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バックナンバー
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能

2月11日(土) 氷見・小杉 起舟祭 記事 記事
3月 井波 お人形さまめぐり
3月13日(月) 芦峅寺のおんば様のお召し替え 9時〜
4月7日(金)〜9日(日) 全日本チンドンコンクール
4月第2日曜日 9日? 高砂山願念坊祭り
4月16日(日) 福光宇佐八幡宮 福光春季例大祭
4月16日(日) 明日(あけび)の稚児舞 12時30分〜
4月17日、18日 氷見ごんごん祭り*鐘つき大会は18日の夕方から。
4月25日(土)、26日(日) 芦崎えびす祭り
4月29日 石動曳山祭
4月30日 御車山 宵祭
4月30日 二番町の神迎え
5月1日 高岡御車山祭
5月2日、3日 井波よいやさ祭り
5月3日 越中八尾曳山祭り
5月4日、5日 城端曳山祭
5月4日 滑川市赤浜 赤浜の菖蒲打(ショーブツ)
5月5日 氷見市宇波 コウラウラの祭り
5月6日 氷見市小境 エビス祭り
6月第1土曜、日曜 庄川夜高行灯
6月21日 宇奈月町・愛本姫社まつり
7月13日、14日 氷見祇園祭
7月24日 滑川・新屋大磐祭り
8月第1日曜日 6日? 魚津・せり込み蝶六踊り街流し 
8月6日? 本法寺の曼荼羅絵図風入れ法要
8月6日、7日 魚津 上村木七夕祭
8月中旬 黒河夜高祭
8月下旬の日曜 恵比須祭り
9月 櫛田神社秋季例大祭
9月6日 富山・草島神明社 奴ぶり
9月 海老江曳山まつり
9月23日、24日 五箇山麦屋まつり
10月 愛本新用水天満宮松明祭
10月 入善町 墓ノ木タイマツ祭り

小川寺の獅子舞 宮田・火祭り1月第4日曜日 記事 記事
◯お鍬さま 1月11日 記事記事
◯7年に1度、10月に開催 朝日町山崎 米吊り奉納
◯次は2017年? 布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)
◯高岡大仏まつり
◯下タ北部地区 正月の繭玉作り

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事
富山の祭り

◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

2月27日(月)

 テレビ局によって温度差もあるが、さすがにここまで森友学園の不自然な国有地所得の経緯と偏った教育方針が明らかになると報道しないわけにもいかず、どの局も金正男氏暗殺事件の次くらいには取り上げられるようになった。
 この間に様々なネットのニュースや記事を読んだが、辻田真佐憲氏の<「軍歌を歌う幼稚園」森友学園の愛国教育は、戦前だったら不敬罪!?>が、とても興味深い論考で面白かった。 

国旗、国歌、軍歌、「教育勅語」、「天壌無窮の神勅」、御真影、修身、靖国神社、八紘一宇――。
「戦前っぽいもの」をカット・アンド・ペーストして、なんとなく愛国的な世界観を作り上げる。戦後、そんな「二次創作」がなんども繰り返されてきた。

 「戦前っぽいもの」をカット・アンド・ペースト、とは上手い表現だと思う。森友学園やこの学園に纏わる人物から漂う偽物臭さは、このカット・アンド・ペーストという言葉に表われている気がする。彼らの主張や行動には、まさに切り取って貼付けただけの愛国とはほど遠い薄っぺらなものしか感じられない。
 辻田氏は教育勅語についても<「教育勅語」復活論者は、単に歴史の無恥をさらしているだけ>という記事を書いている。
 記事によれば教育勅語の具体的な徳目の現代語訳が以下で、
父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合ひ、朋友互に信義を以て交り、 へりくだつて気随気儘の振舞をせず、人々に対して慈愛を及すやうにし、学問を修め業務を習つて知識才能を養ひ、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を 広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身 を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚の御栄をたすけ奉れ。
最後の「一旦緩急アレハ(万一危急の大事が起つたならば)」以下はともかくとして、それ以前の徳目の多くはかなり現実的なものだ。

そして<「教育勅語」は、狂信的な神国思想の権化ではないが、普遍的に通用する内容でもなく、およそ完全無欠とはいえない、一個の歴史的な文書にすぎない。その限界は、戦前においてすでに認識されていた>としている。

奉安殿

 上の写真は、奄美大島の大和村・今里小中学校の校舎裏にある奉安殿。2012年1月21日撮影。奉安殿とは、戦前の日本において、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物。奄美には今里以外にも、加計呂麻島の須子茂小学校、請島の池地小学校にも奉安殿が残っている。

 昭和二年(一九二九)、のどかな奄美の島々を揺るがす大きな出来事があった。それは昭和天皇の奄美行幸である。当時は「現人神」(あらひとがみ)と呼ばれた天皇の行幸とあって、人びとは感激した。そしてその後、各学校には奉安殿が造られて天皇の写真と教育勅語が納められ、忠君愛国の思想が学校教育の場で称揚されるようになった。また、「昭和一新会」という精神振興組織が生まれ、「奄美大島振興の歌」が歌われ、島々には天皇中心の社会風潮がみなぎるようになった。
 やがて昭和一二年には日中戦争が勃発、当地域もしだいに戦時体制の中へ組み込まれていった。<松山光秀>

 「◎写真が語る激動のふるさと一世紀 目で見る奄美の100年 名瀬市・大島郡」(郷土出版社)より。

 昨年の9月1日に撮影した、越中八尾のおわら風の盆の様子をPhoto Albumにしました。こちら
おわら風の盆01
↑北陸新幹線の開通もあって、観光に訪れた人で通りは溢れている。↓目深に被った編み笠から、顔が少しだけ覗く。
おわら風の盆02

2月23日(木)

 今日は一日雨。
 昨日、2月22日はニャンニャンニャンで、猫の日だった。Facebookのタイムラインに、猫の写真がいっぱい流れてくるかと思ったが、そうでもなかった(笑)。

 色んな雑誌で色んな連載の撮影を担当したが、ちょうど10年前の2月から始めたのが「NO PET ,NO LIFE ペットと私」という連載だった。
 その記念すべき連載第一回目に登場していただいたのが、女優の大地真央さんだった。撮影は都内のハウススタジオで、ヘアメイクとスタイリストは大地さんのご指名だった。連載だけの撮影では製作予算があわないので、もう一つ特集記事用と合わせて撮影させていただいた。
 ハウススタジオの3階、自然光の入る部屋で撮影したのだが、部屋の入り口にドアが無かったので、撮影中一番気を使ったのがストロボの光りに猫が驚いて脱走しないかということだった。なので、脱走しそうになった時のために担当編集者が入り口に立っていた(笑)。実際には、大地さんの腕に抱かれて大人しくしていたのだけれど。
 大地真央さんでスタートできたのは、この連載にとってとても幸せなことだったと思う。

大地真央さん
↑記念すべき連載第一回目に登場していただいた、大地真央さん。2007年2月1日撮影。

 月刊誌だったので月に一度あるこの撮影は楽しみだった。登場するペットは猫と犬が多かったけれど、中には藤谷美紀さんのカメ、モモエリさんの小鳥、プリンセス天功さんのフクロウ、浅香光代さんの猿、梅宮アンナさんのウサギなども登場した。浅香さんの撮影は浅草のご自宅へ伺ったのだけれど、案内されたのは寝室で、ベッドの上で猿と戯れる浅香光代さんという素敵なシチュエーションとなった。
 この連載の撮影は2010年の春に奄美大島へ長い旅行をすると決めたので、その半年ほど前に友人のフォトグラファーに引き継いでもらったのだけれど、連載自体は何年か前まで続いていた。

