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バックナンバー
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能

12月31日(土)〜1月1日(日) 氷見市小境  宮籠もり 記事 記事 記事 記事
1月2日(月) 氷見市伊勢玉神社 奉射式 記事 記事
1月7日(土) 厄払い鯉の放流 金屋神明宮10時〜 砺波市営バス
1月9日(月) 南砺市利賀村 初午 記事 加越能バス庄川方面 加賀井波線 加越能バス石動→井波(庄川町)
1月14日 氷見市伊勢玉神社 火祭 記事 記事 記事
1月の第2日曜、15日が日曜なら1月15日 入善町巴町 塞の神まつり
3月 井波 お人形さまめぐり
3月13日 芦峅寺のおんば様のお召し替え
4月 芦崎えびす祭り
5月4日 滑川市赤浜 赤浜の菖蒲打(ショーブツ)
5月5日 氷見市宇波 コウラウラの祭り
5月6日 氷見市小境 エビス祭り
8月6日? 本法寺の曼荼羅絵図風入れ法要
8月6日、7日 魚津 上村木七夕祭
8月中旬 黒河夜高祭
8月下旬の日曜 恵比須祭り

小川寺の獅子舞 宮田・火祭り1月第4日曜日 記事 記事
◯お鍬さま 1月11日 記事記事
◯高岡御車山祭 4月30日 二番町の神迎え
◯7年に1度、10月に開催 朝日町山崎 米吊り奉納
◯次は2017年? 布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)
◯高岡大仏まつり
◯下タ北部地区 正月の繭玉作り

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事
富山の祭り

◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

1月31日(火)

 2017年が明けたと思ったら、もう一ヶ月。今日で1月も終わりだ。 Facebookには、ぼちぼちお雛様の写真が流れて来る。少し気が早くない?と思わないでもない(笑)。
  しばらく前に税務署から確定申告の用紙が送られて来ていたので、領収書の整理をして、後は出版社からの源泉徴収書が届いたら仕上げる感じだ。午前中、先週の土曜日に撮影した某市の広報用の写真データを、宅ふぁいる便でクライアントに送った。

 昨日の沖縄タイムスに、人口26人の大神島の歴史や生活習慣、祭祀を記録した冊子「ウプシ」が発刊されたという記事が載っていた。ウプシは、大神漁港の防波堤横にある大岩のことだそうだ。
 大神島は、全身に泥を塗り鬼の面をつけたパーントゥが集落を祓う奇祭で知られる島尻集落から、定期船で15分ほどの島。この島尻集落と隣りの狩俣集落は、母島である大神島の子供だと聞く。だから、大神島と島尻・狩俣集落の3箇所で古くから受け継がれてきたウヤガン(祖神祭)は、母島である大神島から始まる。そのウヤガンも司(神人)の高齢化や継承者の不在で島尻では1997年、狩俣では2001年に途絶えてしまった。ネットで情報を探すと、2015年の記事で大神島では続けられているように書かれているが、現在はどうなのだろうか。
 この「ウプシ」の撮影は、宮古島・西原集落の年中祭祀を『光るナナムイの神々』という写真集にまとめた比嘉豊光さんが担当している。

 ところで、大神島を記録した素晴らしい写真集がある。勇崎哲史氏の『大神島 記憶の家族』(平凡社)だ。勇崎哲史氏は沖縄が日本に復帰した1972年に、大神島に住む23世帯の家族写真を撮影。その18年後の1990年にもう一度23世帯を訪ね家族写真を撮影する。18年の間に子供が島を離れ家族が少なくなった家もあるし、主を失い戸を閉ざした家もある。そしてさらに2年後の1992年、島を離れた子供たちが戻ってくる正月にもう一度家の前で家族写真を撮影している。屋号で紹介された各世帯の時間の流れを、3枚の写真が教えてくれる。
 ポートレートの原点とも言える家族写真、そして写真の記録性。この写真集が面白くないわけがない。大神島に行く前と、実際に自分が大神島に行った後、図書館から2回借りて読んだ。
  比嘉豊光さんの『光るナナムイの神々』も、勇崎哲史さんの『大神島 記憶の家族』もアマゾンで購入できる。

島尻から大神島へ
 2012年の10月10日、島尻集落のパーントゥを撮影に行った。パーントゥが集落に現われるのは夕方なので、その前に、ガス屋さんがデッキに積んだプロパンガスと一緒に大神島に渡った。島の世帯数は2011年10月で、宮古毎日新聞の記事によれば17戸27人だった。主が居らず戸を閉めた家も目についた。
↓は、その時に撮影した大神島のスナップ。下段右は、島の一番高台にある遠見台から撮影した宮古島。
大神島のスナップ
 昨日、那覇基地所属のF15戦闘機が離陸しようとしたところ前輪のタイヤが脱輪。その影響で那覇空港の滑走路が一時閉鎖された。
那覇空港01
那覇空港04

←↑民間機と自衛隊機が共用している、那覇空港の様子。尖閣方面への自衛隊機のスクランブルも、ここから発進される。2013年7月19日に撮影。

 さすがに自衛隊機の事故による空港閉鎖は体験していないが、那覇に住んでいた2年間に石垣島や宮古島へ行くため那覇空港を利用した際、自衛隊機の離発着により自分が搭乗した飛行機の発着が遅れることは何度かあった。

 以前にも書いたが、翁長知事への批判の一つに「辺野古の埋め立て反対の理由に自然破壊を挙げているのに、那覇空港の第二滑走路の埋め立て工事は行なっている」という意見がある。
 しかし、那覇空港の歴史を辿れば1933年8月に建設された軍用飛行場の小禄飛行場。沖縄側が海を埋め立てて那覇空港を建設したのではない。そして今回の事故でもわかるように、現在も民間の飛行機と自衛隊の航空機が共用で使用している。自衛隊機のスクランブルも、ここから発進されている。
 1日300回以上の離着陸があり、年間の発着回数では東京国際空港、成田国際空港、福岡空港に次いで第4 位(2010年度)。一昨年の6月には、全日空機の離陸直前、自衛隊ヘリが横切るトラブルもあった。最早、滑走路1本では対応できない混雑ぶりなのだろう。なので「辺野古の埋め立て反対の理由に自然破壊を挙げているのに、那覇空港の第二滑走路の埋め立て工事は行なっている」という翁長知事への批判は当たらないと思っている。
 年末年始に読もうと思ってアマゾンで購入した本5冊を読み終えたので、また面白そうな本を探して6冊購入した。
購入した本

←『南の風/大塚勝久写真集』(琉球新報社)、『風の盆 おわら案内記』(言叢社)、『男の年輪/秋山庄太郎・自選集3』(小学館)、『宮沢常一と渋沢敬三 旅する巨人/佐野眞一』(文藝春秋)、『祭りと日本人/宇野正人・監修』(青春出版社)、『忘れられた日本人/宮本常一』(岩波文庫)。
 6冊の中で一番高かったのが157円で、1円の本も2冊ある。
 手始めに『祭りと日本人』を読み始めている。

1月29日(日)

 昨日の1月28日は旧暦の1月1日、元旦だった。沖縄でも今や新暦の正月が主流だが、琉球開闢の祖であるアマミキヨが天から降りて最初に造った島だといわれる久高島では旧暦の正月行事が連綿と受け継がれている。
 元旦の朝、外間殿ではシャクトゥイ(盃事)が行なわれる。神人が並ぶ拝殿に、年齢順に男性から二人一組で上がり、健康祈願の盃をいただく。そしてシャクトゥイが済んだ者は殿の庭に降り、カチャーシーを踊る。
元旦の外間殿
 正月2日目の今日は、ハチウクシー。年頭の仕事始めの儀式が行われる日で、漁師は船に大漁旗を掲げ、塩、お酒、刺身を供えて航海安全と大漁をお願いする。
旧正月の久高島
↑左は、日の丸と大漁旗が掲げられた漁船が係留された、久高島漁港。対岸は沖縄本島の南城市。右は、フェリーが発着する徳仁港での、漁師たちの祝宴。

