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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表

5月1日(金) 高岡市・御車山祭
5月1日(金)、2日(土) 南砺市・福野夜高祭
5月3日(日)*宵祭は2日 南砺市・井波よいやさ祭
5月3日(日) 氷見市・唐島弁天祭
5月3日(日) 富山市・八尾曳山祭
5月4日(月) 射水市・加茂神社 やぶさめ 射水市コミュニティーバス
5月4日(月)、5日(火) 南砺市・城端曳山祭
5月15日(金) 射水市・放生津・新湊地区獅子舞まつり(5月10日に行なう町内もある)
5月15日(金) 高岡市・伏木曳山祭
5月17日(日)、18日(月) 富山市・岩瀬曳山祭
5月23日(土)、24日(日)石動 獅子舞
5月31日(日)〜6月2日(火) 富山市・日枝神社大祭(山王まつり)
6月4日(木)、5日(金) 小矢部市・津沢夜高祭り
6月8日(月) 加茂神社 御田植祭
7月3日(金)〜7日(火) 高岡市・戸出七夕まつり
7月13日(月)、14日(火) 氷見市・氷見祇園祭
7月24日(金) 入善町・新屋大磐祭り
7月25日(土) メルヘンおやべ源平火牛まつり
7月31日(金) 滑川市・滑川のネブタ流し
9月1日(火)〜3日(木) 八尾・おわら風の盆
9月4日 (金) 加茂神社 秋の大祭 稚児舞
9月13日(日) 小矢部 埴生護国八幡宮  宮めぐり神事
9月23(水)、24日(木) 高岡市・つくりもんまつり
10月10日(土) 10月の第2土曜日、戸出・戸出野神社の秋季例大祭 幌武者行列
10月12日(月・祝) 魚津・千光寺 秋祭
10月17日(土) 小矢部 白馬山 慈光院  火渡り法要
10月26日(月)、27日(火) 黒部市・生地たいまつ祭り
1月の第4日曜日 魚津・千光寺の火祭り 小川寺の獅子舞
3月12日 魚津・千光寺の春祭 小川寺の獅子舞
4月20日前後の土日 浦田山王社獅子舞
*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント

○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

5月31日(月)

 一昨日の午前9時59分、口永良部島の新岳が噴火。気象庁は噴火警戒レベルを5に引き上げ、島民は全員フェリーなどで避難した。「10分前にも明らかな変化は観測されなかった」と気象庁は述べており、火山噴火予知の難しさを物語っている。
 ところで、九州電力は観測によって噴火の予知は可能とし、原子力規制委員会もその九電の主張を妥当と認めて新規制基準の審査書案を了承している。九電は口永良部島での火山噴火を、どこまで予知できていたのだろうか?
 また、菅官房長官は御嶽山が噴火した際、「今回のような水蒸気(爆発)は、予測が極めて難しいと従来、言われている」と述べたそうだが、新岳の噴火はマグマ水蒸気噴火だったようだ。御嶽山と違い、水蒸気噴火ではなかったが、やはり予知はできなかった。原発を再稼働したいがための強弁は、もう止めたらどうだろうか。

 ここのところ震度5クラスの地震が続いている。 5月13日宮城県沖で震度5強、5月22日奄美大島近海で震度5弱、5月25日埼玉県北部で震度5弱、そして昨日。
  午後8時24分頃、小笠原諸島西方沖を震源とする地震があった。震源の深さは約590キロ、マグニチュード8.5で、震度5強を記録した(今日の夕方、気象庁は地震の規模をマグニチュード8.5から8.1に、震源の深さを約590キロから682キロに修正した)。日本列島全体が揺れたようだが、テレビのテロップが流れるまで家族の誰も気づかなかったので高岡ではあまり揺れなかったのかもしれない。
 昨日の地震で、気象庁は震源が深かったため、震度を予測することが難しいとして緊急地震速報を出さなかった
これで、自然災害に対処する能力が如何に低いか露呈してしまった。
  火山活動が活発になり、地震が頻発している国で原発を再稼働すると言う事を、政府も電力会社も無謀だと思わないのだろうか。長い歴史を振り返れば、これまでにも巨大な火山の噴火や地震がこの国を襲ったわけで、それでも今があるのはまだ原発が無かったからとも言えないだろうか。これから予想されている巨大な地震や火山の噴火が起こった場合に、それに伴う原発事故が国の存亡の止めを刺すとは考えないのだろうか。
 昨年の11月、原子力規制委員会の田中俊一委員長が記者会見で耳を疑う様な発言をしている。
「姶良カルデラにしろ、加久藤カルデラにしろ、近所のカルデラが噴火した時はどうなるかというと、神戸大の先生が出したように700万人の九州の人が焼け死に、全国では1億2000万人が亡くなるというようなことを出しているわけ。その前に原子炉は止まっているし、ある程度燃料が残ったとしても、もうそういう状況なのですよ」
 どうせ1億2000万人が亡くなるんだから、その上で原発が爆発しても知った事じゃないという事だろうか。地球に住んでいるのは日本人だけではないし、人間だけでもない。倫理観の欠片もない発言だろう。

5年前の旅を始めた日、京都にて
↑5年前の旅を始めた日、京都の四条にて。

 5年前の昨日、奄美大島へ向かって旅を始めた。2週間以上かけて京都、大阪、神戸、広島、山口、福岡、長崎、熊本、鹿児島と南西に移動した。梅雨に向かって進んだ感じだったが、この年は梅雨入りが遅かったのか、雨に降られたのは鹿児島に入ってからだった。

5月28日(木)

 安倍首相やじ「早く質問しろ」=抗議受け陳謝。2月にも衆院予算委員会で民主党議員の質問の最中に、「日教組!』とやじを飛ばし、自民党の大森理森委員長にたしなめられ、その後、自分の飛ばしたやじに正確性が欠けていたと発言を撤回し謝罪した。学習しないのだろうか?

