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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能
◯製作中の富山の祭りと芸能歴史年表

11月8日(金) 9時〜 歯医者
11月12日 9時〜 上行寺 餅柱の組み立て
11月13日 お会式(餅柱) 上行寺 13時〜
寺院ミュージアム in 高岡
・瑞龍寺(11月2日〜4日、山門の楼上公開と宝物展/15日、16日、雪舟の達磨図を展示)
・総持寺(11月15日、16日、木造千手観音坐像を公開)
・勝興寺(11月2日〜4日、内陣と寺宝の菊花文蒔絵花見弁当を公開)
・大法寺(11月2日、3日、15日、16日、仏画を並べる)
11月23日(土) 射水神社 初穂曳 14時〜

◯勝興寺 新年の宮大工仕事始めの儀 1月7日? 10時30分〜11時30分
◯新川神社 1月? 寒中みそぎ
◯新開発の獅子舞(熊獅子) 4月の第1土曜日 9時頃に天満宮奉納
◯射水市三ヶの十社大神 御田植祭
◯上市町 日石寺 7月1日 大岩山滝開き・火渡り修法(10時)
◯7年に1度、10月に開催 次は2022年 朝日町山崎 米吊り奉納
◯加茂神社 出雲へ神を送る神送祭 9月30日と10月31日?
利賀の山祭り(石かち) 10月?
◯岩稲八幡社の神送り・神迎え 10月下旬と11月下旬の日曜日 
◯5年に一度、若手神職でつくる県神道青年会が御田植祭
◯33年に一度 庄川の神賑わい 次回は2023年7月

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事
富山の祭り
築山行事
とやまの曳山”世界の宝”を守り続ける
*砺波の獅子舞 各地区の日程
年中行事覚書 柳田国男
田の神祭りに見る日本人の神意識
山の民の祈り
立山に生きる村ー宗教集落芦峅寺のくらし
立山信仰史における芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅
五箇山の獅子舞の起源
道祖神
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
与論島の洗骨儀礼
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョ 10イさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

11月26日(火)

 安倍首相が官邸で、首相主催の「桜を見る会」前日の地元支援者を招いての夕食会の会費などを示す明細書はないのかと記者団に問われ、「そうしたものはない」と述べたのが今月の18日。このいかにもその場しのぎの発言から、20日には<安倍首相、夕食会と違う宿泊先は「ホテルの手違い」><桜を見る会招待者名簿、資料要求の日に廃棄「シュレッダー空いてなかったから」>となり、21日には<「首相も婦人も食事せず」菅氏、会費払わぬ正当性を強調>ということになり、22日には首相主催のはずが<菅長官、前日夕食会「首相夫妻はゲストみたいなもの」>になってしまった。そして昨日は<野党のシュレッダー視察を内閣府拒否「官房長の判断でだめと決まった」と押し切る>とこまで来た。さらに今日には<野党議員 疑惑のシュレッダー視察 A4判800枚を34秒で細断>と報じられ、加えて<桜を見る会に反社会勢力、認める 菅氏「結果的に入ったのだろう」>と新たな問題が浮上している。まさに、無理が通れば道理が引っ込むで、首相の無理筋な発言のために官僚を初め周囲の人間がアタフタとしている。国の最高機関が演じるスラップスティックコメディーだが、笑えない。

 朝日新聞の記事によれば昨日、来日されたフランシスコ教皇が官邸での集いで広島と長崎での原爆投下に触れ「破壊が二度と繰り返されないよう、阻止するために必要なあらゆる仲介を推し進めてください」と呼びかけ、「対話こそ人間にとって唯一ふさわしく、恒久的平和を保証しうる手段」「核の問題は多国間のレベルで取り組むべきだと確信している」と語ったそうだ。
 この教皇の演説に先立ち安倍首相は「日本とは、唯一の戦争 被爆国として『核兵器のない世界』の実現に向け、国際社会の取り組みを主導していく使命を持つ国」「私たちはこれからも、核兵器国と非核兵器国の橋渡しに務め、双方の協力を得ながら対話を促す努力において決して倦むことはない」と話したが、それならば何故、核兵器禁止条約に参加すらしなかったのだろう。2002年の官房副長官時代には「憲法上は原子爆弾だって問題ではないですからね。小型であれば」とまで言っている。
 フランシスコ教皇が今日の午前、上智大学の学生に講話を行ない「どんなに複雑な状況であっても自分たちの行動が公正かつ人間的であり、正直で責任を持つことを心がけ弱者を擁護するような人になってください。ことばと行動が偽りや欺まんであることが少なくない今の時代において特に必要とされる誠実な人になってください」と諭したそうだ。学生よりも、この国のトップに聞かせたい話だ。

 激しいデモが続く香港で24日、区議会議員選挙が行なわれ、登録有権者の4分の3前後に当たる300万人が投票。全452議席のうち最終的に400議席近くを民主派が獲得した。4年前の選挙では民主派は100議席しかなかった。
 この他の気になった記事を備忘録として。
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 今日で特定秘密保護法案が強行採決されて6年が経つ。那覇の部屋でテレビを観ながらワジワジーしたのを忘れない。

 昨年の10月28日に撮影した岩稲八幡宮の神送りと、神通川沿いの風景をPhoto Albumにしました。こちらこちら
神通峡
↑笹津の駅で降りて楡原まで神通川沿いに歩いた。↓杉の葉を燃やし白い煙りをたなびかせ、出雲へ神様を送る。
岩稲の神送り

11月23日(土)

 伏木の勝興寺で16日か24日まで開催されている『ボーダレス・アートセッション in 勝興寺』という、障害のある方々の作品を中心に展示したアール・ブリュット展を観に行く。今日は午後からは射水神社で初穂曳という行事があるので、午前中の早めの時間から活動開始。
,大伴家持像と句碑
 高岡駅で氷見線に乗り換えて、9時56分に伏木駅に到着。勝興寺に続く駅前の坂を上る。坂を上りきった所にある大伴家持像を撮影。像の隣りに句碑があるのに初めて気がついた。
 勝興寺に行くと、総門が工事中で門が撤去されていた。この総門の工事が終われば、平成10年(1998)から始まった大修理がほぼ完成するようだ。
 総門の隣りの受付で工事協力金500円を支払って中に入る。
鼓堂と唐門
↑杮葺きの鼓堂(左)と檜皮葺きの唐門(右)。↓美しい唐門の檜皮葺きアップ。
 境内に入ると、以前は工事作業用のカバーで覆われていた大広間や書院が見えるようになっていた。勝興寺7不思議の一つ、実ならずの銀杏の葉がきれいに色づいている。
↓修理を終えた大広間。→実ならずの銀杏。
実ならずの銀杏
 アール・ブリュットの作品展を観に、本堂へ。本堂から渡廊下を通って書院に行くと、受付と最初の展示がある。こちらには、ローカルニュースで見た、毎日事業所と近所のコンビニで顔をコピー機に押しつけて、自分の顔をカラーコピーしている人の作品があった。写し続けること7年だそうだ。書院から渡廊下を通り、台所、大広間と展示が続く。
アール・ブリュット展01
 撮影禁止の作品もあるが、撮影可能なものを何点か撮っておいた。それにしても、細かい積み重ね作業の作品が多く、その集中力とエネルギーに圧倒される。中でも、個人的に圧巻だったのは、富山県在住の磯野貴之さんの作品。ノートの下の方に電柱と電線が描かれているが、これが80ページの落書き帳36冊分続く。このノートを背と表紙を付けて纏めたのはスタッフの方かもしれないが、この存在感。ページを捲ることは勿論、触れることもできないがこの存在感を見るだけでいい。なんだか、教典のような重厚さすら感じさせる。
アール・ブリュット展02
アール・ブリュット展03

↑電柱と電線を延々と描いた磯野さんの作品。

←施設の作業で紙を使って鍋敷きを作る紙織りの技術を習得した新潟県の丸山弘恒さんが、その技術でひたすら紙を織った作品。こちらは、大人数で念仏を唱えてまわす数珠繰りの長い数珠のようにも見える。この作品も、その集中力とエネルギーに圧倒される。

 一つ一つの作品が面白く、また展示の仕方も立体的で、見終えたら11時を過ぎていた。通路を戻り本堂へ。本堂を出て境内の左奥へ行くと、これまた7不思議の一つ、水の枯れない池があった。池の傍には「越中国衙」と刻まれた石碑が建っていた。裏には大伴家持の詠んだ句が刻まれている。
↓水の枯れない池。→越中国衙の石碑。
越中国衙の碑
水の枯れない池

←経堂。

 アール・ブリュット展が思っていた以上に面白くて長居したが、14時から射水神社の初穂曵がある。伏木から高岡へ行く電車は12時6分か、13時1分。余裕をみて12時6分の電車に乗るため駅へ行こうと思うが、入る時に受付でもらった勝興寺のパンフレットに錣葺きの屋根というのが書いてあったので、この錣葺きはどこにあるのか受付の女性に尋ねてみた。

 教えて下さったのは、ジャンパーを着て普段から勝興寺をガイドされている感じの女性。書院と大広間の屋根が錣葺きで、こちらは屋根の部分が2段に分かれている。錣(しころ)とは兜や頭巾などの下部に布や縅(おどし)などを垂らし後頭部を保護する覆いのことで、建築では板に段をつけて並べたもの「羽板、鎧板」のことを「錣板」とも言うそうだ。
 この錣葺きの屋根は何処から見えるか尋ねると、書院の戸を開けると奥書院の屋根が、渡廊下の戸を開ければ書院の屋根が見えるそうだ。戸を開けて撮影してもよいか聞くと、大丈夫ということなのでもう一度お寺の中に戻った。

