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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表 |
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5月1日(金) 高岡市・御車山祭 |
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○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html ○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/ ○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html ○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm ○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/ ○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/ ○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/ ○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy ○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/ |
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一昨日の午前9時59分、口永良部島の新岳が噴火。気象庁は噴火警戒レベルを5に引き上げ、島民は全員フェリーなどで避難した。「10分前にも明らかな変化は観測されなかった」と気象庁は述べており、火山噴火予知の難しさを物語っている。 ここのところ震度5クラスの地震が続いている。
5月13日宮城県沖で震度5強、5月22日奄美大島近海で震度5弱、5月25日埼玉県北部で震度5弱、そして昨日。 |
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↑5年前の旅を始めた日、京都の四条にて。 |
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5年前の昨日、奄美大島へ向かって旅を始めた。2週間以上かけて京都、大阪、神戸、広島、山口、福岡、長崎、熊本、鹿児島と南西に移動した。梅雨に向かって進んだ感じだったが、この年は梅雨入りが遅かったのか、雨に降られたのは鹿児島に入ってからだった。 |
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安倍首相やじ「早く質問しろ」=抗議受け陳謝。2月にも衆院予算委員会で民主党議員の質問の最中に、「日教組!』とやじを飛ばし、自民党の大森理森委員長にたしなめられ、その後、自分の飛ばしたやじに正確性が欠けていたと発言を撤回し謝罪した。学習しないのだろうか? 翁長知事が25日、前知事の埋立て承認に関して有識者委員会から承認取り消しが提言されれば「取り消すことになる」と明言した。これに対して菅官房長官は、承認取り消しでも工事を継続する考えを示した。その際、「日本は法治国家であり、許可に基づいて工事を行っている。行政の継続もあり、辺野古移設工事は進めていく考えに全く変わりない」と述べたそうだ。 三上智恵監督の辺野古新基地反対運動を追ったドキュメンタリー映画「戦場ぬ止み」が、7月11日からの本上映を前に、ポレポレ東中野で先行上映されている。6月5日まで。 |
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通り過ぎた風景と記憶の断片(2)。写真は、こちらから。 | ||
以下は、キャプションです。 039 沖縄・那覇 泊港 (2012年6月23日) |
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昨日は、石動で開催されている獅子舞大共演会へ。運行本数の少ない電車で行くとよけい不便なので、自転車で。暑くもなく寒くもなく、梅雨前の今頃が一年で一番清々しい季節かも知れない。 | ||
自転車で40分ほど走って石動に到着。獅子舞の会場へ行く前に、駅横の立食いへ。天玉いなりうどんを注文。先月末に初めて食べた時ほどの感動はなかったかな。いなりはもう少し甘辛く炊いてある方が好みです。それでもお昼時とあって、食べている途中から行列ができたので急いで食べて店を出る。 |