 翁長知事が25日、前知事の埋立て承認に関して有識者委員会から承認取り消しが提言されれば「取り消すことになる」と明言した。これに対して菅官房長官は、承認取り消しでも工事を継続する考えを示した。その際、「日本は法治国家であり、許可に基づいて工事を行っている。行政の継続もあり、辺野古移設工事は進めていく考えに全く変わりない」と述べたそうだ。
 琉球新報が今日の社説で「法治」が聞いてあきれる、と菅氏の発言に噛み付いている。その中身を少し引用すると「前知事の承認の権限は重視して現知事の取り消しの権限は無視する。今回の菅氏の発言にはそんな姿勢が透けて見える。〜略〜そもそも前知事の承認が何かの根拠になり得るのか。仲井真氏は前回、「県外移設」を公約に掲げ当選した。その人物が突如として県内移設の埋め立てを承認し、承認後の選挙で現職では前代未聞の大差で敗れた。その承認は民主主義的正当性が決定的に欠けている。法治という点でも民主主義の観点からも、新基地建設に正当化の余地はない」。社説は至極真っ当である。

 三上智恵監督の辺野古新基地反対運動を追ったドキュメンタリー映画「戦場ぬ止み」が、7月11日からの本上映を前に、ポレポレ東中野で先行上映されている。6月5日まで。
 北陸では、富山県がフォルツァ総曲輪で8月15日(土)〜21日(金)、石川県はシネモンドでの上映が予定されている。
 本上映まで映画は観れないが、三上智恵監督へのインタビューがこちらに、 三上智恵さんと鈴木耕さんの対談がこちらに。また、三上さんのコラム、沖縄撮影日記も再開している。
第22回「沖縄を舐めるんじゃない!」最新作『戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)』緊急上映決定!
第23回「辺野古・高江反対」が国会を包囲した日〜映画『戦場ぬ止み』公開翌日の首都の光景〜

 通り過ぎた風景と記憶の断片(2)。写真は、こちらから。
沖縄 バスからの風景

以下は、キャプションです。

039 沖縄・那覇 泊港 (2012年6月23日)
040 沖縄・宜野湾 トロピカルビーチ (2012年6月24日)
041 沖縄・那覇 牧志公設市場 (2012年6月30日)
042 沖縄・那覇 与儀公園 (2012年7月2日)
043 沖縄・那覇 (2012年7月2日)
044 沖縄・那覇 (2012年7月5日)
045 沖縄・那覇 壺屋 (2012年7月6日)
046 沖縄・那覇 泊港 (2012年7月7日)
047 沖縄・那覇 与儀十字路付近 (2012年7月15日)
048 沖縄・本部半島巡回バスにて (2012年7月16日)
049 沖縄・名護から辺土名行きバスにて (2012年7月16日)
050 沖縄・本部半島巡回バスにて (2012年7月16日)
051 沖縄・名護から辺土名行きバスにて (2012年7月16日)
052 沖縄・名護バスターミナル (2012年7月16日)
053 沖縄・名護バスターミナル (2012年7月16日)
054 沖縄・名護から那覇行きのバスにて (2012年7月16日)
055 沖縄・浦添 屋富祖 (2012年7月20日)
056 沖縄・浦添 屋富祖 (2012年7月20日)
057 沖縄・浦添 屋富祖 (2012年7月20日)
058 沖縄・浦添 屋富祖 (2012年7月20日)
059 沖縄・那覇 牧志公設市場 (2012年8月7日)
060 沖縄・金武社交街 (2012年9月17日)
061 沖縄・金武社交街 (2012年9月17日)
062 沖縄・那覇から読谷バスターミナル行きのバスにて (2012年9月22日)
063 沖縄・那覇から読谷バスターミナル行きのバスにて (2012年9月22日)
064 沖縄・那覇から読谷バスターミナル行きのバスにて (2012年9月22日)
065 沖縄・糸満 (2012年9月30日)
066 沖縄・糸満 (2012年9月30日)
067 沖縄・那覇 栄町市場 (2012年10月27日)
068 沖縄・那覇 国際通り (2012年11月18日)
069 石垣島 (2012年11月23日)
070 石垣島 (2012年11月23日)
071 石垣島 (2012年11月23日)
072 粟国島 (2013年2月12日)
073 伊是名島 (2013年4月2日)
074 沖縄・嘉手納から那覇行きのバスにて (2013年5月18日)
075 渡名喜島 ヌルヤー (2013年6月9日)
076 沖縄・糸満 平和祈念公園 (2013年6月23日)
077 沖縄・那覇 (2013年7月7日)
078 竹富島・コンドイ浜 (2013年7月25日)
079 沖縄・辺野古 アップルタウン (2013年10月12日)
080 沖縄・今帰仁村 (2014年1月1日)
081 沖縄・今帰仁村 (2014年1月1日)
082 久高島 外間殿 (2014年1月30日)
083 久高島 (2014年1月31日)
084 沖縄・上平川から那覇行きのバスにて (2014年3月29日)
085 沖縄・那覇 久茂地小学校 (2014年3月30日)
086 沖縄・那覇 久茂地小学校 (2014年3月30日)
087 沖縄・那覇から名護行きのバスにて (2014年5月5日)
088 沖縄・那覇から名護行きのバスにて (2014年5月5日)
089 沖縄・辺土名から奥行きのバスにて (2014年5月5日)
090 沖縄・辺土名から奥行きのバスにて (2014年5月5日)
091 沖縄・本部 美ら海水族館 (2014年5月6日)
092 座間味島・古座間味ビーチ (2014年5月29日)
093 久米島 一周線バスにて (2014年6月11日)
094 久米島 一周線バスにて (2014年6月11日)
095 久米島・真謝 (2014年6月11日)
096 沖縄・那覇 前島のゲストハウスにて (2014年6月15日)
097 沖縄・那覇 泊港 (2014年6月15日)
098 西表島・船浮 (2014年6月21日)
099 多良間島上空。石垣島から那覇へ向かう飛行機から (2014年6月28日)
100 沖縄・那覇 栄町市場 (2014年6月28日)
101 沖縄・那覇 (2014年6月30日)
102 沖縄・那覇 農連市場付近 (2014年7月3日)
103 那覇から名瀬に向かうフェリー・クイーンコーラルプラスにて (2014年7月4日)

5月25日(月)

 昨日は、石動で開催されている獅子舞大共演会へ。運行本数の少ない電車で行くとよけい不便なので、自転車で。暑くもなく寒くもなく、梅雨前の今頃が一年で一番清々しい季節かも知れない。
近所の民家
石動駅のうどん

 自転車で40分ほど走って石動に到着。獅子舞の会場へ行く前に、駅横の立食いへ。天玉いなりうどんを注文。先月末に初めて食べた時ほどの感動はなかったかな。いなりはもう少し甘辛く炊いてある方が好みです。それでもお昼時とあって、食べている途中から行列ができたので急いで食べて店を出る。
←天玉いなりうどん、510円。普通盛りでも、割りとボリュームがある。