書院と奥書院
車窓からの煙突

↑左が奥書院、右が書院。屋根の素材は杮板で杮葺きだが、上下2段に分かれた錣葺きとなっている。杮葺きの錣屋根の方がわかり易いかもしれない。どうして錣屋根にしたのかについては、幕府の出した建物の奥行きを三間(約5.45m)以内に抑えよという三間梁規制に順守しているように見せるため。下の部分は庇で屋根は2段の上だけという説明をしたようだ。

←高岡へ向かう氷見線の車窓から。

 錣葺きの屋根を撮っていたので12時6分発の電車には間に合わず、13時1分の電車で高岡駅へ。久しぶりに高岡駅に入っている今庄のうどんを食べたかったが、ちょっと時間がなさそうなのでコンビニでコロッケパンを1つ買って食べながら古城公園に向かう。
 今日、11月23日は勤労感謝の日であり新嘗祭の日だが、今年は新天皇が即位し大嘗祭となり11月14日、15日に執り行われた。射水神社では23日に天皇陛下の即位を祝う神楽祭を斎行し、初穂米を乗せた奉曳車(ほうえいしゃ)を神社まで引く初穂曳(はつほひき)を行なうと20日の北日本新聞に書いてあった。
 出発地である古城公園大手口でしばらく待っていると、消防団の法被を着た男性に引かれて奉曳車が到着した。出発時間の14時頃になると若鳶会、ボーイスカウト、奉納演舞を行なう空手道場の生徒の他、見物人も大勢集まり奉曳車の綱を引いた。
初穂曵
巫女の鈴降り

 14時になり若鳶会が木遣りを唄い、その後、大勢に引っぱられて公園内を400mほど射水神社に向かって初穂曵が行なわれた。
 途中、公園内にある護国神社の横で空手の演武が奉納され、若鳶会を先頭に射水神社の大鳥居をくぐって境内に入った。
 神職による幣のお祓い、そして巫女による鈴振りの後、奉曳車は社殿の前まで引き入れられた。

↓初穂米を乗せた奉曳車。

奉曳車

 初穂曵は伊勢神宮の神嘗祭で行なわれているそうだが、射水神社では今回が初めて。今後は新嘗祭の時に斎行していきたいそうだ。

空手の演武

↑参道でのはしご乗り。

 初穂曵が終わると、参道で若鳶会によるはしご乗りが奉納された。
 続いて、空手道千山道場による奉納演武があり、鏡開きが行なわれた。振舞酒をいただいた後、拝殿に入り、引き続き神楽祭に参加する。

←空手の奉納演武。
↓鏡開きと振舞酒。

 15時過ぎから神楽祭が斎行された。配られた案内には以下のように書かれていた。
天皇陛下一代一度の「大嘗祭」に併せて、11月14日夕刻、当神社では「大嘗祭当日祭」を斎行し、皇恩への感謝と、皇室弥栄、国家隆昌の祈りを捧げました。
皆様の赤誠により奉納された「初穂米」とともに、御神前に神楽を奏でて、”令和の時代の栄”をお祈り申し上げます。

壱、神楽「浦安の舞」うらやすのまい
昭和天皇の御製「天地(あめつち)の 神にぞいのる 朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ世を」に、昭和15年の皇紀2600年を奉祝して作曲・振付された”日本の平安””世界の平和”を祈った舞です。

弐、舞楽「陵王」りょうおう
大陸・北斉の蘭陵王長恭(ちょうきょう)は、才知武勇で、部下が見惚れるほどの容姿だったため、味方兵士達の士気を高まるよう”獰猛な仮面”をつけて戦に臨み、見事勝利をものにしたことを祝して作られた曲と伝えられます。

参、巫女舞「劔鉾の舞」つるほこのまい
射水神社で奏でられるのが初めてとなる神楽。神職が笏拍子を手に神楽歌を奏し、この日のために研鑽を積んだ巫女が「鉾」と「白鞘の剣」を手に相対する舞で、邪気を祓い”令和の御代の平安を祈る”特別な舞です。
【神楽歌】久方の 天よりおろす 玉鉾の 道ある御代を 大八嶋ぐに

四、空手 NPO国際社会教育武道連盟 空手道 千山道場
堀田千宴子代表師範は、全国でもめずらしい”女性空手道場主”として、百数十名の門下生とともに地域貢献及び社会教育の武道として活動。射水神社へは平成29年の新嘗祭より年にひとつの型を奉納しておられます。

伍、巫女舞「劔の舞」つるぎのまい 
【神楽歌】久方の 天に上りし むらくもの 劔は今も 世々につたえき

六、壱越調「酒胡子」しゅこし・しゅこうし
唐の人がお酒を飲む時に奏された曲。「酒胡子」は酒を勧めるときに用いる人形のことで、人形をゆらし、倒れた先の人が盃をあけるとの詩がある、軽やかなフレーズの小曲です。

七。歌舞「人長舞」にんちょうまい・にんじょうまい
「人長」とは、”神楽人の長”の意。その長が武官の装束をつけ、”神鏡”の象徴である木製の輪をつけた榊の枝を手に持って舞います。祈りや感謝とともに歌や舞を捧げる、古式ゆかしい神聖で優雅な舞です。

↑上段左:浦安の舞/上段右:陵王/中段左:劔鉾の舞/中段右:空手演武/下段左:劔の舞/下段右:人長舞。

 16時過ぎに神楽祭が終わり、高岡駅へ向かって歩く。帰りは高岡大仏の前を通り、御旅屋通りから。
 高岡駅の2階ロビーから立山連峰がくっきりと見えた。
 反対側の空はキレイな夕暮れだ。すっかり日が暮れるのが早くなった。

高岡駅からの夕焼け
*北日本新聞の記事、チューリップテレビのニュース

11月22日(金)

 11月、12月は家族の誕生日やクリスマスが続くので、沖縄の洋菓子店「ジミー」からケーキを取り寄せた。
 ジャーマンケーキのホールを2つ、アップルパイのホールを1つ。共に冷凍で、冷凍のままなら2ヶ月、解凍してからも冷蔵で6日ほど保つ。那覇に住んでいた時はホールで買ってきて、何日かかけて一人で食べていた。ケーキもパイも直径約21センチ(7号)で、食べ応えがあった。
 ジャーマンケーキもアップルパイもホールで1,490円。配送料が1,100円かかるけれど、それでもお値打ち感があるし、何より懐かしい沖縄の味だ。
 ジャーマンケーキというネーミングはドイツのケーキかと思わせるが、ジャーマンさんが発明したケーキだそうだ。バニラバタークリームを挟んだチョコのスポンジの上に、ココナッツとクルミの甘いクリームが乗っている。砕いたココナッツのシャキシャキした食感が面白い。
 ジミーのものしか食べたことはないが、本土では馴染みのないジャーマンケーキは沖縄ではポピュラーで、少しずつお店によって違いはあるが、このケーキを置いている店がけっこうあるようだ。
 アップルパイも、沖縄に居た時はよく食べた。洋菓子屋さんじゃなく、スーパーの総菜売り場にも置いてある。少し小さめのホールのアップルパイなら500円ほどで買えた。パイが日常にあるのはアメリカ文化の浸透だろうか。
 沖縄の知人が書いたブログの中に、ジミーのジャーマンケーキは2番目に好きなケーキというのがあった。きっと一番好きなケーキはフルーツたっぷりの生クリームケーキだったり、こってりしたチーズケーキだったり時代時代に変化するけれど、2番目は変わらずジャーマンケーキなのだろう。
 1956年に雑貨屋からスタートし、その店内でパンを焼いていたというジミー。今はケーキ屋さんもたくさんあるが、昔は誕生日やクリスマスにお父さんがジミーのケーキを買って来てくれるのが、沖縄の子供の楽しみだったんじゃないだろうか。

ジミーのケーキ
↑昨年もホールを3つ注文したが、今年はやけに大きな箱で届いた。↓ジャーマンケーキ。昨年はあらかじめ10ピースにカットしたものも売っていたが、今年はど〜んとホールのまま。パン切り包丁を使って自分でカットした。スポンジの周りはチョコがまぶしてある。
ジャーマンケーキ
 俳優の木内みどりさんが、18日に亡くなられた。突然の訃報だった。

11月19日(火)

 明日で安倍首相の通算在任日数が2,887日となり、これまでの桂太郎元首相を越えて単独歴代最長となる。首相は「長期政権というのは日々全力を尽くした結果」と記者団に答えたそうだが、この長い在任期間中に閣僚の辞任などで「もとより任命責任は総理大臣たる私にある」という発言を48回繰り返している。言葉通りちゃんと任命責任を果たしていれば、とっくの昔に舞台を下りなければならなかったのではないか。野党がだらしないから長期政権になったという声をネットで見るが、野党よりも与党の自浄能力の欠如が問題だろう。

 地球儀を俯瞰する外交をうたい世界中にお金をバラまいてきたが、日本政府は10月末から11月初旬に実施された国後・択捉両島への観光ツアーで、参加者に「北方領土」という表現を現地で口にしないよう注意喚起していたそうだ。お金をバラまいてきた成果がこれだろうか。
 
