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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表 ◯製作中の富山の祭りと芸能 |
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1月2日 朴谷の獅子舞 |
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◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作 ◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作 ◯久高島の年中行事 平成17年度作成 ◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作 ◯ 「まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作 ◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作 ◯幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】 ◯村踊 沖縄県伊江村伝統芸能 ◯喜屋武(チャン)の綱引き ◯与那国島の行事 ◯ 「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作 |
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○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html ○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/ ○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html ○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm ○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/ ○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/ ○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/、 ○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy ○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/ |
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朝起きて窓を開けたら、ピンクの傘を持った女の子が吹雪の中を歩いていた。小学校低学年くらいだろうか。富山の両隣、新潟県と石川県で大規模な断水になっているようだ。平成の30豪雪として記録されるのだろうか。 昨日確定申告の申告用紙が届き、今日は出版社から源泉徴収書が一通届いた。もう、そんな季節。 |
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一昨日は魚津市小川寺に伝わる伝統行事、宮田(みやでん)を撮影に行って来た。 | ||
宮田は神饌田(しんせんでん)の事だそうだ。小川寺の神社は白山社だけなので、白山社に献上するお米を作る田んぼ=神饌田=宮田だろうか。嘗ては4月に行われていたが、戦時中に男手が少なくなったので、1月26日の火祭りと兼ねて行われるようになったそうだ。 現在は心蓮坊と光学坊で交互に催され、今年は心蓮坊の番となっている。 心蓮坊と光学坊は嘗ての宿坊で、昔は千光寺の塔頭は16坊あったそうだが、現在はこの2つと蓮蔵坊の3坊だ。 |
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あいの風とやま鉄道の一日フリーきっぷを使い、魚津駅に11時44分に到着。魚津駅前から小川寺に向かうバスは12時38分で50分以上待ち時間がある。12時33分に魚津駅に到着する電車もあるが、さすがに5分の乗り換え時間は電車に遅れが出た時に心配なので一つ前の電車にした。 |
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↑心蓮坊。↓光学坊。光学坊の前にあった西布施公民館が移動したため、撤去の工事中だった。 |
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まだ始まりまで時間があるので、心蓮坊の外観を撮影し、直ぐ近くにある光学坊の外観も撮影する。光学坊の前が工事中の感じだったが、ここにあった西布施公民館が場所を引っ越したためだった。 光学坊から心蓮坊に戻って来ると、入り口を地区の男性が除雪している最中だった。 心蓮坊に入り、保存会の川井会長に火祭りの事を尋ねると、獅子舞の後に、心蓮坊の僧侶が祈祷した火難除けのお札を住民に配るそうだ。 |
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控え室で獅子方や囃子方のくつろいでいる姿を撮影したり、宴の行われる本堂を行ったり来たりしながら写真を撮る。 | ||
上段左:囲炉裏にあたりながら始まりを待つ地区の男性/上段右:心蓮坊の本堂/中段左:獅子方、囃子方の控え室/中段右:獅子頭。後ろに獅子舞の面を収納する箱が見える。小川寺では面宿という習慣があり、一年ごとに選ばれた家が獅子舞の面を預かる。昔はこの面宿で宮田の行事を行っていたようだ/下段左:13時55分に区長さんのご挨拶で行事が始まった/下段右:心蓮坊の畠山住職のご挨拶。 | ||
最初に宴が行われ、場が和んだところで獅子舞が登場する。宴で出される料理は、お刺身以外は地区の婦人が公民館で調理する。大根と焼き豆腐の煮物、鰯、ナマス、おひたし、カマボコ、刺身といったところ。 | ||
↓御膳の料理。→小川寺の獅子舞について書かれた冊子。 |
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控え室に「小川寺の獅子舞について」と題した冊子があったので、川井さんに許可をいただいて複写させてもらった。宮田については、以下のように書かれている。 宮田の名前の由来となった神饌田は戦後の農地改革で無くなり、もともとは午前中に苗代に種籾を下ろすという行事があったのが、今はお祝いの部分だけ残ったようだ。また行事の種類としては、豊作を祈る田祭りだろう。 |
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↑面をつけて準備完了。 40分ほど経ってお酒も少しまわったところで、獅子舞が登場した。 |
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「小川寺の獅子舞について」という冊子には、獅子頭や天狗などについても詳しく書かれているので、引用させてもらう。 天狗の面は確認できなかったが、冊子に書かれているように獅子頭の鼻に梵字の「カーン」という金文字が見える。カーンは不動明王を表すようだ。 |
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↓→獅子に邪気を食べてもらうために頭を噛んでもらう。→梵字が書かれた鼻。 |
