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◯製作中の富山の祭りと芸能
◯製作中の富山の祭りと芸能歴史年表
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奄美・沖縄撮影リスト
wangan 水路の都市TOKYO2006~2009
戦後ニッポンのポピュラー音楽
◯毎月1日、15日 7時30分〜8時30分 交通安全運動 乗車
◯10月未定 防災フェス
◯10月6日(日) 17時頃〜 チカシ打ち合わせ
◯10月19日(土) 班長会議 19時〜 大滝集会場
◯11月4日(月) 大滝地区住民防災フェス 敬老会
◯11月13日(水)6時30分〜8時 資源ゴミ、不燃物仕分け
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◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
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まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】

村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
◯富山県 新型コロナウイルス感染症について 
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◯都内の最新感染動向 https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/
◯山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信 https://www.covid19-yamanaka.com/index.html
◯新型コロナウイルス感染速報 https://covid-2019.live/
◯ 福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
◯DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
◯HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
◯独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
◯小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
◯やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
◯辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
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10月31日(木)

 今日で10月も終わり。午前中は新しい自転車で小矢部の方へ。石動駅の裏の方にある台湾料理店・福来順でチャーシュー麺を食べたかったが、お店が開くのが11時で待ちきれず、駅前の立ち食いうどん「麺類食堂」で天ぷらうどん。石動駅の建て替えによりお店が新しくなって初めて入ったかもしれない。帰りにしまむらへ寄って、冬用の靴下を買ってきた。
 午後は赤丸の浅井神社の方までサイクリング。山裾の道はクマよけに時々自転車のベルをチーンチーンと鳴らして走った。携帯電話の万歩計は12,862歩

 ニューヨークで行われたドジャース対ヤンキースのワールドシリーズ第5戦は、7−6でドジャースが逆転勝ちし4勝1敗となり、大谷翔平と山本由伸が所属するドジャースが優勝し頂点に立った。

 東京電力元会長の勝俣恒久氏が今月21日に死去したそうだ。84歳だった。東電旧経営陣に総額22兆円の損害賠償を求める株主代表訴訟では、津波対策を怠ったとして、東京地裁が22年に勝俣氏ら4人に13兆円余りの賠償を命じている。

 今日で首里城火災から5年が経った。

笛木優子

◯笛木優子

 2001年から、韓国でユミンの名で女優として活動していたこともある笛木優子さん。wikiによると1998年に原宿のラフォーレ前でスカウトされ、東京パフォーマンスドールの研修生として在籍。2000年に『天気予報の恋人』(フジテレビ)でドラマに初出演し、2001年に『ホタル』で映画デビュー。同じ年の『新・雪国』で主役に抜擢された。
 2001年からは韓国に移住、女優としてテレビ、映画に出演し芸能活動を行っていた。2006年に日本に戻り、オスカープロモーションに所属して芸能活動を再開。
 笛木さんは健康雑誌の仕事で2回撮影している。最初は彼女が日本に戻りオスカーに所属した翌年、2007年の3月。掲載誌が見つからなくて取材のテーマはわからないが、お茶の特集だった気がする。表参道のオスカーでインタヴュー中の顔写真を撮っている。
 2回めは同じ健康雑誌の連載「NOPETNOLIFEペットと私」に、愛犬と一緒に出ていただいた。井の頭恩賜公園で待ち合わせて、桜吹雪が舞う中で撮影した。
 2018年に結婚されて、現在は男の子のお母さんだ。

 韓流ドラマは全然観ないが、ユンソナやチェ・ジウと同じ雰囲気の顔立ちかなと思う。韓国でも人気があるのはとても頷ける。

YouTubeから「黄桜どん 呑CM「化粧妻」編/笛木優子」 「味の素 クノール北海道ポタージュ CM/笛木優子」 「ゆるマッコリCM/笛木優子

笛木優子Instagram

表参道・オスカープロモーション 2007年3月12日撮影
武蔵野市・井の頭恩賜公園 2009年4月9日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2007年7月号
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2009年7月号
#笛木優子
#YukoFueki
#ユミン
#Yumin
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ

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来栖あつこ

◯来栖あつこ

 茨城県出身のタレント、グラビアアイドル。1996年に『激走戦隊カーレンジャー』の八神洋子(ピンクレーサー)役でデビューし、1998年から5代目ポリスとして『出動!ミニスカポリス』に出演した。
 2003年に、いばらき大使に任命されるが、2004年に一時期芸能活動を休業。2006年に復帰したそうだ。
 彼女を撮影したのは健康雑誌の「NOPETNOLIFE ペットと私」という連載で、桃次郎とネネという2匹のロシアンブルーと一緒に登場していただいた。取材場所は彼女が所属している芸能事務所ベリーベリープロダクションで、現在は西麻布にあるようだが、当時は東中野にあり、そこのスタジオで撮影した。アイドルユニットも多数抱えているようで、小さな女の子たちが熱心にレッスンしていた記憶がある。
 2017年に結婚。タレント活動と並行して、2023年に自身が代表を務める結婚相談所『W(ダブル)』を開設したそうだ。その動機、経緯を本人がYouTubeで語っている

YouTubeから「来栖あつこ 特撮ヒロイン集44」
https://www.youtube.com/watch?v=mp4KQ5MYkng

「1998年頃のミニスカポリス2」
https://www.youtube.com/watch?v=O3hqlrBt1rU

来栖あつこInstagram
https://www.instagram.com/atsukokurusu/

結婚相談所『W』
https://vv2wedding.com

東中野・ベリーベリープロダクション
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2009年12月号
#来栖あつこ
#AtsukoKurusu
#NOPETNOLIFEペットと私
#ミニスカポリス
#アーカイブ

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10月29日(火)

 日曜日に投開票された衆議院選挙で自民党は56議席、公明党は8議席減らして与党の自公連立政権が過半数割れとなった。公明党は党首となったばかりの石井啓一代表も落選し、辞任となる見込みだ。自民党も小里泰弘・農水大臣、牧原秀樹・法務大臣の現職閣僚が2人落選したが、裏金問題に関わった46人の内、18人も当選してしまった。安倍派5人衆に至っては落選したのは高木毅氏のみだ。
 注目の東京24区は裏金議員で壺議員の萩生田光一氏が79,216票を獲得し、立憲民主から出馬した有田芳生氏の71,683票を僅差で上回り当選してしまった。有田氏は比例で復活したが、野党が共闘できていれば小選挙区で勝利して萩生田氏を落選させることができただろう。
  個人的に注目していた富山1区は、裏金議員の田畑裕明氏が、立憲民主党から出馬した山登志浩氏の45,179票を僅か738票上回るだけの45,917票で当選してしまった。富山1区は白票などの無効票が前回の2.9倍となる5,499票もあり、小選挙区制導入後の1996年以降で最多だったそうだ。白票は批判票にはならないし、杉村太蔵氏がテレビ番組で「あなたの一票では変わらない」と発言して批判を浴びたが、738票までの僅差に迫った結果を見れば彼にも一票の重みが分かるはずだ。
 連合の芳野友子会長 が記者会見で「共産党と共闘しなくても勝てることが明らかになった」と述べたそうだが、富山1区にしても共産党と上手く共闘できていれば自民党から議席を奪えたはずだ。山登志浩氏は比例で復活できたが、小選挙区で自民党の議席を奪って欲しかった。
 立憲民主党は”政治と金”の問題を追求して衆議院選を戦って票を伸ばしたが、自民党の裏金問題をスクープしたのは共産党の機関紙『しんぶん赤旗』だ。選挙終盤での非公認候補に2000万円の振り込みをスクープしたのも『しんぶん赤旗』。政治家のスキャンダル追及が『文春』と『しんぶん赤旗』 頼みというのが日本のマスコミの情けない現状だ。
 自民党は”政治と金”だけではなく経済や安全保障など重要な論点は他にもあるというが、政治と金をウヤムヤにしたまま経済も安全保障も議論できるわけがない。今のような企業団体献金を続ければ経団連のような大企業に有利な政策が続けられ、中小企業や個人は疲弊するばかりだ。また、軍需産業が潤うための防衛政策も続くだろう。
 与党が過半数割れしたからといって、すぐに政治が大きく変わるとも思えないが、第2次安倍政権から続いてきた”決められる政治”という名の国会論議を無視した法案通過はできなくなった。 来年行われる参議院選挙で与野党が逆転しねじれ国会となれば、今よりは議論の場としての国会が機能するだろう。法案が通るまで時間はかかるだろうが、民主主義とはそういうものだ。
 自民党の裏金問題は終わったわけではない。裏金問題に関わった46人中18人が当選したが、例えば富山1区の田畑裕明氏に対しては富山県内の弁護士らが政治資金規正法違反などの疑いがあるとして富山地検に刑事告発している。他の裏金議員に対しても 神戸学院大の上脇博之教授が告発状を出している
 今回の衆議院選挙で旧安倍派は3分の1の20人になったという。モリ・カケ・サクラの闇の部分もこれで少しは解明できるようになればいい。旧安倍派で選挙期間中に安倍昭恵氏が応援に駆けつけた丸川珠代氏も落選した。維新の会の音喜多駿氏も落選。2人とも参議院選で議員に復活などしないで欲しいし、テレビは彼らをコメンテーターなどとして重宝しないで欲しい。
 今度の衆議院選で落選すれば政治家を辞めると言っていた沖縄の下地幹郎氏は、政界を引退することになった。良かった。

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ニルヴァーナ

◯ニルヴァーナ

 カートが亡くなる前年にリリースされた「All Apologies」はいつ聴いても切なくなり、美しい曲だなと思う。

あんたたちみたいだったらよかったのに
なんでも楽しめる人間だったら
ヘロインの隠し場所をさがす
すべて俺の過ち
どんな責めでもうけるよ
海の泡のような恥辱
冷蔵庫で日焼けをし
敵の遺灰にのどを詰まらせる
陽光の中で
俺はひとつになる
陽光の中で
俺は結婚し 埋葬される
俺たちはみんな かけがえのない存在
俺たちはみんな 何にも勝るかけがえのない存在

 アメリカのロック・バンド、ニルヴァーナの音楽に魅かれたのはカート・コバーンが亡くなってからだった。1996年に発売されたライブのコンピレーションアルバム『From the Muddy Banks of the Wishkah』を聴いてからで、この後から『ネヴァーマインド』『イン・ユーテロ』といったオリジナル・アルバムを遡って聴いた。

 1992年2月19日、最初で最後となったニルヴァーナの来日コンサートを中野サンプラザで撮影しているが、当時はニルヴァーナの存在も知らなかった。暗い照明の中、ボーカルのカート・コバーンがステージの上で揺れていたのを覚えている。撮影できるのは頭の3曲までで、ちゃんと写っているか心配で撮影を終えたら急いで現像所にフィルムを持って行った。今思えば早く現像所に出しても遅く出しても結果は同じなので、ライブの主催者側にお願いして撮影の後もステージを見せてもらえばよかった。いくらか席も空いていたように思う。
 掲載誌は『ミュージック・マガジン』1992年4月号で、コンサート評を行川和彦さんが書いている。
<最初のギターの一音、これだけで震えた。それからも震えまくった。タテノリ?ヨコノリ?いや、こいつらはナナメノリだ。普通の洋楽ファンとおぼしき大半の観客が、ハイ・テンションのプレイに唖然として立ちすくんでいた一方で、俺は上半身をくねらさずにはいられない。とにかく燃えた。興奮した>と、その衝撃をストレートに綴っている。
 来日から2年後の1994年4月、カート・コバーンの突然の自死によってニルヴァーナは解散してしまう。
 wikiによれば、ニルヴァーナは活動した3年間で全世界で7,500万枚以上のレコードを売り上げ、アメリカン・ミュージック・アワード、ブリット・アワード、グラミー賞を受賞、2014年にはロックの殿堂入りを果たしている。
 ドラムのデイヴ・グロールはニルヴァーナ解散後、フー・ファイターズを結成しボーカルとギターを務めている。ベースのクリス・ノヴォセリックはスウィート75、アイズ・アドリフト、フリッパーというバンドを経て、2010年にはフー・ファイターズのアルバムのレコーディングにゲスト参加し、デイヴと共演したりもしているようだ。
 YouTubeに2月19日中野サンプラザの音源「Nakano Sunplaza,Tokyo,Japan02/19/92」がUPされていた。映像はネットや雑誌などから持って来たと思しき写真が流れるが、その中に『ニルヴァーナ、ネヴァー・フェイド・アウェイ カート・コバーン・ストーリー/デイヴ・トンプソン著・小山景子訳』(水声社)という、自分が撮影したライヴ写真が表紙や裏表紙、カバーの内側に使用されている本の写真も流れて来て驚いた。

YouTubeから「Nirvana - Nakano Sunplaza, Tokyo, Japan 02/19/92」 「All Apologies (Live at Reading 1992)/Nirvana

ニルヴァーナ 公式ウェブサイト

東京・中野サンプラザ 1992年2月19日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1992年4月号
コンサート評は行川和彦さん
『ニルヴァーナ、ネヴァー・フェイド・アウェイ カート・コバーン・ストーリー/デイヴ・トンプソン著・小山景子訳』(水声社)
#ニルヴァーナ
#Nirvana
#カートコバーン
#KurtCobain
#クリスノヴォセリック
#KristNovoselic
#デイヴグロール
#DaveGrohl
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尾崎豊

◯尾崎豊

 2019年2月、尾崎豊の遺品である愛用のピアノが富山市民芸術創造センターに寄贈され、1階ロビーに展示されている。
 飛鳥新社から『尾崎豊MEMORIAL PHOTOBOOK』が発売された時、彼の遺品をたくさん撮影した。ピアノはなかったが、愛用のギターや衣装、彼が子どもの頃に描いた絵やノートの走り書きなどの複写もした。
 この写真集は彼が亡くなって3年半くらい後に作られた本で、飛鳥新社が発行していた雑誌『ポップティーン』で過去に撮影したポートレートやコンサートの写真などに、彼のお父さんから預かった遺品を新たに撮影して構成されている。
 ポートレートと1988年の東京ドームのコンサートは川本満雄さん、1987年有明コロシアムのコンサートと遺品の写真がボクの撮影だ。
 尾崎豊の音楽については、撮影した頃もそれほど興味がなくてアルバム一枚持っていなかった。
 有明コロシアムの写真はポップティーンだけではなく、他の雑誌でも使用され、『尾崎豊MEMORIAL PHOTOBOOK』に入れられた。その時に、なんだか申し訳なくて『YUTAKA OZAKI TEENBEAT BOX』というCD4枚組のボックスセットを購入した。