 安倍首相が官邸で、首相主催の「桜を見る会」前日の地元支援者を招いての夕食会の会費などを示す明細書はないのかと記者団に問われ、「そうしたものはない」と述べたそうだ。自身が主催となっているパーティーの明細書がないとはどういうことだろうか。国のトップがこれで、この先、適正な確定申告・税務申告が維持できるんだろうか。
 この夕食会だけではなく、「桜を見る会」の招待者名簿も、共産党の宮本徹議員が政府に資料請求した日に廃棄されている。また、「桜を見る会」だけではなく、毎日新聞の記事によれば、2020年東京五輪・パラリンピック招致に使われた海外コンサルタント費9億円余りの支出を裏付ける会計書類の所在が不明になっているという。
 どうもこの政権になって、公文書が破棄されたり改竄されたり、議事録がとられなかったり、議事録から意図的に発言が消されたり、都合が悪い議事録を受け取らなかったりといった話ばかりが聞こえてくる。本来、まともな運営を行なっていれば公文書や議事録といった記録は、自分たちを守ってくれるもののはずなのに。

 ところで、これだけ記録を蔑ろにする国が、新しい国立公文書館を造るそうだ。2026年に開館予定で、地上3階、地下4階、述べ床面積は4万2000平方メートル。これだけ捨ててばかりで、何を収蔵するのだろう。
 昨年、TUTAYAを運営するCCCが管理代行する公立図書館が、本に囲まれた空間を演出するために、本の背表紙をかたどった内装を施して論議を呼んだが、まさか公文書の背表紙をかたどったハリボテでも並べておくのだろうか。

 経産省が福島第一原発に溜まる汚染水を一年かけて放出した場合も10年かけた場合も、周辺住民の年間被爆線量が自然界からの被爆線量に比べ「十分に小さい」という試算を提出した。記事では860兆ベクレルのトリチウムを含むと書いてあるが、他の放射性物質には触れていない。実際には貯められた汚染水89万トンの84%にあたる75万トンから基準値を超えるトリチウム以外の放射性物質が検出されており、一部のタンクからはストロンチウム90が基準値の2万倍も検出されたと東電が認めている。これらを勘案して「十分に小さい」と言うのだろうか?
 また、汚染水の海洋放出で問題になるのは植物連鎖による被曝だろう。海に生息する魚介類が汚染され、それを食べる人間が被曝する。そして食物連鎖による被曝は体内に蓄積されていく。
 もう一つ、周辺住民の被曝で言えば台風19号の大雨により、福島第一原発事故による高濃度に汚染された山林の土砂が崩れて道路に流れ出た。原発事故直後から心配されていたことだが、政府は山林の除染は無理だと放棄していた。この先も、台風や暴風、豪雨の度に山林から放射性物質や放射性物質を含んだ土が人々の生活圏に流出してくる。
 被曝の恐れでいえば、先の豪雨による土嚢の流出の比ではないだろう。

 アズ・ア・タックスペイヤーとは、「納税者として」といった意味だ。そして、現・総務大臣の高市早苗さんの最初の著書のタイトルでもある。
 彼女がこの本を出版した頃に、ビジネス雑誌の仕事でインタヴューと撮影をした。場所は永田町のキャピトルホテル東急のラウンジ。まだ政治家ではなく亜細亜大学日本経済短期大学専任教員で、時代はバブルの真っ只中だった。
 以下に、その時に書いた記事を少し抜き出してみる。

 日本を評して”経済一流、国民生活二流、政治は三流”という言葉がある。これはその政治意識の低い国民ということに繋がる。
「一つには政治に期待しないのよね、私達。どうせ日本は政治三流だから、あのオヤジ達に勝手にやらせときゃイイヤって。でも、私達、あのオヤジ達にムチャクチャ税金を払ってて、それを無駄に使われてるわけじゃない。

高市早苗総務大臣

 アメリカは経済がいい状態の時に社会資本を整備したから道路は広いし、家も広いし、高速道路はタダ。福祉施設や育児施設もいっぱいある。そういうところに日本も今からお金を使ってくれないと、年をとったら安楽に暮らせないじゃない。
 日本の経済力なんて、ある程度土地の値段でしょ。アメリカの研究所が今、日本の繁栄はあと何年続くかレポートを出して来てる。一番早いのは1991年。それは極端にしても2010年というレポートがいくつも出てる。そんなのあと20年じゃない。その間に日本の社会資本が整備されるかっていうと・・・・・・まアできないわよね。今のお金の使い方じゃ。だから、その辺のことを私達がそろそろ考えていかないと」
 しかし、29歳・・・あるいは20代、30代の人間が政治意識を変えたからといって、簡単に政治が変わるとは思えないのだが?
「変わると思う。だって私達の世代で政治家を創って出して行けば、確実に20年後にはその人達が力を持っているんだから」
 気負いもなく、おだやかな京都訛りで鋭い政治改革を口にする。表情豊かに嘆いたり、笑ったりしながら話す彼女に”政治を語るウサンクササ”は無く、身近ささえ感じさせる。

 『アズ・ア・タックスペイヤー』という彼女の著書には<政治家よ、こちらに顔を向けなさい>という副題が付いている。この本が出版されて30年。彼女は政治評論家から政治家に変わったが、今この本を読まなくてはならないのは、彼女自身だろうし、彼女が身を置く内閣じゃないだろうか。

 「桜を見る会」の問題について質問された安倍首相の秘書を務めていたこともある山口県下関市の前田晋太郎市長は、「総理主催でしょ?この国は民主主義ですよ。ある程度の権限が与えられておかしくないですけどね」と答えたそうだ。いつから民主主義がこんな風にねじ曲がったのだろう。

*写真は高市早苗総務大臣。1990年、キャピトルホテル東急のエントランスにて撮影。

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11月14日(木)

 朝から断続的に雨が降っていたが、昼過ぎにふと外を見ると、大きな虹が架かっていた。
沖縄の風土記
 先日、ヤフーのオークションで『沖縄の風土記 沖縄は生きている』(新星図書)という大型本を購入した。他に落札者がいなかったのでスタート時の価格1,000円で落札したが、本が大きくて重いので郵送費が660円もかかっている。
 この本を購入したきっかけは、本の発売が昭和48年4月1日で、本土復帰から一年後に出版されていること。激動の沖縄の様子が何か感じられるかもしれないと思ったからだ。
 届いた本をパラパラと捲ると、八重山諸島、宮古諸島をはじめとした島々が一つ一つ丁寧に紹介されている。333Pもあり、写真も文章もたくさんあるので、いつ読めるかわからないが時間のある時に眺めようと思う。
 今夜から明日にかけて大嘗祭の中核儀式「大嘗宮の儀」が行なわれている
 昨日は楡原にある法華宗のお寺、上行寺のお会式を撮影。一昨日はそのお会式に用意する餅柱の製作を撮影してきた。こちらの様子も後々UPいたします。
上行寺のお会式
↑13日に行なわれた上行寺のお会式。写真右側にある白・赤・緑の餅を並べた塔が餅柱。
 那覇市の旧公設市場の解体工事が、今日から始まったようだ。
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11月13日(水)

 今日は上行寺のお会式。法要は13時からだが、昼頃の高山線はほどんど電車がなく、時間的に一番近いのが楡原駅に11時11分着。この次の電車だと法要に間に合わない。
 10時26分にあいの風とやま鉄道で富山駅に到着し、高山線に乗り換え。10時32分の猪谷行きで、11時11分に楡原に着いた。今日も快晴。熊除けに小さい鈴を振りながら、山道を歩く。
上行寺
↑上行寺の山門(左)と本堂(右)。→境内にある日蓮聖人像。
日蓮聖人像
 11時半頃に本堂に入ると、既にお会式に参加される信徒の方がぼちぼち座っていらっしゃる。昨日餅柱を作っていらした総代の方が、先にご飯を食べて来たらどうですかと勧めて下さったので、食事が用意されている部屋へ移動する。
 お会式では、参加される信徒の方にお寺から昼食が用意されている。寿司弁当にみそ汁、お惣菜がテーブルに並んでいる。
 信徒の方と一緒にご馳走になっていると、岩稲地区の「お鍬さま」を撮影させていただいた本芳彦弘さんが、食事を終えて本堂の方へ向かうのが見えた。急いで本芳さんのところへ行き、ご挨拶をする。本芳さんのお宅も上行寺の檀家さんなので、ひょっとするとお会式に参加されるだろうか?と思っていた。
回廊の鐘
回廊の太鼓
 お会式の始まる10分前、12時50分に本堂の回廊に下がっている鐘と太鼓が鳴らされる。叩く回数と休む回数が決まっているようで、数を数えながら叩く。
 続いて本堂の太鼓が鳴らされて、僧侶らが本堂に入室する。
本堂の太鼓

 法要は北陸教区の僧侶が集まり、営まれる。昨年「法華経曼荼羅風入法要」を撮影させていただいた本法寺の高橋山主の姿もあった。最初に雅楽が奏でられ、そして法要が始まった。30分ほど読経が行なわれた後、僧侶が立ち上がり内陣を一周する行道。行道する様子を撮影していると、頭に何か当たったので周囲を見ると散華が落ちていた。

高座説教の用意

↑読経が済むと、お焼香が始まった。総代の方々は名前を呼ばれ、内陣の焼香台へ。参列者のところへは、廻し香炉が渡されていく。

←お焼香が終わると僧侶の方々は退室し、内陣の椅子が片付けられて、次に行なわれる高座説教用の台が用意された。

↓本堂の太鼓を鳴らし、住職の高座説教が始まった。

高座説教01
高座説教02
 高座説教は、大勢の人がお説教を聞くことができるように高い台の上から行なわれ、落語の「高座」はここからきた言葉だと言われている。
 高座説教は1時間弱で、終了したのは15時近かった。
 法要が終わり、信徒の方々がお帰りになった本堂では片付けが始まった。昨日2時間半ほどかけて作られた餅柱も、解体はあっという間だ。三色の餅は婦人方が3つずつ小袋に入れ、法会に参加した信徒の方に配られる。

