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バックナンバー
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能

3月13日(月) 芦峅寺のおんば様のお召し替え 9時〜 町営芦峅寺線時刻表
3月18日〜26日 井波 お人形さまめぐり
3月20日(月) 芦峅寺 数珠くり
4月7日(金)〜9日(日) 全日本チンドンコンクール
4月第2土曜日 8日 高砂山願念坊祭り 記事 記事
4月16日(日) 福光宇佐八幡宮 福光春季例大祭
4月16日(日) 明日(あけび)の稚児舞 12時30分〜
4月17日、18日 氷見ごんごん祭り*鐘つき大会は18日の夕方から。
4月25日(土)、26日(日) 芦崎えびす祭り
4月29日 四方子供曳山祭り 記事 記事
4月29日 石動曳山祭
4月30日 御車山 宵祭
4月30日 二番町の神迎え
5月1日 高岡御車山祭
5月2日、3日 井波よいやさ祭り
5月3日 越中八尾曳山祭り
5月4日、5日 城端曳山祭
5月4日 滑川市赤浜 赤浜の菖蒲打(ショーブツ) 記事 記事
5月5日 氷見市宇波 コウラウラの祭り
5月6日 氷見市小境 エビス祭り
6月1日 瑞龍寺 ひとつやいと
6月第1土曜、日曜 庄川夜高行灯
6月21日 宇奈月町・愛本姫社まつり 御影様渡し
6月下旬 黒部市三日市 じんじん祭り 記事
7月13日、14日 氷見祇園祭
7月14日、15日? 富山市梅沢町 円隆寺 さんさい踊り
7月22日、23日? 芦峅寺 雄山神社例大祭 神輿練り
7月24日 滑川・新屋大磐祭り
8月第1日曜日 6日? 魚津・せり込み蝶六踊り街流し 
8月6日? 本法寺の曼荼羅絵図風入れ法要
8月6日、7日 魚津 上村木七夕祭
8月13日 芦峅寺 オショウライ
8月15日 立山町 米道踊り
8月中旬 黒河夜高祭
8月下旬の日曜 入善町・吉原神社 恵比須祭り
8月第4日曜日 瑞龍寺 薪能
9月 櫛田神社秋季例大祭
9月6日 富山・草島神明社 奴ぶり
9月 海老江曳山まつり
9月20日? 福岡町赤丸・浅井神社 獅子舞と乙女の舞
9月23日、24日 五箇山麦屋まつり
9月24日 布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ) 記事
10月 愛本新用水天満宮松明祭
10月 入善町 墓ノ木タイマツ祭り

小川寺の獅子舞 宮田・火祭り1月第4日曜日 記事 記事
◯お鍬さま 1月11日 記事記事
◯7年に1度、10月に開催 朝日町山崎 米吊り奉納
◯高岡大仏まつり
◯下タ北部地区 正月の繭玉作り

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事
富山の祭り

◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

3月30日(木)

 暖かな一日だった。
 一昨日からFacebookに産経新聞が書いた<民進・辻元清美氏に新たな「3つの疑惑」 民進党「拡散やめて」メディアに忖度要求>という記事に、イイネやコメントが付けられてやたらと流れて来る。
 そもそもタイトルに忖度要求とあるが、忖度とは相手の心を慮ってするのもであり、民進党が「拡散やめて」と言ったのなら、それはただの要求だろう。なにが何でも流行の「忖度」を使いたかっただけなのか?それなら記事の最後は「祈ります」で締めればよかったのに。

 中身はネットに散らばっていた噂話を、ほとんど検証もしないで記事にまとめた産経新聞らしい記事だが、この記事を鵜呑みにして安倍首相が国会答弁に使用している。相手に対して証人喚問を要求した側が、自分の発言の元になるものが産経の記事でいいんだろうか。
 昨日あたりから、産経の記事に対する検証記事や反論記事も流れているので貼付けておきます。

【森友学園問題】「まったく面識もない」~辻元清美議員に関する“疑惑”報道で「工作員」とされた作業員が証言【音声配信&書き起こし】TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」
辻元衆議院議員の幼稚園侵入デマについて
安倍首相の国会答弁、偽メール事件の再来か!?デマ情報を参考に辻元清美議員を批判!
【森友学園問題】安倍晋三首相が辻元清美議員を攻撃し、墓穴掘る?
失笑! 安倍官邸がネトウヨの妄想に丸乗りし“辻元清美スパイ工作”デマを拡散! 安倍応援団の山口敬之は昭恵夫人疑惑と同列扱い

 また、以前から辻元氏については噂やデマが飛び交い都市伝説のようになっているようだが、そのことを辻元氏と小林よしのり氏が対談している。辻元氏も小林氏も個人的には好きでも嫌いでもないが、記事はこちら

 未だに民進党のブーメラン事件として山尾議員のガソリンの話しもFacebookに流れて来るが、これも安倍首相のガソリン代が山尾氏の2.5倍にあたる591万7362円だったという巨大なブーメランとなって自民党に戻って行ったのを知らないのだろうか?
 民進党の不甲斐なさ、野田氏を幹事長に起用する空気の読めなさなど個人的に如何なものかと思うが、だからといって「民進党がー」「民進党がー」と反応している人たちもどうなんだろう。それこそ権力側の思う壷だろう。
 
 ネット民が騒ぎ産経が記事にして、自民のネトサポらが拡散。これをネット民が騒いで・・・以下繰り返し。いい加減にしたらどうか。

 昨年の10月9日に撮影した大門曳山まつりの様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
大門曳山まつり01
↑昼の花山巡行。↓夜の提灯山巡行。
大門曳山まつり02

3月29日(水)

 午後から近所の図書館へ、先日高岡駅前にある市立図書館で借りてきた『とやまの民俗芸能/伊藤曙覧』を返却、その足でミュゼふくおかカメラ館で開催されている『第63回ニッコールフォトコンテスト写真展』を観て来た。展示してある写真はコンテストならではの多彩さで、『LIFE』を創刊したヘンリー・R・ルースの、こんな言葉を思い出した。

人々の暮らしを見るために。
世界を見るために。
大事件を見届けるために。
貧しき者の表情を、傲る者のしぐさや態度を見つめるために。
不思議な様々なもの、機械、軍隊、大群衆、密林や月面の陰影までも見るために。
人が成し遂げた行為や作品、絵画や巨大な塔、偉大な発見を見るために。
何千里の彼方にある物事を、壁や密室の中に隠れている物事を、
近寄るにはあまりに危険な物事を見るために。
それらすべてを見ることによって喜びや新鮮な驚きを得、目が啓かれんことを。


