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バックナンバー
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能
◯製作中の富山の祭りと芸能歴史年表

4月6日(土) 赤井の親子獅子舞 神楽岡神社 8時30分神社出発
4月6日(土) 舟渡素盞嗚社10時〜 猪谷素盞嗚社13時30分〜
4月6日(土)〜14日(日) あさひ舟川「春の四重奏」 あいの風とやま鉄道*割引きっぷ
4月12日(金)〜14日(日) 高野山の唐櫃一般公開 高岡市立博物館
4月13日(土)  魚津八幡宮 御神幸 猿田彦
4月13日(土) 猪谷 獅子舞 9時からお宮(八坂神社?) 12頃に関所
4月13日(土) 楡原 獅子舞 八幡宮に8時 駅前に10時30分〜11時頃
4月13日(土) 朝日町笹川 獅子舞 諏訪神社 朝日町の獅子舞 映像 共生の里ささ郷(0765-83-3688)
4月14日(日) 朝日町境 獅子舞 映像
4月14日(日) ふちゅう曲水の宴 路線バス長沢新
4月15日(月) 町長神社 湯釜神事 13時30分〜  

五箇山の春祭り
4月20日 相倉
4月21日 小来栖
4月22日 皆葎 葎島
4月23日 下梨
4月24日 来栖 見座
4月25日 中畑
4月26日 上梨
4月27日 田向 上松尾
4月28日 小原
4月29日 猪谷
4月30日 篭度 
5月1日  大島
5月2日  細島 漆谷 小瀬 高草嶺 夏焼
5月3日  西赤尾 下島 楮 成出 東中江 入谷 寿川 大崩島
5月4日  真木 東赤尾 新屋 田下 菅沼 祖山

4月20日(土) 福光・宇佐八幡宮の春季例祭 宵祭り
4月21日(日) 福光・宇佐八幡宮の春季例大祭
4月23日(火) 二上射水神社 築山行事
5月1日(水) 高岡御車山祭
5月2日 井波 よいやさ祭り 宵祭 映像
5月3日 井波 よいやさ祭り
5月3日 越中八尾曳山祭
5月4日(土) 加茂神社 やんさんま
5月4日、5日 城端曳山祭 *4日の宵祭りは夕方から
5月11日、12日? 五箇山・上梨 白山宮のご開張
5月18日(土)、19日(日)? 利屋町の天神祭り
5月24日 於保多神社 神幸祭(猿田彦) 8時30分〜祭典 9時〜巡行
6月1日、7月1日 瑞龍寺の一つやいと
6月9日(日) 朝日町大平(だいら) 獅子舞 映像
6月21日(金) 福光
6月22日(土) 富山 ログセッション
6月23日(日) 黒部
7月6日、7日 舟見の七夕
7月15日 南砺市・是安の風祭り(不吹堂の祭り) 記事
7月22日前後の日曜日 重忠まつり 上行寺
8月7日 魚津市蛇田地区の七夕
8月24日(土)? 朝日町笹川の獅子舞 諏訪神社 朝日町の獅子舞 映像 共生の里ささ郷(0765-83-3688)
9月第2土曜日 高岡市大坪町の獅子舞(熊獅子)
10月10日 伊勢玉神社 秋季例大祭の宵宮 湯立て神事
10月12日(土)、13日(日) 朝日町草野 獅子舞 五社明神社 映像
10月13日(日) 朝日町平柳 獅子舞 五社之社 映像
10月15日に近い日曜日 朝日町境 獅子舞 境神社 映像 
11月13日 お会式(餅柱) 上行寺

◯新川神社 1月? 寒中みそぎ
◯新川神社 御田植祭5月
◯高瀬神社 御田植祭5月 抜穂祭9月
◯射水市三ヶの十社大神 御田植祭
◯埴生護国八幡宮、亀保里神社(長岡神社0766-67-1402)除蝗祭 6月
◯上市町 日石寺 7月1日 大岩山滝開き・火渡り修法(10時)
◯7年に1度、10月に開催 次は2022年 朝日町山崎 米吊り奉納
◯福岡町沢川の獅子舞 9月の第4土曜日?
◯加茂神社 出雲へ神を送る神送祭 9月30日と10月31日?
◯岩稲八幡社の神送り・神迎え 10月下旬と11月下旬の日曜日 
◯5年に一度、若手神職でつくる県神道青年会が御田植祭
◯2019年 白山宮の本尊。秘仏十一面観世音菩薩をご開帳(33年毎)。
◯33年に一度 庄川の神賑わい 次回は2023年7月

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事
富山の祭り
築山行事
とやまの曳山”世界の宝”を守り続ける
*砺波の獅子舞 各地区の日程
年中行事覚書 柳田国男
田の神祭りに見る日本人の神意識
山の民の祈り
立山に生きる村ー宗教集落芦峅寺のくらし
立山信仰史における芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅
五箇山の獅子舞の起源
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
与論島の洗骨儀礼
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

4月22日(月)

 昨日、撮影を終えて家に帰ってパソコンを開くとスリランカで爆破テロがあったというニュースが飛び込んできた。現在までに日本人1人を含む290人が犠牲になり、スリランカ政府は非常事態を宣言した。
 玉城デニー氏の衆院議員失職に伴う衆院沖縄3区補欠選挙が昨日行われ、フリージャーナリストの屋良朝博さんが自民党公認の島尻安伊子氏を1万7728票差で破り初当選した。自民党や推薦していた公明、維新は本当に島尻氏で勝てると思っていたんだろうか?
 作詞家の有馬三恵子さんが亡くなられた幅広い歌手にたくさんのヒット曲を提供した人だけれど、個人的には南沙織の「17才」「潮風のメロディ」「ともだち」「純潔」「哀愁のページ」「早春の港」が思い浮かぶ。小学生の頃、この辺りのシングル・レコードを町内にあった東京堂という小さな電気屋さんで買っていた。有馬三恵子さんの名前は、ドーナツ盤に印刷されたラベルで覚えた気がする。

 一昨日は福光宇佐八幡宮の春季例大祭の宵宮を、昨日は本祭りを撮影に。携帯電話の万歩計によれば、一昨日は12,092歩、昨日は17,163歩歩いたようだ。こちらの様子も後々UPいたします。

福光宇佐八幡宮の春季例大祭01
↑宵宮、ご神体が移されたお神輿の前に3台の庵屋台が並び、順番に庵唄を奉納する。↓本祭りのお神輿巡行。
福光宇佐八幡宮の春季例大祭02

4月21日(日)

 福光宇佐八幡宮の春季例大祭の本祭り。本祭りは昨年も撮影しているが雨が降ってお神輿も庵屋台もビニールが被せてあったので、今年も撮影することにした。神社での神幸式が8時半から行われ、9時頃にお神輿が出発するということだったが、自分の体力も考えて昼から撮影することにした。

 昨日と同じく戸出駅まで自転車で行き、12時4分発の城端線で福光駅へ。12時32分に到着して、駅前のスーパーでお弁当を一つ買い、併設された休憩所で食べる。
 庵屋台が出発する図書館前に行くと、やがて3町の屋台が集まって来た。
 休憩を終えた西荒町の獅子舞が図書館から出て来たので、少しだけ着いて歩いて撮影。

←西荒町の獅子舞。胴幕1つに、獅子頭2つで家々をまわる。

庵屋台巡行
 庵屋台は13時に図書館前に集合して、13時20分に巡行をスタート。西町、本町、東町の順に一列に並び、それぞれが裁許、太鼓屋台、庵屋台の編成で囃子を奏でながら進む。
 庵屋台の巡行図によれば庵唄が披露されるのは西町、中央通町、本町、東町の4町内会長宅前と、福光公民館前、観音町の松風楼付近ということだった。
 30分ほど庵屋台を撮影してから、今度はお神輿の撮影に。例大祭の間、町のアチコチにジャンパーを着た関係者の方が立っているので、お神輿が今どこら辺にいるか尋ねて探し当てる。
お神輿巡行
 wikipediaによれば、この大神輿は1873年に京都の吉田神社より譲り受けたものだそうで、重さは約1トン。数え年で25歳、42歳、61歳の厄年と、42歳前後の前厄、後厄の男たちが年齢ごとに会名を付けた4つの会を作り交替で担ぐ。会の名前は毎年変わり、今年は42歳は鼓舞士会、25歳は完平会だった。
 お神輿は町内を巡行しながら要望のある家の前で止まり、祈祷を行う。普通は神職が家に入り神饌を供えた臨時の祭壇の前で祈祷をするが、宇佐八幡宮の場合は家の前に神輿を降ろし、担ぎ棒の間に板を渡してその上に神饌を置き、お神輿に向かって祈祷する。
お旅所での祭典
獅子舞奉納

 30分ほどお神輿に着いて歩くと、御旅所になっている福祉会館に到着。楽士が建物の庇の下で奏でる中、祭典が執り行われたあと記念撮影をして、休憩となった。
 休憩中に宇佐八幡宮の方から囃子が聴こえて来たので行ってみると、西町が獅子舞を奉納していた。
 西町の獅子舞奉納が終わったので福祉会館に戻ると、隣りの福光公民館の前で庵唄が披露されていた。

←宇佐八幡宮での西町の獅子舞奉納。

↑福光公民館前での庵唄の披露。
再びお神輿巡行
松風楼
 15時半になり休憩していたお神輿が出発する。神輿行列は錫杖のような棒をズルズルと引きずる男性2人を先頭に、四神旗などが露払いをして歩く。
 出発して直ぐに一台の庵屋台と出会った。五宝町のもので、引きまわす人手がないので組み立てて飾るだけになっているという。
 1時間半弱、祈祷しながら巡行したお神輿は観音町で休憩。
 町の入口にある料理旅館「松風楼」に町の由来を書いた案内板があった。

 ここ観音町は、明治33年(1900年)に県知事指定の貸座敷営業免許地として整備され、昭和33年(1958年)の遊郭廃止まで、県内の三大遊郭と言われる賑わいを見せていました。
 松風楼は、観音町における草分けの料理旅館として現在も親しまれています。

