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バックナンバー
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能

5月1日(火) 高岡御車山祭
5月2日(水)、3日(木) 井波よいやさ祭り *2日は宵祭
5月3日(木) 越中八尾曳山祭
5月3日(木) 氷見 唐島弁天祭
5月4日(金)、5日(土) 城端曳山祭
5月4日(金) 五箇山 菅沼集落の春祭り
5月14日(月)、15(火) 有磯正八幡宮 春季例大祭
5月14日(月) 射水市 六渡寺の獅子舞
5月14日(月) 伏木曳山祭 宵祭
5月15日(火) 伏木曳山祭
5月19日(土)、20(日)*25日前の土・日曜日 利屋町の天神祭り  関野神社から木像天神像が運ばれ、龍雲寺へ
5月20日(日) 越中だいもん凧まつり 8時30分〜16時
5月24日(木)、25日(金) 於保多神社 鷽替え神事 午後6時「浦安の舞」「蘭陵王」 午後7時鷽替え神事 夜9時鷽替え 献書祭
5月26日(土)、27日(日) 小矢部の獅子舞祭
5月27日(日) 新川神社 お田植祭 9時30分〜13時
6月1日、2日 砺波市鷹栖 夜高祭り
6月2日、3日 国泰寺 開山忌 虚無僧による尺八の奏上
6月2日(土)〜8月19日(日) 「古写真にみる高岡」 高岡市立博物館
6月? 櫟原神社春季例大祭 宵祭に鯛行燈(ヤサコ)や高張提灯の行列が渡る。
6月10日 除煌祭 埴生護国神社
6月14日(木)、15日(金)? 高岡千石町 天満宮の献書祭 *15日午後2時〜
6月15日(金) 祇園祭 有磯正八幡宮 午後3時半〜
7月22日(日)〜28日(土) 城端別院善徳寺の虫干法会 *盤持ち大会は22日
7月24日(火) 入善 新屋住吉社 新屋大磐祭り
7月28日(土) 南般若えんじゃらふれあい夏まつり 盆踊り歌「えんじゃら節」 南般若公会堂前 記事
7月28日(土)、29日(日) 芦峅寺・雄山神社大例祭
7月31日(火) 黒部市中陣のニブ流し
8月13日(月) 芦峅寺 御招霊の迎え火 
8月24日、25日? 鉄砲町・白銀後町の天神祭り
8月26日(日) 第36回高岡薪能 瑞龍寺
9月13日 魚津八幡宮 御神幸 猿田彦
9月の第4土日 沓掛の獅子舞
9月29日(土)予定 新川神社 稲刈り
10月6日 射水市 六渡寺の獅子舞
10月14日?15日 入善 新屋の獅子舞 住吉社
10月14日、15日に近い土日 椚山の獅子舞
入善町の獅子舞状況

◯新川神社 御田植祭5月
◯高瀬神社 御田植祭5月 抜穂祭9月
◯射水市三ヶの十社大神 御田植祭
◯7年に1度、10月に開催 次は2022年 朝日町山崎 米吊り奉納
◯福岡町沢川の獅子舞 9月の第4土曜日?
◯加茂神社 出雲へ神を送る神送祭 9月30日と10月31日?
◯岩稲八幡社の神送り・神迎え 10月下旬と11月下旬の日曜日 
◯5年に一度、若手神職でつくる県神道青年会が御田植祭
◯2019年 白山宮の本尊。秘仏十一面観世音菩薩をご開帳(33年毎)。
◯33年に一度 庄川の神賑わい 次回は2023年7月

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事
富山の祭り
築山行事
*砺波の獅子舞 各地区の日程
年中行事覚書 柳田国男
田の神祭りに見る日本人の神意識
山の民の祈り
立山に生きる村ー宗教集落芦峅寺のくらし
五箇山の獅子舞の起源
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

5月31日(木)

 「私が食事をごちそうしてもらいたいから国家戦略特区を特別にやるって。例えば、焼き肉をごちそうしてもらいたいから、そんなことをするって考えられないですよ
 誰もそんな事は聞いていないのに、話しの論点をすり替える安倍話法。どこが真摯で誠実な説明なのか。ご飯論法というのが最近話題になっているが、これも安倍話法の一つだろう。
 麻生財務大臣が一昨日午前の財務金融委員会で森友学園の決裁文書の改竄に関して「白を黒にしたような改竄といった悪質なものではない」と答弁。野党からの批判を浴びて午後には「白を白に変えてもダメ」と事実上の修正をしたが、虚偽の答弁に合わせて300ヶ所以上を書き換えることが悪質じゃないと一時でも思ったのなら、常人の理解を超えている。

 こちらに昨日の党首討論を書き起こした記事がある。この中で菅野完氏が<「野党は不甲斐ない」という人は国会論戦を見ていない>と述べている。
 今試されているのは野党ではなく、与党の立ち振る舞いだろう。こちらで動画も観れます。どんなに酷い答弁か確認した方がいい。画面の枝野幸男という名前をクリックすると、動画が再生されます。

 北海道の土地が水資源を狙った外国の法人や個人によって買われているという陰謀論が時々SNSなどで流れて来るが、実際はどうなのかNHKの記者が調べたのがこちら。それでも陰謀論が好きな人は、今度は九州国際大学の学長のようにNHKは中国や韓国に乗っ取られていると言い出すんだろうか。
 <陰謀論のやっかいなところは、否定されることがマイナスにならないことです。いくら専門家が論破しても、「彼らは真実を隠蔽している」「資料が改ざん・破棄された」と言い逃れすることができます
 現代ビジネスの「この国に陰謀論が蔓延する理由」歴史学者・呉座勇一に訊くに、陰謀論がなぜ広まるのかが考察されておりとても面白い。

障害年金の「打ち切り予告」1010人に送付。年金機構が「障害の程度が軽い」として
 アベノミクスの果実とやらは、どこにこぼれ落ちているんだろうか?

 8年前の昨日、奄美大島へ向かって旅を始めたのだった。京都、大阪、神戸、尾道、広島、下関、博多、長崎、熊本、鹿児島と寄り道して、名瀬に着いたのは6月16日の朝だった。
京都の鴨川
↑京都の鴨川。2010年5月30日に撮影。
 昨年の6月21日に撮影した愛本姫社まつりの様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
愛本姫社の御神体である、花魁の版画
↑愛本姫社の御神体で、年に一度御開帳される英泉作の花魁の版画。↓大蛇お光行列。
大蛇お光行列

5月28日(月)

 一週間ほど前に<加計問題 獣医学部「首相『いいね』」 15年に理事長に>という記事が出たが、これに対して加計学園が「実際にはなかった総理と理事長の面会を引き合いに出し、県と市に誤った情報を与えてしまったように思う」とのコメントを発表した。
 誤った情報・・・県と市に嘘をついたことが誤った情報という言葉に変換されている。正気だろうか?
 この加計学園側のコメントを受けて愛媛県の中村知事は「普通の常識で考えたら、当事者が嘘をついたと。もしそれが本当だったら、ついた愛媛県と今治市に対して謝罪をして、説明をして、それから責任者が記者会見 して発表するっていう手順を踏んでいかなかったら、おかしいじゃないですか。だからありえないんじゃないですか。本当なんですかね」と不信感をあらわにしている。この状況でも記者会見を行わない加計理事長が不思議でしょうがない。獣医学部建設にあたっては今治市が市有地を無償譲渡し、愛媛県と今治市が学園側に補助する対象額が約186億4000万円だそうだ。「誤った情報を与えてしまった」で済むんだろうか?
 また加計学園側が「総理と理事長が面会」という嘘をついたのなら、本来一番怒らなくてはならないはずの安倍総理が 「私が加計理事長と会ったか会わなかったかは全く関わりがない」と話しをすり替えている。「学園による獣医学部計画を知ったのは17年1月」という総理の答弁を死守するために、この国のモラルが瓦解している。

細野豪志議員のブログを題材にして「高度プロフェッショナル制度」を解説してみた。
 労働者は消費者でもある。労働者の賃金を低く抑えることばかりを考えて、その認識が欠如していれば個人消費も伸びないだろう。いつまでたってもこの国の経済が浮上しないわけだ。

横書き+太字強調 中学教科書「目新しい国語」に注目集まる
<国語教科書に詳しい京都大学速読学部の坂本義太夫教授(影送論)は「21世紀初頭、日本人の長文読解能力は3行だったが、この20年間で140字まで縮 まった。一目で理解できる見出しやテレビのテロップのように、脳に負担がかからない短文を大量に処理する能力を高めるほうが現代国語にふさわしい。文章を最後まで読んで味わう、真偽を吟味するという考えはもはや時代遅れだ」と話す>
 虚構新聞のネタだが、いいところを突いて来るなと感心させられる。現実に日本人の読解力の低下を注意喚起している記事を、最近よく目にするようになった。
教科書の文章、理解できる? 中高生の読解力がピンチ
読解力が危ない(1)〜問題文が理解できない
教科書や新聞が理解できない?読解力の低い中高生が「多い」結果が判明 問題例3つ
 まあ、この国のツートップがあれあれだからな。

 25日は13年ぶりに復活した於保多神社の鷽替え神事を、昨日は新川神社の御田植祭を撮影に行って来た。こちらの様子も後々UPいたします。

土人形の鷽
↑於保多神社の鷽替え神事で使用される土人形の鷽。年ごとに色を変えていくそうで、今年はピンクの鷽だった。
↓新川神社の御田植祭で田植えを体験する子供たち。
新川神社の御田植祭

5月27日(日)

