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バックナンバー
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能
◯製作中の富山の祭りと芸能歴史年表

1月11日 市立図書館 本の返却期限
1月14日〜16日 勝興寺 御満座法要(デカローソク)
1月15日 加茂神社の鳥追い
1月20日 上市町 日石寺 寒修行 記事
1月25日 関野神社 天満宮祭 10時〜
1月26日 市立図書館 本の返却期限
1月27日(日) 新川神社 寒中みそぎ
1月28日(月) 野原のサティパロウ
2月3日(日) 護国神社 節分祭 11時30分〜
2月22日 福光火伏神社の火伏祭
朝日町笹川の獅子舞 4月第2土曜日 8月第4土曜日? 朝日町の獅子舞
福光・宇佐八幡宮の春季例大祭 4月第3日曜(前日に宵祭り)
5月18日(土)、19日(日)? 利屋町の天神祭り
5月24日 於保多神社 神幸祭(猿田彦) 8時30分〜祭典 9時〜巡行
6月1日、7月1日 瑞龍寺の一つやいと
7月6日、7日 舟見の七夕
7月15日 南砺市・是安の風祭り(不吹堂の祭り) 記事
7月22日前後の日曜日 重忠まつり 上行寺
8月7日 魚津市蛇田地区の七夕
11月13日 お会式(餅柱) 上行寺

◯新川神社 1月? 寒中みそぎ
◯新川神社 御田植祭5月
◯高瀬神社 御田植祭5月 抜穂祭9月
◯射水市三ヶの十社大神 御田植祭
◯埴生護国八幡宮、亀保里神社(長岡神社0766-67-1402)除蝗祭 6月
◯上市町 日石寺 7月1日 大岩山滝開き・火渡り修法(10時)
◯7年に1度、10月に開催 次は2022年 朝日町山崎 米吊り奉納
◯福岡町沢川の獅子舞 9月の第4土曜日?
◯加茂神社 出雲へ神を送る神送祭 9月30日と10月31日?
◯岩稲八幡社の神送り・神迎え 10月下旬と11月下旬の日曜日 
◯5年に一度、若手神職でつくる県神道青年会が御田植祭
◯2019年 白山宮の本尊。秘仏十一面観世音菩薩をご開帳(33年毎)。
◯33年に一度 庄川の神賑わい 次回は2023年7月

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事
富山の祭り
築山行事
とやまの曳山”世界の宝”を守り続ける
*砺波の獅子舞 各地区の日程
年中行事覚書 柳田国男
田の神祭りに見る日本人の神意識
山の民の祈り
立山に生きる村ー宗教集落芦峅寺のくらし
立山信仰史における芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅
五箇山の獅子舞の起源
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

1月30日(水)

 <田んぼは季節の鏡>は、前田真三さんの言葉。
 一昨日積もった雪が昨日溶け、今朝、氷が張っていた。田んぼは一つの宇宙だな。
田んぼの氷01
田んぼの氷02
 久しぶりに青空な一日。朝方は放射冷却で−1℃まで下がり、隣りの田んぼが凍っていた。
今日借りて来た本
 図書館に取り寄せをお願いした本が届いたという連絡を、何日か前にもらったので、午後から取りに行った。
  借りたのは『富山県の民俗芸能ー富山県民俗芸能緊急調査報告書ー/富山県教育委員会』『富山県の獅子舞/富山県教育委員会編集』(富山県郷土史会発行)。
 本を借りに行ったついでに、そのまま暖房の効いた図書館で読書。
 昨年の1月19日に撮影した寒中水行で知られる宝徳寺の「開運除厄星祭 寒祈祷会」の様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
宝徳寺の寒中水行
↑寒中水上の前に法華経の水行肝文を唱える副住職。↓この日は寒祈祷会の最終日で4人の僧侶が読経。法会の後、集まった信徒は自分の名前が書かれた厄除けのお守りをいただいて帰った。
寒祈祷会
景気回復「戦後最長」の可能性高まる
↑ 統計不正が明らかになったのに、まだこんなこと言ってる。
 その他、気になった記事を備忘録として。
厚労省、全面再聴取へ 統計不正「身内調査」7割
厚労省、データ不明分の再集計を断念…勤労統計
「火つけてこい」暴言の明石市長、「深く反省」と謝罪
富山市議長らをきょう書類送検へ 政活費詐取容疑で、県警
“東海村”で放射性物質漏れ、作業員9人汚染なし

1月28日(月)

 朝から雨で、時おり雷鳴が轟く。昨年ほどの大雪にはならないが、気象予想ほど暖冬ではないな。寒い。
 昨日は叔母の一周忌法要。午前中にお寺でお経をあげてもらって、場所を移してお食事会があった。
叔母の一周忌法用

 今日、1月28日は、旧暦12月最後の丑の日。この日、宮古島の野原(のばる)集落では厄除けの伝統行事、サティパロウが行われる。サティは里、パロウは祓うといった意味だ。
 パーントゥ(鬼の面)を被った少年を先頭に、草の装束を身にまとった女性たちが行列を作って集落を祓いながら練り歩く。法螺貝や太鼓を持った子供たちも一緒について歩く。

 昨年の11月、「来訪神 仮面・仮装の神々」として秋田のナマハゲなどと一緒に宮古島のパーントゥもユネスコの無形文化遺産に登録されたが、全身に泥を被って人を追いかけ回す島尻集落のパーントゥばかりにスポットが当てられ、野原のパーントゥが紹介されることは少ないようだ。
 2013年の2月4日、このパーントゥを見るために那覇から宮古島へ行った。前年の10月に島尻のパーントゥを見に行った時は大勢の観光客で溢れていたが、野原のパーントゥはほとんど観光客がおらず村の行事として淡々と進められた。島尻でもお会いしたパーントゥの研究のために宮古島に移住してきたアメリカ人の女性と、地元の新聞社、記録を撮りにきた教育委員会の人くらいだった。
 行事が終わってから初代ネーネーズの古謝美佐子さんと、プロデューサーの佐原一哉さんがいらしているのに気がついた。後でお話しを聞いたらたまたま宮古島に来ていて、今日、野原のパーントゥがあることを知って駆けつけたそうだ。
 島尻のパーントゥは草(シイノキカズラ)をまとい、その上から井戸の底の泥を全身に塗り仮面を被る。野原は普段着の少年が仮面を被る。個人的には普段着の少年が被る方が、その仮面の異形さが際立って怖かった。
 今使われている野原のパーントゥは2代目だ。久高島の旧正月を撮影に行った時に、偶然この2代目の面を彫った人とお会いした。野原のパーントゥは、片側半分が死者の顔と聞いた。

 野原はサトウキビ畑の広がるのどかな集落だが、背後にある野原岳には航空自衛隊の分屯基地がある。行事の準備中にもヘリコプターの離発着する音が集落内に大きく響いていた。そして現在、集落の近くにあったゴルフ場、千代田カントリークラブの跡地に陸上自衛隊が庁舎を建設中だ。
 島嶼防衛の名の下に沖縄の離島で造られようとしている自衛隊基地は、このような場所にある。

 ところで村を祓って歩く時に女性たちは「ホーイホイ ホーイホイ」を掛け声を上げるが、氷見の床鍋地区で毎年6月に行われている虫送りでは子供たちが「ドロムシホーイ ドロムシホイ」と声を掛けて巨大な松明を引きまわす。
 昭和の初め頃までだろうか、富山でも小正月(1月15日)の早朝に子供たちが畦道に出て、田んぼや畑をあらす害鳥を追い払うため「鳥追い歌」を唄ったそうだ。歌の最後に「ホワーイ ホワイ」という囃子が入る。ネットで検索すると日本各地の鳥追い行事で歌の最後に「ホーイホイ」という言葉が入っている。「ホーイホイ」には何かおまじない的な意味があるのだろうか?

*琉球新報の記事

→現在使われているパーントゥは2代目。こちらが初代のパーントゥ。
野原のパーントゥ02
野原のパーントゥ01
↑村の拝所の一つであるニーマガーと呼ばれる井戸の前で、草の装束を身につける女性たち。
野原のパーントゥ03
↑上段左:パーントゥ(鬼の面)をつけた少年。普段着と鬼の面、そのアンバランスさが却って異形を際立たせる/上段右:パーントゥの少年を先頭に、太鼓や法螺貝の子供がついて歩き、草装束の女性たちが「ホーイホイ ホーイホイ」と声を上げながら集落を練り歩く/中段左:サトウキビ畑に囲まれた野原集落。夕日にサトウキビの穂がキラキラと輝いていた/中段右:集落の何ヶ所かで女性たちが少年を取り囲み、ウルルルルと声を上げながらまわる。ちょっとわかり難いが、写真右端の赤い紐のバックを下げた女性が古謝美佐子さん/下段左:パーントゥの行列は17時40分頃にスタートして、40分ほどかけて村外れ(入口)に到着する/下段右:終点となった場所で草の装束を外して、行事は終わる。参加した子供たちにはお菓子が配られる。
 昨年末に国税局の業務委託先からマイナンバーを含む個人情報70万件が流出するという事件があり、先日はTカードの個人情報が令状もなく捜査機関に提供されていることが判明した。
 この2つでも「えっ!」と驚くが、今度は総務省がオリンピックに向けてのサイバー攻撃対策として、家庭や企業にあるネット家電に無差別で侵入して対策が不十分な機器がないかチェックをすると言い出した。鍵のかかっていない家には、政府が勝手に家の中へ入りますよという話だ。
 それでもテレビの話題は嵐の活動休止か・・・
 昨年の1月14日に撮影した越中万葉かるた大会、勝興寺の御満座法要、日本海高岡なべ祭りの様子をPhoto Albumにしました。こちらこちらこちら
勝興寺の御満座法用
↑勝興寺の御満座法要。後ろにデカ蝋燭2本が見える。↓雨晴海岸から撮影した富山湾越しの立山。
富山湾越しの立山

1月26日(土)

 本棚にあるハービー・山口さんの『LONDON〜AFTER THE DREAM』(流行通信)は1988年1月1日発行の第2版なので、30年ほど前に買ったのだろう。この30年の間に何回、何十回見返しただろう。
 生き生きと写し撮られた子供達のスナップ、ジョー・ストラマーやボーイ・ジョージといったミュージシャンの日常を伺わせるようなポートレート、静かで優しい老人達の肖像。見る度になんだか甘酸っぱく、幸福な気持ちにさせてくれる。そして、これらの写真と共に本の前書きに書かれた文章が素敵で、読む度に少しの元気と勇気をもらう。
 前書きの文章を少し引用させていただく。

