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メディア関連
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5月30日(日)

 もう富山も梅雨じゃね?と思うほど少し前は雨が続いていたが、最近の天気予報はお日様マークが並んでいる。梅雨の前の今が、花粉もなくそれほど暑くもなく、一年で一番快適かもしれない。
 富山の家から奄美大島に向かって旅を始めたのが、11年前の今日だった。11年前は全国的に、梅雨入りが遅かった気がする。
苗が植えられた隣の田んぼ

 11年前はまだ福島の原発事故もなく、新型コロナのパンデミックもない世界だった。原発事故もパンデミックもいつか起きるだろうと思っていたが、でもどこかで自分が生きているうちは大丈夫なんじゃないかという根拠のない安心感を持っていたのも事実だ。
 それにしても、この10年ほどは激動の時代だ。そして、その激動はまだ続きそうだ。

 27日に届いた27インチのiMac。ディスプレーが大きいので圧迫感があり、前に座って画面を見ると壁が立ちはだかっている感じがする。
 一昨日メールの設定とSafariにお気に入りをブックマーク、そして先月NTT西日本のポイント交換で手に入れた4TBの外付けハードディスクをTime Machineに設定した。これまでデータのバックアップは必要なモノを手作業で外付けのHDDにコピーしていたが、今回初めてTime Machineの機能を使うことにした。自動的にファイルやシステムをバックアップしてくれ、必要となれば時間を遡ってその時の状態を復元できるようだ。昨年末に購入して2ヶ月ほどで起動しなくなったiMacも、Time Machineを使っていれば復活させることが出来たのかもしれない。
  昨日はAdobeのDreamweaveとPhotoshopをインストールした。どちらもCS6で、このままでは動かないので<macOS High Sierra でAdobe CSシリーズを起動する方法><macOS High SierraでAdobe CS5・CS6の起動を確認!>の記事を参考にターミナルを書き換えた。これで3回目だが、作業中は不安でドキドキだ。書き換えてソフトが起動しても、このままではPhotoshopのショートカットキーが使えないので、Photoshop 13.0.6 update for CS6をダウンロードしなくてはいけない。前回ダウンロードした時に、そのページのリンクを貼っておいたが消えていた。検索して探しても出てこないのでどうしようかと困ったが、前回ダウンロードしたものがノートパソコンに残っていたのでコピーしてインストール。これでDreamweaveもPhotoshopも普通に使える状態になったので、後は自分用にカスタマイズ。
 次にEIZOのモニターと接続しダブル・ディスプレイに。EIZOのホームページからColorNavigator7をダウンロードしてiMacにインストール。ディスプレイにセンサーEX4をセットし、キャリブレーションを行った。残るはエプソンのプリンターのドライバーのインストールだが、急ぐ必要もないので追い追いに。
 27インチのiMacの作業環境が整ったので、昨日からPhoto Diary用の写真データの現像をこちらでやっている。今日のホームページの更新も、この27インチのiMacだ。

Time Machineと机の上のケーブル

↑グリーンのアイコンがTime Machineに使っている外付けのHDD(右)、ますますケーブルでごちゃごちゃになった机の上(左)。

 Photo Diaryを更新。
*2011年6月22日のPhoto Diaryはこちら。(生姜、手作りおつまみ)
*2011年6月23日のPhoto Diaryはこちら
6月23日のスナップ。夕暮れの朝仁海岸
↑23日の午前中は本を読み、昼過ぎから郵便局へ。郵便局で用事を済ませて奄美県立図書館へ。借りていた3冊のうち2冊返して、1冊を期間延長してもらい、新たに3冊借りて来た。
 一旦部屋に戻り、本を置いてから、久しぶりに自転車で少し遠出。朝仁、小宿、里、知名瀬と通り、根瀬部まで。根瀬部の浜を歩いていたら、大きな貝殻が砂に埋まっていた。集落を歩いているとよく見かける、魔除けとしてスイジガイと一緒に門の所に飾られている貝だ。こんな大きな貝がどうして・・・波に打ち寄せられて?で、カラスに食べられたのだろうか??
 写真を撮り、浜で日を浴びていたら、お孫さんを連れた島のオバアが。先程の貝を見せて名前を聞いたら、夜光貝だと教えてくれる(家に帰りネットで調べたら同じ真珠層を持つ巻貝の、高瀬貝じゃないかな、と思う)。近所の漁師が採って来て、食べた殻を捨てたのだろうと・・・なるほど(笑)。
 水泳教室に通っているという孫の男の子は、準備体操をして海に走って行った。服を着て、帽子をかぶったオバアがゆっくり後を追い、そのまま泳いで行く。気持良さそう(*´д`*)。
 さて帰ろう、と自転車に乗ろうとした時、海から上がったオバアが手招きをする。歩いて行くと大きな貝。これで貝が2つになった。マンションなので門はないけれど、門松の様に部屋の入口のドアの左右に置いてみようか。
 帰りは里と福里の間のすもも畑に寄ってみる。すももの実がなっているのを初めて見ましたが、鈴なりですね。
 福里集落を抜け、小宿を通り朝仁海岸へ。
 海岸のアダン林の横で、お父さんに連れられた女の子が泣いている。夕焼けを撮影している間中、泣き止むことがない。どうしたんだろう。
 お父さんが女の子に話しかけ、座ったまま砂に手を合わせる。女の子のペットが死んで、この浜にお墓を作りにきたのかもしれない。お父さんに手を引かれ、まだ泣きながら波打ち際の方へ歩いて行った。
 彼女にとって、地球が終わる日のような悲しみだったかもしれない。
*2011年6月24日のPhoto Diaryはこちら。(祝宴)
*2011年6月26日のPhoto Diaryはこちら
6月26日のスナップ。秋名集落の舟こぎ
↑26日はお昼ご飯を食べてテレビを観ていたら、サバクリ人さんからお誘いの電話があり、秋名集落のハマオレへ。ハマオレは、浜下れ。集落の人達が一重一瓶、料理やお酒を持ち寄って、浜辺に下りて遊ぶ行事。
 秋名のハマオレの行事、舟漕ぎ競争は午後2時半頃からスタートしたらしいが、私達が着いたのは3時半過ぎ。後半戦になっていた。
 舟漕ぎの後は、知り合いのお宅で食事とお酒をご馳走になり、帰って来ました。昔ながらに、浜で座って料理やお酒を囲み、楽しんでる方々もいらっしゃった。

*2011年6月29日のPhoto Diaryはこちら。(朝仁海岸のハマユウ、みき)
*2011年6月30日のPhoto Diaryはこちら。(名瀬港、大熊漁港)
*2011年7月2日のPhoto Diaryはこちら。(実習船 船川丸、朝仁海岸、ヨーグルッペ)
*2011年7月3日のPhoto Diaryはこちら

7月3日のスナップ。防波堤から海へジャンプする女の子
↑3日は、午後から麦わら帽子をかぶり水筒を自転車カゴに入れて小湊まで。集落の手前にある栄さんのハウス農園には何回か寄っていますが、集落に来るのは3月9日以来。
 集落に到着し漁港に行くと、ちょうど防波堤から女の子が飛び込もうとしているところ。しばらく躊躇した後、威勢良くジャンプした。自転車を置いて、2時間ほど集落内を散歩して帰宅。
 夜NHK総合で放映された、原発危機第2回「広がる放射能汚染」を見る。3.11を境に、この国は変わったのだと認識させられる。
 写真の黄色い花は、小湊集落へ行く途中で見つけたゴールデンシャワー。タイの国花だそうです。

 最近の気になった記事を備忘録として。
東京五輪参加「コロナ感染リスクは自己責任」に選手から疑問の声 IOCが同意書提出を義務付ける
またずさんな公文書管理…消費者庁、「ジャパンライフ」パブコメ廃棄していた 30年保存義務の重要文書
さいたま市、ふるさと納税の返礼品からDHC製品外す 差別文章が「ふさわしくない」と

5月27日(木)

 今日は朝から雨で、日中も気温が上がらず少し肌寒かったので、石油ファンヒーターのスイッチをオン。
 一昨日の夜にポチった中古のiMacが、今日の午後届いた。昨年末に中古でMacBook ProとiMacを購入したが、iMacの方は2ヶ月ほど経ってカーネルパニックの症状が出て、色々といじっているうちに起動しなくなった。MacBook Proの方は今も快適に動いていて、ホームページの更新やPhoto Diary用の写真データの現像などはこのノートパソコンで行なっている。しかし、これから夏に向かって気温が上がる中、ノートパソコン1台で作業をするのはキツイと感じて、もう1台またiMacを購入した。昨年末に買ったiMacの方は起動しなくなったがMacBook Proは快適に動いているので懲りずに同じお店から。
 元々持っていたiMacも昨年末に買ったiMacもディスプレーは21.5インチだったが、今回は画面の大きい27インチにした。また、昨年末に買ったiMacは2011年のモデルだったが、今回は2013年モデル。メモリは16G、ハードディスクは1TBで、これは同じ。価格は4万円を切る値段で、昨年末に買った2011年モデルと数百円しか違わなかった。
新しく購入した中古のiMac27インチ
iMacをセッティング

↑今日の午後に届いた、中古のiMac。27インチなので流石に箱がデカイ。本体はプチプチのシートにくるまれ、箱の中には大きめのプチプチシートがいっぱい詰められていた。

←左が今回購入した27インチのiMac。右はEIZOの24インチのモニター、右手前はMacBook Pro。

 今日は机の上にセッティングし、ネットに接続した。メールの設定やソフトのインストールなどやらなくてはならないことはいっぱいあるが、明日からゆっくりと。
 2ヶ月ほどで起動しなくなったiMacだが、メモリは16G搭載されている。元々持っていたiMacのメモリが4Gなので、いざとなったらメモリを積み換えるというのもありかな?

