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◯山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信 https://www.covid19-yamanaka.com/index.html
◯新型コロナウイルス感染速報 https://covid-2019.live/
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
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○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョ 10イさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

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7月30日(金)

暑中お見舞い申し上げます。

 下の写真はスペインのコルドバ、グアダルキビール川にて1986年5月に撮影。

 酷暑だ。家で扇風機に当たりながらパソコン作業をしていても厳しい暑さなので、屋外でプレイするアスリートはさぞ大変だろう。スペインの選手が熱中症の症状でオリンピックの試合をリタイアした。
スペイン・コルドバ

 2013年に東京大会の招致委員会が述べた「五輪が開催される東京の夏は温暖で、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候です」という説明に、海外メディアから批判が起こっているらしいが、当時のこの国の首相は国会で118回も嘘の答弁をした男。福島の汚染水はアンダーコントロールされていると同様、それくらいの嘘は彼や承知委員会にとってどうってことはないのだろう。まあ、東京の夏の酷暑はちょっと調べれば分かるだろうに・・・とも思う。
 テニスのメドベージェフ選手が試合中に暑さを訴え「死んだら誰が責任を取るんだ」と審判に訴えたそうだが、かわいそうだが誰も責任を取りそうもない。酷暑と新型コロナというリスクの高い時期のイベント、少しでも責任感があれば開催などしない。最初っから責任を取るつもりのない人達だから開催できるのだろう。ちなみにこの国の118回嘘の答弁をした前首相は昨年、新型コロナ対策について外国の記者から「失敗だったらどういうふうに責任をとりますか?」と聞かれ、「私が責任を取ればいいというものではありません」と答えた男だ。これまで内閣の不祥事があるたびに責任は私にあると述べながら、その責任を取ったことがない。

 今日の東京の新規感染者数は3300人。これで3日連続で3000人を超えたが、感染者の数よりも検査数の少なさの方が驚く。こちらの情報によれば、7月26日が18,612件、27日が14,025件、28日が11,260件。1日20,000件も検査をしていないのに連日3000人の陽性者が出るというのは異常だろう。オリンピック期間中だから陽性者の数を少なくするために検査数を絞っているのか、あるいはこれ以上検査数を増やせないほど保健所が逼迫しているのか。
 国や都はまだ医療崩壊はしていないと言うが、新型コロナ患者の急増を受け通常診療の制限を視野に入れるよう医療機関に通知したというのだから、もう医療崩壊は始まっている。実際、東大病院のICUが新型コロナ以外の患者受け入れを制限したことが明らかになった。現在、東京の自宅療養者は8,477人、入院調整中の人が5,575人だという。よく海外の報道で、病室が満床で病院の廊下や敷地で治療を受けている人の映像を流し医療崩壊の現場として紹介されるが、日本の場合は病院の廊下や敷地にも入れてもらえず自宅に待機させられている。ある意味、海外の医療崩壊と同じか、或いは扱い自体はもっと酷いのではないだろうか。
 感染拡大は東京だけではなく全国で広がっており、政府は緊急事態宣言の対象に埼玉・千葉・神奈川の首都圏3県と大阪を加えた。また、北海道・石川・京都・兵庫・福岡の5道府県に「まん延防止等重点措置」を適用することを決めた。富山もこのところ感染者数の増加に歯止めがかからず、今日は37人の感染が確認されている。新田八朗富山県知事は一昨日、感染が拡大しているとして4回目の富山アラートを出したが、警報を鳴らすだけで相変わらず具体的な対策はなさそうだ。富山でもデルタ株が見つかっているのだから、濃厚接触者の定義を見直しもっと広い範囲でPCR検査を行うなどしないのだろうか。
 これだけ国内で新規感染者が急増しているにも関わらず、菅首相も小池都知事もオリンピックとの関係を否定する。小池知事に至っては、五輪のテレビ視聴率が20%を超えていることから「オリンピックはステイホームに一役買っている」との詭弁を言い出す始末だ。7月24日の中日新聞に<東京都からカップルで訪れ、近江町市場を見て回っていた会社員中林宇響(うきょう)さん(22)は「コロナの心配はあるが、五輪ができるくらいなので。政府への反逆です」>という記事が載っていたが、その4日後の28日、石川県で過去最多の119人の感染を確認している。山梨県教育委員会幹部らが今月25日、教育関係者ら計12人前後で昼食付きのゴルフをしていたことが明らかになったが、参加した幹部は「東京オリンピックが感染対策を徹底して実施されている。対策すれば、同じスポーツのゴルフも開催していいのではと判断した」と述べたという。
 国も都も国民・都民に危機感を持って欲しいというが、<緊急事態宣言だけどオリンピックはやるんだよね?>というのが国民の感情で危機感を持てという方が無理だろう。もし本気で危機感を抱かせたいなら、オリンピックを中止して非常事態宣言を出すしかないのではないだろうか。
 国内の感染拡大も気になるが、オリンピック関係者の感染も増えている。
五輪選手・関係者、新たに27人陽性 最多更新、計220人に
米選手がコロナ陽性、豪陸上選手63人全員が自己隔離 東京五輪
【独自】陽性の五輪審判員2人 ホテルから無断外出
 政府はバブル方式で安全安心を謳ったが、 実際は穴だらけのバブルだった。心配なのは、東京五輪由来の変異株が生まれるのではないかということ。個人的には誕生しても不思議はないと思っている。
 先日、小山田圭吾氏の過去のいじめ問題で<オリンピック開会式で使われる曲は、テレビで開会式を観なくてもニュース番組やダイジェスト番組で流れる可能性があり、彼の作った音楽を聴きたくないという人の耳に届く可能性がある。彼が音楽を担当したNHKの教育番組もそうだろう。しかしピエール瀧の時のようにCDや映像商品の出荷停止や回収などが行われるとしたら疑問だが、今のところそういう話は聞かない。CDやコンサートなどは、聴きたい観たい人が主体的に選べるので今回の件で制限されるべきではないと思っている>と書いたが、小山田氏が参加しているバンドMETAFIVEの8月11日発売予定だったアルバム『METAATEM』が発売中止になった。これはやり過ぎだろう。
 この他の気になった記事を備忘録として。
関西電力が1.9億円所得隠し 役員報酬補塡で国税当局
安倍前首相の不起訴、一部は不当  「桜」夕食会で検審
【速報】沖縄県、辺野古サンゴ移植許可を撤回「防衛局が条件守らず」
  Photo Diaryを更新。
*2012年3月9日のPhoto Diaryはこちら。(瀬戸内町・海の駅の「くろまぐろ祭り」、マングローブ原生林、西仲間)
*2012年3月10日のPhoto Diaryはこちら。(赤崎山?)
*2012年3月11日のPhoto Diaryはこちら。(さよなら原発!3.11奄美地区集会)
*2012年3月12日のPhoto Diaryはこちら
3月12日のスナップ。戦時中の電話ボックス
↑12日は道の島バス本社を12時21分出発のバスで、古仁屋に。古仁屋港14時発のフェリーかけろまで、瀬相港へ。
 瀬相集落と瀬相権現神社を撮影してから、歩いて於斉集落へ向かう。
 集落の外れで「旧鎮西村役場跡地」と彫られた、石碑を発見。石碑があるだけで、まわりは何もない原っぱですが(汗)。
 海岸の方に歩いて行くと、ガジュマルの巨木。話には聞いていましたが、ガジュマルの近くにあったデイゴの木は伐採されていました。
 集落の中を撮影しながら歩いていると、何回か顔をお見かけした加計呂麻バスの運転手さんとばったり。於斉にお住まいだとか。昔のカミミチや、戦時中の電話ボックの転がっている海岸を案内していただく。
 最近、加計呂麻島を観光するツアーが多いようです。今日も加計呂麻バスを2台借り切って、於斉のガジュマルを見学しているツアーがありました。
 於斉から瀬相に戻り、瀬相港を18時5分のフェリーで古仁屋港へ。海の駅を18時35分発のバスで、名瀬へと帰る。写真は於斉集落の海岸の端っこに転がっていた、戦時中の電話ボックス。
*2012年3月13日のPhoto Diaryはこちら
知之浦集落
↑一昨年の暮れから昨年の春にかけて加計呂麻島の集落を巡り、バス路線のない知之浦集落以外は写真を撮って歩いた。
 知之浦は行かなくても・・・と少し思っていたが、今年の1月に嘉徳のよしかわ工房さんへ行った時、三浦集落から歩いて行けるし、大島海峡ではなく入り江に面した集落で良いところだから是非行ってみなさいと、ご主人に言われていた。
 昨日と同じく道の島バス本社を12時21分出発のバスで、古仁屋に。古仁屋港14時発のフェリーかけろまで、瀬相港へ。瀬相から加計呂麻バスで三浦集落へ。
 入り江に沿って一本道を、知之浦集落へと歩く。歩くにあたって、色んな人に何分くらいかかるか聞いてみたが、バラバラな答えが返って来て戸惑う。20分で着くという人から1時間はかかるという人、加計呂麻島に住むマイミクさんは30分ほどじゃないかとの答え。
 入り江を一つまわって、それから山を越え、また入り江をまわる。そうして深い入り江の奥に佇む小さな集落、知之浦に着いた。わりと急ぎ足で40分、実感としては徒歩45分〜50分くらいの距離だと思う。
 平成20年4月末のデータでは、知之浦の世帯数8、人口16人となっているが、集落でお会いした女性と話していたら昨年、今年と亡くなられた方がいるようで、もう少し人口は少なくなっている。
 瀬相港へ戻るバスが、三浦集落で17時20分。その時間に少し余裕を持たせて、知之浦を出る。
 海岸の堤防の猫を撮っていたら、近くに鳥が飛んで来た。ヤツガシラだ。実物のヤツガシラを見たのは初めて。撮ろうと思った瞬間、逃げられてしまった。写真は知之浦の集会場の前にある土俵。土俵の奥に、重力や引力を無視して水平に伸びる松があった。ちなみに、現在の知之浦の人口は5世帯7人だそうだ。
*2012年3月15日のPhoto Diaryはこちら。(崎原)
*2012年3月19日のPhoto Diaryはこちら。(イソヒヨドリ、尾崎の三本松、山の神の祠)
*2012年3月21日のPhoto Diaryはこちら
3月21日のスナップ。大浜海浜公園から
↑21日は気温はそれほど上がらなかったが、快晴。
 先日、早朝の金作原(きんさくばる)へ野鳥の調査に同行したとき、金作原の途中までの道が思っていたよりも平坦でサイクリングに向いているな〜と感じたので、ちょっとトライしてみました。
 朝仁から小宿を通り、里を抜けて知名瀬トンネル。トンネルの先、道路に突き当たって右に曲がれば集落と海岸に出る。いつものサイクリングコース。今日は突き当たりを左に曲がり、金作原原生林の方角へひた走る。
 ハウス農園や果樹園の横を通って山に向かう。すれ違ったのは、工事車両とマングースバスターズの車だ。家を出発しておよそ1時間半。金作原原生林まであと5キロの立て札があった。ここまでは割りと平坦な道で楽しく走れたが、ここから先はず〜っと上り坂が続く。今日の目的は金作原原生林ではなく、あくまでも楽しくサイクリングなのでタッタカ引き返す。
 金作原原生林の5キロ手前で引き返して来て、またいつものコースで知名瀬集落から海岸、海岸沿いを走って根瀬部に行く。根瀬部の海岸でゴロンと横になって、右前方の大浜海岸を眺める。今日は晴天、夕焼け見れるかも?
 根瀬部から知名瀬、小宿と戻り、大浜海岸に続く山道を自転車を押しながら上る。大浜海岸の駐車場に着いたら、近くで双眼鏡を覗いていた男女が同時に歓声。クジラがジャンプしたらしい。話を聞くと大和村の方から潮を吹きながら移動しているクジラを追いかけて来たとか。
 山の中腹にある駐車場から歩いて海岸まで下りる。時間が経つにつれ、水平線に雲が多くなって来た。完璧な落陽は見れなかったけれど、それでもギリギリまでまん丸な太陽が、ゆっくり沈んで行くのが楽しめた。写真は大浜海浜公園から。
*2012年3月22日のPhoto Diaryはこちら。(名瀬港、借りてきた本)
*2012年3月23日のPhoto Diaryはこちら。(アマゾンで購入した外付けHDDとUSBメモリ)

7月27日(火)

 今日の東京都の新規感染者数は2848人。発表の直前、3000人超えの予想も出されたが、踏み止まった。それでもこれまでで最多だった1月7日の2520人を大きく上回る過去最多となっている。小池都知事は昨日、「おうちでオリンピックを応援することが、人流を抑えるなどいろんな効果に繋がる」と述べたそうだが、開会式当日にブルーインパルスを飛ばしたり、臨海部に聖火台を置くなど人が集まるような施策ばかり行なっている。自分たちが行なっている施策と、都民・国民に訴えていることの整合性の無さに気づかないのだろうか。
 今日の感染者数は2週間前の人々の行動の表れだと言われているので、オリンピック開会後の影響はこれから数字になって表れてくるはず。ただ、日本の場合は検査能力が低いので新規感染者数もどこかの時点で伸びなくなるのかもしれない。それはそれで、恐ろしい。

 動きの遅い台風8号は今夜遅くか明日の明け方、東北に上陸する予想だという。1951年の統計開始以来初めて宮城県に上陸する可能性があるとしている。となると、心配なのが福島第一原発だ。台風8号に備えて大型クレーンが倒れないようにしたり、建屋に雨水が入り込まないように土嚢を置いたりして対策を講じているようだが、不安は残る。富山も台風の影響か、久しぶりに午後からザーッと雨が降った。
 このホームページ用に借りているサーバーの更新が8月1日で、しばらく前から毎日ロリポップから契約期間終了が近づいていますというメールが届いていたので、昨日、郵便局から契約更新の料金を振り込んできた。昨年までは年間3,300円だったのが、今年は3,960円に上がっていた。

