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バックナンバー
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能
◯製作中の富山の祭りと芸能歴史年表

12月2日(日) 新川神社「田んぼの学校」しめ縄つくりとコシヒカリ試食会 10時〜13時頃まで
12月20日(木) 高瀬神社 煤払

2019年
1月11日 市立図書館 本の返却期限
1月14日〜16日 勝興寺 御満座法要(デカローソク)
1月15日 加茂神社の鳥追い
1月20日 上市町 日石寺 寒修行 記事
2月22日 福光火伏神社の火伏祭
朝日町笹川の獅子舞 4月第2土曜日 8月第4土曜日? 朝日町の獅子舞
福光・宇佐八幡宮の春季例大祭 4月第3日曜(前日に宵祭り)
5月18日(土)、19日(日)? 利屋町の天神祭り
5月24日 於保多神社 神幸祭(猿田彦) 8時30分〜祭典 9時〜巡行
6月1日、7月1日 瑞龍寺の一つやいと
7月6日、7日 舟見の七夕
7月15日 南砺市・是安の風祭り(不吹堂の祭り) 記事
7月22日前後の日曜日 重忠まつり 上行寺
8月7日 魚津市蛇田地区の七夕
11月13日 お会式(餅柱) 上行寺

◯新川神社 1月? 寒中みそぎ
◯新川神社 御田植祭5月
◯高瀬神社 御田植祭5月 抜穂祭9月
◯射水市三ヶの十社大神 御田植祭
◯埴生護国八幡宮、亀保里神社(長岡神社0766-67-1402)除蝗祭 6月
◯上市町 日石寺 7月1日 大岩山滝開き・火渡り修法(10時)
◯7年に1度、10月に開催 次は2022年 朝日町山崎 米吊り奉納
◯福岡町沢川の獅子舞 9月の第4土曜日?
◯加茂神社 出雲へ神を送る神送祭 9月30日と10月31日?
◯岩稲八幡社の神送り・神迎え 10月下旬と11月下旬の日曜日 
◯5年に一度、若手神職でつくる県神道青年会が御田植祭
◯2019年 白山宮の本尊。秘仏十一面観世音菩薩をご開帳(33年毎)。
◯33年に一度 庄川の神賑わい 次回は2023年7月

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事
富山の祭り
築山行事
とやまの曳山”世界の宝”を守り続ける
*砺波の獅子舞 各地区の日程
年中行事覚書 柳田国男
田の神祭りに見る日本人の神意識
山の民の祈り
立山に生きる村ー宗教集落芦峅寺のくらし
立山信仰史における芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅
五箇山の獅子舞の起源
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

12月31日(月)

 大晦日。部屋の大掃除は諦めて、カメラのセンサークリーニングに挑戦。
 昔は仕事をしていた出版社の近くにソニーのサービスセンターがあったので、ゴミが目立つと持ち込んで清掃をしてもらった。料金も一台1,000円ほどだったと思う。それが今は、3,000円になっている。富山からだと郵送費もかかるのでおいそれとクリーニングに出せなくなってしまった。
 しかしセンサーにゴミがついていると撮影した画像にポツポツと点が付く。フォトショップで消すが、電線の位置にゴミが重なると消すのもひと苦労だ。
 困ったな〜と思いながらアマゾンを見ていたら、評判の良いセンサークリーニングキットがあったので購入してみた。それが今年の5月の事だが、 面倒臭さと忙しさにかまけて使わないまま放ってあった。このまま放っておくのは勿体ないので、意を決して壊れていないα700の中で一番センサーにゴミや汚れがあって最近はほとんど撮影に使っていないカメラを、練習も兼ねてクリーニングしてみた。雲のない青空でもう一度確認したいが、簡単なわりに効果はあるようだ。
センサークリーニングキット
クリーニング前の画像

↑使用したクリーニングキット。アマゾンで1,590円だった。

←センサーをクリーニングする前の画像。F13まで絞り、広角で撮影。赤い◯で囲んだ箇所がゴミと汚れ。

↓シャッタースピードをバルブにし、シャッターを切ってミラーを上げ、液体を染み込ませた棒でスーッと何回か往復させた。曇り空で解り辛いが、確認で来たゴミは一ヶ所になった。

クリーニング後の画像
 Dee okinawaの年末特集「2018年でなくなってしまったもの、なくなってしまうもの」を見ていたら、浦添市屋富祖にあった東京理容館が閉店し、現在は更地になっていた。
 下の写真は浦添てだこまつりの前夜祭「ひぃーやー祭々」を屋富祖通りへ見に行った時に、なんだか小さくて可愛らしい建物だと思って撮影した。2012年7月20日。
東京理容館
 昨年の12月20日に撮影した富山・日枝神社のすす払いと、師走の富山市内の様子をPhoto Albumにしました。こちら
日枝神社のすす払い
 今年もアーニー・ディフランコをよく聴いた。もうこの曲を何千回聴いただろうか。「Your Next Bold Move」。

良いお年をお迎え下さい。

12月30日(日)

 一昨日から寒気が押し寄せ、家の周りも雪が積もっている。4時くらいだったか目が覚めて窓を開けると、除雪のブルドーザーが動いていた。
 25日にアマゾンでポチった写真集が昨日揃った。初沢克利さんの『浅草2011−2016 六区ブロードウェイ 日本人の肖像』(春風社)と、『パリ 美し都の四半世紀』(集英社)で、どちらもアマゾンに在庫があり25日に注文したが、『浅草』は25日に到着したのに、『パリ』の方は29日だった。『浅草』は520ページで厚さ4.8センチ、『パリ』は719ページで厚さ4.4センチ。パラパラと捲るだけでも時間がかかりそうだ。初沢克利さんは写真家・初沢亜利さんのお父さん?
↓→アマゾンで購入した初沢克利さんの写真集。重い。
初沢克利写真集02
初沢克利写真集01

 最近の記事から気になったものを備忘録として。
原子力79施設廃止に1.9兆円 費用は国民負担、機構が試算
視覚化で「空っぽ」ぶりがよくわかる安倍総理答弁の異常さ<短期集中連載・2018年閣僚答弁プレイバック3>
これから大きなツケ払わされる…東証急落2万円割れ
「歴史上類みない大事故」 東電旧経営陣に禁錮5年求刑
福島の汚染土利用に地元が反対 常磐自動車道工事で使用計画
全数調査のはずが一部調査せず 賃金や労働時間 厚労省
新元号には、いつ変わる?
ETF 6・5兆円過去最高 日銀の株式買い、歯止めなく

 昨日は、射水神社の年越の大祓式を撮影に行って来た。

12月29日(土)
 今日は一日、図書館で借りて来た本を読んで過ごそうと思っていたが、北日本新聞の朝刊に<戦前の「人形代」復活 射水神社29日年越大祓>という記事が掲載されていた。大祓は午後3時からと書いてある。年内はもう家でじっとしていようと思っていたが、撮影に行くことにした。せっかくなら有磯正八幡宮へ今年の夏に撮影させていただいた祇園祭と、千石町の天神祭の写真を届けに行くことにする。ホームページを見ると、こちらでも12月23日〜31日まで早朝から午後6時まで年越の大祓を斎行しているようだ。
雪の金屋町
 あいの風とやま鉄道で12時48分頃に高岡駅に到着。昨日の新聞に高岡駅地下道に軽トラが間違って入ったというニュースが出ていたので、その現場に寄ってみた。階段が少し削れていた箇所があったが、言われなければそんな事故が起こった場所には見えない。ケガ人もいないようで、奇蹟のようだ。
 駅前の大通りを真っ直ぐ歩き千保川を渡って、金屋町へ。石畳の道を通って有磯正八幡宮へ。
 
↓→有磯正八幡宮と、今年の1月に大雪と暴風で折れた御神木。
有磯正八幡宮
↓拝殿に用意されている祭祀具、人形代(ひとかたしろ)と榊に麻をつけた小麻(こぬさ)。
人形と小麻

 拝殿に入ると神職の方がいらしたので、持参した祇園祭と天神祭のプリントを上田宮司さんにお渡し下さいとお願いし、大祓えの祭具である人形代と小麻の撮影許可をいただく。小麻は自分の身体に当てて穢れを移すので他人が使用したものを撮影すると穢れが自分に移りますよと注意を受けるが、記録したい旨を伝えると撮影後、自分で小麻でお祓いすることを勧められた。

↑手前に置いてある小麻で身を清め、穢れを移した小麻をしめ縄で囲んだ中に納める。
 撮影をしていると、上田宮司さんがおいでになりプリントのお礼にと飴をいただく。
 有磯正八幡宮を出て、また金屋町を通って古城公園の中にある射水神社へ向かう。金屋町の通りには、もう玄関に正月飾りが付けられた家があった。駅前大通りの仏具屋さんのショーウインドーには、天神様が飾られている。
↓正月飾りと、ショーウインドーの天神様。
正月飾り
 14時20分過ぎに射水神社に着いた。雪は降ったり止んだりだ。防寒ブーツの踵部分がすり減っていて小さな穴でも空いているのか、靴下が濡れて冷たい。射水神社の社殿とキッチュな色の干支の大絵馬の写真を撮ってから、しばらく参集殿で休ませてもらう。
射水神社と干支の大絵馬
 大祓式は15時からだが、少し前に拝殿に行き撮影場所を確保。式は少し押して始まった。
式次第より

先、 宮司祓を仰す(おおす)
次に 祓主大祓詞を宣る
次に 所役大麻を執りて祓う
次に 所役麻苧(あさお)を裂く
次に 所役木綿を裂く
次に 「人形」にて祓う

次に 宮司以下祭員幣殿へ移動
引き続き 大祓祭

大祓式
↑上段左右:神職、参列者共に大祓詞を奏上/中段左:大麻で修祓/中段右:麻苧、木綿を裂く/下段左:人形代で身体を拭いて身を清め穢れを移す/下段右:神職が、小矢部川の水を汲み入れ川の流れに見立てた三本の御幣をつけた檜樽に、穢れを移した人形代を納める。

式次第より

時刻宮司以下祭員参進、着座
次に 神楽太鼓
次に 宮司一拝
次に 禰宜神饌を供す
次に 宮司祝詞を奏す
次に 神楽「末広の舞」奉奏
次に 宮司玉串を奉りて拝礼 祭員列拝
次に 参列者玉串を奉りて拝礼
次に 禰宜神饌を徹す
次に 宮司一拝
次に 神楽太鼓
次に 宮司挨拶
次に 直会(御神酒にて)
次に 各退出

末広の舞と鈴のお祓い
↑巫女による「末広の舞」。↓参列者の玉串奉奠。→宮司挨拶。
宮司挨拶
玉串奉奠
 宮司挨拶の後、参列者が順番に席を立ち、自分の穢れを移した人形代を樽の中に納める。
人形を忌樽に入れる
→樽は人形代でいっぱい。今年から戦前に使われていたデザインのものが復活した。
人形でいっぱいの川に見立てた樽
斎串
↑参列者には自分で祓い清めができる大祓斎串(おおはらえいぐし)が配られた。
冬の夕景
 大祓式が終了したのは16時少し前だった。参列者に配られる大祓斎串を撮影させていただいて、お礼を述べて神社を後にした。
 駅に向かう途中、お腹が空いたのでコンビニで肉まんを一つ。
 駅で30分程待って17時1分の電車で帰宅。最寄り駅に着くと、黒い雲に覆われた空にぽかんと夕焼けが見えた。冬の空。濡れた靴下をはいた足は、冷たいを通り越して痛みをともなってきた。
*富山新聞の記事

12月28日(金)