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会場の小矢部商工会館前に到着し、案内所でプログラムを貰う。11時10分〜11時40分の渋江獅子方若連中の獅子舞が行なわれていた。昨日は町内の至る所で獅子舞が行なわれていたようだが、今日は基本的に一つの会場で順番に獅子舞が演じられる。 |
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↑上左 石動西部保育園の園児による演舞/上右 吉田町獅子方若連中の獅子舞/中左 金沢市大野町獅子舞保存会。大きな胴幕の下に車輪が付いている/中右 津沢夜高太鼓/下左・右 町内のアチコチで、胴幕や剣持の衣装などが干されていた。 | ||
先月の訪米で知日派育成の研究支援として3つの大学に各500万ドルをバラ撒いて来た安倍首相が、一昨日行なわれた島サミットの基調講演で、太平洋島嶼国にたいして今後3年間で550億円以上の財政支援を行なうと表明した。ずいぶんと気前の良い話だが、国の借金が1053兆円にまで膨れ上がり、国債は格下げ、国民には増税の負担を強いて、福祉はどんどん打ち切っている。どこにこんなバラ撒くお金があるのだろうか。安倍首相が世界にバラ撒いた金額が、きっこのブログに纏められている。 政府は21日、ISILによる日本人人質事件に関する検証報告書を発表し「政府による判断や処置に、人質救出の可能性を損ねるような誤りがあったとは言えない」と総括した。二人の人質が惨殺されていながら対応に誤りがなかったという結論は、あまりに反省がないだろう。日刊ゲンダイが後藤さんら浮かばれず・・・「人質事件」検証は”中身ゼロ”の茶番と書いている。ゲンダイだけでなく、京都新聞の社説は「人質事件の検証 これで再発は防げるか」、北海道新聞は「人質事件報告 第三者で検証やり直せ」、西日本新聞も「2邦人人質事件 検証報告に足りないのは」と当事者による客観性や透明性のない報告書を批判している。 今月20日に行なわれた共産党の志位委員長との党首討論で、「ポツダム宣言は詳らかには読んだことがない」とする安倍首相の発言が波紋を呼んでいる。「安倍ポツダム知らない宣言」をテレビ各局はどう伝えたのか? 5月17日に那覇のセルラースタジアムで「戦後70年 止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会」が開かれ3万5000人が結集したが、昨日は東京でも「首都圏アクション国会包囲ヒューマンチェーン」が開催され、1万5000人の市民が国会を取り囲み、辺野古への新基地建設断念を訴えた。ウオール・ストリート・ジャーナルも抗議の様子を写真で取り上げている。 22日に奄美大島で震度5を観測する地震があったが、今日は茨城南部で震度5の地震があった。 |
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ちょっと南の方が騒がしい。 奄美地方が平年より8日遅い、今月19日に梅雨入りした。沖縄は一日遅れて、20日に梅雨入り。 |
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島での移動手段は、だいたいが自転車かバスだった。時にはバスに自転車を積み込むこともあった。 奄美大島に着いたその日も、突然の大雨だった。食料を買いにスーパーのダイエーに行くと、ずぶ濡れになった女子高生の集団が裸足で歩いていた。亜熱帯の大らかさの様なものを感じて楽しくなった。 奄美でも沖縄でも、よくバスに乗った。目線が高くなり、見える風景がいつもと違うのが面白かった。ワクワクしながら、窓越しに通り過ぎる風景をカメラに収めた。 通り過ぎた風景と記憶の断片(1)。写真は、こちらから。 |
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以下は、キャプションです。 001 奄美大島・名瀬 (2010年6月24日) |
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兄弟ファンク・グループ、The Brothers Johnsonのベーシスト、ルイス・ジョンソンが亡くなった。10代の後半から20代の前半頃に、The Brothers Johnsonのアルバムや、彼がセッション・ミュージシャンとして参加したレコードを聴いた。初めて聴いたチョッパー・ベースは、ルイス・ジョンソンかも知れない。享年60歳。5つしか違わない事にちょっとビックリしたが、10代、20代の頃の5歳は、ずっと離れた大人に感じていたと思う。 |
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昨日は岩瀬の曳山祭り。岩瀬がどこにあるか分からずネットで路線を調べたところ、あいの風とやま鉄道で富山駅へ行き、ポートラムと言う路面電車に乗り換えて終点が岩瀬だった。 |
