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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能
◯製作中の富山の祭りと芸能歴史年表

2月3日(日) 護国神社 節分祭 11時30分〜
2月8日(金)〜10日(日) 南砺・利賀そば祭り なんバス時刻表
2月14日 本の返却期限
2月22日 福光火伏神社の火伏祭
3月1日 本の返却期限
朝日町笹川の獅子舞 4月第2土曜日 8月第4土曜日? 朝日町の獅子舞
福光・宇佐八幡宮の春季例大祭 4月第3日曜(前日に宵祭り)
5月18日(土)、19日(日)? 利屋町の天神祭り
5月24日 於保多神社 神幸祭(猿田彦) 8時30分〜祭典 9時〜巡行
6月1日、7月1日 瑞龍寺の一つやいと
7月6日、7日 舟見の七夕
7月15日 南砺市・是安の風祭り(不吹堂の祭り) 記事
7月22日前後の日曜日 重忠まつり 上行寺
8月7日 魚津市蛇田地区の七夕
11月13日 お会式(餅柱) 上行寺

◯新川神社 1月? 寒中みそぎ
◯新川神社 御田植祭5月
◯高瀬神社 御田植祭5月 抜穂祭9月
◯射水市三ヶの十社大神 御田植祭
◯埴生護国八幡宮、亀保里神社(長岡神社0766-67-1402)除蝗祭 6月
◯上市町 日石寺 7月1日 大岩山滝開き・火渡り修法(10時)
◯7年に1度、10月に開催 次は2022年 朝日町山崎 米吊り奉納
◯福岡町沢川の獅子舞 9月の第4土曜日?
◯加茂神社 出雲へ神を送る神送祭 9月30日と10月31日?
◯岩稲八幡社の神送り・神迎え 10月下旬と11月下旬の日曜日 
◯5年に一度、若手神職でつくる県神道青年会が御田植祭
◯2019年 白山宮の本尊。秘仏十一面観世音菩薩をご開帳(33年毎)。
◯33年に一度 庄川の神賑わい 次回は2023年7月

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事
富山の祭り
築山行事
とやまの曳山”世界の宝”を守り続ける
*砺波の獅子舞 各地区の日程
年中行事覚書 柳田国男
田の神祭りに見る日本人の神意識
山の民の祈り
立山に生きる村ー宗教集落芦峅寺のくらし
立山信仰史における芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅
五箇山の獅子舞の起源
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

2月26日(火)

 暖かく良い天気が続いている。自転車で走ったら気持ちよいだろうなと思うが、花粉が怖くて外に出られない。用事がない限り窓を閉め切り出掛けないようにしている。運動不足にならないよう、最近は昼ご飯を食べた後に電子ドラムをCD一枚分叩くことにした。アルバム一枚分叩くと、携帯電話についている歩数計で3000〜5000歩の表示が出る。
辺野古の海

 一昨日、辺野古埋め立ての賛否を問う県民投票が行われ、反対43万4273票、賛成11万4933票、どちらでもない5万2682票という結果になった。埋め立て反対の票が投票の71.74%を占めた。
 7割を超える沖縄県民が埋め立て中止を求めて投票しているにも関わらず、政府は投票の翌日も土砂の投入を止めようとしなかった。
 驚くのは一部与党議員などが、投票率52.48%という数字を持ち出して投票に行かなかった人の分も含めて反対派は多くないという詭弁を語っていることだ。こういう人たちは第2次安倍改造内閣の元で行われた2014年の第47回衆議院選挙の投票率52.66%についても、何か言うことはないのだろうか。ちなみにこの時は475席の内、291席を自民党が獲っているが、自民党への投票率自体は33.11%しかない。
 これほどまでに選挙で信任されていない内閣が、県民・国民の声を蔑ろにしている意味がわからない。

*写真は辺野古の海。2014年4月19日に行われた、海上ボーリング調査を阻止するために始まった座り込み10周年記念の海上パーレードにて撮影。もう直ぐ辺野古の座り込みは15年を迎える。

◯祭りの原風景 おわすが如く

 お鍬さまという行事がある。お鍬さまは、農家の仕事始めの日である1月11日に、三つ鍬を田んぼの神様(男神)、平鍬を畑の神様(女神)に見立てておもてなしする風習で、380年ほど前から岩稲の農家で伝承されて来た。しかし、農業の近代化や担い手不足でこの風習をやめる農家が多く、現在は本芳彦弘さんの家だけになってしまった。
「お鍬さま、あけましておめでとうございます。昨年中はお鍬さまのお力添えをいただきまして、農業に携わることができまして、本当にありがとうございました」とお礼を述べてから、おもてなしが始まる。お鍬さまとの会話は彦弘さんのアドリブで、毎年変わるそうだ。「足を崩していただいて、ごゆっくりとお召し上がりいただきたいと思います」と言ってお鍬さまにすすめる料理は、田作り(ごまめ)、黒豆(マメマメしく働けるよう)、海老(腰が曲がるまで働けるよう)、昆布巻き(よろこぶ)、鯛の塩焼き(めでたい)といった正月のお祝い料理。
 そして、徳利からお鍬さまのお猪口にお酒を注ぐ。やがてお鍬さまからの返盃を受けて、彦弘さんもお酒をいただく。そうして儀式は10分ほどで終了する。
 本来はこの後、田んぼに出て鍬を3回入れて初おこしをするのだが、近年は彦弘さんが高齢になり足腰も弱くなったため行われなくなった。

お鍬さま01
お鍬さま02
↑お鍬さまをお連れする本芳さんご夫妻。
お鍬さま03

↑床の間のある奥座敷にお座りになるお鍬さま。右の三つ鍬が田んぼの神様、左の平鍬が畑の神様だそうだ。

←お鍬さまからの返盃を受けて、嬉しそうにお酒をいただく彦弘さん。お鍬さまとの会話は、彦弘さんのアドリブだ。料理は儀式が終った後に、お鍬さまからのお下がりとしていただく。2018年1月11日撮影。

 この「お鍬さま」と同様に目には見えない神様をおわすが如く(いらっしゃるかのように)もてなす行事が、宇奈月町下立の「おーべっさま迎え」だ。おーべっさまは、えびす様のことで漁師町では豊漁の神様と崇められているが、黒部川周辺の農村部では稼ぎの神、行商の神、商売繁盛の神として崇められている。
 下立では年の暮れが近づく11月20日に、出稼ぎに行っていた自分の家のエビス様がたくさんお金を稼いで帰って来るので、夕方になると玄関を開け、ご馳走を用意してお迎えする。
 昔はエビス様は電車に乗って帰って来るというので提灯を持って下立口の駅まで迎えに行き、お風呂を沸かし、それから食事とお酒でもてなした。
おーべっさま迎え01
おーべっさま迎え02
↑出稼ぎから帰るおーべっ様を玄関で迎える、宇奈月町下立の此川邦夫さん。
おーべっさま迎え03

↑陶製のえびす様と大黒様が飾られた神棚の下に、ご馳走を並べておーべっ様をもてなす。

←おーべっ様にお酒を注ぐ邦夫さん。御膳はご飯と汁の位置が左右反対の左膳(夷膳)。おーべっ様はお正月をゆっくり家で過ごして、1月20日の早朝に出稼ぎに出る。その時にまた、御膳を用意する。2017年11月20日撮影。

 同じようにおわすが如くに祖先の霊を迎え、もてなすのが芦峅寺のお盆行事、オショウライだ。オショウライは「精霊来」や「お招霊」と漢字を当てる。
 8月13日の夕方、松明(オショウライ棒)に火をつけ村の中心に位置する雄山神社より立山寄りの家は布橋を渡った先にある墓地へ、雄山神社より千垣駅側にある家は庚申塚へ祖先の霊を迎えに行く。どちらもこの世とあの世の境界だ。
 墓地へ迎えに行った家はお墓の前で松明から提灯に火を移し、ご先祖さまを家に連れて帰り、仏壇の蝋燭に灯す。そして14日、15日と家でゆっくり休んでいただき、16日の早朝に布橋までお見送りする。
オショーライ01
オショーライ02

↑家の前で松明に火をつけ、布橋の先にある墓地へ祖先の霊を迎えに行く家族(左)。墓地からご先祖様をお連れして、行燈の火を仏壇の蝋燭に移す男性(右)。

←芦峅寺集落を貫く大通りには、庚申塚や墓地へご先祖様を迎えに行く人たちが持つ松明の灯りが揺れていた。2018年8月13日撮影。

 奄美大島のお盆行事も良く似ている。奄美は旧盆で旧暦の7月13日にお墓まで提灯をぶら下げて祖先の霊を迎えに行き、15日に再び提灯をぶら下げてお墓へお送りする。神道では亡くなって30年~50年で祖霊(神様)になると言われている。
 神を迎え、神をもてなし共食し、神を送ることが祀りの原点だろう。奄美や沖縄といった琉球弧は祖霊信仰、ウナリ神信仰、ニライカナイ信仰だが、纏めれば琉球神道となる。その儀礼は神迎え、神アシビ(遊び)、神送りだ。
奄美の旧盆
↑奄美大島の旧盆。旧暦の7月13日に提灯を持ってお墓へ先祖の霊を迎えに行く(左)。旧暦7月15日に再び提灯を下げて先祖の霊を墓地までお送りする(右)。2011年8月12日と14日に撮影。
 目には見えない神を提灯を持って迎えに行く、あるいは鍬を神様に見立てるというとユーモラスにも思えるが、神社に祀られている神霊も依り代、神籬(ひもろぎ)。鏡であったり、石であったり、御幣だったりを神様に見立てている。神社から神社へ神霊を勧請(分霊)する時には、御幣が依り代となって移動する。
火神