 年の瀬も押し迫った12月28日は、芦峅寺の年餅作りの日だ。芦峅寺集落では雄山神社で元旦に参拝者に配る餅を、住民が作る。昔は雄山神社の祈願殿の前で臼と杵を使って搗いていたが、今は神社の隣りにある集会所で機械を使って搗く。嘗ては年餅が貰えるのは住民に限られ、各家庭から代参者が雄山神社に参詣し氏子総代から家族の人数分をいただいた。今は広く一般の参詣者にも、家族の人数分が分け与えられる。
 お餅は正月神への神饌としては、最も重要なお供え。そのお供えのお下がりが年餅で、神様から一つ年をいただくという意味がある。昔はこれがお年玉だった。この年餅を食べることによって、一つ歳を重ねた喜びを感じたそうだ。
芦峅寺の年餅作り
↑上段左:芦峅寺の集会所での年餅作り。2017年12月28日撮影/上段右:昔は雄山神社の祈願殿の前で臼と杵で餅を搗いたが、今は3台ほどの機械をフル稼働させてお餅を搗く/中段左:搗いたお餅を延ばし、円筒型の筒で丸く切り抜いていく/中段右:もち米120キロを使い約2万個の年餅が完成/下段左:切り抜いた残りは再び成形して、きな粉、ごま、あんこをまぶして賄いに/下段右:甘いお餅に漬け物と汁が出される。汁にお餅を入れて一足早いお雑煮をいただいた。
元旦の芦峅寺・雄山神社。2018年1月1日撮影。
雄山神社のミヤマイリ02
雄山神社のミヤマイリ01
↑左:参詣した人は、紙袋に入った年餅を家族の人数分いただいて帰る。右:バックやポケットに入れて持ち帰る人が多い中、丁寧にお盆に乗せて帰る年配の男性。今では家族揃ってお参りするのが当たり前のようだが、嘗ては正装した家長が一人でミヤマイリをしたそうだ。
 お正月に年餅を配るのは、他の町や村でも見られる。子どもが大晦日の夜から朝日神社、夕日神社という地区に2つあるお宮さんに籠り元旦の参詣客を迎える氷見の小境では、参詣客が途絶えた後、仮眠を取ってから神社の後片付けをし、大人に鏡餅を切ってもらい手分けして各戸に配る。
 元旦に、6尾の塩ブリを持ち上げ奉納した氏子地区の名を読み上げる、射水市・加茂神社の「鰤分け神事」。神事の後、塩ブリと鏡餅は切り分けられて氏子地区の各戸に配られる。 
小境の宮こもり01
↑子供たちが地区内にある朝日神社と夕日神社に分かれて籠もり、元旦の参拝客をもてなす氷見市小境の「宮こもり」。拝殿の入口にお神酒を入れたお猪口を用意し、参拝客に「あけましておめでとうございます」と声を揃えて挨拶する。写真は朝日神社。2017年1月1日撮影。
小境の宮こもり02
↑左:仮眠をとった後、神社の片付けをして鏡餅を地区の戸数分に切り分けてもらう。右:お餅とみかんをビニール袋に入れ、子供たちが手分けして各家に配って歩く。
加茂神社の鰤分け神事01
↑塩ブリを持ち上げ奉納した氏子地区の名前を読み上げる、射水市・加茂神社の元旦行事「鰤分け神事」。2016年1月1日撮影。
加茂神社の鰤分け神事02
↑左:神事の後、料理役によって氏子の戸数に合わせて塩ブリが切り分けられる。右:各区の神社委員によって塩ブリの切り身と、切り分けられた鏡餅が各戸に配られる。
 昔は数え年だったので、正月を迎えると歳が一つ増えた。年齢の数え方が「数え」から「満」に変わったのは昭和25年(1950)の元旦からで、それまでは誕生日ではなく元旦に歳が一つ増えた。数え年に0歳はなく生まれて直ぐに1歳になり、12月生まれなら年が明けて元旦を迎えるとひと月足らずで2歳になった。
 数え年の頃は、元旦のお雑煮を食べて実際に一つ歳を重ねた喜びも味わったのだろう。今よりもお正月に重みがあったかもしれない。 
昨日図書館で借りて来た本
←昨日、年末年始に読む本を図書館へ借りに行った。借りたのは『高岡御車山 名工の技、町衆の誇り/神保成伍』(文苑堂書店)、『五箇山 失われる山びとの暮らし/宮崎重美・池端滋』(巧玄出版)、『富山の祭と行事 予祝祭 祖霊祭 新嘗祭/漆間元三・清原為芳』(巧玄出版)、『福岡の昔ばなし/福岡町教育委員会』。

 一ヶ月程前に来年2月発売の号で休刊する『DAYS JAPAN』のことを書いたが、その発行元の社長であり、元編集長でもあるフォトジャーナリストの広河隆一さんのスキャンダルが報じられた。
「神様のような広河さんに私は服従した」。フォトジャーナリストからの性的被害、背景に支配関係
性的被害を告発されたフォトジャーナリストの広河隆一氏が謝罪コメントを発表
 今回の文春の報道と、広河さんのこれまでの功績はある程度切り離して考えるべきだとも思うが、残念。

12月24日(月)

 昨日の天皇誕生日が日曜日と重なったため今日は振替休日。12月23日が祝日になるのは、今年で最後になるそうだ。
 誕生日に先立ち20日に天皇陛下がお言葉を述べられた。
平成の時代に入り、戦後50年、60年、70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、 このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」。全文はこちらに。

 昨日の夕方のテレビニュースで、明日午前10時から氷見市の伊勢玉神社で大絵馬の奉納が行なわれるという情報が流れた。一度伊勢玉神社の大絵馬の奉納を撮影したいと思っていたのと、昨年撮影させていただいた柿天神の写真をまだお渡ししていないので、早めに起きて氷見へ向かった。
 あいの風とやま鉄道で8時37分に高岡駅に到着。8時40分発の氷見線に乗り換えて終点の氷見駅に9時10分に着いた。

伊勢玉神社
 駅から5分ほど歩いて、伊勢玉神社に。境内にはいると、宮司の鈴木さんが砂利を均しておられた。さっそく昨年の柿天神の写真をお渡しする。
 大絵馬奉納の祭典は朝に一人で済まされたそうで、10時からは絵馬の前で清め祓をされるそうだ。
 9時20分頃から、各テレビ局のカメラマンや新聞記者が少しずつ境内に集まり取材が始まる。
 そして10時になり、絵馬の前でお祓いが始まった。
大絵馬の清め祓い
↑絵馬の前で祓え詞を奏上し、大幣で修祓を行なう鈴木瑞麿宮司。
大絵馬と鈴木宮司さん
 清め祓は5分ほどで終了し、またテレビの取材が行なわれる。取材が一通り終了した後に大絵馬の前に立ってもらい記念撮影。この大絵馬は12月に入り仕事の後に、20日間ほどかけて描かれたそうだ。これまで描かれた絵馬は全て倉庫に保管されているとのこと。*北日本新聞の記事、富山新聞の記事
 「よいお年をお迎え下さい」とご挨拶して境内を出て、次に今年の一月に寒中水行を撮影させてもらった宝徳寺へ。ご夫人が出て来られたので写真をお渡しする。寒中水行が行なわれる法要の正式名称は「開運星祭り厄除け寒祈祷会」、また宝徳寺の旧町名が「中町」で、北の旧六町が毎年持ちまわりで担当する「まるまげ祭り」で中町の年は宝徳寺がスタート地点になるなど、色々とお聞きした。
 伊勢玉神社、宝徳寺と写真をお渡ししてスッキリしたので、今度は先月北日本新聞に載っていた氷見市上泉自治区が管理している八幡社の盤持石を見に行く。事前に検索したところ八幡社の住所は氷見市下田子140となっている。氷見から高岡へ向かう路線バスの通る道から少し離れた場所にあるようだ。
 宝徳寺から氷見駅口のバス停へ。高岡方面行きのバスは11時23分で、次が11時55分。家から持って来たどら焼きを食べながらバスを待つ。
氷見市下田子の八幡社
 やって来た11時23分のバスに乗車。運転手さんにプリントして来た八幡社の地図を見せ、どこのバス停で降りればいいか聞くと、下田子というバス停があるので、そこで降りてみればどうかと言われる。
 下田子のバス停に着く寸前にお宮の屋根のようなものが見えたので、バス停から少し氷見の方へ歩く。畑仕事をしているお年寄りがいらしたので訪ねると、10メートルほど先が八幡社の入口だった。
↑八幡社。↓→盤持石。
盤持石02
盤持石01
 以下、盤持石の横に設営された案内板の説明書きから。
【盤持石・ばんもちいし】の由来
昔、この石は盤持石・晩持石・力石・力試し石など、地方によって呼ばれ方が異なっています。
「盤持ち」とは、村の鎮守の境内や四つ辻などで行なわれた米や石を使っての力くらべを言います。
特に、江戸期から明治、大正、昭和初期にかけての娯楽の少なかった時代、若者たちの楽しみは盆踊り、獅子舞、相撲、将棋、芝居、唄などに加えて、この「盤持ち」でした。
こうした力くらべを通じて、地域の団結を図ったようです。
ここに並べてある盤持石は、以前、当地区の2班(旧「中の班」)の中村家の灰小屋付近にあり、村人の寄り合い場所にもなっていました。また、盤持石は訛って「ばんぶつ」、場所を「ばんぶつば」と呼ばれていました。
その後、昭和四十年半ばに八幡社の階段上り口(左側)へ移され、本年六月に境内の社殿左側の本場所へ移設しました。
五個ある石のうち最も重いものは約一一八キロあります。また、軽い石でも六十六キロあり、これを持ち上げた若者はその年の村一番の力持ちとして人気者になったと言われております。
上泉に現存する数少ない貴重な文化遺産であり、ここに由来を記し末永く保存するものであります。
平成三十年十一月吉日       上泉自治会
 盤持石には一つずつ118kg、97kg、90kg、80kg、66kgと重さが書かれていた。善徳寺の盤持大会では60キロの米俵を2つ持ち上げる、新屋住吉社の大磐祭りは117キロの御影石を持ち上げる。これくらいが力くらべの基準なのかもしれない。
 八幡社と盤持石を撮影してバス停に戻る。12時2分の高岡行きバスは5分ほど遅れてやって来た。高岡駅に到着すると、タイミング良く12時46分の金沢行きの電車があった。

 クリスマス・イヴ。晩ご飯の後、沖縄の洋菓子店ジミーのネット通販で購入しておいたジャーマンケーキを食べる。
新しいトップ画面

トップ画面を模様替えしました。今年の1月26日に魚津へ火祭りを撮影に行った帰り、あいの風とやま鉄道の車窓から眺めた東滑川辺りの雪景色。

↓これまでのトップ画面。

これまでのトップ画面
 火山の噴火により津波が発生し、インドネシアで370人以上が亡くなっている。今年の夏には、やはりインドネシアのロンボク島で地震が相次ぎ515人が亡くなっており、言葉もない。
 気になった記事を備忘録として。
さいたま市委託分のマイナンバー等58万件も流出、国税庁委託と同一業者が違法に再委託
森友問題は終わっていない 時系列で振り返る一連の経緯
Snoop Doggが「Kanye Westから携帯を取り上げろ」と発言
琉球セメントが辺野古に落としている土砂は、どんな土砂か - 大林組・東洋建設 ・屋部土建 のJV が防衛局と1立米1万円以上で契約したのは県産黒色岩ズリのはずだが、それが違法で粗悪な赤土にすり替えられている件【基地利権ゼネコンの闇】
岐阜・山梨の米軍基地は、なぜ撤退して沖縄に集められたのか
もし結婚相手が“部落出身”だったら? 「子どもがいじめに遭う」の声に、SHELLY「いじめる側を怒らないと」
「家系図や写真まで…」ネットの部落差別が消えない理由とは? YouTubeの“部落探訪”に「悪意がすごい」の声

Merry Christmas!