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シネマ食堂街を見た後、駅の北口に行きポートラムに乗車。終点の岩瀬まで乗車時間24分。料金は1回200円と安いが、乗車時間1分の隣駅までの乗車でも200円なので微妙だ。日中は1時間に4本ほど走っているようで、利便性もまずまず。日曜日で、お祭りもある事から乗車する人も多かった。 ←富山駅北口から発車する路面電車のポートラム。 |
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岩瀬駅を降りると、さっそく駅前に曳山が一台。が、少し曳いては休憩になり、なかなか進まない。暫く町中を歩くと、アチコチに曳山が居たが、やはりどれも少し曳いては休憩している。曳山は今日と明日の2日間あるからだろうか、あるいは夜のぶつかり合い(けんか山)に備えて体力を温存しているのだろうか。 曳山を追いかけるのはやめて、岩瀬の町中を散歩。展望台に上ったり、北前船回船問屋の森家(国指定入用文化財)に入って見学したりする。岩瀬地区が江戸初期から明治にかけて、北前船の交易で栄えた町だったと初めて知る。岩瀬に限らず、富山の事は2年過ごした奄美大島や沖縄よりも知らないと思う(汗)。 けんか山は22時頃からだそうだが、イベント情報のサイトに琴平(金比羅)神社出発時間20時と記載されていたので、何が行なわれるか分からないが少し早めに行ってみる。神社にいらした方に伺うと、この金比羅神社から諏訪神社へ御神体が還られる神事が行なわれるとの事。今年は時間が1時間早くなり、19時からだそうで早めに来ていて正解だった。 鳥居の下で出発に際しての神事が行なわれ、御神体を乗せた御神輿が境内を出る。始まる前に、サルタヒコという単語が聞こえたので、天狗のお面を着けたのは猿田彦だろう。行列では神輿の前を歩いて先導していた。 金刀比羅神社を出て諏訪神社へ向かう途中でも、神事が行なわれた。ところで岩瀬には諏訪神社が2つあった。御神体がお還りになる諏訪神社と、22時から曳山のぶつかり合いが行なわれる諏訪神社だ。 岩瀬曳山祭りのホームページに曳山の起源が書かれており、 「今から約330年以上前、現在の東岩瀬の位置よりも西の方に西岩瀬の町がありました。ところが、万治年間(1658~1960)富山湾を河口とする神通川が氾濫を繰り返して流れを東へと移したため、西岩瀬は港としての役割を充分に果たせなくなってしまいました。そこで西岩瀬の人々は新しく川港となった東岩瀬へと移住し、新しく町をつくっていったということです。万治2年(1659)東岩瀬へと移住してきた人々が西岩瀬の諏訪神社の分霊を勧請し、その際、ご神体に随行して神社の建築用材を井桁(いげた)に組んで運んだのが、曳山車のはじまりであると伝えられていますが、現在の郷土史研究では、東岩瀬のほとんどが消失した寛政4年(1792)の大火の後、復興を祝い災厄を防ぐ祈りのなかから、寛政8年(1796)に「あんどん山車」を曳くようになったという説が有力になっています」と記されている。 御神体がお還りになった小さい方の諏訪神社は元々あった地の神社だと聞いたので、ぶつかり合いの行なわれる大きい方の諏訪神社は西岩瀬から移って来た神社なのだろうか。 |
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↑上左 御神体を乗せた御神輿が置かれた金比羅神社/上右 出発に際し、鳥居の下で行なわれた神事/中左 金比羅神宮を出発する御神輿/中右 諏訪神社に向かう途中で行なわれた神事。写真右端は、天狗の面をつけた猿田彦/下左 御神輿を先導する猿田彦/下右 御神輿から降ろされ、諏訪神社の本殿へ還られる御神体。 | ||
↓曳山行列。 |
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御神体が諏訪神社の本殿に還られて、神事は終了した。この後、曳山はぶつかり合いの行なわれるもう一つの諏訪神社の前に並ぶ。ぶつかり合いは22時からと遅いので、富山までのポートラムは臨時便が出て最終は25時まである。しかし富山からの他の電車は臨時便があるわけではないので、曳山が諏訪神社に並び始めたところで残念だけれど帰路についた。 |
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先日、「役立たず」という酷評をネパールの地元紙から受けたオスプレイだが、17日にハワイ・オアフ島で訓練中に着陸に失敗し1人が死亡、21人が病院に搬送された事がわかった。この事故を受けて翁長知事は、事故原因が究明されるまでオスプレイの飛行停止を要求する考えを示した。 今日は朝からテレビのワイドショーもニュース番組も、昨日行なわれた住民投票で大阪都構想が反対多数となり、都構想を提唱してきた 橋下徹大阪市長が投票の結果を受け止めて任期満了となる12月で政界を引退するという話題で持ち切りだ。この話題に隠れてしまったが、昨日は「戦後70年止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会」が那覇のセルラースタジアムで開催され、3万5000人が結集した。翁長雄志知事あいさつ全文は、こちら。ネット中継動画は、こちら。 2020年に開催される東京オリンピックのメイン会場となる新国立競技場の建設について、屋根が間に合わない事が判明したそうだ。 |