5月24日(月)

 今日の富山県の新型コロナ感染確認者数は19人と、7日ぶりに20人を割ったが、昨日は射水市の障害者支援施設でのクラスター発生が公表されて過去最高となる64人の新規感染者数が報告されている。県は警報を出すだけではなく、濃厚接触者の定義を広くし、保健所にまだ余裕がある時にPCR検査を拡充して症状の出ていない陽性者を早期に見つけて隔離するなどしないと、東京や神奈川のように濃厚接触者を追うことすらできない状態になることだってあり得るだろう。
 IOCのバッハ会長が五輪開催を実現するために「われわれは犠牲を払わなければならない」と述べたそうだが、一言「なんで!?」と申し上げたい。犠牲を払いたければ、あなた自身が払って下さい。当たり前だが、あちこちから批判の声が出ている。この批判を受けてか「日本国民に向けたものではない」とバッハ会長が発言したというニュースも流れてきたが、果たして本心だろうか?「日本国民ではなく、オリンピック関係者やオリンピック自体に向けたものだ」というが、そうまでして開催しなくてはならない意味がわからない。
  国も都も「人流を抑える、人流を抑える」とお題目のように唱えているが、代々木公園と井の頭公園をオリンピック・パラリンピックのパブリックビューイング会場に選び、両公園の樹木を剪定する作業を始めるようだ。
 元々はの計画案では3万人を超える国内外の観戦客を迎える予定だったそうだが、新型コロナの感染拡大を懸念して人数制限を設けるという。しかし、何百、或いは何千という人が一ヶ所に集まるというのは人流を抑えるとは真逆の行為だろう。これのどこが安心安全の開催なのだろうか。この東京五輪2020ライブサイト計画の中止を求めるキャンペーンが始まっている。署名はこちらから。東京都の「東京2020ライブサイト」の詳細はこちら
 また、オリンピック・パラリンピックの観戦に小学生・中学生ら81万人を動員する計画もある。修学旅行も運動会も中止の中、オリンピックには動員するという基準がわからない。

 この他の気になった記事を備忘録として。
琉球国王の行列、模して行進 興味津々で駆け出す子
【写真特集】琉球王国から沖縄県へ…よみがえる戦前の姿
アミメニシキヘビ16日ぶり捕獲 飼われていたアパートの屋根裏で
高橋洋一内閣官房参与が退職 ツイッターで「さざ波」「屁みたいなもの」と発信
リニア工事費「1.5兆円増」、JR東海は耐えられるか 増額幅は北陸新幹線の敦賀延伸費用に匹敵

 Photo Diaryを更新。
*2011年6月12日のPhoto Diaryはこちら
6月12日のスナップ。フェリーから撮影した徳之島の島影
↑12日は、朝食のパンを食べ、コーヒーを飲んでまったりして11時頃に宿をチェックアウト。宿のご主人からお土産に、ヒマラヤの岩塩をいただく(笑)。なんで徳之島でヒマラヤ?? 
 名瀬までの乗船券を買い、大きな荷物はフェリー乗り場のコインロッカーに。自転車のカゴにカメラを入れたバックと水筒、空気入れを詰め込んで亀津の海岸沿いを走る。以前テレビで見た、ウミガメの産卵場所を発見。海岸のコンクリートの階段近くで、普通は産卵しない場所らしく、柵がしてある。
 お昼過ぎになりお腹が空いたので、ネットで評判の良かった、みよ食堂のラーメンを食べに行く。日曜日のお昼という事もあってか、次から次へと小さな子供連れのお客さんがやって来て、あっという間に人でいっぱい。
 500円のラーメンは、学校帰りに食べたくなるような素朴な食堂のラーメンとでも言おうか。スープは甘めな醤油味。麺は太麺ストレート、チャーシューは角煮を薄くした感じだ。
 ラーメンを食べ終わって、再びフェリ−が入港するまで亀津の街中を自転車でぐるぐると散策。
 4時過ぎにフェリー乗り場に戻り、自転車を折り畳んで布団袋に。入港を待っていたら、同宿だった岡田君が待合室に。彼もフェリーに乗り、これから鹿児島へ。それから自転車で日本一周の続きをすると言う。九州から日本海側を走って北海道か。終点は出身地の神戸だろうか。
 名瀬行きのフェリーはクイーンコーラル。亀徳港を5時に出発。ず〜っと船の最上階の展望デッキで空と海を眺めながら、名瀬へ帰る。それにしても海上から見る奄美大島は、デカイな〜と思う。
 8時過ぎに名瀬港に到着。自転車を組み立て、歩いても5分ほどの部屋へ帰る。冷凍庫の白くまを食べ、シャワーを浴び、そうめんを茹でる。そうめん美味い!
 写真の島影は、たぶん徳之島。
*2011年6月13日のPhoto Diaryはこちら。(黒糖焼酎・高倉)
*2011年6月14日のPhoto Diaryはこちら。(雨の名瀬港)
*2011年6月15日のPhoto Diaryはこちら。(入港したフェリーと大きな月)
*2011年6月16日のPhoto Diaryはこちら。(深夜の名瀬港、ホテル・カリフォルニア、鰹のハラガワの燻製、満月?)
*2011年6月17日のPhoto Diaryはこちら。(月と名瀬港)
*2011年6月18日のPhoto Diaryはこちら
6月18日のスナップ。朝仁海岸
↑18日は、昼ご飯に油ソーメンを作り、2時から奄美図書館で行われる「あまみならでは学舍」へ。今日は、奄美の自然を考える会顧問・田畑満大さんによる「今注目される奄美の食材〜薬用植物の成分と効能〜」。頂いたテキストには、奄美に自生する薬用植物並びに栽培種のリストが載っており、それぞれに作用、どうして効くのか、用法が記されている。
 図書館からの帰り、ガズ代を払い、郵便局で用事を済ませ、100円ショップで日用品を買って帰宅。
 日が傾き始めた頃、買物がてら朝仁海岸へ。クロックス(もどき)を履いて海へ。素足だと砂の上にゴロゴロと転がっている珊瑚が痛いのです。ちょっとひんやりして、気持いい。
 名瀬の八百屋の軒先は、すももがいっぱい。すももジャムを作ってみようかと思い、1キロ買った。オマケしてもらって200円。写真は夕暮れの朝仁海岸。
*2011年6月19日のPhoto Diaryはこちら
6月19日のスナップ。すももジャム作り
↑19日は、すももジャム作り。まずはパソコンでレシピを検索。
 以下、いくつかのレシピを参考にして作った私の”すももジャム”さばくりです。*さばくりは、島口で段取りのこと。
1.すももをキレイに水道水で洗い、キズやへたを取る。2.包丁で切れ目を入れたすももに砂糖をまぶし、水を少量加えて火にかける。3.スプーンですももを潰しながらポッカレモン少量と、砂糖を加える。4.好みの硬さになったら火を止め、煮沸したビンに詰める。
 グツグツと鍋の中で煮立つジャムを見ながら、溶け出した燃料棒とは、こんな状態だろうかと思った。なんだかな・・・
*2011年6月20日のPhoto Diaryはこちら。(ジャムパン)
*2011年6月21日のPhoto Diaryはこちら。(小宿漁港、朝仁海岸)

5月21日(金)

 富山の新型コロナ感染者数が、今日で3日連続30人台となった。ジワジワと広がっている。感染拡大を受けて新田知事は今日「富山県感染拡大特別警報」を発出したが、警報を出すだけで感染が収まると思っているんだろうか。相変わらず県民に注意を促すだけで、県が具体的な対策を講じるわけではない。
 20日に那覇市が市制100周年を迎えるのを受けて、琉球新報が一昨日<「那覇=なは」はいつから?NHKが決めた?>という記事を掲載した。
 その中に、<那覇市制50周年記念誌によると、「なは」という発音は1934年に日本放送用語審査委員会が決めた。だが外間さんは「『なは』は県外からの呼び方で、戦前の沖縄では『なーふぁ』と発音していた。『なは』が浸透したのは戦後ではないか」と指摘する>という箇所があった。外間さんとは那覇市歴史博物館の学芸員の方だ。
 ヤフコメに指摘があるように、日本語の「は」の発音は「ぱ」から「ふぁ」へ、そして「は」になった。古くは「花」は「ぱな」であり「ふぁな」だった。その発音が奄美の一部や沖縄で戦前まで残っていただけで、NHKが決めたとかいう問題ではないだろう。
 奄美群島の最南端で、琉球文化の影響が色濃く残る与論島は「パナウル王国」と命名して島を観光アピールしているが、パナウルの「パナ」は花のことで、「ウル」はサンゴ礁のことだ。

 沖縄県が国に緊急事態宣言を要請したのを受けて、自民党の細田博之元官房長官が「国の政策に頼るなんて沖縄県民らしくない」とコメントした。この細田氏の発言に対して、立憲の安住国対委員長が沖縄差別だと抗議したそうだ。まあ、陰険な発言だと思うが、細田氏らしいなとも思う。
 そんなことよりも細田氏の発言で気になったのは「沖縄県のように、海を隔てて、航空機と船でしか行けないところが、なんでこれほど、1万4千人の罹患者が出るんだと、わが島根県は469人、に比べると40倍も出て、そしてわが県は死者ゼロである」という部分だ。
 それなら「日本国のように、海を隔てて、航空機と船でしかいけないところが、なんでこれほど、70万人を超える感染者数と、1万2000人を超える死者が出るんだ」と細田氏に問いたい。政権与党である、あなたを含む自民党の失政ではないのか。
 地続きの欧州などよりも島国の日本はウイルスの流入を防ぎ易いはずだが、既に変異株のイギリス型もインド型も市中感染が始まっている。沖縄に陰険な嫌味を言うその口で、島国なのに水際対策が甘々で感染拡大させている身内である政府を批判したらどうか。