 新川神社で開催している「田んぼの学校」での、田植え体験を撮影に行く。今年で5回目だそうだ。
 ホームページには9時30分からと書いてあったが少し早めに着くようあいの風とやま鉄道に乗るが、踏切の非常ボタンが押されているとのことで10分以上出発が遅れ、富山駅に到着したのは定刻より10分ほど遅い8時3分頃だった。

新川神社
 富山駅のホームで輪行して来た自転車を組み立てて、新川神社へ向かう。先月の春祭りに来ているので、もう地図を見なくても辿り着ける。
 8時半頃に神社に着くと、子供たちが早乙女姿、田男姿に着替え終わって参集殿から出て来たところだった。
 着替えが終わり禰宜の舩木さんの指示で、先ずは手水舎で手と口を清めて拝殿の中に入って行った。

←新川神社。↓手水舎でお清め。
手水舎でのお清め

 舩木さんに、先月撮影させていただいた春祭りの様子をまとめたフォトブックをお渡しする。そして今日の御田植祭の式次第を一部いただいた。以下、備忘録として引用。
「第五回 田んぼ学校 田植え体験」
一、趣旨   子供たちに稲作を通じて、収穫の喜び・感謝の気持ちを感じ取ってもらい、神道、昔ながらの日本の生活文化に親しんでもらう。
一、開催場所 新川神社(宮司 舩木信光)/奉耕者 吉田榮一氏 田添啓一氏
一、開催日  田植え 五月二十七日(日) 【稲刈り 九月二十九日(土)予定】
一、主催   新川神社・新川神社総代会
一、内容   子供たちと共に田植え・稲刈りを体験し、米作りを学ぶ。収穫したお米を神宮、開催神社に奉納する。収穫した稲わらで神社と家庭用にしめ縄を作る。新米おむすびをみんなで頂く。
一、日時   八時      助勢者・鷹乃羽雅楽会 集合・準備/受付・田男早乙女衣装等着替え・習礼
       九時      習礼(リハーサル)田男、早乙女、鷹乃羽雅楽会
       九時三十分   集合時間受付(公民館)
       九時五十分   開校式(宮総代会長挨拶)/お米にまつわるお話(奉耕者 吉田榮一氏 田添啓一氏)
       十時      御田植祭
       十一時     田植え体験
       十二時     着替え・昼食・休憩
       十二時三十分  古事記かみしばい 古事記とお米に関するクイズ
       十三時     閉校式(総代挨拶・宮司挨拶)

御田植祭 次第
・神楽 太鼓
・修祓
・献撰 神饌六台+早苗二台 全て伝供 奏楽・五常楽
・祝詞奏上
・玉串奉奠 斎主・宮総代・田主(奉耕者 吉田榮一氏 田添啓一氏)・子供二名 奏楽・越殿楽
・神楽 太鼓

神事のリハーサル01
神事のリハーサル02

←↑御田植祭のリハーサル。

 拝殿に入ると、先ずは御田植祭の神事のリハーサルが行われた。神事では子供たちが神饌や早苗の台を伝供(ジグザクに並び、バケツリレーのようにお供えを運ぶ)によって本殿の前に供える。その練習だ。最初は戸惑っていたが、何回か繰り返すうちに子供たちの動きも慣れていった。
 9時50分になって、田んぼ学校の開校式。宮総代、奉耕者の挨拶の後、御田植祭の神事が執り行われた。  

御田植祭の神事
足袋を履いて田植えの準備

↑御田植祭の神事。

 リハーサルのかいもあって、御田植祭の神事は式次第の通りスムーズに進行。
 田植え体験をする子供たちは足袋を履き、拝殿の前に並ぶ。
 神職、楽人、田男・早乙女の子供たちの順に並び、楽人が雅楽を奏でる中、神饌田へ向かって歩いていく。
 神饌田は神社の直ぐ横にあり、参道から鳥居を潜り、2分ほどで神饌田に到着した。

神饌田へ01
神饌田へ02
神饌田のお祓い
 さほど広くはない神饌田に着くと、楽人が奏する中、神職によりお祓いが行われる。
 そして雅楽が奏でられ、舩木禰宜の叩く太鼓に合わせて子供たちが田んぼに苗を一本ずつ植えていく。
 途中からは田男・早乙女姿ではない子供たちも一緒に田植えを体験。
 一時間の予定だったが、何回か参加して慣れている子供もいて30分ほどで田植えが終了した。
田植え体験01
田植え体験02
↑青空の下、白と赤の早乙女姿が眩しい。
田植えの終わった神饌田と泥を落とす子供たち
↑田植えが完了した神饌田と、身体や服についた泥を落とす子供たち。
昼食時間
昼食のカレー
 泥を落とし着替えたところで、境内にある参集殿で昼食。
 神饌田で昨年収穫したお米を使い、カレーライスが提供された。
 田植えが30分ほど予定より早く終わったので、昼食後はしばらく自由時間。そして12時過ぎから古事記の紙芝居と、古事記とお米にまつわるクイズ大会が催された。クイズはほとんどが三択問題で、正解するとお菓子が貰えるので張り切っていた。
紙芝居とクイズ
立山そばのエビ天玉うどん

 クイズが終了し、13時頃に田んぼの学校は閉校。子供たちに稲の生育を観察するノートが配られた。
 今日神植えられた稲は、9月29日に子供たちによって刈り取られる予定だ。

 舩木さんに撮影させていただいたお礼を言って、富山駅へ自転車を走らせる。
 頑張れば13時46分の金沢行きに乗れそうだったが、 14時14分にも金沢行きがあるので、駅の立山そばで「エビ天玉うどん」を食べることにした。

5月25日(金)

 確か22日の北日本新聞の朝刊だったと思うが、<幸運呼ぶ神事復活 25日に於保多神社で「鷽替え」>という記事が載っていて驚いた。於保多神社の鷽替え神事はとやまの行事百選にも選ばれており撮影したいと思っていたが、平成17年を最後に途絶えていた。これは是非見に行かなければ! 
 於保多神社は祭神に菅原道真公、富山藩初代藩主・前田利次、二代藩主・前田正甫、十代藩主・前田利保を祀っており、富山の天神様として崇敬されている。明治6年に「柳町天満宮」から「於保多神社」に改称したとされる。
 記事によれば鷽替えで使用する土人形の販売は一人一体で24日は午前10時〜午後7時、25日は午前9時〜午後6時でそれぞれ100体用意。無くなり次第終了で予約や取り置きはしないと書いてある。鷽替えは夕方からだが土人形が売り切れていたら困るので、余裕をみてお昼前に神社に買いに行くことにした。
於保多神社
 あいの風とやま鉄道で、富山駅に11時9分に到着。駅で輪行して来た自転車を組み立てる。一応地図をプリントして来たが、先月新川神社のどべを撮影に来た時に、空いた時間に於保多神社へ寄ったので迷わず辿り着けた。
 於保多神社の鳥居の前には祭礼の旗が掲げられていた。
 さっそく拝殿に行きお参りをしてから、鷽替えに使う土人形の鷽を買う。一体500円だ。
土人形の鷽01
↑鷽替えで使う土人形の鷽。5色あり、年ごとに色を変えて行くそうだ。今年は薄いピンクの鷽。土人形の横では、富山の土人形を紹介した本『うしとうそ』も販売されていた。
土人形の鷽02
↑購入した鷽の土人形。裏(腹)に「は34」と記しがついている。同封されている栞に鷽替え神事のことが詳しく書かれていたので、少し長くなるが引用しておきます。

鷽替え神事
「替えましょ」「替えましょ」「ウソをまことに 替えましょ」*袋に入れたまま取り替えます

「鷽・うそ」は菅原道真公に由縁のある鳥で、古来より幸運を招く鳥と伝えられてきました。

鷽替え神事は太宰府天満宮から始まり、その後天神様をお祀りする神社で行われるようになり、現在も多くの天満宮で行われています。於保多神社では、江戸時代末期から明治の初めにかけて起こったといわれています。
全国の多くの天満宮では木鷽を、於保多神社では、土人形の鷽を神縁品として用いています。
この土人形は富山土人形で、江戸時代 嘉永年間に富山十代藩主前田利保公(於保多神社 御祭神)が奨励して始まり、富山の産業、伝統、風俗として今日に至るまで伝承されてきています。
於保多神社の鷽替え神事は、土人形の鷽を手にした参拝者が境内社殿前で、「替えましょ 替えましょ」と呼び合いながら、土人形の鷽をお互いに取り替えることで、一年間についた鷽(ウソ)を天神様の誠心に取り替え、これまでの災いを鷽(ウソ)にして、吉(まこと)にとり替え幸運を戴く神事です。
土人形の鷽には番号がついています。取り替え終了の合図の太鼓後、神職が「くじ」を引きます。当たり番号の鷽鳥を持っている参拝者に賞品(金の鷽)をお渡し致します。

学問の神様、学芸の神様、正直の神様、書道の神様、詩歌の神様と称えられる天神様の御神徳を受けられ、皆様のこれからの生活が健やかに、お幸せにお過ごしいただけますようにご祈念致します。