 沖縄で一番ポピュラーな神様である火神(ヒヌカン)は、竃(かまど)の石だ。個人的には神道とは宗教というよりも、信仰だと思っている。ある神職の方は「神道は生活そのもの」ともおっしゃる。
 そうして考えると「お鍬さま」や「おーべっさま」「オショウライ」の中に、祭祀の原風景が見えるのではないだろうか。

↑旧正月の久高島。外間殿にある火神(竃の石)に、平御香(ひらうこう)が供えられている。
 昨年の4月3日に撮影した桜の写真と関野神社で行われた与四兵衛祭の様子をPhoto Albumにしました。こちら
与四兵衛祭
↑関野神社境内奥にある津幡屋与四兵衛を祀った祠の前に、高岡御車山祭保存会顧問の高橋市長ほか各山町の理事ら26人が並ぶ。

 気になった記事を備忘録として。
沖縄県民投票現地レポ~辺野古移設賛成派はなぜ壊滅したか「沖縄デマ」の限界~
福島汚染土、県内で再利用計画 「99%可能」国が試算
「統計委員長 国会に協力しない」 総務省、無断で文書作成
 日本母親連盟なる団体に講演を依頼され、日本母親連盟をぶった斬っている山本太郎。圧巻の映像はこちら

2月23日(土)

 昨日は今月最後の金曜日でプレミアムフライデー2周年だったそうだが、Facebookにはプレミアムフライデーの話題が流れて来ることはなかった。もうみんな、そんな言葉さえ忘れているのかもしれない。222=ニャンニャンニャンで、猫の写真はたくさん流れて来たけれど。

 近くにあるといつでも行けると思って毎回ギリギリになるが、ミュゼふくおかカメラ館で開催中の『第65回ニッコールフォトコンテスト写真展』も明日で終了だ。最終日の明日、2月24日は天皇陛下御在位三十年を祝して入館料無料となるそうだ。
 
人々の暮らしを見るために。
世界を見るために。
大事件を見届けるために。
貧しき者の表情を、傲る者のしぐさや態度を見つめるために。
不思議な様々なもの、機械、軍隊、大群衆、密林や月面の陰影までも見るために。
人が成し遂げた行為や作品、絵画や巨大な塔、偉大な発見を見るために。
何千里の彼方にある物事を、壁や密室の中に隠れている物事を、
近寄るにはあまりに危険な物事を見るために。
それらすべてを見ることによって喜びや新鮮な驚きを得、目が啓かれんことを。

 雑誌『LIFE』を創刊したヘンリー・R・ルースの言葉。様々な写真が並ぶコンテストの写真展もまた、新鮮な驚きを与えてくれる。
 いよいよ明日、辺野古移設の賛否を問う県民投票が行われる

 昨年の3月24日に撮影した井波町のお人形さまめぐりの様子をPhoto Albumにしました。こちら
井波のお人形さんめぐり
↑商家や民家の入口などに雛人形が飾られている。
 原発関連の気になった記事を3つ。
火災や通報100件近く 原子力機構の8拠点、老朽化で
泊原発「活断層否定できず」規制委が見解 審査長期化へ
【茨城県】東海第2 再稼働の意向伝達 原電社長、茨城県と2市村に 知事は「不快感」

2月21日(木)

 いつの間にか、日が暮れる時間が遅くなった。昔は春が近づけば嬉しかったが、花粉症になってからはそうも言ってられない。今年は花粉の量が昨年の2倍以上か・・・orz。

 婦中町の鵜坂神社では平安時代から江戸時代まで楉(しもと)祭という奇祭が行われていた。当時の日本5大奇祭の一つで、別名を尻打ち祭という。松尾芭蕉は「油断して行くな 鵜坂の尻打祭」と詠んでおり、明治・大正期のジャーナリスト宮武外骨が出版した「滑稽新聞 明治41年8月20日 第169号」にも挿絵付きで紹介されている。
 女性の貞操を戒める祭りだそうで、祭礼の日に神職が参詣した女性に関係をもった男性の数を聞き、その数だけ枝で女性の尻を打つ。枝で尻を打つのは、安産祈願から生まれた儀式だと言われる。
尻打祭りを描いた絵馬

 明治維新で女性の尻を打つことが廃止されると、替わりに雌馬が代用されたが、第二次世界大戦が終わった頃に廃絶したそうだ。
 現在、鵜坂神社の境内には神馬の像が建立されているが、安産祈願の神馬として崇められていた雌馬の遺風をしのんで奉納されたようだ。

←鵜坂神社の拝殿に掲げられていた絵馬。尻打祭を描いたものだろう。2018年4月19日撮影。

鵜坂神社と雌馬の像
↑鵜坂神社(左)と女性の替わりに尻を打たれた雌馬の遺風を偲んで奉納された像(右)。2018年4月19日撮影。
 鵜坂神社の楉祭は奇祭として知られたが、安産祈願として新嫁の尻を棒で叩く風習は昭和の初め頃までは県内各地で残っていたようだ。
 『富山の祭りと行事 予祝祭 祖霊祭 新嘗祭』(巧玄出版)には<正月十四日の晩、年男は、みずみずしい柳の木で祝い棒をつくる。魚津市ではおもきぼ、立山芦峅寺では嫁叩き棒といった。子どもたちが十五日に、嫁の尻を叩き、孕め孕めといって祝儀をもらって回った>と記されている。
 今の時代ならセクシャルハラスメントであり虐待として糾弾される行事や風習だが、考えてみれば現在イベントとして復活し3年ごとに開催されている芦峅寺の布橋灌頂会も女人救済であり、そもそもの立山信仰では女性は穢れた存在で地獄に堕ちるとされていた。地獄と極楽浄土のある立山で苦行を積んで穢れを清めれば極楽浄土に行けるとされているが、しかし立山は女人禁制。そこで立山登山に替わるものとして行われたのが布橋灌頂会だ。
↑布橋灌頂会では橋の下を流れるうば堂川を三途の川、橋の手前をこの世(現世)、橋を渡った先をあの世(彼岸)に見立てている。布橋はあの世とこの世の境だ。2017年9月24日撮影。
寒の神まつり

 入善町上野の邑町地区で1月15日に近い日曜日に行われている塞の神まつり。子供たちが木で造られた男神と女神を持って地区の家を一軒一軒訪ね、玄関で「塞の神の歌」を唄って祝儀として米や大豆をもらう。そして左義長で燃やす正月飾りなどを集めてまわる。

←一軒一軒家をまわった後、最後に左義長の櫓の前でも「塞の神の歌」を唄う。2017年1月15日撮影。

 子供たちが唄う現在の「塞の神の歌」の歌詞は<にょうぼう うんだら しょうぶした おとこうんだら そ そ そだて>となっているが、『習俗 富山歳時記/漆間元三』によれば<メロ産んだら ふんつぶせ 男産んだら ソーソー ソーダーテー>になっている。メロとは女性のことだ。
 少子化になり、昔は男の子だけだった行事(利賀の初午も以前は男の子だけで営まれていた)に女の子も参加できるようになり、最近は山車の引き手に若い女性を見ることもあるが、男性中心の男尊女卑的な風潮をかつての行事や風習の中に見つけることができる。
大伴家持の歌碑と売比河
売比河鵜飼祭

↑鵜坂神社にある大伴家持の歌碑(左)と神社の裏を流れる売比河(右)。

 ところで、鵜坂神社には「売比河の 早き瀬ごとに篝(かがり)さし、八十伴の男は 鵜川立ちけり」と大伴家持が巡察で売比河(現在の神通川)に立ち寄った際に鵜飼の様子を詠んだ和歌の歌碑がある。この和歌に因み、鵜坂では平成10年(1998年)から売比河鵜飼祭というイベントを開催している。

↑大伴家持が詠んだ和歌に因んで、平成10年から開催されているイベント「売比河鵜飼祭」。2017年5月20日撮影。
 昨年の3月21日に撮影した芦峅寺の春彼岸の様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
春彼岸の先祖供養
↑閻魔堂で行なわれる先祖供養の法要に集まった女性たち。↓住職が中央に座り、囲むように長い数珠をみんなで回して極楽往生や厄除けを願い「ナムアミダブ、ナムアミダブ」と念仏を唱えるズズクリ(数珠繰り)。
議員不祥事「自民は党名抜き、立憲民主なら党名あり」、Yahoo!ニュース見出しの怪
↑姑息だな。