 戦闘が続いていたイスラエルとハマスだが、20日の夜に停戦することで合意した。今回の10日間ほどの攻撃でパレスチナ側は232人、イスラム側は12人が亡くなった。停戦したことは良かったが、問題は何一つ解決していない。

 一昨日、<世界に鳥は何羽いる? 種別「鳥の数ランキング」から求めた初の研究結果>というナショナル・ジオグラフィックの記事が目にとまった。記事によると、地球上には500億から4280億羽の鳥が生息しているそうだ。随分と幅のある数字だが、空を飛び移動する範囲も広い野鳥の数なので大雑把なのは致し方ないようだ。
  奄美に住んでいた2011年の3月、絶滅危惧種のオオトラツグミの生息調査に参加した。奄美中央林道、金作原林道、里林道、油井岳、湯湾岳が主な調査地で、その中の金作原林道の10キロ地点から12キロ地点までの往復4キロを担当した。調査は一つの区間を2人で担当する。事前の説明会でオオトラツグミの鳴き声を収録したCDをもらっていて、鳴き声が聞こえたら地図に聞こえてきた方向と時間を記入するというもの。説明会でコンパスの使い方や地図への記入の仕方は習ったが、ご一緒したのが城さんというベテランの方だったのでお任せした。
 早朝4時に名瀬運動公園に集合して、5時30分に調査開始。金作原は、奄美大島でも数少ない原生林。小雨の降る中、舗装されていない山道を1時間に4キロという早いペースで歩くので、ついて行くのが精一杯だった。夜が明ける6時前後が一番さえずりが大きかった。たぶん4羽くらいのさえずりを聞いたと思う。
 ところで一緒になった城さんは<きずき>と読む。最初、「しろさんですか、じょうさんですかとお聞きすると、きずきです」と答えられた。「あ~、奄美出身で城南海(きずきみなみ)という歌手がいますね」と言うと、「娘です」と答えられて驚いた。城さんには、奄美に滞在中、その後も何度か偶然お会いする機会があった。

調査員証
 この他の気になった記事を備忘録として。
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 今日の午前中、ヨドバシカメラのネットショップで購入したスナック菓子「エアリアル」のてりやきマヨ味5袋が届いた。エアリアルは「しお味」「濃厚チェダーチーズ味」「焼きとうもろこし味」「てりやきマヨ味」の4種類があるが、県内のスーパーでは「しお味」しか見たことがなく、どうしても食べて見たくて試しにヨドバシのネットショップで検索したら商品がラインナップされていた。送料無料で1袋から注文できるが、それではあまりに申し訳ないので「てりやきマヨ味」と「濃厚チェダーチーズ味」を5袋ずつ注文した。チーズ味の方も今日発送したというメールが届いたので、早ければ明日には到着するかもしれない。
エアリアル
↑今日届いたエアリアルの「てりやきマヨ味」。
 Photo Diaryを更新。
*2011年6月1日のPhoto Diaryはこちら。(部屋のベランダからの夕焼け)
*2011年6月3日のPhoto Diaryはこちら。(曇り空の名瀬港)
*2011年6月4日のPhoto Diaryはこちら
6月4日のスナップ。雨どいから生えた松の木
↑4日は、午後から読み終わった本を返しに図書館へ。せっかくなのでカメラをブラ下げて、紫陽花のある風景を探しながら図書館までの道を散歩。小雨の頃を見計らって部屋を出たが、途中から雨足が強くなって来た。写真は街中のスナップで、雨どいから生えた松の木。亜熱帯の底力だな。
*2011年6月5日のPhoto Diaryはこちら。(朝仁海岸、カラス、猫)
*2011年6月7日のPhoto Diaryはこちら。(ソテツ、タイヨーで買い物、屋仁川)
*2011年6月8日のPhoto Diaryはこちら。(雷雨の名瀬港)
*2011年6月10日のPhoto Diaryはこちら
6月10日のスナップ。基地さん正反対のメッセージ
↑10日は、朝5時50分発のフェリーあけぼので徳之島へ。
 名瀬港から奄美大島の東シナ海側を進み、加計呂麻島、与路島の横を通って、9時過ぎに徳之島の亀徳港に到着。
 布団袋に入れた自転車を組み立てて、港の近くの民宿へ。荷物を置いたら、さっそく地図を持って海沿いの道路をサイクリング。沖縄は昨日梅雨明けしたそうだが、奄美諸島も梅雨明けしたような快晴。
 10時過ぎに亀徳を出発し、徳和瀬、諸田、神之嶺、井之川、下久志、池間、母間、花時名と通り、1時半頃に花徳に。先月自転車で走った喜界島ほど平坦な道ではないけれど、奄美大島ほどのキツい起伏でもないかな。
 出発する前に民宿近くのニシムタに麦わら帽子を探しに行ったがなかったので、帽子もかぶらず炎天下を自転車漕いでいたら、さすがにクラクラとしてくる。あまり長い時間サイクリングしているのは危険だと思い、ここらで引き返す。来る時に寄った第46代横綱朝潮太郎の銅像横にあるトイレで顔と頭を洗い、近くの自販機でスポーツドリンクを補給。
 煮えそうな暑さの中、ようやく民宿にたどり着いたのが3時頃だったか。でも宿は鍵がかかって入れない・・・orz。しょうがないのでフェリー乗り場の待合室で一休み。そうしているうちに沖縄からのフェリーが入港。この便で到着するお客さんを迎えにきた、宿のご主人と遭遇。
 フェリー乗り場から自転車で亀津の街を少しぶらぶらして、宿へ帰る。今日が、この民宿の2周年の誕生日だそうだ。シャワーを浴び、ご飯を食べながら沖縄からの便で来た岡田君、宿のご主人と祝酒。夕方から飲み始めて、夜中に撃沈。
*2011年6月11日のPhoto Diaryはこちら。(注意。多数の人骨がそのまま置かれたトゥール墓の写真があります
6月11日のスナップ。闘牛
↑11日は、朝食を食べてから宿のご主人に車で伊仙町を案内してもらう。馬根集落、阿権集落を通り犬田布岬へ行き、戦艦大和の慰霊碑を眺める。泉重千代さんの生家やカムイヤキ窯跡をまわり、珊瑚の石垣の立派な民家をいくつか見せてもらった。
 午後からは、岡田君と宿の車を借りて徳之島町、天城町の観光名所をまわる。畦プリンスビーチ、金見崎のソテツトンネル、ムシロ瀬、徳之島空港、犬之門蓋と海沿いの名所を見て、糸木名集落から内側に入り、亀徳に戻る。
 宿の近くのスタンドでガソリンを満タンにして、今度は宿のご主人と3人で伊藤観光ドーム闘牛場へ第37回鹿児島ブロック大会in徳之島開催記念観光闘牛大会を見に行く。この闘牛大会を見るために、今回徳之島へ来たようなもの。
 闘牛場横でチケットを買って中に入ると、直ぐに闘牛大会は始まった。
 対戦は8組。闘牛は初めてなのでよくわからないが、途中で2組ほど牛が戦わず対戦にならなかった。闘牛好きだという宿のご主人によれば、最初と最後の対戦が良かったらしい。最後の横綱の対戦では中の人が牛とぶつかって怪我をするというハプニングもあった。
 対戦にならなかった試合があったからか、思っていたより随分と早い7時半頃に大会は終了。6時開始だから1時間半か。
 外に出ると、みんなゾロゾロと帰り道を歩いている。中学生らしい女の子のグループや、小学生の男の子達もいる。
 宿に帰ってシャワーを浴びて、3人でご飯を食べながら闘牛のDVDを見て、宴会。朝からアチコチ見てまわったので、あっという間に撃沈。

5月18日(火)

 昨日、一昨日は雨。今日は曇り時々雨。天気予報では明日は曇りのち晴れだが、明後日からまた傘マークが並んでいる。今年は各地で例年より早く梅雨入りしている。ひょっとすると富山も、もう梅雨入りしているのだろうか?

