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◯製作中の富山の祭りと芸能歴史年表
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◯小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
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◯チョ 10イさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
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1月31日(金)

 朝起きたら、今期一番の積雪だった。玄関前の駐車スペースの雪かきはたいしたことなかったが、除雪車が道路と家の敷地の間に置いていった雪の塊(壁)を捨てるのが大変だった。
積雪

 昨日行われた衆院予算委員会で、自民党の裏金問題を巡り旧安倍派の会計責任者だった松本淳一郎元事務局長の参考人招致を野党の賛成多数で議決した。これに対し与党筆頭理事で自民党の井上信治氏が「遺憾だ。数の力による議事運営は厳に慎んでほしい」と不快感を示したそうだ。怒るより呆れてしまった。これまでさんざん数の力による国会運営を行ってきたのは自民党だろう。昨年の衆院選で少数与党になってもなんら反省がないようなので、今年の参院選でもぜひ大敗してほしい。

 防衛省は今月29日、普天間飛行場の辺野古への移設計画で、辺野古北側の大浦湾に広がる軟弱地盤の改良のため、最深約70メートルまで約7万本の砂杭を打つ難工事をスタートさせた。70メートルの砂杭を7万本軟弱地盤に打ち込めば、どれだけの泥が押し出されるのだろうか。その泥はどう処理されるのだろうか。莫大な予算をかけて成功するかもわからない辺野古の埋め立て工事をするくらいなら、埼玉県八潮市のような道路陥没事故が起こらないよう日本全国のインフラ整備にお金と時間を使って欲しい。

 この他の気になった記事を備忘録として。
1月の消費者物価2.5%上昇 コメ類は70.7%上昇で過去最大の上昇幅に
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金子エミ

◯金子エミ

 今では美容家としても大活躍している、パーツモデルの金子エミさんを一番最初に撮影したのは2007年の暮れだった。彼女にとって最初の著書となる『お家でおこもりエステ』をワニブックスから出したばかりの頃で、この著書から抜粋したスキンケアを他社の健康雑誌で撮影した。
 カラー10ページ以上の特集で、ラフの段階で撮影カット数が62点あった。担当編集者からは午後1時から5時までの4時間で撮って欲しいという要望があったので、ラフを見て同じライティングでいけるものを並べ、撮影の順番を頭の中でシミュレーション。手のスキンケア、脚のスキンケア、全身のイメージ写真、手を中心にしたイメージ写真、顔のスキンケア、ブツ撮り。ほぼ休憩なしでラフより少し多い70カットを予定時間内に撮影完了した。さすが、プロのパーツモデルなので手の組み方、脚の組み方が美しく、ただただシャッターを押せばいいので撮影がとてもスムーズだった。
 撮影の後、晩ご飯と打ち上げを兼ねて金子さん、担当編集者の3人で出版社の近くにあった新潟のへぎそばが食べられる蕎麦居酒屋へ。金子さんはこんなにたくさんの撮影カットを4時間でできるのか心配だったようだが、無事に終了してちょっと驚いていた。

 この撮影からしばらくして金子さんから、作品撮りのためのフォトセッションをしたいという連絡があった。彼女がロケ場所として選んだセレクトショップやアンティークショップで、何度かフォトセッションを重ね、その様子が日テレの情報番組『スッキリ』でも放送された。そして、ワニブックスからの2冊目の著書『家事をしながらエステ』の撮影を担当することになった。
 彼女を最後に撮影したのは、2008年の暮れだった。テレビ東京の番組『ソロモン流』が金子エミさんの特集を組み、その中でパーツモデルの仕事をわかりやすく紹介するための架空の広告撮影をスタジオですることになり、そのカメラマンを担当した。
 2008年では2冊だった著書も、現在は美容関係が6冊、そしてダウン症の長男カイト君との『世界は君のもの~美容家ママとダウン症カイトの世界水泳奮闘記!』という本も出している。
 実弟は俳優の金子貴俊さん。

金子エミ 公式ウェブサイト

金子エミ オフィシャル・ブログ

文京区・湯島 2007年12月12日撮影(1枚目~3枚目)
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2008年4月号

目黒区青葉台・JANUS 2008年2月15日撮影(4枚目~9枚目)
初出・日本テレビ『スッキリ』

目黒区碑文谷・ロイズ・アンティークスエゴイスト 2008年3月12日撮影(10枚目~15枚目)

学芸大学・スタジオ 2008年6月18日撮影(16枚目~18枚目)
初出『家事をしながらエステ/金子エミ』(ワニブックス)

大田区北馬込・馬込スタジオ 2008年12月19日撮影(19、20枚目)
初出・テレビ東京『ソロモン流』

#金子エミ
#EmiKaneko
#パーツモデル
#PartsModel
#アーカイブ

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金子貴俊

◯金子貴俊

 1978生まれ、東京都出身の俳優・タレント。姉はパーツモデルで美容家の金子エミ。NHK人物録からプロフィールを引用させてもらうと、
<人気映画『ウォーターボーイズ』の早乙女聖役でブレイクし、その中性的な魅力で幅広い世代の人気を博す。その後も舞台、ドラマ、バラエティーなどで幅広く活動。2008年の結婚、第一子誕生を機にパパタレントとしても認知度を高めている。NHKでは、土曜ドラマスペシャル『真珠湾からの帰還~軍神と捕虜第一号』『趣味どきっ!国宝に会いに行くII』『ニッポンぶらり鉄道旅』シリーズや語学番組などに出演している>
 資格マニアだそうで、所属事務所オリオンズベルトの公式プロフィールには、乗馬4級、簿記3級、フードアナリスト3級、JUDFベーシック・スポーツダイバー4級、Advanced Open Water Diver、キャンプインストラクター、ヨガインストラクターRYT200など資格がズラリと並んでいる。

 金子貴俊さんを撮影したのは、健康雑誌の「NOPETNOLIFEペットと私」という当時担当していた連載ページだった。この頃、お姉さんの金子エミさんとよく撮影をしていて、貴俊さんが「ビジン」ちゃんという名の犬を飼っているのをエミさんから聞いていた。wikiによるとお父さんは貴俊さんが22歳の時に亡くなり、その遺産を姉と弟で半分に分けると25万円しか残らなかったそうで「せっかく最後に残してくれたお金だから、何か生きた使い方をしよう」と考えて犬を飼うことを思い立ったという。あるお店でピンときたケアーン・テリアの子犬を飼うことにしたのだが、それが「ビジン」ちゃんだという。
 撮影場所は代官山プラザにあった日本茶Cafe SURUGAで、お店の女の子が彼の大ファンでサインをもらって大喜びしていたのを覚えている。

YouTubeから「ウォーターボーイズ(2001) 劇場版予告

金子貴俊 オフィシャル・ブログ

金子貴俊 Instagram

渋谷区猿楽町・日本茶Cafe SURUGA代官山店 2008年9月9日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2009年1月号
#金子貴俊
#TakatoshiKaneko
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ

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1月29日(水)

 今日は旧暦の元旦。沖縄・久高島では旧正月の神事が行われ、粟国島では昨夜から今日の未明にかけて家々を歌い踊りながら無病息災と豊穣を祈ってまわる旧暦の年越し行事マースヤーが行われただろう。そういえば、沖縄県立図書館が図書館通信2023年2月号でマースヤーを取り上げ、その中で『琉球弧の祭祀と行事4/木原盛夫』を参考資料の一つとしてあげてくれている。

 昨日の午前に起きた埼玉県八潮市の交差点での道路陥没事故は、依然陥没した穴に落ちたトラックの運転手を救出できないままだ。近くでは新たな陥没も発生し、市民生活にも影響が広がっているという。国土交通省によると全国の管路約49万キロのうち、一般的な耐用年数とされる50年を超えた管路は22年度時点で3万キロあり、20年後には20万キロに増える見込みだという。対策をたてなければ、今回と同様な陥没事故がアチコチの道路で起きる可能性がある。道路だけではなく耐用年数の過ぎた橋もある。防衛予算よりは、こうした社会インフラに税金を使って欲しい。

 この他の気になった記事を備忘録として。
人類滅亡へ「残り89秒」 終末時計、過去最短
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立民、保険証「復活」法案提出

ボ・ガンボス

◯ボ・ガンボス

 昨日はどんとの命日。亡くなって25年が経つのか・・・。

 ボ・ガンボスはローザ・ルクセンブルグで活動していたボーカル&ギターのどんと、ベース&ボーカルの永井利光に吾妻光良&The Swinging Boppersのドラマー岡地曙裕、どんとの大学の先輩でキーボードのKYONが加わり1987年に結成された。wikiによれば、バンド名の由来はKYONが今の自分のテーマはニューオーリンズのガンボ・ミュージックなのでGUMBOという名前を入れて欲しいと主張したためだそうだ。まず「GUMBOS」としたが物足りなさを感じ、人名と同じように姓と名があってもいいんじゃないかと思った時に、ボ・ディドリーの曲が流れていたので「ボ」をもらい「BO GUMBOS」となった。
 1988年10月にエピック・ソニーと契約し、89年4月にビデオ「宇宙サウンド」、シングル「時代を変える旅に出よう」の同時発売でメジャー・デビュー。

 ボ・ガンボスを最初に撮影したのは3枚目のアルバム『ULTRAVELIN’ ELEPHANT GUMBO』が発売される直前だった。このアルバムは全て新曲で構成されているが、渋谷のオン・エアや、日比谷野音で収録されたライヴ録音。このアルバムのことを中心にボ・ガンボスのバンドとしてのあり様を小林慎一郎さんがインタヴューしている。答えているのはどんととKYONの二人で、二人の言葉からはライヴ・バンドとしての自信と矜持がうかがえる。
<僕らは別に新曲発表してからツアーするっていうのはやれへんから、どんどんライヴで新曲やってて。要するにレコーディングは僕ら4人だけやから、それをどこで録るかということでしょ。スタジオ入って「今、レコーディング中です」という状態に入ってやるのはやめようと決めたんです。じゃなくて、ライヴ録ればそれでテープできるやん>とKYONが話し、<例えば俺で言えばいつでもコンサートのことだけ考えてる人間になりたいと思ってる。コンサートやってて、それがいいコンサートであれば、それは当然CDにもできるし、今、すぐ録れるんやしさ。要するにいいステージやってれば、パッと録ってくれりゃ新作の音ができあがるし、パッとカメラ回してたらそれでプロモーション・ヴィデオになるし、ステージだけガーンとやってくだけで、制作物も次々出てくっていうような状態になったらええな、と思ってね(笑)。91年から、コンサートのペースは休まずやってみようやと>と、どんとが話を引き継ぐ。
 ポートレートはインタヴューの後、会議室のような部屋で撮っている。背景用のバックペーパーは持参したものではなく、部屋に置いてあったもの。取材撮影やアーティスト写真の撮影用にレコード会社が用意していたのだろう。
 ライヴの写真は、ボ・ガンボスがウォーマッド’92横浜に出演した時のもの。
 どんとは、この後、もう一度撮影している。学生援護会のアルバイト情報誌『an』のタウン特集で、ゼルダの小嶋さちほさんが案内する湘南・江の島という企画でロケをしていた時に、途中から小嶋さんのパートナー、どんとが現れて最後に取材したタイ料理のお店で一緒に食事をした。ちなみにこの時のライターは真保みゆきさんだった。
 残念ながらボ・ガンボスは1995年に解散し、どんとは2000年1月27日(日本時間1月28日)、脳内出血によりハワイ島ヒロで急逝してしまった。

YouTubeから「夢の中/ボ・ガンボス」 「魚ごっこ/BO GUMBOS

どんと 公式ウェブサイト

Dr.KyOn  オフシャル・ブログ

岡地曙裕 公式ウェブサイト

赤坂・エピック・ソニー 1992年1月20日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1992年3月号
インタヴュアーは小林慎一郎さん
横浜みなとみらい 1992年9月6日撮影
#ボガンボス
#BOGUMBOS
#どんと
#DONT
#久富隆司
#TakashiKudomi
#永井利充
#ToshimitsuNagai
#DrTOSH
#岡地曙裕
#AkihiroOkachi
#キョン
#KYON
#DrKyOn
#アーカイブ