12月20日(木)

 明日で辺野古の海に土砂が投入されて一週間になる。
 2012年9月に尖閣諸島が国有化された時も、2013年12月に仲井眞知事が辺野古の埋め立て承認をした時も那覇に住んでいた。その頃から今に至るまで、考え続けている。
 辺野古に土砂を投入されるという新たな局面を迎えた今、自分の頭の中を整理するために書いてみた。見出しをつけて章立て風にしてあるが、どこから読んでも繋がるはず。ちょっと長いですが、少しでも関心があれば読んでみて下さい。

◯現実を見ていないのはどちらだろうか?

辺野古の海
↑辺野古のボーリング調査阻止10周年記念の海上パレードにて。2014年4月19日。
 辺野古で抗議を続けている人たちに対して中国の脅威をあげ、「現実を見ろ」というコメントを発する人がいる。今年の沖縄知事選では辺野古新基地建設反対の玉城デニーさんが当選すれば、沖縄は中国に侵略されるという妄想もネットで拡散された。
 果たして現実を見ていないのはどちらだろうか。そういう人たちは一度、那覇から嘉手納までの国道58号線をゆっくり通ってみればいい。那覇から嘉手納に至る道路にはキャンプ・キンザーがあり、普天間飛行場があり、キャンプ瑞慶覧があり、嘉手納基地がある。嘉手納は極東最大の空軍基地だ。嘉手納飛行場の面積は19,855千㎡で、横田飛行場(7,139)、厚木飛行場(5,069)、岩国飛行場(7,891)を足した20,099千㎡にほぼ匹敵する。ちなみに普天間は海兵隊の基地で面積は4,763千㎡。ほとんどが輸送機だ。それでも普天間がなくなれば抑止力がなくなり、中国が攻めてくると思うのだろうか。
防衛省の在日米軍基地の資料
 手元に沖縄知事公室基地対策課が作成した『沖縄の米軍基地』と題した524Pに及ぶ分厚い資料がある。この中に普天間飛行場の所属機が掲載されている。
 内訳は空中給油兼輸送機15機を含む固定翼機が19機、ヘリコプターが25機、オスプレイが12機だ。この資料は平成25年3月に発行されたもので、空中給油兼輸送機15機は2014年に岩国基地に移転され、オスプレイは24機に増えた。今普天間に残っているのは殆んどヘリとオスプレイだ。
 オスプレイが抑止力になるという人がいるが、オスプレイは戦闘機でも攻撃機でもなく輸送機にすぎない。沖縄の人が脅威を感じているから何か物凄い戦闘機だと思っている人がいるようだが、低空で飛行して騒音と振動が大きく、飛行が不安定な輸送機だから嫌がっているにすぎない。南スーダンに派遣されて、現地のゲリラに小火器で追い払われた過去もある。2016年12月13日に名護市安部の海岸にオスプレイが墜落しバラバラになった機体の写真が公開されたが、オスプレイの機体はグラファイトとエポキシ樹脂の複合材で作られているといわれている。
 尖閣を想定して、いち早く人員を島に送り込めると主張する人がいるが、誰もおらず何もない島に人員をオスプレイで送って何をするんだろうか。オスプレイには戦車一台を積める大きさもない。こうした現実を見れば、普天間基地の存在は中国に対して何の抑止力にも攻撃力にもならないと思うのだが?
 実際、尖閣周辺にスクランブルをかけているのは、那覇空港から飛び立つ自衛隊のステルス戦闘機だ。

◯日本の対中戦争の捨て石が沖縄なら、米中、米朝戦争の捨て石にされるのは日本列島だろう

町営船で伊江島に渡る米兵
↑本部港から町営船で伊江島に渡る米兵。2013年11月9日。
 辺野古の埋め立てへの釈明のつもりか「今、日本の守りの最前線は南西地域 (移設)は日米同盟のためではない 日本国民のためだ」と岩屋防衛省が話した。まさに先の大戦で沖縄を捨て石とした感覚がそのまま出た発言だが、それに対して「そうだね、沖縄の地理的要因だからしょうがない」と同調するネットの書き込みを見て愕然とする。
 もしアメリカと北朝鮮、アメリカと中国が戦争を始めたら、日本がアメリカの捨て石にされるという想像力は働かないのだろうか。米軍は中国との戦争を想定して、南西諸島~台湾~フィリピンといった第1列島線の内側に中国軍を封じ込めるエア・シー・バトル構想をすでに計画している。言わば南西諸島が盾にされるのだが、実際に戦闘になれば、盾になるのは南西諸島だけではなく日本列島全体になりはしないだろうか?
 2基で総額6000億円を超えるともいわれている地上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」。秋田と山口県の萩に配備されようとしているこのシステムは、北朝鮮から秋田上空を飛来するハワイに向けられたICBMや、山口上空を通過するグアムに向けられたIRBMを迎撃するためのものだとも推測されている。実際、北朝鮮はノドンやテポドンで充分に日本の国土の大部分を射程圏内に納めているわけで、そのミサイルの数は数百発ともいわれている。大陸間弾道ミサイルなど必要なく、一度に数十発のノドンを日本海側に向けて発射されたら2基のイージス・アショアで対処できるわけがない。アショアで撃ち逃がしたミサイルはPAC3で迎撃するというが、PAC3の射程距離は20kmといわれている。これで、どうして日本全土をカバーできるのだろう。
 アメリカから高い金額で迎撃システムを購入して、北朝鮮がアメリカを狙って撃ったミサイルを集団的自衛権の名の下に日本が撃ち落とす。当然、イージス・アショアを配備された秋田や萩は一番の攻撃対象となる。
 アメリカと北朝鮮、あるいはアメリカと中国が戦闘を開始し、ミサイルが本土の在日米軍基地やイージス・アショアを配備した場所に落とされて、ようやく本土の人間は辺野古や高江で行っている沖縄の人の戦いが何であったのか気づくのかもしれない。
 そして2015年に成立した、集団的自衛権を含む安保法制の重い内容を身を以て知る事になるのだろう。
「今、アメリカの守りの最前線は日本列島 イージス・アショア配備は日米同盟のためではない アメリカ国民のためだ」
 アメリカからこう告げられても、日本の置かれた地理的要因だからとアナタは納得するのだろうか?
 俄には信じられない人もいるだろうが、ジャーナリストの布施祐仁氏が語る<アメリカの不沈空母「ニッポン」>が在日米軍の役割や日米安保条約についてわかり易く語っている。
 アメリカと中国が戦争する可能性は実際には少ないだろうが、アメリカと中国の覇権争いに巻きこまれ、多大な軍事費を注ぎ込みそれにより国内のインフラや社会保障といった部分にお金がまわらず日本という国が崩壊する可能性はあるだろう。
「誰がためのイージス・アショアか?」配備地から導き出される、ある推論
秋田と萩へのイージス・アショア配備こそ、日本を逆に窮地に追い込む「平和ボケ」
防衛省、米兵器ローン急増 支払い延期要請1104億円

◯ポツダム宣言の第8条

メモリアルデーの泊外人墓地
↑メモリアルデーの泊外人墓地。2013年5月27日。
 安倍首相が「つまびらかには読んでいない」という迷言を発したポツダム宣言。その第8条には、こう書かれている。「日本国の主権は本州、北海道、九州、四国に限定される」、そして「その他の主権の及ぶ島々は連合国が決める」。
 2012年10月と少し古いが日刊SPA!に「ポツダム、カイロ宣言の内容を知らない日本人【孫崎享×田中康夫】Vol.2 」という記事が掲載されている。その記事で孫崎氏が、「そうすると、本州、北海道、九州、四国はたしかに“固有の領土”と呼べるのですが、その他の島々に関しては、“固有の領土”という理屈が成り立たないんです」と指摘している。
 ポツダム宣言に書かれている連合国とはどこだろうか。ポツダム宣言はアメリカ、イギリス、中華民国の共同声明として発表されている。中華民国は中国ではなく現在の台湾だという声もあるが、日本政府は台湾は中国だという姿勢を示している。
 ロシアは日本に対して北方領土問題は存在しないと言い、逆に最近の日本政府は中国に対して尖閣諸島の領有権問題は存在しないという態度を取っているが、ポツダム宣言を読む限り中国と日本の間に領土問題などまるでないとは言い切れないだろう。アメリカが尖閣諸島の問題で日本の施政権は認めているが領有権については明言しないのは、こうした事も関連しているのではないだろうか。
 実際、尖閣棚上げ論というのが日中で交わされたという野中広務・元官房長官の証言もある。「こ ういう問題は、一時棚上げにしてもかまわないと思います。10年棚上げにしてもかまいません。 我々の、この世代の人間は知恵が足りません。この問題は話がまとまりません。次の世代は、きっと我々よりは賢くなるでしょう。そのときは必ずや、お互いに 皆が受け入れられる良い方法を見つけることができるでしょう」という内容だ。
 しかし2012年、当時の石原都知事が尖閣諸島の地権関係者から島を買い取るという動きをし、慌てた民主党の野田総理が2012年9月11日に釣島、北小島、南小島の3島を20億5000万円で購入して国有化した。
 この当時は、那覇に住んでいた。それまでも那覇空港から尖閣へスクランブルをかけに行くステルス戦闘機を8階の部屋のベランダから見ることはあったが、この国有化を機にその頻度は明らかに増えた。
 国内では中国船が領海侵犯をしたというニュースを報道し脅威を煽るが、棚上げ論が存在したとすれば、中国から見れば一方的に国有化した日本こそ悪となる。
 それにしても不思議なのは、同じ領土問題でありながらロシアには下手に出て、中国には高圧的に出る日本政府の態度だ。昔は領土問題と言えば北方領土で、右翼が街宣車で叫んでいたのはソ連に対しての領土返還だった。

◯レイプの連鎖

宜野湾野外劇場での抗議集会
↑宜野湾市野外劇場で開かれた「4・28政府式典に抗議する『屈辱の日』沖縄大会」。2013年4月28日。
 12月14日の午前、辺野古の海に土砂が投げ込まれた。先の県知事選で、辺野古に基地は造らせないを公約にした玉城デニー氏を選んだ沖縄の民意を無視するように。いや、無視という生易しいものではないな。基地の周辺でプラカードを掲げて反対する人やテレビの前で固唾をのんで見守っている人の心をへし折ろうとすようにトラックに積んだ土砂が投げ入れられた。赤土を含んだような土砂が広がって行く様は、出血のようだった。まさに国による公開レイプを見せられている気分になった。
 そもそも普天間の返還を含む米軍基地の整理縮小への動きは、1995年9月に起きた米兵による12歳の女子小学生への集団レイプ事件がキッカケだ。この事件を受けて「沖縄県民総決起大会」が開かれ、8万5000人が集まった。沖縄では強烈な出来事だが、今、内地に暮らす人のどれくらいがこの事件を覚えているのだろうか。
 米兵によるレイプがキッカケで沖縄の米軍基地縮小への動きが起こったが、今、日本政府は沖縄の海を穢し民の心をへし折ることで解決しようとしている。これはレイプの連鎖だろう。
 そう言えば、2011年11月には防衛省の田中聡局長が、一川保夫防衛相が米軍普天間飛行場の代替施設として名護市辺野古に新しい基地を造るための環境影響評価書を年内に提出すると断言しない理由を聞かれ、「(女性を)犯す前に『これから犯しますよ』と言いますか」と発言し、後に更迭されている。 