 お餅とどら焼きをいただいて、上行寺を後にする。
 次の富山駅行きは楡原駅発が17時27分なので、まだ1時間半ほどある。せっかくなので、神通川を挟んで対岸にある布尻集落の双体道祖神を撮影に行く。双体道祖神は男女一組みの石像で、これもまた村に悪霊などが侵入しないように、村の入口付近に置かれる。

←観光橋を渡って、楡原から布尻へ。手前にあるのは旧布尻橋の橋脚。

↓布尻の双体道祖神。→楡原集落の中にある題目塔。
双体道祖神
 布尻集落の入口付近にコンクリート製で横長の四角い祠があり、その中に4組の双体道祖神が祀られている。道祖神を撮って、楡原の方へ戻る。まだ電車の時間まであるので、集落の中にあるという題目塔(ホーカイサマ)を探して撮影する。こちらには木札は立っていなかった。
 題目塔から楡原駅へと歩いて行く途中、道路に猫が何匹も飛び出して来た。道路の横は土手で、そこにたくさんの猫がいる。猫を世話している男性がいたので、何匹いるか尋ねると20匹ほどだといいう。自分が飼っている猫と、勝手に捨てていかれた猫たちだそうだ。
 楡原駅の待合所に置かれた落書き帳を眺め、ホームに上がる。もう外はすっかり暗くなった。電車が到着する少し前に、中国人だと思われる女の子が3人、賑やかに話しながらやって来た。今から遊びに行くのだろうか?それとも仕事帰りだろうか?
 電車に乗り込んでからシャツのポケットに手を入れると、何か入っていた。お会式の時に拾った散華だった。忘れないうちに電車のシートに置いて、撮影しておく。

11月12日(火)

 楡原(旧細入村)にある法華宗のお寺、上行寺で明日、宗祖・日蓮聖人が入滅した忌日に営まれる法要「お会式」が行なわれる。このお会式の際に飾られる餅柱作りが9時からあるので撮影に行って来た。お会式にこの餅柱を今でも飾り付けるのは珍しいそうで、富山では上行寺だけだという。
 あいの風とやま鉄道で、6時59分に富山駅に到着。JRの高山線に乗り換えて、楡原駅に8時11分に着いた。
 楡原には何度も来ており、山腹にあるお寺は電車の中から見ている。地図を見ながらお寺を目指して歩いて行く。
 富山では熊の出没が相次いでおり、楡原も住宅地に熊が現われてニュースになった。お寺へは山道を少し上るので、100円ショップで買った小さな鈴を振りながら歩いて行く。
上行寺
三色の餅

↑上行寺。

 駅から10分ほど歩いて、上行寺に。境内の様子を少し撮影してから本堂で待機していると、ご住職がいいらしたので、ご挨拶。電話で撮影のお願いをした時に出られたのはご夫人のようだったが、話は伝えられていた。
 少しずつ餅柱を制作する寺総代の方々が集まり、8時50分頃に婦人会の方が作った三色の餅がある部屋に移動。写真を見ながら、作り方の確認をした。

餅柱作り01

 餅柱は内陣を挟んで、左右に一つずつ飾られる。昔は内陣の奥、須弥壇に飾られていたそうだが、お会式の際は内陣に幕を張るので信徒の方からは見え辛いので、何年か前から内陣の外に置くようになった。
 台に長い角棒を嵌め込み、角棒に大きさの違う円板を通す。 そして円板と円板の間に三色の餅をきれいに並べて行く。積み木のような作業だ。

境内の清掃と幕張り
山門の幕張り

↑本堂の中で餅柱が作られている最中、境内では婦人部の方が落ち葉を掃除したり、他の総代の方が本堂の入口に幕を張ったりしている。

←山門にも幕が取り付けられる。幕には梅鉢紋が描かれている。

↓内陣。奥に日蓮聖人を祀った須弥壇がある。天井板には、様々な紋様が描かれている。

内陣の幕張りと餅柱作り
完成した餅柱01

↑内陣に幕を張り、餅柱の上部に杉の葉と造花の桜を飾る。桜を飾るのは、日蓮聖人が亡くなった時(10月13日)、庭の桜が季節外れに咲いたからだと言われている。因みに上行寺のお会式が11月13日なのは、旧暦10月13日を新暦に直しているから。

←→完成した左右一対の餅柱。9時に開始して、11時半頃に完成。お会式の後、直ぐに取り壊され、三色のお持ちは信徒に配られる。

完成した餅柱02

 餅柱が完成し、幕が張られ、明日のお会式で行なわれる高座説教用の台も作られて準備が整った。もうお昼の時間で、総代の方々と一緒に寿司弁当をご馳走になった。
 お昼時間に、ホーカイサマと呼ばれる村境に置かれている題目塔のことを総代さんたちに聞いてみた。題目塔とは法華宗の勤行で用いられる「南無妙法蓮華経」を刻んだ石碑だ。この題目塔を集落の両端に設置して、ここからは法華宗の門下であることを示すとともに、悪霊や災いが村に侵入するのを防ぐ役割をしている。楡原と岩稲の住人は、嘗てはほぼ法華宗の門徒だったそうだ。この隣接する2つの集落では、玄関の上には題目を記した護符を貼った家が多い。門札(もんさつ・かどふだ)と呼ばれるもので、家に悪霊や災いが入るのを防ぐものとされている。年明けに上行寺の僧侶が檀家の家を一軒一軒祈祷してまわり、その際に題目を記した護符が配られる。古い護符は回収され、お焚き上げとなる。
 また、2月には楡原、岩稲でそれぞれ火祭りが斎行される。楡原は2月16日前後の土曜日に上行寺で、岩稲は上行寺の僧侶が岩稲八幡宮へ出向いて行なう。この火祭り=火伏せの祭りの際に、道切りの木札が僧侶から与えられる。楡原はお題目を書いた木札と、四天王を書いた4枚の木札を吊るしたしめ縄で、これを村の両端にあるホーカイサマに取り付ける。この道切りで集落への延焼を防ぎ、悪霊の侵入を防ぐ。岩稲はお題目を書いた木札だけで、これを村の両端にあるホーカイサマの前に立てる。
 食事をご馳走になり、ホーカイサマのこともお聞きしたので、先ずは楡原の南(岐阜側)にあるホーカイサマを撮影に行こうと思ったら、楡原の総代さんが車で案内して下さることになった。

ホーカイサマ01

 南の村境のホーカイサマはシーテック細入の斜め前辺りにある。道路から少し斜面を上がったところにしめ縄を巻いた大きな石があり、題目を書いた木札が立っていた。本当はしめ縄に四天王の名前を書いた木札が下がっているはずが、何枚か下に落ちていた。四天王とは持国天、増長天、広目天、多聞天(=毘沙門天)で、それぞれ東南西北を守護する。

←↓楡原集落の南端のホーカイサマと、木札。

ホーカイサマ02
 南のホーカイサマを撮影した後、今度は北端にあるホーカイサマへ車で移動。こちらも道路の脇にあるが、斜面を少し上がった所にあるので案内してもらわなかったら通り過ぎていたかもしれない。
↓楡原集落の北端にあるホーカイサマ。
ホーカイサマ04
ホーカイサマ03
 斜面を上がってホーカイサマを撮影していると、道路の方で案内して下さった総代さんが年輩の女性と立ち話をしている。撮影を終えて下りていくと、女性は少し離れた場所で駐車していた車が盗まれて携帯もないのでコンビニを探して歩いていたそうだ。総代さんが交番に連絡し、少し待ってパトカーが到着した。
 北のホーカイサマが撮影できたので、今度は岩稲の南端にあるホーカイサマを撮影に行く。楡原と岩稲は隣接しているので、楡原の北端は岩稲の南端だと思うが、実際は数百メートル離れていた。
 岩稲の南端のホーカイサマは、岩稲八幡宮の横に建っていた。八幡宮まで楡原の総代さんに送ってもらい、ここからは歩いて撮影に行く。
↓→岩稲八幡宮の隣りにある南端のホーカイサマ。
ホーカイサマ06
ホーカイサマ05
ホーカイサマ07

 楡原の題目塔(ホーカイサマ)についてはこちらのブログ、岩稲の題目塔についてはこちらのブログに詳しく書かれている。それによると、楡原も岩稲も集落の両端の他に、もう一つ題目塔があると書かれている。岩稲の場合は、八幡宮の向かいにある楽今日館の横、墓地の入口にあった。お題目「南無妙法蓮華経」の下に法界という文字が刻まれていた。

←墓地の入口にあるホーカイサマ。
→下の方に「法界」の文字が見える。

↓岩稲の北端にあるホーカイサマ。

ホーカイサマ08
ホーカイサマ09

 墓地の入口にあるホーカイサマを撮影した後、今度は岩稲の北端のホーカイサマを撮影に行く。笹津に向かって歩き、ダムの少し手前の民家の庭のような場所に目指すホーカイサマが建っていた。
 帰りは楡原駅の一つ富山駅よりにある笹津駅から電車に乗るので、そのまま笹津に向かって歩く。
 その途中に神通川を渡る鉄橋があるので、猪谷方面へ向かう電車が通るのを待って撮影する。

鉄橋を渡る電車

↑14時49分に笹津駅を出た電車が、鉄橋を渡る。

 電車を撮り終えて、笹津駅へ。高山線は朝夕の通勤通学時間を外すと本当に電車の本数が少ない。まだ路線バスの方が本数は多いかも知れない。
 笹津駅を15時44分発の電車で富山駅へ。16時24分に富山駅に到着し、あいの風とやま鉄道に乗り換えて家へと帰る。