2月19日(火)

 今日は二十四節気の一つ、雨水(うすい)だ。空から降るものが雪から雨に変わり、氷が溶けて水になるという意味だそうだ。富山は午前中から雨が降っている。
「国際社会に不確定性導入」 トランプ氏、ノーベル物理学賞候補に
 最近、安倍首相がトランプ大統領をノーベル平和賞に推薦したというニュースもあり、現実に起こる事が自分の想像の斜め上を行ってるので、見出しでネタかリアルか直ぐには判断がつかなくなてきた。虚構新聞です、念のため。

福島瑞穂氏めぐり静岡新聞が訂正・謝罪 コラムで「実妹が北朝鮮に生存」→「事実でなかった」
「アイヌ協会、血を引く方は2割」 自民青山氏、新法巡り発言 「理解しがたい」協会抗議へ
フィフィさん、蓮舫議員が「改正児童虐待防止法に反対」と誤りをツイート→謝罪し削除
 
 ネットだけではなく、雑誌や新聞の誌面にまで根拠のないデマが垂れ流されている。デマを発信した人は謝罪して削除や訂正で終わりではなく、何に基づいて発信したのかを説明する責任がある。
↓とても納得できる。
嘘をつくのは低コスト、嘘を検証するのは高コスト。この非対称性を利用して検証が追い付けない速度で嘘を重ね続けるのが嘘つきの生存戦略。そうやって生き抜いてくると、嘘を重ね続ければ普通の人は検証を諦めてくれるので、嘘はつき続けるのは正しいって経験則が出来上がる。習慣的な嘘つきになる。

 <辺野古埋め立て反対派には日当が出ている>とか<普天間に昔は人が住んでいなかった>といったデマが未だに繰り返されるのは情報を受け取る側のリテラシーの問題もあるが、やはりウソの拡散スピードは事実より20倍速く、拡散力は100倍あるという検証結果の証明だろうか。
 ちなみにデマはデマゴギーの略で、政治的な目的で意図的に流される虚偽の情報。

 今日も岐阜で豚コレラが見つかり、6000頭を殺処分するようだ。この国の差し迫った脅威は中国でも北朝鮮でもなく、豚コレラだろうな。

 昨年の3月15日に撮影した芦峅寺の涅槃会の様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
閻魔堂の涅槃図
↑芦峅寺の涅槃会は閻魔堂で行われる。閻魔堂に掛けられた、お釈迦様が入滅した時の様子を描いた涅槃図。
↓読経の後、昨日作ったお涅槃団子を閻魔堂の中と外で撒く。団子を撒くのは当番組の女性と、総代の男性たちだ。
団子撒き

2月18日(月)

 明日から天気は崩れるようだが、今日は快晴。気温も12℃まで上がり、なんだか春のようだった。本を集中して読もうと、午後から図書館へ。おかげで借りている本を読み終えた。

 旅行作家の下川裕二さんが、30年程前に刊行した『12万円で世界を歩く』で訪ねたルートを、再び12万円で辿る旅の連載を始めた
 『12万円で世界を歩く』は、もともと週刊朝日で連載していた『12万円でどこまでいけるか』をまとめた本だ。下川さんとは、この連載が始まった頃に知りあった。当時は南青山のマンションの一室で、イラストレーターとフリーの編集者の3人でウエンズデーというプロダクションを作っていた。この頃の下川さんは旅行だけではなくフリーランスとして幅広く原稿を書いていて、企業のPR誌の仕事も何度かご一緒したし、ボクが『東京★横浜BAR GUIDE』(KKロングセラーズ)を作った時はエッセーを書いてもらった。

 もう30年も前のことなので朧げだが、この『12万円で世界を歩く』を出版してから、下川さんはアジアを中心にバックパック旅行をしては記事を書く旅行ライターになった。一部では貧乏旅行の教祖のように崇められていた。まだ小さな子供二人を連れてタイ語を習いに家族でタイに留学されたこともあったが、それもこの頃だったろうか。
 その後、「格安航空券ガイド」という雑誌を企画して双葉社から発行した。世界各地を結ぶフライトのディスカウントチケットと販売旅行代理店を掲載した雑誌だった。編集部には下川さんが旅で知りあったバックパッカーが何人かカメラマンや編集者、ライターとして入っていた。
 下川さんと一緒に海外へ出る事はなかったが、ボクもこの「格安航空券ガイド」のグラビア撮影で香港、バリ・ロンボク島、韓国へ行った。この雑誌がいつ頃まで続いたのか記憶にないが、ディスカウントチケットを買わなくとも安いパック旅行が用意され、インターネットも普及しパソコンで格安チケットを手配出来るようになり徐々に雑誌の使命は終わったのだろう。

ロンボク島行きのプロペラ機

 2014年の6月に沖縄の栄町市場で偶然、下川さんと再開した。20年振りくらいだったろうか。
 ボクはもう借りていた部屋を引き払い、アチコチのゲストハウスに泊まりながら離島をまわり、4年に及んだ奄美・沖縄の旅をどうやって終わらせようか考えあぐねながら月に一度の栄町市場の屋台祭りを見に来ていた。下川さんは、これから取材で人に会いに行くという。栄町市場の細い路地で、簡単に近況など立ち話をした。 
 それから5日ほど後に、沖縄を後にして船で奄美、鹿児島に寄って新幹線で一気に富山に戻った。

 <たそがれ色のオデッセイ>というブログがある。下川さんのブログだ。たまに覗きに行くのだが、あいかわらず下川さんは旅の人で、アチコチと旅をしては本にまとめている。ボクはと言えば2014年の夏に富山に帰って来て、ほとんど県内から出る事はなくなったが、富山の西から東、海岸から山へと電車とバスと折りたたみ自転車で駆けずり回っているので、どこかまだ旅の気分だ。

↑バリ島からロンボク島へ、小さなプロペラ機で飛んだ。コックピットと客室に仕切りがなくて、気軽に撮影させてくれた。1991年、「格安航空券ガイド」の撮影にて。
↓ロンボク島の中央部にあるルンダンナンカ村には宿泊施設がなく、村で教師をしているラディアさんがたまに訪れる旅行者を空き部屋に泊めてくれる。一泊7000ルピア(約500円、3回の食事つき)。夜、村のガムランを聴きに行った。
村のガムラン
 昨年の3月14日に撮影した芦峅寺のお涅槃団子作りと、近辺の風景写真をUPしました。こちらこちら
お涅槃団子作り
安倍首相「家から通えるイージス・アショア」答弁の無知と詭弁と恐ろしさ

 いわば、あの、えー、船であればですね、出港して行って、その間はずっと洋上にいるということになってですね。その中でローテーションしていくわけでご ざいますが、陸であればですね、まさに、いわば、陸上においての勤務となるわけでございます。それについては、これは大きな差なんですよ。全然ご存じない かもしれませんがね、あの、いわばずっと外に出ている、えっと、一ヶ月間とか出ているということですね。あのいわば、これは自分の自宅から通えるわけです から、近くに勤務があればですね、それは全然勤務状況としては違うんですよ。そういうことも考えていかなければならないんだろうと、こう思いますよ。
 陸上配備の理由が、隊員が自宅から通えるという答弁も驚いたが、この短い文章の中に「いわば」が4回出てくるのも相当に異常だろう。小学6年生でも、もう少し言葉を整理して話せると思うが
 イージス・アショアについて無関心な人が多いようだが、<6000億円を超える金額で米国から購入するが日本の防衛には役に立たず、むしろ秋田や萩市など配備される地域が先制核攻撃の対象になる恐れのある兵器>なのだが、それでも無関心でいられるのだろうか。

2月15日(金)

 午後から近所の図書館へ。2冊借りているうちの1冊を返却、1冊を延長してもらった。ずいぶん髪が伸びているので、そのまま自転車でいつも行っているチェーンの理容院へ。

 今朝の琉球新報に琉球の稲作発祥の地とされる南城市玉城百名の「受水走水(うきんじゅはいんじゅ)」で、豊作を願う伝統行事「親田御願(うぇーだうがん)」があり、区民らが田植えの儀式を行ったという記事が掲載されていた。
 冬の最中の本土では「もう!?」と思うが、温暖な気候の沖縄では二期作も行われるので、この時期に御田植祭が催されるのだろう。