 セウォル号の沈没事故から、先月の16日で7年が経った。乗客・乗員299人、捜索作業員8人が亡くなり、行方不明者も5人という大惨事だった。この時、事故直後の朴槿恵大統領の行動に疑惑が抱かれ「空白の7時間」としてマスコミから追及を受けていた。韓国政治を細かくウオッチしているわけではないので的外れかもしれないが、セウォル号の沈没と共に朴槿恵政権も沈没していった印象がある。

 このセウォル号に乗船したことがある。正確には韓国籍のセウォル号になる前、鹿児島と沖縄の間を就航していたマルエーフェリーが所有する日本籍の「フェリーなみのうえ」の時代だが。
 セウォル号は、2012年10月2日に引退した「フェリーなみのうえ」を韓国の海運会社がスクラップ同然として8億円ほどで買い取り、改修して「SEWOL号」として就航させたものだ。
 フェリーなみのうえに乗船したのは2012年の5月、那覇での住まいを探しに沖縄へ行った帰りに沖永良部島に1泊2日で寄った後、名瀬に帰る時だった。
 フェリーは沖永良部島の和泊港に14時10分入港、14時40分出港予定だったので、それまで持参した折りたたみ自転車で島内を撮影しながらまわっていた。少し余裕をみて出航より1時間以上前、13時半頃にフェリー乗り場に行くと窓口は開いておらず、天候の影響だろう「船は伊延港に2時に入港」と変更を知らせる張り紙が・・・orz。
 突然の事にどうして良いかわからず事務所に声を掛けると、伊延港まで自転車で行ってもまだ間に合いますよ~と、のんびりした年配の女性の返事。そうか。
 場所を確認すると島を横断する感じだが、距離的にはそう遠くないようだ。とりあえず折り畳んだ自転車を組み立てて、必死に自転車を漕いだ。
 汗だくになりながらも、30分かからずに着いただろうか。大荒れの和泊港と違い、伊延港は波が落ち着いている。急いで名瀬までのチケットを購入。直ぐにフェリーが入って来たので乗船した。
 この時から2年も経たないうちに転覆・沈没し、大勢の犠牲者を出すとは夢にも思わなかった。

 写真は沖永良部島の伊延港に入港するフェリーなみのうえ。2012年5月14日撮影。9年前か。

フェリーなみのうえ
 Photo Diaryを更新。
*2011年5月18日のPhoto Diaryはこちら
5月18日のスナップ。夕暮れの名瀬港に入るフェリー
↑18日は、夕方から軽くサイクリング。名瀬港をぐるっとまわる感じで大熊漁港へ。カツオのぼりが泳いでいるので販売所を覗いてみたら、珍しくシビのお刺身が並んでいる。でも昨日の晩と今日の昼に、キハダマグロのお刺身食べたからな・・・。代わりに魚のかき揚げ5個350円を買う。
 大熊漁港に架かる橋の上から、そして鳩浜の辺りから夕暮れを撮影。雲が多いから、ちょっと難しいかな?と思っていましたがキレイに焼けて行きましたね。ジリジリと炭に火が入る感じで、中心は透明感のある明るさ。写真は名瀬港に入って行くフェリー。
*2011年5月21日のPhoto Diaryはこちら。(名瀬市街、借りてきた本、桜島から送っていただいた漬物)
*2011年5月22日のPhoto Diaryはこちら。(勝廣光・常田守自然写真展、朝仁海岸、名瀬港)
*2011年5月24日のPhoto Diaryはこちら。(濃霧の名瀬)
*2011年5月25日のPhoto Diaryはこちら。(屋仁川の居酒屋、秋名集落の家)
*2011年5月26日のPhoto Diaryはこちら。(朝仁海岸の猫)
*2011年5月27日のPhoto Diaryはこちら。(ぱしふぃっく びいなす、ハシケン、秋名集落の家)
*2011年5月28日のPhoto Diaryはこちら。(雨の名瀬港、台風情報)
*2011年5月29日のPhoto Diaryはこちら。(台風情報、台風一過の朝仁海岸、小宿)
*2011年5月30日のPhoto Diaryはこちら
5月30日のスナップ。大熊展望台近くからの名瀬港沖
↑30日は、午前中から画像を添付したメールを送ろうとして上手くいかず。デスクトップでダメならノートでどうだ?と試みるが送れない。
 通信には奄美に来てからdocomoで契約したL-05Aという小さな機器を使っているので、購入したdocomoショップへ。
 サポートに繋いでもらって、直接担当者と電話でやりとり。結局パスワードを作り直し、新たな設定でノートパソコンからの送信は可能に。デスクトップは、画像の容量がオーバーしていたのが原因のようだ。
 朝から青空が広がる良い天気だったので、自転車で少し遠くまで行こうと思っていたけれど、メールの設定に時間がかかって中途半端な時間になってしまった。遠出はやめて、久しぶりに大熊展望台へ。
 奄美大島で一番傾斜が急だという説もある坂道を、自転車を押して休み休み20分ほど上がって行く。しばらく来ないうちに太陽の位置が随分と動いている。昨年の11月に来た時は山に隠れたのが、今は海に沈んで行く。
 汗をかきながら上がって来た坂道を、両手でブレーキをかけながら、それでも一気に駆け下りる。大熊漁港に寄ると2組ほど、舟漕ぎの練習をしている。これから島んちゅの季節。
*2011年5月31日のPhoto Diaryはこちら。(台風で被害を受けた栄さんのビニールハウス)

5月15日(土)

 今日の高岡市の最高気温は26℃。涼しい風も吹いていたが、日差しはもう夏。
扇風機と石油ファンヒーター
 今日から扇風機を出した。その隣には、まだ石油ファンヒーターが置いてある。ファンヒーターのスイッチを入れることはないかもしれないが、物を置くのに重宝している。
 服装も長袖のTシャツから半袖のTシャツに、ジーンズから7部丈のパンツに。
 今日の昼ご飯は、今季3度目の冷やし中華。例年よりも早いペースで食べている。
 今日で沖縄が日本に復帰して49年になる。『沖縄に基地があるのではなく基地の中に沖縄がある』は東松照明氏の写真集のタイトルだが、的確な表現であり、その言葉は復帰から49年たった今も残念ながら有効だ。
 沖縄タイムスがWEB限定で<沖縄の「今」が始まった1972年5月15日 “沖縄の一番長い日”ドキュメント>という記事を、琉球新報が<世替わり前後の沖縄は…アメリカから日本へ 写真で振り返る復帰>という記事を公開している。
 下の写真は那覇から東京へ向かう飛行機から撮影したもので、左中央に普天間飛行場、その右上に嘉手納空軍基地が見える。那覇から嘉手納に向かう国道58号を走れば「沖縄に基地があるのではなく基地の中に沖縄がある」を実感するだろう。
飛行機から撮影した普天間と嘉手納

 驚くほど酷い発言や対応が続いている。
 イスラエルとパレスチナの戦闘が激しさを増しており、イスラエル軍は空爆に加え地上部隊による攻撃を開始した。パレスチナ自治区ガザでの死者は109人(うち29人は子供)、イスラエルでは民間人が7人(うち二人は子供)死亡している。
 このまま戦闘がエスカレートすれば、イスラエルが停戦拒否した2014年のようにさらなる犠牲者が出るのだろう。当時書いたメモによれば、8月7日時点でガザでの死者は1650人を超え、その中には多数の子供や女性が含まれていた。一方のイスラエルは66人の死者を出しているが、63人は兵士だった。
 この時はスイス・ジュネーブの国連本部で国連人権理事会が開かれ、イスラエルの軍事作戦を非難する決議を賛成多数で採択したが、内訳は賛成29カ国、反対1カ国、棄権17カ国。反対したのはアメリカで、日本は棄権している。
 今回も国連の安全保障理事会が緊急会合を開いて対応を協議したが、イスラエルの自衛の権利を支持するアメリカが声明の発表に反対しているという。
経済封鎖と物理的な壁による囲い込みで兵糧攻めにされたガザ地区の人々が、堪え兼ねて抗議の意思を示したら、何十倍、何百倍もの暴力で返された。イスラエルによるパレスチナ人への虐待であり、エスカレートした今の状況はジェノサイドとしか言いようがない。アメリカはこの蛮行を批判するどころか、イスラエルのミサイルに資金援助することを決めた。本当のテロリストとテロ支援国家とはどこだろうか、と考えさせられる
 2014年8月のメモのような日記に自分で書いた文章だが、イスラエルとアメリカの態度はこの頃から変わっていない。
 ところで、中山泰秀副防衛相がイスラエルとパレスチナの衝突を受けて自身のツイッターで「イスラエルにはテロリストから自国を守る権利があります」と書き込み、炎上したという。ツイッターの文章は「私達の心はイスラエルと共にあります」と結んであるというが、私達とは誰のことだろうか。
 1948年のイスラエル建国によって、70万人以上のパレスチナ難民が発生した。イスラエルがどのようにして現在の土地を手に入れたのか、その検証もせずに軽々しく「私達の心はイスラエルと共にあります」などと書く人が副防衛相というのが恐ろしい。

 昨日の記者会見で東京五輪・パラリンピックの開催について問われた菅首相が、またも「国民の命や健康を守り、安心安全の大会を開くことは可能だ」と壊れたテープレコーダーのようにお馴染みの言葉を発した。
 これまで対策が後手後手で、死者数は既に1万人を超えてしまった。大阪や兵庫はもはや入院できずに自宅や療養先でなくなる人も出ており、医療崩壊してしまっている。島国なのだから、地続きの欧州などに比べてウイルスの流入を防ぎ易いはずだが、既に変異株のイギリス型もインド型も市中感染している。水際対策が甘いのだろう。それなのに、東京五輪・パラリンピックの時だけはなぜ上手くいくと思えるんだろうか。
「選手や大会関係者の感染対策をしっかり講じ、安心して参加できるようにし、国民の命と健康を守ることが開催の基本的な考え方だ」というが、それでできるのなら、まず昨年のうちから国民の感染対策を講じて安心して暮らせるようにするのが政府の役割だろう。
 安心安全のオリンピックどころか、世界中から人が集まることで新たな変異株が生まれるのではないかと恐怖すら覚える。競技場を野戦病院にしなくてはならない事態が生まれないことを願うばかりだ。
 菅内閣の支持率が、政権発足後最低の32.2%になったという。まだ3割り以上の支持があることが不思議でたまらない。