 祈願が済むとフェリーが発着する徳仁港と漁港の2つの港で、それぞれ漁師たちの祝宴が始まる。その祝宴の様子を撮影していたら「今なら参加費500円」と声を掛けられ、祝宴にまぜてもらった。お酒飲み放題、お刺身と魚汁、シャコガイや伊勢エビも出てきた。
 港での祝宴が終わった午後、今度は三線と太鼓を持った青年たちが漁師の家を一軒一軒まわり、また祝宴が行なわれる。

 ところで、祝いの曲で、お正月などにかかせない、琉球古典音楽「かぎやで風」。ひらがなで”かぎやで”と書いて”かじゃでぃ”と読む。ずっと不思議に思っていたが、琉球新報の記事を見て納得した。歴史的仮名遣いというらしく、「てふてふ」と書いて「ちょうちょう」、「さうしませう」と書いて「そうしましょう」と言うのと同じだそうだ。
 You Tubeから「かぎやで風」。華のある音楽だな〜と思う。
 今日の誇らしゃや なほにぎやなたてる(今日のうれしさは 何にたとえられようか)
 蕾で居る花の 露きやたごと
(まるでつぼんでいた花が 露に出会って花ひらいたようだ)

 1月28日は、どんとの命日だった。
 沖縄に住んでいた2014年の1月27日、宜野湾市にあるカフェ・ユニゾンで、小嶋さちほさんが主催する「みんなでどんとをうたおう!」というイヴェントがあった。いつか機会があったら、小嶋さんに音楽雑誌の仕事で撮影した、どんとのポートレートとライヴ写真を渡そうと思っていたので、那覇から1時間ほど自転車に乗って届けに行った。せっかくなので、ドミニカ共和国から来日したガールズ・グループ、ラス・チカス・デル・カンのライヴに、小嶋さんが飛び入りで出演した時の写真も添えて。
 このイヴェントには唄者・照屋政雄さんも出演されていて、どんとの描いた絵の下に座ってもらって一枚写真を撮らせてもらった。そして是非「チョンチョンキジムナー」を歌って下さいとリクエストしたところ、歌うという返事だったが、ステージが始まると忘れられていた(笑)。
 You Tubeからショートバージョンの「チョンチョンキジムナー」、ロングバージョンの「チョンチョンキジムナー」。この歌を初めて聴いた時は、衝撃的だった(笑)。
ボ・ガンボスのライヴ
↑ウオーマッド’92のステージ。
↓「みんなでどんとをうたおう!」の様子。→照屋政雄さん。
照屋政雄さん
イヴェントの写真
 1991年から1995年頃、近畿日本ツーリストの発行する旅行雑誌「ジョイフル」の撮影を編集プロダクションを通して時々やっていた。編集長は若い女性だと聞いており、そのせいか細かい情報を詰め込んだ旅行誌が多い中、ジョイフルは特集にページを割いて写真の扱いも大きくてビジュアル志向の雑誌だった。
  懐石料理を楽しめる宿の特集や、日本各地の陶芸特集、骨董を探す旅の特集など地方でのロケが多かったが、一度、都内のご自宅で写真家の前田真三さんを撮影したことがあって、この時はなぜか、その女性編集長も同席した。彼女とお会いしたのはこの取材の時が初めてで、その後も一度編プロでお会いしたくらいだろうか。
 今日のお昼、テレビ朝日の「ビートたけしのTVタックル」を観ていたら、その旅行雑誌の編集者だった女性がジャーナリストとして登場した。自分が知らなかっただけで、中国関係の著書が多く、ラジオやテレビにもよく出演しているようだ。

1月26日(木)

昨日の外の景色
 日曜日から昨日まで雪が降り続いたが、今日は久しぶりの青空。朝こそ寒かったが、最高気温は7℃まで上がった。
 印刷を発注していた「利賀上村の初午行事」のフォトブックが昨日届いたので、今日、さっそく初午の世話役をされている方に本を送った。ゆうメールで送った方が安くなるか聞いてみたら、ゆうメールの送料が350円、レターパックライトの送料が360円だったので、配達の追跡ができるレターパックライトで送る事にした。
 上の写真は、雪が降り続いて田んぼが真っ白になった昨日の景色。下の写真は青空の広がった今日の景色と、初午行事のフォトブック。
今日の外の景色とフォトブック
 昨年の7月23日に撮影した、水橋の橋まつりの写真をPhoto Albumにしました。こちら
水橋橋まつり01
↑水神社横の河川敷に設けられた舞台で、浦安の舞を奉納する女の子たち。↓白石川で行なわれる火流し。
水橋橋まつり02
 昨年、沖縄県立図書館に沖縄・奄美の祭祀と芸能を記録した『琉球弧の祭祀と行事【一】〜【七】』を各2冊ずつ購入していただいた売り上げで、鹿児島県立奄美図書館に『琉球弧の祭祀と行事』全7巻を献本した。
検索結果の画面

 その後、何も連絡がなくて少し寂しい思いをしていたのだけれど、今年になってお礼の手紙が届き、現在は2階の奄美郷土コーナーの棚に並べられたようだ。(蔵書検索で「琉球弧の祭祀と行事」または「木原盛夫」で検索して下さい)。

←奄美図書館の検索結果画面。
↓奄美大島に住んでいた時に使っていた、図書館利用カード。

図書館利用カード

 初めは琉球弧の祭祀を追いかけるつもりなどなく、50歳になったのを機会に人生の夏休みのつもりで一年ほど亜熱帯の島でのんびり過ごそうと思っていた。島に着いて、先ずは名瀬港を見下ろすビルに部屋を借りた。そして、ここを拠点に散歩をしたりサイクリングをしたり、時にはバスとフェリーを乗り継いで離島へ出かけたりと島中を探索して歩いた。
  それは自分が思い描いていた以上に楽しい生活だったのだけれど、想像以上に島は雨が降るというのも身をもって知った。亜熱帯特有のモンスーンというだけではなく、それは島の大部分を占める豊かな森の呼吸から生まれる雨でもあった。
 雨が続くとする事がなかった。それで、小学生時代以来の図書館通いが始まった。せっかくならと2階にある郷土コーナーの棚にある本を読み始めた。そして奄美の祭祀、その源流となる琉球の祭祀にのめり込んでいった。
 奄美大島があれほど雨の多い島でなければ、琉球弧の祭祀に興味を持つ機会は得なかったと思う。また、県立奄美図書館の郷土コーナーの蔵書が充実していなければ、やはり琉球弧の祭祀に興味を持つ事はなかったかもしれない。だから、奄美図書館の郷土コーナーに自分の本が並んだのは、とても嬉しい。なんだか提出した夏休みの宿題を受け取ってもらえた気分だ。

1月23日(月)

 昨日は一日中、雪が降り続けた。朝、窓を明けると外は真っ白になっていた。今日は、雪が降ったり止んだり。

 高岡には12月25日から1月25日まで、床の間に天神様の掛け軸を飾る風習がある。長男が生まれると、母親の実家から天神様である、菅原道真を描いた掛け軸が贈られる。菅原道真は学問の神様として知られ、賢い子供に育つようにという願いだろう。そんな風習があると知ったのは沖縄から帰ってきてからで、ある日、母親に「アンタの天神様、飾らんなん」と言われ「オレの?」と聞き返し、天神様を飾る習わしがあるのを知った。 こんな天神信仰のある高岡らしいイベント「天神様祭」が毎年1月に、土蔵造りの家並みで知られる山町筋で行なわれており、今年も21、22日に開催されたので、昨日見学に行って来た。今回で16回目だそうだ。
  夕方18時から友人のライヴが正太郎BARであるので、14時15分の電車に乗って高岡へ。14時23分に高岡駅に着いて、歩いて15分ほどの山町筋へ。吹雪いて視界が悪い中、お店のショーウインドーや個人のお宅の玄関、資料館に特別に展示された様々な天神様を見て歩く。
→自宅の床の間。飾られている天神様の掛け軸は、自分が生まれた時に母方の実家から贈られたもの。