 ニッコールの冠がついているのでニコンのカメラを使った写真だけかと思っていたら、キャノンやオリンパス、ソニーにライカと様々なカメラが使われていた。

 渡嘉敷島の慰霊祭が、例年通り昨日3月28日に行われ、その様子が琉球新報に掲載されていた。

 1945年3月23日、米軍は数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行ない、3月26日には座間味島に上陸、翌27日には渡嘉敷島に上陸した。
 米軍に上陸された日本軍の特攻部隊と住民は、島の山の中に逃げ込んだが、追いつめられて島北端の北山(ニイヤマ)で3月28日に集団自決を行っている。
 集団自決の行われた3月28日を慰霊の日として、渡嘉敷島では村による慰霊祭が毎年執り行われている

 那覇に住んでいた2013年、この慰霊祭を撮影に行った。渡嘉敷島は、住んでいたビルから自転車で5分ほどの泊港から高速船で35分、普通のフェリーでも70分ほどで、慶良間諸島の中でも有人島としては一番近い島だ。
 フェリーは11時30分に渡嘉敷島に着いたが、慰霊祭は13時30分からで2時間ほど時間が空くので路線バスで阿波連集落へ行ってみた。この集落にある阿波連ビーチは、米軍が島に上陸した海岸だが、そんな事を知ってか知らずか休日を楽しむ米兵たちが遊びに来ていた。

阿波連ビーチ
 阿波連集落からは慰霊祭に参加する黒の礼服に身を包んだ住民の方達と一緒に、村が用意したマイクロバスに乗って会場の白玉之塔へ向かった。
 慰霊祭の様子を一通り撮影して、最後にお焼香をさせていただいた。
↓→白玉之塔での献花。
慰霊祭02
慰霊祭01
慰霊祭03
ケラマツツジの原種

↑生徒代表による、平和の詩の朗読。

 式が終わって会場のまわりに咲いていたケラマツツジを撮影していたら、役場の人が白玉之塔から港へ下りて行く坂の途中に、ケラマツツジの原種が2本咲いていると教えて下さった。来る時はバスだったので、ゆっくり歩いて坂を下りた。なるほど、会場のまわりで見たケラマツツジよりも鮮烈で重い赤色の花が咲いていた。

 ところで、沖縄戦で戦ったのはアメリカ人と日本人だけではない。大石芳野さんの著『沖縄に活きる』には、こんな証言が記されている。

  渡嘉敷島の朝鮮兵も無惨だった。
「日本兵は自分たちだけ安全な所にいて、朝鮮人や中国人を動物よりもひどい扱いをした。大勢の仲間が死にました。骸骨のように痩せ衰え、まるで、キジグナー(幽霊)のようでした」山城ヨシさんはこういいながら、いかに自分が驚いたかを仕草で見せた。
 朝鮮半島から連れて来られた人たちに対する仕打ちは、同じ人間としてあまりにも残忍すぎるものばかりだ。
 日本軍は終戦直前の1945年、満州の関東軍を急遽、沖縄の支援に配備変えしたとされる。
 「長い間、大陸で中国人たちに対して行っていたのと同じことをやったんですよ」
 そういう声が、沖縄の至る所に今も残っている。
 沖縄の海は実に美しい。この青い海が、人びとの生活と文化を築き、守って来た。だが、この海に囲まれた島々は、時として”収容所”と化す歴史をたどって来た。貧しいながらも平和な生活を送って来た住民は、たちどころに”囚人”とされ、支配者たちからあからさまな差別のもとに置かれる。そして”囚人”と”看守”は、建前で付き合ううちはまだしも、ひとたび理性がそこなわれた時は、”囚人”の命は、まるで虫ケラのように粗末に扱われる。
~略~
 「戦争は怖いです。弾が怖いのではありません。人間が気狂いになるのです。平和時には考えられない残虐な行為を、戦争はいともたやすく人間にさせてしまうのです」と古堅キヨ子さん(昭和3、読谷在住)は実感を込めていい、さらにこう続けた。
 「戦争中は、誰もが昼夜を問わずびくびくとして身を縮め、這うように歩いた。いつの世になったら、高い山に登って、天文字(星)を見ることができるのか・・・・・・。両手をあげて、空に向かって、大声を出してみたい、ということばかり考えていました」
 キヨ子さんのその言葉が、私の耳にこびりついて離れない。

(語り始めた人びとから)

首里城からの風景
 上の写真は、首里城からの眺め。沈む太陽の下方に見える島影は、慶良間諸島。2012年8月14日に撮影した。
 沖縄戦の当時、首里城の地下には陸軍第32軍の司令部壕が造られていた。首里城から、米軍の砲撃にさらされた慶良間諸島の島々は、どのように見えたのだろうか。

除染廃棄物利用先に緑地も 造成時の基準まとめる
 除染廃棄物の再利用について、 環境省は1キロあたり4000ベクレルを下回ったものは公園などの緑地に使用することを検討しているようだ。雨が降ったら、地下水に浸透するとか心配しなくていいのかな?

3月14日 「首相夫人は公人ではなく私人である」と閣議決定。
3月21日 「テロ等準備罪」を新設する書式犯罪処罰法改正案を閣議決定
3月28日 森友学園問題について、財務省、国土交通省、文部科学省に対する政治家からの不当な働きかけはなかったと閣議決定。
 閣議決定の乱発だな。

3月25日(土)

名瀬港
↑奄美大島・名瀬港。2012年3月31日に撮影。
加計呂麻島・瀬相港
↑加計呂麻島の瀬相港。2011年3月30日に撮影。
渡嘉敷島にて
↑渡嘉敷島にて、2013年3月28日に撮影。

