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バックナンバー
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能

4月3日(火) 関野神社 与四兵衛祭  16時〜
4月 埴生護国神社 屋根の葺き替え完成の慶賀祭を予定
4月14日?(第2土曜)9時30分〜 小矢部 福町神明宮 春福まつり 神獅子(行道獅子) バス
4月14日(土) 楡原の獅子舞  Facebook
4月15日(日)? 福光宇佐八幡宮 春季例大祭
4月19日(木) 新川神社 春祭り どべ(猿田彦) 記事 8時〜神事 8時30分〜神輿渡御 19時30分頃宮入
4月19日(木) 新湊 西宮神社 春季例祭
4月19日(木)〜5月6日(日) 五箇山の春祭り 記事 世界遺産バス
4月20日(金) 五箇山 相倉集落の春祭り 地主神社
4月23日(月) 五箇山 下梨集落の春祭り
4月26日(木) 五箇山 上梨集落の春祭り
4月第4日曜日? 富山市中島の獅子舞
4月28日(土) 出町子供歌舞伎稽古上げ
4月29日(日)、30日(月) 出町子供歌舞伎
4月30日(月) 平成の御車山完成披露式 10時から完成披露式典
5月1日(火) 高岡御車山祭
5月2日(水)、3日(木) 井波よいやさ祭り *2日は宵祭
5月3日(木) 越中八尾曳山祭
5月3日(木) 氷見 唐島弁天祭
5月4日(金)、5日(土) 城端曳山祭
5月4日(金) 五箇山 菅沼集落の春祭り
5月14日(月)、15(火) 有磯正八幡宮 春季例大祭
5月14日(月) 射水市 六渡寺の獅子舞
5月20日(日) 越中だいもん凧まつり 8時30分〜16時
5月25日前後の土・日曜日 利屋町の天神祭り  関野神社から木像天神像が運ばれ、龍雲寺へ。
5月27日(日) 新川神社 お田植祭 9時30分〜13時
6月2日、3日 国泰寺 開山忌 虚無僧による尺八の奏上
6月? 櫟原神社春季例大祭 宵祭に鯛行燈(ヤサコ)や高張提灯の行列が渡る。
6月15日(金) 祇園祭 有磯正八幡宮
7月22日(日)〜28日(土) 城端別院善徳寺の虫干法会 *盤持ち大会は22日
7月24日(火) 入善 新屋住吉社 新屋大磐祭り
7月28日(土) 南般若えんじゃらふれあい夏まつり 盆踊り歌「えんじゃら節」 南般若公会堂前 記事
7月28日(土)、29日(日) 芦峅寺・雄山神社大例祭
7月31日(火) 黒部市中陣のニブ流し
8月13日(月) 芦峅寺 御招霊の迎え火 
8月26日(日) 第36回高岡薪能 瑞龍寺

◯新川神社 御田植祭5月
◯高瀬神社 御田植祭5月 抜穂祭9月
◯射水市三ヶの十社大神 御田植祭
◯7年に1度、10月に開催 次は2022年 朝日町山崎 米吊り奉納
◯福岡町沢川の獅子舞 9月の第4土曜日?
◯加茂神社 出雲へ神を送る神送祭 9月30日と10月31日?
◯岩稲八幡社の神送り・神迎え 10月下旬と11月下旬の日曜日 
◯5年に一度、若手神職でつくる県神道青年会が御田植祭
◯2019年 白山宮の本尊。秘仏十一面観世音菩薩をご開帳(33年毎)。
◯33年に一度 庄川の神賑わい 次回は2023年7月

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事
富山の祭り
築山行事
*砺波の獅子舞 各地区の日程
年中行事覚書 柳田国男
田の神祭りに見る日本人の神意識
山の民の祈り
立山に生きる村ー宗教集落芦峅寺のくらし
五箇山の獅子舞の起源
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

4月30日(月)

 高岡御車山祭の宵祭にあたる今日、伝統技術の継承を目的に市が企画し、職人集団「高岡地域文化財等修理協会」が製作を担当した新しい曳山=平成の御車山の完成披露式が高岡御車山会館で午前10時から行われた。
 宵祭の今日と、本祭りの明日の2日間は御車山会館が無料開放され、式典は一般客も観覧出来るので参加して来た。
平成の御車山完成披露式01
平成の御車山完成披露式02
↑創作神楽舞。→平成の御車山入場。
平成の御車山完成披露式03
↑テープカット。↓2013年から事業が始まり、2億8000万円かけて作られた平成の御車山。
平成の御車山01

平成の御車山完成披露式典
次第
一、開式
一、創作神楽舞「梅の花」
一、平成の御車山入場
一、式辞
一、挨拶
一、来賓祝辞
一、来賓紹介
一、テープカット
一、閉式

*北日本新聞の記事、富山新聞の記事、朝日新聞の記事

平成の御車山02

←高さ約7.8m、幅約3m、全長約5.9m、重さ約2.6トン。高岡開町の祖である前田利長と妻の永姫、娘の満姫の人形が飾られている。
 平成最後の御車山祭に、平成の御車山が完成するというのも不思議な縁だ。今後は御車山会館に展示して活用法を検討するとしているが、街中を曳きまわされる姿を見てみたい。

 式典の後、完成した御車山を間近で撮影。せっかくなので2階のシアターで御車山祭の映像を観て出て来た。

 昨日は、出町の子供歌舞伎を撮影に行って来た。2015年、2016年にも子供歌舞伎は撮影しているが、初日の朝に行われる子供役者のお練りはまだ撮影したことがなかった。こちらの様子も後々UPいたします。

出町子供歌舞伎のお練り
 日報の「戦闘」は「戦闘行為」でないと閣議決定。バカなんだろうか?逃走を続けていた脱走受刑者が、ようやく捕まった

4月29日(日)

 出町子供歌舞伎の初日。これまで何回か子供歌舞伎は撮影に来ているが、初日の朝に行われる子供役者が町中を歩くお練りは撮影した事が無かった。朝9時半からとホームページに書いてあったので、少し早めに家を出て自転車で砺波の曳山会館へ。
曳山会館
 8時45分頃に曳山会館に着いて、受付で今年のパンフレットを貰い、お練りの出発場所等を確認する。
 今年の当番町の東の曳山は既に最初の上演場所である神明宮に移動していたが、西町と中町の曳山は会館の中にあり、これから町中に移動するところだった。
 出町子供歌舞伎は東、中町、西町が順番に上演を担当し、今年は3年ぶりの東町で前回と同じく「絵本太閤記十段目尼崎の段」と「釣女」の2本立てだ。
 西町と中町の上演はないが、初日の4度目の公演だけ東の曳山を真ん中に3町の曳山が揃う演出があるため会館の蔵から引き出される。
 曳山会館から自転車で2〜3分の出町神明宮へ。出町子供歌舞伎は神明宮の春季例祭のための奉納芸能だ。神明宮の境内には歌舞伎曳山が設営され、椅子が用意されて準備の真っ最中だった。
 神明宮の隣りに子供歌舞伎の役者の子供たちの控え室であり、お練りの出発地点でもある真如院があった。
子供歌舞伎の準備
↑上段左:お練りの出発地点である真如院/上段右:祭礼の準備が進む出町神明宮/中段左:神明宮の境内に設営された東の曳山/中段右:曳山会館から町中に移動中の西町の曳山/下段左:曳山会館から町中に移動中の中町の曳山/下段右:支度が出来て、お練りに出発する歌舞伎役者。
お練り01
お練り02
記念撮影
 9時30分になり、支度が整った子供歌舞伎役者が真如院の前に一列に並んだ。隣りには、役柄の名前を書いた札を持った父兄と思われる男性が立つ。
 真如院を出て30分程町中を歩き、神明宮の鳥居を潜って拝殿に入り、神職よりお祓いを受ける。
 お祓いを受けた後は関係者が拝殿入口の階段に並んで記念写真を撮影。
 お祓いを受けた後、歌舞伎役者の子供たちは神の依り代なるため土を踏ませないように抱えられて移動する。
↑関係者の記念写真。↓→役者の子供たちは神の依り代。土を踏んではならない。
子供歌舞伎役者02
子供歌舞伎役者01
牛丼と神明宮の神事
神明宮での子供歌舞伎上演
 神明宮での最初の上演は11時30分からで、まだ1時間近くあったので自転車を漕いですき家へ牛丼を食べに行く。砺波方面へ来ると、いつもすき家の牛丼だ。
 神明宮に帰って来ると拝殿で神事が行われていた。先程は子供歌舞伎関係者のお祓いだったが、今度は神明宮の春季例大祭としての神事が執り行われていた。
 そして11時半になり、拝殿に向かって設置された曳山の上で子供歌舞伎が奉納された。
上演後の餅まき
 神明宮で奉納されたのは絵本太閤記十段目尼崎之段(上)で、約50分の上演だった。上演の後、餅まきが行われた。 
中町での子供歌舞伎上演01
中町での子供歌舞伎上演02
神明宮

 この後曳山は、13時からの上演場所である中町の北陸銀行前 に移動。こちらでの演目は絵本太閤記の(下)で、40分程の上演時間だった。
 今日はお練りの撮影が目的だったので、ちょっと早いが撮影終了にして自転車で家路に着く。

←上演が終わり、人気も無くガランとしている神明宮。

*北日本新聞の記事1記事2、中日新聞の記事、富山新聞の記事

4月27日(金)

 北朝鮮の金正恩氏が韓国側に入っての南北首脳による会談が行われ、ニュースや情報番組はほぼそれ一色だった。後は、財務省の元事務次官・福田淳一氏のセクハラ認定と、TOKIOの山口達也メンバーの強制わいせつ事件か。
南北首脳が握手 正恩氏「新たな歴史の出発点」
「完全非核化」目標、年内に終戦 南北首脳が板門店宣言
首相、「拉致」の行方注視 電話連絡待ち“蚊帳の外”懸念も

