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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能
◯製作中の富山の祭りと芸能歴史年表
◯2010~2014 Photo Diary
◯奄美・沖縄撮影リスト
◯wangan 水路の都市TOKYO2006~2009
◯戦後ニッポンのポピュラー音楽 |
◯毎月1日、15日 7時30分〜8時30分 交通安全運動 乗車
◯11月4日(月) 大滝地区住民防災フェス 敬老会
◯11月13日(水)6時30分〜8時 資源ゴミ、不燃物仕分け
◯11月27日(水)6時30分〜8時 資源ゴミ、不燃物仕分け
◯12月8日 集会所清掃9時〜、10時〜役員会
◯年末の交通安全県民運動 12月11日(水)〜13日(金) 16日(月)〜20日(金) 7時30分〜8時30分
*パスポート 2030年6月9日
*住宅定期診断 2026年9月(施行5年目)
*住宅定期診断 2029年9月(施行8年目)
*住宅満了診断 2031年9月(施行10年目) |
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
*富山県内のお祭り、イベント
*富山の祭り
*築山行事
*砺波の獅子舞 各地区の日程
*年中行事覚書 柳田国男
*田の神祭りに見る日本人の神意識
*立山に生きる村ー宗教集落芦峅寺のくらし
*立山信仰史における芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅 |
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
◯久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
◯ 「まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
◯幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
◯村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
◯喜屋武(チャン)の綱引き
◯与那国島の行事
◯ 「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作 |
◯富山県 新型コロナウイルス感染症について
http://www.pref.toyama.jp/cms_sec/1205/kj00021629.html?fbclid=IwAR1Z5J0FxdUdIrb0KWEPHX-VTzevMn1SYkafoJbL0IrfRBBnTG5k0vO_t1U
◯都内の最新感染動向 https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/
◯山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信 https://www.covid19-yamanaka.com/index.html
◯新型コロナウイルス感染速報 https://covid-2019.live/
◯ 福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
◯DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
◯HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
◯独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
◯小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
◯やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
◯辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
◯チョ 10イさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
◯沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/ |
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ブログなど
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◯ミュゼふくおかカメラ館「とやま、祭り彩時季」へ とやまおでかけ日記 |
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*2024年カレンダー |
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1週間前は妹の誕生日で、妹の長男家族と一緒に小矢部市にある台湾料理店・福来順へ食事に。一昨日は父親の誕生日で、砺波市にある魚安へ。お店の入り口に庄川特産の柚子が置いてあって、昨年も一袋買ってリンゴと一緒にジャムを作ったので、今年も食事の後に購入。一袋に4つ入って500円だった。レジに持って行って柚子でジャムを作るというと、お店の人が一緒に並べられていた鬼柚子の方が皮がたくさんあっていいという。鬼柚子は2つで300円で、柚子をやめて鬼柚子にした。
ところが家に帰って検索したところ、鬼柚子は柚子と付いているが柚子の仲間ではなく文旦(ザボン)の亜種だそうだ。まあ、鬼柚子もジャムにできるようなので、またリンゴと一緒にジャムにしてみようと思う。 |
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↑鬼柚子を大きさがわかるようにリンゴと並べてみた。皮と果実の間に白いワタがたくさんあるようで、大きさの割に軽い。 |
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◯大河内奈々子
1977年、東京都出身の女優。15歳の時に『セブンティーン』(集英社)の専属モデルとなり、1996年に、映画『岸和田少年愚連隊』の主演で女優デビュー。以来、TVドラマや映画、CMなどに多数出演。2004年、フジテレビ系で放送されたドラマ『牡丹と薔薇』で主役に抜擢され、注目を集めた。
大河内奈々子さんを撮影したのは、健康雑誌の唐辛子特集の取材だった。生まれてからずっと、低血圧で体温が低く、冷え性に悩まされていた彼女が、トウガラシが入ったお茶を飲み始めて冷え性が改善したというお話を聞かせてもらった。彼女のお母さんが買ってきたものを家中で飲むようになり、以来、お湯で煮出したトウガラシ茶を保温ポットに入れて常備していたそうだ。
「よく”辛いものは新陳代謝をよくする”と言いますが、そのことはトウガラシ茶を飲むようになってから私には実感としてわかります。トウガラシ茶を飲むようになってからはふだんの体温が上がったようで、一昨年よりも去年、去年よりも今年と徐々に体が冷えなくなったなと強く感じるようになりました。 |
今では冬がやってきても、布団の中にカイロを貼らなくてもだいじょうぶになりました。寝る前におふろに入り、靴下をはいて寝る程度でもじゅうぶん眠れるようになりました。去年の冬は、長い間悩まされていたしもやけがまったくできなかったので、本当に嬉しかったです」と話している。
2006年11月に俳優で脚本家の宅間孝行氏と結婚し男の子を出産するが、2012年に離婚。2014年にジムのインストラクターの男性と再婚されたそうだ。
1999年に撮影した時はオスカープロモーションに所属されていたが、現在はHONESTに所属。2015年からはフラワースタイリストとしても活動されているという。
大河内奈々子 Instagram
大河内奈々子 YouTubeチャンネル
表参道・オスカープロモーション 1999年6月28日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)1999年9月号
インタヴュアーは伊藤文子さん
#大河内奈々子
#NanakoOhkouchi
#アーカイブ
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◯西田ひかる
1972年生まれの歌手でタレント、女優。電機メーカーに勤める父親の転勤に伴い、13歳までロサンゼルスで過ごした帰国子女。帰国後は調布のアメリカンスクールに入学し、1988年に日本エアシステムのキャンペーンガールに起用されて芸能界入り。ミュージカル『小公子セディ』の全国公演に主役で舞台初出演。また、ポニーキャニオンからシングル「フィフティーン」でアイドル歌手としてもデビューした。
彼女を撮影したのは『ミュージック・マガジン』編集部・高橋修さんの連載「スター千夜一夜」だった。1994年の夏で、斎藤ノブさんプロデュースのアルバム『Love Always』が発売され、テリー伊藤さん制作によるコンサート・ツアーが始まり、浅葉克己さん&日比野克彦さんデザインによる写真集が発売されるという絶好調の時期だった。
取材は砧スタジオの控室。テレビ収録の合間だったと思うが、彼女の付き人の女のコに座ってもらってテスト撮影し、本人が控室に到着するとテストで撮ったポラを見せて本番の撮影。音楽雑誌なので好きなアーティストなども聞いていて、一番好きなのはカーペンターズでセサミストリートを見ている頃から聴いていたという。その魅力について、 |
「やっぱりカレンの声の美しさ。すごく明るい声でメロディも明るいんだけれども、どこかすごく切ないところがあったりして。同じ曲でもすごくハッピーなときに聞くとそういう風に聞こえるし、悩んでる時に聞くと涙が出てくるような。すごく身近に感じるんですよね。それはもしかして私の場合だけなのかもしれないけど。耳元で歌ってるような。やっぱり声の質なんでしょうね。天使の声だと思います(笑)」と話している。
wikiによるとロサンゼルスにいた頃、スティーヴィー・ワンダーの「愛の園(Ai No Sono)」で、大勢の子供達と一緒にコーラスに参加したそうで、この曲が収録された1979年発売のアルバム『シークレット・ライフ』に、Hikaru Nishidaというクレジットが入っているそうだ。
2001年に婚約を発表し、2002年5月に結婚。2006年8月に長男、2009年10月には次男が誕生している。
夏になるとハウスのフルーチェを一度は作って食べてみたいと思うが、未だに食べたことがない。
YouTubeから「プチュプチュフルーチェ。ヒカルのだ!」 「ときめいて/西田ひかる」 「Ai No Sono/スティーヴィー・ワンダー」
西田ひかる Instagram
世田谷・砧スタジオ 1994年7月2日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年9月号
インタヴュアーは高橋修さん
#西田ひかる
#HikaruNishida
#スター千夜一夜
#アーカイブ
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一昨日の夜10時47分頃、石川県西方沖を震源とするマグニチュード6.6の地震が発生し、能登地方で最大震度5弱を観測。富山県でも最大震度4の揺れがあり、地震の揺れと携帯からの「地震です 地震です 地震です」の緊急地震速報で目を覚ました。次の日は早朝から班長として地区の集会所で不燃ゴミの選別作業をしなくてはならなかったので、余震が続く中、また布団に入って寝ることにした。
兵庫県知事選での斎藤元彦氏側の公職選挙法違反疑惑の件で、PR会社の女性社長・折田楓氏の話題が大きく取り上げられている一方で、知事選に出馬しながら自身ではなく斎藤氏に投票するよう呼びかけたN国党の党首・立花孝志氏の行為に関心が集まらないのは不思議だ。
立花氏を巡っては、斎藤知事が失職する前にパワハラなどの疑いで告発された問題を調査する百条委員会の委員長を勤めていた奥谷謙一議員が今月22日に、「奥谷氏は悪人であり、告発文書を作成した県の元幹部が死亡した原因を隠蔽した」という虚偽の内容を投稿されたとして名誉毀損の疑いで告訴状を提出した。また、立花氏が選挙期間中に自宅兼事務所の前で街頭演説した内容について脅迫にあたるなどとして県警に被害届も提出している。
そんな中、昨日、X(旧ツイッター)への投稿で「NHK党は反社会的カルト集団」と表現されて名誉が傷つけられたとしてN国党がインターネット記者・石渡智大氏に損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁は党首の立花孝志氏が「犯罪行為や不法行為を繰り返し、副党首とともに支持者に対し自らに批判的な言論活動をする人への迷惑行為を促し、テロや民族虐殺も辞さないような発言をしていた」と認定。「投稿などの目的は公益を図ることにあり、前提事実の重要部分は真実で、違法性を欠く」と結論づけ名誉毀損にはあたらないとした。東京地裁がN国党を反社会的カルト集団であると認めたわけだ。
兵庫県知事選の際、”立花さんが真実を暴いてくれた”などとネットの沼にハマってデマを拡散していた人たちには、この東京地裁の判決を噛み締めて読んでもらいたい。
尚、立花氏は来年1月の兵庫県南あわじ市長選に出馬を表明していたが、12月8日告示、15日投開票の大阪・泉大津市市長選への立候補を表明している。 |
◯マッチボックス20
1996年にフロリダ州オーランドで結成されたロック・バンド。1996年10月にリリースされたデビュー・アルバム『Yourself or Someone Like You』は、全米で1200万枚売り上げたという。
ボーカルのロブ・トーマスと、サイド・ギターのアダム・ゲイナーを撮影したのはデビュー・アルバム発売から2年後の1998年10月だった。この時点で、発売枚数は800万枚近くだとロブが話している。インタヴュアーは赤尾美香さんで、質問の多くはなぜこれほど彼らの音楽がヒットしたのかについてだった。 |
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<なぜ僕らのアルバムが売れたかといえば、周りをとりまくものとの関わり合いも無視できない。レコード会社、パブリシスト、レコード店、プロモーター、ラジオ局にリスナー・・・それにタイミングーー同時期にどんなものがリリースされたとか、その時期人々は何を求めていたかとかーーこれらすべてがうまく機能した時、ヒットは生まれるんじゃないかな。ヒットにつながらなかった作品は、周りをとりまくもののどこかにつまずきがあったとも考えられるよね。バンドに出来ることといったら、ベストを尽くして曲を書き、ベストを尽くしてアルバムを作ることだけなんだ。だから、それ以外のことは正直言って、僕らのコントロール外だって気持ちもある。バンドに出来ることといったら、ベストを尽くして曲を書き、ベストを尽くしてアルバムを作ることだけなんだ。だから、それ以外のことは正直言って、僕らのコントロール外だって気持ちもある。アメリカではこんなに売れた僕らのアルバムが、欧州では全然売れてないっていうのも、まさにコントロール外のこと。ダンス/クラブ系が主流の今の欧州の音楽状況に、僕らの音楽はフィットしないってことなんだから> |
質問には、このようにロブ・トーマスが冷静に分析して答えている。また、この時点で彼らのデビュー・アルバムは84週連続でチャートに入っていたが、
<僕らが長居できたのは、ちょうど他にロック・バンドが見当たらなかったからかもしれないね。そういう巡り合わせってあると思うよ。複数のロック・バンドが入っていれば、ロック・ファンの興味は散るけれど、僕らしかなければ興味が集中して、長くチャートにいられる。すると「まだチャートにいるけど、何者なんだ」って新たな興味を引くこともできる、みたいなことがあったかもしれないよ>と、アダム・ゲイナーが話している。
2000年にリリースされた2枚目のアルバム『Mad Season』は全米で400万枚売り上げ、ビルボード200でトップ3にランクイン。2002年にリリースされた3枚目のアルバム『More Than You Think You Are』も全米で140万枚売り上げた。