自宅の天神様
吹雪の山町筋
 見学しながらお話しを聞くと、嘗ては天神様と言えば掛け軸を贈ったそうだが、アパートやマンションなど床の間のない家が増えたり、井波彫刻がブームになった事もあって木彫の天神様を贈る事も多くなったとか。また木彫の場合は、天神様の横にお雛様飾りのように随臣がつく場合もある。この随臣は、右大臣と左大臣だという節もあれば警備の役割の武官に過ぎず俗称だとする節もある。
天神様祭

 自宅の玄関を開放して天神様を飾っている年配の女性は、家に伝わる品だけでは寂しいと、このイベントのために古道具屋でわざわざ購入した品も飾っているそうだ。その一つに、金沢の方で飾られる天神堂があった。
  戦前、金沢では12月25日から1月15日まで、母方の実家から男の初孫に贈られる天神堂を飾ったそうだ。拝見すると、木で出来た神社のミニチュアに天神様や随臣、灯籠や狛犬などがセットされている。鳥居に掛けられた札には、天神様を祭神とする天満宮の文字が見える。金沢、高岡にこうした天神信仰が根強くあるのは、加賀藩主の前田家の先祖は菅原道真だからという節があるようだ。

↓→金沢で伝わる天神堂。
天神堂02
天神堂01
*北日本新聞の記事、中日新聞の記事高岡の天神様高岡の”三天神”祭り天神堂前田利家の系譜

1月21日(土)

 日本時間の今日未明、ドナルド・トランプ氏が第45代アメリカ大統領に就任した。就任演説の全文がこちらにある。
 トランプ氏の話題で扱いが小さくなっているが、昨日、高浜原発で工事用の大型クレーンが倒れ、2号機の使用済み燃料プールがある「燃料取扱建屋」や原子炉の冷却機器がある「原子炉補助建屋」の屋根が一部壊れた。当時、福井県内には暴風警報が出ており、高浜原発構内での計測では風速14~15メートルを記録していたという。クレーンが倒れるという事を想定できなかったのだろうか。

 昨年の7月21日に撮影した、南砺市荒木のねつおくり祭りの写真をPhoto Albumにしました。こちらこちら
ねつおくり祭り01
↑子供達が大きな太鼓を順番に打ち鳴らしながら村をまわり、要所要所で立ち止まる。そして田んぼに向かって一列に並び、「豊年満作」や「五穀豊穣」などど書いた短冊を付けた笹竹を振りながら「熱送るば〜い」と一斉に声を上げる。
↓村廻りが終わったら小矢部川へ。 橋の中央で福光地区と荒木地区が合流して、太鼓の競演。この後、子供達が熱送りに使った笹竹と、熱を受け止めたジジ・ババの神様を川に流す。
ねつおくり祭り02
新しいトップ画面
トップページの模様替えをしました。
今回は、先日世界自然遺産登録への正式な推薦が決定した奄美大島の風景、大和村の紅葉です。
  本土の紅葉は秋ですが、奄美の紅葉は、まさに今。そして紅葉のシーズンが終われば、南西諸島は緋寒桜が本格的に開花する季節となる。
↓これまでのトップページ。
これまでのトップ画面

1月18日(水)

 夜は小雨が降り出したが、久しぶりに雪が止み、日中は晴れ間も見えた。最高気温は8℃で、最近にしては少し暖かかった気がする。
 大晦日から元旦にかけて撮影させてもらった、小境地区の宮ごもり。撮影のお礼に、子供たちにプレゼントしようと思って作成していたフォトブックが、ようやく出来上がってきた。
フォトブック
 さっそく郵便局から親方を務めた子供の父兄と、宮司さん宛に郵送した。
 フォトブックは、しまうまプリントを使っているが、以前は午前11時までに発注すればその日の夜に、それ以降は次の日の夜には製本が出来上がっていた。それが、昨年の暮れから混雑しているのか日数がかかるようになり、サイトを見ると今日発注しても製本ができるのは24日だそうだ。
 年末年始が原因なのか、それともキャパシティーのオーバーだろうか?
 昨日の琉球新報に「対馬丸慰霊碑 3月完成 奄美・宇検 19日に除幕式」という記事があった。1944年8月、学童疎開の子供たちを乗せた対馬丸がアメリカの潜水艦から魚雷攻撃を受けて沈没し、犠牲となった沢山の子供が流れ着いたのが奄美大島の宇検村にある船越海岸だ。そこに慰霊碑が建てられる。
 焼内湾に沿って集落が点在する宇検村。その焼内湾の端にありながら、焼内湾ではなく東シナ海に面している船越海岸。2010年の9月に一度、訪れたことがある。バスの終点である宇検で降りて、1キロほど歩いただろうか。観光客はほとんど居らず、静かな海岸だった。
船越海岸
↑今年3月に対馬丸の慰霊碑が建つ、船越海岸。2010年9月7日撮影。
 最近の気になった記事を備忘録として。
「新千歳空港で暴れた中国人乗客」騒動の真相
「沖縄の基地反対派は日当もらっている」MX報道 その根拠となる取材と証拠とは
沖縄二紙がキレた『ニュース女子』ー東京MXテレビは居直り、「議論」=デマの寄せ集め
 ザ・ロネッツのリード・ボーカル、ロニー・スペクターの18年ぶりとなる来日公演が、5月22日、23日に東京・渋谷のduo MUSIC EXCHANGEで行なわれるようだ。18年前の来日ではライヴの撮影はしていないが、インタヴュー写真を撮らせてもらった。ザ・ロネッツとして活動していた期間は1959年〜1966年で、現在73歳。この写真を撮らせてもらった時で、55歳か。今の自分くらいだ。
 You Tubeから2015年のロニー・スペクターの『 Be My Baby』、ザ・ロネッツとして全盛期だった頃の『 Be My Baby』。やはり、紛うことなきスターです。
ロニー・スペクター
↑ロニー・スペクター。1999年3月1日撮影。

1月16日(月)

 強い寒波の影響で、3日間ほど雪が降り続いている。高岡の平野部で、積雪は33センチ。昨日、一昨日も吹雪いていたが頑張って通常運転していた列車だが、富山の猪谷と岐阜を結ぶ高山本線で運休が出たり、富山地方鉄道で運転見合わせがあったり、特急サンダーバードが運休するなど鉄道のダイヤに乱れが生じている。 

 昨日は小正月。Facebookには各地の左義長の写真が流れて来たし、新聞でも左義長の記事をたくさん見た。そう言う自分も14日は氷見・伊勢玉神社の火祭に、15日は入善町上野(うわの)の邑町(むらまち)地区の塞の神まつりを撮影に行って来た。

1月14日(土)

 今月2日に伊勢玉神社の奉射式を撮影に行った時に、境内に火祭の案内が貼り出されていた。火祭は左義長(どんと焼き)と同じく竹でやぐらを組んで、そこにお正月に飾った門松やしめ縄、書き初めなどを持ち寄って焼き、その燃え上がる火で焼いたお餅を食べて無病息災や家内安全を願う行事。民俗学的には門松やしめ飾りで出迎えた歳神を、それらを焼く事で炎と共に見送る意味があるという。
 伊勢玉神社の火祭は18時からとなっていたが、氷見行きの電車は高岡16時17分に出て、氷見に16時44分に到着する便しかなかった。
氷見線からの景色01
氷見線からの景色02
↑高岡から氷見に向かう氷見線の車内から。30分ほどの距離だが、旅情たっぷりだ。
 神事は18時からだが暗くなる前に境内の様子を撮影しようと、氷見駅から直ぐに神社に向かった。既に境内には左義長のやぐらが組まれ、正月飾りなどを持ち込む人が次々に訪れていた。
↓伊勢玉神社。→境内に組まれた左義長のやぐら。
境内のやぐら
伊勢玉神社
火祭01
↑拝殿では、参拝に訪れた人にお餅が配られていた。
↓神前での火起こし。→行灯に忌火を移し境内に運ぶ宮司。
火祭03
火祭02
 18時から社殿で火祭の神事が始まった。お祓い、祝詞奏上、玉串奉納の後に宮司が神前で火打石で忌火を起こす。忌火は行灯に移され、境内のやぐらに運ばれる。
↓→吹雪く中、やぐらの前でお祓いが行なわれ、宮司による祝詞が奏上された。
火祭05
火祭04
火祭06
↑行灯の忌火が氏子の持つ棒に移され、その火が左義長のやぐらに着けられた。
火祭07
火祭08
↑燃え盛る炎の中に、餅を吊るした棒をかざして焼く参拝者。この火で焼いた延命餅を食べると、一年間無病息災で過ごせるという言い伝えがあるそうだ。
 伊勢玉神社の火祭の撮影を終えて、氷見駅へ。待合所で本を読みながら、電車を待つ。氷見19時40分発の電車で、高岡へ。高岡に到着すると、少し遅れていた20時12分発の普通電車の金沢行きがやって来た。
 明日は始発の電車に乗るので、早めに就寝。
*北日本新聞の記事