 1975年から3年間、テムズ河畔の大きな倉庫の跡に、10名ほどの写真家たちと住んでいた時期があった。その期間、遊びに訪れたマグナムの写真家や同年代の写真家と交わりつつ、僕は自然なスナップ写真にどんどん傾いていった。
 ある晩、ジョゼフ・クデルカという写真家が泊りに来ていた。彼は母国のチェコを逃げ、ブレッソンに認められてマグナムに入った人だ。帰る国もなく、ヨーロッパをさまよいながら、ジプシーの写真を数多く撮っていた。僕は彼に「一人でいて寂しくないのか、写真家になったことを後悔するようなことはないのか」と質問した。「一度決めたら、思い悩まないさ」彼には弱さの微塵も感じられなかった。この言葉を聞いて、僕はすごく心強かった。寂しさや貧困に負けないで、写真を一枚でも多く、心ゆくまで撮ることが、ぼくの夢なのだと、その時思った。

 今日からミュゼふくおかカメラ館で『第65回ニッコールフォトコンテスト写真展』が始まった。日曜日の明日、ハービー・山口さんと鳥飼祥恵さんのトークイベントが開催される。

わたしはただ一介痩身の無名詩人
樹間に湧く無量の感に涙しぼり
地に満つる落葉や雑草にも
無情の声を呑み
天かける白雲に
うたた民族流離の歌をきく

よしや骨肉ここに枯れ果つるとも
八月の太陽は 燦として
今 天上にある
されば 膝を曲げ 頭を垂れて
奮然 五体の祈りをこめよう
祖国帰心 五臓六腑の矢を放とう 

名瀬港の朝焼け

 沖縄と同じく戦後アメリカの統治下に置かれた奄美群島で、祖国復帰運動の中心的存在だった詩人・泉芳朗の『断食悲願」と題された詩だ。
 泉芳朗らは断食運動などの非暴力で抵抗し、全群島民の99.8%の署名を集め終戦から8年後の1953年12月25日に奄美群島の日本復帰を勝ち取った。

 先日、新基地建設に伴う辺野古の埋め立ての賛否を問う県民投票を巡り、県民投票の会代表の元山仁士郎さんが宜野湾市役所の前でハンストを行ったが、それに対し「ハンストはテロ行為」「さっさと死ね」といった暴言を沖縄の国会議員・国場幸之助氏の政策秘書がツイッターに書き込んでいた。琉球新報の記事によると「さっさと死ね」の部分に関しては「ハンストはテロではなく非暴力の主張だという人たちへの、皮肉だ」と語ったそうだが、何の皮肉にもなっていないだろう。

 本土や米国に翻弄された琉球弧の島々の歴史を学ぶこともなく、彼らが味わってきた痛みに思いを馳せることもないのだろう。
 もう少し恥じを知ったらどうか。

 写真は奄美大島・名瀬港の朝焼け。2010年7月26日撮影。

 昨年の1月11日に撮影した岩稲地区に伝わる伝統行事「お鍬さま」の様子と、笹津・楡原・越中八尾の雪景色をPhoto Albumにしました。こちらこちらこちら

お鍬さま
↑本芳彦弘さんのお宅で行われたお鍬さま。↓越中八尾の雪景色。
越中八尾の雪景色

1月25日(金)

 今日は初天神。ちょっと長くなるが、富山の天神信仰をまとめてみた。

 1月25日は初天神。一般的には天神様(菅原道真公)を祀った天満宮へ当年最初の参詣をすることをいうが、富山では年末の12月25日から床の間に飾った天神様の掛け軸や天神像をこの日に仕舞う。
 飾られている天神様の掛け軸や天神像は、長男が生まれた時に母親の実家から贈られた物だ。菅原道真は学問の神様、学芸の神様、書道の神様として知られ、賢い子に育つようにという願いが込められているのだろう。
 この初天神に合わせて、土蔵造りの町並みで知られる高岡市の山町筋では1月25日に近い土・日曜に民家や商家の玄関などに年代物の天神様や各地の珍しい天神様を飾る「山町筋の天神様祭」が開催されている。
 この初天神に限らず、富山には天神様にまつわる行事がたくさんある。その理由については、加賀藩主・前田家の先祖が菅原道真だからという説もある。

→右の天神様の掛け軸は、私が生まれた時に母親の実家から贈られたモノ。

木原家の天神様
山町筋の天神様祭
↑山町筋の天神様祭では、土蔵造りの家や商店、資料館等に様々な天神様が飾られ、街全体がギャラリーとなる。商家を改装した資料館には、各地の年代も様々な天神様が展示される。2017年1月22日撮影。
 5月25日に近い土・日曜の2日間、小矢部の獅子舞祭が行われる。初日は観音寺の境内で、2日目は商工会館前を中心に小矢部市内の各獅子舞が競うように演舞する。この初日に観音寺で行われる獅子舞は、本来は「大威徳天神祭」での奉納だ。
 観音寺には菅原道真の自筆とされる自画像があり、この日にご開帳される。観音寺を紹介したサイトには「加賀前田藩主前田家は道真公を祖先とあがめ、道真公自筆の自画像を荒木摂津守から入手して当寺に預けられましたので、厳重におまつりし、正月二十四日深夜には初天神の大祈祷祭を、五月の第三日曜日には大祭を催し、全町獅子舞を奉納しております」とある。嘗ては1月25日にも菅原道真公の自画像をご開帳されていたそうだが、現在は5月の「大威徳天神祭」の時だけになったようだ。
↓観音寺の獅子舞奉納。→菅原道真公の自画像。
菅原道真の自画像
観音寺の大威徳天神祭
 5月25日には富山市の於保多神社でも、天神様ゆかりの鷽替え神事が行われる。13年間ほど途絶えていたが、昨年(2018年)に復活した。於保多神社は菅原道真、富山藩初代藩主・前田利次、二代藩主・前田正甫、十代藩主・前田利保を祀っており、富山の天神様として崇敬されている。明治6年に「柳町天満宮」から「於保多神社」に改称したとされる。
 於保多神社の鷽替え神事は、とやまの行事百選の一つ。道真にゆかりの鳥の鷽と虚言の嘘を掛けており、「替えましょ替えましょ ウソをまことに替えましょ」と言いながら参拝者同士が自分の土人形の鷽を交換していく。人形の鷽をお互いに取り替えることで、一年間についたウソを天神様の誠心に取り替え、災いをウソにして幸運をいただく神事だそうだ。 
土人形の鷽

 何回も鷽の人形を交換することでウソが薄まるという説もあり、ちょっとマネー・ロンダリングの仕組みにも似ている(笑)。
 土人形の鷽の腹の部分には番号が書いてあり、宮司さんが幣(ぬさ)を振って選んだ番号の土人形を持っている人は金色の鷽と交換してもらえる。

←於保多神社の鷽替え神事で使われる土人形の鷽。5色あり、年ごとに色を変える。2018年5月25日撮影。

於保多神社の鷽替え神事
↑「替えましょ替えましょ ウソをまことに替えましょ」と言いながら境内に集まった参拝者同士が自分の土人形の鷽を近くの人と交換する。鷽替えが終わると、拝殿で宮司が幣を振り番号の書かれた紙を掬い上げる。掬い上げられた番号の記された鷽の土人形は、金色の鷽と交換してもらえる。2018年5月25日撮影。
 高岡市立博物館によると、高岡の”三天神”祭りというのがあるそうだ。「利屋町」「千石町」「鉄砲町・白銀後町」の天神祭だ。
 一番早く催されるのは利屋町の天神祭で、5月25日より前の土・日に行われる。ご神体の木造天神像を宵祭りに関野神社から曹洞宗・龍雲寺に運び臨時の天満宮を設営し、本祭りには子供神輿が町内を練る。神輿練りの後は龍雲寺に設営した天満宮の前で読経と関野神社の神職による祝詞奏上が行われる。
 祭りの由来は高岡で大火が起こった際に天神様に祈念して類焼を免れた龍雲寺の住職がそのお礼に太宰府へ参詣に行き、その時のお告げにより天神像を頂戴した。そして元禄3年(1690)、お堂に天神像を安置。明治維新の際に、天神像を町内に勧請し、天神祭りを行うようになった。そのご神体が現在は関野神社に祀られており、関野神社に移されたご神体が、一年に一度この天神祭りの時に里帰りをするということのようだ。祭壇には火伏せの札が供えられ、氏子の方々に配布される。
利屋町の天神祭り
↑5月25日直前の土・日曜日に行われる、利屋町の天神祭り。宵祭りの日に関野神社に預けてあるご神体の木造天神像を町内の龍雲寺にお運びし、臨時の天満宮を設営。本祭りでは子供神輿にご神体の神籬を安置し、子供たちが町内を引いてまわる。子供神輿の引き回しは、近年に始まったようだ。子供神輿の巡幸が終わると、龍雲寺に設けられた天満宮の前で僧侶の読経、関野神社の酒井禰宜による祝詞奏上が行われる。2018年5月20日撮影。
千石町の天神祭り

↑千石町の天満宮(左)、境内にある筆塚でご祈祷する有磯正八幡宮の上田宮司。2018年6月15日撮影。

 千石町の天神祭りは6月15日に行われる。境内には筆塚やねまり牛があり、市内では一番大きな天満宮だと言われている。前日から氏子町内では各家の玄関に行燈を飾っているが、お年寄りだけの家が増えたこともあり今では行燈のローソクに火を灯す家はほとんどないようだ。
 10年ほど前までは学問・書道の神様といわれる菅原道真に因んで、書を奉納する献書祭が行われていた。氏子の方によれば境内にテントを設営して、その中に書を飾ったそうだ。14日から展示して15日に書の表彰式があった。筆塚は書を教えていた先生が建立したものだが、その書道の先生が亡くなられてから献書祭は途絶えたという。
 現在は有磯正八幡宮の上田宮司が、社殿と筆塚の前で神事を執り行っている。この天満宮には1825年(文政8年)に加賀藩主より拝領した、扁額がある。絹の生地に梅が描かれ、藩主直筆とされる天満宮の文字が書かれている。