 端正な歌い方をする人だと思ったが、彼の作る曲にシンパシーを抱くには自分が年を取り過ぎていたし、あまりに直球な言葉が眩しかった。
 1992年に26歳で亡くなった。もう彼が生きていた時間より、亡くなってからの時間の方が長くなった。今彼が生きていたら、どんなミュージシャンになっていただろう。佐野元春や浜田省吾の存在が頭を過るが、また違った音楽をやっていただろうか。それとも違う表現手段を手に入れていただろうか。 
 『尾崎豊MEMORIAL PHOTOBOOK』にはもう一つ目玉があって、渡航先のホテルの部屋で彼が一人ラジカセに吹き込んだ独白を収録したCDが付いている。CDは表紙の中に密封されているが、取り出して聞いたことはない。これから先もないような気がする。

YouTubeから「シェリー(有明コロシアム)/尾崎豊」 「卒業(有明コロシアム)/尾崎豊

尾崎豊 公式ウェブサイト

有明コロシアム 1987年8月29日撮影
初出『ポップテーン』(飛鳥新社)1987年11月号
  『尾崎豊MEMORIAL PHOTO BOOK』(飛鳥新社)
#尾崎豊
#YutakaOzaki
#有明コロシアム
#アーカイブ

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10月27日(日)

 今日は朝8時から9時まで、集落の一斉ゴミ拾いと草刈り。班長なのでゴミ袋を配布し、参加者の出席簿をつける。ゴミ拾いといってもあまり落ちていないので、もっぱら家の周りの雑草を取ることになる。
 ゴミ拾いの後、サンデーモーニングの後半をテレビで観てから投票へ。高岡市は富山県知事選と県議補選、衆議院選挙のトリプル選挙だった。会場へ行くと監視員と投票箱の数がいつもより随分と多かった。
 晩ご飯を食べて、8時の開票少し前から始まったテレビの選挙速報をザッピングしながら10時頃まで観ていた。明日の朝には結果が出ているだろう。
 朝日新聞の開票速報。東京新聞の開票速報。毎日新聞の開票速報。NHKの開票速報

◯渋さ知らズ

 初めて渋さ知らズオーケストラを撮影したのは、2002年夏の寿町フリーコンサートだった。この日が渋さ知らズの初体験で、「本田工務店のテーマ」を聴いて鳥肌がたった。音楽を聴いて鳥肌がたった経験は覚えている限りでは「本田工務店のテーマ」と、奄美大島・佐仁集落の「八月踊り」だけだ。どちらにも共通する、反復し増幅し混沌としながら疾走して行く感じにやられてしまうのだろう。
 寿町フリーコンサートは、古くからの友人の金尾義郎くんが出演するというので見に行ったのが始まりで、たぶん1999年からだと思う。横浜にある寿町は、東京の山谷、大阪の西成と並ぶ3大ドヤ街で、フリーコンサートはドヤ街の中にある寿町総合労働福祉会館前(現在は横浜市寿町健康福祉交流センターに建て替えられたようだ)の広場で開催されていた。寿町の夏祭りのイヴェントとして開催されており、ドヤに住む人たちのためのお祭り。基本的に撮影は禁止だが、友人が出演するので撮影許可のパスが出た。ちなみに、渋さ知らズの写真は出演者の控え室が用意された向かいのビルから撮影している。
 生の渋さ知らズは、もう一回、2007年10月28日に一橋大学兼松講堂で開催された『国立POWER JAZZ 2007』というイヴェントで見た。このコンサートは14時半から20時までの長丁場で、3部構成のステージだった。渋さ知らズがトリで、サウンドチェックからいつの間にか演奏が始まっていた。少し遅れてきたメンバーが曲の途中に楽器ケースを抱えてステージへ上がり、普通に演奏に加わっていた。それまでジッと椅子に座っていたお客さんが渋さ知らズになると立ち上がり、「本田工務店のテーマ」が始まるとステージの下に走り出して踊り狂っていた。この曲を聴くと”祝祭”という言葉が浮かんでくる。聴く者に、感情を揺さぶる何かを与えるのだろう。
 2018年11月にテナーサックスの片山広明さんが亡くなった時、片山さんへの葬送曲だと思い、いろんなコンサートでの「本田工務店のテーマ」をYouTubeで探して聴いていた。10分前後の長い曲だが、繰り返し聴いても飽きることがなかった。
 寿町フリーコンサートはコロナ禍で中止されていた期間もあるようだが、今年も開催され、渋さ知らズも出演したようだ。

寿町フリーコンサート 公式ウェブサイト
https://kotobukifree.jimdofree.com

YouTubeから「渋さ知らずオーケストラ - 本多工務店のテーマ @ KAIKOO POPWAVE FESTIVAL'10」 「渋さ知らズ - 本多工務店のテーマ @ 世界同時多発フェスティバルFUKUSHIMA!」 「渋さ知らズオーケストラ / 本多工務店のテーマ ~ ひこーき with 向井秀徳(ZAZEN BOYS) @ SYNCHRONICITY'21 Autumn Live

渋さ知らズ 公式ウェブサイト

横浜・寿町 2002年8月12日撮影
#渋さ知らズオーケストラ
#Shibusashirazu
#不破大輔
#DaisukeFuwa
#片山広明
#HiroakiKatayama
#寿町フリーコンサート
#アーカイブ

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渋さ知らズ

◯ニューエスト・モデル

 大阪のロックバンド、レモン・スクイーザーのギタリストだった中川敬が、自ら歌うバンドとして1985年に結成。初期はレモン・スクイーザーを一緒にやっていたドラムのBENと、ベースの高木基弘のトリオ。
 彼らを撮影したのはキングレコードからアルバム『ソウル・サバイバー』をリリースした翌年で、掲載誌は『ミュージック・マガジン』、インタヴュアーは田口史人さん。ちなみに担当編集者は、加藤彰さんだった。シングル「雑種天国」がリリースされた後で、記事のタイトルは「ニューエスト・モデル ようこそ”雑種天国”へ」となっている。彼らのメジャーデビューとなった『ソウル・サバイバー』というアルバムについて”音楽の異種交配”という言葉が記事の中で用いられている。中川敬はそれを「昔からおもろい音楽は皆ゴッタ煮や」と痛快に言い切っている。
「ジェファソン・エアプレインでもジャムでも何でもええけど、聞いたもんが出てくるわけやん?音楽好きやからね。聞きたい。どんどん。レコード屋とか、よう行くしね。なんかおもろそうなジャケットあると買うてまう。買うて、その時よく聞いた音楽って5年後とかに出てくる。不思議なことに。(意識的に)取り上げようと思うもんもあるけど、(自然と)出てくる。リズムなり、ムードなり。永遠にそれは、やり方は変わらへん。10年経っても20年経っても。相変わらず”今度のアルバムは方向性が変わったんですか”って延々言われるやろうけどね。そういうのはないねん。そういうこと、永遠にやっていくねん。それを端から見ると”ニューエスト・モデル成長したな”って。この時期に言葉の使い方が変わった、この時期にメロディ・ラインが変わったっていうのは、端から見るとあるんやろうけど、出す方としては変わらん。それは」
 ニューエスト・モデルは1993年まで活動し、解散後は1988年に自主レーベル「ソウル・フラワー・レコード」を共同設立したメスカリン・ドライブと共にミクスチャー・ロックバンド、ソウル・フラワー・ユニオンへと発展する。

YouTubeから「ソウルサバイバーの逆襲/NEWEST MODEL」 「雑種天国/NEWEST MODEL

ソウル・フラワー・ユニオン 公式ウェブサイト

音羽・キングレコード 1990年3月27日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1990年6月号
#ニューエストモデル
#NewestModel
#中川敬
#TakashiNakagawa
#奥野真哉
#ShinyaOkuno
#鈴木友之
#TomoyukiSuzuki
#田中BEN勉
#BEN
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ニューエスト・モデル

10月25日(金)

 21日に大腸がん検診用に提出した検便の検査結果が郵送されてきた。結果は陰性で、精密検査の必要はないと思われますと書かれていた。
防犯登録シール

 近所の自転車屋さんで防犯登録してもらえなかったので、昨日の午後、自転車を漕いで富山県自転車商業協同組合で紹介された高岡駅南にあるショップへ。久々のサイクリングで1時間ほどかかった。事前に電話で問い合わせてあったので、スムーズに登録できた。帰りは近くにある前田利長公墓所と瑞龍寺に寄って帰ってきた。利長公墓所にある巨大なおばけ灯篭は、元旦の地震で崩れたようでバラバラにブルーシートがかけられていた。

←貼ってもらった防犯登録シール。

 自民党が派閥裏金事件を受けて衆院選で非公認となった候補側に対し、2000万円を提供したことが判明した。森山幹事長は非公認候補が代表を務める政党支部への支出について「候補者に支給したものでは無い。組織として党勢拡大してもらいたいとの趣旨だ」と釈明したが、実質的に非公認候補への支給だろう。2000万円という額は公認候補に配ったお金と同額とされている。自民党は通常、政党支部に年4回、政党交付金を支給しているそうだが、いったい各政党支部にどれだけのお金が渡っているのだろうか。
 派閥裏金事件を受けて非公認となっている萩生田光一氏にも自身が代表を務める党支部に2000万円が支払われていたそうだが、「誤解を招く可能性があると判断し」返金したそうだ。他の非公認となった候補者はどうするのだろうか。自民党は非公認候補に配った2000万円は、自身の選挙運動に使うことはできないと説明しているというが、是非、衆院選の後に2000万円の使い道を領収書を添付の上、国民に明らかにしてもらいたい。政党交付金の原資は国民の税金だ。

 両親が現役信者で、30代の元信者の方が作成した<統一決別 解散総選挙国会議員データベース>が今月14日から公開されている。自分の選挙区から出ている候補に壺議員がいないかチェックできる。富山では1区の田畑裕明氏が裏金議員で壺議員、無所属で出馬した吉田豊史氏も教団関連イベントに出席したとある。画面の地図をクリックすると表示されるので、投票にご活用ください。

 この他の気になった記事を備忘録として。
新型コロナ死者、年間3万2576人 5類移行後、インフルの15倍
水漏れ原因はゴム経年劣化 日本原燃のウラン濃縮工

梅宮アンナ

◯梅宮アンナ

 今年の8月、乳がんに罹患したことを公表したモデルでタレントの梅宮アンナさんが、今月20日、富山市内のエステサロンなどが<乳がん啓発月間>にあわせて企画したトークショーに出演し、自身の闘病生活について語ったそうだ。地元のテレビ局、チューリップテレビが一昨日の夕方のニュースで、その様子と単独インタヴューを放送した。
  梅宮アンナさんは健康雑誌の連載「NOPETNOLIFEペットと私」で、2009年に撮影している。アンナさんのペットは「ノア」と「ライ」という2匹のウサギだった。恵比寿駅から歩いて10分ほどの、担当編集者が探してきた動物の持ち込みOKのハウス・スタジオで撮影。
 すっぴんでスタジオに現れ、自分でササッとメイクを済ませたのが印象に残っている。スケジュール帳を見るとスタジオはインタヴューと撮影を合わせて10時から13時までの3時間押さえてあったようだが、かなり早く取材が終わった記憶がある。
 1匹を肩に乗せ、もう1匹の鼻を指で撫でてる写真が、一時彼女のホームページに掲載されていた。

 本人の公式ウェブサイトにあるプロフィールからそのまま引用すると、
<JJの看板モデルとして活躍。CLASSY、VERYなどの人気女性誌のカバー、専属モデルとしてカリスマ的な人気を博す。その後も、TV、ドラマ、CM、イベント、洋服のプロデュースなど幅広く活躍。父は俳優の梅宮辰夫。母は元モデルでアメリカ人の梅宮クラウディア。ハーフモデルとしてのまさに先駆者である。2002年に女児を出産。ママタレントとしても活躍中。エジプト サハラ砂漠を250km走るマラソンのサハラレースに2010年に出場。7日間かけて食料と寝袋を背負って砂漠を走るレースに出場し人生感を変える挑戦となった。現在もトレイルランの大会にも多数出場している>

YouTubeから「KOSE サロンスタイル/梅宮アンナ」 「CM Peach John/梅宮アンナ

梅宮アンナ 公式ウェブサイト

梅宮アンナInstagram

恵比寿・S-Studio 2009年9月29日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2010年1月号
#梅宮アンナ
#AnnaUmemiya
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ

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藤崎奈々子

◯藤崎奈々子

 北海道札幌生まれのタレント、グラビア・アイドル。短大在学中にデビューし、マツモトキヨシのCMで注目を集め、その後、多数のCMやテレビ番組に出演。1997年にはフジテレビのビジュアルクイーン・オブ・ザ・イヤーに選ばれている。
 撮影したのは16年も前なので、まだ彼女が30歳くらいの時だろうか。健康雑誌の連載「NOPETNOLIFEペットと私」の仕事だった。場所は、彼女の事務所から指定された都内のイタリアン・レストラン。マネージャーもヘアメイクも居たか忘れるほど、シンプルな撮影だった気がする。
 お店には広いテラス席があって、ペットのワンちゃん2匹と一緒に自然光で撮影している。
 この頃、水道橋に「醤油ラーメンなら藤崎奈々子」という店名のラーメン屋があって、撮影帰りに一度だけ食べたことがある。京都には「藤崎奈々子は豚骨ラーメン」というお店も出していた。彼女がオーナーだったのか、名前を貸していただけなのかわからないが、1年ほどですべて閉店したようだ。
 10年の交際期間を経て、2019年5月に結婚されたようだ。

YouTubeから「マツモトキヨシCM/藤崎奈々子」 「東京LOVE/黒田幕太郎(内村光良)、愛田人子(藤崎奈々子)

藤崎奈々子 オフィシャルブログ

藤崎奈々子Instagram

白金台・ペル レガーロ 2008年11月7日
初出『ゆほびか』2009年2月号
#藤崎奈々子
#NanakoFujisaki
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ

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10月23日(水)

 生温い南風が吹いて気温が上昇。八尾や秋ヶ島、上市、南砺高宮では最高気温が30を超える真夏日になったようだ。

 辺野古の新基地建設に抗議する側が日当を貰っているというデマを漫画「社外取締役 島耕作」の中で描いた弘兼憲史さんが、防衛省の広報アドバイザーに就任していたことがわかった。抗議する側がお金を貰っていたのではなく、貰っているとデマを描いた弘兼憲史さんが防衛省からお金を貰っていたという凄いオチがついた。単行本掲載時に内容を修正するなんていう次元ではなく、雑誌を回収し、休刊しなければいけない案件では。

 今日で中越地震から20年が経った。この日は中村とうようさんのご自宅で『中村とうようの収集百珍』の撮影をしていた。当時の撮影メモが古い外付けハードディスクに残っていた。

10月23日(土)