 会場の小矢部商工会館前に到着し、案内所でプログラムを貰う。11時10分〜11時40分の渋江獅子方若連中の獅子舞が行なわれていた。昨日は町内の至る所で獅子舞が行なわれていたようだが、今日は基本的に一つの会場で順番に獅子舞が演じられる。
 渋江獅子方若連中の次は、石動西部保育園の園児による獅子舞。お遊戯のようなものだろうか?と思っていたら上手に獅子舞を踊っていたので驚いた。
 共演会は15時半までとなっていたが、吉田町獅子方若連中、特別招待獅子の金沢市大野町獅子舞保存会、特別出演の津沢夜高太鼓民謡保存会の演舞を途中まで観て13時頃に帰路についた。
 観た中で、特に面白かったのは金沢市大野町の獅子舞で、観た事の無い大きな胴幕だった。よく見ると胴幕の下には車輪が付いている。胴幕の先を縒った部分が獅子の首で、獅子頭とこの首の部分だけが舞う。You Tubeに映像がある。獅子舞も多様だな〜と思う。ちなみに今一番観てみたい獅子は、浦田山王社の獅子舞だ。

獅子舞大共演会の様子
↑上左 石動西部保育園の園児による演舞/上右 吉田町獅子方若連中の獅子舞/中左 金沢市大野町獅子舞保存会。大きな胴幕の下に車輪が付いている/中右 津沢夜高太鼓/下左・右 町内のアチコチで、胴幕や剣持の衣装などが干されていた。

 先月の訪米で知日派育成の研究支援として3つの大学に各500万ドルをバラ撒いて来た安倍首相が、一昨日行なわれた島サミットの基調講演で、太平洋島嶼国にたいして今後3年間で550億円以上の財政支援を行なうと表明した。ずいぶんと気前の良い話だが、国の借金が1053兆円にまで膨れ上がり、国債は格下げ、国民には増税の負担を強いて、福祉はどんどん打ち切っている。どこにこんなバラ撒くお金があるのだろうか。安倍首相が世界にバラ撒いた金額が、きっこのブログに纏められている。

 政府は21日、ISILによる日本人人質事件に関する検証報告書を発表し「政府による判断や処置に、人質救出の可能性を損ねるような誤りがあったとは言えない」と総括した。二人の人質が惨殺されていながら対応に誤りがなかったという結論は、あまりに反省がないだろう。日刊ゲンダイが後藤さんら浮かばれず・・・「人質事件」検証は”中身ゼロ”の茶番と書いている。ゲンダイだけでなく、京都新聞の社説は「人質事件の検証 これで再発は防げるか」、北海道新聞は「人質事件報告 第三者で検証やり直せ」、西日本新聞も「2邦人人質事件 検証報告に足りないのは」と当事者による客観性や透明性のない報告書を批判している。
 報告書と言えば、国際原子力機関(IAEA)が配布した福島原発事故を総括した最終報告書 の内容が、昨日明らかになった。東電や日本政府の規制当局は大津波が第1原発を襲う危険を認識していたにもかかわらず実効的な対策を怠り、IAEAの勧告に基づいた安全評価も不十分だったと厳しく批判している。しかし、これだけの大災害が起こったにも拘らず、誰一人として厳しい責任追及がなされないのが不思議でしょうがない。
 東電は事故から4年以上が過ぎて、福島第一原発2号機のベントが失敗していた可能性が高まったとする調査報告書を今月20日に公表した。この事は、4年が経っても福島第一原発の事故原因も全容も解明されていないと言う事だ。事故の全容も解明されていない中で作成された安全対策の規制基準に、どれほどの信頼性があるだろうか。それにも拘らず原子力規制委員会は、川内原発、高浜原発に続き、四国の伊方原発の安全対策が新規制基準に適合するとした審査書案を了承し再稼働へ一歩進めた。
 伊方原発は佐多岬半島の付け根にあり、その半島の先の集落では5000人が住んでいる。原発事故が起きた場合、半島の住人は取り残される場合がある。毎日新聞は社説で「伊方原発合格証 複合災害の備え足らぬ」と指摘している。 また、こうした複合災害により住民が取り残される集落が原発30キロ圏内に2318集落あることが明らかになっている。

 今月20日に行なわれた共産党の志位委員長との党首討論で、「ポツダム宣言は詳らかには読んだことがない」とする安倍首相の発言が波紋を呼んでいる。「安倍ポツダム知らない宣言」をテレビ各局はどう伝えたのか?
 志位委員長は、安倍首相が自民党幹事長代理だった2005年に月刊誌の対談で「ポツダム宣言というのは、米国が原子爆弾を二発も落として日本に大変な惨状を与えた後、『どうだ』とばかり(に)たたきつけたものだ」と語っていたと指摘。だが、宣言は1945年7月26日に米英中の名で発表され、同8月6日と9日の原爆投下後、日本が同14日に受諾を決定した。事実誤認があり、本当に読んでいなかった事がうかがえると話している。
  民主党の枝野幹事長は、首相のポツダム発言が「わざとならずるい」と述べている。
 こちらにポツダム宣言の現代語訳が掲載されている。宣言は13項目で、どれも短い文章なので5分もあれば目を通すことができる。この宣言を、安倍首相が読んでいなかったとは思えない。ただ、読んだけれども忘れてしまった、中身をよく理解していなかったとは考えられるだろうか。  
 このポツダム宣言絡みで、2012年10月と少し古いが日刊SPA!に「ポツダム、カイロ宣言の内容を知らない日本人【孫崎享×田中康夫】Vol.2 」という記事が掲載されている。尖閣諸島を巡る記事だが、領土問題の基礎とは、戦後日本の出発点であるポツダム宣言の第8条です。そこには「日本国の主権は本州、北海道、九州、四国に限定される」、そして「その他の主権の及ぶ島々は連合国が決める」と書いてある。そうすると、本州、北海道、九州、四国はたしかに“固有の領土”と呼べるのですが、その他の島々に関しては、“固有の領土”という理屈が成り立たないんですという孫崎氏の指摘の他、日中の領土問題に付いて興味深い考察が行なわれている。

 5月17日に那覇のセルラースタジアムで「戦後70年 止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会」が開かれ3万5000人が結集したが、昨日は東京でも「首都圏アクション国会包囲ヒューマンチェーン」が開催され、1万5000人の市民が国会を取り囲み、辺野古への新基地建設断念を訴えた。ウオール・ストリート・ジャーナルも抗議の様子を写真で取り上げている

