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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能
◯製作中の富山の祭りと芸能歴史年表
◯2010~2014 Photo Diary
◯奄美・沖縄撮影リスト
◯wangan 水路の都市TOKYO2006~2009
◯戦後ニッポンのポピュラー音楽 |
◯12月8日(日) 集会所清掃9時〜、10時〜役員会
◯12月14日(土) 1時30分〜新田さんコンサート 村上スタジオ
◯年末の交通安全県民運動 12月11日(水)〜13日(金) 16日(月)〜20日(金) 7時30分〜8時30分
*パスポート 2030年6月9日
*住宅定期診断 2026年9月(施行5年目)
*住宅定期診断 2029年9月(施行8年目)
*住宅満了診断 2031年9月(施行10年目) |
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
*富山県内のお祭り、イベント
*富山の祭り
*築山行事
*砺波の獅子舞 各地区の日程
*年中行事覚書 柳田国男
*田の神祭りに見る日本人の神意識
*立山に生きる村ー宗教集落芦峅寺のくらし |
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
◯久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
◯ 「まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
◯幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
◯村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
◯喜屋武(チャン)の綱引き
◯与那国島の行事
◯ 「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作 |
◯富山県 新型コロナウイルス感染症について
http://www.pref.toyama.jp/cms_sec/1205/kj00021629.html?fbclid=IwAR1Z5J0FxdUdIrb0KWEPHX-VTzevMn1SYkafoJbL0IrfRBBnTG5k0vO_t1U
◯都内の最新感染動向 https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/
◯山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信 https://www.covid19-yamanaka.com/index.html
◯新型コロナウイルス感染速報 https://covid-2019.live/
◯ 福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
◯DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
◯HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
◯独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
◯小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
◯やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
◯辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
◯チョ 10イさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
◯沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/ |
メディア関連
◯木原盛夫写真展「とやま、祭り彩時季」ミュゼふくおかカメラ館
◯富山の祭り写真集に 福岡町の木原さん 北日本新聞
◯木原盛夫 写真展「とやま、祭り彩時季」 たかおかストリート
◯カメラ館で木原盛夫展 高岡ケーブルテレビ
◯写真で巡る富山の祭り 木原盛男写真展 高岡ケーブルテレビ
◯歴史ある寺社・文化紹介 高岡御旅屋セリオで木原さん写真展 北日本新聞
◯高岡の文化伝える写真 御旅屋セリオ 木原さんが個展 中日新聞
◯高岡まちなかギャラリー - 御旅屋セリオ
◯祭りの写真で地域を学ぶ 高岡・福岡の寺子屋サロン
◯祭りの雰囲気 写真で感じて 中止相次ぐ中 福岡の木原さん展示 中日新聞
◯木原盛夫さん写真展 県内の祭りなど題材に 北日本放送
◯富山の祭りを写真で紹介 木原盛夫写真展 朝日新聞
◯県内の祭礼や伝統行事写す 木原さんが写真集寄贈 北日本新聞
◯木原さん、祭りの写真集を寄贈 高岡ケーブルテレビ
◯2020年9月18日OA分 いいねとやま#219 チューリップテレビ
ブログなど
◯木原盛夫写真展「とやま、祭り彩時季」 ゆきれぽ
◯今年のお祭りは 写真展で・・・・・・ yoshijunのブログ
◯たかのたわごと 新川神社のブログ
◯200814木原盛男写真展高岡彩時季御旅屋セリオ5階
◯200805ミュゼ福岡カメラ館とやまの祭り木原盛男写真展6 26
◯ミュゼふくおかカメラ館(富山県高岡市)の木原盛夫 写真展 『とやま、祭り彩時季』(~9/27)
◯祭りの色彩に思いをはせて タビノイロドリ
◯カメラ館 フクチアンの日記
◯ミュゼふくおかカメラ館「とやま、祭り彩時季」へ とやまおでかけ日記 |
*web電卓
*漢字辞典
*2024年カレンダー |
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いよいよ今日で2024年が終わる。午前中に玄関まわりや水回りの掃除。昼ごはんを食べてお風呂に入り、洗濯をする。今年中にやろうと思って出来なかったこともたくさんあるが、焦らずにそれはまた来年。
今年は元旦の能登半島地震に始まり、4月からはキッチンのリフォーム、そして両親がデイサービスに週何回か通うようになり、夏頃からはこれまで撮影してきたアーティストたちの写真をアーカイブとしてSNSにUPする作業を続けてきた。今日UPしたのは石川さゆりさん。 |
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◯石川さゆり
明日で能登半島地震から一年となる。ヒット曲「能登半島」で知られる石川さゆりさんが一昨日、石川県能登町の「復興応援大使」に就任したそうだ。
石川さゆりさんは、2回撮影している。1回目は『月刊カラオケ大賞』という雑誌で、音楽評論家の掛昇一さんとの対談だったが、いつ頃のことだか記録がない。昔のスケジュール帳を丹念に調べていくと見つかるかもしれないが、今はその余裕がない。
2回目に撮影したのは『ミュージック・マガジン』編集部・高橋修さんの連載「スター千夜一夜」だった。取材場所は市ヶ谷のポニーキャニオン。石川さんはデビューから20年間日本コロムビアに所属していたが、1993年に移籍しポニーキャニオンの演歌部門第1号の歌手となった。
wikiによると1958年に熊本で生まれるが、小学校5年生で横浜へ転居。1972年の夏休みに、「ちびっ子歌謡大会」に出場し、ホリプロにスカウトされて芸能界に入る。72年の秋に放映されたフジテレビの連続ドラマ『ヒカル海』で、沖雅也の妹役として出演。73年には「かくれんぼ」で日本コロムビアからアイドル歌手としてデビューするが、ヒットには恵まれなかった。 |
1976年に発売されたアルバム『365日恋もよう』から1977年にシングルカットされた「津軽海峡冬景色」が大ヒットし転機が訪れる。この年の「第19回日本レコード大賞」歌唱賞、「FNS歌謡祭」グランプリなど数々の音楽賞を受賞し、念願の「NHK紅白歌合戦」にも出場を果たした。以降、「波止場しぐれ」「天城越え」「風の盆恋歌」など順調にヒット曲を世に送り出し、日本を代表する女性演歌歌手の一人となった。
転機をもたらした「津軽海峡冬景色」について、「もう何年も経っているのに、いまでも<津軽海峡冬景色>の・・・と言われるのにうんざりしませんか」との高橋さんの問いに、
「それもないんですよ。実際<津軽海峡・・・>歌ったのは17年くらい前になるのかな。で、盆と正月が一緒に来たくらいに売れたらしいんですけれども、その渦中では本人は忙しいだけでそれすらも感じる間がなかったのね。でも、これだけ経ってもカラオケで歌う歌は<津軽海峡冬景色>とか<天城越え>とか言っていただいたりすると、すっごいなぁ、親兄弟でもないのに(笑)、全然知らない人なのよ、なのに自分の歌を一緒に歌ってくれてる。一つのことを共有できるなんてすごいなぁって。
あの頃の歌を聞くと、なんだか歌にしがみついている、しがみついてそのメロディや歌詞を歌っているという感じが、レコードから伝わってくるわけ。自分のことなんだけど妙な愛しさを感じますよね」と答えている。
今晩のNHK「紅白歌合戦」では21年ぶりに「能登半島」を歌うそうだ。今回の紅白が47回目の出場で、紅組の歴代最多出場者となっている。
YouTubeから「津軽海峡冬景色/石川さゆり」 「能登半島/石川さゆり」 「ウィスキーが、お好きでしょ/石川さゆり」
石川さゆり 公式ウェブサイト
石川さゆりInstagram
市ヶ谷・キャニオンレコード 1994年7月18日撮影
初出『月刊カラオケ大賞』(中村出版)
初出『ミュージック・マガジン』1994年10月号
#石川さゆり
#SayuriIshikawa
#スター千夜一夜
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| 両親の通うデイサービスは、大晦日も元旦も開いている。NHKの「紅白歌合戦」より一足先に、デイサービスの施設で「紅白歌合戦」が行われ、父親が白組の5人の代表の一人として出場。「酒と泪と男と女」を歌ったようだ。赤、白どちらが勝ったのか聞いても忘れてしまったという。父親は紅白出場と福引でジュース2本、母親も福引でジュース1本もらって帰ってきた。 |
よいお年をお迎え下さい
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2024年も残すところ今日と明日の2日間になってしまった。今日は午前中、郵便局へ行ったり近くのスーパーへ買い物に行き、昼から夕方までは「ドキュメント72時間 年末スペシャル」を見ていた。NHKはなぜ「ドキュメント72時間」のテーマソングを歌う松崎ナオを「紅白歌合戦」に出さないのだろうか。今日は鹿の一族として番組でテーマソングを歌っていた。「川べりの家/松崎ナオ」。
昨日年内最後の回覧板と配布物を班の各家に届け、その後、次の班長さんにバトンタッチ。野球の道具やら班の帳簿、交通安全の用具などを手渡し引き継ぎをした。 |
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◯南流石 タンゴス
1958年生まれ、神奈川県藤沢市出身の振付師。3歳からバレエやジャズダンスを始め、16歳ごろからインストラクター、20歳の頃にはミュージカルダンサーとして活動していたという。これまでに多数の歌手の振り付けを担当し、自身もコンサートなどのバックダンサーとして出演している。サザンオールスターズの振り付けも担当し、それが縁で桑田佳祐が「南流石」という芸名の名付け親になったという。
また、1986年から江戸アケミ率いるJAGATARAのメンバーとなり、コーラス兼ダンサーとして活動していた。
1990年に江戸アケミが入浴中の事故で亡くなりJAGATARAは解散するが、1994年からはJAGATARAのメンバーだったギターのOTOや、キーボードの渡辺貴浩、ベース&キーボードの角田敦らと共に自身がボーカルを務めるTANGOSを結成する。
彼女を撮影したのは、このTANGOSを結成した1994年だった。ビクターからの依頼で、彼らの宣材写真を撮影した。撮影場所は青山のビクタースタジオで、たぶん1stアルバム『水田』のレコーディングの合間だったと思う。 |
TANGOSはこの後、渋谷クラブ・クアトロで行われたライヴを撮影している。その時の写真は『ミュージック・マガジン』1994年12月号に掲載されていて、志田歩さんがコンサート評を書いている。ただ、スケジュール帳には<ビクター写真届け>とメモがあるので、ビクターからの依頼で撮影し、その写真が『ミュージック・マガジン』で使われたのだろう。掲載した写真はビクターに渡さなかった(選ばなかった)残ポジだろうか。
TANGOSはネット検索しても情報が少なく『水田』、そして2ndアルバム『FAMIGLIA』をリリースして解散したようだ。そして、2012年からは森俊之、Watusi、佐藤タイジ、大塚愛、沼澤尚らとロック・バンド、Rabbitを結成。cutting edgeからアルバム『裸人』をリリースしている。また、2013年にはテレビ東京の番組『ソロモン流』に「賢人:南流石」として出演したそうだ。
現在は自身が率いるクリエイティブダンスチーム「流石組」で、後継者の指導にも当たっているという。
ちなみに「おしりかじり虫」の振り付けは彼女の仕事だ。
YouTubeから「JAGATARA 南流石 IMAGINEを唄う」 「Sasuga Minami ソロモン流【賢人:南流石】」
流石組 公式ウェブサイト
青山・ビクタースタジオ 1994年4月6日撮影
渋谷クラブクアトロ 1994年10月11日撮影
#南流石
#SasugaMinami
#タンゴス
#TANGOS
#オト
#OTO
#渡辺貴浩
#TakahiroWatanabe
#角田敦
#AtsushiTsunoda
#アーカイブ
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◯大瀧詠一
大瀧詠一さんが盛んに試みていたフィル・スペクターのウオール・オブ・サウンド。フィル・スペクターがどんな手法でそのサウンドを作っていたか解らないが、大瀧さんが80年代前半に試みていた時はシマ(島村英二)さんのローディーをやっていたので、何度かそのレコーディングの現場に居合わせた。大瀧さんが作・編曲した松田聖子の「風立ちぬ」や『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』にはドラムがシマさん、ベースがSHOGUNのミッチー長岡さんというパターンが多かった。