 県内の三大遊郭の一つが福光にあったとは初めて知ったが、後の2つはどこだろう。
 観音町で15分ほど休憩を取り、17時頃に再び出発。川沿いの道をしばらく進み、小矢部川に架かる福光橋へ。

出あい
出あい02
 福光橋で宇佐八幡宮の神輿と、川を挟んで対岸の荒木町八幡宮の神輿が対面する「出あい」が行われる。
 宇佐八幡宮のお神輿に遅れること5分ほどで、荒木町のお神輿が到着。
 本来は橋の中央で3回対面するが、今年は早く到着した宇佐八幡宮の神輿が1基で一度中央に来たので、出会いは2回となった。対面した神輿を「わっしょい わっしょい」の掛け声と共に持ち上げて、それぞれの町内に戻って行った。
荒木町八幡宮のお神輿
 庵屋台は19時頃まで巡行し、お神輿は20時頃に宮入りするようだが、出あいの写真が撮れたので帰ることにする。駅に向かう途中、荒木町八幡宮の神輿が巡行し、商店の前で祈祷していたので撮らせてもらう。こちらも神職が家に入るのではなく神輿の担ぎ棒に板を渡し、その上に神饌を乗せて祈祷する。神職が祈祷している間は小若が神輿の四隅の紐に付いている鈴を手で鳴らす。神輿の前に神饌を置いて祈祷するのは宇佐八幡宮というより、福光地区では一般的な様式なのかもしれない。
 駅前のスーパーで半額になっていたおにぎりを一つ買って食べ、17時57分発の電車で戸出駅へ。18時24分に到着し、自転車を漕いで家へと帰る。

*北日本新聞の記事

4月20日(土)

 福光にある宇佐八幡宮の春季例大祭は4月15日だったが、2003年から4月の第3日曜日に変更となった。前日の宵宮にはお神輿にご神体が移され、庵屋台が参集して庵唄の奉納が行われる。事前に交流観光まちづくり課に問い合わせたところ、ご神体をお神輿に移すのは17時頃とのことだった。

東町の庵屋台

 晴れているので戸出まで自転車で行き、戸出から城端線で福光駅へ。福光に16時26分に到着する電車があったが、念のため一本早い15時12分に到着する電車に乗ることにした。
 福光駅から宇佐八幡宮へ向かって歩いていると、西町の庵屋台が組み上がっていた。庵唄の奉納は何時頃か尋ねると、18時頃に神社へ向かって出発すると言う返事だった。

←組み上がっていた西町の庵屋台。

↑宇佐八幡宮の社殿(左)と境内にある神輿堂(右)。
拍子木の清め祓い
拍子木の授与式

↑拍子木の清め祓い。

 15時半過ぎに神社に到着すると、社殿の中で神事が営まれていた。
 お神輿の巡行の際に使われる拍子木の清め祓いだった。
 拝殿の中のスーツの男性たちは 42歳の男性たちで作る鼓舞士会と、25歳の男性たちで作る完平会の面々。
 清め祓いが終わると拝殿を出て、鼓舞士会と完平会の各2名ずつ4人の裁許に拍子木を渡す授与式が行われた。

お神輿を拝殿前に運びご神体を入れる
ご神体を安置したお神輿が神輿堂に戻る

 拍子木の授与式が終わると、ご神体をお神輿に移す。
 17時頃、神職が社殿に参進すると神輿堂からお神輿が出される。
 拝殿の入口ギリギリまでお神輿が着けられると、宮司の手によってご神体が安置された。
 そして、ご神体を移したお神輿は再び神輿堂へ戻され、堂の中で祭典が執り行われる。

←ご神体を移したお神輿が堂に戻る。

↓→神輿堂の中での祭典。
神輿堂での神事02
神輿堂での神事01
神事を終えて神輿堂を出る宮司

←祭典が終わり神輿堂を出る宮司。

 15分程で祭典が終わると、獅子舞の奉納が始まった。
 川原町、西町、西荒町、天神町の順に境内に入り、拝殿の前と神輿堂の前で獅子舞を舞った。
 福光の獅子舞は富山では珍しい加賀獅子で、胴幕と獅子頭は長い綱で結ばれており、ろくろ首のようになっている。獅子頭の動きはゆったりしており、胴幕はほとんど動かない。

獅子舞奉納
 獅子舞の奉納が18時半過ぎに終わり、境内はしばらく静かになった。19時頃になってお囃子の音が聴こえて来たので境内を出ると、庵屋台が3台並んで巡行して来るのが見えた。
 西町、本町、東町の順に鳥居をくぐる。境内には階段があるので、階段の下に並ぶのかと思ったら人力で持ち上げて上まで運んだのには驚いた。
庵屋台01
↑鳥居をくぐった庵屋台は、男たちの手で持ち上げられて階段を上がる。
庵屋台02
庵屋台03

↑神輿堂の前に並んだ庵屋台。

 神輿堂の前に3台の庵屋台が並ぶと、西町、本町、東町の順に庵唄を奉納する。奉納すると屋台は後に下がり、次の屋台が神輿の前に着けられる。
 20分程で庵唄の奉納が終わると、また屋台を人力で持ち上げて階段を下り、3台並んで境内を出て行く。
 本町通りを東町の交差点手前まで来た所で、屋台は別れてそれぞれの町内に帰って行った。

 庵屋台が帰って行ったのが20時頃で、高岡方面行きの電車は20時48分だった。駅前のスーパーがまだ開いていたのでパンを買って駅で食べる。待合室は閉まっていて、ホームのイスに座るが、ちょっと肌寒かった。
 福光駅を20時48分の電車は、戸出駅に21時14分に到着。駅の駐輪場に置いていた自転車に乗り、家へと帰る。夜のサイクリングはなんだか久しぶりだ。

4月18日(木)

 昨日も今日も快晴で、初夏のような陽気だ。トタン屋根の下の2階の部屋は蒸し暑いので、扇風機を回した。

◯シュウウエムラ

 これほど名前が世間に浸透していながら、これほど素顔を知られていない人も珍しいのではないだろうか。日本のメイクアップアーティストの草分けであり、シュウウエムラ化粧品の創業者である植村秀さん。12年程前に一度だけ撮影させていただいた。


 以前、知人のファッション写真家が植村修さんを雑誌の仕事で撮影し、そのプリントをするために家の暗室を借りに来たことがあって、その時に眼光の鋭さを聞いていたので撮影が決まってからドキドキしていた。
 ただ、少しだけ心を軽くしたのが撮影は対談で、対談相手が当時売り出し中の女性気功師・チャン・ツィーだったこと。それまでにも3回ほどスタジオや彼女のサロンで撮影していて、撮影の後に編集者やメイクさんたちと一緒に食事に行き、わりと気心が知れていたからだ。
 撮影は、シュウウエムラのサロンがあった東京ミッドタウンで。現われた植村修さんは想像していたのとは違い、終始穏やかだった。病み上がりのようで、スーツの肩が少し余っていた。ふとした瞬間に、目の鋭さを感じたけれど和やかに撮影は終った。撮影の後、ミッドタウンに入っていたインド料理レストラン「ニルヴァーナ ニューヨーク」で食事をしていると、途中からチャン・ツィーも加わった。

←植村秀さんとチャン・ツィー。2007年8月21日撮影。

 撮影したのが2007年8月21日だったが、4ヶ月ほど経った12月29日に亡くなられてしまった。メディアでの撮影は、ひょっとするとボクらが最後だったかもしれない。
 この撮影から3年ほどして奄美大島に移住したが、チャン・ツィーの訃報を知ったのはその頃だった。結婚し妊娠し、幸せの絶頂の中で彼女は旅立ってしまった。

 新しい五千円札に使われる津田梅子の肖像が左右反転になっているのではないかと指摘されたが、菅官房長官は「問題ない」と口癖のようなフレーズで答弁した。国の紙幣に使う人物の肖像写真が左右反転になっていて、問題ないわけないだろう。作業ミスがあり申し訳ない、作り直しますとなぜ言えないんだろう。
 今年4月から始まった新しい在留資格「特定技能」を使って、東電が外国人労働者を福島第一原発の廃炉作業に従事させようとしている。線量の管理や彼らの安全への配慮が本当になされるのか、とても心配だ。何十年後かに、今の徴用工問題のようにならなければいいが。
 今日の午後、台湾北東部でM6.1の地震があった。

 この他の最近気になった記事を備忘録として。
役員報酬30億円分「不相当に高い」 除染業者の「申告漏れ」認定
日銀総裁、ETF購入「株価安定のため」と言い間違え-直ちに訂正
「セブン-イレブン本部は血も涙もない」店舗乱立で閉店に追い込まれ失踪したコンビニ店オーナー妻が記者会見で訴え
ALSの患者に「時間稼ぎですか?」 文字盤コミュニケーション中、市役所職員の発言に抗議
ジャパンディスプレイ、台湾・中国連合傘下に。中国にOLED工場建設も計画
大聖堂火災に広がる悲しみ 「分断された国民、一つに」
元THE BOOM宮沢和史が「平成」を沖縄と一緒に歩み分かったこと
日銀、日本株の最大株主に 来年末にも公的年金上回る

 昨年の5月27日に撮影した新川神社の御田植祭の様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
御田植祭01
↑早乙女と田男による献饌。↓神饌田での田植え。
御田植祭02

4月15日(月)

 一昨日は西猪谷と楡原の春祭りへ、昨日は婦中へ曲水の宴を撮影に。祭りの撮影に行くと、よく歩く。舟渡、東猪谷、赤井の祭りを撮影した6日は13,122歩、西猪谷と楡原の祭りを撮影した一昨日は13,595歩、ふちゅう曲水の宴を撮影した昨日は13,597歩だった。一日撮影して歩くとだいたい1万3千歩になるようだ。
  今日は一日中、その撮影データを現像。こちらの様子も後々UPいたします。
猪谷の獅子舞
↑13日に撮影した西猪谷の獅子舞。飛騨の方から伝わった金蔵獅子だ。
↓「ふちゅう曲水の宴」の会場である各願寺の蔵に保存されている襖絵。この襖絵が元になってイヴェントが生まれたそうだ。
曲水の宴の襖絵
 今日から福島第一原発3号機の使用済み核燃料プールにある、核燃料の取り出しが始まった