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↑昨日の午前中、隣の田んぼに苗が植えられた。右は3月11日の様子で、2ヶ月ほどで随分と季節が移ろい、風景も変化したなと思う。 | ||
昨日は真夏日一歩手前だったが、今日は予想最高気温31℃という天気予報の通り、30℃越えの真夏日になった。ムシムシする暑い日で、夕ご飯は、さっぱりとつけ麺を食べた。 真夏日一歩手前の昨日、先月末に見に行ったチューリップ公園がどうなっているか気になって自転車で砺波まで出かけた。5年前の今頃はチューリップ農家の畑では、球根を育てるためにちぎった花を畑の肥料として撒いてあったのだが、今年は全然見かけない。畑に撒かれてだんだんと腐敗していくチューリップの花びらがフォトジェニックで、今年も撮影したいと思っていたんだけれど。チューリップ公園の方も、花びらがちぎられ、球根が掘り起こされていた。今年のチューリップは終わってしまった。 砺波からの帰り、戸出の100円ショップへ。以前買った万年筆が思いのほか使い易かったのでまた買おうと思ったら・・・無い。良いなと思って買いに行ったら、もう販売していない事が往往にしてあるのが100円ショップ。しょうがないのでソックスを2つ買って帰って来た。 |
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↑昨日のチューリップ公園。手前は花を摘まれたチューリップ。奥の方の花壇では球根ごと掘り起こされていた。 |
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昨日、安保法制が閣議決定された。10の改正法案を一つにまとめた「平和安全法制整備法」と、「国際平和支援法案」だ。これに対し憲法学者らが「法的に、政治的に、経済的に間違っている」として法案の撤回を訴えている。後方支援だから戦争ではないと言うのは詭弁だし、机上の空論であり、ある意味これも平和ボケだろう。 会見の中で、この法案によって「アメリカの戦争に巻きこまれる事はない」と断言しているが、今年1月、日本が十字軍に参加したとして、ISISにより日本人の人質2人が殺害されている。もう既にアメリカの対テロ戦争に巻きこまれているし、この法案によってテロリストに狙われる脅威はより大きくなったのではないだろうか。そもそも巻きこまれる事はないと言われても、これだけウソの実績がある。誰が信用するんだろうか。 |
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4月25日に起きたネパールの大地震から2週間以上が過ぎ、このところ現地の様子をニュース番組で伝えられる事もなくなってしまったが、最終的な被害はどれほどになったのだろう。 |
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↑普天間飛行場を飛び立った直後の、オスプレイの隊長機。2014年1月27日。 |
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一昨日、北アフリカのモロッコに接するスペイン領セウタの国境で、スーツケースに子供を入れて密入国しようとした父親が逮捕されると言うニュースがあった。セウタと言う地名を聞いて懐かしいなと思った。ジブラルタル海峡を渡った北アフリカにあるスペイン領セウタから、ボクも陸路で国境を超えてモロッコに入った事がある。 スペイン南部の港町アルヘシラスから船でジブラルタル海峡を渡り、北アフリカにあるセウタに到着したのが1986年の5月22日。2日間をすごして5月24日、市内からバスで国境のフロンティア(町の名前だったかバス停の名前だったか忘れてしまったが)へ向かった。フロンティアから200メートルほど歩けば国境だった。出国手続き、入国手続きをして税関で検査を受けて持っていたバッグを開けられた。同じ国境かはわからないが、たぶんX線の検査なんて、その頃は無かったように思う。 モロッコに入国して最初の町・テツアンまでは40キロほどで、乗り合いタクシーで向かった。車はベンツで、1人15DH( デルハム)と言われたが、降りる時に小銭がなくて20DHを払ったらお釣を払わず走り去られて悔しい思いをしたのを覚えている。1DHは当時15ペセタほどで、日本円で15円ほどだった。ちょうどモロッコはラマダーンの期間に入っていて、滞在中はカルチャーショックの連続だった。 |