↓献書祭で、拝殿にはたくさんの書が飾られている。→鷽替えの案内。
鷽替え神事の案内
献書祭
 於保多神社では昨日と今日が春季例大祭で、昨日は神輿が町内を巡行したそうだ。後で聞いたところによれば、その神輿巡行には猿田彦が先導役として同行するそうだ。
 この5月25日は天神様(菅原道真)縁の日として、各地で天神祭りが行われる。先日撮影した利屋町の天神祭りも本来は25日だし、明日行われる小矢部の観音寺の大威徳天神祭も本来は25日だ。それが近年は、人の集まり易い25日に近い土日に変更されている。
 昨年の10月25日に柿天神を撮影させていただいた伊勢玉神社でも嘗ては5月25日にも天神祭を斎行していたという。5月は春の天神祭、10月は秋の天神祭と言っていたそうだ。
 なぜ5月なのかは不明だが、二十五には天神様の縁の日で、菅原道真公が生まれたのは6月25日、太宰府に左遷が決まったのが1月25日、亡くなられたのが2月25日となっている。
 天神様は学問、書道の神様と言われており於保多神社の拝殿にはたくさんの書が飾られ、献書祭も行われていた。
市役所の食堂での昼ご飯
 念願の鷽替え用の土人形が購入できた。鷽替えは19時頃からだが、18時から拝殿で「浦安の舞」と「蘭陵王」の奉納が行われる。それまでは時間が空くので、昼ご飯を食べに行く。
 先月食べた味覚亭は店舗工事で休業中だったので、自転車で市内を走って良さげなお店を探していると市役所の前に。市役所の中に入ると、レストランがありメニューを見ると安い。
 ラーメン330円と、混ぜご飯90円を購入。
 市役所で昼ご飯を食べた後、市立図書館・ガラス美術館が入っているTOYAMAキラリで開催中の富山おさんぽ写真部メンバーによる『レンズの向こう側 Vol.3』を観に行く。写真展を観た後、図書館で郷土誌を少し探した後、まだ行ったことのなかった富山県美術館へ。昨年の8月26日にフルオープンしたが、機会がなくて来れずじまいだった。
富山県美術館
↑富山県美術館。↓美術館の屋上から眺める富岩運河環水公園。
美術館の屋上から眺める富岩運河環水公園
露店商で賑わう於保多神社

 美術館内の図書室にあった写真集を眺めて時間を過ごし、再び於保多神社へ。途中、スーパーで菓子パンを一つ買い食いして17時半頃に到着。
 境内に出店した露店のまわりに子供たちが集まっている。
 舞を奉納する拝殿の下、左右に獅子頭が置かれていた。向かって左の獅子頭は、耳が立っている。初めて見たが、調べれば他にも色々とあるようだ。
←子供たちで賑わう境内の露店。↓拝殿と耳の立っている獅子頭。

拝殿と獅子頭
浦安の舞の奉納
 18時になり、拝殿で奉納が始まった。先ずは宮司さんの娘さんによる「浦安の舞」、続いて宮司さんによる舞楽「蘭陵王」。
  於保多神社は、たてもん祭りで知られる魚津の諏訪神社の武田邦浩宮司が2年前に宮司を引き継ぎ、現在は諏訪神社の兼務社となっているそうだ。
 この「浦安の舞」「蘭陵王」の奉納も、今年からの試みだそうだ。簡略化が進む祭祀や年中行事に、一石を投じる試みだろう。
舞楽・蘭陵王の奉納
↑武田宮司による「蘭陵王」の奉納。
春季例祭の神事
 舞が奉納された後、蘭陵王の衣装から神職の衣装に着替えた武田宮司により、引き続き春季例大祭の神事が執り行われた。
 祓え詞奏上、修祓、祝詞奏上、玉串奉奠。10分ぐらいで神事は終わり、いよいよ鷽替え。土人形を持った人達が拝殿の前に集合し、宮司さんの「替えましょ 替えましょ」の合図で近くの人と土人形を交換し合う。
鷽替え01
 鷽替えの時間は5分もなかったかも知れない。自分も写真を撮りながら2回交換した。地元の年配の女性は懐かしみながら「替えましょ替えましょ」と楽しそうだった。
鷽替え02
夜の於保多神社
 鷽替えが終了すると、宮司さんが拝殿に戻りクジの抽選を行った。
 幣(ぬさ)を振り引っかかったクジが当たりで、10個を抽選。自分の持っている鷽の腹に書かれた番号が、当選番号と一致していれば金色の鷽が貰える。
 自分の交換した鷽は「は14」で当選しなかったが、残念に思うことはなく楽しかった。
 参加した方々が皆さん楽しそうで、復活は大成功ではないだろうか。
 *北國新聞の記事KNBニュース

5月22日(火)

 伸びて来たので、午後から髪を切りに行く。サイドとバックに3mmのバリカン、トップは2cmほど切ってもらう。この2年半ほどは、ずっとツーブロックだ。
 すっきりした頭で、先月春福祭りを撮影させていただいた小矢部の福町神明宮へその時の写真とフォトブックを届けに行く。せっかく小矢部まで来たので春福祭りのお神輿巡行で通った、川岸町(現・東福町)へ行こうと小矢部川沿いを自転車で走っているとえびす像が目についた。まあ、この国のツートップがあれとあれだからな。
↓→小矢部川沿いの道に設置されたえびす像と石碑。
石碑
西福町のえびす様

 えびす像の横には石碑があり、以下の文が刻まれていた。

古書に誌していう
  福町村の東のかたを小矢部川うち流れて射水郡の新湊に注ぎ舟◯の便あり 故に今石動 福町村ともに商業盛にして富豪の家少からず近傍諸村には茶 生糸 真綿 釘 簾 団扇なんど製しこの町にて貿易す 云々
 慶長十一年(一六〇六)加賀藩は徒渉りの小矢部川 福町に渡守を置く
 寛永十九年(一六四二)小矢部川流域の舟運の便を利用し福町の近傍に藩倉 小矢部御蔵を設く
 正保四年(一六四七)水陸の交通も繁しくなり長さ三十三間の大橋をかけ舟つき場がつくられ ここを河堂波止場また浜といった 御蔵の米が毎日のように二十五石積みの長舟数十隻で伏木港へ下り  また乗合舟も旅人で賑わった
 慶安元年(一六四八)加賀藩は町立の許可を行う
 それ以来 公式に商売を行い 次第に家並みもふえ 浜には活気が溢れた

 福町は小矢部川を使った水運で栄えた町なのだろう。えびす像のある西福町から橋を渡って東福町へ。旧町名の川岸町に自転車をとめて、町並みをしばらくスナップして歩く。こちらのブログによれば、川岸町には嘗て花街があり、貸し座敷9軒、料理屋8軒、芸妓47名、娼妓5名の規模だったと書いてある。そんな花街の面影を残している建物が僅かに存在している。

川岸町01
川岸町02

 花街の面影を残す通りは200m程で、15分ほどブラブラして帰って来た。
 夕方のニュースは、関西学院との定期戦で悪質なタックルをしたとされる日大のアメフト選手の記者会見の模様が大きく取り上げられていた。
タックルは「監督の指示」 反則のアメフト日大選手
アメフット 私の独断で行ったことではない 日大選手の陳述書全文
「つぶせ」は「最初から当たれ」という意味 日大が主張

金子エミさん
 8年ほど前に祭りを撮影に行くと髪型をソフトモヒカンにしている若連中をよく見かけたが、この2〜3年でツーブロックの若連中が増えた気がする。刈り上げたサイドに、ラインを入れたり文字を入れたりと気合いが入っている。祭りのスナップ写真には、そんな時代の流行り廃りも記録される。 
 ちょうど10年前、今では美容家として活躍しているパーツモデルの金子エミさんとフォトセッションをしていた。まだワニブックスから最初の著書『お家でおこもりエステ』を出したばかりで、美容家として活躍の場を広げようとテレビや雑誌に積極的に出ていた。フォトセッションの様子は日テレの情報番組「スッキリ」でも放送された。 
 当時の彼女の髪型はショートボブだったが、サイドの髪を持ち上げると中は刈り上げになっていた。髪の毛が多いのでそのままではボリュームがあり過ぎるので、美容師が提案したそうだ。 サイドの髪を下ろすと普通のショートボブに見えるが持ち上げると刈り上げで、今風に言えばツーブロックだろうか。その当時にツーブロックという言葉があったか知らないが、そのちょっとパンキッシュな髪型で何枚か写真を撮った。
 何度かフォトセッションをして、その年の6月に彼女の2冊目の著書『家事をしながらエステ』の撮影を担当した。 

5月21日(月)

 どれも虚構新聞のネタに見えるが、残念ながら虚構新聞のネタは一つで、そのネタが一番話しとしてはマトモだという地獄。◯「セクハラ罪という罪はない」の答弁書、政府が閣議決定
柳瀬氏の面会確認困難、政府が答弁書を閣議決定
「記憶にない」でも安心 記憶復元ソフト開発 千葉電波大
トリチウム、海なら影響10年 政府小委員会が見解 
西川・九国大学長「TV局、中韓に乗っ取られている」改憲派集会で発言 大学は交流協定締結

 昨日が浅草三社祭の最終日。最終日は三基の本社神輿が出され、浅草の街を練り歩く。散歩がてら何回か三社祭を撮影に行った事がある。夜、街中を渡御した本社神輿が宮入りするのを隣りの浅草寺から観ていて、その熱気に興奮したのを覚えている。 三社祭の他、浅草寺・浅草神社の祭りの設営から陣頭指揮までを代々とるのは新門組で、初代は江戸の火消しで鳶頭、侠客であった新門辰五郎。その新門辰五郎の末裔であり、新門の七代目組頭の杉林仁一さんを撮影させていただいたことがある。もう、25〜6年ほど前で、近畿日本ツーリストの発行していた旅行誌『ジョイフル』の下町特集での撮影だった。