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◯ドクター・ジョン

 ドクター・ジョンのライヴを撮影したのは、まだ写真を始めて(カメラを買って)2年も経たない1987年の夏だった。インクスティック芝浦でニューオーリンズ関連のイヴェントがあり7月22日にドクター・ジョンとネビル・ブラザーズのライヴが行われた。それに先立ち、20日にはウエルカム・パーティーが開催され、ピーター・バラカンさんと湯浅学さんのトーク・ショーの他、ラストショウや松原正樹セッション・バンド、バウンド、藤井康一さんのライヴが行われた。このイヴェントに、ウシャコダのマネージメントをしていたサロンゴ・ミュージックの木下さんが写真を撮りにおいでよと誘って下さった。まだあまりレンズも揃っていない頃で、買ったばかりの75mmー300mmのレンズを持って撮影に行った記憶がある。
 やがて40年も前のことなのでよく覚えていないのだが、ピアノを弾いて歌っているドクターの他に、ネビル・ブラザーズと一緒にステージに立ってギターを弾いている写真がある。たしかドクターは20歳の頃に喧嘩に巻き込まれ、左手の薬指が不自由になりギタリストを断念してピアニストに転向した。ギターを弾いているドクターを見れたのは、なかなか貴重な体験だったのかもしれない。
 次にドクターを撮影したのは5年後で、『レコード・コレクターズ』の取材だった。アルバム『ゴーイン・バック・トゥ・ニューオーリンズ』のリリース直前で、インタヴュアーは半戸芳憲さん。場所はドクターが宿泊していた新宿の京王プラザホテルだった。『レコード・コレクターズ』は資料的な要素の強い雑誌なので、最新アルバムについてというよりは、これまでのドクターが辿ってきた音楽の道のりやエピソードを尋ねる取材だった。その中で、ドクターとヴードゥー(民間信仰)の関わりを尋ねる質問があった。ドクター・ジョンという芸名は19世紀のニューオーリンズにいたヴードゥー教の司祭(呪術師という記事もある)の名前からとられており、本名はマック・レベナックという。
「子供の頃、クラッカー・ジャック・ドラッグ・ストアという店があって、その店にはビーカーに入った動物やら骸骨やら様々な奇妙なものがおいてあったんだ。つまりヴードゥー・ショップでもあったわけだ。その店に、ドクター・マイティという人がいて、彼のお姉さんもロスチャイルド・アンティーク・ショップという店を開いていた。もっと専門的なヴードゥー・ショップで、ヴードゥーに関する書物も置いてあった。そこにあった本の中で、歴史上の人物ドクター・ジョンという名を見つけたのさ」
「たとえば、あなたはヴードゥー教の信者ですかと聞かれて、ハイそうですと答える人はいない。おまじないで病気が治るなんて考えている人は今はいないからね。しかし、ニューオーリンズの家庭を見てみれば分かると思うが、蝋燭を灯し、お香を焚き、精神的な安らぎを求めている。生活の一部としてヴードゥーは今もなお、多くの人々に受け継がれているということだ」
 スタジオ・ミュージシャンとしても多くのアーティストと共演したドクター。2011年にはロックの殿堂入りを果たし、2013年の第55回グラミー賞ではアルバム『ロックト・ダウン』で最優秀ブルース・アルバム賞を受賞している。
 残念ながら2019年6月6日、心臓発作のため77歳で亡くなってしまった。

*1987年のインクスティック芝浦でのライヴが、CDになっている。
Dr. John,Neville Brothers ドクター・ジョン ネヴィル・ブラザーズ/Tokyo,Japan 1987

YouTubeから「Dr.John -IKO IKO- (with Sunday Night Band)」 「DR JOHN Back To New Orleans 2004 Live」 「Etta James, Dr. John and Allen Toussaint- Groove Me

ドクター・ジョン 公式ウェブサイト

インクスティック芝浦 1987年7月22日撮影
新宿京王プラザ・ホテル 1992年4月9日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1992年7月号
インタヴュアーは半戸芳憲さん
#ドクタージョン
#DrJohn
#マックレベナック
#MalcomJohnRebennack
#ニューオーリンズ
#NewOrleans
#アーカイブ

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*3月12日に記事訂正。インクスティック芝浦でのドクター・ジョンとネビル・ブラザーズのライヴですが、これまで1987年7月20日だと思っていましたが、7月22日の可能性が大きいので訂正しました。また、この時のライヴがCDになって発売されているようなので、その情報を追加しました。

ドクター・ジョン

1月27日(月)

 今日は2019年に亡くなった弟の誕生日。すっかり忘れていたが、facebookが教えてくれた。妹が誕生日ケーキを3つ買ってきた。晩ご飯の後、両親と3人で食べた。

 国会では石破総理の施政方針演説に対する各党の代表質問が行われたが、マスコミも国民もフジテレビの再会見の方に関心があるようで、夕方のニュースもフジテレビの会見の話しばかりだった。午後4時から始まった記者会見は、午後9時現在まだ続いている。

 この他の気になった記事を備忘録として。
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さようならオレンジ色のニクい奴 56年の歴史に幕
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渡部絵美

◯渡部絵美

 1970年代に活躍した元フィギアスケート選手で、現在はタレントとして講演活動をされている。
 1959年に日本人の父親と、スペイン系フィリピン人の母親との間に生まれ、本名は渡部・キャスリン・絵美。wikiによると2歳でスケートを始め、8歳から本格的にスケートを習い、その後、アメリカ・ミネアポリスにスケート留学。
 1972年、12歳で競技会にデビュー。初出場の全日本フィギアスケートジュニア選手権、全日本フィギアスケート選手権で優勝。
 1976年、インスブルックオリンピックに16歳で出場し、13位に入る。
 1979年の世界フィギアスケート選手権では、日本女子のフィギアスケート選手としては史上初となる銅メダルを獲得した。
 翌1980年6月23日に、フィギアスケート界を引退し、タレント活動を開始する。
 渡部絵美さんを撮影したのは、健康雑誌のダイエット特集だった。目黒にあるご自宅にお伺いしてインタヴュー中の写真と、ポーズ写真を撮らせていただいた。
 渡部さんはもともと太りやすい体質で、スケート選手として活躍していた頃もダイエットに苦労されていたそうだ。

 サッチー騒動の際にはストレスで体重が75キロにまで増え、このままではいけないと知人から勧められた炭水化物抜きの食事を実行。カレーが食べたい時にはキャベツの千切りをご飯代わりにするなどして、半年間で19.5キロの減量。ウエストが7.2センチ、ヒップも8センチ減ったそうだ。
 この時の取材では、健康法の一つとして呼吸についても話されていた。
「まず、背すじをピンと伸ばしておなかに手を当て、おなかを膨らませるように深く息を吸い込みます。そして、おへその辺りに意識を集中しながら息をゆっくり吐き出します。最後まで吐き切ることがたいせつです。これを何回か繰り返すのです。この呼吸法は、車や新幹線の中とか、だれかと待ち合わせをしているときなど、私はちょっとした時間を利用してやっています」
 渡部さんは2000年に幻冬舎から『40歳から美しく生きるためのダイエット』という著書を出されている。 

YouTubemから「渡部絵美さんのパーフェクトなFS Emi Watanabe」 「Nissho TVCM 渡部絵美さん語るもっと篇 15秒

渡部絵美 オフィシャル・ブログ

東京・目黒 1999年12月8日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2000年3月号
インタヴューと文は小林紀子さん
#渡部絵美
#EmiWatanabe
#アーカイブ

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金光修

◯金光修

 中居正広氏とフジテレビの問題で、また金光修さんの名前を聞いたり目にしたりする機会が多くなった。またというのは、2021年にもフジテレビなどを傘下に置くフジ・メディア・ホールディングスが外資規制に違反していた問題で、フジ・メディア・ホールディングスの社長として金光修さんが記者会見を開いて謝罪していたから。
 金光さんは20年以上前になるが、大鷹俊一さんの連載「レコード・コレクター紳士録」の取材で自宅にお伺いして撮影させていただいたことがある。当時はフジテレビの編成局に勤務されていて、「カルトQ」「カノッサの屈辱」「アジア・バグース」「料理の鉄人」などの番組の企画に携わっていた。アスコムから『あの頃、VANとキャロルとハイセイコーと…since1965』という著書を出されたばかりの頃だった。
 金光さんは特定のジャンルのレコードや、特定のミュージシャンのアルバムを集めるというより興味の赴くまま聴いた音楽がコレクションになっていったという感じだった。

「私、コレクターじゃないんですよ。捨てられないだけの”保存家”なんです。本(『あの頃、VANとキャロルとー』)の写真に使ったようなものは子供の頃から取ってあったんですけど、そういう人って大事にするじゃないですか。でも、私は全然。ただ雑然と箱の中にあるだけで、整理もしてないんです。日本盤レコードもオビとかへの執着はないから、あるのもないのもあって、なくなってるのも気がつかない。貸したままってのも一杯あって。確かに持ってたよなってのはレコードに限らず、いろいろありますよ。大事にする人のメンタリティとは違って、私の場合は手に入れてとりあえず完結。あとは置いとくぞ、みたいな(笑)。だからコレクションのために買うってのは動機としてないんです」
 金光さんは1954年生まれ。ラジオの電話リクエスト世代だったようで、
「その頃、どうやったらリクエストで名前を呼ばれるかっていうコツをつかんで(笑)。簡単なんですよ。毎月『レコード・マンスリー』が出る日にレコード屋さんに行ってそれを貰うんです。そこに新譜のページがあるじゃないですか。それを上からリクエストしていくと、絶対にかかるんですよ。その当時は別に仕組みなんてのは知らなかったんですけど、ラジオ局はレコード会社から絶対プッシュされているし、新しいのをかけたいじゃないですか。だから競争率はまったく低くて、出た日から2~3日はリクエストがかかりまくりました。みんなマジメに自分が聞きたい曲とか書いてるけど、そんなのいっぱい来るから名前読むのも早口で誰々さん誰々さんからのリクエスト、ハイどーぞってなるけど、一人しかリクエストないのってえらいんですよ(笑)。練馬区の金光さんからのリクエスト、何とかの新曲です、ってのが快感でしたね」
 こんな話を楽しそうにされていた。
 就職したことがないのでわからないが、不祥事の際にトップが記者会見で陳謝している場面を見ると、会社で出世して登りつめることが幸せな人生なのだろうかと思うことがある。金光さんは、今も好きなモノを集め、それに囲まれる生活を送られているのだろうか。

あの頃、VANとキャロルとハイセイコーと…since1965

東京・品川区 2003年3月26日撮影
初出『レコード・コレクターズ』2003年6月号
インタヴュアーは大鷹俊一さん
#金光修
#OsamuKnemitsu
#レコードコレクター紳士録
#アーカイブ

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1月25日(土)

 今日は初天神(天神講)。昨年暮れに床の間に飾った天神様の掛け軸を仕舞い、天神様にお帰りいただく日だ。昨日はちらし寿司を作ってお供えし、おもてなしをした。すし太郎と甘辛く炊いた市販の油揚げ、さつま揚げ、白ごまをご飯に混ぜて酢飯を作り、その上にネギトロ、サーモン、ツナマヨ、アボカド、カニカマ、薄焼き卵、カイワレをトッピング。晩ご飯は天神様と神棚にお供えしたちらし寿司のお下がりを家族でいただいた。
 今日の午前中に父親が掛け軸を仕舞い、天神様はお帰りになられた。

↓両親がデイサービスに行っている間に作ったちらし寿司。→天神様の掛け軸。
天神様の掛け軸
ちらし寿司
確定申告の書類

 昨年はいつまでたっても確定申告用の書類が入った封筒が届かないので、税務署に問い合わせたところ、石川県と富山県は能登半島地震で配送が困難なため取りやめたので、必要な人は取りに来るか電話で住所をお知らせいただければ送りますというので、住所を告げて送ってもらった。
 今年も税務署に電話しないといけないのかな?と考えていたら、昨日無事に届いた。

◯ロビー・ロバートソン

 ザ・バンドの創設メンバーで、最後の存命者だったガース・ハドソンが今月21日、ニューヨークの介護施設で眠るように息を引き取ったそうだ。
 ザ・バンドは1967年から1976年までアメリカを拠点に活動したカナダのロック・バンド。オリジナル・メンバーはカナダ人のロビー・ロバートソン、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン、リック・ダンゴ、そしてアメリカ人のリヴォン・ヘルム。
 リチャード・マニュエルは1986年3月4日に長年薬物中毒に苦しんだ後、42歳で自死。リック・ダンゴは1999年12月10日、ニューヨークの自宅で就寝中に亡くなった。56歳だった。リヴォン・ヘルムは2012年4月19日、ニューヨークのメモリアル・スローン・ケタリング癌センターで、71歳で亡くなっている。
 掲載した写真はロビー・ロバートソン。彼も2023年8月9日、長い闘病生活の末、ロスの自宅で家族に見守られながら亡くなったという。80歳だった。
 この写真は2002年11月、渋谷のタワー・レコードで行われた映画『ラスト・ワルツ 特別編』DVDリリースに合わせたイヴェントで、ピーター・バラカンさんがロビー・ロバートソンに公開インタヴューした時のもの。そのインタヴューの模様が、『ミュージック・マガジン』2003年1月号に2ページで掲載され、写真が使われている。公開インタヴューというトーク・ショーの後にはサイン会が行われ、熱心なファンが列を作っていた。
 ロビー・ロバートソン。1943年7月5日、オンタリオ州トロントで生まれる、7歳でギターを始め、1958年にロニー・ホーキンスのバック・バンド、ザ・ホークスに加入。1965年、66年に行われたボブ・ディランのツアーにザ・ホークスとして参加。その後、ザ・ホークスはザ・バンドと改名する。ザ・バンド解散後は、セッション・ギタリスト、音楽プロデューサーとして活躍した。