 奄美大島の名瀬で借りていた部屋は、名瀬港からゆっくり歩いても5分ほどの所で、5階にあった部屋の窓からは港に出入りする船がよく見えた。
 卒業式も終わったこの季節、窓を開けておくと港からは進学や就職で島を離れる卒業生や勤務地が変わる先生たちを送り出す大きな声援が聞こえてきた。
 今年もいつの間にかそんな季節。今日、明日がお見送りのピークだろうか。夥しい数の紙テープが飛び交い、ブラスバンドが派手な音を奏で、船が岸壁を離れると元気な男の子たちが次々と海に飛び込む。
 那覇、与論、沖永良部、徳之島、名瀬と寄港する度に盛大なお見送りがあるためか、出港時間が大幅に遅れることもある。
 卒業シーズンに限らず船でのお別れを見るのは、どこか余韻があって好きだった。

 ところで、あまり知られていないが、2014年に沈没し現在引き揚げ真っ最中の韓国の旅客船セウォル号は、フェリーなみのうえの名前で2012年10月2日までこの沖縄〜鹿児島間の定期航路を走っていた。

 昨日、NHKのwebニュースで「道徳」教科書の話題が報じられた。その記事の中に、こんな文章があった。

小学1年生のある教科書では、申請段階では、物語に友達の家のパン屋を登場させていましたが、「国や郷土を愛する態度」などを学ぶという観点で不適切だと意見がつけられ、教科書会社は「パン屋」を「和菓子屋」に修正しました。

 国や郷土を愛する態度を学ため「パン屋」を「和菓子屋」に修正。冗談でもなく真面目にこんなことをしているのが不思議であり、怖いことだとも思う。
 この記事を読んで、岡本太郎の『今日の芸術』に書かれている「根のない日本主義」という文章を思い出した。ボクらが普段使っている漢字は言うまでもなく中国から学んだものだし、豆腐や着物も大陸から入ってきたモノだ。
 この教科書検定の話しは、今話題の教育勅語に纏わることと根は同じだろう。以前にも一度引用したことがあるが、もう一度ここに引用させていただく。

 日本文化は、歴史が示すように、いつでも輸入によって展開してきました。だから、何が真に日本的で、何が日本的でないかということは、ひじょうにあいまいです。
 まず、日本最大の古典とされている奈良時代の仏教芸術は、大陸から輸入されたものです(五三八年、欽明天皇の代)。また、われわれの使っている漢字は、すでに日本語になっていますが、いまさら言うまでもなく、日本古来のものではなく、中国から学びとったのです(応神天皇の代)。それからは平安時代まで、貴族・文化人は全部、漢文、つまり生のままの中国語で自分たちの手紙や日記を書きつづりました。平安時代のはじめごろ、仮名文字ができてからも、和文、つまり日本文は「女手」といって卑しめられ、紀貫之がはじめてそれで『土佐日記』を書いたときは、婦人の作をよそおったくらいです。平安時代の国文学の作者がほとんど女流であるのは、このためなのです。今日、いくら外国文学にかぶれたインテリでも、英語で日常の手紙をしたためたり、フランス語で日記をつけたりすることは、まずないでしょう。してみると、今日、「もっとも日本的だった」と考えられているその当時のほうが、はるかに恥じることなく、外国文化をウノミにしていたわけです。
〜略〜
 太平洋戦争ちゅう、私が中国の前線にいた時分のことですが、道ばたのお店で絹ごしドウフを売っているのを見て、兵隊さんたちが、「日本のトウフがあるじゃないか」と言って大よろこびしたことがありました。「そういえば、油アゲまである」と奇声をあげるありさまなので、「これはもともと中国のものだ。だいいち、トウフという言葉からして中国語だし、ミソでもお茶でも、みな中国のものだ」と言って、説明しようとすると、とたんに、「きさま、日本をバカにするか!」と言ってどなられ、非国民あつかいにされてめんくらったことがあります。
 ふつうの人はまったく日本古来のものだと思って疑わないほど、われわれの身についてしまった輸入品がどれぐらいあるかわかりません。「きもの」など、世界に誇る日本文化の代表のように思われていますが、これももとは大陸からきた衣服です。日本古来の服装は、かえって今の洋服にちかい、頭からかぶるしかけのワンピースや、ズボンと細い袖の上着だったのです。それが、奈良時代にとり入れた大陸の風俗が、だんだん転化して、今日の着物になりました。生地の織り方、縫い方、みんなあちらから織工をつれてきて、ひじょうに高い文化的なものとして、全面的に生活にとり入れたのです。呉(ご)の国から来た(四六九年、雄略天皇の代)機織工を「呉織」(クレハトリ)といいました。その製品も「呉織」(クレハトリ)であり、「呉服」という語は、そういうところからきているのです。だから、当時はぱりぱりの舶来ニュー・ファッションだったのですが、だんだんに「呉の国からきた、外来の」という意味は消えうせて、呉服屋といえば、もっとも日本的な感じのする店になってしまいました。
 そういえば、近ごろでは「洋服」という言葉にも、いわゆるバタ臭さはすっかり消えてなくなっております。もうしばらくたつと、「これは、もともと西洋の服という意味で・・・・・・」などと、うっかりもの知りぶりを発揮しようものなら、国粋主義者にどなられるようになるかもしれません。
 このように、日本古来の文化的なものは、ほとんどが大陸からきたものだといってよいくらい、全面的な影響をうけているのです。それはちょうど明治以来、今日まで、西洋文化をいっしょうけんめいにとり入れたのと同じです。
 ところが同じ輸入でも、過ぎ去ったものだと安心して許し、今日、われわれの責任において正しくつかみとらなければならないものにたいしては、あれは外国のまねだ、非日本的だといって、いやしむ。現在の切実ないとなみを否定したがる、ほんとうに今日に生きていない人たちがいるのです。現在にたいして、自信がないからです。過去の輸入品をたてにとって、今日われわれが直面し、正当にみとめなければならないものを拒むということ自体、まったく矛盾であり、卑劣なことです。こういう連中のバカバカしい考え方を徹底的に打ちくだかなければ、問題ははじまりません。

『今日の芸術/岡本太郎』より「根のない日本主義」。

新しいトップ画面
トップ画面の模様替えをしました。今回の写真は、潮。写真の下から上まで、距離にして約30kmほどだろうか。緩やかなグラデーションは潮=海流だろう。潮を視覚として認識した、初めての経験だった。

↓これまでのトップ画面。
これまでのトップ画面
 昨年の10月7日に撮影した、高岡万葉まつり「朗唱の会」の様子をPhoto Albumにしました。こちら
万葉まつり
↑水上に浮かぶ特設舞台で、万葉集全20巻4,516首を三日三晩かけて朗唱する。