ペットと私
↑梅宮アンナさん、2009年9月29日撮影。浅香光代さん、2008年5月19日撮影。
 昨年の8月24日に撮影した小矢部市大念寺の地蔵堂の様子をPhoto Albumにしました。こちら
大念寺の地蔵堂
↑160体以上のお地蔵さまが祀られている。地蔵盆では19時半からお勤めとご詠歌の唱和が行われるそうだ。

2月21日(火)

 三上智恵監督の最新作『標的の島 風かたか』のサイトが完成した。その中にある予告編を観たら、こんな文章を思い出した。

 沖縄に稲作と鉄器をもたらした人びとは、たぶん、九州から南下してきた人びとだと考えられるが、彼らは東南アジアや華南から先に移住してきた土着民を支配して、各地で按司となったと考えられる。そして按司は、十三世紀ごろから鉄の武器をもって抗争するようになったが、十六世紀はじめには、尚真王の中央集権によってすべての武器を没収され、首里の城下町に住わせられた。以後、薩摩の支配もあって、琉球国に武器はなくなり、戦はなくなったのである。
 それだから、 沖縄では本土のように刀や槍や弓や甲冑などを尚び、家宝として飾るなどという風習はまったくなく、そんなものは博物館にもいっさい無い。沖縄の士族や富農が家宝として床の間に飾るのは、蛇皮張りの三線であり、立派な硯箱や陶器などである。
 そのような戦を知らぬ平和な島々に、沖縄戦の惨劇がおこり、戦後も巨大な米軍基地がいすわっているのだから、沖縄県民の反戦平和への願いがいかに深いかは、容易に想像ができるとおもう。

『小橋川共男写真集/沖縄 御万人の心』(那覇出版社)に収載されている霜多正次氏の「沖縄の歴史と文化」より抜粋。この写真集の発売が1979年7月。38年前と状況は変わらないどころか、ますます酷い事になっている。

 相変わらずテレビは金正男氏殺害事件の話題ばかりで、森友学園の国有地所得に纏わる不可解な出来事はほとんど報道されない。昨年の、舛添都知事の報道で甘利大臣の件が隠れてしまった事を思い出す。テレビはまた同じ事を繰り返すのだろうか。
  今のところまともに取り上げたのは、テレビ東京の夕方のニュース番組「ゆうがたサテライト」での<“愛国”学校ができるまで 名誉校長は安倍総理夫人>と、今日の報道ステーションくらいだろうか。
大阪の幼稚園で「園児が教育勅語唱和」の理由園長は「日本会議」の大阪支部長
大阪・森友学園 寄付募った名称は「安倍晋三記念小学校」
学園「ごみ撤去1億円」 国は8億円見積り 国有地購入
森友学園「国有地9割引」疑惑 首相夫人が名誉校長の神道小学校の土地取引に次々と浮かぶ疑問点
ごみの撤去「確認していない」 大阪の国有地売却問題
国有地売却「ただ同然」 土地浄化に約1億3千万円負担
松井知事「誰が見積もったか明らかに」国有地ごみ撤去費
塚本幼稚園・瑞穂の國記念小學院と安倍晋三政権の関係について 《山崎雅弘》

 テレビでは流れないが、ネットでは上に貼付けたように様々な記事が上がっている。
 衆院予算委員会で関与を問われて「私や妻は一切関わっていない。もし関わっていたら間違いなく、首相も国会議員も辞任するということを、はっきり申し上げる」と安倍首相が答えている。実際に関わっていたかどうかはこれから取材、調査で明らかになっていくのだろうが、首相自らが仮に関わっていたら「首相も国会議員も辞任」しなくてはならないほどの重大事件であると認識しているのだ。

週刊金曜日

 「ウソを重ねる産経新聞」。
  17日発売の週刊金曜日の表紙がふるっている。過激なタイトルかなとも思うが、まあ、間違ってはいないな。産経新聞については沖縄関係の誤報やウソもたくさんあるが、慰安婦報道に関する記事をリンクしておく。
  『産経』の「慰安婦」報道こそ捏造そのもの産経新聞「従軍慰安婦報道」のみっともない真実(1)「韓国人慰安婦を強制連行」と書いたのは朝日でなく産経新聞だった!

 別に朝日新聞の肩を持つわけでもないし、10年ほど前に朝日新聞がテレビCMでジャーナリスト宣言をした時は本当に”大丈夫か、この新聞”とも思ったが、産経新聞よりは遥かにましだろう。
 現在進行中の森友学園の国有地所得問題については、朝日新聞が頑張っている。

「撤退なら違約金8000億円」米原発やめられない東芝 
東芝を解体に追い込んだ三悪人の「言い分」「血のバレンタイン」を迎えた19万人企業の未来
 もう東芝は、進むも地獄、戻るも地獄だろう。

 昨年の8月23日に撮影した中田の地蔵盆の様子をPhoto Albumにしました。こちら

中田の地蔵盆01
↑↓高岡市中田の地蔵盆。上の写真は本町で、子どもは居らずお年寄りが鉦を鳴らしていた、下は南町の地蔵盆で公民館の中に設えられている。他に西町、中町、東町、宮町、西中町などが公民館や通りに面した民家に地蔵盆を設営している。
中田の地蔵盆02
 お昼ご飯を食べた後、頭がズキンズキンと傷む。風邪?堪らず葛根湯とビールを飲んで布団に入って2時間ほど寝ると、コロッと治った。

2月17日(金)

 春の嵐。
 今日は一日雨模様で、時おり強い風が音を立てていた。ニュースによれば、北陸地方で昨年より3日遅く春一番が吹いたそうだ。気温も上がり、わりと暖かかった。

 昨日は晴れたので、午後から自転車で小矢部川の堤防を少し走ってきた。今年は年初から電車やバスに乗ってアチコチと撮影に出かけていて、こうして自転車で地元を走るのは久しぶりだ。美しい夕焼けを期待していたが、日が沈むにつれて雲が多くなってきた。

昨日の小矢部川01
昨日の小矢部川02

 『習俗 富山歳時記/漆間元三著』を、昨日読み終えた。目次の最初にある「節日」に、こんな文章がある。
 三月三日の雛節句、五月五日の端午節句のように、いまでは節句という日はかぎられているが、節句以外の祭日や祝日を総括した名称がないだろうか。富山県内の実際をみると、節句という言葉は多く使われているが、節句は漢語だから、いま一つ以前のよび名があってもよいはずである。
 上市町大岩や、黒部市嘉例沢の老人たちは、「折り目切れ目には、やっぱり心があらたまる」などという。この「折り目切れ目」という言葉が、これらの土地で、古くから使いならされていた”やまと言葉”の一つである。しかし、他の土地に行けば、またいろいろの言葉で、この日を呼んでいる。

 沖縄では祭祀の中に折目(ウイミ)という言葉が残っている。本土では消え去ってしまった”やまと言葉”が、離島であるが故に奄美や沖縄の島々で残ったというのはよく言われることだ。島尾敏雄は対談集『ヤポネシア考』で、「奄美の人は、本土を大和と言って、その言葉を大和口(ヤマトグチ)というんですけども、ぼくに言わせれば、濃厚な大和口はむしろ奄美の人の方が使っているんです。本土の方は中国口(チュウゴクグチ)を使っていると言っていいと思うんです。漢語を多くまぜなければものが言えませんから・・・・・・」と語っている。

