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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表 ◯製作中の富山の祭りと芸能 |
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5月1日(火) 高岡御車山祭 |
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*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り *全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧 *とやまの獅子舞百選 *富山県内のお祭り、イベント *とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞 *とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り *とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事 *富山の祭り *築山行事 *砺波の獅子舞 各地区の日程 *年中行事覚書 柳田国男 *田の神祭りに見る日本人の神意識 *山の民の祈り *立山に生きる村ー宗教集落芦峅寺のくらし *五箇山の獅子舞の起源 |
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◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作 ◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作 ◯久高島の年中行事 平成17年度作成 ◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作 ◯ 「まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作 ◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作 ◯幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】 ◯村踊 沖縄県伊江村伝統芸能 ◯喜屋武(チャン)の綱引き ◯与那国島の行事 ◯ 「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作 |
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○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html ○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/ ○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html ○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm ○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/ ○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/ ○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/、 ○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy ○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/ |
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「私が食事をごちそうしてもらいたいから国家戦略特区を特別にやるって。例えば、焼き肉をごちそうしてもらいたいから、そんなことをするって考えられないですよ」 こちらに昨日の党首討論を書き起こした記事がある。この中で菅野完氏が<「野党は不甲斐ない」という人は国会論戦を見ていない>と述べている。 北海道の土地が水資源を狙った外国の法人や個人によって買われているという陰謀論が時々SNSなどで流れて来るが、実際はどうなのかNHKの記者が調べたのがこちら。それでも陰謀論が好きな人は、今度は九州国際大学の学長のようにNHKは中国や韓国に乗っ取られていると言い出すんだろうか。 ◯障害年金の「打ち切り予告」1010人に送付。年金機構が「障害の程度が軽い」として |
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8年前の昨日、奄美大島へ向かって旅を始めたのだった。京都、大阪、神戸、尾道、広島、下関、博多、長崎、熊本、鹿児島と寄り道して、名瀬に着いたのは6月16日の朝だった。 | ||
↑京都の鴨川。2010年5月30日に撮影。 |
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昨年の6月21日に撮影した愛本姫社まつりの様子をPhoto Albumにしました。こちらとこちら。 | ||
↑愛本姫社の御神体で、年に一度御開帳される英泉作の花魁の版画。↓大蛇お光行列。 |
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一週間ほど前に<加計問題 獣医学部「首相『いいね』」 15年に理事長に>という記事が出たが、これに対して加計学園が「実際にはなかった総理と理事長の面会を引き合いに出し、県と市に誤った情報を与えてしまったように思う」とのコメントを発表した。 ◯細野豪志議員のブログを題材にして「高度プロフェッショナル制度」を解説してみた。 ◯横書き+太字強調 中学教科書「目新しい国語」に注目集まる |
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25日は13年ぶりに復活した於保多神社の鷽替え神事を、昨日は新川神社の御田植祭を撮影に行って来た。こちらの様子も後々UPいたします。 |
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↑於保多神社の鷽替え神事で使用される土人形の鷽。年ごとに色を変えていくそうで、今年はピンクの鷽だった。 ↓新川神社の御田植祭で田植えを体験する子供たち。 |
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新川神社で開催している「田んぼの学校」での、田植え体験を撮影に行く。今年で5回目だそうだ。 |
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富山駅のホームで輪行して来た自転車を組み立てて、新川神社へ向かう。先月の春祭りに来ているので、もう地図を見なくても辿り着ける。 8時半頃に神社に着くと、子供たちが早乙女姿、田男姿に着替え終わって参集殿から出て来たところだった。 着替えが終わり禰宜の舩木さんの指示で、先ずは手水舎で手と口を清めて拝殿の中に入って行った。 ←新川神社。↓手水舎でお清め。 |