 昨日は五箇山の上梨集落と中畑集落の春祭りを撮影に行って来た。こちらの様子も後々UPいたします。

上梨集落の春祭り
↑上梨集落の春祭り。↓中畑集落の春祭り。
中畑集落の春祭り

 ネヴィル・ブラザーズのサックス奏者、チャールズ・ネヴィルの訃報がSNSに流れて来た。
 ネヴィル・ブラザーズのライヴを撮影したのは、まだカメラを買って2年ほどの1987年7月だった。ウシャコダのマネージメントなどをしていたサロンゴ・ミュージックの木下さんから、芝浦のインクスティックでニューオーリンズ音楽のイヴェントをやるので撮影においでと誘われた。ネヴィルとDr.ジョンの他にウシャコダの藤井さんも登場したし、ピーター・バラカンさんと湯浅学さんの対談もあったと記憶している。
  後日サロンゴに撮影した写真を何枚かプリントして持って行くと、木下さんからミュージック・マガジンに売り込みに行ってみたらとアドバイスされ、「あぁ、そうか」と思い木下さん関係で撮影したベン・E・キングや、S・O・Sバンド等の写真と一緒にネヴィルの写真を持って編集部に行った。
 写真を見て下さったのは当時の編集長の大竹直樹さんとデザイナーの井上亀夫さんで、 翌月くらいに最初の撮影のオファーがあった。一番最初にもらった仕事はゴスペル・シンガーに転身したローラ・リーのライヴとポートレートの撮影だった。当時はバブルに向かって進んでいる時代で、ブラック・ミュージック系アーティストの来日ラッシュもあって随分と撮影させてもらった。
 次にネヴィル・ブラザーズを撮影したのは1996年の11月で、ミュージック・マガジンでのインタヴュー・カットだった。 確かインタヴューはアーロン・ネヴィルが中心だったと思うが、話しの後に4人全員の写真を撮らせてもらった。

チャールズ・ネヴィル01
チャールズ・ネヴィル02

↑インクスティック芝浦で行われたニューオーリンズ音楽のイベントで撮影したチャールズ・ネヴィル。1987年7月20日。
←Dr.ジョンの横でパーカッションを叩くチャールズ・ネヴィル。1987年7月20日。

→音楽誌の仕事で撮影したポートレート。1996年11月14日。

 You Tubeから「Neville Brothers / Jazzfest Berlin 」。

チャールズ・ネヴィル03

4月26日(木)

 上梨集落の春祭り。先日五箇山総合案内所で聞いたところ、表祭りの今日は11時から祭りがスタートするということだったので、高岡を9時20分発のバスに乗り10時47分に上梨に到着した。
 バスを降りて近くの家の玄関に年配の男性がいらしたので、神主迎えは何時頃かと尋ねると夕方5時で、その男性の家が神主宿だと言われる。獅子の一行はどこにいるのか聞くと、道路を挟んだ又エ門だというので見に行くと中で支度中だった。
 まだ11時前なので、先に白山宮へお参りに行く。
↓→上梨の白山宮。上梨の春祭りは、白山宮の春季例祭だ。
上梨の白山宮02
上梨の白山宮01
上梨の獅子舞01
上梨の獅子舞02
 白山宮から獅子宿になっている又エ門に戻ると獅子方の準備が整い、庭で獅子舞が行われた。
 又エ門を出て太鼓と旗竿を先頭にした獅子舞の一行は白山宮に行き、獅子舞を奉納。それから村の家をまわり始める。
 今日は20軒ほどまわり、17時に神主宿へ神主を迎えに行き、17時10分から神事が執り行われる予定だという。
 こちらも、神主は南砺市北野の北野天満宮の宮司さんだそうだ。
上梨の獅子舞03
円浄寺の鐘楼堂
 獅子舞に着いて歩きながら、囃子方の年配の男性に伺ったところ、五箇山の獅子舞は、江戸時代に上梨へ家を造りに来た氷見の大工さんから教わったものだそうだ。雄獅子の獅子舞は上梨から他の五箇山の村へ、雌獅子の獅子舞もやはり田向に家を造りにきた大工さんから教わり、それが五箇山の他の村に伝わったという。その経緯は、こちらにも書かれている。獅子舞の演目は氷見からだが、胴幕は中に竹を入れる砺波獅子に似ているので、混ざりながら五箇山獅子になったのだろう。
↑氷見の大工さんが作ったものとされる、上梨・円浄寺の鐘楼堂。
上梨の獅子舞04
↑上梨のシシトリも動きがキレキレだ。↓→五箇山総合案内所の前で。
上梨の獅子舞06
上梨の獅子舞05
中畑集落の神明社
 14時過ぎまで獅子舞に着いて歩いたが、せっかくなら他の集落の獅子舞をもっと見たいと思い14時27分のバスで下梨の一つ城端寄りの中畑へ。こちらは昨日が表祭りで、今日が裏祭りだ。
 バス停を降りたがシーンとしている。斜面に並んだ家の横を通り上がって行くと、神明社と本教寺が並んで建っていた。本教寺のお堂の中で住民の方々がお酒やお料理楽しんでおられたので、獅子舞は終わりましたか?と聞くと、これからですと答えられた。
↑中畑集落の神明社。右隣に本教寺が見える。中畑の春祭りは神明社の春季例祭だ。
 しばらくするとお寺のお堂からシシトリやお囃子が出て来て、獅子舞が始まった。中畑の獅子舞は百足獅子ではなく二人立ちの、いわゆる金蔵獅子だ。五箇山でも中畑と来栖は二人立ちの獅子舞だと聞いていたので、ぜひ見てみたかった。
 撮影しているとお囃子の方が、「獅子がシシトリに噛みつきに行く」「獅子がくるっと回る」と教えて下さる。そうして演目が一つ終わると、またお堂の中に戻ってお酒を呑みながら休憩となる。
 ビールと五箇山の地酒・三笑楽をご馳走になりながら聞いた話では、二人獅子は越中八尾の大長谷から五箇山の高草嶺に伝わり、高草嶺から上松尾と中畑に。そして中畑から来栖に伝わったようだ。
 どうして百足獅子ではなく二人獅子をやるようになったのかという質問には、百足獅子をやれるほど集落に人が居なかったからと笑って答えられた。現在、中畑集落は10世帯だそうだ。たしかに人が居なければ百足獅子は難しいかもしれない。
 昔は獅子舞が家を一軒一軒まわっていたが、今は住民がお寺のお堂に集まり、そこでお酒を呑みながら獅子舞を見る形になったという。
 昨日の表祭りには南砺市北野の北野天満宮の宮司さんが来られ、16時から神主迎えに行き神明社で神事、21時半頃から夜獅子だったそうだ。
 昔は一度五箇山に来ると簡単には帰れないので、神主さんは村々の神主宿に泊まって春祭りの神事を行ったようだ。だから4月19日の杉尾、渡原集落から始まり、日にちをずらしながら5月5日の菅沼集落まで毎日続く。そして飛んで11日が梨谷集落。ツアーのようなものだろう。同じ日に幾つかの集落の春祭りが重なる日もあるので、何人かの神主さんが呼ばれていたのかも知れない。今は神主さんも車で来て日帰りだが、昔の名残りで神主宿で一度休んで獅子舞が迎えに来る風習なのだろう。
中畑の獅子舞01
中畑の獅子舞02
 休憩を挟みながらの獅子舞は18時半頃までやるそうだが、16時43分の高岡行き最終バスに乗って帰って来た。

4月24日(火)

 しばらく晴天が続き、初夏を思わせる暑い日もあったが、今日は一日雨。部屋に籠って溜まっている写真データの現像をしていた。
 昨日は五箇山の下梨集落の春祭りと、皆葎(かいむぐら)集落の春祭りの撮影に行って来た。こちらの様子も後々UPいたします。
下梨の春祭り

↑五箇山で唯一お神輿が巡行する下梨の春祭り。お神輿の出発前に、地主神社の境内で獅子舞が奉納された。↓上梨集落の隣りにある皆葎集落。22日が表祭りで、昨日は裏祭りだった。五箇山ではどの集落も春祭りは表祭りと裏祭りの2日間行われる。

皆葎の春祭り

4月23日(月)

 一昨日、2日間有効の五箇山フリーきっぷを買ったので、昨日はそのきっぷを使って皆葎集落の春祭りを見に行こうかとも思っていたが、身体がギブアップ。一日家で溜まっている写真データの現像をして過ごした。
 疲れが溜まっていて今日も出かけるのがちょっと億劫だったが、下梨集落の表祭りなので気力を振り絞る。下梨の表祭りは、五箇山の春祭りで唯一お神輿が出る。
 事前に行政センターに祭りの開始時間を問い合わせたが、はっきりしたことはわからないと言われる。上梨が午前11時からなので、下梨もそれくらいだろうと思い10時43分に到着する世界遺産バスに乗った。
 下梨のバス停に着く直前に獅子舞の一行が目の前を通った。急いでバスを降りて後を追うと、神主宿へ神主を迎えに行った帰りで、下梨の地主神社へ戻るところだった。
下梨の春祭り01
下梨の春祭り02