翁長知事、辺野古埋め立て承認撤回を初明言 県民集会に3500人参加
新基地反対集会に3500人超 名護市辺野古 知事が埋め立て承認の撤回明言

3月24日(金)

 クシャミと鼻水は花粉症の症状なのだが、頭が少し重いのは風邪?
 花粉症の症状に悩まされる今頃の季節になると、山を除染しない福島の除染作業とは何だろうと思う。山側から平野部に飛んで来る杉花粉を、放射性物質に変換して考えてみればどうだろう。山や森に堆積した放射性物質は強風で飛散し、豪雨が降れば土壌と一緒に川に流れ海や平野へと運ばれる。

 今朝の北日本新聞に<新湊曳山と築山、一体で継承へ 4月に新たな保存団体>という記事が掲載されていた。射水市は、放生津八幡宮の秋季例大祭で行われる曳山行事と築山行事の両行事を一体のものとして国の重要無形民俗文化財登録を目指すという。

 築山とは社(やしろ)のなかった古代に、降臨した神を祀るために作られた仮の祭壇。富山県には、この放生津八幡宮と二上射水神社の2ヶ所で築山行事が継承されている。
 この築山を担いだり、車輪をつけて動く形の祭壇にしたのが曳山だと言われている。なので、この二つの行事を一体と考えて残そうというのは、とても自然なことだろう。
 また、放生津八幡宮の秋季例大祭では曳山の前日(宵祭り)に神を迎える霊迎式(たまむかえしき)が行われる。霊迎式があり、本祭りに曳山祭りが行われ、その次の日に築山行事と放生会が催される。
 ちなみに放生会とは生類供養を行う神事で、実際に鳥や魚が行事の中で空や川に放たれる。現在、秋季例大祭と呼んでいるこの祭りも、嘗ては霊迎式から全てひっくるめて放生会と言っていたそうだ。また新湊の昔からの呼び名である放生津は、この放生会が元になっている。

 神を迎え、神と遊び、神を送るという一連の神事がこれほど分かり易い形で残っている祭りはなかなかないように思う。どうせなら霊迎式、曳山行事、築山行事、放生会までの一連の神事をまとめて国の重要無形民俗文化財に登録できないのだろうか。

 霊迎式から放生会までの流れがわかるように、写真を並べてみました。

放生津八幡宮秋季例大祭

上から
1段目左:秋季例大祭の宵祭りに行われる霊迎式。篝火を焚き、海上から迎えた御祖神(みおやのかみ)、代々の祖神達(よよのおやかみたち)を舟の形をした御船代(みふなしろ)に降ろす。2016年9月30日撮影。
1段目右:御船代の前で宮司が祝詞を奏上し、篝火が松明に移される。その松明に先導されて、御船代が東境内にある老松の前に運ばれる。2016年9月30日撮影。
2段目左:御船代にのって来られた祖霊は老松に憑依される。老松の前には築山の土台が建てられており、10月2日に築山の飾りつけが行われ、築山神事が執り行われる。2016年9月30日撮影。
2段目右:秋季例大祭の本祭り。お神輿が13基の曳山を引き連れて町内を巡幸する。お神輿を行道獅子と天狗のような面をつけた猿田彦と思しき者が先導している。2016年10月1日撮影。
3段目左:曳山の巡行順はくじ引きで決められるが、一番歴史の古い曳山である古新町だけは最初に巡行する決まりだそうだ。2016年10月1日撮影。
3段目右:昼の花山から提灯山に飾り付けられ、18時30分に提灯の点灯式が行われる。2016年10月1日撮影。
4段目左:早朝から神々の姿をした人形5体と、毎年入れ替わる客人(まろうど)と呼ばれる歴史上の物語にちなんだ人形2体が飾り付けられた築山。神々の姿をした5体の人形は、主神の姥神と下段の四隅に立つ四天王。築山は、朝7時頃から午後3時頃まで設置される。2016年10月2日撮影。
4段目右:築山が境内に設置されている間、社では神事が行われ、神楽「浦安の舞」「放生の舞」が奉納された。写真は「放生の舞」。2016年10月2日撮影。
5段目左:社では引き続き放生会が執り行われる。拝殿と本殿の間で、籠に入った2羽の鳥が空に放たれる。この後、ガラスの鉢に入れられた2匹の魚が内川に運ばれ、放流された。2016年10月2日撮影。
5段目右:午後4時過ぎ、築山の土台部分を残して人形などが片付けられる。二上射水神社の築山行事も同じだが、人形の片付けが遅くなると、神様が荒ぶれると言われている。この人形の撤収をもって神様がお帰りになったということだろうか。2016年10月2日撮影。

 昨年の10月2日に撮影した、放生津八幡宮の築山行事と放生会の様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
築山行事
購入した本

↑築山。中央に立つのは主神のオンバ(姥神)、下の段の四隅には多聞天、持国天、増長天。広目天の四天王が立っている。

←先日、高岡市立図書館で借りてきた『とやまの民俗芸能/伊藤曙覧』(北日本新聞社)。これまで古書で購入した本は1円から300円ほどまでで、ちょっと高い買い物となるが内容が面白く手元に置いておきたかったので購入した。
 ちなみに隣の前田真三写真集『四季絵模様』は、1円だった。

3月20日(月)

 昨日、奄美大島の宇検村にある船越(ふのし)海岸で、学童疎開船「対馬丸」の犠牲者を悼む慰霊碑の除幕式が行われた。沖縄、奄美の人にとって「対馬丸」というのは、今も重い記憶だ。

 1944年8月22日、沖縄から子供たちを乗せた対馬丸がトカラ列島の悪石島近くで米軍の潜水艦から発射された魚雷を受けて沈没。1,476名が亡くなり、生存者は僅か59名だった。
 遺体の多くは、奄美大島の宇検村や大和村の海岸に流れ着いた。
 沖縄の那覇市若狭には「対馬丸記念館」と慰霊碑「小桜の塔」が建立されているが、犠牲者の多くが流れ着いた奄美大島には何もなかったので、今回新しく慰霊碑が建てられた。