加賀藩主より拝領した扁額
 鉄砲町・白銀後町の天神祭りは8月の第3日曜日に開催されている。鉄砲町も白銀後町も旧町名で、現在は鉄砲町の一部と白銀後町の一部は末広町、残りは白金町になっている。
 天神祭りは、元々この地にあった曹洞宗の禅憧寺の敷地に置かれた天満宮で開催されていたが、禅憧寺が平成14年に廃寺となり、天満宮を町内の一角に移して斎行されている。鉄砲町・白銀後町の辺りは嘗て谷内(やち)と呼ばれていた地域で、天満宮の名も谷内天満宮が正式のようだ。
 昔は8月24日、25日の2日間に渡って行われていたが、現在は1日だけで勤め人も参加し易い8月の第3日曜日に開催されている。2日間に渡っていた頃は24日の宵祭りの後、午前0時にお供えされた生きた鯉を用水に放す放生会が執り行われたが、今はご神体の巡行が終わった19時頃に鯉を放している。
 ご神体は天神様の掛け軸で、嘗ては唐櫃に入れて町内を巡幸したが、今は小さな社に移し専用のリヤカーのような台車に乗せ、子どもたちが引いて巡幸する。
 祭主は大工中町にある大木白山社の高尾宮司で、現在の宮司の祖父である高尾宗豊宮司が昭和25年の菅原道真公没後1050年祭の時に記した縁起書によれば、<1542年(天文11年)、奈呉の浦城主・大徳寺大納言實規(さねのり)が越後の武将・長屋六郎為景との戦いで苦境になって天神様のご尊像に祈願したところ、願海寺城主・寺崎刑部左衛門が駆けつけて敵を打ち破ることができた。そこで實規から刑部左衛門に手柄としてご尊像が渡された。刑部左衛門の七代後の寺崎半左エ門が託宣を受けて文政年間(約200年前)、高岡谷内にご神体を納める。そのご神体が明治維新後に町内の守護神として祀られるようになった>とされている。
鉄砲町・白銀後町の天満宮
←鉄砲町・白銀後町の天満宮は禅憧寺の敷地に置かれていたが、平成14年に廃寺となったため町内の一角に移された。写真は祭礼の日ではない、普段の天満宮の様子。2018年8月11日撮影。
↓社の中にはご神体の天神様の掛け軸の他、縁起書が納められる。そして社の前には天神像が飾られる(左)。神事の後には、神饌の鯉を用水に放す放生会が行われる(右)。2018年8月19日撮影。
鉄砲町・白銀後町の天神祭り
 氷見市立博物館が制作した『氷見の祭りと年中行事』によれば、昭和30年代頃までは氷見の一般の家庭で毎年10月25日に床の間に天神様の掛け軸をかけ、三方に盛った柿を供える「柿天神」が行われていたそうだ。お供えする柿は「合せ柿」という、小粒の「味正柿・あじまさかき」など渋柿を湯煎して渋みを抜いたものが使われた。
 一般家庭での柿天神は途絶えたようだが、伊勢玉神社では江戸期から続くとされる特殊神饌として柿を供える天神祭(柿天神)が今も毎年10月25日に斎行されている。
 氏子である上伊勢町、中伊勢町、下伊勢町、高砂町、松田江町の神社総代が拝殿の中央にジグザクに並び、伝供によって神饌の柿をお供えする。
 甘い食べものが貴重だった時代に、菅原道真が庶民に甘い柿を伝えたことを感謝して行われる柿天神。戦前までは氏子の児童らもたくさん参列し、柿をお下がりとしていただいて帰ったそうだ。
 伊勢玉神社では、かつては5月25日にも天神祭を行っていたそうで、5月は春の天神祭、10月は秋の天神祭ともいうそうだ。
 やはり氷見市にある上日寺でも柿天神が行われていたという記事をネットで見つけたので訪ねてみたが、応対して下さった昭和37年生まれだという僧侶の方の話では、幼い頃の記憶にはあるが現在は行っていないそうだ。
 柿天神が終わると、そろそろテレビでは神仏具店の天神様を販売するコマーシャルが流れてくる。
伊勢玉神社の柿天神
↑伊勢玉神社の柿天神。氏子町内の神社総代が参集し、拝殿中央にジグザグに座り伝供によって神饌の柿をお供えする(左)。富有柿・筆柿・水島柿・合わせ柿の4種類が5つの三方に盛られている(右)。2017年10月25日撮影。
 因みに加賀藩・前田家のお膝元である金沢でも、戦前は12月25日から1月25日まで天神堂を飾る風習があったそうだ。天神堂も、やはり男の初孫が生まれると母親の実家から贈られたそうだが、富山ほどには一般的ではなかったようだ。天神堂はミニチュアの天満宮に天神様や随臣、灯篭や狛犬、鳥居がセットされた豪勢な作り物で、気軽に買える代物ではなかったのかもしれない。
↑天神堂。山町筋の天神様祭にて、2017年1月22日撮影。
 ところで千石町の天神祭りは15日だが、他の天神祭りは25日が基本(現在は仕事の休みが取りやすい25日に近い日曜日が多いが)。これは菅原道真の生誕が承和12年6月25日(845年8月1日)で、死没が延喜3年2月25日(903年3月26日)。また太宰府に左遷が決まったのが1月25日と、25日が天神様の縁の日だからと言われている。

1月24日(木)

 お年玉付き年賀はがきの当選番号がとっくに発表になっているのを忘れていて、昨日になってようやくチェックした。昨年はお年玉切手が4枚も当選して驚いたが、今年は1枚。さっそく午後から郵便局へ行き、交換してきた。干支である亥の絵柄ではなく、招き猫だった。
お年玉切手

←2019年のお年玉切手。

 図書館から借りている本の返却期限は26日だが、3冊借りているうちの1冊は読み終え、残りの2冊はネットで購入したので返しに行ってきた。受付で3冊返却し、新たに2冊の郷土資料の取り寄せをお願いした。
 家に帰って本を読むと光熱費がかかるので、そのまま図書館で2時間半ほど読書。

 読み終えて今日返却した『富山の祭りと行事 予祝祭 祖霊祭 新嘗祭』(巧玄出版)から、興味深かった箇所を備忘録として抜き書きさせていただく。

予祝と農民
 正月十四日の晩、年男は、みずみずしい柳の木で祝い棒をつくる。魚津市ではおもきぼ、立山芦峅寺では嫁叩き棒といった。子どもたちが十五日に、嫁の尻を叩き、孕め孕めといって祝儀をもらって回った。黒部市や魚津市でも予祝のための農具型の他、祝い箸をつくる。箸の先端が削りかけになっていて、稲穂に似せてつくるのも、このような大きな稲になってもらいたいという、農民の心意の表現である。

田の神送り
 正月11日に農業の仕事はじめを行う。神棚に祭られていた田の神を、この日の早朝に苗代田に送る。

利賀の初午
 人間社会から隔絶され、平家伝説の山里として知られてきた利賀村は、このところ観光客で賑わっているが、いったん冬になると村が雪に埋もれて、静かな利賀村にかえる。今では合掌造りの家も失われ、一家団らんの囲炉も取り払われて、昔ながらの生活ぶりは見られなくなった。ただ子どもたちの手で伝えられてきた「初午」の行事にこそ、ふるさとの心が残っている。

築山から曳山へ
 二上山の神は築山で祭りを受けて田の神となり、さらに上・下二上部落の各家のなりわいの神としての祭りも受ける。この時に、動かぬ築山の神を、各家々のなりわいの神として祀ろうとしたところに、移動性の山車へと転化するのである。ここでは、動く築山より、動かぬ築山の方が古いことになる。松が一本あるだけの簡素な山車は、移動性の山車の原型をとどめている。

氣多参りは山行き
 四月一八日は伏木氣多神社の祭礼である。神社では御輿が出る。社前の一部を囲って、その区画を回り、それで全町内を渡御したことにする。祭礼が終わると、人々は神社の裏山に登って花見をしたという。ツツジや椿の花をめでながら、一日を祭りのご馳走で楽しんだ。これをこの地では「山行き」といっている。「山行き」は、山の神を里の田畑や、各家々のなりわいの神として迎えた名残だといわれている。これがぞくにいう氣多参りで、新湊や高岡をはじめ、遠くは新川方面からもきたという。今日では高岡の古城公園の花見が盛んである。花見は山行きの名残りをとどめるものだが、今日では「山行き」はすっかり衰えた。

競技は年占い
 田の神を乗せた牛を潰せば、その年は豊作だというので、氏子の若者の力がこの時に発揮される。牛をすわらせることによって、田の神にいつまでもこの土地にふみとどまってもらい、稲作の成就を祈願しようとしたことに始まるものである。

神前の田祭
 下村加茂神社では、六月初めの卯の日に田植祭がある。この時真菰の葉で、早乙女の人形をつくって、祭りの最後にこれを参詣者がもらい受けて神棚に一か年間祀ると、その年は豊作だという。柳の小枝を腰に差したのが男性、サカキの葉を後ろにはさんだのが女性で、二体一具にしばってある。五穀豊穣を願い、これは人間の増殖に具象したものであろう。

七夕
 年に一度の七夕様よ どこへ流そじゃ 川すそへ 天の川原へ流れ込む・・・
 入善町吉原では、中学生が中心になって屋形船をつくる。船端にはなす・きゅうり・トマトなどの棚つ物(田畑でできた五穀)を飾りつける。七夕様は初なりものが好きだという。村をかつぎ回ると、有志の家から寄付金がある。

祖霊祭
 八月一三日の夕方、各家家から上市川の両岸にきて盆の精霊を迎える行事が年々盛大になってきている。めいめいが家の精霊を迎える迎え火の他に、各町内共同による大きな迎え火が焚かれる。主に高校生が中心になって、七夕に使った笹竹で、俗にニヨトンボといわれる一五メートルあまりの高いやぐらがつくられ、七夕の飾り物のすべてがこの時燃やされる。現在は花火も打ち上げられて、上市川堤防上は精霊迎えの人々で雑踏する。

 精霊には、農作物の供え物の他にご膳が供えられる。なかでも精霊さんが、さらっとしたものが食べたいというので、きゅうりの浅漬に粥をお供えする。これをあしあらいがいという。麻殻を、なすやきゅうりに脚をつけて、馬や牛を飾ったりする。これを精霊さんの乗ってくる馬だとか牛だという。(富山市)
 都会で就職した子どもや兄弟、親類の者が帰省して、祖先の御霊を慰める。しかし、お盆はむしろ正月神の年神祭に共通するものである。(朝日町)

風祭
 県内には「ふかぬ堂」という風神堂が一〇数か所あって、風の害の少なからんことを祈願する風祭が営まれる。主に岐阜から富山に通ずる谷間ぞいに吹きおろすフェーンの顕著な地域に分布している。また朝日町泊では、長い竹ざおに鎌の刃先を風の方向に向け、手を叩いてホーホーと大声をあげる。これは風を切る意味に相違なかろう。