12時に浅野さん、矢川さんと待ち合わせ。ウェンディーズでハンバーガーを食べて、軽く打ち合わせをして1時にとうようさん宅へ。とうようさんからTシャツをいただく。ありがとうございます。今日は琵琶、チャランゴ、クロンチョン・ギター、マンドリン、木製のフルート、カナガ面、親指ピアノ、象さんの椅子、プヌ・マスクを撮影。親指ピアノは数が多いので単品で5カット、2〜6個の集合写真を4カット。今日はここまで。予定より早く5時30分。撮影機材を片付けていると強い揺れが。地震。6時頃に片付けが終わり、とうようさんと明日の撮影の打ち合わせ。6時30分頃、とうようさん宅を出て煙草を1本。家に帰る途中、駅前の本屋さんでDAYS JAPANの11月号を購入。家に帰ってテレビで新潟の地震の被害を知る。

中村とうようの収集百珍

 民放各局や新聞各社が独自の選挙情勢を発表している。日本維新の会が議席を減らすのは喜ばしいことだが、国民民主党が議席を伸ばしては意味がない。国民民主党が自民党への批判票の受け皿だと思うのは大間違い。党首自ら「自民のアクセル役になりたい」という党だから。今回の衆院選で自公政権が過半数割れすれば、自民・公明・国民の連立も十分考えられる。自民党への一番確かな批判票は共産党。

 この他の気になった記事を備忘録として。
自民、非公認議員に政党助成金2000万円を支給 「支部の活動費」
「ジュリ馬行列」神奈川で30余年ぶり 議論重ね、復活 川崎市の東海道宿場まつり

ラシッド・タハ

◯ラシッド・タハ

 ラシッド・タハを撮影したのは2001年10月2日で、アメリカ・イギリスの有志連合がアフガニスタンへの空爆を始める直前だった。インタヴュアーの松山晋也さんがデビュー時から政治的、社会的問題に積極的にコミットしてきた彼に、アメリカのアフガン侵攻について尋ねると、
「あらゆる戦争は無益であり、誰も望んでないと思う。暴力の犠牲になるのは常に一般人だし。アメリカ政府は自国民に対して正直に真相を語らねばならない。なぜこういうことが起こってしまたのかと。完全には知らされてないんだと思うよ。ちゃんと知らされていたら、国民の反応もまたちょっと違うんじゃないかな。これは、西洋社会全体に責任があると思う。ビン・ラーディンという人間も、アメリカの対外政策が生み出したようなものだし。アフガンの人々は20年間も苦しんできた。最近暗殺された北部同盟のマスード司令官によるアフガン救済の要請に西洋社会がもっと積極的に応えてくれていたら、もっと違った結果になっていたはずだ」と自分の意見を述べている。

 タハは1958年アルジェリアのオラン生まれで、10歳の時に家族とともにフランスに移住。南仏のリヨンで働いている時に、工員仲間たちとロック・バンド、カルト・ド・セジュール(滞在許可証の意味)を結成し、解散する89年までに3枚のアルバムをリリース。解散後はソロ歌手として活動を始めた。
 1998年にはパリのベルシー劇場にてライの王様、シェブ・ハレドや、フォーデルと合同で一大ライ・コンサート「アン・ドゥ・トロワ・ソレイユ」を開催し1万6000人を動員した。このコンサートの模様を収めたライヴ・アルバムは60万枚以上売れたそうだ。
 残念ながら2018年9月12日、就寝中に心臓麻痺で死去。59歳だった。
 1991年から2013年まで映画のサウンドトラックを含め、10枚のスタジオ・アルバムを残している。

YouTubeから「Ya Rayah/Rachid Taha 」 「Abdel Kader Rachid Taha, Khaled, Faudel with Japanese translation

ラシッド・タハ 公式ウェブサイト

池尻大橋・ユニバーサル 2001年10月2日撮影
初出『ミュージック・マガジン』2001年12月号
インタヴュアーは松山晋也さん
#ラシッドタハ
#RachidTaha
#アーカイブ

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マイケル・フランティ

◯マイケル・フランティ

 マイケル・フランティについて、レコード会社のBIOGRAPHYからそのまま引用すると、こうなる。
<現代の吟遊詩人、魂のシンガー・ソングライター。1966年米オークランド生まれ。ボブ・マーリー、マーヴィン・ゲイ、カーティス・メイフィールドに影響を受け、学生の頃より音楽活動を開始する。91年からはディスポーザブル・ヒーローズというバンドを結成し活動。その政治・社会的メッセージにあふれたサウンドが注目されて、U2のツアーのオープニングに抜擢された。94年からは、現在のマイケル・フランティ&スピアヘッドを結成。レゲエ、ヒップホップ、ファンクといったブラック・ミュージックの要素にロックやブルース、フォークなどを織り交ぜ、さらにマイケルが発する社会や政治に対する真摯なメッセージを注ぎ込んだ魂のサウンドは、アルバムやライヴなどを通じてジワジワと世界的に認知される。日本においても、フジロックや朝霧JAMといったフェスに出演、また単独公演も多数敢行。今やレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンなどと並ぶ、レベル・ミュージックの伝道者として世界的人気を獲得している>

 マイケル・フランティを撮影したのはディスポーザブル・ヒーローズ・オブ・ヒホプリシーを解散し、スピアヘッド名義のアルバム『ホーム』をリリースしたばかりの頃で、アルバムのプロモーションのために来日していた。インタヴュアーは当時の『ミュージック・マガジン』編集長・高橋道彦さんだった。雑誌は編集長の好みや個性が反映するので、道彦さんの時代はブラック・ミュージック、ヒップ・ホップの記事が多かったように思う。このマイケル・フランティのインタヴュー記事も、「ヒップ・ホップはどこに行く?」という24ページの大特集の中の一部として掲載されている。
 インタヴューには『ホーム』に参加していたボーカルのメアリー・ハリスも同席していた。YouTubeで彼女がSpearheadのレコーディングで歌っている映像を見つけたので下にリンクしておきます。2人の髪型からすると、掲載した写真と同時期のものだろう。

YouTubeから「People In Tha Middle (Live on 2 Meter Sessions)/Michael Franti & Spearhead」 「the - Television, The Drug Of The Nation/Disposable Heroes Of Hiphoprisy

マイケル・フランティ 公式ウェブサイト

マイケル・フランティ YouTubeチャンネル

赤坂・東芝EMI 1994年10月24日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年12月号
インタヴュアーは高橋道彦さん
#マイケルフランティ
#MichaelFranti
#メアリーハリス
#MaryHarris
#ディスポーザブルヒーローズオブヒホプリシー
#DisposableHeroesofHiphoprisy
#スペアヘッド
#Spearhead
#アーカイブ

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10月21日(月)

 午前中、大腸がん検査用の検便を病院に提出。そのついでに、先週通販で購入したマウンテンバイクの防犯登録をしてもらいに近くの自転車屋さんへ。ところが自分の店で購入した自転車は防犯登録の手続きをするが、防犯登録だけはやっていないと断られる。まあ、気持ちは分かるが、防犯登録ってそういうものではないのでは?防犯登録を義務化にして登録するよう呼びかけているのは富山県自転車防犯登録協会で、あなたのお店も高岡支部としてホームページに掲載されている。しょうがないので家に帰り富山県自転車商業協同組合に電話して、どうすればよいか聞いたところ高岡駅南に理事長の経営するバイシクルランドM-2というお店があるので、そちらで登録して下さいという。自転車で往復2時間。いつ行けるかわからないが、他に方法がない。登録の抹消は近くの警察署や交番で行うらしいので、登録も交番でできるようにしたらどうだろうか。
自転車用ヘルメット
 マウンテンバイクやワンショルダー・バッグと一緒にアマゾンで注文していた、自転車用のヘルメットがようやく今日届いた。値段は税込850円で、過去一ヶ月で700個以上売れているようだ。強度がちょっと心配になるくらい軽い。
  まあ、かぶるのは長時間真剣に走る時くらいだろうか。

 講談社の漫画雑誌『モーニング』に掲載されている「社外取締役 島耕作」に、名護市辺野古の新基地建設に抗議する側が日当をもらっていると表現するシーンが描かれ、SNSでは「根拠を示すべき」「デマだ」などと指摘するコメントとともに拡散された。正直、今だにこんな事を信じている人がいることに驚くとともに、メジャーな漫画誌に検証もせず載せた作者・弘兼憲史氏と担当編集者の見識を疑う。
 日当に関する話は、元々は沖縄の保守系活動家・ボギーてどこん氏がたまたま2万と書かれた茶封筒を普天間飛行場の周辺で拾ったという話にすぎず、それがどう基地建設反対運動の日当と結びつくかも説明されていない。以前、TOKYO MX『ニュース女子』が同じようにこうしたデマを撒き散らした。その時のことをノンフィクション作家・安田浩一氏がウエブマガジンで書いている
 沖縄に滞在した2年間でオスプレイ配備反対のデモを始め多くの抗議行動の現場に足を運び、辺野古にも2回うかがったが当たり前だが日当など見たことも耳にしたこともない。沖縄平和運動センターの山城博治さんが琉球新報の取材に「工事が始まってもう10年。もし日当をもらっていたら今ごろ豪邸が建っている。県民愚弄(ぐろう)もはなはだしい。作者に抗議したい」と話している。 
 この日当問題の波紋が広がり、今日になって、モーニング編集部と作者が連名で声明を発表し、「確認の取れていない伝聞」で掲載したとしてお詫びし、単行本掲載時に内容を修正するとした。こちら
 講談社は以前にも事実誤認のまま記事を書き、結果、雑誌が休刊となったことがある。『デイズ・ジャパン』1989年11月号の特集「講演天国日本の大金持ち文化人30人」の中で、アグネス・チャンさんの講演料について彼女の事務所が「通常、約2時間の講演で、都内であれば80万円、地方で1日拘束になる場合は100万円」という回答をしたにも関わらず、業界通といわれる人たちからの誤った情報を信じて「子育てアグネス200万円」として掲載した。この時は翌月の12月号で2ページにわたるおわびを掲載したが、その翌月1989年1月号で急遽休刊となった。
 今回の「社外取締役 島耕作」の事案は、『デイズ・ジャパン』の事実誤認と同じか、それ以上に罪が重いように思う。単行本掲載時に内容を修正するだけで済むのだろうか。雑誌を回収し、休刊となっても不思議ではないような誤りだろう。

 衆院選に合わせて最高裁裁判官の国民審査もあります。お役に立つかわかりませんが、東京新聞の記事をリンクしおきます。個人的には検事総長の国民審査があれば良いのに、と思う。

 この他の気になった記事を備忘録として。
ドジャースが4年ぶりにワールドシリーズ進出 メッツに4勝2敗
ピーコさん死去、79歳 タレント、弟おすぎさんと活躍
「地盤が軟弱になるのでは」外環道トンネル工事なお続く 調布の陥没事故から4年 住民の消えない不安と憤り

ANN CALL

◯ANN CALL

 アン・ルイスが自身の誕生日を記念して、6月5日にロック・ファンへ贈ったロック・フェスが『ANN CALL』。とは言え、もともとアイドル歌手でデビューしたので、歌謡界からロック界まで幅広い人脈があり、この日のコンサートも早見優や石川秀美といったアイドルから、フェンス・オブ・ディフェンスの北島健二、ピンククラウドのチャー、桑田佳祐と様々なアーティストが集結した。
 ネットで検索すると1986年、87年、88年に開催されていることが確認できるが、いつから始まり、いつまで続いたのかは判らなかった。
 wikiによると2013年に芸能界を引退されたそうで、自身が運営する公式ウェブサイトはなく、これまでにアルバムをリリースしてきたビクター、日本コロムビア、ソニーがそれぞれプロフィールやディスコグラフィーを自社のウェブ上に載せているのみ。
 ビクターのサイトに掲載されているプロフィールを引用すると、

<1956年6月5日神戸市生まれ。米国人の父と日本人の母を持つハーフで、幼少期からモデルとして活動。71年に「白い週末」で歌手デビュー、「グッド・バイ・マイ・ラブ」などのヒット曲を放つ。80年に結婚。出産・育児に専念するため休業するが、82年にカムバック、「ラ・セゾン」がヒット。84年以降はロック志向を強め、85年に「六本木心中」、86年には「あゝ無情」が大ヒット。ハード・ロックからディスコまで、幅広い楽曲を歌う歌手として活躍>
 現在はロサンゼルス在住。桑名正博は元夫で、ミュージシャンの美勇士(桑名美勇士)は長男。
 『ANN CALL』の撮影は雑誌『ポップティーン』の仕事だったと思うが、掲載誌が見つからなかった。

YouTubeから「グッド・バイ・マイ・ラブ/アン・ルイス」 「あゝ無情 STUDIO LIVE1986/アン・ルイス」 「BOØWY 1986年6月8日 日比谷野外音楽堂ANN CALL`86

日比谷野外音楽堂 1988年6月5日撮影
初出『ポップティーン』(飛鳥新社)?
#アンコール #AnnCall #アンルイス #AnnLewis #アースシェイカー #Earthshaker #アクション #Action #ライトスタッフ #Rightstuff #フェンスオブディフェンス #FenceofDefense #ピンククラウド #PinkCloud #大澤誉志幸 #YoshiyukiOhsawa #ちわきまゆみ #MayumiChiwaki #鈴木聖美 #KiyomiSuzuki #バブルガムブラザーズ #BubblegumBrothers #ケラ #Kera #野村義男 #YoshioNomura #早見優 #YuHayami #石川秀美 #HidemiIshikawa #桑田佳祐 #KeisukeKuwata #葛城ユキ #YukiKatsuragi #アーカイブ

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◯NAONのYAON

 ガールズ・ロック・バンド、SHOW-YAの発案で1987年から始まった女性ミュージシャンだけが出演するロック・フェスティバル。タイトルはナオン=オンナのヤオン=野音から。
 wikiによると、SHOW-YAのボーカリスト、寺田恵子が1987年当時に担当していたラジオ番組『寺田恵子のオールナイトニッポン』で、アルフィーが東京のベイエリアで10万人規模のコンサートを開催するという話に、負けたくないという思いで「うちらで、女性だけのコンサートをやりたい」と発言したことがキッカケとなり企画されたという。
 1987年9月20日に第1回が日比谷野外音楽堂で開催され、出演者のみならず制作スタッフも女性限定で揃えられたそうだ。1987年から1991年まで毎年秋に開催され、一旦終了したが、1999年に番外編として川崎のクラブチッタで開催。その後、2008年、そして2013年からは毎年開催され、今年も5月18日に野音で行われた。
 撮影したのは第2回となる1988年の『NAONのYAON』で、下記のハッシュタグがついたアーティストの写真を掲載しているが、wikiによるとこの他にVELVET PAW、YOU、知恵、藤原かずみ、斎藤さおり、KAYOKOらが出演していたようだ。
 日比谷野外音楽堂は老朽化に伴う建て替えが予定されており、今後の開催がどうなるのか気になるところだ。
 SHOW-YAは、この『NAONのYAON』と同じ年に行われた『ANN CALL』に出演した時の2回しか撮影していないが、デビュー前に一度取材をしている。『ポップティーン』の仕事で、カメラマンと一緒に一人一人の職場や学校へ尋ねて行き話を聞いた。平井の島村楽器を拠点に活動している頃で、寺田恵子は専門学校生、キーボードの中村美紀は会社の事務員、デビュー前に脱退したギターで当時のリーダーだった沼田美津子は広告代理店に勤務していた。ドラムの角田美喜は貸レコード屋でバイトをしていて、取材の後に総武線か中央線で途中まで一緒に帰り、二人で並んでドカドカと床を鳴らして2バスの練習をした記憶がある。
 