40年以上も前のことなので少し記憶があやふやなところもあるけれど、レコーディングは信濃町ソニーのスタジオが多かったと思う。ミュージシャンが一堂に会して録音。印象的なのはアコースティック・ギターで、常に4人ほどが揃えられ同じ音を同時に鳴らす。それを何回も重ねていた。全員一流どころのスタジオ・ミュージシャンなので、大瀧さんのレコーディングが入るとインペグ屋(ミュージシャンの手配する会社)さんは、他のレコーディングのアコーステック・ギターが足りなくなって大変だったんじゃないだろうか。
この頃、佐野元春さんも同じ手法で録音していたので、音楽雑誌でインタヴューした際に「なぜ同じ音を何回も重ねて行くのか、重ねて行くことにより微妙に音がズレて厚みが生まれるのでしょうか」と聞いたが、「ズレで厚みは生まれません、気です」と答えられた。気か・・・未だに少し納得はいっていないのだけれど(笑)。
1981年12月3日渋谷公会堂で開催された、今や伝説の「ヘッドフォン・コンサート」もドラムがシマさん、ベースがミッチーさんだったのでその場で体感している。たぶん自分はドラムのブースの中か、ブースの横にいたのではないだろうか。
オリジナル・アルバムとしては生前最後の『EACH TIME』から10年ほど経った1995年に『ミュージック・マガジン』が大瀧さんにインタヴューしており、その撮影を担当した。インタヴュアーは萩原健太さん。
『大瀧詠一』『NIAGARA CM SPECIAL』『NIAGARA MOON』『NIAGARA TRAIANGLE Vol.1』『EIICHI OHTAKI Song Book Ⅱー大瀧詠一作品集Vol.2』がCD化され再発売し、それが好評だった時期だ。インタヴュー記事のタイトルは<”ナイアガラ的心”をカヴァーしてくれる、うれしいんだよね。「孫世代」の再評価が埋めた10年のブランク>と付けられている。
このインタヴューの終わりの方で、萩原健太さんが”出そうで出ないツチノコ”とまで言われた新作についても聞いている。
ーー具体的には?このあとどう動くんですか。
「いや、アルバム作るだけだよ、単純に。他にやることないもん。どうなるんだかね。考えているといえばウソになる。考えてないといってもウソになる(笑)。時期はまだわからない、ってのは相変わらずだけど。かといって芸術家でもないんだから、やりはじめれば出てくるんじゃないの」
ーーそういう発言は本当に初めてですよね、ここ数年来。新作の質問をされても、絶対にはぐらかしていたのに。
「そうだよ。当たり前じゃん。そんなの。だって、俺はウソはつかないもの」
ーーものすごく大きな一歩が踏み出された気がしてしまいます。
「それが蚊の一歩なのか、象の一歩なのかはわかんないよ。どっちも一歩は一歩。取り方はまかせるよ」
このインタヴューから18年後の暮れも押し詰まった12月30日、十二月の旅人は帰らぬ旅に出た。夕食後にデザートのリンゴを食べていて倒れたと聞いて白雪姫のような亡くなり方だと思ったが、解離性動脈瘤だったようだ。けっきょく新作は、ツチノコと同じく幻となった。
室内でのインタヴューの後、滝のあるホテルの庭でポートレートを撮った。大瀧さんからの注文は、「被写体を画面の三分の一以下に」というものだった。滝の前で記念写真を撮っている団体さんに近づいて紛れようとする大瀧さんが可笑しかった。
YouTubeから「はっぴえんど再結成」 「大瀧詠一 ヘッドフォン・コンサート 1981月12月3日渋谷公会堂」
目白・フォーシーズンズホテル 1995年4月5日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1995年6月号
#大瀧詠一
#EiichiOhtaki
#アーカイブ
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今日からお正月の帰省ラッシュが始まった。テレビは年末の特番ばかりになったが、見たいなと思うのは30日の「ドキュメント72時間 年末スペシャル」くらいだろうか。
今日は妹の長男の子供の8歳の誕生日で、総勢8人で「ゆず庵」へ食事に。食べ放題のコースなので制限時間内にアレコレ食べなくてはならず忙しい。料理を運んでくるのが配膳ロボットで、通路を何台ものロボットが行き来していて忙しない。たくさん食べたような、そうでもないような。 |
奄美大島のソテツに、外来種の害虫ソテツシロカイガラムシによって葉が茶色や白く変色して枯れてしまう被害が出ているそうだ。その数はおよそ7000本で、奄美市では8割のソテツが被害を受けていると見ているようだ。
下の写真は、2011年に撮影した龍郷町安木屋場集落のソテツの群落。 |
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東京地検特捜部は今月26日、自民党の政治資金パーティーをめぐる裏金問題で刑事告発されていた旧安倍派の国会議員や当時の会計責任者など合わせて65人を不起訴にした。衆議院選挙の際に最高裁判所裁判官国民審査が行われるが、検察官の国民審査も必要だろう。
自民党は裏金事件で不記載となった総額7億円を上回る8億円を、赤い羽根共同募金で知られる中央共同募金会に寄付したと発表。これで政治的けじめとしたいようだが、国民が望んでいるのは裏金作りが誰によっていつから始まり、どのように使われたのかの解明だ。衆院選で大敗しても姑息な手段で誤魔化そうとするなら、来年の参議院選挙でも大敗してもらうしかない。
映画『ロミオとジュリエット』でジュリエット役を演じたオリビア・ハッセーさんが亡くなった。個人的には布施明さんと結婚した女優さんという印象が強い。 |
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◯ディック・リー
シンガポール出身のミュージシャンで、プロデューサーでもある。日本では1989年にリリースした『マッド・チャイナマン』で知られるようになるが、1974年に『ライフ・ストーリー』というアルバムでデビューしている。wikiによれば元々はファッションデザイナー兼イベント会社の経営者で、歌手としての成功はデザイナー時代からの夢だったそうだ。
ディック・リーを撮影したのは1992年で、日本では5枚目となるアルバム『イヤー・オブ・ザ・モンキー』が発売されるタイミングだった。赤坂のキャピトル東急ホテルでの取材で、インタヴュアーは高橋健太郎さん。
インタヴューの後だったか前だったか忘れたが、ポートレートを撮るためにストロボと背景布をセッティングし、いざ彼に用意した椅子に座ってもらい身体の向きを指定したら、今日はこちら側の肌の調子が悪いので反対側から撮って欲しいと言われ、急いでストロボの位置を変更したのを覚えている。 |
通常のコンサート活動だけではなく、92年にはディック本人による原作、主演のオペレッタ『ナガランド』をシンガポール、香港、日本で公演。93年には宮本亜門演出のミュージカル『香港ラプソディー』の全作曲を担当。94年にはディック主演のミュージカル『ファンテイジア』が東京、大阪、福岡、名古屋で行われた。『ファンテイジア』は、公演パンフレットにインドの歌手、パンカジ・ウダースさんの写真を提供しており、公演も観に行ったはず。三菱電機がスポンサーで予算があったのか、パンフレットも豪華な造りになっているが5つのリングで綴じられていてページを捲るのに少々難がある。
90年代の前半から後半にかけて東南アジア、東アジアのアーティストを撮影する機会が多かったように思う。ワールド・ミュージックがブームになり、日本でも91年にWOMADが開催された。93年には大須賀猛さん編集の『エイジアン・ポップ・ミュージックの現在』という本が新宿書房から出ている。トップバッターで紹介されているのがディック・リーで、巻末は久保田麻琴さんへのインタヴューというのが、時代かなと思う。
久しぶりに「エイジア・メイジア」を聴いたが、うん、キャッチーでオリエンタルで、メロディーもアレンジも素晴らしい!
YouTubeから「Asia Major/Dick Lee」 「Club Asia Concert In Japan 1/Dick Lee」
ディック・リー Instagram
https://www.instagram.com/dickleeparadise
赤坂・キャピトル東急ホテル 1992年10月29日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年1月号
#ディックリー
#DickLee
#RichardDick LeePengBoon
#李炳文
#アーカイブ
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◯ナジプ・アリ
1992年4月から2000年9月までフジテレビで放送されていた、視聴者参加型の歌手オーディション番組『アジア・バグース!』。その司会を務めていたのが、マレイ系シンガポール人のナジプ・アリだった。
番組はシンガポールで収録されていたが、ディック・リー作のミュージカル『ファンテイジア』に出演するため来日した際、『ミュージック・マガジン』の高橋修さんの連載「スター千夜一夜」で撮影した。
ミュージカル『ファンテイジア』へ出演する経緯については、
「ディック・リーが言うには<アジア・バグース!>でそれなりに名も知られていることと、ぼくがモダン・エイジアン・マンの良い例だということだそうだ。要するにテーマとして、自分たちは西洋文化に影響を受けた、でも東から来た今を生きる人間たちだ、ってことがあるから、僕のように、日本人なのかインドネシア人なのかマレイシア人なのかわからない、全部の要素を持ったごった煮みたいな人間が出るのがいいんじゃないかっていうことなんだ」と話している。 |
1995年に『Oonik』、1997年に『Rawjak』と2枚のソロ・アルバムを発売しており、歌手、俳優、プロデューサーと多方面に活躍しているが、1994年の取材時は振付師が本業だった。
ナジプを撮影した同じ頃、やはり振付師としても人気だったタンゴスのボーカル・南流石を撮影していて、この勢いでラッキー池田も撮影したいと思っていたが、そのチャンスは巡ってこなかった。
YouTubeから「Nina Poni aLbum Antero Bagus/Najip Ali feat AB Three」
ナジプ・アリ Instagram
新宿・京王プラザホテル 1994年2月28日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年4月号
#ナジプアリ
#NajipAli
#アジアバグース
#AsiaBagus
#スター千夜一夜
#アーカイブ
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クリスマスが過ぎて、今年も残すところあと5日となった。Dee okinawaが年末恒例の「沖縄で2024年になくなってしまったもの、なくなってしまうもの」を特集している。那覇市民会館や与儀の歩道橋も懐かしいが、一番思い出深い場所はユニオン前島店だろうか。スーパーは新都心のサンエーも利用したが、ユニオンの前島店もコロッケやアップルパイなどのお惣菜を買いによく利用した。施設の老朽化に伴う閉店で、建て替えた後に新装開店するそうだ。上の階はアパートだったと思うが、住人の人達はどうされたのだろうか。
1階ギャラリー兼交流スペースの家具とフローリング、キッチンの家具のワックスがけが完了した。 |
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◯藤田朋子
世田谷自然食品の青汁の通販CMといえば、舞の海さん、宮崎ますみさん、藤田朋子さんの3人が登場する。
舞の海さんは健康雑誌のダイエット特集で、宮崎ますみさんは簡易保険郵便年金加入者協会のPR誌で、藤田朋子さんは健康雑誌の担当していた連載で撮影したことがある。
藤田さんは1965年、世田谷出身の女優、歌手。wikiによると玉川大学文学部外国語学科卒業で、玉川学園高等部では川上麻衣子さんと同級生だったようだ。
1987年にミュージカル『レ・ミゼラブル』で女優デビュー、1988年にNHK連続テレビ小説『ノンちゃんの夢』で主役に抜擢され、一躍知名度が広がった。1989年にはシングル「THE WOMAN IN ME」で歌手デビューも果たしている。
1990年10月から2011年9月までシリーズとして断続的に放送された橋田壽賀子さん原作のTBS系ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』では、主人公・岡倉大吉の五女・長子を長年にわたって演じた。
2005年に、アコーディオン奏者の桑山哲也さんと結婚されている。 |
藤田さんを撮影したのは健康雑誌の「NOPETNOLIFEペットと私」という連載ページで、愛犬のフレンチブルドッグと一緒に登場していただいた。お住まいのマンション敷地内にあるお庭で撮影した後、敷地の向かいの家の塀に木漏れ日がさしていたので塀の前に立っていただいた。
通常はライターさんのインタヴューの後に撮影となるが、この時は撮影の後に近くのインド料理屋さんでお話を聞いている。この日はクリスマスで、思いがけず藤田さんが撮影された愛犬の写真を使った卓状カレンダーや、ディズニーの可愛いメモ帳などをクリスマス・プレゼントにいただいた。
YouTubeから「世田谷自然食品 乳酸菌が入った青汁プレミアムCM-ご愛飲者様編」 「君の誕生日に/藤田朋子(演奏:桑山哲也)【Christmas LIVE 2019】」
藤田朋子 オフィシャル・ブログ
藤田朋子 Instagram
東京・世田谷 2009年12月25日撮影
初出『ゆほびか』2010年4月号
#藤田朋子
#TomokoFujita
#NOPETNOLIFEペットと私
#朝ドラ女優
#アーカイブ
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◯八代亜紀
昨年12月30日に亡くなられた八代亜紀さんの等身大銅像が東京都品川区にある菩提寺・安養寺に建立され、今月19日に除幕式が行われた。銅像はヒット曲「雨の慕情」をステージで歌唱する姿になっているそうだ。
八代亜紀さんは健康雑誌の仕事で、目黒にある自宅兼事務所で撮影させていただいたことがある。せっかく演歌の大御所に取材させていただくならと編集部が考えたのか、2つの企画で登場していただいた。一つはお酢の特集で、もう一つは当時担当していた「NO,PET NO,LOFE ペットと私」という連載だった。
八代さんは小さなペットボトルに「MY酢」を入れて持ち歩くほどお酢が好きだそうで、
「毎朝、200ccぐらい入る小さなペットボトルに米酢を入れて、いつも持ち歩き、食事の度にたっぷりとかけています。この1瓶は、1日で使い切ってしまいます」と話されていた。
また、このお酢が健康の秘訣だとも。 |
「私がいつも健康でいられるのも、お酢のおかげだと思います。胃もたれや便秘など、胃腸のトラブルはいっさい経験したことがありません。腹痛や食あたりがないのも、お酢の殺菌作用が関係しているのでしょう。また、<酢は血液をサラサラにする>と聞きますが、そのせいか私は頭痛の経験もありません。カゼもあまり引かなくなりました。それから、私は皆さんに<シミがないですね><シワがないですね>と言われますが、これも毎日お酢をたくさん取っているおかげかもしれません」