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獅子舞が終った後、心蓮坊の僧侶が祈祷された火難除けのお札が配られる。小川寺の世帯数は平成30年1月現在138戸となっているが、火を扱う場所がいくつもあり複数枚欲しいという人もいることから300枚ほど用意してあるそうだ。 祭壇の朱色の台に置かれていたお札を世話役の方々が、一人一人に配って歩く。 |
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↑祭壇の朱色の台の上に置かれたお札。→お札の上の文字は梵字だ。 |
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宴はまだ続いていたが片付けも始まっており、太鼓が運び出されたのでついて行った。 | ||
↑→心蓮坊から運び出された太鼓。 |
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心蓮坊から運び出された太鼓は、千光寺に隣接する白山社の御輿蔵に仕舞われた。そして太鼓台は、白山社の拝殿に入れられた。 ←御輿蔵に仕舞われた太鼓。 |
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白山社から心蓮坊に戻ると、もう15時半頃で宴も終わり万歳で締められた。 | ||
心蓮坊を出てバス停に行く。小川寺から魚津駅に行くバスは16時18分。このバスは15時49分に小川寺に到着して大沢に行き、折り返して戻って来るので、どうせなら大沢という場所に行ってみようと思う。運賃は一回200円だ。 |
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終点の大沢に到着したのは予定時刻の15時58分を少し過ぎていた。折り返し16時10分に出発して魚津駅に向かう。停車時間は5分ほどで、バス停を降りて周辺を何枚か写真に収める。 |
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↑大沢から小川寺の間、バスの車窓から遠くに富山湾が見える。バスの運転手の話しでは、小川寺周辺では鹿が出るようだ。 |
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魚津駅に行くと、直ぐに16時42分の富山行きがホームに入って来た。 *北日本新聞の記事。 |
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一昨日の衆院本会議で在沖米軍ヘリのトラブルを巡る質問に対して「それで何人が死んだ」と野次を飛ばした松本文明内閣府副大臣が、昨日辞任した。 一年ほど前に撮影した「おらっちゃ広報」の記事が、先月から氷見市のホームページに順次UPされているようだ。氷見市の各家庭には昨年春にタブロイド版で配布されているはずだが、webの方が写真が大きく、点数も多い。 先日、何気に虚構新聞を見ていたら、古い記事に<マックが新メニュー その名も「マクドナル丼」>というのがあった。 昨日は魚津市の愛宕社(合祀されて現在は魚津神社の境内にある)の火祭りを撮影に行って来た。こちらの様子も後々UPいたします。 |
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上の写真は、昨日魚津からの帰り、あいの風とやま鉄道の車窓から。ミラージュランドを過ぎて、東滑川辺りだろうか。北に富山湾、南に立山連峰が眺められる場所だ。呉東の方へ電車で行く度に素敵な場所だと思っていたが、昨日は雪をかぶっていて一層美しかった。 | ||
毎年1月26日に魚津市中央通りにある魚津神社で行われる、愛宕社の火祭りを撮影に行く。 江戸時代の中頃、魚津の町で大火が続いたため防火意識を高めるために、各町内が火消しの纏(まとい)を模した大御幣を作り、火の神である軻遇突智命(かつぐちのみこと)が祀られていた愛宕社に奉納したことが始まりだそうだ。その魚津市立大町小学校(魚津城跡地)にあった愛宕社は、昭和41年(1966年)に魚津神社の境内に移された。 また、魚津神社は元々は神明社という名前だったが、昭和31年に魚津大火が発生し、その復興事業として火災の起こった地域にあった5つの神社を統合して魚津神社となったそうだ。 魚津市観光協会のサイトには11時頃が見頃と書いてあったが、魚津神社へ持って行き燃納する前に各町内に飾られた大御幣を神職がまわって祈祷するようなので、その様子も見たいと思い、少し早めに着くように電車に乗った。 |
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9時22分にあいの風とやま鉄道で、魚津駅に到着。駅前の道路は、雪で真っ白だ。 |
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大御幣は十字に組んだ青竹の先に榊を挿し、扇子に天狗やお多福の面を付けたものを括り付け、金・銀・白の細長く切った紙を下げたもの。天狗は災を除き、お多福は福を招く。全体の形は人間の姿を表し、これを燃納することで一年の平穏を願う。各町内でそれぞれ飾りつけや大きさも異なり、昔は出来を競ったそうだ。青竹に紙垂(シデ)を飾るので、御幣と呼ぶのだろう。大きいものは5〜6メートルの高さになる。 |
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↓金屋町の大御幣。→鴨川町の大御幣。 |
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先ず鴨川町の大御幣を見に行き、その後、金浦町の大御幣を見に行った。金浦町の大御幣の向かいに金浦町の公民館があり、中には祭壇が設けられていた。中にいらした方にお話しを聞くと、金浦町の祈祷も10時30分からだそうだ。晴れていれば大御幣の前に祭壇を置いて、外で祈祷するが今日は時々吹雪いたりするので公民館で行うことにしたという。 金浦町の大御幣の青竹には、五の番号札の付いた愛宕社の神符が取り付けられていた。この神符は前日に魚津神社で貰い受けるそうだ。後で魚津神社の宮司さんに聞いたところ、大御幣を作る町内は30余だそうで、その内番号札の付いた神符をもらうのは28町だという。離れた町内には、地元の神社に大御幣を持って行き火祭りをする町もあるようだ。 |
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↓金浦町の大御幣。→大御幣につけられた愛宕社の神符。 |
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10時15分頃に金屋町の大御幣のところへ行くと、既に神職の方が到着しており大急ぎで祭壇の準備をされていた。テーブルを出し、神饌を供える。各家庭に配られた扇子に天狗のお面を取り付けた古いお守りはダンボールに、そして祭壇の横には新しい天狗をつけたお守りが置かれていた。この扇子に天狗のお面を付けたお守りは町内の壮青年団が作り、家庭では火を扱う台所などに飾るそうだ。このお守りの配布は、希望者だけだったり町内ごとに仕組みが違うようだ。 | ||
↓台所等に飾られていた古いお守り。→今年配られる新しいお守り。 |
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10時30分になり、アーケードの下に設けられた臨時の祭壇で金屋町の祈祷が行われた。 | ||
↑上段左:神職による神楽の奏上/上段右:祓言葉の奏上/中段左:修祓/中段右:祝詞奏上/下段左:玉串奉奠/新しい天狗のお守りのお祓い。 ↓大御幣での祈祷の後、町内の四隅を神職がお祓いをしてまわる。 |