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夜は、友人がやっている高岡のヘアーサロンで、めおと楽団ジギジギのライヴ。ジギジギは沖縄に住んでいた昨年の4月11日に那覇の桜坂ドラミンゴで見ているので、ちょうど13ヶ月ぶりだ。 ライヴの後、打ち上げに参加して最終の電車で帰宅。You Tubeから「聖地巡礼/めおと楽団ジギジギ」。 |
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3、4、5日と県内のお祭りを追いかけて歩きっぱなしだったので、昨日と今日は足を休めるために、部屋に籠ってパソコンの前に座りっぱなしで作業。 |
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5月3日は、氷見の唐島弁天祭に。氷見漁港の沖合500mほどに浮かぶ唐島へ、光禅寺から弁天様が運ばれ豊漁と海上安全の祈願が行なわれる。観光協会に電話で確認すると、先ずは11時半から読経があると言う。氷見線の時刻表を確認すると氷見着が10時15分の次が11時40分、ちょっと早過ぎるが10時15分着の電車(ワンマンカー)に乗車した。 光禅寺の近くまで来ると、アチコチで獅子舞が行なわれていた。光禅寺の境内に入ると藤子不二雄A(安孫子素雄)さんの描くキャラクターの石像が並んでいた。家に帰って調べると、光禅寺が藤子不二雄Aさんの生家だった。 |
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↓石像が並ぶ光禅寺の境内。→お寺から持ち出される弁天様。 |
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↑上左 光禅寺での読経の後、お寺から弁天様が持ち出されて神輿に安置される/上右 各町の総代によって引かれる神輿/中左 4町の獅子舞、太鼓台と共に町内を巡行する/中右 巡行の後、先月の21日にオープンした魚々座の前で獅子舞が披露された/下左 弁天様を持った僧侶がボートで唐島へ渡る/下右 唐島で読経をあげた後、僧侶と総代がボートで戻られる。弁天様は一晩唐島で過ごし、次の日に帰られる | ||
町内での獅子舞を少し見学してから帰路に。氷見線で高岡まで来たが、高岡から最寄りの駅へ行く電車の到着まで暫く時間があったので、駅員さんに頼んで改札を出て駅ビルのに中に入っている立食い(テーブルも椅子もある)うどんの今庄へ。うどんとそばが半分ずつ入ったチャンポンを注文。 |
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5月4日は射水市の加茂神社で行なわれるやんさんまへ。ネットで調べると、本数は多くないが小杉駅から加茂神社の近くまで射水市のコミュニティバスが走っていた。やんさんまの開始時間は14時からで、それに間に合うバスは小杉駅12時35分、加茂神社に近い下村パークゴルフ場口に到着が12時54分だった。帰りの最終バスは18時5分で、流鏑馬の終わるのが17時15分なので余裕だと思っていたら、土・日・祝日は運行していない事が判明。最後まで見ると駅まで歩いて帰るしかない。歩くと1時間強だろうか? |
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↓加茂神社の拝殿。奥に本殿が見える。→走馬(そうめ)。 |
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↑上左 神幸式でご神体の先頭を歩く行道獅子/上右 本殿を出て拝殿の向かいにある御旅所へ渡御する神幸式。御幣を山のように重ねたご神体(依り代)が3体歩く/中左 神馬が3頭、拝殿前から鳥居までの流鏑馬の順路を駈ける神馬式(しんめしき)/中右 兜に甲冑を纏った武者が牛に乗り、周りの若衆が牛を押さえつけて座らせる牛乗式(うしのりしき)/下左 神幸式でご神体が入った御旅所の前で、獅子舞を奉納する御旅所神楽の儀(おたびしょかぐらのぎ)。この後、ご神体が本殿に戻られる還御が行なわれた/下右 拝殿の前で流鏑馬に跨がり天下太平・五穀豊穣を祈願して弓を射る九遍式(きゅうへんしき) |
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↓流鏑馬式。拝殿横から走って来て矢を射り鳥居を潜って参道を抜けて、また戻ってくる。3頭が3往復し、合計9回矢を射る。 |
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天気予報では午後から弱い雨が降ると言っていたが、途中から雨は本降りに。傘をさすと後ろの人に迷惑なので、沖縄滞在中に100円ショップで買ったビニールのポンチョを着る。シャッターを押さない時は極力ポンチョの中にカメラを入れたが、それでもかなり濡れてしまった。 流鏑馬式も終わり、小杉駅へ歩いて向かう。交通整理をしている男性に方角を聞き、途中すれ違った車のドライバーに尋ね、ガソリンスタンドで教えてもらって到着。暴風雨の中、2時間弱歩いただろうか。思っていた以上に遠かった。ひょっとしたら遠回りをしたかもしれない。駅に着くと直ぐに高岡方面行きの電車が出発してしまい、次の電車まで待合室で50分待つ。スニーカーも靴下もジーンズもびしょ濡れだった。 |