 22日に奄美大島で震度5を観測する地震があったが、今日は茨城南部で震度5の地震があった。

5月23日(土)

 ちょっと南の方が騒がしい。
  昨日の夜、奄美大島近海を震源とする地震があり、名瀬港街で震度5弱を観測した。今朝は種子島近海を震源とする地震があり、口永良部島で震度3を記録している。気象台は新岳の火山活動の高まりがみられることから、規模の大きな噴火への警戒を呼びかけている。
 桜島の火山活動は相変わらず活発で、21日に大きな噴火を起こして4300mの噴煙を上げた。噴火は21日までに573回を記録している。

 奄美地方が平年より8日遅い、今月19日に梅雨入りした。沖縄は一日遅れて、20日に梅雨入り。
 5年前の6月、初めて奄美大島を訪れた時は梅雨の終わり頃だった。

 島での移動手段は、だいたいが自転車かバスだった。時にはバスに自転車を積み込むこともあった。
 奄美大島で「ティダだまし」という言葉を聞いた。ティダは太陽の事で、天気が良いので傘を持たずに出たら急な雨に降られてしまった時などに使うらしい。
 島の天気の不安定さを作家・島尾敏雄は『離島の幸福・離島の不幸 名瀬だより』の中で、こう書いている。
「私は日記にその日の天候の模様を書きつける適当な現わし方のないことにあきらめている。また私は外出するときにはどんな天候のときでも、こうもり傘をこわきにかかえこんで行くことを自分に課した。陽が照れば(それはすさまじいばかりカーッと照りつけてくるが)そのときは日よけにし、雨になれば(吹きなぐりで用を足さないことの方が多いが)雨よけにすることができるからだ。そして、出がけにまばゆいばかりの真夏の空も、あるとき急に北の方の空が雲に覆われ、そしてまたたくまに街は暗くかげって冬の様相を帯び、逃げおおせる余裕もなくしたたか雨足にたたかれてしまう事態は珍しくない」

 奄美大島に着いたその日も、突然の大雨だった。食料を買いにスーパーのダイエーに行くと、ずぶ濡れになった女子高生の集団が裸足で歩いていた。亜熱帯の大らかさの様なものを感じて楽しくなった。
 奄美に住み始めて直ぐに名瀬にあるホームセンターのニシムタで買った折り畳みの自転車は、潮風と雨にやられて一年も経たずに錆だらけになった。それでも奄美大島で過ごした二年間は折り畳む事ができて、自転車をフェリーやバスに積んで遠くの集落や離島を走る事ができた。
 沖縄に引っ越した頃には、自転車に付いた錆が固まって折り畳めない自転車になってしまい、もうバスに積んでもらうことは不可能になってしまった。

 奄美でも沖縄でも、よくバスに乗った。目線が高くなり、見える風景がいつもと違うのが面白かった。ワクワクしながら、窓越しに通り過ぎる風景をカメラに収めた。
 走行中のバスからの撮影は構図も思うようにならないし、ブレてもいるが、なんだか旅のリアルが写っているようで、見返していると再び旅をしているような気分になる。

 通り過ぎた風景と記憶の断片(1)。写真は、こちらから。

奄美大島名瀬

以下は、キャプションです。

001 奄美大島・名瀬 (2010年6月24日)
002 奄美大島・名瀬 (2010年6月24日)
003 奄美大島・名瀬 (2010年7月13日)
004 奄美大島・龍郷町中勝 (2010年7月17日)
005 奄美大島・名瀬港 (2010年7月19日)
006 奄美大島・大浜海岸 (2010年7月24日)
007 奄美大島・朝仁海岸 (2010年8月6日)
008 奄美大島・今里 (2010年8月11日)
009 奄美大島・国直 (2010年8月11日)
010 奄美大島・朝仁海岸 (2010年8月13日)
011 奄美大島・名瀬 (2010年8月14日)
012 奄美大島・佐大熊 (2010年8月24日)
013 奄美大島・朝仁海岸 (2010年10月24日)
014 奄美大島・小湊 (2010年10月30日)
015 奄美大島・小湊 (2010年10月30日)
016 奄美大島・小湊 (2010年10月30日)
017 奄美大島・名瀬 (2010年11月18日)
018 加計呂麻島・瀬相 (2010年12月28日)
019 奄美大島・名瀬 (2011年1月1日)
020 加計呂麻島・本生間 (2011年2月25日)
021 奄美大島・小宿漁港 (2011年5月2日)
022 奄美大島・名瀬港 (2011年5月2日)
023 与論島・大金久海岸 (2011年8月19日)
024 与論島・茶花 (2011年8月22日)
025 与路島 (2011年10月23日)
026 奄美大島・名瀬小学校 (2011年12月25日)
027 奄美大島・名瀬小学校 (2011年12月25日)
028 奄美大島・朝仁海岸 (2012年2月6日)
029 奄美大島・大浜海岸 (2012年3月21日)
030 奄美大島・大浜海岸 (2012年3月21日)
031 奄美大島・大熊展望台付近から (2012年3月27日)
032 奄美大島・名瀬港 (2012年3月30日)
033 奄美大島・名瀬港 (2012年3月31日)
034 請島・池地港 (2012年5月5日)
035 町営船せとなみ 請島・池地→奄美大島・古仁屋港 (2012年5月5日)
036 町営船せとなみ 奄美大島・古仁屋港 (2012年5月5日)
037 海上タクシーでいご丸 奄美大島・古仁屋港→加計呂麻島・芝 (2012年5月6日)
038 奄美大島・佐仁小学校 (2012年6月3日)

 兄弟ファンク・グループ、The Brothers Johnsonのベーシスト、ルイス・ジョンソンが亡くなった。10代の後半から20代の前半頃に、The Brothers Johnsonのアルバムや、彼がセッション・ミュージシャンとして参加したレコードを聴いた。初めて聴いたチョッパー・ベースは、ルイス・ジョンソンかも知れない。享年60歳。5つしか違わない事にちょっとビックリしたが、10代、20代の頃の5歳は、ずっと離れた大人に感じていたと思う。
  You Tubeから「Thunder Thumbs and Lightnin' Licks/The Brothers Johnson」。そして日本のチョッパーベースと言えば、この方、なかよし三郎。「なかよし音頭/ダディ竹千代&東京おとぼけキャッツ」。久しぶりに観たが、やっぱり面白い。

5月18日(月)