 富山でも豊作を願う御田植祭はいくつかある。一番早いのは魚津市小川寺に伝わる宮田(みやでん)だ。宮田は神饌田のことで、小川寺の神社は白山社だけなので白山社に献上するお米を作っていたのだろう。
 もともと宮田は4月10日前後に行われ、午前中に苗代に種籾を下し、午後から村中全員でお祝いしたそうだが、戦中に男手不足となり1月26日の火祭りを兼ねて行うようになった。
 神饌田は戦後の農地改革で無くなり、苗代に種籾を下ろす行事もなくなったが、現在も一年おきに心蓮坊と光学坊に場所を移してお祝いの部分は継承されている。心蓮坊と光学坊は嘗ての宿坊で、昔は千光寺の塔頭は16坊あったそうだが、現在はこの2つと連蔵坊の3坊になっている。
 今では地区の新年会も兼ねており、祝宴には独特の舞を行う小川寺の獅子舞が登場する。

↓小川寺の宮田。お酒が入り和んだところで、独特の動きをする獅子舞が登場する。
小川寺の宮田02
小川寺の宮田01
小川寺の宮田03

↑獅子舞が終わると、出席者は邪鬼を食べてもらおうと頭を噛んでもらう。獅子頭の鼻には金文字で梵字の「カーン」と書かれている。カーンは不動明王を表すようだ。

←もともと火祭りの日なので、祝宴の後に火難除けのお札が配られる。2018年1月28日撮影。この年は、心蓮坊で行われた。

 5月になると、子供たちにお米作りの大変さや収穫の喜びを教える田植え体験を兼ねた御田植祭が、県内のいくつかの神社で催される。早乙女姿、田男姿に着がえた子供たちが拝殿で祭典に参加し、その後、神饌田で農家の方に指導を受けながら苗を植える。
 昨年は富山市新庄にある新川神社の「田んぼ学校」を撮影させていただいた。5月に御田植祭、9月に抜穂祭・稲刈りがあり、収穫したお米は11月23日の新嘗祭に献上される。そして12月に稲藁で正月飾りやしめ縄を作った後、収穫したお米でおにぎりを作って試食した。
 高岡市の有磯正八幡宮では境内にプランターを並べた神饌田を造り、ここに地区の子供たちが苗を植えて御田植祭を行う。
新川神社の御田植祭
新川神社の稲刈り

↑新川神社「田んぼ学校」の御田植祭。祭典では早乙女、田男姿に着がえた子供たちが伝供によって神饌をお供えする(左)。祭典の後、神社の隣りにある神饌田へ行き農家の方に教わりながら苗を植える(右)。2018年5月27日撮影。

←新川神社「田んぼ学校」の抜穂祭・稲刈り。あいにくの雨だったので、稲を刈るのは一人一束に。2018年9月29日撮影。

新川神社のしめ縄作りと、お米の試食会
有磯正八幡宮の神饌田

↑新川神社「田んぼ学校」のしめ縄作り(左)とお米の試食会(右)。自分たちが作ったお米と、富山の新ブランド米「ふふふ」のおにぎりをブラインドで食べ比べ。2018年12月2日撮影。

←プランターを並べて造られた、有磯正八幡宮の神饌田。2017年9月23日撮影。

 1066年に京都の賀茂神社から勧請し創建されたとされる射水市の加茂神社では、6月最初の卯の日に、豊作を願って御田植祭が行われる。同神社には平安時代の京都の文化を伝承した行事が残っており、この御田植祭も他所では見られない独特な祭典になっている。
 神事は午前10時から始まるが、その前に社殿では氏子の方々や近くの小学校の児童らが神事で使う真菰(マコモ)の神様と、真菰の大男を製作する。
 祭典では祭神(玉依姫命)を先頭に、三方に乗せた真菰の大男や糯米の苗を境内に設えた仮田に運ぶ。氏子が柄振りで仮田をならし、野上宮司が後ろ向きで苗を植える真似をする。苗をきれいに並べ終えたら、宮司が後ろ向きになって真菰の大男を氏子、参拝者のいる方へ投げる。真菰の大男は豊作を約束する縁起物といわれ、みんなが競って奪い合う。この加茂神社の御田植祭は、県の無形民俗文化財に指定されている。
 ところで、昭和61年発行の『ふるさとの風と心 富山の習俗/富山新聞社編』(桂書房)には、<昔は各地区から選ばれた力持ちの大男たちによってご供田一反歩の土を起こし、田植えが行われた。地区民総出で見物に集まり、節おもしろく田植え歌を合唱して祭りが行われた。江戸時代初期ごろまで続いた。それが仮田に変わったとき、”大男”がマコモの神に変身したと伝えられる。また、お田植え祭りには倉垣庄内の各村から早乙女が集まり、田植え歌をうたいながら田植えをしたという記録も残っている>と記されている。出典や取材者の名前がないのが残念だが、この『ふるさとの風と心 富山の習俗』は他の富山関係の民俗芸能資料、郷土誌にない突っ込んだ内容の取材がなされている。
加茂神社の御田植祭01
↑加茂神社の御田植祭。子供たちに真菰の神様の作り方を教える野上宮司(左)。出来あがった真菰の神様と真菰の大男を三方に乗せて、仮田に運ぶ。2015年6月8日撮影。
↓→仮田を柄振りでならし、宮司が田植えを模して糯米の苗を並べる。
加茂神社の御田植祭03
加茂神社の御田植祭02
↓三方に乗せられ、神座に置かれた真菰の大男。
加茂神社の御田植祭05
加茂神社の御田植祭04
加茂神社の御田植祭06

↑苗がきれいに並べられると、真菰の大男を宮司が後ろ向きに投げる。縁起物の大男を取ろうと、子供たちも真剣だ。

←仮田での神事が終わると祭神が社殿に戻られる。写真中央の、棒に紙垂がフサフサに付いたものが、祭神である玉依姫命のご神体。加茂神社の祭神は玉依姫命、加茂建角身命、加茂別雷命で、このようなご神体が3体ある。

 各地の御田植祭ほか、お祭りを紹介しているブログがあった。こちら
 気になった記事を備忘録として。
「日本の総理、小学6年生並みで情けない」立憲・枝野氏
拉致被害者の田中実さんに妻子 北朝鮮、日本に14年伝達
統計見直し、官邸意向か 厚労省側「何とかしなきゃ」

2月13日(水)

 ケータイ補償サービスから送られて来て、一昨日開通させた新しい携帯電話。開通したはいいが電話帳やメール、撮影した写真などが古い携帯に入っているので、午後から戸出のdocomoへ行きデータを移す作業をして来た。写真がたくさん入っているのかコピーに30分ほどかかった。ついでに月々300円の携帯保証サービスを中止する手続きをした。 
 古い携帯は補償受付日より10日以内に同封されている封筒に入れて、郵送もしくはdocomoショップで返却と書いてあったので受付で返却したい旨を話すと封筒に自分の住所が書いてある物はショップでは受付出来ないので郵送して下さいと言われる。しょうがないので地元の郵便局の窓口へ出しに行って来た。

 音楽評論家・大鷹俊一さんが雑誌『レコード・コレクターズ』で連載中の「レコード・コレクター紳士録」の書籍化第2弾『レコード・コレクター紳士録2』が、明日発売になる。
  連載の開始が1990年8月号からなので、来年で30年になる長寿連載だ。1999年10月に第35回までの連載をまとめた『レコード・コレクター紳士録』が発売されており、今回はその続編で1994年11月号~2008年11月号までに登場していただいた方の中からセレクトした52名と番外編で取材したビートルズ関連のオークション「Beatles For Sale!」が掲載されている。
 この連載の撮影は当初、2016年に亡くなられた桑本正士さんが担当されていたが、1997年頃から引き継いで2005年頃までボクが担当した。今回の『レコード・コレクター紳士録2』はこの頃に取材した方々が中心なので、52名中38名と番外編がボクの撮影だ。
 続編が出るまでに20年の歳月が流れ、この間に亡くなられた方や引っ越しなどで連絡が取れなくて登場いただけなかった人もいるようだ。2001年4月号で撮影させていただいたL⇔Rの黒沢健一さんも、そんなお一人。

 今回書籍には掲載されていないが、強く印象に残っているコレクターの方も何人か居る。
 吉田美奈子コレクターの家にお伺いしたら彼女のデビューアルバム『扉の冬』がLPで4枚、CDで5枚、カセットテープで2種類揃っていた。帯違いや紙ジャケなどリイシューされる度に買い求めた結果で、並べるとなかなか壮観だった。
 自分自身は物が捨てられなくて溜まっているだけでコレクターではないが、コレクターの部屋や棚を見たり話を聞いているのはとても楽しい時間だった。お伺いしたコレクション部屋を撮影するのに三脚を立てるスペースもなくて、けもの道のようなスペースに立って手持ちで撮ったこともある。

佐野史郎さん

 書籍には掲載されていないが、田中角栄さんのご子息の田中京さんがブリティッシュ・ロックのコレクター、藤田田さんのご子息で東京タワーにあった蝋人形館の館長でもあった藤田元氏はジャーマン・ロックのコレクターとして撮影させていただいた。
 今回の本で登場している女性コレクターはインスタント・シトロンの片岡知子さんだけだが、雑誌の方ではレッド・ツェッペリンのコレクターと、エルトン・ジョンのコレクターの女性も撮影している。それにしても、圧倒的に女性の方が少ない世界ではある。