ザ・バンドのロビー・ロバートソンが80歳で死去

YouTubeから「The Band: I Shall Be Released (The Last Waltz)」 「The Last Waltz (1978) - The Night They Drove Old Dixie Down Scene (5/7) | Movieclips」 「Eric Clapton, Robbie Robertson (Who do you love)


ザ・バンド 公式ウェブサイト

渋谷タワーレコード 2002年11月2日撮影
初出『ミュージック・マガジン』2003年1月号
#ロビーロバートソン
#RobbieRobertson
#ピーターバラカン
#PeterBarakan
#ザバンド
#TheBand
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ロビー・ロバートソン
マルコス・ヴァーリ

◯マルコス・ヴァーリ

 1943年、ブラジル・リオデジャネイロ生まれのシンガーソングライターで、ギタリスト、キーボーディスト。
 現在81歳になるが、2023年にブラジルのフュージョン・グループ、アジムスと共に来日し、コットンクラブで公演を行なっている。また、2024年には5年ぶりとなる新作「トゥネル・アクスティコ』をリリース。現役の音楽家として精力的に活動されているようだ。
 彼を撮影したのは『レコード・コレクターズ』2001年12月号での取材だったが、10月号、11月号でもマルコス・ヴァーリの特集が組まれている。この年の10月に来日公演があり、そのスケジュールに合わせた3号続けての掲載だったのだろうか。
 アルバム紹介を含めて21ページの大特集となっている10月号のリード文を、プロフィールがわりに引用させてもらう。

<近年、再評価の高まるブラジルのシンガー/ソングライター、マルコス・ヴァーリ。元々ボサノヴァに魅せられて音楽を始めた彼は64年にデビュー、ボサノヴァの第2世代の代表的作曲家として、タンバ・トリオなど数多くのアーティストに作品を取り上げられた。アメリカでの2年ほどの活動の後、ブラジルに帰国してからはボサノヴァのスタイルから脱し、ブラック・ミュージックやロック的な要素と独自の鮮やかなハーモニーやグルーヴがうまく調和したアルバムを次々と発表して行く。90年代のイギリスのクラブ・シーンでこの時代の彼の音楽が再発見され、人気を呼ぶようになったことがきっかけで、彼自身も久々に復活、2001年にも復帰第2作を発表した。この10月には来日公演も控えている>
 撮影を担当した12月号は、ブルーノート東京での公演(クレモンティーヌとの共演)で来日した際に行われた駒形四郎さんによるインタヴューで、取材場所は彼が宿泊していた新宿のヒルトンホテルだった。
 6ページの記事の中で影響を受けた音楽や、国際音楽祭のこと、サウンドドラックの仕事について、そして彼が好んで使うフェンダー・ローズの魅力などが語られている。
「僕の音楽がヴァラエティに富んでいるのは、やっぱり、僕が聴いてきた様々な音楽から影響を受けてるからだと思うよ。初めて僕が習ったクラシック音楽からジャズ、ボサ・ノヴァ、ポップ、ロック、ブラック・ミュージック、そしていろんなブラジルのリズム・・・。そんな影響が僕の音楽に反映していると思うし、僕の中で音楽を様々な方向から捉えることができるんだよ。
 例えば、あるアルバムではメロディを大事にしてちょっと無重力感のあるマジカルな感じにしてみたり、あるアルバムではリズムを重視して力強い感じにしてみたり。すべてが僕の音楽の要素なんだけど、アルバムによって一つの要素だけがクローズアップされることがあるから、同じ僕の音楽でも全く違うタイプに思える作品が存在したりするんだ」
 ベッドに横たわってギターを弾いている写真は、1970年に発売されたアルバム『Marcos Valle』へのオマージュです(笑)。

YouTubeから「Samba de Verão (So Nice)/Marcos Valle & Andy Williams

" MARCOS VALLE & AZYMUTH " COTTON CLUB LIVE 2023

マルコス・ヴァーリ Instagram

新宿・東京ヒルトンホテル 2001年10月9日撮影
初出『レコード・コレクターズ』2001年12月号
インタヴュアーは駒形四郎さん、通訳はKana Muramatsuさん
#マルコスヴァーリ
#MarcosValle
#ブラジル音楽
#BrazilianMusic
#アーカイブ

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1月23日(木)

 昨年の夏が暑かったので、この冬は大雪になるとの予想だったが、富山の平野部は平年に比べても雪が少ないような。今日からお天気は下り坂らしいが、今年は春が早く来そうだ。花粉が怖い。
鈴木慶一

◯鈴木慶一

 鈴木慶一さんは何度か撮影している。ある時はゲームクリエイターの飯野賢治氏との対談だったり、映画監督の岩井俊二氏との対談だったり。XTCのアンディ・パートリッジ、コリン・モールディングとの3人での対談というのもあったが、一番最初は1993年11月13日に新宿の日清パワーステーションで行われたライヴ、そしてその6日後に行われたインタヴューでの撮影だった。
 当時のスケジュール帳には鈴木慶一、アートポートとメモがあるので、鈴木慶一さんとアートポート(かしぶち哲郎、白井良明、鈴木博文)のジョイントでのライヴだったかもしれない。
 1993年は1988年~1989年に録られたデモ・テープの音源をミックスした『THE LOST SUZUKI TAPES』がリリースされた年で、そんな話から始まって北中正和さんがインタヴューをされている。
 撮影した当時に自分も『THE LOST SUZUKI TAPES』を買って聴いていた。漫画家の蛭子能収さんが「人間の条件(ぢょうけん)」という曲で作詞家として参加している。鈴木慶一さん作詞、THE BEATNIKS作曲の「LEFT BANK(demo)」という曲がなんだか切なくて好きで、今でも時々聴くことがある。

 鈴木慶一さんの、そしてムーンライダーズの熱心な聴き手ではないが、『ガロ』1994年1月号の永島慎二特集の200人アンケートで、慶一さんが「私は生涯一読者でいたいと思う。十分に、そういう本だ」「ティーンエイジャーのころ、コートさんになりたかった。黄色い涙を流してみたかった」とコメントを寄せていたのが強く印象に残っている。そういう人柄なのだと思った。
 鈴木慶一。1951年東京生まれの音楽家、俳優。1970年ごろより音楽活動を開始し、あがた森魚、はっぴいえんどなどのサポート、数多くの録音セッションを経験する。
 1971年にはちみつぱいを結成。1973年に1stアルバム『センチメンタル通り』をリリース。
 1975年に弟・鈴木博文らとムーンライダーズを結成し、翌年にアルバム『火の玉ボーイ』を発売。
 1981年には高橋幸宏とのコンビでTHE BEATNIKSを結成。このほか鈴木博文とのユニット、THE SUZUKI、ケラリーノ・サンドロヴィッチとのユニット、No Lie-Sense、パンタとのユニット、P.K.O、など他にも多数のグループやユニットで活動。

YouTubeから「火の玉ボーイ 2015.12.20 LIVE/鈴木慶一とムーンライダース」 「LEFT BANK/鈴木慶一

鈴木慶一 X(旧ツイッター)

新宿・日清パワーステーション 1993年11月13日ライヴ撮影
六本木WAVE 1993年11月19日インタヴュー撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年1月号
インタヴュアーは北中正和さん
#鈴木慶一
#KeiichiSuzuki
#アートポート
#ARTPORT
#かしぶち哲郎
#TetsuroKashibuchi
#白井良明
#RyomeiShirai
#鈴木博文
#HirobumiSuzuki
#岡田徹
#ToruOkada
#駒沢裕城
#HirokiKomazawa
#徳武弘文
#DrK
#アーカイブ

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XTC

◯XTC アンディ・パートリッジ

 これまでにXTCのアンディ・パートリッジを撮影する機会が2回あった。最初は1992年9月で、彼が宿泊していた渋谷のセンター街の奥にあった小さなホテルで撮影した。その時、もし彼がXTCの日本限定盤ピクチャー・レコードを持っていなかったら差し上げようと思い取材場所に持参した。結果、彼は持っていると言い、ジャケットにサインをして返してくれた。サインと共に自分の顔写真の横に「WITH HAIR」という、お茶目なコメントが添えられている。
 ロビーでインタヴューカットを撮った後、ちょっと街に出てもらった。歩いていると櫓のようなものがあったので、その前にカラーペーパーを貼り彼に立ってもらった。櫓の上に担当編集者の加藤さんを上げて、アンディ・パートリッジの首を手で締めた。「ナイス スナップ!」だったか「グッド スナップ!」だったか、後で加藤さんの締め方を誉めていた。
 そんな撮影を路上でしていると、傘をさした女子中学生が通りかかり、アンディ・パートリッジが一緒に写真を撮ろうと声を掛けた。女の子の持っていた傘を自分で持って、真ん中に立った。傘に書かれたMOSCHINOの文字とカラーペーパーが狙ったように同色。

 ガジェットっぽい感じで個人的には好きな写真なのだが、こちらは雑誌に掲載されることはなかった。渋谷を歩いていて変なオジさんたちに声を掛けられて一緒に写真を撮った彼女たちは、どうしているだろう。もう記憶の隅にもないかもしれないが。
 2度目にアンディ・パートリッジを撮影したのは1999年3月で、アルバム『Apple Venus Volume1』のプロモーションのためにXTCのメンバーとして来日した時だった。デイヴ・グレゴリーが脱退し、XTCはコリン・モールディングと2人だけになっていた。
 鈴木慶一さんとXTCの2人の対談という形だったろうか。対談が終わりフォトセッションとなった時に、アンディ・パートリッジがレコード会社のスタッフにフロアにある傘を全部持って来てくれと声をかけた。集められたたくさんの傘をXTCの2人が抱えて、撮影用に張った黒布の前に立った。
 真ん中に鈴木慶一さんに入ってもらい、傘をさしてもらった。写真は慶一さんが傘をさしている写真と、ただ立っている写真の2パターンを撮影した。雑誌で掲載したのは、傘をさしていない方だった。
 アンディ・パートリッジのアイデアだった傘写真を撮り終えて、今度は自分が撮りたい写真をお願いした。3人並んでもらって正面、横、後ろを3パターン撮らせてもらった。たぶんこの写真があれば、3Dデータを起こして鈴木慶一さんとXTCのメンバーの胸像が造れるはずだ(笑)。
 1枚目~5枚目の写真が1992年に撮影したもの。6枚目と7枚目はその時にアンディ・パートリッジが書いてくれたピクチャー・レコードへのサイン。8枚目~10枚目は1999年に撮影したもの。

YouTubeから「Senses Working Overtime -BBC2 TV - TOTP 1982/XTC」 「Apple Venus Volum1/XTC

XTC  公式ウェブサイト

アンディ・パートリッジ 公式ウェブサイト

渋谷クレセント・ホテル 1992年9月19日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1992年11月号
インタヴュアーは和久井光司さん

虎ノ門・ポニーキャニオン 1999年3月16日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1999年5月号
インタヴュアーは鈴木慶一さん、通訳は丸山京子さん
#XTC
#アンディパートリッジ
#AndyPartridge
#コリンモールディング
#ColinMoulding
#鈴木慶一
#KeiichiSuzuki
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1月21日(火)

 今朝起きたら、ドナルド・トランプ氏が大統領に就任していた。ワイドショーもテレビニュースも、このトランプ氏の大統領就任と中居正広氏の女性問題への対応でフジテレビへのCM差し止めが相次いでいるという話でもちきりだった。

お年玉切手シート
 2025年用お年玉付き年賀はがき・年賀切手の当選番号が発表された。
 年々年賀状を出すのを減らしていて、今年は出すのも貰うのも少なかったから何もないかな?と思っていたが、自分宛に1枚、父親宛に1枚3等のお年玉切手シートが当たっていた。普段当たらない妹も今年は切手シートが2枚当たっていたそうで、買い物のついでに郵便局で引き換えてきた。
おにぎり1個盗んだ疑いで75歳の男を現行犯逮捕 「ごめんなさい」と容疑認める 浜松市
スーパーマーケットで昆布1点を盗んだ疑い、77歳男を現行犯逮捕 別件で訪れていた警察官に店員が申告 富山・高岡市
商業施設で食料品4点を万引きか 窃盗の疑いで66歳の男を現行犯逮捕 富山
 市民はおにぎり1個、 昆布一つ万引きして現行犯逮捕されるのに、何十万、何百万、何千万円のキックバック(裏金)を受け取っても起訴すらされない自民党議員。この夏の参院選で落ちますように。
中村とも子