 昨日、ユネスコ世界遺産委員会は「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」の登録を決定した。多くの人がこの決定を喜んでいるだろうが、課題も多い。
やんばるの森に残された米軍廃棄物
世界遺産の足元に「きれいな」外来植物 駆除は至難の業
 沖縄本島北部やんばるの森の中にある、米軍の北部訓練場。 7500ヘクタールのうち、約4000ヘクタールが2016年12月に返還された。この返還された土地も今回の自然遺産登録に含まれているが、その土地には米軍の廃棄物が大量に残っている。また、沖縄にも奄美にも外来植物や外来生物が多数繁殖し、固有種の生息域を侵食しているという。これらの問題を放置しておけば、つい最近、過剰な開発を問題視されたリバプールのように世界遺産登録を抹消されることがあるのかもしれない。

モダマの蔓
↑は奄美大島の住用町東仲間に自生しているモダマの巨大な蔓。ちなみにモダマの豆が入った鞘は、大きなものだと1mを越す。
 2018年6月にくも膜下出血で倒れて以来、闘病を続けていたセンチメンタル・シティ・ロマンスのギタリスト・中野督夫さんが、今朝亡くなった
春待ちJoint Concert
 上の写真はヘッケル田島さんの還暦を記念して企画され、2009年3月29日に開催されたT-BIRDとセンチメンタル・シティ・ロマンスによる『T-BIRD/3SENTI 春待ちJoint Concert』。左から今剛、ヘッケル田島、中野督夫、小室良、湯川トーベン、鮫島秀樹(顔は見えませんが)、告井延隆。トーベンさんと告井さんの間にあるドラムには、ジョニー吉長さんが座っていた。ジョニーさんは2012年6月に、良さんは昨年の5月に鬼籍に入られてしまった。
 1975年に発売された1stアルバム『センチメンタル・シティ・ロマンス』は高校生の頃によく聴いたし、収録曲の「うちわもめ」「うん、と僕は」「あの娘の窓灯り」は、コピーして学園祭でも演奏した。このアルバム『センチメンタル・シティ・ロマンス』を巡っては、ニュー・ミュージック・マガジン(現ミュージック・マガジン)の編集長だった中村とうようさんが0点を付けて論争になったそうだが、高校生だった当時、そんなことは全く知らなかった。個人的に今も名盤だと思っているし、時々聴き返したくなるアルバムだ。
 生のセンチメンタル・シティ・ロマンスを初めて聴いたのは、T-BIRDのローディーをしていた1978年の夏で、確か名古屋の野外で行われた『センチメンタル・ファミリー・コンサート』にT-BIRDが出演した時だと思う。その時のコンサートの様子はほとんど覚えていないが、センチのマネージャーで名曲「あの娘の窓灯り」の作詞者でもある竹内正美さんと一緒に行動していたのは薄っすらと覚えている。竹内さんの実家が銭湯で、営業前の女湯をメンバーと一緒に見せてもらった記憶がある。40年以上前のことなので、思い違いもあるかもしれませんが・・・。 
 センチの大型バスを改造した楽器車が写った写真、何処かにあるかなと探したがなかった。あの頃、あんな楽器車を持っているバンドはあまりなかったと思う。楽器車にメンバーも一緒に乗って日本中を旅したセンチもT-BIRDも、ホントにツアー・バンドだったな。
 You Tubeから「あの娘の窓灯り/センチメンタル・シティ・ロマンス」。
  Photo Diaryを更新。
*2012年2月21日のPhoto Diaryはこちら
2月21日のスナップ。カトリック浦上教会
↑21日は部屋でパソコンさばくりをしようと思っていたら、向かいの空き部屋のリフォームが始まったようで、朝から”ガガガガガ”とうるさい。居たたまれなくなって、午後から天気も良いことだしサイクリングに出掛ける。
 名瀬港をくるっとまわって、山羊島から鳩浜、浦上へ。カトリック浦上教会の建物を撮っていたら、通りがかった教会の方が中へ入ってもかまいませんよと声を掛けて下さる。お言葉に甘えて、誰もいない聖堂を少し撮影させてもらう。
浦上教会から有盛神社、少し戻って大熊漁港から大熊教会へ行き、名瀬に戻る。
 新川沿いを少し上って安勝をブラブラした後、また名瀬港をぐるっとまわって長浜から朝仁へ。朝仁のスーパーで今年最初のアイスクリームを購入して、食べながら家へ帰る。写真は、カトリック浦上教会(ルルドの聖マリア)。
*2012年2月22日のPhoto Diaryはこちら。(名瀬の立神岩)
*2012年2月24日のPhoto Diaryはこちら。(名瀬港、シビとアボガド、さくら餅)
*2012年2月25日のPhoto Diaryはこちら。(フェリーあまみの入港)
*2012年2月26日のPhoto Diaryはこちら
2月26日のスナップ。オオタニワタリが着生したオキナワウラジロガシ
↑26日は、奄美の自然を考える会の観察会。
 朝5時に起きて卵焼きを作り、オニギリを3つ握る。1つは朝飯がわりに食べ、一昨日大熊漁港で買った魚の天ぷらと、昨日届いた漬け物を卵焼きと一緒にプラ容器に詰める。これで今日の観察会用のお弁当が完成。
 8時20分に長浜緑地公園に集合。今回は長雲峠から円集落まで続く旧道を歩きながらの観察がメイン。道路整備のために、今後この古道が舗装されてしまうということで、その前に歩いてみようという企画です。
 長雲峠の前に、昨年も観察した大勝集落の絶滅危惧種のオキチモズクを見に行く。昨年の2月に見た時はけっこう大きかったのに、今年はまだ小さいですね。
 途中、本龍郷でトイレ休憩をして長雲峠に着いたのは10時。ここでバスを降りて円集落まで草花を観察しながら歩きます。
 この古道で観察できるもののリストをいただいたので抜粋すると、
<哺乳類>オリイコキガシラコウモリ、ケナガネズミ、アマミノクロウサギ、リュウキュウイノシシ。
<両生類>リュウキュウアカガエル、アマミイシカワガエル、オットンガエル。
<爬虫類>オキナワキノボリトカゲ、バーバートカゲ。
<植物>カンアオイ属、アマミザンショウ、ハシカンボク、リュウキュウハナイカダ、シマギンレイカ、リュウキュウスズカケ、オキナワテイショウソウ、ツルラン、カゴメラン、フウラン、ナゴラン。
<他>オキナワウラジロガシ、ヤエヤマネコノチチ、オオシマウツギ、オオシマコバンノキ、シマオオタニワタリ、タンゲブ。
 今回は、アカガエルのオタマジャクシを水たまりで、アマミノクロウサギの糞を林の中で見つけました。
 1時間ほどの予定でしたが、寄り道が多かったからか円集落まで2時間半かかりました(笑)。進行表では円古道から嘉渡海岸に行ってからお昼ご飯でしたが、時間がなくなって円の海岸沿いにバスを停めて車内で食事。食べ終わってから奄美大島の田袋、秋名集落の田んぼで鳥の観察をして名瀬に戻って来ました。写真はオオタニワタリやシダが着生してジャングルの様になっている、オキナワウラジロガシの巨木。
*2012年2月28日のPhoto Diaryはこちら。(土砂降りの名瀬港)
*2012年2月29日のPhoto Diaryはこちら。(魚コロッケ、名瀬ゴルフクラブ、赤崎公園、小宿沖の海、朝仁海岸)
*2012年3月1日のPhoto Diaryはこちら
3月1日のスナップ。名瀬港を出て行く「ぱしふぃっくびいなす」
↑リフォーム工事が向かいの部屋から隣の部屋に移って来たようで、騒音がはんぱない;(´Д`)。居たたまれず、午後からサイクリングに出掛ける。
 お天気の確認に窓を開けると、観光バースに「ぱしふぃっく びいなす」の大きなおしりが見えた。
 とりあえず名瀬港をまわって龍郷方面へ。奄美大島の北から南を貫く国道58号線を使えば龍郷湾までは一本だけれど、せっかくなので脇道脇道と探しながら龍郷を目指す。
 本茶トンネルまでは有屋、浦上集落を、中勝から大勝までは山沿いの道を探して走った。そう言えば一昨年10月の豪雨災害で斜面が崩れて工事をしていた本茶トンネルと中勝集落の間の現場がいつの間にか完成し、片側通行が解除されていた。
 大勝に入ってサトウキビ畑の中の道を進むと川が見えた。近くには牛舎が建っている。昨年9月の奄美北部豪雨で、増水した川に流されて戸口の港から小湊港まで泳いだという牛を飼っている牛舎だろうか?
 この氾濫した大美川の上流へ自転車を走らせる。橋が流され、コンクリートの堤防が剥がされ、凄まじかった豪雨の爪痕がまだくっきりと残っている。
 ずいぶん山の方に入って、河川工事で行き止まりになっている場所まで行って引き返して来た。
 龍郷湾まで行く予定だったけれど、寄り道にすっかり時間が取られた。大勝集落の中をぶらぶらしてから、名瀬へと帰る。
 山羊島に着いたのが夕方6時頃。ちょうど「ぱしふぃっく びいなす」が岸壁を離れるところだった。写真は名瀬港を出る「ぱしふぃっく びいなす」。
*2012年3月4日のPhoto Diaryはこちら。(朝仁海岸、朝仁新町、泉芳朗居住跡地、高千穂神社)
*2012年3月5日のPhoto Diaryはこちら。(にっぽん丸、立神岩、イソヒヨドリ、夕暮れの朝仁海岸)
*2012年3月7日のPhoto Diaryはこちら。(名瀬港の対岸、赤崎山、朝仁海岸)

7月24日(土)

 昨夜、東京オリンピックの開会式が行われた。普段は晩御飯を食べたら、20時前には寝室に行く父親が開会式の中継を見るため居間に残っていた。2階の自分の部屋でネットを見ていて、トイレに行くために23時頃に1階へ下りたついでに居間を覗くと母親も中継を観ていた。一度布団に入ったが、テレビの音で眠れなくて開会式を観ることにしたようだ。あと30分ほどあったが、チラッと画面を見て自分の部屋に戻ってしまった。

 それにしても暑い。東京五輪は五輪史上最大級の猛暑になる恐れがあると、CNNが報じている。トライアスロンなどの競技会場となるお台場海浜公園のトイレ臭も報道されている。どちらも新型コロナ以前に心配されていた問題だが、どちらも対策がないままオリンピックが始まってしまった。加えて台風8号が、27日頃に関東か東北、東海に上陸しそうだという。どうなることやら。

 過去のいじめ問題が発覚して小山田圭吾氏が音楽担当を辞任してから、ユダヤ人大量虐殺を過去にコントのネタにしていたことが発覚して開会式前日に解任された演出担当の小林賢太郎氏まで、わずかな期間にアチコチで炎が上がった。
【速報】いじめ加害告白の小山田圭吾さん、五輪開会式の楽曲担当の辞任申し出
小山田圭吾さんの「いじめ記事」掲載した太田出版が謝罪。「差別を助長する不適切なもの」(声明全文)
組織委、小山田圭吾さん楽曲「五輪開会式で使用しない」と発表 パラ担当も辞任
小山田圭吾のいとこ謝罪 辞任発表に「正義を振りかざす皆さん、良かったですねー!」ツイート
小山田氏の担当番組中止 NHK「デザインあ」など
小山田圭吾辞任で「挑発」田辺晋太郎氏を監修起用 ヤマサ醤油が謝罪、人権侵害「容認しない
のぶみさん、五輪関連プログラムの出演辞退 発言にネットで批判
組織委 辞任の小山田圭吾さん「我々が選んだわけない」 演出チームが「仲間誘った」
小林賢太郎さんを解任 五輪開会式の演出担当 ユダヤ人大量虐殺をやゆ
小林氏発言、首相「言語道断」 開会式は「予定通りに」

 コーネリアスこと小山田圭吾氏は、雑誌の仕事で一度撮影したことがある。 なので、撮ったことのある者の責任として、何か書かねばと思っていたが、次から次へと炎上が広がってその機会を失ってしまっていた。
コーネリアス
 結論から言うと、彼の曲を開会式に使わないという判断は正しいのではないだろうか。障害のある友達をいじめていた過去を雑誌のインタビューで悪びれることなく語っていた人が、オリンピック・パラリンピックの開会式に作曲家として関わるというのは感情的にも社会的にも許されないだろう。
 彼がいじめについて語ったとされる雑誌はロッキン・オンとクイック・ジャパンだと言われている。シンコーミュージックのGiGSも謝罪しているので、この雑誌でもいじめについて語っていたのだろう。
 コーネリアスは1997年7月13日に撮影しており、左の写真がその時に撮影したものだ。撮影した当時はもちろん、今回の騒動が起きるまで彼のいじめについては全く知らなかった。ロッキン・オンは読んでいなかったが、クイック・ジャパンは何冊か家にあるので、問題の3号はないかと探して見たが、無かった。創刊から3号ということは、この頃の編集長は、飛鳥新社でポップ・ティーンの編集者をしていた赤田祐一君だ。

 赤田君とはポップ・ティーンではよく一緒に仕事をしたが、クイック・ジャパンでは直接仕事をしたことはなく、他の雑誌で撮影した写真を貸したことがあるくらいだ。家にあるクイック・ジャパンは、その掲載誌だったりする。
 今回の騒動の発端というのは、孤立無援のブログ「小山田圭吾のいじめを次世代に語り継ぐ」だろうと思われる。このブログの内容が周期的にネットで話題になっていたのが、東京五輪という大規模イベントを前に大炎上したのだろう。
 ロッキン・オンもクイック・ジャパンも誰でも読むような総合誌ではないし、25年以上前に発売された号なので実物を読んでいる人は僅かだろう。クイック・ジャパンの内容については、そもそもこの記事がどういう経緯で掲載されたのかを取材に同行していた当時の編集者・北尾修一氏が最近になって3回に分けて書いている。7月31日夕方公開終了。
いじめ紀行を再読して考えたこと 01ーイントロダクション
いじめ紀行を再読して考えたこと 02ー90年代には許されていた?
いじめ紀行を再読して考えたこと 03ー「いじめ紀行」はなぜ生まれたのか