 昨日は岩瀬の曳山祭り。岩瀬がどこにあるか分からずネットで路線を調べたところ、あいの風とやま鉄道で富山駅へ行き、ポートラムと言う路面電車に乗り換えて終点が岩瀬だった。
  富山駅で乗り換えなので、ポートラムに乗る前に、南口駅前にあるシネマ食堂街へ寄って見る。2月に富山へ来た時に通りかかったが、時間がなくて素通りした。駅前再開発で取り壊されることが決まっているようだが、なんだか勿体ない。新しいビルが完成すれば、またどこにでもあるような地方都市の景色になってしまう。怪しげだったり、危なそうだったり、猥雑な雰囲気が街から消えてしまったら面白くないだろうに。

シネマ食堂街
ポートラム

 シネマ食堂街を見た後、駅の北口に行きポートラムに乗車。終点の岩瀬まで乗車時間24分。料金は1回200円と安いが、乗車時間1分の隣駅までの乗車でも200円なので微妙だ。日中は1時間に4本ほど走っているようで、利便性もまずまず。日曜日で、お祭りもある事から乗車する人も多かった。

←富山駅北口から発車する路面電車のポートラム。

 岩瀬駅を降りると、さっそく駅前に曳山が一台。が、少し曳いては休憩になり、なかなか進まない。暫く町中を歩くと、アチコチに曳山が居たが、やはりどれも少し曳いては休憩している。曳山は今日と明日の2日間あるからだろうか、あるいは夜のぶつかり合い(けんか山)に備えて体力を温存しているのだろうか。
 曳山を追いかけるのはやめて、岩瀬の町中を散歩。展望台に上ったり、北前船回船問屋の森家(国指定入用文化財)に入って見学したりする。岩瀬地区が江戸初期から明治にかけて、北前船の交易で栄えた町だったと初めて知る。岩瀬に限らず、富山の事は2年過ごした奄美大島や沖縄よりも知らないと思う(汗)。
 けんか山は22時頃からだそうだが、イベント情報のサイトに琴平(金比羅)神社出発時間20時と記載されていたので、何が行なわれるか分からないが少し早めに行ってみる。神社にいらした方に伺うと、この金比羅神社から諏訪神社へ御神体が還られる神事が行なわれるとの事。今年は時間が1時間早くなり、19時からだそうで早めに来ていて正解だった。
 鳥居の下で出発に際しての神事が行なわれ、御神体を乗せた御神輿が境内を出る。始まる前に、サルタヒコという単語が聞こえたので、天狗のお面を着けたのは猿田彦だろう。行列では神輿の前を歩いて先導していた。
 金刀比羅神社を出て諏訪神社へ向かう途中でも、神事が行なわれた。ところで岩瀬には諏訪神社が2つあった。御神体がお還りになる諏訪神社と、22時から曳山のぶつかり合いが行なわれる諏訪神社だ。
 岩瀬曳山祭りのホームページに曳山の起源が書かれており、
「今から約330年以上前、現在の東岩瀬の位置よりも西の方に西岩瀬の町がありました。ところが、万治年間(1658~1960)富山湾を河口とする神通川が氾濫を繰り返して流れを東へと移したため、西岩瀬は港としての役割を充分に果たせなくなってしまいました。そこで西岩瀬の人々は新しく川港となった東岩瀬へと移住し、新しく町をつくっていったということです。万治2年(1659)東岩瀬へと移住してきた人々が西岩瀬の諏訪神社の分霊を勧請し、その際、ご神体に随行して神社の建築用材を井桁(いげた)に組んで運んだのが、曳山車のはじまりであると伝えられていますが、現在の郷土史研究では、東岩瀬のほとんどが消失した寛政4年(1792)の大火の後、復興を祝い災厄を防ぐ祈りのなかから、寛政8年(1796)に「あんどん山車」を曳くようになったという説が有力になっています」と記されている。
 御神体がお還りになった小さい方の諏訪神社は元々あった地の神社だと聞いたので、ぶつかり合いの行なわれる大きい方の諏訪神社は西岩瀬から移って来た神社なのだろうか。
岩瀬曳山祭りの神事
↑上左 御神体を乗せた御神輿が置かれた金比羅神社/上右 出発に際し、鳥居の下で行なわれた神事/中左 金比羅神宮を出発する御神輿/中右 諏訪神社に向かう途中で行なわれた神事。写真右端は、天狗の面をつけた猿田彦/下左 御神輿を先導する猿田彦/下右 御神輿から降ろされ、諏訪神社の本殿へ還られる御神体。
↓曳山行列。
曳山

 御神体が諏訪神社の本殿に還られて、神事は終了した。この後、曳山はぶつかり合いの行なわれるもう一つの諏訪神社の前に並ぶ。ぶつかり合いは22時からと遅いので、富山までのポートラムは臨時便が出て最終は25時まである。しかし富山からの他の電車は臨時便があるわけではないので、曳山が諏訪神社に並び始めたところで残念だけれど帰路についた。

 先日、「役立たず」という酷評をネパールの地元紙から受けたオスプレイだが、17日にハワイ・オアフ島で訓練中に着陸に失敗し1人が死亡、21人が病院に搬送された事がわかった。この事故を受けて翁長知事は、事故原因が究明されるまでオスプレイの飛行停止を要求する考えを示した。
 今日は朝からテレビのワイドショーもニュース番組も、昨日行なわれた住民投票で大阪都構想が反対多数となり、都構想を提唱してきた 橋下徹大阪市長が投票の結果を受け止めて任期満了となる12月で政界を引退するという話題で持ち切りだ。この話題に隠れてしまったが、昨日は「戦後70年止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会」が那覇のセルラースタジアムで開催され、3万5000人が結集した。翁長雄志知事あいさつ全文は、こちら。ネット中継動画は、こちら
 2020年に開催される東京オリンピックのメイン会場となる新国立競技場の建設について、屋根が間に合わない事が判明したそうだ。
隣の田んぼ 
↑昨日の午前中、隣の田んぼに苗が植えられた。右は3月11日の様子で、2ヶ月ほどで随分と季節が移ろい、風景も変化したなと思う。

5月15日(金)