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舩木さんに、先月撮影させていただいた春祭りの様子をまとめたフォトブックをお渡しする。そして今日の御田植祭の式次第を一部いただいた。以下、備忘録として引用。 御田植祭 次第 |
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←↑御田植祭のリハーサル。 拝殿に入ると、先ずは御田植祭の神事のリハーサルが行われた。神事では子供たちが神饌や早苗の台を伝供(ジグザクに並び、バケツリレーのようにお供えを運ぶ)によって本殿の前に供える。その練習だ。最初は戸惑っていたが、何回か繰り返すうちに子供たちの動きも慣れていった。 |
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↑御田植祭の神事。 リハーサルのかいもあって、御田植祭の神事は式次第の通りスムーズに進行。 |
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さほど広くはない神饌田に着くと、楽人が奏する中、神職によりお祓いが行われる。 そして雅楽が奏でられ、舩木禰宜の叩く太鼓に合わせて子供たちが田んぼに苗を一本ずつ植えていく。 途中からは田男・早乙女姿ではない子供たちも一緒に田植えを体験。 一時間の予定だったが、何回か参加して慣れている子供もいて30分ほどで田植えが終了した。 |
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↑青空の下、白と赤の早乙女姿が眩しい。 |
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↑田植えが完了した神饌田と、身体や服についた泥を落とす子供たち。 |
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泥を落とし着替えたところで、境内にある参集殿で昼食。 神饌田で昨年収穫したお米を使い、カレーライスが提供された。 田植えが30分ほど予定より早く終わったので、昼食後はしばらく自由時間。そして12時過ぎから古事記の紙芝居と、古事記とお米にまつわるクイズ大会が催された。クイズはほとんどが三択問題で、正解するとお菓子が貰えるので張り切っていた。 |
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クイズが終了し、13時頃に田んぼの学校は閉校。子供たちに稲の生育を観察するノートが配られた。 舩木さんに撮影させていただいたお礼を言って、富山駅へ自転車を走らせる。 |
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確か22日の北日本新聞の朝刊だったと思うが、<幸運呼ぶ神事復活 25日に於保多神社で「鷽替え」>という記事が載っていて驚いた。於保多神社の鷽替え神事はとやまの行事百選にも選ばれており撮影したいと思っていたが、平成17年を最後に途絶えていた。これは是非見に行かなければ! 於保多神社は祭神に菅原道真公、富山藩初代藩主・前田利次、二代藩主・前田正甫、十代藩主・前田利保を祀っており、富山の天神様として崇敬されている。明治6年に「柳町天満宮」から「於保多神社」に改称したとされる。 記事によれば鷽替えで使用する土人形の販売は一人一体で24日は午前10時〜午後7時、25日は午前9時〜午後6時でそれぞれ100体用意。無くなり次第終了で予約や取り置きはしないと書いてある。鷽替えは夕方からだが土人形が売り切れていたら困るので、余裕をみてお昼前に神社に買いに行くことにした。 |
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あいの風とやま鉄道で、富山駅に11時9分に到着。駅で輪行して来た自転車を組み立てる。一応地図をプリントして来たが、先月新川神社のどべを撮影に来た時に、空いた時間に於保多神社へ寄ったので迷わず辿り着けた。 於保多神社の鳥居の前には祭礼の旗が掲げられていた。 さっそく拝殿に行きお参りをしてから、鷽替えに使う土人形の鷽を買う。一体500円だ。 |
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↑鷽替えで使う土人形の鷽。5色あり、年ごとに色を変えて行くそうだ。今年は薄いピンクの鷽。土人形の横では、富山の土人形を紹介した本『うしとうそ』も販売されていた。 |
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↑購入した鷽の土人形。裏(腹)に「は34」と記しがついている。同封されている栞に鷽替え神事のことが詳しく書かれていたので、少し長くなるが引用しておきます。 鷽替え神事 「鷽・うそ」は菅原道真公に由縁のある鳥で、古来より幸運を招く鳥と伝えられてきました。 鷽替え神事は太宰府天満宮から始まり、その後天神様をお祀りする神社で行われるようになり、現在も多くの天満宮で行われています。於保多神社では、江戸時代末期から明治の初めにかけて起こったといわれています。 学問の神様、学芸の神様、正直の神様、書道の神様、詩歌の神様と称えられる天神様の御神徳を受けられ、皆様のこれからの生活が健やかに、お幸せにお過ごしいただけますようにご祈念致します。 |
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↓献書祭で、拝殿にはたくさんの書が飾られている。→鷽替えの案内。 |
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於保多神社では昨日と今日が春季例大祭で、昨日は神輿が町内を巡行したそうだ。後で聞いたところによれば、その神輿巡行には猿田彦が先導役として同行するそうだ。 この5月25日は天神様(菅原道真)縁の日として、各地で天神祭りが行われる。先日撮影した利屋町の天神祭りも本来は25日だし、明日行われる小矢部の観音寺の大威徳天神祭も本来は25日だ。それが近年は、人の集まり易い25日に近い土日に変更されている。 昨年の10月25日に柿天神を撮影させていただいた伊勢玉神社でも嘗ては5月25日にも天神祭を斎行していたという。5月は春の天神祭、10月は秋の天神祭と言っていたそうだ。 なぜ5月なのかは不明だが、二十五には天神様の縁の日で、菅原道真公が生まれたのは6月25日、太宰府に左遷が決まったのが1月25日、亡くなられたのが2月25日となっている。 天神様は学問、書道の神様と言われており於保多神社の拝殿にはたくさんの書が飾られ、献書祭も行われていた。 |
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念願の鷽替え用の土人形が購入できた。鷽替えは19時頃からだが、18時から拝殿で「浦安の舞」と「蘭陵王」の奉納が行われる。それまでは時間が空くので、昼ご飯を食べに行く。 先月食べた味覚亭は店舗工事で休業中だったので、自転車で市内を走って良さげなお店を探していると市役所の前に。市役所の中に入ると、レストランがありメニューを見ると安い。 ラーメン330円と、混ぜご飯90円を購入。 |