1月15日(日)

 入善町上野の邑町地区に伝わる行事、塞の神(さいのかみ)まつりを撮影に行く。この行事も左義長のようだが、やぐらを燃やす前に塞の神と呼ばれる木の人形を持った子どもたちが地区の家をまわり、塞の神の歌を唄って祝儀として米や大豆、そして左義長で燃やす正月飾りなどを集めてまわる。これも一種の門付けだろうか。
 塞の神については、昔、村境にあった川に木偶(デク)人形が流れ着き、祟りを畏れた村人が人形を焼いて無病息災を願い塞の神を祀ったと言われる他、コレラが江戸時代に流行った際、川から流れ着いた木偶人形を燃やしたところコレラの流行が収まったことから続けられてきたなど、そのいわれは諸説あるようだ。
 事前に問い合わせたところ、朝8時に邑町公民館に子どもたちが集合して家をまわり、11時にやぐらに火を着けるとの事だった。家と入善はほぼ富山の端から端で、電車を調べると入善駅に7時3分に着く始発しかなかった。
 入善駅に着いて、プリントアウトした地図を見ながら邑町公民館へ。駅から徒歩15分ほどだったろうか。公民館の玄関は閉まっていて人の気配はなかったが、7時半過ぎになって保存会の方が来て中に入れて下さった。

塞の神まつり01
 さっそく子どもたちが持って歩くデクサマと呼ばれる木の人形を見せていただいた。
 これは左義長で焼くので、毎年保存会が大工さんに依頼して作り替える。顔と文字は墨で大工さんが書く。Wikipediaの塞の神まつりでは男神が9寸、女神が8寸5分となっている。
 8時近くになって、子どもたちもゾロゾロと集合して来た。
塞の神まつり02
 先ずは、全員で「塞の神まつりの歌」を練習する。家まわりでは玄関に入って親方と呼ばれる年長者が男神女神のデクサマを拍子木のように叩いて”カチッ、カチッ”と鳴らしたら、全員でこの歌を唄う。
さいのかみじゃ おおかみじゃ
じいにも かあにも ぼくぼくじゃ
らいねんもきゃ じゅうさんじゃ
にょうぼう うんだら しょうぶした
おとこうんだら そ そ そだて

 現在の歌詞はこうなっているが、後に保存会会長さんに聞いたところ、歌詞は時代によって多少変遷したそうだ。
↓大人はやぐらを組みに、子どもたちは家をまわる。
塞の神まつり04
塞の神まつり03
 歌の練習が終わり、8時半になって子どもたちは家まわりに。大人は公民館から200mほど離れた塞の神の石碑が建っている場所へ、左義長のやぐらを組むため竹竿や薪を運び始める。
 子どもたちの家まわりは、公民館の向かいの家からスタート。この家だけは子供全員で玄関に入り、親方がデクサマを2回叩いた後に塞の神の歌を唄い、家の人からご祝儀と左義長で燃やす正月飾りを受け取った。ご祝儀と一緒にお米や大豆をもらい、それを布の袋に入れ、お返しにポン菓子を渡す。預かった正月飾りは、子どもたちの後ろを着いて走る軽トラの荷台に乗せられ、少し溜まると製作中のやぐらへ運ばれる。
 ここで子供は西まわり、東まわりに分かれる。先ずは、デクサマを持った親方の居る西まわりに着いて歩いた。こちらは高学年の子が多く、5人でまわる。
塞の神まつり05
 しばらく西まわりの子どもたちに着いて歩いた後、左義長のやぐらが気になって見に行く。9時半過ぎに左義長のやぐらを建てている場所に着くと、基礎となる大竹が組み上がっていた。
↓やぐらの組み立て。→塞の神の石碑。
塞の神まつり07
塞の神まつり06
塞の神まつり08
 やぐらの下の方には藁が敷かれ、小さな藁小屋が作られる。この小屋に、家まわりから帰ってきたデクサマを入れて燃やすそうだ。
 やぐらの近くには塞の神と彫られた石碑がある。区画整理でわからなくなっているが、嘗てはここに川が流れており、石碑の場所にデクサマが流れ着いたと伝わっているそうだ。
 石碑の前には御神酒と、後でデクサマを包む藁が供えられていた。
 やぐらの製作を見ていたら、側の道路を東まわりの子どもたちが歩いていたので、今度はこちらに着いて撮影する。東まわりの子どもたちは低学年の子が多く、8人で家をまわる。デクサマの代わりに普通の拍子木を持った子が”カチッ、カチッ”と音を鳴らして、その後に塞の神の歌を唄う。玄関に入りきれない子は、外に立ったまま唄っていた。
 この塞の神まつりは、石碑の近くを通る旧国道8号線沿いの30数軒の家で始まった行事だそうだが、現在は100軒を越す世帯で行なわれている。昔は小学生の男の子だけで家をまわり、自分たちでリヤカーを引いて正月飾りを運んだそうだ。やぐらの組み立ても子どもたちだけで行なっていたといい、その分、今より小さなモノだったそうだ。今は小学生の男の子と、高学年の女の子で家をまわり、低学年の女の子は公民館で昼食用のカレー作りの手伝いをする。
塞の神まつり09
 30分ほど子どもたちに着いて歩いた後、またやぐらに戻ると完成に近かった。
↓集めた正月飾りから燃えない物を外す。→ほぼ完成したやぐら。
塞の神まつり11
塞の神まつり10
 やがて11時になり、家々をまわっていた子どもたちが集まって来た。保存会の会長さんが男神、女神と書かれた2体のデクサマを藁で包み、その中にお米や大豆も入れる。昔は貰って来たお米や大豆は親方となった子どもの家で左義長をしている間に煎ってお菓子にして左義長の後に配ったそうだが、今はお米を貰った時に事前に用意しておいたポン菓子を配ってしまうので、昔の風習を少しでも残そうと藁にお米や大豆を入れるようにしたそうだ。
塞の神まつり12
 藁で包まれたデクサマをやぐらの下に作った小屋に納めて、火のついた棒を持った子どもたちが囲む。そして一斉にやぐらに点火。ずーっと吹雪いていたのが急に止み、すこし晴れ間が顔を出した。
塞の神まつり13
塞の神まつり14
 やぐらに火が着くと、子どもたちは一列に並んで塞の神の歌を唄う。途中で焼けた竹が”パン”と弾ける音がすると、もう一度歌の頭から唄い始める。一体子どもたちは、今日一日で何十回この歌を唄ったのだろうか。
 ↓→燃え残ったやぐらの骨組みは倒され、短く切って燃やされる。
塞の神まつり16
塞の神まつり15
 塞の神まつり17
 ある程度やぐらが燃えたところで、子どもたちは公民館に帰ってカレーの昼食。この後、家々で貰った祝儀が子どもたちに配られる。昔は親方になった子どもが、働き具合に応じて金額の采配をしていたそうだが、今は学年毎の差はあるが均等に分配される。この辺は、大晦日から元旦にかけて撮影した小境の宮ごもりとよく似ている。
 大人たちは火で烏賊など炙りながら、ビールを呑んで左義長が完全に焼けるのを待っている。
 公民館から入善駅へ。お腹が空いたので、途中にあったコンビニで暖かい肉まんを一つ買って食べる。駅に到着すると、もう直ぐ12時31分発の金沢方面行きの電車が来る。朝から歩いて足も腰も痛くなってきたので早く帰りたいが、天気も回復してきたので海も見ずに帰るのは勿体ない気がしてきた。12時31分の次は、13時3分、13時52分がある。入善駅から海岸までは歩いて15分ほどかかるようなので、13時52分に乗るつもりで海岸へ向かう。5分ほど歩いただろうか、また急に吹雪いてきて前が見えなくなってきた。しょうがないので駅に引き返すと、また吹雪がおさまり青空が顔を出す。けれど、さすがに歩く元気がなくなり13時3分の電車で帰宅した。
塞の神まつりの帰り
*塞の神については、<村や部落の境にあって,他から侵入するものを防ぐ神>という解説があるが、新潟では小正月の伝統行事として塞の神という名称が一般的なようだ。
*北日本新聞の記事、富山新聞の記事