←笹津駅にて。

 『知っておきたい 日本の仏教』(えい出版社)の日蓮宗を紹介した項目の中に、題目について触れた頁があったので引用させていただく。
・本尊は文字の大曼荼羅
  日蓮宗では日蓮があらわした文字の大曼荼羅を本尊とします。それは「南無妙法蓮華経」の題目の周囲に久遠の釈迦如来ほか、法華経に説かれている多宝如来、上行・無辺行などの諸菩薩、帝釈天・鬼子母神などの天の神々、釈迦如来の弟子たち、さらには天照大神や八幡大菩薩など日本の神々が名をつらね、四隅に四天王、左右に愛染明王と不動明王をあらわす梵字が書かれたものです。
 この曼荼羅は日蓮が配流地の佐渡で初めて書きあらわし、弟子や信徒に「本門の本尊(真実の教えの本尊)」として与えました。書きこまれている諸仏諸尊の名が多いものと少ないものがありますが、中央には必ず「南無妙法蓮華経」の題目が記されています。

 また、『愛蔵版 暮らしの歳時記 富山編』(富山新聞社)に収載されているコラム、「村境の道切り」(佐伯安一)にホーカイサマと道切りについて書かれている。
・本数に決まり
 左岸の楡原(現富山市・旧細入村)は全戸、村にある法華宗上行寺の檀家で、俗に”楡原法華”と呼ばれる信仰心の篤い村である。ここでは上と下の村はずれにホーカイサマ(法界様)と呼ばれる法華題目塔が建っており、塔にはしめ縄が荒々しく巻かれている。細い左縄で、3ヶ所にわらの株が下げられ、本数は右から7、5、3本である。その3ヶ所を挟むように4枚の木札が下げられており、右から持国・広目・増長・毘沙門と書かれている。いうまでもなく四方を守る天部(仏教の守護神)である。塔前には別に大きな祈祷札が立っている。昔は縄が道の上に張られていたのであるが、国道41号になってから張ることができなくなり、塔に巻くようになったのだという。
 縄は2月16日に上行寺で行なわれる火伏せのときに祈祷を受けて張っている。法華と道切りの習俗が習合したものといえる。

・境の意識に基づく習俗
 楡原に北隣する岩稲・西笹津にも村の南北に題目塔がある。しめ縄はないが村境にあることから、結界榜示(けっかいほうじ)の意味を持っている。
 神通川の右岸は飛騨街道東筋(加賀藩)、左岸は飛騨街道西筋(富山藩)で、飛騨との国境にあることから境の意識が強く、このような習俗が生まれたのであろう。

11月11日(月)

 午前中は穏やかな曇り空だったが、午後から空は荒れ模様で、時折激しい雷雨となった。
 撮影した画像にポツンポツンとゴミが目につくようになったので、昨日、2台のα700のセンサークリーニングを行なった。使用したクリーニングキットはこちら。クリーニングスワブと呼ばれる棒の先に付いているファブリックヘッドに洗浄液を垂らし、一方向から何度か拭き、次に洗浄液をつけないクリーニングスワブで乾拭きしている。1回のクリーニングで2本、2台のカメラで4本使うが、メーカーに送って清掃してもらうより遥かに安い。

センサーのクリーニング01
↑↓左がクリーニング前、右がクリーニング後。それぞれ上が広角、下が望遠側で撮影。
センサーのクリーニング02
ズームレンズ
 今月の4日、岩峅寺の雄山神社を撮影中にレンズのズームが広角側に固定されたまま動かなくなった。このレンズは中古で8月に買ったばかりだが、また買わなくてなならなくなったのか・・・たぶん修理の値段と中古の値段は変わらないんじゃないかとアマゾンのマーケットプレイスを見ていた。
 何日か放っておいて、ダメもとで少し力を入れてズームを廻し引っぱると、動いた!しかし、広角側に戻すとまた固定されて動かなくなる。
 そこでズームレンズの銅鏡に輪ゴムを1本付けた。これで広角側に戻しても輪ゴムがクッションになって固定されることはない。広角側の画角が少し犠牲になるが、しょうがないか。
森理世

◯森理世

 撮影したのは2009年11月13日だから、やがて10年になる。
 2007年のミス・ユニバース世界大会で優勝した2年後、22歳の時だ。撮影場所は彼女の母親が経営し、彼女も講師をしていた静岡のダンス・スクール。
 彼女がアメリカ人の男性と結婚したことも知らなかったが、結婚と同時に6歳の男の子の母親になったなんてちょっと驚いた。
 相沢真紀さん、笛木優子さん、そして今年は藤崎奈々子さん。この2年ほどで、連載に登場していただいた女性たちの結婚や出産の記事を目にすることが多くなった。10年の歳月というのは、そういうものか。

 撮影の帰り、編集者と一緒に新幹線の時間まで静岡駅近くの居酒屋で生しらす、桜えび、黒はんぺんなど静岡名物を食べて来た。静岡おでんがメニューになかったのがちょっと残念だったけど。
 ちなみに彼女が抱いている愛犬の名前はハニーちゃんと言う。

 彼女のブログに撮影した日のことが少し載っている。

 昨年の10月27日に撮影した魚津市東山にある東山神社再建の慶賀祭の様子をPhoto Albumにしました。こちら
小川寺の獅子舞
↑慶賀祭で奉納された小川寺の獅子舞。↓神事の後の記念撮影。
東山神社の慶賀祭

11月9日(土)

 mixiを覗くと、「今日は川奈まり子さんの誕生日です。お祝いのメッセージを送ってみましょう」というお知らせが届いていた。mixiに何か書き込むことはほとんど無くなったが、こうして覗くことはある。
 そう言えば、確かmixiがまだ招待がなければ参加できない会員制だった頃、招待してくれたのが川奈さんだった。
川奈まり子さん

 今は怪奇ものを中心とした作家になっている川奈さんを、初めて撮影したのは2003年の8月で、まだ女優業をしていた。健康雑誌の性に関する特集ページだった。
 出版社の会議室でインタヴューの写真を撮り、スタジオでポートレートを撮った。仕事で撮影したのはこの時だけだが、この時に撮影した写真を彼女の公式ファンサイトに提供したりしている内に親しくなり、イベントに誘われたり2、3度自宅にお邪魔したこともあった。
 2003年の彼女の誕生日パーティーも誘われて出かけて行った。ゴールデン街の寿司屋で始まり、その後、歌舞伎町の大型居酒屋に席を移した。女優業を引退すると正式に発表したのは、この時じゃなかったか。パーティーには長瀬愛、及川奈央といった当時人気の女優さんも来ていて、隣りに座った及川奈央ちゃんにお酒を注いでもらったのを覚えている。
  桜たまきさんと3代目葵マリーさんが企画して、川奈さんと溜池ゴローさんのサプライズ結婚式を原宿の教会で挙げたのは、その翌年だったろうか。一時、その時の映像がYou Tubeに上がっていたが、今はまた消えている。

 最後にお会いしたのは、最初に彼女を撮影した健康雑誌で再び取材することになった時だろうか。以前の写真を再掲載するので撮影は必要ないが、遊びに来ませんかと編集者に誘われて麻布の方まで出かけて行った。
 取材の後、生まれたばかりの男の子を見に自宅へ伺った。男の子を抱く、素顔の川奈さんを撮影して帰ってきた。
 その男の子も、もう高校生くらいだろうか。川奈さんも、52歳か。

*それにしても、川奈さんの指の長くてキレイなこと。

 東海第二原発が立地する茨城県東海村の山田修村長が、原発に否定的な人に対し「全ての外部電源を遮断して自家発電だけで生活してもらわなくてはいけない。自宅から一歩も出てはいけない」と指摘したそうだ。
 福島第一の原発事故直後、「反原発なら電気を使うな」という幼稚な声がネットに溢れていて驚いたが、立地自治体の村長がこんなレベルかと思うと進歩のなさに呆れる。こういう人たちは逆に、原発事故から数年、全ての原発が停止していた間、電気を使わなかったのだろうか。
 毎日新聞が先日、<「責任は私に」49回 なぜ安倍首相の「任命」は失敗続きなのか>という記事を掲載していたが、今度は<やまぬ安倍首相のヤジ 今年だけで不規則発言20回超「民主主義の危機」>という記事を掲載している。49回と20回・・・まだ記録が伸びそうなのが恐ろしい。
 共産党の田村知子議員が予算委員会で、「桜を見る会」が安倍首相他、自民党議員の後援会や支持者を招待する場になっていると追及している映像がYou TubeにUPされている。こちら。税金を使った公的行事を議員が私的に利用していることも酷いが、その追及に対する答弁が、ほとんど答えになっていないのも酷い。モラルの崩壊も甚だしい。
 その他の気になった記事を備忘録として。
キャッシュレス決済に挑戦も挫折… 現金派に“出戻り”した人たちの本音
日韓冷え込み 33%減益 売上比率高いデサントなど
ウィーン芸術展、公認撤回 原発事故や政権批判を問題視か
政府への異論、議事録から削除
増税した途端…安倍政権“海外バラマキ”累計「60兆円」突破
日本社会を打ち出の小槌にするな  ーバラマキ外交の原資はどこから?ー
首里城再建を主導するのは国?県? 議論の前に押さえておきたい首里城の所有を巡る歴史
OUR Shurijo みんなの首里城デジタル復元プロジェクト
違法と断定…“マイナスドライバー”所持で男を現行犯逮捕 「ライターの火力調整用」と一部否認

11月5日(火)