杉林仁一さん
 カメラマンになって良かった事の一つが、色んな人にお会いできること。自分個人が撮りたいな~と思う範囲の人物というのは自分自身の引き出しの少なさや キャパシティーの小ささから特定のミュージシャンに限られたりするけれど、仕事であれば自分が想像できる範囲を超えて様々な人に会って撮影することになる。それが楽しい。ある時は陶芸家であったり、料理人であったり、そして新門辰五郎の7代目の方であったり。
 近ツリの『ジョイフル』はわりと長く仕事をしていて、途中に一度編集長が交代した。新しく編集長に就いたのは若い女性で、それまでの細かな情報を詰め込んだ旅行誌から、ビジュアル中心の特集主義になった。写真が大きく扱われるようになり、嬉しかった。
 編集プロダクションを通して仕事を受けていたのと地方のロケが多かったので、その新しく編集長になった女性と一緒に仕事をする事はほとんど無かったが一度だけ写真家の前田真三さんの取材でご自宅へ伺った時に、彼女が同席した。名刺には有本香と書いたあった。
 雑誌『ジョイフル』は遠の昔に廃刊になったが、この何年かで保守派の論客として彼女の顔をテレビで見ることが多くなった。
↑新門組7代目、杉林仁一さん。自宅の玄関前で撮影。
 昨日は利屋町の天神祭りがあった。こちらの様子も後々UPいたします。
利屋町の天神祭り
↑御神体(天神像)の神籬を乗せた子供神輿が町内を巡行する。
 愛媛県から加計学園による獣医学部新設を巡る新たな文書が提出された。
加計問題 獣医学部「首相『いいね』」 15年に理事長に

5月20日(日)

 今日は越中だいもん凧まつりがある。昨年は伏木の氣多神社の慶賀祭と重なり午前中に少し見ただけだったので、今年は午後からゆっくり見ようと自転車で出かける。風は強いが晴天で、凧揚げ日和だ。
 家から自転車を漕いで高岡へ。凧まつりの会場である大門の庄川の河川敷へ行く前に、今月行われる利屋町の天神祭りについて聞こうと関野神社へ寄る。
 天神祭りは関野神社に祀られている天神像を利屋町の曹洞宗龍雲寺に運び、読経と祝詞奏上が行われる神仏混淆の行事。とやまの年中行事百選には5月25日前後の土日と書いてあったので、今年は5月26日と27日だと思うが何時頃から始まるのかがわからない。
 先ずは拝殿に行って参拝して隅の方を見ると神職の姿が見えたので会釈をすると、出て来て下さった。禰宜の酒井さんだった。病気をされて休養中だと聞いていたが、復帰されたそうだ。さっそく天神祭りの事を尋ねると、昨日が宵祭りで今日が本祭りだという。後で利屋町の宮総代の方に聞いたところ25日前後ではなく、25日より前の土日だそうだ。
  御神体の木造天神像は宵祭りの昨日、関野神社から龍雲寺に運ばれており、今日の本祭りは14時から子供神輿が出て、その後、龍雲寺で読経と祝詞の奏上が行われるそうだ。宵祭りは撮り逃したが、14時からの子供神輿を撮影させてもらうことにする。せっかくの凧揚げ日和で残念だが、大門の凧まつりは諦める事にした。
 14時まで2時間ほどあるので、お昼ご飯を食べに行く。今庄のうどんや丸亀製麺も浮かんだが、吉野家の牛丼にした。牛丼を食べて龍雲寺の方へ向かう途中に御旅屋通りを通るとアーケードでコンサートをやっていた。通り過ぎようとすると知り合いから声がかかり、2曲ほど椅子に座って聴いて来た。

↓→利屋町の入口で通町との境にある富山県里程元標。その横に天満宮の旗を掲揚。

富山県里程元標
天満宮の旗
龍雲寺

←利屋町の龍雲寺。

 少し早いが13時45分頃に龍雲寺へ。祭りの法被を来た男性がいらして、子供神輿の準備をするところだった。
  しばらくすると本堂の中に置いてあった子供神輿を境内に出し、リヤカーの上に乗せて幕や造花で飾り付ける。
 利屋町の宮総代の方もいらしたので、お祭りの事を尋ねると、本堂の中に設営された宮(臨時の天満宮)や祭り道具が仕舞ってある公民館などを案内して下さった。

 本堂の入口にはスケジュールを記した紙が貼られていた。
「旗立て」は5月12日(土)午前8時半より行います。
5月18日(金) 午後5時 宮造り
5月19日(土) 午後5時 神迎え
           7時 宵祭り
5月20日(日) 午後2時 子供神輿
           3時 子供祭り
           4時 大般若
           4時半 町内の祭典
5月21日(月) 午後5時 宮解体
              神送り

↓→龍雲寺の中に設営された天満宮。社の中に御神体の天神像が祀られている。
本堂に設営されたお宮02
本堂に設営されたお宮01
↓→氏子に配布される、祭壇に置かれた火伏せの札。
火伏せのお札02
火伏せのお札01
↓→龍雲寺の近くにある公民館に保管されている祭り道具。
利屋町公民館の中02
利屋町公民館の中01
子供神輿のお祓い
 子供神輿を引いて歩く子供がなかなか揃わずに待機。小学校の運動会と重なってしまったようだ。しょうがないので小さな子供たちと大人でお神輿を引いて行く事になった。
 予定よりだいぶ遅れて15時20分頃に、関野神社の酒井禰宜がお神輿をお祓いして巡行がスタートする。
 お神輿の中には、御神体の天神像の神籬が祀られているそうだ 。

←お祓いをする酒井禰宜。
お神輿の巡行
記念写真
↓還御したお神輿から御神体の神籬を取り出す酒井禰宜。
子供神輿の還御02
子供神輿の還御01
スイカを食べて休む子供たち
 お神輿の町内巡行は30分ほどで終了。途中から運動会から帰って来た小学生の女の子も参加した。龍雲寺の少し手前で記念撮影をして、お神輿の還御。酒井禰宜の手により御神体の神籬がお神輿から取り出され、宮に戻された。
 お神輿を引いた子供たちにスイカが出され、しばし休憩。子供たち一人一人に、お菓子の詰め合わせが手渡された。
 16時過ぎからは大般若会が開始され、読経の後、氏子が一人一人ご焼香をする。  
大般若会
↑本堂に設営された臨時の天満宮の前で、龍雲寺の住職らによる大般若会。
↓酒井禰宜による祝詞奏上。→玉串奉奠。
関野神社の神職による神事02
関野神社の神職による神事01
御神体を運ぶ箱

↑龍雲寺の大きな額のところに、昔は天満宮と書いた大きな額を掛けていたが今は簡略化され、小さな額が写真のように柱に立て掛けてある。

 大般若会に続いて関野神社の酒井禰宜による神事が斎行。祝詞奏上の後、玉串奉奠。氏子の方が一通り玉串を捧げた後、酒井禰宜に声をかけられて私も玉串を奉奠した。

←御神体の木造天神像を運ぶ木箱。

 神事の後、酒井禰宜が宮総代の方に御神体の天神像を撮影してもよいか聞いて下さったが、以前、他の方が御神体を撮影した時に不幸な事があったので遠慮して欲しいということだった。
 病気の療養から復帰して、この天神祭りが最初の神事だとおっしゃる酒井さんと来月行われる国泰寺の開山忌のことなどを少し雑談してから、自転車を漕いで家に帰った。

 この利屋町の天神祭りだが、かつて利屋町にあった天満宮の御神体が関野神社に移され、その御神体が一年に一度里帰りをする祭りのようだ。宮総代の方の話しでは、聖安寺が利屋町にあった頃、お寺の前に大きなお宮を造って天神祭を執り行っていたこともあるという。子供神輿を出すようになったのは、それほど古いことではなく以前は樽神輿だったそうだ。
  では、利屋町の天満宮はどこにあったのだろうか?とネットで検索していると高岡の”三天神”祭りという高岡市立博物館のコラムが見つかった。それによると、大火の際に天神に祈願して類焼を免れた龍雲寺の住職がそのお礼に天満宮へ参詣に行き、その時のお告げで元禄3年(1690)に寺内に天満宮を造営したとある。明治維新の際に、その天満宮の御神体である天神像を町内に勧請し、それが関野神社に祀られているようだ。

5月18日(金)

 今日の富山の最高気温が32℃で、沖縄は30℃。そろそろ沖縄と内地の最高気温が逆転する季節だろうか。一昨日は富山の最高気温が全国一位になった。

 中国の陰謀論、中韓に乗っ取られ論、あげくにはヘイトBlogを読んでの弁護士への大量の懲戒請求。普通に考えて調べれば東京MXニュース女子の沖縄ルポと同じでデマだとわかることが、メディアやSNSを通じて拡散していく。もう社会の底が抜けた感がある。
 ちょっと長くなったが、雑感として書いておく。

西古見も、加計呂麻島も危ない。チャイナタウンができるのも時間の問題だ
 凄いな産経新聞。奄美大島の陸の孤島=西古見は2回行ったし、加計呂麻島は何日もかけて全集落を歩いた。どうしたらあの島にチャイナタウンができるんだろうか。産経の妄想は、ムーを超えたな。奄美に誘致された自衛隊の駐屯地と、嘗て天然の要塞と言われた奄美南部の大島海峡沿いにある村へのクルーズ船の誘致を並べて陰謀論を拵えている。
 チャイナタウンやブラジル村が出来るには、そこに雇用がなくてはならないと思うが、仕事がなくて止むを得ず村を出ていく人も多い土地で、どうして暮らすんだろうか。
 西古見の人口は30戸、38人だ。加計呂麻島の各村の人口も4年前のデータだが一番多い諸鈍で111戸、197人。島尾敏雄が部隊を率いていた呑之浦に至っては4戸、5人だ。
 自衛隊が誘致された場所の近くに、中国政府がチャイナタウンを目論む理由もわからない。目立ってしょうがないだろう。
 この陰謀論は、以前少し注目を集めたが結局は断念した奄美大島龍郷町の赤尾木湾へのクルーズ船誘致にも向けられている
 龍郷町の戸口にある土地を香港在住の日本人が買ったそうだが、ここから喜界島がよく見える事が自衛隊などの動向を監視する最適な場所で、その日本人は中華圏に人脈を持っているという。
 喜界島が見える事がなぜ自衛隊の動向を監視できるのか?嘗て喜界島は軍事基地として使われ喜界島の飛行場から特攻隊が飛び出して行ったが、その飛行場も現在は民間機が飛び交う空港になっている。
 そもそも戸口から喜界島までは海を挟んで20km以上離れている。晴れた日には島影が見えるという程度だ。喜界島の様子が見たければ戸口に土地を買わなくても、奄美空港から毎日飛行機が飛んでいる。もっと近くから見えるだろう。
 余談だが赤尾木湾には本当にムー的な話しもある。赤尾木湾は巨大な隕石が落下して出来た湾だという話しで、近くに星窪という地名も残っている。こちらはロマンがあって楽しい。
 ムーに嵌るのは思春期の麻疹のようなものだと思うが、いい年をした大人が産経の妄想記事を拡散するのは如何なものか。同じような産経の”北海道が危ない”シリーズを検証した人の記事もリンクしておきます。こちら