 沖縄に移住した映像作家、ダニエル・ロペス氏の映画『カタブイー沖縄に生きるー』が完成したようだ。那覇の桜坂劇場で2月4日(土)〜3月3日(金)まで上映が決定。
  沖縄に滞在していた2012年夏〜14年夏、那覇・栄町の市場屋台祭りや祭祀の行なわれている久高島などで、カメラをまわしている彼の姿をよく見かけた。

1月11日(水)

 この冬最強の寒波が日本海側にやって来て、今日からしばらくは寒くて不安定な空模様らしい。それでも予報を聞いて覚悟していたほどには、寒くなかった気がする。朝こそ雪が降って少し積もっていたが、午後からは晴れ時々雨、時々みぞれという感じだった。高岡の最低気温は1℃、最高気温は5℃となっていたが日が差していた時間はもう少し気温も上がっていたかもしれない。

 一昨日は、南砺市の利賀村で行なわれる伝統行事・初午を撮影に行って来た。利賀村までは車を持っていないと行けないかと思っていたが、井波から利賀村までは本数こそ少ないが市営バスが走っていた。午前中の便は旧井波駅のバス停を9時15分に出発して、利賀村の行政センターに9時57分に到着する。旧井波駅までのバスは砺波駅から加越能バスが出ているが、他にないかと探すと石動駅からもバスが出ていた。家からは砺波駅に行くよりは、あいの風とやま鉄道で一本の石動駅が便利だ。
 加越能バスの時刻表をホームページで見ると、石動駅7時50分発で井波に8時33分に到着するバスがある。加越能バスの井波バス停と、市営バスの旧井波駅バス停は直ぐ近くだということだ。
 家から電車で石動駅へ。7時24分に着いて、コンビニで菓子パンと暖かいミルクティーを買ってバス停へ。時刻表を確認して7時50分のバスは平日運行のものだと気がついた。そうだ、今日は祝日だ!休日の井波行きは8時30分発になっている。万事休す、今年の初午撮影は無理かと思ったが、冷静になって時刻表を見つめる。
 石動駅7時50分で井波到着が8時33分なら、乗車時間は43分。休日運行の8時30分に乗車しても9時13分に到着する。利賀村行きのバスは9時15分発なのでギリギリ間に合う?
 やって来た井波行きのバスに乗車して運転手さんに、9時15分発の利賀村行きの市営バスに乗り継ぎたいが間に合うか聞いてみたところ「大丈夫ですよ」との回答。安堵した気持ちと、ホントに!?という気持ちが交差しながらバスに揺られて井波まで。運転手さんが言った通り、バスは5分前の9時10分に到着した。バス料金は830円だった。
  加越能バスの井波バス停を下りると目の前に旧井波駅舎があり、その横から市営バスが出ていた。直ぐにやって来た小さなマイクロバスを使用した市営バスに乗車して利賀村へ向かう。市街地を抜けると急峻な山をグルグルとまわり上っていく。貸し切り状態で、絶景を眺めながら50分ほど乗車して片道200円はお得だ。利賀行政センター前で降りるつもりが、運転手さんが初午の門付けを行なっていると思われる場所の近くまで乗せて行ってくれた。
 バスを降りると、坂道の下の方から初午の子どもたちが歩いて来た。今日は8時に集合して8時30分から開始しており、利賀についた10時頃はテレビや新聞といったマスコミ関係の人たちが撮影を終えて帰り始める頃だった。
 初午神事を行なう子どもたちの列に着いて行き、子どもたちが門付け(家々の戸口などで祝福芸を行ない金品をもらう)する家の方に撮影のお願いをして中に上がらせてもらう。

利賀村
↑利賀村に来たのは初めてかもしれない。朝は道路にも数センチ雪が積もったそうだが、10時頃にはすっかり消えていた。
 毎年この時期になると新聞やテレビで利賀の初午行事が紹介されるので、なんとなく正月行事のように思われているが2月最初の午の日に行なう行事で、昔は旧暦の2月だったろうから本来は春先の行事だったのだろう。
 神主に扮した子ども、藁でできた午の頭と尻尾を持つ子ども、俵を持ってころがす俵(ひょう)ころがしの子ども、そしてお囃子。今年は総勢9人の子どもが五穀豊穣、家内安全を祈願し門付けしてまわった。
 現在は林業と観光が主産業のようだが、元々は養蚕が盛んな村だったそうで嘗ては養蚕の振興祈願でもあったようだ。
 利賀村に隣接する岐阜の白川村でも、元旦に七福神と舞子に扮した子どもたちによる春駒が踊られる。これも元々は2月の初午に行なわれた行事であり、養蚕の祝福行事だったという。
 何年か前までは最初の日に集落の家々を門付けしてまわり、2日目に村内の官公庁をまわったようだが今は官公庁での門付けは行なわれなくなったそうだ。
↓神主様を先頭に、一列に並んで家々をまわる。
初午02
初午01
 神主の衣装を纏った子どもが、その家の大黒柱に絵の描かれた木の札を立て掛けて、短い祝詞を奏上する(写真上右)。
初午03

上段左 藁でできた馬の首を持った子どもと、尻尾を持った子どもが胴幕に入り、「乗り込んだ乗り込んだ、お馬が乗り込んだ・・・」というお囃子に合わせて首と尻尾を振りながら踊る。頭は馬だが、全体の様子は2人立ちの獅子舞を思わせる。
上段右 俵(ひょう)ころがしと呼ばれる子どもが、一斗量詰めた俵に縄を付けたものを持って、短い寸劇を行なう。白川村の春駒では大黒様の「俵ころがし」という演目があるようなので、この子どもも大黒様なのだろうか。
中段左 俵ころがしは、寸劇の最後に上着の内側から守り札を取り出して家の中に撒く
中段右 部屋の中に撒かれた守り札。「福之神」「火の用心」と書かれている。
下段左 門付けした家から、神主様が祝儀を受け取る。
下段右 守り札は、家によって左義長で燃やしたり部屋に貼ったりとそれぞれだ。

初午04
↑子どもたちに、ぜんざいを振る舞う家もあった。私も一緒にご馳走になった。この日は午前中に16軒、午後に8軒(予定では9軒だったが、駐在所が取り止めになった)をまわった。
初午05
↑昔は何処の家へも子どもたちは土足で上がれたそうだが、この日、長靴を履いたままで子どもたちが家に入ったのは一軒だけだった。
 一番最後の家を門付けし終えたのは、14時半近くだった。子どもたちは公民館に帰り、衣装を脱いで貰って来たお菓子の分配を始めた。人数分の座布団を並べて、お菓子を一つずつ置いていく。1〜9までの番号を書いた紙を2枚ずつ用意し、1枚はお菓子を置いた座布団に、もう一枚はくじ引きに。子どもらが自分たちで考えた分配方法だそう。
↓→公民館にて。着替えて、お菓子の分配。
初午07
初午06
 井波行きの市営バスは利賀行政センター前のバス停を15時2分に出発する。しばらく公民館で子どもたちの様子を撮影した後、早めにバス停へ。時刻表を見ると、市営バスは井波行きの他に八尾行きもあった。八尾行きも15時2分で、来る時に乗ったバスの運転手さんが運転していた。
旧井波駅舎