2004年にアダム・ゲイナーが脱退するとバンドは活動を休止したが、2007年に活動を再開。2012年にリリースした4枚目のアルバム『North』はビルボード200で初登場1位を記録した。2023年には5枚目となるアルバム『Where the Light Goes』をリリース。これまでに発売したアルバムの総売り上げ枚数は3900万枚を超えるという。
YouTubeから「Push/Matchbox Twenty」 「Unwell(Live)/Matchbox Twenty」
マッチボックス20 公式ウェブサイト
青山・イーストウエスト 1998年10月20日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1998年12月号
インタヴュアーは赤尾美香さん
#マッチボックス20
#マッチボックストゥエンティ
#MatchBoxTwenty
#ロブトーマス
#RobThomas
#アダムゲイナー
#AdamGaynor
#アーカイブ
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◯ヒット・パレード
ジュリアン・ヘンリー、レイモンド・ワッツ、マシュー・モワットという学校の友人だった3人で結成されたロンドン出身のグループ。1984年に最初のシングル「フォーエバー」をリリースした。1988年には1stアルバム『With Love From The Hit Parade』をリリースするが、評価は低調だったという。
1990年代になってブリストルを拠点にしていたインディペンデント・レーベル、サラ・レコードと契約し、「In Gunnersbury Park / Harvey」「Autobiography / The Dispossessed, Now The Holiday's Over」の2枚のシングルをリリースしている。
彼らを撮影したのは『ミュージック・マガジン』1992年12月号で岡村詩野さんが執筆した「振り向けばいつもそこにある、そんな音楽。サラ・レーベルと”ネオアコ”のいま」という特集の中の囲み記事だった。この時はもうヒット・パレードはサラから離れていたけれど、岡村詩野さんがジュリアン・ヘンリーとレイモンド・ワッツの2人に話を聞いている。
ギタリストのジュリアンはミュージシャンであると同時に、『NME』や『メロディー・メーカー』などに記事やレビューを寄稿する音楽ジャーナリストでもあった。また、PR会社を設立して様々なアーティストのキャンペーンを行う業務もしていた。バンドに専念するつもりはないかと問われると、
「一般人としての生活が失われるのが嫌なんだ。もっとも仕事はあくまでレコードを作るための資金稼ぎだけどね」と答えている。
ベースのレイモンド・ワッツはドイツのインダストリアル・バンド、KMFDMに参加していたこともあり、インダストリアル音楽プロジェクト、PIGを創設しこれまでに17枚のアルバムをリリースしている。
ドラムのマシュー・モワットはロンドンを拠点とする映画照明会社を経営しており、『ヴェラ・ドレイク』『ユナイテッド93』など数々の映画にクレジットされている。
ヒット・パレードはこれまでに、8枚のアルバムをリリースしている。
YouTubeから「'Hello Hannah Hello’/The Hit Parade」 「You Didn't Love Me Then/The Hit Parade」
ヒット・パレード 公式ウェブサイト
恵比寿・ポリスターレコード 1992年9月17日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1992年12月号
インタヴュアーは岡村詩野さん
#ヒットパレード
#TheHitParade
#ジュリアンヘンリー
#JulianHenry
#レイモンドワッツ
#RaymondWatts
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厚労省は従業員がノルマを達成するため自腹で不必要な契約を結ぶといった「自爆営業」について、パワハラに該当する場合があるとして対策強化に乗り出す方針だ。
自動車保険の契約や共済加入を強いられるケース、コンビニで売れ残ったクリスマスケーキを買わされたり、飲食店で注文ミスによる代金を負担させられるなどの事例が挙げられている。
自腹営業に関しては、政府が6月に対策強化を盛り込んだ規制改革実施計画を閣議決定しているという。自爆営業をさせるブラック企業を取り締まるのは結構だが、ノルマとして自民党員を年間1000人獲得できない衆院議員は、次期衆院選で比例代表との重複立候補を認めないとした自民党の方針はまさに「自爆営業」に当たるのでは。実際、富山県では田畑裕明衆院議員が支援企業の従業員やその家族を本人に無断で自民党員に登録。その党費を田畑議員の支援企業で作る後援会「響裕会」が企業から集めた献金でまかなっていたことが発覚し問題になっている。
田畑氏の場合は本人に無断で、中には存在しない架空の人物まで党員にしていたという悪質なものだが、1000人獲得というノルマを果たすために自腹営業で党員獲得をしている自民党議員が他にもいるのではないだろうか。厚労省は自民党のこのノルマに対して、何か言うことはないのだろうか。
この他の気になった記事を備忘録として。
◯データセンターの電力需要の増加は本当? 「原発コストのこっそり徴収制度はやめて
◯41億円がマイナ保険証のトラブル対応に消える 対策甘くて「2度目ミス」 起きても政府は責任なすりつけ
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◯黒豹楽隊
1995年にビクターエンターテイメントがアジアのロック・ポップス専門レーベル、「Rolling Sound」を設立した。そのレーベルには中国のロックバンド「黒豹楽隊(ヘイバオ)」も契約しており、レーベル設立を前に彼らのプロモーション写真を撮影するため1995年1月13日から16日まで中国を訪れた。当初は1994年の12月21日から12月24日で予定が組まれていたが延期になった。1989年11月まで中国の最高指導者だった鄧小平の容態が悪くなったとか、そういった政治的な理由ではなかったかと思う。
中国へは音楽評論家の小倉エージさん、ビクターから宣伝グループの粕谷雅昭さんと中国人スタッフが同行した。
成田から北京への飛行機はファーストクラスだった。北京のホテルも広々としたツインの部屋を一人ずつ割り当てられた。予定としては北京から国内線で南京に飛んで、南京にある南京五台山体育館での黒豹楽隊のコンサートを撮影し、ホテルでメンバーのポートレートを撮るというものだった。
南京五台山体育館のコンサートは1階のフロアを取り囲むすり鉢状に客席があり、その下に公安警察が立っていた。コンサートが始まると客席から1階のフロアに向けてライターが投げ入れられ、ボン、ボンと小さな炎が上がっていた。
粕谷さんから送られてきたスケジュール表によると、13日14:55成田発、18:35北京着、北京貴賓楼飯店泊。14日12:35北京発、14:00南京着、20:00南京五台山体育館。15日11:00取材・撮影、15:10南京発、16:45北京着、北京貴賓楼飯店泊。16日15:30北京発、20:50成田着。弾丸取材だった。夜、成田に着くと粕谷さんから後で精算しますからエージさんと一緒にタクシーで帰って下さいといわれた。エージさんとは家の方向は同じだった。エージさんが先に降り、当時住んでいた鶴川のアパートに着いたのは何時頃だったろうか。
翌日の夕方、デザイン事務所に行くのに家を出た。当時家にはテレビがなく新聞もとっていなかったので、小田急線の駅の売店に置かれた新聞の見出しで早朝に阪神淡路大震災が起こったことを知った。
翌年くらいに黒豹楽隊が念願の来日を果たした。撮影はしなかったが、確か渋谷のクラブクアトロでのライヴを見に行った。
黒豹楽隊はボーカルを入れ替えながら現在も活動している。自分が撮影した時と同じメンバーは、ギターの李彤(リー・トン)、ベースの王文傑(ワン・ウンジェ)、ドラムの趙明義(ジャオ・ミンイー)の3人だろうか。
掲載した写真はレコード会社に納品しなかった残ポジ(選ばなかった写真)と、14日のコンサートの後の打ち上げで撮ったスナップショット。掲載誌は『popasia』1995年7月号のみ確認している。
当時ビクターが作成したプレスリリースには「黒豹は中国のロックバンドの中でも覚えやすいメロディラインやコーラスを多用したアレンジで多くのファンをひきつけてきたバンドです。メンバーチェンジの激しいバンドでありながらこの黒豹の基本的なサウンドポリシーは変わらずに素晴らしい作品を作り続けています。また、黒豹は中国のロックバンドのなかで唯一、人民日報と中央電視台に取り上げられたことのあるバンドです。これは政治的な問題云々というよりもそれほどまでに黒豹が大衆から支持され、人気があることの証明でしょう。加えて、黒豹は中国のロックバンドのなかでも積極的にライブパフォーマンスを展開しているバンドでもあります。93年には大規模な全国ツアーを行い、北京や大都市でのコンサートが許可されにくくなった94年においても精力的にライブをこなしています」
中国揺滾DATABASEというサイトがあり、そこに黒豹楽隊のページもある。どなたが作成しているのかわからないが、ものすごい労作で頭が下がる。
YouTubeから「無地自容/黒豹楽隊」 「Don't Break My Heart/黒豹楽隊」
南京五台山体育館 1995年1月14日撮影
初出『popasia』(ブルース・インターアクションズ)1995年7月号
#黒豹楽隊
#ヘイバオ
#Heibao
#秦勇
#QinYong
#李彤
#LiTong
#王文傑
#WangWenjie
#趙明義
#ZhaoMingyi
#馮小波
#FengXiaobo
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◯アライツ・エタ・マイデル
1990年代後半にオルター・ポップから、<バスク音楽万華鏡>というシリーズが発売された。スペインの北東部、フランスと接する位置にあるバスク地方の新しい音楽を紹介するシリーズで、その中にアライツ・エタ・マイデルのアルバムも入っていた。
アライツがバスクではトリキティシャと呼ばれるボタン式アコーディオン、マイデルがパンデロアと呼ばれるタンバリンを担当し、二人で歌う女性デュオ。
彼女たちを1999年と2000年に撮影した。1999年は2枚目のアルバム『インシャラー』のプロモーションで8月に来日した時。プロモーションのためにインストア・ライヴを行った吉祥寺のタワーレコードで、イヴェントの後にポートレートを撮っている。掲載は『ミュージック・マガジン』の巻頭グラビアで、中村とうようさんのインタヴューも載っているが、とうようさんのインタヴューには同席した記憶がないので別の日か別の場所でインタヴューが行われたのだろう。
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彼女たちはとてもフレンドリーで会う人会う人、挨拶がわりに頬にキスをしてくれたのだが、とうようさんがそのお返しに投げキッスをしたという嘘か本当かわからない話を当時聞いた記憶がある(笑)。本当なら目撃したかった。
とうようさんは、記事の中で彼女たちを絶賛している。
「彼女らのデビュー・アルバムの冒頭の、ぼくが輸入盤紹介でポルカ・ロックと書いた曲は、実はスカなのだそうだ。同じアルバムの11もスカ、12はクンビアだという。そして8はロック、3、10、13がファンダンゴ、4、7、14がアリンアリンで、伝統と外来音楽がみごとに同居する。レゲエもスカもクンビアも近年、流行音楽としてどこからだか入って来たらしい。そんなコダワリのない、自然体のお嬢さん二人がまぶしくって、かなわなかった」
2000年12月の来日ではバンドを引き連れて、東京と大阪でライヴを行っている。当時のフライヤーによれば、12月5日東京Paradise(三宿)、12月6日大阪バナナホール、12月7日東京Paradise(三宿)というスケジュールで、最終日の7日に撮影した。そしてライヴの後、彼女たちとバンドのメンバー、プロモーションを担当するメタ・カンパニーの人たちで打ち上げに行っている。居酒屋だったと思っていたら、当時のスケジュール帳に<夜アライツ・エタ・マイデル焼肉食べに行った>というメモがあった。
wikiを見て思い出したが、フジテレビの朝の番組『こたえてちょーだい』内で放送されていた料理コーナー「郁恵・井森のデリxデリキッチン!」のテーマソングに、彼女たちの曲が使われていた。
アライツはアライツ・テレチュア、マイデルはマイデル・サバレギ。共に1976年生まれ。2004年の暮れにデュオは解散したようだ。
YouTubeから「Kafe Antzokia/Alaitz eta Maider」 「Amets Bat/ALAITZ ETA MAIDER & ESNE BELTZA」
吉祥寺タワーレコード 1999年8月22日ポートレート撮影
三宿・Paradise 2000年12月7日ライヴ撮影
初出『ミュージック・マガジン』1999年10月号
#アライツエタマイデル
#AlaitzetaMaider
#アライツテレチュア
#AlaitzTelletxea
#マイデルサバレギ
#MaiderZabalegi
#バスク
#Basque
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1週間後は12月で、1ヶ月後はクリスマス・イヴか。
気になった記事を備忘録として。
◯マイナ保険証「脅迫めいた書類」が役所から…「利用率が国からの交付金に影響」とあるけど、どういうこと?
◯国策開発の原発「ふげん」 運転終了から21年、廃炉作業も道半ば
◯知事選SNS戦略提案とPR会社 記事で「斎藤氏に広報任された」 |
◯第6回コザ・てるりん祭
2005年3月に亡くなった照屋林助さんの功績を讃え、縁のあったアーティストが集う「コザ・てるりん祭」。那覇に住んでいた2014年、たまたま自分たちのライヴで来沖していためおと楽団ジキジキの世田谷キヨシさんことキー坊金太さんと、その第6回目を沖縄市の中央パークアベニューへ見に行った。
11時頃に家の近くまで金太さんに車で迎えに来てもらい、出発。金太さんと沖縄をドライヴするというのも面白い奇遇だ。昔話に花が咲いた。
12時前に会場に到着し、近くの駐車場に車を入れる。駐車場の横をふと見ると照屋林助三線店があった。しばらくお店を眺めていたら、息子さんで林賢さんの弟にあたる三線職人の照屋林次郎さんが出ていらしたのでお声をかけて写真をお渡しする。
1994年1月30日に浅草の木馬亭で、林助さんがワタブーショーを行った。バックはギターの松田弘二さん(松田弘一さんの弟さん?)、前座にはシーサーズ。このショーを『ミュージック・マガジン』の仕事で撮影した。前日には老舗のすき焼き料理店・今半で林助さんのインタビューがあり、その時にポートレートも撮らせていただいた。これらの写真を、いつかご家族に渡したいと思っていた。1991年と1994年にりんけんバンドのライヴも撮影しているので、この時の写真もプリントして一緒のファイルに入れてお渡しした。そして、てるりん祭の実行委員長である林次郎さんに今日のステージの撮影許可をお願いし、「いいですよ」と返事をいただいた。
まだ開演まで時間があったので、金太さんと近所を散策した後、てるりん祭と連動して照屋林助写真展が行われている大衆食堂ミッキーで、お昼ご飯。お祭りに出す屋台の準備が忙しく、今日はソバかタコライスしか作れないそうなのでタコライスを注文。沖縄に来て2回目のタコライス。美味しかった。
金太さんとタコライスを食べながらゆんたくしていたら、開演時間を少し過ぎていた。会場の直ぐ近くなので始まれば音が聞こえるだろうと思っていたが、スピーカーの裏側に店があるので音が届かなかったようだ。幕開けの「かぎやで風」は見逃して、ティンクティンクの演奏の途中からになってしまった。
<当日のプログラムから>
幕開け(かぎやで風)/#玉城満/#立川志ぃさー/#ヘンリー(司会)/#ティンクティンク/#HIKARI/#山里ユキ/#饒辺勝子/#金城恵子/#島袋辰也/#チアキ/#西泊喜則/#興那嶺商会/通り会会長あいさつ/#松田一利/#仲宗根創/#知念こずえ/#斉藤マーミー/#とぅるるんてん/#我如古より子/#宮沢和史/#仲本興次/#知名定男/#照屋林賢/#名嘉睦稔/#上原知子/実行委員長あいさつ/#古賢宗揮/#堀内加奈子/#前川守賢/#饒辺愛子/#松田弘一/#大工哲弘/#よなは徹/#新良幸人/#園田青年会カチャーシー