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金屋町の祈祷は25分ほどだったろうか。神職が町の四隅を祓って歩くのを見てから、金浦町へ行ってみると、こちらも祈祷が終わったばかりだった。これから大御幣を魚津神社へ持って行くそうなのでついて行く。魚津神社の拝殿で祈祷を受けてから、大御幣を燃納するのを見させてもらう。 大御幣を運ぶ住民の中に、繭玉飾りを持っている方がいらした。ピンクと白の玉は、せんべいだそうだ。昔はおもちゃ屋さんに売っていたそうだが、今はネット通販で購入しているという。なるほど、ネットで売っていた。 |
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↑上段左:魚津神社へ運ばれる金浦町の大御幣/上段右:せんべいで出来た繭玉飾りを持つ人。神棚の下に飾っていたそうだ/中段左:魚津神社/中段右:大御幣にかぶせてあったビニールを外し、祈祷を受けている間、立て掛けておく/下段左:魚津神社の拝殿での祈祷。番号札の付いた愛宕社の神符は神社に返される/下段左:玉串奉奠。祭壇は本殿の方ではなく、隣りにある愛宕社に向けて置かれている。 |
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↓→魚津神社の境内にある、愛宕社。 |
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拝殿での祈祷が終わると、立て掛けてあった大御幣を燃納。紙なのであっと言う間に青竹を残して燃え尽きてしまった。 | ||
この後も車の荷台に乗せたり、手で持って各町内の大御幣が境内に運ばれて来る。ビニールカバーを外し、立て掛けて、拝殿で祈祷を受けてから大御幣を燃納して帰って行く。町内によっては、この後、軽く直会が行われたりするようだ。また、魚津には左義長の行事がないようで、個人個人が正月飾りや書き初めを持って来てお焚き上げして行く。 | ||
境内での大御幣の燃納は朝の9時半頃から始まるようで、保育園の園児などが自分たちで作った大御幣を持って来る。新聞やテレビが取材するのは、この時間帯のようだ。16時頃に魚津神社のある神明町の大御幣が運ばれて、これが一番最後になるようだ。魚津神社の嘗ての名前、神明社があったから神明町なのだろうか。 | ||
↓正式には鎮火祭というのだろう。→魚津神社の向かいにあった神明町の大御幣。 |
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12時15分頃まで境内にいて大御幣が運ばれたり燃やされたりするのを撮影していたが、帰ることにする。 来る時は中央通り商店街を通って来たので、帰りは違う道を探して歩く。 どこの町内か書いてなかったが、大御幣が一つ立っているのを見つけた。 風が強くて雲の流れるのが早いのか、吹雪いたと思ったら晴れ間が出て、また急に吹雪く。そんな繰り返しの天気だ。 12時48分の金沢行きの電車に乗車する。 |
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↑あいの風とやま鉄道の車窓から。海沿いに観覧車が立っているミラージュランド。普段でもシュールだが、雪をかぶって一層シュールな光景だ。 | ||
最寄り駅に着いたのは13時42分。駅で1月28日の一日フリーきっぷを購入する。 | ||
ECDことラッパーの石田義則さんが、昨日、亡くなった。SNSなどに彼の活動の様子が時々流れて来ていて闘病されていることも知っていたが、それでも亡くなられたという事実を知るのはいつも唐突だ。 接点はないんだけれど、一度だけ交差したことがある。 ECDの生年月日を知ったのはいつだったか。昨年の11月に声優の鶴ひろみさんが亡くなり、昨日ECDが亡くなった。自分と同じ1960年3月29日生まれで知っている人は、また近所の山田君だけになった。 You Tubeから「ロンリーガール/ECD feet K DUB SHINE」。 |
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↑ビブラストーンの写真より、一番後ろで手を挙げているのがECD。 ↓前列中央で帽子をかぶっているのがECD。 |
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◯東電HDに2900億円追加交付 原賠機構 ◯除染下請け企業 役員報酬43億円! ◯福島第一作業員 労務単価下げ あいかわらず原子力村はむちゃくちゃだな。 |
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最低気温マイナス2℃、最高気温1℃。部屋に居てもマウスを触る手がかじかむ。明日の予報はマイナス4℃と0℃だ・・・orz。 昨日の午前10時頃、草津の本白根山が噴火、近くで訓練中だった陸自隊員1人が亡くなった。テレビは一日中その話題だったが、夕方になってフィリピン・ルソン島のマヨン山でも大規模噴火のおそれがあるとして2万4000人余りが非難したというニュースと、アラスカ沖でマグニチュード8.0の地震が発生したというニュースが飛び込んできた。 |
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↑沖に見える薄い島影が、入砂島。2013年6月8日に、渡名喜島から撮影。 |
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↑渡名喜島で2年に一度行われる島最大の祭祀・シマノーシ(島直し)。シマノーシは現在の神人であるガンジュナが、始祖の神であるギレーミチャンを迎え、島の草分け家である4つの殿をまわりシマを祓い清める。砂を敷いた道の両脇にフクギの並木が続き、青空の下を白衣の神人が歩く姿は白昼夢を見ているようだった。2013年6月8日撮影。 | ||
←トップ画面を、模様替えしました。 ↓これまでのトップ画面。 |
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明日、1月25日は初天神。富山では天神講が盛んで、長男が生まれると母親の実家から学問の神様である天神様(=菅原道真)の掛け軸や置物が贈られる。その天神様の掛け軸や置物を、年の暮れから初天神まで床の間などに飾る。明日は天神様がお帰りになる日(仕舞う日)なので、父親が天神様へのお供えにスーパーでお寿司を買ってきた。床の間の天神様の下に、パックに入ったお寿司を供える。そして夜に、そのお下がりをいただいた。 天神様の掛け軸は、朝仕舞う。母親が言うには「遅く仕舞うと暗くなって天神様が道に迷うから」だそうだ。 *高岡の天神様、高岡の”三天神”祭り、天神堂、前田利家の系譜。 |
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↓天神様へのお供え。→床の間に飾られた天神様の掛け軸。 |
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昨日からニュースやワイドショーで、南岸低気圧の影響により22日は東京でも積雪になるという話題が出ていたが、今日の午後からFacebookに関東方面の知人が撮影した雪の写真が続々UPがされていた。やはり大雪になり、交通網はズタズタ、停電も発生し、ケガ人も多く出たようだ。 |
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←今日の部屋の窓からの雪景色。 昨日行われた沖縄県南城市の市長選で、無所属新人の瑞慶覧長敏氏が、現職で自民・公明・維新の推薦を受けた古謝景春氏を65票差で破り初当選した。 |
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二十歳の頃だろうか、一時ハコバンのトラをやっていた。ハコバンは箱(キャバレーやホストクラブ、パブのような店舗)で演奏するバンドで、トラはエキストラ。臨時の雇われミュージシャンだ。 今から10年程前(もっと前かな?)だろうか、雑誌の仕事で何十年ぶりかで愛本店に行った。ホストの一人を撮影する仕事だったが、お店に愛田社長がいら したので「昔、ここでお世話になりました」と挨拶すると驚かれたので、バンドの仕事で来ていましたと言うと、「出世しましたね〜」と笑って声をかけられ た。 こんな昔の話しを思い出して書いたのは、先日、東京新聞に掲載されていた<銀座キャバレー「白いばら」 惜しまれつつ歴史に幕>という記事を読んだから。 |
