイ・カーネと共に東京でステージに立った>
 家業のこんにゃく屋さんは、もう廃業されたと聞いた。尚、スラックキー・ギターというのは楽器の種類ではなく、オープン・チューニングによる調弦と、その調弦を用いた演奏方法で、使用するのは普通のフォーク・ギターだ。
 山内さんはこの青山CAYでのコンサート以降、RIKKIのレコード発売記念ライヴ高木ブーさんとのウクレレ対談、マレーシアのアコーディオン奏者S・アタンとのレコード発売記念ジョイントライヴなど様々な場面で撮影させていただいている。
 一番最後に仕事で撮影させていただいたのは、ライス・レコードから2002年6月30日に発売されたCDアルバム『Slack Key Party』のジャケット写真。木陰にロッキング・チェアを置き、ギターを抱えた山内さんが座っている写真だが、これは代々木公園で撮影している。この頃、山内さんは小錦さんのバンドに参加していてNHKの収録があるというので、NHKに近い代々木公園での撮影となったと記憶している。
 山内さんの公式サイトを見るとライヴだけではなく、ワークショップやレッスンも積極的に行われているようだ。ちなみに、中村とうようさんも山内さんからレッスンを受けていたことがある。とうようさんの著書『ポピュラー音楽の世紀』が岩波書店から発売になった時にお祝いのパーティーが開かれ、その時にギター演奏を披露されたこともある。

YouTubeから「山内 雄喜 Yuki "ALANI" Yamauchi 2012.10.27 Slackkey Festival HAWAII」 「山内雄喜 "Pua 'Alani~Sanoe”」 「山内雄喜 古希パーティー”Rhapsody Lani ”Alani and Sandii

山内雄喜 公式ウェブサイト

青山CAY 1996年9月1日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1996年10月号
コンサート評は三田真さん
初出『Aloha Spirit of Rainbow/Yuki Yamauchi & Pineapple Sugar』(ポリドール)
『ハワイ音楽パラダイス/山内雄喜・サンディー著』(北沢図書出版)
#山内雄喜
#YukiYamauchi
#アラニ
#Alani
#スラックキーギター
#SlackKeyGuitar
#アーカイブ

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7月18日(金)

 今日、高岡が37.1℃で全国1位の暑さだった。気象台がようやく、北陸地方が梅雨明けしたとみられると発表した。平年より5日、昨年より13日早いというが、体感的にはもっと早くに梅雨明けしていた気がする。
  今日は「可愛いベイビー」などのヒットで知られるシンガー、コニー・フランシスと、俳優で冒険家の和泉雅子さんの訃報が流れてきた。

 参政党に関する記事が日毎に増えている。神谷党首や立候補者の言動の危うさに多くの人が気づいて、積極的に発信しだしたのだろう。
【資料】参政党関連FactCheck
「極端な思想の公務員、洗い出し辞めさせる」 参政・神谷代表が発言
「中国人留学生を優遇」はミスリード 日本人含む研究者対象の奨学金なのに 一握りの事例取り上げ誇張とは
参政代表、宮城県への謝罪拒否 水道事業巡る発言で【25参院選】
それでも参政党を選びますか
神谷氏の親族企業への900万円の支出が不記載に!

 この他の気になった記事を備忘録として。
政治資金1億円超、支出公開基準緩い団体に移動 自民・西田氏の国会議員関係政治団体、18年間で/移動先は「その他政治団体」支出不透明に
韓国検察、旧統一教会を家宅捜索 尹前大統領の妻を巡る不正疑惑
要注意! 選挙をゆがめる「フェイク情報」が大バズするワケ

 保守王国と言われる富山県で、自民党推薦の現職・堂故茂氏と、国民民主党の新人・庭田幸恵氏が接戦だそうだ。野党共闘で国民民主の候補に一本化した成果かもしれないが、国民民主は野党というより風見鶏な<よ>と<や>の間を行き来する<ゆ>党。立憲民主、共産、社民が共闘して誕生した候補なら一票を投じたいが微妙。政策的には共産党の坂本洋史だが、庭田氏に一票の方が参議院でも与党を過半数割れに追い込むチャンスが生まれる可能性はある。悩ましいところ。選挙区を放棄すると比例で2人投票できるというシステムなら悩まなくて済むのだが。
 昨日「どんな小さな問題にも耳をすませて取り組んで参ります。堂故茂でございます、堂故茂でございます」と国道8号線から選挙カーが訴えて走り去っていった。
 今年5月、堂故氏の地元である自民党氷見市支部で2015年から2023年にかけて党員リストに記載された157人のうち党費を支払っていなかった党員がいることが判明。2023年、堂故氏の私設秘書である前支部長が約100人分の党費28万円を肩代わりしていたことも発覚。党費の肩代わりが始まったとされる2015年当時の支部長は堂故氏自身である。
 現支部長は、この問題への調査結果の公表は正確な報告をしたいため参院選後に説明するというが、5月に発覚した自分たちの不祥事を解明するのにひと月以上もかかるのは事務能力・調査能力の欠如だろう。
 昨年、裏金議員で壺議員でもある自民党衆議院議員・田畑裕明氏の無断党員登録問題が発覚した際、富山市連は独自に調査することに消極的だった。結果、党内からも説明責任を果たしていないと批判されるほど稚拙な、田畑氏本人のあやふやな説明で終わってしまった。
 自民党が国会議員1人につき党員1000人の獲得を指示したのが2014年。氷見支部で党費を支払っていない党員が確認されたのが2015年から。無断登録という田畑氏ほど悪質ではないが、党費を肩代わりすることで党員を獲得した自民党議員が他にもいるのではないかという疑念はずっとある。
 富山県選挙管理委員会から配られた選挙公報に掲載されている、自民党公認どうこ茂氏の2つの約束の2つ目は、<政治への信頼を取りもどします 社会の一員として基本に立ち返ってルールを徹底して守ること、国民目線で改革を継続することをお約束します!>と書かれている。信頼を取りもどしたいなら、先ず取り組まなくてはならなかったのは当事者であり地元で起きた党費の肩代わり問題の調査・報告。この疑惑を解明してから立候補すべきだったろう。参議院選挙の後に報告すると言っているが、田畑氏の時のようにあやふやな説明でお終いにされそうで心配だ。

◯チャランガ・アバネーラ

 ダビッド・カルサード率いるハバナ出身のグループ。wikiによれば1988年にキューバの美術学校を卒業したばかりの若者たちによって結成されたそうだ。チャランガとは、フルートとヴァイオリンを中心にピアノ、ベースなどの編成で演奏されるラテン音楽のスタイル。
 彼らを撮影したのは1999年に来日した時で、掲載誌は『ミュージック・マガジン』1999年7月号。「ミミスマーー世界音楽事情」という連載で、この回は切石智子さんがダビッド・カルサードのインタヴュー記事を書いており、そのページにライヴの写真が使われている。
 以前はトラディショナルな演奏スタイルだったそうですね?という切石さんの質問に、
「そう。しかし92年に国内のマーケットにもっともっと進出したいと考えたんだ。僕達も若かったし、より若い層にアピールする時代性の伴ったバンドにしたかった。それで、バイオリンを一人にしホーンのフォーメーションを変え、初めから最後までアグレッシヴな曲構成を考え出した。まったく受け入れられないという危険のある一種の冒険だったが、運良くこれがヒットしてイサックやNGと並ぶトップ・グループの仲間入りをすることができたんだ」と答えている。
 その彼らのサウンドは切石さんの表現によると<従来のキューバン・サルサをよりハードかつダンサブルに推し進めたサルサ・ドゥーラの覇者>となる。ドゥーラはスペイン語でハードを意味するそうだ。
 93年のドル解禁と海外資本の参入により、キューバのミュージシャンの状況も変化したのでは?という質問には、
「その通りだ。海外のレーベルと契約することで非常に裕福になれるようになった。以前と違い、海外の演奏による収入も大部分をミュージシャン側が取れるしね。またロイヤリティも入り、自分の作品の権利を自分で持てるようになった。そういった意味では僕らの地位は向上したといえるのかもしれない。しかしその為、拝金主義なミュージシャンが増えたのも事実だ。本当はマテリアルではなく、内容が大切なのにね」と語っている。

YouTubeから「Dj Unic x David Calzado & La Charanga Habanera - Traicionera (Recap)] 「CHARANGA HABANERA Feat. EL CHACAL - Gozando En La Habana (Official Video HD)

チャランガ・アバネーラ Instagram
https://www.instagram.com/lacharangahabanera_oficial/

渋谷オンエアーイースト 1999年4月25日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1999年7月号
インタヴュアーは切石智子さん
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チャランガ・アバネーラ
ロス・ロボス

◯ロス・ロボス

 1987年に大ヒットした同名映画の主題歌「ラ★バンバ」で知られる彼らは、イーストLAにあるガーフィールド高校出身のデイヴィッド・イダルゴ(ボーカル・ギター・アコーディオン・ヴァイオリン)、セサル・ロサス(ボーカル・ギター)、ルーイ・ペレス(ドラム・ボーカル・ギター)、コンラッド・ロサーノ(ベース・ギタロン・ボーカル)の4人によって1974年に結成された。1978年には自主制作アルバム『Los Lobos Del Este De Los Angeles』をリリース。これは2000年にハリウッド・レコードから再発されているようだ。
 1980年代に入ってスティーヴ・バーリン(サックス・ハーモニカ・キーボード)が加入して5人編成のバンドとなり、以降、メンバー変更もなく5人で活動を続けている。ロスを拠点にする彼らは全員メキシコ系のアメリカ人で、メキシコのトラディショナルな音楽を取り入れながら独自のロックンロール・サウンドに昇華させている。

 彼らを撮影したのは1991年の来日時で、4月7日に渋谷クラブクアトロでライヴを、4月10日にインタヴュー撮影をしている。インタヴュアーは原田尊志さんで、デイヴィッド・イダルゴとルーイ・ペレスの2人に話を聞いている。
 話題はやはり前年にリリースされた、6枚目のアルバムとなる『ザ・ネイバーフッド』について。前作の『ピストルと心(原題 La Pistola Y El Corazón )』が全曲メキシコの歌だったのに対し、『ザ・ネイバーフッド』はロック色の強いアルバムになっていた。
 このことについてデイヴィッドは、「初めは入れようと思っていた。いくつかトラディショナルなメキシコの曲をピックアップしていたんだけど、でも、メンバー全員が納得するような曲が見つからなかった。それに、前作の『ピストルと心』でアルバム一枚分メキシコの曲を演ってるし、そんなこともあって今回は見合わせた。もちろん、将来的にもうやらないということでは全くないよ」と答えていた。また、ルーイは「いまは何も言えないけれど、ただ、『ピストルと心』でトラディショナルな音楽をオリジナルな形で演奏したことは、今でもボク達の音楽に大きな余韻を残しているし、これから作るアルバムに対しても、どのような形にしろ影響を及ぼすと思うよ」と話していた。
 メキシコ音楽のリズムは一般のロックに較べて複雑で、地域によっても違うので彼らにしても学ばなくては演奏できないリズムが大半だったそうだ。
 それでも演奏していて楽しめなかったら、ただ学ぶなんて苦痛ですよね?と原田さんが問いかけるとデイヴィッドは、
「それはそうだ。楽しかったんだと思う。初めはジョーク見たいな気持ちもあったし・・・。そのうち奥の深さに気がついて夢中になっていったんだ。で、ボクもルーイも、フェアポート・コンヴェンションが好きだった。彼等のフォークロアなものに対するアプローチの仕方が気に入っていた。それで、彼等のアプローチをボク達に置き換えてみると、その先にメキシコ系音楽が見えた、ということはあったな」と答えている。
 最後に、メキシコ系アメリカ人というマイノリティとして、どのような姿勢で音楽に臨んでいますか?という質問にはルーイが、
「そう、確かにこのアメリカという国で、ボク達はマイノリティとして暮らしている。アメリカにはさまざまなエスニック・グループが存在していて、そんな中には日系人もいればメキシカンもいる、ということだ。で、そうした人々は、ただマイノリティであるという理由だけで、グレー・ゾーンとでも呼べそうな場所で生きていかなければならない。そして、いつもアメリカという国に同化することを強いられている。ただ単に、生活するということでさえ、そんな困難がつきまとっている。だからボク達は、音楽を演奏する時ぐらいは、そうしたいろいろなことを持ち込みたくないんだ。例えば、政治的なことを音楽で訴えることもしたくないし、しない。だって、もしかしたら、ただ単に音楽を演奏すること自体が、ボク達マイノリティにとっては、既に政治的なことかも知れないんだし・・・」