夜に栄町の方でライヴがある金太さんは、15時過ぎまで楽しんでから帰って行った。
雨が降る事が多いという、てるりん祭。数日前の天気予報も曇りのち雨だった。ところが今日は朝から快晴で、風もあって気持ちの良いお天気。夜遅くには雨が降るような予報もあったが、このまま降らずに行ける?と期待したが19時頃から激しい雨が降ったり止んだり。途中、お客さんはアーケードの下に避難したりもしながらライヴは進行していった。
予定の21時をかなりオーバーするかと思ったが、雨が降り出した事もあってか21時少し前に終了した。
路線バスの走る大通りまで歩き、胡屋のバス停へ。暫く待っていると、23番の那覇行きが来たので乗車。22時前には最寄りのバス停に到着。バス賃は750円だった。
YouTubeから「「てるりん祭」4年ぶりに開催 沖縄の芸能・娯楽をリードした照屋林助さんの功績称える」
コザ・てるりん祭 facebook
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◯小沢健二 小倉エージ
雑誌『レコード・コレクターズ』1994年4月号で「ザ・バンドとウッドストック伝説」という特集が組まれ、その中で音楽評論家の小倉エージさんとフリッパーズ・ギターを解散してソロで活動を始めた小沢健二さんの対談が企画された。対談場所は赤坂の東芝EMIだった。この頃住んでいたアパートは小田急線の鶴川が最寄駅で、鶴川から代々木上原まで小田急線に乗り、そこから地下鉄の千代田線に乗り換えて国会議事堂前駅に行き、赤坂溜池にある東芝EMIまで歩くのが最短コースだった。
鶴川駅から代々木上原に向かうために小田急線に乗っていると、途中の駅で乗り込んできた年配の男性が熱心にボブ・ディランの本を読んでいた。へ~と思い、ジロジロと見ていると少し身体をズラされてしまった。
代々木上原に着いて千代田線に乗り換えると、もうボブ・ディランの本を読んでいた男性は見かけなくなった。国会議事堂前駅で下車して溜池の東芝EMIに到着すると、小田急線の中でボブ・ディランの本を読んでいた男性が居て、担当編集者から小倉エージさんだと紹介された。エージさんの名前はもちろん知っていたけれど、お会いするのは初めてで、かなり驚いた(笑)。 |
この対談を企画したのは小倉エージさん。編集部からウッドストックをテーマに特集を組みスワンプも取り上げたいと言われた時に、そういう音楽を若い人がいま熱心に聴いているらしいし、そういう音楽がかかるクラブも出てきた、それなら若い人と話をしてみようとエージさんが提案し、小沢健二さんに声がかかった。
スケジュール帳には午後2時~4時というメモがあるので、2時間ほどの対談だろう。記事の見出しには<田舎をドライヴしたくなるような髭面親父たちのレコードにひかれてます 小沢健二><ザ・バンドの音楽って田舎っぽいけど実はすごくコンテンポラリーなんですよ 小倉エージ>と付けられていて、6ページの対談の内容を表している。
エージさんとは翌年、中国のロック・バンド「ヘイバオ(黒豹)」の取材で北京と南京へご一緒し、その後も韓国のキム・ゴンモ、香港のジャッキー・チュンが来日した際にも取材でご一緒した。たぶん、最後にお会いしたのは2008年の浅草三社祭で、浅草に着いてウロウロしていたら下帯に祭半纏姿のエージさんに声をかけられた。毎年三社祭では神輿を担いでいると話されていた。
小沢健二さんはこの対談のすぐ後に、スチャダラパーと共演したシングル「今夜はブギー・バック」をリリースし、50万枚を超えるヒットとなった。アメリカ人の写真家、エリザベス・コールさんと結婚し、現在は2児の父親になっている。
YouTubeから「CAMERA!CAMERA!CAMERA!/フリッパーズ・ギター」 「今夜はブギー・バック/小沢健二 featuring スチャダラパー」
小沢健二 公式ウェブサイト
https://www.hihumiyo.net
赤坂・東芝EMI 1994年 2月26日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1994年4月号
#小沢健二
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#オザケン
#Ozaken
#小倉エージ
#EejiOgura
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父親が今日の午前に退院した。先週の水曜日に救急車で運ばれて、そのまま入院となったので10日間ほどの入院だった。今年の4月にも救急車で運ばれて10日間ほど入院したが、その時は偽通風だった。今回は肺炎。入院する前日の朝、体温を測ると37℃だった。9時過ぎにデイサービスの迎えが来て、もう一度測ると37.5℃ありデイサービスをお休みすることになった。妹に掛かりつけの病院へ連れて行ってもらうが、熱があると病院の中には入れずインフルエンザと新型コロナの検査だけしてもらい両方陰性だった。とりあえず解熱剤をのんで様子を見ることに。
次の日の昼に体温を測ると38℃。それでもご飯は残さず食べていたが、晩ご飯は半分残し体温も下がらず38℃。食後に寝室に戻って行ったが、様子を見に行くと椅子に座って動けなくなっていた。妹に連絡し、救急車を呼ぶことに。救急車には自分が同乗し、妹に車でついて来てもらった。レントゲンを見せてもらったが、確か右の肺が白くなっていた。それで呼吸が苦しかったのだろう。
退院してきたけれど、しばらくは激しい運動はしないように言われている。
この他の気になった記事を備忘録として。
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◯AIの需要には原発増やし対応…コストは国民に払わせる? はびこる「電源を原子力しか考えない『原発脳』」 |
◯前川守賢
照屋林助さんと一緒に伝説のワタブーショーをやっていた、漫談家の前川守康さんが亡くなられたのは那覇に住んでいた2013年の7月28日だった。守康さんの漫談を生で聴くことは一度も出来なかったが、代わりにご子息で「遊び庭」や「かなさんどー」などのヒット曲を持つ民謡歌手の前川守賢さんのステージは沖縄滞在中にたくさん見ることが出来た。
一番最初は2013年1月17日に牧志公設市場の近くにあった「ひやみかちまちぐわー館」での、守賢さんの民謡ショーだった。守賢さんの父親が、照屋林助さんと漫談グループ・ワタブーショーを結成した守康さんというのは知っていたが、守賢さんについての知識はほとんど無かった。それでもショーが始まれば「かなさんどー」「遊び庭(あしびなー)」も沖縄に来て半年で既に耳に馴染んだ曲になっていた。テレビからよく流れている泡盛殘波のCMソングも、守賢さんの曲と唄だった。
その次は、2013年11月の最終土曜日に開催された、那覇・栄町市場の市場屋台祭りの締めとなる感謝祭でのステージだった。トリを務めた守賢さんのステージは、たっぷり50分ほどあり、最初から最後まで大盛り上がりだった。
翌年の1月27日、どんとの命日(亡くなったハワイでは27日で、日本時間では28日のようだ)に宜野湾市のカフェで「みんなでどんとをうたおう!」というイベントがあって、そこに前川守賢さんがゲストで出演すると書いてあった。いつか、昔撮影したどんとの写真をパートナーである小嶋さちほさんにお渡ししたいと思っていたので届けに行く事にしたのだが、一緒に栄町市場の感謝祭での守賢さんの写真も届けに行った。お渡しすると「いい瞬間撮りますね~」と、気に入ってもらえたようだった。
その後も、2014年3月29日に開催された『登川誠仁一年忌追悼公演』や、その翌月の4月13日に行われた『コザ・てるりん祭』、そのまた翌月の5月1日にパレットくもじ前広場で行われていたラジオ番組「民謡で今日拝なびら」の生中継でのステージなど、たくさん拝見した。
掲載した写真は、栄町市場の感謝祭でトリを務めた際のステージ。
YouTubeから「遊び庭~カチャーチドンドン」 「かなさんどー」 「世果報でーびる」
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那覇市・栄町市場 2013年1月30日撮影
#前川守賢
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#栄町市場屋台祭り
#アーカイブ
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◯照屋政雄
照屋政雄さんの名前を知ったのは、2002年にキャンパスレコードから発売されたアルバム『チョンチョンキジムナー/照屋政雄』が送られて来たからだった。この頃、なぜか奄美や沖縄の島唄、民謡のサンプルCDが時々レコード会社から送られてきていた。アルバムのタイトルにもなっている照屋政雄さんの代表曲を聞いた瞬間、”ちょんちょんちょんちょん”のフレーズが頭の中でぐるぐるこだまして、強烈な印象を残した。
次に照屋政雄さんの名前を聞いたのは、ハシケンさんが家にアーティスト写真の撮影に来た時だった。家のリビングで彼の宣材用の写真を撮ったのだが、その時にいろいろ話をしていると、沖縄に住んでいた頃に照屋政雄さんに弟子入りしていたという。
それから10年以上経った2014年1月27日に、生の照屋政雄さんの歌を聴き、写真を撮らせていただいた。この日はボ・ガンボスのどんとの命日(亡くなったハワイでは27日で、日本時間では28日のようだ)で、宜野湾市のカフェで「みんなでどんとをうたおう!」というイベントがあった。そこで、パートナーだった小嶋さちほさんに写真をお渡ししに出かけて行った。 |
写真は1992年にレコード会社で撮影したポートレートと、同じ年に行われたウオーマッド’92でのボ・ガンボスのライヴ。そして1991年にドミニカ共和国から来日したガールズ・グループ、ラス・チカス・デル・カンのステージに小嶋さんとゼルダのサヨコさんが飛び入りで一緒に踊っている写真もサプライズで入れておいた。
この日のゲストが前川守賢さんと照屋政雄さんだった。せっかくお会いできたので、どんとが描いた絵の下で写真を撮らせていただいた。そして、「今日は、チョンチョンキジムナーは歌われますか」と尋ねると、「歌いますよ」と言って笑われたので楽しみにしていたのだが、どうしたことか、チョンチョンキジムナーを歌うことなくイヴェントは終了してしまった。
この後、2014年3月29日に開催された『登川誠仁一年忌追悼公演』でも照屋政雄さんの歌を聴いている。
照屋政雄さんは沖縄民謡を登川誠仁さんに、琉球古典音楽を照屋林山さんと人間国宝の島袋正雄さんに、漫談を照屋林助さん、前川守康さんから学んだそうだ。また三線職人の顔を持ち、照屋太鼓三線店も営んでいる。
『ホテル・ハイビスカス』(2002年)、『サルサとチャンプルー』(2007年)、『真夏の夜の夢(さんかく山のマジルー)』(2009年)、『南の島のフリムン』(2009年)といった映画にも出演するなど、幅広く活動されている
YouTubeから「チョンチョンキジムナー/照屋政雄」 「照屋政雄とちょんちょんキジムナー制作秘話」
照屋政雄 facebook
照屋太鼓三線店
宜野湾市・カフェユニゾン 2014年1月27日撮影
#照屋政雄
#MasaoTeruya
#前川守賢
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#どんと
#Donto
#小嶋さちほ
#SachihoKojima
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詩人の谷川俊太郎さんが、今月13日に亡くなられていたことがわかった。92歳、老衰だそうだ。
ネスカフェのCMで使われた「朝のリレー」という詩がある。
カムチャッカの若者が きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は 朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は 柱頭を染める朝陽にウインクする
この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている
ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る
眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚まし時計のベルが鳴っている
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとった証拠なのだ
この詩は谷川さんの詩と、吉村和敏さんの写真で構成された『あさ/朝 ゆう/夕』(アリス館)という書籍にも収められている。平易な言葉で綴られた詩だが、その中に広がる世界観の美しさにハッとさせられ、詩人の想像力に感嘆した。
谷川俊太郎さんとは何の接点もないが、ご子息で作曲家の谷川賢作さんは一度お会いしたことがある。
気功家の観月環さんのDVDとCDがパッケージになった『チャクラ・ストレッチ7』という商品の撮影があり、パッケージやCDのレーベルなどを撮影したのだが、CDに収録されたBGMが谷川賢作さんの作品だった。商品が完成した後、宴席がもうけられ、そこに顔を出されていた。
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◯俳優・火野正平さん死去 75歳 腰を骨折し体調崩す
◯辺野古新基地建設、新たに宮城島から土砂搬出開始 沖縄防衛局が工事加速へ 沖縄
◯立花氏と斎藤氏、「実質2馬力」の兵庫県知事選 専門家は疑問も
◯鈴木エイト氏 兵庫県知事選「短絡的にSNSの勝利と決めつけない方がいい」 SNS上のデマの問題指摘
◯兵庫県知事選でおきたこと |
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◯鶴ひろみ
今月の16日で声優の鶴ひろみさんが亡くなって7年が経った。彼女が亡くなった翌日に、こんな文章を書いていた。
今日の午前、ネットを見ていて”鶴ひろみ”という名前に目が止まり、彼女の死去を伝える見出しにドキッとして身体が固まった。
近所の同級生、山田君が同じ誕生日の3月29日だった。声優の鶴ひろみさんの撮影をするまで、生年月日が一緒の人は山田君しか知らなかった。
漫画家・まつもと泉がCD-ROMで観るデジタルコミック『コミックオン』を立ち上げたのは1996年で、その創刊号からグラビアページの撮影を担当した。
創刊号のvol.1は作家・平井和正さんを自宅に訪ねて、まだ誰も撮影したことがなかった仕事部屋とともに撮った。vol.2は「Dの食卓」で注目を浴びていたゲーム・クリエイターの飯野賢治さん、vol.3はまつもと泉の「きまぐれオレンジ☆ロード」のアニメ版で主人公・春日恭介を担当していた声優の古谷徹さん、vol.4はみやむーこと、声優の宮村優子さん、そしてvol.5が「きまぐれオレンジ☆ロード」では鮎川まどか役の鶴ひろみさんの撮影だった。 |
vol.5ではまつもと泉が「きまぐれオレンジ☆ロード」の新作を描き、恭介とまどかの台詞だけ、古谷さんと鶴さんに吹き込んでもらうことになった。
スタジオでお二人が吹き込んでいる様子を撮影し、次に発売元の東芝EMIの応接室で二人の対談を行い、その後にロビーでフォトセッションをした。
撮影が終わって皆でご飯を食べに行き、それからカラオケに行くことになった。東芝のある赤坂・溜池から、まつもと泉の事務所のあった世田谷・豪徳寺までタクシーを飛ばした。
メンバーは古谷さん、鶴さん、まつもと泉、編集者、そしてコミックオンで音楽全般を担当していたヒカシューのベース、坂出雅海さん。坂出さんが誰も知らない間に「巨人の星」のオープニング曲「行け行け飛雄馬」をリクエストし、流れて来た瞬間、古谷さんが歌ってくれた。星飛雄馬が「行け行け飛雄馬」を歌うスペシャルなカラオケは、とても楽しかった。
隣りに座っていた鶴さんと話しているうちにお互い1960年生まれだとわかり、「何月?」「3月」「何日?」「29日」「同じ!!」で盛り上がり、普段歌うことのないカラオケで鶴さんとUAの「情熱」をデュエットした。