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市役所で昼ご飯を食べた後、市立図書館・ガラス美術館が入っているTOYAMAキラリで開催中の富山おさんぽ写真部メンバーによる『レンズの向こう側 Vol.3』を観に行く。写真展を観た後、図書館で郷土誌を少し探した後、まだ行ったことのなかった富山県美術館へ。昨年の8月26日にフルオープンしたが、機会がなくて来れずじまいだった。 | ||
↑富山県美術館。↓美術館の屋上から眺める富岩運河環水公園。 |
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美術館内の図書室にあった写真集を眺めて時間を過ごし、再び於保多神社へ。途中、スーパーで菓子パンを一つ買い食いして17時半頃に到着。 |
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18時になり、拝殿で奉納が始まった。先ずは宮司さんの娘さんによる「浦安の舞」、続いて宮司さんによる舞楽「蘭陵王」。 於保多神社は、たてもん祭りで知られる魚津の諏訪神社の武田邦浩宮司が2年前に宮司を引き継ぎ、現在は諏訪神社の兼務社となっているそうだ。 この「浦安の舞」「蘭陵王」の奉納も、今年からの試みだそうだ。簡略化が進む祭祀や年中行事に、一石を投じる試みだろう。 |
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↑武田宮司による「蘭陵王」の奉納。 |
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舞が奉納された後、蘭陵王の衣装から神職の衣装に着替えた武田宮司により、引き続き春季例大祭の神事が執り行われた。 祓え詞奏上、修祓、祝詞奏上、玉串奉奠。10分ぐらいで神事は終わり、いよいよ鷽替え。土人形を持った人達が拝殿の前に集合し、宮司さんの「替えましょ 替えましょ」の合図で近くの人と土人形を交換し合う。 |
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鷽替えの時間は5分もなかったかも知れない。自分も写真を撮りながら2回交換した。地元の年配の女性は懐かしみながら「替えましょ替えましょ」と楽しそうだった。 | ||
鷽替えが終了すると、宮司さんが拝殿に戻りクジの抽選を行った。 幣(ぬさ)を振り引っかかったクジが当たりで、10個を抽選。自分の持っている鷽の腹に書かれた番号が、当選番号と一致していれば金色の鷽が貰える。 自分の交換した鷽は「は14」で当選しなかったが、残念に思うことはなく楽しかった。 参加した方々が皆さん楽しそうで、復活は大成功ではないだろうか。 |
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*北國新聞の記事、KNBニュース。 | ||
伸びて来たので、午後から髪を切りに行く。サイドとバックに3mmのバリカン、トップは2cmほど切ってもらう。この2年半ほどは、ずっとツーブロックだ。 すっきりした頭で、先月春福祭りを撮影させていただいた小矢部の福町神明宮へその時の写真とフォトブックを届けに行く。せっかく小矢部まで来たので春福祭りのお神輿巡行で通った、川岸町(現・東福町)へ行こうと小矢部川沿いを自転車で走っているとえびす像が目についた。まあ、この国のツートップがあれとあれだからな。 |
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↓→小矢部川沿いの道に設置されたえびす像と石碑。 |
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えびす像の横には石碑があり、以下の文が刻まれていた。 古書に誌していう 福町は小矢部川を使った水運で栄えた町なのだろう。えびす像のある西福町から橋を渡って東福町へ。旧町名の川岸町に自転車をとめて、町並みをしばらくスナップして歩く。こちらのブログによれば、川岸町には嘗て花街があり、貸し座敷9軒、料理屋8軒、芸妓47名、娼妓5名の規模だったと書いてある。そんな花街の面影を残している建物が僅かに存在している。 |
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花街の面影を残す通りは200m程で、15分ほどブラブラして帰って来た。 |
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8年ほど前に祭りを撮影に行くと髪型をソフトモヒカンにしている若連中をよく見かけたが、この2〜3年でツーブロックの若連中が増えた気がする。刈り上げたサイドに、ラインを入れたり文字を入れたりと気合いが入っている。祭りのスナップ写真には、そんな時代の流行り廃りも記録される。 ちょうど10年前、今では美容家として活躍しているパーツモデルの金子エミさんとフォトセッションをしていた。まだワニブックスから最初の著書『お家でおこもりエステ』を出したばかりで、美容家として活躍の場を広げようとテレビや雑誌に積極的に出ていた。フォトセッションの様子は日テレの情報番組「スッキリ」でも放送された。 当時の彼女の髪型はショートボブだったが、サイドの髪を持ち上げると中は刈り上げになっていた。髪の毛が多いのでそのままではボリュームがあり過ぎるので、美容師が提案したそうだ。 サイドの髪を下ろすと普通のショートボブに見えるが持ち上げると刈り上げで、今風に言えばツーブロックだろうか。その当時にツーブロックという言葉があったか知らないが、そのちょっとパンキッシュな髪型で何枚か写真を撮った。 |
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何度かフォトセッションをして、その年の6月に彼女の2冊目の著書『家事をしながらエステ』の撮影を担当した。 | ||
どれも虚構新聞のネタに見えるが、残念ながら虚構新聞のネタは一つで、そのネタが一番話しとしてはマトモだという地獄。◯「セクハラ罪という罪はない」の答弁書、政府が閣議決定 昨日が浅草三社祭の最終日。最終日は三基の本社神輿が出され、浅草の街を練り歩く。散歩がてら何回か三社祭を撮影に行った事がある。夜、街中を渡御した本社神輿が宮入りするのを隣りの浅草寺から観ていて、その熱気に興奮したのを覚えている。 三社祭の他、浅草寺・浅草神社の祭りの設営から陣頭指揮までを代々とるのは新門組で、初代は江戸の火消しで鳶頭、侠客であった新門辰五郎。その新門辰五郎の末裔であり、新門の七代目組頭の杉林仁一さんを撮影させていただいたことがある。もう、25〜6年ほど前で、近畿日本ツーリストの発行していた旅行誌『ジョイフル』の下町特集での撮影だった。 |
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カメラマンになって良かった事の一つが、色んな人にお会いできること。自分個人が撮りたいな~と思う範囲の人物というのは自分自身の引き出しの少なさや キャパシティーの小ささから特定のミュージシャンに限られたりするけれど、仕事であれば自分が想像できる範囲を超えて様々な人に会って撮影することになる。それが楽しい。ある時は陶芸家であったり、料理人であったり、そして新門辰五郎の7代目の方であったり。 近ツリの『ジョイフル』はわりと長く仕事をしていて、途中に一度編集長が交代した。新しく編集長に就いたのは若い女性で、それまでの細かな情報を詰め込んだ旅行誌から、ビジュアル中心の特集主義になった。写真が大きく扱われるようになり、嬉しかった。 編集プロダクションを通して仕事を受けていたのと地方のロケが多かったので、その新しく編集長になった女性と一緒に仕事をする事はほとんど無かったが一度だけ写真家の前田真三さんの取材でご自宅へ伺った時に、彼女が同席した。名刺には有本香と書いたあった。 雑誌『ジョイフル』は遠の昔に廃刊になったが、この何年かで保守派の論客として彼女の顔をテレビで見ることが多くなった。 |