 今も連載は続いているが、書籍化第3弾はもう少し間を空けないで作って欲しい(笑)。この先5年続くのか、10年続くのか、20年続くのかわからないが、連載の最後は大鷹さん自身のコレクションを見せて下さいね、と以前本人にお願いしたことがある。
 明日はバレンタインか、素敵なプレゼントだな。

←2001年12月号で撮影させていただいた俳優・ミュージシャンの佐野史郎さん。

 昨年の3月11日に撮影した山町筋のひなまつりの様子をPhoto Albumにしました。こちら
山町筋のひなまつり
↑商店やスーパーでは店内やショーウインド、民家では玄関や座敷に様々なお雛様が飾られている。
斎藤工 主演映画が公開危機 東京五輪中止の設定に「お叱りが…」
 試写を観た国会議員が、東京五輪が中止となる映画の設定にクレームをつけたそうだが、こういう人たちはオリンピックの中止どころかスタジアムが破壊される大友克洋の『AKIRA』を見たら卒倒しちゃうんじゃないだろうか。

2月12日(火)

 昨日、氷見の小杉地区で起舟祭が行われた。能登や富山湾に面する漁師町で行われる豊漁祈願と海上安全を祈る舟祝いで、古くから旧暦1月11日に行われていた。いわば漁師の仕事始めの日だ。
 嘗ては前日に舟を上げて掃除をし、鏡餅とお神酒を供え、11日の朝に舟を下げて干しイカ、煮豆、イワシの煮物などの縁起物を肴に呑んだそうだ。また、この日に網元が水夫(かこ)を自宅に招いて祝いをし、その時に一年間の労働契約を結んだという。
 現在は新暦の2月11日(旧暦1月11日はその年により変化し、今年は2月15日)に開催されている。
 小杉地区は、昔はほとんどが漁師だったそうだが、撮影させていただいた2017年は70世帯のうち漁師は7人。明治の頃までは菊理媛像石神社(きくりひめかたいしじんじゃ)で祈願祭を行った後、神社に奉納されている朱塗りの大盃を船溜まりの船上に運び、古老から順に大盃を囲んでまわし呑みをして祝ったそうだ。
 漁業を生業にしている人が少なくなった今は、地区の新年会も兼ねている。神事の後に拝殿で大盃にお神酒を注いでまわし呑みをし、その後は別の会場で地区全体の祝宴が催されている。
小杉地区の起舟祭
小杉地区の網元の家

↑小杉地区の起舟祭。祈願祭の後、大盃にお神酒が注がれる(左)。大盃の直径は約50センチで、5升5合入る。昔は並々と注いで3人掛かりで持ち上げたそうだ(右)。2017年2月11日撮影。

←小杉地区にある、かつての網元の家。大きな門が目をひく。2017年11月20日撮影。

粟国島のフナウクシ01

 沖縄でも旧暦で正月を祝う地区は少なくなったが、久高島や粟国島では旧暦1月2日に漁師の仕事始めの行事であるフナウクシが行われる。フナウクシ=舟起こしだろう。

←粟国島のフナウクシ。早朝、自分の船に飾りつけをする大信丸の船長。2013年2月11日撮影。

→港近くの竜宮神に航海安全と豊漁を祈願する。

↓フナウクシの祝宴。

粟国島のフナウクシ02
粟国島のフナウクシ03
 粟国島では大信丸のフナウクシを撮影させてもらった。旧暦1月2日の朝、船長が船に松飾り、日の丸の旗、万国旗、大漁旗を飾りつける。飾りつけが終わると港近くにある竜宮神を祀った拝所でお神酒やお米、刺身を供えて航海安全と豊漁を願う。お供えした物を包んで船に戻り、船上から塩を撒き、持ち帰ったお神酒とお米、刺身を船に供える。
 午後からは関係者を自宅に呼んで祝宴が催される。
 久高島でも旧暦1月2日の朝、漁師はそれぞれ自分の船に大漁旗や日の丸の旗を飾り、船上から塩とお神酒を撒き、刺身をお供えして航海安全と豊漁を祈願する。
 そして自分の船が所属している港(久高島にはフェリーの停まる徳仁港と漁港の2つがある)に集まり、祝宴が始まる。刺身や魚汁が出て、泡盛の酔いがまわるとカチャーシーが飛び出す。
久高島のフナウクシ01
↑久高島のフナウクシ。大漁旗と日の丸の旗が飾られた船(左)。船にお刺身を供える漁師(右)。2014年2月1日撮影。
久高島のフナウクシ02
久高島のフナウクシ03

↑徳仁港での漁師たちの酒宴(左)と漁港での酒宴(右)。2014年2月1日撮影。

 宴は昼前に終わり、午後から三線や太鼓を持った青年たちが漁師の家を一軒一軒まわる。家から酒と料理が振る舞われ、青年たちは唄と踊りを披露し一時間程の酒宴となる。一軒が終わると、ゾロゾロと次の家へと移動する。この家まわりを「ヤーミグルー」と言うそうだ。

 昨年の3月9日に撮影した芦峅寺集落の山の神の祭りの様子をPhoto Albumにしました。こちら
芦峅寺の山の神の祭り01
↑まだ暗い早朝5時半頃、雄山神社の神秘社の前に山に従事する人たちが一人二人と参集し、持参したお神酒を拝殿の前の甕に注ぎ蝋燭を立てる。↓神事は20分ほどで終了。空が明るくなって来た。帰りがけ、お神酒が振る舞われる。
芦峅寺の山の神の祭り02

2月11日(月)

 今日は雪こそ降っていないが、とても寒い。
 午後からケータイ補償サービスに電話して、一昨日届いた新しい携帯電話の開通をしてもらった。開通したが電話帳は空なので、データを移さなければ。とりあえず、新しい電話で図書館に電話してみる。ちゃんと繋がった。
 昨日は利賀村へ「南砺利賀そば祭り」を見にいった。お目当ては蕎麦ではなく、イベントで行われる伝統行事の「丑曳き」。昨年も見にいこうと思っていたが、前日に神職の方から奥能登の伝統行事「あえのこと」を見学に行きませんかとお誘いがあり奥能登へ行ったので、今年こそ!と見にいって来た。

2月10日(日)
 8日から始まった「第15回 南砺利賀そば祭り」の最終日。 初日と2日目は10時から19時までだが、最終日の今日は10時から15時と、ちょっと短い。丑曳きは11時30分と14時30分の2回行われるが、時間はそれほど長くなさそうだ。
 事前に問い合わせたところ、会場の利賀国際キャンプ場周辺は南砺市営バスの中村停留所の目の前にあるという。利賀村行きのバスは井波と越中八尾の2つのルートがあり、2年前に「初午」を撮影に行った時は井波からバスに乗ったが、今回は乗り換えが楽な越中八尾駅前からバスに乗る事にした。

高山線と利賀行きのバス

↑越中八尾駅に向かう電車の窓から(左)。越中八尾駅にて、利賀行きのバスに乗車(右)。

 あいの風とやま鉄道で8時55分に富山駅に着いて、高山線に乗り換え。9時34分の越中八尾行きに乗車して9時59分に到着。駅前には既に10時15分発の利賀行きバスが待っていた。利賀と八尾を結ぶバスは一日2往復で、10時15分のバスを逃すと次は16時45分だ。今日はそば祭りだからバスが満席で乗れない事はないのかと心配したが、杞憂だった。それでも10人以上は乗っていたので、普段よりはかなり多いのだろう。
 バスは定時に八尾駅前を出発。料金は一律200円で前払いでも後払いでもいいというので、前払いで運転席ヨコのトレーに100円玉を2個入れる。八尾の街を抜けて山へと入ると途中で対向車とすれ違う事ができないような細い道が何ヶ所かあり、その曲がりくねった細い山道を登って行く。イベント開催で普段より車が多い事もあり11時6分到着の予定が、着いたのは11時20分過ぎだった。お目当ての丑曳きは11時30分からなので、バスを降りて急いで会場へ向かう。
 会場入口で会場設営協力金として500円の入場料(高校生以上)を支払い、丑曳きのスタートする会場奥へ。すでに保存会の方々がスタンバイしており、直ぐに丑曳きが始まった。
丑曵き01
丑曵き02
グルメ館
 丑曳きは、嘗て合掌造りの家屋に使用する大木を山から伐り出す際に、雪の上を滑らせて運んだことに由来する伝統行事で、両百瀬丑曳き保存会が継承している。
 イベントで使われている木は長さ約8メートル、重さ約2トン。
 囃子と唄の丑曳き音頭に合わせ、子供たちも参加して綱を引き、会場内を10分ほどかけて一周する。終了後、大人にはお神酒が振る舞われた。
 丑曳きの後、蕎麦や郷土料理、名産品などを売るブースが並んだグルメ館に入ってみた。最終日ということもあり、人でいっぱい。そば祭りに来て、蕎麦を食べずに帰るのも何なので外の行列に並ぶ。
グラーバとそばの列
温かいおろしそば