 呆れるしかないが、一昨日の朝日新聞に「中韓に乗っ取られ論」デマ横行 学長発言に批判という記事が掲載されていた。
 元自民党衆議院議員で九州国際大学の学長である西川京子氏が改憲派団体の集会で、日本のテレビ局の建物に中国や韓国のテレビ局が入居している事を取り上げ「完全に乗っ取られているんですね、以前は一部だったのが、いま中枢にいるんですよ。(憲法改正は)この人たちとの戦い」と述べたそうだ。
 沖縄の新聞社、琉球新報社が新しい社屋を建設して2015年末に移転したが、嘗ての琉球新報のビルには産経新聞那覇支局が入居していた。西川氏の論で言うと、琉球新報は産経に乗っ取られなくてはならないが?

 こう言う陰謀論や妄想が肥大化して事件になったのが、今注目を浴びている弁護士への一斉大量懲戒請求だろう。ヘイトを中心とした記事を掲載しているBlogに煽られた人々が「朝鮮学校への適正な補助金交付を求める会長声明」に賛同した弁護士に対して懲戒請求を送った
 これに対して不当な懲戒請求を送られたとして二人の弁護士が、一人あたり30万円の損害賠償を求める裁判を起こすと発表している。
 中には懲戒請求の意味もわからず出して今になって慌てている人もいるようだ

リセット・メレンデス

 NHKの朝の連続テレビ小説『半分、青い』の時代設定がバブルの頃に入った。 今日は、ディスコ・マハジャロ(笑)が登場した。
 80年代後半に『Spoon』という大学生向けのフリーペーパーの仕事をしていて、その時に大学のサークルのパーティーやミスコンの撮影でアチコチのディスコに行った。撮影するのに女の子たちに声を掛けなくてはならないので、ジーンズじゃなくてスーツを着て行った。当時流行ったダボッとしたスーツ。撮影に行ったはずが、頼まれてミスコンの審査をしたこともある。
 雑誌『東京ウォーカー』の創刊は1990年で、確か創刊2号目から何回か撮影している。まだ名前は『週刊TOKYO WALKER ジパング』の頃で、撮影したフィルムを編集部に届けに行くと、編集部の女性がみんなボディコンだった。
 ジュリアナは一度だけ入った事がある。グリグリこと「GOODY-GOODY」の大ヒットを飛ばしたリセット・メレンデスのライヴ・イヴェントがあり、その撮影だった。1994年の5月だからジュリアナも終わりの頃だが、お立ち台にはジュリアナ扇を持った女の子たちが踊っていた。

 写真は1994年10月24日、NHKの収録の合間に撮影したリセット・メレンデス。彼女に用意されたNHKの控え室での撮影。テレビ局の控え室でタレントさんを撮ることは何回もあったが、これほど狭い控え室はなかった。3畳あったかな。壁に黒布を貼り、天井の方からキミーラの小型バンクをつけたサンパックのグリップストロボ。メインはサンパックのグリップストロボに小型の傘で、控え室の外に設置。本人には中で立ってもらい、ドアを開けて外から撮影した。 
 昨日テレビを観ていたら、西城秀樹さんの死去を伝える速報が流れた。昨日から今日に掛けてテレビでは特集が組まれ、Facebookには個人的な思い出が流れて来る。

5月15日(火)

 今日で沖縄が日本に返還されて46年になる。沖縄タイムスや琉球新報には関連する記事が掲載されているが、全国紙やテレビニュースで取り上げられるのをまだ見ていない。
 2013年のゴールデン・ウイークに、那覇から沖縄最北部の辺戸岬へ行った。辺戸岬には祖国復帰闘争碑が建っており、晴れた日には水平線の先に奄美群島の与論島が見える。
 辺戸岬は沖縄が日本に復帰する前は一番日本に近い場所だった。米軍統治時代は辺戸岬と与論島で篝火を焚き、中間の海上で本土復帰を訴える集会が行われた。
 あいにくこの日は雲が多く与論島が見えなかったが、以前、与論島に行った時に島から沖縄がくっきりと見えた。与論島から辺戸岬までは僅か22kmだ。

一九七二年五月十五日 沖縄の祖国復帰は実現した
しかし県民の平和への願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された
しかるが故に この碑は
喜びを表明するためにあるのでもなく
まして勝利を記念するためにあるのでもない


 沖縄最北部にある辺戸岬に建立された祖国復帰闘争碑に刻まれた文章の一部分だ。復帰から46年を経て、状況は変わらないどころか酷くなっている。長く硬質な文章だが全文を以下に引用しておきます。

祖国復帰闘争碑

全国の そして世界の友人へ贈る
吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
権力に抗し 復帰をなしとげた 大衆の乾杯の声だ
打ち寄せる 波濤の響きを聞け
戦争を拒み 平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ
鉄の暴風やみ 平和の訪れを信じた沖縄県民は
米軍占領に引き続き 一九五二年四月二十八日
サンフランシスコ「平和」条約第三条により
屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた
米国支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した
祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声はむなしく消えた
われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬せられた
しかし独立と平和を願う世界の人々との連帯であることを信じ
全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた
見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
二十七度線を断つ小舟は船出し
舷々合い寄り 勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
今踏まれている土こそ
辺戸区民の真心によって成る沖天の大焚火の大地なのだ
一九七二年五月十五日 沖縄の祖国復帰は実現した
しかし県民の平和への願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された
しかるが故に この碑は
喜びを表明するためにあるのでもなく
まして勝利を記念するためにあるのでもない
闘いをふり返り 大衆が信じ合い
自らの力を確かめ合い 決意を新たにし合うためにこそあり
人類の永遠に存在し
生きとし生けるものが 自然の摂理の下に
行きながらえ得るために 警鐘を鳴らさんとしてある

与論島から見た沖縄01
↑与論港の先、雲の下に沖縄本島の北部が見える。与論島は奄美群島だが、文化的には沖縄北部の国頭地方に近いと言われる。与論で泊まった宿の主人は、沖縄独特の童名(わらびなー)を持っていた。2011年8月19日撮影。
↓与論城跡から見下ろした島の風景。水平線の先に見える島影は沖縄の伊平屋島(伊是名島も重なっているかも?)。伊平屋島は第一尚氏の始祖・尚巴志の先祖が生まれた島で、伊是名島は第二尚氏の始祖・尚円王の生まれ島だ。2011年8月20日撮影。
与論島から見た沖縄02

ガザ衝突、死者58人に イスラエル軍発砲、非難の応酬
米国 大使館エルサレム移転 第二次大戦前夜のよう 中東各国が非難
米国大使館移転、ガザとエルサレムで抗議、ガザでは死傷者多数
「撃たれても構わない」 パレスチナ 絶望のデモ
ガザ衝突、8カ月の乳児も犠牲に 「催涙ガスを吸った」
 アメリカが昨日、イスラエルの建国70年に合わせて在イスラエル大使館をエルサレムに移転し祝賀式典を催した。このトランプ大統領の配慮を欠いた行為にパレスチナ自治区ガザでは大規模な抗議デモが発生、そのデモ隊にイスラエル軍が発砲し58人が亡くなった。
 イスラエルの建国記念日とは、パレスチナ人にとっては難民にさせられた「ナクバ(大惨事)の日」だ。トランプ大統領の判断と行動は、弾薬庫に向かって火炎瓶を投げ入れたようなものだろう。
 
 ところで、中国のチベット、モンゴル、ウイグル自治区等への弾圧を指摘し中国を叩いている人が、このパレスチナ問題に無関心なのは不思議でしょうがない。さらに中国の弾圧を非道だと言いながら、日本政府の沖縄への弾圧を応援していたりするのは不思議を通り越して何を見ているのだろうと心配になる。

 菅野完氏のニュース解説プログラム SEE IT NOWの第2弾「カルトとは何か?カルトはどうして危険なのか?沖縄に進出するカルト!!
 言論人の正体隠し。<自分の正体を隠しているような 人間が、沖縄の真実を語れるはずがないんです>。無料のダイジェスト版だが、一聴の価値あり。

 毎日新聞社特別編集委員でテレビのコメンテーターなども務めた岸井成格さんが亡くなられた。気になって検索すると、10年前に亡くなられた筑紫哲也さんも享年73歳だった。

 富山の春祭りも、今日、伏木のけんか山が終わり、残るは17日・18日に行われる岩瀬の曳山祭りくらいだろうか。
 昨日は六渡寺の獅子舞を撮影に行って来た。こちらの様子も後々UPいたします。

六渡寺の獅子舞
↑獅子と天狗の緊張感溢れる丁々発止。噂に違わず見事な獅子舞だった。

5月14日(月)