以下、『習俗 富山歳時記』から興味深かった箇所を備忘録として。

 朝日町泊、富山市、福光町、八尾町仁歩などでは、元旦の宮参りに「初口を神様にあげる」といって、参拝の途中で他家の者にであったも、参詣を終わるまであいさつをかわさなかった。しかし、今日のように、初詣の人数が急増し、列をなして参詣の順番を待つというありさまでは、隣の人と話さずにもいられまい。

 遠い祖先たちはもちろん、現代人の間にも正月が近づくと、神は高い山から里へ降りてくるというように考えられている。たとえば、高岡市の真北にあたる二上山には二つの峰があり、ここには二柱の神が鎮座されているが、春祭りの前夜に二柱の神が峰を降りて、ふもとの社地に立つ杉の大木をつたわり、降臨されると信じられている。

 七草の前日を、神の年越しといい、ご馳走したり氏神詣でするのは、城端町、上市町伊折・千石の各地区で、むかしは男の子どもたちが、宮でおこもりをした。六日の夕方から宮にこもって、七日の朝に帰るというのは、元旦と同じように、一日の境が古くは夜のはじまる時刻にあると考えられていたからだ。

 もともとまゆ玉は、十四日に迎えた若木に、農作物、農具をかたどったもの、縁起のよい、いろいろの形のものを刺してつくられた。それがのちに養蚕が盛んになって、まゆ玉の形もつくって刺したことから、ついにこれらの飾り物を刺した木を総称して、まゆ玉とよぶようになった。
〜略〜
 細入村楡原、宇奈月町愛本では、ハンノキに、一臼の餅をまゆ玉として使ったという。

オオムキ 芦峅寺
正月15日に、うば尊にオオムキを捧げる行事がある。オオムキは嫁たたき棒ともいう
うば尊にオオムキを捧げる行事が終わると、子どもたちは、それをもって村の新嫁の尻をたたきに回る。

 下村加茂神社の祭に、神装といって、ヌサをご神体につけ、当日神主・氏子・獅子などに護られながら、神殿からご旅所に渡御するというのがある。その途中で、たびたびヌサを大きくふりかざすのは、ヌサになったご神霊が発動することをあらわしていると、土地の人々はいっている。ヌサのなかにあるご神体は、あるいは祝い棒にも似た、神聖な棒ではなかろうか。

 入善町飯野では「サイノカミ」といって、燃やすときに大声で
サイの神じゃ おお神じゃ
ジーでも バーでも
バクバクじゃー
メロ産んだら ふんつぶせ
男産んだら ソーソー ソーダーテー
と歌った。
 黒部市前沢では、子どもたちが「福の神」とよんで小さな人形をつくり、これに着物や帽子をつけさせてマスに入れ、これをもって「サイトの勧進」といって、家々を回るとお金をくれる。そのとき、福の神を描いた紙人形を置いていく。この人形は夕方に焼いた。昭和十年ころまでの話しである。

 初午の子どもたちは、一月五日ごろから、毎夜練習をかさね、毎年一月十五日の昼から、村内の各戸を訪問して舞った。この初午と同系のもので、正月の門付けの一つに「蚕ほめ・こがいほめ」があった。養蚕の盛んなころ、蚕ほめが各戸を訪れて
一はねすると千貫 二はねすれば万貫
といって、わらでつくった馬の頭をもって、ガランガランとならす。人々はわずかのお金を与えた。大沢野、花月、寺家方面では昭和にもきたというが、養蚕がすたれるとともに、これらの芸人も姿を消した。

 花見のおこりは、「山行き」にあった。砺波地方には「花折りに行かんか」という歌がある。
わらき こどんども
花折りに行かんか
一本折っては腰にさし
二本折っては笠にさし
三本目に日が暮れて
などと歌う。山遊びで花を折って家に持ち帰る風習のあったことを裏付けているようだ。ちょうど正月の松飾りを山から迎えるのと同じで、山から手折ってきた花は、神の依代であった。山行きのさいに、花を手折ってくる風習について、柳田国男は「農耕をひかえた春季に、山神を田に迎えて田作りを行った農民信仰の一面だ」と説明している。

 射水郡下村に鎮座する加茂神社は、もと京都下鴨の賀茂御祖神社の神領であった。この神社では、六月の始めの卯の日にお田植祭がある。神職が神庭に神田をつくり、三把の糯の苗を植える(雨の日は拝殿で)。むかし、このようなお田植祭は各社に伝えられていたろうが、いまでは県下にここだけしかない。このお田植祭の行事は、まず水郷を代表する水草であるマコモの葉で、早乙女の人形をつくり、神職が苗を植えたあと、後ろ向きになって、これを神田に投げる。これと同じ小型の人形も別につくられ、氏子がこれをもらい受けて一か年間神棚にまつる。村ではアカモといっているが、マコモのなまりであろう。
 この人形は、柳の小枝を腰にさしたのが男性、サカキの葉を後ろにはさんだのが女性で、男性を上にして、二体一具卯にしばってある。お田植祭はいうまでもなく、稲の豊作をねがった祭だが、私たちの祖先が、五穀豊じょうを願い、これを人間の増殖に具象したものであろう。
*早乙女 田植の日に苗を植える女性のことを早乙女とよんでいる。ハレの役であり、神に奉仕する神役でもある。

五月節句
〜略〜この節句を「ショウブの節句」という地方が多い。名の示すとおり、宵節句の四日に、軒端にショウブとよもぎとをさす風習は広く、軒につりさげると、虫がはいらないという。ショウブで鉢巻きをしたり、痛みどころのある者は、そこをショウブでなでたり、ショウブ湯にはいると治るといったりする。
〜略〜
 ショウブは五月節句につきものだが、富山市、石動末友、氷見市池田、黒部市石田では、ショウブとカンゾを混ぜてわらで包み、長さ一寸五尺くらいにし、これを六尺余りの竹の先に取り付けたものを子どもたちが持ち歩いて、地面を打って遊んだ。

七月七日
 正月の十五日に対して、七草正月があるように、盆の十五日に対する七月七日と考えねばならない。いずれも重要な節日である。むかしから、この日に墓掃除をしたり、井戸替えをしたり、牛馬を洗ったりする。また、この日の朝、髪を洗う風習が、県内の各地にあった。

 富山県には、虫追い行事がいたるところに残っている。行事形式は疫病神送りとほぼ同じで、病虫害を悪神、悪霊のしわざとして、村々から追放しようとしたのである。
 氷見市史によれば、例年六月上旬から下旬にかけて虫送りをしたとある。これはウンカ、ドロムシなどを悪霊のしわざと考えた素朴な信仰にもとづいたものだ。まず神社では、神職がお祓いをした御幣を田のところどころにたてる。子どもたちは、行列をつくって松明をもち、太鼓をたたきながら田を回り、虫を追い払う。
〜略〜この日、小矢部市では、ヨタカ行灯がでるので、「ヨタカ祭」といった。ヨタカは夜高く火をかかげるところからでたことばだといわれ、害虫をおびきよせて殺し、その年の豊作を祈るものであった。
〜略〜また、福光町の八幡宮では、七月二十二、二十三に祈願祭が終わってから、ジジ、ババというわら人形をのせた紙張りの舟を引きだして、大勢の人びとが笹竹で稲の虫を払って田を回る。笹は終わると小矢部川へ流す。
 