 北尾氏の記事によれば、孤立無援のブログに書かれた文章は、読む方により悪意が伝わるよう恣意的に雑誌の内容を切り貼りし繋ぎ合わせてあるという。また、小山田氏自身はいじめのアイデアを出す方で実行犯ではないというようにも書かれているが、だからと言って彼のいじめが無かったことにはならないだろう。
  ミュージシャンがこれほど連日マスコミに取り上げられるのは、2019年3月の麻薬取締法違反で逮捕されたピエール瀧の事件以来だろうか。
 ピエール瀧の時は<電気グルーヴのCDを販売するソニー・ミュージックレーベルズは彼らのCD、映像商品の出荷停止と店頭在庫の回収を決めたようだ。しかし、そんなことを誰が求めているんだろうか?今回の件でピエール瀧や電気グルーヴが嫌いになり彼らの音楽や映像に触れたくないという人は店頭に並んでいても買わないだろうし、それでも聴きたいという人には発売すればいい。出荷停止や回収を決めたソニーの判断はとても疑問だ>と、その騒動を少し冷ややかに見ていた。
 オリンピック開会式で使われる曲は、テレビで開会式を観なくてもニュース番組やダイジェスト番組で流れる可能性があり、彼の作った音楽を聴きたくないという人の耳に届く可能性がある。彼が音楽を担当したNHKの教育番組もそうだろう。しかしピエール瀧の時のようにCDや映像商品の出荷停止や回収などが行われるとしたら疑問だが、今のところそういう話は聞かない。CDやコンサートなどは、聴きたい観たい人が主体的に選べるので今回の件で制限されるべきではないと思っている。
 参考までに『Quick Japan』95年3号 「いじめ紀行 第1回ゲスト 小山田圭吾の巻」全文

 過去にホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)をコントのネタにしていたことがネット上で追求され、開会式前日に解任された演出担当の小林賢太郎氏について、菅首相は「言語道断」と述べたが、貴方のお仲間の麻生副総理は2013年に「あの(ナチスの)手口を学んだらどうかね」という発言をして、撤回している。撤回してはいるが、その言動は社会的地位や内容を考えれば小林氏のコントよりも悪質だと思う。菅氏は当時の麻生氏の発言について何か述べることはないのだろうか。そもそも菅氏は官房長官時代の2015年、翁長雄志前沖縄県知事との辺野古移設を巡る協議で「私は戦後生まれなものですから、歴史を持ち出されたら困ります」という人物なので、過去の歴史を検証し、過去の歴史を反省したり、過去の歴史から学んだりということに興味がないのだろう。そんな人から「言語道断」と言われても。

  Photo Diaryを更新。
*2012年2月2日のPhoto Diaryはこちら
2月2日のスナップ。湯湾岳入り口の駐車場から
↑2日の夕方、サバクリ人さんから「今日あたり、湯湾岳では雪が降るかもね〜」という電話をもらって、ノコノコと夜になって出掛けてみました。湯湾岳は標高694.4m、奄美大島の最高峰。昨年の冬も雪が降ったらしい。
 湯湾岳までの道すがらアマミノクロウサギはいないかと、車の窓ガラス越しに探すが見つからない。クロウサギのダンスを見た、というサバクリ人さんの衝撃的な日記を見て以来、タラッタラッタラッタ♪と頭の中で音楽が流れている(笑)。
 秋頃はハブ捕りに来ている車とよくすれ違ったが、さすがにこんな寒い日には誰もいないかと思ったら、湯湾岳の手前で一台の車が停まっている。やはり雪が降らないかと思って来ていた地元の写真家の方でした。
 湯湾岳入口の階段横を素通りして、もう少し林道を走ってみるが雪の降る気配はなさそうなので折り返す。一番冷える明け方なら可能性はあるのかもしれないが、乗って来た車は今晩24時で車検切れになるそうでゆっくりもしていられない。
 アマミヤマシギ、リュウキュウコノハズク、もちろんアマミノクロウサギを探しながら林道を下りて名瀬へと帰る。
 なんとか24時ギリギリ手前でサバクリ人さんの駐車場に到着。律儀に別の車に乗り換えて(笑)、家まで送ってもらった。写真は湯湾岳入り口の駐車場から。
*2012年2月4日のPhoto Diaryはこちら。(朝仁海岸、小宿、緋寒桜、名瀬港の先端の海岸、立神)
*2012年2月5日のPhoto Diaryはこちら。(古田町のマリア教会、名瀬港とフェリーの入港)
*2012年2月6日のPhoto Diaryはこちら。(朝仁海岸)
*2012年2月9日のPhoto Diaryはこちら。(「沖縄の風土記」「大奄美史」の厚さ)
*2012年2月10日のPhoto Diaryはこちら。(AMAMI市美展)
*2012年2月12日のPhoto Diaryはこちら。(久しぶりの青空、猫、黒糖焼酎・加那)
*2012年2月13日のPhoto Diaryはこちら。(夕焼け)
*2012年2月14日のPhoto Diaryはこちら
2月14日のスナップ。知名瀬と根瀬部の間の海
↑14日は、朝から快晴。お昼ご飯を食べてから、軽くサイクリングに。そろそろスモモの花が咲く時期なので、里集落のスモモ畑を見に行き、それから定番コースの知名瀬、根瀬部海岸を走る。
 一旦部屋に戻って、明日返却期限の本をバックに詰める。途中、ガス料金を払ってから県立図書館へ。結局「大奄美史」は、ほとんど読めなかった。しばらく間を置いてから、もう一度借りようかな?
 平田町のスーパーで食材を少し買ってから名瀬港をぐるっとまわって鳩浜、大熊漁港へ。キレイな夕焼けを期待しましたが、生焼けぐらいで終わりました。帰りにダイエーでも、ちょっとお買い物。
 帰りにフェリー乗り場の中を通ったら「ブヒッ」と大きな音。??辺りを探してみると、大きなカゴに入れられたブタがゆっくり動いている。ゴロンと横になって、寝ているブタも。
 牛は何回も見たし、同じフェリーに乗り込んだ事もあるが、名瀬港でブタを見たのは初めてだ。写真は知名瀬と根瀬部の間の海。海底が透けて見えるキレイな水に、陽が当たってキラキラしている。
*2012年2月16日のPhoto Diaryはこちら。(確定申告の書類、南海日日新聞の記事)
*2012年2月17日のPhoto Diaryはこちら。(借りてきた本)
*2012年2月18日のPhoto Diaryはこちら。(朝仁海岸)
*2012年2月19日のPhoto Diaryはこちら
2月29日のスナップ。大瀬海岸
↑19日は、群島鳥類研究会の水鳥調査に初参加。朝10時頃に家の前で拾ってもらって、笠利町にある大瀬海岸へ。ここは野鳥の観察スポットとして知られているところ。
 会員の方々が望遠鏡で鳥の数を数えている間、私は海岸をウロウロしながら撮影。レンズは18〜250mm。APS-Cで望遠側が250mmなら35mm換算で300mmを越えるのですが、野鳥を撮るには足りないですね。たぶん400mmや600mmにテレコンを付けないと野鳥のアップは難しいのか?
 1時間ほど観察した後、近くのレストランでランチ。連れて来てもらったのに、キビナゴのフライ定食までご馳走になる。
 帰りは須野ダムで野鳥の観察をして、節田の奄美姑神社、ばしゃ山村の与湾大親の墓碑を見て名瀬へと戻る。同行した3才の女のコがトトロの歌、ポニョの歌と一緒に仕事唄「イトウ」を車内で披露してくれた。さすが奄美大島。
 奄美姑神社は島建てにまつわる神社。与湾大親の墓碑は、確か湯湾岳山頂の神社にも祀られていたと思うが、その辺りの事を昇 曙夢の「大奄美史」で調べてみようかな。

7月21日(水)

 今日は中村とうようさんの命日。亡くなって10年が経った。
 昨日、とうようさんの幼馴染で木工作家の中西祺住郎さんの娘さんから、とうようさんが眠る東長寺にお参りに行ってきましたというメールをいただいた。中西祺住郎さんが亡くなられて、もう28年になる。祺住郎さんの個展用案内ハガキに使う写真をとうようさんに頼まれ、その撮影をするためアトリエへ伺ったのがご縁の始まりだが、個展が終わってしばらくして祺住郎さんは亡くなられてしまった。
 娘さんのメールには、とうようさんのお墓をお参りした後、祺住郎さんのお墓にお参りしてそのことを報告したと書いてあった。
中村とうようさん
 掲載した写真は文京区のマンションで撮影した、とうようさん。フロッピーディスクに写真を記録できるソニーのマビカというカメラを毎日持ち歩いていた時期があり、その時に撮影した日記がわりの画像を探っていたら、この写真があった。データを見ると1999年7月19日。22年前だ。
 ミュージック・マガジン社の雑誌『レコード・コレクターズ』の大鷹俊一さんの連載<レコード・コレクター紳士録>を書籍にまとめるにあたって目玉企画としてとうようさんに登場していただき、
そのコレクションを撮影するため文京区のマンションへ伺った時に撮影したもの。
 とうようさんの背後にある扉は、祺住郎さんの作品だ。とうようさんは文京区のマンションから八王子の一軒家にこの後引っ越すが、その一軒家の玄関ドアもこの祺住郎さんの作った重厚な扉が使われていた。

7月19日(月)

 オリンピックの開会式まで、あと4日となった。本来ならメダル獲得の話や競技の話で盛り上がるはずが、海外選手が行方不明だとか、外国籍の五輪スタッフによる強制わいせつ事件だとか、五輪開会式の楽曲を担当する小山田圭吾氏の過去のいじめ問題だとか次から次へと不祥事が出てくる。本当にオリンピック、やるのかね。
 そう言えば沖縄県南城市の奥武島でも、4年に一度、オリンピックイヤーに合わせて親族対抗オリンピックというのが開催される。「嶺井藤八・ウシ記念オリンピック」というもので、dee-okinawaの記事によると、嶺井藤八・ウシの子であるキク、藤助、藤松、藤吉、トヨ、シゲ、藤一の直系の子孫とその家族を中心に親族の親睦・融和を図る目的で、1996年に初めて開催されたという。この年はアトランタオリンピックの開催年で、以降4年に一度開催されており、2016年8月に第6回が開かれている。親族対抗だが、藤八さんウシさんを頂点にその子供、ひ孫、玄孫と一族総勢340名で、そのうち270名が参加したという。参加者のうち、奥武島に住んでいる人が半数ほどだという。
 この奥武島のオリンピックを知ったのは沖縄から富山に戻ってからで、残念ながら実際に見ることは出来なかったが、奥武島には2013年6月に海神祭の撮影で行っている。旧暦5月4日のユッカヌヒーに行われる海神祭は、航海安全と豊漁を祈願し村のアガリ(東)とイリ(西)に分かれてハーリー競争が行われる。
 奥武島のハーリーは独特で御願バーリー、二番バーリー、流れ船、四番、五番バーリー、クンケーラーシー、上がいバーリーの7番勝負。面白いのは流れ船で、本島と奥武島を繋ぐ橋の上から漕ぎ手が海に飛び込み、近くで待つ船に乗ってからスタートする。
 海神祭には島の人たちのほとんどが参加していたと思われるので、嶺井一族の方々ともその時にお会いしているのだろう。
奥武島のハーリー01

 ところで、嶺井一族のオリンピック開催はどうなったんだろうと思って検索したところ、Facebookに嶺井親族オリンピックというページがあり、<2020年より延期し、2021年に開催する予定でした嶺井藤八・ウシ記念オリンピックは、昨今の社会情勢や親族間での話し合い、実行委員会代表者会議にて検討し、さらに一年延期2022年開催となりました>と書かれていた。