↑神主宿へ神主を迎えに行った獅子舞の一行が、神社に帰って来た。

←獅子舞の一行と一緒に神社に入る、神主。下梨の春祭りも、神主は南砺市北野の北野天満宮の宮司さんが務めるそうだ。

↓今日は午前10時に神社に参集し、10時30分に神主宿に迎えに行き、11時から神社で神事というスケジュールだった。

下梨の春祭り03
下梨の春祭り04
 祓詞奏上、修祓、祝詞奏上、玉串奉奠と続き、境内の神輿蔵からお神輿が出さた。ご神体を移すために、お神輿が拝殿の中まで担ぎ込まれた。
 拝殿の階段手前にお神輿を置き、ご神体を抱えた宮司さんが外に出て移されるのが普通だと思っていたので、これは少し驚いた。
 ご神体が神輿に移されると、神饌のお神酒をまわし呑み、獅子舞が奉納されて、いよいよ巡行が始まった。
下梨の春祭り05
下梨の春祭り06
 露払いの獅子の後にお神輿が着いて歩く。巡行の際には車輪の付いた台に乗せられ、ご祈祷する家の目の前まで着ける。神主は家に上がり、家の中から神輿に向かってご祈祷する。
 今日は、12時から17時までかけて宮総代や区長、班長の家など10軒をまわるそうだ。
 そして一旦休憩が入り、夜獅子が行われる。下梨の獅子は雌獅子なので、獅子舞の最後は獅子ごろしとなる。
 ところで、なぜ下梨集落にだけ神輿があるのか紋付袴の方に聞いてみたところ、言い伝えによると明治の頃にヨコイさんという下梨で酒屋(造り酒屋?)を営んでいる人がいてたいそう羽振りが良かったそうだ。そのヨコイさんが石川県・七尾市で中古のお神輿を買い付けて七尾から伏木までの海上を船で運び、伏木から小矢部川、山田川と渡って城端に到着し、城端から山を歩いて下梨まで運んだそうだ。
下梨の春祭り07
↑下梨の上梨側の外れである漆原地区に向かう、獅子舞一行。
下梨の春祭り08
皆葎の春祭り01
 巡行を開始して5軒まわったところで13時半を過ぎ、お昼の休憩になった。
 一緒にしばらく休憩して、14時43分のバスで上梨の一つ先にある皆葎に行くことにした。今日は皆葎の裏祭りだ。
 14時47分に皆葎に到着するが、お囃子も聴こえずシーンとしている。もうお祭りは終わったのだろうかと少し心配になったが、神社の斜め前の家で獅子舞の一行が休んでいた。15時からまた巡行するという。それまで皆葎の住吉神社を参拝する。
↑休憩中の獅子舞。↓→皆葎の春祭りは、住吉神社の春季例祭。
皆葎の春祭り03
皆葎の春祭り02
 やがて15時になり、休憩していた家の庭で獅子を舞い、再び巡行を開始した。鮮やかな晴れ着を身に着けた小さな女の子も一緒に歩く。
皆葎の春祭り04
皆葎の春祭り05
 3ヶ所ほど獅子舞に着いて歩いたが、体力の限界。皆葎から高岡行きの最終バスは16時36分だが、一つ前の15時21分のバスに乗車した。

4月22日(日)

 春祭りのシーズンになって、なんだかとても忙しい。
 19日は富山市の新川神社の春祭り、20日は五箇山の相倉集落の春祭り、21日は五箇山の菅沼集落の風景を撮影した後、相倉集落の裏祭りを撮影。こちらの様子も後ほど順にUPいたします。
新川神社のどべ
↑新川神社の春祭りで神輿の先導をするどべ(猿田彦)。↓世界遺産の相倉合掌造り集落の春祭り。境内で舞った後、神主宿へ神主を迎えに行く。
相倉集落の獅子舞

4月21日(土)

 昨日に引き続き相倉集落の春祭りを見に行くことにする。獅子舞は昨日の表祭りよりは少し早く始まるとのことだが、それでも15時頃なので、その前に世界遺産に認定されている菅沼合掌集落へ。
 あいの風とやま鉄道で10時8分に高岡駅に着いて、加越能バス乗車センターへ。今日は五箇山の中をバスで移動するので、2500円の五箇山フリーきっぷを購入。買ってから、2日間有効なのに気付く。まさか、2日間の期限内なら何回でも高岡と五箇山を往復できるんだろうか?そんなお得なきっぷがあるとは思えないので乗車センターの窓口に戻って聞いてみると、何度でも往復出来ると言う。昨日は高岡と相倉を片道1000円で往復したが、この五箇山フリーきっぷを買っておけば、今日は無料で五箇山を往復できたのか。ちょっと悔しい。
 コンビニで菓子パンを買って、10時45分発の世界遺産バスに乗車。相倉口、下梨、上梨と過ぎて12時18分に菅沼に到着した。
 集落の横を通り過ぎたことはあるが、村内をゆっくり歩くのはたぶん初めて。相倉集落よりもこじんまりとしている。菅沼にも五箇山民俗館と塩硝の館という2つの観光施設があるが、バスの時間まであまりないので民俗館の方だけ入った。
 民俗館の受付にいらした女性の方に菅沼の春祭りのことを尋ねると、今年は3日が裏祭りで4日が表祭りだそうだ。菅沼の場合は同じ獅子が、近隣の真木、東赤尾、新屋、田下、菅沼とまわるようだ。
菅沼集落01
↑菅沼集落。下の2枚は民俗館の展示。左の獅子頭は鼻と頭の高さがほぼ一緒の箱獅子に見える。右は座敷に展示してあった朱塗りの御膳。今は祭りのご馳走はオードブルが主流になったと思うが、昔、母親の実家の祭りに行くと座敷に御膳が用意されていた。子供たちにも一人一人御膳が用意され、こぶたも付いていた。
菅沼集落02
 1時間ほど菅沼で過ごしてから13時21分の城端方面バスに乗車して、上梨の一つ手前の皆葎(かいむぐら)で降りる。皆葎は明日と明後日が春祭りで、その詳細を誰かに聞こうと歩いていると納屋で作業をしている男性を発見。
 皆葎の春祭りは住吉神社の春季例祭で、神主は井口にある神明社の宮司さんが来られるとのこと。明日の表祭りは13時頃から16時くらいまで集落を獅子がまわり、神主宿へ迎えに行って17時から住吉神社で神事がおこなわれるということだった。
↓→皆葎の住吉神社。
皆葎の住吉神社02
皆葎の住吉神社01
庄川
 住吉神社でお参りした後、隣りの上梨まで歩く。
 途中、五箇山の谷を流れる庄川を渡り、15分ほどで上梨集落に着いた。
 上梨には五箇山総合案内所があるので、各集落の春祭りの詳細を聞きに行ったが、祭りは観光行事ではないので詳しいことはわからないそうだ。それでも案内所のある上梨の春祭りについては、11時から17時頃に獅子がまわるようだ。

←五箇山を流れる庄川。
 せっかく上梨に来たので、白山宮へお参りに。26日の上梨の春祭りは白山宮の春季例祭だ。白山宮には2015年の9月に友人に連れられて「こきりこ節」を見に来ている。
上梨の白山宮01
上梨の白山宮02
↓白山宮の鞘堂(左)と国指定重要文化財の村上家(右)。↑→上梨集落の白山宮。
白山宮と村上家
 上梨で1時間ほど過ごし、14時27分のバスで相倉集落へ。時刻表の14時35分を少し過ぎてバス停に到着し、歩いて5分ほどの集落入口に急ぐ。微かにお囃子の音が聴こえて来る地主神社へと歩く。まだ獅子舞は始まっておらず、お囃子の練習だろうか。それとも祭りの開始を告げるふれ太鼓のようなものだろうか。
 やがて15時になり、境内で獅子舞の演目が2つ披露される。そして獅子舞の一行は神社から村内へ。
相倉の獅子舞01
相倉獅子舞02
 神社を出ると、昨日と同じく五ヨ門と民俗館の間の道路で獅子舞を披露。それから伝統産業館の向かいの家で獅子を舞った。
 花(祝儀)が読み上げられ、近所の子供たちも集まって来た。
相倉獅子舞03
相倉獅子舞04

↑相念寺の前を練り歩く獅子舞。茅葺きのお寺というのも珍しい。
←昨日は神主宿になった五ヨ門で休憩。

 民家を出ると、今度は相念寺の前を練り歩き、五ヨ門へ。ここで暫く休憩するようだ。外で休んでいたお囃子の男性に少しお話しを聞いたところ、昨日の夜獅子は22時頃からで、最初は4つ(ヨツタケ、ゲンバヤシ、キオブリ、七五三)ある獅子舞の演目を披露し、最後に天狗が登場する演目で締めたそうだ。

 五箇山の獅子舞では角のある雄獅子の祭りは夜獅子の最後に天狗が登場し、角のない雌獅子の祭りは獅子ごろしで締めるそうだ。獅子舞が終わった後も境内では「こきりこ」や「といちんさ」といった民謡で踊ったり、目連尊者やまいまいで楽しんだそうだ。
 お話しを聞いているうちに高岡行きの最終バスの時間が迫って来た。相倉口まで歩き、バスを待つ。やってきたバスに乗り込むと、声をかけられる。見るとバスの最後尾に、昨日相倉集落の獅子舞を撮影していたニュージーランドの男性がいた。手招きされたので、隣りに座り高岡まで話しをしていく。上智大学と大学院で勉強していたというだけあって日本語はぺらぺらだ。世界中を旅して撮影した写真をJTBなどのライブラリーで貸していたこともあるそうだ。明日一日富山で過ごして東京へ行くという。明日富山で過ごすなら何処がいいか尋ねられる。高岡の金屋町や山町筋、氷見、新湊。そんな話しをしているうちに高岡に着いた。今晩の宿は予約していないらしい。今日は土曜日。まだ開いているかわからないが駅ビル2階の観光案内所へ。まだ女性がいて営業していたので、ここで別れて電車の切符を買い18時26分発の金沢方面行きで帰る。

4月20日(金)