↑gravaのステージ(左)、並んだ越前おろしそばのブース(右)。

 蕎麦は、そばうまいもん館・南砺利賀そば研究会・ふくいそば打ち愛好会の3つのブースがあり、一番列の短そうなふくいそば打ち愛好会のブースに並んだが、それでも食べるまでに50分ほど並んだ。注文した温かいおろしそばは600円だが、入場した時にもらった100円の割引券を使い、500円に。

 蕎麦の行列に並んだ頃に、ステージでは富山の女性コーラスグループ、gravaのライブが始まった。寒い外で行列に並んでいた人には”ホッ”とした気持ちになれる癒しの音楽だったかもしれない。
↑gravaの後、13時からはよさこい(夜高舞緋組・はなぐみジョイントステージ)。
雪像とそり遊び

↑雪像と、そりで遊ぶ子供たち。やはり子供は遊ぶのが仕事だな。

 ステージのよさこいを観たり、会場に展示された雪像を撮影したり、そりで遊ぶ子供たちを眺めたりして時間を過ごす。
 外のテントでは熊汁やイノシシの炭火焼、五平餅なども売られていたが、やはり長い行列で、中には既に売り切れのものも。

まわりの風景と雪像
↑会場の周囲の風景(左)と、会場とバス停の間に架かる橋に展示された雪像(右)。
帰りのバスと越中八尾駅

 中村から越中八尾駅へ行く帰りのバスは14時53分で、これを逃したらもうバスはない。
 14時30分から もう一度丑曳きが行われるが、午前中に撮影できたし会場内は一通り歩いたので外に出る。景色を撮りに歩こうかと思っていたが、寒くて結局バス停のある中村体育館の入口に入ってバスを待っていた。
 14時53分のバスは定時に出発。越中八尾駅に到着予定時刻は15時45分となっている。

 越中八尾から富山行きの電車は15時55分で、乗り換え時間は10分。行きのバスが15分ほど遅れたので厳しいかな?と思っていたがほぼ定刻に到着。余裕で電車に乗れた。

*南砺市の記事、北日本新聞の記事、丑曳きのYou Tube映像

 ところで丑曳きを見て、何か既視感があるなと思っていたら井波町で瑞泉寺の太子伝絵に合わせて行われる観光祭に登場する木遣り町流しだった。木遣りに合わせて男性は采配を、女性は扇子を手に踊りながら町を流し、巨大な丸太が通りを移動する。
木遣り町流し

 瑞泉寺はこれまで3度焼失したと言われており、その再建のために五箇山や利賀村から切り出した木を運ぶ際に歌った唄が「井波御大門建立木遣り唄」として利賀村に伝わっていた。その唄を、昭和38年に井波町青年団の一行が利賀村の長谷甚六氏から「木遣り唄」として習い受けたそうだ。
 芸能としては丑曳きと井波の木遣り町流しは兄弟のようなものだろうか。
←木遣り町流し。2017年7月22日撮影。

 井波の木遣り唄は、こんな歌詞になっている。

夫栴檀(それせんだん)は二葉にて 名も恐ろしき伊蘭樹(いらんじゅ)の
劇(はげ)しき毒を消滅し 崑崙山(こんろんざん)の徳として
石を転じて黄金とす 琥珀の徳は塵を吸い
磁石は鉄に付く慣い 山木石(さんぼくせき)の類すら 
其の約束を違(たが)はねば 謂(いわ)んや深き誓いあい
無碍光如来(むげこうにょらい)の名号(みょうごう)は 無量生死(むりょうしょうじ)の罪消へて
逆悪摂取(ぎゃくあくせっしゅ)の利益(りやく)ある 何に疑ひのあるべきや
濁悪邪見(じょくあくじゃけん)の我等には かの名号を与へてぞ
救いましますしるしには 深山(みやま)の奥の埋れ木も
井波御坊(いなみごぼう)の材木と 曳き出(い)ださるる不思議さよ

忝(かたじけ)なくもこの寺は 百一代の御代(みよ)の時
後小松院(ごごまついん)の帝より 勅願所(ちょくがんしょ)のお寺なり
綽如様(しゃくにょさま)の開基(かいき)にて 教へは尽きせぬ瑞泉寺
綽如上人砺波野(しゃくにょじょうにんとなみの)に 太子の絵伝をお供して
何処に寺を建つべしと 此処(ここ)や彼処(かしこ)を見給(みたま)ふに
乗らせ給(たま)ひし御馬(おんうま)が 三度嘶(いなな)きしずしずと
足にて大地を掘りければ にわかに清水(せいすい)わき上がり
臼浪水(きゅうろうすい)とて今にあり 夫故(それゆえ)井波と付け給(たま)ふ
その越中の井波には かの有名な瑞泉寺
人の心も荒磯(あらいそ)の 砺波の里を此処彼処(ここかしこ)

2月9日(土)

 SNSがストーンズ話で盛り上がっていたので、もしやと思ったら、今日は彼らの初来日ツアー『STEEL WHEELS TOUR』の記者会見が行われた日だった。
 平成の始まりが1989年1月8日だから、ストーンズの初来日からの日々に一年足せば平成か。あっという間だったかもしれないな。
 アジア初となる『Exhibitionismーザ・ローリング・ストーンズ展』が、東京・TOC五反田メッセで2019年3月15日(金)から5月6日(月・振休)まで開催される。
 平成は4月30日までだから、『ザ・ローリング・ストーンズ展』が開催中に新元号になるのか。
ローリング・ストーンズの記者会見

↑1990年2月9日撮影。自分ではストロボを焚かなかったので、誰かのストロボを拾ったのだろう。

 2010年3月に、奄美大島へ一年間の予定で移住するにあたって初めて携帯電話を買った。それからやがて9年。もう外観はボロボロで電池の蓋も無くなってしまったし、奄美や沖縄に住んでいた時のように携帯電話で宿の検索や予約をする必要もなくなってiモードの契約を解除して、ただのガラケーとして使っていたが、さずがに通信の不具合が出て来た。
 毎月300円だったかのケータイ補償サービスに入っていたので、昨日docomoに電話して新しい携帯電話と取り替えることにした。
 さっそく今日の午前中に担当者のオススメだというF-07Fという機種が届いた。とりあえず今日はバッテリーを充電し、記念に写真を撮っておいた。

新しい携帯電話
 昨年の2月28日に撮影した城端のつごもり大市の様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
つごもり大市
↑昔は生活用品を売る市だったのだろうが、今はイベントが主だろうか。写真は人気の100円うどん。
 立憲民主党の辻元国対委員長が外国人からの政治献金が判明し返金したという件は、振込用紙に「外国籍の方の寄附はできません」と記してあったが、それに気づかなかった在日外国人が1万円を振込んだ。
 辻元議員側の脇の甘さがあるかもしれないが、<気に入らない政治家がいたら、外国籍であるということを伏せて献金させて、実は!と暴露して攻め立てるという手法がまかり通ります。これ、与野党問わず、まともな政治家にとって脅威ですよ>という麻木久仁子さんの指摘も、頷ける。
 今回の騒動の反応をネットで見ていると、↓言葉はキツイが当たってるなと思う。
>辻元に対する風当たりはネトウヨマインドから排外主義、ミソジニーに至るまで、この国の汚物が総動員されている。
 
 その他の気になった記事を備忘録として。
政府が70歳定年へ効果試算、75歳も視野 にじむ年金改革の思惑
世界はもう日本を信じない。役人のせいにできない安倍首相「嘘データ」での成果アピール
次世代新幹線「ALFAーX」の試験車両公開 JR東日本

2月6日(水)

 昨日の午前中にヨドバシのネットショップで注文し、午後にコンビニから支払いをしたエプソンの写真用紙が今日の午前中に届いた。早い!
 注文する前にアマゾンと値段の比較をしたが、ヨドバシの方がポイントを考慮すると僅かにコストパフォーマンスが良かったのと、注文から発送までが毎回スピーディーなのが決め手になった。
雪村いづみさん

 連続テレビ小説「まんぷく」。
 ラーメン作りの話なのに、昨日と今日は壇蜜さんの踊りに全部持って行かれたな〜(笑)。何だろう、あのリズム感。演技だろうか。
  ドラマの中で壇蜜さんが踊っていたのは、雪村いづみさんの「夢のマンボ」という曲だそうだ。
♪恋の花咲くマンボの国 鈴を鳴らし口笛吹き行きましょう マンボ・ジャンボ♪
 マンボにチャチャチャにルンバにワルツ。「マンボ・イタリアーノ」なんて意味のわからないタイトルの曲もあるが、終戦後の昭和歌謡・ポップスはアグレッシヴで元気があって、そして華がある。
 明日のあさイチに、壇蜜さんが出演するようだ。