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↑新門組7代目、杉林仁一さん。自宅の玄関前で撮影。 |
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昨日は利屋町の天神祭りがあった。こちらの様子も後々UPいたします。 | ||
↑御神体(天神像)の神籬を乗せた子供神輿が町内を巡行する。 |
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愛媛県から加計学園による獣医学部新設を巡る新たな文書が提出された。 ◯加計問題 獣医学部「首相『いいね』」 15年に理事長に |
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今日は越中だいもん凧まつりがある。昨年は伏木の氣多神社の慶賀祭と重なり午前中に少し見ただけだったので、今年は午後からゆっくり見ようと自転車で出かける。風は強いが晴天で、凧揚げ日和だ。 家から自転車を漕いで高岡へ。凧まつりの会場である大門の庄川の河川敷へ行く前に、今月行われる利屋町の天神祭りについて聞こうと関野神社へ寄る。 天神祭りは関野神社に祀られている天神像を利屋町の曹洞宗龍雲寺に運び、読経と祝詞奏上が行われる神仏混淆の行事。とやまの年中行事百選には5月25日前後の土日と書いてあったので、今年は5月26日と27日だと思うが何時頃から始まるのかがわからない。 先ずは拝殿に行って参拝して隅の方を見ると神職の姿が見えたので会釈をすると、出て来て下さった。禰宜の酒井さんだった。病気をされて休養中だと聞いていたが、復帰されたそうだ。さっそく天神祭りの事を尋ねると、昨日が宵祭りで今日が本祭りだという。後で利屋町の宮総代の方に聞いたところ25日前後ではなく、25日より前の土日だそうだ。 御神体の木造天神像は宵祭りの昨日、関野神社から龍雲寺に運ばれており、今日の本祭りは14時から子供神輿が出て、その後、龍雲寺で読経と祝詞の奏上が行われるそうだ。宵祭りは撮り逃したが、14時からの子供神輿を撮影させてもらうことにする。せっかくの凧揚げ日和で残念だが、大門の凧まつりは諦める事にした。 14時まで2時間ほどあるので、お昼ご飯を食べに行く。今庄のうどんや丸亀製麺も浮かんだが、吉野家の牛丼にした。牛丼を食べて龍雲寺の方へ向かう途中に御旅屋通りを通るとアーケードでコンサートをやっていた。通り過ぎようとすると知り合いから声がかかり、2曲ほど椅子に座って聴いて来た。 |
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↓→利屋町の入口で通町との境にある富山県里程元標。その横に天満宮の旗を掲揚。 |
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←利屋町の龍雲寺。 少し早いが13時45分頃に龍雲寺へ。祭りの法被を来た男性がいらして、子供神輿の準備をするところだった。 |
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本堂の入口にはスケジュールを記した紙が貼られていた。 「旗立て」は5月12日(土)午前8時半より行います。 5月18日(金) 午後5時 宮造り 5月19日(土) 午後5時 神迎え 7時 宵祭り 5月20日(日) 午後2時 子供神輿 3時 子供祭り 4時 大般若 4時半 町内の祭典 5月21日(月) 午後5時 宮解体 神送り |
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↓→龍雲寺の中に設営された天満宮。社の中に御神体の天神像が祀られている。 | ||
↓→氏子に配布される、祭壇に置かれた火伏せの札。 |
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↓→龍雲寺の近くにある公民館に保管されている祭り道具。 |
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子供神輿を引いて歩く子供がなかなか揃わずに待機。小学校の運動会と重なってしまったようだ。しょうがないので小さな子供たちと大人でお神輿を引いて行く事になった。 予定よりだいぶ遅れて15時20分頃に、関野神社の酒井禰宜がお神輿をお祓いして巡行がスタートする。 お神輿の中には、御神体の天神像の神籬が祀られているそうだ 。 ←お祓いをする酒井禰宜。 |
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↓還御したお神輿から御神体の神籬を取り出す酒井禰宜。 |
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お神輿の町内巡行は30分ほどで終了。途中から運動会から帰って来た小学生の女の子も参加した。龍雲寺の少し手前で記念撮影をして、お神輿の還御。酒井禰宜の手により御神体の神籬がお神輿から取り出され、宮に戻された。 お神輿を引いた子供たちにスイカが出され、しばし休憩。子供たち一人一人に、お菓子の詰め合わせが手渡された。 16時過ぎからは大般若会が開始され、読経の後、氏子が一人一人ご焼香をする。 |
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↑本堂に設営された臨時の天満宮の前で、龍雲寺の住職らによる大般若会。 |
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↓酒井禰宜による祝詞奏上。→玉串奉奠。 |
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↑龍雲寺の大きな額のところに、昔は天満宮と書いた大きな額を掛けていたが今は簡略化され、小さな額が写真のように柱に立て掛けてある。 大般若会に続いて関野神社の酒井禰宜による神事が斎行。祝詞奏上の後、玉串奉奠。氏子の方が一通り玉串を捧げた後、酒井禰宜に声をかけられて私も玉串を奉奠した。 ←御神体の木造天神像を運ぶ木箱。 |
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神事の後、酒井禰宜が宮総代の方に御神体の天神像を撮影してもよいか聞いて下さったが、以前、他の方が御神体を撮影した時に不幸な事があったので遠慮して欲しいということだった。 この利屋町の天神祭りだが、かつて利屋町にあった天満宮の御神体が関野神社に移され、その御神体が一年に一度里帰りをする祭りのようだ。宮総代の方の話しでは、聖安寺が利屋町にあった頃、お寺の前に大きなお宮を造って天神祭を執り行っていたこともあるという。子供神輿を出すようになったのは、それほど古いことではなく以前は樽神輿だったそうだ。 |