 元日弁連会長の宇都宮健児氏がオンラインで集めた東京五輪反対の署名35万筆を都庁に提出したが、小池都知事は定例記者会見で「世界的なパンデミックではあるが、東京2020大会を安全・安心に開催することは重要。引き続きIOC、国、組織委員会などの関係者と連携し、着実に準備を進めていく」と答えた。そもそもオリンピック開催にあたって、新型コロナ以前の一昨年までは熱中症対策やトライアスロンの会場となるお台場海浜公園の水質汚染が問題だったのだが、こちらの対策も着実に準備が進められているのだろうか?そんな風には見えないのだが。 

 政府も都も開催するつもりのようだが、東京五輪・パラリンピックが中止になった場合、IOCから賠償金などを求められるか問われた大会組織委員会の武藤敏郎事務総長は「最近、そういうご質問が増えているが、考えたことはない。あるのかどうかも、見当がつかない」と述べたそうだ。そういう質問が増えたなら、答えられるように調べたらどうか。子供じゃないんだから。
 個人的にはIOCからの賠償金請求よりも、もしオリンピックを開催し、そこで新たな変異株が生まれ世界中に広まった場合の賠償の方が不安だ。

 菅首相は東京オリンピック・パラリンピックの大会関係者について「行動を制限し、それに反すれば強制的に(国外)退去を命じることも含めて今検討している」そうだ。すごい「お・も・て・な・し」もあったもんだ。こうまでして開催する意義は、どこにもないだろう。

 Photo Diaryを更新。
*2011年5月1日のPhoto Diaryはこちら。(名瀬港の海面)
*2011年5月2日のPhoto Diaryはこちら。(朝仁海岸、小宿漁港、名瀬港)
*2011年5月5日のPhoto Diaryはこちら。(黒糖焼酎・加計呂麻、小宿漁港と鯉のぼり、大浜海浜公園)
*2011年5月7日のPhoto Diaryはこちら。(バーベキュー)
*2011年5月8日のPhoto Diaryはこちら。(小湊方面へ、パッションフルーツとゴーヤ)
*2011年5月9日のPhoto Diaryはこちら。(オカヤドカリ、朝仁海岸の猫、南国白くま)
*2011年5月11日のPhoto Diaryはこちら。(夜の名瀬港)
*2011年5月12日のPhoto Diaryはこちら。(雨の名瀬港)
*2011年5月13日のPhoto Diaryはこちら。(名瀬港から喜界島へ)
*2011年5月14日のPhoto Diaryはこちら
5月14日のスナップ。手久津久集落のガジュマル
↑14日は、朝起きて自転車で近所のスーパーへ買い物。ポカリスエット1.5L198円、菓子パン105円、飴178円、サッポロポテトBQ味98円、唐揚げ弁当350円。
 さっそく朝食に唐揚げ弁当を食べ、10時過ぎに部屋を出る。まずはホテルのフロントに家の鍵を預け、喜界島の地図をいただき、いざ出発。今回泊まったているのはホテルの別館だという3DKの一軒家。予約した時は1泊2,500円ということだったが、シーズンオフなので2,000円になった。
 島をぐるりとまわっている県道を左回りに自転車を走らせる。湾、中里、荒木、手久津久集落から少し入ったガジュマルの巨木を見て上嘉鉄、先山。浦原から左に曲がり坂を上って中西公園へ行き、喜界島の最高峰(海抜約212メートル)とされている地点に上り、百之台国定公園を走り、そのまま畑の中の一本道を突き進む。
 島の高台に位置する百之台国定公園の歩道の脇に、大きな珊瑚岩がゴロゴロと転がっている。珊瑚が隆起して出来た島だと実感する。現在も、年に2ミリずつ隆起しているそうだ。
 お昼ご飯を食べずに走ってきて、もう午後3時。お腹が空いたので朝買っておいた菓子パンを食べようと自転車カゴの中のバックを覗くが・・・あれっ!?パンがない。どこかで落として来たのか??悲しい・・・orz。
 一本道を東シナ海側に折れてムチャ加那公園によって、小野津。海沿いに伊実久、坂嶺、中熊、先内、中間、池治、赤連を通り湾に戻ってきた。ホテルで家の鍵を受け取り、空港臨海公園で夕焼けを眺める。
 すっかりお腹が空いたので回転すしやに入り、焼き肉定食880円を注文。目の前を皿に乗った寿司が流れて行くのを見ながら、焼き肉を食べる。食べ終わり、ディスカウントショップで黒糖焼酎・たかたろう720mlを購入。
 家に戻りシャワーを浴び、カメラのバッテリーを充電、撮影データをバックアップ。
 今日のサイクリングで、島の大きさがだいぶ実感できた。写真は手久津久集落のガジュマル。
*2011年5月15日のPhoto Diaryはこちら
5月15日のスナップ。阿伝集落
↑15日は朝昼兼用の弁当を食べて、11時過ぎに家を出る。まずはホテルのフロントへ家の鍵を預け、今日と明日の宿泊料2泊4000円を支払う。
 途中気になった風景をスナップしながら、湾から先山まで。昨日は浦原で百之台へ行くために左折しましたが、今日は島一周コースなのでまっすぐ海沿いの道を走る。
 浦原の隣り、花良治集落から奥に入った山道の途中にある夫婦ガジュマルを見に行く。場所を教えてもらった集落のおじさんは、「たいしたガジュマルじゃない」と言うんで、坂も上がらなくてはいけないので見るの止めようかな〜と一瞬思いましたが、見に来て良かった。カーブの外側、崖に巨大なガジュマル。木根がず〜っと奥まで伸びていて樹の全貌が分からないくらいデカイ!一本の樹なのか、何本か並んでいて、夫婦なのか?カーブの内側にも大きなガジュマルがあって、こちらも立派な木根を地面に伸ばしている。
 海沿いの道路に戻り蒲生、阿伝。阿伝集落で自転車を下り、珊瑚の石垣が連なる集落を散歩。迷路のような村内の道を珊瑚岩が囲む。どこまでが道で、どこからが屋敷かわからない。美しいメイズ。
 阿伝集落に限らず喜界島の家々には、珊瑚の石垣が残っている。珊瑚と珊瑚の間をコンクリートで固めたものや、ブロック塀に変わった家もあるけれど、珊瑚を積み上げただけの石垣がやはり美しい。
 しっかり木根を伸ばしたガジュマルが植えられている家も多い。ガジュマルと珊瑚が、この島を昔から海風から守って来たのだろう。
 阿伝の隣りの嘉鈍で、ソテツの巨木を観賞。確かに大きいんだけれど、ガジュマルの巨木を見た後だからな・・・。
 嘉鈍、白水、早町、塩道、佐手久、志戸桶。志戸桶からバスが通る道から外れて、トンビ崎国定公園の中を走る道へ。今日の天気は、曇りのち晴れのち小雨。雨がちょっとだけ強くなって来た。
 トンビ崎の辺りを自転車で走っていると白砂の海岸。「ハワイ」と書いた看板。これがハワイビーチか。
 珊瑚に囲まれた湾の中に白い砂。そして透明な海水。珊瑚の岩場に男性が一人。蛸とりに来たらしいが、収穫はなかったようだ。
 小野津に出て、昨日と同じ道を通って赤連まで。港湾を自転車で走ってホテルで鍵を受け取り、昨日も晩ご飯を食べた回転すしやで、油そーめん450円、ヤギ汁450円。ヤギ汁、初めて食べましたが想像していたより癖がなく、美味しかった。塩味でしたがダシが出ていてスープが美味い。このスープでお餅を入れて、お雑煮も良さそうだ。
 完走できるか、ちょっとだけ不安でしたが島一周達成!多少の起伏はあるけれど、奄美大島に比べれば全然平らで走りやすい。写真は珊瑚の石垣が美しい阿伝集落。
*2011年5月16日のPhoto Diaryはこちら。(雨の喜界島を散歩)
*2011年5月17日のPhoto Diaryはこちら
5月17日のスナップ。喜界島の湾港
↑17日は喜界島から奄美大島へ帰る日。早朝の3時半頃に、荷物を背負って自転車で湾港のフェリー待合所に。先客は一人。自転車を折りたたんで、布団袋に収納。
 4時半近くになって、まだ暗い港へ静かにフェリーが入って来る。湾内でゆっくりと回転して着岸。下船するお客さんが全員タラップを降りた後、順番に乗り込む。
 コンテナを積み込んで、フェリーはほぼ定刻に出航。雨は止んでいるが、大きな雲が島を覆っている。
 海も陸も空も境目がよくわからなかったのが、出航の直前、急激にそれぞれの輪郭が現れる。
 喜界島から名瀬までの約2時間、ず〜っと海と雲を眺め、写真に撮っていた。
 昨年の6月に初めて鹿児島から名瀬にフェリーで来た時と違い、今は船から眺める奄美大島の地理もだいぶ分るようになった。あやまる岬、笠利崎灯台、佐仁・・・それにしても海に横たわる姿を見て、改めて大きい島だな〜と思う。写真はフェリーから撮影した喜界島の湾港。

5月12日(水)

 今朝、ヤフーの検索ワードランキングで「高岡高校」が4位になっていたので、何事かと思ったら高校の敷地内に熊が出没したという。
高岡高校検索ランキングのスクショ

 地元の北日本新聞だけではなく、毎日新聞朝日新聞といった全国紙でもニュースになっていた。
 熊は中庭の木に登っていたところを猟友会のメンバーによって射殺されたそうだ。
 それにしても高岡高校は街の中心部にあり、どこから来たんだろうか。二上山辺りから、小矢部川を渡ってトコトコ歩いて来たんだろうか?
 高岡高校は休校になったそうだ。