 八月十三日を宵盆、または迎え盆とよんでいる。十三日の宵、迎え火をたくところは富山市、高岡市、黒部市嘉例沢など。魚津市天神新、細入村楡原、石動町内山などの山間地帯では、子どもが村から離れた高台の遠く見通しのきくところで、麻殻の松明に火をつけて振り回す。
おしょらーい
おしょらーい
と叫び、小杉町ではジーマ、バーバ、イラッシャイヤーとかジージのショウライー、バーバのショウライといって迎える。

 盆行事のあと、八月二十三日夜、地蔵祭が村々で行われるが、とくに呉西に多い。盆の二十四日は、仏教の側からも「地蔵盆」とよぶ。祭る日は一定していないが、八尾町保内では、八月十四日、小、中学校の子どもたちが、朝から家々を回ってたくさんの菓子や果物、野菜を集め地蔵堂に飾って、地蔵祭をする。付近の子どもたちが主体だが、親も参加し、坊さんや尼僧をよんで読経もあげる。
 
 綱引きは、今日では運動会以外に行われることはないが、本来は信仰に発したもので、神意を占う一つの方法だったという。富山県では黒部市生地は明治末期に、八尾地区では大正年間に、新湊市では明治の初期に消滅してしまった。

神送り・紙迎え
〜略〜
 つまり村々家々の紙が、一年のある期間だけ不在になるので、そのあと先にお祝いするという考え方があって、その行き先を出雲と思うようになったのは、後世のことだといわれている。神々の不在の理由について、まず考えられるのは、春の二月に山から里へ降った田の神が、その任務を終えて、秋の十月に山へ帰って、山の神になられるという信仰からだとされている。

エビス神の送迎
 毎年十一月二十日夕、北海道の海へ稼ぎにでているエビスサマが、海も寒くなるので、帰ってくる。しかも沢山の金を稼いで帰る。その晩は玄関の大戸を少し開けておく。夕方になると、エビスサマの夕食の準備で勝手元は忙しい。ご膳の準備を整えて、神棚の下へ主婦が運んでいく。神棚の真下には座布団が置かれて神座を設ける。
 ご膳には二匹の赤鯛、神酒の他に小豆飯、オツケ(魚汁に豆腐)、ナマス(大根ナマスと鰯の身)、オヒラ(ゼンマイ・人参・牛蒡・油揚げの煮シメ)、オシズシ(飯の中にサバ、イワシの身をはさみ、上には海苔をつける)が並ぶ。そして主人がエビスサマの前で、
「今年は、おかげさまで、沢山もうけさせてもろうて、ありがとうございました」
と心中で唱えながら、神酒をついで棚元に控えている。神様の食事が終わったころを見てご膳をさげて、オサガリを家族そろっていただいた。

年夜の行事
 朝日町境では、「宵参り」といって三十一日にお宮参りをしている。早く寝ると白毛が生えるといい、また八尾町、魚津市、朝日町では、年夜から元旦まで宮にお籠りするものは若衆たちで、宝引きをして遊んだものだという。

購入した本

 まだ未読の本が何冊か積んであるのに、アマゾンのマーケットプレイスでポチってしまった。
 『奄美ーシマに生きて/管洋志』(新潮社)、『奥三河/前田真三写真集』(グラフィック社)、『日本の伝説24 富山の伝説/辺見じゅん・大島宏志・石崎直義』(角川書店)。
 『奄美ーシマに生きて』は、名瀬に住んでいた時に、図書館で借りて一度見ているが、手頃な価格だったので購入。

 一昨年の10月に亡くなられた親ユタの阿世知照信さんの写真が、何ページか掲載されている。祭壇の前で阿世知さんが神懸かりになっているような写真もあるが、名瀬のご自宅だろうか。ご自宅の前を自転車で通ると、庭に出て何やら工作されている姿を見かける事があった。祈願に使う道具を作られていたのだと思う。

2月15日(水)

 髪が伸びてきたので、切りに行ってきた。何となくだが、そろそろ花粉が飛んでいる気配がする。気のせいだろうか?
カンポ・デ・クリプターナ
 galleryのコーナーに『追憶のスペイン 1986年スペイン・ポルトガル』を追加しました。上の写真は、ドンキホーテが怪物と思い込んで突進した風車のある、カンポ・デ・クリプターナ。

 1986年の春。
 初めて一眼レフのカメラを買ってから暫くして、旅に出た。初めての海外旅行であり、初めての長い一人旅だった。
 何冊かのガイドブックとトーマスクックの時刻表をバックに入れて、スペインとポルトガルをまわった。途中、予定になかったジブラルタル海峡を渡ってモロッコにも足を延ばした。
 昼間は町で写真を撮って歩いていれば楽しいが、一人旅の夜はこれといってする事もない。トーマスクックの時刻表は数字と駅名ばかりの本だが、夜、宿のベッドでアレコレ考えながら見るのが楽しかった。夜に時刻表を眺めていて、急に旅先を変更した事もあった。
 今見ると本当に数字ばかりで、よく読んでいたな〜と思うが、有り余る程の時間があったのだろう。ネットが普及した今でも、こんな時刻表を持って旅をするバックパッカーは、まだたくさんいるんだろうか。

 4ヶ月近いイベリア半島(スペイン、ポルトガル)の旅から帰って来て、創刊して間もない学研の女性誌『ネスパ』に、旅のフォトエッセイを書いた。その時の文章と写真も再掲載した。
 BGMにはチックコリアの「SPAIN」をどうぞ。

 昨年の8月5日に撮影した、魚津たてもん祭りの様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
たてもん祭り01
↑提灯の飾り付けが終わり完成したたてもん。↓たてもんの奉納。境内の所定の位置に運ばれたたてもんが、土台の担ぎ手と心棒の上部に繋げられた綱の引き手によって勢いよく回される。綱の引き手は遠心力でメリーゴーランドのように回転して、ところどころで宙に浮いていた。
たてもん祭り02
<柏崎刈羽>免震棟強度に疑問 東電「震度7では使わない」
<柏崎刈羽原発>「免震重要棟」耐震性、高く説明 東電
 2007年の新潟中越沖地震の際に柏崎刈羽原発でのトラブルを受けて、安全確保のために当時の泉田知事が東電に造らせたのが免震重要棟。そして同じ東電 が経営する福島原発に免震重要棟がないのはおかしいという事で、福島原発にも造られる事になり、完成したのが東日本大震災が発生する僅か8ヶ月前だ。福島第1の過酷事故の際に初期活動の拠点となった免震重要棟。もし福島第1に免震棟がなかったら、どうなっていただろう。
 ちなみに鹿児島の川内原発は免震重要棟を造るとして規制委の安全審査に合格したにもかかわらず、再稼働後に耐震構造に変更し、規制委はそれを許可している。
 どこが世界一厳しい安全審査なのだろう。

2月12日(日)

 昨日は氷見の小杉地区へ、起舟祭を撮影に行った。起舟祭は船起しとも称される舟霊さまの祭りで、漁業の事始めの日に生産の予祝をする信仰儀礼と水夫(かこ)揃いの祝いとして古くから旧暦の1月11日に行われていた。現在は旧暦1月11日(今年は2月7日)に近い1の並ぶ2月11日に開催されている。
  豊漁祈願と海上安全を祈る舟祝いで、前日に舟を上げ掃除をし、鏡餅と神酒を供え11日の朝、舟を下げ、干しイカ、煮豆、イワシの煮物などの縁起物を肴に呑んだそうだ。
 明治の頃までは菊理媛像石神社(きくりひめかたいしじんじゃ)で祈願祭を行った後、神社に奉納されている朱塗りの大盃を船溜まりの船上に運び、古老から順に大盃を囲んで呑み祝ったそうだ。現在は神社で神事を行ない、そのまま拝殿で大盃を順にまわし呑みをし、その後、別の会場で地区全体の祝宴が催される。