 新湊市六渡寺(ろくどうじ)の獅子舞の評判をネットや口コミで聞いていたが、春祭りのシーズンは祭りが重なるので、なかなか見に来れなかった。今日は天気も良さげで、ようやく見に行く事ができた。
六渡寺駅
 こちらのサイトには朝7時に六渡寺の日枝神社を参拝しお祓いを受けて獅子舞を奉納した後に町中をまわり、11時頃に午前の部を終了。昼休みを挟んで午後1時から公民館を出て午後の部が始まり夕方まで町内を巡行。夜には新築や結婚の祝い花を出した家で獅子舞が行われると書いてある。
 午後の部の途中から見るつもりで、あいの風とやま鉄道で13時42分に高岡駅へ。万葉線に乗り換えて、六渡寺駅に向かった。
↑万葉線の六渡寺駅。↓→町に入る橋に飾られていた獅子舞のオブジェ。
獅子舞のオブジェ02
獅子舞のオブジェ01
 13時45分に高岡駅を出た万葉線が、六渡寺駅に着いたのは14時20分頃だった。六渡寺駅を出て海の方へ歩いて行くと橋があり、橋を渡った地区が六渡寺のようだ。橋には獅子舞のオブジェが飾られていた。
 六渡寺の獅子舞は日枝神社の祭礼で春は5月14日、秋は10月6日に獅子舞が行われる。お囃子が聴こえて来ないかと耳をすましながら、日枝神社を探して歩く。
↓→六渡寺の日枝神社。
日枝神社02
日枝神社01

 獅子舞のお囃子は聴こえて来なかったが、祭礼の神楽の音が微かに聴こえて来たので歩いて行くと日枝神社だった。境内には案内板があり、神社のご神体として三体仏が祀られていると書かれていた。
◯六渡寺 日枝神社の三体仏 
 小矢部川を下り放生津に至る中世の北陸道沿いの六渡寺は、日本海海運の要衝として大いに栄えた。当神社は近江坂本の日吉(日枝)神社の末社で、薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来の三体仏を社宝(ご神体)としている。釈迦如来像はスギの一木造りで平安時代末期の作、薬師・阿弥陀如来像はヒノキの寄木造りで室町時代中期の作である。昭和四十五年九月、市の指定文化財となった。
 正面の独特の合掌鳥居は瀬戸内産の御影石造りで、天保十年(一八三九)当地の海商湊屋清右衛門・北野屋与八の寄進による。また玉垣二七二柱には大坂から北海道に至る海商・弁財船(北前船)の名が彫られており、船乗りの信仰の厚さを物語っている。
射水市教育委員会 六渡寺自治会

 お賽銭をチャリんと入れお参りをした後に、拝殿にいたした氏子の方に獅子舞がどの辺りにいるか尋ねたところ、海の方だろうとのこと。海の方に向かって歩くがお囃子も獅子舞の気配もない。駅から神社に来る途中にコミュニティーセンターがあったので、こちらでも聞いてみようと尋ねて行くと、やはり海側の団地で舞っているはずとの答え。もう一度海の方へ歩いて行くと、今度はお囃子が聴こえ、人がゾロゾロと歩いているのが見えた。

町中の風景
↑趣きのある商家や、なんだか懐かしくなるような路地がたくさんある六渡寺の町。
獅子舞01
獅子舞02
獅子宿となっている公民館

 万葉線で「六渡寺駅」を通過したことは何度もあったが、駅を降りて町を歩くのも初めてだった。小矢部川と庄川に挟まれ、前方は海。嘗ては海運で栄えた町なのだろう。
 奥に長い町家づくりの家が並ぶ通りは趣きがあるし、子供が縄跳びしていそうな路地もたくさんある。獅子舞見物に子供がたくさん居たことにも驚いた。
 凄いと噂に聞いていた六渡寺の獅子舞は獅子と天狗の緊張感溢れる丁々発止で、噂に違わず見事な舞だった。

 午後の部は夕方までだと思っていたら、16時前に終わってしまった。午後の部の最後は獅子宿となっている公民館の前で舞って、そのまま中に入って行った。
 夜の招待花は19時からで、それまで獅子方は休憩だという。3時間も空くので、コミュニティーセンターのロビーにあったソファーで本を読んで休んでいると、職員の方から話しかけられる。 
 獅子方が休んでいる公民館に、六渡寺の獅子舞で使用された歴代の獅子頭が飾ってあるという話しだった。その中には熊の皮を貼った熊獅子もあるという。
 六渡寺の獅子舞の由来なども記した地区の冊子も見せて下さったので、カメラで複写させてもらった。熊獅子について記した部分を引用しておく。以下、
 また明治初期には六渡寺に毛皮張りの、通称クマジシが一基、六渡寺新にも一基、漆塗りの頭があったが、明治末期の新庄川大改修や昭和初期の伏木港拡張工事により小学校の移転、住宅の立ち退きがあり、これらをきっかけに昭和八年頃に東西のお獅子を統一してきたと伝える。
 この毛皮張りのクマジシは西のお獅子で、他の獅子頭や道具と共に、今も六渡寺自治公民館に大切に保管されている。
公民館に飾られた獅子頭
 せっかく教えていただいたので公民館へ獅子頭を見せてもらいに行く。上の写真の右が熊獅子。皮が全て剥がれているので、言われなければわからない。思っていたより小さかった。
 公民館に戻り少し休んでから、招待花を出すお宅へ行く。今日は招待花は新築した家一軒だけで、その後はコミュニティーセンター前の広場で舞って終わりだそうだ。
 見物する人が多いそうなので早めに行って、場所取りをして待っていた。19時頃になり太鼓の音が聴こえ、ガヤガヤとした気配とともに獅子舞の一行が到着した。
獅子舞03
獅子舞04
 招待花の家での獅子舞は40分ほどだったろうか。夜には天狗が松明を持って舞う、ヨソブリという演目も披露される。
 わざおぎ(俳優)という単語がある。はいゆう(俳優)は役者・芸能人を連想させるが、わざおぎ(俳優)は身振りや歌舞で人や神を楽しませる人を指す。天狗の全身にピンと張りつめたような演技を見て、この単語を思い出していた。獅子舞のまわりは地元の子供達がいっぱいだった。彼らが最初に憧れるのはテレビドラマで観る俳優ではなく、獅子舞を演じる俳優なのかもしれない。
獅子舞05
獅子舞06
 招待花を打った家からコミュニティーセンターは歩いても1、2分だ。今日はここで最後ということもあり、見物人の大きな輪が出来た。こちらでの獅子舞は50分ほどだったろうか。コミュニティーセンターを出た獅子舞は、直ぐ側にある公民館の前でもう一度舞って、中に消えて行った。
 獅子舞が全て終わったのは20時半くらいだった。いつもはもう少し招待花を打つ家が多く、終わりは22時頃だと聞いていた。秋は招待花が5つほど予定されているそうなので、たっぷり楽しめるだろう。
 富山の祭りを撮影していてよくお会いする方が、これから明日行われる伏木のけんか山祭りの場所取りに行くので、その後に高岡まで送りましょうかと誘って下さった。
 今日は伏木のけんか山の宵祭りで、山車がライトアップされたり山宿に人形が飾られていたりする。願ってもない話しに、同乗させてもらう。伏木は小矢部川を挟んで六渡寺の対岸で、車ならあっという間だ。
 場所取りの三脚を設置した後、各町の曳山が並べられてライトアップされている山倉に行ってみるが、既にライトアップは終了し山蔵に戻されたところだった。
 山宿はまだ開いているようだったので、山倉の近くにある宿を2軒ほどまわって、飾ってある人形を見て高岡駅まで送ってもらった。
伏木の山宿
↑伏木の曳山祭(けんか山)の宵祭りで、山宿に飾られた山車の人形。

5月11日(金)

 ようやく日記が追いついた(汗)。
ポータブル外付けHDD

 少し余裕ができたので、先月の12日に注文して14日に届いていたのに放ったらかしにしてあったポータブルの外付けHDDをMac用にフォーマット。他のパソコン作業をやりながら、この新しいHDDにデータをバックアップ。

←メガネの下、白の小さな箱が購入した外付けHDD。ポータブルタイプなので若干割高だが、それでも2TBで9,896円だった。

一般論だが、真実ではないこと、偽りのこと、極論でいえばうそ、というものは、それを発言した人にとどまることなく、第三者、他人をまきこんでいく
 柳瀬元秘書官の国会答弁を受けて、中村愛知県知事が行った記者会見での発言。権力を持った人間の嘘は、とくに他人を巻きこんで行く。それは小さな雪のボールが斜面を転がって膨らみ、大きな雪だるまになるように。森友も加計も自衛隊の日報問題も、誰かの些細な嘘を塗りつぶすためにたくさんの人が巻き込まれて、大きな嘘の塊になってしまった。 
 中村愛知県知事の記者会見の全文が公開されている。前編がこちら、後編がこちら
 佐川前理財局長が破棄したと言ってきた 森友学園との数百ページに及ぶ交渉記録が存在していたことも、今日わかった。

柳瀬秘書官の話をまとめると、ボクの仕事は総理のゴルフのお伴をして、アポが来たら官邸で誰とでも何回でも会って、メモも取らずにお喋りして、ちょっとアドバイスしたりして、その内容を総理に報告とかすることもない。 ってことね。誰やねん、それ
柳瀬唯夫氏の言葉が正しいなら「私は総理秘書官にもかかわらず、総理の信頼を裏切り、独断で勝手に疑惑の種となるような面会を重ね、不正を疑われても仕方 ないアドバイス等を行い、それらを全く報告しませんでした」という話になるが、短気な安倍首相がそれに全く激怒しない態度が事実を物語っている
 ほうれんそう(報告・連絡・相談)も出来ない秘書官。柳瀬氏が国会で語ったことを纏めれば、誰でも同じように思うだろう。柳瀬氏の発言で本来一番怒らなければいけないのは、安倍首相のはずなんだが。 
【国会詳報】柳瀬氏、加計側と面会「官邸3回とBBQ」
柳瀬唯夫・元秘書官の参考人招致は官邸のシナリオ通り!嘘と詭弁のくり返しで、国民を麻痺させるウンザリ作戦
「過去にないウソつき政権」自民内に危機感 加計問題