 昨日は真夏日一歩手前だったが、今日は予想最高気温31℃という天気予報の通り、30℃越えの真夏日になった。ムシムシする暑い日で、夕ご飯は、さっぱりとつけ麺を食べた。
 真夏日一歩手前の昨日、先月末に見に行ったチューリップ公園がどうなっているか気になって自転車で砺波まで出かけた。5年前の今頃はチューリップ農家の畑では、球根を育てるためにちぎった花を畑の肥料として撒いてあったのだが、今年は全然見かけない。畑に撒かれてだんだんと腐敗していくチューリップの花びらがフォトジェニックで、今年も撮影したいと思っていたんだけれど。チューリップ公園の方も、花びらがちぎられ、球根が掘り起こされていた。今年のチューリップは終わってしまった。
 砺波からの帰り、戸出の100円ショップへ。以前買った万年筆が思いのほか使い易かったのでまた買おうと思ったら・・・無い。良いなと思って買いに行ったら、もう販売していない事が往往にしてあるのが100円ショップ。しょうがないのでソックスを2つ買って帰って来た。
チューリップ公園
↑昨日のチューリップ公園。手前は花を摘まれたチューリップ。奥の方の花壇では球根ごと掘り起こされていた。

 昨日、安保法制が閣議決定された。10の改正法案を一つにまとめた「平和安全法制整備法」と、「国際平和支援法案」だ。これに対し憲法学者らが「法的に、政治的に、経済的に間違っている」として法案の撤回を訴えている。後方支援だから戦争ではないと言うのは詭弁だし、机上の空論であり、ある意味これも平和ボケだろう。
 「日本人の命と平和な暮らしを守るため。そのためにあらゆる事態を想定し、切れ目のない備えを行うのが今回の法案です」というが、国民を守るのは法律よりも国の危機管理能力と”国民を守る”と言う強い意識だろう。首相官邸の屋上に墜落したドローンに2週間も気がつかなかった危機管理の無さで、国民を守れるのか。また、北朝鮮による拉致問題が重要課題と言いながら、一向に拉致被害者を取り戻せる気配もない。今回の法案で解決できるのだろうか?
 2012年12月、石原慎太郎氏が「九条のせいで日本は強い姿勢で北朝鮮に臨むことができなかった。九条が自分たちの同胞を見殺しにした」と現行憲法を批判した。「あんなモノがなければ(拉致被害者を)返してくれなかったら『戦争するぞ』『攻めていくぞ』という姿勢で同胞を取り戻せた」と述べた。 掲載されていた東京新聞の記事は既に閲覧できなくなったが、ここに、その記事について書かれたものが載っている
  どうだろうか。拉致されたのは1970~80年代だと思われている。 今でこそ北朝鮮の拉致問題は政府もマスコミも声を高くして叫んでいるが、拉致された被害者家族の訴えに、この国の政府は証拠がないとして90年代頃まで救いの手を差し出す事もしなかったのではなかったか。九条のせいにしてはいけない。大切なのは、政府に国民を守ると言う気概があるかどうかではないだろうか。ISISによる日本人の人質事件の対応を見ても、はたしてこの方に、そんな気概は?
  安倍首相は、この法案によって切れ目の無い対応、切れ目のない安全保障ができると言うが、切れ目が無いのは今のところ首相の口から出るウソと虚言、そして福島第一から漏れる汚染水だろう。
 閣議決定後の首相の会見と質疑応答がこちら、要旨をまとめたものがこちらにある。

 会見の中で、この法案によって「アメリカの戦争に巻きこまれる事はない」と断言しているが、今年1月、日本が十字軍に参加したとして、ISISにより日本人の人質2人が殺害されている。もう既にアメリカの対テロ戦争に巻きこまれているし、この法案によってテロリストに狙われる脅威はより大きくなったのではないだろうか。そもそも巻きこまれる事はないと言われても、これだけウソの実績がある。誰が信用するんだろうか。
 安倍首相の会見に、疑問を投げかける記事がいくつか書かれている。「安倍首相、戦場ジャーナリストが安全法制閣議決定会見を赤ペンチェックしましたよ!」、「自衛隊機も緊急発進急増も嘘・・・まるで”サイコパス”安倍首相の安保法制会見の詐術を検証」。サイコパスかは判らないが、言動と行動がこれほど乖離している人も珍しいと思う。それでも本人の中では整合性が取れているなら、ボクらには理解できない精神構造だとも感じる。
  今日、沖縄は本土復帰から43年を迎えた。一年前の日記を読み返し、心配がより現実になり、キナ臭い国になったと思わずにはいられない。

5月11日(月)

 4月25日に起きたネパールの大地震から2週間以上が過ぎ、このところ現地の様子をニュース番組で伝えられる事もなくなってしまったが、最終的な被害はどれほどになったのだろう。
  ところで、普天間飛行場に所属するオスプレイ4機が3日、救援活動の為にネパールに派遣された。しかし、この報道の後、物資を輸送中に住宅の屋根を吹き飛ばす被害をもたらし「役立たず」という酷評を地元紙から受けたようだ。元記事だろうか、英文の記事。また、こちらにもう少し長い、派遣されたオスプレイについての記事がある。
 普天間所属のオスプレイは、2013年11月のフィリピンでの台風被害の時にも出動している。その時の記事はこちらこちらにある。どちらもミリタリー系のサイトで、いわゆる一般のニュース記事としては見なかった印象がある。オスプレイ配備に賛成の方面からは、なぜオスプレイの活躍をマスコミは報道しないのかと言った批判も書き込まれているが、書かなかったのではなく書くほどの事が無かったのではないかと思っている。
 災害救助にオスプレイならではの活動ができていれば、オスプレイを配備したいアメリカ政府、日本政府が宣伝しないはずがないだろう。
 那覇の新都心近くに住んでいた時、一日に何度もオスプレイが轟音を響かせて上空を飛行して行った。その際に、音だけではなく空気が震える様な振動も感じた。今回ネパールで住宅の屋根を吹き飛ばしたと言うが、台風にしろ地震にしろ崩れかかった家屋が密集する震災直度の被災地に、オスプレイの飛行がもたらす振動は新たな危険を生じささせるのではないだろうか。倒壊した家屋から生存者を捜す際に、ヘリコプターから発生する騒音が捜索の邪魔になる事は度々指摘されるが、ヘリコプターよりも轟音が発生するオスプレイが飛行すれば、さらに捜索活動の邪魔になりかねない。
 また、オスプレイは猛烈な下降気流と200℃以上の熱風を発生させ、その熱で訓練中に地面の草が燃える火災が発生したこともある。ヘリコプターのように垂直離着陸が出来る事で活動範囲が広いと言うが、実際にはかなり離着陸できる場所を選ぶのではないだろうか。
 さて、そんなオスプレイ17機を日本政府は、関連装備も含めて30億ドル(約3600億円)で購入するようだ。アメリカ側は「オスプレイの売却は陸自の人道支援・災害救援能力や水陸両用作戦を大いに強化する。負担の分担を促進し、米軍との相互運用性を高める」と述べたようだが、1機あたり200億円以上という高額な値段に見合うだけの、災害救援能力があるのだろうか。日刊ゲンダイが”オスプレイ3600億円は序章・・・安倍首相「隷属演説」の高い代償”と言う記事を書いている。