 井波行きのバスに乗車。帰りも貸し切りだった。若い運転手さんの話しだと、紅葉の季節もキレイだそうだ。
 旧井波駅のバス停で下車して、向かいにある加越能バスのバス停へ。時刻表を見ると石動行きがしばらくなくて、砺波駅経由の高岡行きが16時30分にあった。乗車して運転手さんに確認すると高岡まで1時間ほどで、料金も770円。距離は遠いが乗車人数が多いために、石動へ行くよりも料金が安いそうだ。

 高岡駅の南口でバスを降りて改札へ。直ぐに金沢方面の電車が来た。上の写真は、旧井波駅舎。昭和47年まで石動、井波、庄川を結ぶ加越能線と呼ばれる鉄道があったそうだ。今でもあると便利だと個人的には思うが、やはり利用客が少なかったのだろうか。

 ところで、利賀の初午のように馬を象ったものを使って門付けしたり、神に奉納する芸能は他にも色々とある。
 利賀村や岐阜・白川村と同じように養蚕の盛んだった群馬県利根郡川場村にも春駒踊りがあり、白川村の春駒が七福神と舞子の踊りなのに対して、こちらの春駒は男が女形に扮して小さな馬頭のついた棒を手に持って唄に合わせて踊る。
 新潟・佐渡にも春駒踊りがあり、男春駒は馬の首の模型を腹部につけて踊る。女春駒は群馬の春駒と同じように、小さな馬頭のついた棒を手にして踊るようだ。
 また沖縄の那覇市・辻(琉球王国時代に、王府が作った花街)には、旧暦の二十日正月に拝所で奉納されるジュリ馬という芸能が残っている。これも腹部に馬の首を象った木の板をつけ、鈴のついた手綱を持って「ゆいゆいゆい」と楽しそうに踊る。
 八重山諸島の竹富島の種子取祭で奉納される演目の一つに馬乗り者(んーまぬーしゃ)がある。こちらも馬の首の形の板を腹部につけて踊る。辻のジュリ馬と竹富島の馬乗り者もエイサーを琉球の村々に広めた、京からやってきた芸能集団チョンダラー(京太郎)が伝えた芸能だとも言われている。

 しかし、なぜ予祝芸に馬が使われるのか不思議に思っていたら『岡本太郎の東北』という本に、馬と信仰についての記述があり、わかり易く書かれていた。
 
 馬はシャーマニズムとも深い関係がある。これは全アジア的な現象であるが、わが国でも明らかにこの動物は宗教的神秘に結びついていた。
 御神体が馬だったり、或は神が馬に乗ってくるという伝説は極めて多い。雨乞いにも馬が使われた。馬の首を切って神に捧げた、いけにえの神事が、首なし馬の伝説になって残っている所もすくなくない。すべてシャーマニズムの痕跡である。
 後世は生きた馬を奉納して神馬とした。やがて木像、石像になり、ついに板きれ一枚の絵馬となった。更にその絵づらからも姿は消え失せて、絵馬の名だけ残る。それでも霊界、神の国と交通するかつての役割は、かすかに保っているわけだ。
 シャーマニズムでは、馬は人間を死の国に運び、またつれもどしてくる。シベリアのバイカル湖付近に住むブーリアット族では、これは八本足の馬である。凄みのあるイメージだ。
(岩手 57Pより)

 岡本太郎氏はパリ大学で哲学・社会学・民俗学を専攻していた。氏の『沖縄文化論ー忘れられた日本』は、比嘉康雄さんの『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』と共に沖縄の民俗と芸能を理解するのにとても役にたった。 

馬の芸能と信仰
上段左 利賀村の初午。獅子舞のような胴幕に、藁で作った馬の首と尻尾を持った子どもが入って踊る。2017年1月9日撮影。
上段右 馬の首を象ったものを腹部につけて踊る、男春駒。辻の二十日正月に、春駒じゅり馬民俗芸能研究会(現・馬の芸能民俗研究会)の浅香怜子さんと、つばき櫻さんが演じた。2013年3月1日撮影。
中段左 辻のジュリ馬。ジュリは、花街で働く女性のこと。親と離れて暮らすジュリが、年に一度、辻の二十日正月の日にジュリ馬を踊って街を練り歩き、普段は会えない家族とお互いの姿を確認し合ったといわれる。2013年3月1日撮影。
中段右 竹富島の種子取祭で奉納される芸能「馬乗り者」。同じような芸能に沖縄市の泡瀬に伝わる「泡瀬の京太郎」という演目があり、これもチョンダラーが伝えたと言われている。2012年11月26日撮影。
下段左 やんさんま(流鏑馬)で知られる、射水市・加茂神社の加茂祭では、3頭の神馬が拝殿前から鳥居までを駈ける神馬式が行なわれる。2015年5月4日撮影。
下段右 そう言えば、与湾大親(ゆわんうふや。琉球王国が尚清王の時代、奄美大島を治めた豪族の1人)の碑が建っている奄美大島の霊峰・湯湾岳の山頂に、神理教と書かれた祠があり、白い動物の像があったのを思い出した。これも神馬として奉納されたものかもしれない。
 北日本新聞の記事、 富山新聞の記事こちらに初午で歌われる歌詞が書いてあった。

1月7日(土)

 庄川町の金屋で開催されている「厄払い鯉の放流」を撮影に行く。お正月の行事かと思っていたら、元々は1816年(江戸時代後期)に行なわれた金屋神明宮の遷宮祭で供えられた「神の化身、庄川の主」とされていた鯉が、長時間に渡る神事が終了しても生きていた事から、この鯉の生命力にあやかろうと、鯉に御神酒を飲ませて災厄を託し、庄川に放流したのが始まりだという。毎年1月7日に開催されるようになったのは明治の初め頃からだそうだ。
 事前に問い合わせたところ、厄払いの神事は金屋神明宮で午前10時から、庄川での鯉の放流は11時頃から。鯉の放流を行なう水記念公園までは砺波駅からバスが出ていた。
 水記念公園まで、土曜日だけ市営バスが走っている。砺波駅の南口を9時5分に出て、9時40分に到着する。家から城端線の砺波駅まで電車で行くと、一度高岡駅で乗り換えになるのでお天気も良いので自転車で城端線の戸出駅まで走る事にする。戸出駅8時15分発の城端線で、8時24分に砺波駅に着く。

 お日様が昇ったばかりの朝7時過ぎに、自転車で家を出る。晴れている分、放射冷却で空気も冷えている。まだ下の方がオレンジ色に染まった空を見ながら戸出駅に向かう。途中のコンビニで、菓子パン一つと暖かいミルクティーを購入。
 戸出駅に自転車を停めて、砺波までの切符を購入。電車には高校生がいっぱい乗っている。もう、授業が始まっているのだろうか。それとも部活動だろうか。
  砺波駅で本を読みながらバスを待つ。やって来たバスは、マイクロバスで乗客は自分1人だけだった。水記念公園までの間に、他に乗って来た乗客は2人だけだった。砺波駅から水記念公園までは、片道500円。距離の割りには高い気もするが、それでも採算は合わないのだろう。

金屋神明宮
 水記念公園でバスを下りて、鯉の放流が行なわれる鯉恋の宮へ。一応地図は見て来たが、中で準備をしている男性に、神明宮までの行き方を確認。歩いて行くには遠いと言われるが、10分ほどで到着した。
 境内に入ると神饌であり放流される鯉が桶に入れて置いてあった。
 拝殿の中では既に神事が行なわれていたが、こちらは61歳の御祝いだった。

←厄払いが行なわれる金屋神明宮。
↓→御神酒を飲ませ、災厄を託して放流される鯉。
神饌の鯉02
神饌の鯉01
 10時を少し過ぎて、厄年の男女(男性は数え年25、42歳。女性は数え年33歳)の神事が始まった。神明宮の鳥居の下から、神饌である鯉の入った桶を持った男性を先頭に拝殿へ入る。そしてお祓いを受ける。
厄払いの神事
 神明宮での神事の後、お祓いを受けた人たちは各々車で鯉を放流する場所まで行くそうなので、神事の途中で失礼して歩いて放流場所に向かう。が、歩いて神明宮まで来たはずなのに、出て直ぐに道がいくつかに分かれておりどの道かわからなくなってしまった。少し先に自動車が通ったので教えてもらう。教えられた道をしばらく歩いていると、教えてくれた方が車で追いかけて来て乗せて行ってくれるという。親切な方もいらしゃるものだ。
↓→神職を先頭に、うきじまはしから歩いて来るところからスタートする。
放流の儀式02
放流の儀式01
放流の儀式03
 鯉の放流は庄川沿いに建つ鯉恋の宮という観光施設の横を少し下りた所で行なわれる。厄年の男女が到着して、11時から鯉の放流の儀式が始まった。鳥居を模した欄干のある「うきじまはし」から、神職を先頭に厄年の男女が行列を組んで歩いて来る。ちょっと演出し過ぎかな?と思わなくもない。昔は、神明宮から歩いて来たのだろうか?