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今日の富山の最高気温が32℃で、沖縄は30℃。そろそろ沖縄と内地の最高気温が逆転する季節だろうか。一昨日は富山の最高気温が全国一位になった。 中国の陰謀論、中韓に乗っ取られ論、あげくにはヘイトBlogを読んでの弁護士への大量の懲戒請求。普通に考えて調べれば東京MXニュース女子の沖縄ルポと同じでデマだとわかることが、メディアやSNSを通じて拡散していく。もう社会の底が抜けた感がある。 <西古見も、加計呂麻島も危ない。チャイナタウンができるのも時間の問題だ> 呆れるしかないが、一昨日の朝日新聞に「中韓に乗っ取られ論」デマ横行 学長発言に批判という記事が掲載されていた。 こう言う陰謀論や妄想が肥大化して事件になったのが、今注目を浴びている弁護士への一斉大量懲戒請求だろう。ヘイトを中心とした記事を掲載しているBlogに煽られた人々が「朝鮮学校への適正な補助金交付を求める会長声明」に賛同した弁護士に対して懲戒請求を送った。 |
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NHKの朝の連続テレビ小説『半分、青い』の時代設定がバブルの頃に入った。 今日は、ディスコ・マハジャロ(笑)が登場した。 |
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写真は1994年10月24日、NHKの収録の合間に撮影したリセット・メレンデス。彼女に用意されたNHKの控え室での撮影。テレビ局の控え室でタレントさんを撮ることは何回もあったが、これほど狭い控え室はなかった。3畳あったかな。壁に黒布を貼り、天井の方からキミーラの小型バンクをつけたサンパックのグリップストロボ。メインはサンパックのグリップストロボに小型の傘で、控え室の外に設置。本人には中で立ってもらい、ドアを開けて外から撮影した。 | ||
昨日テレビを観ていたら、西城秀樹さんの死去を伝える速報が流れた。昨日から今日に掛けてテレビでは特集が組まれ、Facebookには個人的な思い出が流れて来る。 | ||
今日で沖縄が日本に返還されて46年になる。沖縄タイムスや琉球新報には関連する記事が掲載されているが、全国紙やテレビニュースで取り上げられるのをまだ見ていない。 一九七二年五月十五日 沖縄の祖国復帰は実現した |
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↑与論港の先、雲の下に沖縄本島の北部が見える。与論島は奄美群島だが、文化的には沖縄北部の国頭地方に近いと言われる。与論で泊まった宿の主人は、沖縄独特の童名(わらびなー)を持っていた。2011年8月19日撮影。 ↓与論城跡から見下ろした島の風景。水平線の先に見える島影は沖縄の伊平屋島(伊是名島も重なっているかも?)。伊平屋島は第一尚氏の始祖・尚巴志の先祖が生まれた島で、伊是名島は第二尚氏の始祖・尚円王の生まれ島だ。2011年8月20日撮影。 |
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◯ガザ衝突、死者58人に イスラエル軍発砲、非難の応酬 菅野完氏のニュース解説プログラム SEE IT NOWの第2弾「カルトとは何か?カルトはどうして危険なのか?沖縄に進出するカルト!!」 毎日新聞社特別編集委員でテレビのコメンテーターなども務めた岸井成格さんが亡くなられた。気になって検索すると、10年前に亡くなられた筑紫哲也さんも享年73歳だった。 富山の春祭りも、今日、伏木のけんか山が終わり、残るは17日・18日に行われる岩瀬の曳山祭りくらいだろうか。 |
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↑獅子と天狗の緊張感溢れる丁々発止。噂に違わず見事な獅子舞だった。 |
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新湊市六渡寺(ろくどうじ)の獅子舞の評判をネットや口コミで聞いていたが、春祭りのシーズンは祭りが重なるので、なかなか見に来れなかった。今日は天気も良さげで、ようやく見に行く事ができた。 | ||
こちらのサイトには朝7時に六渡寺の日枝神社を参拝しお祓いを受けて獅子舞を奉納した後に町中をまわり、11時頃に午前の部を終了。昼休みを挟んで午後1時から公民館を出て午後の部が始まり夕方まで町内を巡行。夜には新築や結婚の祝い花を出した家で獅子舞が行われると書いてある。 午後の部の途中から見るつもりで、あいの風とやま鉄道で13時42分に高岡駅へ。万葉線に乗り換えて、六渡寺駅に向かった。 |
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↑万葉線の六渡寺駅。↓→町に入る橋に飾られていた獅子舞のオブジェ。 |
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13時45分に高岡駅を出た万葉線が、六渡寺駅に着いたのは14時20分頃だった。六渡寺駅を出て海の方へ歩いて行くと橋があり、橋を渡った地区が六渡寺のようだ。橋には獅子舞のオブジェが飾られていた。 六渡寺の獅子舞は日枝神社の祭礼で春は5月14日、秋は10月6日に獅子舞が行われる。お囃子が聴こえて来ないかと耳をすましながら、日枝神社を探して歩く。 |
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↓→六渡寺の日枝神社。 |
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獅子舞のお囃子は聴こえて来なかったが、祭礼の神楽の音が微かに聴こえて来たので歩いて行くと日枝神社だった。境内には案内板があり、神社のご神体として三体仏が祀られていると書かれていた。 お賽銭をチャリんと入れお参りをした後に、拝殿にいたした氏子の方に獅子舞がどの辺りにいるか尋ねたところ、海の方だろうとのこと。海の方に向かって歩くがお囃子も獅子舞の気配もない。駅から神社に来る途中にコミュニティーセンターがあったので、こちらでも聞いてみようと尋ねて行くと、やはり海側の団地で舞っているはずとの答え。もう一度海の方へ歩いて行くと、今度はお囃子が聴こえ、人がゾロゾロと歩いているのが見えた。 |
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↑趣きのある商家や、なんだか懐かしくなるような路地がたくさんある六渡寺の町。 |
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万葉線で「六渡寺駅」を通過したことは何度もあったが、駅を降りて町を歩くのも初めてだった。小矢部川と庄川に挟まれ、前方は海。嘗ては海運で栄えた町なのだろう。 |
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午後の部は夕方までだと思っていたら、16時前に終わってしまった。午後の部の最後は獅子宿となっている公民館の前で舞って、そのまま中に入って行った。 夜の招待花は19時からで、それまで獅子方は休憩だという。3時間も空くので、コミュニティーセンターのロビーにあったソファーで本を読んで休んでいると、職員の方から話しかけられる。 獅子方が休んでいる公民館に、六渡寺の獅子舞で使用された歴代の獅子頭が飾ってあるという話しだった。その中には熊の皮を貼った熊獅子もあるという。 六渡寺の獅子舞の由来なども記した地区の冊子も見せて下さったので、カメラで複写させてもらった。熊獅子について記した部分を引用しておく。以下、 また明治初期には六渡寺に毛皮張りの、通称クマジシが一基、六渡寺新にも一基、漆塗りの頭があったが、明治末期の新庄川大改修や昭和初期の伏木港拡張工事により小学校の移転、住宅の立ち退きがあり、これらをきっかけに昭和八年頃に東西のお獅子を統一してきたと伝える。 この毛皮張りのクマジシは西のお獅子で、他の獅子頭や道具と共に、今も六渡寺自治公民館に大切に保管されている。 |