そうして外が明るくなるまで楽しい時間を過ごし、帰る方向が同じの古谷さんと鶴さんはタクシーに乗り、まつもと泉は事務所へ戻って行った。自分は小田急線の向ケ丘遊園に住んでいたので、豪徳寺から電車でそのまま帰ったかもしれない。
掲載した写真は、『コミックオン』で撮影した鶴ひろみさん。20年前はデジタルではなくフィルムで撮影し、それをデータに変換して画像処理をしていた。当時はコダックがフィルムをフォトCDに焼いてくれるサービスをしていたので、堀内カラーに現像に出したフィルムの仕上がりをチェックし、堀内の窓口からコダックのフォトCDにオーダーしていた。
Photoshopは2.5Jから使用していたが、この頃は3.0か4.0になっていただろうか。ロケをする予算も時間もないので、ロビーや取材先で撮影して背景は合成するなどのデジタル処理をするのが前提だった。今見ると稚拙な画像処理だが、この『コミックオン』でマックとフォトショップを覚えた。
『コミックオン』は、鶴さんが登場したvol.5を最後に休刊となった。
こうして20年が経つと、なんだか夢のようだな。同じ日に生まれて、一度だけ交差した人の死は、なんだかとても切ない。
YouTubeから「きまぐれオレンジロード ED 夏のミラージュ 鶴ひろみバージョン」 「Réunion des Seiyū de Kimagure Orange Road (きまぐれオレンジ☆ロード) - 2006 - Full version」
鶴ひろみ 青二プロダクション
赤坂・東芝EMI 1997年6月21日撮影
初出『コミックオン volume5』(東芝EMI)
#鶴ひろみ
#HiromiTsuru
#鮎川まどか
#MadokaAyukawa
#コミックオン
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#きまぐれオレンジロード
#アーカイブ
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◯照屋林助
テルリンの愛称で親しまれた沖縄の漫談家で、音楽家で、俳優。息子はりんけんバンドのリーダー、照屋林賢。
1929年に大阪で生まれ、36年に家族と共に父親・林山の故郷・沖縄に移住する。沖縄のチャップリンと呼ばれた小那覇舞天(おなはぶーてん)に影響を受け、終戦直後に舞天と二人で難民収容所や村々をまわり「命の御祝じ」と称して芸で人々を元気づけた。
1957年に前川守康と歌と笑いの演劇集団「ワタブーショー」を結成。テレビやラジオなどでも活躍し、沖縄の芸能、音楽に大きな影響を与えた。
1990年に沖縄市で<コザ独立国>の建国を宣言し、自身も<大統領>と名乗る。この辺りは、自宅を<カラクタ共和国>と宣言したフェラ・クティに似ている気がする(笑)。
林助さんを撮影したのは1994年の1月で、『ミュージック・マガジン』での取材だった。29日は、浅草にあるすき焼きの老舗・今半本店での北中正和さんによるインタヴューの撮影。翌30日は、浅草木馬亭での公演の撮影だった。 |
それにしても、すき焼きを食べながらのインタヴューとは豪勢な企画だった。大統領の来日ということで、編集部が奮発したのかもしれない。また、インタヴュー記事だが文章は林助さんの一人語りでまとめられている。1998年にみすず書房から北中さん編集の『てるりん自伝』が発売されるが、こちらも北中さんが林助さんから話を聞き、林助さんの語り風にまとめられている。『ミュージック・マガジン』での取材が、この書籍に繋がっているのだろうか。
30日の木馬亭での公演は、前座に民謡を歌う女性デュオ、シーサーズ、そして林助さんはギター大臣の松田弘二さんと二人でのステージだった。客席が足りず通路、そしてステージの脇にまでお客さんを入れる大盛況だった。
1996年にCD『沖縄漫談 平成ワタブーショー』、1997年に筑紫哲也さんとの対談集『沖縄がすべて』などが発売され、沖縄だけではなく広く知られる存在となったが、2005年3月10日に肺炎のため亡くなってしまった。
2009年から林助さんの功績に敬意を表し、縁のあるアーティストが集う『コザ・てるりん祭』が沖縄市で開催されている。
YouTubeから「ワタブーショート in ウンタマギルー01」 「照屋林助・前川守康 ワタブーショー」 「伊江島ハンドー小/照屋林助さん 前川守康さん」
NHKアーカイブス あの人に会いたい File No.240 照屋林助
浅草・今半本店 1994年1月29日撮影
浅草木馬亭 1994年1月30日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年3月号
コンサート評は大須賀猛さん
初出『ミュージック・マガジン』1994年4月号
インタヴューは北中正和さん
#照屋林助
#RinsukeTeruya
#ワタブーショー
#松田弘二
#KojiMatsuda
#シーサーズ
#Shisas
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昨日の兵庫県知事選で、県議会から不信任決議を受けて失職した斎藤元彦前知事が再選を果たした。
兵庫県知事選はあまり興味がなかったが、投票終了前に出た斎藤元彦氏当選確実の報で唖然とした。候補者が乱立すると斎藤氏の当選もありうるのだろうか?とは思っていたが、今回の当選はそれだけではないようだ。
「マスコミはウソだらけ」だとか「斎藤さんはいじめられている」といった情報がSNSで拡散され、彼を支持する人が増えて投票に繋がった。中には「立花さんが真実を伝えてくれている」とまでいっている人がいて驚いた。テレビや新聞など既存のマスコミ報道は信じられないけれど、N国党の立花孝志氏の発信は信じるという人のリテラシーがわからない。wikiの情報が全て正しいわけではないが、wikiの立花氏の項目をちょっと見ればどういう人物かわかるだろうに。
朝日新聞の記事が<兵庫県知事選でも影響力増すSNS 識者「若年層へアプローチ成功」>と見出しに「若年層へ」とつけているが、自分と同世代の人の中にも「既存のマスメディアは偏向報道をしていて、ネットには真実が書かれている」と思い込んでいる人がいる。彼ら彼女らはネットで調べていくうちに真実がわかったというが、それはネットの沼の深みにハマっただけだろう。ネットを検索すると次々に同じ方向性の情報にアクセスして行き、それが真実と思い込んでしまい利権や既得権益などの陰謀論にハマってしまう。
7月に行われた都知事選での石丸伸二氏の躍進、先の衆議院選での国民民主党の躍進、そして昨日の兵庫県知事選での斎藤氏の再選。これらは一つの流れのようで、この流れが加速して広がらないかとても心配だ。
菅野完氏はXで、<「不信任可決後〜兵庫県知事選挙告示前の期間に、いかに斎藤元彦 だ け が 関西のTVに出まくってたか」に関する事例を挙げた。結局のところ、この期間の「元彦TVジャック」があればこその「知名度」な訳で、「ネットで勝った」じゃなくてむしろ「オールドメディアの勝利」だと思うぞ>とツイートしているが、関西のテレビ事情がわからないのでなんとも言えない。
今日の午後4時半から、本人に無断で自民党の党員にしていた疑惑と、その党員会費を企業献金から賄っていたのではないかという疑惑について、自民党の田畑裕明議員が弁明の記者会見を行った。
記者会見の映像がアーカイブされているので、興味のある方はぜひご視聴を。聞いているとムカムカして血圧が上がるかも。どこまで恥知らずで卑怯なのか。
先の衆院選で田畑氏を推すかどうかを尋ねる党員アンケートを中止し、公認候補として推薦した富山市連の幹部の責任も問われなくてはならないのでは? |
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◯夏目ナナ
2004年に「現役TVレポーター」という肩書きでAVデビュー。以来、SOD(ソフト・オン・デマンド)の専属女優として活動しながら、タレントとしてテレビやラジオでも活躍。2006年には山下久美子の「赤道小町ドキッ」をカバーして歌手デビューもしている。個人的には本家より夏目ナナの『赤道小町ドキッ』が好きかも。
AVの累計売上は100万本以上といわれる人気女優だった。
健康雑誌の<フェロモンセックスの勧め>という特集の中で、私生活ではポリネシアンセックスを実践しているという彼女を撮影した。
wikiによると2007年8月にAV女優を引退しているそうなので、この写真は引退する少し前になる。
YouTubeから「赤道小町ドキッ/夏目ナナ」「【高橋がなり】#41⇒元ナンバー1AV女優・夏目ナナが高橋がなりにガチ相談に現れた!【まえむき人生相談】」
夏目ナナInstagram |
新中野・SODクリエイト(株) 2007年6月14日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2007年10月号
#夏目ナナ
#NanaNatsume
#ソフトオンデマンド
#SOD
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◯愛染恭子
元AV女優というより、彼女の場合は元ポルノ女優という方がしっくりくるだろうか。1958年生まれというので、2歳上だがほぼ同世代だ。
高校卒業後、スカウトされてヌードモデルとして活動していたが、1975年に青山涼子の芸名でピンク映画『痴漢地下鉄』でデビュー。1981年に谷崎潤一郎の戯曲『白日夢』の主演に抜擢され、本番行為を演じたことで一躍有名になる。これを契機に愛染恭子に改名したそうだ。
この映画のヒット後はストリップにビデオ、ビニ本など幅広く活躍し、wikiによれば3年間で25億円を稼いだという。伝説の裏ビデオ『洗濯屋ケンちゃん』の出演も、この頃だろうか。
愛染さんを撮影したのは健康雑誌の性特集で、「未体験の快感が得られ人生が輝く!達人たちがそっと伝授!幸せを招く<エクスタシー>講座」という長いタイトルの企画だった。取材場所は、西新宿のアダルトグッズの通販会社。wikiに、アダルトグッズなどを販売する会社でデザイナーを務めたこともあったという記述があるので、この頃のことかもしれない。 |
撮影はインタヴュー中の写真と、愛染さんがオススメするアダルトグッズを手に持っての写真。それから別の日にアダルトグッズの商品撮影をしている。
通販会社の人と名刺交換したので、この取材後、しばらくアダルトグッズのカタログが毎月のように送られて来て閉口した(笑)。
MOVIE WALKERの記事によると、愛染さんは2010年3月6日より公開の主演作『奴隷船』でアダルト業界を引退されたそうだ。
YouTubeから「今夜は最高!タモリ+戸川純+愛染恭子/西条八十メドレー」
愛染恭子 公式ウェブサイト(アーカイブ)
西新宿・新宿アートセンター 2006年7月5日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2006年10月号
#愛染恭子
#KyokoAizome
#アーカイブ
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11月16日(土) |
昨日の地元チューリップテレビの夕方のニュースで、先月行われた衆議院選挙の富山1区で当選した自民党の田畑裕明議員の新たな政治資金の不正問題が報じられた。
今回報じられたのは彼を支援する企業の従業員名簿をもとに、田畑議員が本人に無断で従業員やその家族を自民党員に登録。その党費を田畑議員の支援企業で作る後援会「響裕会」が企業から集めた献金でまかなっていたというもの。
9月に行われた自民党総裁選の際、自民党に入党した覚えがないのに総裁選の投票用紙が届いたという男性の話がチューリップテレビで取り上げられた。ここから今回の田畑氏の新たな不正疑惑に繋がったのだろう。
現在も続いているかわからないが、自民党は年間1000人を獲得というノルマを設けて、達成できない衆院議員は、次期衆院選で比例代表との重複立候補を認めない方針を打ち出している。今回の不正はこんなことから生まれたのかもしれない。
チューリップテレビのニュースでは、これまで田畑氏を支援していた男性と田畑氏の電話でのやり取りも公開されており、田畑氏が不正の口裏合わせを要求する発言などもあった。
衆院選の期間中、政治改革や説明責任を果たすなどと訴えていたが、今回のチューリップテレビの突撃取材にも説明責任を果たすことなく車に乗って逃げてしまった。
今回の勝手に自民党員にされた、いわゆる幽霊党員について自民党富山県連や富山市連は本当に何も知らなかったのだろうか?また、党員獲得のために無断で党員登録をしている議員は他にいないのだろうか。
それにしても、不誠実が服を着て歩いているような人だ。政治改革をいうなら、先ずは貴方が政治家を辞めることだろう。
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◯原六朗
1915年1月6日生まれの作詞・作曲家。日本橋馬喰町の商家(革製品の問屋)に生まれ、明治大学在学中から服部良一と親交を結び、服部の内弟子をしながら作詞・作曲・サックスの手ほどきを受ける。約6年の兵役の後、東宝音楽部に籍を置き、ダンスバンドのアルト・サックス奏者として活動。1950年から1960年まではコロムビア・レコード、1960年からは設立されたばかりの東芝レコードへ移籍した。代表作に美空ひばりの「お祭りマンボ」がある。映画は江利チエミ主演の人気映画『サザエさん』シリーズの映画音楽など、娯楽映画を中心に作・編曲を行った。また、音楽評論家としても活動された。以上がwikiに書かれている原六朗さんのプロフィールを要約したものだ。
原六朗さんを撮影したのは『レコード・コレクターズ』の連載「戦後ニッポンのポピュラー音楽」の取材で、インタヴュアーは田中勝則さんだった。
生まれ育ちから師弟関係となる服部良一さんのこと、戦後にWVTR放送(後のFEN)から流れてくる音楽にワクワクした話などたくさんのことをお聞きしているが、一番誌面を割いているのが「お祭りマンボ」についてだった。 |
「お祭りマンボ」はレコードとして録音されるより前に、美空ひばりにとって初めての歌舞伎座公演で歌われるために書かれた曲だったそうだ。この公演が行われたのは昭和27年4月28日、29日で、レコードの方は昭和27年の8月に発売されている。
「あの曲はね、とにかく派手なものを作ろうと思って書いたの。歌舞伎座で歌われる曲ということも意識してね。そう思って作っていたら、なぜかマンボになった。それに作り方も、普通の流行歌のようにまず歌詞があって、そこにメロディーを付けるというやり方じゃないの。メロディーと歌詞が一緒に頭に浮かんできて、気がついたらひと晩で書き上げていた」と当時を振り返られた。
「ひばりは本当に上手く歌ってくれましたよ。ぼくとしては、後でやったレコードの録音よりも、歌舞伎座の初演の方が強く印象に残っている。あんなに歌詞が長くて難しい歌を、彼女は一晩で覚えて歌ってくれたんだからね。それに後でやったレコーディングではいつものコロムビア・オーケストラにラテンの打楽器を入れたくらいの編成で録音したけど、歌舞伎座の時には、ストリングスもついた30人くらいの大オーケストラで伴奏したのね。この時もぼくは自分で棒をふりましたよ。これは本当にスゴかったな。レコードなんて全然比較になりませんよ」
コロムビア時代には美空ひばりだけではなく、越路吹雪、藤山一郎、岡本敦郎、伊藤久男、笠置シヅ子、池真理子、並木路子、二葉あき子など当時のコロムビア専属歌手のほとんどに楽曲を提供されていたそうだ。
ところでインタヴューの撮影でご自宅に伺ったが、ご本人から顔写真はNGが出された。髪の毛がちょっとボサボサになり、その姿を残したくないということのようだったが、せっかく来たのに撮影しないで帰るわけにもいかない。そこで、ポラロイドで最初に一枚撮影して、それを見てご本人がOKなら雑誌用にフィルムで撮らせてもらうことにした。
当時はミノルタのα9000の裏蓋に、ミノルタ用のポラバックを付けたボディを1台持っていた。なるべく光が回らないように地明り(机の上にあった照明)だけで横顔を撮った。出来上がったポラを見て、これならと原さんからOKをいただいた。
また、この連載では取材させていただいたご本人の撮影の他に、ご本人がお持ちの貴重な資料や写真を複製するという仕事があった。お願いすれば貸していただけただろうが失くしたりしては大変なので、編集部の配慮で取材当日に複写させてもらっていた。4枚目から7枚目が原さんがお持ちだった写真で、4枚目は「お祭りマンボ」を作曲した頃の原六朗さん、5枚目の中央の女性は笠置シヅ子さんだ。