YouTubeから「Los Lobos - La Bamba - 11/26/1989 - Watsonville High School Football Field (Official)」 「ピストルと心/ロス・ロボス」 「Los Lobos - Soy Mexico Americano (Woodstock 1999)

ロス・ロボス 公式ウェブサイト

渋谷クラブクアトロ 1991年4月7日撮影
港区・ホテル高輪 1991年4月10日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1991年6月号
コンサート評は長谷川靖さん インタヴューは原田尊志さん
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7月16日(水)

 気象庁からまだ梅雨明け宣言が出されていないが、富山は暑い日が続いていて、もうとっくに明けているんじゃないかと。
 今日はスポーツ観戦に興味のない自分には珍しく午前中から大リーグのオールスターゲームをテレビで観ていた。お昼までには終わると思っていたが、11時半の時点で7回裏。ニュースを見たかったのでチャンネルを変えた。後からネットのニュースで知ったが、9回を終えた時点で6−6の同点でホームランの総数で競う本塁打競争が行われ、ナ・リーグが4対3で勝利した。
 昨日、伏木富山港で南米原産のヒアリが見つかったことが環境省から発表された。その数、1000匹以上だという。生息域が県内各地に広がりませんように。
 国産エレキギターのブランド、フェルナンデスが破産したそうだ。

今の憲法にはあるのに?参政党の創憲案で消された私たちの「権利」
候補者がロシアメディア出演 参政党、無断許可の職員に辞職勧告
「水道、外資に売った」参政・神谷代表演説 宮城県が抗議「誤情報」
生活苦への不満を利用 デマで伸長 日本人も標的に 力合わせる社会を
参政党の神谷代表発言「選択的夫婦別姓で治安が悪くなる」は「不正確・根拠不明」
参政党を支えたのはロシア製ボットによる反政府プロパガンダ
「生活保護世帯の3割が●▲人」SNS情報の「盛りっぷり」検証したら 国民健康保険「タダ乗り」説でも
終末期の延命措置医療費、公約に波紋 「命の尊厳 脅かしかねない」 
 参議院選も終盤にさしかかり、既存メディアから参政党の主張に対するファクトチェックや、その政策のデタラメさを取り上げる記事が多くみられるようになってきた。参政党は、今月12日に放送されたTBS『報道特集』内の特集企画「外国人政策も争点に急浮上〜参院選総力取材」が著しく公平性・中立性を欠く内容だとして抗議と訂正等を求める申入書を提出した。しかし、この番組をリアルタイムで見ていたが、公平性や中立性を欠くものだとは感じなかった。ようやく大手メディアが、萎縮することなく選挙期間中も報道を続けるようになっただけだ。なぜメディアが萎縮したかはこちらの記事に詳しい。2014年、自民党筆頭副幹事長だった萩生田光一氏が在京テレビ各局に送った「これから選挙が行われるまでの期間におきましては、さらに一層の公平中立、公正な報道姿勢にご留意いただきたくお願い申し上げます」とした文書、さらに2016年、当時総務大臣だった高市早苗氏の「電波の停止は絶対しないと、私の時にするとは思いませんけれど、何度行政の方から要請をしても、全く(放送法を)遵守しないという場合に、その可能性が全くないとは言えません」という電波停止発言だと言われている。
 これによりテレビでは選挙報道が減り、選挙情報の担い手はSNSやネット情報へと移り、それにより生まれたのが3年前の参議院選挙でNHK党から出馬したガーシー議員であり、斎藤元彦・兵庫県知事の再選、都知事選における石丸伸二氏の躍進だろう。ここに来て、ようやく大手メディアも少しだけ目を醒ましたのだ。
 しかし、既存のメディアを萎縮させた自民党が、結果的にSNSやネットメディアを駆使する新興政党に票を奪われている現実はなんとも皮肉なことだ。 

◯エネ・ヘー・ラ・バンダ

 1991年に初めてキューバを訪れ、その文化、特に音楽に魅せられた作家・村上龍氏がキューバ音楽のCDをリリースするMURAKAMI’Sレーベルを立ち上げたのが1992年だった。このレーベルの中心的存在だったグループがエネ・へー・ラ・バンダで、この年、日本に招聘し公演を行なっている。そして、ミュージシャンの招聘、レーベルの設立にとどまらず93年にはキューバ音楽のガイド本『新世界のビート 快楽のキューバ音楽ガイド』を新潮社から出版するのめり込みようだった。
 エネ・ヘー・ラ・バンダはイラケレに在籍していたフルート奏者、ホセ・ルイス・コルテスが率いたグループで、エネ・へー(NG)とはNuevaGeneration=新世代の略だそうだ。彼らを撮影したのは1993年に来日した時だった。92年の来日は村上龍氏の招聘だったが、この時もMURAKAMI’Sレーベルからデビュー・アルバムをリリースしたばかりのパウロ・イ・ス・エリテと一緒の来日だったので村上氏の招聘だったのかもしれない。
 撮影は『ミュージック・マガジン』1993年10月号の「ラテン音楽のダイナミズム」と題された大特集の中の、岩村健二郎さんが執筆した<前に出はじめたキューバの歌手たち>というページ用で、8月10日に行われた渋谷オンエアーでのライヴ写真が使われている。パウロ・イ・ス・エリテとエネ・ヘー・ラ・バンダがステージに立ったライヴの様子を岩村さんは、このように書いている。
<10か月の間にさらに強力になったエネ・へー・ラ・バンダ。イラケレ時代からバンドの中心人物だったヘルマン・ベラスコはパブロ・ミラネスのバンドに行ってしまったが、音はなんら変わることなく「恐怖のブラス隊」は健在である。なによりホセ・ルイス・コルテスの「将軍ぶり」が以前より強くなった。MCから歌から演奏まで、バンドを強力に引っ張り、客を煽る煽る。ジャズのスタンダードを入れたり、コンガのリズムで会場を練り歩いたりと、去年よりバラエティに富んだ内容で、時間もかなり長くやっていた。2バンドのそれぞれがこれでもかと言うほど全力投球していて、お買い得なライヴだった>
 このライヴ写真は、翌月号で中村とうようさんが執筆した「村上龍のキューバ音楽”ひいきの引き倒し”」という記事にも使用されている。前述した村上氏の著書『新世界のビート 快楽のキューバ音楽ガイド』へのとうようさんからの意見だ。本の中には坂本龍一氏との対談もあり、二人の意見と一致して賞賛しているところもあるが、後半は少し辛辣な意見も書いている。
「村上龍が推奨するイラケーレ、エネ・へー、パウロ・イ・ス・エリテなどを、ぼくはほとんど評価しない。どれもテクニックはすぐれているが、ぼくがキューバ音楽の最大の美質と考えている優雅さや洗練、陰影に富んだ奥深いニュアンス、余裕のあるオトナのウィットや色気、といったものが、まるで感じられない。そうした点では、村上の批判するゴンサーロ・ルバルカーバと同じところに落ち込んでいる。そして落ち込んだ原因が外国で売れようと狙ったことにあるのも、一緒だ。つまり、日本の歌謡曲の足もとをすくっているのと同じ大きな津波の中で、ゴンサーロもイラケーレもアップアップしているのだ。
 このように言い切るからには、本誌先月号カラー特集での岩村健二郎くんのキューバ音楽の現状についてのまとめ方にも、ぼくは同意していないことを言っておかねばならないだろう。彼の立場も村上同様にイラケーレ以後の新しいバンドに対してあまりにも現状容認的でありすぎるようにぼくには思える。もう一度カナ表記について触れるなら、ぼくなんかよりずっとスペイン語の達者な彼がレコード会社サイドの安易な表記法にそのまま従ったことにも不満がある。
 はっきり言って世間一般への村上龍の影響力はぼくの遠く及ばぬほど大きい。ましてや外貨がノドから手が出るほどほしいキューバでの彼の活動があの国の音楽界に及ぼす作用は決して軽視できない。それだけにやることなすことに慎重であってほしい」
 この後、村上龍氏が反論し論争になったという記憶はないので、この号で完結したのだろう。

YouTubeから「La Bruja - NG La Banda LIVE」 「Murakami Mambo: Red Hot + Cuba at BAM

渋谷・オンエアー 1993年8月10日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年10月号
インタヴュアーは岩村健二郎さん
再掲載『ミュージック・マガジン』1993年11月号
中村とうようさん執筆
#エネへーラバンダ
#NGラバンダ
#NGLaBanda
#アーカイブ

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エネ・へー・ラ・バンダ
パウロ・イ・ス・エリテ

◯パウロ・イ・ス・エリテ

 アーカイブ作業をしていると、思いがけず撮影したミュージシャンの訃報に接しドキリとすることがある。キューバのミュージシャン、パウロ・イ・ス・エリテのリーダーでボーカルのパウロが、今年3月1日に交通事故で亡くなったのを検索していて知った。1962年1月11日、ハバナ生まれ、享年63歳だった。
 パウロ・イ・ス・エリテを撮影したのは、やはりキューバのサルサ・グループ、エネ・へー・ラ・バンダと一緒に来日した1993年の夏。エネ・へーは前年に続いて、パウロ・イ・ス・エリテは初めての来日だった。作家・村上龍氏が設立したキューバ音楽のCDをリリースするMURAKAMI’Sレーベルの第一弾として、彼らのデビュー・アルバム『君はもう死ぬことなど考える必要はない なぜなら僕が傍にいるからだ』がリリースされた直後だった。