◯中村とも子

 マドンナのビデオ『LIike a virgin』のヘアメイクも手がけたヘアメイクアップアーティストの中村とも子さん。その中村さんを撮影したのは健康雑誌の美容特集で、氷水に浸したタオルで肌をまんべんなく優しくパッティングするというお手入れ方法の取材だった。
 氷水パッティングを行うと、肌に張りが生まれ、毛穴が引き締まり、続けていると肌が滑らかになり光沢も出てくるそうだ。
 中村さんのやり方は、ボウルに氷と水道水を入れる。分量は氷を7~8個に、水をコップ半分(約100ml)。最初に普段どおり洗顔し、その後、あらかじめ水で濡らしたタオルを氷水に浸して軽く絞り、肌を優しくパッティングする。タオルが温まったら、そのつど氷水に浸してから軽く絞り、パッティングするというものだった。
 この氷水パッティングは女優の木の実ナナさん、歌手の奥村チヨさんも実践されている。
 雑誌掲載時のプロフィールを引用すると、

<伊勢丹美容室、大関美容室を経て美容師・芝山女史に師事。1975年にフリーランスになる。アメリカ、ヨーロッパの広告、CFおよび雑誌『VOGUE』『ELLE』『Mademoiselle』『Vanity Fair』各誌を中心に活躍。また、歌手マドンナの最初のビデオ『LIike a virgin』や女優フェイ・ダナウェイのヘアメイクも手がける>
 インターネットで検索してもこれ以上詳しいプロフィールは見つからなかったが、写真家の横木安良夫さんのブログに、中村さんが亡くなったことが書かれていた。亡くなられた日はわからないが、2008年3月17日に青山斎場で、「お別れの会」があったそうだ。この日は中村さんの61回目の誕生日でもあったという。
 横木さんのブログを読むと、ファッションの世界ではとても有名なヘアメイクアップアーティストだったようだ。
 この写真はコニカミノルタのαー7DIGITTALで撮影しており、RAWデータはなくJPEGデータのみ。入稿はフィルムで、このデジカメ画像はポラ替わりに使用していたのかもしれない。
 撮影場所は南青山にあるモデルエージェンシー、ボン・イマージュだった。

港区南青山 2005年5月23日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2005年9月号
#中村とも子
#TomokoNakamura
#ヘアメイクアップアーティスト
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森理世

◯森理世

 2007年のミス ・ユニバース
 彼女のオフィシャル・ブログのプロフィールを参考にすると、1986年生まれ。4歳より母の元でダンスを始める。2003年、高校からカナダに留学。2006年センティニア・ハイスクール卒業。ハイスクールと並行してクインティ・バレエスクールにて教師課程を終了。
 同年、ニューヨークにてブロードウェイを目指した、ROCKETTES・サマーインテンシブル・プログラムに日本人として初合格し、トレーニング終了後に帰国。
 2007年、日本代表選考会で優勝し、メキシコ・シティで開催されたミス・ユニバース世界大会へ出場。満場一致の得票で優勝し、世界一の栄冠を獲得する。日本人としては48年ぶり、2人目のミス・ユニバースとなる。
 2009年、ダンス&ビューティを掲げ、ダンスを通しての子供の育成、女性のボディバランスケア、年輩者へのヘルスコントロールなどを行う「I.R.M.ダンスアカデミー」を母と共に設立。

 森理世さんを撮影したのは、ミス・ユニバース世界大会で優勝した2年後、彼女が22歳の時だ。撮影場所はその年に設立した「I.R.M.ダンスアカデミー」。媒体は、当時担当していた健康雑誌の「NOPETNOLIFEペットと私」という連載ページだった。ハニーちゃんという愛犬との写真や、子供達にダンスを教えているところを撮影させていただいた。その時の撮影の様子が、彼女のブログに掲載されている。
 2019年5月にアメリカ人男性と国際結婚し、結婚と同時に6歳の男の子の母親になったという記事を見たときは驚いた。彼女自身、2021年にはアメリカで女の子を出産されたそうだ。
 また、同じ2021年に、世界5大ミスコンテストに出場経験のある日本代表の有志によって組織した「5 Crowns Japan」を設立し、会長に就任。元ミスらが在任中に得た経験を活かして、青少年育成、女性支援活動など社会貢献に取り組んでいるそうだ。

YouTubeから「Riyo Mori ( Japan ), Miss Universe 2007 - Swimsuit Competition」 「Miss Universe 2007 - Riyo mori

森理世 公式ウェブサイト

森理世 オフィシャル・ブログ

I.R.M.ダンスアカデミー 公式ウェブサイト

静岡県静岡市 2009年11月13日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2010年3月号
#森理世
#RiyoMori
#ミスユニバース
#MissUniverse
#NOPETNOLIFEペットと私
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1月19日(日)

 昨日今日と、冬晴れの良い天気。今日は少し雲があったが、それでも立山連峰がくっきりと見えた。高岡の最高気温は1月とは思えない14℃。
 今日は自治会の通常総会。各事業の報告と新しい各班長の紹介。昨年は自分が班長だったが、今年は集落委員。集落委員が何をするのか知らないが・・。2時間弱の総会が終わって、帰り際にお土産をいただく。昨年は3種類のかまぼこの詰め合わせだったが、今年はケーキ2つ。かまぼこが貰えるつもりで晩ご飯を考えていたのに。

 ノーランズのメンバーとして活躍した、リンダ・ノーランが1月15日に亡くなった。65歳だったそうだ。YouTubeから世界中で大ヒットした「I'm in the Mood for Dancing/The Nolans」。

 昨年11月の兵庫県知事選期間中に「NHKから国民を守る党」の党首・立花孝志からのデマ情報拡散や中傷を受け、家族を守るために県議を辞職した竹内英明氏が、昨夜自宅から病院に搬送され死亡が確認された。自殺とみられる。立花孝志は竹内さんの死を受けて、SNSに<竹内元県議は昨年9月ごろから兵庫県警からの任意の取り調べを受けていた>などという書き込みをしているが、朝日新聞の取材に対し、県警幹部は「そんな事実はない」と否定している。兵庫県警はいつまで立花孝志を野放しにしておくつもりなのだろうか。そして、”ネットにこそ真実”があると立花孝志の呼びかけに踊らされデマを拡散しエスカレートさせたリテラシーのない人たちにも責任の一端はあるだろう。

 日本時間の21日未明に、ドナルド・トランプ氏が第47代大統領に就任する。

◯プードラゴジランボ

 ZELDAの高橋佐代子、OTO、ヤギヤスオ、パール兄弟の窪田晴男、ミュートビートのこだま和文、増井朗人、ボ・ガンボスの永井利充らで結成したスーパーユニット。戸川純、野宮真貴、どんと、サエキけんぞう、伊藤ヨタロウなど豪華なゲストを招いてライヴを行っていた。これがネット検索してわかった情報だ。
 いつ結成され、いつ解散したのかもわからないが活動の中心はインクスティック芝浦で、1987年頃ではないだろうか。実際、自分が雑誌『宝島』の仕事で彼らを撮影したのは1987年4月29日に行われた、インクスティック芝浦でのライヴだった。その時の記事(キャプション)によれば、ゲストはケラ、S-KEN、サエキけんぞう、チャカ他となっている。「BEAT ON THE STREET」という新しく始まったコーナーでの掲載で、カラーページだった。撮影したポジフィルムは編集部に渡し、自分の記録用として撮影したモノクロフィルムだけが残っていたのだろう。
 プードラゴジランボについて調べるのにネット検索していて、レコードジャケットのアートワークを多数手掛けられたイラストレーターのヤギヤスオさんが、昨年の4月9日に亡くなったのを知った。

YouTubeから「プードラゴジランボ LIVE 1987.8.24 INK STICK 芝浦 2/2」 「戸川純と高橋サヨコ / プードラゴジランボ LIVE 1987.8.24 INK STICK 芝浦(another song)

インクスティック芝浦 1987年4月29日撮影
初出『宝島』(JICC出版局)1987年7月号
#プードラゴジランボ
#高橋佐代子
#SayokoTakahashi
#OTO
#ヤギヤスオ
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#窪田晴男
#HaruoKubota
#こだま和文
#KazufumiKodama
#増井朗人
#AkihitoMasui
#永井利充
#ToshimitsuNagai
#ケラ
#Kera
#チャカ
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プードラゴジランボ

◯チャーティーボーイズ

 イミテーションのボーカルだったチーボーこと今井チカと、坂本みつわが結成したバンド。こちらの古田たかしさんのインタヴューを読むと、女の子3人組で古田さんがドラム、ベースが根岸孝(ねぎ坊)さん。
 オリジナル・アルバムはリリースしていないようだが、エピック・ソニーから発売された1987年6月から1988年12月まで、「AJIFM Super Mixture」というラジオ・プログラムの中で制作された曲をコンパイルしたオムニバス・アルバム『mf VARIOUS ARTISTS Vol.1』に彼女たちの「Be My Boy」が収録されている。このアルバムは佐野元春さんがプロデュースとミックスで全曲に関わっているという。
 タワーレコードのサイトで30秒だが「Be My Boy」」がお試しで聴ける。
 彼女たちのライヴを撮影したのは雑誌「宝島』の仕事だった。ストリート・ロック最新情報BEAT ON THE STREETというコーナーで、インクスティック芝浦でのライヴが紹介されている。記事は記名原稿ではないので、編集部が書いているのだろうか。
 ネットにはあまり情報がないので、この時の記事をそのまま引用させていただく。

<東京クラブ・シーンで、ちょっとした話題になっているチャーティ・ボーイズが4月5日、東京はインクスティック芝浦ファクトリーで初のワンマン・コンサートを行った。共演のカオス、ティーン・エイジ・ニュース(キティから近々デビュー予定)の演奏の後、9時過ぎに彼女達が登場。メンバーが元イミテーションのヴォーカル、チーボーこと今井智加と、東京ブラボーでおなじみの坂本みつわ、そして元スタイリストでモデルをしているという円城寺香の3人(それにベースとドラムスのサポート・メンバーがバック・アップしている)。チーボーやみつわは山本政志監督の「闇のカーニバル」にも出演していたので、御存知の人も多いだろう。
 3人の作り出す音楽を一言で説明すると「ピテカン」華やかりし頃の、いい意味でのお遊び感覚っぽいダンス・クラブ・ミュージック。ストック・エイトキン・ウォーターマンする前のバナナラマなんかを想像してもらえばいいだろう。
 彼女たちの一番の聞きモノは、佐野元春作詞・作曲の「BE MY BOY」。これは彼のFM番組「FMスーパーミクスチュア」の中で毎月紹介しているAJIレーベルのために録音されたナンバーで、ロネッツがスカしたって感じの曲だ。
 当然コンサートではこの曲が一番ウケていた。で、アンコールでもこの曲をやったんだけど、なんと、このテープを流して口パクでやってしまうのだ。この辺のオチャメさが彼女達の魅力だね。
 結構、これからライブ活動を本気!?でやっていくつもりらしいから、ライブ・ハウスとかで見つけたらチェックしてみて欲しい。次のライブは5月31日六本木インクスティックにて>

インクスティック芝浦 1988年4月5日撮影
初出『宝島』(JICC出版局)1988年6月号
#チャーティーボーイズ
#今井智加
#ChikaImai
#チーボー
#坂本みつわ
#MitsuwaSakamoto
#円城寺香
#アーカイブ

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チャーティーボーイズ

1月17日(金)

 阪神・淡路大震災から今日で30年が経った。
ひうらさとる

◯ひうらさとる

 干物女という言葉を生んだ漫画『ホタルノヒカリ』の作者。干物女を生み出した漫画家さんだが、ご本人はとてもオシャレでチャーミングな女性だった。
 干物女とはwikiの説明によれば、基本的に10代後半~30代の面倒臭がり、恋愛を放棄する女性を指すそうだ。特徴は、「メールの返事が極端に遅い、短い」「簡単な食事なら台所で立って食べる」「忘れ物を靴を履いたまま、膝立ちで部屋に上がり取りに行く」「休日はノーメイクでノーブラ」「半年ほど美容室に行っていない」「冬場は毛の処理を怠る、又はしない」「1人で居酒屋に入れる」「最近ドキドキしない」などとなっている。
 『ホタルノヒカリ』は講談社の女性漫画雑誌『Kiss』で2004年から連載されていたが、2007年夏に綾瀬はるか主演でテレビドラマ化され、2012年には劇場版『映画ホタルノヒカリ』も公開されている。
 ひうらさんの撮影は健康雑誌の美容特集「美顔マッサージ」の取材だった。25歳ごろからエステに通うようになったそうだが、3年前から口コミや友人の紹介で知った山中レイ子さんのマッサージが気に入って通い続けているとおっしゃっていた。