4月14日(日)

 今日は富山市婦中町のふるさと自然公園と、公園内にある各願寺を舞台に「ふちゅう曲水の宴」が行われる。wikipediaの曲水の宴には<水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、盃の酒を飲んで次へ流し、別堂でその詩歌を披講するという行事である>と書かれている。
 テレビのローカルニュースや新聞でイヴェントの様子を見ることはあったが、実際に足を運んだことがなかったので行ってみることにした。事前に問い合わせると曲水の宴は12時45分から14時頃までだが、10時から子供たちのアトラクションや入山行列があるというので少し早めに到着するようにした。
 各願寺への公共交通は路線バスで、長沢新というバス停が一番近いようだが早く着き過ぎたり遅かったりの運行時間しかないので、少し歩きそうだが国立富山病院口に停まるバスで行くことにした。
 あいの風とやま鉄道で富山駅に8時56分に到着。駅前にあるバス案内所で新しい路線バスの時刻表をもらう。
 国立富山病院口に停車する、9時35分発の牛岳温泉健康センター行きバスに乗車。10時3分にバス停に到着するが各願寺の場所がわからない。通りかかった高校生にだいたいの方向を教えてもらうと、長沢の公民館があり、祭りの法被を来た男性がいたので詳しい行き方を教えてもらう。
 これから獅子舞をするのか聞くと、昨日の朝から獅子舞をしていて今朝終ったそうだ。後で公民館の掲示板を見ると昨日の7時に公民館を出て、今日の9時に公民館へ戻る巡行予定になっていた。
 公民館から少し歩くと稲荷神社があり、長沢の獅子舞はこちらの春祭りで踊られたようだ。
 15分ほど歩いて各願寺に到着した。境内にはテントが並び、うどんやそば、五平餅などが売られていた。
各願寺と五平餅
 イヴェントのチラシの裏に内容や時間割などが載っていたので引用させていただく。

各願寺と曲水の宴
 寺伝として曲水の宴をこの各願寺の庭で行ったことが伝えられ、富山藩になってから藩主がたびたび各願寺を訪ね、九重桜のもとで桜花の宴を行い歌をお詠みになりました。また、当時の曲水の宴をふすまにしたものが残っています。「花と歴史の丘」富山市婦中ふるさと自然公園にふさわしい伝統行事として住民参加の「曲水の宴」を復元しました。

曲水の宴あらまし
 参宴者の男性は衣冠(いかん)、狩衣(かりぎぬ)、女性は袿(うちぎ)、十二単(じゅうにひとえ)等。平安貴族さながらの装束を身にまとい、本堂から曲水に向かいます。開宴のことばにつづいて先ず歌題披露が行われ、曲水の舞が奉納されます。いよいよ盃を乗せた羽觴(うしょう)が曲水に流されますと、水辺にいる歌人たちがそれぞれ歌題にしたがって和歌を詠み、短歌にしたためて流れてくる盃を傾けます。最後に披講者が歌をよみあげ、約一時間程で宴が終了します。

日程
10:00〜11:00 アトラクション
11:20〜11:50 短歌表彰(青少年・一般表彰)
12:15       入山行列到着(11:45新町公民館出発)
12:00〜12:15 ご祈祷
12:15〜12:30 開会式、実行委員長挨拶・来賓挨拶
12:30〜12:40 入山行列入庭
12:40〜12:45 歌人入庭
12:45〜14:00 第31回ふちゅう曲水の宴

↓→曲水の広場でのアトラクション、オカリナ演奏。
オカリナ演奏02
オカリナ演奏01
広場と山門
↑曲水の広場(左)と山門(右)。

 日程では入山行列が参道下の公民館から出発する時間になったので撮影に行こうと思ったら、ポツポツと雨が降ってきた。小雨だから大丈夫かな?と思ったが、メインの曲水の宴はお寺の本堂に場所を移すことになったとアナウンスがあった。

↑富山藩主が花見に訪れる様子を再現した入山行列。
曲水の宴

 楽士、童子、稚児巫女に先導されて7人の歌人がお堂に入り着座。
 巫女による「曲水の舞」の奉納の後、今年の歌題である「和」をテーマに歌人たちが短歌を創作。創作している間、本来は曲水に流す盃を乗せた羽觴を抱えた童子が何度か歌人の前を通る。
 短歌が出来上がると、歌人は桜の花びらを盃に入れる。
 最後に男性と女性の披講者が短歌を詠み上げて終了した。

 宴の始まりの来賓挨拶で議員の方が、蔵に「曲水の宴」の様子を描いた襖絵があるので是非ご覧になって下さいと話されていたので蔵に行くと既に鍵がかけられていたが、ぜひ観たいというと開けて下さった。

 帰りのバスは14時33分で、バス停に少し早めに着いて待っていた。少し遅れてバスが到着。真っ直ぐ乗っていけば富山駅に15時3分に着くが、2月に撮影した富山縣護國神社の節分祭の写真とフォトブックを届けるために、途中の旅籠町で下車。
 桜はだいぶ散っていたが、満開の頃はさぞ美しいだろうな〜と思わせる境内だった。社務所に行き写真とフォトブックをお渡しすると、奥の方にいらした宮司さんも出て来られ改めて名刺を交換させていただいた。

護國神社

 帰りは護國神社から富山駅まで歩く。松川べりの桜はずいぶんと散っていた。駅に到着すると、16時丁度の金沢行きが直ぐにあった。

*北日本新聞の記事1記事2、中日新聞の記事

4月13日(土)

 今日は西猪谷、楡原、岩稲地区の春祭りがある。事前に問い合わせたところ西猪谷は夕方頃まで、楡原は夜遅くまで獅子がまわるそうなので、先に西猪谷の獅子舞を撮影に行くことにする。西猪谷は朝9時に獅子が八坂神社に入るというので、それに間に合うように電車の乗り継ぎを考える。
 あいの風とやま鉄道で7時55分に富山駅に到着し、8時の高山線の特急に乗り換える。特急料金の750円がもったいないが、これだと8時37分に猪谷駅に着ける。
猪谷の青年会館
 猪谷駅を出て八坂神社へ行こうと歩いていたら、青年会館から獅子舞の一行がちょうど出てきたところだった。
 9時丁度にお宮に入るように時間調整をして出発する。
 先頭はマムシと呼ばれる露払いの男性二人で、一人は先端の割れた竹を叩き付けてから道を擦りながら進み、もう一人は大きな紙垂を付けた竹を担いで歩く。
 マムシの後に、幟と吹流しの竿を持った男性が続く。
青年会館から八坂神社への道行き
 獅子舞の一行は鳥居に張られたしめ縄をくぐって参道に。まずは3人のオバコ(オドリコ)、2人のササラ、キンゾウ、雄雌2頭の獅子が一緒に踊る「おちゃらか」を奉納。その後、団長が獅子頭に紙垂を取り付けたら、キンゾウ、ササラ、オバコは深く身体を屈めて宮参りをする。
 そして金蔵獅子、曲獅子を奉納。金蔵獅子は、お宮とお寺では獅子に槍は突き刺さないで寸留めにするそうだ。
↓金蔵獅子。→曲獅子。
曲獅子
金蔵獅子
 金蔵獅子のストーリーはどこも同じようで、キンゾウとササラが獅子と戯れ合っていると獅子がキンゾウに噛み付く。ササラがキンゾウを助け起こし、キンゾウは獅子を最後に槍で突く。倒れている獅子をササラとキンゾウが丸めて運ぶ。
オバコの踊り
 獅子舞が終ると、今度はオバコと呼ばれる踊り子が舞を奉納する。歌は「おばこ」「しつちゃえ こつちゃえ」「赤きふりそで」の3曲で、「赤きふりそで」の時は花笠の代わりに烏帽子を被り扇子を持つ。口上を述べたりもするので、オバコがサンバソを兼ねているのかもしれない。3曲の歌詞は以下のようになっている。

「おばこ」
おばこ いくつになる この年 あければ お十七えー あちゃやれ こちゃやれ ゴテツン カカツンェー

「しつちゃえ こつちゃえ」
しつちゃえ こつちゃえ しつちゃえの二階でケンをうつ 勝てばよし 勝たねば お女郎の 買いおさめ しつちゃえ こつちゃえ

「赤きふりそで」
太郎じのかかは どれがそうじゃいの あのかの次の赤きふりそで 赤きふりそで さいよりな さいよりな

直会

 八坂神社の境内でオバコの奉納が終ると、今度は境内の下の方にある秋葉神社で「おちゃらか」とオバコの踊りが奉納された。
 八坂神社の拝殿の中では直会の最中で、9時に獅子舞が到着した時には祭典は終っていた。

←八坂神社の拝殿での直会。
↓秋葉神社への奉納。

秋葉神社への奉納
お寺での獅子舞01

 八坂神社と境内社の秋葉神社への奉納が終ると、今度は隣りの西禅寺へ。
 先ずはお堂の前で「おちゃらか」を舞うと、獅子方も囃子方も本堂に入って休憩をする。
 30分ほど休憩するとお堂の前に太鼓が設置され、両面から叩き鳴らされる。リズムを刻むのが小バイ、力強く打つのが大バイで休憩をした場所でお礼に演奏されるそうだ。