船越海岸
↑船越海岸。2010年9月7日撮影。

 ところで、「戦争で犠牲になったのは沖縄だけではない」という声も時々聞くが、あの小さな島で 200,666人(沖縄県援護課発表)が亡くなっている。内訳は米軍12,520人、日本軍94,136(沖縄県出身将兵28,228)人、沖縄住民 94,000人。当時の沖縄の人口は50万人ほどといわれ、この沖縄戦で島民の4人に一人が亡くなったことになる。
 広島の原爆投下による犠牲者の数が、放射線による急性障害が一応おさまった1945年12月末で約14万人と推計されているので、本土上陸の捨て石にされた沖縄戦の犠牲の凄まじさが分かる。

 最近発表されたシリアの内戦による死者の数が、この6年間で32万人に上っているという。この数字も凄いが、沖縄に米軍が初めて上陸したのは1945年 3月26日、慶良間諸島だった。それから沖縄本島へ戦闘が移り、組織的な戦いは6月23日に終結している。上陸前に沖縄でどれほどの犠牲者が出ていたのか わからないが、米軍が上陸した3ヶ月の間にあの小さな島で夥しい数の死者が出ていることになる。「戦争で犠牲になったのは沖縄だけではない」とは、やは り言えないだろう。
 沖縄の激戦地を、当時と今の写真を並べて比較する「沖縄戦場」というサイトをリンクしておきます。

 奄美大島で慰霊碑の除幕式があった頃、対馬丸記念館に近いチージ(辻町)で、ジュリ馬が踊られたようだ。旧二十日正月(旧暦の1月20日)に神事と一緒にジュリ馬行列が行われていたが、昨年から神事とジュリ馬は別々の日になったようだ。あいにくの雨で、踊りは外ではなく料亭・那覇で行われたようだ。
 さっそくYou Tubeに映像がアップされていたので観ていたら、途中に自分が撮影した写真が何枚か使用されていた。なんだかな(笑)。
ジュリ馬
↑ジュリ馬行列。2013年3月1日撮影。

 なんだかな〜というニュースがSNSで流れていた。
ツタヤ図書館が152万円でダミー本3万5000冊を購入計画 「人をバカにした話」と憤慨も
2万円の市販ドローン、4億円のパトリオットで撃墜

 ロックン・ロールの神様、チャック・ベリーが一昨日亡くなった。90歳だった。ボクくらいの年代で音楽をやっていたら、一度くらいは彼の曲をコピーして演奏したんじゃないだろうか。
 You Tubeから「Johnny B. GoodeChuck Berry」。

3月17日(金)

 朝から良い天気。こんな日は花粉が飛びまくっているだろうから外には出ずにパソコンの前に座って作業をしていようと思っていたら、Facebookに午後2時から近くの文化ホールで作家で元東京都知事の猪瀬直樹氏の講演が開催されるという情報が流れてきた。商工会が主催する経済講演会で、テーマは『この国のゆくえ』とある。入場無料で先着300名なので、昼ご飯を食べてから自転車で行ってみた。
 インタビュー記事の面白さを知ったのは、猪瀬氏が30年以上も前に雑誌『スタジオボイス』で連載していた「日本凡人伝」を読んでからだった。都知事辞任のドタバタの際は首をかしげる発言や挙動もあったが、作家としては素晴らしい功績を残している方だと思っている。
 午後2時ピッタリに講演会はスタート、客席はほぼ満席だった。内容は今年の1月に出版された著書『東京の敵』に関係するもので、都庁のドンやオリンピックのドンの話しからスタートした。自身が都知事辞任に追い込まれた経緯も軽く語っていた。百条委員会の設置が決まって、その前に猪瀬氏は辞任をしたわけだが、今となっては細かい問題の経緯を覚えている人も少ないだろう。
猪瀬直樹氏、東京都知事辞任の闇
猪瀬都知事の5000万円問題・渦中の人に聞く
 『昭和16年夏の敗戦』『救出 3・11気仙沼に取り残された466人』など自身の著書に関する話しも少しあり、予定されていた1時間半をすこし超えて講演は終了した。
 猪瀬氏の講演を聞きながら、あと3年もしたら昨年都知事を辞任した舛添氏も同じような感じでステージに立って講演するのだろうかと想像した。
 ちなみに2013年11月に、自分はこんな文章をここに書いている。

 ところで、徳洲会から5000万円を借りていたとして連日取材記者の前で釈明している猪瀬直樹都知事は、本当に猪瀬氏なのだろうか。なんだか精巧に作られた猪瀬都知事の着ぐるみの中に、別人が入っているんじゃないかと思うぐらいお粗末な対応だ。元々ボソボソとして聞き取り難い話し方をする人だが、話している内容がベテランのノンフィクション作家とは思えない稚拙さで、「親切な方だと思った」発言には噴いた。
 STUDIO VOICEという雑誌があった(現在はON LINEでのみ運営されている)。創刊は1979年で、日本では珍しいインタヴューを主体にした雑誌だった。この雑誌に80年代前半、猪瀬直樹氏が「日本凡人伝」というインタヴューを連載していた。特別な人ではない普通の人、しかしその普通の人の様々な職業にスポットをあてたインタヴューで市井の人の非凡な人生を紡いだ。この連載が好きでSTUDIO VOICEを購読していた。インタヴューを読む事の面白さを、この連載で知ったように思う。後に単行本として纏まっているが、実家の本棚には坂田栄一郎さんが表紙を撮影していたこの雑誌のバックナンバーが今も並んでいる。
 そう言えば、今年の春頃に五輪招致を巡る取材で猪瀬氏は「イスラム諸国はけんかばかりしている」発言をして謝罪している。いわばインタヴューのプロが、インタヴューを受けて窮地に追い込まれた。あの辺りで、都知事の精巧な着ぐるみの中に誰か違う人が入っていたのかもしれないな。
 ノンフィクションを書くという事は、情報を収集し分析し纏めて一つの作品にするということだろう。幼稚な言い訳を繰り返しているうちに、これまで彼が積み上げてきたノンフィクション作家としての輝かしいキャリアが崩壊してしまった。失った物は大きいと思う。

 沖縄タイムスに<ハブ捕り名人困惑「これって違法なのか・・・」出荷まで自宅で保管→警視庁「無許可飼育」と捜査>という記事が掲載されていた。ハブを捕まえて出荷するまで自宅で保管していたのが罪だと言われても普通は困惑するだろう。
 奄美大島ではハブを捕まえて役場に持って行けば、1匹3000円(自分が奄美大島に住んでいた時は4000円だったが、財政が圧迫されるとして2014年に引き下げられた)で買ってもらえる。役場の近くでハブを捕まえれば直ぐに持って行けるだろうが、離れた場所で夜遅くに捕獲したなら、後日持って行くしかない。そんな場合も沖縄タイムスの記事の例にならえば、無許可飼育で逮捕されかねない。
 同じように、ちょっと理解できない摘発が今年1月にも行われている。レンタカー代金とガソリン代、高速料金を均等割りして、原発「視察ツアー」を実施したことが「道路運送法第4条」の違反容疑、いわゆる白タク営業にあたるとして3人が逮捕された。こんなことが罪になるなら、逮捕の理由はいくらでも作れるだろう。おかしな世の中になっていないだろうか?