 起舟祭の始まりは、13時。高岡駅を11時31分に発車する氷見方面の脇行きバスに乗車して、12時15分頃に小杉に到着。バス停の目の前に、菊理媛像石神社がある。神社に入る前に、大きな大漁旗を揚げた船が泊まっていないか港に行ってみたが、小さな旗しか揚がっていなかった。

小杉の港
↑小杉地区の港。嘗てはほとんどが漁師だったそうだが、現在は70世帯のうち漁師は7人だそうだ。
神社02
神社01
←↑菊理媛像石神社。神社の左側にあるお堂は、えびす堂。このお堂には木彫彩色の御神像(えびす様)が祀られている。ここで6月10日、11月20日に恵比寿祭が行われる。
 神社の拝殿に入り、神主さんと世話役の方にご挨拶して、起舟祭の始まりを待つ。一人二人と漁業関係者や地区の役員が参集し、13時になって神事が始まった。
起舟祭01
起舟祭02
 祝詞奏上、お祓い、玉串奉納が行われた後、朱塗りの大盃が拝殿の中央に運ばれる。
 最初に酒器に入れられた神饌の御神酒が注がれ、続いて一升瓶から御神酒が足される。
 嘗ては大盃になみなみと注いだため、両脇に盃を支える人がついて、3人で持ち上げて呑んだそうだ。
 区長さん、そして年齢の上の方から順にまわし呑みが始まった。
↓→大盃の直径は約50センチ、5升5合入るそうだ。
起舟祭04
起舟祭03
起舟祭05
起舟祭06
起舟祭07

 一升瓶の御神酒が空になるまで大盃に注がれ、何巡かして呑み干された。
 13時から始まった神事は30分ほどで終わった。
 区長さんから、せっかくなら大盃を持ってみませんかと声をかけられ、写真も撮っていただいた。

 14時20分のバスで高岡へ戻る。次の金沢方面行き電車まで少し時間があったので、久しぶりに今庄へ。うどんとそばのハーフ&ハーフ、「月見チャンポン」を注文。

↓月見チャンポン。→『習俗 富山歳時記』。
富山歳時記
月見チャンポン
 家に帰ると、先日アマゾンのマーケットプレイスで見つけて購入した昭和48年発行の『習俗 富山歳時記/漆間元三著』が届いていた。
 今日、『習俗 富山歳時記』をパラパラと捲っていたら、起舟祭について書かれた文章があった。
 正月十一日を、起舟といって船祝いをする。船祝いは、漁民の仕事はじめである。二日の仕事はじめには、漁師は網の修理や釣針磨きなどの仕事をするていどにすぎない。
 県内では、舟祝いをきしゅうとか、あるいは、「ふなおこし」といっている。これはそれまで舟の底を上にして、伏せておいたものを起こすという意味である。
 この日、船頭が水夫(かこ)を招いて祝いをする。同時にその年の労働契約の日でもあった。しかし、今日では二重契約を結ぶものもいて、むかしの船頭、水夫相互の信頼もうすれてきた。舟祝いが労働者との契約日であったことは、ちょうど鍬はじめや、小正月が田植えの手伝い人や小作の契約日であったこととよくにている。

北日本新聞の記事

 今朝の北日本新聞に小さな写真と共に、起舟祭の記事が載っていた。写真には反対側からカメラを構えている自分が写っていた。
以下、転載。
大杯を飲み回し豊漁と安全祈願
菊理媛像石神社で起舟祭
 漁師の仕事始めを祝う伝統行事「起舟祭」が11日、氷見市小杉の菊理媛像石神社で行われ、自治会役員や漁業者ら地元住民が大杯に入ったお神酒を飲み回し、一年の豊漁と海上安全を祈願した。

 拝殿の壁に大漁旗を掲げ、松波広之宮司が祝詞を奏上し、区長の大石泰浩さん(56)が玉串をささげた。
 神事の後、5升5合(約10リットル)入る直径約50センチの朱色の杯にお神酒を注ぎ、出席した住民12人が酒をつぎ足しながら順番に飲み回した。
 起舟祭は古くから定置網の網元ごとに行われ、戦後は地区の新年会を兼ねるようになっていたが、開催する地区は近年少なくなっている。

2月9日(木)

 南スーダンのPKOに参加する自衛隊の日報で現地の「戦闘」が報告された問題に絡んで、
「事実行為としての殺傷行為はあったが、憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから、武力衝突という言葉を使っている」と稲田防衛相が発言した。
 この人は、自分で自分の発言を、変だと思わないのかな。これって、憲法9条上の問題になる行為があったと認識しているけれど、表現を変えて誤摩化していますと言ってるようなもんだろう。
 この日報はジャーナリストの布施祐仁さんが昨年9月30日に情報公開請求したところ、防衛相から当初は「既に破棄」したと言われたものだ。それが探索範囲を広げたところ出てきたという。 
 統合幕僚監部は当初「報告を終えた時点で使用目的を達することになり、報告の終了をもって破棄した」と説明していたそうだが、そもそもこんな大事な日報を報告を終えたからといって破棄すべきではないだろう。
【これは酷い】南スーダン派遣の自衛隊、日報を廃棄していた事が判明!陸自部隊の活動記録が不明に・・・
<時代の正体>破棄した日報、一転「あった」 南スーダンPKOで防衛省
【全文】自衛隊は南スーダンで「戦闘」していたのか。黒塗りの日報、公開します

 先日来日したマティス国防長官と稲田防衛相との対談で、「米軍普天間飛行場の移設先として名護市辺野古が唯一の解決策である」という点で合意したと日本のメディアで報じられたが、マティス氏は「辺野古」という言葉は一言も発していないという記事がこちらにある。
 マティス氏の発言の和訳がこちら。
・・・両国の合意した再編計画の実施にコミットする。この計画には、日本及び地域の安全を確保する能力を保持しつつ、海兵隊員らをグアムに移転すること、並びに沖縄での展開規模を縮小することが含まれる。今回の協議で、両国は、現行の海兵隊普天間飛行基地を米国が日本に返還する唯一の解決策であることから、両国による普天間代替施設の建設作業が引き続き行われることを確認した。
 代替施設が建設されるならば、アメリカ側は辺野古でなくても構わないともとれる。 そもそも在沖海兵隊がグアムに移転し規模を縮小するのに代替施設が本当に必要なのかという疑問もある。

 2013年12月25日に安倍首相と仲井眞前沖縄県知事との間で交わされた約束では、普天間の5年以内の運用停止と辺野古の埋め立ては、別々に進められるもののはずだった。それは、辺野古埋立て承認をしたことを追及された仲井眞氏のこの答弁でも明らかだ。
辺野古の建設完了というのはなかなか時間がかかるし、難しかろうというのが現実ですよ。日米両政府は9.5年かかると言っている。ですから9.5年あのまま宜野湾に(普天間飛行場が)あり続けるというのは固定化と変わりませんよ。早く宜野湾から普天間を移設すべきだというのが私のかねてからの主張ですから、9年半より前にもっと短い5年以内に移設してもらいたい。5年以内に辺野古が完了すればこちらの方が早いですよ、ですから現実の見通しの問題です。むしろ(辺野古の工事が)長引く事はあっても短くなる事は苦労がいるだろう。ですから(9.5年以内の)半分位もしくは以下の期間で処理するには県外に移すしかないというのははっきりしているんじゃないでしょうか」。また「一国の総理と話し5年以内に普天間の運用停止状態に持って行くとおっしゃった」とも語っている。
 それがいつの間にか政府は普天間の辺野古への移設が前提と言い出して、県側に責任を負わせようとしている。