←↓奥武島ハーリーの流れ船。

奥武島のハーリー02
 この他の気になった記事を備忘録として。
原発運転「60年超」検討 新増設、建て替え見送り
平井デジタル相、IT株購入を陳謝 大臣規範違反、納税もせず
グルメサイト「密告」一転、見合わせ 撤回続く西村大臣、批判配慮か<新型コロナ>
  Photo Diaryを更新。
*2012年1月15日のPhoto Diaryはこちら。(成人祝賀 奄美市地区対抗駅伝)
*2012年1月17日のPhoto Diaryはこちら
1月17日のスナップ。カトリック瀬留教会
↑17日はせっかく晴れたので、午後からサイクリングへ。13日は中勝からビックツーの先を右折して戸口の方へ行ったので、今日は真っすぐ龍郷湾へ出る。龍郷湾に沿って左に曲がり、瀬留へ。道路沿いに、山を背景に白が美しいカトリック瀬留教会の建物が現れる。
 奄美大島には集落ごととまではいかないけれど、それでも「えっ!」と思うような小さな村にも教会があったりする。それも手作りっぽい感じの、可愛い建物の教会が多い。
 奄美に来て一番最初にキレイだな〜と思ったのが、この瀬留教会だった。いつもは道路からパチッと撮るだけでしたが、今日は敷地に入って何枚か撮らせていただいた。
 瀬留集落の中を少しブラブラしてから、龍郷湾沿いの道を少し行ったところにある共同墓地でカトリック司祭ブイジュ師のお墓を訪ねる。階段を上がって海よりの所に十字架の立っているお墓があり、名前が彫ってあった。
 ブイジュ師のお墓からもう少し秋名よりにある、久場の立神まで行って帰途につく。大勝、中勝を通り本茶トンネルを抜けて名瀬市街へ。ダイエーに寄って晩ご飯用に天ぷら2つとパンをいくつか、ウインナーを買って帰る。
 天ぷらうどんと、ぶどうパン、トーストという組み合せの晩ご飯を食べてから、恵沢さんのお宅で、サバクリ人さんとパソコンの勉強会。写真はカトリック瀬留教会(聖ヨセフ)。
*2012年1月18日のPhoto Diaryはこちら。(カトリック知名瀬教会、根瀬部、小宿、朝仁海岸)
*2012年1月21日のPhoto Diaryはこちら。(注意!マングースの死骸があります
1月21日のスナップ。奄美大島の山の紅葉
↑21日は朝8時30分に長浜公園集合で、大和村方面へ紅葉の観察会。嶺山公園、志戸勘集落と寄り道しながら今里へ。今里でお昼ご飯を食べて、集落の中を散歩してから帰途に着く。
 途中、大棚から林道に入りマテリヤの滝、フォレストポリスを見学。長浜に戻ったのは4時頃だった。奄美で紅葉するのはハゼくらいだと思っていましたが、シマサルスベリ、イヌビワ、アコウなど色々あるようです。
*2012年1月22日のPhoto Diaryはこちら
1月22日のスナップ。しめ殺しの木
↑22日は自然写真家・常田 守さんの案内による、龍郷町の自然観察会。
 朝8時半に自宅の前で常田さんの車に拾ってもらい、集合場所の本茶トンネル先の駐車場へ。ここで一緒に常田さんのレクチャーを受ける地元ガイドさんや、新聞記者の方々と合流。
 まずは中勝集落の墓地に立つリュウキュウマツを見学。昨年10月にも一度常田さんに連れて来てもらったが、アコウとガジュマルの2種類の木が着生し、それぞれの木根が松の幹に絡まり絞め殺されそうになっています。
 奄美で一番大きいホームセンター、ビックツーでトイレ休憩&お昼ご飯の弁当を購入してから、今日のメインの観察場所である市理原(いちりばる)へ。市理原は、戸口から屋入峠へ行く途中にありました。
 アスファルトの道路から林の中へ入り、崩落した道の横や沢伝いに歩いて市理原探検。昔集落の人が労働の後に川の中へ焼いた石を投げて湯治した場所は、土砂崩れで塞がっていましたが、昔の田んぼ跡は残っていました。
 田んぼの跡やオキナワウラジロガシを見た後、じょうごの滝へ。じょうごには、こんな伝説があるようです。
 「かんつめ節」に唄われる、宇検村のかんつめ。「塩道長浜節」に唄われる、喜界島のけさまつ。「むちゃ加那節」に唄われる加計呂麻島・生間のうらとみ、むちゃ加那。奄美には、悲しい伝説とそれを歌った島唄が多い気がします。
 じょうごの滝を見た後、車に戻ってお弁当を食べてから、本日のハイライトである「絞め殺しの木」を観察。
 wikipediaから引用すると、
 絞め殺しの木は着生植物として成長を始める。多くの場合種子は鳥によって散布され、宿主となる植物の樹上の幹の表皮の割れ目などに落ちて発芽する。種子が発芽すると、その苗は地面へと根(気根)を伸ばして地表に達すると幹として太くなり、さらに多くの根が宿主の表面を覆うようになる。その一方、枝は上方へと成長して宿主の樹冠を超え、日光を得る。
「絞め殺し」の結果として宿主側の植物が枯死した場合には、絞め殺しの木の中心部分(宿主植物があった部分)が円筒形の空間となり、しばしば空いたまま残る("columnar tree")

 観察会が終わったのは2時半頃だったろうか。常田さんの車で送っていただき、さっそく撮った写真を現像。このアコウの木、何かに似ているな〜と思っていたらガウディのサグラダ・ファミリアの塔にちょっと似てますね。写真は、市理原の絞め殺しの木。

*2012年1月23日のPhoto Diaryはこちら。(電気料金お支払いのお願い、お年玉切手)
*2012年1月25日のPhoto Diaryはこちら。(新しいリュック、南海日日新聞の記事、水いか)
*2012年1月26日のPhoto Diaryはこちら。(らんかん山、小湊)
*2012年1月27日のPhoto Diaryはこちら。(雨の名瀬港)
*2012年1月28日のPhoto Diaryはこちら。(雨の名瀬港、濃霧)
*2012年1月29日のPhoto Diaryはこちら。(朝仁海岸)
*2012年1月31日のPhoto Diaryはこちら。(緋寒桜とトキワギョリュウ<モクマオウ>の花)

7月16日(金)

 北陸地方が一昨日梅雨明けした。東海や近畿を抜いて、平年より9日も早い梅雨明けとなった。
 少し前まで庭の花の中や葉っぱの上にいたチビガエルの姿が見えなくなり、最近はクモの動きが目立つようになって来た。家の窓という窓にクモの巣が出来ている。棒で払っても払っても、懲りずに巣を作る。
田んぼのクモの巣01
 今朝、部屋の窓から外を見るとまわりの田んぼ一面に、クモの巣が張られていた。朝露に濡れた稲の葉に、クモの糸がキラキラと光っている。梅雨明け頃、そして早朝に見られる田んぼアート。
 昨年の写真展『とやま、祭り彩時季』の4章「富山四季景」のリード文に、<水田は生産の場であり、季節の鏡である>という写真家・前田真三さんの言葉を引用した。季節の移ろいを見せてくれる田んぼは、まさに季節の鏡だ。
田んぼのクモの巣02

 慶良間諸島の先に、渡名喜島がある。白砂の道の両脇にフクギの並木が植えられ、沖縄でも少なくなった赤瓦の民家が残る美しい村だ。
 この渡名喜島へ2013年6月、シマノーシという3年まわり(2年に一度)で開催される村最大の祭祀を撮影に行った。祭祀の内容は、ガンジュナ(神人)がギレーミチャンと呼ばれる遠来の神々を迎え、島の4つの草分け家をまわり、健康・豊作・豊漁・海上安全などを願う。準備は旧暦4月5日から始まり、祭祀の中心となる神迎えが4月27日から30日まで。そして5月1日に神送りであるノーイガミを迎える。
 スケジュールと予算の関係で、撮影に行ったのは後半の3日間だけだが、白装束に草冠を被った神人たちが白砂の道を殿に歩いていく姿は、どこか白日夢を見ているようだった。

 下の写真の水平線の右側に写っている平べったい島は、渡名喜島の沖に浮かぶ入砂島。無人島で、米軍の射爆撃場として使われている。APS-Cサイズのカメラを使い26mmの画角で撮影しているので、肉眼でもこのくらいで見えるはず。海岸から4キロほどだろうか。
 一昨日の沖縄タイムスに、この入砂島と渡名喜島の間の海に、海兵隊の大型ヘリが鉄製コンテナを落下させる事故を起こしたという記事が掲載されていた。今日の新しい記事によれば、コンテナの中身は先月入砂島での演習に使用したコンクリート施設(シェルター)の建設工事用資材だったという。
 入砂島には故障したと思われるヘリが数日間駐機したままになったこともあるし、普天間所属のヘリが渡名喜村の急患搬送用のヘリポートに不時着したこともある。
 米軍基地というと普天間や嘉手納、辺野古といった場所が頭に浮かぶが、こうした射爆撃場は久米島の近くにもあるし、現在は使われていないが尖閣諸島の8つの島のうち久場島と大正島は射爆撃場として今も米軍の管理下に置かれている。

入砂島

 今日の東京都の新規感染者数は1271人、3日連続で1000人を超えた。2000人を超えるのは、時間の問題だろう。都のモニタリング会議も、このまま感染拡大すれば「五輪閉幕後は1日2406人」に達すると試算している。ということは、オリンピック開幕中に1日の感染者数が2020人に達することは充分に考えられる。
 TOKYO 2020の開幕式の日に2020人の感染者という、嘘のようなことが起こらないとも限らない。
 ところで昨日、分科会の尾身会長が参院内閣委員会の閉会中審査で「人々が緊急事態(宣言)に慣れ、飲食店も『もう限界だ』との声も聞こえる中で、人々の行動制限だけに頼るという時代はもう終わりつつある」との認識を示した。そして新型コロナの感染防止について、PCR検査の拡充や二酸化炭素モニターの設置、下水でウイルスを高濃度で検出する技術などを例に挙げて「日本には優れた科学技術がある」と説明したという。
 PCR検査の拡充を今更言うのか?本来なら新型コロナウイルスの流行が始まった昨年の早い時期にすべきことだろう。そしてPCR検査を拡充どころか抑制してきたのは尾身さん自身や、厚労省ではなかったか。新型コロナへの政府や専門家のこれまでの対応や発言を、時系列に沿って一度きちんと検証して欲しい。
 元・東京都写真美術館専門調査員で写真史家の金子隆一さんが、6月30日に亡くなられたそうだ。

 この他の気になった記事を備忘録として。
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国内の死者1万5000人超え 第3波以降が80%以上 新型コロナ
怒るよりも投票へ サイゼリヤ社長が従業員に呼びかけ

  Photo Diaryを更新。
*2012年1月1日のPhoto Diaryはこちら
1月1日のスナップ。おがみ山のヒカゲヘゴ
↑1日は「朝まで生テレビ」を観ていて、寝たのは朝方だった。それでも9時前に一度目が覚めて、布団の中で防災無線から流れる奄美市長・朝山毅さんの新年の挨拶を聞く。
 軽く2度寝をしてから、お雑煮。昨日の年越しそばと同じ味付けの汁に、お餅を2つ。昨日の残りの天ぷらも入れ、やはり昨日の残りの助六寿司と一緒に食べる。
 午後から自転車で、高千穂神社へ初詣に。高千穂神社からおがみ山へ行き、展望広場から元旦の名瀬の街を見下ろす。元旦の名瀬は曇り空。風は強めですが、雲に覆われているせいか、なんだか暖かい。
 おがみ山から、昨日も行った朝仁海岸まで足をのばす。浜に上げられた舟に結わえられている正月飾りを撮っていると、風を避けるように舟の横にしゃがんで線香に火をつけている女性がいた。
 やがて波打際まで駈けて行き、海に向かってお祈りをしている。小宿漁港まで自転車で行ってから、もう一度朝仁海岸に戻って、女性の立っていた場所へ歩いて行く。線香の火はもう消えていた。ネリヤカナヤへの祈りだろうか、それとももっと個人的な・・・。
 昨日の深夜、オウム真理教の元教団幹部・平田信を名乗る男が警察に出頭。今日の朝、本人と確認され逮捕された。今日14時28分頃、鳥島近海を震源とするマグニチュード7.0の地震があり、東北から関東にかけて広い範囲で震度4を記録。
 2012年は明けたばかりだが、元旦からざわざわとしている。写真は、おがみ山のヒカゲヘゴ。
*2012年1月4日のPhoto Diaryはこちら。(「おきなわの祭り」複写、借りてきた本)
*2012年1月5日のPhoto Diaryはこちら
1月5日のスナップ。「紬の日」のイベント
↑5日は自転車で大熊漁港へ行き、直売所で1パック500円のシビ(キハダマグロの幼魚)のお刺身を購入。2012年最初のお買い物。直売所に購入したシビを預かってもらい、龍王神社へ。注連縄は飾られていましたが、神社の戸は閉められていてお賽銭は入れられず。
 直売所でシビを引き取り、名瀬港をぐるっと回って家へ。色々と雑用を済ませてから、「紬の日」のイヴェントが開催されている、ティダモール中央通りアーケードに行ってみる。
 アーケードの中では振る舞い酒、振る舞いせんざいが行なわれ、黒糖焼酎をロックで2杯、ぜんざいを1杯いただきました。島唄があり、紬を着た方々の行進があり、あまみエフエムの特設スタジオからの中継ありで、3時からスタートしたイヴェントは7時頃に終了。
 昨年11月にテレビ朝日で放映された、奇跡の地球物語「大島紬〜自然が織りなす驚異の着物〜」は面白かった。大島紬ができるまでを紹介した番組だが、図案を基に糸を一本一本染め、その染めた糸を図案にあわせて織っていくという作業には驚いた。素人から見れば、それは気が遠くなるような作業だ。
 大島紬については門外漢ですが、その図案のいくつかはハブの模様や、かつて島の女性が手に施していたハジチ(入れ墨)を想起させる。そして個人的には、アルハンブラ宮殿にみられるアラベスク模様。あの執拗とも思える幾何学模様を見ていると、やはりその完成までの作業を想像して気が遠くなる。 

*2012年1月7日のPhoto Diaryはこちら。(純黒糖、高千穂神社、朝仁海岸、小宿、かんも〜れ)
*2012年1月10日のPhoto Diaryはこちら。(ビルの屋上の猫)
*2012年1月12日のPhoto Diaryはこちら。(黒糖焼酎・三年寝太蔵、イカのパスタ)
*2012年1月13日のPhoto Diaryはこちら。(浦上、緋寒桜、戸口、ポンカン)
*2012年1月14日のPhoto Diaryはこちら。 (注意!ヘビの写真があります