 せっかくなのでハブの捕獲の様子でも。
1、前方にハブを発見。車を止め、積んであるハブ棒で捕獲。
2、ハブ箱に入れます。
3、役場に持って行き、ハブを取り出します。
4、役場のハブ小屋に入れます。
5、ハブ小屋の中には、今日捕獲されたハブがニョロニョロ。
6、役場でハブ買上票を貰います。

 捕まえたハブを車に乗せて、役場に着くまでがドキドキだった。ハブを入れた箱は蓋をし、開かないようにして後部座席に置いてあったが、何かの拍子に出てきたら・・・と思うと本当に怖かった。

ハブの捕獲
 昨年の10月1日に撮影した放生津八幡宮秋季例大祭二日目に行われる、新湊曳山まつりの様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
新湊曳山まつり01
↑曳山の巡行順はくじ引きで決められるが、一番歴史の古い曳山である古新町だけは最初に巡行する決まり。
↓夕方、花山から提灯山に飾り付けられる。18時30分に提灯の点灯式が行われる。
新湊曳山まつり02
 税務署から、還付金の振込通知書が届いた。

3月16日(木)

 昨日は朝から雨が降ったり止んだりの変な天気。昔よく一緒にお仕事をさせていただいた元編集者のIさんが13日から富山へ観光に来ており、夕方から高岡で呑むことになっていた。
 18時に高岡駅の改札で待ち合わせていたが、その前に駅前のウイングウイングで開催されている『再現 釈迦三尊像展』を観ようと思って早めに駅に行くと、既にIさんが到着していた。そこでIさんを誘って、展示を一緒に観に行った。
虹

←高岡へ向かう電車の窓から虹が見えた。

 展示会場は、ウイングウイングの4階だった。平日だからか混んではいなかった。
 展示の内容は、国宝である法隆寺釈迦三尊像の3Dデータを解析して3Dプリンタで出力。それを原型にして型を作り、胴を流して鋳造しキズや汚れまで着色で再現している。なかなか面白い試み。この手法で様々な国宝の精密なレプリカを作って展示するミュージアムとかできないだろうか。

釈迦三尊像01

←再現された釈迦三尊像。台座部分は井波彫刻。レプリカなので手で触ることもできる。

→3Dプリンタで出力された原型。美しい!

↓釈迦三尊像のまわりには、同じく再現された金堂壁画が飾られている。ロビーではメイキング・ビデオも上映されている。今月の20日まで、入場無料。

釈迦三尊像02
釈迦三尊像03
お土産の財布

 『再現 釈迦三尊像展』を観た後、居酒屋へ。Iさんとは、2012年の11月に沖縄で呑んで以来。お互いの近況と、友人知人の近況を聞いたり聞かれたり。
 居酒屋で呑んで、近くのバーで〆の1杯。ホテルへ帰る途中にある高岡大仏を案内してから、高岡駅へ。

 家に帰ると両親も東京観光から帰って来ていた。コタツの上にはお土産が。皇居で買ったきたお財布だった。

 昨年の9月30日に撮影した放生津八幡宮の霊迎式の様子をPhoto Albumにしました。こちら
霊迎式01
↑秋季例大祭の宵祭りに行われる霊迎式。篝火を焚き、海上から迎えた御祖神(みおやのかみ)、代々の祖神達(よよのおやかみたち)を舟の形をした御船代に降ろす。
↓御船代の前で宮司が祝詞を奏上し、篝火が松明に移される。その松明に先導されて、御船代が東境内にある老松の前に運ばれる。御船代にのって来られた祖霊は老松に憑依される。老松の前には築山の土台が建てられており、10月2日に築山の飾りつけが行われ、築山神事が執り行われる。
霊迎式02

3月14日(火)

 今日で北陸新幹線が開通して2年だそうだが、未だに乗れていない。
 昨日は立山の麓の集落・芦峅寺の閻魔堂で行われる、立山信仰の伝統行事、おんば様のお召替えを撮影に。先月観光課に問い合わせたところ、朝の8時半ごろから始まるということだった。富山の端から端へ行く感じなので、1月に入善町の塞の神まつり以来、始発電車での移動となる。
 あいの風とやま鉄道の富山方面行き始発に乗って、富山駅に6時11分着。駅近くのコンビニでバンとミルクティーなどを買って、富山地方鉄道駅へ。7時6分発の立山行きで千垣駅へ向かう。これまで立山方面は岩峅寺まで来たことがあったが、岩峅寺を過ぎるとガラッと風景が変わるのを知った。
 千垣駅に8時1分に到着して、駅前で待っていた町営バスに乗車。6分ほどで終点の芦峅寺に着いた。バスを降りた直ぐ横が、行事の行われる閻魔堂だった。

 おんば様のお召替えは、衣食の恵を与えてくれる豊穣の神であり、女性を成仏に導き守ってくれる女神でもあるうば尊(おんば様)の装束を、一年に一度感謝を込めて新しく作った装束とお取り替えする行事。かつては芦峅寺集落で栽培から織りまで行っていた麻布で作っていたが、現在は木綿を使っている。江戸時代以前から受け継がれて来た行事で、江戸時代にはうば堂に祀られていたおんば様だが、現在は閻魔堂に6体、近くにある立山博物館に9体安置されている。