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昨年の5月3日に撮影した福野の曳山祭り(神明社の春季例大祭)の様子をPhoto Album、にしました。こちらとこちら。 |
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↑神明社の鳥居の前で神事が行われた後、曳山はそれぞれの町内に戻り曳きまわされる。 ↓神輿を先導する行道獅子。獅子自体は神明社所有のもので、昨年までは浦町が毎年獅子の担当だったが、今回から各町内が輪番で行うことになったそうだ。 |
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今日は大寒。先週降り積もった平野部の雪はだいぶ溶けてきたが、来週はまた大寒波が襲来するそうだ。 今朝の北日本新聞に、「尾山の七夕流し」と「中陣のニブ流し」を記録作成等の措置を講ずるべき無形の民俗文化財とするよう、国の審議会が林芳正文部科学相に答申したという記事が掲載されていた。また、立山町が布橋灌頂会の海外向けPR動画を作製し、You Tubeで公開を始めたという記事も載っていた。布橋灌頂会の動画はこちら。 |
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アマゾンのマーケットプレイスでポチった本が、昨日と一昨日、1冊ずつ届いた。 一昨日届いたのは『神と舞う俳優たち 伝承芸能の民俗/須藤功』(青弓社)。パラパラと捲ると与論島のシヌグの写真が一枚載っていた。 昨日届いたのは『神々の古層 来訪するギレーの神 シマノーシ(渡名喜島)/比嘉康雄』(ニライ社)。神々の古層シリーズは、これで6冊。やっと半分が揃った。 |
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昨日は、氷見市の日蓮宗宝徳寺で行われる寒中水行を撮影に行って来た。北日本新聞の記事で寒中水行のことを知り、富山新聞の記事に19日まで毎日午後1時半に行われ、最終日はお札が配られ、ぜんざいが振る舞われると書いてあった。 あいの風とやま鉄道で11時45分に高岡駅へ。12時3分発の氷見線で終点の氷見に着いたのは12時32分。家でプリントしてきた地図を見ながら、宝徳寺に向かう。途中、コンビニでメロンパンを一つ購入し、食べながら歩くとお寺に着いた。 到着した宝徳寺は、2015年の4月に撮影しに来た「まるまげ祭り」のスタート地点だった。後で聞いたところ、まるまげ祭りは北の旧六町が持ち回りで行っており、宝徳寺はスタート地点の一つなのだそうだ。 本堂は2階で、2階へ上がる階段の下に水を張った樽と桶が置かれていた。準備をされている年配の男性がいらしたので、撮影の許可をいただく。寒中水行の始まる1時半まで時間があるので、暖かい本堂でお待ち下さいと言われ、お言葉に甘えて中へ。本堂の中には信徒の方がたくさん椅子に座って待たれていた。 |
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↓宝徳寺。→水の入った樽と桶。 |
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13時25分に本堂を出て、下の境内へ。30分になり始まりの鐘が鳴った。本堂のドアが開き、うちわ太鼓を持った信徒の方が出て来て、左右に並ぶ。その間を通って寒中水行を行う高野本亘副住職が、階段を下りて来る。 | ||
↓信徒に見守られながら境内に下りる高野副住職。→法華経の水行肝文を唱える。 |
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水の入った樽の前で白衣(はくえ)を脱いで下帯姿になると、法華経の水行肝文を唱える。 |
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↓見守る信徒の方々。→寒中水行自体は5分ほどで終わった。 |
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寒中水行の後は、お務めが行われる。4人の僧侶が読経。 | ||
読経の後、4人の僧侶が手分けして信徒一人一人の身体を擦る。その後、信徒が一人一人祭壇の前に行きお参り。 お参りが終わると高野本悦住職が、この一週間で信徒の方々から寄せられた祈願の内容を信徒の名前と共に読み上げる。住職が読み上げている間に、ぜんざいが配られた。 祈願成就を読み上げた後、住職が講話を行い法会は終了となった。 |
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↓→お札には名前が書いてあり、信徒は自分の名前を探して持ち帰る。 |
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撮影を終えて宝徳寺を後にしたのは、15時半頃だった。真っ直ぐ氷見駅に向かい、16時7分の氷見線で高岡へ。16時39分に高岡駅に着いたが、あいの風とやま鉄道の金沢方面行きは17時6分と、少し待ち時間がある。 駅の連絡通路から外を見ると、きれいな夕焼け。雲が多くて期待していなかったので、ちょっと驚いた。ずいぶん太陽が大きく見えた。 |
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↓自宅の最寄り駅の連絡通路から、乗って来た電車を撮影。もう太陽は山の向こうに沈んで、夕焼けから夜空に変わろうとしていた。 | ||
朝、居間に行くとテレビの番組は防災特集を放送していた。そうか、今日で阪神淡路大震災から23年が経つのか。同時に、中国のロックバンド「黒豹(ヘイバオ)」を撮影して23年が経つのを条件反射のように思い出す。レコード会社の依頼で、北京・南京・北京3泊4日で彼らを撮影して日本に帰って来た翌日が1月17日だった。 |
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↑撮影したポジ・フィルムはレコード会社に渡したので残ポジしか手元にないが、その中から一枚。1995年1月・南京。You Tubeから「無地自容/黒豹楽団」。 |
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↑コンサートの打ち上げでの黒豹のメンバー。右の写真はビールの早飲み競争。大きなジョッキで飲むのは黒豹のベーシスト、グラスを持っているのは南京のテレビ局の女性かな? | ||
小倉エージさんと一緒に中国へ行き、北京のホテルでメンバーのポートレートを撮影し、翌日、国内線で南京に飛んでコンサートを撮影した。 ◯<国交省>公用メール、1年で自動破棄 政策検証が困難に 戦後70年が過ぎても日韓両国の火種としてくすぶりつづける慰安婦問題にせよ、あるいは南京虐殺事件といった数々の問題にせよ、日本側が資料や文書をき ちんと残していれば、一体どうなっていただろうかと想像する。いずれも歴史的な事実であり、否定することなどできはしないが、規模や態様などについては日 本側の主張を裏づけた可能性もある。少なくとも事実はもっと精緻に検証され、ひょっとすれば現在のような火種にはならなかったかもしれない。 |