←↓西禅寺での獅子舞。

お寺での獅子舞02

↑大バイ小バイの演奏、金蔵獅子、祝い花の読み上げ、曲獅子の順に行われ、最後にオバコが本堂の中で踊った。

 全ての演目を踊るのは八坂神社、西禅寺、関所館、地区センター、青年会館の5ヶ所だが、その間に集落の端から端を祓って歩き、所々にある会社などの前で「おちゃらか」を踊る。
↓工場の前で「おちゃらか」を踊る。→西猪谷の関所跡。
関所址
工場での獅子舞
関所館での獅子舞01
 いくつかの会社などで「おちゃらか」を踊って、12時半頃に関所館に到着。予定では12時なので30分ほど遅れている。先ずは玄関先で「おちゃらか」を踊り、その後、獅子方と囃子方は館内に入って行った。
 30分ほどして中から太鼓の音が聴こえて来たので2階の広間へ。
 中央に太鼓を設置して大バイ小バイが演奏されていた。人が入れ替わりながら、しばらく叩き続けられた。
関所館での獅子舞02
関所館での獅子舞03

↑大バイ小バイと金蔵獅子。
←花の御礼。

 獅子舞が終ると、花の御礼。口上を猪谷出身の早稲田大学名誉教授で文学博士の先生が披露された。
 花の口上をしばらく聞いてから、楡原の獅子舞を見るため見るため駅へと向かう。楡原は猪谷の一つ富山よりの駅だ。
 13時35分くらいに駅に着くと、既に電車がホームで舞っていた。 

 猪谷から13時43分の富山行きに乗り、 13時51分に楡原駅に到着。耳を傾けるが獅子舞の喧噪や囃子の音色が聴こえないので、駅の近くにあったデイサービスのセンターに獅子舞がどこで演っているか尋ねると午後2時なら楡原公民館で休憩しているか、そろそろ出発する頃だろうというので公民館までの道を教えてもらった。
 10分ほど歩いて公民館に着くと、曲獅子をやっている最中だった。
↓楡原の曲獅子。獅子が肩車で高くなる芸を、楡原では「たかうま」と呼んでいる。
楡原の獅子舞02
楡原の獅子舞01
楡原の獅子舞03

 楡原の獅子舞に登場するシシトリも多彩でサンパソ、キンゾウ、ササラ、アネマ、アネマ獅子がいる。「ぞうげ」では、これら全員揃って踊る。

←そうげ。手前の烏帽子を被り、日の丸の扇子を持っているのがサンパソ。キンゾウは紙垂を付けた竹を持っている。

↓楡原公民館の前にて。青い空の下、白く咲き誇る桜が美しい。

桜と青空
 楡原の獅子舞は朝7時に楡原公民館を出発し、先ずは八幡宮へ参拝奉納し獅子頭に紙垂を付けてもらう。その後、12時30分〜14時30分の楡原公民館での休憩を挟んで21時15分まで班長宅を中心に28ヶ所をまわる。昔はもっと軒数が多く、まわり終わると日付が変わっていたという。
 演目としては最初に総出で「ぞうげ」を踊り、次に「さんぱそ」か「あねま」。そして金蔵獅子、蛇獅子、曲獅子の中から1つか2つを舞う。
楡原の獅子舞04
 獅子舞について歩くと、道の脇に五輪塔がたくさん並んでいた。楡原の獅子舞は八幡宮の春の祭礼のために行われるので、獅子舞撮影の途中に八幡宮へ寄って来た。
↓→楡原の八幡宮。
八幡宮02
八幡宮01
楡原の獅子舞05
帰りの高山線

↑八幡宮の境内から移動する獅子舞の一行を撮影(左)。アネマとアネマ獅子による「あねま」。

 16時半頃まで獅子舞の見学をし、楡原を17時27分に出る富山行きの電車に乗るため駅に向かう。車内には猪谷の獅子舞で花の御礼を述べられた文学博士の先生が乗車されていた。
  富山駅に18時19分に到着して、18時42分のあいの風とやま鉄道の金沢行きに乗り換える。

4月12日(金)

 今日から明後日の日曜日まで、富山の職人がかかわって製作した高野山・金剛峯寺に奉納する唐櫃が、高岡市立博物館に展示されるというので午前中から電車に乗って観に出かけた
 唐櫃とは脚が4本ないし6本ついた蓋付きの箱で、貴重な物を収納する家具だが、お寺や神社の祭具でもあり、ご神体を納めて御旅所へ渡御する時に使用されたりもする。
 高岡御車山の宵祭りの日に二番町が神迎えする際や、通町の夏祭りに関野神社に預けてあるご神体が町内に里帰りする時にも唐櫃に納めて運ばれる。
 今回制作された唐櫃は職人たちの技術を結集したもので、螺鈿細工や彫刻、金箔、漆、彩色、組子など贅を尽くしたものになっている。
 中でも目を魅いたのは唐破風の屋根で、展示を観に行った時に棟梁がいらしたので聞いてみたが、たぶん唐破風の屋根が付いた唐櫃はこれだけだろうと言うことだった。そして唐破風の屋根は檜皮葺きになっている。
 檜皮葺きは日本古来の屋根葺きの手法で、檜の樹皮を少しずつズラしながら重ねて竹釘で固定する。富山で檜皮葺きの技法を使った屋根は、勝興寺の唐門と岩峅寺・雄山神社の本殿の屋根ぐらいだと思われる。
唐櫃01
唐櫃02
岸渡川の桜

↑高岡市立博物館で展示された唐櫃。

 30分ほど唐櫃を観て写真を撮らせてもらったあと、射水神社に参拝し11時4分の電車で帰って来た。
 昼ご飯を食べてから、ミュゼふくおかカメラ館で明後日まで開催している『ワンダーフォト写真展』へ。
 福岡町のさくらまつりは先週だったが、カメラ館の前の岸渡川(がんどがわ)の桜は今が満開だ。

4月11日(木)

 昨日、桜田義孝五輪相が東日本大震災の被災地を地盤とする自民党衆院議員のパーティーで、復興より議員が大事という趣旨の発言をし、直後に更迭された。これまでの様々な失言もあり更迭は当然だが、今回の”復興より議員が大事”で思い出したのが、昨年夏の西日本豪雨の際に国会議員宿舎で開かれた「赤坂自民亭」のどんちゃん騒ぎだ。
 桜田大臣の場合は発言だけだが、赤坂自民亭のどんちゃん騒ぎは豪雨災害が発生している中で、実際に宴会をしており、より非常識極まりないと思うが誰一人更迭されていない。何を今さらというしかない。

 災害と言えば、豚コレラの感染が止まらない。一昨日は岐阜県で14ヶ所目の感染が確認され約4000頭が殺処分され、昨日は愛知県内で7例目となる感染が見つかり約4500頭が殺処分された。
 確か自民党は災害対策に強い国造りを重点政策に掲げていたが、すでに民主党時代の家畜伝染病の口蹄疫よりも長期間の感染拡大となっている。

 政府は昨日、原発事故で全町避難が続く福島県大熊町の避難指示について、放射線量の高い帰還困難区域を除いた地域の避難指示を解除した。しかし、国連は昨年の10月に原発事故の汚染地域に女性や子供が帰還することについて、被曝の懸念から見合わせるよう日本政府に求めている
 今年3月13日、心臓病研究の世界的権威「アメリカ心臓協会」が発行している国際科学誌「ジャーナル・オブ・ザ・アメリカン・ハート・アソシエーション」が「福島原発事故後の複雑心奇形の全国的増加」と題した研究論文を掲載したが、そこには原発事故後、先天性心疾患の手術件数が14%増加したことが書かれているそうだ。また、「停留精巣」と呼ばれる睾丸の位置に異常がある精巣を持って生まれた乳児が原発事故後に増加していることがわかったという。

 山本太郎参議院議員が昨日記者会見を開き、自由党を離党して自らの政治団体「れいわ新撰組」を結成したと発表した。ロゴマークには肉球があしらわれているが、肉球新党の傘下に入るのだろうか(笑)。れいわ新撰組のサイトはこちら。政策がこちらに記載されており、どこまで実現出来るかは不透明だが主張の多くは真っ当だ。

 この他の気になった記事を備忘録として。
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留学生大量失踪の東京福祉大、元教授が緊急会見。元総長が「120億のカネが入るわけだよ」と会議で発言。金儲けのために留学生受け入れか
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F35爆買いについて質疑まとめ 共産党・宮本徹氏

 昨年の5月25日に撮影した於保多神社の鷽替え神事の様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
鷽替え神事01
↑祭典で奉納された宮司による舞楽「蘭陵王」。↓境内に集まった参拝客が鷽の土人形を交換し合う鷽替え。
鷽替え神事02
 高岡の老舗デパート、高岡大和が8月25日で閉店すると発表があった。北日本新聞がwebで号外を出した。

4月8日(月)

 3月は花粉が怖くて用事が無い限りは家に閉じ篭っていたが、一昨日は久しぶりに春祭りの撮影で一日中外に出ていた。午前中は舟渡にある素盞嗚社の春祭り、昼過ぎからは東猪谷にある素盞嗚社の春祭り、夕方からは射水市赤井の親子獅子の撮影。ずっと晴れで天気に恵まれたが花粉もたくさん飛んでいたようで、家に帰ってからクシャミと鼻水と鼻づまりでコテンパンにやられた。
 お祭りを3つもハシゴしたので撮影したカット数も多く、昨日は午前中に県議会議員選挙の投票に行った以外は家に、今日は丸々家にいて現像作業をしていた。
 6日に撮影した春祭りの様子も後々UPいたします。
舟渡の湯釜神事
↑舟渡の素盞嗚社で行われた湯釜神事。釜の中の熱湯を、熊笹を束ねたもので参拝者に振りかけて祓い清める。
↓親子獅子で知られる赤井の獅子舞。写真は招待花の家で行われた子獅子の演目。親は百足獅子だが、子は二人立ち。
赤井の親子獅子

4月6日(土)