お酢の取材の後、中庭に出て連載用に愛犬のゴン太と一緒に撮らせていただいた。そのゴン太も、昨年亡くなったそうだ。
当時のメモによると、1時間ほどで2つの取材を行ったいる。また、ストロボはモノブロック3灯、グリップストロボ1台持って行ったが、自然光がたっぷり入る室内と中庭だったので、使ったのはレフ板替わりの白ケント紙が一枚だけだった。
ところで、基本的に取材相手にサインを貰うことは慎んでいる。なので、八代亜紀さんにもその場でサインをいただくことはなかったのだが、撮影したゴン太と一緒の写真を本人から欲しいと言われたので何枚かプリントを送り、その中に手紙ともう一枚プリントを添えた。
手紙には父親が八代亜紀さんのファンなので、プレゼントした写真とは別に同封したプリントにサインをいただけないでしょうかというお願いを書いた。後日、サインを入れたプリントとオフィシャル・グッズが送られてきた。
八代亜紀。熊本県八代郡金剛村(現在の八代市)出身、本名は橋本明代。1971年に「愛は死んでも」で、テイチクからデビュー。1973年にリリースした「なみだ恋」が120万枚のヒットを記録。以降、「しのび恋」「舟唄」「雨の慕情」など演歌の名曲となる歌を次々に発表し演歌の女王と称される。また、画家としても才能を発揮し、フランスの「ル・サロン」展に5年連続入選し、日本の芸能人として初の正会員になった。
命日でもある今年12月30日に開催される「第66回輝く!日本レコード大賞」では谷川俊太郎さん、西田敏行さん、中山美穂さんらと共に特別功労賞が贈られる。
YouTubeから「舟唄/八代亜紀」 「雨の慕情/八代亜紀」
八代亜紀 公式ウェブサイト
東京・目黒 2008年6月11日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2008年10月号
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2008年11月号
#八代亜紀
#AkiYashiro
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ
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| 昨日の朝、窓を開けると外が白くなっていた。今季初の積雪。その後も雪は降ったり止んだりだったが、積もることはなく外の蛇口に取り付けた融雪ホースの水で溶けていった。 |
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Merry Christmas! |
明日は寒波が緩み、全国的に穏やかな天気のようだ。
ミニー・リパートンが歌うクリスマス・ソング「Silent Night」。
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いつもは120円ほどのエノキとブナシメジが、今日は178円だった。もうお正月価格になっているのだろうか、それとも10月末に起きたきのこの生産大手「ホクト」の工場火災が影響しているのだろうか。
気になった記事を備忘録として。
◯日本の1人当たり名目GDP、韓国に初めて抜かれる 円安響く
◯川崎重工、40年前から架空取引繰り返したか 週内にも調査結果公表 |
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◯T-モデル・フォード
1924年ミシシッピー州生まれのブルース・シンガー、ギタリスト。本名はジェームス・ルイス・カーター・フォード。58歳から音楽を始め、1997年にファット・ポッサム・レコードから1stアルバム『Pee Wee Get My Gun』をリリース。73歳でのデビューだ。ただし、wikiによると彼の生年月日は諸説あるようで、2013年7月16日に亡くなった時、レコード会社は年齢を94歳と発表しており、1918年か1919年生まれの可能性がある。また、パスポートには1921年6月24日生まれと記載されているが、ミシシッピー州の運転免許証には1924年6月27日生まれと記載されていたという。
彼を撮影したのは1998年12月に開催された、第5回『パークタワー・ブルース・フェスティバル』に出演するため来日した時だった。媒体は『ミュージック・マガジン』で、インタヴュアーは湯浅学さん。
記事の見出しに「女、女、女、女・・・女の話にひたすら終始した老ブルース・マンとの会見」とあり、 |
「ブルースの極意というものについて話そうではないか。はっはっはっは、それはなあ、女だよ。女がいるからこそ、ブルースがあるんだ」で始まり、
「わしには子供が26人いる。一番下は17歳だ(ということはフォード先生が60歳のときに作った子か)。一時は同時に4人の女と付き合っていたこともあった。歳が離れた二人の女と付き合っていたときに、若いほうが嫉妬するので年増の方を説得して二人いっぺんにやってやったこともあったよ。それはなあ・・・(以下その時の模様が声色付きで詳細に語られた)。なに?初めてのとき?ああ。あれは15の時でなあ。付き合っていた娘の母親とな・・・」で終わっている。
通訳の丸山京子さんも大変だったろう。
1997年から2008年の間に5枚のアルバムを、ファット・ポッサム・レコードからリリースしている。
尚、パークタワー・ブルース・フェスティバルは1994年の第1回から2003年の第10回まで開催された。出演者などの詳細は、こちら。
YouTubeから「Sallie Mae/T-Model Ford」 「Pee-Wee Get My Gun (Full Album Stream)/T-Model Ford」
ファット・ポッサム・レコードのページ
新宿パークタワー・ホール 1998年12月11日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1999年2月号
インタヴュアーは湯浅学さん、通訳は丸山京子さん
#Tモデルフォード
#TModelFord
#ジェームスルイスカーターフォード
#JamesLewisCarterFord
#パークタワーブルースフェスティバル
#ParkTowerBluesFestival
#アーカイブ
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◯田端義夫
昭和14年に「島の舟歌」でデビューした、バタヤンの愛称で知られる歌手。大ヒットした奄美の新民謡「島育ち」が発売されたのは昭和37年で、自分は2歳だった。ギターを胸の位置まで抱えて歌う姿は印象にあるが、実はどんな曲を歌われていたのか、取材で撮影するまであまりよく知らなかった。
「島育ち」は昭和37年に田端さんがレコーディングする13年前に、沖縄県宮古島出身の歌手・波平暁男さんがポリドールから発売していたが、奄美大島のみで歌い続けられていたという。その曲を田端さんが発掘、レコード会社の反対を押し切ってレコーディングして大ヒットに結びついた。
今でも奄美大島ではこの曲は大切にされており、大型観光フェリーが名瀬の港に寄港し出航する際には必ずと言っていいほど流される。
田端さんの取材は『レコード・コレクターズ』の連載「戦後日本のポピュラー音楽」で、インタヴュアーは北中正和さんだった。記事のタイトルは<「街の伊達男(ズンドコ節)を弾き語った田端義男さんに聞く>。タイトル通り昭和22年に発売された「街の伊達男」を中心に話が進められている。 |
ギター2本だけの演奏で歌われるところが、それまでの歌謡曲には見ないもので気になる曲だったと北中さんは冒頭で書かれている。
田端さんとこの曲の出会いは昭和21年に大阪から四国に向かう船の中のことで、元は闇屋の人たちが酒を呑みながら歌っていた春歌だったそうだ。<大阪娘に処女があれば 蝶々トンボも魚のうちよ>というような歌詞だったが、メロディーをたいそう気に入り闇屋の人に歌ってもらい譜面にとったという。
「この曲は絶対いけると思ったので、その船の中で、ギターで演奏するアレンジも考えました。あれね、ブギウギですよ。まだブギウギがはやる前でした。当時のわたしのバンドマスターの堀田さんというピアニストが、舞台の合間にブギウギを弾いていたのを覚えてたんです。その前に、黒人の女の人がピアノでブギウギを弾いている映像も何かでみて、びっくりしましたね。左手がブンボブンボブンボブンボ・チャンチャン、でしょ。それが頭にあった。この曲を普通(の歌謡曲みたい)にブンチャッチャとやってもアホみたいなもんやから。うん。そうや、二人でブギウギでやってみようと」
闇屋の人からはまだレコードは発売されていないと聞いたが、誰かに先に出されては困るので行くのに一日かかる東京ではなく、四国から急遽、奈良にあるテイチクの吹き込み所に向かい録音。当時の録音はロウ盤の一発撮りで、出来たばかりの曲を録音するのにロウ盤を12~13枚使ったという。春歌だったのでそのままの歌詞では発売できないので、佐々木英之助さんという方が、街のチンピラが恋人のためにカタギの仕事につくという純情な歌詞を書かれたそうだ。
連載「戦後ニッポンのポピュラー音楽」は残念ながら書籍にまとめられていないが、2002年に平凡社から発売された北中さんの著書『ギターは日本の歌をどう変えたか』に、<バタやんからはじまった敗戦後のギター><ストリート・ミュージックとしての「街の伊達男(ズンドコ節)>という項目で田端義夫さんについて触れられている。
田端さんは2013年4月25日に肺炎のため死去された。94歳だった。与論十五夜踊りの撮影を終えて、与論島から沖縄へ帰るフェリーの中でその訃報を知った。
4枚目の写真は連載とは関係なく、奄美大島に移住していた時に図書館から借りた『満点の星のごとく・・・』という本から複写したもので、キャプションには<昭和38年 名瀬市支庁通りをパレードする田端義夫氏。「バタヤン」の愛称で親しまれていた氏は、以前から奄美で歌われていた「島育ち」を歌い大ヒット。奄美の名を全国に広めた。【提供】丹羽写真機店(名瀬市)>と書かれている。
YouTubeから「島育ち/田端義夫」 「ズンドコ節(街の伊達男)/田端義夫」
テイチク 1998年2月20日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1998年5月号
『レコード・コレクターズ』1998年6月号
インタヴュアーは北中正和さん
#田端義夫
#YoshioTabata
#バタヤン
#戦後ニッポンのポピュラー音楽
#アーカイブ
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| 今年もあと10日程になってしまった。今日から大掃除を開始。アーカイブ作業中で机の上やら床に雑誌や書籍、昔のスケジュール帳が乱雑に置かれている自分の部屋は、アーカイブ作業が終わるまで片付けようがないので、1階ギャラリーの無垢材で作った家具とフローリングの床に蜜ロウワックスを塗ることから始めた。今日は1階奥の本棚とフローリングにワックスを塗ることができた。本棚は本を出すことからスタートで、これが大変。レコード棚は更に大変だ。 |
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ニルヴァーナのアルバム『Nevermind』が米ビルボード誌のアルバム・チャート「Billboard200」に700週ランクインしたという。700週は4900日で、約13年半か。現在、Pink Floydの『The Dark Side of the Moon』が990週でトップのようだ。
この他の気になった記事を備忘録として。
◯八代亜紀さんの銅像除幕式、ヒット曲「雨の慕情」を歌唱する姿「いつでも手を合わせられる場所があれば」
◯「コメはないか」割安な輸入米が奪い合いに 飲食店や小売店から注文殺到…輸入枠も異例の競争で使い切る |
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◯ジュリアナ東京
1992年から93年頃、雑誌『東京人』の仕事を時々していた。特集やグラビア・ページの撮影の時もあったし、小さなコラムに添える写真の時もあった。
フード・ジャーナリストの岩下久美子さんの連載コラム「新感覚ウォッチング」がスタートした時、編集部からジュリアナ帰りのボディコンの女のコを撮影してきて欲しいという連絡があった。岩下さんの連載コラムに使う写真で、コラムのタイトルは<ボディコン最後の砦 ジュリアナにもエピローグ?>というものだった。
終電間際のJR田町駅にジュリアナ帰りの女のコがたくさんいると編集者から聞いたが、まずはジュリアナに向かい様子を伺った。やはり黒服と呼ばれるスタッフの目が厳しそうなので田町駅へ戻ったが、11月だったので女のコたちは皆んなコートを着ていた。これではボディコンを着ているかわからないし、ジュリアナ帰りかもわからない。困ったな・・・と思ったが撮るしかないので思い切ってロングヘアーの二人連れに声をかけ、雑誌のコラム用にジュリアナ帰りの女のコを撮影にきたと話すと喜んでコートを脱いでくれた。コートの下はピチピチのボディコンで、ジュリアナ扇まで取り出してポーズをとってくれた。 |
wikiによると、ジュリアナ東京は日商岩井とイギリスのレジャー企業ウェンブリーの共同出資で、1991年5月15日から1994年8月31日まで営業。アイルランド人のジョン・ロビンソンがメインDJを務めていた。
YouTubeから「ジュリアナ東京JULIANA'S TOKYO MEGAMIX」
東京・田町 1992年11月13日撮影
初出『東京人』(都市出版株式会社)1993年1月号
#ジュリアナ東京
#JULIANATOKYO
#ボディコン
#BodyConscious
#田町駅
#TamachiStation
#アーカイブ
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◯リセット・メレンデス
80年代後半に『Spoon』という大学生向けのフリーペーパーの仕事をしていて、その時に大学のサークルのパーティーやミスコンの撮影でアチコチのディスコに行った。撮影するのに女の子たちに声を掛けなくてはならないので、ジーンズじゃなくてスーツを着て行った。当時流行ったダボッとしたスーツ。撮影に行ったはずが、頼まれてミスコンの審査をしたこともある。
雑誌『東京ウォーカー』の創刊は1990年で、確か創刊2号目から何回か撮影している。まだ名前は『週刊TOKYO WALKER ジパング』の頃で、撮影したフィルムを編集部に届けに行くと、編集部の女性がみんなボディコンだった。