◯那覇空港第二滑走路

那覇空港に着陸する自衛隊機
↑那覇空港に着陸する自衛隊機。2013年7月19日。
 きれいな辺野古の海を埋め立てるなと言うと、那覇空港の第二滑走路の埋め立ての話を持ち出す人がいる。しかし、そもそも那覇空港の歴史を辿れば1933年8月に建設された軍用飛行場の小禄飛行場。沖縄側が海を埋め立てて那覇空港を建設したのではない。そして現在も民間の飛行機と自衛隊の航空機が共用で使用している。自衛隊機のスクランブルも、ここから発進されている。
 1日300回以上の離着陸があり、年間の発着回数では東京国際空港、成田国際空港、福岡空港に次いで第4位(2010年度)。2015年の6月には、全日空機の離陸直前、自衛隊ヘリが横切るトラブルもあった。最早、滑走路1本では対応できない混雑ぶりなのだろう。
 那覇に住んでいた2年間に石垣島や宮古島へ行くため何回も那覇空港を利用したが、自衛隊の航空機の離発着により民間機の発着が遅れることが何度もあった。 なので「辺野古の埋め立て反対の理由に自然破壊を挙げているのに、那覇空港の第二滑走路の埋め立て工事は行なっている」という翁長知事や玉城デニー知事への批判は当たらな いと思っている。
 もし仮に批判するなら、泡瀬干潟埋め立て工事だろう。干潟を埋め立て、スポーツコンベンションや大型ホテルを誘致するという事業に、2015年1月、翁長知事は事業の推進を沖縄市長らに約束した。ただし、泡瀬干潟埋め立てを推進したのだから、辺野古埋め立てに反対するなという批判もあたらないと思う。

◯普天間の運用停止と辺野古の埋め立ては、そもそも別問題

県庁前での埋め立て承認への抗議デモ
↑仲井眞知事の辺野古埋め立て承認に対する県庁前での抗議行動。2013年12月27日。

 仲井眞前知事が埋め立て承認を行ってから、やがて5年になる。
 埋立て承認が行なわれる2日前の2013年12月25日、安倍首相が仲井眞前知事との会談で伝えた負担軽減策の骨子は、
(1)普天間飛行場の5年以内の運用停止や牧港補給地区の7年以内の全面返還について、防衛省内に作業チームをつくって検討する。
(2)オスプレイの訓練の半分を県外に移転する。
(3)日米地位協定に関連して、基地内の環境保全に関連する立ち入り調査を行えるよう米側と交渉に入る。
 というものだった。
 埋立て承認から5年が経とうとしているが、現在、 沖縄の普天間基地に配備されているオスプレイは24機。負担軽減として浮上した「12機程度の県外配備」は進んでおらず、さらにオスプレイが2機追加配備される事になったようだ。また、2016年に起きた日本で初めてとなるオスプレイの墜落事故に見られる日本側の現場検証が行なえない等の日米地位協定の壁はそのままだし、普天間の5年以内の運用停止は政府側の説明がコロコロと変わっている。
  普天間飛行場の5年以内の運用停止については、2013年12月に安倍首相が沖縄政策協議会で「最大限実現するよう努力したい」と述べていたが、2016年5月11日になると中谷元防衛省は衆院決算行政監視委員会で「現在においてはしっかりとした定義はない」としている。

 辺野古埋め立て承認の記者会見で仲井眞氏は、基地の県外移設という公約と辺野古の埋立て承認の整合性について記者の質問に答えて、このように述べている。
「辺野古の建設完了というのはなかなか時間がかかるし、難しかろうというのが現実ですよ。日米両政府は9.5年かかると言っている。ですから9.5年あのまま宜野湾に(普天間飛行場が)あり続けるというのは固定化と変わりませんよ。早く宜野湾から普天間を移設すべきだというのが私のかねてからの主張ですから、9年半より前にもっと短い5年以内に移設してもらいたい。5年以内に辺野古が完了すればこちらの方が早いですよ、ですから現実の見通しの問題です。むしろ(辺野古の工事が)長引く事はあっても短くなる事は苦労がいるだろう。ですから(9.5年以内の)半分位もしくは以下の期間で処理するには県外に移すしかないというのははっきりしているんじゃないでしょうか」。また「一国の総理と話し5年以内に普天間の運用停止状態に持って行くとおっしゃった」とも語っている。
承認当時の仲井眞知事の記者会見。
  普天間の5年以内の運用停止と辺野古の埋め立ては、別々に進められるもののはずだった。それがいつの間にか政府は普天間の辺野古への移設が前提と言い出して、県側に責任を負わせようとしている。
 また、政府は仲井眞前知事の埋立て承認を錦の御旗のように掲げるが、その埋め立てのための工法変更2件は、仲井眞氏が知事選で翁長雄志氏に破れて退任する4日前に承認したものだ。

 沖縄にある米軍基地は沖縄が誘致したものではない。戦後、銃剣とブルドーザーで強制的に奪われた土地に造られた。しかし、これから新しく造られようとしている辺野古の基地は日本政府が進んで提供し国民の税金で建設される。
 辺野古も普天間もいらないというと、じゃあ対案を出せという人がいる。押しつけられた側がなぜ対案を出さなくてはならないのだろう。この5年間、辺野古が唯一と頑なになっている政府の無策さこそ非難されるべきだろう。
 未だに沖縄の経済は基地に頼っているとか、オスプレイは災害救助に使えると絶賛している本土の人もいるが、それほど基地がお金を生むと信じているなら自分の住むところに誘致したらどうか。
 何も不安がる事はない。 米兵の全てが事件を起こすわけではないし、オスプレイだってそんなには落ちては来ないだろう。

普天間飛行場を飛び立った直後のオスプレイ
↑普天間飛行場を飛び立った直後のオスプレイ。2014年1月27日。

12月18日(火)

 激しい雨が降ったり止んだり、かと思えば一瞬青空が広がり、夕方には落雷もあった。天気のフルコースだ。
日本民衆文化の原郷

 15日の土曜日にアマゾンのマーケットプレイスでポチった『日本民衆文化の原郷 被差別部落の民俗と芸能/沖浦和光』(文春文庫)が、今日届いた。本の値段は1円だったが、送料が350円であまり安さが感じられなかった。

 防衛予算、原発、マイナンバーと最近流れてくるニュースを読むとこの国の凋落ぶりに愕然となる。

島しょ防衛、長射程重視=中国対艦ミサイル脅威で―「盾」役割変質も・新大綱
新型駆逐艦・フリゲート艦の数は57隻と日本の護衛艦47隻を上回り、日本のF15やF35のような第4・第5世代と呼ばれる戦闘機数も約850機と日本の3倍近く保有する> ーーこういう中国との比較記事を読む度に思うが、中国の人口や面積は日本の何倍だろうか。そのうち政府は日本の国土を基地と兵器で埋め尽くしたいのだろうか。

 先日三菱重工がトルコでの原発新設を断念する方向で動いているという話があったが、日立製作所も英国での原発新設計画を凍結する方向で調整。新聞では<安倍政権が成長戦力の目玉に掲げた原発輸出の案件は全て暗礁に乗り上げることになる>と書いているが、暗礁に乗り上げているのは原発政策だけではない。鳴り物入りで押し進めようとしたクールジャパン戦略も、マレーシアでの事業から撤退するなど成果を上げられていない。
クールジャパン機構がISETAN the Japan Storeから撤退
海外で見た酷すぎるクールジャパンの実態~マレーシア編~

 現政権が情報インフラとして進めたマイナンバー。当時の担当大臣、甘利明氏が浮かれて「私以外私じゃないの 当たり前だけどね だからマイナンバーカード」と替え歌を披露し、「マイナンバー制度はすでに世界中で採用されており、日本の導入は遅れています。しかし、それは世界各国で起こった失敗をもとに改良された仕組みを使うことができるということでもあるんです」と安全性を力説したが、国税庁委託先からマイナンバーなど個人情報70万件が漏えいした。

ゴーン容疑者、知人を優遇し契約か 日産が調査
関係者によりますと、2008年に日産が契約を結んだインドの販売代理店「フーバー社」の実質的経営者はゴーン容疑者の長女の友人の父親で、家族ぐるみの付き合いがあった人物でした。フーバー社は事前の候補にはなかった会社でした。また、2014年から操業するブラジル・リオデジャネイロ州のレゼンデ工場は、ゴーン容疑者と交友関係があった元州知事の友人が土地の所有者でした>ーーこの日産の問題と、モリカケの違いがわからない。

軽減税率、財源にメド 社会保障から1000億円
政府は2019年10月の消費増税に合わせて導入する軽減税率の財源に社会保障費から約1千億円を充てる方針だ>ーー膨らんだ社会保障費のために増税するんじゃなかったのか?虚構新聞の斜め上を行く現実。

 昨年の12月17日に撮影した下タ北部地区の繭玉作りと、下タ北部地区から楡原、岩稲、笹津の雪景色をPhoto Albumにしました。こちらこちら
繭玉作り
↑下タ北部地区公民館での繭玉作り。↓雪の中を笹津駅へと走る高山線の電車。
雪の中を走る高山線の電車

「みんなで沖縄をまもろう!」 ローラがインスタで呼びかけた理由
 辺野古埋め立ての停止を求めるホワイトハウスへの請願書だが、当初の目的だった10万筆が今日達成した。次の目標は20万筆。署名の方法は簡単で、1分もかからない。署名方法はこちら

 25日間に及ぶ与那国島最大の祭祀、マチリ・カンブナガが昨日から始まっているようだ。

12月15日(土)

 寄宮にあった沖縄県立図書館が、那覇バスターミナルなどの入る商業施設、カフーナ旭橋A街区に引っ越して、今日から開館となった。3階から6階(一般利用は5階まで)に入居し、87万8千冊の蔵書を揃えている。そのうち35万1千冊が琉球・沖縄に関する郷土資料だそうだ。沖縄タイムスの記事、琉球新報の記事
 沖縄で暮らした2年間はこの県立図書館と、その隣りにあった那覇市立中央図書館、海岸の方にあった若狭図書館をよく利用した。
 与儀公園の隣りに県立図書館があり、図書館の横には知事公舎へ入る道路があった。仲井眞・前沖縄県知事が辺野古埋立て承認した時は、この知事公舎へ続く道に警備員が配備され封鎖された。やがて5年が経つ。
 県立図書館に謹呈した自分のフォトブック『琉球弧の祭祀と行事1~7』も、郷土資料として無事に新しい場所に納まっているようだ。引っ越しに伴いホームページもリニューアルしたようで、本の目次も記載されるようになった。「琉球弧の祭祀と行事」か「木原盛夫」で検索して下さい。

 今日のヤフーのトップニュースに「小川にクロマグロ 児童が発見」の記事を見つけ、どこの話だろうと思いクリックしたら、元は南海日日新聞の記事で宇検村の久志だった。 
 久志か・・・久しぶりに聞く名前だった。奄美大島の焼内湾沿いにある小さな村で、一度だけ訪ねたことがある。集落の中を歩いていると、放し飼いの鶏が道を横断していくようなのんびりとした村だ。
 訪れた時はほとんど人とも出会わない静かな村だったが、嘗てこの村に無我利道場というヒッピーのコミューンがあった。1973年、焼内湾に浮かぶ枝手久島に東亜燃料(現東燃ゼネラル石油)が石油備蓄基地の建設を計画し、それに反対する住民が、当時トカラ列島の諏訪之瀬島にコミューンを作っていたヒッピーのポンこと山田塊也氏らを呼び寄せ反対運動を行った。その運動の成果で1984年10月に建設計画は撤回された。久志に入植した彼らは無我利道場を作って村内に定住したが、その後村民との関係が悪化して道場は解散した。無我利道場についてはwikipediaに詳細が乗っている。
 90年前後は村民が「入植者グループ」「追放派」「追放運動拒否派」に分かれ、そこに右翼団体や人権運動家らも加わって闘争もあったようだが、訪れた2011年10月にはそんな痕跡は何一つ見つけられなかった。
 ヒッピーのポン氏は2010年4月に亡くなったそうだが、彼のホームページがある。