 岐阜県との県境に近い旧大沢野にある舟渡と東猪谷の素盞嗚(スサノオ)社で、春季例祭が行われるので撮影に行く。祭主を務められるのは新川神社の舩木宮司で、メールで問い合わせたところ舟渡の素盞嗚社が10時から、東猪谷の素盞嗚社が13時30分からだと教えていただいた。
 舟渡と東猪谷にある素盞嗚社の春季例祭を知ったのは、昨年の11月に神通峡の紅葉を撮影に猪谷まで来た時に、神通川を渡った舟渡で素盞嗚社と書かれた神社を発見したからだ。家に帰って検索すると新川神社のホームページにあるゆかりの神社に辿り着いたので、新川神社の舩木宮司にお会いした時に湯釜神事の事などを教わり一度撮影してみたくなった。 

 あいの風とやま鉄道に乗り、7時55分に富山駅へ到着。ホームの高架化が完了しており、高山線の乗り換えにちょっと戸惑った。
 8時18分の猪谷行きに乗車して、終点の猪谷に9時6分に着いた。改札を抜けて真っ直ぐ歩き、神通川を渡れば舟渡の素盞嗚社だ。
 素盞嗚社の手前にある小さなスーパーで、メロンパンを1つ購入して神社に向かう。
↑猪谷駅。↓神通川。→舟渡の素盞嗚社。
舟渡の素盞嗚社01
 拝殿に行くと氏子の方が一人、準備をされていたので新川神社の宮司さんに許可をいただいて撮影に来たことを告げる。しばらく準備中の湯釜や、素盞嗚社の裏にある秋葉神社、その斜め後ろに鎮座する不動明王などを撮影していると舩木宮司も到着された。後で氏子の方に聞くと、不動明王像は山の上の方にあったがお年寄りが参拝出来ないので今の所に降ろしてきたそうだ。
舟渡の素盞嗚社02
↑上段左:素盞嗚社の社殿/上段右:準備中の湯釜/中段左:秋葉神社。奥に見える小さな社には秋葉権現=烏天狗の石像が祀られている/中段右:不動明王像/下段左:湯釜の上に麻ひもで紙垂を吊るす/下段右:完成した湯釜。
 新川神社のホームページにある舟渡素盞嗚社の紹介ページに<いつの時代も変わらないのは子孫繁栄と夫婦円満を願う心で、境内に小さいながらも男根崇拝の物が祀ってある>と書かれていたので探してみたら、社殿に上がる階段の脇、スサノオノミコト?を祀った祠の隣りにそれらしい石が3つ並んでいた。氏子の方に聞いたところ、昔はもっとリアルな形の石があったそうだが、盗まれたそうだ。
↓男根石。→スサノオノミコト?
スサノオ?
男根石
社殿での祭典
 集落の方々も集まり、10時から祭典が執り行われた。神楽太鼓、修祓、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌、神楽太鼓。今年は五穀豊穣、集落の安寧を願う祝詞の他に、御代代りと新元号を報告する祝詞も奏上された。
 社殿での祭典が終了すると、いよいよ境内に設営された湯釜での神事が行われる。湯釜については東猪谷の素盞嗚社のページに<湯釜、湯立て神事の由来は古く、「日本書紀」に「深湯(くがたち)」の記事が見え古代民族の間で広く行われた「神の裁判」の一種。室町時代には湯起請(ゆ ぎしょう)にと変化し、同幕府の法定証拠の方法とされていた。この流のひとつとして平安時代以降の文献には湯立てのことも見られる。湯立て神事は清めのた めと神懸かり状態になり、託宣を聞こうとする二つタイプがあり、神楽が入るところもある。著名な物には岡山県吉備津神社の釜鳴神事、長野県下伊那・遠山の 湯立て神事がある>と書かれている。
湯釜神事01
 神社によって湯釜神事の行い方は異なるようだが、こちらは宮司が手にしている熊笹を束ねたものを釜の中の熱湯に浸し、それを3回参詣者に振りかけて祓い清める。その後、各自が湯釜の上に吊るされた紙垂を千切って湯に浸し、自分の身体の具合の悪い所や良くなりたい所に擦り、擦った紙垂を境内にある木に貼付ける。
 力一杯投げつけるとペタンと付くようだが、年配の方が多いので樹皮の間に挟んでおられた。
湯釜神事02
↓身体に擦った紙垂を樹皮に挟む。→変色した昨年のものと思われるのも残っている。
湯釜神事04
湯釜神事03
直会
 湯釜神事の後、拝殿で直会が行われた。お神酒を少しいただき、赤飯や昆布じめ、フライ等をご馳走になった。
 舟渡の素盞嗚社のページに<舟渡のお宮と東猪谷のお宮は、ともに素盞鳴(スサノオ)社ですが、この二村の神は、実は夫婦神で東猪谷が女神、舟渡は男神だと言われています>という記述がある。直会の席で氏子の方に尋ねてみたところ、舟渡の神社が前立て、東猪谷の神社が中立て、集落の奥に聳えるキラズ山(不伐山)が奥宮だと伝わっているそうだ。何となく雄山神社の岩峅寺の前立社殿、芦峅寺の中宮祈願殿、立山の峰本社を思わせる話しだ。
 直会が終ったのは11時半頃だろうか。次の東猪谷の素盞鳴社は13時30分からで、まだ時間はたっぷりある。舟渡から東猪谷までは歩いて行こうと思っていたが、舩木宮司の車でご一緒させてもらう事になった。
東猪谷の素盞嗚社
 歩けば30分ほどかかったかもしれないが、車ならあっという間だ。
 神事までは時間がたっぷりあるので、社殿や拝殿の写真を撮って過ごす。拝殿の壁には20年に一度行われる百万石大名行列用と思われる纏が並んでいた。
 大昔は20年ごとに社を造りかえていたようだが、現在は一部分を新しくするだけのようだ。昔は造りかえられるほど裕福な村だったのか宮司さんに尋ねると、宮自体が小さく安普請だったのではないかという。
道きりのしめ縄

↑拝殿の壁に並んだ、百万石行列用と思しき纏。

 しばらくすると氏子の方が長いしめ縄を持っていらした。この縄に宮司が紙垂をつけ、神事の後に村の入口3ヶ所に張るという。「道きり」というそうで、しめ縄を張って魔物や疫病の侵入を防ぐのだろう。沖縄にも同じようなシマクサラシという風習があり、しめ縄に牛肉や骨などをぶら下げる。

 道きりについて、東猪谷の素盞嗚社のページには<「道切り」は道祖神、塞(さい)の神と機能はほぼ同様。この呪術の由来は古い竜神信仰に発しており、各地では蛇綱、福井県大飯町では勧請縄、鹿児島県山川 村ではトキ(斎)の網と呼ばれている。竜神信仰の起源が示すように綱は引いて回る動的な物から道切り綱のように静的なものに移行。このような変化によって 竜神信仰は道切りと変化していった物と見られる>と書かれている。

 道きり用のしめ縄が出来ると、今度は境内に設置された湯釜の準備。釜の四囲に立てられた青竹の中が結界で、その中に麻ひもで紙垂を吊るす。

↓→神事に使う湯釜の準備。
湯釜の準備02
湯釜の準備01
湯釜神事01
 拝殿での祭典は13時30分に始まり、20分ほどで終了した。
 宮司も氏子の方々も境内に出て湯釜を取り囲む。舟渡と同じく、熊笹で3回宮司が熱湯を振り撒いた後、各人が紙垂を湯に浸し無病息災を願い身体に擦り、近くの大木に引っ付ける。
 この湯釜神事は舟渡、東猪谷の他、小糸集落の八坂神社、町長集落の町長神社で行われている。何れも旧大沢野地区の下タ南部と北部にある神社だ。
湯釜神事02
直会
←直会の様子。

 ところで舟渡と東猪谷の素盞嗚社は、元は八坂社だったが現在の宮司の父、舩木信敏氏が八坂社は素盞鳴尊を祀ってあるので、昭和10年頃に社名を素盞鳴社に変更するよう神社庁に届けたそうだ。
 舟渡の神通川を挟んで反対側にも八坂神社があり、猪谷と楡原の間にある片掛にも八坂神社がある。神通川領域のこの地域で昔疫病でも流行って、その時に各村が京都の八坂神社から勧請してきたのだろうか?
 拝殿で直会が催されている間、近くの公民館では獅子舞の準備が行われていた。東猪谷の獅子舞は、飛騨から伝搬したと思われる二人立ちの金蔵獅子だ。
↓獅子頭は雄雌の2頭。黒ラシャが貼られ、後ろ側にたくさんの鈴が付いている。
獅子舞の準備
獅子方の記念写真
 獅子舞の前に記念写真を撮らせてもらった。前列がオドリコ2人、中央がキンゾウ、その両脇が獅子、両端がひょっとこのお面を被ったササラ、黄色い着物を身につけた天狗。ササラは女の子が演っていたが、踊り子も含めて昔は男の子だけで演じていたそうだ。
獅子舞01
獅子舞02
←拝殿で参拝するキンゾウ(手前)。

 公民館の前で「みちびき」を踊り、参道へ。宮司より獅子頭に紙垂を付けてもらい、ここでもみちびきを踊る。その後、踊り子以外は拝殿に入り参拝する。そして獅子舞の奉納が行われた。
 最初に二人のオドリコが「おちゃらか」「とっちり」など3曲を披露。
 次に、「キンゾウ獅子」「曲獅子」が行われた。
獅子舞03
↑オドリコによる踊りの奉納。
獅子舞04
↑キンゾウ獅子。↓→曲獅子。曲獅子は曲芸獅子だろうか。
獅子舞06
獅子舞05
獅子舞07
 獅子舞は1時間近く演じられた。獅子方一行は神社を後にして公民館に戻り、公民館でも獅子舞をするそうだ。
  公民館の獅子舞も見たかったが、今日は射水市の赤井でも親子獅子がある。
 新川神社の広報をされている川嶋さん夫婦が、赤井まで車で乗せて行って下さる事になり、神社を出発。しばらく走ると村の入口に道きりのしめ縄が張られていたので、車を止めてもらって撮影。