秋祭り
 下新川地方は早場米で知られる地方だ。秋祭りの早い朝日町笹川では八月二七日。今年新築した家や、新嫁のきた家々へ神輿が渡御して祭りを受ける。幾晩も練習した笛や太鼓に合わせて踊る獅子舞は、勇壮活発だ。獅子舞をみていると、激しい力を持った神霊を鎮め、あるいは悪いものを追い払う。そういう力を感じる。

田の神迎え
 左は大黒、右はエビス。農神を大黒様だといい、エビス様だともいっている。東日本ではエビス、西日本では大黒がともに田の神と習合され、漁業神、福徳神とは別の信仰を農民の間に持っている。
 一一月二〇日の夕方、遠くへ稼ぎに出ていたエビス様(田の神)が電車に乗って帰ってくるという。(大正一一年富山と宇奈月間に電車が通じて以来のことで、それまでは村境である、現在の下立駅まで迎えに出た)迎えに出るのは主人で、そこに神がいますようにして家へ迎える。(宇奈月)
 主婦が神棚から、エビス様(田の神)を案内して湯殿に案内する。湯加減を見てから、「ごゆっくりおはいりください」という。新しいタオルもおいてある。膳には海の幸、山の幸が並ぶ。エビス様に供えるもののうち最も大事なものは、二股大根(エビス大根)と赤タイである。勝手元は、エビス様のご膳の準備で主婦が忙殺される。
 エビス様を風呂から主婦が迎えて、神棚の下に設けた神座に案内する。そしてご膳を運び終わると、主人とその家族の者一同がオエ(広間)に集まって礼拝する。長い間ご苦労様でした。おかげでたくさんの金もうけさせてもらいました。来年もよろしくたのみます」と言上し、神酒を注いで勝手元に控える。
 神の膳を家中のものが分けあって食べる。この日の夕飯の膳はご馳走もあって楽しい夕食で、子どもたちも喜ぶ。神とともに食事をする相嘗めの祭りである。
 出稼ぎ先(田圃)から帰ったエビス様は、来年の一月二〇日まで、この神棚に祭られる。

正月神
 富山県では、正月サンといえば天神サンと思い、天神サンといえば正月サンと思い込んでいる人は今も多い。
 天神サンは、もちろん菅原道真のことだが、どうして菅原道真を信仰するようになったのだろうか。もともと富山県は、菅原道真の子孫だといわれている前田家の所領であったから、ことのほか天神信仰があつく、そのために、正月神様だと思い込んでしまったのだという人もあるが、天神は天から降りて来る神であり、天津神であった。その正月神様は、いったいどんな神格をもっているのだろうか。県内にみられる正月神にまつわる資料を列挙してみよう。
 一二月にはいり、遠山に雪がかぶり、水田には、薄氷が張る頃になると、富山のデク人形の天神サン売りの呼び声が、どの町や村でもまたれたものであった。(150P)

予祝祭
 他県では、迎えてきた若木に、農作物や縁起のよいいろいろの形のものを刺し、今年も豊作であってもらいたいと祈る風習がある。それが後に、養蚕が盛んになって、繭の形をもつくって刺したことから、ついにこれらの飾り物を刺した木を総称して、繭玉と呼ぶようになったといわれている。
 県内一般に、小正月の餅花(繭玉)を直接に稲の花といっている所が多い。(154P)

さつき祝い
 氷見市白川では、正月一一日に天照皇大神宮の祝い日だといって、神棚の松をおろす。黒部市堀切では、この松を田の神様だといっている。松は田の神の依代であり、田の神はこの日に、農家の家から田圃に帰って行くのだと、古くからいわれている。田の神は、米のはいっている一升桝に入れて三宝にのせ、捧げ持って苗代田にいく。松は雪の苗代に立てられる。神棚に昆布・みかん・串柿などの供え物もおろして苗代に供え、約三メートル四方ほど雪をかきならし、中央の松葉に神酒を注ぎ、明きの方を向いてかしわ手を打って拝む。どんな豪雪の時も、必ず行ってきた厳粛な行事である。
 魚津市天神では一一日を田圃の正月といい、苗代田に松の木を二本たてる。箕にわらしべを敷いて、鏡餅をのせたものを供え物として飾る。恵方に向かって三度鍬を振ってかしわ手を打ち、神にその年の豊作を祈る。家では、田植にきてくれる人たちを招いて、にぎやかに会食する。この日は、その年の手伝い人との契約の日でもあった。
 そもそも正月二(一一?)日の早朝に、儀式としてそれぞれ仕事のまねごとを、少しばかりするならわしは古くからあるが、仕事始めのなかで、正月一一日に農事の仕事始めを行うのは、全国的に多いので、おそらく古風を伝えるものであろうといわれている。(156P)

初午
 初午の子どもたちは、一月五日頃から、毎夜練習をかさね、毎年一月十五日の夜から、村内の各戸を訪問して舞った。この初午と同系のもので、正月の門付けの一つに「蚕賞め」があった。養蚕の盛んな頃、蚕賞めが各家を訪れて
 一はねすると千貫 二はねすれば万貫
といって、わらでつくった馬の頭を持って、ガランガランと鳴らす。人々はいくらかのお金を与えた。大沢野方面では、昭和にもきたというが、養蚕がすたれるとともに、これらの芸人も姿を消してしまった。(162P)

砺波野の小正月
 ところで、一日に始まる大正月に対して、この一五日の行事を小正月という。大正月ほどに、いやそれ以上に行事が集中しているからである。なぜこのように正月行事が一五日に色濃く行われるのであろうか。
 民俗学の説くところによると、本来は望(もち)の日、すなわち満月の日をもって年の変わり目、月の変わり目としていたことの名残であるという。だから一四日を一四日オートシという。その後、暦がはいってきて大正月ができ、そこへ公式の正月行事は移ったが、なお本質的な予祝儀礼は小正月の方に残ったというのである。
 そして左義長は年の神を迎える聖なる火であった。昔の一日は前日の宵から始まったのであるから、一四日の晩の行事も昔の意識では一五日の初めであった。(宮祭りに宵祭りがあるのもそのためである)。年の神、つまり祖先神は左義長の火を目あてにして降りてくるのである。城端町では左義長のことをトシトクといい、福光町臼中ではハルガミヤキ(春神焼き)といっているのもその心の名残であろう。
 さらにいうならば、古来日本人の暦観念では、一年を二分して、正月の望の日と盆の望の日と、二回年が改まると考えられていたらしい。そのため、正月行事と盆行事には似通ったものが多い。一二月末に大祓をして身を清めるように、六月末にも夏越の神事といって、川で身を清める諸行事がある。滑川のネブタ流しや各地の茅の輪くぐりの行事もそれである。また、七月正月に対して七夕がある。これは望の日の祭りへの忌み籠りへはいる日にあたるのであろう。一四日の左義長に対して、盆には精霊迎えの火がある。八尾や上市のニウトンボは左義長のように大きい。いずれも祖先神もしくは祖先の霊を迎える火である点で通じている。
 このように古い心意が、もとの意義をすっかり忘れられても、一つ一つの行事のなかに、地下水のように音なく流れ続けてきたのである。(167P)

つきやまと山車
 射水神社(二上)の春祭りは旧四月八日で、ここでは、神が山頂から里へと降臨する過程がよく伺える。そして、里で祭られた神は、つぎに各家々のなりわいの神となるのであろう。射水神社の祭礼の最後に、ご幤が鏡池に刺されるが、これは稲作に欠かせない水の豊かならんことを祈念しての水神であり、田の神であろう。講座日本風俗史「やま」の移り変わりのなかで、祝宮静はつぎのように言っている。

 二上山には二つの峰があって、二柱の神が鎮座されているが、七日の真夜中に峰をおりて、麓の社地に立つ杉の大木をつたわり、その根もとに設けられた台の上に、降臨されると信じられている。この台を「つきやま」というのであって、この場合、山と杉とは天然のものが備わっていて、別に祭壇ともいうべきものが設けられているわけである。この祭壇は八日の午後、定めの時刻(今では三時)に取り壊されるが、これを取り壊すことが「神おくり」の意味になるのであって、うっかりして定めの時刻を過ぎると、神霊が荒れると恐れている。
「つきやま」をかたづける時、飾りの造花が、氏子たちによって持ち帰られることは、ちょうど、山から花の枝を折ってくる習俗との関係に、一貫したものが伺える。

 これに類似したものに、放生津八幡宮の曳山があるので例示してみよう。
 新湊市東町にある放生津八幡宮には、秋季大祭に「つきやま」といって、飾り山が境内に設けられる。これは、境内の立木(松)を背にして、前に雛壇を据えて、その上に姥神(うばがみ)とよぶ鬼女(狂女)の面をつけた女神を中心にたて、四隔に四天王を配置する。この女神は、俗にオンババ(姥神)が白衣に金襴の打掛けを着、ご幤を持って降臨されるという。その他、客人(まろうど)といういくつかの人身像を加えている。この神事は、天然の立木に神霊が天下って、人像を象るのだと伝えられている。一日だけの祭礼で、夕方には急いで「つきやま」から神像を仕舞うことになっている。荒天でも晴天でも、日中だけの神事である。
 放生津の曳山車の原型が「つきやま」であることはいうまでもないが、固定したものから、移動性のある山車に発展したのは、いつの時代か明らかにすることはできない。
 また、この射水神社(二上)の祭礼には、町内から山車がでる。山車は二メートルあまりの松の木を山車に飾るだけで、装飾もほどこされない素朴な山車である。この松の木が「よりしろ」となるわけであった。県内では珍しい山車の一つであろう。
 以上のことをまとめると、天にいます天津神の神霊が、山の峰に降下され、その神霊が山麓の杉なり松を伝わって、人工の祭壇に降臨して、祭りを受けられる場合、その祭壇を「つきやま」といったところに深い意義がある。
 こうして天津神を迎えた里では、春祭りが執行される。そのうちでも、もっとも豪華で華麗をきわめるのは、なんといっても高岡の御車山であろう。長い冬が過ぎると、人々は解放的な気持ちになって、県内の各地から集まってくる。
 高岡市関野神社の春祭りは五月一~二日に行われる。ぞくに曳山祭、あるいはたんに山祭りと呼んでいる。この呼び名のように、我々の祖先たちが、天然の山から人工の山へ神の降臨を願って春祭りとなる。この固定した「つきやま」から移動性のある山車に発展して、さらに各町内の家々にも渡御するようになったものが、高岡をはじめ八尾・城端などの曳山である。
 現在、高岡には七本の曳山が出る。歴史的にも芸術的にも、富山県随一の名物である。曳山は、高岡城をつくった前田利長が、秀吉から拝領したものだと伝えている。
 御車山の各部の寸法は、七台それぞれ多少の相違がある。構造は大体似たもので、直径一・八メートルもある大車をはじめ、勾欄をめぐらして神座をつくって人形を飾る。その装飾・漆工・金工・彫刻・染色には、桃山時代の特性を取り入れて、豪華絢爛の美を誇っている。囃子も格調の高い雅楽風で気品がある。
 県内にはその他、八尾の曳山、城端の曳山と庵屋台などもある。要するに、山でも鉾でも人形でも、上に乗っている中心は神の依代であった。ことに山の形を型どって、台の上に乗せたものは、山頂から神を迎えるという古い伝承的な観念をよくとどめている。今日みられる多くの曳山は、互いに思いつきの意匠の飾りばかりに重点がおかれ、その華美を誇り、本来の山や鉾の形をかげの薄いものにしたうえ、さらに観客にみせびらかす曳山となったために、雨が降ると、ビニールをかぶせるという本末を転倒したものになってしまった。(170~172P)