YouTubeから「本田美奈子 minako with wildcats NAON NO YAON」 「SHOW-YA - 限界LOVERS @Live『NAONのYAON 2022』

NAONのYAON 公式ウェブサイト

日比谷野外音楽堂 1988年9月11日撮影
初出『AVハウス』(双葉社)
#NAONのYAON #ショーヤ #SHOWYA #シーナ #Sheena #プリンセスプリンセス #PrincessPrincess #アンルイス #AnnLewis #ノッコ #NOKKO #イリア #Iria #本田美奈子 #MinakoHonda #ダンプ松本 #DumpMatsumoto #大森ゆかり #YukariOhmori #アーカイブ

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NAONのYAON

10月19日(土)

 もう10月も後半に入ろうというのに、昼間の最高気温が25℃を超える夏日だった。昨夜鍋に火を入れておいた肉じゃがだけれど、昼間に食べようと蓋を開けたらジャガイモがヌルヌルと痛んでいたので鍋のものを全て捨てた。勿体無いことをした。
 今日は19時から集落の班長会議。出る時は雨が止んでいたので自転車で出かけたが、会議が終わって帰る時は雨が降っていて濡れながら自転車で帰ってきた。
五月みどり

◯五月みどり

 ♪おひまなら来てよネ わたし寂しいの♪で始まる五月みどりさんの代表曲「おひまなら来てね」の発売は1961年5月。「瀬戸の恋歌」がA面で、B面に収録されていたそうだ。発売された当時、自分は2歳になったばかりだが、小学生の頃にテレビ番組で五月さんが歌うのを聴いて子供心に艶っぽい人だな~と思っていた。ちなみにデビュー曲は1958年発売の「お座敷ロック」。曲調はロックというより、邦楽とジャズのミクスチャーという感じだろうか。それにしても五月さんの声のハリと艶やかさが素晴らしい。
 1965年に結婚し芸能界を引退するが、後に離婚して芸能界へ復帰。1970年代は歌手にとどまらずタレント、女優としても活躍する。1975年に主演したポルノ映画『五月みどりのかまきり夫人の告白』で話題となった。映画は観ていないが、かまきり夫人という言葉は当時から強く印象に残っている。
 五月さんを撮影したのは健康雑誌のペット連載で、ご自宅のある真鶴町へ伺った。五月さんの飼われているペットはリス科の動物、プレイリードッグと犬が2匹。取材時間はたっぷり1時間半ほどとってもらったので、ゆっくり撮影できた。

 帰りがけにお土産として五月さんが作られたハート型のデコレーションした石鹸をいただいた。たしかご自宅で手作りのデコレーション石鹸の教室を開かれていたように思う。
 熱海と湯河原にギフトショップを3軒経営されていたが、今年の8月で3軒とも閉店されたようだ。
 実の妹は、歌手で女優の小松みどりさん。

YouTubeから「おひまなら来てね/五月みどり」 「お座敷ロック」 「一週間に十日来い/五月みどり・小松みどり

神奈川・真鶴町 2008年5月11日
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2008年8月号
#五月みどり
#MidoriSatsuki
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ

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◯浅香光代

 「ペットと私」という連載は、動物好きな著名人の方にお会いしてお話を聞き、飼っていらっしゃるペットと一緒の写真を撮らせてもらうというものだった。
 有名人に会いたい!という当時の担当編集の女性が企画したもので、本人は1年続けば良いくらいに思っていたようだが、スタートすると中々好評でわりと長期にわたる連載となった。
 若いアイドルの場合はだいたい事務所での取材となったが、年配の方はご自宅で取材させていただけることが多かった。浅香さんの場合も、稽古場と事務所を兼ねたご自宅だった。
 ご自宅は雷ゴロゴロ会館の裏の方だったので、ライターさん、担当編集者と雷門の下で待ち合わせ。せっかくなので「取材がうまくいきますように」と3人で浅草寺でお参りしてから伺った。
 1階にあった稽古場でお話を聞いた後、いよいよペットとのツーショット撮影。浅香さんの後について階段を上り案内されたのは、まさかの浅香さんの寝室だった。これまでも芸能人や作家さんのご自宅で撮影することはたくさんあったが、寝室はこの時が最初で最後じゃないだろうか。浅香さんがベッドの上にゴロンとなり、ペットの猿を餌で手懐けての撮影となった。
 この当時、浅香さんの家では猿、猫、犬、オウムを飼っていたが犬はその日留守だったので、猿と猫とオウムとそれぞれ一緒の写真を撮らせてもらった。結局雑誌で使用したのはインパクトのある”寝室で猿”のこの写真だった。
 なんとなくお猿さんと浅香さんが似ているのだが、オウムと一緒に撮った写真もオウムと浅香さんが似ている。写真をセレクトしながら、担当編集者と不思議だね~と話していた。
 取材の後、お土産に雷ゴロゴロ会館の「雷おこし」をいただいて帰った。浅香さんには他の企画でも、もう一度撮影させていただいた。最初のペット連載の時は取材を申し込んでからOKが出るまで時間がかかったが、2回目は信用が出来たのとペットと一緒の写真をお贈りしたのが幸いしたのか、すぐにOKが出た。
 昭和3年(1928年)生まれの剣劇女優。愛称はミッチー。浅香光代一座を率いて、戦後は浅草や新宿などの芝居小屋で興行を行い人気を博す。1970年に一座を解散すると一女優として、映画やテレビでも活躍した。2020年12月13日、膵癌のため92歳で亡くなられた。

YouTubeから「ドキュメンタリー映画『浅草どさくさ物語~浅香光代芸一筋~』CM」 「至芸 浅香光代2020

浅香光代 公式ウェブサイト

台東区浅草 2008年5月19日撮影
台東区浅草 2008年9月8日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2008年9月号
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2008年12月号
#浅香光代
#MitsuyoAsaka
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ

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浅香光代

10月17日(木)

 今月いっぱいと期限が迫っていた特定健診を受けに、掛かりつけの病院へ。開院は朝9時からだが8時45分くらいに行くと入口が開いていて受付番号標をもらった。2番だった。5年に一度無料で受けられるがん検診の通知も届いているので予約しようと思ったら、予約はいらず一緒に受けられるとのこと。途中の待ち時間も含めて45分くらいで検診が終わった。大腸がんは検便の容器を渡され、後日2日分を採取して病院へ持って行けばよいそうだ。

 昨日アマゾンに注文した26インチの折りたたみマウンテンバイクと、ワンショルダーのバッグが今日の午前中に届いた。

新しい自転車01
ワンショルダー・バッグ

レイチェル26インチ折りたたみマウンテンバイク。箱から出して30分ほどで組み立てられた。

←自転車にカゴはつけないので、ワンショルダーのバッグを購入。思っていたより小さくて、レンズ付き一眼レフのカメラ1台がなんとか収納できる。

↓走り染めに小矢部川まで。走りながらサドルの高さを漕ぎやすい位置に調整。

新しい自転車02

 この夏は猛暑だったので外出を避け、ほとんどスーパーへ買い物に行く時しか自転車に乗らなかったので脚力が落ちているのだろうか。やたらとペダルが重かった。脚力つけなきゃ(汗)。

 映画『釣りバカ日誌』などでおなじみの俳優、西田敏行さんが亡くなられた

 この他の気になった記事を備忘録として。
「裏金議員」35人を推薦…公明の「クリーンな政治」看板にキズ それでも推薦やめない理由とは?
アベノマスク契約めぐる訴訟 裁判長も「全て口頭で?」と突っ込み

◯金尾義郎

 先週、金尾義郎くんのニュー・アルバム『夢からさめたら』が届いた。ジャケットに使用されている写真は、2003年に当時住んでいた宿河原のアパートで撮影したもの。その頃はカメラやストロボなど新しい機材を購入したら仕事で使う前にテストするため、彼にモデルとして来てもらったりしていた。この時は、プロ機材ドットコムから購入したバックドロップ(背景布)のテストだったと思う。マミヤの645にポジフィルムでテストしていたのだが、ついでに4X5のカメラにモノクロのフィルムを詰めて撮影したのが、このジャケットに使われている写真だ。ジャケットの表は目を閉じた写真、裏ジャケットは目を開けた写真になっている。2ヶ月ほど前にこの写真を使いたいのでデータがないかと連絡があり、フィルムを探した。フィルムは見つかったが家にフィルムスキャナーがないので、4X5のネガフィルムをライトビュアーの上に置いてデジカメで複写し、その画像をフォトショップで反転してデータを作りデザイナーに送っている。ブルースマンでデザイナーのの町田謙介さんが、表ジャケットの写真を暖色系のダブルトーンに、裏ジャケットの写真を寒色系のダブルトーンに仕上げている。
 彼と初めてあったのは博多のライブハウス「多夢」だった。1979年にダディ竹千代と東京おとぼけCat’sのローディーとして「多夢」に行ったが、おとぼけのオープニング・アクトを勤めたのが義郎くんのバンドだった。前年の1978年にもTバードのローディーとして「多夢」に行っていて、この時も見に来ていたそうだ。そうした縁で親しくなり、1980年に吉田拓郎さんのツアースタッフで福岡へ行った時も「多夢」に顔を出したりしていた。
 次に彼と会ったのは信濃町のソニースタジオだったと思う。1981年に金尾義郎&WESTとしてエピック・ソニーから「東京トゥナイト」でデビューしたが、1stアルバム『ON THE WIND』のレコーディングをしている彼らと、当時シマさん(島村英二)のローディーをしていた自分が信濃町のソニーでばったり会ったんだと思う。ただ、WEST時代のライブを見た記憶がない。
 WESTを解散した後にMOTORSを結成し、徳間ジャパンに移籍した頃はまたよく会うようになった。まだ再開発される前の六本木の裏通りに奥さんと2人で住んでいる時で、何度か家に遊びに行ったこともあるし、MOTORSのライブはわりと見に行っている。この頃、元々は彼の奥さんの友人だったファッション・カメラマンの廣田治基さんを義郎くんに紹介された。彼が六本木から神奈川の方へ引っ越して、一時音楽活動もストップしていた時期があり、また何年か音信不通になった。
 90年代の終わり頃に廣田さんから義郎くんが音楽活動を再開してライブをやっていると連絡があり、横浜の日の出町にあったライブハウス「グッピー」へ一緒に聴きに行った。いつの間にか彼には小学生の娘がいた。
 それからは月に1度くらいの頻度で「グッピー」へ行き、ライブの後は廣田さんと一緒に連れ立って横浜の高台にあった彼の家に行き、お酒を飲んだ。用事がない時はそのまま2日ほどダラダラと3人でお酒を飲み、学校から帰って来た彼の娘に”おかえり~”と声をかけたりして過ごした。小学生だった彼の娘が高校生になるくらいの間だろうか、そうして廣田さんと3人で頻繁に遊んでいたように思う。
 最後に会ったのは2010年3月の下旬で、奄美大島に移住するためアパートを引き払った後、廣田さんと3人で都内で飲んだ。
 初めて会った時は彼が20代で、ボクは10代の後半だった。今年彼は70になり、ボクも60代の半ばだ。彼には孫ができ、こちらは両親をデイサービスに送り出したり食事の用意に追われる生活をしている。頻繁に会ったり疎遠になったりしながら、もう45年が過ぎている。
 今回のアルバムを制作するまで、彼の中ではボクは30年ほど音信不通だったようだが、ジャケットに使われている写真を撮影したのが21年前で、奄美に移住する前に一緒に飲んだのが14年前だ。記憶が飛び飛びの中でお互いまだ、なにか夢でも見ているのかもしれない。
 モノクロのライヴ写真は、MOTORS時代のもの。

YouTubeから「風の中で立て/金尾よしろう」 「東京トゥナイト/金尾よしろう

金尾よしろう オフィシャル・ブログ

川崎市多摩区 2003年4月18日撮影
川崎区多摩区 2005年8月29日撮影
初出『夢からさめたら/金尾よしろう
#金尾義郎
#YoshiroKanao
#金尾よしろう
#モータース
#MOTORS
#アーカイブ

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金尾義郎

◯石井久美

 自分で焼いたモノクロの写真は、テスト・プリントも失敗したプリントも基本的には捨てないで印画紙の箱に入れて残してある。先日、探したいプリントがあって印画紙の箱の中を調べていたら、こんな女のコの写真が出てきた。1988年3月に、芸能事務所の宣材用の写真撮影を頼まれて撮ったものだ。確か俳優の卵のような男のコ3人と女の子1人、それにピアニストだったかシンガーソング・ライターの女の子1人を撮影したように思う。青山のベルコモンズの前で待ち合わせて、絵画館前の銀杏並木で撮影した。
 女のコは久美ちゃんと呼ばれていて、コント赤信号などが所属していた芸能事務所・石井光三オフィスの石井社長の娘さんだと聞いた。
 写真が出てきたので、どうしているかと検索すると、石井光三さんが社長を勇退した後を、次女の彼女が社長業を引き継いだようだ。
 2015年に石井光三さんが亡くなられた時の新聞記事に、彼女のコメントと顔写真が掲載されており、撮影した時の面影が残っていた。

石井光三オフィス 公式ウェブサイト

青山・神宮外苑 1988年3月14日撮影
#石井久美
#KumiIshii
#アーカイブ

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石井久美

10月15日(火)

 今日は県民交通安全の日で、朝7時から交通安全協会の車に乗車して町内を巡回。アチコチの柿の木に実がなっていた。それにしても、10月も半ばだというのに昼間はまだまだ暑い。