原六朗さんは2001年11月6日、下咽頭癌のため86歳で亡くなられた。
YouTubeから「お祭りマンボ/美空ひばり」 「めんどりブルース/笠置シヅ子」 「巴里の夜/二葉あき子」
https://www.youtube.com/watch?v=-IDuzF9wQig
東京・杉並区 1997年9月17日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1998年1月号
『レコード・コレクターズ』1998年2月号
#原六朗
#RokurouHara
#戦後ニッポンのポピュラー音楽
#アーカイブ
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◯川村カオリ 斎藤憐
音楽そのものより、その存在自体が気になるアーティストがいる。2009年7月に亡くなった川村カオリも、そんな一人だ。
1991年9月11日、表参道にあったロシア料理店「テアトロ・スンガリー」で彼女を撮影した。ソ連でクーデターが起こった1ヶ月ほど後で、ソ連が崩壊する3ヶ月ほど前だ。
その写真は、ミュージックマガジン1991年11月号の特集「激動のソ連とロック」の中、劇作家・斉藤憐さんとの対談「川村かおりと ひとときをすごして~日ソの狭間から見る 私たちの未来」と題された8ページに掲載された。
この日、対談の直前に録音するテープレコーダーを急遽スタッフが編集部へ取りに行かなくてはならなくなって、フォトセッションを先にすることになった。バー・カウンターと、グランドピアノが置かれたフロアでポートレートを撮った。この時、ボクは彼女についてほとんど何も知らなかったと思う。彼女がロシア人の母と日本人の父の間に生まれたハーフだということすら。 |
どう話しかけていいかも摑めず、わりと淡々とシャッターを切ったように思う。その時のベタ焼きを見ると、フォトセッションは36枚撮り1本分ほど撮影している。いろんなポーズのカットがあるので、ボクがポーズの注文をし彼女が応えてくれたのだろう。笑っている写真、笑顔の写真は一枚もない。たぶんボクは笑顔を注文しなかったのだろうし、彼女が自主的に笑顔を浮かべる事もなかった。
フォトセッションの後、斉藤憐さんとの対談を撮影した。彼女の生い立ちや、この対談の一ヶ月程前に起こったソ連のクーデター、彼女の音楽感などがそこで語られている。対談中に撮影したフィルム2本分の中に、フォトセッションでは見られなかった屈託のない、或いは少しはにかんだような笑顔の彼女がいる。
対談の後、表参道の歩道橋の上で斉藤憐さんと並んだツーショットを撮った。ジャケットの下はセックス・ピストルズのTシャツ、短く切ったジーンズから細い脚が伸びている。手の位置や置き方を少しずつ変えてもらいながら撮影していって36枚撮りフィルムの最後、36カット目。それまでレンズを見据えるようにポーズを決めていた彼女が、おどけた顔で横を向いている。その直前、いたずらっ子のような笑顔をカメラに向けた気がした。
この撮影の半年程前にリリースされた『Church 』というアルバムで、彼女はこんな曲を歌っている。
戦争が起きたら 君は銃をとるのかな
戦争が起きたら 僕は銃をとるのかな
早く天使よ目覚めて 僕らに道を教えて
早く女神よ目覚めて 僕らに道をてらして
斎藤憐さんも2011年10月12日に亡くなり、当時オープンしたばかりのテアトロ・スンガリーは2006年12月に閉店している。
斉藤憐さんの著書が1冊、本棚にある。戯曲ではなく、ミュージック・マガジン社から出た『昭和のバンスキングたち ジャズ・港・放蕩』だ。この対談をキッカケに買ったわけではなくて、1997年10月号から雑誌『レコード・コレクターズ』で始まった田中勝則さんと北中正和さんによる連載「戦後ニッポンのポピュラー音楽」の撮影を担当することになり、この連載と憐さんの『昭和のバンスキング・・・』はシンクロする部分があるので買って読んだ。
憐さんが芝居『上海バンスキング』を書くにあたって戦前のジャズメンに会って話を聞いた中で、劇では溢れてしまう話を雑誌「ミュージック・マガジン」で連載し、それがまとまって1冊になったものだ。
YouTubeから「ZOO StudioLive/川村カオリ」 「上海バンスキング 予告編」
川村カオリ 公式ウェブサイト
表参道・ロシア料理店「テアトロ・スンガリー」 1991年9月11日
初出『ミュージック・マガジン』1991年11月号
#川村カオリ
#KaoriKawamura
#斎藤憐
#RenSaitou
#テアトロスンガリー
#アーカイブ
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今日、円が一時1ドル=156円台まで下落した。103万円の壁の撤廃や低所得世帯への3万円給付などの経済対策が議論されているが、この円安を放置したままお金をバラ撒いても砂漠にジョウロで水を撒くようなものだろう。金利を上げると株価が下がるなど、アベノミクスによる負のスパイラルを検証することなしに、日本経済の立ち直りなどないのでは。
この他の気になった記事を備忘録として。
◯【速報】米軍オスプレイ2機が届け出なく着陸 鹿児島・奄美空港
◯敦賀原発2号機は「再稼働不適合」 原子力規制委、新規制基準下で初の判断
◯「これほどまでに人材不足?」石破内閣 外務政務官に生稲晃子議員起用の悪手 “事務所任せ”無責任の過去 |
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◯生田恵子
1928年(昭和3年)生まれの日本の歌手。三笠晴美の芸名で宝塚少女歌劇団で活躍した後、1949年(昭和24年)にビクターよりデビューした。
昭和26年にブラジルを訪問する芸能団の一員となり、約5ヶ月間ブラジルに滞在し巡回公演を行う。その滞在期間中にリオのビクター・スタジオでブラジル人ミュージシャンをバックに、当時流行していたバイヨン(ブラジル北東部のバイア州の奥地で始まったダンスのリズムが都会的に洗練されたもの)の曲をレコーディング。
ブラジルで覚えたバイヨンのリズムを日本に持ち帰って発表した「バイヨン踊り」が大ヒットし、バイヨンの女王と称される。その後、「東京ティティナ」「東京バイヨン」「銀座マンボ」などがヒットし、1956年に「アイ・アイ・バンジョー」で第7回NHK紅白歌合戦に初出場した。
生田恵子さんを撮影したのは、音楽評論家であり自身もブラジルでたくさんのレコードをプロデュースした経験のある田中勝則さんが『レコード・コレクターズ』に書いた「追跡取材!40年以上も前に本格的なブラジル録音を行った日本人歌手がいた」という記事のためのインタヴュー撮影だった。1995年2月のことで、当時生田さんは相模原市のご自宅で音楽スクールを開講されていた。 |
インタヴューでは約5ヶ月にわたりブラジルに滞在し巡回公演を行ったことや、リオのビクター・スタジオでレコーディングを行い、その際、バイヨンの王様と呼ばれたルイス・ゴンザーガが立ち会っていたなどということが明らかになった。
ところが、この取材から2ヶ月ほど経った1995年4月18日、生田さんは脳出血のため相模原市の病院で亡くなられてしまった。享年68歳だった。
生田さんの急逝だけが理由ではないだろうが、『レコード・コレクターズ』1997年10月号から「戦後ニッポンのポピュラー音楽」という連載が始まった。第一回は連載を交互に担当する北中正和さんと田中勝則さんの対談だった。
第一回目の記事の冒頭に連載の趣旨が書かれている。
本誌ではこれまでいろいろな資料をもとに、アメリカやイギリス、あるいはそれ以外の国々の様々な音楽の歴史を検証してきた。しかし実は、そんな中で一番資料が不足がちなのは日本の音楽についてのものだ。
それでも、ロカビリー・ブーム以降、特に60年代のものは、結構いろいろな事実が明らかになってきている。だが、それ以前の時代になると、情報の密度はガクンと落ちる。CD化されていない重要曲もまだまだ多いし、”ある歌とその時代”風の記録、評論はそこそこ目にすることはできても、例えば具体的なバックの演奏者名といったベーシックな情報は全く不足している。
そういった中、本誌では、日本人で初めてブラジルでレコーディングを行った故・生田恵子さん(95年4月号)、我が国でも広く知られたインドネシアの曲「ブンガワン・ソロ」を最初に日本語でカヴァーした松田トシさん(96年1月号)への田中勝則さんによるインタヴューを単発記事として掲載したこともあったが、今月からは、そのような取材を定期的に進めていくための連載ページを設けることにしたいと思う。
◯戦後ニッポンのポピュラー音楽とそれに関連する記事の一覧
YouTubeから「バイヨン踊り/生田恵子」 「東京バイヨン/生田恵子」 「東京ティティナ/生田恵子」 「ズンドコ・シャンソン/生田恵子」
生田恵子 ディスコグラフィー
神奈川・相模原 1995年2月8日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1995年4月号
#生田恵子
#KeikoIkuta
#三笠晴美
#HarumiMikasa
#戦後ニッポンのポピュラー音楽
#アーカイブ
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◯岩田喜代造
岩田喜代造さんは、元コロムビア・オーケストラの楽長でピアニストだった人だ。NHKが作曲家の古関裕而をモデルに描いた連続テレビ小説『エール』を放送していた4年前、こんな文章を書いた。
11月に入り、NHK連続テレビ小説『エール』も終盤だろうか。主人公の妻・古山音役の二階堂ふみさんが、今年の紅白歌合戦の赤組の司会に選ばれた。
主人公の古山裕一のモデルとなっているのは、戦前から戦後にかけて活躍した作曲家で、1989年に80歳で亡くなるまで5000曲にも及ぶ曲を作ったといわれる古関裕而さん。あと10年ご存命だったら、撮影する機会はあっただろうか。
というのも、 雑誌『レコード・コレクターズ』で1997年10月号から2001年6月号まで、北中正和さん、田中勝則さんという二人の音楽評論家が交互に取材・執筆した「戦後ニッポンのポピュラー音楽」という連載の撮影を担当していたから。第一回目はどういう内容の連載にするかというお二人の対談だったが、2回目以降は戦後に活躍した作曲家や演奏家、歌手の方々を取材している。 |
『エール』に登場する木枯正人のモデルと言われる古賀政男さんは既に亡くなられていたが、古賀さんの弟子であり作曲家、ギタリストの山本丈晴さんや、古関裕而さんの曲もたくさん歌われた二葉あき子さんも連載の中で取材した。
連載2回目に登場されたのは、元コロムビア・オーケストラ楽長でピアニストの岩田喜代造さんだった。北中正和さんが執筆された岩田さんの記事を読み返していると、古関裕而の名前が登場してくる。
<もう一枚おもしろいのは「別れのワルツ」というタイトルで出た「蛍の光」。映画『哀愁』の中で、ロウソクの火のもとで恋人たちの踊る場面にこの曲が使われていたので、あやかって出たレコードだが、編曲者のユージ・コスマンは洋盤として出すために古関裕而が使った変名。この曲で岩田さんが弾くゆったりとしたピアノは黒柳徹子のお父さんが弾くバイオリンと共に、デパートの閉店時や連絡船の出港時に流れ、多くの人の耳をとらえたのだった>
検索するとYou Tubeに「別れのワルツ ユージン・コスマン楽団 1956」という音源があった。これが岩田さんのピアノと、黒柳徹子のお父さん、黒柳守綱さんのバイオリンだろうか。
岩田喜代造さんが亡くなられたのがいつだったか思い出せないのだが、亡くなられた時に親族(お孫さんだったと思う)の方からメールで連絡をいただいた。
撮影させていただいたミュージシャンや俳優の方々のリストを自分のホームページに掲載しており、親族の方が岩田さんのお名前で検索して辿り着いたのだろう。お葬式の遺影にレコード・コレクターズの連載で撮影した、自宅のピアノに座っている岩田さんの写真を使いたいという内容だった。お葬式まで少し日にちがあったので、暗室に入って4つ切りのプリントを作り、お送りした。
アーカイブを作るにあたって1997年のスケジュール帳を取り出し撮影日を探したが、岩田さんのお名前が見つからなかった。8月21日の欄にレコード・コレクターズ撮影というメモと北中さんのお名前が記されているので、この日だろうと思う。五反田の駅で待ち合わせたようだ。
YouTubeから「別れのワルツ ユージン・コスマン楽団 1956」 「月の沙漠/チェレスタ独奏 岩田喜代造」
東京・五反田 1997年8月21日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1997年11月号
『レコード・コレクターズ』1997年12月号
インタヴュアーは北中正和さん
#岩田喜代造
#KiyozouIwata
#コロムビアオーケストラ
#ColumbiaOrchestra
#戦後ニッポンのポピュラー音楽
#アーカイブ
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昨日、特別国会が召集され、衆院本会議での首相指名選挙の決選投票で立憲民主党の野田佳彦氏を破って、石破茂氏が第103代首相に選出され、第2次石破内閣が発足した。衆院での首相指名選挙の決選投票は1994年以来、30年ぶりだという。
決選投票では石破氏221票、野田氏160票、無効票84票。野党が結束していれば野田氏を首相に選出することもできただろう。それでも衆院選で与党が過半数割れしたことを受けて、衆議院の17ある常任委員長のうち、法務委員長など7つのポストを野党が獲得した。これにより第2次安倍政権下から続いてきた数の力による法案のゴリ押しができなくなった。
一向に収まらない自民党の裏金問題への国民からの怒りに対して、石破内閣が政治資金収支報告書への不記載相当額に当たる約7億円を国庫に寄付する方向で調整に入ったというが、国民が望んでいるのは裏金(キックバック)が誰の指示でいつから行われ、そのお金が何に使われたかの解明だ。
テレ朝が「”強行採決”できず”異例の国会”へ
・・・」などと妙な見出しをつけているが、強行採決で法案を通してきた今までが異常な国会運営だったのだ。こんな見出しをつけたテレ朝の見識も疑われなくてはならない。
立憲民主党が今日、紙の保険証の廃止延期法案を提出した。他の野党がどのような反応をするのかしっかり見ておきたい。
この他の気になった記事を備忘録として。
◯旧統一教会系の新聞で語った13人の国会議員。関連団体が「アプローチできる人と認識も」専門家は指摘【過去5年分の調査】
◯日本の南に4つの台風 25号(ウサギ)は影響の可能性があり進路に注意 |
今日でお昼に再放送していたNHKの連続テレビ小説「ちゅらさん」が終わってしまった。来週からは「カムカムエヴリバディ」が再放送される。
下の写真は今日放送された「ちゅらさん」最終話の舞台となった小浜島の「こはぐら荘」。2014年6月23日撮影。 |
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◯杉本彩
1987年に東レのキャンペーンガールとしてデビュー。以降、グラビア・アイドル、女優、歌手、ダンサー、実業家、小説家など多岐にわたって活躍。また、動物愛護活動家としても知られ、公益財団法人動物環境・福祉協会Eva理事長を務めているそうだ。
1993年の『ENFIN』をはじめヘアヌード写真集を多数発表し、自ら官能小説を執筆したり、団鬼六の代表作『花と蛇』に出演するなど<エロスの伝道師>を標榜している。
杉本彩さんを撮影したのは2005年の5月で、この頃は化粧品やサプリメントのプロデュースも行っており「アンディノス」という化粧品会社を経営されていた。この時は1回で2号分、『今すぐなれる 幸せ体質の作り方』『加圧筋トレ・ダイエット』という2つの特集の撮影だったため、バリエーションが必要で背景布など機材が多めになった。取材場所は彼女の事務所で、三軒茶屋で担当編集者と待ち合わせ、たくさんの機材を抱えて世田谷線に乗ったのを覚えている。
撮影に使ったカメラはマミヤ645AFがメインで、サブにコニカミノルタのαー7DIGITALを使用している。マミヤ645AFで撮影したフィルムは編集部に渡してしまったので、掲載したのサブで使ったはαー7DIGITALによるカット。 |