新しいトップ画面
←ゴールデン・ウイークも過ぎてまだ鯉のぼりの写真もなんなので、トップ画面を模様替えしました。梅雨らしい写真も考えましたが、それだとまた直ぐに替えなくてはならないので、ちょっと夏っぽい写真に。
↓これまでのトップ画面。
 奄美が5月7日に、沖縄が8日に梅雨入りした。今年はいつもより梅雨入りが早いようだ。

5月6日(日)

 個人的にはあまり関係ないが、今日でゴールデンウイークも最終日。怒涛の春祭り撮影も一段落。
 3日は井波のよいやさ祭、昨日は城端の曳山祭に行って来た。こちらの様子も後々UPいたします。
 今年の春祭りは南砺市に出かけることが多かった。4月15日の福光宇佐八幡宮の 春季例大祭から始まり、4月20日、21日の五箇山・相倉、23日の下梨と皆葎、26日の上梨と中畑、そして5月3日の井波、5日の城端。南砺市の春祭りをまわって、改めてその芸能の豊かさや、神輿、曳山、庵屋台の豪華さを認識した。

井波よいやさ祭
↑井波のよいやさ祭。「よいやさ」はお神輿を担ぐときの掛け声だ。↓城端の曳山祭。曳山は何回か撮っているので、今年は神輿行列に並ぶ鉾を中心に撮影。
城端曳山祭

 久しぶりに晩ご飯にミート・スパゲティーを作った。タバスコが賞味期限が切れてから、ずいぶんと経つ。味は変化ないが見た目が濁っていて、大丈夫だろうかと心配しながら使っていた。勿体ないと思いながら、新しいタバスコを買って来た。ラー油や沖縄のコーレーグースは賞味期限内に使い切れるが、タバスコはいつも使い切れないままに捨てている気がする。半分の大きさの瓶があればいいのに。賞味期限は2年程先だが、今回は使い切れるだろうか?

5月5日(土)

 城端曳山祭も何回か撮影に来ているが、いつも午後からで傘鉾やお神輿の渡御は一度も見ていない。今年はお神輿の出発から撮影しようと早めに起きて、城端に向かう。
 自宅から自転車で、城端線の戸出駅へ。7時21分の電車で、終点の城端駅に8時3分に到着。緩い坂を歩いて中心部に来ると、山宿に飾ってあった御神像とからくり人形をフォークリフトで曳山の神座に乗せる作業をしていた。
曳山の準備作業
 お神輿は8時30分に伝統芸能会館じょうはな座から出発すると書いてあったので行ってみると、じょうはな座の裏手の道に傘鉾を先頭に並んでいた。その100mほど手前には台車に乗せた剣鉾が待機している。
↓傘鉾の列。→傘鉾の前を歩く剣鉾。
剣鉾
傘鉾

 やがて時間になり傘鉾を先頭にした神輿行列が動きだし、手前で待機していた剣鉾と合流。剣鉾が一番前になり、町中を渡御する。神輿は子供神輿が1基に、大神輿が3基で神職と共に家々の前で止まってご祈祷しながら進む。

神輿行列01
神輿、曳山の勢揃い

↑お神輿の渡御。
←大通りの善徳寺前交差点を中心に、ズラリと揃った神輿と曳山。

 9時過ぎに獅子頭を先頭に剣鉾、傘鉾、お神輿、曳山と庵屋台が善徳寺前の十字路を中心に並ぶ。
 剣鉾1本、傘鉾8本、神輿4基、曳山と庵屋台各6台の列は壮観だ。この行列を撮影しようと、大勢の人が曳山のまわりを取り囲んでいる。 

曳山の出発
 9時30分になると曳山は巡行に、神輿の行列は渡御にそれぞれの方向へと出発していった。
神輿行列02
 最初は神輿の行列についていた獅子舞は、やがて別れて家々をまわっていた。
 11時過ぎに神輿行列は休憩になった。8本の傘鉾が台に納められて通りに並べられている。傘の下には町名と装飾品が書かれた紙が貼られていた。
傘鉾の紹介01
↑左から、野下町「太鼓とラッパと月琴」/大工町「千枚分銅」/西上町「争鈴と玉手箱」/東下町「打ち出の小槌」
傘鉾の紹介02
↑左から、出丸町「将棋盤に柳」/西下町「太鼓に金鶏」/東上町「金の鶴に岩波」/新町「手箱に鼓と櫻の枝」
御旅所での神事
 神輿4基が曳山会館の展示室に入れられたので、何が始まるのか尋ねたところ12時から神事が執り行われるとのこと。展示室を囲むガラス越しに見学が可能だというので、見せてもらった。4人の女の子による浦安の舞も奉納された。
壊れた傘鉾01
壊れた傘鉾02
↑→強風に煽られて転倒して壊れた傘鉾。
獅子舞
 曳山会館での神事が終わり外に出ると、大通りからモノが倒れる音がしたので見に行くと2本の傘鉾が風に煽られて転倒していた。
 その近くで獅子舞をやっていたので見に行く。城端の獅子舞の演目に見物客を天狗がさらって胴幕の中に入れるというのがあるが、天狗にさらわれた妹を果敢に取り戻す男の子が登場した。
 城端曳山祭は神明宮の春季例祭だが、神明宮にはまだ行った事がないので参拝に向かった。
神明宮
獅子舞の奉納

↑城端の神明宮。

 町の中心部から少し離れた神明宮を参拝し写真を撮っていると、南町の獅子舞が奉納に訪れた。
 城端曳山祭での露払いの獅子舞はこの南町が担当していたが、南砺市になってからは野下町の獅子舞も参加するようになったそうだ。
 獅子舞が終わったので神社の外に出ると、今度は子供神輿の渡御が見えた。しばらくついて歩くと、やがて神明宮に入って行った。

お神輿の還御
還幸祭
 子供神輿は14時頃に神社に戻り、神輿を引いていた子供たちにお菓子が配られた。ご神体が宮司さんの手により本殿に還される。
 しばらく神社で休んでいると、14時50分頃に大神輿3基が順番に還って来た。春日宮、八幡宮、神明宮の神輿で神明宮に祀られているご神体を乗せているそうだ。
 ご神体が本殿に還されると、神輿は境内の神輿堂へ。そして拝殿では還幸祭が行われた。
 お神輿の渡御が終わったので、町中に戻り曳山の巡行を撮影して歩く。
曳山巡行01
曳山巡行02
↑↓庵唄所望と書いた家々の前で止まり、若連中が庵唄を披露する。
庵唄所望
曳山巡行03

 今日は傘鉾とお神輿の撮影がメインで、曳山と庵屋台はほどほどにと考えていたが、結局たくさん撮ってしまった。
 16時16分の電車で帰ろうと思っていたが、出丸坂での曳山のUターンを見たくなり16時59分の電車で帰る事にした。
 城端を16時59分に出た電車は、17時38分に戸出駅に到着。
 駅前に駐輪しておいた自転車で、家路に着いた。

*北日本新聞の記事、北國新聞の記事1記事2、中日新聞の記事

5月3日(木)