 8月10日に渋谷オンエアーで2つのグループのライヴを撮影しているが、ライヴの前に宿泊先のホテルでパウロのインタヴューが行われ、ポートレートを撮影した。インタヴュアーは岩村健二郎さんで、掲載誌は『ミュージック・マガジン』1993年10月号。写真は「ラテン音楽のダイナミズム」と題されたカラー24ページの大特集の中の<前に出はじめたキューバの歌手たち>という記事の中で使用されている。岩村さんがこの年の5月にキューバで取材してきた若手のグループの話の中に、パウロのインタヴューが挟み込まれている。
 パウロ・イ・ス・エリテは、アダルベルト・アルバレス・イ・ス・ソンからダンデン、オプス・トレスと移籍したボーカルのパウロが1992年に結成したグループで、エリテとはエリート、選ばれしものたちという意味だそうだ。
「歌手が自分のグループを持ちたいって野心を持つのはさ、歌うってことが、感じなくてはならない、心から生み出さなくてはならない作業だから、ってのが大きいよね。与えられたものをただ歌わなくてはならない状況は歌手にはすごく厳しいことなんだ。だから歌手が自ら歌を選んだり作ったりする力があるのが最も理想的だと僕は思う。歌は音楽の中で一番難しい作業で、声は一番難しい楽器だと思うし。自分が感動したときに歌には最もいい形で自分の色づけができるわけで、歌の作業はその色づけが最重要。それに他の楽器のミスは見過ごされることもあるけど、フロントで客の視線を受けてる歌手にはそれが許されない。いつでもいい気分の笑顔でいなくてはならない。そういう状態を作り出すためには自分の好きな歌が自由に歌える、自分のバンドを持つのが一番だよ。もちろん状況や個人の性格でいろんな理想的状態ってのはあると思うよ。ロス・バン・バンやエネ・へーやダンデンみたいに、傑出した才能を持ったリーダーがバランスを保ちながらバンドを引っ張る、これはオーソドックスな形だ。でも歌手が今言ったような欲求を持ったら、すべての人がすべての人を率いることはできないし、二つの頭が一緒に歩むことはできないからね」
 wikiによれば<カル12とマレコンのエルカルメロ(プラザデラレヴォルシオン)の角にあるハバナの信号機の赤信号を無視し>交通事故で亡くなったと記されている。車が大好きだったようで、岩村さんの記事にも<日本の道路に溢れる高級車を見て卒倒しそうになりながら車種を叫んでいた彼>という記述があった。
 ライヴの写真は、翌月号に掲載された中村とうようさん執筆の「村上龍のキューバ音楽”ひいきの引き倒し”」という記事にも使用されている。

YouTubeから「PAULO FG Y SU ELITE "No Hace Falta Que Lo Digas" (En Vivo, Japon 1994)」 「Paulito y su Elite XXV aniversario - "Hasta el Último Callejón”

パウロ・フェルナンデス Discogs

渋谷・桜丘ヒルポートホテル 1993年8月10日撮影
渋谷・オンエアー 1993年8月10日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年10月号
インタヴュアーは岩村健二郎さん
再掲載『ミュージック・マガジン』1993年11月号
中村とうようさん執筆
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#パウロフェルナンデスギャロ
#パウロFG
#PauloFernándezGallo
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7月14日(月)

・「眠らぬ国」支える留学生 人気バイト巡ったらニッポンの今が見えた
・時給180円で毎日18時間労働。暴行にレイプまで。この状況を放置して外国人労働者受け入れを拡大するのか?
・「中絶か強制帰国、どちらか選べ」妊娠の実習生は逃げた
・7割が最低賃金未満=失踪実習生聴取表から試算ー野党
・外国人実習生、3年で69人死亡 6人は自殺 法務資料で判明
・技能実習生が多数死亡の衝撃。日本で働く外国人はどう思う?

 2018年、安倍内閣の時に人手不足で困っている国内企業の要望を受けて外国人労働者の受け入れ拡大を促す出入国管理法改正案が与党による強行採決で可決した。審議に当たっては法務省が出してきたデータに誤りがあったり、改正案の中身が決まっていないことに野党は反対したが、2019年4月1日に施行されることだけが決定された。また、審議中は日本企業の雇用状況の劣悪さを野党議員から次々に指摘された。上記に列挙した見出しは、その頃、外国人労働者の置かれた状況をあらわした記事だ。外国人が優遇されている、などという状況ではなかったし、そのご改善されたかも疑問だ。
 先日発表された東京商工リサーチによる企業の倒産件数は4年連続で前年を上回り、人手不足に関連した倒産は調査開始以来、過去最多だという。もう海外から働きに来てくれる人を抜きに、日本の産業はまわらないのだろう。そんな中、日本人ファーストを掲げ”外国人ばかりが優遇されている””外国人が増えて治安が悪くなった”などと事実に基づかない発言をSNSで拡散し、不安や不満を煽って外国人を排斥しようという動きや参議院選の争点にしようという動きがある。新興政党だけではなく、与党の自民党までが<違法外国人ゼロ><ルールを守らない外国人を許さない><法令順守の徹底>などと政策に掲げている。違法行為やルールを守らない所属議員がたくさんいる自民党がどの口で言っているのだろう。
 ようやく既存メディアもSNSで流れるこれらの情報をファクトチェックし、危機感を感じた団体が抗議の声を上げている。
「生活保護受給世帯の3分の1は外国人」は誤り SNSで誤情報拡散
参政党・神谷宗幣代表の発言の真偽は? 「外国人からは相続税が取れない」と民放番組で…国税庁に確認したら
「外国人の重要犯罪増」はミスリード 「不起訴率が右肩上がり」は誤り 参政党・吉川里奈衆院議員の街頭演説【ファクトチェック】
「外国人という弱い者いじめを競っている」「人間にセカンドない」 参院選で広がる外国人排斥の主張 市民ら危機感訴え那覇市役所前でスタンディング
「外国人優遇」はデマ 参院選で広がる排外主義に複数団体が反対声 

 日本人の給料が上がらないのは低賃金で働く外国人が流入しているからだと主張する政党がいくつかあるが、労働力が余って仕事を奪い合う状況ならともかく、人手不足でも賃金が上がらないのは国の政策の失敗と雇用する企業の問題だろう。外国人を排除しても生活が豊かになることはない。
 Xで「なんで参政党ばかりファクトチェックされるんだ!」という声に、参政党が嘘ばかりつくからだろと瞬殺している人がいて笑ってしまった。
 今起こっている外国人を排斥しようという動きの中で、もう一つ気になるのはそれが特定の国や地域の人に向けられている感じがすることだ。もし日本で優遇されている外国人がいるとすれば日米地位協定で守られ日本政府から思いやり予算まで献上されている在日米軍の人々で、その彼らが度々報道されるようにレイプや暴行、家宅侵入、飲酒運転など違法行為を重ねていても、外国人が優遇されているとSNSや街頭でヘイトを撒き散らしている人たちは米軍人の犯罪に声を上げることはない。ヘイトの向かう先は中国や韓国といったアジアの人々、あるいは中東諸国の人々だ。彼らにとって本当に外国人が優遇されているかどうかは重要ではなく、嘘か本当かわからない情報を免罪符に、ヘイトを撒き散らし見下して溜飲を下げたいだけなのでは?と考えたりもする。
 これもXで拾ったが<参政党が怖いんじゃないよ。参政党のような反知性、反科学に騙される日本人がこれほど多くなってしまったことが怖いんだ>というツイートも的を射ている。国会で118回の虚偽答弁をした安倍元首相は息を吐くように嘘をつくと揶揄されたが、嘘のつき方は神谷氏の方が堂々としている。実際、笑顔で淀みなく聴衆の前でトンデモやデマを熱弁できる神谷氏が代表の参政党も怖いと思う。

グレイト・ペルシャン・コンサート
*添付した写真は1992年5月31日に松戸市民会館で開催されたイベント『グレート・ペルシャン・コンサート92』の開場を待つ人たち。仕事を求めてやって来たイランの人たちへの娯楽を提供するために企画された。バブルの頃は日本人がやりたがらない3Kの労働を担っていた彼らだが、経済が悪化すると解雇された。仕事を求めて来日した彼らには不幸なことだった。ただ、SNSなどなかった時代で現在問題になっているクルド人に対してのような、イラン人へのヘイトはなかったように思う。
 グレイト・ペルシャン・コンサートについてはこちら
 この他の気になった記事を備忘録として。
世界を操る「あの勢力」…ライトな支持層は知らぬ参政党の歴史観
神谷宗幣の異常発言まとめ
日本で最も詳しい「参政党」ウォッチャーが語る“トンデモ理論”の源流と“神谷代表”の素顔
ち=「ti」→「chi」に ローマ字のつづり方70年ぶりに変更へ
YouTubeでデマ「エネルギー予算13兆円の流出判明」が拡散 名前を使われたデータベースの開発者「なぜ…」

◯川畑アキラ

 川畑アキラという名前を初めて目にしたのは奄美大島に移住していた2011年で、奄美群島の与論島へ撮影に行った時だった。町中に<元ザ・コブラツイスターズのボーカル、川畑アキラ>と書かれたライヴ告知のポスターが貼ってあった。与論島は、彼の生まれ島だった。
 川畑アキラのライヴを初めて見たのは沖縄に移住していた2013年で、5月3日から5日まで開催された那覇ハーリーの最終日に会場である那覇新港ふ頭に設けられたオリオンビールのステージに立っていた。
 ザ・コブラツイスターズも川畑アキラさんもよく知らないので、彼のホームページに掲載されているプロフィールを参考にさせてもらう。
1999年、ロックバンド「ザ・コブラツイスターズ」のボーカルとしてビクターからデビュー。
2003年、ソロ名義で与論島・沖縄への想いを歌った「誠の島」をビクターからリリース。
2008年春、バンドを解散し、東京から沖縄に拠点を移し、ソロ活動を本格的にスタート。7月に沖縄限定発売のシングル「忘れたんじゃない思い出さなくなるだけさ」をフライングハイよりリリース。
2010年4月には約2年ぶりの新曲「親父殿よ~ウヤウムイノウタ~」をテイチクよりリリース。
2012年5月23日にはオリジナルアルバム『誠の夢』をVAPよりリリース。
2014年2月26日にはシングル「シンガーソングランナー」をビレッジアゲインよりリリース。
2015年2月18日には川畑兄弟名義でアルバム『与論島慕情~YORON BLOOD』をビクターよりリリース。
2017年、生まれ故郷与論島に戻ったのを機にdining&musicうちじゃしょりをオープン、与論島を拠点に全国に音楽を配信中。
2013年6月「ヨロンパナウル王国観光大使」に任命されたそうだ。パナウルトは、ヨロン方言で花とサンゴのこと。

YouTubeから「夢の旅人/ザ・コブラツイスターズ」 「運命(ヌサリ)/川畑アキラ LIVE HOUSE MOD’S

川畑アキラ 公式ウェブサイト

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川畑アキラ

◯サンサナー

 鮮やかな紅型(びんがた)の衣装を着てウチナーグチ(沖縄方言)で歌う、女の子3人組のユニット。2010年に新しい沖縄ポップスユニットを作ろうと、沖縄県内の芸能関係者に呼びかけてオーディションを開催し、選ばれたミィキ、ユリエ、アーサの3人で結成。結成から3年経った2013年にそれまでリーダーを務めていたミィキが卒業し、アイが加入した。
 彼女たちを初めて見たのは、2013年の那覇ハーリーだった。会場である那覇新港ふ頭に設けられたオリオンビールのステージで、新良幸人さん率いるパーシャクラブwithサンサナーという形でバックの方で歌ったり踊ったりしていた。
 その次に彼女たちのステージを見たのは、2014年6月15日に那覇・泊港にある魚市場「泊いゆまち」で開催された<父の日お魚フェア本まぐろ祭り>の会場でのステージだった。
 サンサナーとはウチナーグチで「蝉」のことで、賑やかな女の子という意味もあるそうだ。残念ながら2015年にサンサナー は活動を終了してしまったが、テイチクエンタテイメントのサイトに彼女たちのプロフィールやディスコグラフィーが残っていたので、それぞれのプロフィールを転載させていただく。
◯ユリエ(センター:金城優里英/ボーカル・三線担当/4月17日生 A型)
 母親の影響で幼い頃から民謡を歌い始め、その初舞台は2歳のとき。ソロとしても世代を超えて多くのアーティストと共演している。琉球音楽協会(三線の部)最高賞受賞。
◯アーサ(右:西山朝子/ボーカル・舞踊・三板・笛・胡弓担当/7月8日生 A型)
 沖縄音楽に傾倒するあまり大阪から移住し沖縄県立芸術大学に入学。卒業後は琉球古典音楽・琉球舞踊・歌舞劇などの数多くの舞台に出演している。野村流古典音楽協会教師(唄・三線)、野村流古典音楽保存会最高賞(胡弓)、玉城流冠千会新人賞(琉球舞踊)、光史流太鼓保存会新人賞 受賞。
◯アイ(左:森山亜衣 / ボーカル・舞踊担当 / 9月20日生 B型)
 小学生の頃から琉球舞踊を習い始め、高校時代から始めたHIPHOPダンスはインストラクターを務めるほどの腕前。好奇心旺盛。異色の新メンバー。琉球芸能コンクール(琉球舞踊)新人賞受賞。