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年賀はがきの当選番号が発表された。ネットやSNSでの繋がりが多くなるにつれ、年賀状を出すのも受け取るのも減ってしまった。今は一番たくさん出していた時の1/3ほどだろうか。昨年は3等のお年玉切手シートすら一枚も当たらなかったので、今年も期待せずに見てみると、3等が4枚も当選していて驚いた。年賀状をたくさん受け取っていた時でも、4枚ってあっただろうか?郵便物を出しに行くついでに、早速切手シートをもらって来た。 昨日は日曜日という事もあり富山県内では左義長の他、イベントや神事、仏事がいろいろと開催された。せっかくなので午前中から出かけて幾つか観て来た。 |
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第39回 越中万葉かるた大会 次第 |
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↑かたかご幼稚園・保育園の児童による合唱(左)と選手宣誓(右)。 |
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↑↓→体操着の小中学生でいっぱいの会場。 |
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9時に開会宣言が行われたが、来賓の挨拶や競技方法の説明があり、かるたを並べたりの準備もあって競技が始まったのは9時半頃だったろうか。今日はこの後、伏木の勝興寺で行われる御満座法要を見に行こうと思っているので一回戦を観戦してから駅に向かった。 あいの風とやま鉄道で10時48分に高岡駅に到着。昨日まであいの風、城端線、氷見線とも運転見合わせや遅延があったが、今日はほぼ正常に運行していた。11時12分発の氷見線で勝興寺のある伏木へ。11時半頃に伏木駅に着いて、駅前の坂道を上ると勝興寺がある。 |
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↑勝興寺の唐門(左)と本堂(右)。 |
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受付で配られていた案内より引用。 御正忌報恩講(御満座法要 デカローソクを見がてらお参りください) 平成30年1月14日(日)10:00〜17:00 10:00〜日中 読経 満年講 法話 布教使 覚円寺 青木哲静師 12:00〜お斎(おとき) 14:00〜逮夜 読経 御傳鈔 ( 御伝鈔 ) 法話 布教師 法順寺 圓山望師(デカローソク9:30〜17:30点灯) 平成30年1月15日(月)10:00〜12:00 10:00〜満日中 読経 御俗鈔 法話 布教師 要願寺 林史樹師(デカローソク9:30〜12:00点灯) |
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↓→覚円寺(射水市)の青木哲静住職による法話。 |
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御満座法要とは御正忌報恩講のことで、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人の命日にその遺徳を偲んで行われる法会。御満座そのもののは、法会の終わる最後の日という意味のようだ。確か親鸞聖人の命日は11月28日だと本で読んだが、大谷派は11月21日から28日で行うが、本願寺派は新暦に直して1月9日から16日に行うそうだ。大谷派(お東)は11月28日が御満座、本願寺派(お西)は1月16日が御満座となる。 北陸では御満座の行われる頃は季節風が吹き、雷も鳴って天候が荒れることから御満座荒れという言葉もある。 |
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↑勝興寺の有名なデカローソクの前で法話が行われる。 |
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台座を含めて高さ約3メートルはすべてがろうでなく、大半は木でできている。上部の金属製の皿にろうを入れ、火をともす。明治時代に1年交代で法要のろうそくを提供してきた勝興寺周辺の高町と下町がろうそくの寸法を間違えて作ったことを機に、大きさを競い合うようになり、巨大化したと伝えられる。 戦後は伏木の船大工が木のデカローソクを制作し、木製になったおかげで毎年繰り返し使い、デカローソクの大きさは一定になった。 |
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午前のお務めが終わり、12時からお斎(おとき)が振る舞われた。料理を撮影させて欲しいとお願いしたところ、食べていって下さいと言われる。ただ食べるのも恐縮なので、受付で小額を寄付し浄財と書かれた箱に小額を入れて食べさせていただいた。食事をしている時に、隣りや向かいに座られた信徒の方々から色々と浄土真宗のことを教えていただいた。 |
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↑伏木駅(左)と、越中国分駅を過ぎた辺りを氷見線の車内から(右)。 |
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勝興寺から坂道を下って伏木駅へ。今日の天気なら、富山湾越しの立山がキレイに見えるんじゃないだろうか?と思い、14時発の氷見線で雨晴駅へ。雨晴駅には14時7分に到着。駅を出て急いで海岸の方へ歩く。乗って来た電車が終点の氷見で折り返して雨晴に着くのが14時32分、これを逃すと次の高岡方面行きは16時16分までない。 | ||
海岸から撮影した、女岩(めいわ)越しの立山連峰。もう少し岩に雪が残っていると良かったかな?場所を変えて撮影しながら雨晴駅へ戻る。 | ||
氷見で折り返して来た14時32分の電車で、高岡へ。電車からも窓越しに立山がはっきりと見える。 |
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14時55分に高岡駅に到着して、昨日、今日と開催されている日本海高岡なべ祭りの様子を見て歩く。今年で32回目だそうだ。 ←運転手は女性の方だった。 |
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*日本海高岡なべ祭りの北日本新聞の記事。 | ||
今日の未明、外の様子を見ようと窓を開けたが、網戸が凍り付いていて開かなかった・・・orz。 | ||
昨日から北陸は大雪で、Facebookのタイムラインも一時投稿された雪の写真で埋まっていた。 今日はあいの風とやま鉄道、氷見線、城端線といった平野部を走る電車が軒並み始発から運休していたが、富山地方鉄道や高山線といった山の方を走る電車が動いていて驚いた。 今回の積雪は山から下りて来るのではなく、海側から吹き付けて来るので平野部のほうが積もっているのかも知れない。久しぶりのドカ雪だ。 |
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この大雪で学校もずいぶん休校になったようだ。朝、2階の窓から外を眺めているとランドセルを背負った小さな女の子が一人で歩いて来た。学校へ行ったら休校になっていて、戻って来たのだろう。こんな雪の日でも朝には新聞が届いている。今日の新聞は濡れないようにビニール袋に入っていた。 昨日は富山市岩稲(旧細入村)の本芳彦弘さんのお宅で代々行われている伝統行事「お鍬さま」を撮影させていただいた。お鍬さまは、農家の仕事始めの日である1月11日に、三つ鍬を田んぼの神様(男神)、平鍬を畑の神様(女神)に見立てておもてなしする風習で、380年ほど前から岩稲の農家で伝承されて来た。しかし、農業の近代化や担い手不足でこの風習をやめる農家が多く、現在は本芳さんの家だけになってしまった。 朝起きると道路にたくさんの雪が積もっていた。6時11分に富山駅に到着する、始発のあいの風とやま鉄道に乗車。少し遅れて到着するが、駅前から出る笹津行きのバスは6時25分発なので余裕がある。 |