 写真は、雪村いづみさん。神宮前のビクター・スタジオにて2002年3月12日に撮影。

権利幸福嫌ひな人に 自由湯をば飲ましたい
オッペケペ オッペケペ
オッペケペッポーペッポッポー
固い裃(かみしも)角取れて マンテルヅボンに人力車
いきな束髪ボンネット 貴女や紳士のいでたちで
外部(うわべ)の飾りはよいけれど 政治の思想が欠亡だ
天地の眞理がわからない 心に自由の種を蒔け
オッペケペ オッペケペ
オッペケペッポーペッポッポー

 上の歌詞は興行師で芸人だった川上音二郎の「オッペケペー節」。1887年(明治20年)頃に一世を風靡したようだ。

 首相官邸が東京新聞の記者に対して質問制限を要請したり、海外取材に赴くジャーナリストにパスポートの返納命令を出し渡航させない措置をとったというニュースが流れてくると、オッペケペー節の流行った明治20年が今よりずっと自由だったんじゃないかと思えてくる。
 このYou Tubeの「オッペケペー節」を唄っているのは土取利行さん。元々はフリー・ジャズのドラマー、パーカッショニストで近藤等則さんや坂本龍一さんらとプレイしていたそうだ。

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 昨年の2月9日に撮影した石川県奥能登の伝統行事「あえのこと」の様子をPhoto Albumにしました。こちらこちらこちら
↑白米町の川口さん宅のあえのこと。田の神様に用意した料理の説明をするご主人。
↓珠洲市の田中さん宅のあえのこと。田の神様に見立てた若松様(松の若木)を立て、田んぼに三回鍬を入れる。
 昨日、今日と暖かい日が続いたが、8日頃から強烈な寒波がやってくるそうだ。

2月4日(月)

 立春の今日、富山では昨年より10日早く春一番が吹いた。気温も上がり、高岡の最高気温は14℃だそうだ。
 昨日は節分。今朝の新聞には、アチコチの社寺で豆まきが行われたという記事が並んでいた。
「やいかがし」という魔除けがある。柊の枝に焼いた鰯の頭を刺したもので、柊鰯とも呼ぶそうだ。焼いて嗅がすで、やいかがしなのだろう。
護國神社のやいかがし
 柊の葉のギザギザと鰯の臭いで鬼(邪鬼)が近寄らないので、節分の日に自宅の門口に取り付ける風習があるそうだ。
 富山縣護國神社の節分祭では、このやいかがしが神饌として供えられる。個人が魔除けで行うやいかがしは、一本の柊の枝の先に焼いた鰯の頭を刺して吊るした素朴なものだが、お供えされる護國神社のやいかがしは、お皿に豆を敷いて柊の枝を立て、柊の葉に焼いた鰯の頭が刺してあった。
 節分に限らず季節の折り目には邪鬼が現われると考えられているようで、五月の節句には魔除けの力があるとされるショウブ(アヤメかの花菖蒲ではなく、サトイモ科の菖蒲)の葉が使われる。『習俗 富山歳時記』(巧玄出版)には「宵節句の4日に、軒端にショウブとよもぎとをさす風習は広く、軒につりさげると、虫がはいらないという。ショウブで鉢巻きをしたり、痛みどころのある者は、そこをショウブでなでたり、ショウブ湯にはいると治るといったりする」という記述がある。
 滑川市赤浜地区には、毎年5月4日に五穀豊穣とモグラの退散を願って子供たちがショウブの葉を藁で包み縄できつく縛った棒で家々の地面を叩いてまわる「ショーブツ」という伝統行事がある。菖蒲を打つから、ショーブツらしい。
赤浜のショーブツ01
赤浜のショーブツ02

↑滑川市赤浜地区のショーブツ。魔除けになるショウブの葉を一枚入れ藁で包む(左)。藁束を縄できつく巻いて、棒のように固くする。2017年5月4日撮影(右)。

←子供たちは「ショーブツ来ました」と玄関で声をかけ、「ゴガツノショーブツ ゴガツノショーブツ」と声を出しながら藁の棒を地面に叩き付ける。

 沖縄・西表島の祖納や干立集落では毎年旧暦10月前後の己亥(つちのとゐ)に、農作物の豊作感謝と翌年の五穀豊穣、住民の健康、集落の繁栄を願った節祭(シチ)が行われる。 
 祭場となる浜や御嶽(ウタキ)で数々の芸能が住民によって奉納されるが、個々人の家では海岸で拾ってきたサンゴを玄関に撒いて祓い清める。また家の柱や大切なモノに、魔除けとしてシチマキカズラを巻きつける。子供たちは大切な自転車に巻きつけていた。

節祭01
節祭02

↑西表島の節祭。家を祓い清めるサンゴを採りにきた女性たち。干立集落にて2013年9月30日撮影(左)。子供たちは自分の大切な自転車に魔除けのシチカズラを巻いていた。干立集落にて2013年10月1日撮影。

←家の柱に巻かれた魔除けのシチカズラ。祖納集落にて2013年10月2日撮影。

 今日は旧暦の大晦日。沖縄の粟国島では大晦日の夕方から元旦の未明にかけて、集落の組ごとに塩売り(マースヤー)に扮した男性が登場し、無病息災と五穀豊穣を祈って家々に塩を配ってまわる。「ここの家の方が入っておいでとおっしゃったので入ってまいりました」「これは火の神の塩、これは子や孫の塩、これはおじいさん・おばあさんの塩です」と口上を述べ、玄関に用意されたお盆の上に小さな塩の山を3つ作る。
↑粟国島の伝統行事マースヤー。宿泊していた民宿の玄関を訪れた、めー組の塩売り(マースヤー)。2013年2月9日撮影(左)。首里福原はミルク(弥勒)の面を被って登場し、ひとしきり踊った後に面を外して塩売りに変身する(右)。
 昨年の1月28日に撮影した小川寺の宮田(みやでん)・火祭りの様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
小川寺の宮田01
↑宴の行われている本堂の隣りで準備する獅子方と囃子方。↓宴もたけなわになった頃、天狗を先頭に小川寺の獅子舞が登場。
小川寺の宮田02
 昨日撮影した富山縣護國神社の節分祭と、のみの市の様子も後々UPいたします。

2月3日(日)

 節分。元々は季節の始まりである立春・立夏・立秋・立冬の前日を意味していたそうだが、江戸時代以降は主に立春の前日を指す言葉になったようだ。2年前の節分は富山市の日枝神社へ撮影に行ったが、今年は富山市の護國神社へ。護國神社の節分祭では、「やいかがし」という柊に焼いた鰯の頭を刺したものが神饌としてお供えされる。一度撮影したいと思っていて電話で撮影を申し込んだところ、了解が得られた。
  節分祭は11時30分からで11時15分くらいに来て下さいとのことだったが、今日は月初めの日曜日で、護國神社の境内ではのみの市が開催されている。せっかくならのみの市も撮影したいので、少し早めに着くようにした。

 あいの風とやま鉄道で、9時46分に富山駅に到着。駅横の市電乗り場で富山大学行きに乗り換える。
 富山市に来るとたまに走っている市電を撮ることはあるが、たぶん乗ったのは初めてだ。古い車両だったのか、大きな音を立てて走る。
  10分弱で安野屋電停に着いて、護国神社へと歩く。サイトには徒歩3分と書いてあったが、5分ほどかな。

←富山大学行きの市電が来た。 

護國神社から見る立山

 10時5分くらいに護國神社に着いて、境内で開催しているのみの市をブラブラする。昭和59年10月から続いているそうだ。
 骨董から雑貨、古着、食べ物やコーヒーの屋台も出ている。冬(11月〜3月)は午前6時から正午、夏(4月〜10月)は午前5時から正午までだそうだ。

←護国神社の鳥居の前から見える立山連峰。大きい!