↓村の入口に張られたしめ縄。
村の入口に張られたしめ縄
 射水市赤井の親子獅子は、神楽岡神社の春季例大祭で舞われる。ネットの情報では朝8時30分に神社を出発して、23時頃までとなっていた。
↓母親の百足獅子の後から、子獅子が出てくる。→子獅子は二人立ちの獅子舞をする。
赤井の親子獅子02
赤井の親子獅子01
赤井の親子獅子03
 15時40分頃に東猪谷を出て、赤井には17時頃に到着した。電車で移動していたら到着するのはずーっと後なので、車に乗せていただいて感謝!
  獅子舞がどの辺をまわっているか分からないので、とりあえず神楽岡神社に行くと、ちょうど境内で獅子が舞っていた。タイミング良く、親獅子から子獅子が出てきて、曲獅子のような演目を披露する。10分ほどで舞が終り、獅子方は隣りのコミュニティーセンターへ食事と休憩に入って行った。
神楽岡神社
↑神楽岡神社。

 18時半まで休憩だというので、神社の写真を撮ったり舟渡のスーパーで買ったメロンパンを食べたりして過ごす。境内には赤井の親子獅子について書いた案内板があった。

親子獅子     昭和六十一年六月十八日指定

 神楽岡神社の春季例祭に奉納される。伝承不詳。親獅子から生まれた子獅子が舞う。跳んだりはねたり、逆立ちしたりの演技は、千じんの谷に落とされた子獅子の生命力を表現し、未来への若い生命力の躍動を象徴する。ユーモラスに時には厳粛に演じられる親子獅子の舞には、子孫繁栄と豊作祈願がこめられ、幾世代も受け継がれてきた。これは「古事記」伝えられる祭神の誉田別命・ほんだわけのみこと(応神天皇)と息長帯比売命・おきながたらしひめのみこと(神功皇后)の故事に因んだ古い行事として文化的価値が高い。
 また、飛騨や能登獅子の芸能をとり入れ保存されていて、民俗の変化推移過程を見る上でも大変貴重である。
                                               射水市教育委員会

『とやまの文化財百選シリーズ とやまの獅子舞』には、<百足獅子と二人立ちの二頭立ての親子獅子。母獅子の腹から子が生まれる場面を演じる「子獅子出し」が特徴的。在来の射水獅子に飛騨金蔵獅子が取り入れられた県内でも特殊な芸態の獅子舞。市の無形民俗文化財に指定 開催日 4月第1土曜日>と紹介されている。

赤井の親子獅子04
 18時30分になって獅子方、囃子方がコミュニティーセンターから出てきた。これから夜の家まわりで、何軒か招待花もある。子獅子が出てくる演目は招待花の家でやるそうだ。また、子獅子ころしも招待花の家で行うかもしれないという。母獅子ころしも演目としてはあるが、もうずっと行っていないそうだ。
 神社での獅子舞の時にはいなかった、黒衣を着て瓢箪とスリコギをぶら下げている道化と、着物におかめの面を着けシャモジを持った道化が登場したので写真を撮らせてもらった。若い獅子方はヒョットコとオカメと呼んでいるが、囃子方の年配の男性に話しを聞くと、黒衣の方はスリコンボと呼んでいたという。
赤井の親子獅子05

 摺り子木を持っているからスリコンボなのだろうが、富山県教育委員会編の『富山の獅子舞』にはスリコンボのことを新湊の塚原地区では願念坊というらしい記述があるので、願念坊の渾名のようなものかも知れない。この男女の道化も今はヒョットコとオカメの面だが、昔は下新川地区のようにジジ面とババ面を被っていた願念坊かもしれない。伝言ゲームのように、保存しているつもり、継承しているつもりが少しずつ芸能が変化している可能性はある。

赤井の親子獅子06

 獅子舞について5軒ほど見て歩いた。5軒目で子獅子ころしも見れたし、午前中から祭りを見て歩いて疲れたので帰ることにする。もう20時半頃だ。駅まで30分ほどかけて歩くと、21時9分発の金沢行きがあった。さほど待たずに電車に乗れてホッとした。

『富山の獅子舞/富山県教育委員会編』に、東猪谷の獅子舞についての記述があったので掲載させていただく。
東猪谷の獅子舞
沿革・現状
 戸数七一戸、昔から関所のあった国境であり、獅子舞にも一種のプライドを持っている。獅子舞伝承は不詳。獅子頭は従前のものと同じものを作らせたといい、雄雌二頭あり共に黒ラシャ張りである(昭和三十年井波彫)。幕は麻、色は黒に赤の立髪染め二人入り。太鼓は台あり。着流し襷がけ、笛は七、八人で着流し。獅子あやしは、キンゾウ(一人)鳥毛を挿し前正面に金梅鉢の紋をつけた兜、野良着型の筒袖、股引姿に金襴の長い腹掛けを着て上から帯を締める。桃太郎面をつけ頬被りをしササラ(二人)はひょっとこの面に頬被りズッケン(頭巾)を被る。着物はキンゾウと同じ。道化役の天狗(一人)は、服装は他と同じだが腹掛けをつけない。ともに青年が演じる。他にオドリコ(三人)、花笠に短冊をさげ、鉢巻をし、男装二(男児)女装女一である。

種類・採り物
◯みちびき
 揃い踏み(他所ではダイモンサキという)笛ゴンゲノサカサカから入り、キンゾウはバイ、ササラはササラ、オドリコは手笠(花車)を振って舞う。
 神社で祝詞を受け、湯立て神事を行ない晴れのときは一々宮拝殿から振って出て外で舞う(布尻も同じ。他所では全部前庭に出る)。
◯サンバソ
 オドリコ三人のうち、中の一人だけが金銀縞に日月模様の烏帽子を被り、他の二人は花笠姿に日の丸扇子を持って舞う。唱えごと「おーさいや〜、よろこべおれや〜、わが思う処より、ほかへはやらず、ほんもー〜」と唱えてから舞う。
◯キンゾ獅子
 キンゾウは前半バイ(岐阜県でバイといい、婦負郡でダンズルという)後半ヤリを持ち、ササラ(二人)はササラを持つ。キンゾウは常に頭の正面で獅子を操り、ササラは胴横と後で舞う(岐阜県では佐々良金蔵といい、これは獅子の追出し役という)獅子は雄が出る。どちらを向いても振り方は一緒だが、ここの獅子は一笛四つ振りで獅子あやしの前技が多い。ストーリーは前後両方のノミを取ったりしているうち、キンゾウを噛み倒すのでササラがこれを介抱して助けキンゾウが素手でねじ伏せ、ササラと協力して槍で止めをさし、まるめてしまう。
◯きょく獅子
 ササラ(二人)がササラを持って操る。キンゾウは出ない。獅子は雌が舞う。順序は大体たたいたりしょう(後足が前へひっくりかえって獅子頭を後足が叩く「じゃんじゃん」ともいう)後がえし・抱き車・投げ掛け・高つぎ・後ぞり・高つぎ・とんだりしょう、左、右ころがって(ささらもころがる)終り。各芸に◯◯しようと「しよう」をつける。

4月5日(金)

 今日は風が強かったが気温も上がり、高岡でも20℃を越えたようだ。

 新元号「令和」の考案者ではないかとされている万葉集研究家の中西進さんが、「朝鮮半島から日本に来た渡来人が万葉集に載せられた日本の歌に大きな影響を及ぼした」という持論をお持ちだという中央日報の記事が流れてきた。
 中西さんは2010年に北海道で開かれたシンポジウムで「(三国時代の末)朝鮮半島で百済と高句麗が滅亡し、多くの人たちが日本に渡ってきた。その当時(渡ってきた)渡来人が万葉集に大きな影響を及ぼした」と述べたとも書かれている。
 この記事を読んで、昨年自分で書いた「五箇山の入谷(イリタン)、沖縄の読谷(ヨミタン)」という文章を思い出した。
 以下が、その文章です。

 4月の終わりに春祭りの撮影で何日か五箇山に通った。その時に入谷や梨谷という集落があるのを知った。年配の方はそれぞれイリタン、ナシタンと呼ぶそうだ。そう言えば黒部市の東布施地区は布施谷と書いてフセンタンと呼ばれているのを、昨年撮影に行って知った。
 谷と書いてタンで真っ先に思い浮かぶのは沖縄で、地名の「読谷村」はヨミタンソンだし雑踊の有名な演目「谷茶前」はタンチャメーと発音する。
 沖縄や奄美には、日本の古語や昔の発音が残っていると言われる。例えば日本語の花は1000年ほどかけてパナからファナ、ハナへと変化したそうだが、奄美や沖縄の一部の地域にその発音が残っている。
 谷=タンもそういった部類だろうかと検索してみたところ、谷をタンと発音するのは高句麗語で北陸、山陰に多いと書いてあるブログが見つかった。
 高句麗語は高句麗(紀元前37ー668年)で使用された言語で、中期朝鮮語よりも上代日本語との方が類似性が見いだされるそうだ。奈良時代前の言語だが、仏教と一緒に日本に入り伝わったのだろうか。
 その高句麗語である谷=タンが、平安時代になって源氏や平家によって奄美や沖縄に伝わったのかも知れない。時代を経て谷はタニに変化したが、離島や山間部で残った。そんな想像(妄想?)を楽しんでいる。

 雅楽も中国や朝鮮から伝わったものだ。「令和」という言葉の出典を巡ってネット上では右派左派ともに陰謀論のようなものをまくしたてているが、言葉や芸能を日本独自のものだと無理矢理主張する必要はないように思う。
 琉球弧の島々を歩くと、大和と中国の文化がなだらかなグラデーションを描いているのを肌で感じる。たぶん気づいていない、知らないだけで本土にもアジアから黒潮に乗って来た様々な文化や芸能が重層的に広がっているのだろう。「令和」という言葉や「万葉集」をきっかけに、そうしたものを紐解いたり思いを馳せることの方が有意義な気がする。
 それにしても、中央日報の記事には作家の柳美里さんのツイッターも紹介されていたので見にいったが、彼女のツイートにぶら下がっているコメントが酷い。コメントしている人達、自分で書いてて恥ずかしくないのだろうか。