1月14日のスナップ。嘉徳の浜
↑小正月の前日、14日はナリムチです。昨年は4色のお餅とブブ木を買って自分でも作ってみましたが、今年は作らずにナリムチの飾られている風景を撮影するだけにしました。
 昨年は朝仁や小宿の共同墓地に飾られているナリムチを撮影に行ったので、今年は小湊に行ってみようかな・・・と考えていたら、栄さんからフリーマーケットを開催するから遊びにきませんかとの電話あり。では、フリーマーケットを見学してから小湊へと考えていたら、サバクリ人さんから電話。サバクリ人さんの車で、フリーマーケットと小湊に行く事になりました。
 フリーマーケットは小浜の今は閉店している喫茶店で。アクセサリーや食器、服など色々と並んでいます。サバクリ人さんは、いくつか購入。私は無料でお持ち帰り下さいというコップを一ついただきました。
 小湊に向かう前にサバクリ人さんの案内で、カトリック名瀬納骨堂と永田墓地の奥にある広場へ連れて行ってもらう。カトリック名瀬納骨堂の入口前は何回も通っていましたが、敷地の中に入るのは初めて。永田墓地の奥から山を上る道もあるのは知っていましたが、その先から市街地が一望できるのは知りませんでした。
 永田墓地の上から高千穂神社の脇に降りて、名瀬市街から小湊に向かう。
 小湊の本通りに入ると、軒先にナリムチを下げている家が何軒か。本通りから港に出て、そこから共同墓地へ。今度は私が、3つある小湊のモーヤを案内する。
 モーヤに飾られたナリムチを撮影して小湊に来た目的は果たせましたが、せっかくここまで来たら、かねてからの私の念願だった嘉徳集落へ行ってみようということに。
 嘉徳は、元ちとせちゃんの生まれ故郷。奄美大島の南部、瀬戸内町の集落ですが、道の島バスは国道58号沿いにある嘉徳集落の入口までしか通っていない。入口から集落までは山道をかなり歩くみたい。瀬戸内バスは集落まで通っていますが、オンデマンド運航で前日に予約しないとバスが来ない。予約できるのも住民の方だけのようだ。そんなわけで、車がないと行けない陸の孤島のような集落?奄美の中でも、アクセスの大変な場所だと思う。実際今日、サバクリ人さんの車で国道58号の入口から嘉徳集落まで乗った感じでも、思っていた以上に距離がありました。
 集落の共同墓地で鍋加那さんのお墓をお参り。瀬戸内町の方はナリムチの習慣がないので、色とりどりのお餅が飾られているお墓はありませんでした。それでも『奄美の島 かけろまの民俗/鹿児島民俗学会編』の第五章 年中行事によれば、<黄金餅(十四日)コガネムチともキンナリともいって餅を小さく四角に切って柳の木にさしたものを家の入り口、部屋の四隅にさしたり墓にも供えるというのが、諸数(しょかず)、花富(けどみ)部落などでみられる>と記されているので瀬戸内町でも加計呂麻島の一部では似た感じの風習はあるようです。
 集落からアダンの林を抜けて、嘉徳の海岸に出る。コンクリートの防波堤やテトラポットの無い浜辺。奄美大島の中でも、これだけキレイな砂浜が広がっている海岸は珍しいと思う。
 あいにくの小雨が降ったり止んだりの天気でどうかな〜?と思っていましたが、美しい海でした。
 海をしばらく撮影した後、藍染めをされている「よしかわ工房」へ。家に入れていただき、イノシシ汁とお漬け物、すき焼きをご馳走になる。イノシシ汁は初めて食べましたが、クセもなく美味しくいただきました。ヤギ汁を食べた時も思いましたが、お肉よりもスープが美味いな〜。このスープに素麺を入れて食べたら最高だと思う。
 よしかわ工房さんですっかりご馳走になり、時間も遅くなったので名瀬へと帰る。
 国道58号に出たら後は1時間ほど真っすぐ走れば名瀬の市街ですが、クロウサギ、いないかな?ということになり奄美の夜の森探検。瀬戸内町の林道と、住用村の林道に寄り道。
 瀬戸内町の林道でクロウサギを1羽目撃、住用村の林道でヒメハブの子供1匹、(ケナガ?)ネズミ1匹、リュウキュウイノシシ1頭、クロウサギ1羽(サバクリ人さんだけ)、ハナサキガエル1匹目撃。
 名瀬に着いたのは10時頃だったか。思いがけず長い一日になりました(笑)。写真は、嘉徳の浜。

7月13日(火)

 今日、九州北部と中国地方が平年より早く梅雨明けした。富山も今週は晴れのマークが並んでいる。今年は意外に早く梅雨明けするのだろうか。

 一昨日のNHK『ダーウィンが来た』は、「世界自然遺産へ 奄美・沖縄 豊かな森の秘密』と題して、奄美大島と徳之島、沖縄本島北部の森と森で暮らす貴重生物が取り上げられていた。アマミノクロウサギやヤンバルクイナなどの絶滅危惧種が紹介されていたが、イシカワガエルが思いのほか大きくフューチャーされていて驚いた。
 イシカワガエルは沖縄と奄美大島に生息する日本一美しいとも言われているカエルで、県の天然記念物であり、環境省レッドデータブックでは絶滅危惧種1Bに指定されている。ダーウィンでは沖縄のオキナワイシカワガエルとして紹介されていたが、奄美ではアマミイシカワガエルと呼ばれている。

アマミイシカワガエル
←は2011年10月20日に撮影した、アマミイシカワガエル。サバクリ人さんと夜、大和村方面へアマミノクロウサギを探しに出かけたが、クロウサギには遭遇できずフンだけ撮影。その代わりこのイシカワガエルの他、アマミアオガエル、アマミハナサキガエル、アカマタ、アマミアオヘビ、ヒャン、ギンハブなどが撮影できた。
 今度の日曜日、18日は第2弾で「世界自然遺産へ 西表島 ヤマネコの謎と宝の森」が放映される。
↓は、西表島の仲間川に生息する巨大シジミ。横に置いたボンタンアメの箱は、キャラメルの箱と同じくらいです。このシジミが番組に登場するかわかりませんが、次の「ダーウィン」も楽しみ。
西表島の巨大シジミ
 <宮崎緑さんが3連続で皇室関連会議のメンバーに選ばれる理由>という、少し前の論座の記事を先日見つけた。会員ではないので記事の途中までしか読めず、なぜ彼女が省庁や財団などの委員や理事に選ばれるのか理由はわからなかったが、以前からその存在の不思議さや立ち位置が気になっていた。Wikipediaによれば、現在の肩書きはジャーナリスト、国際政治学者、国際政策学者、千葉商科大学国際教養学部教授、東京都教育委員、国家公安委員会委員などとなっている。元々はNHKのキャスターだ。
 宮崎緑さんに、一度だけお会いしたことがある。2012年1月7日のことで、築地俊造さんが経営する島唄ライブハウス「かんも〜れ」へ築地さんの歌を聴きに行った時だ。お客さんには奄美パーク・田中一村記念美術館の方々も団体で来ていて、その中に当時奄美パークの園長と田中一村美術館の館長を務めていた宮崎さんもいらした。たまたま顔見知りの職員の方が一人いて、少し席を一緒にした。その時撮影したスナップには宮崎さんがケーキを持った写真もあるので、彼女の誕生日である1月15日のお祝いだったのだろう。写真を撮っているので、何か言葉を交わしたと思うが、なんだか大きな女性だな〜という印象だけが強く残っている。
島唄ライブハウス「かんも〜れ」
↑島唄ライブハウス「かんも〜れ」にて。ステージの最後は「六調」で、お客さんも踊る。一番右の女性が宮崎緑さん。
 この他の気になった記事を備忘録として。
東京で830人感染 前週超え24日連続 30代死者も
【速報】政府、酒類販売事業者への要請も撤回方針
酒提供停止働き掛けに財務、経産両省も関与
「乱暴な発言」 酒販組合、自民に抗議 西村氏の取引停止要請に
発電コスト、最安は原発から太陽光に 経産省が試算発表
増えるフリーランス「万一の収入減」足りない生活保障
外来オスプレイ、半年もとどまったまま 米軍普天間飛行場 市も詳細情報なく戸惑い

  Photo Diaryを更新。
*2011年12月8日のPhoto Diaryはこちら。(アマゾンで購入したインクとプリント用紙、プレゼント用のプリント)
*2011年12月9日のPhoto Diaryはこちら。(灯油、借りてきた本)
*2011年12月11日のPhoto Diaryはこちら。(ロシア文学者「昇曙夢」のシンポジウム)
*2011年12月13日のPhoto Diaryはこちら

12月13日のスナップ。植木のカットがユニークな床屋さん
↑13日はコーヒー豆と黒烏龍茶のパックを買いに、平田町のニシムタへ。天気予報は午後から雨。平田町は市街の外れで、家から自転車でも20分ほどかかるだろうか。まあ、散歩のつもりでカメラをぶら下げて歩いてみる。
 大きい道は避けて、路地へ路地へと入って行く。別に探している訳じゃないのに、行くところ行くところに猫が現われる。ホントに猫島だ。
 3時頃に家を出てニシムタで買物をしたら、もう5時近く。写真を撮るには暗い感じ。帰りはほとんどシャッターを押さなかったので、6時15分くらいに家に着いた。
 散歩に出る前、いつも買いに行くスーパーで食材を色々と購入。1396円の牛肉が→980円→490円になっていたので、これも一つ買っておいた。
 散歩から帰り、明日のおかず用に肉豆腐を作る。そう言えば個体識別番号が付いていたな〜と思い、入力してみる。0835101835。んんん!?鹿児島産薩摩健気黒牛とラベルにあるが、輸入先の国名/オーストラリア。福岡県に来て、H 22.04.30に鹿児島に転入。H 23.10.27 に鹿児島県でと畜とある。とりあえず1年半程鹿児島で育てたから、鹿児島産薩摩健気黒牛なのだろうか。
 鹿児島産薩摩健気黒牛で検索をかけると、国産黒毛和牛の代表格「但馬牛」系列の種とオーストラリアのブラック・アンガスを交配して誕生したとでてくるが、食品の表示を読み解くのは難しい。
 牛肉の放射性物質に関する検索システムにもかけてみましたが、結果は「回収対象外の牛肉です」。
 ラベル表示の仕方に個人的には疑問はあるが、牛の場合は個体識別番号があるので、自分で調べられると言う点で今のところ肉・魚の中で一番安心して食べられる食材かもしれない。流通可能な暫定基準値は高いけれど・・・。写真は古見本通り沿いにある床屋さん。前を通る度に、入り口の植木に目がいく。長方形にカットされた葉っぱは、店のご主人の作品だろうか。
*2011年12月15日のPhoto Diaryはこちら。(購入したポストカードファイル、机の上を大掃除)
*2011年12月17日のPhoto Diaryはこちら。(あまみならでは学舎、永井姉妹による「島唄に育まれて」)
*2011年12月18日のPhoto Diaryはこちら。(注意!ヘビの死骸があります
12月18日のスナップ。奄美の自然を考える会の観察会
↑18日は奄美の自然を考える会の観察会に参加。前回は8月6日に開催された住用地区の夜間観察会なので、4ヶ月ぶりだ。今回は笠利町を中心に見て歩いた。
 観察会では、様々な植物を栽培されている個人のお庭、宇宿漁港周辺、あやまる岬、用の笠利崎灯台、須野ダム、喜瀬をまわって来た。
 撮影したのはフウセントウワタ、キイレツチトリモチ、オウギヤシ、ハカタカラクサ、ランタナ、オシロイバナ、ツルソバ、トキワギョリュウ、クサトベラ、オオシマノジギク、ヒメキランソウ、リュウキュウコスミレなど。海岸近くの雑木林では、まだ数は少ないもののリュウキュウアサギマダラの越冬風景が見られた。
 観察会の後一旦家に帰り、夕方6時半から屋仁川で自然を考える会の忘年会。
*2011年12月19日のPhoto Diaryはこちら。(カラスと名瀬港)
*2011年12月20日のPhoto Diaryはこちら。(シビの刺身、魚コロッケ、献本されてきた9月に撮影した本)
*2011年12月22日のPhoto Diaryはこちら。(忘年会)
*2011年12月25日のPhoto Diaryはこちら
12月25日のスナップ。奄美紅白歌合戦
↑25日は朝の9時から名瀬漁港で、歳末の日曜市というのが行なわれると知って行ってみた。寒い中、自転車を漕いで漁港に着いたのは9時半くらいだろうか。場内の様子をササッと見て、500円のエビ汁を食べて帰って来た。
 一旦家に帰り、今度は防災無線を使って市民の参加を呼びかけていた『日本復帰記念の日の集い』に参加。
 晴れていれば名瀬小学校の校庭に集合して、おがみ山にある日本復帰記念碑前で開催されるのですが、あいにく朝から降ったり止んだりの天気。昨年と同様、名瀬小学校の体育館での開催となりました。奄美群島が日本に復帰したのが、昭和28年の12月25日。今年は58周年となる。
 11時から始まった式典は、正午前には終わり、また一旦家へ。朝起きて作ったホットケーキの残りを一枚、昼ご飯代わりに食べる。
 しばらく部屋でまったりしてから、今度は自転車で奄美図書館へ。4階の研修室で『奄美群島日本復帰記念講演会』を聴講。
 講演会は少し時間がおして、図書館の閉館時間5時を過ぎて外へ出る。
 急いで『奄美紅白歌合戦』のチケットを取りに部屋へ戻ってから、奄美文化センターへ。今回が第2回となる『奄美紅白歌合戦』は某国営放送の番組同様に、奄美の歌い手が男性の白組、女性の赤組に分かれて交互に歌を唄い、それを審査して勝ち負けを競います。ちなみに昨年の第1回は赤組の勝ちだったようです。
 白、赤それぞれ12組が出場して歌を競った奄美紅白歌合戦。今年は白組の勝ち。「島のブルース」を出演者全員で熱唱してフィナーレとなりました。想像していたより演出が凝っていたり、島唄がなかったり、〆に六調が踊られなかったり、驚くことは色々あったが、一番驚いたのは白組の司会者が昨年名瀬に来て住む部屋を探していた時に担当して下さった不動産会社のMさんだった事だ(笑)。
*2011年12月28日のPhoto Diaryはこちら。(夕焼け)
*2011年12月31日のPhoto Diaryはこちら。(黒糖焼酎・太古の黒うさぎ、朝仁海岸、ポンカン、掃除)

7月10日(土)