久志01
↑宇検村の久志集落から焼内湾を見る。 ↓放し飼いの鶏が道を横切る。右は焼内湾に浮かぶ枝手久島。
久志02
 『葬式 あの世への民俗/須藤功』(青弓社)を読了した。気になった箇所を備忘録として。

 旅先で墓地を見つけると、私はたいていひとまわりしてみる。墓地はどこも同じようだが、どこかに土地の習俗を残しているものである。それを発見するのが楽しい。発見の多い少ないでいうなら、町の中にある墓地よりも海辺や山の集落で、しかも土葬を残しているところに多い。棺蓋(かんぶた)や御霊屋(みたまや)があったり、花籠や杖、あるいは鍬や鎌がおいてあったり、また弓矢が立てかけてあったりする。こうしたものを見ると、ここではまだ昔の葬式を残しているなと思う。(8P)

 山田さんの集落は、教員住宅を除いて当時四十一戸あった。姓でわけると大きく三つで、同姓ごとにマキと呼ぶ組織があった。マキにはそれぞれ本家があって、その家には内鎮守がある。昔は本家にマキの一族が集まって、正月の祝いをしたものだという。今これはなくなっているが、たとえば田植えを互いに手伝いあうユイ(結)はマキが中心だし、冠婚葬祭もマキの人々の手によって行われる。隣接する町にある檀那寺も、マキごとに違っている。(15P)

 山形県の村山地方では親がムサカリ絵馬を寺院に奉納し、無縁仏の成仏と天国での幸せを願う。ムカサリは「迎える=嫁を迎える」ということで、ムカサリ絵馬は縁のないまま親に先立った息子の婚礼を描いた絵馬をいう。(64P)

 日本の舞踊は天鈿女命(あまのうずめのみこと)に始まるといわれる。天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩屋に籠って世の中が暗闇になったとき、天鈿女命は岩屋戸の前で乳房もあらわに踊り、天照大神を再びこの世に引きもどすきっかけをつくった。
 この天鈿女命は「臼女・うすめ」からきているという説がある。臼の上で踊る呪力を持った女、あるいは臼の上で踊ることによって呪力を得る女ということである。そういえば、能舞台の床下に臼を入れることもあると聞いたことがある。足音を共鳴させるためらしいが、臼女と考えあわせると興味深いものがある。(105P)

 九月初めの二百十日や二百二十日は、稲の花が咲く時期にくる台風に気をつけよ、ということを喚起するために設けられたものである。この台風の正体は、家が絶え、盆供養してもらえなかった無縁の精霊のしわざ、と昔の人は考えていた。盆あとに高い木の上に幤を掲げたり、家の棟の端に鎌を結んで風を切るといった風祭りが各地で行われるが、これは台風になるかもしれない無縁の精霊を供養し、併せて台風を鎮めようというものである。(116P)

 年齢の数え方が変更になって満年齢で数えるようになるのは、昭和二十五年(一九五〇年)の元旦からである。それまでは数え年だった。数え年ではだれもが元旦に歳が一つ増えた。初日の出を拝みながら迎える新しい年と併せ、元気に歳を重ねることのできる喜びはひとしおで、これほどめでたいことはなかった。
 こうした正月のめでたさは明治五年(一八七二年)の改暦によって薄れ、さらに混乱を招いた。改暦はそれまでの太陰太陽暦(旧暦)を太陽暦(現行暦)にしたものだが、暦が変わったからといって生活のなにもかも新しい暦に合わせることはできなかった。混乱はそこから生じ、今なおつづいている。現在の暦では立春は正月の一カ月あと、正月前に立春がくることは絶対にありえない。歳は誕生日にとるようになり、正月の二つのめでたさは今は消えてしまった。(118~119P)

「七歳未満なし」というのは、七歳まで子はまだ神の手にあるとされ、亡くなると神が手元に引きもどしたとか、神の国に帰ったとかいい、葬式はしないか、しても身内だけで簡単にひっそりとすませるのが普通だった。「七歳未満なし」は当時のそうした考えを表している。(122P)

 東北地方を歩いていると、上部に円板か鉄輪を装着した角塔婆を路傍に見たりする。「後生車」とか「地蔵車」とか「菩提車」とかいわれるもので、下方に小石を入れた竹籠を吊りさげたものもある。通りすがりの人に円板をまわしてもらうと先立った子の供養になるし、竹籠の小石は賽の河原で石積みをする子の手助けをしてもらうためだという。(132~133P)

 年数の数え方には満と数えの二つがあって、年忌を数え年でするのは知ってのとおりである。年齢も以前は数え年だったが、昭和二十五年(一九五〇年)の元旦から満年齢になった。誕生日ごとに一歳ずつ増えるもので、このときから誕生日を祝うことが盛んになる。
 数え年に零歳というのはなく、生まれるとすぐ一歳、十二月に生まれても、年が明けて元旦を迎えると二歳になった。元旦はまさに年(歳)とりで、母親は雑煮を食べる子どもたちに「また一つお兄(姉)さんになったんだよ」と話した。このときの母親の心には、元気に一年を過ごしためでたさと、先立った子にかけられなかった愛情を大きくなる子に向けられる喜びがあった。(141P)

 イギリス女性イサベラ・バードの『日本奥地紀行』に次のような一節がある。
 越後の国のいたる所で私は、静かな川のちょうど上に、木綿布の四隅を四本の竹の棒で吊ったものを見かけた。ふつうその背後には、長くて幅の狭い木札があり、木札の上部には、墓地で見るものと同じような文字が刻みこまれている。
(中略)木札には一人の女の戒名すなわち死後の名前が書いてある。(中略)これは「流し祈願」といわれるもので、私はこれほど哀れに心を打つものを見たことがない。これは初めて母となる喜びを知った時にこの世を去った女が、前世の悪業のために血の池という地獄の一つで苦しむことを<と一般に人びとは信じている>示しているという。 (高梨健吉訳、平凡社)
「流し祈願」とあるがこれはおそらく直訳で、一般には「流灌頂」とか「流水灌頂」とかいわれているものである。身籠ったままで、あるいは産褥熱(さんじょくねつ)で死んだ女は成仏できないといい、川の上に張った布はそうした女を救うための仕掛けである。通りすがりの人に柄杓で水を掛けてもらい、布が破れたり、布に書いた南無妙法蓮華経の文字が消えると成仏したという。(142~144P)

 水葬は主に海上で亡くなった場合に行われる。現在は船上で息を引き取っても、ヘリコプターで遺体の空輸は可能だが、昔はその場で海に葬るしかなかった。戦時中の軍艦の将兵は、ほとんどこの水葬で葬られた。
 曝葬は、字の示すごとくさらし葬るものである。「葬」の字も屍を草地において草で覆うという意味だから、野にさらすということでは曝の字と重なっている。
~略~
 曝葬ではないが、南西諸島では今も複葬を残しているところがある。葬式を二度行うことからの用語である。一度は普通の葬式、二度目は遺体を墓から出して骨を水できれいに洗い、甕棺(かめかん)か厨子甕に入れて墓に納めるもので、一般には洗骨といわれる。(146P)

 沖縄が本土に復帰してからもう四半世紀近い。復帰して間もないころの沖縄には幼い日に見たような懐かしい風景がいたるところにあった。そのころ街を歩いていると、電柱によく黒枠のビラのようなものを見た。死亡の知らせと告別式の日時を知らせる貼り紙だった。今は貼り紙ではなく、地域の新聞の広告欄に死亡と告別式の日時を載せ、さらに葬式がすむと会葬御礼の広告を載せるようになった。
 その広告には喪主だけではなく、親族一同の名を連ねてあって、あの人とこの人の思わぬつながりを発見することもある。

与那国島の貼り紙

 左の写真は与那国島で見つけた、訃報を伝える貼り紙。2014年1月9日撮影。親族の名前がズラリと並んでいる。沖縄本島では見られなくなった貼り紙も、離島にはまだこうして残っているのかもしれない。

国税庁委託先がマイナンバーなど個人情報70万件漏えい
 漏えいには罰則規定があったと思うが。これからも起きるだろうな。

 景気拡大の長さが高度経済成長時代の「いざなぎ景気」を上回ったそうだ。どこのパラレルワールドの話しか。
 辺野古の新基地建設を来年2月24日に行われる県民投票まで止めて欲しいとする請願を、トランプ大統領に送る運動が現在行われている。開始から30日以内に10万筆が集まれば、ホワイトハウスから請願に対する返答が60日以内に届くそうだ。現在4万筆を超えている。署名の方法は簡単で、1分もかからない。署名方法はこちら

12月12日(水)

 朝は土砂降りの雨だったが、午後からは晴れてきたので読みかけの本を2冊持って図書館へ。家に居るとついついネットの中を徘徊して本に集中出来ないのと、図書館へ行けば光熱費の節約にもなる。
 図書館から家に帰ると、今年の漢字が「災」に決定していた。

 先週の日曜日(12月2日)、富山へ撮影に行った帰りの電車は車両の半分以上が東南アジアの若者だった。富山駅から一緒に金沢行きの電車に乗ったが、高岡のような大きな駅だけではなく呉羽、小杉、大門といった小さな駅にも何人かずつ降りて行った。地元でも自転車に乗っている東南アジアからと思しき若者を見かけることはあるが、自分が思っていた以上にたくさんの若者が富山にも働きに来ている。技能実習生として働きに来た彼らが、休日に連絡を取り合って遊びに出た帰りだったのだろう。
 電車の中で話をしている彼らを見て既視感があると思ったが、浮かんだのは1990年前後の東京と東京近郊で見かけたイラン人やパキスタン人だった。

 バブルの頃とバブルが崩壊してしばらくは、東京や近郊でイランから働きに来ていた若者をたくさん見かけた。1974年に日本とイランはビザ相互免除協定を締結していたため、渡航しやすかったのだろう。休日になると代々木公園や上野公園に集まって来て、青空床屋やフリーマーケットが開かれ食べものを売る屋台も出た。ちょっとしたイラン村のようになっていて、その光景をなんだか怖いという人もいたが、フリーマーケットで売られている雑多なものを見るのは楽しかった。金沢明子・寺田創一のCD『東京音頭 平成ミックス』を買ったのは、代々木公園のイラン人のフリーマーケットだった。見本盤と印刷したシールが貼ってあって、どこから仕入れたのか不思議だった。
 1992年の5月には在日パキスタン人やバングラデシュの人たち向けに、インドのポップガザル歌手、パンカジ・ウダースが来日して一日限りのコンサートを行い、続いて在日イラン人に向けたイランのポップス歌手(イランではポップスは禁止なので、イランからロスアンジェルスに亡命した歌手たち)のコンサートが埼玉や千葉で開かれた。チケットは1万円ほどで、出稼ぎに来ている彼らにはそうとう高い値段設定だったろうと思う。
 しかしこの後、日本経済は下降し多くのイラン人が職を解雇され、中には犯罪に手を染める人や不法滞在する人も出て日本とイランとのビザ相互免除協定は終結した。バブルの頃は日本人がやりたがらない3Kの労働を担っていたが、経済が悪化すると解雇される。仕事を求めて来日した彼らには不幸なことだった。