パーシャクラブwithサンサナーはこちら

YouTubeから「MOLEMOLE/サンサナー 」「ちゅらさちゅさ/サンサナー

サンサナー テイチクのウェブサイト

那覇・泊港 2014年6月15日撮影
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サンサナー

7月12日(土)

◯サンディー

 サンディーの名前を初めて知ったのは、サンディー&ザ・サンセッツの頃だろうか。でも、その音楽や声にのめり込んで聴いたのは、1990年にリリースされた久保田麻琴さんとディック・リーの共同プロデュースによるソロ・アルバム『マーシー』から。この頃、暗室でプリント作業をする時に一番よく聴いたアルバムだと思う。暗く気が滅入ることもある暗室作業に、『マーシー』のキッチュなサウンドと慈愛に満ちたサンディーの声に癒された。『マーシー』から派生した91年の『コム・アゲイン』、アジアからパン・パシフックへと広がりをみせた1992年の『パシフィカ』、『パシフィカ』から派生した『ジョゲット・トゥ・ザ・ビート』、1993年の『アイルマタ』はなぜか買い逃したが、1994年の『ドリーム・キャッチャー』と順調に虜になった。

サンディー

 サンディーのライヴはウォーマッド’91、’92で撮影しているが、初めてポートレートを撮影したのは『ドリーム・キャッチャー』がリリースされた1994年。『ミュージック・マガジン』1994年3月号の『SANDII 』特集で、「越境するドリーマー チャンプルーを重ねて音楽のあり方の原点へ」という原田尊志さんの記事の中で使われている。
 取材は赤坂のエピックソニーで行われ、原田さんがサンディーと久保田麻琴さんにインタヴューし、そのインタヴュー写真とポートレートを担当した。掲載する写真は本人によるチェックがあり、プリントした写真を編集部を通して渡すと、目じりの横にサンディー直筆の「シワとりヨロシク」と書かれたプリントが返ってきた。今ならフォトショップで簡単にシワを消せるが、この頃はフィルム撮影で暗室に入ってのアナログなプリント作業。針金の先に黒紙をつけて覆い焼きをした。

 『ドリーム・キャッチャー』を発表した後は、彼女の原点であるハワイ音楽の方へと進んで行き、1996年に『サンディーズ・ハワイ』、97年に『サンディーズ・ハワイ2nd』とリリースしている。次にポートレートを撮影したのは『サンディーズ・ハワイ3rd』がリリースされた1998年で、『ミュージック・マガジン』のComing Outというグラビアページだった。この頃はフィルム撮影だけれどMacとフォトショップによるデジタル暗室によるプリント作業に変わっていて、レコード会社で撮影したフラを踊っているサンディーの写真を切り抜いてバリ島で撮影した椰子の木と合成した。この前後にも双葉社から発行されていた『格安航空券ガイド』という雑誌で、スラックキー・ギター奏者の山内雄喜さんと一緒に撮影しているが掲載誌が見つからなかった。
 wikiによるとアメリカ人と日本人のハーフで、本名は鈴木あや。10歳の時にハワイに渡り、12歳頃から歌手として活動。1974年には<サンディ・愛>名義で「ペルシャ猫は恋泥棒」でレコード・デビューした。日本でも1975年から本格的に活動し、<サンディ・アイ>名義で「くちづけは許して」で歌手デビュー。1980年に細野晴臣さんのプロデュースで<サンディー>名義としては初となるアルバム『イーティン・プレジャー』を日本とイギリスでリリース。1982年に久保田麻琴と夕焼け楽団を母体とした<サンディー&サンセッツ>を結成。前述した<サンディ・愛><サンディ・アイ>以外にも、『ルパン三世』のエンディング曲「ラヴ・スコール」を<サンドラ・ホーン>名義で歌っている。
 掲載した1~5枚目は『ミュージック・マガジン』1994年3月号、6枚目は双葉社の『格安航空券ガイド』、7~9枚目は『ミュージック・マガジン』1998年7月号用に撮影したもの。

ウォーマッド’91でのステージ写真はこちら

ウォーマッド’92でのステージ写真はこちら

S・アダンとのステージ写真はこちら

YouTubeから「Sandii - Mercy Tour」 「SANDII-DREAM CATCHER- VIDEO-1994」 「Sandii dances at Prince Lot Hula Festival

サンディー  公式ウェブサイト

赤坂・エピックソニー 1994年1月13日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年3月号
インタヴュアーは原田尊志さん
再掲載『ミュージック・マガジン』1995年6月号
イースト・ウエスト 1998年5月19日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1998年7月号
インタヴュアーは藍野裕之さん
#サンディー
#Sandii
#サンディー愛
#サンディーアイ
#久保田麻琴
#MakotoKubota
#アーカイブ

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久保田麻琴

◯久保田麻琴

 久保田さんが音楽活動の初期に裸のラリーズでベーシストとして参加していたのを知ったのはそう古いことではなく、沖縄に移住していた2012年11月に八重山諸島の竹富島へ種子取祭(たなどぅい)を見に行った時だ。宿泊したゲストハウスで一緒になった男性と泡盛を呑みながら音楽の話をしていて、彼から久保田麻琴さんが裸のラリーズのメンバーだったと聞いて少し驚いた覚えがある。1980年代の初め頃、渋谷のライヴ・ハウス「屋根裏」で時々バイトをしており、裸のラリーズも出演していてステージを見ているはずだが、その頃はもう久保田さんは脱退していたのだろう。
 なぜ竹富島で初対面の男性と久保田さんの話になったのかしっかりと記憶していないが、この頃、宮古島を舞台にした久保田さん原案・監修の映画『スケッチ・オブ・ミャーク』が封切られているので、そこから話が繋がったのかもしれない。

 掲載した写真は『ミュージック・マガジン』1999年7月号の30周年記念対談シリーズで撮影したもの。雑誌の創刊30年を記念し、当時の編集長・高橋修氏が毎号ゲストを迎えて音楽談義をするというものだった。1月号は迎春特別対談として湯浅学さんと、2月号から30周年記念対談と銘打ち萩原健太さん、3月号は宮子和眞さん、4月号はビルボード日本支局長のスティーヴ・マックルーアさん、5月号は松本隆さん、6月号は佐藤大さん、7月号が久保田麻琴さん、8月号はテイ・トウワさん、9月号は渡辺有三さん、10月号は金橋豊彦さん、11月号はつんくさん、12月号は小野島大さん・高橋健太郎さんというラインナップだった。
 久保田さんとの対談は、恵比寿ガーデンプレイス内のウェスティン・ホテルで5月25日に行われた。久保田さんプロデュースによるサンディーのアルバム『 SINGS PACIFICLOUNGE CLASSICS』と、ディック・リーの『TRANSIT LOUNGE』が発売になるタイミングと、この年の10月に発売される細野晴臣さんとのユニット、ハリー&マックのアルバムをニューオーリンズとロサンゼルスで録音してきたばかりというタイミングだった。
 ロスでの録音は久保田さんと細野さん、それにドラムがジム・ケルトナー、キーボードにガース・ハドソンの4人。
<LAではバンドですよ。完璧に。ギターとベースとドラムとキーボード。4リズムで「せーの」です。スタジオ・ライヴ。昔のスタイルですね。ケルトナーはもう百戦錬磨っていう感じ。あらゆるセッションやってる人ですから。ガースがすごく個性的で、最初はどうなるかと思いましたけどね。でも最終的には彼ならではの演奏で、やっぱり一緒にやってよかったなって感じになりましたけど>
 サンディーのアルバム『 SINGS PACIFICLOUNGE CLASSICS』はフォリピン系の3代目くらいでホテルのラウンジで弾き語りをしているというルネ・パウロ氏との共演。ギャビー・パヒヌイとも昔よくセッションをしていたらしいが、そういう音源は残っていないという。「そういうのが聞きたいですね」という高橋修氏の発言に久保田さんは、
<ね、そう思って今回録音したんですよ。彼70歳ですからね。あと5年10年経ったらこんなレコードできるかどうかわかんないもんね。ぼく、すごい後悔してるんだ。ジェームズ・ブッカーのちゃんとした録音があんまり残ってないっていうのが。グルーヴィーなクラブ・ミュージックもいいけども、サンプリングしてループ作って、それは未来の音楽なのかもわかんないけど、でもホントに体で音楽できる人たちをちゃんと残すことって、すごく大事なことだと思うんですよ。縁があってガースと仕事ができて、ほんと面白かったから、彼のアルバムも作りたいよね。実際はめちゃくちゃむずかしいと思うけど>
 この対談記事に掲載されている久保田さんのプロフィールを引用させていただく。
<1949年、京都市生まれ、ミュージシャン/音楽プロデューサー。72年に久保田麻琴&夕焼け楽団を結成。81年にはサンディー&ザ・サンセッツと名前を変え、オーストラリアのツアーを成功させるなど、海外でも活躍した。90年前後からプロデューサーとして、サンディー、ディック・リー、インドネシアのデティ・クルニアやエルフィ・スカエシなどを手掛けている>

テイ・トウワと久保田さんとの対談の撮影はこちら

YouTubeから「久保田麻琴&夕焼け楽団 “バイバイ ベイビー” 1976年@日比谷野音」 「Harry & Mac –"Night Shade" (Official Video)

久保田麻琴 公式ウェブサイト

恵比寿・ウェスティン・ホテル 1999年5月25日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1999年7月号
インタヴュアーは高橋修さん
#久保田麻琴
#MakotoKubota
#アーカイブ

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7月10日(木)

 一昨日、和歌山市で開かれた参院選の自民党候補を応援する集会で演説した鶴保庸介議員が、2拠点居住推進の必要性を訴えた際に「運のいいことに能登で地震があった」と述べて批判を浴びている。その日の夜に「被災者への配慮が足りず、言葉足らずだった。陳謝の上、撤回する」とコメントしたが、テレビは昨日からこの話題でもちきりだ。謝罪し撤回したが、自分たちの政策を通すには<能登の地震は都合が良かった>と思っていなければ出ない発言だろう。党内からも批判が出ているようだが、2018年の西日本豪雨の際に、気象庁が緊急記者会見を開き「記録的な大雨となる恐れがある」と厳重警戒を呼びかけた夜に、安倍首相をはじめとする内閣、党幹部が<赤坂自民亭>と名付けた宴会を開いていたのが自民党
 鶴保議員は議員辞職は考えていないそうだが、政治資金でキャバクラ支出高速道で40キロ以上の速度違反元妻への養育費滞納旧統一教会での演説と不祥事や疑惑はたくさんある。せっかくの機会に辞職されてはどうか。