ヤンサンマ
 射水市下村の加茂神社の春祭りは、ぞくに加茂祭といい、村人はヤンサンマという。この祭りは、走馬・神幸式・神馬式・牛潰式・九遍式・流鏑馬式からなっている。とくにヤンサンマと牛潰式は、あまりにも有名である。
 牛潰式は、鎧・兜に身を固めた若者が、牛に乗って群衆の中に現れると、待ちかまえていた氏子の若者たちが、おおぜいの力で牛を潰そうとする。牛は人の力ぐらいでは潰れないだろうが、つぎつぎに出てくる新手の若者の力に屈してしまう。この牛潰しは、群衆のもっとも力がはいるものである。牛を潰せば、その年は豊作だという。田の神を乗せたこの牛を伏せてすわらせることによって、田の神にいつまでもこの土地に踏みとどまってもらい、神の加護によって、稲作の成就を祈願しようとしたことに始まるものであろう。
 また流鏑馬は、弓を射る行事として、中世の武士の社会で、いちじるしく発達したものだが、もともとは、神の意志を判断するための祭りごとであったといわれている。それが今日の祭りに結びついて、全国のあちこちで伝承されているものの一つとなった。当日は、鎧で身を固めた氏子の代表が、数日前から、馬乗りと弓技の練習に練習をかさねて、群衆の参道を走りながら、矢で的を射る。矢で射られた的をもって帰ると、魔除けになるという。これを豊作の豊凶をはかる手段にされていたのであろう。(173P)

田植祭
 射水郡下村に鎮座する加茂神社では、毎年六月の初めの卯の日に、お田植祭がある。これは稲の成育と豊穣を祈る予祝祭である。境内の十坪あまりの一定区域を神田にみたてる。神田は砂で畦をつくり、田圃に見たてて、神職が三把の糯の苗を植える。
 祭りの当日早朝真菰刈りがある。総代たちが真菰で早乙女の人形をつくる。その際に稲穂と刀をつくる。稲はシラカケの小枝の穂と、刀は柳の小枝でつくる。
 この人形は、柳の小枝を腰に差したのが男性で、シラカケの穂を後にはさんだのが女性で、いずれも白紙でつくった着物を、左前にして紙よりで帯をしめる。男性を上にして二体一具にしばってある。真菰の人形ができあがると御田へ移す、神職が苗を植え終わると、後ろ向きになって人形を群衆に投げる。ひろった人は、それを持ち帰ると豊作になるといい、これと同じ小型の人形も、別に参詣者たちの手によってつくられていて、これをもらい受けて、一年間神棚に祭る。
 お田植祭はいうまでもなく、稲の豊作を願った祭りだが、私たちの祖先が、五穀豊穣を願い、これを人間の増殖に具象したものであろう。この人形は、人々の願望を具体的に表現していておもしろい。

熱送り・虫送り
 福光町の八幡宮では、七月二二~二三に、熱送りの祈願祭がある。それが終わると、ジジ・ババというわら人形をのせた紙張りの舟を引き出して、辻々で太鼓をたたく。灼熱の太陽の照りつけるなかで行われる。おおぜいの人々が、笹竹をもって、青田をなでて回る。そして大声で
 送るバイ 送るバイ 熱送るバイ
とはやして田を回ると、小矢部川へ流す。
 砺波地方では、ウンカをコンカムシといい、ニチオクルとかムシオクルといって、太鼓をたたいて、毎晩松明をともして村内を回った。小矢部市の北蟹谷では、八メートルもある大松明をともす。これで近くに虫が集まってくるのを焼き殺した。その後、田ごとの水口に石油を流して、一枚の田の全面に流れ広がるようにし、長い竹竿で稲をたたくと、虫が水面に落ちて死んだ。また、獄門にすればよいといって、生きた虫を串に刺して、畑にたてたものである。
 小矢部市では、土用の三番の日に、晩方に左義長を焼く。子どもたちは、「コンカムシア アーガレ アーガレ」と叫びながら田を巡って歩く。また、北蟹谷の代伏では、若い衆が、四間ぐらいの大松明を焚き、太鼓を打って夜半過ぎまではやす風習がある。
 氷見では、例年六月上旬から下旬にかけて虫送りをした。まず神社では、神職がお祓をしたご幣を、田の所どころにたてて松明を持ち、太鼓をたたきながら田を回って、虫を追い払う。
 氷見市の朴木では、夜になって竹・わら・生杉葉の松明を持って
 稲虫送り出せ
と言いながら、田のふちを回ってご幣を刺した。
 氷見の小境地区では、予祝をかねた虫送りである。
 ドン ナンナン 虫送る ドンドン
 オラ稲虫送るドン ヘーボーもさがれ ドン
 アワノ穂もさがれ ドン

田祭
 一般には田植え終了時は、六月五日頃までが多かった。田植えが終わると、ヤスゴトといって田祭をした。田祭は村々で日取りを決めている地方が多い。六月一〇日過ぎから二〇頃まで行われた。昔は、それまでに賃金の支払いを済ました。
 小矢部市では植付盆ともいう。ぼた餅をつくる。この日は一日休んで、縁付いている娘を朝拝(ちょうはい)に呼んだりする。山から笹の葉を取ってきて、笹餅をつくったり、押し寿司をつくって祝う。平地の村々では、子どもや青年団が、夜高行燈をつくって村内を回り、苗の伸びかけた水田と、初夏の夜空を彩る。
 旧下新川地方では、春田打ちが終わって田扱ぎ、代掻きの順序で田ごしらえをする。こうして日一日と、水田が見ちがえるように美しく変わっていくのは、田の神のなす業であるといって、田の神への信仰はあつい。

七月七日
 もともと七夕というのは、この日につくる祭壇の棚に、標識の旗をつけることであったといわれている。つまり、正月の門松や年神棚にあたるもので、明らかに祖霊を迎える招き代であった。
 七夕には、少女が技芸の上達を願う意味も込められている。葉付きの青竹に色紙の短冊や、すいか・なす・きゅうりなどの切りぬきをつくって五日に飾り、七日に川へ流すことが多い。入善町吉原では、村ごとに青年たちが若衆宿に集まり、四尺あまりの屋形船をつくる。船端の竹杭には、なす・トマト・かぼちゃなどを刺す。また、短冊・ちょうちんも飾り付けて村をかつぎ回る。青年たちに交じって子どももいっしょに
 年に一度の七夕様よ
 どこへ流そじゃ川すそへ
 天の川原へ流れ込む
 来年またございせ 
 さらい年またございせ
と拍子木を打って回る。さらに各村の屋形船がいっしょになって、村を練り回る。回り終わると、七夕といっしょに屋形船を流す。八日の朝、子どもたちが裸になって、白鉢巻きをしめて泳ぎながら、屋形船を押して沖まで出る。すると、船は帆に風をはらませて、必ず北を指して行くそうである。天の川が北に走り、船も北に走るというので、若衆たちは満足した。
 魚津市では、四(七?)月七日の晩、わらにおを焚いて、大きな炎となった時に流した。
 宇奈月町では、七夕を送る道中は笛・太鼓でにぎやかに送る。
 入善町舟見では七夕を流す時、「七日の七夕様に、また来年逢うまいか」といって流す。
 黒部市石田では七日晩、七夕を海辺に並べ、ともされたたくさんのちょうちんの燈火が消えるまで流さないといった、それぞれの地域の習慣があった。
 城端では、各町内の子どもたちが、各戸から歳徳と同様に「たのんますちゃー」と寄附を集める。大きい青竹に、数十の紅ちょうちんや短冊を吊るし、歌を歌って町中を練り歩いた。
~略~
 滑川市では、毎年七月三一日、各町内の青年や子どもたちが、各戸からこも・むしろ・竹・木などの屑を集めて、七、八尺あまりの人形をつくり、はしごで台上に直立させ、それを午後から海岸につり出して、人形を燃やす。子どもたちは裸になって、
 ねぶた流され 朝起きやれ
とはやす。「ねぶた」とは、秋になっても忙しい人々を悩ます睡気の精霊を指すのだろうといわれている。
~略~
 近年、七夕の川流しは禁止されたが、商業都市の活気を誇示するように、オタヤ通りをはじめ各商店街の通りは、七夕の豪華さを競いあっている。

盂蘭盆
 上市では、一三日のヨイボンには、上市川の川原に、各町内が競ってお精霊迎え火を焚く。ニヨトンボといって、一〇メートルあまりの大きなものをたてる。高校生や中学生が中心になってつくる。つくる材料は、七夕に使った孟宗竹で、土台は、しっかりした丸太で櫓をつくる。四本の竹の先端を結んで、その空間には七夕の装飾品やわらなどを詰めこむ。このニヨトンボが町内共同で行う精霊迎えの大がかりな精霊火であった。
 日がすっかり暮れた八時頃には、各家々から麻殻をもって堤防に集まり、両岸の堤防は人で埋まってしまう。各自が、火のついた麻殻を静かに大きく振り回しながら
 ショーウライコ おショウライコー
と呼んで、亡き祖先の霊を呼ぶ光景は、宵盆ならではのものである。~略~近年では、花火も打ちあげるようになって、静かな精霊迎えも、納涼気分と観光的色彩が濃くなった感じである。
 県内では、一三日の夕方、墓参りに行くことを精霊迎えといっている。立山町五百石では、墓へ精霊迎えに行ったその帰りには、その家の主人か長男が、精霊を背負って家に迎える。目には見えぬ精霊を、そこにいますがごとくに応接する様子は、実に古風でもある。