 衆議院選が公示された。富山県内は3つの小選挙区があり、これまで自民党が独占してきた。今年は1区の自民党は裏金議員の田端裕明氏なので野党にもチャンスがあるかと思ったが、立憲から山登志浩氏、日本維新の会から淺岡弘彦氏、共産党から青山了介氏、無所属の吉田豊史氏と乱立している。野党共闘が出来ず候補を絞れなかったために裏金議員が漁夫の利を得ることになりかねない。ちなみに吉田豊史氏は「無所属ならではの強み」などと言っているが、一昨年金銭問題で日本維新の会から除名されて無所属になったに過ぎない。

 なかなか遠出することも難しいので、最近の楽しみはNHKのBSで火曜19時から放送している「世界ふれあい街歩き」を観ること。たしかBSP4Kの放送が始まってから放送時間の変更があり、放送開始が30分早まり、時間が1時間30分から1時間に短縮されてしまった。とても残念。
 今日の「世界ふれあい街歩き」はスペイン南部、アンダルシア地方の古都、コルドバ。1986年5月15日から18日まで滞在した。下の写真は、コルドバでのスナップ。メスキータの近くだろうか。

コルドバ
アヴェレイジ・ホワイト・バンド

◯アヴェレイジ・ホワイト・バンド

 アヴェレイジ・ホワイト・バンドというバンド名を知らなくても、彼らの代表曲で軽快なギター・カッティングで始まる「ピック・アップ・ザ・ピーセズ」を耳にしたことのある人は多いのではないだろうか。自分自身、彼らの名前も知らない頃にテレビ番組のテーマ曲として流れていて、なんてカッコいい曲だろうと思ったのが出会いだ。検索すると文化放送の「土居まさるのポップス・ナンバーワン」というラジオ番組のテーマソングにも使われていたようだが、自分が聴いたのはテレビ番組だったと思う。
 アヴェレイジ・ホワイト・バンドは1971年にスコットランドで結成されたファンク・バンド。wikiによると1973年にエリック・クラプトンのコンサートのサポートを務め、この年にアルバム『ショウ・ユア・ハンド」でデビュー。1974年にニューヨークへ渡り、アリフ・マーディンのプロデュースで2枚目のアルバム『アヴェレイジ・ホワイト・バンド』をリリース。このアルバムの中からシングルカットされた「ピック・アップ・ザ・ピーセズ」が全米1位の大ヒットとなった。

 彼らを撮影したのは、1998年から2014年まで六本木にあった「スイートベイジル139」というエスビー食品が運営するライブ・レストランだった。『レコード・コレクターズ』1999年11月号の「AOR そのブルー・アイド・ソウル的展開」という特集の中で、来日中だったアベレージ・ホワイト・バンドを取材している。インタヴュアーは駒形四郎さんで、ギターのオニー・マッキンタイアと、ベース&ギターのアラン・ゴーリーに話を聞いている。「ピック・アップ・ザ・ピーセズ」の軽快なギター・カッティングはオニー・マッキンタイアで、リフを弾いているのはアラン・ゴーリーだろうか。
 駒形四郎さんが<ファンクをやっているのに”平均的白人楽団”なんていうバンド名の由来は?>と尋ねると、アラン・ゴーリーがこう答えている。
「外交官の友達の話が元になってるんだ。彼がウガンダに赴任した時に何の知識もなかったらしく、どんなところか聞いたら”平均的な白人には熱いところ”だって言ってたので、それをもじったのさ。僕らは黒人音楽を目指してたから、皮肉っぽくて面白いと思ってさ。すべてはアイロニーさ」
 インタヴューの後のフォトセッションで、アラン・ゴーリー(2人並んだ写真の右)がダリル・ホールのコンサートのバック・ミュージシャンとして1994年に来日したというので、そのコンサートは自分も撮影に行ったと話すと、どうりで君の顔は見覚えあると笑って言った。いやいや、ステージの下で撮影していたが、そんなことはないだろう(笑)。2人が手にして笑い転げているのは、駒形四郎さんが持参したレコードだ。
 取材の後、スイートベイジルでのライヴを2階席で見せてもらった。あまり写真がないのは、ライヴ用のフィルムとレンズを用意して来なかったのだろうか。

YouTubeから「ピック・アップ・ザ・ピーセズ/アベレージ・ホワイト・バンド」 「ピック・アップ・ザ・ピーセズ/アラン・ゴーリー、ダリル・ホール

アベレージ・ホワイト・バンド 公式ウェブサイト
六本木・スイートベイジル139 1999年4月28日撮影
初出『レコード・コレクターズ』1999年11月号
インタヴューは駒形四郎さん、通訳は藤林初枝さん
#アヴェレイジホワイトバンド
#AverageWhiteBand
#オニーマッキンタイア
#OnnieMcIntyre
#アランゴーリー
#AlanGorrie
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ブリンドル

◯ブリンドル

 wikiでは、<ロサンゼルスで1960年代後半に結成されたアメリカのフォークロックバンド>と紹介されているが、個人的にはウエストコースト・サウンドのグループかなと思っている。と言いながら、撮影するまでは4人のメンバーのうち、カーラ・ボノフしか知らなかったのだけれど。彼女の1982年にリリースされた『麗しの女~香りはバイオレット』は、とても好きなアルバムだった。
 ブリンドルのオリジナル・メンバーは、アンドリュー・ゴールド、カーラ・ボノフ、ケニー・エドワーズ、ウェンディ・ウォルドマンの4人。1969年に結成され、1971年にA&Mからシングル「Let’s Go Home And Start Again」をリリース。アルバムもレコーディングしたが、陽の目をみることなく解散してしまう。
 そんな彼らを撮影したのは、26年ぶりに再結成しアルバム『ブリンドル』を発表した1995年のことだった。アルバムの発売は10月だが、取材したのは6月23日で、当時の情報誌を見ると翌日の24日に東京でコンサートを行っている。掲載誌は『ミュージック・マガジン』1995年9月号で、インタヴュアーは宇田和弘さんだった。

 やはり話は再結成の経緯になり、「みんなが偶然揃ったパーティがあって、昔のヴィデオを見たのね。それでアンドリューがもう一度これをやってみないかって言い出した。92年のこと」とカーラが話し、「一度アルバムで失敗しているからね。どういう作品にするかについてはかなり慎重になった。4人で何度も話し合って、とにかく自分たちの音楽に忠実なアルバムを作ろうということになった。大げさなプロダクションはやめよう、ヴォーカルとアコースティック・ギターをメインにしたものでいこう。それだけのことを決めるのに3年かかった」とアンドリューが話している。
 しかし、1996年にはアンドリュー・ゴールドはグループを去り、ブリンドルはトリオとなる。このトリオで1997年までツアーを続けたそうだ。
 この後、再びアンドリューも加わって、2002年に2ndアルバムとなる『ハウス・オブ・サイレンス』をリリースするが、グループとしての活動はなかったようだ。
 残念ながらケニー・エドワーズ(写真上左)は2010年8月に、アンドリュー・ゴールド(写真上右)は2011年6月に亡くなってしまった。
 当時のスケジュール帳に、取材時間が午後2時~3時と記載されている。来日アーティストの場合、各雑誌に割り当てられる時間は1時間ほどで、そのうちインタヴューが45分~50分。インタヴューの後のフォトセッションが10分から15分と撮影時間は短い。この日、インタヴューが終わって、さあ急いで撮影しようと思ったら、あろうことか取材陣の一人が自分が持ってきたレコードにサインをしてもらい始めた。口には出さなかったが、かなりムカッとしたことを覚えている(笑)。

YouTubeから「When Will I Be Loved/Bryndle」 「Let’s Go Home And Start Again/Bryndle」 「 The water is wide/Karla Bonoff

アンドリュー・ゴールド 公式ウェブサイト

カーラ・ボノフ 公式ウェブサイト

新宿・ヒルトンホテル 1995年6月23日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1995年9月号
インタヴュアーは宇田和弘さん、通訳は丸山京子さん
#ブリンドル
#Bryndle
#アンドリューゴールド
#AndrewMauriceGold
#カーラボノフ
#KarlaBonoff
#ケニーエドワーズ
#KennethMichaelEdwards
#ウェンディウォルドマン
#WendyWaldman
#アーカイブ

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10月13日(日)

シュウウエムラ

◯シュウ ウエムラ

 これほど名前が世間に浸透していながら、これほど素顔を知られていない人も珍しいのではないだろうか。日本のメイクアップアーティストの草分けであり、シュウウエムラ化粧品の創業者である植村秀さん。17年程前に一度だけ撮影させていただいた。
 以前、知人のファッション写真家が植村修さんを雑誌の仕事で撮影し、そのプリントをするために家の暗室を借りに来たことがあって、その時に眼光の鋭さを聞いていたので撮影が決まってからドキドキしていた。
 ただ、少しだけ心を軽くしたのが撮影は対談で、対談相手が当時売り出し中の女性気功師、チャン・ツィーだったこと。それまでにも3回ほどスタジオや彼女のサロンで撮影していて、撮影の後に編集者やメイクさんたちと一緒に食事に行き、わりと気心が知れていたからだ。
 撮影は、シュウウエムラのサロンがあった東京ミッドタウンで。現われた植村修さんは想像していたのとは違い、終始穏やかだった。病み上がりのようで、スーツの肩が少し余っていた。ふとした瞬間に目の鋭さを感じたけれど和やかに撮影は終った。撮影の後、ミッドタウンに入っていたインド料理レストラン「ニルヴァーナ ニューヨーク」で取材スタッフで食事をしていると、途中からチャン・ツィーも加わった。

 撮影したのが2007年8月21日だったが、4ヶ月ほど経った12月29日に亡くなられてしまった。メディアでの撮影は、ひょっとするとボクらが最後だったかもしれない。

シュウウエムラ 公式ウェブサイト

東京ミッドタウン 2007年8月21日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)
#シュウウエムラ
#植村修
#shuuemura
#張弛
#チャンツィー
#ZhangChi
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チャン・ツィー

◯チャン・ツィー

 中国遼寧省生まれのチャン・ツィーと初めて会ったのは、全日本気功師会会長で「神手張」(神の手の張)とも呼ばれた父、張永祥氏の考案した「ぷるぷる健康法」の撮影だった。「ぷるぷる健康法」は全身を揺さぶり気の流れを正すというもので、そのぷるぷると身体を動かす動作を出版社のスタジオでチャン・ツィーをモデルに撮影した。張永祥氏は同席しなかったが彼女自身、父の元で4歳から気功を学んだ気功師養成学校認定高級気功師だった。この「ぷるぷる健康法」が雑誌に掲載されたのが2004年4月号なので、撮影したのは2004年の初め頃だろうか。
 次にチャン・ツィーに会ったのは2年後の2006年で、同じ健康雑誌の取材だった。このとき彼女は気によるカウンセリングや気功によるこりほぐしなどの施術を行うサロン「チャンズ・チーコン銀座」の院長を務めていた。
 6月28日に彼女のサロンで院内の様子とポートレートを撮影し、翌月の10日に彼女の提唱する「太陽水」ダイエットの撮影を行った。ペットボトルに入れた水を太陽に当て気を込めるというもので、自然光の入る世田谷・奥沢にあるスタジオ南南西で朝7時から撮影した。

 スタジオで撮影する時は自分の好きなBGMを用意するが、この時はチャン・ツィーが持参したサンディー&ザ・ココナツ・カップスの『Mele O Aloha』を流していた。
 最後にチャン・ツィーを撮影したのは、2007年8月で、日本のメイクアップアーティストの草分けであり、シュウウエムラ化粧品の創業者である植村秀さんとの対談だった。この頃彼女は六本木ミッドタウンにオープンした「ヴォートル イストワール シュウウエムラ」でも施術をしていた。マガジンハウスから彼女の初めての著書『循環美人~ココロもカラダもうまくいく、気功の知恵』が発売され、一躍話題の女性気功師となっていた頃でもある。
 この撮影から3年ほどして自分は奄美大島に移住したが、チャン・ツィーの訃報を知ったのはその頃だった。結婚し妊娠し、幸せの絶頂の中で彼女は旅立ってしまった。

循環美人 ~ココロもカラダもうまくいく、気功の知恵/張弛』(マガジンハウス)

銀座・チャンズ・チーコン銀座 2006年6月28日撮影
世田谷・スタジオ南南西 2006年7月10日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2006年10月号
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2007年12月号
#チャンツィー
#張弛
#ZhangChi
#アーカイブ

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10月11日(金)

 秋晴れの良い天気だった。空気がカラッとしていて過ごし易い。裏庭の木の枝が伸びているので、午後から妹に借りた高枝切り鋏で剪定作業。普通の剪定バサミと高枝切り鋏を使って2時間ほど伸びた枝や葉っぱを切った。それほど重い高枝切り鋏ではないけれど、伸ばして持ち上げて長時間切っていると、流石に腕が痛くなった。

 ドラえもんの声でお馴染みだった声優の大山のぶ代さんが、先月29日に老衰のため亡くなられたそうだ。90歳だった。

 この他の気になった記事を備忘録として。
ノーベル平和賞に被団協 「核兵器は二度と使われてはならないと証言を続けてきた」と授賞理由
「原子力を最大限活用」と方針転換 自民党が公約発表 政治改革、安保、別姓については慎重な表現
高レベル放射性廃棄物搬入 電事連要請も青森県知事「門前払い」

サエキけんぞう いとうせいこう

◯サエキけんぞう いとうせいこう

『ミュージック・マガジン』1988年3月号で、異色対談5本立てという企画が組まれた。忌野清志郎x梅津和時(撮影は高橋淳一)、江戸アケミx細川周平(撮影は大熊一実)、戸川純x川勝正幸(撮影は菊地昇)、山田詠美x久保田利伸(撮影は絵鳩正志)で、自分はサエキけんぞうxいとうせいこうの対談を撮影した。
 サエキけんぞうさんはパール兄弟のボーカルであり、作詞家としても多くのアーティストに詞を提供している。いとうせいこうさんはラッパーであり、小説家であり、作詞家、タレントというマルチクリエイターだ。
 取材は赤坂のキャピトル東急ホテルのラウンジだったので、対談中の撮影は難しくどこか写真の撮れる場所はないかとホテルの中をウロウロして見つけたのがトイレだった。二人揃った写真はホテルの従業員に断りをいれて、屏風と大きな生け花のあるロビーで撮った。そしてこの後、ロケハンしておいたトイレに向かった。
 対談ということなので、個室に入ってもらいお互い壁の向こうにいる相手と話しているシチュエーションで撮影。一つの個室を順番に使いサエキさんには左を見てもらい、いとうさんには右を見てもらった。