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↓床の間の前に用意された御膳。→お茶を飲んで休んでいるお鍬さま。 |
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8時までの間に、新聞社やテレビ局のカメラマンが続々と訪れて撮影場所はギュウギュウ詰めになる。 驚いたのは、とある神社の権禰宜の方が見学に来ていらしたこと。4社ある越中国一宮に数えられている大きな神社の1社に務められてる方で、この儀式が好きで、そして勉強になるということで何年も通って見に来られているそうだ。 やがて8時になり、鍬を抱えたご夫妻が座敷に入っていらした。 |
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「お鍬さま、あけましておめでとうございます。昨年中はお鍬さまのお力添えをいただきまして、農業に携わることができまして、本当にありがとうございました」とお礼を述べてから、おもてなしが始まる。お鍬さまとの会話は彦弘さんのアドリブで、毎年変わるそうだ。「足を崩していただいて、ごゆっくりとお召し上がりいただきたいと思います」と言ってお鍬さまにすすめる料理は、田作り(ごまめ)、黒豆(マメマメしく働けるよう)、海老(腰が曲がるまで働けるよう)、昆布巻き(よろこぶ)、鯛の塩焼き(めでたい)といった正月のお祝い料理。 そして、徳利からお鍬さまのお猪口にお酒を注ぐ。やがてお鍬さまからの返杯を受けて、彦弘さんもお酒をいただく。そうして儀式は10分ほど続いただろうか。 この「お鍬さま」も昨年11月に撮影させていただいた宇奈月町下立の「おーべっさま」も、神事の原点のような気がする。 神を迎え、神をもてなし、神を送る。琉球弧も祖霊信仰、ウナリ神信仰、ニライカナイ信仰とあるが、纏めれば琉球神道となる。その儀礼は神迎え、神アシビ(遊び)、神送りだ。 鍬を神様に見立てるというとユーモラスにも思えるが、神社に祀られている神霊も依り代、神籬(ひもろぎ)。鏡であったり、石であったり、御幣だったりを神様に見立てている。神社から神社へ神霊を勧請(分霊)する時には、御幣が依り代となって移動する。 沖縄で一番ポピュラーな神様である火神(ヒヌカン)は、竃(かまど)の石だ。個人的には神道とは宗教というよりも、信仰だと思っている。その原風景が「お鍬さま」や「おーべっさま」にあるのではないだろうか。 |
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↓お鍬さまからのお酒をいただく彦弘さん。→おもてなしを受けるお鍬さま。 |
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昔はご馳走でもてなした後、外に出て田んぼの雪をかき分け、東の方角に手を合わせて豊作を願い、三つ鍬で3回初起こしを行ったそうだが、近年は彦弘さんが足が弱くなったためやらなくなったそうだ。 |
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儀式が終わり、ご夫妻や見学にいらした権禰宜の方と雑談をした後、ミカンをお土産にいただいて9時過ぎにおいとまする。笹津駅まで歩くか、家の前のバス停から猪谷の方へ行こうかと思っていたら、権禰宜の方が車で送って下さることになり、笹津駅の手前にある笹津橋まで乗せてもらった。メモして来た高山線の時刻表を見ると富山行きの電車が直に橋を渡るので、しばらく待って撮影。雪景色の中を2両編成の電車がゆっくりと渡って行った。 | ||
電車が通り過ぎた後、神通川を挟んで国道41号の対岸にある県道188号を歩いて楡原駅へと向かう。 お日様が出て、山の方の雪が溶け始めて来た。車がほとんど通らないので歩き易いが、時おり木の枝から雪が落ちて来るので、晴れていても傘をささなければならない。 途中、石仏が並んだ「おおさわの石仏の森」の横を通る。雪を被って凄さがよくわからないので、今度ゆっくりと。 ←楡原駅にて。 |
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撮影しながら歩いたので、楡原駅まで1時間半ほどかかった。楡原から岐阜県寄りの猪谷駅に向かうか、富山方面に向かうか悩む。まだ行ったことのない猪谷を歩いてみたい気もするが、雪が溶け始めているので凄い雪景色は期待できない。とりあえずで10時59分の電車で富山方面に向かい、車窓を眺めていて雪景色の残る越中八尾駅で下車した。 越中八尾に到着したのは11時16分で、次に富山方面に向かう普通電車は13時6分。2時間近くあるので、日本の道百選にも選ばれている諏訪町まで散歩して戻って来た。 |
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11時16分の電車で富山へ。あいの風とやま鉄道に乗り換えて家に帰る。さっきまで青空が見えていたのに、富山駅を発車すると吹雪いて来た。最寄り駅に着いて家まで歩くが、また雪が激しく降り始めている。 早朝から笹津から岩稲、笹津から神通川沿いに楡原、そして越中八尾駅と諏訪町を往復。たぶん9キロほど歩いたんじゃないだろうか。 *北日本新聞の記事、KNBニュース、チューリップテレビ、富山テレビ。 |
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久しぶりに朝から青空。午後から伸びた髪を切りに行って来た。 今朝の北日本新聞に、雅楽導入は1866年という芦峅寺で行われる布橋灌頂会に関わる記事が掲載されていた。一昨日も立山信仰の仏像2体発見という芦峅寺に纏わる記事が出ていたので、なんだか続いている。 |
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昨日は県内各地で消防出初式があったようだが、午前9時から行われる高岡市の消防出初式を見に行った。 |
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駅から市役所までは10分くらいだったろうか。市役所と消防署のある道路にはずらりと各方面団の消防車が並んでいた。晴れているが寒い日で、女性の消防職員が使い捨てカイロを配って歩いており、一ついただいた。 会場に到着した頃は見物客もまばらだったが、9時の開始時間になると沿道にずらりと人が並んでいた。お祭りでよく見かける、石川県の七尾から来て一人で小型ビデオで撮影しているおばーさんがいらした。明日は成人式を撮影に行くそうだ。 ネットにあった今日のプログラムから。 9:00検閲 ・検閲者が消防職員、消防団員、消防車両の検閲を行います。 9:15分列行進 ・音楽隊を先頭に消防職団員、防火管理協議会キャンペーン隊、消防車両、富山県消防防災ヘリコプターが分列行進を行います。 9:30特別演技 ・消防音楽隊演奏・木遣り唄、まとい振り、はしご乗り・腕用ポンプ、裸放水・救助特別演技 10:15一斉放水 ・消防団車両による一斉放水を行います。 |
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↑上段は検閲、中・下段は分列行進。 |
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↑市役所の敷地内での消防音楽隊演奏(左)と木遣り唄(右)。 |
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↑↓→はしご乗り。 |
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↓腕用ポンプ(左)と裸放水(右)。 |