「私の場合、肌が薄いせいか、子どものころから目の下にクマができていて、なんだかいつも疲れているみたいで嫌でした。それが、山中先生の施術を受けたら、クマが消えてしまいました。しかも、前から気にしていた口のわきのシワも、ほとんど目立たなくなりました。こんな経験は、ほかのエステではなかったことです」と話されていた。
 撮影させていただいた2007年は都内の一等地のマンションに住まいと仕事部屋を構えていらしたが、現在は兵庫県の北部、城崎温泉にお住いのようだ。当時は結婚されたばかりだったが、現在は中学生の女の子のお母さんになられている。
 たしか戸川純やゼルダが好きだったと聞いたので、昔は宝島少女だったのかもしれない。「宝島少女」「ビックリハウザー」って、もうピンと来る人もあまり居ないだろうが(笑)。
 ひうらさとるというペンネームは、小学生の頃に大ファンだった水島新司さんの『野球狂の詩』の登場人物「火浦健」と、『ドカベン』の里中智に由来するそうだ。
 講談社の女性漫画雑誌『BE・LOVE』で2021年10月号から2024年7月号まで連載されていた『西園寺さんは家事をしない』は、2024年7月からTBS系列でテレビドラマが放送されるなど、相変わらずの人気漫画家さんだ。

YouTubeから「ひうらさとる CLIP STUDIO PAINT EXで『ホタルノヒカリSP』を描く

ひうらさとる 公式ウェブサイト

ひうらさとる YouTubeチャンネル

港区・赤坂 2007年9月6日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2007年12月号
#ひうらさとる
#SatoruHiura
#ホタルノヒカリ
#干物女
#西園寺さんは家事をしない
#アーカイブ

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浜内千波

◯浜内千波

 テレビや雑誌などでも活躍している料理研究家、食プロデューサー 。公式サイトのプロフィールによれば、
<徳島県生まれ。大阪成蹊女子短期大学栄養学科卒業。『家庭料理をちゃんと伝えたい』という思いで、ファミリークッキングスクールを主宰。『料理は、もっともっと夢のある楽しいもの』をモットーに各種メディア・講演会に出演、著書多数。「健康をテーマ」にした楽しい講演会は定評。食ビジネス全般においても商品開発・メニュー開発、コンサル業務に携わり、キッチン用品「Chinami」も立ち上げる>
 浜内さんを撮影したのは、健康雑誌の「レタス・ダイエット」という特集だった。浜内さんがレタスをはじめとした野菜中心の食生活に切り替えたのは30代半ばで、当時は体重が96キロあったそうだ。このままでは病気になってしまうと危機感を抱いて、それまでの食生活を見直し、野菜中心に替えて、約1年半かけて56キロまで落としたという。
 ページには浜内さんによる野菜ダイエットのポイント、そして料理レシピが掲載されている。撮影は浜内さんのキッチン・スタジオで行い、ポートレートと浜内さんのレシピによる料理を3品撮っている。この時が仕事における料理撮影の、初めてのデジタル・カメラ実践投入だった。

 2007年のことだが、ポートレートや風景などはデジカメで撮影して納品していたけれど、料理はまだフィルムを使っていた。ノートパソコンを持ち込み、その場でRAW現像を行いハイライトの出方をチェックしながら撮影した。
 カメラはコニカミノルタのαー7DIGITAL。ライティングは150wのモノブロック・ストロボ2灯とレフ板。1灯はキミーラの小型バンクを付けて、もう1灯は傘の前にトレペを垂らし反対側をレフで起こしている。

浜内千波 公式ウェブサイト

浜内千波 オフィシャル・ブログ
https://ameblo.jp/hamauchi-chinami/

東京・中野 2007年5月28日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2007年9月号
#浜内千波
#ChinamiHamauchi
#アーカイブ

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1月15日(水)

 ロサンゼルス周辺で続く山火事が、昨日で発生から1週間となった。これまでに25人が亡くなり、8万8000人が避難指示の対象となっているそうだ。ロサンゼルス近郊は15日未明から午後にかけて再び風が強まる予報で、危険な状況になるとされている。
 ロサンゼルスは音楽産業の拠点で、音楽家も多く住んでいることから、音楽業界にも影響が出ているという。
ロサンゼルスの山火事、音楽業界にも想像を絶する被害を及ぼしていた
プライマスのギタリスト、ラリー・ラロンデの自宅がロサンゼルス山火事で全焼

 韓国のユン・ソンニョル大統領が、内乱の疑いで捜査当局に拘束された。現職大統領の拘束は韓国で初めてのこと。韓国では日本と違い、司法も検察も警察も機能しているということだろう。

佐野史郎

◯佐野史郎

 1955年、島根県松江市出身の俳優、ミュージシャン。1986年に林海象監督のデビュー作である『夢見るように眠りたい』の主役で映画に初出演。役者として一般に広く知られるようになったのは、1992年7月3日から毎週金曜に放送されたテレビドラマ『ずっとあなたが好きだった』の桂田冬彦役だろうか。自分はこのドラマを見ていないが、冬彦さんがマザコンの代名詞になっていたのは覚えている。以降、俳優として映画、テレビドラマ、舞台にと大活躍されている。また、ミュージシャンとしての顔もお持ちで、タイムスリップや佐野史郎とライスカレーなどのバンド活動もされてきた。
 佐野さんを撮影したのは「レコード・コレクター紳士録」という、音楽評論家の大鷹俊一さんが雑誌『レコード・コレクターズ』で連載しているページの取材だった。武蔵野市にあるご自宅にお伺いして、防音設備のあるコレクションルームで撮影させていただいた。
 取材したのは2001年10月だったが、この年の12月に『佐野史郎とカレーライス』というアルバムを発売するというお話をされていた。

「タイムスリップってバンドをずーっとやってて、夢野ワンダって女の子がメインだったんだけど、僕がフロントに立つことになって、ちょっとバランスが悪くなったりして一回は音楽やめてたんですけど、やっぱりやりたくなる(笑)。で、そんなときにEBBY⭐︎とエンケン祭りで一緒にやって意気投合して、ちょうどライヴハウスの人から話もあって、ドラムのグレースとか声かけて出てたんです。その後、松本隆さんの風街ミーティング(99年)に呼んでいただいて、はっぴいえんどのあまり知られていない<ちぎれ雲>って曲をカヴァーしたんですが、そのとき鈴木茂さんもいて、その曲はライヴではやってたけど結局アルバムには入らなかった鈴木さんの処女作だったとわかったんです。
 そんなことがここ2~3年あって、ティンパンの再結成の打ち上げによばれて顔を出したら茂さんが”一緒にレコーディングしようよ”っておっしゃって下さって、それを逃す手はないと、すぐにスタジオをとって後先考えずに録ろうと。でそのとき3曲くらい録って、また間があいてライヴをやりつつ、また何曲か録ったりして、これはなんか形にしなきゃまずいんじゃないかってことになっていったんですね。だから企画先にありきじゃなく、自然発生なんです」
 記事によれば、エンケンさんが渋谷でやっていた喫茶店「ワルツ」の第一号の客が佐野史郎さんだったそうだ。コレクターとしては興味の向くまま幅広い音楽を聞かれていて、「東京に来たら、もうレコード中心です。エンゲル係数はすごかったんじゃないかな(笑)」と話されている。佐野さんとは5歳離れているが、聴いてきた音楽が多少シンクロする部分もあり、興味深かった。
 2023年7月には、佐野史郎 meets SKYEでアルバム『ALBUM』をリリースされている。
 掲載誌は2001年12月号だが、2019年に発売された書籍『レコード・コレクター紳士録2/大鷹俊一』にも再掲載されている。

YouTubeから「小平の女/タイムスリップ@1987吉祥寺のろ」 「禁断の果実 / 佐野史郎 meets SKYE with 松任谷正隆[The members of SKYE are 鈴木茂 , 小原礼 , 林立夫]」 「佐野史郎とライスカレー with 山本恭司 /Summertime Blues

佐野史郎 公式ウェブサイト

佐野史郎 Instagram

東京・武蔵野市 2001年10月11日撮影
初出『レコード・コレクターズ』2001年12月号
再掲載『レコード・コレクター紳士録2/大鷹俊一』(ミュージック・マガジン)
インタヴュアーは大鷹俊一さん
#佐野史郎
#ShiroSano
#レコードコレクター紳士録
#アーカイブ

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大林宣彦

◯大林宣彦

 デジタルになってからの写真はデータを確認すれば撮影した日にちや時間がわかるのだが、フイルム時代のもので撮影年月日のわからない写真がいくつかある。大林宣彦監督のこの写真もそんな一つだ。成城にある監督のご自宅で撮影させていただいた。スケジュール帳を色々と確認していると1994年4月20日の欄に、それらしいメモがある。4月22日には同じ企画で、女優の藤谷美紀さんも撮影している。
 通常の雑誌の撮影だと掲載誌が残っているが、この大林監督の写真は雑誌の記事広告用に撮影したもので手元に掲載誌が一つもなく、どんな雑誌に掲載されたのかも覚えていない。納品はポジフィルムだが、個人の記録としてモノクロでも撮っておいたものだ。 
 撮影年月日どころか何の広告宣伝用かすら忘れてしまったが、撮影した部屋の様子は朧げに覚えている。監督を囲む部屋の棚には、手塚治虫作品がズラリと並んでいた。書斎というより手塚治虫部屋のような感じだった。
 クライアントの制作会社の方と大林監督が懇意にされていたようで、映画プロデューサーでもある恭子夫人の手作りピザをみんなでご馳走になって帰ってきた。

 あまり映画館へ足を延ばして映画を観る方ではない。そう言えば80年代の中頃だろうか、帰省したおりに高岡の御旅屋通りにあった映画館で大林監督の映画を観た記憶がある。尾道三部作のどれかだろうと思う。

大林宣彦 NHKアーカイブス人物録

世田谷区成城 1994年4月20日?
#大林宣彦
#NobuhikoObayashi
#アーカイブ

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1月13日(月)

 今日は地区の集落行事、左義長。12月25日配布の自治会だよりには16時からと書いてあったので、10分くらい前に会場となっているグラウンドに到着すると、火がほとんど消えて灰ばかりになっていた。同じ地区の隣の集落に住む知り合いから声をかけられて、左義長は15時から始まったと言われて驚いた。自分たちの自治会だよりに、間違った時間が掲載されていたのだろうか。急いで残り火の上にお焚き上げしてもらう正月の玄関飾りや神様のお札、以前お寺で母親がもらってきたお涅槃団子などを置く。
 灰と白い煙ばかりの左義長を何枚か写真に撮って家に帰る。その間にもグラウンドへ向かう車が何台かいた。自分と同じように、自治会だよりの16時からを信じて来たのだろう。
 最近、少しだけ日が長くなった気がする。
正月飾り、お札、お涅槃団子
自治会だより
↑16:00 左義長と書かれた自治会だより。
←お焚き上げしてもらう正月飾りやお札、お涅槃団子。
↓もうほとんど残り火になっていた左義長。
左義長
牛島和彦

◯牛島和彦

 奈良県生まれ、大阪府出身の元野球選手で、横浜ベイスターズの監督を経て、現在は野球解説者。
 牛島さんを撮影したのはロッテ・オリオンズの現役投手だった1990年のことで、<文系ビジネスマンが楽しむハイテク生活の本>というキャッチフレーズがついた『ALEK』というビジネス雑誌の「いま29歳がおもしろい」という巻頭特集での取材だった。他には出光ケイさん、高市早苗さん、若林健次さんなども取材している。牛島さん以外は一人でインタビューと撮影、そして原稿も書いているが、牛島さんは編集長がインタヴューと原稿を担当した。小林伸爾さんという編集長で、以前は女性誌の編集かライターをされていた。牛島さんとはその頃から親しく付き合っていたそうだ。
「プロ野球の世界は、キャリアの世界なんです。同じ29歳の選手でも、高校を出て、すぐに一軍で活躍したような選手は、もうベテラン扱い。だけど、社会人から26、27歳でプロに入った選手、一軍に上がって、まだ1、2年目の選手は、若手扱いですね」とプロ野球の厳しい世界を話されている。牛島選手はもちろん前者で、記事によると当時の年棒は6200万と書かれている。

 雑誌に掲載されたプロフィールをそのまま引用させていただく。
<1961年4月13日生まれ。大阪府出身。浪商時代、ドカベン・香川(南海。現評論家)とバッテリーを組んで、3回の甲子園出場を達成。’79年、ドラフト1位で中日に入団。’86年、落合とのトレードでロッテに移籍。球界屈指の抑え投手だが、今季は肩痛で、目下、ファームで調整中>

YouTubeから「1983 牛島和彦 2  ふてぶてしい匠の技」 「落合博満 VS 牛島和彦 1987年7月25日」 「【男の憧れ】浪商伝説!牛島和彦さんの大人気動画をイッキ見!