 昨日、佐賀に配備される陸自のオスプレイ1機目が、午前10時20分ごろ、佐賀駐屯地に隣接する佐賀空港に着陸した。防衛省は8月中旬までに、木更津駐屯地に暫定配備していた全17機を佐賀に移駐することにしている。石破茂首相は昨日、佐賀市内で行われた参院選の演説会でオスプレイの配備に触れ、「本当に役立つ輸送機。さまざまな安全対策を講じている」と安全性や意義を強調し、理解を求めたという。はて、日本でオスプレイが役に立った事例など聞いたことも見たこともない。オスプレイの話題といえば民間空港への緊急着陸の事例ばかりだ。石破茂首相は何か夢でも見ているのだろうか。

 トランプ大統領がホワイトハウスでの閣議で記者団の質問に答え、米国が求める即時停戦に応じないプーチン大統領について「プーチンからは多くのでたらめをくらった。彼はいつも非常に感じが良いが、結局それは意味の無いことだ」と不満を表明したそうだ。プーチンがでたらめなのはその通りだが、あなたも相当でたらめだ。

 この他の気になった記事を備忘録として。
「外国人優遇」はデマ 参院選で広がる排外主義に複数団体が反対声明
参政公約「終末期延命措置は全額自己負担」 神谷氏「啓発する思い」
「参政党の神谷さんは陰謀論に染まり切っている」 元党員が証言 「勉強会で語る”歴史の真実”は陰謀史観そのもの」
「外国人という弱い者いじめを競っている」「人間にセカンドない」 参院選で広がる外国人排斥の主張 市民ら危機感訴え那覇市役所前でスタンディング
「外国人の重要犯罪増」はミスリード 「不起訴率が右肩上がり」は誤り 参政党・吉川里奈衆院議員の街頭演説【ファクトチェック】

ザ・ストーン・ローゼズ

◯ザ・ストーン・ローゼズ

 ボーカルのイアン・ブラウン、ギターのジョン・スクワイアによって1983年に結成された、イギリス・マンチェスター出身のロック・バンド。初期のメンバーは他にリズム・ギターのアンディ・カズンズ、ベースのピート・ガーナー、ドラムのサイモン・ウォルステンクロフトという5人編成だったそうだ。
 1984年にドラムがサイモンからレニ(アラン・ジョン・レン)に変わり、1986年にリズム・ギターのカズンズが脱退し4人編成となる。そして、1987年8月にはベースがピートの代わりにマニ(ゲイリー・マイケル・マウンフィールド)が加入し、このメンバーで1995年3月まで活動する。
 彼らを撮影したのはデビューアルバム『ザ・ストーン・ローゼズ』を発表した直後、1989年の初来日の時だった。スケジュールは10月23日クラブチッタ川崎、24日五反田ゆうぽうと、25日大阪毎日ホール、27日日本青年館(追加公演)で、24日五反田ゆうぽうとでのライヴと26日に日本での発売元だったアルファレコードでインタヴュー写真を撮っている。

 掲載誌は『ミュージック・マガジン』1990年1月号で、インタヴュアーは鳥井賀句さん。取材のオファーが多かったのかインタヴュー時間は各社30分で、当時のスケジュール帳には夜7時~7時30分と書かれている。インタヴュー時間の短さと取材から掲載まで少し時間が経ったこともあり、掲載された賀句さんの記事「ロック再構築・再検証の時代に賛否両論を巻き起こしたストーン・ローゼズ」はインタヴュー発言を少し挟みながらも、先に発売された音楽雑誌での評価や来日前からの評価も織り交ぜての評論となっている。
 記事の前半に五反田ゆうぽうとでのライヴの様子が書かれているので引用させてもらう。
<開演前の会場入り口には”バンド側の方針によりアンコールは一切行いません”の張り紙がされ、ライヴに集中するため各音楽雑誌の取材も公演前には一切行なわず、一誌30分のみ・・・とバンド側の強固な姿勢も少なからず話題だった。しかし、スモークとサイレンの効果の中、暴力的なまでに荒々しいサイケ・ギターが調子っぱずれに大音量でかき鳴らされ、ヴォーカルはまるでモリッシーとブルーハーツのヒロトの合体ロボットのようなアクションで歌い、それも終始モヤッとしたPAのせいで歌詞がよく聴きとれない、そこにひたすらパワフルなドラムが扇情的なビートで突き進んでいく・・・といった、そのライヴそのものが賛否両論を呼んだと言った方がいい>
 このアンコールをしない方針についてイアンが、
「アンコールというのは基本的に自分達がもっと賞賛を得たいというエゴの表われであって、もし自分達が本当に気持ち良くてもっと演奏したいなら、引っ込まないでそのままステージにいて演奏を続ける」とインタヴューで答えていた。
 このあと彼らは長い沈黙を経て1994年12月にセカンドアルバム『2nd・カミング』をリリースするが、1995年3月にレニが突然バンドを脱退、96年4月にはジョンが脱退。レニの代わりにロビー・マディックス、ジョンの代わりにアジズ・イブラヒムが加入してレディング・フェスティバルの大トリで出演したが、この年の10月にイアンとマニは解散を発表した。解散後、イアンはソロ活動を、マニはプライマル・スクリームにベーシストとして加入している。
 2011年の春にマニの母親の葬儀で、絶縁状態だったイアンとジョンが会話を交わしたことで再結成の機運が高まり、この年の10月18日にイアン、ジョン、レニ、マニが記者会見を開いて再結成を発表。2012年6月にマンチェスターで再結成ライヴを行い、7月にはフジロック・フェスティバルにも出演している。2016年にYouTubeで新曲がアップロードされるが、2017年に2度目の解散が行なわれる。
 休止期間があるとはいえ活動期間の長さに比べ、コンピレーション・アルバムを別にすればオリジナル・アルバムは2枚と少ない。

YouTubeから「The Stone Roses - I Wanna Be Adored (Live In Blackpool)」 「The Stone Roses, Fools Gold Live at Heaton Park. Made of Stone DVD.

ザ・ストーン・ローゼズ ソニーミュージック公式ウェブサイト

イアン・ブラウン 公式ウェブサイト

ジョン・スクワイア 公式ウェブサイト

五反田・ゆうぽうと 1989年10月24日撮影
田町・アルファレコード 1989年10月26日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1990年1月号
インタヴュアーは鳥井賀句さん
#ザストーンローゼズ
#TheStoneRoses
#イアンブラウン
#IanBrown
#ジョンスクワイア
#JohnThomasSquire
#マニ
#GaryMichaelManiMounfield
#レニ
#AlanReniJohnWren
#アーカイブ

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シンプリー・レッド

◯シンプリー・レッド

 1985年にイギリス・マンチェスターで結成されたブルー・アイド・ソウル/ポップ・ロック・バンド。バンド名の由来は中心メンバーでボーカルのミック・ハックネルが赤毛であることと、彼が大ファンであるサッカー・クラブ、マンチェスター・ユナイテッドのシンボルカラーが赤だったことによるそうだ。
 結成時のメンバーはハックネルの他、デイヴィッド・フライマン(ギター)、トニー・バウワーズ(ベース)、フリッツ・マッキンタイア(キーボード)、ティム・ケレット(ブラス)、クリス・ジョイス(ドラム)で、1985年にエレクトラ・レコードと契約し、デビュー・シングル「マネーズ・トゥー・タイト」をリリースする。
 彼らを撮影したのは5枚目のオリジナル・アルバム『ライフ』を発表した翌年、1996年の来日コンサートの時だった。wikiには1987年と2010年の日本公演のスケジュールは掲載されているが、1996年の来日情報が載っていないので記しておく。

 3月30日東京・NHKホール、4月2日名古屋・愛知県芸術劇場、4月3日東京・NHKホール、4月5日大阪・厚生年金会館。撮影したのは初日のNHKホールで、掲載誌は『ミュージック・マガジン』1996年5月号。コンサート評を安斉明定さんが書いており、
「ミック・ハックネルは非常に明確なプロ意識を持っている。事実、この日の演奏もよくまとまり、自身のヴォーカルも見事のひと言に尽きるほどの高品質なライヴを提示してみせた。だが、ボクの心には響いてこなかった。なぜなら「ホールディング・バック・ジ・イヤーズ」を書き「ヘヴン」をカヴァーしたデビュー当時の”苦い視点”は、いまの彼にはないからだ。ボクはずっとシンプリー・レッドを支持している。だからこそ、彼らの音楽が快楽性の追求だけに収束してしまわないよう願いたい。なぜなら、彼らが慕う黒人音楽の快楽性は、癒しがたい”苦しみ”と表裏一体の表現なのだから」と綴られている。
 シンプリー・レッドは2010年に一度解散し、2015年に再結成している。メンバーの入れ替わりが多く、結成以来のメンバーで今も残っているのはハックネルのみ。かつて在籍していたメンバーの中にはドラマーとして屋敷豪太、ギタリストとして鈴木賢司という二人の日本人がいる。

YouTubeから「Simply Red - Fairground (Symphonica In Rosso)」 「Simply Red - Stars (Live In Hamburg, 1992)」 「Simply Red - Stars LIVE with Gota Yashiki - Live in Japan

シンプリー・レッド 公式ウェブサイト

渋谷・NHKホール 1996年3月30日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1996年5月号
コンサート評は安斉明定さん
#シンプリーレッド
#Simplyred
#ミックハックネル
#MickHucknall
#アーカイブ

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7月8日(火)

 今日、市の保険年金課から富山県国民健康保険資格確認書が送られてきた。下の写真の左側の薄いオレンジのカードが従来の富山県国民健康保険被保険者証、右の薄いグリーンのカードが富山県国民健康保険資格確認書。違いはカードの色と、「被保険者証」か「資格確認書」という名前の違いだけだ。これなら紙の保険者証を廃止しないで従来通りの被保険者証を送付すればいいじゃないか。紙の保険者証を廃止するのか残すのかも参議院選の争点になって欲しい。
資格確認書

 自民党の萩生田光一元政調会長が昨日、石川県加賀市の党会合で「今の政権の政策だけに頼っていては国民の支持を得られない」と石破政権に苦言を呈したという。また、党の派閥裏金事件で処分を受けたことを念頭に「一連の問題で1〜2年間、下を向いて仕事をしてきた。そろそろ前を向いて立ち上がらなくてはいけない」とも語ったそうだ。どこまで厚かましいのか。反省などしていないのだろう。ぜひ、今度の参議院選挙でも自民党の惨敗を。

 この他の気になった記事を備忘録として。
「解体」「愛国」を叫ぶ人々が共鳴する参政党 鳴り潜める主張と葛藤
米、日本に関税25%通知 相互関税、8月1日まで停止延期―市場開放なら修正も
「データセンター増加で将来、電力不足に」リスクあおる東京電力 原発とセットで語って再稼働に前のめり

ローグ

◯ローグ

 ローグのマネージャーだったブッチャー岡野こと岡野信夫さんから突然連絡があったのは、2009年の2月だった。前年の9月にローグのボーカルだった奥野敦士がアルバイトの解体作業中に屋根から落下して脊髄を損傷、半身不随になった。その療養中の奥野のサポートになればと過去の音源を使ったCDの発売を企画したという。そのCDのジャケットに使う写真を探しているので、撮影した写真があったら送って欲しいと言われた。
 自分が撮影したローグの写真は1986年の渋谷LIVE INN、1987年の日本青年館、第16回ニュー・イヤー・ロック・フェスティバルのもので、これらをメールに添付して送信した。それからしばらくして、日本青年館で撮影した写真の一枚をCDジャケットに使いたいと連絡があり、そのカットを印刷用の大きな画像データにして岡野さんに送った。

