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バックナンバー
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能

1月2日 朴谷の獅子舞
1月6日(土) 高岡市消防出初式 9時〜
1月11日 お鍬さま 8時頃〜 記事記事 富山→岩稲路線バス
1月13日(土) 利賀の初午
1月14日(日) 越中万葉かるた大会 福岡町Uホール
1月14日(日)〜16日(火) 勝興寺御満座法要・デカローソク
1月19(金) 宝徳寺 寒中水行 午後1時半 記事
1月26日(金) 魚津・愛宕社の火祭り 記事 記事
1月28日(日)第4日曜日 小川寺の獅子舞 心連坊 14時〜 宮田・火祭り 記事 記事 路線バス
2月3日(土)、4日(日) 菅沼合掌造り集落ライトアップ 日没〜20時
2月4日(日) 富山・発表会 1部12時30分〜 2部18時〜
2月4日(日) 節分祭 富山県護国神社 やいかがし(柊に焼いた鰯の頭を刺したもの)をお供え 11時半〜
2月9日(金)〜11日(日) 南砺利賀そば祭り
2月28日(水) 城端 つごもり大市
3月9日(金) 芦峅寺の山の神の祭り
3月下旬まで 高岡御車山会館 企画展「高岡御車山祭と二上射水神社

◯与四兵衛祭 関野神社 4月3日
◯4月 埴生護国神社 屋根の葺き替え完成の慶賀祭を予定
◯4月第2土曜?10時〜 小矢部 福町神明宮 春福まつり 神獅子(行道獅子)
◯4月15日に近い土曜日? 楡原の獅子舞
◯4月19日 新川神社 春祭り どべ(猿田彦) 記事
◯4月第4日曜日? 富山市中島の獅子舞
利屋町の天神祭り 5月25日前後の土・日曜日 関野神社から木像天神像が運ばれ、龍雲寺へ。
◯射水市三ヶの十社大神 御田植祭
◯6月2日、3日 国泰寺 開山忌 虚無僧による尺八の奏上
◯6月? 櫟原神社春季例大祭 宵祭に鯛行燈(ヤサコ)や高張提灯の行列が渡る。
◯7年に1度、10月に開催 次は2022年 朝日町山崎 米吊り奉納
◯黒部市中陣のニブ流し
◯福岡町沢川の獅子舞 9月の第4土曜日?
◯加茂神社 出雲へ神を送る神送祭
◯岩稲八幡社の神送り・神迎え 
◯5年に一度、若手神職でつくる県神道青年会が御田植祭
◯33年に一度 庄川の神賑わい 次回は2023年7月

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事
富山の祭り
*砺波の獅子舞 各地区の日程
年中行事覚書 柳田国男
田の神祭りに見る日本人の神意識
山の民の祈り

◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

1月30日(火)

 朝起きて窓を開けたら、ピンクの傘を持った女の子が吹雪の中を歩いていた。小学校低学年くらいだろうか。富山の両隣、新潟県と石川県で大規模な断水になっているようだ。平成の30豪雪として記録されるのだろうか。
 昨日確定申告の申告用紙が届き、今日は出版社から源泉徴収書が一通届いた。もう、そんな季節。
今朝の外の様子
 一昨日は魚津市小川寺に伝わる伝統行事、宮田(みやでん)を撮影に行って来た。
魚津駅前
 宮田は神饌田(しんせんでん)の事だそうだ。小川寺の神社は白山社だけなので、白山社に献上するお米を作る田んぼ=神饌田=宮田だろうか。嘗ては4月に行われていたが、戦時中に男手が少なくなったので、1月26日の火祭りと兼ねて行われるようになったそうだ。
 現在は心蓮坊と光学坊で交互に催され、今年は心蓮坊の番となっている。
 心蓮坊と光学坊は嘗ての宿坊で、昔は千光寺の塔頭は16坊あったそうだが、現在はこの2つと蓮蔵坊の3坊だ。

 あいの風とやま鉄道の一日フリーきっぷを使い、魚津駅に11時44分に到着。魚津駅前から小川寺に向かうバスは12時38分で50分以上待ち時間がある。12時33分に魚津駅に到着する電車もあるが、さすがに5分の乗り換え時間は電車に遅れが出た時に心配なので一つ前の電車にした。
 26日にも魚津に来たが、その時は見えなかった立山連峰がはっきりと見える。コンビニで肉まんとメロンパンを買って、駅の待合室で食べながら、バスを待つ。
 小川寺を通る大沢行きのバスは、ほぼ時刻通りにやってきた。この路線はどこまで行っても一回の乗車が200円だ。20分ほどで小川寺に到着。宮田が始まるのは14時からで、まだ1時間ほどあるが、心蓮坊へ行ってみる。
 先日電話で心蓮坊の住職さんに撮影のお願いはしておいた。中に入ると本堂に御膳が並べられ、準備の真っ最中だった。控え室に小川寺獅子舞保存会の方がいらしたので、川井会長さんに2015年の秋に撮影した小川寺の獅子舞のフォトブックを2冊差し上げて、今日の撮影の了解を得る。  