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5月5日は、5年ぶりに城端の曳山祭に。城端まで電車で行こうと思うと、あいの風鉄道で一度高岡まで出てから城端線に乗り換える事になる。乗り換え時間も交通費ももったいないので、家から一番近い城端線の戸出駅まで30分ほど自転車で走った。 城端の曳山は6町、6基。そして各曳山の前を庵屋台が先導して進む。「庵唄所望」の貼り紙が出された家の前で庵屋台が止まり、順番に庵唄が披露される。唄方は男性だけだった。 |
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↑上左 曳山の前を庵屋台が進む/上右 庵唄所望と書いた紙が貼られた家の前で庵屋台が止まり、唄が始まる/中左 狭い路地は曳山の屋根の一部を折り畳んで進む/中右 勇ましさよりも、情緒漂うのが城端の曳山の特徴だろうか/下左 庵屋台の中に地方(じかた)が入って演奏する/下右 庵屋台の後ろには唄方が並ぶ |
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↓曳山見学の合間に、獅子舞も見て来た。曳山は巡行図があって何時にどこに行けば見れるかわかるが、獅子舞は歩きながら獅子舞の笛や太鼓の音が聴こえる方を探すしかない。城端の獅子舞も5年ぶりに見たが、胴幕が大きい事に初めて気づいた。胴幕は丸く曲げた竹で支えているが、その竹の両端を各2人で持っている。幅は普通の胴幕の2倍ほどあるかもしれない。 | ||
城端の曳山は夕暮れ時から提灯を付け、提灯山になる。明かりを灯した曳山も情緒があって良いけれど、連日のお祭り見物でちょっと疲れているので、18時1分の電車で帰路についた。 | ||
暖かいを通り越して、暑い日が続いている。晩ご飯に、今年初めての冷やし中華。今日の高岡の最高気温は23℃となっていたが、トタン葺きの2階の部屋はもう少し高いように思う。日中は窓を開けて風を通し、扇風機を回している。初夏のようだ。 |
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↑坂下町の源太夫獅子。曳山の先頭を歩くだけで獅子を舞う事はないが、巡行の途中で挨拶に訪れた家の前で型のようなものを披露する。↓曳山と、高の宮とも呼ばれる関野神社。関野神社の祭礼が御車山祭。 | ||
↓4月30日の出町子供歌舞伎。見学したのは13:20〜の「絵本大功記 上」、14:30〜の「絵本大功記 下」、16:10〜の「釣女」。 | ||
↓4月29日の石動曳山祭と、石動駅に隣接する立食い(椅子はあるけど)のうどん。天玉うどんで430円だったか?透き通っただし汁で、関西風。高岡駅の今庄もそうだが優しい味で、立食いとは思えないクオリティー。それにしても、赤巻きのはべん(カマボコ)の紙のような薄さにも驚いた。 | ||
ベン・E・キングが一昨日亡くなった。ニュース記事を色々読んでいると、彼のヒット曲「 Stand By Me」は、1961年にリリースされているが、この曲を作ったのは1960年だそうで、ボクは「 Stand By Me」と同い年だったのかと変なところで感動している。 ベン・E・キングのライヴを撮影したのは、1987年の9月で「大木トオル with ベン・E・キング」といったステージだったと思う。仕事ではなくて、このライヴを招聘したサロンゴミュージックの木下さんに誘われて撮らせてもらったのだった。来日アーティストの撮影は、このベン・E・キングが最初かと思っていたが撮影リストを確認するとネヴィル・ブラザーズとドクター・ジョンを87年の7月に撮影していた。このライヴも木下さんに撮らせてもらった。仕事で撮影した最初の来日アーティストはハッキリ覚えていて、87年11月にミュージック・マガジンの依頼で撮ったソウル・シンガー、ローラ・リーのコンサートだった。この時に撮影した写真は、後にピーター・バラカンさんの「ミュージック捜査線」(新潮文庫)にも使われている。 |
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You Tubeに、1987年の
ベン・E・キングの「 Stand By Me」のライヴ映像があった。そしてもう一曲ローラ・リー「Dirty Man」。 町の図書館へ明日が期限の「定本 柳田國男集 第一巻」を返却し、他の図書館からの取り寄せをお願いしていた筑摩書房版「海上の道」の他、「風の中の島々 The Windy Islands/浅井慎平」(山と渓谷社)、「スノーモンキー/岩合光昭」(新潮社)を借りて来た。返却期限は、5月17日。 |
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4月へ |