ジュリアナは一度だけ入ったことがある。グリグリこと「GOODY-GOODY」の大ヒットを飛ばしたリセット・メレンデスのライヴ・イヴェントがあり、その撮影だった。C+Cをメイン・プロデューサーに据えたソニー傘下の新レーベルのお披露目で、彼女がゲストとしてジュリアナでライヴを行った。前座に名前は忘れたが日本人のセクシー系ガールズ・グループも出演したと記憶している。1994年の5月だからジュリアナも終わりの頃だが、お立ち台にはジュリアナ扇を持った女の子たちが踊っていた。
ポートレートの方は1994年10月24日、NHKホールでの収録の合間に撮影した。控え室でタレントさんを撮ることは何回もあったが、これほど狭い控え室は初めてだった。3畳あっただろうか。壁に黒布を貼り、天井の方からキミーラの小型バンクをつけたサンパックのグリップストロボ。メインはサンパックのグリップストロボに小型の傘で、控え室の外に設置。本人には中で立ってもらい、ドアを開けて外から撮影した。
リセット・メレンデスはプエルトリコ系のアメリカ人で、ニューヨーク・イースト・ハーレムの出身。「GOODY-GOODY」は日本国内でも60万枚のヒットを記録したそうだ。
YouTubeから「Goody Goody/Lisette Melendez」 「TOGETHER FOREVER/LISETTE MELENDEZ」
リセット・メレンデス 公式ウェブサイト
ライヴの写真はジュリアナ東京 1994年5月15日撮影
ポートレートはNHKホール 1994年10月24日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年7月号
リセット・メレンデスに関する記事を編集長・高橋道彦さんが書いている。
初出『ミュージック・マガジン』1994年12月号
インタヴュアーは真保みゆきさん。
#リセットメレンデス
#lisettemelendez
#ラテンヒップホップ
#Latinhiphop
#ジュリアナ東京
#JULIANATOKYO
#アーカイブ
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久しぶりに晴れたので、午前中は自転車で買い物。スーパーでは、もう正月用品が並んでいた。午後からは泥で汚れたトタンや角材、板を水でキレイに洗い流す作業。母親と父親が近所の人から借りていた畑に設置してあった、農作業の道具を置く小さな小屋を解体して出た廃材だ。しばらく前に電動ドリルとバールで解体して、妹の車で何回かに分けて運んで玄関の前に置いていた。市の処分場に持って行くにしても泥だらけではマズイだろうと思い洗うことにした。この後、釘やビスも抜けるものは外し、角材と板の長いものは短くカットしなくてはならない。 |
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政府はせっかく集めた除染土という名の汚染土を、再利用という名目で日本全国にバラまくそうだ。
この他の気になった記事を備忘録として。
◯緊急事態条項、自民「優先を」 立民、選挙妨害巡る議論提起―衆院憲法審
◯コメ相対価格、57%上昇 11月も過去最高―農水省 |
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◯奥村チヨ
「恋の奴隷」や「終着駅」などの大ヒットで知られる歌手。歌番組を観ながら♪あなた好みのオンナになりた~い~♪と、子供心になんだか艶っぽい女性だな~思っていた。そして♪悲しい女のふきだまり♪は、哀愁よりもシュールな怖さを感じていた。
1965年に「あなたがいなくても」で、東芝レコードからデビューし、黛ジュン、小川知子と「東芝3人娘」と呼ばれた時代もあったようだ。
1974年に「終着駅」の作曲者である浜圭介氏と結婚し一時は芸能界から退くが、1978年に東芝から「走馬灯」をリリースし歌手活動を再開。ディナーショーなどのステージを中心に活動する。1993年に起こった、60年代ブームに乗って「恋の奴隷」がリバイバルヒットし再び若い世代にも認知されるようになった。
2018年1月6日に年内で芸能活動から引退することを発表し、12月31で引退されたそうだ。
奥村さんは健康雑誌の「<水>こそ名医だ」という特集で撮影させていただいた。ご自身が実践されている、氷水に浸したタオルを顔に当てる美容法をお話しされていた。 |
「まず、刺激の少ない石けんをよく泡立て、水でていねいに洗顔します。この洗顔を2~3回行い、顔の汚れをきれいに落とします。私は特にクレンジングなどは使っていません。石けんでも丁寧にきちんと洗えば、じゅうぶんに汚れが落ちます。そして、洗面器に水を張り、氷をたっぷりと入れて、タオルを浸して軽く絞ります。そのタオルで顔の隅々まで押さえます。タオルが温かくなったらまた氷水に浸して、顔に当てる。これを30分ぐらい、繰り返します」
奥村さんは1947年生まれなので、この撮影をした時で52歳。とにかく顔の小ささが印象に残っている。
撮影場所は当時の所属事務所かレコード会社だろうか。スケジュール帳には2時15分にロシア大使館の前としか書かれていないので、わからない。
YouTubeから「恋の奴隷/奥村チヨ」 「終着駅/奥村チヨ」
東京・港区 1999年5月19日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)1999年8月号
『ゆほびか』2005年9月号
#奥村チヨ
#ChiyoOkumura
#アーカイブ
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◯由紀さおり
小学生の頃にテレビで夢中になって観ていた歌手や俳優は、どこか違う世界の住人のようだった。テレビの向こう側にある煌びやかで、でもちょっと危険な匂いのする世界に住む人達。
最近はテレビの歌番組やドラマをほとんど観ないのもあるが、特別な匂いのする芸能人が少なくなった気がする。会いに行けるアイドルなんていう言葉が生まれ、ネットやSNSが発達して知らなくてもいい芸能人の情報までが届いてしまう。垣根があって知らない方が、夢が見られて幸せなこともある。
そういえばテレビの画面もブラウン管から液晶に変わり、今では有機ELか。どんどん薄くなっていく。幼い頃はテレビの下に行って画面を見上げれば違った風景を見れるんじゃないか?テレビの裏を開ければ誰か居るんじゃないか?と妄想もしたが、液晶や有機ELではそんな妄想も持ちようがないか。
この撮影をしたのは、もう36年も前になる。『月刊カラオケ大賞』(中村出版)というカラオケ雑誌の仕事だったと思う。この写真と今の由紀さんを見比べても、あまり変わらないような気がする。自分にとって数少ない今でもブラウン管の向こう側の人。芸能の人だ。 |
「夜明けのスキャット」「手紙」「生きがい」などヒット曲は多数。2011年にアメリカのジャズ・アンサンブル、ピンク・マルティーニとのコラボ・アルバム『1969』がアメリカiTunesのジャズチャートで1位を記録した。
YouTubeから「手紙/由紀さおり」 「生きがい/由紀さおり」 「Yoake no Scat/ピンク・マルティーニ ft 由紀さおり」
由紀さおり・安田祥子 公式ウェブサイト
赤坂・東芝EMI 1988年12月20日撮影
初出『月刊カラオケ大賞』(中村出版)
#由紀さおり
#SaoriYuki
#アーカイブ
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◯コインブラ
昨日のNHKBS『世界ふれあい街歩き』は、ポルトガルのコインブラだった。首都リスボンと第2の都市ポルトの間に位置するポルトガル第3の都市で、ヨーロッパ最古の歴史を持つコインブラ大学がある。
コインブラへは1986年のイベリア半島の旅で、ナザレで5日間過ごした後に、バスで向かった。中心街からちょっと外れたバスターミナルで降りて、重い荷物を背負って街中に戻り、小さな広場に面したPensaoを見つけた。1泊910エスクードで、1エスクードが1.4円だったので1300円ほどだった。スペインでもポルトガルでも1泊1000円以内の宿を基準に探していたが、もう旅の後半に入って疲れも溜まり、ちょっとお腹も壊していて探す気力がなかったのだろう。
コインブラも、リスボンやポルトと同じく坂と路地の街だった。昨日、テレビで見た今のコインブラはすっかり鮮やかな色彩の街になっていたが、1986年に歩いた時はもう少しくすんだ色合いの街だった印象がある。
2泊3日のつもりだったがコインブラには3泊し、この後、ポルトガルのヴェネチアともいわれる水路の街・アヴェイロに向かった。 |
「愛の街・コインブラ〜ポルトガル〜」はBSP4Kで明日19日午前8時30分から、BSで24日午前11時から再放送される。
YouTubeから「Coimbra/Amália Rodrigues」
ポルトガル・コインブラ 1986年6月20日〜6月23日撮影
#コインブラ
#Coimbra
#アーカイブ
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| NHK『ブラタモリ』が来年4月からレギュラー番組に復活するそうだ。 |
◯ジェリーフィッシュ
1989年にボーカルでドラムのアンディ・スターマーと、キーボードのロジャー・マニングによって結成された、サンフランシスコ出身のパワー・ボップ・バンド。1990年にギタリストとしてジェイソン・フォクナーを加えてデビュー・アルバム『ベリー・バトゥン』をリリース。ポップな楽曲が人気となり、シングル「ベイビーズ・カミング・バック」はビルボードHOT100で62位を記録したそうだ。アルバム発売後のツアーにはロジャーの兄であるクリス・マニングがベーシストとして参加したが、ツアー終了後にギタリストのジェイソンとクリスは脱退してしまう。
ベーシストにティム・スミスを新たに迎え、1993年に2ndアルバム『こぼれたミルクに泣かないで』をリリース。発売後のツアーにはギタリストのエリック・ドーヴァーを加えて来日も果たした。
彼らを撮影したのは2ndアルバムをリリース後の来日ツアーで、9月16日の渋谷クラブ・クアトロでのステージを撮っている。仕事で撮影するまで彼らのことは知らなかったが、この時に買ったCDはiPodに入っていて、キャッチーで少しクイーンを思わせる音作りだった。
コンサート評を書かれた和田静香さんの記事によると、オリジナル曲の他にオリビア・ニュートン・ジョンの「そよ風の誘惑」、バッドフィンガーの「ノー・マター・ホワット」、ザ・ムーヴの「アイ・キャン・ヒア・ザ・グラス・グロウ」、そしてピンク・レディの「SOS」を完璧な日本語で歌ったそうだ。
残念ながら来日した翌年、1994年にバンドは解散するが、アンディ・スターマーは奥田民生とコラボしたりPUFFYの名付け親になるなど日本のミュージシャンとも交流を続けていた。ロジャー・マニングは新しいバンドを結成した後、ソロ・アルバムを発表。ニューヨークを拠点とする同姓同名のアンチフォーク・シンガーとの混同を避けるため、現在はロジャー・ジョセフ・マニング・ジュニアと改称して音楽活動を続けているそうだ。
YouTubeから「New Mistake /Jellyfish」 「Jellyfish - Live 1993 Germany - Stereo」
渋谷クラブ・クアトロ 1993年9月16日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年11月号
コンサート評は和田静香さん
#ジェリーフィッシュ
#Jellyfish
#アンディスターマー
#AndySturmer
#ロジャーマニング
#RogerManning
#ロジャージョセフマニングジュニア
#RogerJosephManningJr
#ティムスミス
#TimSmith
#エリックドーヴァー
#EricDover
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◯ワールド・パーティ カール・ウォリンジャー
英国ウェールズ生まれのカール・ウォリンジャーが、マイク・スコット率いるザ・ウォーターボーイズ脱退後に結成したロック・バンド。1986年の1stアルバム『プライヴェート・レヴォリューション』、1988の2ndアルバム『グッバイ・ジャンボ』など初期のワールド・パーティはウォリンジャーのソロ・プロジェクト的要素が強かったが、1993年に発表した3rdアルバム『Bang!』は、ギタリストとしてデイヴ・キャトリン・バーチ、ドラマーとしてクリス・シャーロックが正式に加わりバンド形式となった。
取材は、この『Bang!』のプロモーションのために来日した際に日本での発売元である東芝EMIで行った。インタヴューアーは和久井光司さん。
ワールド・パーティは2000年に5枚目となる『ダミング・アップ』をリリースするが、2001年にウォリンジャーは体調不良で音楽活動を休止。2015年にワールド・パーティは北米を含むツアーを行ったそうだが、今年3月20日、カール・ウォリンジャーは66歳で亡くなってしまった。死因は明らかにされていない。 |
◯ワールド・パーティのフロントマン カール・ウォリンジャー死去、ウォーターボーイズの初期メンバー
YouTubeから「She's the one - Live London 1997/World Party」 「Remembering KARL WALLINGER (1957 - 2024) - frontman of World Party」
赤坂・東芝EMI 1993年9月6日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年11月号
インタヴューは和久井光司さん
#ワールドパーティ
#WorldParty
#カールウォリンジャー
#KarlWallinger
#デイヴキャトリンバーチ
#DaveCatlinBirch
#クリスシャーロック
#ChrisSharrock
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昨日、しんぶん赤旗が新たな自民党の無断党員登録疑惑を報じた。今回の疑惑は富山3区の橘慶一郎衆院議員。
富山県で、あらたな自民党の「幽霊党員」疑惑が、「しんぶん赤旗」の調べで発覚しました。本人了解なしに物流企業におく「自民党港盛連支部」へ党員登録されていたというのです。同社は自民党の橘慶一郎衆院議員(富山3区)が社長でした。企業による党費立替の疑いも。
ツイートに書かれている橘慶一郎衆院議員が社長という物流企業は、彼が1995年から2004年まで代表取締役社長を務めた伏木海陸運送株式会社のことだろうか。ちなみに、1980年から1995年までは彼の父親で元衆議院議員だった橘康太郎氏が代表取締役社長に就任している。
そして今日、
無断登録疑惑のより詳しい記事が公開されているのを見つけた。
自民党の無断党員登録問題は、市連、県連が中心となって調査しないと終わらないだろう。そして富山県だけの問題ではなく、全国で同じようなことが起きていることが想像できる。