 熱海の土石流災害から今日で一週間だが、今朝は鹿児島県、宮崎県、熊本県に大雨特別警報が発令された。住宅地での冠水被害が相次いでいるようだ。熱海の方は一週間経った現在も、安否不明者が19人となっている。
 一昨日夜の記者会見で西村大臣が休業要請に応じない飲食店に関し、「こうした情報を金融機関としっかり情報共有しながら、順守を働きかけていく」と述べた。この発言に対して金融機関の側から「あり得ない」という反発の声が上がり、当然、飲食店からも疑問や怒りの声が上がり9日の記者会見で加藤官房長官が西村氏の発言を撤回した。
 西村発言はあまりに無理筋な話しなので撤回は当たり前だが、今回は緊急事態宣言を受けての要請なので世論の反発で撤回されたが、政府が憲法改制で創設を目指す緊急事態条項で発令されればこんな無理筋な話しも国民はなんの説明もないまま押し付けられるのだろう。今回の発言で改めて、この政府に憲法改正や緊急事態条項の創設などさせるべきではないと思った。
 新型コロナウイルスの感染が始まってから、日頃人権を訴える左派と言われる人たちが緊急事態宣言による外出の制限など政府の要請に従順に従っているのが変だという人がいるが、感染症対策では人流を減らす、人との接触を減らすしか対処方法はない。だから外出制限や場合によっては都市封鎖もすべきだったと思う。ただし、その場合は丁寧な説明と充分な補償がセットでなくてはならない。残念ながら今の政府からは説明も充分な補償もされていないが。
 新型コロナウイルスの感染拡大を利用して緊急事態条項を創設しようという自民党の動きと、それを支持する声が一部にあるが、こんなものを創設してしまっては今以上に説明も補償もなく国によって人権を制限されてしまう。緊急事態条項と緊急事態宣言をごっちゃにしてはいけない。
 今日の東京の感染者数は950人、来週には1000人に達するのだろうか。 世界全体では、一昨日新型コロナによる死者が400万人を超えたそうだ。

 この他の気になった記事を備忘録として。
ネトウヨ的発言に簡単に毒され、ヘイトを広げるのは“普通の人”
「その程度の能力か」「頼りねえ顔」 麻生氏、記者をディスり質問はぐらかす無責任な責任者<取材ファイル>
河井夫妻大規模買収事件 現金受領側の全100人不起訴へ 東京地検

  Photo Diaryを更新。
*2011年11月24日のPhoto Diaryはこちら
11月24日のスナップ。小湊のモーヤ

↑24日は久しぶりに自転車で遠出。
 名瀬市街から朝戸トンネルを抜け、しばらく走った所で左折し海に向かって進んでいく。道なりに真っすぐ進めば小湊だが、今日は途中で左折して川を渡り、川に沿って名瀬勝集落へ。集落を通り過ぎて海岸に出ると、かつてクジラ松を背負っていた岩が見える。
 海岸の直ぐ近くにある金比羅神社に寄って、次は小湊へ。来る時に通った橋ではなく、もう少し海岸よりの橋を渡り、左右に畑が並ぶ道を進めば小湊の集落だ。
 小湊の集落は何度も歩いているので、今日は墓地へ。
 先日読み終えた「南島の墓」(沖縄出版)に、小湊に積石墓をコンクリートで塗り固めた、モーヤがあるという記述を見たので探してみた。

名瀬市小湊 共同墓地のモーヤ。小湊は小宿とは反対の東海岸にある。ここの集落共同墓地に元は三つの積石墓の大きいものがあった。これをモーヤといい、それぞれナーマゴ(中間講)のモーヤ、ホーロゴ(保呂講)のモーヤ、ハータリゴ(赤中講)のモーヤとよばれ、現在はコンクリートで塗りこめて、積石墓であった頃の形とはだいぶ形を異にしている。そのうちハータリゴのモーヤはやや原形に近いと言われ、写真のような形をしている。高さ二〇〇、下部の直径は二九〇の半球状をしており、下部に四〇x四三の入口があり石をはめて閉じてある。元の積石墓もその形、大きさはこれとほぼ同様であったという。サンゴ石を下から石垣状に積み上げてやや角型の円筒状にし、その上に幾つかのナバ石を重ねて蓋あるいは屋根としたものであった。それを昭和三十年頃にコンクリートで表面を塗りこめた。中には人骨が一杯入っているという。他のナーマゴとホーロゴのモーヤの大きさもほぼ同様であるが、コンクリートは角型に塗ってある。
 この三つのモーヤにはそれぞれちがう血統の先祖の遺骨を納めてあるという。ナーマゴは妹、ホーロゴはその兄の二人の集落開発者の血統の先祖を祀っていて、この二つのモーヤは並んでいる。ハータリゴはそれ以外の移住者の先祖を祀っていて、そのモーヤはやや離れた位置にある。それぞれの講に属する家々の人は集まって、それぞれのモーヤの祭りを旧八月シバサシの後の庚申の日に行なう。これをカネサル祭り、モーヤ祭りといって盛大である。
 それぞれのモーヤに入っている多くの骨はそれぞれの講組の先祖の骨で、古く伝染病で多くの死者がでたときの人骨を入れたものとも言い伝えている。古老にも、ここに骨を納めたことを記憶している人はいない。

 本の発行が1989年12月。もう22年も前の記述なので、はたして今も残っているだろうか?と少し心配していましたが、見つけることができました。カネサル祭り、モーヤ祭りが現在も行なわれているかはわかりませんが。
 ハータリゴの高さが200センチとありますが、実際に横に立ってみると120センチくらいではないかと思われます。
 また、名瀬勝の共同墓地にも積石墓をコンクリートで覆ったモーヤがあるということで、金刀比羅神社の後に少し探してみたのですが、こちらは見つけられなかった。

「南島の墓」(沖縄出版)から。
名瀬市名瀬勝 共同墓地のモーヤ。ここにも古い積石墓を改めたモーヤが一つある。一八〇x一四〇、高さ五七の箱状にコンクリートで塗り固め、上に「中間講祖先之墓」という石碑を立ててある。この石碑をとれば中が覗け、骨を納めることもできるようになっている。昭和三十一年にこう改めたので、その前はサンゴ石を積み上げてほぼ現在の大きさに近い、やや方形で上部のふくれたモーヤであったという。中には極めて多くの人骨が入っているが、これは中間講の人たちの先祖の骨であるともいい、遠い時代の無縁の人々の骨であるともいう。
 中間講(ナーマゴ)は三人の祖先から始まったと言われ、フーゴー(大講)と言われるように現在は三十数戸となっていて、毎年ドンガに集まってこのモーヤを祭る。集落には他にイナゴー(小講)という組もあって、フーゴーを除く家系の集まりだといわれ、やはりドンガに先祖祭りを行なっているが、モーヤはもっていない。西中勝にも小湊、名瀬勝と同様なモーヤがあったというが、現在は失われて見られない。

 写真はハータリゴ(赤中講)のモーヤ。コンクリートで塗り固められた3つのモーヤの中では、一番積石墓の頃の形に近いとされている。

*2011年11月25日のPhoto Diaryはこちら。(やんご祭り)
*2011年11月26日のPhoto Diaryはこちら。(知名瀬、根瀬部、小宿)
*2011年11月27日のPhoto Diaryはこちら。(名瀬港)
*2011年11月30日のPhoto Diaryはこちら。(永田橋市場、夕焼け)
*2011年12月1日のPhoto Diaryはこちら
12月1日のスナップ。安木屋場の海
↑1日は大熊集落の写真を撮りに行こうとさサバクリ人さんから電話があり、昼から大熊へ。
 集落を見下ろして漁港が見える写真が撮りたいということで、展望台へ行く道を上がり、途中から林道に入り集落の背後にまわる。何時の大雨で崩れたのか分からないが、崩落した斜面をよじ登って撮影。何回も滑って、ジーンズもスニーカーも泥だらけ。
 集落と漁港の見える写真は一応撮れましたが、手前の木がちょっと入り過ぎますね。他に撮影スポットはないだろうかと、龍王神社、神社の奥の山を上った段々畑にも行って撮影。龍王神社からは集落、漁港、そして山羊島まで見渡せますが、もう少し高さが欲しい。段々畑からは高さはバッチリですが、山羊島がキレイに入らない。どこも一長一短ですね。
 大熊集落を撮った後に嘉徳集落へ行ってみようと思っていたのですが、あんまり天気が良くないし日が暮れるのも早くなったので、もう少し近場の安木屋場集落へ。途中、浦上にあるsonokaで、コーヒーとケーキの休憩。ご馳走さまです。
 浦から龍郷湾沿いに走って安木屋場へ。集落の中にあるカトリック教会では、クリスマス用のディスプレイに馬小屋を製作中でした。
 集落の背後の山を上がり、今井権現に。10月5日に安木屋場の海岸で開催されたユタの祭祀、今井大権現祭は見ましたが、神社へ来るのは今日が初めて。
 鳥居の前まで車で来て、そこからは歩いて階段を上ります。階段の数の多さもさることながら、一段一段が高いのと、崩れている箇所もあるので大変です。
 今日は東京辺りでも、かなり寒い一日になったらしいが、大熊の林道の斜面や今井大権現の階段を上って、半袖のTシャツでも汗をかきました。安木屋場の海岸沿いに建つ民宿なべき屋にて、晩ご飯。ビールにワインもいただいて、またまたご馳走さまでした。
 どうした成り行きか、帰りは宿のご主人に車を運転していただいて名瀬へと帰って来た(笑)。写真は安木屋場の海。この後、土砂降りの雨が降った。
*2011年12月3日のPhoto Diaryはこちら。(奄美少年自然の家で染物教室、赤崎公園からの小宿沖)
*2011年12月4日のPhoto Diaryはこちら
12月4日のスナップ。大熊青壮年団の八月踊り
↑4日は朝から快晴。日射しが強く、半袖のTシャツでも暑いくらい。自転車で2〜3分のところにある奄美市地方卸売市場(青果市場)で、イヴェントがあるということなので行ってみた。ぐるっと会場内を見て歩いた後、せっかくなので、みかん100円、ツワブキのつくだ煮250円、パパイヤの漬け物150円を買って来た。
 市場で買って来たものを一旦部屋に置いて、ダイエーへ。先日はケララカレーを作ったので、今日はキーマカレーを。
 プリンターのインクが無くなった来たので、アマゾンで注文した後、さっそくキーマカレーを仕込む。ケララカレー同様に炒め用、煮込み用、辛み用など様々なスパイスが小袋に入れられパッケージになっている。それをレシピに従って投入。化学実験か工作をするような感じで料理ができる。トマトの酸味が利いたキーマカレーが完成。
 玄関のポストにおまわりさんからの巡回カードが入れられていたので、名前や連絡先を記入して屋仁川交番へ届けに行く。
 日が暮れた街中を少し自転車でプラプラしてから、名瀬公民館へ。6時30分から、第8回となる「奄美歌掛けの夕べ」が開催される。
 島口で歌われる島唄を理解するのも難しいが、歌掛けは歌詞をアレンジして、あるいは即興で作った詞で唄のやりとりをするので、さらに大和んちゅーには難易度が高い。
 島唄の一番手で登場したのは、築地俊造さんと西和美さん。島唄のコンサートで必ず初っぱなに歌われる「朝花節」の歌詞をアレンジして、歌の掛け合いが始まった。途中から客席にいた若手の唄者、前山真吾さんをステージに呼び込んで三人での歌掛けとなった。50、60、70という歌詞が何回も出て来て年齢を題材にしたコミカルな歌掛けなんだろうと想像する。客席のアチコチで笑いが起こっているが、島口のわからない大和んちゅーには少々難しい。写真は大熊青壮年団の八月踊り。

7月7日(水)

 4日に行われた高岡市長選挙は、20時の開票とほぼ同時に北日本新聞で前市議の角田悠紀氏に当確が出た。私が投票したのはこの方ではないけれど、頑張って下さい。
 今日の東京の新型コロナ感染者数は920人で、900人を超えるのは5月13日以来だという。これで18日連続で前週の同じ曜日を上回った。この感染拡大が止まらない事態に、政府は東京都に4回目の「緊急事態宣言」を発令する方針を固めたそうだ。これにより7月23日開幕の東京オリンピックは、都内の会場では無観客となる可能性が大きくなったという。
 3日に発生した熱海の土石流被害は、現在も警察や自衛隊により救助作業が行われている。今なお、25人が安否不明となっている。

 シンガー・ソングライターの中山ラビさんが、4日の午後に亡くなったそうだ。
 ラビさんの名前を聞いて思い出すのは彼女の歌ではなくて、いしかわじゅん氏のコミック『蘭丸ロック』だったりする。国分寺にあったラビさんのお店「ほんやら洞」をもじった「ぼんやり洞」を舞台に、ラビさんと思われる女性が「お姉ちゃん」で登場する。そのキャラクターのインパクトが強くて、ラビさんと言えば一番最初にこのコミックを思い出してしまう。
 国分寺の「ほんやら洞」は、30年ほど前だろうか、デイリー・an(アルバイトニュース)の国分寺特集で撮影に行ったことがある。ラビさんは不在で、アルバイトの女性を入れて撮影した。
  下にある記念写真はラビさんと奄美の唄者・築地俊造さん、そしてRIKKI。データを見ると2002年5月20日になっている。当時いつも持ち歩いていた、フロッピーディスクに画像を記録できるソニーのマビカで撮っている。
 年に何回か定期的に開催されていた築地さんとRIKKIの島唄ライブの、打ち上げでの記念写真だろう。島唄ライブの後は、必ず東京の奄美郷友会主催の打ち上げがあった。なぜこの場にラビさんが居るのか分からないが、検索すると、この頃、名瀬のライブハウス「アシビ」でラビさんのステージに、築地さんが友情出演している。