 お二人の対談のタイトルは「”愛してる”を壊さなきゃ日本語は変えられない」で、6ページの内、”愛してる”という言葉について2ページほど語り合っている。
 他の対談のタイトルだが、忌野x梅津「”いい加減さ”があるからバンドやっていける」、江戸x細川「東京のエネルギーに対抗するために音楽やる」、戸川x川勝「ロックでメジャーになるか、女優で王道をゆくか」、山田x久保田「日本人だから出せる黒人ぽい新鮮さ、面白さ」。タイトルがそれぞれの対談を象徴しており、5つの対談を5人のカメラマンが撮影しているので、写真もそれぞれ撮り手の個性が出ている。
 アーカイブするにあたって雑誌を引っ張り出して眺めていたら、この頃、吉田カツさんが「STREET PEOPLES」というイラストの連載をやっていた。

YouTubeから「青いキングダム/パール兄弟」 「ヒップホップの経年変化/いとうせいこう

サエキけんぞう 公式ウェブサイト

いとうせいこう 公式ウェブサイト

赤坂・キャピトル東急ホテル 1988年1月20日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1988年3月号
#サエキけんぞう
#KenzoSaeki
#いとうせいこう
#SeikoIto
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◯なぎら健壱

 高石友也に影響されて音楽を始める。1970年に岐阜の中津川で開催された全日本フォークジャンボリーに、アマチュアとして飛び入り参加しライブ盤に収録される。
 1972年にアルバム『万年床 なぎらけんいち参上』で、ビクターからデビュー。1974年にエレックレコードから発売したシングル「悲惨な戦い」で一躍有名になった。
 シンガーソングライターの他、俳優やタレントとしての活動でも知られ、映画やテレビの出演も多い。本名は柳楽健一で、読み方は芸名と同じ。wikiによると長男はヒップホップユニット、REMのボーカルeito.08(柳楽詠人)。
 なぎらさんは、『レコード・コレクターズ』で大鷹俊一さんが連載している「レコード・コレクター紳士録」で撮影させていただいた。当時、この連載の撮影担当は桑本正士さんだったが、桑本さんのスケジュールが合わなくて撮影がまわってきた。桑本さんはカメラマンの仕事とは別に桑畑繭太郎という名前で「つれれこ社中」という音楽集団での活動もしていて、そちらが忙しくなって、なぎらさんの後も時々代わって撮影することがあった。そして、何年か後に連載の担当を正式に引き継いだ。
 なぎらさんは興味の幅がものすごく広い方で、納豆のラベルからマッチ箱、漫画本などがコレクションされていた。レコードのコレクションも体系立ててコンプリートを目指すというような集め方ではなく、自身の興味の赴くままに聴いたものがコレクションになっていったという感じだった。
「フォークウェイズのものとか希少なものを手に入れたときは宝って感覚ですよね。いまの値段がどうとか知らないですが、希少価値ってのは自分の中のものであって、世間の値段が高いから価値があるって考えないですもの。本でもレコードでも集めようというより、まず読んだり聞いたりってのが先だし、作る側としてはそうあって欲しい。ビートルズのコレクターで3枚買うって人がいてね、一枚は保存用、一枚は聞くため、そして一枚は売るためっていうんだけど、レコードはそうされて嬉しいのかな、レコードってそういうもんじゃないと思っちゃうよね」
 『レコード・コレクターズ』1994年8月号での取材だったが、1999年に発売された単行本『レコード・コレクター紳士録/大鷹俊一』(ミュージック・マガジン)にも再録されている。 
 1994年のスケジュール帳を引っ張り出して取材日の確認をしようと思ったが、なぎらさんの名前がどこにもない。6月17日の欄に、<レコードコレクターズ撮影 5:00に編集部>というメモがあるので、この日だろうか。

YouTubeから「悲惨な戦い/なぎら健壱」 「葛飾にバッタを見た/なぎら健壱

なぎら健壱 公式ウェブサイト
1994年6月17日撮影?
初出『レコード・コレクターズ』1994年8月号
『レコード・コレクター紳士録/大鷹俊一』に再録
#なぎら健壱
#KenichiNagira
#レコード・コレクター紳士録
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なぎら健壱

10月9日(水)

 今日の午後、衆議院が解散した。これで15日公示、27日投開票という首相就任から8日後という戦後最短での解散総選挙が行われることになる。元旦の大地震と9月の能登豪雨で緊急事態が続く能登の事情は無視しての選挙開催で、これが通るなら自民党の掲げる憲法に緊急事態条項の明記など必要ないだろう。石破首相が裏金議員の一部に対して非公認や、比例重複禁止の措置をとったことで該当する安倍派の議員から不満が出ているようだ。自民党内が分裂するという心配をしている人もいるようだが、ぜひ分裂して欲しい。なんなら高市早苗議員を担ぎ上げて、裏金議員が集まって新しい党を結成してはどうだろうか。それにしても、今日行われた党首討論で、維新の馬場代表が偉そうに述べていたが、自民党より維新の会の方が不祥事は多いのではないだろうか。あんまり偉そうなので、聞いているこちらが恥ずかしくなった。

 静岡地検が上訴権を放棄したため、一家4人を殺害した罪で死刑が確定していた袴田巌さんの無罪が確定した。47年7カ月拘束された袴田さんに対して2億円を超える刑事補償が見込まれるというが、88歳になって2億円を手にしても何に使えるだろう。袴田さんの無罪が確定しても事件は解決していない。真犯人は誰で、証拠を捏造したのは誰なのか。そうした捜査は今後行われるのだろうか。

 この他の気になった記事を備忘録として。
マイナ保険証の欠陥補うたび「紙」の書類が増えた 受診方法なんと8パターン 混乱する利用者、役所も取り違え
牧原法相、旧統一教会と接点 関連行事37回出席、閣僚9人目

サディスティック・ミカ・バンド

◯サディスティック・ミカ・バンド

 サディスティック・ミカ・バンドの曲を初めて聴いたのは、1973年5月1日に日本武道館で開催されたコンサートを収録した2枚組のアルバム『ラブ・ジェネレーション・ライブ・コンサート実況録音盤』だった。このアルバムの中で、彼らは「ピクニック・ブギ」と「銀河列車」の2曲を演奏している。もちろん、その後にはオリジナル・アルバム『黒船』や『HOT!MENU』も友達から借りて(高校生の頃はお金がなくてカセット・テープにコピーすることの方が多かった)聴いた。
 高校の学園祭では『HOT!MENU』に収録されていた「マダマダ・サンバ」を、軽音楽部のバンドで演奏した記憶もある。しかし、3rdアルバム『HOT!MENU』のリリースと同時にサディスティック・ミカ・バンドは解散していた。1975年のことだ。自分がその存在を知った時には、彼らはすでに伝説のバンドだった。
 解散後のメンバーはソロのアーティストとして、あるいはスタジオ・ミュージシャン、プロデューサーとして活躍していたので、追いかけて聴いていたわけではないけれど、それぞれの音楽が自然に耳に入ってきた。

 自分にとって伝説のバンド、サディスティック・ミカ・バンドがボーカルに桐島かれんを迎えて再結成したのは、1989年だった。その再結成直前、ニュー・アルバムとなる『天晴』をレコーディング中の1988年の暮れに彼らを撮影した。『ミュージック・マガジン』1989年2月号に掲載される北中正和さんのインタヴュー記事「派手で陽気な遊び人たちのタイムマシン・ロック」のインタヴュー写真だった。
 インタヴューは彼らがレコーディングで使っていた、湾岸の倉庫街にある東芝EMIのスタジオ「TERRA」で行われた。メンバー揃ってのインタヴューではなく、2日に分けてレコーディングの合間に一人ずつ話を聞いている。当時のスケジュール帳を確認すると11月19日の午後5時~5時30分加藤和彦、7時~7時30分小原礼、8時~8時30分高橋幸宏とメモがしてある。そして高中正義が12月12日午後6時からとなっている。スケジュール帳に桐島かれんの名前がないが、写真に写った背景から高中さんと同じ日に撮影しているのかもしれない。
 サディスティック・ミカ・バンドを説明するのに北中さんの原稿にある、こんな文章が解りやすいかもしれない。
<かつてのミカ・バンドは、日本の音楽界で突出してリッチな存在だった。フォーク全盛期の音楽業界と、認められなくてハングリーできまじめだったロック界の、どちらからも距離をおいたところで活動していた。いまの若者はリッチで遊び上手になったといわれるが、彼らの遊びの精神は、当時からハンパではなかった。レコーディング中、ハワイの気分を出すために、スタジオにヤシの木を持ちこみ、トイレット・パーパーで波を作ったというような伝説さえ、まことしやかに語り継がれている>
 この北中さんの文章の後に、加藤和彦さんの言葉が続く。
「メンバーそれぞれが音楽以外の、音楽に直接関係ないものにすごいエネルギーを使ってた。ステージをやたら派手にしようとかね。数年前に国立競技場でライブをやったときも、楽屋にバーまで作っちゃった。そのプロセスを楽しんで、自分たちも高揚してる。そういうわがままにかけては、年季が入ってるからね。ロックってそういうものじゃないかな」
 このインタヴューの後、1989年4月8日にアルバム『天晴』が発売になり、東京ベイNKホールで2日間のライヴが開催され、ライヴ・アルバム『天晴』としてリリースされている。
 桐島かれんボーカルのサディスティック・ミカ・バンドは初めから期間限定の再結成だったが、2006年にもボーカルに木村カエラを迎えて再再結成を行いアルバム『NARKISSOS』を発表している。
 残念ながらバンドの中心人物だった加藤和彦さんが2009年10月に亡くなり、高橋幸宏さんも2023年1月に亡くなってしまった。もう伝説のバンドが再び結成されることはないだろう。
*高中正義さんの写真だけフィルムが見つからず、銀塩プリントを複写してデータにしている。

YouTubeから「ピクニック・ブギ(ラブ・ジェネレーション・ライヴ)/加藤和彦とサディステイック・ミカ・バンド
タイムマシンにおねがい/SADISTIC MICA BAND LIVE IN TOKYO 1989」 「Boys&Girls/サディスティック・ミカ・バンド

サディスティック・ミカ・バンド 記憶の記録

寺田倉庫・スタジオ「 TERRA 」 1988年11月19日、12月12日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1989年2月号
『高橋幸宏 多才なロマンティストの軌跡』(ミュージック・マガジン増感)に再録
#サディスティックミカバンド
#SadisticMicaBand
#加藤和彦
#KazuhikoKatoh
#高中正義
#MasayoshiTakanaka
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桐島ノエル

◯桐島ノエル

 母は作家の桐島洋子、姉はモデルで歌手の桐島かれん、弟は写真家の桐島ローランド。
 小学館から発売された桐島洋子と3人の子供たちによる桐島家の自叙伝『ペガサスの記憶』の著者プロフィールから引用すると、
<1965年神奈川県に出生届。テレビ番組『OH!エルくらぶ』司会者としてデビュー。エッセイストとしての執筆活動に加え、テレビ、ラジオ、翻訳などで活躍。1997年バンクーバーに移住。カナダと日本を行き来しながらヨガインストラクターとして活動中。著書に母・洋子との共著『聡明な女は身体を磨く』(フェリシモ)、『ママとこどもの毎日ヨガ』(主婦の友社)など>
 ノエルさんを撮影したのは、健康雑誌の「NOPETNOLIFEペットと私」という連載ページ。撮影場所は、元麻布にあった昭和初期に建てられたという古い洋館だった。1990年代からノエルさんの姉・桐島かれんさんと夫の写真家・上田義彦氏が住んでいた家だったが、2002年頃からは桐島かれんさんがプロデュースするアジアを中心に集めた工芸品やインテリア、アンティークなどを扱う「ハウス オブ ロータス」というセレクトショップになっていた。

 この古い洋館でのセレクトショップは2010年まで続いたようだが、その後、洋館の売却とともに取り壊されてしまったそうだ。
 洋館と「ハウス オブ ロータス」については、かれんさんが「物がたりのはじまり」というコラムで詳しく書いている。
https://loveoflife.jp/2017/02/108

桐島ノエルInstagram
 
元麻布・ハウスオブロータス 2008年6月17日撮影
初出『ゆほびか』2008年10月号
#桐島ノエル
#NoelKirishima
#ハウスオブロータス
#HouseofLotus
#NOPETNOLIFEペットと私
#アーカイブ

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10月7日(月)

 ガザのイスラム組織ハマスとイスラエルの戦闘開始から、今日で一年が経った。この一年で亡くなったパレスチナ側の数は4万1909人で、人口の9割に当たる190万人が家を追われたという。イスラエルの攻撃はガザだけに収まらず、レバノン、そしてイランへと拡大している。
 昨年の11月に書いた文章を再掲載しておく。

 イスラエルはハマスとの戦闘のためガザ地区北部の住民に南部へ避難するよう呼びかけていたが、今度は南部の住民にも避難を勧告するビラを配布しているという。現在南部のビラを配布された地域には元々住んでいた10万人に加えて、北部から逃れてきた数万人の人がいるとされる。この人達にどこへ行けというのだろう。
 ネットの情報では、ガザ地区は今、インターネットと通信サービスが遮断されており世界から孤立させられている。イスラエルによる非道な行いを監視する術はほとんどない状態だ。
 イスラエルは1948年の建国以来、武器で住民を追い払いブルドーザーで家を壊しパレスチナの村々を破壊し略奪し領土を広げてきたが、今回もまた同じことを繰り返すのだろうか。

 この数日、第2期の『DAYS JAPAN』を書棚から取り出して、パレスチナに関する記事を読んでいた。
 講談社から発行されていた第1期『DAYS JAPAN』は1988年4月号が創刊号で、1990年1月号が最終号となり短命に終わった。第2期『DAYS JAPAN』の創刊号は2004年4月で、イラク戦争の翌年だ。特集は「大義なき戦争」。フセイン政権の大量破壊兵器開発・保有を大義にアメリカが仕掛けた戦争だが、ついに大量破壊兵器は見つからなかった。そして創刊2号の特集は「絶望のパレスチナ」だった。
 第2期の『DAYS JAPAN』は2004年4月号の創刊号から、奄美大島へ移住するため一旦富山へ戻るまでの2010年1月号までがほぼ揃っている。その間にパレスチナ問題は何度も取り上げられている。2008年に広河隆一さんのドキュメンタリー映画『NAKBA』が公開された時は、3号連動して掲載された。
 今回の激しい戦闘のキッカケとなった10月7日のハマスによる2千数百発のロケット弾とイスラエル領内への侵入による奇襲はこれまでにない大規模な攻撃で、イスラエル側の死者も今までになく1200人以上と多い。
 しかしイスラエルの死者は1200人からほとんど増えておらず、イスラエルに報復として攻撃されているガザ地区の死者はすでに1万人を超えている。その多くは民間人で、4630人が子供だ。  
 ハマスによるテロ攻撃が先で、イスラエルには自衛する権利があると主張する政治家、メディアもあるが自衛というにはあまりに双方の死者数のバランスが欠けていないだろうか。
 これまでも紛争のたびにハマスによるロケット弾がキッカケだとされてきたが、本当にそうだろうか。
 2008年4月号の『DAYS JAPAN』で、フォトジャーナリストの古居みずえさんが以下のような記事を書いている。