 五箇山の春祭りが始まった。今日は世界遺産に登録されている相倉合掌造り集落の春祭りで、行政センターに時間を問い合わせたが午後からだろうとの返事だった。
 五箇山には高岡から世界遺産バスが出ており、 9時20分のバスに乗れば10時38分に相倉に到着する。あいの風とやま鉄道で8時37分に高岡駅に着いて、駅の1階にある加越能バス乗車センターへ切符を買いに行くと、高岡と相倉を往復するだけなら事前の切符購入は必要なく乗車して現金で払えばよいとのこと。
 駅の2階にあるコンビニで菓子パンとおにぎりを買って、バスの到着を待つ。
 定刻通りに7番乗り場に世界遺産バスが到着。普通の路線バスよりも大きいが、トイレは付いていない。
 高岡を出て新高岡駅、能作、城端駅前と停まって、後は各バス停に停まる。城端から五箇山はほぼ一本道で、山を上って行く。山の方にはまだ残雪があり、花を咲かせた桜もあった。
 相倉にも時間通りに到着した。バス停を降りて5分ほど歩くと、集落の入口があった。入口には、集落に入る車から利用料を徴収する料金所がある。
 料金所の年配の男性に相倉の春祭りを見に来たが 何時に何処で始まるか尋ねると、16時過ぎだろうと言われる。えっ!?帰りのバスの高岡行きの最終便は相倉を16時45分に出る。16時に始まったとしても30分ほどしか見れない。明日は裏祭りなので、もう少し早く始まるかも知れないと言う。裏祭り?? 
 近くで作業している若い男性が詳しいというので聞いてみると、今日は表祭りで獅子舞の在所まわり(民家まわり)をやらず16時に地主神社で獅子舞を踊り、直ぐに神主さんの待つ神主宿へ獅子舞の一向が迎えに行く。迎えに行く途中で一度 獅子舞を披露するらしい。17時頃に神主さんを連れて地主神社に戻り、拝殿で神事を執り行い、獅子舞を奉納する。一旦これで休憩に入り、夜の22時頃から境内で夜獅子が行われるそうだ。ちなみに、神主は南砺市北野にある北野天満宮の宮司さんがおいでになる。
 翌日は裏祭りで、花(祝儀)をもらい在所をまわる。五箇山の春祭りはどの集落も表と裏の2日間行われるようだ。

相倉集落の地主神社

 祭りの詳細は大体わかったが、まだ11時で始まりまで5時間もある。
 相倉集落の春祭りは、集落にある地主神社の春季例祭なので、先ずは地主神社にお参りに行く。
 境内には提灯がぶら下がり、隅の方では獅子の胴幕が広げられ、太鼓を吊るした櫓の上に、年配の男性が花を飾っていた。

←相倉集落の地主神社。
↓獅子舞の準備。  

神社での獅子舞の準備
 地主神社へのお参りが済んだので、茅葺き屋根の家々が並ぶ合掌造り集落の風景を撮影しながら散歩。今年は桜の開花が早かったのでだいぶ散ってしまったが、例年ならもう少し春祭りの時に桜が咲いているそうだ。
 アジアや欧米からの観光客が思っていた以上に多い。公園には、つくしがたくさん出ていた。昔は家の近所の国道の脇にもつくしやヨモギが生えていた。
相倉集落の風景
 2時間ほどアチコチ歩き回って疲れたので、村内にある相倉民俗館へ。近くには相倉伝統産業館もあり、各入館料200円が、共通券を買えば350円になるというので、共通券を購入。
 一通り展示を観てから、囲炉裏に座ってビデオを観たり写真集を眺めて休憩。  
相倉民俗館01
↑↓相倉民俗館の展示。→夫婦ケヤキ。
夫婦ケヤキ
相倉民俗館02
 民俗館で一休みした後、民俗館の横の道を上って夫婦ケヤキを見に行く。山を10分ほど上ったところにあり、つい最近まで雪があって行けなかったようだ。
 夫婦ケヤキを見た後は、伝統産業館に入り展示物を観て、観光案内のビデオを観ながらまた小休止。
相倉伝統産業館
↑相倉伝統産業館の展示。五箇山の嘗ての産業は養蚕、和紙、塩硝(火薬の原料)作りだったそうだ。
 15時を過ぎたので、一度地主神社からバス停まで何分かかるか歩いてみる。ゆっくり歩いても10分あれば到着するので、余裕をみて16時30分に地主神社付近を出れば16時45分のバスに間に合うだろう。
 集落内にはオススメの撮影スポットの案内板があるので、いくつか行って撮影する。
 やがて15時30分になったので地主神社に行ってみると、お囃子が聴こえて来た。シシトリ(獅子取り)の子供たちが衣装を着けて支度小屋から顔を出す。
相倉集落の全景
↑オススメ看板のある撮影スポットからの風景。
↓お囃子の練習。→支度を終えたシシトリの少年。
獅子取りの少年
獅子舞のお囃子
獅子舞01
 16時10分頃、鳥居の下にシシトリと獅子が並び、拝殿に向かって踊りながら進み獅子舞が始まった。境内で2つ程演目を行い、神主宿へ向かう。神主宿は毎年変わるそうで、今年は五ヨ門という家が宿になる。迎えに行く途中の道路で、また演目を2つほど披露する。新聞社や写真愛好家で道の両脇はいっぱいだ。
獅子舞02
獅子舞03

↑神主宿に向かう途中に獅子舞を披露。シシトリの動きがキレキレで上手。
←村内の練り歩き。

 獅子舞の後、村内を少し練り歩いて神主宿に到着するようだが、もうバスの時間が迫って来たので今日はここまで。明日は少し早くから獅子舞があるようなので、もう一度来てみようか。
 18時10分に高岡駅に到着。金沢方面行きのあいの風とやま鉄道は18時26分で、スムーズに帰れた。

世界遺産バスと夕焼け
↑左は、高岡駅に到着した世界遺産バス。右は、あいの風とやま鉄道の通路からの夕景。
*富山新聞の記事、北日本新聞の記事

4月19日(木)

 富山市新庄町にある新川神社の春祭り。こちらの祭りには神輿を先導する「どべ」が登場するというので、一度見てみたかった。どべは猿田彦と言われ、子供がどべに頭を撫でてもらうと出来物ができないとされているそうだ。
 事前に問い合わせたところ、拝殿での神事は8時からで、8時半頃からお神輿が巡行するという。新川神社の最寄り駅は富山地方鉄道の東新庄駅だが、地図を見ると富山駅からでも自転車で30分あれば着きそうなので自転車を輪行することにする。
 あいの風とやま鉄道で富山駅に6時59分に到着。駅で自転車を組み立てて、東新庄駅へ向かう。地図を見ると道順は複雑ではなく、7時半頃には到着するつもりで自転車を漕ぐ。何となく「?」と思いながら駅が見えたので行ってみると大泉という駅だった。同じ富山地方鉄道の駅だが、方向が違う。狐につままれたような気分だが、近くに居る人に道を尋ねて再び東新庄に向かう。もう神事の始まる8時には間に合わないだろうと思いながら一生懸命ペダルを漕いで新川神社に到着すると、拝殿での神事が始まったばかりだった。
↓神事が行われている新川神社。→参列しているどべの後ろ姿。
神事に参列するどべ
新川神社
 拝殿での神事が終わり、御神体がお神輿に移される。そして8時半頃、巡行がスタートした。
神事とお神輿巡行
 お神輿より先に、道先案内の神であるどべが町内を歩く。花(祝儀)をいただいた家では、玄関先や家の神棚の前でご祈祷をする。どべは途中、幼稚園の中に入り子供たちを追いかけて驚かしたりもする。

 新川神社のパンフレットに、どべの事が詳しく書かれているので引用させていただく。
新庄の人気者「どべ」
 新川神社春祭りの人気者、どべ。昔から新庄の子供たちはどべをはやし立てて怒らせて、逃げ回ることを楽しみにしていました。どべも子供を見るとなぎなたを振りかざしながら驚かそうと近寄っていきます。子供が怖がって逃げても追いかけて来ますが、最後には頭を撫でてくれます。昔から小さな子供がどべに頭をなでられると「病気にならない、頭がよくなる」といわれ、春祭りにはお母さんたちは我が子を撫でて貰いたくて、どべが来るのを心待ちにしています。どべは大人から子供までみんなの人気者です。

「どべ」は「猿田彦神」という神様です。
 さて、では「どべ」とは何者でしょうか?実は古事記や日本書紀という日本の神話に登場する猿田彦神(さるたひこのかみ)という神様です。 猿田彦神は天照大御神の孫である「ににぎの命」という神様が日本の国に天界から降りてこられるときに、道案内をした国津神(元々日本の土地にお住まいになっていた神様)です。
 神話には猿田彦神の事をとても恐ろしく怪しい姿であったことが以下のように書かれています。
「鼻が長く、背が高く、口のはしが明るく光っていて目は鏡のように光り輝いて赤ほおずきに似ている。上は高天原を、下は葦原中国を明々と照らし、その光が鋭くどの神様も恐ろしくて近寄れませんでした。」
 これを元にして新庄の昔の人が考えられたのが今のどべのお面と装束です。

「どべ」は交通整理のおまわりさん
「どべ」のお仕事は神様の道先案内人と、悪い神、邪気からおまもりすることです。春祭りは新川神社の神様が年に一度、新庄町の家庭訪問をされる日です。みんな元気に暮らしているかな、まじめに生きているかな?と様子を見に来られます。その神様の行かれる道を案内しながら、もしも神様の行く手をじゃまするものがあればそれを祓いよけるのがどべの仕事です。怖い顔をしていますが本当は優しい心をもった、正義の神様なのです。

「どべ」の語源
 なぜ「猿田彦神(さるたひこのかみ)」が「どべ」と言うようになったのかはわからないのですが、ある説には「どめん(土面)」が、いつのまにか短くなって「どべ」になったのではないかと言われています。今のどべの面は木の彫り物で土面ではありませんので、昔は土面だったのかもしれません。

↓子供を驚かすどべ。→猿田彦の衣装は朱色や橙色が多い印象だ。鎧の装着も珍しい。
どべのポーズ写真
子どもを驚かすどべ
宮司さんのご祈祷
 一時間ほど巡行した後、住宅地にあるパン屋さんでしばらく休憩。あんぱんを一つご馳走になった。