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せっかく教えていただいたので公民館へ獅子頭を見せてもらいに行く。上の写真の右が熊獅子。皮が全て剥がれているので、言われなければわからない。思っていたより小さかった。 公民館に戻り少し休んでから、招待花を出すお宅へ行く。今日は招待花は新築した家一軒だけで、その後はコミュニティーセンター前の広場で舞って終わりだそうだ。 見物する人が多いそうなので早めに行って、場所取りをして待っていた。19時頃になり太鼓の音が聴こえ、ガヤガヤとした気配とともに獅子舞の一行が到着した。 |
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招待花の家での獅子舞は40分ほどだったろうか。夜には天狗が松明を持って舞う、ヨソブリという演目も披露される。 わざおぎ(俳優)という単語がある。はいゆう(俳優)は役者・芸能人を連想させるが、わざおぎ(俳優)は身振りや歌舞で人や神を楽しませる人を指す。天狗の全身にピンと張りつめたような演技を見て、この単語を思い出していた。獅子舞のまわりは地元の子供達がいっぱいだった。彼らが最初に憧れるのはテレビドラマで観る俳優ではなく、獅子舞を演じる俳優なのかもしれない。 |
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招待花を打った家からコミュニティーセンターは歩いても1、2分だ。今日はここで最後ということもあり、見物人の大きな輪が出来た。こちらでの獅子舞は50分ほどだったろうか。コミュニティーセンターを出た獅子舞は、直ぐ側にある公民館の前でもう一度舞って、中に消えて行った。 獅子舞が全て終わったのは20時半くらいだった。いつもはもう少し招待花を打つ家が多く、終わりは22時頃だと聞いていた。秋は招待花が5つほど予定されているそうなので、たっぷり楽しめるだろう。 富山の祭りを撮影していてよくお会いする方が、これから明日行われる伏木のけんか山祭りの場所取りに行くので、その後に高岡まで送りましょうかと誘って下さった。 今日は伏木のけんか山の宵祭りで、山車がライトアップされたり山宿に人形が飾られていたりする。願ってもない話しに、同乗させてもらう。伏木は小矢部川を挟んで六渡寺の対岸で、車ならあっという間だ。 場所取りの三脚を設置した後、各町の曳山が並べられてライトアップされている山倉に行ってみるが、既にライトアップは終了し山蔵に戻されたところだった。 山宿はまだ開いているようだったので、山倉の近くにある宿を2軒ほどまわって、飾ってある人形を見て高岡駅まで送ってもらった。 |
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↑伏木の曳山祭(けんか山)の宵祭りで、山宿に飾られた山車の人形。 |
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ようやく日記が追いついた(汗)。 |
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少し余裕ができたので、先月の12日に注文して14日に届いていたのに放ったらかしにしてあったポータブルの外付けHDDをMac用にフォーマット。他のパソコン作業をやりながら、この新しいHDDにデータをバックアップ。 ←メガネの下、白の小さな箱が購入した外付けHDD。ポータブルタイプなので若干割高だが、それでも2TBで9,896円だった。 |
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「一般論だが、真実ではないこと、偽りのこと、極論でいえばうそ、というものは、それを発言した人にとどまることなく、第三者、他人をまきこんでいく」 |
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←ゴールデン・ウイークも過ぎてまだ鯉のぼりの写真もなんなので、トップ画面を模様替えしました。梅雨らしい写真も考えましたが、それだとまた直ぐに替えなくてはならないので、ちょっと夏っぽい写真に。 ↓これまでのトップ画面。 |
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奄美が5月7日に、沖縄が8日に梅雨入りした。今年はいつもより梅雨入りが早いようだ。 | ||
個人的にはあまり関係ないが、今日でゴールデンウイークも最終日。怒涛の春祭り撮影も一段落。 |
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↑井波のよいやさ祭。「よいやさ」はお神輿を担ぐときの掛け声だ。↓城端の曳山祭。曳山は何回か撮っているので、今年は神輿行列に並ぶ鉾を中心に撮影。 | ||
久しぶりに晩ご飯にミート・スパゲティーを作った。タバスコが賞味期限が切れてから、ずいぶんと経つ。味は変化ないが見た目が濁っていて、大丈夫だろうかと心配しながら使っていた。勿体ないと思いながら、新しいタバスコを買って来た。ラー油や沖縄のコーレーグースは賞味期限内に使い切れるが、タバスコはいつも使い切れないままに捨てている気がする。半分の大きさの瓶があればいいのに。賞味期限は2年程先だが、今回は使い切れるだろうか? |
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城端曳山祭も何回か撮影に来ているが、いつも午後からで傘鉾やお神輿の渡御は一度も見ていない。今年はお神輿の出発から撮影しようと早めに起きて、城端に向かう。 自宅から自転車で、城端線の戸出駅へ。7時21分の電車で、終点の城端駅に8時3分に到着。緩い坂を歩いて中心部に来ると、山宿に飾ってあった御神像とからくり人形をフォークリフトで曳山の神座に乗せる作業をしていた。 |
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お神輿は8時30分に伝統芸能会館じょうはな座から出発すると書いてあったので行ってみると、じょうはな座の裏手の道に傘鉾を先頭に並んでいた。その100mほど手前には台車に乗せた剣鉾が待機している。 | ||
↓傘鉾の列。→傘鉾の前を歩く剣鉾。 |
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やがて時間になり傘鉾を先頭にした神輿行列が動きだし、手前で待機していた剣鉾と合流。剣鉾が一番前になり、町中を渡御する。神輿は子供神輿が1基に、大神輿が3基で神職と共に家々の前で止まってご祈祷しながら進む。 |
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↑お神輿の渡御。 9時過ぎに獅子頭を先頭に剣鉾、傘鉾、お神輿、曳山と庵屋台が善徳寺前の十字路を中心に並ぶ。 |