 チューリップテレビの動画。  

 奄美大島や沖縄本島北部などの世界自然遺産登録がほぼ確実になったことを受けて、朝日新聞の奄美大島支局記者による奄美の自然を紹介する記事がいくつかUPされており、その中で奄美の写真家・常田守さんの話が何回か登場する。
奄美は「オンリーワンの島」 身近に世界遺産級の生き物 奄美・沖縄
奄美取材も楽じゃない 手にした10秒1万円のお宝映像
絞め殺しの木
 2010年6月~2012年6月までの奄美大島滞在中はサバクリ人さんを始め、いろんな人に島を案内してもらったが、常田さんにも夜の森の中や、リュウキュウアサギマダラの越冬、マングローブに棲むミナミコメツキガニなどの撮影に連れて行ってもらった。中でも印象に残っているのはアスファルトの山道から森の中にわけ入り、崩落した道や沢伝いに歩いた市理原(イチリバル)だろうか。この日は地元の観光ガイドを仕事にしている人や地元の新聞記者の人たちに、常田さんが奄美の魅力としてあまり知られていないDEEP FORESTを紹介するというものだった。
 その深い森の中で、幹まわりが5メートルほどのオキナワウラジロガシや、巻きついたガジュマルの気根に栄養をとられて枯れてしまった絞め殺しの木(絞め殺された木)などを見ることができた。
 常田さんと話していると、よく「ハブがうってくる」と言っていて最初は何のことだかわからなかったが、うつとは噛むことだった。ハブにうたれる=ハブに噛まれる。うたれるは「撃たれる」「討たれる」「打たれる」どれを使うのだろうか。
↑絞め殺しの木。元々あった木は気根に養分をとられ、枯れてしまって空洞になっている。↓オキナワウラジロガシの幹まわりを測る常田さん(右側のグリーンのジャンパー)。
オキナワウラジロガシの幹まわりを測る常田さん

 昨日、閣議後の定例会見で丸川珠代五輪相が五輪開催の意義を問われ「コロナ禍で分断された人々の間に絆を取り戻す大きな意義がある」と述べ、その発言がネットで炎上したという。確かに白々しく思える言葉だし、個人的な印象では<絆>という言葉から遠い場所にいるのが彼女だと感じている。本当に絆を取り戻せると考えているんだろうか。
 2019年の参院選ではトップ当選を果たしたが、彼女の選挙戦での問題提起は当時大ブームだったタピオカドリンクの容器がポイ捨てされていることだった。
 Wikiによれば2007年に安倍首相から出馬の要請を受け、7月の参院選で初当選した。 しかし、この時彼女は選挙権を持っていなかったそうだ。2004年にアメリカから帰国して以来、6回の国政・地方選挙で投票に行っていなかったという。元々選挙とか政治に関心はなかったのではないだろうか。だからだろうか、議員の役をやっているタレントにしか見えない。「この愚か者めが!」発言など、まさにそれだ。ビートたけしのTVタックルでアナウンサーをしていた時の彼女は面白いと思って観ていたが。

 このほかの気になった記事を備忘録として。
関電美浜3号機が6月再稼働 老朽原発で初、近く決定
中山泰秀副防衛相のツイッター「炎上」 中東衝突めぐる投稿で
デジタル庁、9月1日発足 改革関連6法が成立
ワクチン予約システム、各地で障害 復旧の見通し立たず
国内最高齢バーテンダー死去 95歳、「雪国」生みの親
イスラエル、ハマスと攻撃の応酬 ガザ空爆で20人死亡
【独自】高齢者1万人「接種センター」 日本旅行、人材派遣会社に約37億円で自衛隊が“丸投げ”

 Photo Diaryを更新。
*2011年4月17日のPhoto Diaryはこちら。(栄さんのビニールハウスで、ゴーヤとパッションフルーツの受粉作業)
*2011年4月18日のPhoto Diaryはこちら
4月18日のスナップ。諸鈍集落のデイゴ並木で記念写真
↑18日は両親を連れて加計呂麻島の諸鈍集落を観光。ホテルのロビーで待ち合わせて、歩いて道の島バスの本社へ。10時1分のバスで古仁屋へ行く。11時40分のフェリーかけろまで生間港に渡り、バスで諸鈍集落。
 古仁屋のコンビニで買ってきたお弁当を食べ、デイゴ並木の端まで一緒に散歩して、しばし自由行動。海岸の堤防にゴロンと寝転がって、お昼寝。日射しと風が気持良い。
 お弁当を食べた寅さんのロケ記念碑のところで合流して、平資盛を祀った大屯神社に寄り道しながら生間港まで歩く。来る時はフェリーだったので、帰りは海上タクシーに乗ろうと思っていたが、電話で確認したところ3時15分の海上タクシーは運航していないそうだ。待合室でテレビを見ながら過ごして、3時55分のフェリーかけろまで古仁屋に渡る。
 せとうち海の駅の2階にある、「男はつらいよ」寅さんの資料コーナーをちらっと見学してからバスで名瀬のホテルへ。しばらく休憩した後、宿泊しているホテルとは違うホテルのレストランで晩ご飯。写真は諸鈍集落のデイゴ並木にて。
*2011年4月19日のPhoto Diaryはこちら
4月19日のスナップ。おがみ山から名瀬港を眺める
↑19日は両親が富山へ帰る日。朝の8時30分頃に、ホテルのロビーで待ち合わせ。タクシーでおがみ山の入口まで。ゆっくり坂道と階段を上がり、名瀬の市街を見下ろせる小さな広場へ。雲が多いながらも、時おり強い日射しが照りつける奄美らしいお天気。ここまで上がってくるのはちょっと大変だけれど、やっぱり良い眺めです。
 山を下りて、帰りは歩いてホテルへ帰る。ホテルの横から、10時10分発の奄美空港行きバスに乗る。空港のカウンターで空席を確認。空席があるという事なので、シルバー割引でチケットを購入。奄美から大阪まで一人1万2000円。念のため空席がなかった時の為に、前日旅行会社で予約してもらった分をキャンセル。
*2011年4月22日のPhoto Diaryはこちら。(バスで宇検村の屋鈍まで)
*2011年4月24日のPhoto Diaryはこちら
4月24日のスナップ。シマオオタニワタリ
↑24日は「奄美の自然を考える会」の観察会。朝8時30分から、夕方の4時50分頃まで住用村、宇検村、大和村をまわって来た。写真の海藻のような植物は、湯湾川の渓流に群生している巨大なシマオオタニワタリ。葉っぱの長さは2メートルくらいだろうか。
*2011年4月27日のPhoto Diaryはこちら。(雨の名瀬港)
*2011年4月28日のPhoto Diaryはこちら。(確か湯湾岳へ向かう時に撮影した、夕景)
*2011年4月29日のPhoto Diaryはこちら。(大熊漁港、鰹のぼり、鯉のぼり、鰹の刺身500円)

5月10日(月)

 数日前に家の隣りの田んぼに水が引き入れられたら、カエルの大合唱が始まった。
 今日の夕方、奄美大島、徳之島、沖縄本島北部、西表島がユネスコの世界自然遺産に登録される見通しになったというニュースが流れてきた。奄美や沖縄の多くの人には、待ちに待った朗報だろう。しかし奄美大島には自衛隊の駐屯地、沖縄北部には在日米軍の大規模訓練場と、この琉球弧の島々は現在軍事要塞化が急速に進んでいる。世界自然遺産と軍事要塞が、島の中で両立するのだろうか。
 奄美大島と徳之島には国の特別天然記念物のアマミノクロウサギ、西表島にはイリオモテヤマネコ、沖縄本島北部にはヤンバルクイナなどの絶滅危惧種が生息している。生物多様性を守るのに重要な地域であることが評価対象となったそうだが、その上空を軍用機が飛び交い、森の中に木を伐り倒してヘリパッドが建設されている。これを機に軍事要塞化と貴重な自然を守って行くことが共存できるのか、真剣に考えてほしい。
アマミノクロウサギ

↑は、アマミノクロウサギ。奄美滞在中よく遊んでもらっていたサバクリ人さんから、アマミノクロウサギを見に行かないかとお誘いを受けて、夜中の3時から大和村方面の山へ。早朝5時ごろまで山道を車で走ってアマミノクロウサギ3匹、リュウキュウイノシシの子供2頭、ノラ猫1匹を発見。写真のアマミノクロウサギは一番最初に遭遇したウサギで、車の中から写したカット。ストロボを使って撮影した後もしばらくジッとしていたので不思議に思っていたが、データを背面液晶で確認するとフンをしている最中だったようで、納得した。ちなみに奄美の山道のほとんどはアスファルトで舗装されている。

 NTT東日本と西日本は今朝からワクチン予約の電話の集中で固定電話網がパンクするのを避けるため、集中が想定される約200の自治体の番号に対して発信を制限することもあると発表した。ワクチン接種の予約に関しては電話だけではなく、インターネットでも回線にアクセスが集中してサーバーがダウンする事例が起きている。ワクチン接種が進まないのはマイナンバーの普及が遅れているからという人もいるが、それ以前に情報インフラが整備・増強されていない方が問題だろう。