普天間から飛び立ったばかりのオスプレイの隊長機
↑普天間飛行場を飛び立った直後の、オスプレイの隊長機。2014年1月27日。
 一昨日、北アフリカのモロッコに接するスペイン領セウタの国境で、スーツケースに子供を入れて密入国しようとした父親が逮捕されると言うニュースがあった。セウタと言う地名を聞いて懐かしいなと思った。ジブラルタル海峡を渡った北アフリカにあるスペイン領セウタから、ボクも陸路で国境を超えてモロッコに入った事がある。
 スペイン南部の港町アルヘシラスから船でジブラルタル海峡を渡り、北アフリカにあるセウタに到着したのが1986年の5月22日。2日間をすごして5月24日、市内からバスで国境のフロンティア(町の名前だったかバス停の名前だったか忘れてしまったが)へ向かった。フロンティアから200メートルほど歩けば国境だった。出国手続き、入国手続きをして税関で検査を受けて持っていたバッグを開けられた。同じ国境かはわからないが、たぶんX線の検査なんて、その頃は無かったように思う。
 モロッコに入国して最初の町・テツアンまでは40キロほどで、乗り合いタクシーで向かった。車はベンツで、1人15DH( デルハム)と言われたが、降りる時に小銭がなくて20DHを払ったらお釣を払わず走り去られて悔しい思いをしたのを覚えている。1DHは当時15ペセタほどで、日本円で15円ほどだった。ちょうどモロッコはラマダーンの期間に入っていて、滞在中はカルチャーショックの連続だった。
ジギジギ
 夜は、友人がやっている高岡のヘアーサロンで、めおと楽団ジギジギのライヴ。ジギジギは沖縄に住んでいた昨年の4月11日に那覇の桜坂ドラミンゴで見ているので、ちょうど13ヶ月ぶりだ。
 ライヴの後、打ち上げに参加して最終の電車で帰宅。You Tubeから「聖地巡礼/めおと楽団ジギジギ」。

5月7日(木)

 3、4、5日と県内のお祭りを追いかけて歩きっぱなしだったので、昨日と今日は足を休めるために、部屋に籠ってパソコンの前に座りっぱなしで作業。

 5月3日は、氷見の唐島弁天祭に。氷見漁港の沖合500mほどに浮かぶ唐島へ、光禅寺から弁天様が運ばれ豊漁と海上安全の祈願が行なわれる。観光協会に電話で確認すると、先ずは11時半から読経があると言う。氷見線の時刻表を確認すると氷見着が10時15分の次が11時40分、ちょっと早過ぎるが10時15分着の電車(ワンマンカー)に乗車した。
 光禅寺の近くまで来ると、アチコチで獅子舞が行なわれていた。光禅寺の境内に入ると藤子不二雄A(安孫子素雄)さんの描くキャラクターの石像が並んでいた。家に帰って調べると、光禅寺が藤子不二雄Aさんの生家だった。
↓石像が並ぶ光禅寺の境内。→お寺から持ち出される弁天様。
光禅寺から持ち出される弁天様
光禅寺の石像
唐島弁天祭の様子
今庄のチャンポン
↑上左 光禅寺での読経の後、お寺から弁天様が持ち出されて神輿に安置される/上右 各町の総代によって引かれる神輿/中左 4町の獅子舞、太鼓台と共に町内を巡行する/中右 巡行の後、先月の21日にオープンした魚々座の前で獅子舞が披露された/下左 弁天様を持った僧侶がボートで唐島へ渡る/下右 唐島で読経をあげた後、僧侶と総代がボートで戻られる。弁天様は一晩唐島で過ごし、次の日に帰られる

 町内での獅子舞を少し見学してから帰路に。氷見線で高岡まで来たが、高岡から最寄りの駅へ行く電車の到着まで暫く時間があったので、駅員さんに頼んで改札を出て駅ビルのに中に入っている立食い(テーブルも椅子もある)うどんの今庄へ。うどんとそばが半分ずつ入ったチャンポンを注文。

 5月4日は射水市の加茂神社で行なわれるやんさんまへ。ネットで調べると、本数は多くないが小杉駅から加茂神社の近くまで射水市のコミュニティバスが走っていた。やんさんまの開始時間は14時からで、それに間に合うバスは小杉駅12時35分、加茂神社に近い下村パークゴルフ場口に到着が12時54分だった。帰りの最終バスは18時5分で、流鏑馬の終わるのが17時15分なので余裕だと思っていたら、土・日・祝日は運行していない事が判明。最後まで見ると駅まで歩いて帰るしかない。歩くと1時間強だろうか?
 とりあえず加茂神社に早めに到着したので、撮影場所を確保してから境内を散策。 最初の儀式は、参道の前を通る県道204号線での走馬(そうめ)で、流鏑馬で走る3頭の馬が縦列に並んで東端から西端までを3往復する。馬が1往復半するのを見てから、境内で確保した撮影場所に戻る。
 このやんさんまのメインは流鏑馬式なのだろうが、個人的に是非見たかったのは神幸式で露払いして歩く行道獅子と、御幣で出来た御神体だった。特に御幣を重ねて白い大きな山のようになった御神体の造形に魅かれた。何かに似ているな、と思ったら久米島の六月ウマチーで神人が頭に被るミチャブイだった。

↓加茂神社の拝殿。奥に本殿が見える。→走馬(そうめ)。
走馬
加茂神社の拝殿
やんさんまの様子

↑上左 神幸式でご神体の先頭を歩く行道獅子/上右 本殿を出て拝殿の向かいにある御旅所へ渡御する神幸式。御幣を山のように重ねたご神体(依り代)が3体歩く/中左 神馬が3頭、拝殿前から鳥居までの流鏑馬の順路を駈ける神馬式(しんめしき)/中右 兜に甲冑を纏った武者が牛に乗り、周りの若衆が牛を押さえつけて座らせる牛乗式(うしのりしき)/下左 神幸式でご神体が入った御旅所の前で、獅子舞を奉納する御旅所神楽の儀(おたびしょかぐらのぎ)。この後、ご神体が本殿に戻られる還御が行なわれた/下右 拝殿の前で流鏑馬に跨がり天下太平・五穀豊穣を祈願して弓を射る九遍式(きゅうへんしき)