 2009年4月7日にリリースされたCDのタイトルは『Live The Ultimate Collection』。1986年5月2日・前橋市民文化会館と、1987年2月14日・日本青年館でのライヴを収録した2枚組CD+DVDで、レーベルはRUNNERS RECORDS。ジャケットの写真は自分が撮影したものだが、インナーには三浦麻旅子さんの写真がたくさん使われている。
 ローグは1982年に結成され、1985年にキングレコードからアルバム『ROGUE』でデビューしているが、自分がローグを知ったのは1986年にインディーズのRUNNERS RECORDSからアルバム『ANOTHER SIDE』をリリースした頃かもしれない。ダディ竹千代と東京おとぼけCatsのマネージャーをやめ、バラモン岸本がボーカルの<苔のむすまで>というバンドをプロデュースしていた岡野さんが、いつからローグのマネージャーをやるようになったのかはわからない。この頃、屋根裏のスタッフでミキサーを担当していた小竹君が熱心にローグと関わっていた記憶がある。『ANOTHER SIDE』のジャケットに使われている写真は小竹君が撮影したものだ。
 ローグは1990年に解散し、2008年に奥野敦士が事故で半身不随となったが、2013年に再結成している。2021年に開催された『2020東京パラリンピック』の閉会式では、奥野が映像出演してサッチモの「この素晴らしき世界(What a Wonderful World)」を歌ったという。オリパラには興味がなかったのでその映像は観ていなかったが、奥野の歌う「この素晴らしき世界」は以前、別の映像で観たことがある。ほぼ日刊イトイ新聞で2013年に掲載されていた、奥野敦士へのロング・インタヴュー<終わりのない歌を歌っているぜ。>にその映像が挟み込んであった。そのインタヴューによれば、奥野は「おなかにきつくベルトを巻き付け、声を出すたび、上体をぐっと前に倒す」という独自の歌唱法を考え出して歌っているそうだ。
 掲載した写真の1~9枚目は渋谷LIVE INN、10~16枚目は日本青年館、17枚目が浅草のニュー・イヤー・ロック・フェスティバル。3枚目の写真が日本青年館単独ライヴのフライヤーに使用され、16枚目の写真が『Live The Ultimate Collection』のジャケットに使用されている。

YouTubeから「ROGUE - 終わりのない歌」 「ROGUE - MY HONEY(ROGUE LIVE AT 日本青年館『TAKE OFF』1987年2月14)」 「この素晴らしき世界 奥野敦士

終わりのない歌を歌っているぜ。

奥野敦士 X(旧ツイッター)

西山史晃 公式ウェブサイト

渋谷LIVE INN 1986年10月15日撮影 
日本青年館 1987年2月14日撮影
初出『LIVE The Ultimate Collection』(ランナーズ・レコード)   
東京・浅草常盤座 1988年12月31日~1989年1月1日撮影
初出『AVハウス』(双葉社)1989年3月号
#ローグ
#ROGUE
#奥野敦士
#AtsushiOkuno
#香川誠
#MakotoKagawa
#西山文明
#西山史晃
#FumiakiNishiyama
#深澤靖明
#YasuakiFukasawa
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コールタール

◯コールタール

 サックス奏者としての武田真治を話の枕に、トランペットやサックス、トロンボーンといったブラスを取り入れた日本のバンドを特集した「ホーンの響きが気持ちいいのだ!ギターではなく、ラッパを選んだ奴らのジャンルを超えたブロウ」という三田真さんの記事が、1996年9月号の『ミュージック・マガジン』に掲載されている。10ページの記事で、生活向上委員会から、どくとる梅津バンド、ベツニナンモクレズマー、RCサクセション、JAGATARA、コンポステラ、スペクトラム、ソー・バッド・レヴュー、スターキング・デリシャス、ミュート・ビート、東京スカパラダイスオーケストラ、ルード・ボーンズ、バービー・ボーイズ、ブラック・ボトム・ブラス・バンド、ボアダムズ、コールタール 、渋さ知らズ、ビブラストーン、米米クラブ、スウィンギン・バッパーズ、デ・ガ・ショウ、東京パノラママンボボーイズ、モダンチョキチョキズなどジャンルもバンド編成も異なる様々なバンドを網羅的に紹介している。

 ここまで網羅的に紹介するなら、ぜひダディ竹千代&東京おとぼけCatsも入れて欲しかった。おとぼけのホーン、ボーン助谷(池谷明弘)さんと碑文谷パーラッ太(包国充)さんは佐野元春のホーンセクションでも活動した。
 この特集記事の中で、東京スカパラダイスオーケストラとコールタール 、ブラック・ボトム・ブラス・バンドは囲みでインタヴュー記事も掲載されており、前者2つのバンドの撮影を担当した。
 コールタール は7月2日に日本コロムビアでインタヴュー後のポートレート、7月25日に渋谷オンエアー・ウエストでライヴを撮影している。インタヴューに答えているのはナガトモリュウスケとISAOの2人で、ナガトモがボーカルとサックス、ISAOがボーカルとトランペットを担当している。三田さんの記事によると2人はファンクなどの影響はあるものの、管楽器を持ったのはバンド結成後のことだそうだ。インタヴューに答えてナガトモは「管楽器は全然やったことなくて、動機的には光ってるとか、持ってたらカッコええんちゃうかというだけで始めました(笑)。スカが好きだったんで、スカなら、まあ、吹けるかなと」。ISAOは「基本的には、持ってる姿がカッコええっていうことですよね」と答えている。
 アーカイブするにあたって検索したが、バンドのfacebookは見つかったがホームページはなく、wikiもないので詳しいプロフィールがわからなかった。比較的詳しく書いてあったのがこちらのブログ。それによると1989年結成で、結成当初のメンバーはナガトミリュウスケ(Vo. Sax.)、イサオ(Vo. Tp.)、ターキー(Gt.)、モンキー(Ba.)、クニヒロ(Dr.)の5人。アルバムは1996年に「FAMILY DANCING』、1997年に『HANATSUHIKALI』、1998年に『ココロ』をリリース。関西出身のようだ。
 ナガトミリュウスケは、ミタヒデキ(ドミンゴス)とおとぼけdeブラザーズというユニットでも活動しているそうだ。

YouTubeから「コールタール - 人に優しく (PV)」 「コールタール LIVE @ ClubQue 2015.01.17

コールタール  facebook

おとぼけdeブラザーズ 公式ウェブサイト

青山・日本コロムビア 1996年7月2日撮影
渋谷・オンエアー・ウエスト 1996年7月25日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1996年9月号
インタヴュアーは三田真さん
#コールタール
#COALTAR
#ナガトミリュウスケ
#RyusukeNagatomi
#イサオ
#ISAO
#アーカイブ

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7月6日(日)

 昨日今日は暑いながらも風があって、幾分過ごし易かった。
 十島村では群発地震が続いており、悪石島では今日も震度5強の強い地震が2回あった。これまでの地震の回数は、今日の午後3時までに1500回を記録している。4日に島外避難した悪石島の住民13人に続き、今日も悪石島と小宝島の住民計46人が、村営フェリーで鹿児島市に自主避難した。

◯チカブーン

 1984年に女性だけで結成された、サルサ・バンド。キッカケはリーダーでティンバレス担当の森村あずさの呼びかけで、サルサ好きの女性が集まり公園でパーカッションのセッションを始めたことだという。
 1989年にボーカルの志村享子が加わり、ハバナ市からの招待でカーニバルに出演。1992年にビクターから1stアルバム『Chica Boom』でメジャー・デビューする。
 彼女たちを撮影したのは、デビューした1992年のカリビアン・カーニバルだった。M&Iの企画、富士通がスポンサーのイベントで日比谷野外音楽堂を中心に、渋谷や心斎橋のクラブクアトロなどでも行われた。彼女たちが出演した7月19日の日比谷野外音楽堂では、他にルイス”ペリーコ”オルティス、ミリー、ジョセリン&ロス・ベシーノスが出演していた。
 掲載誌は『ミュージック・マガジン』で、CONCERT PICKUPというカラーグラビア・ページで使われている。コンサート評は関谷元子さんで、
「最初のチカ・ブーンはこのところでも特筆すべき出来だったんじゃないか。ヴィジュアル的にもかわいくまとめた。キューバ帰りが功を奏してか、頭より体が動いてしまうノリを見せ、もともと曲がポップなだけに、素直に楽しめたのが何よりだ」と書かれている。
 メンバーチェンジや活動休止などもありながら、2015年11月には原宿のクロコダイルにて同窓会・結成30周年記念ライブを開催している。
*カリビアン・カーニバルは1990年に第1回が始まり、98年まで続いたようだ。出演したミュージシャンなどは、こちらに詳しい。

YouTubeから「お願い神様 1992/Chica Boom」 「CHICABOOM (Japanese salsa band)LIVE in TOKYO. 30’s aniversary countdown ❗️(J-LODLive)

チカブーン 公式ウェブサイト

チカブーン Instagram

日比谷野外音楽堂 1992年7月19日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1992年9月号
コンサート評は関谷元子さん
#チカブーン
#ChicaBoom
#森村あずさ
#AzusaMorimura
#坂口かおる
#KaoruSakaguchi
#志村享子
#KyokoShimura
#小野かほり
#KahoriOno
#山本聡子
#SatokoYamamoto
#サルサ
#Salsa
#カリビアンカーニバル
#CaribbeanCarnival
#アーカイブ

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チカブーン
オルケスタ・デ・ラ・ルス

◯オルケスタ・デ・ラ・ルス

 オルケスタ・デル・ソルのメンバーだったパーカッションの大儀見元をリーダーにして、1984年に結成されたサルサ・バンド。オルケスタ・デ・ラ・ルスとはスペイン語で光の楽団という意味だそうだ。奇しくも同じ日本のサルサ・バンド、チカブーン の結成も1984年だ。
 1989年に自費で渡米し、ニューヨークのサルサ・フェスティバルで成功をおさめ、1990年にBMGビクターよりアルバム『デ・ラ・ルス』でデビュー。洋題『Salsa caliente del Japón』として全米で発売すると、ビルボード誌のラテン・チャートで11週にわたって1位を獲得した。ちなみに、この年、リーダーの大儀見元が脱退し、カルロス菅野がリーダーを引き継いでいる。
 1991年の2ndアルバム『サルサに国境はない』はプラチナディスク、1992年の3rdアルバム『ディフェレンテス』はゴールドディスクを獲得し、1991年と1993年の日本レコード大賞特別賞を受賞している。

 デ・ラ・ルスのリーダーでありパーカッションとボーカルを担当するカルロス菅野さんと、ボーカルのNORAさんを撮影したのは、まさに絶頂期の1993年だった。4thアルバム『ラ・アベントゥーラ』をリリースした時期で、掲載誌は『ミュージック・マガジン』、インタヴュアーは真保みゆきさんだった。
 この年、海外での彼らの契約レーベルが、ニューヨークのRMM(インディーズのラテン系メーカー)からBMGインターナショナルに変わった。インタヴューは、そんな話から始まっている。
「もう、大変迷いましたね。RMMには確かに問題点があった。そこだけ見れば当然変わった方がいいわけだけど、3年間一緒にやってきて、それなりの成果もある。サルサ・ビジネスの中で、3年かけて培ってきた信頼関係というのがあるわけです。ましてヒスパニックの観客にとって、RMMはホームグラウンド、すごく大きな存在だったし・・・」と菅野さんが話し、NORAさんが「フクちゃん(福本佳仁。トランペット)なんかは主張してたよね、<オレたちはサルサやってるんだから、RMMにいるんだぁ>って(笑)」と引き継いだ。それでも彼らは迷った末にBMGインターナショナルを選択する。
 この『ラ・アベントゥーラ』は37回グラミー賞ベスト・トロピカル・ラテン・アルバムにノミネートされ、その年のNHK『紅白歌合戦』に紅組で出演する快挙を果たしている。ところが、メンバーがそれぞれソロでも活動を始め、1995年にカルロス菅野さんは脱退して熱帯JAZZ楽団を結成。デ・ラ・ルスは1997年7月に解散してしまう。
 再結成のキッカケは2001年に起きたアメリカ同時多発テロ事件。2002年に主宰したチャリティー・イベント「ワールド・ピース・ミュージック・フェスティバル」のために再び集まり、翌2003年にも同じイベントを開催し、新生デ・ラ・ルスとして本格的に活動を始めた。