チューリップテレビが2020年に富山市議会の政務活動費不正問題に焦点を当てた映画『はりぼて』を製作したが、今回の不正党員登録問題を見ていると自民王国=富山がまさにハリボテだったと判る。
橘氏は先月富山市で行われた自民党の会合で富山県連会長として「党としても重大と受け止めており、田畑議員には臨時国会が開かれる前に説明責任を果たしていただく」と述べていたので、自身に向けられた疑惑にはきっちり答えてくれるのだろうと期待している。 |
◯藤田美保子
山口県宇部市出身の俳優。母親は元新派の女優で、その影響で自身も高校を卒業した1971年に女優を目指して上京。文学座付属研究所に入学して間もなく、1974年前期NHK連続テレビ小説『鳩子の海』のヒロイン、鳩子役に抜擢されてデビューした。
1975年5月24日から77年5月7日まで放映された『Gメン’75』に響圭子刑事として出演し、以降、多くののテレビや映画で活躍。
藤田さんを撮影したのは、健康雑誌のプラセンタ特集だった。プラセンタとは胎盤抽出物を主成分にした製剤で、膠原病を患われていた藤田さんがステロイド剤の使用量を減らす目的でプラセンタを使い始めたそうだ。
「胎盤エキスには、免疫力を増強したり、ホルモンを調整する働きがあったりするということで、現在飲んでいる薬を、さらにへらすのに役立つのではないかと思えたのです。また、プラセンタが膠原病に効果を発揮したという過去のデータにも勇気づけられました。プラセンタは携帯できるので、移動時間が多い私には大変重宝です。現在は毎朝、食後に1粒飲むようにしています」
藤田さんへのインタヴューはすでに済んでいたようで、ご本人のポートレートだけ「藤田美保子展V ~青と紫の連続~」が開催されていた銀座のギャラリーで撮らせていただいた。
撮影の後、担当編集者と藤田さんと親しい医師の方と一緒に食事をした。コース料理だったと思うが、食べながら藤田さんの「冷奴」も美味しく作ろうと思うと手間がかかるというお話を聞いていた。
藤田さんのオフィシャルサイトによれば、膠原病による闘病生活から芸能生活へ復帰し、現在は舞台・TVだけでなく、シャンソン歌手・画家・俳人・朗読講師など多岐にわたる活動をされているようだ。
YouTubeから「Gメン’75 オープニング」 「ミラクルガール 第01話」
藤田美保子 公式ウェブサイト
銀座・ギャラリーGK 2000年6月29日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2000年9月号
#藤田美保子
#MihokoFujita
#朝ドラ女優
#アーカイブ
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◯斉藤由貴
神奈川県横浜市出身の女優、歌手。1984年の第1回東宝シンデレラ・オーディションのファイナリストに選ばれ、同じ年の講談社第3回ミスマガジンでグランプリを獲得して芸能界入り。明星食品の「青春という名のラーメン・胸騒ぎチャーシュー」のCMで話題を呼び、翌1985年にキャニオン・レコードから「卒業」で歌手デビューした。また、この年4月から放送開始されたテレビ番組『スケ番刑事』で初主演を務め、一躍人気アイドルとなった。
1986年4月から放送されたNHK連続テレビ小説『はね駒』のヒロインに抜擢され、人気と知名度を広げ国民的女優となる。この年の3月にリリースした「悲しみよこんにちは」は約30万枚を売り上げ、年末の『第37回NHK紅白歌合戦』に初出場する。
斉藤由貴さんを撮影したのは、『ミュージック・マガジン』で編集部の高橋修さんがインタヴューと文章を担当していた「スター千夜一夜」という連載だった。バカラック・ナンバーなどのカヴァーと自身の作詞によるオリジナルを半分ずつ収録したアルバム『moi』をリリースする直前での取材だった。 |
半分がカヴァー曲だということについて尋ねると、
「3年前に『ラヴ』というアルバムを出した時に、私としては、レコードを出すとか歌を歌うっていう活動はもうそろそろ辞めようかなという気持ちがありまして。こんなこと言うとアレなんですけど、私って歌が下手だなあ、私みたいな人間が歌を歌っちゃ申し訳ないってすごく思いまして・・・不安だったんですよ。
どうしようかなあなんて思っている時に、”たとえば由貴ちゃんの好きな曲とか僕の好きな曲とか、昔の歌を歌ってみませんか”ってディレクターに言われて、あっそれだったらプレッシャーが軽くなるかな、なんて思って(笑)やってみたんですけど、実際のところ、なんか余計に人の歌の方がプレッシャーがかかったと言うのが(笑)、あの結果です」と答えている。
彼女自身が選んだカヴァー曲はバカラックの「エイプリル・フールズ」で、バート・バカラックの音楽のロマンティックなところが好きだと話されている。
バカラック以外に好きなアーティストを尋ねると、ユーリズミックスのボーカル、アニー・レノックスの名前があがった。
「彼女が美しいところが好きですね(笑)。私は、歌そのものより本人のライフ・スタイルみたいなものに惹かれるんですよ。だから、純粋にサウンドを楽しむとかではないと思います。どっちかっていうと物語の方が好きなんですよね。歌も曲より詞から入りますし。
アニー・レノックスは、ユーリズミックスでは中性的な魅力で氷のような美貌だったのが、子供が生まれてから一転して母性みたいなものを前面に押し出してきたでしょ。あの感じって、すごくかっこいいなと思うんですよね。それと同じような理由でシンニード・オコナーも好きです」
取材場所はキャニオンの会議室で、黒バックのポートレートは小型のストロボ2灯、インタヴュー中のカットは、会議室の窓から入ってきた自然光のみで撮影していると思う。レンズは多分、ミノルタの85mm、F1.4かな。
YouTubeから「卒業(1985)/斉藤由貴」 「明星食品 青春という名のラーメン 1984年」
斉藤由貴 東宝芸能公式プロフィール
中央区入船・キャニオンレコード 1994年10月27日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年12月号
インタヴュアーは高橋修さん
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富山1区の衆院議員・田畑裕明氏が、本人に無断で自民党員に登録したり、架空の人物を自民党員に登録していた問題で、富山県連に続いて富山市連も今日、田畑氏の常任顧問解任を決定した。富山市連の中川忠昭支部長は「離党に匹敵するくらいの対応だと思っています」と言うが、自民党員への無断登録、架空登録というのは有印私文書偽造や私文書偽造といった犯罪ではないのか。また、田畑氏が言うようにそれを行ったのが叔父であり、党員費も当初は叔父が支払い叔父が亡くなった後は父親が支払っていたというなら親族からの不正な寄付になるのではないだろうか。常任顧問の解任で済む話ではないだろう。
田畑氏は記者会見で第3者による調査・報告で自らの関与はないと述べたが、物的証拠は一つも無く、その第3者が誰であるかも明らかにしていない。もし県連や市連が彼に説明責任を果たさせるつもりがあるなら、真相を突き止めるつもりがあるなら、その第3者や父親同席での記者会見を用意するべきだろう。
田畑氏の党員登録問題が発覚した直後、富山市連の中川氏は「富山市連は被害者」との認識を示し、独自に調査することにも消極的だった。自民党の自浄能力の無さに呆れている。 |
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◯小沢昭一 中川敬
俳優で漫談師、歌手でエッセイストで芸能研究者でもある小沢昭一さんと、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットの歌手である中川敬さんの対談が行われ『ミュージック・マガジン』2000年3月号に掲載された。対談の場所は新宿荒木町にある喫茶店だったかスナックで、小沢さんの馴染みの店だったように思う。記事のタイトルは「ドキュメント日本の放浪芸 復刻記念対談」。
対談の趣旨を編集部の久保太郎さんが記事の冒頭で書いているので、そのまま引用させてもらう。
<昨年12月、俳優の小沢昭一さんが70年代に日本全国を旅しながら採集した様々な放浪芸の記録、『日本の放浪芸』のシリーズ全4巻22枚のアルバムが、CDで完全復刻された。そこで、小沢さん御自身と、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットで神戸の震災地から寄せ場を放浪する”歌手”中川敬さんにご登場いただき、小沢さん自ら「(放浪芸の)断末魔に立ち会った」といわれるこのCDを出発点に、広く芸能について語り合っていただいた> |
記事のサブ・タイトルには「ヨイショするのも芸能、ヨイショして後ろ向いて舌を出すのも芸能」と付いている。6ページの対談だが、ヨイショの部分の会話はこんな感じだ。
小沢 日本の国歌なんてね、ヨイショの最たるもんですよ。”君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで”って、そんなになるわけねえんだよ(笑)。そんなさざれ石がね、まず巌になるわけがない。にもかかわらずね、そういうことを言うっていうのはね、あれ最高のヨイショでしょ。
中川 なるわけがないことを歌って、後ろ向いて舌出してるかもしれませんよね。
小沢 そうそうそう。もしかしたらね。
中川 それも芸能ですよね。
小沢 そう。だからね、「君が代」っていうのは僕らの世代にとっちゃあ、あんな腹の立つ歌はないんだけど、でもあの歌は芸能的にみると、根本を捕まえてる歌だなという風に思いますね。ヨイショ歌としてね。ただ、構造的にやっぱり反抗原理が芸能そのものに本質的にあるんでね。それが伸びるときと伸びないときがある。
日本青年会議所あたりが卒倒しそうな会話だ(笑)。対談の後、外に出てもらって路上で二人並んだポートレートを撮らせてもらった。その時の一枚が、ソウル・フラワー・ユニオンの会報誌『月刊魂花時報 51号』の表紙にも使われている。
小沢昭一さんは2012年12月10日、前立腺癌のため都内の自宅で亡くなられた。83歳だった。これにより39年続いたラジオ番組『小沢昭一の小沢昭一的こころ』にも終止符が打たれた。
「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人、「世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めていらしたそうだ。
YouTubeから「小沢昭一的こころ「旨い安い大衆食堂について考える」 「ハーモニカ・ブルース/小沢昭一」
小沢昭一 NHK人物録
ソウル・フラワー・ユニオン 公式ウェブサイト
四谷三丁目・クィーン 2000年1月22日撮影
初出『ミュージック・マガジン』2000年3月号
『月刊魂花時報 51号』2000年3月発行 表紙
#小沢昭一
#ShoichiOzawa
#中川敬
#TakashiNakagawa
#アーカイブ
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◯清水哲太郎
日本のバレエダンサーで振付師でもある、松山バレエ団の総代表。奥様は日本を代表するプリマバレリーナの森下洋子さん。
清水哲太郎さんは、日経新聞のカルチャ・マンスリーというタイアップ記事の取材で撮影させていただいた。3ページの記事で下半分が広告。最初のページには森下洋子さんの舞踊歴50年記念の公演を案内した松山バレエ団の広告が掲載され、次の見開きページの下半分には都内のシティ・ホテルの広告が載っている。
南青山にある松山バレエ団に伺っての取材で、記事を読み返すとバレエに詳しい方が書いているようだが、インタヴュアーがどなただったか忘れてしまった。
清水さんのお話は終始哲学的で、
「舞踊は人間にとってすべての動きの根源とも言えるとても原始的な営みです。私たちバレエに携わるものには、その舞踊を愛し、受け継ぎ、守る者としての使命があります。芸術という枠を超え『人を幸せにするための仕事』として、他の産業分野と同じように、その目的や手段などの方向性の正しさを示さなければならない。私たち当事者が依存心から決別して、業界としての社会的、経済的そして精神的な信頼を得ることが、舞台芸術そのものの社会的地位を育てることにつながっていくと思います」 |
森下洋子さんの舞踊歴50周年記念公演では、日生劇場で古典バレエの代名詞的存在の「白鳥の湖」を独自の解釈で演出した清水哲太郎版の「新・白鳥の湖」、アートスフィアで森下さんのバレエ人生をギリシャ神話の世界に描くオリジナル作品「アテーレ」、Bunkamuraオーチャードホールで「シンデレラ」という演目が用意されていた。
「松山バレエ団の大切な理念の一つに、古典の継承と新しいバレエの創造があります。『創造』は、大自然の一部である人間の思念と実践との間の架け橋のようなもの。人間は今日まで、揺るぎの無い摂理に基づいた、無限の創造と確信で幸せの境地を切り開いてきました。しかし、同時に多くの矛盾を抱えてきてもいます。そういった命題の一つ一つや、生命、森羅万象が作り上げたこの世の奇跡である『美』を『新しいバレエ』として皆様に見ていただくことが大切な仕事だと思います。
古典バレエに関しても、三百年前の演目を寸分たがわず上演することのみに価値があるとは思いません。舞踊の本質、『変わりゆくこと』を踏まえれば、古典に題材を借りながらも、現在と未来に向けての矛盾を捉えて『何か』を発信する。それが古典バレエを真に継承していく責務だと考えています」
取材が終わり帰る際、森下洋子さんもご一緒に丁寧に見送っていただいたのが印象に残っている。
YouTubeから「バレエ ドン・キホーテ パ・ド・ドゥ (森下洋子&清水哲太郎)」
松山バレエ団 公式ウェブサイト
港区南青山・松山バレエ団 2002年1月7日撮影
初出『日本経済新聞』2002年1月25日発売号
#清水哲太郎
#TetsutaroShimizu
#松山バレエ団
#アーカイブ
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昨日から年末の交通安全県民運動が始まった。今年は春、夏、秋、そして年末の交通安全県民運動期間中、交通安全協会の車に同乗して朝の7時30分から1時間弱、町内を周回している。年末の交通安全運動の期間は今月20日までで、これが済んだら次の人へバトンタッチでお役御免となる。
もっとも支給された蛍光色のチョッキと黄色い帽子をかぶり、助手席に座って業務日誌を書いて交差点に立って黄色い旗を振っているお巡りさんや交通指導員の方々にマイクで「ご苦労様で~す」と声をかけるだけなのだが。
今朝、安全協会の車に同乗して山裾の方を走ると、イチョウが黄色く色づいてまだ紅葉が見頃だった。12月に入って寒さが厳しくなり、夜は湯たんぽを布団に入れて寝ているが、里山の景色はまだ秋だった。長かった夏の影響だろうか。
では、みなさん、安全運転を!