蘭丸ロック
 19年前か。それにしても3人とも若い。RIKKIはこの前年、2001年7月にファイナルファンタジーXの主題歌「素敵だね」の歌い手に抜擢され、ユニバーサルからオリジナル・ミニアルバムを発売している。
 築地さんは2017年4月に亡くなった。RIKKIは今や、確か3人の子供のお母さんだ。
ラビさんの記念写真
  Photo Diaryを更新。
*2011年11月2日のPhoto Diaryはこちら。(*注意、ヘビの写真があります
11月2日のスナップ。西古見の三連立神
↑2日はお昼頃になって、お天気は徐々に回復。
 お昼のTVニュースを見ると、どのチャンネルも奄美の豪雨を伝えている。名瀬と古仁屋を結ぶ国道が、またアチコチ土砂崩れで通行止めになっているようだ。
 瀬戸内町では、1時間に140ミリ以上という記録的な雨が降った。どうも今回は奄美大島の南部と、加計呂麻島が大きな被害を被っているみたい。
 午後、サバクリ人さんから電話。前々から、昨年撮影した湯湾釜のムチムレ踊りの写真を届けに行こうと相談していたが、今日が都合がいいということで決行。
 そうして大和村の役場で用事を済ませると、急遽、西古見に行ってみようということになった。西古見は奄美大島の南部、瀬戸内町の西端に位置する。距離とバスの利便性を総合すると、名瀬から一番遠い集落だと思う。
 大和村から東シナ海沿いに今里まで。今里から山を越えて、宇検村の芦検に出る。芦検から焼内湾に沿って名柄集落まで行き、そこからまた瀬戸内町の久慈に出る山道に入る。
 途中にカンツメの碑が建っており、そこで何枚か写真を撮って、久慈集落へ。久慈から大島海峡沿いに花天、管鈍と通って西古見に着いた。
 帰りは来た道を辿るようにして、大和村まで。今里集落まで下りずに山道を入って、少しだけ夜の奄美の森探検。成果は、アマミノクロウサギは4羽に遭遇。撮影できたのは1羽のみ。長いモノはマッタブを4匹、ヒメハブ3匹、金ハブ1匹目撃。トゲネズミ1匹、オットンガエル2匹。リュウキュウイノシシはご無沙汰です。写真は、西古見の三連立神。

*2011年11月6日のPhoto Diaryはこちら。(親子丼)
*2011年11月7日のPhoto Diaryはこちら。(朝仁海岸、小宿、恵沢さん宅)
*2011年11月9日のPhoto Diaryはこちら。(ナポリタン、『南島雑話の世界』複写、麻婆豆腐)
*2011年11月10日のPhoto Diaryはこちら。(借りてきた本、ソデイカ)
*2011年11月11日のPhoto Diaryはこちら。(11.11 11:15・・・orz)
*2011年11月13日のPhoto Diaryはこちら。(ナッチャンWorld)
*2011年11月14日のPhoto Diaryはこちら。(名瀬港の夜明け、黒糖焼酎・里の曙 BIG FISHINGラベル)
*2011年11月15日のPhoto Diaryはこちら

11月15日のスナップ。閉館したグランドホテルの窓
↑15日は午後からガス代を払いに出て、そのまま久しぶりに散歩。
 おがみ山の入り口に自転車を停め、テクテクと山を上る。舗装された道だけれど、高く伸びた木々の陰になり、昼でも何だか薄暗い場所がある。ハブが出ませんようにと思いながら、道の真ん中を歩く。展望広場に上がった後、少し奥にある復帰記念広場へ。ここに来るのは、2度目だ。
 おがみ山を下りて、自転車でダイエーへ。ダイエーの駐輪場に自転車を停めて、東が丘団地を目指す。
 部屋の窓を開けて、名瀬港を挟んで対岸の山の中腹に見えるのが、奄美大島に来て最初に泊ったHOTELカリフォルニア。そのカリフォルニアのもう少し上に、木立の中から一部が見える建物がある。今は営業していない、奄美グランドホテルだ。たぶん、このグランドホテルがある辺りが東が丘団地だろうと思い、伊津部小学校の脇から山道を上って行く。
 昨年の6月、名瀬に着いた最初の日にカリフォルニアに泊ったが、その日は大雨で唄者・築地俊造さんにホテルまで車で送っていただき、宿泊中はホテルのスタッフが送迎をして下さった。なので、この坂道を歩くのは今日が初めて。
 HOTELカリフォルニアまでの坂道は、近くに工場があるからか、もの凄い黒糖焼酎の匂い。カリフォルニアの入り口手前には、とっくに営業をやめた気配の私立 川口観光植物園の入り口。こんなの有ったんだ。
 カリフォルニアの横を通りすぎて、もう少し坂道を歩いて行くと自分の部屋の窓からは一部しか見えない、奄美グランドホテルが現われた。閉館して10年以上、アチコチ窓ガラスが割れているけれど、想像していたほど廃墟にはなっていない。グランドホテルの入り口横には、道の島バスの東が丘団地と書いた乗車看板。大きな集合住宅が建ち並んだ町をイメージしていたが、そうでもない。割りと新しい一戸建ての家が連なっている。
 それ程広くはないこの高台にある住宅街を、カメラをぶら下げて散歩。佐大熊の団地群の先に、山羊島が見えるポイントはなかなか面白い。
 家の庭のパパイアの実を穫っていた方がいて、その家の横に細い山道。舗装のされていない山道を降りて行けば下の大きな道に出られると言うのでトライしてみるが、途中で道が見分けられなくなった(汗)。引き返し、来た時に通った舗装された道を歩いて下に出る。ダイエーで買物をして帰宅。ざるそばに、かき揚げと大根おろし。太巻き寿司。写真は、閉館した奄美グランドホテルの窓。
*2011年11月17日のPhoto Diaryはこちら。(きんぴら、薩摩蕃椒)
*2011年11月19日のPhoto Diaryはこちら。(黒糖焼酎・弥生、お土産にいただいた壱岐の島、『南島の墓』複写)
*2011年11月21日のPhoto Diaryはこちら
11月21日のスナップ。朝仁の千年松
↑21日は家の裏側、観光ハブセンターの横を通り赤崎山の坂道を上る。
 しばらく歩くと長浜、金作原、赤崎公園、朝仁方向に分かれる四つ辻に。ここで赤崎公園に向かう道に曲がり、ちょっと傾斜のキツくなった道を、うっすらと汗をかきながら歩く。
 公園の奥にある展望台へ。その手前の芝生は、イノシシに掘り返されてアチコチぼこぼこだ。展望台からは、朝仁〜小宿の沖が見える。今日は随分と波が高い気がする。寄せる白波が、沖で幾何学模様を繰り返す。しばらく波に見とれてから、公園を出て、先程の四つ辻に戻る。今度は上がって来た長浜方向ではなく、朝仁方面に下りていく。
 赤崎山の斜面には蘇鉄や、シダ科の樹木ヘゴが生え、オオタニワタリが木に寄生している。まるで太古からそこにある原生林のようにも見えるが、かつて農作物を運んだのだろうか、急な斜面に伸びる鉄のレールが放置されたりもしている。今でも僅かだが段々畑が残り、農作物が作られている。
 昭和30年頃の名瀬の写真を見ると、この赤崎山がすっかり耕されて全体が段々畑のようになっていてビックリするが、雨の多い亜熱帯の気候は植物をあっという間に育てるのか、今では原生林かと思う程に木々で覆われている。
 この急な斜面を耕した昔の人のエネルギーを思い、その後原生林かと見紛うばかりに生長した植物の生命力を思う。
 千年松の横を通り、朝仁新町に出て、朝仁トンネルを抜けて家に帰る。近所の八百屋で、くび木を買って2時間半ほどの散歩だった。写真は朝仁の千年松。残念ながら2018年6月28日に松枯れのため伐採されてしまった。
*2011年11月22日のPhoto Diaryはこちら。(ナッチャンWorld出航)
*2011年11月23日のPhoto Diaryはこちら。(ケララカレー、オキナワ紀聞)

7月4日(日)

 今日は北陸地方でも大雨の予報だったが、今のところ時折小雨が降る程度だ。太平洋側は少し雨も落ち着いたようだが、静岡では記録的な大雨になり熱海で昨日の午前10時半ごろ、大規模な土石流が発生した。この土石流で複数の家屋が流され、2人が心肺停止、約20人の安否が不明となっている。
 富山県の南砺市で事前合宿する予定だったセルビア代表選手5人のうち1人が、空港の抗原検査で新型コロナウイルス陽性と確認された。陽性の選手は療養施設に移動し、残りの選手も濃厚接触者の可能性があるとして待機施設に移動したそうだ。
 先月30日、立憲議員が「選手・関係者に多数の感染者が出れば、東京都民のベッドが不足し、医療が逼迫するのではないか」と質問したところ、内閣官房のオリパラ推進本部事務局の担当者は「日々、検査をし、行動管理も健康管理も行う。仮に選手から陽性者が発生した場合でも、ほとんどは無症状、あるいは軽症であることが想定されている」と説明したそうだ。また、この担当者は朝日新聞の取材に「一般の集団に比べ、選手は若い人が多い。重症化し、入院病床が埋まるということは考えにくい」との認識を示したそうだ。この楽観論は、どんなデータを基にしたら生まれるのだろうか。昨日、白鵬の兄弟子で元音羽山親方の峯山賢一さんが新型コロナに感染して亡くなったというニュースが流れた。47歳の若さだった。
紫陽花のある風景
投票所

↑梅雨は木々の緑が美しい。そして紫陽花の季節。

 今日は高岡市長選挙の投票日。午前中に投票に行って来た。雨が止んでいたので自転車で行こうかとも思ったが、最近歩いていないので、お散歩がてら家々の紫陽花を見ながら投票所まで片道20分ほどかけて歩いて来た。

←地区の投票所。自分にとっては初めての高岡市長選だ。

 先日は葉っぱの上にいるたくさんのカエルを撮影したが、今日は母親が育てているユリの花の中にも居たので撮影。
ユリとカエル01
ユリとカエル02
 沖縄在住の写真家・勇崎哲史さんが死去されたという記事が、一昨日の琉球新報に掲載されていた。勇崎さんとは面識はないが、2年の沖縄滞在中に知り合った写真家や大学教授の方々からその名前を聞くことがあった。
 勇崎さんの写真集『大神島ー記憶の家族』は沖縄県立図書館で2回借りて見ていたが、やはり自分の手元に欲しくて昨年ヤフオクで手に入れた。
 この写真集は勇崎さんが沖縄が日本に復帰した1972年に、大神島に住む全世帯23の家族写真を撮影。その18年後の1990年にもう一度23世帯を訪ね、再び家族写真を撮影している。18年の間に子供が島を離れ家族が少なくなった家もあるし、主人を失い戸を閉ざした家もある。そしてさらに2年後の1992年、島を離れた子供たちが戻ってくる正月にもう一度家の前で家族写真を撮っている。
 屋号で紹介された各世帯に流れた時間を、3枚の写真が教えてくれる。ポートレートの原点ともいえる家族写真、そして写真の記録性。面白くないわけがない。
 大神島は沖縄県の宮古諸島にある小さな島。「来訪神、仮面・仮装の神々」で無形文化遺産に登録された奇祭・パーントゥが行なわれる島尻集落からフェリーが出ている。2012年10月、島尻のパーントゥを見に行った際、フェリーで15分ほどの大神島へ足をのばした。2012年の島の人口がどれ程だったか分からないが、現在は20人ほどだという。大神島のフェリー待合所には勇崎さんが撮影したポストカードが2種類置かれていて、一枚ずつ買って帰った。
 『大神島ー記憶の家族』は中古本の価格が高価で手に入れ難くなっているが、昨年出版された写真帖『蝉、生まれいずる頃。』は沖縄の古書店・言事堂で販売している。
大神島01

←『大神島ー記憶の家族』(平凡社)

↓ナカヤー(中の家)という屋号の家。左頁は1972年で、おばあさんが一人で住んでいた。右頁は1990年でおばあさんは既に亡くなり、家の戸は閉ざされている。この頁をめくると、島を離れたおばあさんの子や孫、ひ孫が主人の居ない家の前で並んでいる1992年の写真に続く。

大神島02
  Photo Diaryを更新。
*2011年10月21日のPhoto Diaryはこちら。(国直海岸の夕暮れ、ハブ捕り)*注意、ヘビの写真があります。
*2011年10月23日のPhoto Diaryはこちら
10月23日のスナップ。与路島
↑23日は、与路島で瀬戸内商工会による「地域の魅力でおもてなし」事業(着地型地域中小・小規模企業支援事業)あっぽでぃ!2011による与路島祭りが開催される。このお祭りの存在に気がついた時は既に参加募集人数40人に達していたのですが、フェリーの乗船料を自分で出して与路島に行くことにしました。
 お祭りそのものも興味ありますが、通常のせとなみの運行だと日曜日は古仁屋港10時発で、帰りは与路港15時ですが、今日は帰りが与路港16時と一時間多く島に滞在できるという魅力も。
 古仁屋を出港し、大島海峡を出て加計呂麻島の裏側を見ながら進み請島の請阿室港へ。請阿室から請島のもう一つの集落がある池地に寄港してからハンミャ島の横を通り与路港へ。池地から与路までの航路は波が荒いのか、風のない天気でしたが船がちょっと揺れますね。
 与路島に着いて、祭りの行なわれる集落の公民館へ。途中、墓地の横に柱と屋根だけの建物があり、アシャゲだろうかと思いましたが、区長さんにお聞きしたところ待機所だそうです。
 与路島でもノロの祭祀は行なわれていたようで、港の横にクモディ(雲瀬)の碑文が建っていました。それによるとクモディ(雲瀬)という大きな岩があり、昔は神のオムクェやオホリの時にクモディ(雲瀬)に大勢のカミニンジョ(神人)が登り送迎の祭祀が行なわれたそうです。集落の人に聞いたところ、カミミチとされる道も残っているそうです。
 公民館では島唄や踊りのイベントが行なわれていたようですが、ひたすら集落の中を散歩して歩く。珊瑚の石垣に囲まれた家々が並ぶ集落から、集落を見渡せる山へ、そして海岸へと久しぶりにたっぷりと歩いた。
 少し歩き疲れて集会所へ。イベントもそろそろ終わりの頃だったのか、六調。そして外へ出て、土俵の周りで八月踊りを踊ってから万歳三唱で締めとなりました。
 船の時間が近づき、港の方へ。海岸のアダン林の中に、集落を散歩していた時に会ったおばあさんがショッピングカートを椅子代わりにして座っている。船が出ると大きく手を振っている。船が岸壁を離れると集落の入口にたって、白い布を大きく振って見送ってくれている。
 島の人達のもてなしは、このお見送りの時を見ていても驚くほどに熱く厚い。ヤマトンチュには想像してみることしかできないが、それは小さな島で暮らす寂しさの裏表からくるものなのだろうか。
 散歩している時に、おばあさんから家は直ぐそこだからお茶でも飲んでいきなさいと誘ってもらったのに、遠慮してしまった。もし機会があったら、今度はお茶を一杯ごちそうになろう。
 フェリーせとなみは来た航路を辿って古仁屋へ。途中、請島の山にポツンといる野ヤギを発見。池地港では、色んな荷物と一緒に山羊を積んだ。それにしても裏側から見る加計呂麻島の大きいこと。
 日がキラキラと大島海峡の海面を輝かせる中、古仁屋港へ到着。しばらく加計呂麻島に沈む夕日を撮影してから、名瀬行きのバスに乗車。運転手さんは、昨年笠利方面から名瀬に帰るバスで一度お会いした運転手さんだった。市街地まで色々と話しながら、バスに揺られた。
*2011年10月24日のPhoto Diaryはこちら
10月24日のスナップ。佐念モーヤ