埼玉・武蔵浦和 1990年6月18日撮影
初出『ALEK』(アレック情報出版)1990年8月号
#牛島和彦
#KazuhikoUshijima
#いま29歳が面白い!!
#アーカイブ

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プリンセス天功

◯プリンセス天功

 今日は成人の日で祝日だが、2022年の民法改正で成人年齢が18歳に変更されたため、成人式ではなく「二十歳のつどい」として催し物を開催している自治体が多いという。今朝の地元の新聞を見ていると、すでに日曜日だった昨日「二十歳のつどい」を行ったところもあるようだ。
 16年前の1月12日、文京区の成人式を撮影に行った。被写体は成人した方々ではなく、成人式でマジックショーを披露するプリンセス天功さんだった。雑誌の連載でペットと一緒の撮影をオファーしていて、この日ならとOKをいただいた。
 楽屋にお伺いするとショーも撮影しますか?とマネージャーの方に尋ねられ、急遽ショーも撮ることになった。成人式のためのものなので、ショー自体は30分ほどだった。
 再び楽屋にお邪魔して、ステージ衣装から別の衣装に着替えたプリンセス天功さんと、ファービーちゃんという名のフクロウを撮らせていただいた。
 楽屋は鏡だらけだったが、写り込まないようにと全ての鏡の上にマネージャーの方が白い紙を貼っておいて下さった。職人技のようなキッチリとキレイな貼り方だった。

 この時の楽屋での撮影の様子が、こちらにあります。
 そのプリンセス天功さんが昨年、アイドル歌手だった朝風まり時代から45年ぶりに音楽活動を再開した。今回はシンガー・ソングライターのyucatと、ペットのホワイトライオンのKINGと共に2人と1匹の「KinGOO」というユニットを結成。yucat作詞・作曲のデビュー曲「Magical Jungle」を配信している。こちらに、レコーディング風景が少しUPされているが、相変わらず年齢不詳で、いつまでも歳を取らない。ネット情報では自分より3つか4つ上のはずだが・・・。ちなみにwikiによればアメリカでの契約は引田天功とプリンセス・テンコーは別のキャラクターで、プリンセス・テンコーはアメリカ出身のアメリカ人で、年齢は24歳に設定されているという。これまたwiki情報だが、アメリカでの興行は時給制で時給は5000万円だそうだ。成人式のショーは30分だったが、アメリカならギャラは2500万円だろうか。
 wikiの情報はどこまで真実かわからないが、 天功さんの面白いエピソードが掲載されている。

YouTubeから「ザ・マジック/朝風まり

プリンセス天功 公式ウェブサイト

文京シビックホール 2009年1月12日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)
#プリンセス天功
#プリンセステンコー
#PeincessTenko
#引田天功
#朝風まり
#KinGOO
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ

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1月11日(土)

 一昨日は死者5人、焼失家屋1000棟以上と伝えられていたロサンゼルスの山火事は、死者が11人になり、焼失した家は1万棟、被害額は20兆円を越えると報道されている。
 ビートルズ、ジミ・ヘンドリックス、ジェフ・ベック、ローリング・ストーンズなどもコンサートを行った、ハリウッドにある野外劇場ハリウッド・ボウルも火事の危険にさらされており、避難命令が出されたそうだ。
  一方日本海岸側を中心に襲来した強烈な寒波は峠を過ぎたようで、今日は晴れ間も出て穏やかな天気だった。明日も日中は晴れ間があるようだ。

渡辺満里奈

◯渡辺満里奈

 1970年11月18日生まれ、東京都出身。1986年にフジテレビの番組『夕やけニャンニャン』から誕生した女性アイドルグループ「おニャン子クラブ」のメンバーとしてデビュー。会員番号は36番。wikiによるとおニャン子クラブ在籍時にエピック・ソニーからリリースしたソロデビュー曲「深呼吸して」は、オリコン初登場1位を獲得。以降、「ホワイトラビットからのメッセージ」「マリーナの夏」「夏休みだけのサイドシート」と4作連続でオリコンチャート1位を獲得したそうだ。
 おニャン子クラブ解散後も、アイドル歌手としてアイドル番組、歌番組に出演し、コンサート活動も行っていた。90年代はマルチタレントとしてバラエティ番組やドラマにも出演し、活動の場を広げている。
 2005年、テレビ朝日の番組『銭形金太郎』で共演したネプチューンの名倉潤氏と結婚。2007年に男の子を、2010年に女の子を出産し2児の母となっている。
 渡辺満里奈さんを撮影したのは、おニャン子クラブの熱狂的ファンだったというミュージック・マガジン編集部の高橋修さんの連載ページ「スター千夜一夜」だった。1994年のことで、彼女がマルチタレントとしてバラエティやドラマで活躍していた頃だ。

 音楽雑誌なので、先ずは好きなミュージシャンについて尋ねている。
「一番最近は・・・えーっと、アラン・トゥーサンの『コレクション』というアルバムが好きです。わたしはアラン・トゥーサンの「ソウル・シスター」と「サザン・ナイツ」が大好きなんですけど、その2曲が入っていて、しかも邦盤で出ていたので、買って聞いています。彼のCDなんて絶対ないと思ってたんですよ。でも探したらあってびっくりしちゃって」
 高校2年生くらいから自分でCDを買うようになったという。
「一時期、モータウンのCDの帯を集めて送ると、モータウン・ウォッチが当たるっていうキャンペーンがあったんですよ(笑)。モータウン・ウォッチが欲しくて、LP持ってるんだけどスティーヴィ・ワンダーとかCD全部買ったりしました(笑)。”こんなの販促用の変な時計だよ、きっと”って思ってたんですけど、どうしても欲しくって。異常にその時はいっぱい買った、モータウンもの。ジャクソン・ファイヴとか、マーヴィン・ゲイとか・・・。で、モータウン・ウォッチもらいました(笑)。モータウンのマークがこう文字盤にパーッておっきく描いてあって、黒い普通のビニールみたいな、ゴムみたいなバンド(笑)。よく販促用に作るようなもの(笑)」
 2017年にデビュー30周年の記念企画盤として自身がセレクトした30曲を集めたCD『MY FAVOURITE POP 』をリリースしているが、オリジナル・アルバムとしては1991年に発売した『ムード・ムーニッシュ』が最後だろうか。
 インタヴューの最後に、このアルバムのことにも触れている。
「前のアルバム(『ムード・ムーニッシュ』)の時はロジャー・ニコルズとかクローディーヌ・ロンジェとかすごい好きだったんで、”これだよー!”とか思って作ったんだけど、あれは良くないって言う人がいっぱいいて(笑)、”そっかー、やっぱ自分が好きなものだけじゃダメなんだな”って思った」
 ところで、渡辺満里奈さんを撮影したのはこの時だけだが、他の撮影をしていて、偶然、彼女が写り込んだことがある。桐島かれんさんが2ndアルバム『ディスコ桐島』を発売した1991年の秋、そのプロモーションのため青山のクラブ「MIX」に突然現れるという企画があり、雑誌『an(日刊アルバイトニュース)』のグラビアページで撮影した。フロアで踊る桐島かれんを撮影したのだが、そのまわりで踊るお客さんの中に渡辺満里奈さんがいた。ミュージック・マガジンの撮影で、その時のことを話すと「カッコワル~(笑)」と大笑いしていた。
 添付した写真の4枚目と5枚目が記事の複写だが、赤文字で書かれた<大江戸ディスコ図会>の<図>の斜め上が満里奈さん。

YouTubeから「深呼吸して/渡辺満里奈 with おニャン子クラブ」 「渡辺満里奈 マリーナの夏 26年ぶりの“生歌”披露!

渡辺満里奈 公式ウェブサイト

渡辺満里奈 オフィシャル・ブログhttps://ameblo.jp/watanabe-marina/

青山・エピックソニー 1994年4月5日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年5月号
インタヴュアーは高橋修さん
#渡辺満里奈
#MarinaWatanabe
#おニャン子クラブ
#スター千夜一夜
#アーカイブ

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池真理子

◯池真理子

 1946にコロムビアから発売された「愛のスイング」が大ヒットし、スイングの女王と呼ばれた歌手の池真理子さんを撮影したのは、『レコード・コレクターズ』の連載「戦後ニッポンのポピュラー音楽」だった。田中勝則さんと北中正和さんが交互に担当した連載で、池さんは田中さんの取材・執筆だった。
 大正7年(wikiでは大正6年、1917年)生まれで、取材した当時は既に80歳になられていたが現役の歌手として活動されていた。
 歌手として1941年にビクターから「君と別れて」でデビューするが、それ以前は三日月美夜子の芸名で宝塚歌劇団に在籍している。
 この連載は音楽家に半生を語ってもらうような取材も多く、どの回も取材時間は多かったが、池さんの取材が一番長かった記憶がある。当時のスケジュール帳によれば取材開始は午後2時からとなっているが、終わったのは夕方過ぎだったと思う。取材が終わった後、出前をとっていただいて池さん、田中さん、担当編集者の寺田正典さん、そしてお手伝いの女性とボクの5人でラーメンを食べた記憶がある。

 取材時間が長かったのは、それだけ池さんの音楽人生がユニークで波瀾万丈だったからだろう。スイングの女王としてNHKの紅白歌合戦に8回連続出場するが、9回目で落ちたことをきっかけにジャズの勉強をするため渡米。約1年間のアメリカ生活の後、台湾でアルバムを1枚録音して帰国した。お土産はラテン系の新リズム「パチャンガ」。ジャズを勉強するために行ったアメリカでラテン音楽に目覚めたそうだ。
 最初は興味本位でラテンを歌っていたそうだが、見砂直照(当時は東京キューバンボーイズのリーダー)さんから「池さんのスペイン語は英語発音だからダメだ」と言われて奮起し、本格的にスペイン語を勉強された。そして昭和41年(wikiでは昭和40年)日本のラテン歌手を集めて日本ラテン音楽協会を設立する。
 昭和45年頃からはダンスもののラテン音楽から、ペルーやパラグアイ、アルゼンチンの音楽、いわゆるフォルクローレに興味を持ち、昭和48年にはペルーに行き、リサイタルを開催。以降、何度もペルーに通われたようだ。
 その後もロシアで大ヒットした「100万本のバラ」に感動し、この曲を原語で歌いたいと昭和62年頃、池さんが70歳近くになってロシア語の勉強も始められた。
「それはもう年ですから、勉強は大変ですよ。若い人たちと一緒の授業にはついて行けなくて。でも先生が良い人で、授業の前にうちにきて、その日にやることを教えてくれるんですね。その後にロシアに行ったのですが、本当はロシアだけじゃなくて、グルジアに行こうと思っていたんです。というのも、<100万本のバラ>の歌詞に出てくる画家ピロスマニの出身地がグルジアで、首都のトビリシには彼の作品を展示した美術館があるらしいんですよ。それをぜひ見てみたかったのですが、ちょうど政治的な暴動があったため行けませんでした」
 取材で伺った1998年当時も、田中さんの原稿によれば歌謡曲や日本の音楽にも再び関心を持ち、琵琶で「平家物語」を謳われたり、舞台で喜納昌吉の「花」をボレーロ調のアレンジで取り上げたりと新しい試みを続けておられた。
 残念ながら2000年5月28日に、ホテルのパーティーで「センチメンタル・ジャーニー」を歌っている最中に倒れ、2日後の30日にくも膜下出血で死去された。83歳だった。
*6枚目から14枚目は、池さんが所有されていた写真やレコードジャケットを複写したもの。

YouTubeから「愛のスイング(1946年)/池真理子」 「ボタンとリボン/池真理子

日本コロムビア プロフィール

東京・世田谷 1998年10月13日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1998年12月号
  『レコード・コレクターズ』1999年1月号
インタヴュアーは田中勝則さん
#池真理子
#MarikoIke
#三日月美夜子
#戦後ニッポンのポピュラー音楽
#タカラジェンヌ
#アーカイブ

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1月9日(木)

 今晩から明日にかけて今季一番の強烈な寒波が襲来。日本海側は警報級の大雪が降る可能性もあるという。今のところ家のまわりはそれほど積もっていないが、水道の凍結防止も兼ねて融雪ホースを繋いで水を流しておくことにした。
 一方、米国ロサンゼルス近郊では大規模な山火事が発生。複数の地域で火災が起き、少なくとも5人が死亡し、1000棟以上の建物が損壊したという。記事によれば火事の現場では、時速80マイル(約128キロ)の風が吹いていたというので、あっという間に燃え広がったのだろう。この火事で、ロサンゼルス在住のX JAPANのYOSHIKIさんが、自身のX(旧ツイッター)に「LAの自分のいる場所にも今、強制避難命令が出ました。今から自分も避難します」と投稿している。