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↑↓晴れていたので虹が出た。→救助特別演技。 |
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市役所敷地内での特別演技が終わると、古城公園の方に移動して池之端公園濠で行われる一斉放水を見学
。 一斉放水で出初式の催し物は終了したので、ネットで探しておいた広小路にあるdocomoショップへ。 |
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かれこれ8年近く使っている携帯電話が、暮れから調子が悪くなり、元旦の朝には電源が直ぐに切れ、充電も思うようにならなくなった。
←左が8年近く使っている満身創痍な携帯。右が妹にもらった古い携帯。 |
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しばらく使えなくなった携帯を放っておいたが、昨日、何気に触ると電源が入った。あいかわらず動作は不安定で直ぐに電源が切れるが、起動はするようになった。ショップで症状を説明すると、2つの携帯を預かって本体のデータを移してくれた。また、月額300円の保証に加入していることを話すと修理より5000円で新しい携帯を受け取るサービスをすすめられた。 とりあえず電話が使えるしデータも移行できたので、しばらくはこのままでいいかな。 |
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←↑関野神社。 docomoショップから山町筋へと歩き、通町の自治会長さんの家へ。昨年の夏に撮影した通町の布袋祭の写真をフォトブックにしたものを、お渡しする。 通町から関野神社へ向かい、初詣の参拝をしてから社務所へ宮司さんを訪ねて、やはり通町の布袋祭のフォトブックを1冊お渡しする。 関野神社から高岡駅へ。天気がだんだん崩れてきたが、駅のホームの連絡通路から立山がはっきりと見えた。 |
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金沢方面の電車が5分ほど遅れて高岡駅に到着。やがて雨が降り出して、最寄り駅に到着する頃には強い雨になっていた。 *北日本新聞の記事 |
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明けましておめでとうございます |
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昨年は大晦日から元旦まで氷見市小境の朝日神社・夕日神社で子供たちが神様にかわって参拝者を迎える「宮こもり」を撮影したが、今年は大晦日の晩から元旦の朝まで芦峅寺の雄山神社で「ミヤマイリ」を撮影していた。 | ||
↑芦峅寺の雄山神社。木々に囲まれた祈願殿。 |
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1月2日は黒部市朴谷の獅子舞を撮影に行って来た。日本で獅子舞の伝承数が一番多いとも言われる富山県だが、その多くは春祭りや秋祭りに行われる。お正月の獅子舞は、ひょっとすると朴谷だけかもしれない。 | ||
↑地区の神明社に参拝した後、一軒一軒門付けして歩く。 |
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雄山神社の宮まいり、朴谷の獅子舞の様子は後々UPいたします。 | ||
本年もよろしくお願いいたします |
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お正月二日目は、黒部市朴谷の獅子舞を撮影に行って来た。昨年の8月14日に「獅子舞 IN SUMMER」と題した朴谷地区の納涼祭を見に来た時に、お正月の獅子舞の開始時間を聞いておいた。13時に公民館に集合して、神社に参拝してから集落をまわり、15時くらいに終了するということだった。 前日に買っておいたあいの風とやま鉄道の一日フリーきっぷを使って、黒部駅に10時58分に到着。黒部駅前から朴谷へ行くバスは11時25分発車なので、駅近くのコンビニで肉まんと菓子パンを購入。 夏に来た時は黒部駅から輪行して来た折りたたみ自転車で朴谷に行ったが、雪や雨が降るような予報だったのでバスにした。 |
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11時25分のバスに乗車して、朴谷に着いたのは11時 40分頃だろうか。 まだ誰も居ないだろうと思いながら公民館(正式には朴谷集落センター)に伺うと、準備をしていた青年2人が応対して下さった。 夏に撮影した写真をお渡しし、今日の獅子舞の撮影許可をいただく。 12頃から獅子舞関係者が集り始めるということなので、その前に近くの神社を撮影に行く。 |
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↓→公民館の近くにある神明社。階段の下と上に社がある。 |
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神社を撮影した後、集落の中を少し散策してから公民館に戻ると、衣装に着替えたり舞の練習が行われていた。下の写真の上段右は、ジジとババの面。こちらの写真を見ると違う面のようなので、新調したのかもしれない。 | ||
↓→集落を門付けしてまわる前に、神明社を参拝する。 |
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12時45分になると公民館を出て、獅子を先頭に神明社に向かう。 社は下と階段の上の2つあり、下の宮と上の宮と呼ばれているが、上の宮を参拝する。 元々は上に宮があり、その後に近くの川に流れて来た御神体を祀ったのが下の宮だそうだが、それ以上のことはわからなかった。 春と秋の祭には神職がおいでになるが、正月は氏子だけで参拝するようだ。 |
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代表者が神楽(太鼓)を奏し、二拝二拍手一拝した後、公民館から持って来たお神酒をお猪口に注いで全員でいただく。キュッとお神酒を呑んで公民館に戻り、玄関の庇の下でお面を着けると獅子舞の開始となる。天狗は6人。夏の獅子舞では赤くて太いタスキをかけていたが、今日はタスキはなしのようだ。 朴谷は中陣地区と尾山地区に挟まれている。先ずは尾山地区側の外れまで、竹箒を持つジジとババが先頭になって歩く。いわゆる露払いだ。最初に門付けするのは鮮魚店で、この店は住所は尾山だが朴谷の住民も利用するので獅子舞を行うそうだ。 鮮魚店での門付けが終わると、今度は中陣側の地区外れに向かって一軒一軒まわる。 |
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正月の獅子舞は悪霊退治、厄除けのための門付けで、ジジとババが家の前を掃き清めた後、「悪魔払い〜」「悪魔払い〜」と口々に叫びながら順番に天狗が玄関に入って出てくる。最後に獅子が玄関で子供や主の頭を噛んで、花(ご祝儀)をいただいて次の家へと向かう。 | ||
朴谷の戸数は現在35戸(平成29年11月末)で、今年は忌で獅子舞を遠慮する家が3戸あり、1時間ほどで全戸まわりが終了した。雪が降るような天気予報だったが、曇り時々晴れで、天気が良かったせいもあり例年より早く終わったそうだ。 |
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↓→門付けの後は、路上で道踊りを舞う。 |
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全戸まわりの後、路上で天狗と獅子による道踊りが行われた。 道踊りは路上2ヶ所で行われたが、観客が少なかったせいかあっさりとしたものだった。 | ||