 ちなみに安倍首相と仲井眞氏の間で交わされた負担軽減の骨子は
(1)普天間飛行場の5年以内の運用停止や牧港補給地区の7年以内の全面返還について、防衛省内に作業チームをつくって検討する。
(2)オスプレイの訓練の半分を県外に移転する。
(3)日米地位協定に関連して、基地内の環境保全に関連する立ち入り調査を行えるよう米側と交渉に入る。

 というものだった。
 埋立て承認から3年以上が経ったが、現在、 沖縄の普天間基地に配備されているオスプレイは24機。負担軽減として浮上した「12機程度の県外配備」は進んでおらず、さらにオスプレイが2機追加配備される事になったようだ。また、先日の日本で初めてとなるオスプレイの墜落事故に見られる日本側の現場検証が行なえない等の日米地位協定の壁はそのままだ。

 今回マティス氏が「尖閣諸島は日本の施政の下にある領域であり、安保条約5条の適用範囲だ」と明言したことで政府は対談の成果のように話しているが、日米安保条約は適用範囲を「日本国の施政の下にある領域」と定めているので当たり前のことを言っているに過ぎない。それより 尖閣を日本の施政下にあるとしながらも、一貫してアメリカは領有権があるとは発言していないことに注目すべきでは。 これは、アメリカが日本と中国の領土問題に深入りしないという意思表示ではないだろうか。
  尖閣諸島が日本の施政下にあるとするのは、現在は使われていないが尖閣諸島の5島のうち、久場島と大正島の2島には米軍の射爆場があるからで、日本の施政下としなければ、条約を結んでいない他国の土地に米軍が駐留していることになる。
 強固な日米関係を築けたと政府は自画自賛しているが、無人の岩を守ってもらう代わりに、米国が世界で繰り広げる戦闘に積極的に参加しなくてはいけないという大きな代償を支払うことになるのではないだろうか。

【ガチでヤバすぎる】廃炉どころか完全に収集つかなくなってる・・・もうシャレにならない状況
 先日、福島第一原発2号機の原子炉格納容器内部を撮影した映像が公開された。上の記事はタイトルのつけ方が少し煽っている感じもしないでもないが、中身はいたって真面目でリアル。

 昨年の7月30日に撮影した生地のえびす祭りの様子をPhoto Albumにしました。こちら
えびす祭り01
↑海上パレードの船に乗せられる、えびす様。↓海岸横を通って西の宮へ帰るお神輿に、海上の船が随行する。
えびす祭り02

2月8日(水)

WANGAN

 長らく放置していたbookgalleryのコーナーに『WANGAN 水路の都市』を追加しました。上の写真は2007年1月29日に、水上バスから撮影した湾岸の風景。
 古家杏子さんの「晴海埠頭」をBGMに、眺めて下さい。手元に歌詞カードがなく聴きながら書き起こしたので間違いもあるかもしれませんが、こんな詞です。

ため息を乗せたバスが走る 私だけ 他に誰もいない
なぜだか街が揺れてる **冬の蜃気楼
終点のここでバスを降りる 空っぽの箱のままで戻る
いつもの場所で眺める今日の海は 泣いてる

晴海埠頭に立てば 私に近い海 北へ向かう翼 白い線を描く
振り返れば 波風 さよならだけ 沈む

新しいトップ画面

トップページの模様替えをしました。写真は『WANGAN 水路の都市』からの一枚。2006年11月30日、水上バスから撮影。お台場辺りだろうか。

↓これまでのトップ画面。

これまでのトップ画面

 今読んでいる『祭りと日本人』から、気になった箇所を備忘録として抜粋。

 雷は「神鳴り」であり、神が怒っていると受け止めた。火山の噴火を「御神火」(ごじんか)といい、火の神の怒り荒ぶる姿を感じ取った。洪水は水の神の荒ぶる様である。そしてその大いなる力がプラスに働けば、ものを生み出す産土(人の生まれた土地)の力となり繁茂繁栄がもたらされる。

 荒ぶる神というのは大方「国津神」ーー国土を守護する神、土地を治める神だ。その筆頭が島根県の出雲大社に祀られている大国主命。一〇月の神無月には日本中の神々が出雲大社に神集いをして、この国をどう治めるかを話し合うという。出雲ではこの月を神在月といい、集まってきた神々をお祀りするのである。
 国津神の上に君臨しているのが「天津神」。高天原=天界におわします神で、伊勢の神宮(=伊勢神宮)に祀られる天照大神(日の神)を頂点としている。天津神の祭りは、その直系の子孫とされる天皇および皇族が行ない、国家の重大な祭りとされた。伊勢の神宮の二〇年に一度の式年遷宮は、一大国家行事であった。

 神霊の分霊、移動をさらに盛んにしたのが「御幣」である。手に持てる程度の木の棒に、白紙を何度も折り返した「しで」をたらしたもので、「みてぐら」とも呼ばれる。これは「手に持って移動できる神の座」という意味であり、自在に移動できる依り代なのだ。
 神社の祭りには御幣がつきもので、御輿の中に御幣そのものを鎮座させたりする。神の乗る神馬の鞍に、御幣を立てる地方も多い。これは、神がそこにいる、ということを示しているのだ。この御幣によって、祭りのときに、神が氏子の住んでいる地域を巡幸することができるようになったのである。
 そして御幣を手に持つ者が、神の指令を受けた者、神の代弁者と見なされるようになり、祭りの奉仕者の中で最も重要な役と考えられるようになった。
 神を御幣にお迎えできるようになったことで、神霊の移動が容易になり、神社の分社が盛んになった。例えば、八幡神社、春日神社、八坂神社、賀茂神社、鹿島神社、諏訪神社、白山神社、天神社などは、全国に何千、何百とある。その大方が、土地の神を祀っている社に、有名な大社の神を勧請したものである。

 神と飲食を共にすることを「直会」という。今では、祭りの後に、神饌を下ろして神職や氏子が食べる酒宴を「直会」といっている所がほとんどだが、本来は「嘗め合い」が転じたもので、神と人とが一緒に食事をすることであり、祭りの中心行事だった。〜略〜
 これは、神と人との最も大切な接触だった。神様用の食物を通じて神の霊力が体内に入り、神と深く交わり合うことができる、と考えられたのである。

 神遊びというのは一般的には神楽を意味する。夜神楽という言葉が示すように、神楽は本来、夜つまり宵宮に行なわれるもので、人間の魂を活性化するための鎮魂の儀式である。神楽の語源は神座とされている。演者が神の依り座(神の依り代となる人)となるのだ。神の仮面と装束を身につけた演者は、神の化身となり、人が変わったように尋常ではない所作をする。この時、演者に神が懸かっているとされ、演者は神そのものと見なされる。演者が歌う寿詞(よごと・祈願の言葉)は、神からの託宣なのである。
〜略〜
 神楽は、神降ろし(迎え)、神遊び、神上げ(送り)の三部構成になっている。その展開は祭りの式次第そのものでもある。
 これら、神楽のルーツと考えられているのが『古事記』『日本書紀』に登場する天の岩戸神話である。天の岩戸の前で天鈿女命(あめのうずめのみこと・天宇受売命)が踊ったという神話を神楽・芸能の起源とする説はよく知られている。