 秋晴れの良い天気だったが、家から出ることもなく部屋に籠って撮影データの現像。秋が深まってくると、朝晩めっきり寒くなる。今日から湯たんぽを使い始める。
 一昨日は高岡市内の寺院が宝物を特別公開するイベント「寺院ミュージアム in 高岡」に参加している瑞龍寺を見学、昨日は岩峅寺の雄山神社(雄山神社前立社壇)を撮影に行って来た。こちらの様子も後々UPいたします。
↑公開された山門から見下ろした、瑞龍寺の仏殿。↓国の重要文化財に指定されている岩峅寺の雄山神社本殿。
岩峅寺の雄山神社本殿
 気になった記事を備忘録として。
「責任は私に」49回 なぜ安倍首相の「任命」は失敗続きなのか
野村総研、GDPに代わる「新経済指標」を提言
除染廃棄物の捜索難航=36袋未回収、ドローン投入も-福島
消えた次世代原子炉、日仏共同の建設計画 白紙に
日韓関係悪化、観光地には死活問題 週末の夜もひっそり
独自 財務省「森友文書」5,633枚入手

11月4日(月)

 立山信仰の拠点だった、芦峅寺集落。一昨年から昨年にかけて、この芦峅寺に伝わる年中行事を取材撮影していた。それをまとめたフォトブック『芦峅寺歳時記』が今年の春過ぎに出来上がって、集落にある「ふるさと交流館」に置いていただいている。
 芦峅寺を取材している際にお世話になった方がお一人、昨年の12月に亡くなられた。昨年の夏に癌が見つかり心配していたのだが、『芦峅寺歳時記』が出来て連絡した時に亡くなられたことを知った。
 フォトブックは最初に10冊置いていただいたのが売り切れたので、新たに10冊追加した。 お線香をあげ、売れた本の代金を受け取りに行こう行こうと思いながら、他の用事にかまけて顔を出せなかったが、ようやく祝日だった今日、交流館へ行くことができた。

芦峅寺歳時記

『芦峅寺歳時記』

A5サイズ オールカラー144P 
1800円
写真点数190枚以上

CONTENTS
◯開山伝説
◯立山信仰と芦峅寺
◯山の神の祭り
◯おんば様のお召し替え
◯お涅槃団子作り
◯涅槃会の団子撒き
◯春彼岸 ズズクリ
◯夏季例大祭 神輿練り
◯オショウライ
◯布橋灌頂会
◯年餅作り
◯ミヤマイリ
◯参考文献

 立山周辺は今が紅葉の盛り。称名滝の紅葉を見に行った帰りにでも「ふるさと交流館」へ寄って、手に取っていただけたらと思います。
 交流館では、郷土料理や蕎麦などが食べられます。

 せっかく芦峅寺まで行くなら、その手前の岩峅寺によって雄山神社の撮影もしたい。岩峅寺の雄山神社は2015年の11月3日に稚児舞を撮影に来ているが、本殿などの建造物は撮影していなかった。こちらの本殿が檜皮葺きなのを知ったのは最近で、撮っておきたいと思っていた。
 あいの風とやま鉄道で9時47分に富山駅に到着。構内のお土産売り場で、お菓子を一箱購入。コンビニで菓子パンとおにぎりを一つずつ買って、電鉄富山駅へ。10時33分の電車で、岩峅寺に向かう。
電鉄富山駅
岩峅寺駅

↑電鉄富山駅のホーム。何回も来ているので見ていたんだろうが、電車のヘッドマーク(?)が飾られているのを初めて認識した。

 電車の中でコンビニで買ったコロッケパンを食べ、11時13分に岩峅寺駅へ到着。新聞の熊出没情報に最近、岩峅寺の名も出ていたので、100円ショップで買った小さい鈴を鳴らしながら歩く。

 岩峅寺の雄山神社は久しぶりなので、事前にグーグルマップで道順を確認したら、雄山神社へ向かう途中に道祖神があるのを知った。見落とさないように歩いていたら、直ぐに見つかった。不動明王と彫られた石碑の横に、ちょこんと道祖神と彫られた石が置かれている。道祖神の「道」の上に一文字彫られているが、梵字だろうか。
↓不動明王の石碑と道祖神。
道祖神02
道祖神01
雄山神社の鳥居

↑道祖神の近くにある民家に祀られている石仏。

 15分程で雄山神社の鳥居の前へ。以前もこちらの鳥居から入ったが、雄山神社には反対側にも鳥居がある。向こうの鳥居をくぐると表神門、こちらの鳥居をくぐると東神門に着く。
 境内に入り拝殿で参拝してから、境内末社や本殿の写真を撮らせてもらう。

岩峅寺の雄山神社
↑上段左:東神門/上段右:拝殿/中段左:境内摂社・末社/中段右・下段左右:本殿と檜皮葺きの屋根。

 岩峅寺の雄山神社は、正式名を雄山神社前立社壇と言い、芦峅寺の雄山神社(中宮祈願殿)、雄山頂上の峰本社の3社で一つの雄山神社となる。
 境内に前立社壇の概要、縁起を書いた案内板があったので引用させていただく。

延喜式内社 雄山神社
祭神 雄山大神(天之手力男神 伊邪那岐神)
春季例大祭(古式大祭) 四月八日
秋季大祭        十一月三日
古来より立山里宮と崇められ立山信仰の要としてこの岩座(神を祭る場所の意)の地に奉斎し四時祭礼を執り行う
昭和十五年 国幣小社に列せられる
御本殿は国の重要文化財(明治三十九年指定)であり源頼朝の再建と伝えられる

重要文化財 建造物
雄山神社前立社壇本殿 明治三十九年四月十四日指定
概説
 雄山神社前立社壇の起源は定かではないが、岩峅の地名は、磐座(神、精霊が来臨する岩石の座)に通じるとされ、小字名の「岩坂」も「磐境」の神聖な意味から転じたものと思われる。
 立山山頂にある峰本社の里宮として創建され、古くは大宮立山寺と呼ばれ、江戸時代には岩倉寺、そして明治時代には岩峅寺雄山神社遥拝所と呼ばれてきた。
 社伝によると、建久二年(一一九一年)に源頼朝が再建し、明応元年(一四九二年)足利義稙(あしかがよしたね)によって修復されたとしている。
 その後も富山城主佐々成政の庇護を受け、加賀藩前田家の所領後は、藩主一族の武運長久、息災延命、五穀豊穣などを祈る祈願所として厚く保護された。
 本殿は和様の斗栱組(ますぐみ)で、五間社流れ造りである。一間大面取りの向拝を付けて高い階段を覆い、下は浜床の様式をとり、総体は素木(しらき)造りである。
 昇り階段下の向拝柱は角柱で、大斗(たいと)をのせ、その上には紅梁(こうりょう)を懸け、木鼻は象形で芭蕉葉図案の手挟(たばさみ)によって屋根に取り付けている。
 また、本殿は、大丸柱上に大斗をのせ、柱間には中央に神紋、双方に日・月、その他の図案彫刻を施した蟇股(かえるまた)をはめ込んでいる。
 破風(はふ)の拝下には「いの目懸魚(けぎょう)」を懸け、屋根はもと杮葺きであったが、現在檜皮(ひわだ)葺きである。
 とくに蟇股彫刻や向拝の手挟、木鼻などは、室町中期の様式を示している。
 明治三十九年四月十四日付けで特別保護建造物に指定され、文化財保護法の施行によって、国指定の重要文化財となる。
                           立山教育委員会

表?の鳥居
表神門

↑表の方の鳥居。

 撮影しておきたかった檜皮葺きの本殿を撮ったので、入って来た方と反対側の鳥居を撮影に行く。ちょっとレンズにチリが付いているのでティッシュで軽く拭いて鳥居にカメラを向けると、レンズのズームが回転しない。広角側に固定されてびくともしない。困ったが、どうしようもない。おにぎりを一つ食べて気を落ち着けて、広角側だけで撮影する。

←表神門。

 祝日とあって、七五三参りの家族が何組か参拝に訪れていた。
↓境内。→夫婦杉。
夫婦杉
岩峅の夫婦杉
この境内の中心に、根元から力強く結ばれた二本の杉
人の始まりを表すかのように地中で根幹を共有しておりますが、地上に出るとそれぞれに、仲良くすくすくとそびえ立っています。
 安産祈願をされた方(丈夫な子供と夫婦の堅い絆)、縁結びを望む方(生涯を共に)、夫婦円満(たゆまぬ共生)を望む方は、まず御本殿にお参りを済ませてからくぐりましょう。
(くぐり方:夫婦杉の裏より御本殿の方へ向いてくぐって下さい。この時、男性は右、女性は左に並び、一礼の後、手をつないでくぐると良いでしょう。)
 この夫婦杉のように、いつまでも堅い根が張り、太陽に向かって伸び続け、二人に弥栄なる生涯もたらすでしょう。
斎館と石舞台

←石舞台と斎館。

 稚児舞を撮影に来た時に舞台となっていた石舞台と斎館の近くに、湯立の神事に使った釜があるのを発見した。
 平成10年4月24日に立山町の指定文化財になっている。
 昔は4月8日の春季例祭で湯立て神事が行なわれていたようだが、案内板にもいつ頃途絶えたかは書かれていなかった。