←パン屋さんの前でご祈祷する、新川神社の宮司さん。
↓玄関先で、長刀を両手で持ってご祈祷するどべ。花をいただいたお礼に、どべのお札も配られる。裏面にはどべ保存会からのお礼が書かれている。
どべのご祈祷とどべのお札
↓→どべ宿で着替えて、選手交代をするどべ。
どべの着替え02
どべの着替え01
神棚を拝むどべ
 どべのお面と鎧は2つ、衣装は4着あるそうで、各町内に用意されたどべ宿で着替えて、どべ役の選手交代が行われる。
 写真は、どべ宿となった公民館での着替えの様子。着替え終わったどべは、公民館の神棚の前でご祈祷して巡行に出発した。
 お神輿の巡行は夜19時過ぎまで続くので、一旦お神輿から離れて富山市内にある於保多神社と鵜坂神社へ行くことにする。
新川神社の境内と拝殿
 於保多神社に向かう途中、新川神社に寄ると境内には露店が並んでいた。朝、神事が行われた拝殿を撮影させてもらってから富山駅の方へ自転車で向かう。
 11時30分を過ぎてお腹が空いたので、ラーメン屋に。ラーメン+ライスが500円、ラーメン+焼豚チャーハンが650円とリーズナブル。ラーメン+焼豚チャーハンを注文すると、店の奥に10種類ほど並んだ総菜もサービスだという。それならラーメン+ライスでよかったな。
味覚亭01
↑通りすがりに入った味覚亭。右は無料のお惣菜。麻婆豆腐やフライ、天ぷら、おから、ひじきなど色々揃っていた。
↓ラーメンと焼豚チャーハン。ミニチャーハンかと思ったが、フルサイズだった。これで650円。
味覚亭02
 思いがけずボリュームのあるお昼ご飯を食べてお腹がいっぱいになり、しばらくお店で休んでから於保多神社へ。地図を見ながら今度は道を間違えずに10分ほどで着いた。
於保多神社
神通川

 菅原道真公を祀り「富山の天神様」として親しまれているそうで、合格祈願の願い事に訪れる人が多いようだ。 今では開催されていないようだが、嘗ては毎年5月25日に鷽替え行事が行われていた。
 境内には牛の像が何体もある。ねまり牛というそうだ。
 於保多神社から、今度は神通川を渡って鵜坂神社へ。

←神通川。

 鵜坂神社の名前を知ったのは、昨年の5月20日に見た売比河鵜飼祭(めひかわうかいさい)というイベントだった。
 万葉の歌人で知られ、奈良時代の越中国守だった大伴家持が巡察した際に売比河(神通川の古い名前)に立ち寄り、そこで見た鵜飼の様子を詠んだ和歌「売比河の 早き瀬ごとに篝(かがり)さし、八十伴の男は 鵜川立ちけり」にちなんで催されるイベントで、その和歌の歌碑が置いてあるのが鵜坂神社だった。
 歌碑は神社の境内と、神社裏の神通川の堤防に立っている。また、鵜坂神社では平安時代から江戸時代まで楉祭(尻打祭)が行われていたそうだ。
鵜坂神社
↑上段左:鵜坂神社の正面/上段右:社/中段左:境内に建立された大伴家持の歌碑/中段右:拝殿/下段左:拝殿に飾られていた尻打祭を描いた絵/下段右:境内の神馬。神馬の横には由来を記した案内板があった。以下引用。「鵜坂神社と神馬の由来 当社には平安期から日本五大奇祭の一つ楉祭(尻打ち祭)が行われ婦女の貞操を戒める祭として全国に知られていた。これは祭礼の日神官が参拝の婦女に男を知った数を問い、その数ほど竜眠木の枝で女の尻を打ったもので女がもし数をかくすと直ちに神罰を受けるものとされていた。維新のとき廃止され女馬が代用されて縁組安産増産を願う崇敬者から神馬としてあがめられていた。此度、当社合祀七十周年に当り遺風をしのび併せて、氏子崇敬者の家内安全子孫繁栄の祈願を込め、これを建之する 奉納者一同
↓鵜坂神社の境内に残る鵜坂山鵜坂寺跡。→堤防にある家持の歌碑。
神通川の堤防に建立された大伴家持の歌碑
鵜坂寺跡
東新庄駅01
 鵜坂神社から、お神輿の巡行が行われている新川神社へ戻る。
 途中、スーパーでミルクティーのペットボトルと菓子パンを一つ購入。
 新川神社の最寄り駅である東新庄駅に立ち寄ってみると、モダンでレトロな建物だった。Wikipediaによると1931年に建てられたようだ。富山地方鉄道の駅は趣きのある建物が多い。
←↓東新庄駅の外観と改札。外壁に貼られたHIGASHI SHINJOの文字がモダンだ。
東新庄駅02
香具師で賑わう境内
 新川神社に戻ったのは15時半頃だった。境内は学校帰りの子供たちで大賑わいだった。
 綿飴がCotton Candyという名前になり、カップに入って売られていた。
 しばらく境内で休んでから、お神輿を追いかけて新園町という住宅地へ。
 やがて空も暗くなって来たので神社に戻ると、先に巡行を終えたどべが境内に現れ、遊んでいる子供たちを追いかけ始めた。
お神輿巡行
 何となく気配を感じて境内を出ると、お神輿が巡行を終えて戻って来た。神社の裏の空いたスペースで車輪を外す。ここからお神輿を担ぎ、参道を通って拝殿まで駆け抜ける。
 新川神社では50年ほどお神輿を担いでいなかったそうだが、一昨年の400年祭に元々社が在った五本榎から現在の新庄町まで担いだそうだ。そして昨年からは巡行の最後、神社の裏で車輪を外して担いで宮入するようになったという。こちらに詳しい経緯が書かれている。
宮入り
拝殿での神事
「ワッショイ ワッショイ ワッショイ ワッショイ ワッショイ」と掛け声を上げてお神輿を持ち上げて宮入が終了した。宮入の動画がこちらに。
 御神体が本殿にお還りになり、関係者の代表が拝殿に上がり、神事が執り行われた。
 最後に宮司のあいさつがあり、直会が行われたようだ。
 20時を過ぎて暗くなった道を、外灯を頼りに富山駅へ向かってペダルを漕いだ。
 新川神社の周辺は、嘗て田んぼだったところが新興住宅地になり氏子の数が増えた。また、今の宮司さんが地区の隅々まで丁寧にまわるのでお神輿の巡行が長くなり、今日は11時間ほどかけて28km弱を歩いたそうだ。

4月16日(月)

 昨日、一昨日撮影した写真データを現像していたら一日が過ぎて行った。一昨日は福町神明宮の春福まつり、昨日は福光宇佐八幡宮の春季例大祭だった。こちらの様子も後々UPいたします。
福野神明宮の行道獅子
↑春福まつりにて、各町内に設けられた御旅所で舞を披露する行道獅子。↓宇佐八幡宮のお神輿巡行。
福光宇佐八幡宮のお神輿巡行
 明日発売の大谷内輝夫さんの新刊『100歳まで歩ける足腰をつくる!』が送られて来た。これで大谷内さんの著書に関わるのは6冊目だろうか。
 大谷内さんは大阪にある「ゆうき指圧」の院長であり、「NPO法人ゆうき膝・股関節研究所」の所長でもある。
 一番最初に著書用に撮影したのが2006年の夏で、以降これまでに出版社のスタジオで4回撮影している。そのうち2回は奄美大島と沖縄に住んでいた時で、この撮影のために飛行機で東京へ移動した。
 毎回80カットほどの写真を半日で撮影するが、往復の旅費や宿泊費を引いても離島での生活費2ヶ月分以上は残るのでありがたかった。
 今回の本は沖縄に住んでいた2012年に富山経由で東京へ行って撮影した『歩けない痛みが消える本』の中身をコンパクトにした本で、その写真が70カット近く再使用されている。
大谷内輝夫さんの新刊
 デジタルになって良かったと思うのは、こういった実用本のレシピやプロセス写真の撮影だ。フイルム時代ならいちいちポラロイドで撮影して動きや場所の確認をしてからフィルムで撮影する。そのポラの現像待ちの時間もばかにならなかった。
 最初の本のモデルさんは菊地優子さんで、後の3回は三宅あみちゃんだった。3回目ともなればモデルさんも馴れたもので、2012年の『歩けない痛みが消える本』も写真点数が80カット超あったと思うが撮影時間は実質4時間ほど。半日仕事といっても、ライティングと機材の片付けと撮影の打ち上げも入れて半日だった。
 ちなみに、名前でピンと来た人もいるかも知れないが大谷内さんは氷見の出身だ。  

4月15日(日)

 昨日は第2土曜日で、今日は第3日曜日。4月の第3日曜日は、福光宇佐八幡宮の春季例大祭が執り行われる。お神輿の他に、庵屋台も巡行するので前から見たいと思っていた。
 花粉症の鼻水、鼻づまりであまり寝られなかったが撮影に行く。事前に問い合わせたところ、神社での神事は午前8時からで、9時頃にお神輿が巡行を開始する(実際には8時45分に巡行開始が正確なようだ)。お神輿が神社に戻るのは20時頃だそうだ。
 庵屋台はお神輿とは別に巡行し、こちらは東町、本町、西町の3台の庵屋台が13時頃に中央図書館前に揃い、13時20分頃に出発する。昨年のものだが、こちらに詳細が記されている。

東町の庵屋台
 お神輿の巡行開始は朝早いので諦め、庵屋台の巡行開始頃に合わせて電車に乗る。
 晴れていれば戸出まで自転車で行き城端線に乗れば早いが、雨なのであいの風とやま鉄道で高岡駅へ行き城端線に乗り換えて福光駅へ。
 11時47分に福光に着いて駅前のスーパーでパンを一つ買い、食べながら町の中心部へ歩く。
 小矢部川の橋を渡ったところに、東町の庵屋台が待機していた。
宇佐八幡宮
 先ずは宇佐八幡宮へ向かう。あいにくの雨で境内は閑散としている。神社の周辺では獅子舞の賑やかな音がしているので、しばらく見て歩く。獅子取りの子どもは衣装が濡れないようにビニールの合羽を着て、獅子の胴幕にもビニールが被せてある。
獅子舞