風祭
 例年、夏から秋にかけて、一、二度の台風に襲われるのがふつうである。そして、豊作の期待が一挙に吹きとんでしまう。夏になると農民の関心は虫害・干害とともに、風害にも向けられる。そのために、風の害の少なからんことを祈願する風祭が営まれるのは当然である。
 県下には「ふかぬ堂」という風神堂が十数カ所あるが、おそらく、大風が吹かぬようにと願う趣旨で祭ったものであろう。ふかぬ堂の所在地は、
 東砺波郡城端町南山田  ふかぬ堂
 東砺波郡井口村井口   ふかぬ堂
 東砺波郡井波町南山見  ふかぬ堂
 東砺波郡井波町南高瀬  ふかぬ堂
 東砺波郡井波町南蓑谷  風宮社
 婦負郡八尾町卯花    風宮社
 婦負郡山田村深道    ふかぬ堂
 ふかぬ堂は、砺波・婦負・上新川郡などの、谷間ぞいに吹きおろすフェーンの顕著な地域に分布している。これら砺波・婦負・上新川では、いかに風を恐れたかと物語るいろいろの習俗が残っている。
 大沢野町のふかぬ堂が建立されたのは、明治二〇年。建立前は毎年風の被害がはなはだしかったが、当時、砺波郡是安村九万堂の風神分霊を祭ってから、被害が少なくなったと伝えられている。人力をもってはどうにもならぬ風害に対し、神の加護を期待したのである。
~略~
 九月一日は、八尾町の「風の盆」で、町民は仕事を休む。風の少なからんことを祈願しての風祭りである。大正時代にはこの日ニワカといって、男たちがすげ笠をかぶり、バンドリを着て町を歩いたが、大正の末からおわら踊が盛んになり、ニワカも姿を消した。

田の神迎え(エビス神)
 農作業の過程からいって、最後にくる折り目が収穫祭である。すなわち、収穫祭の本義は神を招いた後、神を喜ばすために供物をする。神に供えたものを祭る人たちが、ともに嘗め合うところに、祭りの本義があったといわれている。能登のアエノコトをはじめ、入善町や宇奈月町の田の神(エビス神)の送迎の行事こそ、祭りの本義を今に残した貴重な民俗資料である。

お鍬祭 大沢野町
 五月一九日の夜大沢野町布尻と町長とが、一年交替でお鍬様の祭りをする。その年迎える当番の方の神主が、一八日夜神体を入れた御輿を迎える。送る方の青年は村境までかつぐ。迎える方は、「おくわさまござった 豊年だ 万作だ」といってお受けする。ご神体は百姓の神で、木でつくった五本爪の鍬だと伝えている。

心のふるさと・祭り 本庄清志執筆
~略~
 祭りの歴史は古く、縄文時代からその存在が確認されている。当時の人々にとって、祭りは共同体内の社会生活の一部として、日々の生活に密接なつながりをもっていた。そして、五穀豊穣、収穫感謝の神事として、あるいは、労働の休息日としての意味あいを持ちながら、伝統的に受け継がれ、そして実施されてきた。

 きびしい農作業の合い間にも娯楽はあった。宮の前に広場をつくり青年の遊び場所として、ここで角力(すもう)や石番持ちを行った。村ごとの対抗試合には、村人総がかりで応援した。夏ともなれば、盆踊りが若者達にとって非常に楽しいものであった。男女が太鼓を中心に輪をつくり、音頭とりの美声にあわせて踊る姿は、夏の風物詩でもあった。村村には時々にわか・かぶきもの・あやつり人形・曲芸などが巡回して来たので、これを見物するのも楽しみの一つであった。老人婦女子にあっては、寺参りや見物が、唯一の楽しみであったようである。
 このように農民の生活は農作業を中心として行われており、行事や祭りは農差業のための休息的性格、あるいは五穀豊穣を祈願した願望的意味合いを有している。形態の素朴なものは、比較的古いものが多く、長い伝統・慣習にもとづき、受け継がれてきたものである。

祭祀の原像 能坂利雄執筆
~略~
 新湊の放生津八幡の祭礼には、築山を設けて仮面をつけた人形を飾りつけるが、怠って飾らないと、少なくとも七日間ぐらいは土蔵の中で暴れ回る怪音がするとも伝え、祟り神の一面を物語っている。しかし、この築山行事は、元来荒ぶる祀神を鎮める神事芸能を催したのにもとづき、仮面をつけた神人らが、所定の囃子に合わせて舞ったのが、何かの都合で中断し、人形に仮面をかぶせて、一時凌ぎに飾りつけた省略が現在に及んだのであろう。いいかえれば彼ら築山前の仮面群が荒ぶる神でなく、八幡神そのものに祟り神の性格が込められていたといわねばならなかった。
 かつて、立山山麓の芦峅寺における、雄山神社の夏祭りを見にいったことがあるが、先頭のミコシがたしか若宮で、続くミコシが大宮であった。村落巡幸が終わると、ミコシは鳥居の前で互いにそれぞれもとの祠堂めがけて、一目散に駆けて納める祭儀のありさまを目撃した。なぜ走らねばならないのか、瞬時も遅れてならないところに、古くから荒れ神であった二神の性格がある。

 富山地方における盆のお精霊さまは、庭からオショウライ棚へやってきた。主人が縁側に坐って挨拶して出迎える。お精霊は「どこからきたか」と問えば「庭の築山の松の木から」というのが多い。憑き代の木は「待つ」の意をうけて松を植え、夜陰の折にはわかり難いので灯篭に火を点じた。
 では精霊は、どこから松の木へくるのかときくと、「空中から降臨する」というのと、「墓の中から飛来する」との両論がある。空中の方は垂直神だが、墓の中からの精霊だと水平神のスタイルをもつ。
 では、共同墓地ができない以前、精霊はどこにいたかといえば、裏山であったり庭であったりする。庭における築山こそ古い時代において墓地であったのであろう。その限りにおいて、築山は憑き山の意義をわきまえ、屋敷神であり祖先神であったといえる。精霊が築山に天降(あも)る観念は、このような理由から考えると、一見古くみえておりながら、実は、比較的新しい二義的なものといえよう。古くは築山へのものが常に精霊宿るポイントであったはずである。
 したがって、また精霊の祭祀は家にまで招くものでなく、精霊坐す築山ーー円墳の前において行われるべき筋合いのものであり、精霊棚は、築山前に据えてこそ意義があったといわねばなるまい。

福島第一原発 タンクから漏水300トン 2年余気付かず
↑アンダーコントロールされていると言ったのは誰?
 
  また富山で交番の襲撃事件が起きた。

1月21日(月)

 朝起きると、外は雪で白くなっていた。それでも昼頃には雨に変わり、夜にはすっかり溶けてしまった。
 市立図書館で借りている『五箇山 失われる山びとの暮らし』を、先日アマゾンのマーケットプレイスで発見。手頃な値段だったのでポチったのが、今日届いた。箱、帯付きで、注文カードも挟まっていたので未読品かもしれない。図書館で3冊借りてる内の2冊をネットで購入した。これで慌てて読まなくてもよくなった。
今日の雪景色と届いた本
↑今朝8時50分頃の外の景色と、マーケットプレイスで購入した『五箇山』。

 気になった記事を備忘録として。
11歳少女、100ミリシーベルト被ばく 福島事故直後 放医研で報告
安倍政権、2島決着案を検討 北方4島返還「非現実的」
辺野古設計変更へ、工期遅れか

 昨日は二十四節気の一つで、一年で一番寒いとされる大寒だった。上市町にある大岩山 日石寺では毎年この日に寒修行があり、滝に入って打たれる人の映像がニュースで流れる。一度撮影したいと思い、早朝から出かけて行った。

1月20日(日)
 2日前に寺務所に電話して寒修行の始まる時間を尋ねたところ、毎年滝に打たれる映像がニュースになる団体の方達の滝修行は8時半頃からだという。そのため8時頃にはたくさんの写真愛好家や報道のカメラマンが既に場所取りをしているそうだ。
 ネットで日石寺までの行き方を探したが、上市駅から一番早い日石寺のある大岩までの町営バスは8時30分発で、終点の大岩には8時53分に着く。到着した頃には終了しているかもしれないが、とりあえず行ってみる。
 最寄り駅から6時31分発のあいの風とやま鉄道に乗り、6時59分に富山駅に到着。休日のこんな早い時間の電車だが、センター試験の日なので車両の中は高校生でいっぱいだった。駅構内のコンビニでメロンパンを一つ買って電鉄富山駅に向かう。
 7時28分の宇奈月温泉行きに乗車して、7時55分に上市駅に着いた。駅員さんに町営バスの乗り場を教えてもらい、しばらく駅のベンチに座って休憩。大岩行きのバスは8時30分だが、8時10分過ぎにバス停に来たので出発まで車内で待たせてもらった。時間通りにバスは出発。乗客は自分1人で、終点まで貸し切りだった。
 大岩のバス停で200円の料金を支払い下りようとした時に、運転手さんが右側の階段を指差して、上ったところに日石寺があると教えて下さった。
 百段坂と呼ばれる階段を上って行くと、やがて人の声が聞こえてきた。境内に入り声のする方に歩いて行くと滝修行の行われている六本滝に着いた。滝の前には大勢の修行者(新聞記事によれば30人)がおり、その手前と横には大勢の報道陣や写真愛好家がカメラを向けていた。
 どこから撮影しようかとウロウロしている間に、団体の方々の滝修行は終了してしまった。三重県松阪市にある白龍弁天山真福院の信者の方々だそうで、「三重県 白龍辨天山修験本庁」と書かれた旗を持った方がいらした。滝修行を終え、法螺貝を吹いたりしながら日石寺に隣接した旅館・大岩館へと入って行かれた。
↓→毎年最初に滝修行をされる白龍弁天山真福院の信者の方々。
滝修行02
滝修行01
 六本滝に戻ると、白衣(はくえ)を着た方々が何人かいらっしゃる。団体の滝修行は終了したが、これからは一般の申込者の滝修行が始まるそうだ。寒修行は大寒の今日から始まり2月3日の節分の日までで、この間に滝修行をしたい人は受付で申し込めばいいそうだ。料金は白衣も貸してもらえて1000円だ。滝修行の相場というのはよくわからないが、随分と良心的な値段な気がする。
↓→気温6℃と大寒にしては暖かな日だが、水温は0℃に近い。
滝修行04
滝修行03
滝修行05
滝修行06
 滝修行の前に、僧侶が修行者の後ろに立って水神様への真言を唱え、手にした不動明王の刀を修行者の背中に当て「恐れ」や「迷い」を断ち切る。
 10時過ぎになると滝修行が一段落したので、日石寺の境内にあるお堂などを見て歩く。手水舎の横には大きな釜に「目薬のお茶」が沸かしてあり、自由に飲めるようになっていた。
↓→ご祈祷日に振る舞われる「目薬の木のお茶」。
目薬の木のお茶02
目薬の木のお茶01
日石寺の各寺院01
けんちん汁とおにぎり