←放流場所に到着し、先ずは神職が場を清める。
 厄年の男性が桶に入れられた鯉を持ち上げ、厄年の女性が鯉の口に御神酒を注ぐ。
放流の儀式04
↑↓→鯉の放流の儀式。 
放流の儀式06
放流の儀式05
 メインである地区の厄年の男女による厄払い鯉の放流は、15分ほどで終了した。
↓鯉恋の宮。→中に設けられた祭壇。
祭壇
鯉恋の宮
厄払いの神事

 次に少し休憩を挟んで一般応募者と近くの保育園児、それから砺波市の市民交流都市・愛知県安城市の安城七夕親善大使などが参加して鯉の放流が行なわれた。こちらは、鯉恋の宮の中に設けられた祭壇で神職がお祓いを行なった。

↓鯉恋の宮での神事の後、放流する鯉を入れた桶を持って七夕親善大使が川べりに下りて来る。川にはマスコミ撮影用の浮き桟橋が用意されている。

鯉の放流第二部01
 鯉の放流第二部02
鯉の放流第二部03

↑七夕親善大使の女性から盃に1人ずつ御神酒を注いでもらい、それを桶に入っている鯉にかけながら祈願する。そして最後に代表者が鯉を持ち上げて、庄川に放流した。

 厄払い鯉の放流の儀式が全て終了したのが12時頃だった。砺波駅行きのバスは、12時15分。バス停で待っていると、朝と同じ市営バスが走って来た。乗車すると忘れ物じゃないですか?と手袋を差し出された。

 来る時は35分、帰りは25分だったがバス料金は変わらず500円だった。砺波駅から城端線で、戸出駅へ。戸出駅から自転車で家へと帰る。快晴で、立山連峰がよく見えた
 北日本新聞の記事、富山新聞の記事

1月5日(木)

明けましておめでとうございます

元旦の朝の海
 富山の平野部は雪も降らず、わりあい暖かいお正月になった。昨年の元旦は射水市加茂神社の鰤分け神事を撮影に行ったが、今年は大晦日から子どもたちがが神社に籠って初詣客をもてなす氷見市小境の宮ごもりを撮影して来た。
 写真は元旦の朝、小境の海岸から。生憎の曇り空で初日の出は拝めなかったが、雲の隙間から射す光が美しかった。晴れていれば海の向こうに立山連峰が現われ、山から日が昇るのだろうか。
2016年12月31日(土)〜2017年1月1日(日)

 小境で江戸時代から続くと言われる正月行事「宮ごもり」は集落の真ん中を流れる小川を挟んで2つあるお宮、朝日神社と夕日神社に分かれて地区に住む小学生から中学1年(早生まれは2年まで)の男の子が大晦日の夜から籠もり、神の依り代となって初詣客を迎える。お正月が近づくと子どもたちは少年団を結成し、親方と呼ばれる年長者の指示の元に神社の清掃をしたり、お供え物を買うためのお金を家々を回って集めたりする。
 事前に調べたところ、子どもたちは夕方に神社に入るということだった。高岡から小境までは路線バスが出ており、14時31分に高岡駅前を発車する脇行きに乗車して、小境には15時20分頃に到着した。日が暮れると拝殿の外観も撮れなくなるので、さっそく朝日神社と、500mほど離れた夕日神社の様子を撮影して歩く。
朝日神社
↑朝日神社の入り口と拝殿。↓夕日神社の入り口と拝殿。
夕日神社
 朝日神社と夕日神社は地区の端と端にあり、夕日神社の入り口横には大境のバス停がある。せっかくなので大境の港へ行ってみると、大漁旗を飾った漁船が何隻か係留されていた。
↓→大境港。大漁旗を掲げた船が何隻か係留されていた。
大境港02
大境港01
 大境港の横には番屋のような建物が並び、突き当たりに白山社が建っていた。その白山社の裏手に、国指定史跡であり日本で初めて調査された洞窟住居跡があった。
白山社と洞窟住居跡
 朝日神社、夕日神社、そして大境の港を撮影してもまだ16時過ぎだった。子どもたちがお宮に籠る時間は、まだまだ先。小雨も降っているのでグーグルのストリートビューで見つけておいた、小境のバス待合所で雨宿りをする。
小境のバス停
 大晦日から元旦の朝にかけて撮影するにあたり、小境には民宿があるので、2軒ほど素泊まりできないか電話で問い合わせたが1軒は満室、もう1軒は30日で年内の営業は終わりだと言われた。
 他にも民宿は何軒かあるようだったが、大晦日に1人で素泊まりは歓迎されないだろうと諦めた。どうしたものかと考えながらストリートビューを眺めていてバス停を発見し、屋根とベンチがあれば寝袋を持って行けば何とか朝まで過ごせるだろうと考えていた。
 バス停のベンチに座って、持って来た助六寿司やお菓子をつまみながら時間を潰す。子どもたちがお宮に籠るのは夕方6時頃と聞いていたので朝日神社に行ってみるが、まだ境内は暗く人の気配もない。夕日神社も同じだ。夕日神社の横にも大境のバス待合所があるので、こちらのベンチに座って休んでみたりする。そしてまた、朝日神社の入り口が見える小境の待合所へ。
 19時を過ぎても神社に人の気配がないと心配になってくる。ひょっとすると子どもたちは既に籠っていて、明りをつけずにそのまま参拝客が来るまで過ごすのだろうか?気分転換に集落の中を少し散歩すると、暗がりの中を小さい子どもを連れた男性が歩いていた。宮ごもりの時間を尋ねてみると、「8時集合です」と教えてくれた。男性は、宮ごもりする子どもの父兄の1人だったようだ。
朝日神社の鍵あけ

 20時頃、朝日神社の入り口前に車が停まった。父兄の方だった。宮司さんには電話で撮影の許可を取っている事を話して、撮影のお願いをする。階段を上り拝殿の前に行くと、暗がりの中、宮ごもりする子どもたちが集まっていた。
 父兄が拝殿に入るドアの鍵を開け、中に入るとストーブとコタツがあった。子どもたちはさっそくゲームの端末を手に、みんなで座って遊んでいる。
↓朝日神社の拝殿の中(写真左)と奥にある本殿(右)。

朝日神社の宮ごもり
↓夕日神社の宮ごもりの様子。晩ご飯に年越しソバは食べてきたそうですが・・・。
夕日神社の宮ごもり

 父兄にお話しを聞くと、昔は夕方から宮に籠っていたようだが、段々と遅くなり今では20時頃になったそうだ。年が明ける少し前に、拝殿正面の戸を開けて参拝客を迎える。集落の人の多くは朝日、夕日の2つの神社を参拝する。参拝客が一通り訪れたら正面の戸を閉めて、朝の6時頃まで仮眠をとり、それから片付け。そしてお供えの鏡餅を切り、子どもたちがミカンと一緒に家々をまわって配って歩く。その全てを撮影したいので拝殿に居ても大丈夫かお願いしたところ、快く許可が出た。民宿に泊まれなくてかえって良かった。

 除夜の鐘が鳴り始めた頃、拝殿の中では新年の参拝客を迎える準備が始まった。拝殿正面の戸を開け、やかんに御神酒を入れて入り口に並べたお猪口に注ぐ。午前0時近くになると、境内に何人か初詣客が待っている。子どもたちも、なんだかソワソワドキドキしている。