 2月27日、イスラエルの攻撃が激化したのは、イスラム原理主義組織ハマスが大量のロケット弾をイスラエル国内に発射し、イスラエル市民1人が死亡したからだった。ハマスによる大量のロケット弾攻撃は、同じ日の早朝、ハマスのメンバーと疑われる5人のパレスチナ人をイスラエルが殺害したことがきっかけだったという。
 その後、イスラエルはガザ北部に侵攻し、空爆と地上からの攻撃で6日間だけで、100人を超すパレスチナ人が死亡した。その半数は女性や子どもを含む市民だ。中でも20人以上の子どもが殺されている。サッカーをして遊んでいた4人の子どもたちがミサイルで亡くなり、そのとき生き残った2人の子どものうち1人も足を失うほどの大怪我をした。また瓦礫の下敷きになった生後6か月の赤ん坊が亡くなった。

 イスラエルが挑発し、ハマスがそれに反抗すると、その何十倍もの攻撃を市民を巻き添えにする形でイスラエルが加える。こんな図式になってはいないだろうか。
 イスラエルが建国以来、どのようにパレスチナの土地を略奪してきたかは、『DAYS JAPAN』2008年3月号で広河隆一さんが執筆している短期連載2「NAKBA」に記述されている。少し長くなるが、引用させてもらう。

 1948年5月に始まったパレスチナ戦争(第1次中東戦争)が49年2月に終結したとき、新生イスラエル国は、国連のパレスチナ分割協議がユダヤ人国家の領土として割り当てた土地をはるかに超えて、アラブ人国家予定地の多くを占領し、全パレスチナの77%を手中にした。48年9月と12月の国連総会決議194号でパレスチナ難民の帰還の権利が決議されたがそれは聞き入れられず、またイスラエルの初代首相ダビッド・ベングリオンは国家樹立宣言に国境明記を拒んだため、休戦ラインが国際的には国境とみなされるようになっていったのだ。
 パレスチナの土地は、イスラエルだけに蹂躙されたのではない。ガザ地区はエジプトに、ヨルダン川西岸地区と東エルサレムはヨルダンに併合された。
 その後、パレスチナ人の村の接収が様々な法律を動員して進んだ。「民主主義国家」イスラエルにとって、土地は合法的に手に入れたものでなくてはならないからだ。
 まず、「不在者財産没収法」がある。これは戦争中に一度でも自分の村を離れた者は、不在者とされ、財産を没収するという法律である。この「不在者」とは、戦火が近づいたため一時的に村を離れた者、イスラエル軍の命令で村を立ち退かされたものを差し、彼らの家屋・土地・財産は没収された。法の適用を受けて接収された村は300に及ぶという。
 次にイスラエルは、「緊急法(防衛法)」を用いた。この125条に、軍司令官が定めた「閉鎖地域」と呼ばれる地区への出入りを禁じる法律があり、主に一時避難中の村民が自分の村に戻ろうとするときに適用されたという。14の村が「閉鎖地域」と宣言され、土地が没収された。

 10月7日のハマスによる奇襲攻撃でイスラエルが1200人もの犠牲者を出したのは不幸なことだが、自分たちの安全のためとして分離壁を作りパレスチナ人の移動を制限し自由と尊厳を奪ってきたのはイスラエルだ。そしてこのイスラエルを一貫して支持してきたのがアメリカだ。ウクライナ侵略を進めるロシアを非難しながら、パレスチナ侵略を続けるイスラエルを支持するアメリカのダブルスタンダードも非難されなくてはならない。
 イスラエルがガザで現在行なっている残虐行為。何の罪もない子どもたちが空爆や銃撃で殺されている。しかし、イスラエル軍だけが非道なわけではないだろう。第2期『DAYS JAPAN』創刊号の特集「大義なき戦争」には、イラクでアメリカ軍が行なったことが記されている。戦争は人を狂気に変える。

 イラクに米英軍が侵攻したとき、都市部への爆撃を逃れて、村々に避難する人が続出した。幹線道路には、民間人の車が数珠繋ぎになった。
 南部のナーシリヤ市のカーリーは3月31日にトラックで避難したが、運転席には彼と親戚の女性たち、そして荷台には子どもが乗っていた。米軍攻撃ヘリは、子どもたちを見たら攻撃してこないだろうと、彼は考えたのである。
 しかし、アパッチ・ヘリは運転席にミサイルを撃ち込んだ。そして荷台から飛び降りて逃げる子どもたちを地上の米兵たちが射殺していった。合計14人が死亡し、負傷者は3人だった。
 同じくナーシリヤの医療技師ダハムは、3月25日に弟と妻と4人の子どもを乗せて乗用車で避難した。しかし町を出たところで米軍戦車に阻まれた。ダハムは恐ろしくて車を止めたところ、猛烈な銃弾を浴びた。このとき3人の子は死亡し、ダハムも妻もかろうじて生き残った女の子も負傷した。
 ダハムたちは車から引きずり下ろされ、米軍基地の野戦病院に収容されたが、夜中に追い出され、寒さのため、女の子が死んだ。ダハムは病床で「犬でもこんなことはしない」と語った。
 3月29日、アパッチ・ヘリの攻撃から逃れようと、女性や子どもたちが防空壕に逃げ込んだ幹線脇のカオードム村では、防空壕が直撃され、24人が殺され、30人が負傷した。

 イスラエルの建国と共に、パレスチナの絶望は始まった。イスラエルによる侵略と占領が終わらない限り、この絶望は続く。逆に言えば、イスラエルが占領をやめ、世界がパレスチナ国家を認め、国境を引き直せば絶望が希望に変わるのかもしれない。難しいことだけれど。
 いや、一度だけ希望に繋がる瞬間はあった。1993年のオスロ合意だ。1992年の選挙で政権を取ったイスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長の間で調印されたもので、パレスチナに暫定的な自治政権を樹立すること、そして基本的に両者が「二国共存」を認めるというものだった。しかし協議が進まないなか、95年にラビン首相がイスラエルの和平反対派の青年に暗殺されて希望は潰えてしまった。

 毎日新聞が<石破内閣の記念写真、画像データの加工を認める>と鬼の首を取ったように報道しているけれど、短時間で撮らなくてはいけない記念写真や集合写真って難しいジャンルの撮影。別に首相官邸ではなく、企業の記念写真・集合写真だって普通にレタッチや合成してるだろう。他に報道することはないのだろうか。

 この他の気になった記事を備忘録として。
経団連、自民への政治献金呼びかけ 11年連続で政策を「高く評価」 政治とカネ巡る不信感高まる中でも
「変節」批判受け首相判断 裏金議員非公認、歓迎と反発―衆院選
新生児祝いヤーマスプナカ 来間島 子孫繁栄願いパレード

服部幸應

◯服部幸應

 料理評論家で服部栄養専門学校校長の服部幸應さんが、今月4日急逝されたことが一昨日報じられた。78歳だった。
 服部さんは何度かお会いし、撮影している。一番最初は1988年に誠文堂新光社が『Vegeta』という野菜の雑誌を創刊する事になり、その創刊案内資料に<こんな雑誌の発刊を待っていました>という著名人のコメントに添えるための顔写真の撮影だった。
 服部さんは「このたび創刊される『Vegeta』は、あらゆる角度から野菜の世界に分け入り、新しい時代の食と健康の指針を示す、水先案内人です。食の第一線に携わる者の一人として、大いに期待しています」とコメントを寄せている。
 次にお会いしたのは、1991年に服部栄養専門学校でフランスワイン講座が開かれた時で、この講座の内容を柴田書店の雑誌『フード・ビジネス』で6回の短期集中連載として再録する事になり、その様子を撮影した。講座では田崎真也さん、高橋時丸さんといった著名なソムリエが講師として招かれていたが、服部さんも姿を見せられてご挨拶されていた。このフランスワイン講座で、自分の生まれ年(1960年)のワインを味見させてもらった記憶がある。

 最後にお会いしたのは健康雑誌のレモン特集での撮影。<全身が活気づき夏バテも疲れも解消する天然クエン酸たっぷりの「レモン」はすごい>というタイトルの特集で、服部さんは毎日飲まれるレモン果汁についてお話しされている。
「服部学園の校長になって今年で29年目になりますが、それはもう多忙な日々を過ごしています。ほぼ毎日、朝3時ごろまで学校のオフィスで仕事をして、帰宅するのは午前4時ごろ、それから4時半に寝て午前8時には起床するという生活を25年ほど続けています。そんなわけで、1日3~4時間しか眠らない生活を25年も続け、校長になってから、休んだ日はわずか26日しかありません。
 こんな私の激務を支えてくれているのが、レモンです。毎日、寝る前にレモン3個分の果汁を飲みますが、次のような方法で飲んでいます。
 レモン3個分をスクイーザーで搾ると、およそ3分の2カップ(約130ml)の果汁が取れます。これをそのまま飲むのは濃すぎるので、トニックウォーターで割って飲みます。これで割って飲むと、爽やかな炭酸の刺激とかすかな甘味で、とても快適に飲むことができます」
 掲載した写真は、この健康雑誌での取材時に撮影したもの。

服部幸應 公式X(旧Twitter)

服部幸應 YouTubeチャンネル

千駄ヶ谷・服部栄養専門学校 2005年7月13日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2005年10月号
#服部幸應
#YukioHattori
#染谷幸彦
#YukihikoSomeya
#アーカイブ

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デューク更家

◯デューク更家

 独自のウォーキングエクササイズで一世を風靡した、ウォーキングトレーナーのデューク更家さん。2002年からはモナコと東京の2拠点生活をされている。
 もともとファッションショーの演出やプロデュース、モデルのウォーキング指導などを手がけていたが、自分の母親が間違った歩き方で足を痛めたのをキッカケに、一般人向けのウォーキングレッスンを始めたそうだ。そのデュークズウォークは、気功や運動生理学、武道、ヨガ、バレエ、ピラティス、呼吸法などの要素を取り入れているという。
 そのデュークズウォークがマスコミで話題絶頂だった頃に、健康雑誌の仕事で撮影させていただいた。撮影場所は、六本木にあったリュウスタジオ。切り抜き前提の撮影で、白ホリを背景にフロントは右トップから1灯、バックに2灯というシンプルなライティングにした。仕事ではまだフィルム・カメラをメインに使っていた頃で、マミヤ645AFをメインに、コニカミノルタのαー7DIGITALをサブに使っていた。掲載した写真は、αー7DIGITALで撮ったもの。 

 ライターさんのインタビューの後、プロフィール用のポートレートを、その後に独特なウォーキングのプロセス写真を撮影。取材はトントン進み、インタヴューから撮影まで1時間ほどで終了した。  
 取材の後、控え室でデュークさんが葉巻を吸って休まれたので、本人に断りを入れて撮影させてもらった。
 ちなみにデュークズウォークだけではなく、健康雑誌の仕事で<考える人歩き>や<骨骨体操>など数々の体操、エクササイズを撮影したが、自分で実践したことはほとんどない(笑)。

YouTubeから「デューク更家 トルソーウォーキングを実演付きで解説

デューク更家 公式ウェブサイト

六本木リュウスタジオ 2005年5月2日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2005年8月号
#デューク更家
#DukeSaraie
#デュークズウォーク
#DukesWalk
#アーカイブ

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10月5日(土)

 昨日の午後、石破首相が衆院本会議で所信表明を行なった。そこで5つの「守る」を掲げたが、首相就任前と就任後で手のひらを返したように言っていることが違う人の「守る」を誰が信じるのだろうか。

 沖縄の南城市奥武島漁港付近の海岸で遊園中の水難事故が相次いだことを受けて、市が今月1日に「飛び込み禁止」などを明記した看板と救命浮輪3個を設置したそうだ。
 奥武島で海に飛び込む人が多いのは、毎年ユッカヌヒー(旧暦5月4日)に行われる海神祭で、橋の上から漕ぎ手が海に飛び込み、近くで待っている船に乗ってスタートする流れ船(三番バーリー)の影響だろうか。
 初めて奥武島に行った時も、男の子が橋の中央から海面に飛び込み、女の子は浅瀬で海水に浸かりながらブタメンを食べていた。高い橋の上から海に飛び込みたいとは思わなかったが、海水に浸かりながら食べるブタメンは美味しいかもしれないと、ちょっと思った。

奥武島の三番バーリー
↑海神祭で行われる流れ船(三番バーリー)。2013年6月12日撮影。
↓ブタメンを食べる女の子たち。→橋の中央から飛び降りる男の子。
奥武島02
奥武島01

◯JUNKO(三原じゅん子)

 今月1日に発足した石破新内閣で、三原じゅん子参議院議員が、こども政策担当相として初入閣した。この任命に批判的な声もあるが、それでは彼女以外に適任者はいるのだろうかと考えると、これもまた難しい。要は議員の数だけは多いが、人材がいないのが自民党ということだろうか。
 彼女については5年前に、こんなことを書いている。

 6月24日に行なわれた安倍総理大臣の問責決議案での三原じゅん子議員の反対討論がネットを賑わしている。芝居がかったしゃべり方や「愚か者の所行」「恥を知りなさい」といった強い言葉が反感を呼んだようだが、個人的にはしゃべり方や言葉使いなどは興味が無くて、それよりも彼女が指摘する野党の問題点がことごとく間違っていることに驚く。
 年金問題に関しては政争の具にするな、生活への切実な不安を煽るなと述べているが、金融審議会のワーキング・グループが作成した報告書を受け取らず、まともな議論をしていないのは自民党であり、それが不安を煽っているのがわからないのだろうか。
 また、野党は年金対策の対案もないままに批判しているというが、先日の党首討論で共産党が具体的な対案を述べたのを聞いていなかったのだろうか。
 参議院は言論の府と主張しながら憲法審査会はたった3分しか開かれず議論から逃げ回っているというが、野党の求めに応じず衆院で3ヶ月以上、参院でも2ヶ月以上予算委員会を開かなかったのは自民党だ。
 民主党政権時代は総理大臣がコロコロと変わったのは確かで、それはマイナス面ではあったが、今となっては党にも国全体にも自浄作用があったのだろう。今は本来なら何度も退陣しなくてはならない人がたくさん居るのに、自浄作用がなく居座っている状況だ。
 3年間しかない民主党政権時代から、安倍政権に変わって6年以上が過ぎているがアベノミクスはまだ道半ばだという。その間に報道の自由度ランキング、世界競争力ランキングは下がり続けている。自民党は給料は上がったというが、物価上昇分を引けば実質賃金は下がっていると言うのが一般的な見識だ。
 そして何よりこの数年間で、政府が出してくる統計や数字に信頼性が無くなったという事実に震撼させられる。まさに今が悪夢のような時代だろう。