 農村では春、田遊びという豊作祈願の祭りが行なわれる。田の土おこしから、代かき、苗代づくり、田植えと、一連の稲作りの物まねを演じるのである。物事を始める前に、自分たちが願うことを言葉や仕草にすると、表現した通りのことが実現する、と考えられたのだ。
〜略〜
 翁と媼、オカメとヒョットコなど一組の男女が登場し仮面劇を演じる所も多い。翁は田の神の化身であり、媼はその巫女とされている。田の耕作の物まねの合間に、男女の交わり、妊娠、出産がユーモラスに演じられる。田の神や穀霊に活力を与え、その気になってもらおうというわけだ。この儀式の起源は大和朝廷の国見の儀式である。

 神社の祭礼で、神の依りまし役を担うのは、多くの場合七歳以下の男児である。「七歳までは神のうち」といわれるように、子どもは神に近い存在とされていた。純粋無垢で、ケガレが少なく、感受性が強いと考えられていたからである。この「ひとつもの」となった男児が「稚児」である。

 山車(だし)というのは、山、鉾、だんじり、屋台などの総称である。十一世紀、京都八坂神社の祇園祭の際、天皇即位のための祭事の大嘗祭(だいじょうさい)で曳かれる標山(しめやま)に倣って、山鉾巡幸が始まった。これが山車の起源とされる。この祇園祭の祭りの様式が影響を及ぼし、全国各地の祭りで山車が作られるようになった。
 お囃子や神楽、人形芝居などが中でくり広げられることから、移動舞台のように思われている節があるが、れっきとした神の乗り物である。その証拠に山車には神の依り代が乗っている。幣束や飾りものが据えられていることが多いのだが、本来、稚児のいる祭りでは必ず稚児が乗る習わしだ。

 家々に新しい魂を授けに来てくれるのが歳神である。歳神とは半ば神で、半ば祖先の魂と考えてよい。お年玉は、「歳神からの賜」「歳の魂」という意味である。鹿児島県・甑島などでは、正月の神・トシドンに扮した男性が、トシダマという丸い餅を子どもに一つずつ配る風習が残っている。トシダマをもらうと一つ歳を取る。他方、出雲地方では、歳神さまが大晦日にトシダマを配る、と伝えられている。

 古来より日本では月の満ち欠けが暦の役割を果たし、「望の日・もちのひ」つまり満月の日を月の節目としてきた(太陰暦)。お盆が今でも十五日を中心としているのはその名残りだが、元旦ももとは一月十五日だったのである。しかし、持統天皇(じとうてんのう)の四年(六九〇年)、公的には新月の日を一日とする太陰太陽暦(太陰暦に季節を調節するための太陽暦を加えた暦=旧暦)が使われはじめ、暦上の一月一日が元旦とされた。そこで朝廷の決めた一日正月を「大正月」とし、昔ながらの十五日正月を「小正月」と呼ぶようになったわけだ。つまり、暦を中心としたのが「大正月」で、月齢を中心としたのが「小正月」である。
〜略〜
 総じて小正月には古い祭事が残っている。

 鯉のぼりは、神社の祭礼で神を招くのに吹き流しを立てるのと同じ意味である。

 実は、お正月にやってくる歳の神と、お盆に帰ってくるご先祖さまは、同じ存在なのだ。つまり歳の神とは、神上がりしたご先祖さまのことなのである。

 日本人は古来より桜の花を田の神と結びつけて崇めてきた。「種まき桜」という言葉があるように、桜の開花は種まきの目安だった。桜は稲作の開始を告げる花だったのである。また一度に花が咲き満開となるさまに、日本人は秋の豊作をイメージしてきた。
 「花見」という言葉は『万葉集』の時代から使われていたが、万葉人が花見を楽しんだのは桜ではなく、梅などだった。日本人には花を観賞する文化はなく、中国から伝わったものだったからである。
〜略〜
 桜に対する日本人古来の信仰が、中国の花を観賞する文化の刺激を受け、華乃下で宴をくり広げる日本独特の花見が生まれたのである。宮中では、旧暦三月、桜の花の散る時期に「鎮花祭・はなしずめのまつり」が行なわれてきた。奈良の春日大社、京都の今宮神社をはじめ多くの神社でも「鎮花際」「やすらい花の祭」が行なわれている。

 家々で神棚を祀るようになったのはそう古いことではない。そもそも神棚を祀るというのは、神社の大祭の頭屋の家ですることだった。次の祭の頭屋に選ばれた者が、前の頭屋から神棚を引き継ぎ、祭りが終わるまで一年間祀るのである。それは頭屋の家が、神の宿になったことを意味している。頭屋祭りといって神社の祭りとは別に、頭屋の家に集まって行なう祭りもある。

「道祖神」の古い呼び名は「サエノカミ」「サイノカミ」で「塞の神」と書く。本来は、あの世とこの世の境を塞ぐ神、悪霊の侵入を防いで村を守護する神だ。だから村の境や辻に祀られているのである。道祖神の祭りは小正月にドント焼き(左義長)などの火祭りの形で行なわれることが多い。火祭りは厄疫祓いの祭りだ。虫送り、鳥追い、悪霊送り、精霊送りも、道祖神を目指して行なわれることが多い。
 道端に祀られたことから、道の神としての性格も持つ。そこから道行く人を守る神、さらには旅の神ともされていった。

 裸というのは、生まれたままの姿であり、何ごとも包み隠さない、ウソ偽りのない姿勢の証である。裸で神に詣でるのは、清い身体であることを示すためと考えられている。

 本来、祇園祭の主役は御輿である。山鉾巡幸は、御輿の渡御に先だって、都大路を祓い浄めるために行なわれる神事なのだ。町中をまわることで山鉾に疫神を寄り憑かせ、鎮めて祓うのである。祇園囃子は疫神を誘い、慰めるために奏でられる。

「ねぶた」とか「ねぷた」というのは、「眠たい」が訛った言葉である。収穫の秋を控え、労働の妨げになる睡魔を送り出し、健康を保とうとする「ねむり流し」の神事に、風流の要素が加わったものがねぶた祭りだ。
 七夕には、人形(ひとがた)などにケガレを移して水に流したり、水浴びしたりする祓えの行事が広く行なわれてきた。これに夏の睡魔を追い払う行事が結びついて発達したのが「ねむり流し」の神事である。

2月4日(土)

 明日から天気は崩れるようだが、昨日今日は快晴で立山がよく見えた。

 昨年末から、プライベートの撮影や仕事の撮影で氷見を訪れる事が多い。今日は氷見で一つ撮影を終えてから、ライターさんの車で雨晴海岸に連れて行ってもらった。
 海中の女岩の向こうに立山連峰がそびえる構図は、富山県民に御馴染みだけれど、いつもは電車で通り過ぎるばかりで、こうして地に足を着けて撮影したのは今日が初めてだった。
 海の向こうに山がそびえ、山裾をタンカーが通る。富山湾の地形ならではの風景。
雨晴海岸

 昨日は節分の日。富山の節分を撮影したいと思いネットで色々検索していたら、節分祭に鳴弦の儀を行なう神社があったので撮影させてもらえないか電話をした。応対してくださった禰宜の方は、基本的に神事は撮影をお断りしていると話されたが、撮影の意図などを説明すると了解いただけた。