 先日、人手不足で困っている国内企業の要望を受けて外国人労働者の受け入れ拡大を促す出入国管理法改正案が与党による強行採決で可決した。どちらかというと自民党を応援している人が反対している移民受け入れ政策に限りなく近いが、不思議なことに彼らからは声があがらない。
 実は外国人労働者の受け入れは、個人的には反対ではない。というよりも、そうしないと日本の産業は成り立たないのではないかと思っている。ただし、今回の改正案は来年4月1日に施行されることが決まっているが、中身の詳細はこれから省令で決められる。
 野党は何でも反対すると非難している人も居るが、中身の決まっていないものにどうして賛成票を投じれるのだろう。責められるべきは「この問題は議論したらきりがない。いくらでも問題点は出てくる」(自民党 平沢勝栄衆院議員)と言いながら法案を通過させる与党議員だろう。
 また審議に当たっては法務省が出して来たデータに誤りがあったり、審議中に日本企業の雇用状況の劣悪さが野党議員から次々に指摘されたが、これらの問題も改正案が通ってから検討される。本当に検討するのかさえわからないが。
「眠らぬ国」支える留学生 人気バイト巡ったらニッポンの今が見えた
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外国人実習生、3年で69人死亡 6人は自殺 法務資料で判明
技能実習生が多数死亡の衝撃。日本で働く外国人はどう思う?
 審議中に明らかになった外国人労働者の置かれた状況。記事の中に<彼らは「安い労働力」ではなく一人の人間であり誰かの子供なのです>という言葉があった。今、上から目線で海外からの人材を受け入れるかどうか政府は議論しているが、その内、劣悪な条件・環境の日本へ来て働いてくれる外国人は少なくなるんじゃないだろうか。
 見切り発車で改正案が通されたことは、受け入れる側(日本企業)にもやってくる側(外国人労働者)にも不幸なことだと思う。

 1992年5月4日の来日コンサートでパンカジ・ウダースが歌った中に「手紙 Chitthi Aai Hai」という曲がある。 

レイラ・フォルーハル

手紙が届いた 故郷から手紙が届いた
外国へ行ってしまったおまえ 父親の私はいいが 母さんは弱り切っている
世話をしてくれる嫁は未亡人のよう
金を稼ぎにでかけたおまえ さあ、鳥籠を壊して飛んで帰っておいで

(ミュージック・マガジン1992.7月号「パンカジ・ウダース・コンサート・リポート 麻田豊」より)

 彼らは安い労働力ではなく、誰かの息子や娘、あるいは誰かの父親や母親かもしれない。

 写真は1992年に在日イラン人向けに開かれたコンサートで来日した、イラン人歌手のレイラ・フォルーハル。コンサートの後、楽屋で撮影した。たぶんコンサートの写真だけのつもりが、急遽ポートレートも撮ることになったんだろう。ライティングはカメラバックに入っていたグリップストロボを担当編集者だった野間易道さんに持ってもらい、直に当てている。当時は全然情報がなかったが、女優としても活躍されているようだ。音楽的にも、出会って一番カルチャーショックを受けた。1992年5月5日撮影。

 You Tubeからパンカジ・ウダースの「手紙 Chitthi Aai Hai」、レイラ・フォルーハルの「 Greatest Hits Folk」。
 昨年の11月23日に撮影した射水神社の新嘗祭の様子をPhoto Albumにしました。こちら
新嘗祭01
↑奉賛会員や地元企業などから贈られた神饌の数々。↓空手道千山道場の堀田千宴子師範による演武の奉納。
新嘗祭02

12月9日(日)

 冬の到来。朝、外が明るいので窓を開けるとこの冬初めての積雪だった。今期一番強い寒気が日本列島に流れ込んでいるそうで、青森の酸ヶ湯では120センチの積雪となっている。
今日の積雪
←朝起きると外は積雪だったが、午後には止んだ。明日まで残らない?

 先日、北日本新聞に<「盤持石」見に来て 氷見市上泉自治会>という記事が掲載されていた。盤持石(ばんもちいし)は、お宮の境内などで若者達が持ち上げて力比べをするのに使われた石だ。呉西の方では<ばんぶち>とも呼んでいる。奉納相撲のように、神を喜ばせるための神事であり競技だったのだろう。
 このばんぶち、福岡町の沢川(そうごう)にもある。今年の9月に沢川の獅子舞を見に行った時に、愛宕神社の境内に植えられた木の根っこの横に半分ほど埋もれたばんぶちが数個あるのを撮影してきた。案内板もないので、言われなければわからない。しめ縄で結界を作るなり、説明板を立てれば良いのにと思う。
 県内で今も盤持石が使われているのは7月に入善町の新屋住吉社で行われる大磐祭りで、117キロの御影石を持ち上げる。城端にある善徳寺でも盤持ち大会が行われるが、こちらは石ではなく60キロの米俵を2つ結んで持ち上げる。境内の隅には嘗て使われていたのかもしれない盤持石も置かれている。
沢川と住吉社の盤持石
↑左は、福岡町沢川(そうごう)の愛宕神社にある盤持(ばんぶち)石。境内を整備した時に、石の下の方が土に埋もれたそうだ。2018年9月22日撮影。右は、入善町にある新屋住吉社。地神を祀った塚の前に盤持石が4つ置かれている。手前と奥の石が神石と呼ばれており、手前の青石は135キロ、奥の御影石は117キロ。大磐祭りを始める前に宮司さんによるご祈祷が行われた。競技に使われたのは、御影石の方だった。2018年7月24日撮影。
荒屋住吉社の大磐祭りと善徳寺の盤持大会
↑左は、住吉社の大磐祭り。117キロの御影石を肩まで上げられたのは、この男性だけだった。2018年7月24日撮影。右は、城端別院 善徳寺の磐持ち大会。石ではなく60キロの米俵を2つ結んだものを持ち上げる。2018年7月22日撮影。
善徳寺の番付表と盤持石
須子茂集落の力石

↑左は、善徳寺の庫裏の外壁に飾られている番付表。「東西砺波盤持講」と書かれている。番付は平成24年で止まっている。2018年7月22日撮影。右は、善徳寺の境内の隅に安置されている嘗て使われていたと思われる盤持石。2018年7月22日撮影。

←奄美群島の加計呂麻島にある須子茂集落。アシャゲ(神人が神事を行う小屋)の手前(写真中央の下)にあるのが力石。2011年2月3日撮影。

 盤持石は、全国的には力石と呼ばれている。力石を初めて見たのは2011年2月で、加計呂麻島の須子茂集落のアシャゲ(神人が神事を行う小屋)の横に置いてあった。短い説明書きもあり「一太郎石 昔の若者の力比べに使われた石である。多い人で十七回担いで村の中を回ったと言う」と記されていた。

低所得高齢者の医療費軽減廃止へ 75歳以上740万人が負担増
 このまま行くと確実に、長生きしたことを後悔しなくてはならない国になりそうだ。

12月8日(土)

 ずいぶん昔に撮影を担当していた雑誌連載が、書籍にまとまることになった。雑誌に使ったプリントは当時の担当編集者が保管しているが、被写体となった人の中にどうしてもプリントが欲しいという方が何人かいらして差し上げたため欠けているものがあった。
 書籍の担当者から連絡があり、欠けているプリントのネガを朝から探していた。モノクロのネガフィルムや残ポジのスリーブは一つ一つ現像所の袋に入れて、プラスチックの衣装ケースに詰め込んである。2つの衣装ケースから袋をひっぱり出して、目指すネガを探すが一つしか見つからない。
 写真を始めた時から今まで、ネガもプリントも捨てたり処分したことはないのでおかしいな〜と思って書庫兼物置になっている部屋をぐるっと歩くと、ネガが入った大きな段ボールが新たに2つ見つかった。
 探していたネガは、こちらの段ボールに入っていた。
フィルム探し

 お目当てのネガを探していると、ついでに色んなものも発見する。袋には撮影媒体や被写体が書いてあるので懐かしくなって作業から脱線しそうになるので、中を見ないようにしたが、一つだけ衣装ケースから取り出して来た。昭和8年から昭和47年までの東京を写した写真だ。手札サイズで40枚あった。30年ほど前、知り合いの編集者から預かったものだ。

←ネガ探し。

 昔の東京の写真があるので、これと同じ場所を探して撮影し一冊の本を作るという企画で、仕事の依頼だった。関口宏さんが発案者だったか、関口宏さんに原稿を書いてもらうだったか、そんな話だったと記憶している。企画としては面白いが元の写真には浅草とか銀座六丁目とかしか書いて無く、せいぜい「表参道 池袋方面」くらいなので撮影場所を特定するのも大変だ。仕事を受ける受けないの返事はせずに、とりあえず元写真の複写したものを預かって帰って来た。結局しばらくしてその出版社が倒産して企画もなくなったが、預かった写真だけが手元に残っている。下がその写真で、ネガからのプリントではなく紙焼きを複写して手札サイズに焼いたものだ。まさに『ALWAYS 三丁目の夕日』の頃の東京だ。
昭和の東京の写真
↑昭和32年の東京タワー。まだ下の脚の部分しか出来ていない。
↓手札サイズで40枚(左)、昭和31年の銀座六丁目(右)。
昭和の東京の写真02
 ようやく『日本の民俗 富山/大田栄太郎』(第一法規)を読み終えた。気になった箇所を備忘録として。
六 社会生活
ヨメドリと虫送り
嫁を迎えるときに提灯を持って村の境まで迎えに行く。砺波地方のように虫送りのあるところでは、やはり村境まで送った。(127P)

宮総代
大正四、五年から七、八年にかけて、合社がよく行われ、富山市近在でもその例にもれず、無格社が合祀されて村社などになった。だがその無格社時代にも、だれかが中心となって世話していたわけで、それが合祀されても、元の社の代表という形で世話方になったり、大きな社に吸収されたり、また、元の宮から委員を交替に選出し、その委員を宮総代といっている所などもある。(129P)

娘宿
~略~氷見市宇波の五月五日の厄神社の祭礼は俗にコーラウラの祭りといい、病気平癒を感謝する祭りであるが、この日沿道三00メートルの両側に、赤・青・黄などの流れ旗が立てられる。それを二十五歳の男子が世話してたて、十九歳の女子がその後始末をする習わしがある。(139P)

一山講
中新川郡立山町芦峅寺には、昔三八坊(詳しくは三三坊、五社人)あって、一山会(いっさんかい)ともいい、立山信仰を中心とした講が組織され、今日に至っている。(141P)

庚申講
~略~中新川郡立山町芦峅寺のものは、以前は盛んであったが、いまは平年二回大仙房で行い、閏年に限り庚申塚で行う。そのときは支柱を立て、その上端に扇三本を広げて結い、その下に髪の毛・櫛・筬(おさ)を飾り、風呂に入って参り、話を聞き、夜の十二時まで雑談をして散会する。以前は夜明けまで話したと伝えている。高岡市手洗野のものは、現在は三庚申であるが、昔は七庚申といっていたという。(142P)

七 信仰
(1)祖霊信仰
~略~下新川郡宇奈月町法福寺(真言)の墓場はことごとく地蔵さまであった。思うにそうした祖霊(死霊)とは、一面からすれば如来・菩薩という考え方でもあるまいか。墓場に木を植えることをハカジルシともいうから、最初の程は木を植えていたのだろうが、だんだんそうした地蔵さんを建立するようになったのだと思われる。下新川郡宇奈月町の奥、黒部川の上流に、ジジダン(祖父谷)・ババダン(祖母谷)というところがあるが、ここも祖父さん・祖母さんを葬ったところであるという。(159P)

山の神さま
~略~西砺波郡福岡町沢川でも山の神の祭りには山をまわって歩きなさるから、山へ入ってはならぬという。二月九日と十二月九日に祭りをし、ことに十二月九日には炭も焼かず、刃物も持ってはならぬという。(176P)