 掲載した写真は、JUNKOという名前でロック・シンガーとして活動していた時の三原じゅん子さん。
 1985年11月5日にまだ発売されて間もなかったミノルタのα-7000を買ったのだが、当時よく遊んでもらっていた音楽事務所「レイズ・イン」のレイ(長戸秀介。ビーイングの創始者・長戸大幸さんの弟)さんに話すと、11月16日に新宿ロフトで行うJUNKOのライブを撮りに来ないかと誘われた。ロック色の強いアルバム『So Deep』を発売したばかりの頃で、このアルバムのグランド・プロデューサーがレイさんだった。
 買ったばかりで使い方もよくわからないカメラをぶら下げて新宿ロフトへ撮影に行くと、捻挫をしたのか怪我をしたのか、松葉杖をついた彼女がステージに立っていた。リハーサルでは松葉杖をついたまま歌っていて、それがなんだかカッコ良かった記憶がある。コーラスに、まだデビュー前のGAOがいたのは覚えているが、他のメンバーが思い出せない。レコードにはギタリストのクレジットにTAKAYUKI MATSUMOTOとあり、ビーイング系列なのでB’sを結成する前の松本孝弘さんだろうか。ひょっとするとこの日のライヴのギタリストも松本孝弘さんだったかもしれない。この頃、浜田麻里のバックでギターを弾いている彼に機材のことでインタヴューした記憶がある。また、レコードではそうる透さんもドラムを叩いている。
 このマイクを突き上げている写真は、彼女が気に入ったというので何枚かプリントして渡している。それにしても、この撮影をした時からやがて40年。彼女もずいぶんと遠くへ行ったな、と思う。

YouTubeから「Wire Rock/Junko

真っすぐララバイ/三原順子

 
三原じゅん子 公式ウェブサイト

新宿ロフト 1985年11月16日撮影
#三原じゅん子
#JunkoMihara
#JUNKO
#アーカイブ

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三原じゅん子
井上京子

◯井上京子

 『ミュージック・マガジン』1993年5月号から12月号まで続いた連載「こいこいウナギのぼり」が、1994年1月号からタイトルを「スター千夜一夜」に変えてリニューアルした。変わったのはタイトルと、それまで構成=編集部となっていたクレジットが、聞き手・構成=高橋修と記名原稿になったこと。内容的にはテレビなどメディアを賑わせている著名人へのインタヴューで、コンセプトは同じだった。
 女子プロレスラーの井上京子さんは、『スター千夜一夜』の2回目に登場した。プロレスは全然わからないので、当時の記事のプロフィールを引用すると、
<いのうえ・きょうこ=1969年4月22日、山形県生まれの女子プロレスラー(全日本女子プロレス所属)。88年、プロ・デビュー。ブル中野ひきいるヒール(悪役)軍団”獄門党”の一員として活躍。ヒールの常識を覆す明るく楽しい実力派として人気者に。ブル対アジャ・コングという図式で盛り上がり出した女子プロの中で重要な役割を演じた。93年”全日本女子プロレス大賞”で技能賞を受賞>

 音楽雑誌なので、好きな音楽についても聞いている。
「聞きますよ。私が好きなのはね、プリプリとね、最近は吉川晃司が好きでね、ブルーハーツはもうずっと好きでしょ。けっこうなんでも聞きますね。移動中はずっと聞いてますよ。もう耳がおかしくなるくらい。あと、歌はそうでもないけど、やっぱり吉田栄作だなぁみたいな(笑)。ひとりでポスター見ながらニヤニヤしてたりとかね」
 wikiによると全日本女子プロレスを脱退後、フリーランス、ネオ・レディース、ECW JAPAN、NEO女子プロレス、フリーランスと経て、現在はワールド女子プロレス・ディアナに所属。現在55歳だが、現役のプロレスラーとして活躍されている。また、レスラー活動と並行して居酒屋「あかゆ」を経営しているそうだ。

YouTubeから「井上京子、井上貴子 VS. ブル中野、北斗晶

井上京子Instagram

井上京子のお店「あかゆ」 公式ウェブサイト

目黒・全日本女子プロレス 1993年12月20日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1994年2月号
#井上京子
#KyokoInoue
#アダモ井上
#AdamoInoue
#スター千夜一夜
#アーカイブ

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10月3日(木)

 就任前と就任後の石破茂首相の発言が、手のひらを返したようにコロッと変わっている。あれだけ選挙で国民に信を問うには国会での論戦が重要だと言っていたのに、最短日程での衆院選実施を決めてしまった。
 石破内閣になって裏金議員の処遇や、紙の保険証の廃止見直し、選択的夫婦別姓の導入といった議論が進めば自民党支持が増えて衆院選では手強くなるかなと思っていた。石破氏の政治的スタンスに賛同などしないが、少なくとも自民党議員の中では筋だけは通す人だと思っていたが、安倍派や麻生派の議員からの反発を恐れてか言行不一致でオウンゴールを放ったようだ。これでは党内からも、国民からも支持は得られないのではないか。衆院選で大敗して自民党が瓦解することを期待する。
 一方の野党第1党である立憲民主党も先月行われた党の代表選で、決選投票の結果、枝野幸男氏を破って野田佳彦氏が代表の座についた。個人的に野田氏は顔を見たくない政治家の上位に入る。これまでも自民党よりはマシだと心に言い聞かせ、共産党の候補者がいない選挙では鼻をつまんで立憲候補に1票を投じてきた。共産党が候補を立てる選挙は別にして、これからは鼻をつまんで眼をつむり立憲に投じなくてはならないのだろうか。これから頻繁にあの顔をテレビで見ることになるのかと思うと気が滅入る。
 国民民主や維新と共に野党共闘と立憲はいうが、そもそも国民民主も維新も自民党の2軍のような存在で野党ではないだろう。立憲もそうなりつつある。
 救いなのは立憲のこれまでの態度に呆れた共産党が、「小選挙区にも最大限候補を立て、勝利のために奮闘する」と表明したことだ。野党共闘で自民党を倒したいと本気で立憲が思っているなら、今度は共産が候補を立てている選挙区では立憲が候補を下ろしたらどうか。
 自民党も立憲民主党もオウンゴールを放った隙に、共産党が躍進することを願う。共産党にも問題のある議員がいるかもしれないが、自民よりは、立憲よりはマシだと思うから。

 下地幹郎氏が衆院選沖縄1区からの出馬を表明し、落選した際には「政治家を引退する覚悟で、全力で戦いたい」と訴えたそうだ。ぜひ引退してください。

 この他の気になった記事を備忘録として。
石破首相らを大学教授が告発 政治資金収支報告書に過少記載疑い
「誹謗中傷は全員逮捕」と言った牧原秀樹法相、「愚か者」発言の三原じゅん子担当相…石破内閣の不思議な人選
平将明デジタル相、保険証廃止「堅持する」 マイナカードに一本化の方針変わらず
「安倍国葬文書」隠蔽で国を提訴 非営利報道機関「Tansa」が“閣議決定政治”に一石
Tシャツ1枚が200万

加藤鷹

◯加藤鷹

 言わずと知れた元カリスマAV男優。元というのは、2013年にAV男優を引退されたそうだ。引退するまでに出演したAVは1万5000本以上で、絡んだ女優さんは推定8,500人だという。
 現在は個人事務所「株式会社加藤鷹商店」を設立し、性や恋愛、人生に関する講演やセミナー、グッズ販売などを行なっている。また、台湾の成人向けコンテンツ配信サービスのアドバイザー兼プロデュースといった活動もされているようだ。
 加藤鷹さんを撮影したのは健康雑誌のセックス特集で、2003年と2004年の2回撮影している。1回目は「カリスマAV男優が明かす 最高の満足感を得るセックスはまず会話から始まる」という記事になっていて、2回目は「ときめく、感じる、満ち足りる!カリスマ直伝!セックス官能レッスン」という記事になっている。

 2回とも出版社の会議室でインタヴュー中のカットを撮影し、インタヴューの後にスタジオでポートレートを撮っている。記憶に残っているのは話の内容ではなく、話の長さ。2回とも取材が終わらず終電がなくなり、しょうがないので担当編集者とライターさんの3人で食事をして始発で帰宅した。
 たぶん1、2時間でインタヴューが終われば終電で帰れる時間にセッティングしていたはずなので、4時間とか5時間くらいの取材になったのだろうか。とにかく鷹さんの話が止まらなかった。
 1回目と2回目の間に、同じ雑誌で川奈まり子さんの撮影もしている。二人はこの頃、週刊プレイボーイで「帝王・加藤鷹&女王・川奈まり子の性春グチョグチョ診察室」という連載を持ち、AV界のキング&クイーンといった感じだった。川奈さんに鷹さんの取材で話が止まらず終電を逃した話をすると、それは鷹さんの機嫌が良くて気に入られたからだと言われた。
 掲載した写真は、たぶん2回目に撮影した時のポートレート。インタヴュー中の写真はフィルムごと編集部に渡して手元に無いようだ。ちなみに、鷹さんはインタヴュー原稿も写真もノーチェックだった。

加藤鷹商店 公式ウェブサイト

加藤鷹笑店 公式YouTubeチャンネル

加藤鷹 X(旧Twitter)

文京区・マキノ出版 2003年2月19日撮影
文京区・マキノ出版 2004年6月2日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2003年6月号
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2004年9月号
#加藤鷹
#TakaKatou
#アーカイブ

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川奈まり子

◯川奈まり子

 今は怪奇ものを中心とした小説家になっている川奈さんを初めて撮影したのは2003年の8月で、まだAV女優業をしていた頃。健康雑誌『ゆほびか』の性に関する特集ページでだった。
 出版社の会議室でインタヴューの写真を撮り、スタジオでポートレートを撮った。仕事で撮影したのはこの時だけだが、この時に撮影した写真を彼女の公式ファンサイトに提供したりしているうちに親しくなり、イベントに誘われたり2度ほど自宅にお邪魔したこともあった。
 2003年の彼女の誕生日パーティーも誘われて出かけて行った。ゴールデン街の寿司屋で始まり、その後、歌舞伎町の大型居酒屋に席を移した。女優業を引退すると正式に発表したのは、この時じゃなかったか。パーティーには長瀬愛、及川奈央といった当時人気の女優さんも来ていて、隣りに座った及川奈央ちゃんにお酒を注いでもらったのを覚えている。

 桜たまきさんと3代目葵マリーさんが企画して、川奈さんと溜池ゴローさんのサプライズ結婚式を原宿の教会で挙げたのは、その翌年だったろうか。一時、その時の映像がYou Tubeに上がっていたが、今はまた消えている。
 最後にお会いしたのは、最初に彼女を撮影した健康雑誌で再び取材することになった時だろうか。以前の写真を再掲載するので撮影は必要ないが、遊びに来ませんかと編集者に誘われて麻布の方まで出かけて行った。
 取材の後、生まれたばかりの男の子を見に自宅へ伺った。男の子を抱く、素顔の川奈さんを撮影して帰ってきた。

川奈まり子 X(旧Twitter)

文京区・マキノ出版 2003年8月2日撮影
初出『ゆほびか』(マキノ出版)2003年11月号
#川奈まり子
#MarikoKawana
#アーカイブ

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10月1日(火)

 今日、約3年続いた岸田内閣が総辞職し、石破新内閣が誕生した。新内閣の閣僚はこちら。富山県選出の議員では、橘慶一郎氏が官房副長官に任命された。

ザ・クエイクス

◯ザ・クエイクス

 ザ・クエイクスは1986年にニューヨークのバッファローで結成されたロカビリーバンド。撮影したのは彼らの4枚目のアルバムで、日本ではソニーから発売された『New Generation』をリリースした1993年。アルバム発売に伴うコンサート・ツアーで来日した際の取材だった。
 インタヴュアーは鯉沼均さんという初めてご一緒する方。日本のロカビリー・レーベル「プラネット」の経営者で、クエイクスの90年の2ndアルバム『Voice Of America』と91年の『Live in Tokyo』は日本ではプラネットから発売された。
 ロカビリーは門外漢でわからないのだが、この頃、再びロカビリー・ブームが起こっていて多数のロカビリー系アーティストが来日したと記事には書いてある。そう言えば、ストレイ・キャッツのブライアン・セッツァーの撮影が入っていたのが当日にドタキャンされたことがあったが、この頃かもしれない。

 写真はヴォーカル、ギターのポール・ローマン、ベースのロブ・ぺルティエ、ドラムのクリス・ヴァンクリーヴの3人が揃ったところを撮影しているが、インタヴューでは主にポール・ローマンが答えている。

 結成からやがて40年、取材した時から30年以上経っているが、ザ・クエイクスはポール・ローマンが中心となり、新たなベースとドラムで活動を続けているようだ。
 鯉沼均さんのロカビリー・レーベルも検索して見たが、こちらの動向はわからなかった。

YouTubeから「Putting out the flame/The Quakes」 「Another Hole in My Heart/The Quakes

ザ・クエイクス 公式ウェブサイト

市ヶ谷・ソニー 1993年3月25日撮影
初出『ミュージック・マガジン』1993年6月号
インタヴュアーは鯉沼均さん
#ザクエイクス
#TheQuakes
#ポールローマン
#PaulRoman
#ロブペルティエ
#RobPeltier
#クリスヴァンクリーヴ
#ChrisVanCleve

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ガスタンク

◯GASTUNK

 カテゴリーとしては、ハードコア・パンクなのだろうか。GASTUNKの撮影は、10代の女の子向けの雑誌『ポップティーン』の仕事だった。スタートが夜8時からで、フロアは若い女の子でいっぱい。元々ディスコで天井は低く、照明も仄暗いのでストロボをけっこう焚いている。ステージとフロアの間の柵に潜り込んで撮影していた記憶がある。みんなTシャツも髪の毛も、土砂降りの雨に打たれたように汗で濡れていた。
 wikiによればX JAPAN、ラルク、黒夢などが彼らに影響を受けたと公言していると書かれている。なるほど、この撮影が1987年で、X JAPANのメジャーデビューは1989年か。何度か解散と再結成、メンバー・チェンジを繰り返しながら、現在も活動を続けている。

YouTubeから「GERONIMO/GASTUNK

GASTUNK 公式ウェブサイト

新宿「ツバキハウス」 1987年7月29日撮影
初出『ポップティーン』1987年10月号

#ガスタンク
#GASTUNK
#新宿ツバキハウス
#ShinjyukuTSUBAKIHOUSE
#アーカイブ

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9月へ