↓→湯立の釜。
湯立の釜02
湯立の釜01
立山町指定文化財 歴史資料
岩峅寺湯立の釜 平成十年四月二十四日 指定
 旧立山寺(現在の雄山神社前立社壇)では古来、四月八日の春季祭礼において、五穀豊穣・無病息災を祈って「湯立の神事」が行なわれており、その神事に使う釜は加賀藩主によって寄進されるのが慣例であった。現存する釜は、口縁部が二段となり、口径百三十三cm余り、高さ約七十三cmの鋳鉄製である。
 銘からは、加賀藩第十三代藩主斉泰が、江戸時代末期の弘化二年(一八四五)に寄進したもので、高岡の鋳物師金森彦兵衛によって鋳造されたことが読みとれる。
 往事の立山信仰の一端を伝える由緒ある遺物であると同時に、立山と加賀藩との関わりを証明する数少ない貴重な歴史資料である。
岩峅寺駅と電車
山菜そば
 雄山神社から、岩峅寺駅へ戻る。千垣駅へ向かう電車は13時11分で、少し早めに駅に着いたので先にきっぷを買っておこうと思ったら、駅員さんが椅子に座って夢心地。
 電車が到着する少し前まで待ち、夢心地の駅員さんに声を掛けてきっぷを購入して乗車。
 13時25分に芦峅寺駅に到着し、駅前から芦峅寺行きの町営バスに乗ってふるさと交流館へ。
 祝日でお昼時だったからか、交流館は食事に訪れるお客さんが途切れることなく来館。何か食べる?と聞かれ、山菜そばをご馳走になる。そばを食べ終えて、館内にある交流室へ。こちらには第1次南極観測隊に参加した芦峅寺の方々を紹介した資料や、山岳関係、立山信仰に関する書籍を揃えた図書コーナーがある。しばらく写真集を中心に眺めて過ごした。
 お客さんが帰られて交流館の仕事が落ち着いたので、線香を上げに連れて行ってもらう。最後にお会いしたのはオショーライの時だから、1年3ヶ月ぶりだろうか。富山駅で買ってきたお菓子を仏壇の下に置き、お線香を上げさせていただいた。
 亡くなった時の様子を少しお聞きして、芦峅寺を16時32分のバスで千垣駅へ。直ぐに電鉄富山行きの電車がやってきた。
 そう言えば、秋の芦峅寺を訪れたのは今日が初めてだ。
千垣駅

11月3日(日)

 高岡市内の寺院4ヶ所が寺宝や普段立ち入れない場所を特別に公開する『寺院ミュージアムin高岡』というイベントが、昨日から始まった。公開するお寺は瑞龍寺、大法寺、勝興寺。総持寺は15日と16日に公開する。
 瑞龍寺は山門の内部が公開されるというので、午前中から自転車を漕いで出かけて来た。

↑瑞龍寺の総門と、総門の屋根。屋根は杮葺きになっている。

 9時半頃に家を出て、瑞龍寺に到着したのは10時半頃だった。入口で入館料500円を支払い、総門をくぐり境内に入る。日曜日だからか、特別公開があるからか多くの参拝客が訪れていた。

←総門から見た山門。
↓白砂を敷いた境内。

境内の白砂
 さっそく特別公開された山門に上がろうと思ったら、階段は一つで降りる人と上がる人でしばらく順番待ち。とりあえず山門と宝物展示の見学券500円を購入し、世話をしている男性に総門の屋根のことをお聞きした。回廊と禅堂、大庫裏の屋根は杮葺きなのだが、ネットの情報で総門の屋根が一部檜皮葺きになっているというのを見たので確かめると、総門の屋根も杮葺きで瑞龍寺で檜皮葺きは使われていないということだった。
 急な階段を上って山門の2階部分に行くと十六羅漢像が安置されていたが、こちらは撮影禁止。山門の回廊からの風景は撮影できるので、山門や仏殿などを見下ろして写真に収める。
 大昔は山門も自由に上がれたそうだが、その後何十年間か立ち入り禁止になっていたのが、昨年から年に一度公開されるようになったという。今後も階段から落ちる人などが出なければ、年に一度公開されるのではないかということだった。
山門から撮影した伽藍
杮葺きの屋根

↑山門から撮影。上段左:総門/上段右:仏殿/中段左:禅堂と回廊/中段右:大庫裏と回廊/下段左:禅堂の唐破風の屋根/下段右:大庫裏の唐破風の屋根。唐破風の屋根は杮葺きになっている。

←杮葺きの屋根は、ところどころ痛んでいる。この後、宝物の展示を二ヶ所で見てから法堂に行くと、屋根の葺き替えのための、杮板の御志納のお願いが掲示されていた。

杮葺(こけらぶき)とは
 桂離宮書院・金閣寺・銀閣寺などで現存し文化財や茶室で使われています。
 ヒノキ科常緑針葉樹「椹・さわら」や「杉」の幹を3ミリに割った板を重ね、竹の釘で固定します。
 中間に銅板をはさみ、降雨の際に水と混ざる銅イオンの作用で、腐食を少なくする方法がとられています。

「杮板」御志納のお願い
 瑞龍寺は昭和六十年から平成八年に亘る伽藍復興整備事業により国宝に指定されました。
 しかし整備工事のあと二十余年がすぎ、傷みも目立ってまいり、特に杮葺き屋根の傷みが著しく、最近は雨漏りも確認されております。
 杮葺き替えには多額の費用が予想されますので、ご参拝の皆様方には是非、杮板の御志納をお願いいたします。
 この板は屋根の葺き替えで使い、文化財の保存に役立てます。
 この趣旨にご賛同いただけましたら幸いです。
杮板に、ご住所・お名前・祈願内容(家内安全等)をご記入ください。

*瑞龍寺の屋根については、こちらに詳しく書かれている。

 法堂から仏殿へ。山門に安置された釈迦如来像や十六羅漢像は撮影禁止だが、仏殿に安置された本尊の釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩は普通に撮影出来る。
↓→仏殿に安置された釈迦三尊像
仏殿02
仏殿01

 山門から回廊へ戻りウロウロしていたら、石廟へ続く戸を発見。瑞龍寺には何回か来ているが、石廟はまだ見たことがなかった。石廟の近くには茶室もある。

富山県指定文化財 
瑞龍寺石廟(せきびょう)
 前田利長公は本能寺の変後、織田信長公父子の文骨を迎えてその霊を慰めたと伝えられる。
利長公の菩提寺瑞龍寺を造営した時、開山広山恕陽(こうざんじょよう)禅師が利長公父子も加えて加えて同じ形式の五基を建造したのがこの石廟の由来である。
 廟の石材は淡緑色の凝灰岩(俗称越前笏谷石・しゃくたにいし)を用い壇上積の基礎の上に立つ切妻型石廟建築である。
 廟内の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は越前式の月輪装飾を施したもので越前の国を源流とし、加越能三州に分布している。
 石廟は向かって右から前田利長公(高岡開祖)、前田利家公(加賀藩祖)、織田信長公(利長夫人玉泉院の父)、織田信長公側室、織田信忠公(信長公の子息)の五人のもので、中でも利長公のものは壁面に二十五菩薩を刻んだ代表的な優品である。
 これら五基の石廟は地方政治史上、又石造建築史上の貴重な資料であるところから、昭和四十五年三月二日富山県指定文化財史跡に指定された。

↓五つ並んだ石廟と、宝篋印塔
石廟02
石廟01
伽藍配置図

 1時間半ほど滞在し、瑞龍寺を一通り見て総門を出たら、瑞龍寺伽藍配置図が目に入った。
 空撮写真の方は今はない七間浄頭と浴室がCGで合成されている。そして空撮写真の横に、「禅宗七堂伽藍人体表相図」が描かれており、<氷見市大窪大工『高橋家文書』の山上善右衛門が印可した秘伝書より>という説明が添えられている。
 山上善右衛門は、瑞龍寺の伽藍造営を指揮したとされる加賀藩御大工(おんだいく)だ。

 瑞龍寺を出て、今度は自転車で教恩寺へ向かう。このお寺は今回の『寺院ミュージアム』とは関係ないが、境内に運搬途中に川に沈んだという前田利長公墓所の大灯籠の火袋の部分があるというので見に来た。
 詳細はこちらに書かれている。
↑教恩寺。↓→石碑の台座に使われている大灯籠の火袋。
灯籠の火袋02
灯籠の火袋01
 教恩寺から、今度は『寺院ミュージアム』に参加しており仏画を公開している利屋町の大法寺へ。利屋町の天神祭りの撮影で何回か訪れている龍雲寺の隣りだ。
 仏画の拝観料が500円必要のようなので、今回はパスして家へ帰ることにした。展示されている寺宝はこれらだろうか?どうせ見るなら事前に少し勉強してからの方がいい。
 高岡から自転車で家へ帰る時は、旧北陸道を通る。途中に加賀藩が植栽した往還の松の跡が2ヶ所ある。立野公民館の前と福岡町大野で、どちらも往時の松は枯れて新しく植えられた松だ。福岡町大野の方は小学生の頃はまだ昔の松が残っていて、夏休みだったろうかゾロゾロと学校から歩いて草むしりに行った記憶がある。
往還の松
↑立野公民館前の往還の松(左)、福岡町大野の往還の松(右)。

◯立野公民館の往還の松
 加賀藩では、慶長六年(一六〇一)、徳川幕府の全国的な施策に呼応して北陸道に松並木を植樹した。
 このような松は「往還の松」と呼ばれたが、道行く人々に木陰を与え、また冬の深雪時には吹雪で道を踏み誤らせることもなくおおいに道中の助けとなった。
 その植樹の方法は、二間に一株の割合で、一里の間に片側八三〇株の割合によって植えられ、また、道路の清掃や修理など道の管理のため道番人がおかれた。
 街道はよく整備され、並木の植樹による街道風景は限りなく美しいものであったという。
 当時の往還の松は、高岡市には残っていない。そこで、本市で実施してきた「高岡歴史の道を歩く会」での学習活動を基にして、北陸道が通っていたこの地に松の木を植樹した。
 往還の松を再現することにより、人々とともに生き続けた往還の存在を永く後世に伝えようとするものである。
                       平成十年七月 高岡市教育委員会