11年前の特定秘密保護法案に反対する市民団体のデモを、「単なる絶叫戦術は、テロ行為とその本質においてあまり変わらない」と批判した石破茂氏が、今月10日に行われた衆院予算委員会で野党が求める企業・団体献金の禁止について「企業も表現の自由を有しており、それは自然人(個人)か法人かを問わない」と語り、企業・団体献金の禁止は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」の保障を定める憲法21条に抵触するとの認識を示したという。 |
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また、「献金で政策が歪められたとの記憶はない」とも語ったそうだが、添付したXで拾った<自民党「国民政治協会」への献金額と関連事業の受注額>と題する資料を見れば、歪められているのは一目瞭然だ。福島第一の過酷事故を経験してもなお推進される原発、国民の多くが一本化を反対している中でのマイナ保険証のゴリ押し。これでは献金が公共事業受注のワイロと思われても仕方がない。Xの投稿には(参院予算委:共産・山添氏)となっているのでしんぶん赤旗の調べだろうか。朝日新聞や東京新聞にも、ぜひこうした献金と受注の関係を調査・公表してほしい。
市民のデモこそ憲法が保障している表現の自由だが、企業・団体献金がどうしたら表現の自由になるのか。そんな拡大解釈がまかり通るなら、為政者の暴走を縛る憲法の意義などなくなってしまうだろう。そして、こんな屁理屈と拡大解釈で憲法を歪める政党に、緊急事態条項の新設など絶対に許してはいけない。 |
今日の円相場は1ドル=152円台半ばだそうだ。国会では年収の壁をめぐる議論ばかりしているが、この円安をいつまで放置しておくのだろうか。年収の壁の問題は誰が税の負担をするかの話でしかなく、これで国民生活の質が大きく向上するとは思えない。この円安と、金利を上げれば株価が下がるというアベノミクスによる金融政策の弊害を修正する方が先だろう。
子供に無料や低額で食事を提供する「子ども食堂」が、昨年度より1734カ所増えて全国で少なくとも1万866カ所になったという。2023年度の税収は72兆761億円で、4年連続過去最高を更新。いったい税金はどこへ消えているのか。
この他の気になった記事を備忘録として。
◯「新たなブラックボックス」野党が追及 自民「工夫支出」は上限なし
◯「自民案はカネ使い放題」と野党がチクリ 政策活動費を廃止・新設する制度も「領収書非公開、金額上限なし」
◯「旧文通費」改革のスタートは「来年8月から」で決着 議員に月100万円…使途公開と残金返納、法改正へ
◯【速報】防衛増税めぐる政府案の時期判明 「防衛特別法人税」2026年4月から税率に4%付加、「防衛特別所得税」2027年1月から税率に1%を付加
◯都議会自民でも不記載か パー券収入、経緯調査
◯米軍、オスプレイ運用再び停止か 昨年11月も鹿児島沖で事故
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◯キム・ゴンモ
韓国のシンガー・ソングライターで、92年に『1集/Kim Gunmo』でデビュー。95年の暮れにディナー・ショーのために来日した際、『ミュージック・マガジン』の取材で撮影した。インタヴュアーは小倉エージさんで、エージさんの原稿には
「92年9月にデビューしたキム・ゴンモは、美男でもなく、TV向きではない、とされながら、TVやラジオのトーク・ショーで話のうまさとユーモアな人柄が評判を呼び、<眠れない夜は雨が降り続いて><第一印象>を立て続けにヒットさせる。2作目のアルバムからの<言い訳>のビッグ・ヒットで、先輩格のシン・スンフンを追い抜く存在となった。さらに3作目のアルバムから<間違った出会い>のビッグ・ヒットを生み、若者ばかりか幅広いファン層を獲得。同アルバムは韓国国内で300万枚を超える売り上げを記録し、韓国を代表する歌手となった」と紹介されている。
インタヴューを行ったのは12月23日、虎ノ門のホテル・オークラとなっているが、撮影は12月25日で、日本テレビ音楽院でのディナー・ショーのリハーサルの時だった。 |
ディナー・ショーは12月26日に新宿の京王プラザ・ホテルのコンコード・ルームで催されたそうだが、公演の告知は日本に出稼ぎに来た韓国人を中心に行われたため、一般には彼の来日は知られていなかった。それでも満員のお客さんを集めたという。
2部構成のショーで、2部を観たエージさんによればスティーヴィー・ワンダーの「サー・デューク」のインストで幕開けし、自身のヒット曲などと共にスティービーや尾崎豊の曲なども歌ったそうだ。
1992年のデビュー以来、13枚のアルバムをリリースし、1994年から1996年まで3年連続でゴールデンディスク・アワードのアルバム・オブ・ザ・イヤーを含む数々の賞を受賞している。
最新作は2008年に発売された「Soul Groove」だそうだが、それ以降の活動はwikiにも掲載されておらず、彼のホームページもSNSも見つけることができなかった。
YouTubeから「Fall In Love/Kim Gunmo」 「Wrongful Meeting/Kim Gunmo」 「Sleepless Rainy Night/Kim Gunmo」
日本テレビ音楽学院 1995年12月25日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1996年4月号
インタヴュアーは小倉エイジさん
#キムゴンモ
#KimGunmo
#金健模
#김건모
#アーカイブ
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◯ソ・テジ・ワ・アイドゥル
韓国のロックバンド、シナウィのベーシストとして活動していたソ・テジが、イ・ジュノ、ヤン・ヒョンソクと結成したグループ。ソ・テジはリーダーの名前であり、ワは日本語のと、アイドゥルは子供たちの意味で、グループ名は<ソ・テジ と仲間たち>といった感じだろうか。
彼らは韓国で初めてヒップホップで成功したアーティストであり、今に続くK-POP人気への重要な役割を果たしたグループだと認識されている。
ソ・テジ・ワ・アイドゥルを撮影したのは、アンティノスレコードから日本での1stアルバム『Seo Taiji and Boys』が発売された直後の1994年11月。このアルバムは韓国での1st、2nd にあたる1集と2集を組み合わせたものだ。wikiによれば1集が約180万枚、2集が約220万枚売れたそうで韓国での彼らの人気が伺える。
取材は青山にあったアンティノスレコードで、インタヴュアーは関谷元子さんだった。『ミュージック・マガジン』の関谷さんの原稿を読んで思い出したが、3人それぞれにスタイリストとメイクがついての登場だった。 |
インタヴューの後にフォトセッションもあったのだが、編集部からの撮影依頼の電話でヒップホップ・グループだと聞いていたので、それ風のポーズを要求したら「もう僕らはヒップホップではなく、オルタナティヴ・ロックバンドなんだ」というような事をソ・テジから言われて「エッ!?」となったのを覚えている。実際1995年に発売された2ndアルバム(韓国の3集)は、ヘビメタの要素が入っている。
2ndアルバムのジャケットには荒涼とした大地に白い鳩が降り立つ姿が描かれている。「鳩は平和を象徴しています。北朝鮮の方に飛ばしているんです。僕たちはあの鳥たちみたいに飛んで行きたい」とソ・テジ は語っている。そして、1曲めは南北統一を望む歌かという関谷さんの質問に、「昔からの念願だし、韓国もそういう雰囲気になっているし、僕もそうなって欲しい。20代の人は統一を望んでいるけれど、10代はそういうことに関してほとんど興味持たないから、彼らにもそう思って欲しいんです」と答えていた。
インタヴューの冒頭の方で、「基本的に、アイドルと思われるのは嫌です。今までの概念を破ったのは僕たちだし、いちばん新しいアルバムでも歌詞はいろんな社会問題を扱っているし、韓国では明確な意識をもったシンガーと見られていて、政治家とか大学生といった層からも支持があるんです。僕たちの活動はヴァラエティとかショウ番組じゃなくニュースなどで取り上げられています」と発言し、そのプライドの高さを伺わせていた。
ソ・テジ・ワ・アイドゥルは人気絶頂期の1996年1月にグループの解体と引退を宣言し6月に活動を終えたが、3人はそれぞれソロやプロデューサー業などで現在も韓国のエンターテインメント業界で力を発揮しているようだ。
YouTubeから「Hayeoga/Seo Taiji and Boys」 「時代遺憾/Seotaiji Symphony」
ソ・テジ 公式ウェブサイト
青山・アンティノスレコード 1994年11月7日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1995年2月号
インタヴュアーは関谷元子さん
#ソテジワアイドゥル
#SeoTaijiandBoys
#서태지와 아이들
#ソテジ
#SeoTaji
#ヤンヒョンソク
#YangHyunsuk
#イジュノ
#LeeJunho
#アーカイブ
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テレビのキャスターとして長く活躍されていた小倉智昭さんが、闘病生活の末に昨日亡くなられたそうだ。今日の『羽鳥慎一モーニングショー』では、以前、闘病中の小倉さんのご自宅を羽鳥さんが訪ねてインタヴューした回が再放送されていた。趣味のコレクションやオーディオが並ぶ、豪華な家の中の様子が紹介されていた。
1986年だから、もう38年前になるが、週刊現代の取材で小倉さんのご自宅へ伺ったことがある。カメラマンではなくライターとしての仕事で、オーディオ好きな著名人のオーディオ・ルームを紹介するページだった。残念ながら掲載誌は見つからなかったが、当時のスケジュール帳のメモを見ると、10月23日に小倉智昭さん、24日に元オフコースの鈴木康弘さん、25日にマンガ家の新谷かおるさん、26日に立花隆さんを取材している。タモリさんの事務所にも取材を申し込んだが断られている。
当時の小倉さんのご自宅はマンションで、スケジュール帳で確認するまではフジテレビに近い曙橋だったと思い込んでいたが、文京区千石だった。早くて夜7時〜というメモもあるので、夜の取材だったのだろう。もちろん当時から名前が知られているアナウンサーだったけれど、フジテレビの朝の情報番組『とくダネ!』の総合司会を務めるずっと前で、モーニングショーで見た豪邸とは違い普通のマンションにお住まいだった記憶がある。その頃は大橋巨泉事務所に所属されていて、小倉さんの名刺はなかったが、事務所の方の名刺があったので取材に同席されていたのだろう。
一昨日の班長会議で神宮大麻が配布され、昨日班の家に配りにいった。チラシや冊子、回覧板ならポストに投函してもいいだろうが、神様のお札なのでそうもいかない。昨日留守だった2軒の家に、今日の午前中に届けてきた。
先週の土曜日、7日が母親の誕生日だったが本人がデイサービスの日だったり、車を運転できる妹も仕事だったりで家でケーキを食べるだけにして、平日の昨日に改めて誕生日のお祝いにランチのお寿司を食べに行った。外へランチを食べに行ってスーパーで買い物をして帰ってきたら昼に再放送している『カムカムエヴリバディ』を見逃してしまった。昨日見逃して今日の放送を見たら、安子がるいを産んでいて話の展開の早さに驚いた。 |
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◯比屋定篤子
一昨日の琉球新報に、ピンクドット沖縄2024が那覇の国際通りで開催されたという記事が掲載されていた。
ピンクドットはピンク色のものを身につけて、LGBTQなど性的マイノリティーへの理解を深めて、その思いを共有し、性的マイノリティの人たちが生きやすい社会を願うイヴェントだ。
沖縄で暮らしていた2013年7月14日に、国際通りの「てんぷす那覇」で初めてイベントが開催されて見に行った。会場をウロウロしていたら琉球新報だったか沖縄タイムスだったか忘れたが、なぜ参加したのですか?とコメントを求められた。
「あ、比屋定篤子さんの歌が聴きたくて」と、答えた。イヴェントでは唄三線とピアノで沖縄民謡を演奏するラコルドという二人組と、彼女のミニ・ライヴが用意されていた。
比屋定さんは1971年生まれ、那覇市出身。サウダージヴォイスと表現される、どこか切なさを含んだ歌声が魅力のシンガーソングライターだ。彼女のサイトのプロフィールから引用すると、 |
武蔵野美術大学入学後、同大学のサークル「 ラテン音楽研究会」に参加。バンド活動を始めボーカルを担当。 在学中にオリジナル曲を作り始め、 東京都内ライブハウスでの活動を開始。1997年、Sony Musicよりデビュー。7枚のシングル、3枚のアルバムをリリース。2001年に拠点を故郷の沖縄に移す。2004年から2017年の間にHappiness Recordsより5枚のアルバムを発表。2015年に沖縄の歌を収録したアルバム「RYUKYU STANDARD」、2016年には初のベスト盤がリリースとなった。最新作は2017年発売の「風と鱗」。沖縄県内外でのライブ活動をマイペースに継続。笹子重治氏とのデュオ歴は22年となり各地で好評を得る。
比屋定さんの生の歌を聴くのはこの時が初めてだったが、2000年に一度お会いしたことはある。その年の12月13日に吉祥寺のスターパインズカフェで行われたハシケンさんのライヴの打上げで、遊びに来ていたRIKKI、我那覇美奈さん、比屋定篤子さんと一緒の記念写真を当時メモ代りに使っていたソニーのマビカで撮影している。写っているのはハシケンさんを含めて4人だが、すぐ横に元ちとせちゃんがいた。一緒に撮ろうと誘ったが、まだデビュー前の彼女は遠慮していた。
沖縄では祭りやイヴェントで様々な歌手、グループのライヴを見れて充実した2年間だったが、比屋定さんのワンマン・ライヴを体験しなかったのを少し心残りに思う。
YouTubeから「まわれまわれ/比屋定篤子+笹子重治」 「メビウス/流線型と比屋定篤子」 「ナチュラル・ウーマン/比屋定篤子 with TROPICALISM」
比屋定篤子 公式ウェブサイト
沖縄・那覇市 2013年7月14日撮影
#比屋定篤子
#AtsukoHiyajo
#ピンクドット沖縄
#PINKDOTOKINAWA
#アーカイブ
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◯大西結花
1986年10月から放送されたテレビドラマ『スケバン刑事III 少女忍法帖伝奇』で、”折り鶴の結花”こと風間結花を演じて一躍人気を博した。ドラマでは浅香唯、中村由真と姉妹役で共演し、アイドルユニット・風間三姉妹(長女:風間結花/大西結花 次女:風間由真/中村由真 三女:風間唯/浅香唯)としてドラマの主題歌「Remember」を歌い、オリコンチャート1位を獲得した。
wikiによると、1968年生まれで大阪府豊中市出身。1984年に阿久悠原作のテレビドラマ『家族の晩餐』で倍賞美津子の娘役でドラマデビュー。翌、1985年に「アラベスク・ロマネスク」でアイドル歌手としてレコード・デビューしている。