相倉の春祭り
↑五箇山・相倉集落の春祭り。2018年4月21日撮影。
 昨年の5月20日に撮影した利屋町の天神祭りの様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
利屋町の天神祭り01
↑本祭りでは子供神輿にご神体の神籬を安置し、子供たちが町内を引いてまわる。
↓龍雲寺に設けられた天満宮の前で僧侶の読経、関野神社の酒井禰宜による祝詞奏上が行われる。
利屋町の天神祭り02

4月4日(木)

 今日は昼前から晴れてきて、気温も少し上がった。

◯主人すらいない奴隷

 塚田一郎国土交通副大臣が本州と九州を結ぶ道路事業の調査で、安倍首相と麻生副総理の意向を忖度したと発言し、国会で追及を受けて「我を忘れて事実と異なる発言をした。行政の信頼性をゆがめた」と陳謝したそうだ。
 本来は勝手に名前を出された安倍首相と麻生副総理が一番憤怒しなくてはならないと思うが、安倍首相は「発言は問題だが、本人が説明し、このことを肝に銘じ職責を果たしてほしい」と塚田氏を続投させるようだ。
 「我を忘れて事実と異なる発言」をする人が、果たして職責を果たせるのだろうか。

 この塚田氏の件は顕著だが、この2〜3年に政界を賑わしている出来事を思うと、福島第一の事故の際に作家の金原ひとみさんが書いた「制御されている私たち 原発推進の内なる空気」(東京新聞)という文章が甦ってくる。
 それは、こんな文章で締められている。
<私たちは原発を制御できないのではない。私たちが原発を含めた何かに、制御されているのだ。人事への恐怖から空気を読み、その空気を共にする仲間たちと作り上げた現実に囚われた人々には、もはや抵抗することはできないのだ。しかしそれができないのだとしたら、私たちは奴隷以外の何者でもない。それは主人すらいない奴隷である>

 忖度という言葉が流行語のように使われ出したのは最近のことだと思うが、主人すらいない奴隷とは正に忖度だろう。

西普天間住宅
↑返還された西普天間住宅。2014年3月19日撮影。
 沖縄のファミリーマートで、上間弁当天ぷら店の天ぷらを試験販売しているそうだ。沖縄の天ぷらは衣が厚くて、天ぷらというよりフリッターといった感じだろうか。天ぷら屋はもちろん、スーパー、弁当屋、魚屋でも売っている。那覇の上之屋に住んでいたが、たぶん半径500m圏内には何十と天ぷらが買えるお店があったと思う。安いところだと1個30円くらいなので、沖縄の人は小腹が空いた時におやつとして食べていた。
 ゆいレールの古島駅の前に古島団地という古い団地があった。立退きを巡るトラブルで半分廃墟のようになったいたが、その後和解が成立したのか取り壊されてアクロスプラザ古島駅前という商業施設が造られたが、その施設の中核となるリウボウフードマーケット古島マルシェが今月の30日で閉店するそうだ。
 取り壊される前の半分廃墟のような古島団地の様子がこちらに。

 昨年の5月14日に撮影した六渡寺の獅子舞の様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
六渡寺の獅子舞01
↑獅子と天狗の緊張感溢れる丁々発止で、噂に違わず見事な舞だった。↓夜は招待花の家で舞う。写真の演目はヨソブリかな?
六渡寺の獅子舞02
 ピエールが出てきて、ゴーンがまた入った。なんだこれ。

4月3日(水)

 しばらく暖かい日が続いて春の訪れを感じていたが、昨日から急に季節は逆戻りして4月なのにまさかの積雪。富山で4月に1センチ以上の積雪があったのは、2006年以来13年ぶりだそうだ。今日は積雪はなかったが、朝はチラホラと雪が舞っていた。下の写真は部屋の窓から撮影した、昨日のお昼前の様子。
4月2日の積雪

◯富山と大伴家持

 新元号の「令和」の2文字が万葉集からの出典と言うことで、俄に万葉集やその編纂にあたった大伴家持も脚光を浴びている。昨日は県内ニュースで大伴家持の子孫であると言われる放生津八幡宮の宮司、大伴泰史氏が登場し、家族の系譜を記した『系譜紀(けいふき)』を開帳されていた。
 県内には、大伴家持の子孫ではないかと言われている系譜がもう一つある。福岡町木舟にあった木舟城の城主、石黒成綱(いしぐろなりつな)の石黒家だ。
『とやま民俗文化誌/富山民俗文化研究グループ編』(シー・エー・ピー)には、以下のような記述がある。
家持はしばしば奈呉の浦に行った。かつての奈呉の浦の地に鎮座する放生津八幡宮の宮司である大伴家が、代々家持の子孫を名のり現在に至るという。昔の三島野、現在の射水郡大門町広上に住む大伴家は、家持が真田仲好の娘深雪を愛し、その二人の間にうまれた為信が、同大伴家の祖先であるという。天正年間、現在の西砺波郡福岡町の木舟城で、織田信長に殺された石黒左近蔵人成綱も、家持の子孫といわれている。左近大夫持豊以下、代々、現在の西砺波郡福光町に住み、持豊の子、持定と名のり、砺波一帯に在地武士団として勢力を持った、石黒氏の祖も家持の子孫といわれている

 大伴家が宮司を務める放生津八幡宮は、746年(天平18)に家持が大分の宇佐神宮から勧請して創建したと言われる。

大伴宮司と放生津八幡宮
大伴家持の子孫だとされる放生津八幡宮の大伴宮司と、放生津八幡宮。2016年10月2日撮影。
 氷見にある伊勢玉神社の創建年代は不明だが、伊勢玉神社の前身である有磯宮は749年(天平19)に大伴家持が社殿を造営したものだと言われている。宮司の鈴木瑞麿さんは、万葉研究家の肩書もお持ちだ。
伊勢玉神社。1月2日に行われる奉射式で弓の手解きをする鈴木宮司。
鈴木瑞麿宮司
 大伴家持が国守を務めた越中国の国府だった伏木にある越中一宮の氣多神社の境内には、家持の没後1200年を記念して、昭和60年に建立された大伴神社がある。
氣多神社と大伴神社
氣多神社(右)と大伴神社(左)。
 氣多神社には家持の詠んだ歌碑も建立されているが、県内では他にも越中国の国衙(役所)の所在地だったと考えられている勝興寺にも3つの歌碑がある。また、勝興寺の前には大伴家持像があり、近くには家持が国守として住んだ館の跡とされる場所に造られた気象資料館(旧伏木測候所)もある。
↓→勝興寺と、寺の前に建立されている大伴家持像。
大伴家持像
気象資料館と越中国守館址の碑
家持が国守として住んだ館の跡に造られたとされる気象資料館と、敷地にある「越中国守館址」の碑。
 江戸時代まで尻打ち祭りという奇祭が行われていたことで知られる婦中町の鵜坂神社には、大伴家持が売比河(現在の神通川)に立ち寄った際に鵜飼の様子を詠んだ和歌の歌碑が建立されている。また、鵜坂神社の裏手にある神通川の土手にも家持の詠んだ歌碑が建てられている。
鵜坂神社と歌碑

鵜坂神社と、境内に建立されている家持の歌碑。
神通川の土手にある家持の歌碑。

 宇奈月町浦山にある鶏野神社にも家持が詠んだ歌碑と、家持が植えたと伝えられる桜がある。
 『とやま民俗文化誌/富山民俗文化研究グループ編』には<大伴家持が国内巡視の折、現在の宇奈月町浦山の鶏野神社で宿をとり、そこで夜を明かした。その時、「鶏の音も聞こえぬ里によもすがら月より外に訪ふ人もなし」という歌を奉納し、翌朝、家持が桜を手植えしたので、その桜が「月訪の桜」と呼ばれるようになった>と書かれている。
 浦山公民館のホームページによれば、桜の木は一度台風により倒木したが、もとの桜の子が2代目として現存し、市指定の文化財となっているそうだ。また、当時は鶏野神社ではなく熊野権現と呼ばれていたようだ。
 この他、県内には106の歌碑があると言われている。

神通川の土手にある家持の歌碑
鶏野神社と売比河鵜飼祭
浦山の鶏野神社(左)と、鵜坂の売比河鵜飼祭(右)。
 大伴家持にまつわるイヴェントとしては、先に触れた家持が売比河(現在の神通川)に立ち寄った際に鵜飼の様子を詠んだ和歌「売比河の 早き瀬ごとに篝(かがり)さし、八十伴の男は 鵜川立ちけり」に因み、婦中町鵜坂で1998年(平成10)から開催している売比河鵜飼祭がある。
 そしてもう一つ、高岡古城公園を中心に行われる「高岡万葉まつり」という大きなイヴェントがある。メインの催し物である「朗唱の会」ではお掘りの上に浮かべた特設ステージで、連続三昼夜をかけて万葉集全20巻4,516首の歌をリレー形式で歌い継ぐ。このイヴェントは平成元年に「富山県コロンブス計画」の一環として富山県で実施された「県民参加型イベントシナリオコンペティション」の入賞作品で、高岡市が採用したものだ。
朗唱の会
高岡万葉まつりのメインイヴェント、朗唱の会。
 大伴家持の父・旅人の邸宅があり、そこで開かれた宴で詠まれた和歌からの出典と言うことで太宰府には多くの観光客が訪れているそうだ。
 そういえば、太宰府には菅原道真を祀った太宰府天満宮がある。菅原道真は加賀藩主・前田家の祖先だとも言われている。必ずしも姉妹都市や友好都市になることが良いことだとは思わないが、市長や市議は一度何か一緒に出来ることはないか訪ねてみることはしないのだろうか?