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9時30分になると曳山は巡行に、神輿の行列は渡御にそれぞれの方向へと出発していった。 | ||
最初は神輿の行列についていた獅子舞は、やがて別れて家々をまわっていた。 11時過ぎに神輿行列は休憩になった。8本の傘鉾が台に納められて通りに並べられている。傘の下には町名と装飾品が書かれた紙が貼られていた。 |
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↑左から、野下町「太鼓とラッパと月琴」/大工町「千枚分銅」/西上町「争鈴と玉手箱」/東下町「打ち出の小槌」 |
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↑左から、出丸町「将棋盤に柳」/西下町「太鼓に金鶏」/東上町「金の鶴に岩波」/新町「手箱に鼓と櫻の枝」 |
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神輿4基が曳山会館の展示室に入れられたので、何が始まるのか尋ねたところ12時から神事が執り行われるとのこと。展示室を囲むガラス越しに見学が可能だというので、見せてもらった。4人の女の子による浦安の舞も奉納された。 |
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↑→強風に煽られて転倒して壊れた傘鉾。 |
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曳山会館での神事が終わり外に出ると、大通りからモノが倒れる音がしたので見に行くと2本の傘鉾が風に煽られて転倒していた。 その近くで獅子舞をやっていたので見に行く。城端の獅子舞の演目に見物客を天狗がさらって胴幕の中に入れるというのがあるが、天狗にさらわれた妹を果敢に取り戻す男の子が登場した。 城端曳山祭は神明宮の春季例祭だが、神明宮にはまだ行った事がないので参拝に向かった。 |
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↑城端の神明宮。 町の中心部から少し離れた神明宮を参拝し写真を撮っていると、南町の獅子舞が奉納に訪れた。 |
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子供神輿は14時頃に神社に戻り、神輿を引いていた子供たちにお菓子が配られた。ご神体が宮司さんの手により本殿に還される。 しばらく神社で休んでいると、14時50分頃に大神輿3基が順番に還って来た。春日宮、八幡宮、神明宮の神輿で神明宮に祀られているご神体を乗せているそうだ。 ご神体が本殿に還されると、神輿は境内の神輿堂へ。そして拝殿では還幸祭が行われた。 |
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お神輿の渡御が終わったので、町中に戻り曳山の巡行を撮影して歩く。 | ||
↑↓庵唄所望と書いた家々の前で止まり、若連中が庵唄を披露する。 |
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今日は傘鉾とお神輿の撮影がメインで、曳山と庵屋台はほどほどにと考えていたが、結局たくさん撮ってしまった。 |
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*北日本新聞の記事、北國新聞の記事1、記事2、中日新聞の記事。 | ||
よいやさ祭りの名で親しまれている、井波八幡宮の春季例大祭。大神輿が3体に屋体(庵屋台)も出るというので以前から撮影したかったが、ゴールデンウイークは祭りが重なるのと井波へは鉄道がなく路線バスしかないので今まで来れずじまいだった。 その唯一の公共交通機関である路線バスも、井波から高岡方面への帰りのバスは17時半頃には終バスとなる。城端線で福野まで自転車を輪行して、福野から井波へ自転車で行くのがベストのように思えるが今日は大気が不安定で急な雨や突風の注意が出ている。少し悩んで今日は終バスまで見て帰ろうと思い、高岡から12時29分のバスで井波に向かった。 井波の中心部は祭りのため今日は車両が入れないので、少し手前のバス停で降りる。歩いて交通広場にある観光案内所まで行くと14時頃になっていた。 |
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観光案内所から瑞泉寺に向かう八日町通りに入ると、大きなビニールを被せた屋体(庵屋台)が流している。瑞泉寺に向かって左側の通り沿いには、しめ縄を飾った御旅所があった。 | ||
↑通りに面した部屋の戸を外し、正座をして屋体を迎える。 |
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しばらく屋体が通りを流しているのを見てから、北日本新聞に瑞泉寺の藤棚が見頃だという記事が載っていたのを思い出して行ってみる。 山門の方から藤棚を何カットか撮影して、井波八幡宮へ。瑞泉寺と井波八幡宮はほぼ隣り合っているが、ゆっくり歩くと5分くらいかかるだろうか。 こちらの記事によれば、井波八幡宮は、井波城の本丸跡に建立されており、井波城は越中一向一揆の総本山・瑞泉寺が築いた城郭伽藍だそうです。 |
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↓井波八幡宮。→御神木だろうか。 |
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井波八幡宮を参拝してから八日町通りに戻ると、先程の屋体がビニールを外して流していた。屋体の中で座って演奏している地謡や唄い手を撮らせてもらう。 | ||
観光案内所に貼ってあった神輿渡御予定図によれば、15時頃は今町三区を巡行しているはずなので探しに行ってみる。 |
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八日町通りから路地に入り今町に向かっていると、獅子舞のお囃子が聴こえてきた。神輿渡御の露払いとして山下町、東町、下新町の獅子が同行しており家々の前で舞っていた。獅子の後には子供神輿、そして大神輿が続いている。 | ||
獅子舞を撮影しながらついて歩くと、やがて八日町通りに入り御旅所の前で順番に獅子舞の奉納が行われた。 | ||
獅子舞の奉納が終わると、今度はお神輿の先頭を歩く旗や傘鉾が八日町通りに入ってきた。こちらは御旅所には来ないで、路地に入りしばらく休憩するようだ。昔は台車に乗せないで、旗も傘鉾も人が持って歩いたのだろう。 旗の台車の前をお面を取り付けた棒を掲げて歩く人がいたが、wikipediaによれば道案内の神様、猿田彦の面だと書いてある。写真には写っていないが、猿田彦の面の前を太い竹を引きずって歩く人が二人いる。傘鉾についてはこちら。 |
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続いて3基の子供神輿、3基の大神輿が順番に八日町通りに入る。「よいやさ」の掛け声を上げながら御旅所の前まで来ると、周囲から「戻せー戻せー」の大合唱。すると来た道を100mほど引き下がる。そうしてまた御旅所まで担いで来るが、また「戻せー戻せー」の声で来た道を戻る。そんなことを3回ほど繰り返して、ようやく御旅所の前にお神輿が止まる。これを6基のお神輿が行う。 町によっては一つのお神輿を担ぐ人手もなくて台車や車輪をつけたりトラックの荷台に積んでお神輿の渡御を行っているところもあるのに、都合6基のお神輿を人の手で担いでいる井波のマンパワーの凄さに只々感心する。 |