おんば様01
 8時半頃からおんば様の装束をつくる女性たちが、お堂の中に集まっていらした。嘗ては布の裁断は9日に芦峅女性の会の役員が集まって閻魔堂で行っていたそうだが、現在は女性の会の佐伯照代会長が時間のある時に裁断しているという。
 女性の会と地元の老人会・伯鷹会の女性40人ほどが裁断された布に一針一針感謝の思いを込めて15体の白装束を縫う。
おんば様02
↑閻魔王座像と、6体のおんば様。このおんば様の白装束を新しいものに 着せ替えるのが、お召替え行事。
↓→この世に留まることのないよう糸の継ぎ足しはせず、糸の最後は結ばない。
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 1時間ほどで15体の新しい白装束が完成した。出来上がった装束は一つずつビニール袋に入れ箱に仕舞う。その箱を風呂敷に包んで雄山神社の境内にある開山堂へ持って行き、宮司さんによるお祓いを受ける。
↓→太鼓を叩く女性に先導され、雄山神社の開山堂まで白装束を運ぶ。
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 10分ほどで開山堂に到着。ここには立山開山の祖である慈興上人座像が祀られている。社伝によれば慈興上人は越中国司・佐伯有若の子息、佐伯有頼と言われている。
↓→開山堂で神職のお祓いを受ける。
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↓→祝詞奏上の後、玉串を奉納し御神酒をいただく。
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 10時頃から始まった開山堂での神事は30分ほどで終わり、また太鼓を叩く女性に先導されて閻魔堂に戻る。
 閻魔堂に戻ると、6体安置されているおんば様のお召替えが行われる。年に一度取り替えられるのは白装束だけで、赤いタスキは汚れ具合を見て取り替えるそうだ。
 博物館に安置されているおんば様も取り替えるが、月曜日で博物館がお休みなので、こちらは明日。お休みでない場合も、博物館の営業時間が終わってから取り替えるそうだ。
↓→1年前の装束を外し、新しいお召し物を着ていただく。
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↑↓→仏飯器が供えられ、真新しい装束を身につけたおんば様。
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 おんば様の着せ替えが終わって、円隆寺(富山市梅沢町)の住職による読経が行われた。
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↓→読経の間、箱に入った抹香をまわしてお焼香をあげる。
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 読経が済むと、お堂の中にテーブルを出して簡単な直会が行われた。お弁当とお供えの果物が御下がりとして配られた。
 なぜか私にもお弁当が。ありがたくご馳走になる。 
 直会も終了し集落の方々が帰られた後、女性の会の佐伯さんと、立山芦峅ふるさと交流館館長の佐伯さんに集落の行事のことなどを色々と教わる。ちなみに芦峅寺の名字は佐伯と志鷹で占められているようだ。
 来る時は千垣駅から町営バスで着たので、帰りは歩こうと思って駅に向かう。2キロほどなので、ゆっくり歩いて30分ほどだろうと思って5分ほど歩いた所で布橋を見ていないのを思い出した。閻魔堂近くにあるこの橋は、布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)という現在3年に一度開催されている行事の舞台となる。今年がその開催年。引き返して橋を見に行くと、特徴である赤い橋の欄干にはブルーシートが被せられていた。
 駅まで歩くと15時36分発の富山行き電車に間に合わないので、15時22分のバスで千垣駅へ。駅で8分ほど待って富山行きに乗車。
おんば様25
 富山駅から、節分の日に儀式を撮影させていただいた日枝神社にお礼の写真を届けに行く。あいにく禰宜の方は会議中とのことで写真を預けて駅に戻る。金沢方面の電車が直ぐにあったので、そのまま帰宅。両親は13日から15日まで妹と一緒に東京観光に行っている。とりあえず家にあるもので晩ご飯。

  北日本新聞の記事、富山新聞の記事

3月10日(金)

 今日は、韓国の朴大統領の罷免と自衛隊の南スーダンからの撤退という2つの大きなニュースが流れた。
朴大統領を罷免 韓国憲法裁「国政介入を隠蔽」 5月までに選挙
南スーダンPKOに派遣の陸自部隊、撤退へ 政権が決定

 北朝鮮が今月6日に日本海に向けてミサイル4発を発射したが、朝鮮中央通信は有事の際に在日米軍基地への攻撃を担う朝鮮人民軍戦略軍火星砲兵部隊の訓練だったと報じた。
 先の大戦で本土防衛のための捨て石にされた沖縄では、地下に日本軍の司令部が設置された首里城は破壊され、飛行場などの軍事拠点があった伊江島も激戦地となり終戦後は島の1/3がアメリカ軍の基地として接収された。沖縄の在日米軍基地は抑止力になると本土の人間は言うが、捨て石にされた沖縄の人は、基地というものが抑止力ではなく攻撃対象となることを身を以て体験している。
 アメリカと日本の戦争で沖縄は米軍の本土上陸阻止の捨て石にされたが、もし中国とアメリカ、北朝鮮とアメリカの戦争が起これば、今度は日本全体がアメリカの捨て石にされるのではないか。今回の北朝鮮のミサイル発射はそんな事を考えさせる。

アマゾンで買った本

↑最近アマゾンでポチッとした本。左は『amaranth/SAKATA Photography』(朝日新聞社)、『Paris 巴里/徳谷ヒデキ』(クレオ)、『老人と海 与那国島/本橋成一写真録』(朝日新聞社)。右は『ニライカナイ/藤井保』(リトルモア)、『ESUMI/藤井保』(リトルモア)、『巨幹残栄・忘れられた日本の廃鉱/萩原義弘』(窓社)、『子どもの肖像/谷川俊太郎・詩 百瀬恒彦・写真』(紀伊國屋書店)。

 昨年の9月23日、24日に撮影したつくりもん祭りの様子をPhoto Albumにしました。こちら

つくりもん祭り01
↑↓通りに面した家や納屋に、野菜や果物などで作った世相を反映した人物や風景を飾るつくりもん祭り。普段は人通りも少なく閑散とした町に、この祭りの2日間は多くの人が訪れて夜まで賑わう。上の写真は、つくりもんを眺める人。下の写真は、菅笠音頭の町流し。
つくりもん祭り02
 明日で、東日本大震災から6年。

3月7日(火)