アンディノスの方はwikiによると2010年に取締役及びプロデューサーを退任し、新たにリベラータというブランドを設立したそうだ。
YouTubeから「人魚の憂鬱/杉本彩」 「1987-1992 杉本彩CM集」
杉本彩 公式ウェブサイト
https://www.office-aya.co.jp
杉本彩Instagram
東京・世田谷 2005年5月9日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2005年8月号、9月号
#杉本彩
#AyaSugimoto
#アーカイブ
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◯リサ・ステッグマイヤー
アメリカ出身のモデル、タレント。ドイツ系アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれたハーフで、本名は梨沙子・ステッグマイヤー。2000年頃からトライアスロンを始め、2007年の佐渡国際トライアスロン大会Bタイプで年齢別1位、女子総合順位10位を獲得している。
1982年に来日し、集英社の雑誌『セブンティーン』でモデルデビュー。すぐに専属モデルとなり人気を得る。1995年にフジテレビの『笑っていいとも!』で英語を題材としたクイズコーナーの出題者として出演し、広くお茶の間に知られるようになった。以降、NHKの番組『天才てれびくん』の司会など、様々なテレビやラジオ、CMなどで活躍する。
2003年にアメリカ人の会社員と結婚し、2011年には第1子となる男の子を、2013年には第2子となる女の子を出産している。
彼女を撮影したのは2008年で、『ペットのいない人生なんて!NO PET,NO LIFE, ペットと私』という健康雑誌の連載だった。表参道の大きな通りから路地に入ったオスカープロモーションの事務所で、2匹の愛犬と一緒に撮影させていただいた。 |
この表参道のオスカーには同じ連載で佐藤藍子さんの撮影に来ているし、他の企画で笛木優子さんの撮影でも来ている。
ちなみにリサ・ステッグマイヤーさんは、2020年3月31日にオスカープロモーションを退社されたそうだ。現在は日本とハワイの二拠点生活を送っているという。
YouTubeから「森永製菓チョコボール/リサ・ステッグマイヤー」 「コーセークイックパクトCM/リサ・ステッグマイヤー」
リサ・ステッグマイヤーInstagram
https://www.instagram.com/risastegmayer/
リサ・ステッグマイヤー 公式ブログ
表参道・オスカープロモーション 2008年3月5日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2008年6月号
#リサステッグマイヤー
#RisaStegmayer
#梨沙子ステッグマイヤー
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ
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沖縄・奄美で記録的な大雨となっており、今夜にかけても局地的に激しい雨が降るところがある見込みだという。11月に大雨特別警報が出されたのは初めてのことだ。
◯与論に大雨特別警報 住家浸水29棟、土砂崩れも 24時間で過去最多594ミリ 線状降水帯が発生
◯大宜味村、ほぼ全域で断水 復旧のめど立たず 津波浄水場が浸水した影響で
◯【動画あり】沖縄県国頭村と名護市で床上浸水8件 県道14号は名護市源河―東村有銘で全面通行止め 各地で倒木や道路陥没
◯沖縄本島北部、土砂災害に厳重警戒呼びかけ 降水量、7日の降り始めから東村平良で644ミリ(10日午前11時現在)
この他の気になった記事を備忘録として。
◯マイナ保険証への反発避けたい?代替策どんどん充実 だったら紙の保険証残せば…薄れる廃止の意義
◯物価高なのに「デフレ」と言い続ける政府の魂胆とは なぜ脱却宣言しない? 内閣府の珍妙な回答
◯海岸に埋まった縄文石器なくなる 南海の喜界島 隆起物語る資料 |
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◯ソウル・フラワー・ユニオン
1988年に共同で設立した自主レーベル「ソウル・フラワー・レコード」で活動していた2つのバンド、ニューエスト・モデルとメスカリン・ドライヴが同時に解散し、統合する形で1993年9月に結成されたのがソウル・フラワー・ユニオンだった。
彼らを撮影したのは2年半ぶりとなる4枚目のアルバム『ウィンズ・フェアグランド』の発売直前。インタヴュアーは編集部の久保太郎さんで、主に答えているのは中川敬さんと伊丹英子さんだった。
このアルバムは共同プロデューサーにドーナル・ラニーを迎え、演奏にはアルタンやキーラといったアイルランドのミュージシャンたちも参加している。
「今回のアルバムは中川が全部仕切ったわけじゃなくて、出会った人たちが徐々に構築していくっていう感じやったからね」と伊丹が話し、「ストーンズの『メイン・ストリートのならず者』みたいに、バンドのパーマネント・メンバーじゃなくても風通しよくみんなが参加して、でも最終的にはストーンズの音になってしまう、みたいなアルバムにしたかった」と中川が話を引き継ぐ。 |
アイルランド勢との共演ではアイリッシュ・トラッド色の強い曲になっているが、そこに中川の三線がメロディを刻む。”ソウル・フラワーの音”にするための秘訣がここにあるのかと、久保さんが尋ねると、
「彼らはソウル・フラワーを聴いてもヘヴィ・ロックやと思うようなアイリッシュの世界の人たちで、俺らの方がやってる音楽の振り幅が大きいから、グルーヴの訛り的なことに関してはやや譲るけど、メロディや歌の部分に関しては譲らんぞ、という気持ちが三線を持たしてるところかも知れん」と答えている。
インタヴュー後のフォトセッションは、最初は室内で行っていたが、撮影したポラを見せると”何か違う”となり外階段になった。
ソウル・フラワー・ユニオンからは、1995年の阪神・淡路大震災を機に生まれた別働隊のソウル・フラワー・モノノケ・サミットも存在する。
ライヴの写真は撮影日時・場所とも不明。
YouTubeから「極東戦線異常なし!?/ソウル・フラワー・ユニオン」 「海行かば山行かば踊るかばね/SOUL FLOWER UNION with 民謡クルセイダーズ(MINYO CRUSADERS) 」
ソウル・フラワー・ユニオン 公式ウェブサイト
青山・キューンレコード 1999年1月12日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1999年3月号
#ソウルフラワーユニオン
#SoulFlowerUnion
#中川敬
#TakashiNakagawa
#伊丹英子
#EikoItami
#奥野真哉
#ShinyaOkuno
#河村博司
#HiroshiKawamura
#アーカイブ
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◯ソウル・フラワー・モノノケ・サミット
1995年の阪神・淡路大震災を機に生まれた、ソウル・フラワー・ユニオンの別働隊のチンドン楽団。
彼らを撮影したのは、2002年夏の寿町フリーコンサートだった。この年は他に、渋さ知らズやハシケン、THE VODKA、寿、マーガレットズロース、マルディータ・ノーチェ、金尾義郎バンドが出演していた。
オフィシャル・サイトのプロフィールから抜粋して引用すると、
「1995年1月の阪神淡路大震災の直後、関西を活動拠点とするロック・バンド、ソウル・フラワー・ユニオンは、伊丹英子の発案で、被災地での出前慰問ライヴ活動を開始。日本・沖縄・アイヌ・朝鮮の民謡、壮士演歌、労働歌、革命歌、はやり歌などをチンドン・ミュージック・スタイルで演奏する、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットとして、ソウル・フラワー・ユニオンと同時並行活動を始める。
震災直後の当初、ライフラインが寸断された被災地で演奏する為、エレキ・ギターを沖縄の三線(さんしん)に、マイクをメガホンに変え、チンドン太鼓やチャンゴ、アコーディオン、クラリネットといった、電気を必要としない楽器を使用。年輩や子供達へ向けて選出された独自解釈を加えた雑多なレパートリーは、近世日本音楽の闇部を射抜く、「闇のジュークボックス」とでも形容できる新芸能へと昇華させている。そして、多くの出逢いを生んだ被災地での活動を通して、<満月の夕><あまの川><潮の路><荒れ地にて><そら>といった、ソウル・フラワー・ユニオンの数々の名曲が誕生している」
2002年夏の寿町フリーコンサートに出演した正確なメンバー構成はわからないが、中川敬(唄&三線)、伊丹英子(島太鼓、チャンゴ、三板)、奥野真哉(アコーディオン)、大熊ワタル(クラリネット)、林道代(チンドン太鼓)、河村博司(ベース)、伊藤孝喜(ドラム)、中里かおり(ピアニカ)らを中心に活動している。
YouTubeから「ソウルフラワー・モノノケ・サミット@寿町フリーコンサート(1998年)」 「満月の夕(ライヴ)1999/ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」
寿町フリーコンサート 公式ウェブサイト
ソウル・フラワー・ユニオン 公式ウェブサイト
横浜・寿町 2002年8月12日撮影
#ソウルフラワーモノノケサミット
#SoulFlowerMononokeSummit
#中川敬
#TakashiNakagawa
#伊丹英子
#EikoItami
#奥野真哉
#ShinyaOkuno
#大熊ワタル
#WataruOhkuma
#林道代
#MichiyoHayashi
#河村博司
#HiroshiKawamura
#伊藤孝喜
#KokiIto
#中里かおり
#KaoriNakazato
#寿町フリーコンサート
#アーカイブ
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昨日から急に寒くなってきて、湯たんぽが初出動した。そして今日、立山で初冠雪が観測された。富山地方気象台によると平年より1ヶ月ほど遅く、観測史上2番目の遅さだという。
午後から1時間ほど小矢部川の土手を自転車で走り、初冠雪の立山連峰を眺めてきた。雲はほとんどなく冬晴れ?秋晴れ?の空だった。 |
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先月の17日に受信した特定健康診査の結果を、昨日の朝、病院に聞きに行った。血圧が134で少し高いが、他は基準値以内だった。
米大統領選で共和党のトランプ氏が勝利したため、トランプ氏が起訴された2021年の議会襲撃事件と機密文書持ち出し事件を担当するスミス特別検察官が、起訴の取り下げを含め、どのように事件を終結させるかを司法省幹部と協議しているという。スミス氏はトランプ氏に保守系ラジオ番組で大統領選で勝利したら「就任から2秒でクビにする」と言われていた。トランプ氏は大統領就任後は人事などで司法省を自らの意向にそうようコントロールする可能性も指摘されている。
これとは反対に
衆議院選で自民党が大敗し自公政権が少数与党となったことから、野党は裏金問題の実態解明に向け政治倫理審査会の開催を求めていく方針だ。これらのことで、いかに選挙が大切かがわかる。
また、自民党は7日に衆院選を総括する両院議員懇談会を開いたが、
今回の大敗を受けて石破首相ら執行部の責任を問う声が相次いだという。その中に、旧安倍派の柴山昌彦元文部科学相から2000万円支給に触れ「世論からいかにかけ離れているか。執行部はしっかり受け止め検証すべきだ」という意見もあったそうだが、896万円の裏金を受け取り戒告処分となった人が何を偉そうに言っているんだろうか。世論からかけ離れているのは貴方も一緒だろう。
石破首相は昨日午前9時半から約5分間、トランプ氏と電話会談を行い「非常にフレンドリーな感じがした。言葉を飾ったりつくろったりするのではなく、本音で話ができる方だ」と感想を述べた。石破首相は衆院選に向けた日本記者クラブ主催の7党党首討論会で、日米地位協定の改定を実現したいと語っている。フレンドリーで本音で話ができると思ったというトランプ氏と、先ずは日米地位協定について語り合ってもらいたい。
この他の気になった記事を備忘録として。
◯マイナ保険証一本化、石破茂首相「スケジュール通りやる」 総裁選での「先送り検討も必要」覆す
◯「庭で水が…」気泡ふき出しリニアの掘削工事が中断 町田市の住民「調布陥没のような大事故の前触れ」?
◯KADOKAWA、フリーランス「買いたたき」…一方的に雑誌ライターらの作業代引き下げ
◯YOSHIKIさん トゲトゲネックレスは「ハグを避ける」ため 首の人工椎間板の固定を待つ間
◯「耳かき1杯のデブリ」が持つ意義とは 福島第1原発の炉内状況は見えてくるのか 「限界がある」との指摘も |
アマゾンのマーケットプレイスで購入した、沖縄の写真家・比嘉康雄さんの神々の古層シリーズ『遊行する祖霊神 ウヤガン(宮古島)』が先日届いた。このシリーズは全12巻で、あと『異界の神ヤガンの来訪 ヤガンウユミ(粟国島)』『海の神への願い 竜宮願い(宮古島)』『豊年を招き寄せる ヒラセマンカイ(奄美大島)』の3冊が揃えばコンプリートだ。
沖縄に滞在して島々の祭祀を追いかけている時に県立図書館で借りていたので一通り(自分でも撮影に行った祭祀を扱った巻は2、3度借りている)は読んでいるが、やはり手元に置きたくて富山に帰って来てから古本で値段が下がった時に一冊ずつ揃えている。
今回は1991年8月15日発行の初版本で本代が588円、送料が240円で計828円で購入できた。 |
↓『遊行する祖霊神 ウヤガン(宮古島)』→あと3冊でコンプリート。 |
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◯カーラ・オルソン
テキサス州オースチン出身のギタリスト、シンガー。1979年にテクストーンズを結成し、1984年に『Midnight Mission』でデビューする。このアルバムはビルボード200で76位にランクイン。87年にはエニグマレコードから2枚目のアルバム『Cedar Creek』がリリースされた。
80年代後半からはソング・ライターやサポート・ミュージシャンとしての活動も行い、ソロ・アルバムも発表。90年には元ローリング・ストーンズのギタリスト、ミック・テイラーとの共演で『Live At the Roxy / Carla Olson & Mick Taylor』をリリースしている。彼女はこの他、パーシー・スレッジ、ライ・クーダー、ジーン・クラーク、ドン・ヘンリー、ボブ・ディラン、エリック・クラプトン、ジョン・フォガティ、ミカエル・リックフォースなど様々なミュージシャンと仕事をしている。 |
写真はカーラ・オルソンの初来日ライヴの写真だが、この写真を撮った経緯がいまひとつ思い出せない。当時のスケジュール帳によると、同じ日に六本木のフォノグラムへ前年の9月に撮影したイギリスのロック・バンド、オーシャン・カラー・シーンの写真を届けている。ギャランティーらしき金額とフィルム1本あたりの値段がメモしてあるので、当日にレコード会社か関係者から急遽依頼されて撮ったのかもしれない。
このライヴのことはマイク越谷さんの【連載】Vol.090「Mike's Boogie Station=音楽にいつも感謝!=」で触れられている。カーラの来日公演でバックを務めたのはトッド・ウルフ、ルー・カストロとも書かれている。
YouTubeから「Downhearted Town/The Textones」 「The Drifter/Gene Clark & Carla Olson」
カーラ・オルソン 公式ウェブサイト
六本木ヴァレンタイン 1993年4月22日
#カーラオルソン
#CarlaOlson
#テクストーンズ
#TheTextones
#アーカイブ
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◯アラン・トゥーサン
アラン・トゥーサンの「Southern Night」は、何十年経っても色褪せない美しい曲だなと思う。
南部の夜
君は南部の夜を感じたことがあるかい?