彼女を撮影したのは「NOPETNOLIFEペットと私」という健康雑誌の連載で、麻布十番にあった「HAVET」というペットの同伴が可能なカフェでの取材だった。店内でインタヴュー中の写真を撮り、その後にお店の入り口で愛犬と一緒のポートレートを撮影している。お店は大西さん側からの指定だったように思うが、ネットの情報では既に閉店されているようだ。 |
2000年6月にダートトライアル選手権に出場し、レーサーデビュー。以降もレースに出場し、一時期は大西結花 with Challenge Girlsとして全国のレース場でキャンペーン活動を行なっていたという。
2012年に17歳年下の一般男性と結婚されたそうだ。
YouTubeから「哀しみのシャングリラ/大西結花」 「Remenber/風間三姉妹」
大西結花 オフィシャル・ブログ
大西結花 Instagram
麻布十番・HAVET本店 2008年4月1日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2008年7月号
#大西結花
#YukaOnishi
#スケ番刑事
#折り鶴の結花
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ
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先日は寝ている間に韓国でユン大統領の戒厳発令とその解除という一人クーデター未遂事件が起きたが、今日は朝から今年最後の集落の班長会議と懇親会に出て昼過ぎに酔っ払って家に帰ってきたらアサド政権が崩壊していた。シリアでは1970年にアサド氏の父ハフェズ・アサド前大統領がクーデターで政権を掌握して以来、親子2代に渡って50年以上独裁政治が続いていた。2011年から民主化を求める反政府グループとの内戦で50万人以上が亡くなり、1200万人が家を追われ、そのうち約500万人が国外で難民または亡命希望者となっているという。
Xでこういう投稿を拾った。石破首相は衆院予算委員会で、政治資金規正法を巡って野党が企業・団体献金の禁止を求めたのに対し「献金で政策が歪められたとの記憶はない」と拒否したが、このイラストの資料を見れば歪められているのが一目瞭然だ。(参院予算委:共産・山添氏)となっているので赤旗の調べだろうか。朝日新聞や東京新聞にもぜひこうした献金と受注の関係を調査・公表してほしい。 |
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◯杏里
高校2年生だった17歳の時に「オリビアを聴きながら」でデビューした、シンガーソングライター。彼女を撮影したのは日経新聞に掲載するタイアップ記事だった。2001年11月14日発売の新聞見開きで、ページの下半分が都内のシティ・ホテルの広告になっている。各ホテルがクリスマス・プランやお正月の宿泊プランを掲載していた。
取材した2001年11月は、長年所属していたフォーライフ・レコードから日本クラウンへ移籍し、自身のレーベル「Dolphin Hearts」から通算23枚目となるアルバム『My Music』をリリースした直後だった。インタヴュアーは初めてご一緒する方で、レコード会社を退職した年配の男性だったと思う。インタヴュアーが新レーベルの名前の由来を尋ねると、 |
「レーベル名を言うと、必ずといっていいほど由来を聞かれるんですよね。でも、特に深い意味があるわけではないんです。私はイルカがとても好きでよく海に潜りに行くんです。イルカたちと一緒に泳いでいると、ピュアな心を持ちつづけることが大事なんだと教えられます。そういう意味での「Dolphin Hearts」かな」と答えている。
タイアップ記事なので、ホテルに関するコメントもちょっと掲載されている。
「たしかに、時間がないときこそリラックスしたいものですよね。ただ、非日常的なものを求める前に、毎日使っているものに目を向けるのも大事だと思います。たとえば私は、ベッドと枕にこだわってるんですよ。寝心地が悪いと、次の日の目覚めがよくないですからね。仕事柄、自宅に戻れなくてホテルに滞在することも多いけど、部屋に入ったらまず最初にベッドに大の字で横たわって、枕の高さとかマットの沈み具合を確認するんです。枕が合わないと眠れなくなる性質なので、ホテルを決めるときのポイントになっています」
取材場所は六本木のスタジオモーリスで、大きな白ホリのスタジオだった。白バックのポートレートはブローニー(645)で、控え室でのインタビューカットは35mmで撮影している。共にカラーフィルムで撮っているが、新聞にはモノクロで掲載されている。
YouTubeから「オリビアを聴きながら/杏里」 「Cat’s Eye/杏里」
杏里 公式ウェブサイト
杏里 Instagram
港区六本木・スタジオモーリス 2001年11月14日撮影
初出『日本経済新聞』2001年11月22日発売号
#杏里
#Anri
#アーカイブ
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◯シャンタール・クレヴィアジック
音楽雑誌でミュージシャンの撮影をたくさんしていたのは1980年代半ばから、2000年代初めまで。来日した海外アーティストの撮影も多かったが、その中には音楽を聴いたことがなく、名前すら知らない人もずいぶんといた。たぶん撮影依頼の電話で「インドのポップガザル歌手、パンカジ・ウダースさん」「フランスのパンク・バンド<ピガール>のフランソワ・アジ・ラザロさん」「イランから亡命した歌手、レイラ・フォルーハルさん」と言われて、どんな人か理解できるカメラマンはそういないと思う。
せっかくなら事前にCDを買って聴いてから撮影したいとも思うが、撮影依頼の電話はたいてい急で、前日や当日なんてこともある。今ならYouTubeで検索をかければ、様々な国のミュージシャンの音楽が簡単に聴けるが、当時はそんな環境ではなかった。
そんな訳で撮影したけれど、どんな音楽をやっているのか長い間知らなかったミュージシャンも多い。写真のシャンタール・クレヴィアジックも、そんな一人だ。 |
ピアノ・ロックの特集で、この時一緒に取材した今井智子さんの原稿によれば、彼女はカナダ出身(ウクライナ系のカナダ人だそう)のシンガーソングライターで、5歳からクラシック・ピアノと声楽を学んだそうだ。1997年にアルバム『シャンタール』でデビューしている。
撮影からずっと経ってからYouTubeで検索して、何曲か彼女の歌を聴いていたが、ヤフオクでCDが出品されているのを見つけ、送料無料480円で落札した。ヤフオクで使えるポイントが399円あったので、支払いは81円だった。落札した翌々日にクリックポストで届いたので、さっそくiTuneに取り込んで聴いてみた。
購入したのは、2002年にリリースされた3枚目のアルバム『What If It All Means Something』(日本では『イン・ディス・ライフ』で発売)。どの曲もキャッチーなメロディーが散りばめられ、よく出来たアルバムだな~と思う。素直にかっこいい。車どころか免許も持っていない自分が言うのもなんだが(笑)、ドライヴしながら車の中で聴くと最高な気がする。
wikiによれば女優としても活動しているようで、なんとなく松下奈緒さんとイメージが重なる。
YouTubeから「In This Life - Live On the Late Show/Chantal Kreviazuk」 「Time(Live)/Chantal Kreviazuk」
シャンタール・クレヴィアジック 公式ウェブサイト
赤坂プリンス・ホテル新館 1997年4月18日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1997年6月号
インタヴュアーは今井智子さん、通訳は立神和依さん
#シャンタールクレヴィアジック
#ChantalKreviazuk
#アーカイブ
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一日中激しい雨が降ったり止んだり、時おり雷も鳴る北陸らしい冬の荒れた天気。明日の天気予報には雪マークが現れ、本格的な冬シーズンに突入か。
朝、突然パソコンの電源が落ちた。急いで1階に降りると照明もテレビも真っ暗。台所のブレーカーは下りていない。どこかに雷が落ちて停電になったのだろうか。北陸電力に問い合わせてみようかと思ったが、電話の受付は9時からだった。しばらく放置していたが、もしや?と思い大本のブレーカーを見てみると下りていた。エアコン、電子レンジ、テレビ2台、パソコンで負荷がかかったのだろう。
今日の午後、ミポリンの愛称で親しまれた女優で歌手の中山美穂さんが自宅で亡くなっているのを発見されたというニュースが流れてきて驚いた。特別ファンだったわけではないけれど、著名人の突然の死はドキッとさせられる。いわゆる85年組の一人だそうだが、同期デビューの女の子の中では少し大人っぽかった印象がある。1980年代後半、原宿の竹下通りを中心にキャラクター・グッズを並べたタレント・ショップ、アイドル・ショップが次々にオープンした。その頃、双葉社から発行されていたオーディオとビデオの情報誌『AVハウス』で、毎月それらのショップを1軒ずつ紹介する連載を担当していた。その中に中山美穂さんのお店「AUBE-JAPON」もあった。他のアイドルのお店が可愛いキャラクター・グッズを並べている中、彼女のお店はシックなデザインのステイショナリーや雑貨、ちょっと値段の張る洋服を扱っていた。
中山美穂さん本人も一度コンサートで撮影している。媒体はやはり『AVハウス』で、中ページのグラビアに使われている。1989年5月11日に行われた武道館コンサートだった。撮影したフィルムは全て編集部に渡して手元には掲載誌しか残っていないが、写っている彼女の衣装が何パターンもあるので撮影の規制は頭3曲といった厳しいものではなく緩かったのかもしれない。メインに使ったレンズは、200mmのAPOだった気がする。 |
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←中山美穂さんのお店「AUBE-JAPON」の紹介記事。竹下通りからちょっと外れた住宅地の中に建つペンション風のお店。アイドル・ショップには珍しく2階もあり、広々ゆったりした造りだった。
↓1989年5月11日の武道館コンサート。共に『AVハウス』(双葉社)1989年7月号に掲載。 |
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参議院の政治倫理審査会は、自民党の裏金問題に関わる審査会に出席する意向を示した安倍派議員27人のうち、23人が非公開での審査を希望していることを明らかにしたそうだ。この23人は国民に説明責任を果たしたいのではなく、政倫審に出席した既成事実を作り来年の参議院選挙での公認を得たいだけなのだろう。石破茂首相になっても自民党の体質が変わらないなら、国民は来年の参議院選挙でも自民党議員を落とすだけだ。
この他の気になった記事を備忘録として。
◯【速報】前首相代表の政党支部、不正受給企業が寄付
◯「どういう神経してるの」 有名音楽評論家、過去の“万引き”を告白…… 「盗んだレコードで評論とは」批判殺到
◯日本の軍需企業販売、35%増 23年、防衛力強化で |
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◯ドゥルス・ポンテス
ドゥルス・ポンテスのアルバムは1993年発売の『ラグリマス』と、1999年発売の『プリメイロ・カント』を持っていたが、2001年に杏里さんを撮影した時に、撮影中の雑談でポルトガルのファドに興味があると聞いたので、写真チェックで彼女の事務所に写真を届ける際に新世代ファドの女王と呼ばれた彼女のアルバムを一枚プレゼントすることにした。どちらを渡すか悩んだ末に『プリメイロ・カント』を差し上げて欲しいと担当者に渡した。なぜ『プリメイロ・カント』を選んだのか、今となっては思い出せないけれど。
その後、『プリメイロ・カント』を買い直し、何年か前にヤフオクで2枚組ライヴCD『ア・ブリーザ・コラサン~心のそよ風~』を手に入れた。
ドゥルス・ポンテスは2000年の5月に撮影している。18日にレコード会社ユニバーサルでインタヴュー写真とポートレートを、そして翌々日の20日に渋谷のオーチャードホールでコンサートを撮った。 |
ポートレートを撮影した時は、Tシャツにジーンズというラフな格好で、とても気さくな対応だった。撮影用のバックドロップ(背景布)に穴が空いているのを見つけた彼女は、洋服を着るように穴から顔を出し「My dress!」とおどけてみせた。 ”新世代ファドの女王”という彼女に付けられたキャッチフレーズの重さや堅苦しさはまるで感じなかった。
けれど20日のコンサートでは、ガラリと印象が変わった。ファドを演奏するには楽器の種類も人数も多いグループを率いて歌う彼女の姿に圧倒されてしまった。見事な歌声と堂々とした立ち振る舞いでステージに立つ彼女は、やはり新世代ファドの女王だった。
YouTubeから「Canção do Mar/Dulce Pontes live at Herodes Atticus Athens」 「Lagrima 1995Live/Dulce Pontes」
ドゥルス・ポンテス 公式ウェブサイト(工事中)
初出『ミュージック・マガジン』2000年7月号
インタヴュアーは北中正和さん、コンサート評は五十嵐正さん
#ドゥルスポンテス
#DulcePontes
#ファド
#fado
#アーカイブ
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◯ナザレ Canção do Mar
ポルトガルのリスボン近郊にナザレという漁師町がある。夏は海水浴客で賑わう人気の観光地でもある。女性の伝統衣装はスカートの重ね着で7枚ほど履き、セーターをショールのように着ている。男性はチェックのシャツに黒の帽子で、長い帽子の先が垂れている。
何年か前に偶然You Tubeでナザレを舞台にした『過去を持つ愛情』というフランス映画を観た。主人公の男女が観光客で賑わう夜の町を歩いていると、アマリア・ロドリゲスの歌う「Canção do Mar」が流れてくる。「Canção do Mar」は日本語訳だと「海の歌」になる。
ネットに掲載されていた歌詞の意訳は、
おいらは 自分の舟の上で踊っちまってたんだ
むごい海の沖でだ
そしたらよ 吼え立てている海が
(おいらに向かって)言うんだ
『てめは 盗ったんだぜ 何にも
替えることのできないあの輝き(あの女の愛)をだ
(いま思い浮かべているあの女)のとてもきれいな目の(輝きをだ)』
歌詞を読み解くのは難しいけれど、荒波の海を漕ぐ漁師や、時化で大切な人を失くした女性が浮かんでくる。『過去を持つ愛情』という映画を観てから、「Canção do Mar」はナザレの海を歌った曲かな、と思い始めた。