↑上段左:愛染堂/上段右:夫婦岩/中段左:三重の塔/中段右:大日堂/下段左:観音堂/下段右:十二支滝
←本堂の隣りにある地蔵堂の横にテントが張られ、200円のけんちん汁と50円のおにぎりを売っていたので、遅い朝食?早い昼食?として食べる。

 10時半過ぎから本堂で護摩祈祷が始まったので、慌てて食べて本堂の中へ。祈祷では、滝修行に参加した方々が書いた護摩木も焚かれる。

 日石寺は真言密宗の大本山で神亀2年(725年)に行基が開いたと伝えられており、本堂には行基が凝灰岩の岩に彫ったといわれる不動明王が本尊として祀られている。立山・剣岳の麓にあり、山岳信仰の行場として最盛期には21社60坊を抱える大寺として名を馳せたそうだ。
 天正年間(1573〜92)に上杉謙信の兵火により山内を全焼したが、前田利常の子宝祈願が成就したことで歴代の前田家の祈願所として再興した。昭和42年にも火災で建物や資料の大半を焼失したが、昭和43年に壇信徒の寄進等によって現在の不動堂(本堂)が建立された。
↑本堂での護摩祈祷。正面に行基が岩を彫って造ったされる不動明王像が鎮座している。
 20分ほど護摩祈祷を見学してから本堂の外に出て、境内を散策。
本堂と地蔵堂
↑行基作とされる、凝灰岩に彫られた不動明王が祀られた本堂(左)と、木造延命地蔵菩薩が安置された地蔵堂(右)。
↓六本滝(左)。→眼病平癒に霊験があるとされる御霊水の藤水(右)。
藤水
六本滝
↓山門(左)。→弘法大師が安置された阿覚窟。上に鐘楼堂が見える。
阿覚窟と鐘楼堂

←日石寺の参道(百段坂)にある、だんごやと大岩館。坂の途中にある旅館には、近年休業の貼り紙をした建物もいくつかあった。

 大岩から上市駅行きのバスは12時30分。
 12時少し前に坂を下りてバス停へ。バス停には滝修行に訪れた三重の団体さんがチャーターしたバスがとまっていた。

 12時30分少し前に町営バスが到着。年配の女性と二人を乗せたバスは時刻表通りに大山を出発し、途中でやはり年配の女性を一人乗せて12時50分に上市駅に到着した。駅のホームには13時1分発の電鉄富山行きの電車が待っていた。

*北日本新聞の記事、富山新聞の記事、富山テレビのニュース映像

1月18日(金)

 年末からの腰痛が良くならないので、昨日の午前中に何年振りかで接骨院へ行った。腰をもんでもらい電気をかけ、湿布をもらってきた。年に数回腰が痛くなることはあるが、だいたい鎮痛剤入りの湿布を貼って何日かすると治まる。今回は随分と長く続いている。このところ椅子に座ってパソコン作業をしている時間が長く、それも腰痛の原因かもしれないと思い、接骨院から帰ってからは布団に入ってマンガを読むことにした。
 本棚から取り出してきたのは、大友克洋の『AKIRA』6巻だ。読み返すのは何十年ぶりだろう? 昨日のうちに4巻まで読み、今日、残りの2巻を読み終えた。
 なぜ久しぶりに『AKIRA』を読んでみようと思ったかというと、<『AKIRA』大友克洋が36年前に「2020東京五輪」を予言できたのはなぜか>という文春オンラインの記事が流れて来たから。すっかり忘れていたが、AKIRAの舞台は東京オリンピックを翌年に控えた2019年のネオ東京だった。

1982年12月6日午後2時17分、関東地方に新型爆弾が使用され、3度目の世界大戦が勃発した。それから38年ーー世界は大戦の惨禍を克服し、新たな繁栄の時代を迎えつつあった。
東京湾上に構築された新たな日本の首都=ネオ東京もまた、翌年にオリンピック開催を控えるまでに復興を果たし、大戦禍以前の繁栄を取り戻そうとしていた。

 これがイントロだ。マンガの中では2020年の東京オリンピックは開催されることなく、スタジアムは破壊される。
 第1巻の発売が1984年9月、第6巻の発売が1993年3月。この頃は自分でも2019年はまだ遠い先のことだと思って読んでいたんだろうが、今年マンガに時代が追いついてしまった。第3次世界大戦は起こらなかったが、この間に阪神淡路大震災と東日本大震災、それに伴う原発事故を経験した。
 87年に発売された第4巻では、ソビエトが北海道を制圧し津軽海峡を挟んで日本軍と睨み合っている。ロシアではなくソビエト。大友さんも、1991年のソ連崩壊は予言出来なかった。それでもマンガ家の想像力と情報収集能力は凄いものだと、いつも感心する。

AKIRA
AKIRA以外の大友さんのマンガ

↑『AKIRA』全6巻が並んだ本棚。
←『AKIRA』以外の大友さんのマンガ『ショート・ピース』『童夢』『気分はもう戦争』『さよならにっぽん』『ハイウェイスター』『彼女の想いで・・・』『SOS大東京探検隊』が並んだ棚。

 作品としては『ショート・ピース』『ハイウエイスター』『さよならにっぽん』といったマンガの方が好きだが、『AKIRA』の 細部の細部まで描き込まれた絵にはやはり圧倒される。

 大友克洋さんや吉田秋生さんのマンガには音楽が流れている。何か音楽が聴こえてくる。それはブルースだったり、ジャズだったり、時にはAORだったりフォークだったりするのだけれど。それも魅力だ。
ヤフオクで買った、ふるさとの風と心
 先日他の図書館から取り寄せてもらって借りてきた『ふるさとの風と心 富山の習俗』だが、ヤフーオークションに出ているのを発見。ヤフオクはやったことがなかったが500円で出品されていたのでヤフーIDを所得して参加。他に落札者が居なかったので、500円で手に入れた。送料はメール便350円で、合計850円の出費。
 その落札した本が、今日届いた。この本は絶版のようだが、桂書房という出版社は健在だった。

 気になった記事を備忘録として。
「被害者は置き去り」 東電に6回拒否された浪江町民
「原発再稼働どんどんやるべき」 福島事故後停止で経団連会長
海外メディア「かえって疑惑深まった」 竹田会長の会見

 昨年の1月6日に撮影した高岡市の消防出初式の様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら

消防出初め式01
↑はしご乗り。↓裸放水。
消防出初め式02

1月14日(月)

 一年前、伏木の勝興寺で御満座法要を撮影させていただいた。御満座法要とは御正忌報恩講のことで、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人の命日にその遺徳を偲んで行われる法会。御満座そのものは、法会の終わる最後の日という意味のようだ。親鸞聖人の命日は11月28日で大谷派は11月21日から28日に行うが、本願寺派は旧暦11月28日を新暦に直して1月9日から16日に行うそうだ。大谷派(お東)は11月28日が御満座、本願寺派(お西)は1月16日が御満座となる。
 その一年前に撮影した写真をお渡ししていなかったので、5枚プリントして持って行くことにした。
勝興寺01
 あいの風とやま鉄道で10時49分に高岡駅へ。11時12分の氷見線に乗り換えて、11時24分に伏木駅に到着。今日は成人式。電車に乗っていると、成人式のために帰省してきたと思しき人たちがけっこう居て混雑していた。
 駅前の坂道を上って勝興寺へ。ホームページには14日〜16日が御満座法要と記されているが、どうもその気配がない。
←美しい勝興寺の唐門。
 本堂に入り寺務所を訪ねると、今年は15日、16日の2日間になったそうだ。写真をお渡しし、行事の進行を書いたチラシをいただいた。
御正忌報恩講 平成31年1月15日(火)10:00〜17:00
       10:00〜日中 読経 満年講
             法話 布教使 法順寺 圓山望師
       12:00〜お斎
       14:00〜逮夜 読経 御伝鈔
             法話 布教使 光明寺 磯原孝雄師
            (デカローソク 9:30〜17:30 点灯)
       平成31年1月16日(水)10:00〜12:00
       10:00〜満日中 読経 御俗姓
             法話 布教使 明善寺 宮木美弥子師
            (デカローソク 9:30〜12:00 点灯)

勝興寺02

↑勝興寺の本堂。明日から営まれる御満座法要の準備が行われていた。

 プリントをお渡しして今年の御満座法要の様子を撮影させてもらおうと思っていたので、ぽっかりと時間が空いてしまった。高岡行きの電車は13時1分で、まだ一時間以上ある。とりあえず駅へと坂を下りていたら、右手に高岡市伏木気象資料館が見えた。普段は素通りするか外観だけ撮影して帰るが、今日は時間があるので入館料210円を払い、見学して来た。
伏木気象資料館01
伏木気象資料館02

↑気象資料館(旧伏木測候所)の外観と内部。

 中に入ると職員の方がしばらく解説しながら案内して下さる。
 一番見たかった屋根の上に付いている望楼(塔屋)は、残念ながら立ち入り禁止となっていた。

←この測候所で記録した1993年2月7日の能登半島沖地震のグラフ。

 勝興寺や気象資料館のある一帯は、かつて越中国の国府があった場所で、資料館の敷地には「越中国守館跡」の石碑が建っている。資料館のある土地は、746年(天平18年)越中国守に命ぜられた歌人・大伴家持が住んでいたとされる場所だ。今も高台に建つ資料館の窓からは、晴れていれば立山連峰が見渡せる。民家も少なかった時代なら、立山の手前に広がる奈呉の浦や射水川(小矢部川)もよく見えただろう。
 気象資料館を出て駅へと向かう。待合所で少し休んで13時1分の高岡行きに乗車。高岡駅に着いて、あいの風とやま鉄道の金沢行きの時刻を確かめてから、関野神社に向かう。この何年間かはお正月の行事を撮影していたので元旦に初詣を済ませていたが、今年は未だ。神社に着いて拝殿に行き、参拝をする。参拝の後、境内に設営された左義長の撮影をしていると神主の酒井さんがいらしたので、新年のご挨拶をする。
↓→関野神社の境内は、15時から斎行される左義長の準備中だった。
関野神社02
関野神社01
 左義長は15時からで、その準備がお忙しそうだったので早々に神社を後にして高岡駅へ。15時4分発の金沢行きで家へと帰る。
プリンセス天功さん