4月1日(月)

 今日の午前、「令和」という新しい元号が発表された。聞き慣れない言葉だけれど、しばらくするとスッキリした言葉だなと思えてきた。後味がスッキリした端麗な吟醸酒といった感じだろうか。そうすると昭和が純米酒で、平成が本醸造酒に例えてみたくなったが、まあ、個人の勝手なイメージです。ただ、ニュースによると中国で昨年「令和」という漢字がアルコール類の商品名として商標登録されたそうだ。
 SNSでは元号不要論のような意見もいくつか流れてくる。西暦で事足りることが多いのは確かだし、ひょっとすると元号がなくても事務作業には困らないかもしれない。元号が変わった今日、外務省が和暦をやめ西暦の原則使用を検討するという記事が出るのがその証左だろう。
  個人的には元号というのは、暦というだけではなく物事や人が存在した時空を示す記号でもあると思っている。例えば、事務作業的には郵便番号と番地があれば郵便物は届くだろうが、それでも県名や市町村名があるのは所属を明確にするためだとも言える。富山県で昭和に生まれたというだけで、属性(カテゴリー)がなんとなく出来る。明治以前のことは元号で言われても数が多いのでわかないが、明治以降は西暦よりも元号の方が事件や出来事の属性が伝わるような気もする。
 令和の出典が万葉集ということで、大伴家持に縁のある富山県でも話題になっている。 西日本新聞の記事によると家持の父、大伴旅人の太宰府にある邸宅で催された梅花の宴で読まれた和歌の序文にある言葉から取ったそうだ。
 これまでの漢籍からの出典ではなく国書から言葉を選ぶことで政府は違いや新しさをアピールしたいようだが、そもそもが漢字(漢文)であり、元号という制度自体が中国に由来するので難しい。いっそ、ひらがなやカタカナにでもしないと違いや新しさなど出ないだろう。また、大和言葉(平安言葉)の一番残っていた奄美や沖縄に、戦後は方言札を出して古(いにしえ)の言葉狩りをしたのに何を今更という気もする。

 2年ほど前に小学1年生のある道徳の教科書で、申請段階では、物語に友達の家のパン屋を登場させていたが「国や郷土を愛する態度」などを学ぶという観点で不適切だと意見がつけられ、教科書会社は「パン屋」を「和菓子屋」に修正したというニュースが話題になった時に、岡本太郎の『今日の芸術』に収録されている「根のない日本主義」という文章を引用したことがある。
 ちょっと長いが面白い文章なので、再び引用させていただく。
 日本文化は、歴史が示すように、いつでも輸入によって展開してきました。だから、何が真に日本的で、何が日本的でないかということは、ひじょうにあいまいです。
 まず、日本最大の古典とされている奈良時代の仏教芸術は、大陸から輸入されたものです(五三八年、欽明天皇の代)。また、われわれの使っている漢字は、すでに日本語になっていますが、いまさら言うまでもなく、日本古来のものではなく、中国から学びとったのです(応神天皇の代)。それからは平安時代まで、貴族・文化人は全部、漢文、つまり生のままの中国語で自分たちの手紙や日記を書きつづりました。平安時代のはじめごろ、仮名文字ができてからも、和文、つまり日本文は「女手」といって卑しめられ、紀貫之がはじめてそれで『土佐日記』を書いたときは、婦人の作をよそおったくらいです。平安時代の国文学の作者がほとんど女流であるのは、このためなのです。今日、いくら外国文学にかぶれたインテリでも、英語で日常の手紙をしたためたり、フランス語で日記をつけたりすることは、まずないでしょう。してみると、今日、「もっとも日本的だった」と考えられているその当時のほうが、はるかに恥じることなく、外国文化をウノミにしていたわけです。
〜略〜
 太平洋戦争ちゅう、私が中国の前線にいた時分のことですが、道ばたのお店で絹ごしドウフを売っているのを見て、兵隊さんたちが、「日本のトウフがあるじゃないか」と言って大よろこびしたことがありました。「そういえば、油アゲまである」と奇声をあげるありさまなので、「これはもともと中国のものだ。だいいち、トウフという言葉からして中国語だし、ミソでもお茶でも、みな中国のものだ」と言って、説明しようとすると、とたんに、「きさま、日本をバカにするか!」と言ってどなられ、非国民あつかいにされてめんくらったことがあります。
 ふつうの人はまったく日本古来のものだと思って疑わないほど、われわれの身についてしまった輸入品がどれぐらいあるかわかりません。「きもの」など、世界に誇る日本文化の代表のように思われていますが、これももとは大陸からきた衣服です。日本古来の服装は、かえって今の洋服にちかい、頭からかぶるしかけのワンピースや、ズボンと細い袖の上着だったのです。それが、奈良時代にとり入れた大陸の風俗が、だんだん転化して、今日の着物になりました。生地の織り方、縫い方、みんなあちらから織工をつれてきて、ひじょうに高い文化的なものとして、全面的に生活にとり入れたのです。呉(ご)の国から来た(四六九年、雄略天皇の代)機織工を「呉織」(クレハトリ)といいました。その製品も「呉織」(クレハトリ)であり、「呉服」という語は、そういうところからきているのです。だから、当時はぱりぱりの舶来ニュー・ファッションだったのですが、だんだんに「呉の国からきた、外来の」という意味は消えうせて、呉服屋といえば、もっとも日本的な感じのする店になってしまいました。
 そういえば、近ごろでは「洋服」という言葉にも、いわゆるバタ臭さはすっかり消えてなくなっております。もうしばらくたつと、「これは、もともと西洋の服という意味で・・・・・・」などと、うっかりもの知りぶりを発揮しようものなら、国粋主義者にどなられるようになるかもしれません。
 このように、日本古来の文化的なものは、ほとんどが大陸からきたものだといってよいくらい、全面的な影響をうけているのです。それはちょうど明治以来、今日まで、西洋文化をいっしょうけんめいにとり入れたのと同じです。
 ところが同じ輸入でも、過ぎ去ったものだと安心して許し、今日、われわれの責任において正しくつかみとらなければならないものにたいしては、あれは外国のまねだ、非日本的だといって、いやしむ。現在の切実ないとなみを否定したがる、ほんとうに今日に生きていない人たちがいるのです。現在にたいして、自信がないからです。過去の輸入品をたてにとって、今日われわれが直面し、正当にみとめなければならないものを拒むということ自体、まったく矛盾であり、卑劣なことです。こういう連中のバカバカしい考え方を徹底的に打ちくだかなければ、問題ははじまりません。

『今日の芸術/岡本太郎』より「根のない日本主義」。

 今日の新元号に関する会議に有識者として宮崎緑さんが出席したが、彼女の着物姿がネットで話題になったようだ。白大島と呼ばれる大島紬を着ていたそうだが、彼女は奄美大島にある奄美パークの園長であり、田中一村記念美術館の館長でもあるのは知っていたが、本場大島紬大使も務めているそうだ。
 わりとこのような有識者会議に出席されている印象があるが、元々はNHKのアナウンサーだった。何が専門の有識者なのだろうか?奄美に住んでいた時に、一度だけお会いしたことがある。2012年の1月、名瀬にあった唄者・築地俊造さんの ライブハウスへ行ったら、奄美パークの人達の新年会が行われていて宮崎さんもいらした。歌の最後は六調で、この時は彼女も踊っていたが、なんだか大きい人だな〜というのが感想だ。

 今日の琉球新報に、昨日、首里金城町にある琉球王国第二尚氏の歴代国王が葬られた玉陵(たまうどぅん)で清明(シーミー)祭が執り行われたという記事が掲載されていた。記事によれば第二尚氏直系24代の尚猛さんが祭主を務め<沖縄戦時を除き欠かさず行ってきたが昨年は実施できず、2年ぶりの開催となった>と書かれているが、沖縄に滞在した2013年、2014年も首里の玉陵では清明祭は行われていなかったと記憶する。ちょっと検索すると昨年の朝日新聞に琉球王家の子孫「感無量」40年ぶりに祖先供養の行事という記事があった。こちらの記事では祭主は23代当主の衛さん(猛さんの父)で、約40年ぶりに玉陵で清明を行ったと書かれている。欠かさず行ってきたのか40年ぶりなのか、どちらの記事が正しいのだろうか。
 4月に入れば清明の季節だ。伊是名島の玉御殿(たまうどぅん)での公時清明祭も明後日、4月3日に行われるようだ。玉陵は国王が葬られているが、伊是名島の玉御殿には尚円王の父や夫人、姉など親族が葬られている。
 今年は琉球処分から140年だそうだ。 琉球処分という歴史の出来事は義務教育で習っただろうか。あまり真剣に授業を聞いていなかったので記憶がない。心配なのは、琉球処分という出来事を知らない人がいることではなく、そろそろ琉球処分はなかったという歴史修正主義者が登場しそう(してる?)なことだ。

伊是名島の公事清明祭
↑2013年4月3日に撮影した、伊是名島の玉御殿での公事清明祭。供え物は古文書に記された通りに再現され豚の頭や、アヒルの丸焼きなども並ぶ。
 新元号の話題で他のニュースがかき消されてしまった感がある。いくつか備忘録として貼っておきます。
3月短観、景況感2期ぶり悪化 大企業製造業、景気鈍化が鮮明に
陸自駐屯地 「保管庫」実は弾薬庫 宮古島民「だまし討ちだ」
米軍オスプレイが伊丹空港に緊急着陸 普天間所属 予防着陸か
 オスプレイに関しては先月の27日にも沖永良部島に緊急着陸しており、奄美空港には2017年6月以降、昨年8月までの間に4回緊急着陸している。緊急着陸が仕事のようで、こんなものが抑止力だという人の気が知れない。
 昨年の5月5日に撮影した城端曳山祭の様子をPhoto Albumにしました。こちらこちらこちら
城端曳山祭01
↑お神輿の巡幸には剣鉾が先頭に立ち、続いて8町8本の傘鉾が並ぶ。↓各町の曳山は、それぞれの庵屋台と対になって動く。
城端曳山祭

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