 よいやさ祭りの名で親しまれている、井波八幡宮の春季例大祭。大神輿が3体に屋体(庵屋台)も出るというので以前から撮影したかったが、ゴールデンウイークは祭りが重なるのと井波へは鉄道がなく路線バスしかないので今まで来れずじまいだった。
 その唯一の公共交通機関である路線バスも、井波から高岡方面への帰りのバスは17時半頃には終バスとなる。城端線で福野まで自転車を輪行して、福野から井波へ自転車で行くのがベストのように思えるが今日は大気が不安定で急な雨や突風の注意が出ている。少し悩んで今日は終バスまで見て帰ろうと思い、高岡から12時29分のバスで井波に向かった。
  井波の中心部は祭りのため今日は車両が入れないので、少し手前のバス停で降りる。歩いて交通広場にある観光案内所まで行くと14時頃になっていた。
屋体と御旅所
 観光案内所から瑞泉寺に向かう八日町通りに入ると、大きなビニールを被せた屋体(庵屋台)が流している。瑞泉寺に向かって左側の通り沿いには、しめ縄を飾った御旅所があった。
屋体
↑通りに面した部屋の戸を外し、正座をして屋体を迎える。
瑞泉寺の藤棚01
瑞泉寺の藤棚02
 しばらく屋体が通りを流しているのを見てから、北日本新聞に瑞泉寺の藤棚が見頃だという記事が載っていたのを思い出して行ってみる。
 山門の方から藤棚を何カットか撮影して、井波八幡宮へ。瑞泉寺と井波八幡宮はほぼ隣り合っているが、ゆっくり歩くと5分くらいかかるだろうか。
 こちらの記事によれば、井波八幡宮は、井波城の本丸跡に建立されており、井波城は越中一向一揆の総本山・瑞泉寺が築いた城郭伽藍だそうです。
↓井波八幡宮。→御神木だろうか。
御神木
井波八幡宮
 井波八幡宮を参拝してから八日町通りに戻ると、先程の屋体がビニールを外して流していた。屋体の中で座って演奏している地謡や唄い手を撮らせてもらう。
屋体と庵唄
 観光案内所に貼ってあった神輿渡御予定図によれば、15時頃は今町三区を巡行しているはずなので探しに行ってみる。
獅子舞
 八日町通りから路地に入り今町に向かっていると、獅子舞のお囃子が聴こえてきた。神輿渡御の露払いとして山下町、東町、下新町の獅子が同行しており家々の前で舞っていた。獅子の後には子供神輿、そして大神輿が続いている。
御旅所での獅子舞奉納
 獅子舞を撮影しながらついて歩くと、やがて八日町通りに入り御旅所の前で順番に獅子舞の奉納が行われた。
神輿行列の猿田彦の面と旗
傘鉾
 獅子舞の奉納が終わると、今度はお神輿の先頭を歩く旗や傘鉾が八日町通りに入ってきた。こちらは御旅所には来ないで、路地に入りしばらく休憩するようだ。昔は台車に乗せないで、旗も傘鉾も人が持って歩いたのだろう。
 旗の台車の前をお面を取り付けた棒を掲げて歩く人がいたが、wikipediaによれば道案内の神様、猿田彦の面だと書いてある。写真には写っていないが、猿田彦の面の前を太い竹を引きずって歩く人が二人いる。傘鉾についてはこちら
神輿の渡御
 続いて3基の子供神輿、3基の大神輿が順番に八日町通りに入る。「よいやさ」の掛け声を上げながら御旅所の前まで来ると、周囲から「戻せー戻せー」の大合唱。すると来た道を100mほど引き下がる。そうしてまた御旅所まで担いで来るが、また「戻せー戻せー」の声で来た道を戻る。そんなことを3回ほど繰り返して、ようやく御旅所の前にお神輿が止まる。これを6基のお神輿が行う。
 町によっては一つのお神輿を担ぐ人手もなくて台車や車輪をつけたりトラックの荷台に積んでお神輿の渡御を行っているところもあるのに、都合6基のお神輿を人の手で担いでいる井波のマンパワーの凄さに只々感心する。
御旅所での神事
宮入りする子供神輿
 ようやく6基のお神輿が揃ったところで、御旅所での神事が行われた。
 帰りの手段の確保と想像以上に豪華な祭りだったので、電話で両親を誘ったら来るという事で観光案内所の駐車場に車を停めて八日町通りを歩いてきた両親とこの頃に合流。
 御旅所での神事が終わり、町内を少し練り歩いた後、子供神輿から順に井波八幡宮へと還御。

←井波八幡宮に入る最初の子供神輿。 
子供神輿の還御
 鳥居を潜ったお神輿は、まず境内を3回周る。そして拝殿の前に来るが、ここでも「戻せー戻せー」の声が周囲から掛かり、鳥居と拝殿の間を行ったり来たり。ようやく担いだ神輿を拝殿に突っ込むと、神職の手によりご神体が運び出される。
大神輿の還御01
大神輿の還御02
 子供神輿の還御が終わると、大神輿が順に境内に入り同じように3周し、「戻せー戻せー」の掛け声で行ったり来たりを繰り返した後、拝殿の中に神輿をつけ、そしてご神体が本殿へと還される。
 3基ある大神輿は壱ノ輿は屋根が四角輿で井波八幡宮御祭神、弐ノ輿は八角屋根で神明社御祭神、参ノ輿は六角屋根で諏訪社御祭神が乗せられているそうだ。
 大神輿のご神体が還御された後、境内では獅子舞の奉納が始まった。
獅子舞の奉納01
獅子舞の奉納02
↑待機していた獅子舞。↓→山下町の獅子舞奉納。
獅子舞の奉納03
還幸祭

←獅子舞の奉納が行われている間、拝殿では還幸祭が執り行われていた。

 山下町の獅子舞が終わるとそのまま鳥居を潜って町中に戻って行き、次の町が獅子舞を奉納する。
 18時半を過ぎて薄暗くなってきたので、神社を出て駐車場へと向かう。
 八日町通りを下りたところに提灯の明りをつけた屋体が2つ止まっていた。
 一つはこれから休憩に、一つはこれから町を流すという。

提灯の明りをつけた屋体

 21時過ぎまで、4つの屋体が庵唄を響かせるようだ。来年は宵祭りも見てみたい。

*北日本新聞の記事、北國新聞の記事、中日新聞の記事

5月2日(水)

 午後から、久しぶりの雨。今日は、忌野清志郎さんの命日か。もう9年?
↓→忌野清志郎withデ・ガ・ショー。1997年5月15日撮影。
キヨシローさん02
キヨシローさん01

 You Tubeから「スローバラード/RCサクセション」「トランジスタ・ラジオ/RCサクセション」。

 先月の27日にポチった『伊勢神宮 日本の古社/三好和義』(淡交社)が昨日、30日にポチったソニーのα700が今日届いた。
  先日、出町子供歌舞伎を撮影に行った時、階段に座って膝の上に置いていたカメラを落としてしまった。シャッターが降り液晶画面に撮影した写真も表示されるので問題ないかと思って使ったら、なんだか変。ファインダーを覗いて見ていた画面と、撮影して表示される画面の上下がズレている。アチャー、壊れた。
 2月の初めにも1台壊れたので、今年になって2台目だ。それで急遽中古のα700を探して購入した。このカメラが発売されて、10年以上が経つ。メーカーに送って修理するよりも、程度の良い中古を探して買う方がコストパフォーマンスは良いんじゃないかと思っている。壊れたもの4台を含め、現在6台ある。もう一台くらい、状態の良いのが欲しいくらいだ。そんなわけで、部屋の中でα700が増殖している。

↓6台目となるα700。→『伊勢神宮/撮影・三好和義』。
伊勢神宮
α700

 昨日は高岡御車山祭で知られる、関野神社の春季例大祭だった。こちらの様子も後々UPいたします。

高岡御車山祭
↑曳山巡行の終盤、源太夫獅子と各町の曳山が順に、津幡屋与四兵衛の旧宅跡に建立された碑の前へ参拝に訪れる。

5月1日(火)

 今日は高岡関野神社の春季例大祭である、高岡御車山祭の本祭。御車山(曳山)の奉曳は午前11時から始まるが、昼休憩を挟んだ15時15分からスタートする午後の奉曳に合わせて電車に乗る。
 あいの風とやま鉄道で14時24分に高岡駅に到着。先ずは関野神社に参拝に行くが、駅前の末広通りは混雑しているだろうと思い、裏道を通って歩いていると母衣武者を飾った宿があった。嘗ては御車山と一緒に行列に加わり巡行していたのだろう。案内板には宮脇町一丁目自治会とあり、説明が書かれている。「母衣武者祭と高岡の明治維新 江戸時代も200年余り経て、世の中は米主体の経済から貨幣や商品が主体の経済へと変わる 士農工商の身分制度は実力において逆転し、武士は魂である鎧兜をお金に替えて生活を始めた。こうして甲冑が高岡へ流れてきた。高岡町民が経済力において金沢の武士を圧倒した証である。高岡甲冑の文化価値は加賀百万石の武将の所持品であった事から見て、学術的に貴重な文化遺産である」。
 母衣宿の写真を撮っていると、声を掛けられた。声のする方を向くと高校の2年先輩だった田沢さんと松岡さんだった。田沢さんは地元に住んでいるので時々音楽イベントなどで顔を合わせるが、東京に住んでいる松岡さんとは何十年ぶりだろうか?2人は今まで御車山の巡行を見ていたらしい。しばらく立ち話をして別れ、関野神社に向かった。
↓祭礼のしめ縄が張られた裏通り。→偶然見つけた母衣宿。
宮脇町の母衣宿
裏通りの風景
関野神社

←関野神社。

 関野神社を参拝してから、休憩している山車が並んでいる山町筋から高峰公園の辺りに行ってみる。
 たくさんの観光客が止まっている山車の前で記念写真を撮っていた。
 やがて休憩が終わり、坂下町の源太夫獅子を先頭に山車が動き始めた。
 今年は、昨年見つけた山町筋にあるビルの階段を上ったところから撮影しようと思っていたので先回りをする。
 

 ビルの階段を上がって待っていると、最初に露払いの源太夫獅子が、続いて通町の山車が現われた。
御車山の巡行01
御車山の巡行02

↑坂下町の源太夫獅子。→御車山の先頭を切る通町の山車。

御車山の巡行03
↑↓→7町の山車が通り過ぎるのを俯瞰していた。
御車山の巡行05
御車山の巡行04
 山車が山町筋を通り過ぎた後、しばらく追いかけてから昨日平成の御車山の完成披露式が行われた御車山会館へ。平成の御車山の展示を見て2階のシアターで休憩がてら御車山祭の映像を観る。
 御車山会館を出て、津幡屋与四兵衛の碑が建立されている二番町へ。御車山の巡行の終盤、源太夫獅子を先頭に全ての町の山車が順番にこの碑の前で止まり、参拝してから関野神社へ向かうというので撮影に来た。
 長い巡行の中でも見所の一つだろうが、知られていないのかあまり人は多くない。
御車山の巡行06
 行列の最後を飾る二番町の山車が与四兵衛の碑を参詣するのを見てから、関野神社へ向かう。山車は関野神社にお参りして、それぞれ自分の町内に帰り解体される。
御車山の巡行07
御車山の巡行08

 関野神社の前の交差点は、お参りした山車とこれからお参りするために並んでいる山車がすれ違い、混雑している。
 関野神社の前で一文字笠をかぶった各町内の役員が深々と頭を下げて参拝し、山車を回転させて町内に戻って行く。
 しばらくその様子を撮影してから、裏通りを選んで駅へと向かった。

*北日本新聞の記事1記事2、北國新聞の記事、毎日新聞の記事、朝日新聞の記事、読売新聞の記事

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