 ニューヨーク・タイムズが「2025年に行くべき都市52カ所」を発表し、富山市が順位30番目で選ばれたそうな。

 この他の気になった記事を備忘録として。
辺野古に固執する国、年の瀬に地盤改良「着手」をアピール でも完成できる? 無茶な国策のツケは普天間へ
日本郵便、ゆうパック委託業者に「違約金」 誤配・苦情1件数万円も

山崎まさよし

◯山崎まさよし

 滋賀県大津市(草津市という記事もある)生まれ、山口県防府市育ちのシンガーソング・ライター、俳優。本名は山崎将義。
 1992年にRCサクセションの「トランジスタ・ラジオ」のカバー・シングルをキティレコードから発売するが、キティの経営悪化に伴いその後のレコーディングが中止となり、1995年にポリドールへ移籍。1995年にポリドールから「月明かりに照らされて」でメジャー・デビューする。
 後にSMAPがカバーする「セロリ」や、初の主演映画である『月とキャベツ』のテーマ曲「One more time, One more chance」などのヒットで一躍知名度が上がった。
 彼を撮影したのは本人が主演した日本テレビ系ドラマ『奇跡の人』の主題歌でもある「僕はここにいる」の発売直後で、3枚目のオリジナル・アルバム『ドミノ』の発売直前の頃だった。『ミュージック・マガジン』の取材で、インタヴュアーは北中正和さん。このインタヴューが掲載された1999年1月号の表紙は本秀康さんによる山崎まさよしのイラストなので、当時の人気度・注目度がよくわかる。掲載した写真はインタヴューの後のフォトセッションで、ポリドールのビルの階段脇の黄色い壁をバックに撮っている。

 煙草をくわえている写真があるが、雑誌が発売された直後、フジテレビの「笑っていいとも!」を観ていて、自分が撮影したこの写真が画面に出てきてびっくりしたことがある。テレフォンショッキングで山崎まさよしさんが指名され、彼の紹介として写真が使われていた。山崎まさよしの写真を探しに急遽スタッフが本屋へ行き、発売されたばかりの『ミュージック・マガジン』に載っているのを見つけパネルにしたのだろう。
 wikiによると、これまでオリジナル・アルバムは12枚、ライヴ・アルバムを6枚リリースしている。また、ソロとは別に所属事務所オーガスタのアーティストによる音楽ユニット「福耳」での活動も定期的に行っている。

YouTubeから「セロリ/山崎まさよし」 「僕はここにいる

山崎まさよし 公式ウェブサイト

山崎まさよし YouTubeチャンネル

池尻大橋・ポリドール 1998年11月18日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1999年1月号
インタヴュアーは北中正和さん
#山崎まさよし
#MasayoshiYamazaki
#アーカイブ

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パンツェッタ・ジローラモ

◯パンツェッタ・ジローラモ

 バブルの時代に青春を過ごした中年男性(オヤジ)をターゲットにした<ちょい不良(ワル)オヤジ>のあり方を提供する男性ファッション誌『LEON』の表紙でお馴染みのタレント。イタリアのナポリ出身で、本名はジローラモ・パンツェッタ。所属するホリプロのプロフィールをそのまま引用させていただくと、
<建築一家の三男として、ナポリ建築大学在学中に亡き父の後を継ぐ。主に政府からの依頼を受け、歴史的建造物の修復にたずさわる。1988年から日本在住。以降、多数雑誌、番組などで祖国イタリアについて紹介。2006年、本国より騎士の称号「カバリエレ~イタリア連帯の星勲章」を贈られる。2014年3月、【連続して最も多くファッション誌の表紙を飾った数(男性モデル)】という記録名でギネスワールドレコーズ2014に世界記録として認定。 (現在も更新中)>
 ジローラモさんを撮影したのは、健康雑誌の連載「NOPETNOLIFEペットと私」だった。飼われていたのは日本では珍しいブラッコ・イタリアーノという犬種だったが、取材場所だった目黒のホリプロへは連れてこれないということで、犬と一緒の写真はご本人からお借りして、インタヴュー中の写真とポートレートを撮影した。

 奥さんは料理研究家のパンツェッタ貴久子(旧姓谷澤)さん。ジローラモさん自身も『食べちゃおイタリア!』『お米で新鮮イタリアン』『おウチで作るイタリアごはん』など数々の料理本を出されている。

YouTubeから「PIZZA-LA ‎マスカルポーネのイタリアーナ CM お届けイタリアーナ篇 15秒 Girolamo Panzetta」 「ハウス パンツェッタ・ジローラモ 飲んじゃった篇

パンツェッタ・ジローラモ オフィシャル・ブログ

パンツェッタ・ジローラモ Instagram

目黒・ホリプロ 2007年10月11日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2008年1月号
#パンツェッタジローラモ
#PanzettaGirolamo
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ

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1月7日(火)

 雷が鳴り霰が降る大荒れな天気。明日からは雪の予報になっているので、妹の車でスーパー、ドラッグストア、肉屋とまわって買い物。お米を10キロ精米し、ホームセンターで灯油のポリタンク2つに18リットルずつ入れてもらった。
 もらい物のリンゴが溜まっているので、大きめのリンゴ5つでジャムを作った。
レヴェラーズ

◯レヴェラーズ

 レヴェラーズ=平等派というバンドの名前は、イギリスのピューリタン革命期に登場した党派の一つ、レヴェラーズに由来するという。イギリスの歴史について語れる知識はまるでないので、こちらのサイトなどを参照してください。
 この、名前からして政治的なバンドを撮影したのは、1994年の初来日の時だった。トラッドとパンクがミクスチャーしたようなサウンドを奏でる彼らのプロフィールをwikiを参考に記すと、1988年にイーストサセックス州ブライトンで結成。取材した時は5人編成のバンドだったが、現在はマーク・チャドウィック(ギター、ボーカル)、ジェレミー・カニンガム(ベースギター)、チャーリー・ヘザー(ドラム)、ジョン・セヴィンク(フィドル)、サイモン・フレンド(ギター、ボーカル)、マット・サヴェージ(キーボード)、ダン・ドネリー(ギター、ボーカル)の7人になっている。

 1989年に最初のEP、1990年にLPをリリースし、チャイナレコードと契約して2枚目のアルバム『Levelling the Land』をリリースした後、国際的な成功を納めた。1990年代初頭にはイギリスで最も人気のあるインディーズバンドの一つになり、1992年に初めてグラストンベリー・フェスティバルに出演。続いて1994年にはピラミッド・ステージでヘッドライナーとして出演し30万人の観客を集めた記録を持つ。1994年は、そうした彼らの絶頂期での初来日だった。
 3月17日に行われた渋谷オン・エアでのライヴを撮影し、翌18日に彼らが宿泊していた渋谷のクレストンホテルでインタヴュー撮影とポートレートを撮っている。インタヴュアーは松山晋也さんで、インタヴューに答えてくれたのはドラムのチャーリー、ベースのジェレミー、フィドルのジョンの3人だった。
 イギリスで始まったレイヴ(ダンス音楽を一晩中流す大規模な音楽イヴェントやパーティー)という単語が日本でも浸透した頃だろうか。
 松山さんが、レヴェラーズは一般的にはニュー・エイジ・トラヴェラーズの代名詞的な語られ方をすることが多いが、そのことをどう思っているか問うと、ドラムのチャーリーが、
「そんなの、3年遅れてるとしか言いようがないよ。俺達がトラヴェラーズの集まりにしょっちゅう行ってライヴをやってたのはだいぶ前のことであって、プレスが競ってそういったシーンのことを取り上げ出した頃には、既に俺達はもっと一般的なロック・シーンで活動してたんだ。まあトラヴェラーズに関わったバンドの中で俺達が一番ビッグになってたから、そういう扱いを受けるのも無理ないけどね。ジャーナリズムの勝手なキャッチ・コピーなんてどうでもいいよ」と答えている。
 このニュー・エイジ・トラヴェラーズについて、松山さんがインタヴューとは別に囲み記事を設け、その中で<敢えて単純化すれば、60年代から80年代までの様々なドロップアウト集団の性格が複合されたネオ・ヒッピー的移動民グループと定義づけられよう>と書いている。
 インタヴューの後、メンバー全員揃ったポートレートを撮ることになったが、彼らが宿泊していた部屋は狭かったので、ホテルの外でスタッフに持参した背景布を広げて持ってもらい、その前にメンバー5人が立つようお願いした。もう外は暗かったので、たぶんサンパックのグリップ・ストロボを焚いている。

YouTubeから「One way - Live Glastonbury/Levellers」 「What A Beautiful Day/Levellers

レヴェラーズ 公式ウェブサイト
https://www.levellers.co.uk

渋谷・オン・エア 1994年3月17日撮影
渋谷・クレストンホテル 1994年3月18日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年5月号
コンサート評は和田静香さん、インタヴュアーは松山晋也さん、通訳は丸山京子さん
#レヴェラーズ
#Levellers
#マークチャドウィック
#MarkChadwick
#ジェレミーカニンガム
#JeremyCunningham
#チャーリーヘザー
#CharlieHeather
#ジョンセヴィンク
#JonSevink
#サイモンフレンド
#SimonFriend
#ニューエイジトラヴェラーズ
#NewAgeTravellers
#アーカイブ

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◯フォースM.D.s

 1981年にニューヨークのスタテン島で結成されたソウル・ヴォーカル・グループ。1984年にリリースしたシングル「Tears」でソウル・ファンに注目され、85年に発表した「テンダー・ラヴ」が大ヒットした。3枚目のスタジオ・アルバムとなる『タッチ・アンド・ゴー』をリリースした翌年、1988年の来日コンサートの際に撮影している。フロントのヴォーカル全員がキッラキラの衣装を着て、派手にポーズを決めて歌っていたのが印象に残っている。
 年齢的には自分と同世代だが、アーカイブするにあたって調べると、ずいぶんメンバーが亡くなっていて驚いた。
 マーキュリー(チャールズ・ネルソン)は1995年に心臓発作で、DJドクター・ロックは1996年にエイズで、T.C.D(アントワン・ランディ)は1998年にルー・ゲーリック病で死去。その後も、トリスコ・ピアソンが2016年に癌のため53歳で、ジェシー・ダニエルズは2022年に58歳で亡くなっている。
 現在のメンバーは、ズィーム・ケイパーズ、スティーヴィー・D・ランディ、ロドニー・ランディとなっている。

YouTubeから「Love Is A House/Force MDs 」 「Tender Love/Force MDs

フォースM.D.s  公式ウェブサイト

インクスティック芝浦 1988年4月18日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1988年6月号
コンサート評を望月展子さん
#フォースMDs
#ForceMDs
#アーカイブ

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フォースM.D.s

1月5日(日)

 午後から、昨年の11月2日から始まっていた『野村誠一写真展 A Half Century』を見にミュゼふくおかカメラ館へ。自転車でも10分かからず、いつでも行けると思っていたら、最終日になってしまった。
 夜は日曜美術館を観る。昨年11月に92歳で亡くなられた谷川俊太郎さんを追悼して、1980年に放送した「私とフェルメール 谷川俊太郎」のアンコール放送だった。
 9連休も終わり、明日から仕事という人も多いのだろうか。2025年が本格的に始動する。

 気になった記事を備忘録として。
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高木ブー 山内雄喜

◯高木ブー 山内雄喜

 1999年6月に、ドリフターズの高木ブーさんとスラック・キー・ギターの名手、山内雄喜さんの対談が行われた。この年はポルトガルの小型ギター”ブラギーニャ”がハワイに伝わりウクレレが生み出されてから120周年に当たるという。前年、1998年に日本国内で生産されたウクレレと、輸入されたウクレレの合計が30万本で、ちょっとしたウクレレ・ブームが起こっていたそうだ。
 それでは、ということなのか6月27日に『ウクレレ・ハワイアン・スタイル』(リスペクト)というアルバムを発売する山内さんと、7月1日に『高木ブーのいますぐ始めるウクレレ1~3』(キング)という入門ビデオを発売する高木さんのウクレレ談義が実現した。司会・構成・文は原田尊志さんだった。
 当時の記事によると2時間ほどの対談で、大学生ハワイアン・クラブの消息から、戦後上海帰りのハワイアン楽士の話や、ハワイアンでは夏しか働き口がなく歌謡コーラス・グループに転向したマヒナスターズやパラダイス・キングの話など多岐にわたって語られたようだが、記事はウクレレに関連した話にしぼってまとめられている。そこにはハワイ音楽とウクレレの奥深さが・・・