そよ風のように気ままで
木々は言うまでもなく
口笛で君も知ってる曲を奏でるのさ
この美しい曲を聴くだびに、49歳の若さで急逝した漫画家・坂口尚の『12色物語』や『たつまきをうる老人』に描かれた詩情豊かな絵が思い浮かんでくる。
アラン・トゥーサンはニューオーリンズ生まれのピアニスト、ソングライター、編曲家、プロデューサー。ボズ・スキャッグスの「What Do You Want the Girl to Do」も彼の作品だ。
残念ながら2015年11月9日、スペイン・マドリードでのコンサートの後、心臓発作のため亡くなった。77歳だった。 |
この写真は1988年7月20日、芝公園にあった郵便貯金会館のホールで撮影。スイングジャーナル社の『アドリブ』に掲載されている。記憶が曖昧だが、これもサロンゴ・ミュージックの木下さんに誘われて撮影に行って、その写真を『アドリブ』に売り込みに行って使われたのではないだろうか。
YouTubeから「Southern Night/Allen Toussaint」 「What Do You Want The Girl To Do/Allen Toussaint」
アラン・トゥーサン 公式ウェブサイト
郵便貯金会館 1988年7月20日
初出『アドリブ』1988年9月号
#アラントゥーサン
#AllenToussaint
#ニューオーリンズ
#NewOrleans
#アーカイブ
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11月6日(水) |
今日は朝からテレビのニュースもワイドショーも、5日投開票のアメリカ大統領選一色だった。夜のNHKニュースは8時まで延長して放送され、7時半過ぎにトランプの当確を知らせるテロップが流された。
◯アメリカ大統領選挙 2024
◯「もしトラ」なら日本の経済、外交、安保に影響必至 分断進むアメリカ大統領選「どちらが勝っても混乱」
◯トランプ氏が勝利宣言「米国を再び偉大な国にする」 返り咲き大統領は史上2人目 主要メディアが当確打つ |
楳図かずおさんが10月28日に亡くなったことを、昨日ののニュースで知った。楳図さんの年齢など考えたこともなかったが、訃報と一緒に88歳だったことも知った。
たぶん1980年前後だと思うが、バンドで音楽活動もされていた。楳図かずおバンドだと思っていたが、久住昌之さんがXに<楳図さんの「まことちゃんバンド」の一員でした>という投稿をしているのでまことちゃんバンドだったかもしれない。はっきり覚えているのはベースがクロスウィンドに在籍していた小林一夫さんだったこと。
日刊アルバイトニュース『デイリーan』のタウン特集で、楳図さんを撮影させていただいたことがある。「超東京案内 やめられない吉祥寺トリップ」という吉祥寺の特集で、掲載記事だけ切り取ってアーカイブしてあるので発行日がわからないが90年代のはじめ、今から30年以上前だと思う。当時、楳図さんの仕事場は高田馬場だったが、住まいは吉祥寺にあった。楳図さんの行きつけのお店やオススメのお店を何軒か紹介してもらい、井の頭公園でポートレートも撮っている。せっかく楳図さんに登場してもらうならと、高田馬場の仕事場に置いてあったまことちゃん人形を編集者が電車で運んで”グワシ”のポーズを決めてもらった。
楳図さんといえば赤と白のボーダーシャツというイメージがあるが、この時はなぜか赤と黒のボーダーシャツだ。
楳図さんから紹介されたお店はアイスクリームとエスプレッソのお店「Donatello’s」、コーヒーと軽食のお店「えとせとら」、自然食レストラン「もんくすふーず」、コーヒー専門店「もか」だった。「Donatello’s」と「もか」は閉店されたようだ。
◯「みんなに愛された方」楳図かずおさん死去に地元・吉祥寺から追悼の声「いなくなるって考えたことがなかった」 |
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◯オーシャン・カラー・シーン
バーミンガム近郊のソリハル出身のロック・バンド。1990年にシングル「スウェイ」でインディーズからでデビューした後、92年に1stアルバム『ブルー・ディープ・オーシャン』をリリース。このアルバムはヒットに至らなかったそうだが、折からのブリットポップ・ブームに乗り96年にリリースした2ndアルバム『モーズリー・ショールズ』が全英で2位、97年リリースの3rdアルバム『マーチング・オールレディ』が全英1位のヒットとなった。
ギターのスティーヴはポール・ウェラーの93年に発売した『ワイルド・ウッド』にゲスト参加しており、ポールもオーシャン・カラー・シーンの『モーズリー・ショールズ』に参加するなど交流がある。
オーシャン・カラー・シーンは1stアルバムを発表した1992年の9月に初来日しており、9月21日・22日東京・クラブクアトロ、24日名古屋・クラブクアトロ、25日大阪・クラブクアトロでライヴを行っている。
インタヴュー撮影をしたのは22日で、インタヴュアーは岡村詩野さんだった。岡村さんと一緒に取材をするのは、たぶんこの時が初めて。 |
彼女の原稿の終わりに<写真撮影の時もドアに沿って縦に顔を並べて、という難しい注文に嫌な顔一つしなかった彼ら>と書かれているが、<俺らモンキーズじゃない・・・>とメンバーの誰かがグチっていたのを覚えている(笑)。そうだよね。メンバーには不評だったが、レコード会社の担当者は気に入ったのか、宣材に使いたいというので後日プリントを届けた記憶がある。
YouTubeから「You've Got It Bad/Ocean Colour Scene」 「Hundred Mile High City Live/Ocean Colour Scene」
オーシャン・カラー・シーン 公式ウェブサイト
渋谷・東武ホテル 1992年9月22日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1992年11月号
インタヴューは岡村詩野さん
#オーシャンカラーシーン
#OceanColourScene
#サイモンファウラー
#SimonFowler
#スティーヴンクラドック
#SteveCradock
#デーモンミケラ
#DamonMinchella
#オスカーハリソン
#OscarHarrison
#アーカイブ
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◯ポール・ウェラー
イングランド出身のミュージシャン。1977年にザ・ジャムのボーカル&ギターとしてデビュー。1982年10月にザ・ジャムが解散するとスタイル・カウンシルを結成。ここでもボーカル、ギターのフロントマンを務める。1989年に解散したがスタジオ・アルバム5枚、ライヴ・アルバム2枚がリリースされており、1stアルバムの『カフェ・ブリュ』は全英アルバムチャートで2位、2ndアルバム『アワ・フェイバリット・ショップ』は1位を獲得している。
1989年からはソロ活動を行なっており、これまで17枚のアルバムを発表している。17枚目のアルバムは彼の66歳の誕生日前日、今年5月24日に発表された『66』。
添付した写真はソロとしては2枚目のアルバムとなる『Wild Wood』がリリースされた1993年の来日ツアーの初日、10月27日の中野サンプラザでのステージ。『ミュージック・マガジン』の仕事で撮影に行ったが、会場に入ると受付でカメラマンが全員誓約書にサインを書くよう要求された。 |
誓約書は確か英語で、どんな内容かわからないままサインをした。撮影に行って誓約書にサインを求められたのは後にも先にもこの時だけだ。それにしても、誓約書はどんな内容だったのだろう。
写真は『ミュージック・マガジン』1993年12月号に掲載されているが、「”70年代ソウル”への視線」という特集ページや、コンサート評で使われている。
YouTubeから「In The City/The Jam」
「You’re The Best Thing/The Style Council」
「Wild Wood/Paul Weller」
ポール・ウェラー 公式ウェブサイト
中野サンプラザ 1993年10月27日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年12月号
安斎明定さんがポールについて、駒形四郎さんがコンサート評を書いている。
#ポールウェラー
#PaulWeller
#ザジャム
#TheJam
#スタイルカウンシル
#TheStyleCouncil
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今日は地区の住民防災フェス。今回で3回目だそうだ。朝8時に防災無線からサイレンが鳴らされ、それを聞いたら班ごとに決められた集合場所に集まり、班長が各家の安否確認をする。が、8時になってもサイレンが鳴らず、外を見ると玄関から出てどうしたらいいか困っている住民の方も何人か。しばらく待ってもサイレンが鳴らないので自治会の役員に連絡すると、確認して折り返し電話をしますという。確認してもらったところ、防災無線に不具合があり急遽消防車が地区をまわることになったそうだ。とりあえず家から出てきた方の安否確認をし、出ていない方は訪ねて行って安否確認をした。
9時からは各班2名が出席して公民館で2時間ほどの研修。避難先でできる体操や新聞紙で作るスリッパ、救急車が来るまで家でできる応急処置などを教わる。
アマゾンで購入した液晶用クリーニングキットと自転車用のライトが昨日届いた。さっそく夜に、パソコン作業が終わって電源を落としてからMacBook Proの液晶画面と、MacBook Proに接続しているEIZOのディスプレイ、27インチのiMacの液晶画面をクリーニングした。拭き跡も残らずキレイになった。 |
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↑左がエレコムのクリーニングリキッドとクロスのセット1,073円、USB充電式の自転車用ライト1,580円。
←昨日のうちに充電しておいたライトをハンドルに取り付けた。これまではダイソーで買った110円のライトを使っていたが、ちょっと光量が少なくて薄暗かった。夜に走ってみないとわからないが多分明るいはず。 |
| アメリカの音楽プロデューサー、クインシー・ジョーンズが亡くなった。91歳だった。YouTubeから「愛のコリーダ/クインシー・ジョーンズ」。 |
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◯まついなつき
一番マンガを読んでいたのは20代の頃で、今でもマイナーな出版社から発売されたマンガが本棚に並んでいる。青林堂のガロや、ぱふ、関西のチャンネルゼロが発行していた季刊漫金超といった雑誌に描いていた人たちのマンガが多い。
山田双葉(山田詠美が小説家でブレイクする前、本名でマンガを描いていた)の『シュガー・バー』や渡辺和博『熊猫人民公社』、いしかわじゅん『憂国』、ひさうちみちお『罪と罰』といった、けいせい出版の本を並べた棚の中に彼女の初めての単行本『かるめら丼』も収まっている。
一つ一つのマンガがどう面白かったのか、今となってはよく思い出せないけれど、山田双葉や内田春菊、まついなつきと下半身に力のある女流漫画家の本に魅かれていたようだ。
まついさんが米米クラブの石井竜也さんと、雑誌「宝島」でプロジェクトCという連載をしていた頃までは見ていたが、ヒット作『笑う出産』の頃の彼女のマンガは知らない。もうこの頃は自分がマンガをあまり読まなくなっていた。 |
一度だけ彼女を撮影したことがある。2007年のことで、健康雑誌の編集者からまついさんの撮影依頼があった。健康雑誌でなぜ漫画家を?と不思議に思ったが、その頃の彼女は漫画家だけではなく占い師もやっていた。手相の特集で、インタヴューの顔写真と掌を撮影した。
1960年7月1日生まれだから、学年は彼女の方が一つ下になるが同い年だ。山田詠美も内田春菊も同世代の漫画家だ。
残念ながら2020年1月21日に脳梗塞のため、59歳の若さで亡くなってしまった。まついさんのX(旧Twitter)に、息子さんが死去の報告をされている。
文京区・マキノ出版 2007年1月11日
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2007年4月号
#まついなつき
#NatsukiMatsui
#かるめら姫
#アーカイブ
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◯若林健次
いしかわじゅんのアシスタントを経て、1987年に講談社のコミックモーニングに『ドトウの笹口組』を連載してデビュー。これまでに小学館から『平成嵐山一家』、双葉社から『オンダ』、リイド社から『川中島商店街波風組』、竹書房から『逆境キング』、秋田書店から『ごっつあん!!桃大応援部』、集英社から『タッチでイクぜ!竹田クン』など多くの出版社から作品を発表している。また、中谷彰宏さんの著書『面接の達人』シリーズのイラストも手掛けているようだ。
彼を取材したのは<文系ビジネスマンが楽しむハイテク生活の本>というキャッチフレーズがついた『ALEK』というビジネス雑誌の、「いま29歳がおもしろい」という巻頭特集だった。29歳で活躍している著名な人に話を聞くページだったが、今のようにインターネットで簡単に検索できる時代ではなく若林さんは担当編集者からの紹介だったと思う。それまで彼のマンガを読んだことがなく、取材が決まってから急いで『ドトウの笹口組』を買って読んだ。今でも1巻、2巻、8巻、9巻が本棚に並んでいる。3~7巻は失くしたわけではなく、時間と経費の節約で入口と出口だけ読んだのだろう。 |
たしか新宿にあった仕事場で話を聞き、その後、外に出てポートレートを撮った。『ドトウの笹口組』は土方の世界を描いたマンガで、ちょうど近くに工事現場があったのでそこで撮影した。
wikiによると、忌野清志郎さんが一時期彼の部屋に転がり込んできて同居することになり、ベタ塗りなどを手伝って貰っていたという。そのエピソードの出典は、マンガ家・須賀原洋行さんの「漫画家Sのブログ」で、2009年5月3日の日記に書かれている。
たしか新宿にあった仕事場で話を聞き、その後、外に出てポートレートを撮った。『ドトウの笹口組』は土方の世界を描いたマンガで、ちょうど近くに工事現場があったのでそこで撮影した。
wikiによると、忌野清志郎さんが一時期彼の部屋に転がり込んできて同居することになり、ベタ塗りなどを手伝って貰っていたという。そのエピソードの出典は、マンガ家・須賀原洋行さんの「漫画家Sのブログ」で、2009年5月3日の日記に書かれている。
以下は、当時書いた原稿の全文。
<5億稼がないと、サラリーマンと肩を並べられない>
今、日雇い労働者を描いてこの人の右に出る者はいない!!大学時代にアルバイトで経験した土方の世界を書き綴った『ドトウの笹口組』をコミックモーニングで連載し、好評を得た若林さん。今年の4月、待望の単行本第9巻目も発売され、いよいよ印税生活者の殿堂入りか!?
「いやぁ、マンガも売れないですね、小説はもっと売れないでしょうけど(笑)。売れる部数が一ケタ二ケタ予定と違う。友達のマンガ家から単行本一冊出すと億儲かるような話を聞いてたのに、すっかり人生設計が狂っちゃいました」
でも、預金はかなり?