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ようやく6基のお神輿が揃ったところで、御旅所での神事が行われた。 帰りの手段の確保と想像以上に豪華な祭りだったので、電話で両親を誘ったら来るという事で観光案内所の駐車場に車を停めて八日町通りを歩いてきた両親とこの頃に合流。 御旅所での神事が終わり、町内を少し練り歩いた後、子供神輿から順に井波八幡宮へと還御。 ←井波八幡宮に入る最初の子供神輿。 |
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鳥居を潜ったお神輿は、まず境内を3回周る。そして拝殿の前に来るが、ここでも「戻せー戻せー」の声が周囲から掛かり、鳥居と拝殿の間を行ったり来たり。ようやく担いだ神輿を拝殿に突っ込むと、神職の手によりご神体が運び出される。 |
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子供神輿の還御が終わると、大神輿が順に境内に入り同じように3周し、「戻せー戻せー」の掛け声で行ったり来たりを繰り返した後、拝殿の中に神輿をつけ、そしてご神体が本殿へと還される。 3基ある大神輿は壱ノ輿は屋根が四角輿で井波八幡宮御祭神、弐ノ輿は八角屋根で神明社御祭神、参ノ輿は六角屋根で諏訪社御祭神が乗せられているそうだ。 大神輿のご神体が還御された後、境内では獅子舞の奉納が始まった。 |
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↑待機していた獅子舞。↓→山下町の獅子舞奉納。 |
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←獅子舞の奉納が行われている間、拝殿では還幸祭が執り行われていた。 山下町の獅子舞が終わるとそのまま鳥居を潜って町中に戻って行き、次の町が獅子舞を奉納する。 |
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21時過ぎまで、4つの屋体が庵唄を響かせるようだ。来年は宵祭りも見てみたい。 |
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午後から、久しぶりの雨。今日は、忌野清志郎さんの命日か。もう9年? | ||
↓→忌野清志郎withデ・ガ・ショー。1997年5月15日撮影。 |
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You Tubeから「スローバラード/RCサクセション」「トランジスタ・ラジオ/RCサクセション」。 先月の27日にポチった『伊勢神宮 日本の古社/三好和義』(淡交社)が昨日、30日にポチったソニーのα700が今日届いた。 |
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↓6台目となるα700。→『伊勢神宮/撮影・三好和義』。 |
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昨日は高岡御車山祭で知られる、関野神社の春季例大祭だった。こちらの様子も後々UPいたします。 |
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↑曳山巡行の終盤、源太夫獅子と各町の曳山が順に、津幡屋与四兵衛の旧宅跡に建立された碑の前へ参拝に訪れる。 |
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今日は高岡関野神社の春季例大祭である、高岡御車山祭の本祭。御車山(曳山)の奉曳は午前11時から始まるが、昼休憩を挟んだ15時15分からスタートする午後の奉曳に合わせて電車に乗る。 あいの風とやま鉄道で14時24分に高岡駅に到着。先ずは関野神社に参拝に行くが、駅前の末広通りは混雑しているだろうと思い、裏道を通って歩いていると母衣武者を飾った宿があった。嘗ては御車山と一緒に行列に加わり巡行していたのだろう。案内板には宮脇町一丁目自治会とあり、説明が書かれている。「母衣武者祭と高岡の明治維新 江戸時代も200年余り経て、世の中は米主体の経済から貨幣や商品が主体の経済へと変わる 士農工商の身分制度は実力において逆転し、武士は魂である鎧兜をお金に替えて生活を始めた。こうして甲冑が高岡へ流れてきた。高岡町民が経済力において金沢の武士を圧倒した証である。高岡甲冑の文化価値は加賀百万石の武将の所持品であった事から見て、学術的に貴重な文化遺産である」。 母衣宿の写真を撮っていると、声を掛けられた。声のする方を向くと高校の2年先輩だった田沢さんと松岡さんだった。田沢さんは地元に住んでいるので時々音楽イベントなどで顔を合わせるが、東京に住んでいる松岡さんとは何十年ぶりだろうか?2人は今まで御車山の巡行を見ていたらしい。しばらく立ち話をして別れ、関野神社に向かった。 |
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↓祭礼のしめ縄が張られた裏通り。→偶然見つけた母衣宿。 |
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←関野神社。 関野神社を参拝してから、休憩している山車が並んでいる山町筋から高峰公園の辺りに行ってみる。 |
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ビルの階段を上がって待っていると、最初に露払いの源太夫獅子が、続いて通町の山車が現われた。 | ||
↑坂下町の源太夫獅子。→御車山の先頭を切る通町の山車。 |
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↑↓→7町の山車が通り過ぎるのを俯瞰していた。 |
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山車が山町筋を通り過ぎた後、しばらく追いかけてから昨日平成の御車山の完成披露式が行われた御車山会館へ。平成の御車山の展示を見て2階のシアターで休憩がてら御車山祭の映像を観る。 御車山会館を出て、津幡屋与四兵衛の碑が建立されている二番町へ。御車山の巡行の終盤、源太夫獅子を先頭に全ての町の山車が順番にこの碑の前で止まり、参拝してから関野神社へ向かうというので撮影に来た。 長い巡行の中でも見所の一つだろうが、知られていないのかあまり人は多くない。 |
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行列の最後を飾る二番町の山車が与四兵衛の碑を参詣するのを見てから、関野神社へ向かう。山車は関野神社にお参りして、それぞれ自分の町内に帰り解体される。 | ||
関野神社の前の交差点は、お参りした山車とこれからお参りするために並んでいる山車がすれ違い、混雑している。 |
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4月へ |