九 民俗芸能
願人坊踊り 願念坊踊りとも書く。
 小矢部市内の各所、上新川郡大沢野町、黒部市などの各地でも見られたが、どこも時代の流れに押されて衰え、小矢部市綾子のものは市文化財に指定されている。婦負郡八尾町でも、いまや滅びようとしている。八尾町の土玉生(どだもう)のものはダムの建設とともに湖底に沈み、同町大玉生(おおだもう)のものも後継者のつごうで絶え、ただ三ツ松のものだけが、かなりのちまであったが、それもいまは伝えていないようだ。婦負郡平沢にあったものは平沢願人坊ともいって、少しちがっていたが、これも伝承者がいなくなった。婦負郡八尾町黒瀬谷のものも大正時代まで盛んで、聞名寺の大法要などに人気ものであったが、近ごろは見ない。踊りの起源については、婦負郡八尾町辺では銭湯にきていた女中さんから、習ったともいう。
 踊り手は四人、太鼓は一人、笛は三人で、計八人である。踊りはカッポレ・奴・チョボクレ・あねさん・願人坊踊りの五種類を総合したもので、ほかにあんまさんというのもあったが、大正の初めに滅んだ。このうちチョボクレは滑稽味のある踊りで、だらく坊さんを表わした手踊りであったともいわれ、踊りの服装は仮面はつけないが、手ぬぐいをかぶり、黒衣を着て白脚絆に草鞋履きで、手甲はつけず、腰に瓢箪もつけないが、手に扇を持つのがきまりで、チョボクレのときだけは錫杖をもって踊った。
 歌のリズムは速く、足・腰・腕・首など早い動きで踊り、腰を中腰に曲げて六斎念仏をさるがやるような格好で踊った。三回同じ型でぐるぐる繰り返し踊るので、体がぐたぐたに疲れたという。踊りに伴う楽器は、三味線・笛・太鼓・尺八・四ツ竹の各一人ずつであったが、しだいに楽器を使う人がいなくなって、大正末には三味線だけになった。踊りは一連のものであるが、歌は三つから組みたてられたものと『八尾町史』にはみえる。(191~194P)

せり込み蝶六踊りと新川古代神
 ともに新川郡地方の盆踊りに踊るもので、伝説によれば昔「古代神」という僧がいて、毎年盆の十三日の晩に、お寺の墓前に茶花を供え、松明を振りながら、身振りよろしく、歌い踊り、亡き人たちの霊を慰めたのが、そもそもの起こりと伝え、それがしだいに祖先への感謝・敬慕の念をこめて踊るようになったものであるというが、越後の広大寺踊りの流れであろうともいう。昔は神社・仏閣の広場で、盆踊りが開かれたもので、そのときはかならず古代神を踊り、それが勢いついてくると、「せりこむ」といって、口ばやに、しかもちょぼくれ語りのように、卑俗な文句で踊り狂った。蝶六とはちょぼくれの訛りであるという。なにしろ新川郡地方では、盆踊りには、若い男女は編笠にゆかたがけで、裾は赤い脚出しに赤い一幅の前垂れをしめ、それに定紋の押絵をつけ、帯は男女の区別がつくがごとく、つかざるがごとく、とにかく古代神は魚津市などでは在方で踊られた。この踊りの始まりは羽根曾踊りかなにかで始められて、一時間もすると音頭取りが「おちょろくかんやい」と言葉を入れる。するとせり込み蝶六に変わるのである。羽根曾踊りとせり込み蝶六とはほとんど変わりはないが、手振りや足の踏みにわずかな違いがあるだけで、大きな違いはその囃しである。せり込み蝶六踊りの手振り(手数)は一六であるが、足踏みは簡単である。それはおそらく夜通し踊るに適したように自然に変わったのであろう。(196P)

門付け芸
コガイホメなど
 祭文語り・ゴゼ・マイマイ(越後獅子を八尾町ではこういう)・三河万歳・コガイホメなどがある。
 コガイホメとは蚕をコガイといい、万歳のように各家をまわり、「ヒトオケすると千貫、フタオケスリャ(二桶すれば)万貫」と唱えた。馬の形をしたものを手に持っていたのでウマフリ(馬振り)ともいった。八尾町あたりでは西砺波郡福光町や東砺波郡福野町・井波町方面から来たとも伝えている。(204P)

バンモチ
よく部落の地蔵堂とか観音さまの広場に、米にして四斗(一斗=厄一八リットル)とか五斗・六斗・八斗・一石・一石二斗・一石五斗くらいの重量の、直方体の石が置いてあった。呉東ではバンモチイシ、呉西ではバンブツイシともいい、若衆入りの日とか夜、ボン(休日)の日に、青壮年が競った。(205~206P)

メンショ
なぜメンショというのかはわからないが、綱引きである。婦負郡八尾町で江戸から大正年間まで、毎年秋に行われた。長さ一五間(約二七メートル)から二〇間(三六メートル)もある雌雄の綱の両頭を輪にして、それにダマキという支え木を入れ、両方から引き合った。平生でも子どもたちが、遊びに、「メンショでくるかい、あわせんと勝つぞ、負けると鬼だ」といって綱引きをした。やる日が、町で決まると、山から藤蔓など刈ってきてより合わせたといい、子どもたちは、細い縄の又綱をつけて協力した。綱引きは新湊市や黒部市生地でもあった。(206P)

十 人の一生
出棺と埋葬
 真宗以外では棺にゼンノツナ(白布で一反くらいを綱にしたもの)をつけ、別れを惜しんだ。小矢部市石動町・下新川郡朝日町泊・富山市でも旧家では(真宗以外)放鳥(鳩とか泥鰌を買ってきて供養に放す)したり、銭を撒いた家もあった。(226P)

十一 年中行事
トシモチ
暮の二十八日、中新川郡立山町芦峅寺では、大仙房(雄山神社の宮司)に部落の青年団が集まり、風呂に入り雄山神社に供える鏡餅二〇組と、部落の約一八〇戸の家の家族分数千個ほどをつく。直径四センチメートルくらいのものである。(229P)

初天神
二十五日。下新川郡宇奈月町愛本では、この日天神さんがお帰りになるといって、あずき粥をし、早くお送りするよう努める。遅れるとニカズキ(荷かつぎ役)にされるといって急ぐ。婦負郡八尾町でも遅れると、一年じゅう下座におらねばならんから、気の毒だといって、早朝から風呂の蓋をとって置き、垢を落としてお帰りになるようにという。砺波地方でも遅れぬよう心がける。また天神を正月神と信じている人もある。富山市でもこの日まで床の間に絵像(多くは衣冠束帯の天神で荒ぶる神としての天神ではない)を掛け、この日鏡餅といっしょにおろす。新湊市などでは二十六日に始末する。(239P)

初午
~略~東砺波郡利賀村では一月一五日に藁でつくった馬の頭に幌をつけ、その中に子どもが二人入り、一人は尾の部分を持ち、太鼓を叩いて村内を”こがいほめ”の歌を歌ってまわる。(241P)

ゲイノヤマ
今はすたれてなくなったが、明治の末ころまで、四月十四日から七月十五日、いわゆる立山頂上の雄山神社の山開きまで、麓の中新川郡立山町芦峅寺で、開山堂の近くに杉の枝や柊などを集め、それにつつじの花なども添え、六九本の杉の枝で山をつくり、その開山の四月十四日には、大宮・若宮の座主がそれぞれ立山に向かって祝詞をあげ、僧人たちは開山堂に集まって祈願(ここは神仏混合)したと伝えられている。十五日以後は、各坊から一人ずつ開山堂に集まり、朝の六つ時と九つ時に法螺貝を吹いて案内をした。中新川郡立山町芦峅寺の古老は、ゲイノヤマ(迎の山)は、お旅所のようなものであったのではあるまいかといっている。(245~247P)

中新川郡立山町浦田山王社(二十一社大権現)の獅子
5月第3申の日。白の素襖を着ている二人は獅子の目に幣をあてがうようにしている。幣で目を清めようとするのか、覆うのか、義不詳。3歩ほど進んで2歩ほど戻り、のろのろ進む。宮の本殿を3回半まわって終わる。先頭は青年団長が勤める。(251P)

ヤスンゴト
富山市在では、親戚・世話になった人を招く程度であったが、東砺波郡福野町を中心とする砺波地方では、十、十一のヤスンゴトの夜ヨタカアンドンを灯してねり歩く。とにかく呉西では、植えつけしてから10日ほどすると、毎晩太鼓をたたき、松明をつけ、田をまわる。砺波市鷹栖あたりでも宮に祈願してもらった御幣を、青竹に挟み、田の畔にさし、村によってもちがうが、小矢部市嘉例谷では、土用の三番(三日目)に、子どもたちが、「コンカムシャ アーガレ」と叫びながら、田をまわる。コンカムシとはうんかの方言で、小矢部市北蟹谷(きたかんだに)などでは、八メートルもある大松明をつけ、笛・太鼓をたたき、十二時ころまでもまわる。ネツオクル(稲熱病送る意)とかニチオクルとも訛り、そのほかムシオクリボンなどともいって、御幣をたててまわる。したがってシデマッツリ(御幣祭り)とも小矢部市の水島地区でいっている。ニチオクリは西砺波郡福光町、東砺波郡城端町・井波町など南砺一帯がことに盛んで、藁の船をつくり、それに男女一対の藁人形を乗せ、村中の田をまわる。東砺波郡井波町院瀬見でも二メートルもある竹に幣をつけたもので田の面をなでる。その時、「ネツオクルワーイ、ネツオクルワーイ」といってなでる。それを後で川へ流す。
 氷見市でも六月上旬から下旬にかけて、うんか・いなご・ドロオイムシなどの悪霊を除こうと、宮で祓をしてもらった幤を、田のところどころに立てる。東砺波郡五箇山でも立ててあった。子どもたちは行列をし、松明をつけ、太鼓をたたきながらまわることは砺波地方と同じである。氷見市の西朴木地区では、「稲虫おくりだせ」といいながら、その幤を畔にさす。中村地区では「ドロオイムシやホイ ドンドン」と囃し、白川地区では「ワー(お前)何ん虫おくる ドンドン おら一切 虫送る ドンドン」と繰りかえしながら、村境まで行き、幤をたてて帰る。小境地区では、「ドン うんかおくる ドンドン 僕稲虫送る ドンドン 稲穂もさがれ 稗の穂もさがれ ドン 粟の穂もさがれ ドン」といって囃す。とにかく村によって多少唱え言がちがうが、呉西地方では盛んである。砺波地方の西南部に六月下旬のところもある。(253~255P)

ショウライのアシアライタライ
精霊を迎えるにあたって、上新川郡大山町でも婦負郡八尾町でも、玄関に盥(たらい)を置いた、それをいう。富山市在でもショウライのアシアライガユといって、十四日の朝、薄い粥をたべた。

 気になった記事を備忘録として。
「しまむら」全取引企業に実習生への人権侵害ないよう通知へ
エッチな歌もてるりん流 加減しち飲みば 立ちゅるはずやたし… 家族が遺作発見 琉歌調500番

12月6日(木)

何もせず、何も言わず、不正に立ち向かわず、抑圧に抗議せず、それで自分たちにとっての良い社会、良い暮らしを求めることは不可能です」(ネルソン・マンデラ)