YouTubeから「salsa caliente de Japón. orquesta de la luz.」 「September  熱帯JAZZ楽団 Tropical Jazz Big Band

オルケスタ・デ・ラ・ルス 公式ウェブサイト

カルロス菅野 公式ウェブサイト

渋谷・BMGビクター 1993年10月27日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年12月号
インタヴュアーは真保みゆきさん
#オルケスタデラルス
#OrquestaDeLaLus
#カルロス菅野
#CarlosKanno
#ノラ
#Nora
#サルサ
#Salsa
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7月4日(金)

 猛暑日に迫る暑い日が続いているが、それでもまだ梅雨明けではないそうだ。今日、富山で今年初めての熱中症警戒アラートが発令された。この猛暑とストレスが原因と見られるシラサギの大量死が富山城址公園で起こっており、すでに78羽の死骸が確認されているという。

 昨日、参議院選挙が公示され、改選124議席と東京選挙区の欠員補充1議席の合わせて125議席に、選挙区と比例代表合わせて519人が立候補した。マスコミは各政党の党首の第一声を取り上げているが、参政党の神谷宗幣代表の第一声が波紋を呼んでいる
 神谷氏は昨日の都内の演説で、「申し訳ないけど高齢の女性は子どもが産めない。だから日本の人口を維持していこうと思ったら、若い女性に子どもを産みたいなとか 、子どもを産んだ方が安心して暮らせるな、という社会状況を作らないといけないのに、働け働けとやり過ぎた」と主張した。この発言を聞いて2007年の柳沢厚生労働相の「女性は産む機械」発言や石原慎太郎氏のババア発言騒動を思い出した。石原氏は惑星科学者・松井孝典氏の発言の引用だとして<“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものは「ババア」”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です”って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって…。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)。まあ、半分は正鵠を射て、半分はブラックユーモアみたいなものだけど、そういう文明ってのは、惑星をあっという間に消滅させてしまうんだよね>と発言し提訴されている。
 神谷氏は皇室を維持するため、天皇陛下に側室を持っていただきたいと発言したこともある。参政党のホームページで昨年5月に公開された「安定的な皇位継承の在り方についての考え方」という項目の動画で、「私は今の皇室を維持するため、男系を維持するためには一番やるべきことは、もう”宮家の復活”だと思っております」と主張した上で、「ちょっと賛否両論あると思うんですけど、天皇陛下に側室を、やっぱり持っていただいて。たくさん子供を作っていただくと。昔はそうしていたわけですよね」と話している。この動画は現在削除されているそうだ。
 評論家の古谷経衡氏は参政党を、「オーガニック信仰」が生んだ異形の右派政党と表現し、そのオーガニック信仰にはニセ科学が常につきまとっているという。そして、参政党の支持者を「無党派層」ではなく「無関心層」だという。
<彼ら「無垢」の人々が、参政党のユーチューブを含むSNSなどで「政治に目覚めた」ときに、初めてそのむき出しの差別性や排外性が露わになる。これは自覚的に自虐史観と闘ってきたネット保守とはまるで違うものであり、純朴な、本当にイデオロギーとは関係のない、生活感覚のようなものだ。参政党支持者のこうした「無垢から生まれた世界観」をどう捉えればいいのか。私としても悩んだ。結論めいたものがあるとすれば、まさに2025年の今年が戦後80年であることを踏まえても、それは「過去の戦争経験の風化」を前提としながらも、もっと別種の、ある種の「何も考えないで生きてきた人々」の可視化だと思う>
<そういった人々は、これまで選挙に行くことが無かったので、可視化されなかった。それがユーチューブを含むSNSを間口にした場合、初めて得票として可視化されたのではないか。そうした層は繰り返すが、「無党派」ですらなく「無関心層」である。何も知らない、何も興味がない、何も知識がない層の受け皿が、SNSを間口とした参政党支持者の典型ではないのか>
 参政党を2022年から観察しているという黒猫ドラネコさんが、<参政党の歴史を振り返る【特別企画】>というページをUPされている。 自腹を切って有料の政治資金パーティーなどにも参加し、参政党の内情を書き綴ったものだ。この中で「ノーマスク、反ワクチン、陰謀論、スピリチュアル、偽医療、疑似科学、デタラメ歴史観などなど、参政党はトンデモ要素を煮詰めた団体だ」とし、その支持者については「コロナ禍と政治不信もあってのことだろうか。ネットリテラシーの低い、騙されやすい人が増えたと感じる。マルチや霊感商法などが無くならない訳だ>と書いている。
 2022年8月に開催された第2回政治資金パーティー「予祝」。予祝とはスピった意味合いが強く「あらかじめ祝えば願いは叶う」というものだそうで、コロナ禍に行われたこのパーティーに6000人ほどの「目覚めた中高年」がほぼノーマスクで集まり、歓喜の涙を流してその門出を祝ったそうだ。
 この<参政党の歴史を振り返る【特別企画】>、まだ全部は読みきれていないが、カルト教団とその信者のような印象だ。神谷宗幣氏は、容姿だけで言えば各政党の党首の中で一番ソフトなイメージだが、言っていることは<原爆を落とされた広島と長崎で世界一の原子力潜水艦を作って欲しい。その上で、それらを日本中の海に浮かべ「核を持っていると思わせて」他国を牽制すると。韓国などから指摘されたら、「対馬あたりを独立させればいい。そして核を持たせて日本と同盟を結べばいい」>とトンデモだ。

 この他の気になった記事を備忘録として。
「権威主義と右傾化が明確に」 参院選、アムネスティが懸念表明
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◯グサン・マルトハルトノ

 1917年10月1日生まれ、ジャワ島中部出身の作詞・作曲家、歌手。グサン・マルトハルトノという名前を知らない人でも、日本では松田トシさんが歌ってヒットした「ブンガワン・ソロ」という曲名を知っていたり、歌を聴いたことがある人は多いかもしれない。グサンさんは世界最古のポピュラー音楽といわれるインドネシアのクロンチョンを代表する名曲「ブンガワン・ソロ」を作った人だ。
 グサンさんを撮影したのは日本民族音楽協会主催で開催された「インドネシア音楽祭」へ出演するために来日した1994年で、音楽祭は横浜と新宿の2カ所で行われた。歌手はグサンさんと中部ジャワ出身の女性歌手ワルジーナさん、そしてグサンさんの姪であるヌニンさんの3人。それにフルート、チェロ、ヴァイオリン、ギター、小型ギターのチャッとチュッという7人編成の本格的なクロンチョン・バンドが同行していた。
 掲載誌は『ミュージック・マガジン』1994年5月号と6月号で、5月号では清水建成さんがコンサート評を、6月号では関谷元子さんが来日同行記を書かれている。30年以上も前のことなので忘れていたが、清水さんのコンサート評を読み直してコンサートは日本のガムラン・グループ、スカル・ジュプンを間に挟んで3部構成だったことを思い出した。1部のオープニングはワルジーナさんが「ブンガワン・ソロ」を歌って始まり、3部の最後はグサンさんが「ブンガワン・ソロ」を歌って終わったようだ。
 コンサートで一番記憶に残っているのは、ステージとステージの幕間に、 中村とうようさんがいきなり舞台の掃除を始めたこと。ゴミが落ちていたのが気になってしょうがなかったのだろう。とうようさんはこの時、音楽祭のプロデューサーとか監督の立場ではなかったかと思うが、性格的にジッとしていられなかったのだろう。また、公演中にステージでクロンチョンという音楽や使われる楽器について解説もされていた。
 関谷さんの来日同行記は3月28日の日本到着から始まり、29日のリハーサルとレセプション、30日のパシフィコ横浜会議センターでのコンサート、31日の新宿文化センターでのコンサート、4月1日の鎌倉観光(囲み記事でこちらは石谷崇史さんが執筆)と、その日の夜のビクター・スタジオでのレコーディングの様子などが綴られている。このうち28日の日本到着と29日のリハーサル以外の撮影を担当した。
 ビクター・スタジオで録音された曲は『ブンガワン・ソロ ~哀愁のインドネシア歌謡』(ビクターエンタテイメント)というCDになっており、中村とうようさんがスーパーバイザー、田中勝則さんがプロデューサーを務めている。レコーディングの様子を撮影した写真は『ミュージック・マガジン』の他、このCDのブックレットにも使用されている。
 レコーディング当日の昼間はグサンさんの桜が見たいとのリクエストで、日本グサン基金協会の方々との鎌倉観光バスツアーがあった。その日帰り観光の後からのレコーディングなので、録音作業は深夜に及んだ。もう小田急線の終電がなくなっていて、スタジオに見学にきていたエンジニアの藤井暁さんとタクシーに乗ったのを覚えている。
 グサンさんは2010年5月20日に92歳で逝去されたが、wikiによると遺産の全額を慈善事業「Music in Youth」に遺贈されたそうだ。

YouTubeから「Bengawan Solo - Gesang (Official Video)」 「Gesang - Jembatan Merah (Official Lyric Video)

グサン・マルトハルトノ Discogs

パシフィコ横浜会議センター 1994年3月30日撮影
新宿文化センター 1994年3月31日撮影
鎌倉観光 1994年4月1日撮影
青山・ビクタースタジオ 1994年4月1日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年5月号
コンサート評を清水建成さん
初出『ミュージック・マガジン』1994年6月号
来日同行記を関谷元子さん
『ブンガワン・ソロ ~哀愁のインドネシア歌謡』(ビクターエンタテイメント)
#グサンマルトハルトノ
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#ヌニン
#Nuking
#ブンガワンソロ
#BengawanSojo
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グサン・マルトハルトノ
ワルジーナ

◯ワルジーナ

 インドネシアの女性歌手、ワルジーナ(ワルジナの表記もある)さんを初めて撮影したのは、日本民族音楽協会主催の「インドネシア音楽祭」のために来日した1994年だった。この時は「ブンガワン・ソロ」の作者、グサン・マルトハルトノさん、グサンさんの姪であるヌニンさんと共に、7人編成のクロンチョン楽団を引き連れての来日だった。横浜、新宿での公演の後、3人は青山のビクタースタジオで『ブンガワン・ソロ ~哀愁のインドネシア歌謡』(ビクターエンタテイメント)のレコーディングもしており、コンサートからレコーディング風景までを撮影させていただいた。
 アルバム『ブンガワン・ソロ ~哀愁のインドネシア歌謡』のプロデューサー・田中勝則さんがライナーノーツに彼女のプロフィールを書いているので引用させてもらう。