山内 中国にもハワイアンはあるらしいし、インドネシアでも盛んです。そのインドネシアにはクロンチョンという国民的な歌謡音楽があるんですが、その音楽で使われているクロンチョン・ギターがウクレレとそっくりなんです。どうもウクレレが後から入ってきて定着したらしい。ただし、第4弦が高くなっているウクレレのチューニングになじめなかったのか、4弦を取り払ってしまって、3弦にして弾く場合が多いみたいですけど。そのウクレレが帰化したということでは、タヒチ音楽なんかも、もともとギターとアコーディオンが主体だったんですが、ウクレレが輸入されたら、アコーディオンが駆逐されてしまったという経緯もあるそうです。
高木 そう、アメリカのカントリー音楽なんかで使われるスティール・ギターもハワイから来てるんでしょ。確かにハワイ音楽は影響力が強いね。ぼくなんかにしても、その影響力にまきこまれた形かな。兄にウクレレもらわなかったら、今ごろサラリーマンで、定年でっていう感じだったろうな(笑)。ウクレレもらって、そのうち夢中になってバンドやっているうちに、いかりや長介に出会って、ドリフターズを結成してってね(笑)。

 高木ブーさんは1933年豊島区巣鴨生まれ。本名は高木友之助。山内雄喜さんは1948年生まれで愛称はALANI。スラック・キー・ギターの師匠であるレイ・カーネからもらったハワイアン・ネームで、オレンジの意味。年齢の差はあるが、お二人とも学生ハワイアン・サークルの出身。

YouTubeから「高木ブーLIVE2019.2.11 BLUE NOTE HAWAIIブルーノートハワイ」 「山内 雄喜 Yuki "ALANI" Yamauchi 2012.10.27 Slackkey Festival HAWAII

高木ブー Instagram

山内雄喜 公式ウェブサイト

六本木プリンスホテル 1999年6月24日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1999年8月号
#高木ブー
#BooTakagi
#山内雄喜
#YukiYamauchi
#アラニ
#ALANI
#アーカイブ

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栗本慎一郎

◯栗本慎一郎

 1981年に出版された著書『パンツをはいたサル』で注目された経済学者。インパクトのあるタイトルで、本の存在は昔から認識していたが読んだことはない。wikiにその内容がコンパクトにまとめられているので引用すると<「経済人類学」(東洋経済新報社)でカール・ポランニーの「関連様態(トランザクション)論」、「幻想としての経済」(青土社)でバタイユの過剰蕩尽理論を紹介しつつ独自の理論を展開した栗本が、両書の内容をエソロジカル(動物行動学的)な視点から平易な言葉で語り直し、さらに法律論や貨幣論や文学論をも展開し、マイケル・ポランニーの「層の理論」の紹介で締めくくった新書>とある。親しみやすそうなタイトルとは裏腹に、難しそうな内容だ。
 栗本さんを撮影したのは、健康雑誌の特集「ミミズ食品」の取材だった。栗本さんは1999年の秋に脳梗塞で倒れられたが、入院中から独自の理論に基づく片マヒ治療器具「鏡箱」というものを作ってリハビリをし、2000年2月には退院された。とはいえ、退院した当時は完全に回復したわけではなく、リハビリを続けていたそうだ。

 そんな栗本さんに友人、知人から「これが効きますよ」という薬や健康食品、民間療法を紹介するメールがたくさん送られてきたという。そんな中に、ミミズ食品もあった。ミミズに血栓を溶かす物質、ルンブロキナーゼが含まれていることを宮崎大学の美原恒教授が発見されたそうだ。この食品はミミズを凍結乾燥して粉末にしたものをカプセルに詰めたもので、栗本さんは毎日6粒、朝昼晩に2粒ずつ飲んだところ、高血糖、高血圧が正常値になったと話されていた。
「ミミズ食品を飲むようになってからというもの、空腹時の血糖値(正常値は110mg/dl以下)が続けて100を切るようになったのです。これまで100を切ることなど年に一度ぐらいでした。血圧も今では最高血圧が120mmHg、最低血圧が80mmhgで、これも正常値の範囲内で落ち着き、体調も良好です」
 雑誌掲載時のプロフィールは、<1941年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程終了。カール・ポランニーの紹介者として一躍注目された経済人類学の第一人者。94年より衆議院議員として2期務めた。主な著書に『パンツをはいたサル』(光文社)『間違いだらけの大学選び』(朝日新聞社)など多数。99年10月、脳梗塞を発症、左半身麻痺になるも、2000年4月、奇跡的に現役復帰>
 取材場所は、渋谷の東武ホテルだった。インタヴューの後、椅子に座ってもらってプロフィール用のポートレートを撮影したが、栗本さんの髪の毛がちょっとボサボサだったのでライターの女性が整えてくれたのを覚えている。

YouTubeから「デンタル-H(栗本慎一郎)ジョンソン&ジョンソン johnson 1984」 「CM 1984 バスボン シャワーソープ 栗本慎一郎

渋谷・東武ホテル 2000年12月19日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2001年3月号
#栗本慎一郎
#ShinichiroKurimoto
#アーカイブ

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1月3日(金)

 昨日は昨年と同様に妹家族が来て、新年会。
料理
記念写真
料理人と小学2年生

↑今年の料理は刺身の盛り合わせ、ふぐ皮の湯引きポン酢、ふぐの唐揚げ、ふぐ鍋、残った出汁で雑炊。記念写真の撮影は、小学2年生が担当。

←料理を担当した甥っ子と、記念撮影とビールの栓抜き係りを担当した小学2年生。

玉川カルテット

◯玉川カルテット

 ♪金もいらなきゃ女もいらぬ、あたしゃも少し背が欲しい♪のギャグで一世を風靡した浪曲漫才グループ。
 wikiによると1961年に3代目玉川勝太郎門下の玉川ゆたかが、夫婦浪曲漫才コンビ「玉川兄弟」を結成したのが始まりだという。翌62年に伊丹明が加入し「玉川トリオ」となるが、間もなく伊丹が脱退し、天津羽衣門下から松木ぽん太が加入。1965年に二葉しげるが加入して「玉川カルテット」が誕生した。メンバーの入れ替わりがありながらも、現在も活動を続けているようだ。
 玉川カルテットを撮影したのは、大瀧詠一さんプロデュースによる『列島どっきり宅配便』(テレビ東京系)の番組テーマ曲「玉カルのアンアン小唄」をリリースした1998年。市ヶ谷のCBSソニーでの取材で、インタヴュアーは湯浅学さんだった。湯浅さんの原稿によると、この曲は玉カルの22年ぶりの新曲だったようだ。もっとも「アンアン小唄」自体はそれまで山形かゑるこ、山田邦子に歌われてきている。

 「アンアン小唄」の作詞は伊藤アキラ、作曲は大瀧詠一で「玉カルのアンアン小唄」は大瀧さんがプロデュースしたことで注目を浴びたが、打ち込みによるサウンドなどは大瀧さんというよりアレンジャーの井上鑑さんの個性のように思う。
 掲載した写真はソニーの会議室でポートレートを撮影し、その撮影したポジフィルムをスキャンしてデータ化。フォトショップで背景を作って合成している。曲を聴いてもらえばわかるが、打ち込みを駆使したエレクトリックなサウンドなので、稚拙な技術と知識しかなかったが写真もデジタルで作り込んでみたかった(笑)。実際に雑誌で使用したのは、1番目の写真の背景が色違いバージョンだった。

YouTubeから「玉カルのアンアン小唄」 「邦子のアンアン小唄
https://www.youtube.com/watch?v=uJpwNcpca8E

玉川カルテット 公式ウェブサイト

市ヶ谷・CBSソニー 1998年6月23日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1998年8月号
インタヴュアーは湯浅学さん
#玉川カルテット
#TamagawaQuartette
#松本ぽん太
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#松浦武夫
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#玉川平助
#HeisukeTamagawa
#二葉しげる
#ShigeruFutaba
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ガッツ石松

◯ガッツ石松

 1949年生まれ、栃木県出身で本名は鈴木有二。1966年にプロボクサーとしてデビューし、1974年にWBC世界ライト級王者となる。引退後はタレント・俳優として映画やドラマに出演。「僕さぁ、ボクサーなの」や「OK牧場!」など独特のギャグでも知られ、そのユニークなキャラクターを生かしてバラエティ番組でも活躍している。
 2010年に元世界王者により発足された「プロボクシング・世界チャンピオン会」の初代会長に就任した。
 ガッツさんを撮影したのは健康雑誌で担当していた「NOPETNOLIFEペットと私」という連載ページで、中野区にあるご自宅へ伺っての取材だった。ペットの猫を抱いているところを撮らせていただいたが、掲載誌がなくて確認できないが「ネコ」と名付けられた猫が産んだ「パンダ」という猫だったと思う(ややこしい笑)。
 猫と一緒の写真を撮った後、せっかくなのでファイティングポーズをお願いしたところ、快く応えてくださった。
 取材の後、お土産に猿のイラストと<OK牧場>の文字が入ったライター、サイン色紙をいただいた。
 ガッツさんの長女・有紀さんは、鈴木佑季の芸名でタレント活動をされている。

YouTubeから「ロベルト・デュラン  VS  ガッツ石松 (鈴木石松)  (1973年)」 「いいなCM ソフトバンク ガッツ石松 アニマル浜口 内藤大輔

ガッツ石松 公式ウェブサイト

東京・中野区 2007年9月13日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2007年12月号
#ガッツ石松
#GutsIshimatsu
#鈴木有二
#YujiSuzuki
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ

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1月1日(水)

あけましておめでとうございます

 元旦の朝はお雑煮とかぶら寿し、黒豆にカマボコ。2年ほど前まではかぶら寿しも黒豆も母親が作っていたが、今年は年末にスーパーで買って済ませた。
 いつもより少し早い9時過ぎにデイサービスの車が迎えにきたので、両親を見送ってから、自転車で近所の神社へ初詣に出かけた。お昼ご飯は一人なのでインスタントラーメンとオードブルの揚げ物。食べ終わって、久しぶりに小矢部川の土手を1時間ほど自転車で走ってきた。静かで穏やかな元旦だ。
風車が撤去された稲葉山
 小矢部川の土手から残雪のある稲葉山を撮影した。3本並んでいた風力発電用の風車が撤去されて姿を消した。2004年から20年間運転していたが、国の再生可能エネルギー固定価格買取制度が終了し、採算が取れなくなることから撤去されることになった。
 この稲葉山の風車が道しるべだった。自転車で知らない場所に出かけた時も、帰りはこの風車を目指して自転車を漕いだ。
 下の写真は在りし日の風車。2008年9月19日撮影。
風車が3基並んでいた頃の稲葉山
ビートたけし

◯第16回 ニュー・イヤー・ロック・フェスティバル

 大晦日から元旦にかけて浅草で開催されたニュー・イヤー・ロック・フェスティバルは2度見ている。最初は第7回目の1979年~80年で、ダディ竹千代&東京おとぼけcat'sが出演するので、ローディーとしてステージの脇から見ていた。全ステージが終了した後、内田裕也さんから出演者やスタッフにお年玉袋が配られ、ボクも一つもらった。
 2度目は第16回の1988~1989年で、この時は双葉社から発行していた『AVハウス』という雑誌の撮影だった。掲載ページはカラーで、撮影したポジ・フィルムは編集部に渡したが、自分の記録用に撮影したモノクロのフィルムが手元にあった。写真で確認できるのはビートたけし、安岡力也、ローグ、宇崎竜童、シーナ&ロケッツ、ザ・ニューズ、内田裕也だが、掲載誌を見ると他にパンタ、桑名正博、桑名晴子、竹田和夫、葛城ユキ、原田芳雄、白龍、仲野茂も撮影していた。ちなみに、この16回目のコンサートに付けられたサブタイトルは<日本における実力と才能と優れた人間性とを持ち合わせた最も要領の悪いアーティストの集会>だった。

 この時に撮影したアーティストも随分と向こうへ行ってしまった。安岡力也、シーナ&ロケッツのシーナと鮎川誠、ジョー山中、原田芳雄、桑名正博、葛城ユキ、パンタ、そしてニュー・イヤー・ロック・フェスティバルのプロデューサー、内田裕也さんも2019年3月17日に亡くなっている。チャック・ベリーの命日が3月18日だから、ロックン・ロール日本代表とロックン・ロール・アメリカ代表の命日が17、18日と並んでしまった。
 掲載誌の記事によると、コンサートは2部構成で12月31日の13時にスタートし、1月1日の8時終了だったようだ。全部撮影したかは忘れたが、長丁場だったことは確かで、当時の自分に”お疲れさま!”と声をかけたい(笑)。
 ニュー・イヤー・ロック・フェスティバルは、創始者の内田裕也さんが亡くなった後も会場を変えながら現在まで続いている。

YouTubeから「ニューイヤーR・F88~89s」 「ニューイヤーR・F88~89本編途中のみ

NEW YEAR ROCK FESTIVAL  公式ウェブサイト

16th NEW YEAR ROCK FESTIVAL

東京・浅草常盤座 1988年12月31日~1989年1月1日撮影
初出『AVハウス』(双葉社)1989年3月号
#ニューイヤーロックフェスティバル
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#SheeneAndRokkets
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#YuyaUchida

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