↓流鏑馬式。拝殿横から走って来て矢を射り鳥居を潜って参道を抜けて、また戻ってくる。3頭が3往復し、合計9回矢を射る。
流鏑馬式
 天気予報では午後から弱い雨が降ると言っていたが、途中から雨は本降りに。傘をさすと後ろの人に迷惑なので、沖縄滞在中に100円ショップで買ったビニールのポンチョを着る。シャッターを押さない時は極力ポンチョの中にカメラを入れたが、それでもかなり濡れてしまった。
 流鏑馬式も終わり、小杉駅へ歩いて向かう。交通整理をしている男性に方角を聞き、途中すれ違った車のドライバーに尋ね、ガソリンスタンドで教えてもらって到着。暴風雨の中、2時間弱歩いただろうか。思っていた以上に遠かった。ひょっとしたら遠回りをしたかもしれない。駅に着くと直ぐに高岡方面行きの電車が出発してしまい、次の電車まで待合室で50分待つ。スニーカーも靴下もジーンズもびしょ濡れだった。

 5月5日は、5年ぶりに城端の曳山祭に。城端まで電車で行こうと思うと、あいの風鉄道で一度高岡まで出てから城端線に乗り換える事になる。乗り換え時間も交通費ももったいないので、家から一番近い城端線の戸出駅まで30分ほど自転車で走った。
 城端の曳山は6町、6基。そして各曳山の前を庵屋台が先導して進む。「庵唄所望」の貼り紙が出された家の前で庵屋台が止まり、順番に庵唄が披露される。唄方は男性だけだった。
城端曳山祭の様子

↑上左 曳山の前を庵屋台が進む/上右 庵唄所望と書いた紙が貼られた家の前で庵屋台が止まり、唄が始まる/中左 狭い路地は曳山の屋根の一部を折り畳んで進む/中右 勇ましさよりも、情緒漂うのが城端の曳山の特徴だろうか/下左 庵屋台の中に地方(じかた)が入って演奏する/下右 庵屋台の後ろには唄方が並ぶ

↓曳山見学の合間に、獅子舞も見て来た。曳山は巡行図があって何時にどこに行けば見れるかわかるが、獅子舞は歩きながら獅子舞の笛や太鼓の音が聴こえる方を探すしかない。城端の獅子舞も5年ぶりに見たが、胴幕が大きい事に初めて気づいた。胴幕は丸く曲げた竹で支えているが、その竹の両端を各2人で持っている。幅は普通の胴幕の2倍ほどあるかもしれない。
城端の獅子舞
 城端の曳山は夕暮れ時から提灯を付け、提灯山になる。明かりを灯した曳山も情緒があって良いけれど、連日のお祭り見物でちょっと疲れているので、18時1分の電車で帰路についた。

5月2日(土)

 暖かいを通り越して、暑い日が続いている。晩ご飯に、今年初めての冷やし中華。今日の高岡の最高気温は23℃となっていたが、トタン葺きの2階の部屋はもう少し高いように思う。日中は窓を開けて風を通し、扇風機を回している。初夏のようだ。
 4月29日は石動の曳山祭、4月30日は出町子供歌舞伎曳山祭、昨日は高岡御車山祭を見物に行って来た。3日間とも電車を使わず自転車で行った。運動不足の解消、交通費の節約もあるが、電車の数が少ないので電車だと不便だと言うのもある。石動までは片道40分、出町までは1時間、高岡も1時間ほどだろうか。
 高岡の御車山祭は5年前に一度見ているので、今回は曳山の先頭で露払いをして歩く坂下町の源太夫獅子(げんだいじし)を中心に追いかけてみた。

坂下町の源太夫獅子
↑坂下町の源太夫獅子。曳山の先頭を歩くだけで獅子を舞う事はないが、巡行の途中で挨拶に訪れた家の前で型のようなものを披露する。↓曳山と、高の宮とも呼ばれる関野神社。関野神社の祭礼が御車山祭。
高岡御車山祭
↓4月30日の出町子供歌舞伎。見学したのは13:20〜の「絵本大功記 上」、14:30〜の「絵本大功記 下」、16:10〜の「釣女」。
出町子供歌舞伎
↓4月29日の石動曳山祭と、石動駅に隣接する立食い(椅子はあるけど)のうどん。天玉うどんで430円だったか?透き通っただし汁で、関西風。高岡駅の今庄もそうだが優しい味で、立食いとは思えないクオリティー。それにしても、赤巻きのはべん(カマボコ)の紙のような薄さにも驚いた。
石動の曳山祭

ベン・E・キング

 ベン・E・キングが一昨日亡くなった。ニュース記事を色々読んでいると、彼のヒット曲「 Stand By Me」は、1961年にリリースされているが、この曲を作ったのは1960年だそうで、ボクは「 Stand By Me」と同い年だったのかと変なところで感動している。
 ベン・E・キングのライヴを撮影したのは、1987年の9月で「大木トオル with ベン・E・キング」といったステージだったと思う。仕事ではなくて、このライヴを招聘したサロンゴミュージックの木下さんに誘われて撮らせてもらったのだった。来日アーティストの撮影は、このベン・E・キングが最初かと思っていたが撮影リストを確認するとネヴィル・ブラザーズとドクター・ジョンを87年の7月に撮影していた。このライヴも木下さんに撮らせてもらった。仕事で撮影した最初の来日アーティストはハッキリ覚えていて、87年11月にミュージック・マガジンの依頼で撮ったソウル・シンガー、ローラ・リーのコンサートだった。この時に撮影した写真は、後にピーター・バラカンさんの「ミュージック捜査線」(新潮文庫)にも使われている。
 You Tubeに、1987年の ベン・E・キングの「 Stand By Me」のライヴ映像があった。そしてもう一曲ローラ・リー「Dirty Man」。 
 町の図書館へ明日が期限の「定本 柳田國男集 第一巻」を返却し、他の図書館からの取り寄せをお願いしていた筑摩書房版「海上の道」の他、「風の中の島々 The Windy Islands/浅井慎平」(山と渓谷社)、「スノーモンキー/岩合光昭」(新潮社)を借りて来た。返却期限は、5月17日。

4月へ