 お祭りの案内所のようなものもないので、東町の庵屋台が待機していた近くのお店に巡行図が貼ってあったので見に戻る。地図の下にお神輿の休憩場所と時間が書いてあった。
宇佐八幡宮(8:45出発)、JA福光広瀬地区センター(到着10:00・休憩10分・出発10:10)、福光公民館(到着10:50・休憩時間20分・出発11:10)、旭町公民館(到着12:00・休憩15分・出発12:15)、太平(株)(到着13:25・休憩20分・出発13:45)、西別院(到着14:00・休憩5分・出発14:05)、福祉会館(到着14:40・休憩65分・出発15:45)、観音町(到着16:55・到着10分・出発17:05)、成瀬歯科医院(到着17:25・休憩10分・出発17:35)、JA福光福光地区センター(到着18:00・休憩30分・出発18:30)、宇佐八幡宮(お着き20:00)。

東町と本町の庵屋台
お神輿の巡行01

↑中央図書館に向かう東町の庵屋台(左)と本町(右)の庵屋台。

 庵屋台が揃う中央図書館の前で待っていると「ヨイヤサー ヨイヤサー」の掛け声が聞こえて来て、声の方を見るとお神輿が巡行していた。
 最初に庵屋台を追いかけようと思っていたが、お神輿の巡行に着いて行く。

←あいにくの雨でビニールが被せられたお神輿。重さは約1トン。

お神輿の巡行02
お神輿の巡行03
 お神輿の巡行は半日かけて11kmを歩く。北日本新聞の記事によると担ぎ手は25歳、42歳、61歳の厄年の男性と42歳の後厄の男性で行って来たが、担ぎ手の確保のために今年から42歳の前厄の男性も担ぎ手として参加しているそうだ。
 ヨイヤサの掛け声で神輿を担ぎ、「御祈祷」の貼り紙のある家の前で止まり、神職がご祈祷する。ご祈祷が終わると「ワッショイ ワッショイ」と声を上げて威勢良く神輿を上下に揺さぶって巡行を再開する。
 15分ほどお神輿を見た後、図書館前に戻ると本町、東町、西町の順に3台の庵屋台が揃っていた。こちらも雨が降っているので全体をビニールで覆われている。午後から天気が良くなる予報だったが、時おり雨足が強くなるので今日は一日中ビニールを被せたままかもしれない。
庵屋台の巡行
お神輿の巡行04
 13時25分頃に本町を先頭に、庵屋台の巡行が始まった。各屋台の中には地方が入っており、演奏しながら町を練り歩く。停まるのは4つの町内会長の家の前で、順に屋台が進み出て庵唄を披露する。
 とりあえず西町の町内会長さんのお宅まで着いて歩いた後、またお神輿を撮影しようと探して歩く。
 14時40分に福祉会館に到着と書いてあったので、近くまで行ってみると、やっと通れそうな細い路地を神輿がやって来た。
御旅所での神事01
御旅所での神事02
 神輿に着いて福祉会館まで来ると、広場では長い神輿の担ぎ棒が置かれ、四隅に竹が立てられていた。大きな通りを巡行していた時はこの長い担ぎ棒を装着して担いでいたが、さっき路地で担がれていた時は外されて本来の神輿に付いている棒だけだった。細い道でも小回りが利くように外されたのだろうか?
 お神輿が地面に置かれた長い担ぎ棒の上に乗せられた。神輿のまわりに縄を張り、祭壇が用意されて神事が始まった。祝詞が奏上され、撤饌。神事は準備も含めて30分ほどだった。
お神輿の鳳凰
鳳凰を取り付けたお神輿

↑お神輿の四隅と頂上に飾られる鳳凰。

 福祉会館の会館入口の庇の下に、お神輿の鳳凰が置いてあった。雨除けのビニールを被せるために外されたのだろう。
 神事が終わるとお神輿も会館入口の階段の上に置かれ、ビニールが外され鳳凰が取り付けられた。
 お神輿の下に担ぎ手が並んで、記念撮影。撮影が終わると、再び鳳凰が外されビニールで覆われた。

記念写真
お神輿の巡行05
お神輿の巡行06
 神事が終わり、再びお神輿の巡行が始まった。しばらく着いて歩いたが、昨日の福町神明宮の神輿巡行で歩いた疲れも残っているので、今日はこれくらいにして駅へと向かった。北日本新聞の記事によれば、夕方、同じく祭礼の荒木八幡宮のお神輿と宇佐八幡宮のお神輿が小矢部川に掛かる福光橋で対面する「出あい」が行われたそうだ。
 神輿と庵屋台が巡行し、路地では獅子舞が舞われる贅沢な祭り。是非晴れた日に撮影したい祭りだ。
*北日本新聞の記事。北陸・信越観光ナビの記事。You Tubeから宵宮の様子。尚、宵宮には庵屋台が境内に揃い庵唄を奉納するようだ。本祭り朝の様子

4月14日(土)

 小矢部市の福町神明宮の春季祭礼が第2土曜日の今日、行われる。しばらく前の天気予報では朝から雨だったので路線バスや電車で行くことを考えていたが、今日の予報では夕方までは曇りになっていたので自転車で行くことにした。
 神事が9時30分からなので、朝の連続テレビ小説「半分、青い」を見てから家を出る。途中コンビニで菓子パンを買って神明宮に到着したのは9時頃だった。
 拝殿の前には神輿が出され、年配の氏子の方々によって綺麗に磨かれていた。境内に飾られた石碑に神社の由来が記してあった。以下、引用。

御社殿修造記念碑文
「福町神明宮」は、元亀年間(一五七〇〜二)東福町(旧社内)に創祀されていましたが、度重なる小矢部川の氾濫により存続が困難となり、天正十五年(一五八七)現在地に御遷宮されました。
当時は「神仏習合」の時代で当宮も「超蓮寺」の寺号を持ち山伏が経を唱え人々の信仰を集めていました。
その後、明治時代に入り新政府より「神仏分離令」が発せられ仏教色を取り払い、正式に「福町神明宮」となりました。
現在の本殿は明治十四年(一八八一)・拝殿は明治二十一年にそれぞれ改築建立されましたが、その後の修造に関しては定かな記録が有りませんが、近年御社殿全体に雨漏りや各所の老朽化が顕著となり技術調査の結果、早急な修繕が必要と診断されました。
それを受け平成二十一年秋、氏子総代の総意をもって、
「御社殿修造奉賛会」を設立し御奉賛を募りました処、
氏子各位・篤志者の方々より、多額の御寄付を賜り、計画以外の修復も行う事ができました。
 なお、本年三月十一日、東日本大震災の被害は東北地方には勿論日本経済にも多大な打撃を与え、先行き不透明な社会情勢のなかであえて御奉賛いただきました各位の敬神の御心と御厚志に対し、深い敬意と感謝の念を、此処に記します。  
福町神明宮   宮司 大峰智之
    同   禰宜 大嶺宣之
社殿修造奉賛会 会長 岡本欣治
      同    役員一同
 

  福町神明宮の春季例祭は「春福まつり」の名で親しまれ、土日の2日間行われる。初日の今日はお神輿の巡幸、明日の日中は社務所でお茶会や講演会があり午後5時から春季祭が執り行われる。
  この春福まつりを知ったのは一年前の北日本新聞の記事で、お神輿巡行に行道獅子が先導している写真が載っていて、これは是非撮影しなくてはと思った。
 その時の新聞の記事を以下に引用しておく。

神輿巡行し安泰祈る 福町神明宮「春福まつり」
 小矢部市西福町の福町神明宮の春の祭礼「春福まつり」が15日始まり、初日は神輿巡行が行われた。16日まで。 
 拝殿での神輿神幸祭に続き、同神明宮が最初に鎮座していた社内町内の神獅子の先導で、還暦や厄年の男性らが引く神輿が氏子区域内の11の旧町を回った。各町にはそれぞれ御旅所が設けられ、住民が迎えた。大峰智之宮司が祝詞を上げ、町内会長が玉串をささげ町内の安泰を祈った。
 16日は社務所で午前10時半から富山ふるさとマスターでおやべメルヘンガイドの山崎康子さんが小矢部の史跡案内をテーマに講演し、午後5時から春季祭が行われる。
(北日本新聞2017年4月16日)

↓福町神明宮。→巡行するお神輿の準備。
お神輿の手入れ
福町神明宮
行道獅子
 拝殿の中ではお神輿を先導する行道獅子の準備を、獅子頭を預かる社内町(旧町名)の青年の方々が行っていた。
 石碑にあるように、もともと神明宮は社内町(現在は東福町に町名変更)にあったことから行道する神獅子は社内町が預かり、獅子方も社内町の青年が担当している。

←撮影させていただいた獅子頭。普通の獅子頭より頭頂部が低い箱獅子だ。
 獅子頭を撮影した後社務所の方へ行き、昨年の5月に神明宮で行われた獅子舞奉納の写真を禰宜の方にお渡しして、今日の撮影の許可をいただいた。
神幸祭
↑9時30分になり、神輿神幸祭が始まった。各町内の宮総代や行道獅子を担当する社内町青年団の代表が拝殿に座る。祓詞奏上、修祓、祝詞奏上、玉串奉奠が執り行われる。そして、本殿に祀られている御神体が宮司の手によってお神輿に移された。
記念撮影
お神輿巡行01

↑巡行の前に宮司、禰宜と一緒に神輿の前で記念撮影。

 神幸祭は20分ほどで終わり、次にお神輿の前で記念撮影。お神輿を引く還暦の男性や、各町内の役員、獅子を担当する社内町の青年団、祭りの世話役の年配者など4組に分かれて撮影が行われた。