大拝殿と伊佐雄志神社
祈祷殿

↑大拝殿(左)と伊佐雄志神社。
←大拝殿の奥にある祈祷殿。

 護國神社とは国家のために殉難した方の御霊を祀る神社で、富山縣護國神社には戦争で亡くなった富山県出身の方々の御霊が、御英霊として祀られている。大拝殿の隣りにある伊佐雄志神社には、昭和20年8月1日深夜の米軍による「富山大空襲」の戦災死された方や公務殉職者、神社関係者の御霊が祀られている。

 11時15分少し前に祈祷殿の横にある受付に行き、撮影の許可をいただいている事を告げると待つように言われる。暫くして、巫女さんが神職の方を連れてきて下さった。昨年の春に撮影させていただいた、福町神明宮の禰宜の大嶺さんだった。普段は富山の護國神社でお務めされていると聞いていた。大嶺さんに祈祷殿の方へ案内されると一昨年に頼成の獅子舞を撮影に行った林神社の宮司さんもいらした。
 初めに個人のご家庭のご祈祷が行われ、直ぐに節分祭が始まった。護國神社の節分祭の内容と式次第を記したプリントをいただいたので、引用させていただく。

節分祭 二月三日(日) 午前十一時半齋行 終了予定 正午頃

 鳴弦の儀、豆打ちの儀が執り行はれます

由来
 節分とは、気候の移り変はるとき、即ち、立春・立夏・立秋・立冬の前日で、一般にいふ節分の日は、暦の上で大寒が去り、立春になる前日の特別の名称であります。
 そして、翌日から一陽来福を祈るといふ考へから、すがすがしく迎へるため、鳴弦の儀や豆まきの儀を行ひ、もろもろの災害を祓ひ、又、家内安全・交通安全・学業成就を祈念するため節分祭を齋行するのです。

 献饌の儀では、魔除けとして使はれる「やいかがし(柊に鰯の頭を刺したもの)」をお供へ致します。鰯の臭ひと柊のギザギザした葉は、鬼が近づけない苦手なものを意味してをります。

家族の祈願と節分祭01
↑個人の家庭のご祈祷。写真手前の神職の衣装を身に着けた子供は宮司さんのお孫さん(左)、節分祭の祓詞奏上(右)。
修祓

式次第
一、修祓の儀
一、献饌の儀
一、宮司祝詞奏上
一、鳴弦の儀 (祈祷殿にて宮司が行  ふ)
一、玉串を奉りて拝禮
一、撤饌の儀
一、祝電披露
一、豆打ちの儀 (内拝殿にて宮司、  年男、年女が行ふ)

やいかがしの献饌01
やいかがしの献饌02
↑↓やいかがしの献饌。→宮司による祝詞奏上。
祝詞奏上
やいかがしの献饌03
鳴弦の儀

←宮司による鳴弦の儀。弓に矢をつがえず弓弦だけを引いて音を鳴らし邪鬼を祓う儀式で、一昨年撮影した日枝神社の節分祭でも行われた。

 護國神社では鳴弦の儀の他に、大拝殿で鏑矢(かぶらや)を放つ「蟇めの儀・ひきめのぎ」も執り行われていたが、こちらは2〜3年前に中断してしまったようだ。

↓玉串奉奠。

玉串奉奠
豆まき01
豆まき02
神饌

↑11時45分過ぎから豆打ちの儀、豆まきが始まった。宮司と年男、年女が前に出てきて「鬼は外 福は内」と言いながらビニールの小袋に入った豆を参拝者に向かって撒く。

←豆まきが終わった後、やいかがしを中央に置いた神饌を撮影させてもらった。

 正午少し前に全て終わり、お礼を述べて祈祷殿を出る。

 境内を歩いていると飛行機が低空で横切っていった。富山空港が近いんだろうか。帰りは市電に乗らず、富山駅までゆっくり歩いた。

2月1日(金)

 早いもので、もう2月だ。明後日は節分で、その翌日は立春。
 今日も午後から、借りている本を持って図書館へ。家に居るとついついネットサーフィンを始めるし、光熱費がかかる。
 アマゾンのマーケットプレイスで購入した『五箇山 失われる山びとの暮らし』(巧玄出版)を読み終えた。興味深かった箇所を抜き書きさせていただく。
春の祭り

 春祭りは、朝日当りのよい庄川左岸の雪解けの早い川下の部落から始まって川上へと遡っていき、やがて対岸の部落に移って下ってくる。四月半ばを過ぎても、五箇山はまだ軒下に雪を残している遅い春だが、繁殖するギャワズの鳴き声はしきりと春を促し、その頃から各部落ごとに、若い衆の獅子舞の稽古が始められる。
 稽古場にはたいがい部落の中央部にある念仏道場が使われる。神社の拝殿よりずっと広く、大勢での稽古に都合がよい。道場はお講様をはじめとする仏事に関する行事のほかに、何かにつけ部落の寄り合い会場に利用されてきた。今でいう公民館的役割を果たしてきているのである。
~略~
 四月十七日の杉尾・渡ノ原部落に始まり、上松尾・田代と一日きざみに祭りは移行していくが、いよいよ明日に祭りをひかえた部落では、総普請による神社や道場の雪垣のとり払いや清掃、部落内の道路の整備をする。そして部落のおもだった場所に高さ一五メートルの竿頭に鉾をつけた旗竿が立てられ、幟旗が掲げられて準備は整う

 祭りの世話宿には神主宿と獅子宿がある。神主宿はそれなりの格式を重んじる。分限により大島部落のように戦前は十人衆が持ち回りしたり、組頭持ち回りの場合などあるが、いずれにせよ神主迎えに行く獅子舞の若者たちの接待を応じ得る家でなければならぬわけである。神主は北野や井口村からやってくる。二日続く祭りの初日を本祭り、二日目を裏祭りという。
~略~
 準備が整うと役者はそれぞれ衣装を持って家に帰って着がえてくる。華やかな柄物の衣装をつけて三三五五と集まる頃は、着飾った娘たちの姿とともに部落の中は華やいだ祭り気分が高まってくる。いよいよ暮色迫る頃、獅子宿では神主迎えに出る前の若連中を酒宴で持て成す。そして祝儀をうけ初舞をした獅子は神主宿へ向かう。

 神主宿でも若連中を招き入れ神主と同席の酒宴を催す。その上で獅子は神主を神社へ先導するのである。五色の幟旗を先頭に笛・太鼓・獅子と続き、その後から供物の三方を手にした組の衆と神主が同道する。

 五箇山の春祭りは冬からの解放の讃歌である。いよいよ明日から仕事である。といっても祭りの余情のため、仕事が手につくものではない。翌日は村の中の幟旗の片付け作業や、獅子舞の道具類の始末もある。それらの後片付けに合わせて、待望の花開きがある。場所は獅子宿を借りるが、今度は花開きのあとの慰労会は若い者たちが料理方となってとりしきる。

麦屋節

 麦屋節の由来については、平家の落人によって創られたとする説、また、平家の落武者の平紋弥が教えたので、かつては「もんや節」と呼んだところから起こったとするもの。さらに小原部落へ流刑された能登輪島のお小夜という遊女によって伝えられたとする説などがあるが、いずれも定説とはなり得ていないようである。ともあれ全国に多くの平家の隠れ里の伝承が残されているように、麦屋節もまた平と呼ぶ地名や歌詞の内容において落人伝説への心情的な仮託がはたらくというのも当然であろう。いずれにせよ詳しい考察は専門家に委ねるとして、この麦屋節が明治の頃までおおむね宴席の祝儀唄としていたものを、勇壮で格調の高い踊りを振り付けることによって舞台芸能として登場させたことは、他の民謡に類例を見ない。現代民謡のひとつの定型を創始したものとして注目されてよいであろう。

筑子節

 昭和五年、詩人の西条八十氏が「北国巡杖記」に記されている五箇山の古謡「筑子唄」を求めてこの地に来訪した。しかしそのときすでに筑子節を唄うものはいないと聞かされて、伝承の根強さを持つはずの古謡が「かく果敢なく亡び去ってしまう時があるのだろうか。」と疑念を抱きつつ山を下っている。ところが西条氏の探訪が動機となって、筑子唄最後の伝承者山崎しいさんを探し出すことができ、伝承の糸を切らすことなく今日の復活を見ることができた。筑子節の名は広く世に知られるようになったが、筑子を「こきりこ」と読むにはちょっと抵抗のあるところである。
 筑子は「小切子」とも書き、中世の歌謡の田楽や放下僧が用いた二本の竹で作った単純素朴な楽器の名から出ているものだと言われている。この筑子は、永年屋根裏で煤けた篠竹を七寸五分(約二二・七センチメートル)に切った何の細工もない二本の棒にすぎないが、肉が厚くその上よく乾燥しているのでそれを両手にして軽やかに回転させながら打ち鳴らすとき、実に軽快なリズム楽器としての効果を発揮する。

春 藁で縛れる五箇トフー

 祭り太鼓が雪解けのはやい村から村へと渡って行き、やがて雪が消えていくと五月も半ばになる。五箇山はようやく本格的な農耕の季節を迎えるのである。
~略~
 五箇山の田植えは平地より一か月ばかり遅い。

年中行事
<十月>
 神様送り(三十一日)
 出雲の国へ神様が朝拝に行かれて、諸国の神様と人知れず縁を結ばれるのだと伝えられる。家々ではぼた餅を作って祝う。

<十一月>
 神様迎え(三十日)
 出雲へ朝拝に行かれた氏神様が、結婚の約束をとりまとめてお帰りになる日として、やはりぼた餅を作って供える。

 昨年の1月26日に撮影した愛宕社の火祭りの様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
愛宕社の火祭り01
↑火祭りでは各町内が防災意識を高めるために火消しの纏(まとい)を模した大御幣を作る。大御幣の前で祈祷を受ける金屋町の人々。↓各町内で祈祷を受けた後、それぞれが魚津神社内にある愛宕社まで大御幣を運び、お祓いを受けた後に燃納する。
愛宕社の火祭り02
広河隆一氏のハラスメント、被害女性が実名手記
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砂杭材料に「スラグ」使用を検討 辺野古の軟弱地盤対策 環境影響の指摘も

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