道踊りの後、公民館に戻るとテーブルが並べられていた。これから自治会の収支報告と役員交代の発表があり、新年会がおこなわれるそうだ。撮影させていただいた礼を述べて玄関を出ると、ちょうど刺身やオードブルが運ばれて来た。最初に門付けが行われた鮮魚店からだろうか? |
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↓→黒部駅行きのバスと、朴谷のバス乗り場。 |
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駅に着いて時刻表を見ると富山方面は15時18分の富山行きと、15時50分の高岡行きがあった。反対の泊方面は15時12分で先に到着する。 駅員さんに聞くと15時12分の泊行きは、折り返して黒部駅を15時50分の高岡行きになるというので、せっかく一日フリーきっぷを買ったので泊まで行くことにした。 ←暮れに妹からもらった、甥っ子が使っていたと思われるリュック。ほとんど新品のようだ。 |
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黒部、生地、西入善、入善、泊。泊の一つ先の越中宮崎まで一日フリーきっぷが使えるが、乗り換えなくてはならない。乗り換え時間もわからないので、来た電車で高岡に戻る。高岡で20分ほど待って金沢行きの普通電車に乗り換えて、ようやく家に到着した。獅子舞を撮影していた時は穏やかな天気だったが、泊行きの電車に乗る頃には空模様が怪しくなり荒れて来た。 | ||
芦峅寺にある雄山神社の初詣を撮影に行く。正確には雄山神社は雄山の山頂にある峰本社、芦峅寺の中宮祈願殿、岩峅寺の前立社壇の三社で雄山神社となるので、芦峅中宮祈願殿での初詣の撮影だ。 | ||
↑電鉄富山駅を21時17分に発車する立山方面行きの最終電車(左)と、千垣駅。 大晦日の立山方面行きの最終電車に乗車して、最寄り駅の千垣で降りる。 |
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祈願殿横の売店には、巫女さんの手によって一つ一つ袋に入れられた年餅が置かれていた。鳥居を入って直ぐ左にある社務所は、初詣の準備や雑用をする村の人たちの作業場であり休憩所になっている。この社務所で休ませてもらいながら、元旦の朝までミヤマイリの様子を撮影させていただく。 | ||
23時を過ぎると祈願殿の前には少しずつ参拝客の列が出来始め、年明け10分前には長い行列になっていた。また、祈願殿の中にはご祈祷を受ける人が大勢座って待っている。 1月1日の0時になり、参拝客がお賽銭を投げ入れて鈴を鳴らし、二拝二拍手一拝をして元旦の願い事をしていく。集落以外から来た人は祈願殿にお参りして、年餅をもらって帰ってしまう人もいるが、境内には祈願殿の他に立山大宮、山神様とも呼ばれる神秘社、立山若宮、開山堂などもあり、地元の人や長年参拝している人たちはこれらのお宮にも順に参って行く。とやまの年中行事百選にも選ばれている芦峅寺のミヤマイリ(歳旦祭)である。 |
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上段左は祈願殿での参拝/上段右は立山大宮/中段左は神秘社/中段右は立山若宮/下段左は開山堂。開山堂では元旦の0時から5時頃まで立山開山の祖である慈興上人(佐伯有頼)の木造坐像がご開帳になった/下段右は袋に入れられた年餅を家族の人数分だけ持ち帰る参拝客 | ||
0時を過ぎたばかりだったので、大宮、神秘社、若宮の扉が開かれていなかったが、訪れた人たちは閉ざしている扉の前で参拝して行った。 |
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↓神秘社の賽銭箱とお神酒を注ぐ甕。→徳利に入れたお神酒を注いでまわる。 |
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しばらく撮影した後、社務所も戻り休ませていただいた。芦峅寺の撮影では毎回お世話になっている女性の会の会長・佐伯照代さんに、お茶やコーヒーをご馳走になる。社務所の窓際では交代制で参拝客の数を数えている。集落で力を合わせて神社の行事を支えているのがよくわかる。 2時半頃に、また祈願殿の方へ撮影に行くと参拝客の数も少なくなっていた。今年は雪のせいか、昨年よりも初詣客が少ないようだ。祈願殿の方にお神酒を持った年配の女性がいらしたので、ミヤマイリの様子を撮影させていただいた。徳利には紙を折った飾りがさし込まれているが、本来は松の枝や榊をさしていたそうだ。 |
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↓祈願殿でのご祈祷も2時を過ぎて落ち着いた。→お神酒を持ってミヤマイリ。 | ||
上段左右は神秘社にて/中段左は立山大宮の参拝の後、若宮に向かう/中段右は立山若宮にて/下段左は若宮から開山堂へ/下段右は開山堂での参拝 | ||
ミヤマイリの様子を撮影できたので、また社務所に戻り今度は少し仮眠する。 次はそろそろ夜が明けそうな6時半頃に祈願殿に行くと、年餅をお盆に乗せている年配の男性がいらしたので撮影させていただいた。家族の人数分の年餅をもらったらバッグやポケットに入れて持ち帰る人が多い中で、丁寧にお盆に乗せて持ち帰る人は珍しい。神様からの頂き物だからだろう。今では家族揃ってお参りするのが当たり前のようだが、嘗ては正装した家長が一人でミヤマイリをしたそうだ。 |
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↓お盆に乗せられた年餅。家族で年餅を食べ、神様から一つ年をいただく。 |
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7時頃になると吹雪き始めたが、空が明るくなって来た。今度参拝客で賑わうのは10時過ぎだそうだ。境内をまわって各お宮を撮影して、駅へと向かう。先ずは社務所の向かいにある神明宮と宝童社。鳥居を入って直ぐなので、こちらを参拝してから祈願殿に向かう人も多い。 | ||
↓神明宮(右)と宝童社。→祈願殿。 |
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↓神秘社。→立山大宮。 |
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↑立山若宮(左)と開山堂。 最後に鳥居を撮影して駅に向かう。吹雪が少し弱くなったので、雪景色を撮影しながら歩く。 |
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供出は男性一人につき、泡盛をグラスに1杯と100円。嘗て神女が大勢いらした頃は、神女がお米を供出していた。やはりお神酒とお米は特別な神饌なのだろう。 | ||
7時半過ぎに神社を出て、8時15分過ぎに千垣駅に着いた。 8時46分の、電鉄富山行きの電車に乗車する。元気があれば途中の岩峅寺で下車して、雄山神社(前立社壇)へ初詣に行こうかと思っていたが、そんな元気は残っていなかった。 9時44分に電鉄富山に到着したが、あいの風とやま鉄道の金沢方面行きは10時47分で、1時間ほどの待ち時間だった。 家に着いたのは11時半頃だろうか。 |
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お昼ご飯にお雑煮に普通の餅と年餅を入れて食べた。朝お雑煮を食べた両親は、雑煮の汁の中に小さな年餅を入れて食べた。これで家族揃って、神様から一つ年をいただいた。 *立山歳時記 芦峅寺のミヤマイリ |
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