←10時になり、巡行がスタート。旗持ち、行道獅子、神輿、宮司の順に行列になって町内をまわる。

お神輿巡行02
お神輿巡行03
 各町内の御旅所に到着すると、先ず行道獅子がゆっくりと獅子頭を振って舞(型のような動作)を披露。そして宮司が祝詞を奏上した後、町内の代表が玉串を奉奠する。これを繰り返し、2時間半以上かけて旧11町をまわった。
 巡行順は神明宮→福町一丁目→福町二丁目→福町三丁目→北町→中島町→社内→古福町→川岸町→川西町→蔵前町→新橋通→神明宮。
 旧町名の川岸町の辺りには古い料理屋や旅館の跡があり、後で聞いたところ嘗て遊郭のあった場所だそうだ。こういう知らなかった土地の発見があるのも、祭り撮影の醍醐味かも知れない。川岸町についてはこちらこちらを。
還幸祭
石動駅のうどん
 お神輿が神社に還ったのは13時15分頃で、宮司の手により御神体が再び本殿に戻された。
  宮司と禰宜と氏子の代表一人が拝殿に上がり、還幸祭が執り行われた。
 還幸祭の後、社務所で直会があり、お誘いいただいたので参加させていただいた。
 おにぎり、漬け物、かまぼこ、するめがテーブルに並び、お酒やお茶が振る舞われた。
 自転車で帰らなくてはならないので、お茶をいただく。

 30分ほど直会に参加しただろうか。お礼を言って社務所を出て、自転車で5分ほどの石動駅へ。せっかくここまで来たら、駅の立ち食いうどんを食べて帰りたい。

 この日の夜中に鼻水、鼻づまりで目が覚める。花粉の飛散量も減っただろうと思ったが、それでも念のためマスクをして歩いたのに発症。鼻水、鼻づまりが酷くてなかなか眠れなかった。

4月12日(木)

 寒かったり暑かったり、暴風雨だったり快晴だったり。コロコロと変わるお天気に、着いて行くのが大変だ。
 午前中にアマゾンでポチったポータブルの外付けハードディスクの料金を、昼ご飯を食べた後、コンビニへ支払い行く。
 一度家に戻ってから、今度は明後日行われる春の祭礼の開始時間を聞きに自転車で小矢部の福町神明宮まで。あいにく社務所にも拝殿の方にも誰もいらっしゃらなかったが、参道にある掲示板に詳細が貼られていた。
桜並木

福まち神明宮・春の祭礼 春福まつり
4月14日(土)
午前9時30分 神輿神幸祭「神移、於・拝殿」
午前10時 みこし発輦<出立>
「巡行順路」
1.神明宮 2.福町一丁目 3.福町二丁目 4.福町三丁目 5.北町 6.中島町 7.社内8.古福町 9.川岸町 10.川西町 11.蔵前町 12.新橋通 13.神明宮
午後1時30分頃 みこし着輦<到着>
神輿還幸祭「神移、於・拝殿」

 行きは国道8号線を走ったが、帰りは小矢部川の堤防を走って帰って来た。途中、小矢部川の支流に桜が何本か植えられた並木があり、遠くに雪山が見える。満開の時に撮影に来ようと思いながら忘れていて、すっかり葉桜になっていた。
 ネットの花粉情報は「多い」になっていたが、帰って来てからも目の痒み、クシャミ、鼻水といった症状が出ないので、もう花粉はあまり飛んでいないのかもしれない。

森友ごみ積算、近畿財務局が増量依頼 航空局に数億円分
「首相案件、柳瀬氏が発言」面会の1人が証言
財務次官セクハラ疑惑 麻生氏処分せず「緊張感もって」
 毎日毎日次から次へとモリカケの新証言や官僚の不祥事が報道される。昨日の衆院予算委員会で、新聞は見ないようにしているという麻生財務大臣が行政文書の決済に関して「私自身も正直、読んでいない書類に決裁のはんこを押していることはある」と述べた。リアルタイムで聞いていたが、恥じ入ることもなく堂々と発言できる神経に驚いた。新聞も読まず決済文書も読まず財務大臣が勤まる、不思議な国、日本。
 それにしても安倍首相の答弁が酷い。たぶん話している言葉から無駄な接続詞を外したら、話しは三分の一くらいになるんじゃないだろうか。 衣ばかりの安い天ぷらのような答弁だ。そう言えば「天ぷら総理」と呼ばれていたこともあったな。
 首相の国会答弁、一回「いわば」と「まさに」を禁止にしてみればどうか。

 昨年の6月20日に撮影した御印祭の本祭の様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら

御印祭01
↑子供たちによる「弥栄節・やがえふ」の町流し。↓お神輿の巡行。
御印祭02

4月10日(火)

 エンゼルスの大谷翔平選手がメジャーの週間MVPを受賞した。3試合連続ホームラン、初登板で12奪三振という少年マンガのヒーローのような活躍ぶりで、野球にあまり興味が無い自分でもスポーツニュースを気にしたりする。
 右足の怪我を乗りこえて平昌五輪の男子フィギュアスケートで金メダルを獲得した羽生結弦選手や、将棋の史上最年少プロ・藤井聡太六段の活躍も、少年マンガの上を行くような展開、物語だ。
 そして、彼らの記者会見での落ち着きと語られる言葉のわかりやすさ。このところの政治家や官僚の意味不明で不明瞭な記者会見と比べると、どちらが大人なのか。
 
  あいかわらず無いと言っていた文書や日報が出て来て、その度に大臣が謝っている。この国の行政機関は、それほど事務能力がないのだろうか。
 部屋は決して片付いているとは言えず散らかっている方だが、 仕事で撮影した写真やデータは管理している。ありがたいことに過去に撮影した写真を再使用したいという連絡が来ることもあるので、直ぐに取り出せるようにしている。それが撮影したものの責任だとも思っているから。
 デジタルカメラになってから撮影したものは、仕事や撮影日時でも探せるようにフォルダーに入っており、データそのものは外付けのハードディスクに3重くらいのバックアップが取ってある。
 ポジフィルムはセレクトしたものはマウントしてファイルに入れ、残ポジはスリーブのまま封筒に入れて保存してある。モノクロのプリントはタイトル(被写体など)を書いた封筒に入れて棚に収めてあり、プリントの際に作成したベタ焼きも印画紙の箱に入れてある。モノクロのフィルムもタイトルを書いて現像所の封筒に入れ、それを大きな衣装ケースの中に仕舞ってある。
 写真データなら1〜2時間もかからず探せるだろうし、フィルムやプリントも半日か一日あれば探し出せると思う。
 個人ですら仕事のものはある程度整理して保管するのに、国の行政機関がこの体たらくは信じられない。
 
 著述家の菅野完氏と元衆議院議員で「私や私の妻や私の事務所が関係していたら、総理も議員も辞める」という安倍首相の答弁を引き出した福島のぶゆき氏の対談が面白い。
 「安倍夫妻によって国家はどこまで壊されるのか 」という前編では、<特殊な夫婦によって、この国がメチャクチャにされているという、お笑いにもならない日本の姿をどう受け止めればいいのか、よくわかりません>という福島氏の発言が印象に残り、「公文書改ざんの重みと、国家の重みが理解できない安倍首相」という後編では、<決定的な知的教養の欠如です。だからとんでもないことをやっているのだけれど、とんでもないことをやっているという恥じらいや、罪の意識が生まれない。それが今の日本の権力構造の一番の問題だと私は思います>という発言が印象に残った。

 知的教養の欠如した総理と、善意の暴走族の総理夫人。この特殊な夫婦の後始末をするために、官僚が右往左往し行政が歪められて行く様をリアルタイムで見ているのか。

新しいトップ画面
トップ画面を模様替え。さすがに桜も散り始めた頃に雪景色はあんまりだと思い、ちょっと季節を先取りして鯉のぼりの写真に変更しました。
 2014年のゴールデンウイークに、集落としては沖縄最北部にある奥へ、ヤンバル鯉のぼり祭りを見に行った時の写真です。
↓これまでのトップ画面。
これまでのトップ画面
 昨年の6月17日に撮影した、頼成の森花しょうぶ祭りの様子をPhoto Albumにしました。こちら
頼成の森花しょうぶ祭り

↑6haの園内に600品種70万株のハナショウブやアジサイ、スイレンなどが植えられている。

4月6日(金)

 昼から土砂降りの雨。花散らしの雨にならなければいいが。
 今日から日曜日までは雨が降る予報になっていたので、昨日の午後、花粉に怯えつつ2時間ほど桜並木を散歩してきた。
 テレビニュースを見ると富山市を流れる松川の桜はだいぶ葉桜になってきたようだが、福岡町の岸渡川(がんどがわ)の桜はまだ見頃。一昨々日辺りが満開で、少しずつ散り始めているが、まだ蕾の木もあった。
岸渡川の桜01
岸渡川の桜02
 あいかわらず目が痒くなったりクシャミが出たりするが、鼻水鼻づまりで寝られなくなるほどの症状は出なくなった。だいぶ花粉の飛ぶ量が少なくなって来たのだろうか?