 だいぶ春めいてきたと思ったら、今日は雪。天気予報ではしばらく雪だるまが並んでいる。
  昨日の午後、印刷用データと見本プリントを納品に高岡へ出たついでに駅前にある高岡市立図書館に寄って来た。アマゾンで購入して未読のまま積んである本もあるのに、『とやまの民俗芸能/伊藤曙覧』(北日本新聞社)という1冊を借りて来た。(*返却期限は3月21日)。
 高岡へ行くのに一応マスクをしたが、夜になってクシャミ、鼻水、鼻づまりと花粉症の症状が。今日も何度かクシャミが出たので、外では雪と花粉が一緒に舞っているのだろうか。
↓雪が降った、今日の外。→久しぶりに図書館で借りてきた本。
昨日借りて来た本
今日の雪景色

 bookgalleryのページに『東京写真散歩 TOkYO 2002〜2005年』を追加しました。

 何年も使われることなく、部屋の隅に放っておかれた4x5(シノゴ)のカメラ。4インチx5インチの大きなフィルムに、東京の風景を撮ってみようかな。2002年の春に思い立って、街に担いで出た。

 これらの写真を撮ってから十数年が経った。浅草の東映は既に無く、再開発中だった新宿の富久町は平成27年度に完成する予定だ。
 築地市場の移転先として建設されている豊洲市場は、完成を目前にして土壌汚染対策として予定されていた盛土が行われていなかったことが発覚し、現在移転を巡って紛糾している。

 土地は生き物だ。絶えずスクラップ&ビルドを繰り返し生まれ変わっている。ここに掲載した写真は、2002年から2005年にかけて通り過ぎた東京の断片。その欠片を繋ぎ合わせて構築した、ある時代のレイヤーのようなものだろうか。

東京写真散歩
 プロラボの堀内カラーが、今月いっぱいでポジフィルムの自社現像処理を止めるそうだ。それに伴い、現像料金と納期の変更が行われるようだ。現像料金の値上げは止む終えないのだろうが、現像の仕上がり時間の遅さに驚いた。
 20年以上、外苑前にあった堀内カラーの青山営業所で現像をお願いしていた。休日明けの月曜日や連休明けは待たされる事もあったが、35mmのロールフィルムの現像は通常2時間だった。それが来月からは午後2時までに出して、現像の上がりは翌日の午後3時。たぶんフイルムを使う雑誌や広告の仕事自体がほとんどない時代だから問題はないのだろうが、仕上がりが翌日は凄いな。
  ポジフィルムの場合、最初にテストフィルムを現像に流して、それを見て本番フィルムの増減感を指定して現像に出していたので、昔でも2時間+2時間かかった。それがテストフィルムを午後2時までに出して、仕上がりが翌日の3時。それを見て本番のフィルムを出そうと思った時は午後2時を過ぎているから翌日になる。なんだか気の遠くなるような話しだな。

3月4日(土)

 今日は暖かいなと思ったら、15℃まで上がったようだ。そろそろ花粉が本格的に飛びそうだ。
 昨日、奄美大島に住んでいた時にハブ獲りやアマミノクロウサギの観察に連れて行ってくれた友人から、ダンボールいっぱいのタンカンが送られてきた。さっそく神棚と床の間、そしてお雛様に据えてから食べてみた。やっぱり甘い!
タンカン
 タンカンは、ポンカンとネーブルオレンジの交配種だそうだ。奄美では年末頃にポンカンがお店に出回る。初めてポンカンを買って食べた時は、その安さと美味しさに唸った。そして年が明けるとタンカンが出回るのだが、これがポンカン以上に甘くて美味しい。

←送っていただいたタンカン。
↓タンカンをお供えした、ひな飾り。今年も明らかにお雛様じゃない人形も並んでいる。
ひな飾り

 ポンカン、タンカン、スモモ、島バナナ、パッションフルーツ、グアバ、ドラゴンフルーツ、パパイヤetc。さほど大きくはない名瀬の町に、たくさんの果物屋さんがある。たぶん、奄美で過ごした時が、今までで一番フルーツを食べたんじゃないだろうか。

奥商店

 タンカンの収穫が終われば、次はスモモ。今頃は白い花を咲かせており、5月頃になればスモモの実がお店に出回るだろうか。近所の商店で1キロ200円だった時に、そのスモモでジャムを作った。
  左の写真は、よく果物や野菜を買いに行った近所の商店。島バナナは濃厚な甘さで美味しいんだけれど、普通のバナナに比べて高価なのであまり食べられなかった。

 一昨年ミカンコミバエの発生で果物の島外への出荷制限が行われていましたが、昨年の夏にミカンコミバエの根絶が確認されて出荷制限は全面的に解除されています。
 昨年の9月10日に撮影した小矢部市の無形民俗文化財、越中源氏太鼓の様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
つくりもん祭り01

↑越中源氏太鼓は下後亟神明社の秋季例祭に奉納される。拝殿での神事の後、先ずは獅子舞。↓越中源氏太鼓は源平倶梨迦羅合戦の戦勝を祝って打ち鳴らされたのが起源とされる。

越中源氏太鼓

3月2日(木)

 朝、Facebookを見るとムッシュかまやつさんの訃報。タイムラインには、たくさんの人のかまやつさんとの思いで話や記念写真が流れて来た。

 星には夜があり そして朝が訪れた
 なんにもない大地に ただ風が吹いてた

 はじめ人間ギャートルズ「やつらの足音のバラード」、 一度生で聴いてみたかった。

ムッシュ01
←モノクロのポートレートは、1995年にご自宅で撮影。ご自宅の屋上からは、東京タワーが望めた。そして、ソファーの上には、『ゲンズブール または出口なしの愛』『さよならゲンズブール』という本が置かれていた。

↓ライヴは2010年4月23日、ヘッケル&HUのゲストで参加した時のもの。ヘッケル田島(Vo.&Dr)、HU克彦(Vo.&G.)、今剛(G.)、鮫島秀樹(B.)、中山努(Key.)。ゲストにムッシュ。この時、「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」「バン・バン・バン」を目の前で聴けたんだった。
ムッシュ02
 You Tubeから「やつらの足音のバラード」「やつらの足音のバラード ロングバーション」「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」。
 昨年の9月3日に撮影した小矢部市綾子の願念坊踊りの様子をPhoto Albumにしました。こちら
願念坊踊り01
↑↓現在は太田神社の秋季例大祭に奉納されている、願念坊踊り。願念坊とは托鉢して歩いた僧の姿をした大道芸人で、踊りの起源は奈良時代に仏教の布教にともなって始まったという。幕末から明治初期にかけて流行した踊りが、何時の頃からか小矢部一帯の農民たちによって踊られるようになったそうだ。一曲一曲は短く、この日は6曲奉納されたが、それでも15分ほどで終了した。
願念坊踊り02

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