 Photo Diaryを更新。
*2011年4月10日のPhoto Diaryはこちら。(パッションフルーツとゴーヤの受粉作業、名瀬港から鹿児島港へ)
*2011年4月11日のPhoto Diaryはこちら。(鹿児島市内を観光)
*2011年4月12日のPhoto Diaryはこちら
4月12日のスナップ。県庁の展望台から桜島を眺める両親
↑12日は奄美大島に遊びに来るという両親を迎えに鹿児島中央駅へ。11時36分着の新幹線で到着した両親と、駅の近くの食堂で昼ご飯。3人で市電に乗り、ホテルにチェックインする。
 昨年、奄美大島に行く前に鹿児島に寄って祖父の実家の跡を探しあてたが、木原家のお墓は見つけられなかった。祖父は戦争で鹿児島を出てから一度も帰ることはなかったらしく、お墓が何処にありどうなっているのかわからない。今回お墓を探すにあたり、祖父の名刺入れを両親が持ってきた。そこにはお墓の掃除を任せたという人の名前を書いたカードが挟んであった。
 暫く部屋で休憩した後、市役所の戸籍課、斎園係等をまわる。その後、市電で騎射場まで行き、歩いて法務省へ。曾祖父のお墓探しは、なかなか難しい。せっかく法務省まで来たので、近くにある県庁の展望台に上がり、桜島を眺める。
 展望台を下りて、騎射場へ。郡元で鹿児島中央行きの市電に乗り換えようと思ったら、目の前にダイエー。1階の靴屋で父親が靴を買う。甥っ子のスニーカーを履いてきたが、サイズが合わず痛いらしい。
 郡元から鹿児島中央へ。駅前のチェーン居酒屋「笑笑」で晩ご飯。せっかく鹿児島に来たのだから、鹿児島ラーメンも食べたいので、ちょっと控えめにして市電で天文館へ。地図を見ながら「こむらさき」へ。残念ながら、閉店時間でした。しばらく繁華街を歩いて「のり一」というお店に。さっぱり塩味のラーメンを食べて、ホテルへ帰る。
*2011年4月13日のPhoto Diaryはこちら
4月13日のスナップ。探しあてた木原家代々のお墓で記念写真
↑14日は、朝の10時に両親とホテルのロビーで待ち合わせ。桜島フェリー乗り場で、11時5分発の桜島よりみちクルーズのチケットを購入。一緒に、ボランティアのガイドによる1時間半ほどの街歩きツアーも申し込む。
 今日も鹿児島は快晴。通常の桜島フェリーは片道15分ほどで行ったり来たりだが、よりみちクルーズは50分ほどかけて桜島を色んな角度から眺められる。値段も500円と、それほど高くない。
 お昼頃に桜島着。12時30分に観光案内所に集合で、街歩きツアーがスタート。自分たち家族の他、女性の団体が参加。ボランティア・ガイドさんに解説してもらいながら月読神社、桜島レインボービーチ、溶岩なぎさ公園足湯を散歩。コースはもう少しあるようですが、足湯のところで他の参加者の方々と別れてフェリー乗り場横のバス停へ。2時発のバスで持木町へ。昨年探し当てた、祖父の住んで居たであろう戸籍に記されていた場所を尋ねる。
 昨年お世話になった、隣家のご婦人にご挨拶し台所でお茶をいただき、庭で記念写真。少し持木町をぶらぶら歩いて、バスでフェリー乗り場へ戻る。
 フェリーで鹿児島港に渡り、昨日尋ねた市の斎園係へ。曾祖父と同じ名前で申請されている墓地があるというので、行ってみることにする。墓地で、斎園係の方が手配して下さった墓地の管理人さんと待ち合わせ。該当する区画には木原姓のお墓が3つあるが、知らない名前。曾祖父の墓か自信が持てない。祖父の残した名刺入れの中に墓の掃除を任せた人の名前を書いたカードがあったので、管理人さんに見せると、この墓地の階段途中にある花屋さんの名前だという。そこで花屋さんに話しを伺うと、その方は先代だという。
 多分この墓地で間違いないと思っていたら、土と草に少し埋まって倒れている墓石を父親が発見。名前は隠れて見えないが、亡くなった日付が曾祖父と同じだった。
 これでほぼ木原家代々の墓地だろうとなり、この荒れているお墓の手入れを花屋さんと相談。さっそく明日、石屋さんに来てもらうことにする。
*2011年4月14日のPhoto Diaryはこちら
4月14日のスナップ。いおワールドかごしま水族館
↑14日は、両親と朝の9時にロビーで待ち合わせて、ホテルをチェックアウト。墓標にあった名前の手がかりを探すため市役所へ行き、曾祖父の戸籍を調べてもらう。墓標にあった名前は、曾祖父の母親と妻であることがわかった。これで間違いなく木原家のお墓だと確証が持てたので、斎園係へ足を運ぶ。名義人になっている曾祖父が亡くなっているので、自分たちでお墓を管理していくなら名義変更しなくてはならず、その手続き。
 墓地で花屋さん石屋さんと待ち合わせている時間まで余裕があるので、鹿児島駅のコインロッカーに大きな荷物を預けて城山地区を少し観光。お昼ご飯を食べて、鹿児島駅へ荷物を取りに行き、タクシーで墓地へ。花屋さん石屋さんと今後の事を相談。
 墓地からタクシーで水族館へ行き、ゆっくり観光してから直ぐ近くのフェリー乗り場でフェリーきかいの乗船券を購入し、夕方5時10分に乗船、5時30分に鹿児島港を出航。
 フェリーに乗船して直ぐにレストランがオープン。営業時間は30分ほどなので、ちょっと早いが晩ご飯に魚フライ定食。
 席は2等の和室で、大きな部屋での雑魚寝。ロビー横のソファーでゴロンと転がって過ごす。
*2011年4月15日のPhoto Diaryはこちら。(喜界島に寄港して、名瀬港に到着)
*2011年4月16日のPhoto Diaryはこちら。(朝仁海岸を散策)

5月7日(金)

 一昨日、沖縄と奄美が梅雨入りした。平年より5〜7日早いそうだ。
 政府は昨日、感染拡大しているインドからの入国対策を強化すると発表したが、すでにインド由来の変異ウイルスが都内で5例確認されている。ウイルスが入り込んでしまってから対策を強化しても遅いだろう。島国は水際対策がきっちりとなされていれば、欧州などの陸続きの国々よりも変異ウイルスの流入を防ぎ易いはずだが水際対策が甘いのだろう。
 先日、西村経済再生担当相が「屋外でマスクを付けていても感染が確認される事例の報告が相次いでいる」と警戒を呼びかけたが、だとすると政府はマスクを付けていれば濃厚接触者には当たらないという定義の見直しをしなくてはいけないのではないだろうか。定義を見直しPCR検査を増やして欲しい。
 それにしても屋外でマスクをしていても感染するなら、大都市の通勤電車の中は地獄だろう。通勤電車では喋る人はいないという理屈かもしれないが、咳やクシャミはコントロールできない。その通勤電車だが、ゴールデンウイークが明けた昨日は通勤通学客で混雑したそうだ。新型コロナウイルスの緊急事態宣言を受けて、JRや大手私鉄が運行本数を減らした影響があるという。JR東日本は今日も予定していた運行本数を減らす「間引き運転」を取りやめた。

 昨日国は、これまで存在を明らかにしてこなかった「赤木ファイル」の存在を認め、6月23日の口頭弁論で提出すると、赤木さんの妻に書面で説明した。
 赤木ファイルとは森友学園への国有地売却を巡り、財務省の決済文書改ざんに加担させられてその後自殺した近畿財務局職員・赤木俊夫さんが財務省や近畿財務局の指示内容や改ざん前後の記載の比較などをまとめた記録文書だ。 開示について国は「マスキング処理はできる限り狭いものとする予定だ」としているが、黒塗りなど一切しないで開示してほしい。
 この森友問題の決済文書改ざんの出発点と思われる、安倍昭恵氏と安倍前総理についての記事をUPしておく。
安倍夫妻によって国家はどこまで壊されるのか――福島のぶゆき×菅野完対談
公文書改ざんの重みと、国家の重みが理解できない安倍首相――福島のぶゆき×菅野完対談(後編)
安倍昭恵夫人の中身のない「万能感」がキモチワルイ
 赤木ファイルが提出されて、その後の展開がどうなるのかわからないが、知的教養の欠如した総理と、善意の暴走族の総理夫人という特殊な夫婦をきちんと法で裁くことが出来ない限り、この国が普通の国家に戻ることはないのではないだろうか。

 元日弁連会長の宇都宮健児氏が東京五輪中止を求めたオンライン署名が、開始から2日で20万筆を超えた。もちろん自分も署名した。オンライン署名はこちらから。

 この他の気になった記事を備忘録として。
北海道知事が「まん延防止」適用を要請する中で…「なぜ今?」札幌で東京五輪マラソンのテスト大会
東京五輪の組織委、ボランティアの医師200人を募集
台湾駐日代表、有事備え「日本は行動を」 共同声明評価「米含む演習必要」
東京五輪が社会のリスクに 今も続く医師、看護師の大量派遣依頼、現場は「不可能だ」
「ワクチンは殺人兵器」 大物県議がのめりこんだ陰謀論
「時短要請」応じず来客増 グローバルダイニング黒字
「うそで血吐けるのか」入管で死亡の女性家族「記録と映像確認したい」