市街地から見た立山

 節分祭は17時からだが、せっかく富山まで行くので少し早めに着いて富山県立図書館に寄ることにした。 図書館とガラス美術館が入居しているTOYAMAキラリへ歩いている途中、正面に立山が大きく迫っていた。
 富山県内でも呉羽より西(石川県側)の呉西に住んでいると立山は遠い存在だけれど、富山市内まで来るとこんなに近いのかと、ちょっと驚いた。

鳴弦の儀
 図書館の郷土コーナーを見てから、撮影をお願いした神社へ。社務所にご挨拶に行き、しばらく近所を散歩してから時間になったので拝殿へ。
 祝詞奏上、お祓いがあり、宮司と禰宜による鳴弦の儀が執り行われた。今年の暗殺拳の方角である北に向け、宮司が天の矢、禰宜が地の矢を持って弓を鳴らして邪気を祓った。
 鳴弦の儀の後、玉串が奉納されて豆まきの儀が行なわれた。
豆まき

 豆まきは、始めに拝殿の中を、そして拝殿の外廊下から参拝に集まった人に向けて撒かれた。撮影している時は気がつかなかったが、こちらの映像ライブラリーを観ると掛け声は「福は内」だけのようだ。
 節分祭は17時に始まり、17時半頃に終了した。駅まで歩いて行くと、18時7分発の金沢方面行きの電車があった。家に帰ると、晩ご飯は恵方巻き。丸齧りするらしいが、食べ辛いので包丁で切ってわさび醤油につけながら食べた。

 Wikipediaによると、節分とは季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊払いとある。この邪気を追い払うために豆を撒く。豆は「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰と、語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶるけることにより邪気を払い、一年の無病息災を願う意味があるとしている。
 鬼は本来、神であるという信仰もある。今読んでいる『祭りと日本人』には、以下のように書かれている。 
 節分には、「鬼やらい」あるいは「追儺式」といって、豆まきの祭事が行なわれる。
 鬼というのは本来は神である。〜略〜『万葉集』では鬼を「モノ」と読ませることもあった。『モノ」とは口に出すことが憚られるような超自然的な畏るべき力を意味する言葉だ。したがって鬼とは強大な威力を持った荒ぶる神の姿を表した者ということになる。
 秋田のナマハゲをはじめ、年の始めに訪れる神を鬼で表す祭りや伝承は、日本中に見られる。各地で行なわれる「花祭り」(信仰上の意味での<花>であり、実際の美しい花のことではない)などに出てくる春をもたらす神も鬼である。
 「鬼やらい」で「鬼は外」などと言う意味は、恐ろしい荒ぶる力は鎮めて、和やかな福をください、という意味だ。

 一昨日、日本の難民政策について書いたら、昨日の朝日新聞デジタルに「シリア難民、300人規模で受け入れへ 政府、定住に道」という記事が掲載されていた。

2月2日(木)

 朝、外を見ると吹雪いていた。しばらく雪が降らなかったので道路の雪が溶けていたのに、また白くなっている。このまま積もるのかな?と思っていたら、日中は晴れ間も出て道路に積もった雪はまた溶けてなくなった。
吹雪

 ドナルド・トランプ氏の大統領令が波紋を呼んでいる。中でも世界中から強い反発を生んでいるのが、7カ国を指定しての入国拒否と、難民の受け入れに関するものだ。
・7カ国はシリア、イラク、イラン、イエメン、ソマリア、スーダン、リビア
・永住権保持者であっても、当該7カ国の国籍を持ちかつ大統領令が出たタイミングで外国にいた者は、米国に帰国しようとする場合には入国を拒否されると政府職員が認めた報道もある。
・すべての国からの難民受け入れを1/27から120日間停止
・シリア難民の受け入れは無期限に停止
・2017年の難民受け入れの上限は5万人
(昨年9月にオバマ大統領が11万人受け入れると宣言した人数の半分以下)
 
 これに対して、ニューヨークの連邦裁判所は大統領令の一部執行停止を決定、国連の事務総長は禁止令の解除を要求。ドイツのメルケル首相は「難民受け入れは国際社会の義務」だとして大統領令を批判。カナダのトルドー首相は「迫害やテロ、そして戦争から逃れようとしている人たちへ。カナダ人は信仰に関係なく、あなたたちを歓迎する。多様性こそわれわれの強さだ」とツイッターに投稿した。
 日本は、安倍首相が野党の質問に答える形で「直ちにコメントすることは差し控えたい」「私はこの場でコメントする立場にはない」と発言した。昨年のG7伊勢志摩サミットでの議長国を務めた国の首相がコメントする立場になければ、いったい誰にあるのだろうか。それとも、日本の難民認定が先進国中最低で、ゆえに批判できる立場にないと自覚しているからだろうか。
 こちらに難民申請者数と認定者数の推移がある。平成26年の難民申請認定数は5000人中11人、平成27年は7586人中27人だった。確かにこれではコメントしたくないだろうし、コメントできる立場ではないかもしれない。
 難民ではないが、日本で生まれ育ったタイ人少年への退去処分の問題もある。これほど不寛容な社会でいいのだろうか。

 ところで世界中で波紋を呼び批判の声も数多く寄せられているが、この大統領令に関してロイター通信が全米50州で実施した調査で、入国禁止に49%が賛成しており反対の41%を上回る結果となったそうだ。もっとも調査人数がネットを通じて1201人という数は少な過ぎるようにも思うが。 
 個人的には49%が入国禁止賛成という数字は俄に信じられなかったが、例えば昨日掲載されていた「難民審査、6月から迅速化=地方入管局長に権限委任―法務省 」という記事に寄せられたコメントの数々を読むと、 さもありなん、とも思う。
 日本がこのままの社会制度で進めば、年老いた時に生活保護を受けなければならなくなる可能性は多くの人にあるだろう。自然災害多発国であり、その上に原発が林立している国でもう一度大きな事故が起これば難民にならなくてはいけないかもしれない。今、嬉々として生活保護受給者へのバッシング、難民へのバッシングをしている人達は、自分がその立場になったらどうするのだろうか。

ホテル・アメリカンの自由の女神
↑浦添市のキャンプ・キンザーの向かいに、「アメリカン」という名の今は閉鎖したホテルがあり、自由の女神が立っていた。閉鎖したから降ろしたのか、それとも営業していた時からここに立っていたのかわからないが、今のアメリカの様子をテレビで観ながら、この像を思い出した。2014年3月19日、普天間の帰りに撮影。

 東芝の米原子力事業で発生する損失が最大で5000億円を超えると報じられているが、日立製作所も米国の原発事業で700億円の営業外損益が出る見通しになったと、昨日の朝日新聞が報じている。そう言えば米国の原発事故を巡る三菱重工への賠償請求はどうなったのだろうか。原発事業に関わった国内企業が、今、ボロボロになっている。これでもまだ政府は、積極的に原発を海外に輸出する方針を変えないのだろうか。

 1月2日に東京MXテレビの情報番組「ニュース女子」が特集した沖縄の基地反対運動について、そのデタラメな報道内容に言及する記事や関連記事をリンクしておきます。
◯毎日放送 映像’17 沖縄 さまよう木霊(こだま)~基地反対運動の素顔~
沖縄に関する「デマ」の真相 3~ TOKYO MX『ニュース女子』が撒き散らす沖縄、在日ヘイトのフェイク・ニュース
東京新聞「深く反省」 副主幹司会「ニュース女子」問題

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