↑24日はサンゴを積み重ねたお墓、モーヤを撮影しに宇検村の佐念集落へ。
 10時51分に道の島バスの本社で古仁屋行きのバスに乗り、新村で湯湾行きに乗り換え。湯湾で今度は屋鈍行きのバスに乗り換えて須古、部連、名柄を通って12時31分に佐念に到着。
 帰りのバスの時間は、乗って来たバスが屋鈍まで行って引き返して来る13時55分で、これが名瀬まで帰れる最終便だ(汗)。片道1時間40分、滞在時間1時間24分。
 集落の中を少し歩いて、モーヤのある場所を教えてもらう。教えられた集落の外れに墓地があり、案内板が立っていた。

佐念モーヤ(村指定有形文化財)
 共同墓地のモーヤは、奄美・沖縄の最も古い墓の代表であると言われています。佐念集落のモーヤは、集落の村当たりという世話係が花を供えたり線香立てを作るなど、区長さんを中心に集落全体で、大切に保管されています。墓の中は人骨があり、先祖の遺骨だろうとも、無縁仏の遺骨を集めたものだろうとも言われています。また、明治中期までは、今のモーヤよりも大きなモーヤであったと言われています。
(昭和57年6月6日指定)宇検村教育委員会

 モーヤを撮影した後、バスが来るまで集落の中をグルグルと散歩。海岸沿いを歩いて隣りの集落まで歩く時間はない。
 時間通りに来たバスに乗って湯湾、そして新村で乗り換えて名瀬市街地へ。道の島バスの本社に止めておいた自転車に乗って朝仁のスーパーで買物をしてから部屋に帰る。
 それにしても新村から湯湾までの山道の激しいアップダウン。湯湾からリアス式の焼内湾に沿って右に左にクネクネ曲がるカーブ。けっこう身体に堪えます。写真は佐念モーヤ。

*2011年10月26日のPhoto Diaryはこちら。(西郷隆盛の謫居跡、愛加那さんのお墓、円集落、安木屋場集落)
*2011年10月27日のPhoto Diaryはこちら。(久志集落、枝手久島)
*2011年10月28日のPhoto Diaryはこちら
10月28日のスナップ。トビラ島
↑28日は道の島バスの本社を10時51分に出る古仁屋行きのバスに乗り、西仲間へ。西仲間で11時22分発の市行きのバスに乗り換えて、終点の市と手前の戸玉の間にある峠で下ろしてもらう。
 市集落の横に浮かぶトビラ島が、しっかり見える。坂道を少し歩いてトビラ島を撮影。しばらくして、市集落から折り返してきたバスに拾ってもらい、山間集落へ。50分ほど集落を散歩してから、また市行きのバスで隣りの戸玉集落へ。今日も少ないバス便を効率よく使って集落をまわるため、上り下り便を行ったり来たり。それでも戸玉には20分程しか居られなかった。
 戸玉を13時26分発のバスで西仲間へ。西仲間で名瀬行きに乗り換えて市街地へ戻る。
 矢之脇町の食堂で、ちょっと遅めの昼ご飯。日替わりのカツ丼定食。カツ丼に、きんぴら、ゴーヤ味噌、漬け物、味噌汁が付いて500円。ダイエーで食材を買って帰宅。大根を下茹でし、ゆで卵を作っておでんを仕込む。今季2回目のおでん。
 写真の中央やや左に浮かぶのがトビラ島。トビラ島にはこんな伝説がある。
 山間から戸玉を過ぎて市に向かうとまず目につくのが、市の沖のトゥブラ島である。この島もまた流れ島で、昔、喜界の方から流れて来たのを、市の神様と、山間の神様とで招きあい、市の神様が勝ったので市の沖に来て止まったといわれている。
「奄美の伝説・日本の伝説23/島尾 敏雄・島尾 ミホ・田畑 英勝」(角川書店)から。

7月1日(木)

 毎日毎日奄美から沖縄の旅の写真を現像していて、あっという間に一年の半分が過ぎた。
奄美大島の海岸線
 山が幾重にも重なり、その山が海岸で岬になっている。奄美大島の地形が分かりやすく写っていると思う。
 上の写真は、大浜海浜公園から大和村(ビッグダディこと林下清志氏が一時住んでいた大棚集落がある地区)方向を撮影したもの。
 奄美大島は、空港のある北部の一部を除き、そのほとんどがリアス式海岸になっている。集落の多くは、岬と岬の間の僅かな浜に作られている。だから昔は岬(山)を越えて移動するより、集落から集落へは舟を使った方が便利だったようだ。
 奄美の舟こぎも滞在中にたくさん見たが、その規模や競技にかける情熱は沖縄のハーリーに引けを取らない。熱心さでは、奄美の人たちの方が勝っていたように思う。
 現在は道路が舗装され、トンネルもアチコチに建設されて車での行き来も楽になった。もう一般に舟を漕いで集落を行き来することはなくなったが、やはり舟を自在に操れるのはシマンチュとしての心意気であり、誇りだろうか。
 7月末から8月初めにかけて開催される「奄美まつり」。そのメイン・イベントの舟こぎ競争に向けて、例年ならもうアチコチの浜辺でたくさんのチームが朝夕の練習をしている頃だが、昨年に続いて今年も新型コロナで「奄美まつり」は中止になったようだ。
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トップ画面を変更しました。奄美大島滞在中は、よく海を見に行った朝仁海岸に棲む猫。手前の子猫が両手をバンザイして寝ている(笑)。

↓これまでのトップ画面。

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  Photo Diaryを更新。
*2011年10月2日のPhoto Diaryはこちら。(黄色い彼岸花)
*2011年10月4日のPhoto Diaryはこちら。(奄美群島日本復帰40周年記念写真集『満天の星のごとく・・・』複写)
*2011年10月5日のPhoto Diaryはこちら
10月5日のスナップ。今井大権現祭
↑今日は旧暦のクガツクンチ(9月9日)。加計呂麻島の諸鈍集落では諸鈍シバヤ、同じく加計呂麻島の実久集落では実久三次郎祭りが開催される。
 諸鈍シバヤは昨年見れたので、昨日の午前中までは実久三次郎祭りを見に行こうと思っていました。が、午後になって、そういえばユタ神さまの祭祀、今井大権現祭もそろそろではなかったか?とネットで検索するとまさしくこちらも旧暦の9月9日。
 それからが、ちょっとバタバタ。親神様の阿世知照信さんのご自宅にお伺いして撮影許可のお願いをし、儀式が行われる場所と時間の確認。道の島バスの本社で時刻表をもらって、今井大権現祭が行われる安木屋場集落までのバス時刻の確認。儀式は朝の8時半頃からとお聞きしたが、名瀬から安木屋場集落までは一番早いバスで9時36分着。間に合わない・・・orz。
 そこで困った時の、サバクリ人さん頼み。相談してみると、先日の豪雨で災害にあった龍郷町の復旧作業があるので、現場に行く前に車で乗せて行ってもられる事に。なんとか手配はつきましたが、夜になって土砂降りの雨。
 さて、朝4時半頃に起きて色々と準備。7時ちょっと前にサバクリ人さんに迎えに来てもらって、安木屋場へ向かう。浦上から大勝、浦を通り、龍郷湾沿いに走るルートで安木屋場へ。少し早く着いたので、集落の上にある今井神社の入口まで車で連れて行ってもらう。歩くとちょっと大変だ。
 神社には寄らず、海岸沿いの道路に戻り、沖に立神が見える海岸のところで降ろしてもらう。8時頃になってユタ神さまや見学に来た人、新聞社のカメラマン等徐々に人が集まって祭祀の行われる海岸に向かう。海岸の岩の上に祭壇のような物が作られ、神具やお供え物が置かれる。その間に、ススキを海水につけ、それを身体に振りかけるようにして禊が行われた。
 儀式が始まったのは8時45分頃だろうか。阿世知さんがチヂンを鳴らし、唄い上げる。祝詞だろうか。それに合わせてススキを天に翳して、踊りのような祈り。5分ほど続いただろうか。その後、砂浜の横にある大きな岩に移動し、そこで同じようにチヂンを鳴らし、唄われ、ススキを翳してのお祈り。最後は、4方順番に全員が向いてお祈りをして、儀式が終了した。
 一昨年までは、この海での儀式の後に集落の後方にある今井神社へ行き、そこで山の神様を祀る儀式が行われたようですが、今日は親神、阿世知照信さんのご自宅へ向かわれたようです。
*2011年10月6日のPhoto Diaryはこちら。(たこ焼き、借りてきた本、スティーブ・ジョブズ)
*2011年10月7日のPhoto Diaryはこちら。(ユタのノート複写、ポンキツ、黒糖焼酎・八千代30度)
*2011年10月8日のPhoto Diaryはこちら。(名瀬港の対岸の浜)
*2011年10月9日のPhoto Diaryはこちら。(豚の角煮)
*2011年10月11日のPhoto Diaryはこちら。(朝仁、小宿、里、知名瀬、根瀬部)
*2011年10月16日のPhoto Diaryはこちら
10月16日のスナップ。シオマネキ
↑16日は写真家・常田守さんに案内していただいて栄さんご家族、田中さん、小辻さんと一緒に蟹の観察会。朝9時に佐大熊に集合して、手花部集落へ向かう。
 途中、中勝集落入口でアコウとガジュマルの樹に寄生されたリュウキュウマツを見たり、手花部の手前でシイノキカズラやマダラコオロギを観察。 
 手花部集落に到着して、まずはマングローグの中で蟹を観察。その後、一度赤木名にあるラーメン屋さんで昼食を食べてから、干潟で蟹の観察。棲み分けが出来ているのか、マングローブと干潟、干潟でも部分部分で生息している蟹の種類が違うようです。
 思っていたより潮が引かなかったので予定していた1種類の蟹は見ることが出来ませんでしたが、なかなか面白い生態の観察になりました。
 蟹観察の帰りがけ、手花部集落の墓地を見学。墓地の上の方に、奄美ではあまり見かけない形のお墓が並んでいる。
 一度部屋に戻って休んでから、屋仁川へ。昨日のSetting Sun Sound Festivalを観にわざわざ奄美にいらしたマイミクのpikkoroさんと、そのお友達3名の方々と一緒に居酒屋で一杯。
 昨日はコンサート、今日は朝からマングローブパークでカヌーを漕いだり、三太郎祭りを見学した後、Live houseアシビで後夜祭を楽しんだそうです。飲み放題のコースにしたので、私は生ビールの後、高倉、緋寒桜、加那のロック。写真は手花部で撮影したシオマネキ(正式にはオキナワハクセンシオマネキ)。
*2011年10月20日のPhoto Diaryはこちら。(*注意、ヘビの写真があります
10月20日のスナップ。アマミイシカワガエル
↑20日は、奄美大島を襲った豪雨災害から一年。市役所から防災無線で黙祷が呼びかけられ、午後2時にサイレンが鳴らされた。百年に一度の豪雨と言われた昨年の雨だが、一年も経たない先月末に奄美北部を豪雨が襲い、また大きな被害をもたらした。
 22日に返却期限が迫った本が3冊。明日からお天気は下り坂だと言うので、晴れている今日のうちに27日返却期限の2冊と合わせて図書館へ持って行き、貸し出し期限の延長手続き。図書館からの帰り、阿世知照信さんのご自宅へ寄って、先日今井大権現祭の時に撮影した写真の中から何枚かプリントしたものを届けて来た。
 帰りがけスーパーで買物。4パック1000円になっていた精肉コーナーであれこれ買って店を出たらにわか雨。小雨になるまで暫く待って帰宅。
 夜になってサバクリ人さんと、大和村方面へ奄美のクロウサギ探しに。クロウサギには遭遇出来ず、フンだけ撮影(汗)。小雨が降ったり止んだりの天気だったので、カエルはたくさん出て来ました。アマミアオガエル、アマミハナサキガエル、イシカワガエルを撮影。長いモノは・・・アカマタ、アマミアオヘビ、ヒャン、銀ハブを撮影。鳥は、キジバトのみ。
 10時頃には帰って来る予定が、結局6時半に名瀬を出て、帰って来たのは深夜2時。7時間半の探検でした。写真は日本一美しいとも言われるアマミイシカワガエル。

6月へ