◯福岡町大野の往還の松
「慶長六年令モテ松ヲ往還ニ植エシム。往還トハ官道ヲ日フ。往還ノ行樹此ニ始マル。」『加賀藩民事志』
 慶長六年(1601)、加賀藩は街道沿いに往還松を植える命令を出しました。寛永七〜八年(1630〜31)や文久年間(1861〜63)にも植樹した記録があり、往還松は江戸時代を通じて地域の景観を醸成する役割を担ってきました。二間(約3.6m)に一株、一里(約4km)に片側八三〇株の間隔で行なった植栽記録から、参勤交代の折、松が立ち並ぶ街道を進む加賀藩主一行の姿が想像されます。
 数十年前までは大野地区でも五、六十本残っていましたが、台風・落雷などにより次々に姿を消しました。先年、町内最後の一本もついに枯れ、平成十五年四月、惜しまれながら伐採されました。
 地区の移り変わりを見守り続けた往還松は、此の風景に欠かすことができません。史実に基づき新たな松を植え育てることで、次世代にこの景色を伝えていきたいものです。

                             高岡市教育委員会

*北國新聞の記事、北日本新聞の記事

11月1日(金)

 首里城が焼失して1日以上が経過した。昨日から今日にかけて、断続的に首里城の火災についてのニュースが流れてくる。昨日の朝のニュース番組では正殿、北殿、南殿が燃えているということだったが、昼頃に家を出て夕方帰って来たら7棟が焼失していた。建物の焼失も悲しいが、その中に納められていた収蔵品の被害がどれほどになるのか心配だ。
 那覇に住んでいた時に、首里城公園の年間パスポートを購入した。一年を通して琉球王国時代の文化を継承し伝えるイベントが催されるので、年間パスポートはとても割安で便利だった。火災が発生した昨日の未明も、首里城祭の準備の最中だったという。 琉球王国は中国や日本など、アジアの国々との中間貿易で栄えた国だ。それもあって首里城は中国建築と日本(大和)建築の融合と言われている。朱に塗られた北殿は中国の、塗装のしていない南殿は日本の影響を受けた建築で、それぞれの国の客人を迎える時は、北殿と南殿を使い分けたと記憶している。
 写真は2012年の首里城祭で撮影した「冊封儀式」。 日本でも先日「即位礼正殿の儀」が執り行われたが、こちらは琉球国王の即位式だ。この儀式を首里城の御庭で再現している。 
 琉球王国は中国と冊封体制を結んでおり、琉球王の承認は中国の皇帝が行なった。そのため、国王の代替わりがあると皇帝が王冠を携えた使者(冊封使)を首里に派遣した。冊封使の乗る船は、彼らが王冠を携えて来ることから冠船(かんせん)と呼ばれたが、この冠船の渡来は1404年から1866年まであり、その間に23回の冊封が行なわれたという。
 その後、1872年の琉球藩設置、1879年の沖縄県設置に至る明治政府による琉球の強制併合=琉球処分で王国は消滅し、首里城は主人のいないまま放置されていた時代もある。
 冊封使が琉球に持って来たのは、王冠だけではなかっただろう。冊封使が滞在している間に、琉球王国は冊封七宴という7つの宴で歓待している。この催しの中で国の重要無形文化財に指定された「組踊」などが生まれたし、他にも様々な文化・芸能が花咲いたのだろう。
 そういう意味では再建された首里城の建築と、そこを舞台に繰り広げられた芸能やイベントは、沖縄の人にとって遥か遠い昔から続く自分達の歴史を確認できる場所、 沖縄に残る琉球王国時代の象徴の場所だったと思う。

 そしてもう一つ、再建された首里城は沖縄の人にとって戦後復興の象徴だったに違いない。今回の火災を報道するニュースの中でも、首里城の紹介として沖縄戦の際にアメリカ軍の攻撃で破壊されたということが伝えられている。付け加えるならば、なぜ首里城がアメリカ軍の攻撃対象になったかで、それは日本軍が首里城の地下に陸軍第32軍の司令部を設置したからといわれている。基地や軍の施設は戦争から身を守るものではなく攻撃対象になるという教訓を、沖縄の人達はこの時の体験で得たのだろう。
 因みに破壊された後に復興された首里城の建物は世界遺産ではなく、残っていた遺構が首里城跡として世界遺産に登録されている。
 ネットでは焼失を悼む本土の人達の言葉も多数見るが、首里城焼失に思いを寄せるなら、これを機会に琉球の、沖縄の歩んできた歴史そのものにも思いを馳せて寄り添う人が増えたらと思う。
【火災で全焼】琉球王国のシンボル・首里城とは
こんなに美しかった首里城の正殿 琉球新報の写真で振り返る

 2020年度から大学入学共通テストで導入予定だった英語民間検定試験が、ギリギリのタイミングで見送りになった。英語民間検定試験の問題点はこちらに指摘されている。
 この他の気になった記事を備忘録として。
ポイント還元に1日10億円 予算が不足する可能性
実質賃金指数の下落が止まらず 厚労省・毎月勤労統計調査
アパートの廊下崩壊 70代男性取り残され救出 築46年の鉄筋コンクリート
吉本グループ、所属芸人を活用したインフルエンサーマーケティング事業を開始
台風19号など被災地 深刻なボランティア不足
韓国向けビール、わずか58万円=不買運動で激減-9月
 昨日は新湊市にある海洋丸パークで行なわれた「越中国 大祓」を撮影に行って来た。

10月31日(木)
 最近は6時前後に起きていたが、昨晩は焼酎を呑んでいていつもより遅い8時頃の起床となった。1階へ下りて行くと居間の方から朝のニュースが聞こえてきて、首里城で火災という言葉が耳に届き驚いた。「なんで!?」の後に、言葉が続かない。

 昨日Facebookに、海王丸パークの展望台で「越中国 大祓」という祭典が行われるというチラシが流れてきた。11月14日、15日に行なわれる大嘗祭を前に、県神社庁が主催して県内の神職約50人が富山湾に向かって大祓詞を奏上して新しい御代の弥栄を祈るそうだ。そのチラシで気になったのが「ぼんぼこ舞」の奉納があるという一文。ぼんぼこ舞は新湊にある西宮神社の春季例大祭に奉納される伝統芸能。県の無形民俗文化財に指定されているが毎年奉納されるわけではなく、不漁が続いた場合や海難事故が起きた翌年など不定期に行なわれる。2015年に上皇さま、上皇后さまが来県された「全国豊かな海づくり大会」で奉納されて以来なので4年ぶりだろうか。今回見逃したら次にいつ見られるかわからないので、電車の乗り継ぎを調べ、少し余裕を持って会場に到着するように出かけた。

海王丸駅

 あいの風とやま鉄道で、12時47分に高岡駅に到着。改札を出て1階にある万葉線のホームへ。
 13時発の万葉線に乗って、13時47分に海洋丸駅に着いた。この駅で降りるのは初めてだろう。
 駅から歩いて10分ほどの海洋丸パークへ。こちらに来るのはたぶん2008年の5月以来なので、11年ぶりか。

←海王丸駅。
↓海王丸パークの海王丸。

海王丸パーク
 公園内の案内所でパンフレットをもらい、展望台の場所を教えてもらう。指差された方角に歩いて行くと、白い装束を来た神職の方々も行ったり来たりされている。展望台にはすでに一般の参加者も多くいらした。
 祭典は15時からで、その5分ほど前から神職とぼんぼこ舞保存会の方が2列に並んで階段を上がって展望台まで入場される。
↓展望台へ神職が並んで入場する。→ぼんぼこ舞の舞人。
神職の参進
舞人の腰につけたお面

↑天狗の面をつける舞人。神の遣いだとされる。
←腰当て面。

 神職の後に、ぼんぼこ舞保存会の方々が展望台に入場した。その中に天狗の面を被る舞人を見つけた。舞人はまだ天狗の面をつけていないが、鬼の顔をした腰当て面をつけている。

 神職50人と一般参列者約200人が揃ったところで、海に向かって大祓詞を3回奏上する。

越中国大祓
↑神職を先導する道彦を、富山市宮保にある熊野神社の横越照正宮司が務めた。
舞人の支度
麻と木綿を裂く
 大祓詞奏上の途中、舞人が席を立ったので目で追うと長い髭の天狗面をつけ、金色の烏帽子をかぶるところだった。
 20分ほどで大祓詞奏上が終わると、修祓、続いて麻と木綿を裂くお祓いが行なわれた。
 そしていよいよぼんぼこ舞の奉納。展望台中央に敷かれた赤いカーペットの上で舞が奉納された。
 舞人は長い弓を持って登場するが、この弓を釣り竿に見立てて鯛を釣る仕草をする。そして矢を放ち悪魔を祓う。
ボンボコ舞01
↑↓→ぼんぼこ舞。
ボンボコ舞03
ボンボコ舞02
 ぼんぼこ舞に続いて県神社庁雅楽部が御神楽「人長舞」を奉奏して、祭典は終了した。展望台を降りると、神職からこの日限定の参列証が一人一人に手渡された。
↓人長舞の奉奏。→青海波と稲穂をあしらった参列証。
参列証
人長舞

 海洋丸パークを出て、万葉線の海洋丸駅へ。さほど待たずに、路面電車が来た。高岡駅に到着すると、あいの風とやま鉄道の電車も17時1分発金沢方面行きが直ぐにあって、乗り換えがスムーズだった。
 家に帰り夕方のニュースを見ると、首里城は7棟が焼失していた。

*北日本新聞の記事、富山新聞の記事、中日新聞の記事

10月へ