「預金なくって大変なんです。けっこう税金取られますから。とられないようにするには使うしかなくて。実は昨年マンション買ったんですよ。銀行から借金して。先輩のマンガ家が驚いてますよ。銀行もマンガ家に貸す時代になったかって(笑)」
とはいえ、昨年の年収は3~4千万円。同じ年の29歳ビジネスマンは平均年収500万円以下。やっぱりうらやましい。
「そのかわりサラリーマンや公務員は退職後に大金が入るじゃないですか。
ボクは生涯賃金を常に頭に描いてるんですよ。そうすると最低3億・・・いや、一時期に得る収入が多いと税金も多いから5億稼がないと、サラリーマンと肩並べられない。
昨年が3~4千万円。それを10年間維持しなくちゃいけないかと思うと、辛いですよ」
マンガ家の寿命は10年といいますが、
「なんか、小出しにしてるともう少し持つかナァと。現代っ子っぽいでしょ考えが(笑)。
まァ本音は、走れる時に突っ走った方が長生きすると思うんだけど」
これからガンガン走って下さいヨ。
「でも、昨年までだったかもしれない、走れるのも(笑)。もっと笹口組を走らせとけば良かった。でも限界だったな。あと10話続けてたら気が狂ったかもしれない・・・」
・・・。ところで、若林さんも含めてマンガ家の人やモノを見る視線は、小説家や他のクリエイターよりもユニークで面白いですね。
「それはあるかもしれない、マンガ家って頭の良くない人が多いから(笑)。そういう人がお金や煽てにのって色んなモノを見ちゃうんです。頭のいい人は固定観念があって、初めから天井があったり、最初に”そういう見方をしちゃ誤ってる”って判断する。マンガ家は固定観念のない人が多いんです。だから調子にのって色々見てしまう(笑)」
それでは最後に、電車でマンガ雑誌を読んでいる同世代のサラリーマンへメッセージを。
「週刊誌ばっかりじゃなくて、もっと単行本も買ってくんないかナァと思いますね。
でも、一方ではマンガなんか読んでる場合じゃないでしょ!!もっと新聞でも読んだらっていう気持ちもある(笑)」
新宿 1990年6月19日撮影
初出『ALEK』(アレック情報出版)1990年8月号
#若林健次
#KenjiWakabayashi
#いま29歳が面白い!!
#アーカイブ
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11月2日(土) |
台風21号から変わった低気圧の影響で、長崎では今日の未明に線状降水帯が発生し、激しい雨が降り続いたそうだ。この大雨の影響で山陽新幹線の小倉ー博多間で運転見合わせ、東海道新幹線の東京ー新大阪間では大幅な遅れが出たそうだ。富山も朝から夕方まで土砂降りの雨で強い風も吹いていた。
スペイン東部バレンシア州では先月29日から始まった集中豪雨による洪水で202人が亡くなったという。西部と南部の州でも3人の死亡が確認されており、今回の洪水による死者は合計205人に上るそうだ。バレンシア州西部の町チバでは8時間の雨量が年間降水量に匹敵する491mmを記録したという。激しい雨を<バケツをひっくり返したような>と表現するが、バケツなんてそんな生易しいものではなかったのだろう。空からプールが落ちてきたくらいの衝撃だろうか。
今日から三夜連続で『ブラタモリ』が放送される。旅のテーマは「東海道五十七次」だそうだ。
日曜日の楽しみの一つが『日曜美術館』を見ること。午前中の放送は『サンデーモーニング』と重なるので、毎回午後8時からの再放送を見ている。明日は「奄美への道標(みちしるべ)画家・田中一村」だ。 田中一村は生前あまり高い評価を得られなかったが、没後に放送されたNHK『日曜美術館』の「黒潮の画譜~異端の画家・田中一村」(1984年12月16日放映)や南日本新聞に連載された『アダンの画帖〜田中一村伝』をキッカケに注目を集め、その精緻で独特な被写体を描いた絵が脚光を浴びるようになった。
奄美大島に移住するまで田中一村という画家については何も知らなかったが、名瀬に住んでいた時に図書館で借りて『アダンの画帖〜田中一村伝』を読み、2010年11月には奄美パーク内にある田中一村記念美術館へ特別展『田中一村 新たなる全貌』を見に行った。名瀬有屋にある田中一村終焉の家も2回ほど訪ねている。
下の写真は、名瀬大熊にあった一村さんが勤めていた紬工場の跡地。ここで染色工として働いていた。撮影したのは2011年6月30日で、もう13年も前なので今は住宅が建っているだろうか。この紬工場のことが『アダンの画帖〜田中一村伝』でも触れられている。 |
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「工場は、海辺の小集落にあり、空気は清澄。しかし夏の工場内は地獄の釜のごとくむし暑く、海岸には真黒な南の鷺が餌を漁り、断崖には奇異の植物あり、南国情緒豊かです。(中略)工場の昼休みに」(昭和三十七年十二月十六日、川村幾三氏あてのはがき)
常用の地下たびをはき、ステテコにランニングシャツ姿で、朝の「歩行訓練」で汗を流したあと、朝食をすませて紬工場に出勤する日課であった。有屋の借家から大熊の久野織物工場まで1.5キロほどあった。大熊はカツオ漁船の基地であり、工場から道路一つ越せば、漁港に続く海岸が広がっていた。
この大熊漁港には奄美大島滞在中、シビ(キハダマグロの幼魚)やカツオの刺身をよく買いに行った。500円で、1回では食べきれない量の刺身が入っていた。
東京都美術館で12月1日まで特別展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」が開催されている。 |
この他の気になった記事を備忘録として。
◯【速報】燃料デブリ 事故後初めて「格納容器外」への取り出しに成功<福島第一原発>
◯東京電力・勝俣恒久元会長死去に福島の被災者「責任ないと言い続けたこと、許せない」 原発事故時の最高責任者
◯自民惨敗でマイナ保険証一本化どうなる? 紙の保険証廃止まで1カ月 衆院選の結果に各党の考えは…
◯マイナ保険証めぐる公約「考慮した」人が多数 衆院選 紙の保険証廃止まで1カ月<ニュースあなた発アンケート>
◯マイナ保険証利用登録解除 10月28日に厚労省のシステムが稼働
◯国民民主の玉木代表 紙の健康保険証廃止は「予定通りやるべき」 マイナ保険証に一本化する政府方針に賛成
◯アンチ「年寄りの味方」で大躍進の国民民主党 家計に優しい政策…裏には「今回の選挙で見せなかった」顔が
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◯ロニー・スペクター
「Be My Baby」などのヒット曲で知られる、ザ・ロネッツのリード・ボーカル。1950年代後半に、姉のエステル・ベネット、従姉妹のネドラ・タリーと共にガールズ・グループを結成。初めはドリー・シズターズと名乗っていたが、すぐにロニー&レラティヴスに改名、その後にロネッツとなった。
wikiによると1961年にコロンビアピクチャーズ傘下のコルピックスレコードにスカウトされデビューするが、ヒットに恵まれなかったという。そこで姉のエステルが駄目元でフィル・スペクターのプロダクションに連絡したところ、ロニーの声にスペクターが興味を示し彼の持つフィレスレコードと契約。1963年にフィレスから最初のシングル「ビー・マイ・ベイビー」をリリースすると、ビルボードチャートで最高2位、イギリスでも4位の大ヒットを記録する。その後も数多くのシングルをリリースしヒットを記録したが、1960年代中頃に活動を休止し、1966年夏、ビートルズ最後のコンサートツアーの前座として北米をまわったのを最後に解散した。
ロニーは1968年にプロデューサーだったフィル・スペクターと結婚し活動を休止していたが、1972年に別居、1973年に離婚後はソロ活動を開始した。 |
ロニー・スペクターは1999年に来日した際に、「レコード・コレクターズ』の取材で撮影した。インタヴュアーは杉原志啓さん、通訳は丸山京子さんだった。前年にブライアン・ウィルソンが書いた「ドント・ウォーリー・ベイビー」を収録したEPを出し、新しいアルバムを製作中というタイミングだった。「ドント・ウォーリー・ベイビー」は元々ブライアンがロネッツのために書いたナンバーでは?と杉原さんが話しを振ると「そのとおりだわ。あれは、元の夫が気に入らないってことでキャンセルになったの。代わりに録音したのが、出版権を持っていて、フィルがもっと金になると考えた<ベイビー・アイ・ラヴ・ユー>よ。私自身は昔から<ドント・・・>は大好きだし、いまも”マイ・ソング”だとおもっているわ」と答えている。
ロネッツの曲と言えば、フィル・スペクターの”ウォール・オブ・サウンド”が特徴。直接的にサウンドのことは聞いていないが、「<アイ・キャン・ヒア・ミュージック>といえばフィレス時代の最後のヒット曲ですが、このレコードだけはフィルではなくジェフ・バリーのプロデュースですね」「そう、ニューヨークで録音したんだけど、あのときはすごくショックだった。フィルとのLAでの録音のときはいつもすごく大勢のミュージシャンとやっていて、それが当たりまえだとおもっていた。ところが、ニューヨークのスタジオへ入ったら3人のセッションマンしかいなかったの。そのときよ、ロネッツはもうおしまいだとおもったのは。ハンドクラッピングも自分でやって、手が痛くなってしまったことも忘れられないわ」という会話から、フィル・スペクター・サウンドの録音の様子が少しうかがえる。
杉原さんの原稿によると、彼女にはブラック、スパニッシュ、ホワイト、そして日本人(祖父系)の血も混じっているそうだ。
2017年5月22日、23日に18年ぶりの来日公演が予定されていたが直前に中止となり、結果的にこの1999年が最後の来日となった。
元夫でロネッツのプロデューサーだったフィル・スペクターは2021年1月16日に81歳で亡くなり、彼女もそのほぼ1年後の2022年1月12日に78歳で亡くなってしまった。
ロネッツはリアルタイムで見ていないが、映像の彼女はとてもキュートで、紛うことなきスター。この頃の彼女を撮影したかったと思うが、自分は小学校にも上がっていない(笑)。
添付した写真で、彼女が手にしているバカ殿の人形は、彼女が街中で見つけて気に入って買ったものだそうだ。
YouTubeから「Be My Baby/ザ・ロネッツ」 「Be My Baby/ロニー・スペクター」 「I Can Hear Music/Ronnie Spector & Brian Wilson」
ロニー・スペクター 公式ウェブサイト
赤坂・キャピトル東急ホテル 1999年3月1日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1999年6月号
インタヴュアーは杉原志啓さん、通訳は丸山京子さん
#ロニースペクター
#RonnieSpector
#ヴェロニカイヴェットベネット
#VeronicaYvetteBennett
#ロネッツ
#TheRonettes
#アーカイブ
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◯大瀧詠一 山下達郎
雑誌『レコード・コレクターズ』は大鷹俊一さんの「レコード・コレクター紳士録」や、田中勝則さんと北中正和さんが交互に担当した「戦後ニッポンのポピュラー音楽」などの連載をはじめ、多くの撮影をさせてもらったが、一番最初の撮影は1992年3月号での大瀧詠一さんと山下達郎さんの対談だった。60年代にビーチボーイズと共に人気を博したアメリカのヴォーカル・グループ、ザ・フォー・シーズンズの特集で、彼らの魅力や自身が受けた影響などを語り合っている。
ちょっと長くなるが、お二人のフォー・シーズンズからの影響について引用させてもらう。
大瀧 いっぱいありますよ。高音、ファルセット出してると低音でサビ行くとかいうラインなんか死ぬほど使いましたね。フォー・シーズンズのサウンドをやろうと思ったのは『A Long Vacation』(81年)の「FANx4」。これはご存じビーチ・ボーイズの”Fun,Fun,Fun”よりもう一つFUNが多いというアイディアから作ったものですが(笑)、あれはフォー・シーズンズ・サウンドをそのまま。中の間奏は、誰にも言わなかったけどビリー&リリーの「ラッキー・レディーバッグ」っていう、フォー・シーズンズをやる前にボブ・クルーがプロデュースしてたグループの曲。そのホーンのサウンドを、間奏に使ったわけ。わかる人には当然わかるわけで、フォー・シーズンズじゃなくて、フォー・シーズンズ以前にプロデュースしてたグループのサウンドを使うことで、これはフォー・シーズンズへのトリビュートであるということを示した。彼らの社会的な背景うんぬんていうのは自分のバックグラウンドにはないんで、サウンド・オンリーという形にトリビュートはなってしまうんだけど。ただフォー・シーズンズに限らず、あるアーティストの曲をそのまま具体的にキリハリして曲にしたことは一度もない。部分的にある曲に似てても、根本的に別の曲を意識している場合が多い。
「FANx4」の曲全体に関しては、フォー・シーズンズでもヴィー・ジェイ時代のサウンド、自分がリアル・タイムで接したサウンドを意識しました。あえてヴィー・ジェイ・サウンドっていうことで取り上げられたことは、世界的にもなかったんじゃないかな。この曲の数年後にビリー・ジョエルが「アップタウン・ガール」という、詞も曲もヴィー・ジェイ時代のフォー・シーズンズ・サウンドを作ったのにはビックリしたけどね。
僕の場合、中3まではヴィー・ジェイ、高1からフィリップスの時代だから、ちょうどまっぷたつに分かれてる。
山下 僕の聞いてくれます?僕は大瀧さんほどひねらないから、単細胞だから(笑)。うちのカミさん(竹内まりやさん)の『Varety』っていうアルバムに「もう一度」って曲が入ってるんですけど、それは完璧にフォー・シーズンズ以外の何物でもないって感じです。僕はもともと専門がコーラスなんで、ヴォーカル・グループとしてはとにかくフォー・シーズンズが好きだったし、譜面死ぬほどコピーしましたからね。フォー・シーズンズ的なヴォイシングってあるんですよ。それをやってみたくてやってみたくてしょうがないんだけど、なかなか難しいものがあるから。シングルで出した「踊ろよ、フィッシュ」や「ラヴランド、アイランド」なんか、もともとはフォー・シーズンズみたいな曲を書きたいと思ってはじめたんだけど、最終的に裏声トップとかがなくなっちゃうから、もっとビーチ・ボーイズ的なアプローチになっちゃう。
けど、だいたい複合リズムで曲を作ろうと思う時は、半分ぐらいフォー・シーズンズを意識して作ってるな。なぜかっていうと、リード対コーラスの対比がフォー・シーズンズって一番おもしろいんですよ。フランキー・ヴァリの一番素晴らしいところは、声域がフルレンジなんですよね。裏声で歌うこともできるし、普通の声で歌うこともできる。それをうまく利用して、一番おもしろいところで最後に伝家の宝刀を抜くっていう、ヴォーカル・アレンジメントの手法ってものすごくイキイキしているんですよ。ビーチ・ボーイズだと、マイク・ラヴとブライアンの役割ははっきり分かれてるから。それはそれでおもしろいんだけどね。
そうこうしているうちに、うちのカミさんが「もう一度」をたまたま作ってきたんで、もうこれは行くしかないと。自分ではよくできたと思ってます。で、それのために1番カッコのメロディ変えてもらったりした。これ、もっとフォー・シーズンズっぽくしようって。
対談は10ページにわたって掲載されており、あらためて読み返すととても面白かった。この記事、何かの別冊や書籍で再掲載されれば良いのに。
大瀧詠一さんはこの後、1995年4月5日に『ミュージック・マガジン』の仕事でインタヴュー撮影をしている。場所はフォーシーズンズホテルだった(笑)。
山下達郎さんは仕事ではないが、2002年6月20日に中村とうようさんの「古希を祝う会」が明治記念館で開催された際、記録係として来賓としていらした達郎さんととうようさんの記念写真を撮っている。
YouTubeから「Sherry/The Four Seasons」 「FANx4/大瀧詠一」 「もう一度/竹内まりや」 「Uptown Girl /Billy Joel 」
大瀧詠一 ソニー公式ウェブサイト
山下達郎 公式ウェブサイト
東京FM 1991年12月22日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1992年3月号
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