<本名ワルジーナ・ハディヤント。中部ジャワ出身の歌手としては最高の存在。43年11月7日、ソロ生まれ。58年、ソロのラジオ局主催のコンテストに優勝したのをきっかけにデビュー。65年にはクロンチョンの全国的なコンクールでも優勝。同時にジャワ語の大衆歌謡であるランガム・ジャワもたくさん取り上げ、このジャンルの確立に貢献する。59年の初録音以来、LPは20枚、カセットは100本近くを発表。65年にはオルケス・ビンタン・スラカルタを結成。自らリーダーを務め、盛んにコンサート活動を行う一方、地元では伝統芸能であるワヤン・クリッなどに招かれ、ガムランをバックに歌うこともある。今回一緒に来日したチュッのアリは息子さん。またフルートのサユティ、ヴァイオリンのサリミ、チェロのサムランはビンタン・スラカルタのメンバー>
 ワルジーナさんは翌95年にも来日し、五反田のゆうぽうとでソロ・コンサートを行っている。この時は『ポップ・アジア』の仕事でライヴとインタヴューの写真を撮影した。また、1999年にも来日しており、この時は奄美大島出身の歌手RIKKIをゲストにセシオン杉並でコンサートを開いている。
 1994年に来日した時に撮影したコンサートの写真やレコーディング時の写真は、田中勝則さんが制作した『ラトゥ・ジャワ/ワルジーナ』(ライス・レコード)、『ブンガワン・ソロ~グサンを歌う/ワルジーナ』(ライス・レコード)のインナーやジャケットでも使用されている。さらに、今年3月に発刊された田中勝則さんの著書『ブラジル音楽歴史物語』に収載されている「パルチード・アルトのミステリー」というコラムにも、ワルジーナさんのレコーディング風景とクロンチョン楽団の写真が使われている。
 中村とうようさんが『ラトゥ・ジャワ/ワルジーナ』のライナーノーツを書いているので、そのイントロ部分を引用させてもらう。
<ワルジーナは、インドネシアの中部ジャワ地方の歌姫である。インドネシアでは、へティ・クース・エンダンやエルフィ・スカエシよりも長いキャリアを持つ大ベテランで、アルバムの数の多さから言っても、まさにトップ・シンガーだ。しかし、日本での知名度は残念ながら、まだまだへティやエルフィに遥かに及ばない。94年の春には初来日してわれわれに大きな感銘を与えてくれたし、今回ここに日本のプロデュースでのアルバム制作も、実現した。これを機会に、たくさんの日本人にワルジーナの素晴らしさを知っていただきたいものである>

YouTubeから「Walang Kekek - Waldjinah」 「Rondo Kempling - Mus Mulyadi & Waldjinah

ワルジーナ Discogs

パシフィコ横浜会議センター 1994年3月30日撮影
新宿文化センター 1994年3月31日撮影
鎌倉観光 1994年4月1日撮影
青山・ビクタースタジオ 1994年4月1日撮影
五反田ゆうぽうと 1995年4月26日ライヴ撮影
赤坂・ジュンバタンメラ 1995年4月27日インタヴュー撮影
セシオン杉並 1999年5月15日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年5月号
コンサート評を清水建成さん
初出『ミュージック・マガジン』1994年6月号
来日同行記を関谷元子さん
『ブンガワン・ソロ ~哀愁のインドネシア歌謡』(ビクターエンタテイメント)
初出『ポップ・アジア』1995年No.2(ブルース・インターアクションズ)
インタヴュアーは大須賀猛さん
『ラトゥ・ジャワ/ワルジーナ』(ライス・レコード)
『ブンガワン・ソロ~グサンを歌う/ワルジーナ』(ライス・レコード)
『ブラジル音楽歴史物語/田中勝則著』(ミュージック・マガジン)
#ワルジーナ
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7月2日(水)

 もう北陸も梅雨明け宣言してもいいんじゃないだろうか?あんまり雨が降らないので、カエルも水をはった田んぼから家の敷地に上陸してこなくなった。
 暑いのは日本だけではなく、スペインは46℃を記録し、ロンドンも連日30℃超えだという。
 十島村(トカラ列島)の悪石島では、今日の早朝にまた震度5弱の地震があった。 震度5弱は先月30日に続いて2回目。午後には小宝島でも初となる震度5弱を記録する地震トカラ列島近海での震度1以上の地震は、先月21日以降、今日の午前10までに877回を記録したそうだ。もともと地震の多い地域ではあるが、それにしても今回は長く続いている。

 2022年に亡くなられた民俗写真家・芳賀日出男さんが昭和30年代に奄美群島の沖永良部島で撮影した写真データを、芳賀ライブラリーの代表取締役で芳賀氏の長男・日向氏が和泊、知名両町に寄贈された。今後は奄美大島の奄美市と宇検村にも写真データを寄贈する予定だという。奄美大島に移住していた2011年の9月、書籍の撮影で東京の出版社へ行った際に、麹町のJCIIフォトサロンで『1955ー1957自然と文化 奄美』と題した芳賀日出男さんの写真展を見た。今回寄贈された昭和30年代の写真は島の人たちにとっても、とても貴重な財産になるだろう。ぜひ、誰でも見れるように公開して欲しい。

 この他の気になった記事を備忘録として。
「黄色い墓石」の謎解説
期限切れ保険証でも受診容認 混乱回避で来年3月末まで―厚労省
イスラエルがガザ海岸沿いのカフェ空爆、ジャーナリストや活動家が頻繁に利用
「変身」は10秒 「南西シフト」で配備の陸自オスプレイに搭乗
西田昌司発言を容認、天皇を元首に、日本も核武装を…これが都議選で躍進した参政党の主張だ
「違法外国人問題」の公約ではりあう自民・国民・参政党…見え透いた「狙い」と危ぶまれる「ヘイト演説」

吉丸美枝子

◯吉丸美枝子

 肩書きはビューティーライフプロデューサー。吉丸さんが主宰する美容、コスメの販売とサロンを展開する「ヴェーネレ」のサイトに掲載されているプロフィールを引用させていただくと、
<1949年生まれ。専業主婦だった36歳の時、娘の一言をきっかけに美容の道へ。整美体操、気候、導引術、整体、エステ技術を学びながら美容論を研究する。51歳で「ヴェーネレ」を確立。セルフ美容によるヴェーネレ美容法で全国2万人を超える会員を大変身させる。61歳で「社会文化功労賞」を受賞。71歳で「グッドエイジャー賞」を受賞。現在までにDVD7本、18冊の著書を発行。日々全国を飛び回り、講義や美容プロデュースを行う傍ら、テレビ・雑誌等のメディアでも多数活躍中>
 吉丸美枝子さんを撮影したのはマキノ出版の系列会社、爽快薬品から発売された『吉丸美枝子のフェロモンダイエット』という【マッサージ編】【エクササイズ編】の2枚からなるDVDのパッケージと盤面に使うポートレートの仕事だった。

 マキノ出版の編集部ではなく広告部からの依頼で、ショップチャンネルで販売するというので、ショップチャンネルのプロデューサーも同席していた記憶がある。
 撮影場所はマキノ出版の地下スタジオで、【マッサージ編】【エクササイズ編】用にヘアと衣装を変えて撮っている。広告部から背景の色も変えて欲しいという要望があったが、小さなスタジオでカラーの背景紙を使うと人物の輪郭に色が被るので白バックで撮影し、人物を切り抜いて合成してもらうことにした。【マッサージ編】のパッケージの裏には<私の年齢、いくつだと思いますか?答えは58歳です。>と書かれている。
 翌2008年にも『幸せ美人になれる フェロモンイメージング』という、音楽療法士・医学博士の深川富美代さんとの共著用にポートレートを撮影している。
 ところで、この頃エプソンのP-5000(https://dc.watch.impress.co.jp/cda/review/2006/11/24/5109.html)というフォトストレージビューアーを使用していた。撮影したデータをその場でこちらに移し、本人と編集者にチェック&セレクトしてもらっていた。構図、ピント、表情などのチェックにはノートパソコンよりも手軽で操作しやすかった。

YouTubeから「ヴェーネレ 吉丸美枝子 自宅でセルフ美容

吉丸美枝子 Instagram

ヴェーネレ 公式ウェブサイト

文京区本郷・マキノ出版 2007年7月2日撮影
初出『吉丸美枝子のフェロモンダイエット【マッサージ編】』(爽快薬品)
  『吉丸美枝子のフェロモンダイエット【エクササイズ編】』(爽快薬品)
文京区本郷・マキノ出版 2008年4月14日撮影
初出『幸せ美人になれる フェロモンイメージング』(マキノ出版)
#吉丸美枝子
#MiekoYoshimaru
#アーカイブ

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深川富美代

◯深川富美代

 音楽療法士、医学博士の深川富美代さんを撮影したのは、マキノ出版から発売された『幸せ美人になれる フェロモンイメージング』というビューティーライフプロデューサーの吉丸美枝子さんとの共著だった。この本の表紙に使用するお二人のポートレートと、お二人の対談の様子を撮影している。ポートレートは出版社のスタジオで、対談はラウンジに移動して撮影した。
 著書に掲載されているプロフィールをそのまま引用すると、
<医療法人ストレスケア若草 深川内科クリニック副院長、音楽療法士。日本音楽療法学会認定音楽療法士。医学博士。日本心身医学会所属。1960年、福岡県生まれ。米国セントナリー大学音楽科卒業。専攻はパイプオルガン演奏、大分県精神保健福祉センターデイケア音楽療法士、大分大学芸術療法非常勤講師、福岡女子短期大学助教授などを経て、現職。深川内科クリニックで、音楽とイメージング、呼吸法を用いたストレスケアに当たる。共著に『音楽が糖尿病を治す』(マキノ出版)、『聴くだけでやせる!モーツァルトダイエット』(KKベストセラーズ)がある>

 本は4つの章で構成されており、第1章は吉丸さんが、第2章の付属CDの活用法をお二人で、第3章を深川さんが担当し、第4章はお二人の対談になっている。
 第3章の深川さんの文章から一部引用させていただく、
「音楽は、心身のストレスケアに非常に効果的です。深刻なストレスが続くと、心身が緊張して、体に備わっている自己回復力(ホメオスタシス)に乱れが生じます。
 このホメオスタシスとは、自律神経系(心臓の鼓動など意志とは関係なく動く体の機能をつかさどる神経やその働き)、免疫系(ウイルスや病原菌などを排除し、体を防御する機能)、内分泌系(体の機能に重要な役割を果たす各ホルモンの分泌をコントロールする仕組み)の相互作用によって維持されています。
 具体的には、体温を一定に保つ、血圧の急激な変化を防ぐ、体内の水分や体液の浸透圧を保つ、ウイルスなどの病原菌を排除するなどの働きです。強いストレスがかかり続けると、これらの働きに異常が起こり、自律神経系の交感神経(体を活性の方向へ導く自律神経)と副交感神経(体を安静の方向へ導く自律神経)のバランスが崩れてしまいます。その結果、眠れなくなったり血圧が急上昇したりと、神経系、消化器系、呼吸器系などの病気が起こってしまうのです。
 音楽は、リラクセーション効果で心身の緊張をやわらげることができます。音楽でリラクスできると、呼吸がゆっくりと深くなっていきます。不安が軽減し、ストレスが徐々に解消されていき、ホメオスタシスの回復につながっていきます。また一方で、音楽のカタルシス効果によって、ストレスを発散させることもできます」

深川内科クリニック 公式ウェブサイト

文京区本郷・マキノ出版 2008年4月14日撮影
初出『幸せ美人になれる フェロモンイメージング』(マキノ出版)
#深川富美代
#TomiyoFukagawa
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