御神酒の準備
↓→朝日神社の初詣の様子。
朝日神社の初詣02
朝日神社の初詣の様子01
↓宮ごもりした子どもたちは、神に代わって参拝客に声を揃えて「あけましておめでとうございます」と挨拶する。朝日神社に籠る子どもは7人の予定だったが、1人は熱を出し、もう1人は忌みがあり5人になった。
朝日神社に籠った子どもたち
↓夕日神社に籠ったのは2人だが、少年団のOBだという男子が2人遊びに来ていた。
夕日神社の初詣の様子
↓初詣客が途切れると、後ろに倒れ込んだ子ども。新年の挨拶をするのも、なかなか緊張するのだろう。お賽銭は子どもたちのお年玉となる。嘗ては朝日神社と夕日神社のお賽銭を合わせ、親方が年功序列で金額を采配したが、今では均等割りだそうだ。
夕日神社の子どもとお賽銭
朝日神社の戸締まり
本殿の前でゲームをする子どもたち
 夜中の1時半を過ぎて初詣客が途切れると、拝殿の戸が閉められる。これから片付けの始まる朝6時までは仮眠の時間だが、直ぐに寝る子は居ない。寝袋に包まってゲームが始まった。
 本殿にしゃがみ込んでいる子がいた。何を祈っているのかと見に行ったら、ゲーム画面を見ている。神様の前でやると高い得点が出るらしい(笑)。
 そして、朝6時頃からお供えやコタツ、ストーブの片付け。小さい子はまだ寝ている。
↓→拝殿の中を片付け、下の社務所に運ぶ子どもたち。戸締まりは父兄が行なう。
片付け02
片付け01
片付け03
餅の切り分け
↑鈴や境内の照明を、社務所の裏にある蔵へ運ぶ朝日神社の子どもたち(写真左)。7時過ぎ、片付けが終わった夕日神社の子どもが朝日神社の前に到着(右)。これで一旦解散し、8時に親方となった男の子の家に集合。
 
 親方の家では父兄がお供えの鏡餅を切り分ける。子どもたちが来て、ビニール袋にミカンと一緒に詰めて配る準備。神饌が鰤だった時は切り身も配ったが、昨年と今年はスズキで切り身はなし。
餅配り01
↓→手分けをして一軒一軒に餅とミカンを配る子どもたち。
餅配り03
餅配り02
 子どもたちが餅を配る様子をしばらく撮影してから、バス停に。8時40分発の高岡駅行きのバスを待つ。3分ほど遅れてやって来たバスに乗る。2つの神社を行き来し、境内の階段を上り下りしたので足腰にどっと疲れが出た。
 高岡駅を10時3分に発車するあいの風とやま鉄道の電車で帰宅し、お雑煮のお餅を2つ食べて布団に入った。

 朝日神社の拝殿に飾られていた『県広報とやま』に掲載された宮ごもりの紹介記事が、行事の昔の風情を伝えているので引用させていただく。

神社に籠って初詣客を迎える
大年の宮ごもり(氷見市小境)
 氷見市小境には大晦日から元旦にかけて、地区の子どもたちが神社にこもり一夜を明かす風習が今も残っている。純真無垢な存在としての子どもたちが、神の代わりとなって初詣客を迎えるのである。
 年も押し詰まる頃、子どもたちは社殿や境内の清掃を始める。また、地区の家々を回り、もち米や金銭などを集め、神前への供え物や夜明かしに必要なものを揃えていく。寒風が吹きつける海辺の集落に「供え物の銭くだっしゃい」という元気な声が響く。
 大晦日、その年最後の日が沈む頃、子どもたちは布団を持って、地区の北側の夕日神社と、南側の朝日神社へと分かれていく。冷えきった社殿の中、火鉢で暖をとりながら、鏡餅を祭壇に供えるなどして最後の支度を整える。夜になると両方の神社にこもる子どもたちが「へいぼ(歳暮)にきた」といって互いの神社を行き来する。用意した雑煮やおやつを食べながら、自分たちだけの楽しいひとときを過ごす子どもたち。いつしか年が明ける時刻を迎え、人々が初詣に訪れると御神酒をさし出し、一同正座して参詣客と新年のあいさつを交わすのである。
 祈願のため神社にこもる「宮ごもり」の風習は、かつて県内でいくつか見られたが、今ではここ氷見市小境のみといわれる。

(とやまの歳時記 十二月)

 

1月2日(月)

 お正月2日目。午前中、氷見の伊勢玉神社で行なわれる奉射式(ぶしゃしき)を撮影に行く。昨日問い合わせたところ、神事が始まるのは10時からだと言われたが、氷見線は高岡8時7分発、氷見に8時41分に到着する電車しかない。一時間以上前に着くが、境内をブラブラして本でも読んで待っていようかと思い伊勢玉神社に行くと、既に拝殿には神職の方々が居られ、神事は9時からと書かれていた。早く到着する電車しかなくて助かった。
伊勢玉神社と絵馬
↑伊勢玉神社と(写真左)と、境内にある宮司さん自らが描いて奉納した巨大な絵馬
神事の始まり
↑やがて9時になり、神事が始まった。社務所を出た宮司さんの後を氏子、奉射式で矢を放つ子どもらがついて拝殿に入って行く。
拝殿でのお祓いと祝詞奏上
鳴弦の儀
↑拝殿ではお祓いと祝詞奏上の後、弓を鳴らして邪気を祓う鳴弦の儀が行なわれた。弓は拝殿の上方と本殿に向けて2回鳴らされた。この鳴弦の儀と、この後境内で行なわれる奉射式で伊勢玉神社の「新年大祭」となるようだ。
↓→拝殿での玉串奉納の後、境内が祓い清められた。
境内のお祓い
玉串奉納
↓→奉射式。
奉射式02
奉射式01
 宮司さんを先頭に奉射式で矢を放つ子どもたちも、境内に出て来て奉射の儀が始まった。奉射の儀では鬼とという字を左右反転した文字が書かれた縦横1mの的に矢を放ち、鬼を追い払い幸せを祈願する。
 最初に宮司さんが矢を3本放ち、続いて宮司さんに手ほどきを受けながら子どもたちが順番に矢を放った。
↓→宮司さんの手ほどきを受けて矢を放つ子どもたち。
奉射式04
奉射式03
拝殿での宮司さんの講話
 境内での奉射の儀が終わり、拝殿に戻って宮司さんの講話を聞いて神事は終了した。
 境内にいらした宮司の鈴木瑞麿さんに、ご挨拶する。鈴木宮司さんは伊勢玉神社だけでなく、小境の朝日神社、夕日神社の宮司でもある。何年か前に朝日・夕日神社に能登の方からいらしていた宮司さんが亡くなり、鈴木さんが引き継いだと小境地区の氏子の方からお聞きした。今日の奉射式も、小境の宮ごもりを調べていて知ったのだった。
 宮ごもりを撮影するにあたり、一度お電話でお話ししており、無事に撮影できた事を報告した。
 予定より随分と早くに神事が終わったので、10時22分発の高岡行きの氷見線に乗れそうだったが、せっかく氷見まで来たのだから少し散歩する事にした。
 海岸に出ると海は穏やかなのに、一ヶ所だけ波の立つ場所があり、その波紋が美しかった。しばらく見とれてシャッターを押す。まだあまり人影のない漁港には、大漁旗を掲げた漁船が係留されていた。
氷見の海岸
氷見漁港
↓→町中の地蔵堂の中にも、小さなお鏡餅が供えられていた。
お地蔵さん01
お地蔵さん02
 氷見散策を終えて駅に戻り、11時49分の氷見線で高岡駅へ。あいの風とやま鉄道に乗り換えて家に帰る。
 夕方、妹家族と弟家族が集まる。
 今日1月5日は、旧暦の12月8日。沖縄では子どもの健やかな成長を願い、ムーチー(鬼餅)を食べる。この頃はムーチービーサーと言って、一番寒い時期と言われるが今日の那覇の最低気温は20℃だった(笑)。

 新年早々、いきなり長い日記になってしまった(汗)。では、本年もよろしくお願いいたします。

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