 Photo Diaryを更新。
*2011年3月30日のPhoto Diaryはこちら
3月30日のスナップ。特攻艇・震洋
↑30日は加計呂麻島へ。瀬相港から生間行きのバスで、勝能(かちゆき)集落へ。勝能から大島海峡沿いに脇浜、伊佐根久と歩き、生間まで行って折り返して来たバスに拾ってもらい押角集落へ。押角集落をぶらぶら歩いてから、海沿いの旧道を通り呑之浦にある島尾敏雄記念碑公園と、震洋隊基地跡に行く。震洋基地跡近くの海岸でのんびり休んでからトボトボと海沿いに歩いて、わずか4世帯ほどの呑之浦集落へ。1時間半ほど居ただろうか。やって来た瀬相港行きのバスに乗ってフェリー乗り場へ。写真は震洋基地跡の壕に飾られた特攻艇「震洋」のレプリカ。この基地は作家・島尾敏雄が率いていた第18震洋隊の基地。アメリカ軍が自殺艇と呼んだ震洋について島尾敏雄は、対談集『ヤポネシア考』(葦書房)の中で、次のように語っている。
震洋は04(マルヨン)兵器と呼ばれたもので、形は普通のモーターボート、船体はベニヤ張りです。エンジンは自動車エンジンだと聞いていました。一人乗りで、ボートの舳先の部分に、二百三十キロの爆薬が、鉄の容器に入れられてくっつけてあるんです。舳先に衝撃が与えられると、舳先が引っこむ、すると電気の回路が形成されてボカンと爆発することになっている。ですが、海岸に穴を掘ってその中に隠して置きますと、湿気が多くってベニヤ板の艇体全体が回路みたいになってしまうんです。だからうっかりスイッチを入れたりすると、その場で爆発してしまいます。それで死んだ者も多いんです。近くの基地でしたが、指揮官で行っていた同じ仲間の三木十郎が、そうした事故の誘爆に巻きこまれて死にました。電気を使うことができなければ、どういうふうにして爆発破壊させるかというと、ぶつかると同時に、目の前の把っ手を引くことにしていました。すると人間もろ共ふっ飛ぶ。まあそういう訓練をしましたけど、はたして実際にやってみて、どういうことになったかは、分りませんね
*2011年3月31日のPhoto Diaryはこちら
3月31日のスナップ。徳浜の塩工房
↑31日も加計呂麻島へ。フェリーかけろまで生間港に渡り、生間からバスで徳浜へ。浜辺をしばらく散歩した後、集落の奥にある「さんご塩工房」で作業を見学させてもらい、帰りに200g入りのさんご塩を購入。集落入り口近くにある鶴亀畑cafeで、カフェ・オレを飲む。写真は、さんご塩工房の作業の様子。この徳浜で、加計呂麻島に30ある集落のうち、バスが通っていない知之浦を除く29の集落を散策したことになる。
*2011年4月1日のPhoto Diaryはこちら。(大和村へ。名音、戸円)
*2011年4月3日のPhoto Diaryはこちら
4月3日のスナップ。新緑

↑1日はバスに自転車を輪行して奄美大島南部の瀬戸内町へ。奄美大島を南北に貫く国道58号線の一番標高の高い場所と思われる瀬戸内町の嘉徳入り口の辺りでバスを降り、勝浦集落まで自転車で下る。勝浦集落で今度は名瀬行きのバスに乗り、再び一番標高の高い場所で降ろしてもらい、また自転車で下る。最初は写真を撮りながらゆっくりと坂を降りたが、2回目は右に左に曲がりくねった道を、ブレーキをかけながら一気に勝浦まで。写真は自転車で下った国道58号。この道が鹿児島から奄美群島、沖縄へと続いている。

*2011年4月5日のPhoto Diaryはこちら。(朝仁海岸、サンガツサンチ<旧暦3月3日>の潮干狩り、近所の石敢當)
*2011年4月6日のPhoto Diaryはこちら。(ゴミ袋に貼る料金納入済みシール、クッキー&クリーム)
*2011年4月8日のPhoto Diaryはこちら。(黒糖焼酎・浜千鳥乃詩原酒)

5月3日(月)

 ゴールデンウイークも中判を過ぎた。昨日、一昨日は天気が悪かったが今日は晴れの予報だったので、午後から外に出ようと思っていたら、にわか雨が。明日こそ。

 アロースは、スペイン語でお米のこと。
 スペインを旅していた時の食事は、バル(BAR)や街中のレストランでとることが多かった。バルではスペイン風サンドイッチの「ボカディージョ」とセルベッサ(ビール)、レストランではメニュー・デル・ディア(本日の定食)という安めの定食といったあたり。安めの定食といってもワインは付くし、デザートが付くこともあった。
 定食のデザートに、アロース・コン・レーチェが出てくることがよくあった。レーチェは牛乳で、お米を牛乳で甘く煮たデザート。よく出てきたのでスペインでは人気があったのだろうが、お米は主食の穀物という固定観念があるので、どうも味に馴染めなかった。

 パンに生ハム、オリーブにオリーブオイル、スペイン料理が続くとお米が食べたくなる。でも日本料理店は値段が高いので、そんな時は中国レストランに入っていた。
 歴史的城塞都市としてユネスコの世界遺産に登録されているクエンカに行った時も、お米が食べたくて街中にあった中国レストランに入った。頼んだのはビール、チャーハン、酢豚、スープ、プリン、コーヒーがセットになった定食で、これにラーメンも追加して860ペセタ。日本円にして900円ほどだったか。
 このクエンカの中国レストランで、チャーハンを取り分けながらパンを食べているグループを見て軽いカルチャーショックを覚えた。チャーハンもパンも共に主食だろ、と思うが、どうも彼らにはお米は穀物というより野菜そのものの感覚のようだ。だからきっと、彼らにはチャーハンは温野菜サラダなのだと納得した。
 そういえば、メニュー・デル・ディアにパエリアを提供するレストランもあったが、パエリアにもパンが付く。パエリアはスペイン風炊き込みご飯と紹介されることもあるが、パエリアは主食ではなく前菜だ。
 ちなみにクエンカの中国レストランでラーメンも食べたくなって、絵を描きながら「ヌードル、ヌードル」と言って注文したラーメンは、スパゲッティーの麺みたいだった。

クエンカ
↑歴史的城塞都市として世界遺産登録されている、クエンカの旧市街。
新しいトップ画面
トップ画面を更新しました。七夕飾りを撮影しながら名瀬の街を歩いていたら、窓外にカラフルな瓶を並べた家が。料理に使うものを外に並べないだろうから、ちょっとした展示ー街角の小さなギャラリーってとこだろうか。

↓これまでのトップ画面。
これまでのトップ画面
 Photo Diaryを更新。
*2011年3月11日のPhoto Diaryはこちら
3月11日のスナップ。テレビの報道画面

↑11日は午後から朝仁海岸へアオサ採りに。採っている最中に防災無線が流れるが、何を言っているのかわからない。すると携帯に市役所からのエリアメールで津波注意報が届く。津波の到着予定時間まで時間があったが、海岸から引き上げる。震源地や規模はわからないが大したことはないだろうと高をくくって部屋に帰り、テレビをつけて飛び出てきた映像とテロップに驚いた。しばらく流れてくる映像に釘付けとなった。とりあえず食材とお酒を買いに行き、ついでにガス料金を払って来る。図書館の近くのたこ焼きやさんで買って来た、15個250円のたこ焼きを食べながら、またテレビの画面に釘付け。悪い夢としか思えない・・・買ってきた黒糖焼酎をロックで呑んで無理矢理寝るが、何回か起きてしまった。その度にテレビのスイッチを入れる。長野・新潟でも地震が発生。

*2011年3月12日のPhoto Diaryはこちら。(トビンニャとアオサのパスタ、名瀬港)
*2011年3月13日のPhoto Diaryはこちら。(借りてきた本、オオトラツグミ調査用の資料)
*2011年3月14日のPhoto Diaryはこちら。(朝仁海岸)
*2011年3月17日のPhoto Diaryはこちら。(カメラに50mmのレンズを付けて、名瀬の中心街を散歩。猫多め)
*2011年3月18日のPhoto Diaryはこちら
3月18日のスナップ。イソヒヨドリのオス
↑18日は中勝、大勝を通って龍郷湾へ。帰りはビックツーの横から戸口集落へ。戸口にある平行盛を祀った行盛神社を撮影。写真は戸口からの帰り、佐大熊団地の辺りで撮影したイソヒヨドリのオス。奄美や沖縄でよく見かけた鳥。メスは地味な色だが、オスはこのように青と赤茶の色鮮やかな鳥だ。夜、部屋でパソコンに向かって作業していると窓の外から歓声が上がる。卒業して進学や就職で島を離れる人たちのお見送り。港まで撮影に行ってきた。
*2011年3月20日のPhoto Diaryはこちら。(オオトラツグミ調査員証、スーパームーン)
*2011年3月23日のPhoto Diaryはこちら。(奄美・沖縄経済交流フォーラム、照屋林賢さん)
*2011年3月26日のPhoto Diaryはこちら。(安勝の撚糸工場跡、小俣町、朝仁海岸)
*2011年3月28日のPhoto Diaryはこちら
3月28日のスナップ。阿多地集落のアシャゲ

↑28日は1ヶ月ぶりに加計呂麻島へ。古仁屋からフェリーで瀬相港へ。瀬相からバスで阿多地集落へ。集落を撮影してまわった後、バスで俵集落へ。俵集落から歩いて瀬相集落に戻る。瀬相港にはよく来ているが、集落の中を撮影して歩くのはこの日が初めてだった。写真の右側にある壁のない建物が、阿多地集落のアシャゲ。その奥に少し見えるのがトネヤ。撮影した頃の阿多地集落の人口は8世帯、11人だったが、現在は1世帯、2人にまで減少してしまったようだ。

*2011年3月29日のPhoto Diaryはこちら。(借りてきた本)

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