 「相撲の伝統」「相撲は神事か」・・・なんだか相撲界がまた騒がしい。

 奄美に行くまで相撲が神事かなんて考えもしなかったが、奄美や沖縄で祭祀の現場に行くと奉納相撲が執り行われ、スポーツではなく神を喜ばす持てなしの行事(神遊び)だと実感させられる。

西阿室集落の奉納相撲
 奄美大島の南部、瀬戸内町の加計呂麻島には30ほどの集落があり、何回か通って全ての村へ行ったが、商店どころか自動販売機一つない村にも土俵があった。土俵のある場所は、神人(神女)が神事を行うアシャゲ(沖縄で言う神アサギ)に面するウナー(神の庭)だ。
 奄美の島唄には本土では使われなくなった大和言葉(平安言葉)が残っているが、琉球弧には離島ゆえに古い日本(大和)の文化が残ったのだろう。かつて本土でも行われていた神事としての相撲の形が、奄美や沖縄に見られるのかもしれない。
↑加計呂麻島・西阿室集落の豊年祭での奉納相撲。振り出し(土俵入り)。2011年9月18日撮影。↓奄美大島・油井集落の豊年祭。おにぎりにサンダンカの花を挿した「力めし」を女性たちから受け取り、土俵に上げる力士。2010年9月22日撮影。
油井集落の奉納相撲
 豊年祭や敬老会などで行われる奄美の奉納相撲は裸にフンドシの大和式相撲、沖縄では柔道着のような上着を着て最初から右四つに組む角力と呼ばれる沖縄式相撲だ。
 ちなみに神事としての相撲を色濃く残している奄美、沖縄でも何時が起源かわからないが女相撲を行っているシマ(集落)もある。
 女人禁制は大相撲の土俵だけなのかもしれない。
久米島の奉納角力
↑久米島・真謝集落で行われた五月ウマチー(稲穂祭)の奉納角力大会。左は女の子同士の角力、右はアンマー(お母さん)の角力。2014年6月12日撮影。

 今回の土俵で倒れた市長を救護するために上がった女性に「女性は土俵から降りて下さい」と言ったアナウンスは非常識で論外だが、神事では女人禁制や逆に男子禁制があるのは珍しくない。
 先月、立山・芦峅寺の<山の神の祭り>を撮影に行って来たが、山の神様は女性で、女性が参加すると嫉妬して祟りがあるので女人禁制となっている。利賀村の初午行事も、嘗ては男子児童だけで行っていたが、少子化で男子だけでは成り立たなくて女の子が参加するようになった。

 逆にウナリ(姉妹)がイヒリ(兄弟)を守護するウナリ神信仰の沖縄では祭祀を司るのは女性で、それゆえ男子禁制の場所も多くある。ノロ(神女)が御願する御嶽(ウタキ)の奥にある、最も神聖な場所であるイビには男性は入れない。シマによっては特定の日以外は集落の女性も入れない。
 久高島の祭祀・行事は神女が司るが、八月マティーと言われる旧暦8月に3日間行われる祭祀の最終日は根人(ニーチェ)と呼ばれる男性神職者が司る。この時、祭場の一つとなる浜には女性は立ち入ることができない。神人の女性も含めて女人禁制だ。
 沖縄の北部、安田(アダ)集落で行われるシヌグも沖縄では珍しい男性が中心となる祭祀で、ここでも山に入れるのは男性だけとなる。
 これが差別かと言われれば難しい。神道=信仰とはそういうものだとも思う。
 今回の騒動で相撲協会の言い分に異を唱える人が多いのは、相撲が神事だということを理解・納得できるように説明できていないからだと思う。多くの人は、大相撲を神事というより興行だと思っているだろう。

 それにしても、土俵の上で何も出来ずにオタオタしていた男性陣を尻目に、テキパキと心臓マッサージを行った女性看護士の立ち振る舞いの美しかったこと。プロフェッショナルの仕事とは、こういうことだなと感心させられた。

4月4日(水)

 今日は午後から天気が崩れ雨。

 厚労省のデータ不正、財務省の文書改竄、そして防衛省が無いと言っていた文書の存在が確認された。
 もう行政が正常に機能しているとは思えない事例が次々と明るみに出る。これらの改竄や隠蔽に政治家が関与していないと言うなら、各省庁のトップである大臣が官僚をコントロール出来ていないという話しでしかない。そして行政府の長である総理大臣の責任(本人は立法府の長だと思っている節もあるが笑)は、極 めて重い。
 いつまでモリカケの問題をやっているんだという人もいるが、それこそ官僚、行政をコントロールできない内閣に外交や経済を任せられるのだろうか?
 また、他国は公文書を改竄する国とまともに交渉してくれるだろうか?
 モリカケの問題は、そういう次元の話しだろう。

 防衛省の無いと言っていた文書が見つかったら、今度は国交省が機密文書を路上に散乱させたというニュースが流れて来た。ホントに国の危機管理がザルになっている。
 その他の気になったニュースやコラムを備忘録として。
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 昨日は、高岡の関野神社で与四兵衛祭が執り行われた。津幡屋与四兵衛は高岡二番町の若頭で、安永4年(1775年)に高岡と放生津(新湊)の間で起こった「安永の曳山騒動」で獄中死した人物。一命を投げ打って御車山の由緒を守った与四兵衛は、御車山の守護神「弥真進大人命」として、関野神社境内にある祠に祀られている。
  その与四兵衛の遺徳を偲んで毎年4月3日に行われるのが与四兵衛祭で、この日に参列する山町の宮総代など保存会の理事によって御車山の巡行などの取り決めも行われるので、この神事が御車山祭のスタートでもある。
 以下が騒動の詳細だ。
 高岡の御車山は豊臣秀吉が使用した御所車を前田家より拝領して山車へ改造した由緒正しいものだから、近隣の町が御所車と同じような大八車(外車)様式の曳山を引いてはならないと1762年に高岡側が加賀藩に申し入れて認められた。ところが1774年に城端、石動は類似した車輪の曳山を製作したため、翌年の春季例祭での曵きまわしは差し止められた。
 放生津は騒動以前から大八車(外車)様式の曳山を保有していたが、1773年に大八車を高岡に修理に出したところ、高岡の曳山総代に「御車山の車輪に似ている」ということで差し押さえられる。 放生津側は役所に請願書を出すなどしたがなかなか許しが出なかった。ようやく車輪が返還され、1775年には車輪に板を張りつけて曳山を引くことで決着がつき、9月15日の祭礼が執り行われた。
 その祭りの当日、二番町の若頭であった与四兵衛ら一行が放生津へ見学に行くと、立町の曳山一基が板を付けていなかった。与四兵衛らが抗議すると、曵きまわしの途中で外れたという。 もう一度付け直せという高岡側と、付け直す必要はないという放生津側で争論になり、やがて鳶口などを振り回した与四兵衛を含め3人が魚津の役人に捕まり投獄され、与四兵衛は拷問を受けて衰弱死した。
 与四兵衛の亡くなった後、1776年2月には高岡側の主張が認められ、明治の初め頃までは加賀や越中では高岡以外の曳山は大八車の使用が認められなかった。この騒動で与四兵衛は御車山の由緒と尊厳を守った義人として崇められた。

二番町の曳山

 この騒動に八尾が登場してこないのは、当時の八尾の曳山は内車式だったからだろうか。現在の八尾の曳山は外車になっているが、八尾の今町のものを譲り受けた大久保の曳山は当時の面影を残す内車式だ。

←御車山の中でも大きな2輪の外車が特徴の、二番町の曳山。
→八尾の曳山を譲り受けた大久保の曳山は当時の面影を残す内車式。

*参考文献 
安永の曳山車騒動と津幡屋与四兵衛
与四兵衛伝

大久保の曳山
4月3日(火)
 晴れ。富山で今年初めての夏日を記録。
 与四兵衛祭は16時からだが、古城公園の桜が満開になっているので早めに高岡に行くことにする。自転車で行くこともチラッと考えたが、花粉が怖い。少しでも花粉に触れないように高岡までは自転車を輪行する。
 あいの風とやま鉄道で高岡駅に13時41分に到着。改札を出たところで自転車を組み立て、エレベーターで1階へ下り、先ずは関野神社へ向かう。神社に到着すると、境内の奥で神職の方が準備をされていたので与四兵衛祭の開始時間が16時でよいか確認する。
 関野神社を出て、御旅屋通りを通って古城公園へ。公園の中にある射水神社へ行くと、拝殿前の枝垂れ桜も満開だった。御神木の梅は、もう花が散っているかと心配したが咲いていた。
↓射水神社の枝垂れ桜。→御神木の梅の木。
御神木の梅の木
射水神社の枝垂れ桜
古城公園の桜
 古城公園のお堀の周囲を少し自転車で走ってから、有磯正八幡宮へ向かう。今年の1月に御神木である「親子抱き合いの欅」の枝が折れたと地元紙でニュースになっていたのでその様子と、Facebookに境内の枝垂れ桜が満開になったという話題が流れて来ていたので桜を見に行く。
 御神木の欅は上の部分が無くなり、短くなっている。樹木医が再生のための治療をしているのだろうか。
 満開になっている枝垂れ桜を撮影して、今度は二番町にある与四兵衛顕彰碑を探す。与四兵衛の旧宅があった二番町に建てられているそうだが、二番町というのも旧町名なので番地を探してもわからない。しばらく自転車でまわって外にいらした地元の方に教えてもらう。
↓有磯正八幡宮の枝垂れ桜。→旧宅跡に建てられた与四兵衛顕彰碑。
与四兵衛の碑
有磯正八幡宮の枝垂れ桜
与四兵衛祭01
 関野神社に戻って来たのは15時過ぎだろうか。
 境内の右側奥に与四兵衛を祀った祠があり、既に祭壇が並べられて準備が出来ていた。
 酒井晶正禰宜ではなく、今日は木津祐美子神職が祝詞を奏上されるそうだ。
 15時半を過ぎると祭りの巡行等を話し合う理事会を終えた、紋付袴姿の理事の方々が祠の前に参集。
 保存会顧問の高橋市長ら26人が揃い、神事が始まった。
与四兵衛祭02
↑16時。与四兵衛を祀った祠の前に並び、神楽(太鼓)の奏上で神事が始まった。
与四兵衛祭03
関野神社の紫木蓮
 神楽奏上、祓詞奏上、修祓、献撰、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌、神楽奏上。
 25分ほどで神事は終わり、この後、理事の方々は直会をされるという。
 関野神社を出る時に、拝殿横に植えられた木蓮を撮影した。家に帰ってネットで調べると紫木蓮という種類だそうだ。
 高岡駅まで自転車で行き、輪行して17時1分の金沢行きに乗車。
 17時11分に最寄り駅に到着。自転車を組み立て、岸渡川へ行ってみる。
 花粉が怖くて家に閉じ篭っている間に、近所の桜も満開になっていた。この岸渡川の周辺で開催される福岡町さくらまつりは、今月の14日、15日。まだ10日も先だ。たぶん、葉桜になっているかな?
岸渡川の桜
*北日本新聞の記事、中日新聞の記事

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