 昨日は南アフリカ共和国初の黒人大統領で、人権運動指導者ネルソン・マンデラの命日。5年前の12月5日にマンデラの訃報を知り、翌6日に特定秘密保護法が参院本会議で強行採決されたのをワジワジしながらネット中継で観ていた。
 秘密保護法の強行採決からちょうど5年経った今日、またしても数の論理で押し切られて水道民営化の導入を促す改正案が成立した。この水道法改正については色んな記事を読んだが、この<水道事業に民間参入を促そうしているのは誰なのか。内閣府PFI推進室を巡る利権の構造>が一番解りやすくまとめられている。
この水道法改正によって、「全国すべての自治体でコンセッション契約が強制的になされる」(=つまりほぼ民営化される)との誤解も多い。しかし水道法改正はあくまで「コンセッション契約ができる仕組みを導入する」ことを規定しており、本当に導入するかどうかの最後の判断は今後自治体が個別行うことになる>ということなので、自治体が機能して独自の判断で運営の民間委託を導入しない可能性もあるが、そこまで気骨があるかは甚だ疑問だ。
 それにしても、マスコミは竹中平蔵氏の肩書を大学教授や経済学者としてコメントを求めたり紹介するのをやめたらどうか。彼はパソナの会長、オリックスの社外取締ほかたくさんの企業の役職にあり、多くの政策の利害関係者ともなっている。

 先日、日本がフランスと進めている次世代原子炉開発について、フランス政府が2020年以降、計画を凍結する方針を日本に伝えたという記事があったが、今度は政府と三菱重工業などの官民連合がトルコで建設を計画していた原子力発電所が断念する方向で検討しているという記事が流れて来た。原発の代わりに、再生可能エネルギーや高い効率の石炭火力発電所を建設する案も検討される見通しだという。
 フランスが次世代原発開発を凍結し、トルコが原発建設を断念する方向の中、日本政府はもんじゅの後継高速炉の運転開始を21世紀半ば頃とする計画案を発表した。 1兆円以上を投入したがトラブル続きでほとんど運転出来ず、2016年12月に廃炉が決まったもんじゅだが、廃炉を想定していない設計になっているため解体できるのか疑問視されている。福島第1の過酷事故を起こし、もんじゅで失敗しているにも拘らず後継高速炉とは何を寝ぼけているんだろうか。
 この他の気になった記事を備忘録として。
特定秘密じわり拡大 施行後4割増の547件 保護法成立6日で5年
実習生聴取で法務省「裏付け調査せず」 参院審議
外国人実習生、3年で69人死亡 6人は自殺 法務資料で判明
<改憲案の背景> イヤガラセの道具と化した「憲法改正」
米軍2機が空中接触し墜落 2人発見、5人なお捜索中

 昨年の11月20日に撮影した氷見市小杉地区の新嘗祭と恵比須祭り、宇奈月町下立の此川さん宅のおーべっさま迎えの様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
小杉地区の恵比須祭り
↑小杉地区の恵比須祭り。御神像のえびす像が祀られているお堂で、玉串を奉奠する地区の方々。
↓目には見えないおーべっさま(えびす様)を、おわすが如くもてなす此川さん。
おーべっさま迎え

12月3日(月)

 師走。今年も一カ月をきった。
 ミュゼふくおかカメラ館で、今月の一日から浅井槇平さんの写真展『 HŌBŌ」「星の片隅」より』が開催されている。 初日の一昨日は、トークショーが催された
  JJおじさん・植草甚一さんのコレクションやコラージュ作品、対談などを収録した『植草甚一主義』(美術出版社)という本がある。もう40年ほど前に出版されたものだが、その本の中、126、127頁に植草さんが撮影した写真と、浅井慎平さんが植草さんについて書いた「ライバルはニューヨークへ」と題したエッセイが収載されている。もう随分と前に買った本なのだけれど、今でも時々パラパラと捲ることがある。
 植草さんが撮ったシドニーの色褪せた家の壁やドアの写真もいいが、浅井槇平さんの文章もとても洒落ている。後半の部分を少し引用させていただく。
植草さんはコレクターである。何の?と聞かれると困るけれども。植草甚一の人生、人間がコレクションで構築されているのである。植草甚一の目に触れると、ただの石が宝石になってしまうのだ。写真家というものの資質のひとつがコレクターだと、ぼくは思っているのだが、その考えでいけば、植草さんは、もっとも写真家に向いているのではないだろうか。ただ、ありがたいことに、このライバルは、他に多くの楽しみを知っており、写真は軽くやっておられることが幸いであった。けれども、そうはいかなくなってしまったらしい。というのも、昨日、ロボットと称する最新カメラをたずさえてニューヨークへ出かけていったからだ。ああ。  ~「ライバルはニューヨークへ」浅井慎平~

 政府は地元の民間企業の桟橋を使ってでも、今月中に辺野古に土砂を投入するつもりのようだ。その民間企業がどんな会社なのか、こちらに書かれている。この辺野古埋立てにかかる工事費用が当初計画の10倍、2兆5500億円になると沖縄県側が試算している。

「中絶か強制帰国、どちらか選べ」妊娠の実習生は逃げた
日系外国人1000人雇い止め シャープ亀山、3次下請け4社
7割が最低賃金未満=失踪実習生聴取票から試算―野党
  徴用工問題について反省もしていないし学びもしないんだな、この国は。

 この他の気になった記事を備忘録として。
日本協力の次世代炉、仏が凍結へ 原子力政策に打撃
作業服からプルトニウム検出
「カード取得せず」過半数=マイナンバー施行3年で―内閣府調査
琉球人遺骨返還、4日提訴 京大に損害賠償も求める
庶民の暮らしより「万博」の愚。勝手に風呂敷を広げて税金が使われる

 昨日は新川神社の「田んぼの学校」で出来た稲藁を使ったしめ縄作りと、お米の試食会を撮影に行って来た。こちらの様子も後々UPいたします。
しめ縄作り
↑しめ縄作り。奄美大島に住んでいた時に、しめ縄と門松作りをしたが、縄を縒るのがホントに難しかった。
 昨年の11月13日に撮影した近所の秋の風景スナップをPhoto Albumにしました。こちら
秋の風景01
↑納屋に干された大根と柿。↓小矢部川と夕焼け雲。
秋の風景02

12月2日(日)

 新川神社の「田んぼの学校」で収穫した稲藁でしめ縄を作る作業と、収穫したお米で作ったおにぎりを試食する催しが午前10時からあるので撮影に行く。
水で手と口清める
 あいの風とやま鉄道で、8時55分に富山駅に到着。改札を出て自転車を組み立てて、新川神社へ向かう。
 9時半頃に神社に着いて参集殿へ行くと、舩木宮司がいらしたので御田植祭と抜穂祭の写真をまとめたフォトブックをお渡しする。
 10時になり参加者がほぼ揃ったので手水舎へ行き、正しい清めの仕方を宮司さんに習って順番に手と口を水で清めてから社殿に。

↑お祓いを受ける参加者。

 今日は御田植祭や抜穂祭の時のような祭典はなく、簡単なお参り。
  神楽(太鼓)、祓言葉を宮司さんが奏上した後、参加者は幣で祓い清められる。そして全員一緒に二拝二拍手一拝でお参り。10分ほどで終了し、今回の田んぼの学校の絵日記を作った女の子に、記念の品(御朱印帳など)が宮司さんから贈られた。

しめ縄作り
 社殿での参拝が済むと参集殿に戻り、しめ縄作り。宮司さんに縄の縒り方を説明してもらい、実際に稲藁を手にして縒っていく。普通の縄は右綯えだが、しめ縄は左綯え。紙垂を取り付けた神社のしめ縄と、縄を輪にしてお札を取り付ける初心者用の正月飾りがあり、正月飾りの方を選ぶ子供が多かった。途中、大人に手伝ってもらいながらも40分ほどで全員のしめ縄や正月飾りが完成。床に敷いたブルーシートを片付けて、今度はお米の試食会。
おにぎり作り
 収穫したお米をおにぎりにして試食する。せっかくならと、今年から発売になった富山の新しいお米「ふふふ」との食べ比べが行われた。手前に田んぼの学校で収穫したコシヒカリで作ったおにぎり、奥にふふふで作ったおにぎり。子供たちは列に並んで、紙のプレートの右にコシヒカリ、左にふふふを乗せる。どっちがコシヒカリで、どっちがふふふかは食べ終わるまでは知らされない。
奉耕者の挨拶
 テーブルの上には、おにぎりを乗せたプレートと豚汁。最初に宮総代の挨拶があり、いよいよ実食。自分でも食べ比べてみたが、味の違いがよくわからなかった。後で奉耕者の方から説明があったが、ふふふも品種はコシヒカリだそうだ。コシヒカリを稲が倒れないように改良したのがふふふで、味は似ていて当たり前か。
 お米の試食の後は、田んぼの学校恒例の紙芝居と、クイズが行われた。
紙芝居とクイズ

↑古事記を題材にした紙芝居(左)とクイズ(右)。
←於保多神社。

 当初の予定では13時頃までだったが、終了したのは14時過ぎだった。
 新川神社から自転車で於保多神社へ。今年の5月に撮影した鷽替え神事での宮司さんの舞楽・蘭陵王や、巫女さんの神楽の写真をお渡ししようと向かったが、宮司さんは不在だったので若い神職の方に預けて来た。

川の上の建物
↑於保多神社の近くにて。川の上に建つ家があった。弥生会館という看板があったので、地区の公民館だろうか。
 せっかく富山まで自転車を輪行して来たしお天気も良いので、市内をサイクリング。富山城の前は何度も通っているが、こんなに青空の下のお城は初めて見た気がする。青と白のコントラストが美しい。
 富山城から南の方に少し走ると、千石町通り商店街というのがあった。自転車の修理をするというお店のショーウインドウに、三角のペナントがディスプレイされていた。ペナント、久しぶりに見たな。
千石町の商店街
越中そば

↑千石通り商店街にて。

 しばらく富山市内を自転車で走り回った後に、お腹が空いたのでうどんを食べに行く。本当は今年の春に食べた味覚亭でラーメンを食べたかったが、行ったら閉まっていた。なんだか営業していない雰囲気だった。残念。
 うどんはJRの構内に立山そばがあるが食べたことがあるので、まだ食べたことのない電鉄富山駅の待合室にある越中そばへ。

 ドアを開けるとカーブしたカウンターがあり、何席かの椅子が並んでいる。うどん屋さんというより、コーヒースタンドな雰囲気の内装だ。野菜かき揚げうどんを注文。味は少し濃いめだろうか。年配の女性が一人で切り盛りしている。トイレにしか出られないので、籠の鳥のようだという。少し話をしていると、この店の営業時間は朝8時から午後4時までだという。なんでも夕方に食べるお客さんが少ないので、7年ほど前から午後4時で閉店になったそうだ。時計を見ると4時を過ぎていたが、これから来るはずの常連さんを待っているのだという。食べ終わって店を出ようとすると、その常連のお客さんが入って来た。
 電鉄富山駅の入っているビルを出て、自転車で富岩運河環水公園へ。テレビで夜のライトアップが始まったというニュースを見たので、来てみた。16時過ぎに富岩運河環水公園に着いたが、まだ明るい。運河に架かる天門橋の展望塔に上ったりして過ごし、暗くなるのを待つ。
 17時になって天門橋に付けられた電飾が灯り、水中に立つ円錐形のツリーのようなオブジェにも明りが灯った。
富岩運河環水公園01
富岩運河環水公園02
 まだ時間が早いからか、ライトアップを見に来ている人が少なかった。もう少し派手なイルミネーションだと思っていたので、ちょっと期待外れ。クリスマス頃には、また違う感じになるのだろうか?
 写真を撮り終えて富山駅へ。18時8分発の金沢行きに乗車。車両の中は半分以上が東南アジアからと思われる若者だった。高岡のような大きな駅ではなく、小杉、大門、西高岡などローカルな駅にも次々と降りて行く。技能実習生として働きに来た人達が休日に遊びに出て、その帰りなのだろうか。

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