 10年前の1月13日、文京区の成人式を撮影に行った。被写体は成人した方々ではなく、成人式でマジックショーを披露するプリンセス天功さんだった。雑誌の連載でペットと一緒の撮影をオファーしていて、この日ならとOKをいただいた。
 楽屋にお伺いするとショーも撮影しますか?とマネージャーの方に尋ねられ、急遽ショーも撮ることになった。成人式のためのものなので、ショー自体は30分ほどだった。
 再び楽屋にお邪魔して、ステージ衣装から別の衣装に着替えたプリンセス天功さんと、ファービーちゃんという名のフクロウを撮らせていただいた。
 楽屋は鏡だらけだったが、写り込まないようにと全ての鏡の上にマネージャーの方が白い紙を貼っておいて下さった。職人技のようなキッチリとキレイな貼り方だった。
  wikipediaの情報が正しければ、プリンセス天功さんとは同級生だ。
 この時の撮影の様子が、こちらにあります。
←プリンセス天功さんとフクロウのファビーちゃん。2009年1月12日撮影。

 女優の市原悦子さんが、一昨日亡くなられた

1月12日(土)

 今日、東京の都心で初雪が降ったそうだ。明日は旧暦の12月8日、ムーチービーサーだ。沖縄では健康・長寿を祈願して月桃の葉に包んだムーチー(鬼餅)を食べるが、この頃が沖縄では一番寒い季節にあたるため、ムーチービーサー(鬼餅寒)と呼んでいる。

昨日借りてきた本
 年末に借りた本の返却期限が昨日だったので図書館に行き読み終わらなかった2冊を延長してもらい、他の図書館から取り寄せをお願いしていた本が届いたので借りてきた。 取り寄せてもらったのは『ふるさとの風と心 富山の習俗/富山新聞社編』(桂書房)。昭和59年1月から2年間、富山新聞で連載していたものをまとめた本だが、写真も記事も面白い。せっかくなので、今日の午前中に全ページを複写した。
勤労統計で偽装ソフト 厚労省、04年から不適切調査
保険の過少給付は2千万人、数百億円規模 不適切調査で
↑厚労省、<消えた年金問題>から何の反省もしていないんだろうな。
 その他の気になった記事を備忘録として。
安倍首相のサンゴ移植発言が波紋 政府、打ち消しに懸命
辺野古工事で防衛省 県に無断で土砂割合変更
ロシア、安倍首相発言に抗議=大使呼び「世論惑わす」
生活苦で税滞納、差し押さえで口座0円に…提訴
日本の株式 去年 海外投資家の売りが買いを5兆円超上回る
 昨年の1月2日に撮影した朴谷の獅子舞の様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
朴谷の獅子舞01
↑伝承数や多彩さで 獅子舞王国とも言える富山県だが、多くは春祭りや秋祭りに舞われる。お正月の獅子舞は 、県内では朴谷だけかもしれない。
↓朴谷の獅子は一人立ちで、演目によって天狗が2〜6人登場する。正月の獅子舞は集落 の厄除け・悪魔払いで、現在35戸ある家を忌のあった家を除いて一軒一軒まわる。露払いのジジとババが家の前を掃き清めた後、「悪魔払い〜」「悪魔払い〜」と口々に叫びながら順番に天狗が玄関に入って出てくる。最後に獅子が玄関で子供や主の頭を噛んで、花(ご祝儀)をいただいて次の家へと向かう。
朴谷の獅子舞02
 昨日おくわさま、今日初午が行われた。富山の一月の風物詩だ。

1月8日(火)

 正月休みも終わり、日常生活に戻った人がほとんどだろうか。昨日、今日が始業式だった学校も多いようだ。
 暮れに図書館から借りた4冊のうち2冊を読み終えたので、昨日の午後に返却しそのまま図書館で読み終えていない本を読んでいた。家に居るとついついネットを見るし、なにより暖房費の節約になる。
 書籍の編集者から探して欲しいネガの追加が出来たというメールが来たので、今日の午後は書庫兼物置になっている部屋でネガ探し。ネガは見つけられなかったが雑誌で使用したプリントが見つかったので、こちらを送ることにする。20年ほど前のプリントだが、変色もない。この頃使っていた印画紙は、イルフォード・マルチグレードのグロッシーが主だった。気になってイルフォードで検索すると、今はインクジェット用のペーパーも発売しているようだ。
 依頼のあったネガを探していると、色んなネガやプリントも発見する。X-JAPANがデビューして間もない頃に、雑誌『ポップティーン』の仕事でライブを撮影した。確か日比谷野音だったと思うが、その時のネガやプリントが一切なくて記憶違いだろうかと長い間思っていたが、ベタ焼き(コンタクトシート)が一枚出て来た。フィルム1本しか撮っていないことはないので、この一枚はベタを作る時のテストで焼いた一枚か。ベタ焼き、プリント、ネガを全て編集部に渡して、返却されていないのだろう。とりあえずX-JAPANを撮影した記憶が夢じゃなくてよかった(笑)。
↓→X-JAPANのベタ焼き。
X-JAPANのベタ02
X-JAPANのベタ01

 下の写真は、プリントを収納した棚に入っていた奥菜恵さんのポートレート。1997年頃だろうか。ミュージック・マガジンで連載していた「松尾潔の照明係 今月のスポットライト」で撮影した。今はケミストリー、平井堅、JUJUなどの音楽プロデューサーとして知られる松尾さんだが、この頃は音楽ライターの仕事がメインだったと思う。この連載では4回ほど撮影を担当した。
 撮影した時の彼女は、まだ10代後半?右の顔と左の顔がシンメトリーなんだろうか。こうして見ると、ホントに整った顔立ちだな〜と思う。整い過ぎて、ちょっとアンドロイドを思わせもする。 

 2017年の大晦日から2018年元旦に撮影した芦峅寺・雄山神社のミヤマイリの様子をPhoto Albunにしました。こちらこちら
芦峅寺のミヤマイリ01

↑お神酒を入れた徳利を持つ女性。ミヤマイリでは、お神酒と袋に詰めたお米一合を境内にある各宮に奉納する習わしだったという。現在はお米を奉納することはなく、集落の人でも限られた人がお神酒を賽銭箱の横に置かれた甕に注ぎ、お賽銭を入れて参拝している。
↓空が明るくなってきた、朝7時過ぎの祈願殿。参拝客はまばらになり、次は午前10時頃が賑わうという。

芦峅寺のミヤマイリ02
 一昨日放送されたNHKの「日曜討論」で安倍首相が、辺野古の埋め立てに関し「土砂の投入に当たって、あそこのサンゴは移植している」と述べたことが波紋を呼んでいる。どう考えてもあり得ないことだが、汚染水がだだ漏れしている最中に「フクシマはアンダーコントロールされている」と世界に向けて発信した人だからもはや驚きはない。
 その辺野古の埋め立てを中止するようホワイトハウスへ呼びかける請願に、クイーンのギタリスト、ブライアン・メイが署名しSNSで署名協力を求めていることが話題になっている。そんなお陰もあってか、現在の署名数は20万筆を越え、201,883筆となっている。

1月5日(土)

 昨日が仕事始めだった人も多いのだろうか。
 今年成人式の姪っ子の前撮りをするために、昨日は家の座敷に簡易なスタジオを設営。3メートルx7メートル程のムラバックは3枚持っているが、一番落ち着いた色の布を選んで吊るした。
 ストロボはフロントにコメットの1200wを2台4灯。斜め後ろからアクセントライトに、コメットのモノブロック150wを1灯。コメットの1200wは、2台とも使用するのは6年振りくらいだろうか。ちゃんと発光するか心配だった。
  セッティングが出来たら、両親に立ってもらってテスト撮影。午後2時少し前に弟家族が到着して、着付けをした姪っ子の撮影。弟(父親)と姪っ子、弟夫婦と姪っ子、甥っ子と姪っ子、両親(祖父、祖母)と姪っ子など30分ほどで様々なバリエーションを撮影。
 撮影の後は機材を片付けて、夜までパソコンで現像作業。

↓座敷に組み立てた撮影セット。→先ずは父親と母親に立ってもらってテスト撮影。
父親と母親をテスト撮影
撮影のセッティング
姪っ子のプリント
 今日は午前中から昨日撮影した姪っ子の成人式の前撮り写真のプリント。
 15カット選んでA4にプリントした。ショッキングピンクに染めた髪の毛の色がプリントで出るか心配だったが、わりと忠実に再現されている。
 正月になって一歩も外に出ていなかったが、今日ようやく自転車で買い物に。100円ショップでクリアファイルを、ドラッグストアで湿布とスナック菓子を購入した。
 昨年の12月28日に撮影した芦峅寺の年餅作りと雪景色の写真をPhoto Albumにしました。こちらこちら
年餅作り
↑芦峅寺の年餅作り。↓芦峅寺の雪景色。
芦峅寺の雪景色
「ワープロはいずれなくなるか?」という質問に30年前のメーカー各社はどう答えた?←面白い。

1月2日(水)

あけましておめでとうございます

 2016年〜2017年は氷見市小境の朝日神社と夕日神社で、2017年〜2018年は芦峅寺の雄山神社で新年を迎えた。今年は久しぶりに家でテレビを観たりしながら、のんびりとお正月を過ごしている。
 元旦は雨や雪の予報だったので油断していたら、午前中は快晴だった。午後からは崩れて夕方には雨が降っていたが、早起きすれば初日の出が見れたのかもしれない。
元旦の風景
 写真は昨日の午前10時頃、部屋の窓から。2019年最初の撮影で、まだこれ一枚しか撮っていない。空を見ながらISO感度200、絞り10、シャッタースピード1/800に設定。シャッターを切ったら、バッチリ適正露出で嬉しくなった。
 昨年の12月27日に撮影した福野の「歳の大市」の様子をPhoto Albumにしました。こちら
福野の歳の太市
 You Tubeから、沖縄でお祝いの席で一番最初に踊られる「かぎやで風」を。かぎやで風は歴史的仮名遣いで、「かじゃでぃふう」と発音する。
今日の誇らしゃや 何にぎやな譬える 蕾でいる花の 霧行逢ったごと
(今日の嬉しいことは何にもたとえることはできない 蕾の花が朝霧に出逢い勢いよく開花したような嬉しさだ)といった意味のようだ。何度聴いても、目出度さが溢れてくる楽曲だ。

本年もよろしくお願いいたします

2018年12月へ