ナザレは海岸沿いの町と標高110mの岩山の上にある町に別れていて、ケーブルカーで結ばれている。海岸沿いを歩いていても気づかなかったが、上の町から海岸を見下ろすと大きな波が押し寄せるのがわかる。ネットで検索すると2018年の4月30日に、ナザレでのサーフィンで波の高さが80フィート(約24m)に達したという記事を見つけた。
ナザレのこの巨大な波は、これまでに多くの船と漁師も飲み込んできたのだろう。
「Canção do Mar」を初めて聴いたのは、アマリア・ロドリゲスのものではなく、2000年の5月に来日したドゥルス・ポンテスのものだった。「Canção do Mar」はアマリア・ロドリゲスも歌ったが、ドゥルス・ポンテスの代表曲になっている。
コメント欄に二人の歌う「Canção do Mar」をリンクしておきます。聴き比べてみるのも一興です。
アマリア・ロドリゲスの歌う「Canção do Mar」
ドゥルス・ポンテス の歌う「Canção do Mar」
ポルトガル・ナザレ 1986年6月13日~6月17日撮影
#ナザレ
#Nazaré
#CançãodoMar
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昨日は『新日本風土記』を見た後、早めに就寝。今朝起きてSNSで韓国のユン・ソンニョル大統領が昨晩、非常戒厳を宣言し、それが今日の未明に国会の決議で解除されたことを知った。ユン氏は国会での野党の行為について「内乱を企てる明白な反国家行為だ」と指弾。宣言を受けて発足した戒厳司令部は「国会と地方議会、全ての政党活動と集会、デモを禁じる」との布告を出していた。
韓国で起きたこの非常戒厳宣言は、自民党が憲法改正で掲げている緊急事態条項の新設がいかに危険なものかを図らずも教えてくれたように思う。韓国ではすぐさま多くの市民が国会前に集結し、国会議員とともに戒厳解除要求に動いた。日本で為政者による緊急事態条項が発令された時、その暴走を国会議員やマスコミ、市民が止められるだろうか。
今回のユン大統領の一人クーデターを見て、普通は緊急事態条項の新設などとんでもないと考えるが、維新の馬場伸幸元代表はXで「これ日本でやったら大変なことになるでしょうけど一体何が起こっているのか?わかりませんね。ただ韓国で起こることは日本でも起きる可能性があるということを自覚しないといけません。憲法改正で緊急事態条項を整備すべきです」とツイートしている。事態を理解していないアホなのか、なんでもいいから便乗して憲法改正をしたいのか。当然、コメント欄には批判の声が多数寄せられている。 |
| 先日買った鬼柚子と、貰いもののリンゴでジャム作り。鬼柚子は2つ、リンゴは3個使用した。 |
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上段左:鬼柚子を包丁で2つに切る。白いワタの部分が多いのがわかる/上段右:果肉と果汁を別皿に取り分ける/中段左:白いワタがついたままの皮をスライスして5分ほど茹でる/中段右:手前の鍋に入っているのはリンゴ3個分のスライス/下段左:リンゴのスライスが入った鍋に、茹でて絞った鬼柚子の皮と別皿に入れておいた鬼柚子の果肉と果汁を入れ、砂糖約500gを加える。このまましばらく放置し砂糖が溶けて鍋の中に水分が出るのを待つ/下段右:美味しゅうな〜れ、美味しゅうな〜れと念じながらコトコトと煮る |
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↑鬼柚子とリンゴのジャム。冷めたら瓶に詰めて完成。 |
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◯東海林のり子
”現場の東海林です”でお馴染みの、元芸能リポーター。1935年5月26日生まれで、現在90歳。wikiによると1995年に発生した阪神・淡路大震災を期にリポーターとしての活動を引退し、以降は司会業やコメンテーターとしての活動に主軸を移されたそうだ。
今年の3月まで週一回のラジオ番組「現場の東海林です。斉藤安弘アンコーです。」に出演されていた。
1957年に立教大学を卒業後、ニッポン放送に入社。1970年に退社して以降は、フリーランスの芸能リポーターとして『小川宏ショー』『3時のあなた』『おはよう!ナイスデイ』などのワイドショーに出演。約13年間のリポーター生活で3,000件を超える事件を取材されたそうだ。
X JAPAN、LUNA SEA、GLAYなどの熱狂的なファンとしても知られており、「ロックの母(ロッキンママ」の異名を持つという。
東海林さんを撮影したのは、健康雑誌のペット連載だった。確か当初の予定では横浜にあるご自宅にお伺いして取材するはずが、ご主人かペットどちらかの具合が悪くなったということで赤坂東急プラザの中にあるロイヤルホストに変更となった。 |
ペットは猫のみみちゃんで、みみちゃんは連れてこれないので写真をお借りすることになった。取材は昼の1時30分からだったが、少し早めに赤坂見附へ行ってポートレート撮影のロケハンをしておいた。
ロイヤルホストでのライターさんのインタヴューの後、ロケハンしておいた場所へ移動。”現場の東海林です”らしい写真が良いかと、赤坂の路地に立ってもらって雑踏の中で撮影した。
昨年の毎日新聞の記事によると、2018年に3歳年下のご主人を亡くされ、2019年には19年間一緒に過ごした愛猫も旅立ったという。現在は横浜市内のマンションにお一人で暮らしているそうだ。
*念願のバックハグも 「ときめき」を追い求める東海林のり子さん
東海林のり子 X(ツイッター)
東海林のり子 YouYubeチャンネル
東京・赤坂 2007年11月13日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2008年2月号
#東海林のり子
#NorikoShouji
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ
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◯山田たかお
高校の修学旅行は関東方面だった。バスで移動して原宿駅前の交差点あたりに来た時、バスガイドのお姉さんが「ずうとるび」のメンバーが歩いているのを発見し教えてくれた。バスの中で歓声が上がったかは忘れたが、バスの窓から「ずうとるび」のメンバーを探して”さすが東京だな”と思った。
ずうとるびのリーダーで、ボーカルとサイドギターを担当したのが山田隆夫さんだった。wikiによると1stシングル「透明人間」の作詞・作曲は山田隆夫さんとなっている。当時は人気絶頂のアイドル・グループだったが、今、ずうとるびを知っている人は一定以上の年齢の人に限られるかもしれない。ずうとるびの山田隆夫さんより、日テレの番組『笑点』の座布団運びの山田くんとしての方が認知度は高いだろうか。
wikiを読むまで知らなかったのだが、山田隆夫さんと『笑点』の結びつきは古く、1970年から『笑点』の「ちびっこ大喜利」にレギュラー出演していたそうだ。その「ちびっこ大喜利」で座布団10枚獲得した賞品がレコード・デビューで、ずうとるびの結成に至ったという。 |
ずうとるびは1973年に結成され、1974年に1stシングル「透明人間」でエレックレコードからデビュー。1977年に山田さんが脱退した後は新メンバーを加えて活動したが、1982年に解散。2020年に山田さんも再加入して再結成を行い、2021年には21枚目のシングル「SAIKAI~ああ麗しのみかん色~」をリリースしている。
山田さんを撮影したのは、健康雑誌の「NOPETNOLIFEペットと私」という連載だった。横浜市内の住宅地にあるご自宅へお伺いしての取材で、インタヴュアーの女性がお話を聞いた後に、歩いてすぐの神社で愛犬と一緒に撮影させていただいた。
行きは最寄駅からタクシーだったと思うが、帰りは山田さんの車で最寄駅まで送っていただいた。高校生の時にバスの窓から見たスター、そのスターが運転する車に乗せてもらっていることに少し感動した。
YouTubeから「透明人間/ずうとるび」 「みかん色の恋/ずうとるび」
山田たかお 公式ウェブサイト
神奈川県横浜市 2007年11月26日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2008年3月号
#山田隆夫
#山田たかお
#TakaoYamada
#鈴鈴舎鈴丸
#ずうとるび
#笑点
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ
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しばらく雨の日が続いていたが、今日は冬晴れで気温も上がり、サイクリング日和。新しい自転車でどこかへ行きたいが、午前中から両親が借りていた畑の片付け作業。二人とも畑仕事をするのが体力的にキツくなってきたのと、デイサービスに行くようになって畑仕事をする時間もなくなってきたので、今年で借りている畑を農家さんに返すことにした。返すにあたって雑草を刈ったり、畑に置いてある農作業の道具や肥料などを片付けなくてはならない。1週間ほど前に母親と妹と3人で大きなゴミ袋約20個分の雑草を詰めて、燃えるゴミに出した。今日は父親が作ったと思われる農作業の収納小屋の中を片付け。こんなに必要?と思うほどあるイボ竹を車に積んで家に持って帰った。泥がついたままの鎌や鍬、プラスティックの容器なども家に持ち帰って水で洗った。処分に困っているのが肥料。未開封のものは貰ってくれる方が見つかったが、中途半端に残っている肥料がたくさんあってどう処分すればいいか悩んでいる。明日からまた雨の日が続くようで、畑の片付けもなかなか進まない。
明日19時からのNHK『世界ふれあい街歩き』は、ポルトガル・テルセイラ島の港町アングラ・ド・エロイズモ、 20時からの『新日本風土記』は、那覇の坂道。どちらも面白そうだ。
那覇が坂の町というイメージはあまり強くないが、
自転車で走りまわっていた2年間を思い返すと、緩やかな坂がけっこう多かった。自分が住んでいた国道58号沿いにあった上之屋の部屋は泊と新都心の間で、ここもゆるい坂道の途中だった。番組では首里金城町の石畳の坂道が登場するようだ。「ちゅらさん」の舞台となった古波蔵家もこの坂道の途中にある。 |
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◯デヴィッド・マレイ
1955年、カリフォルニア州オークランドに生まれたジャズ・ミュージシャンで、テナー・サックスとバスクラリネット奏者。wikiによるとアルバート・アイラー、アーチー・シェップといったフリー・ジャズのミュージシャンから影響を受けたという。
1977年に結成されたワールド・サキソフォン・カルテットのオリジナル・メンバーの一人で、他のメンバーはジュリアン・ヘンフィル(アルト、ソプラノ・サックス)、オリヴァー・レイク(アルト、ソプラノ・サックス)、ハミエット・ブルイエット(バリトン・サックス、アルト・クラリネット)。
デヴィッド・マレイは1993年にデヴィッド・マレイ・カルテットで来日した際に、パルテノン多摩でのコンサートを撮影している。しかし、撮影のメインはドラムのアンドリュー・シリルだった。『ミュージック・マガジン』1993年8月号にマーク・ラパポートさんが書いた<ひとりのドラマーを通して見るフリー・ジャズの世界>という記事用の撮影で、使われているのはアンドリュー・シリルの写真のみ。脇谷浩昭さんが編集長だった時代で、『ミュージック・マガジン』では珍しいジャズの記事だった。 |
今回掲載したデヴィッド・マレイやカルテットの写真はどれも未公開のものになる。残念ながらベースとピアノの演奏者の名前はわからない。
YouTubeから「David Murray Quartet in JazzHall, Hamburg」 「World Saxophone Quartet 2009」
デヴィッド・マレイ 公式ウェブサイト
https://go54321.tripod.com/dm/davidmurray.html
パルテノン多摩 1993年6月14日撮影
#デヴィッドマレイ
#DavidMurray
#デヴィッドマレイカルテット
#DavidMurrayQuartet
#アンドリューシリル
#AndrewCyrille
#アーカイブ
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◯アンドリュー・シリル
わりとミュージシャンを撮影している方だが、ギタリストやヴォーカリストに比べてドラマーの撮影は極端に少ない。バンドのメンバーの一員としての撮影は色々あるが、ドラマー個人をフィーチャーした撮影は1992年に来日したJ.B’sのドラマー、メルヴィン・パーカー、ジョン”ジャボ”スタークスと、1993年6月にデヴィッド・マレー・クァルテットで来日したアンドリュー・シリルくらいだと思う。
アンドリュー・シリルは1939年生まれの、フリー・ジャズを中心に活動するドラマー。この時の取材媒体は脇谷浩昭さんが編集長時代の『ミュージック・マガジン』で、インタビュアーはマーク・ラパポートさんだった。
6月14日にパルテノン多摩で行われたライヴを撮影し、翌15日に彼が宿泊していた新宿ワシントンホテルでインタヴューを行っている。誌面はホテルでのインタヴューを中心に構成されていて、見出しは<ひとりのドラマーを通して見るフリー・ジャズの世界>。なんと、12ページを使っている。 |
ところでパルテノン多摩でのライヴを撮影しながら、一つ驚いたことがある。ドラム・ソロの途中でいきなり床を叩き出した。それまでドラム・ソロで床を叩くドラマーは、おとぼけキャッツ時代のそうる透さんと、クレイジーキャッツのハナ肇さんの2人しか知らなかった。透さんの場合はハナ肇さんをリスペクトしての芸だと思うが、ハナ肇さんは誰にインスパイアされて床を叩き始めたのだろうか。まさかアンドリュー・シリルということは?それともジャズの世界ではドラム・ソロで床を叩くというのは、案外ポピュラーなことなのだろうか。
YouTubeから「Andrew Cyrille - solo drumset -- Under_line Salon / Arts for Art -- May 28 2015」 「What About /Andrew Cyrille 」
「Trio 3 - Oliver Lake, Reggie Workman, Andrew Cyrille - at Vision Festival 17 - June 16 2012」
ライヴはパルテノン多摩 1993年6月14日
ポートレートは新宿 1993年6月15日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年8月号
インタヴュアーはマーク・ラパポートさん
#アンドリューシリル
#AndrewCyrille
#デイヴィッドマレー
#DavidMurray
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