心蓮坊
↑心蓮坊。↓光学坊。光学坊の前にあった西布施公民館が移動したため、撤去の工事中だった。
光学坊
心蓮坊の雪かき
 まだ始まりまで時間があるので、心蓮坊の外観を撮影し、直ぐ近くにある光学坊の外観も撮影する。光学坊の前が工事中の感じだったが、ここにあった西布施公民館が場所を引っ越したためだった。
 光学坊から心蓮坊に戻って来ると、入り口を地区の男性が除雪している最中だった。
 心蓮坊に入り、保存会の川井会長に火祭りの事を尋ねると、獅子舞の後に、心蓮坊の僧侶が祈祷した火難除けのお札を住民に配るそうだ。  
 控え室で獅子方や囃子方のくつろいでいる姿を撮影したり、宴の行われる本堂を行ったり来たりしながら写真を撮る。
宮田の様子01
上段左:囲炉裏にあたりながら始まりを待つ地区の男性/上段右:心蓮坊の本堂/中段左:獅子方、囃子方の控え室/中段右:獅子頭。後ろに獅子舞の面を収納する箱が見える。小川寺では面宿という習慣があり、一年ごとに選ばれた家が獅子舞の面を預かる。昔はこの面宿で宮田の行事を行っていたようだ/下段左:13時55分に区長さんのご挨拶で行事が始まった/下段右:心蓮坊の畠山住職のご挨拶。
宮田の様子02
 最初に宴が行われ、場が和んだところで獅子舞が登場する。宴で出される料理は、お刺身以外は地区の婦人が公民館で調理する。大根と焼き豆腐の煮物、鰯、ナマス、おひたし、カマボコ、刺身といったところ。
↓御膳の料理。→小川寺の獅子舞について書かれた冊子。
獅子舞についての冊子
宮田の料理

 控え室に「小川寺の獅子舞について」と題した冊子があったので、川井さんに許可をいただいて複写させてもらった。宮田については、以下のように書かれている。
「宮田について」
 小川寺では宮田は四月十日前後に行われ、午前中に苗代に種籾を下し、午後からは村中全員でお祝いをする。十日前後と伝わるのは、この日から数えて約一ヶ月で苗を田植えするのに手頃に育つからである。お祝いの費用は神饌田からの収入でまかなわれ、この神饌田の事を(宮田)といったので、このお祝いを宮田という。
 又戦中は男手不足となり、一月二十六日の火祭りを兼ねて行う事となった。それまでは村を五班に分け各班が五年に一回づつ当番が回って来る。当番となる班がその年の面の宿を決める。宿は村中全員が入る事の出来る広い大きい家という事になる。
 (金亭)では「ウガンモリ」という笛と太鼓の合図で天から神が舞い戻り獅子に神が乗り移るまでの事をいう。(座敷)では「ミヤンモリ」という笛、(おいの間)神棚のある広間では「オカザキ」という笛、天気の良い日には外に出て筵(むしろ)を敷いて「オカザキ」という笛で再び家に入り(座敷)で「ミヤンモリ」で舞いおさめる。この時は(金亭)の客も(座敷)の客も皆(おいの間)に集まる。
 宮田で踊る獅子舞は、白山社の祭礼の舞と手振りは同じであります。
 (金亭)では「おやっさま」たちの席、税金を払う人達である。次は(座敷)に席を与えられる階層があった。そして一般は(おいの間)に席を占める。
 戦後農地改革により神饌田が無くなり収入がないので火祭りと宮田の宿は、現在では心蓮坊と光学坊が代わり番につとめる。従って「おやっさま」をはじめ、下々まで一つになって席を占めるから、舞もその場で三種類を舞う事になる。

 宮田の名前の由来となった神饌田は戦後の農地改革で無くなり、もともとは午前中に苗代に種籾を下ろすという行事があったのが、今はお祝いの部分だけ残ったようだ。また行事の種類としては、豊作を祈る田祭りだろう。

獅子舞の控え室
獅子舞01

↑面をつけて準備完了。

 40分ほど経ってお酒も少しまわったところで、獅子舞が登場した。
 天狗を先頭に獅子舞の一行が上座へ行き、ご挨拶をする。その後、下座に戻り右手右足、左手左足を上げる独特な踊りで上座へ進む。その踊りを3回繰り返して獅子舞は終了した。
 踊りは3回とも同じに見えたが、笛(囃子)がどうだったかは、よく覚えていない。踊りは、春秋祭りと同じだ。
 

獅子舞02
獅子舞03

「小川寺の獅子舞について」という冊子には、獅子頭や天狗などについても詳しく書かれているので、引用させてもらう。
 獅子頭は制作者や年代はわからないが、箱獅子と申しまして角張った型で目の玉が大きく歯並びは粗い、頭の高さと鼻の高さがほとんど同じで、この型は室町時代作で(約六〇〇年前)の形式を残している。獅子頭の鼻の頭と天狗の鼻の頭に(梵字)が刻まれていますが(カン)と言うそうです。
 不動明王の種子で大威徳明王の種子でもある。天狗の額にも同じく(梵字)で(サク)と言うそうで、勢至(せいじ)菩薩であって観音菩薩の種子でもある。この種子から考えますと千手観世音菩薩と大威徳明王の従者としての面であろう。
 又、獅子は二人獅子で低く地を這うようにして、頭をゆっくり右に左に振り、何かを探るような身振りをしながら腰をかがめて右足と右足、左足と左足を一緒に進め前進する。もちろん小柄ながら如何にも獅子らしい所作である。このような型で歩くのみで舞はない。
 又獅子、天狗の他に(ビッチャルとクソタレ)二個(アネマ)一個が加わる。文化年間の記録によれば(ビッチャル、クソタレ、アネマ)共に実在した人物から製作したと言われている。
 山境いの件で小川寺が隣村と争った事があり、その際小川寺が敗訴になったのを救ったのが光学坊の宥智(ゆうち)僧正であった。その手助けをしたのが(十王堂六兵衛)と(森木三左エ門)という二人の大力であった。六兵衛は宥智僧正を駕篭にのせて一人で逃げ帰った。三右エ門は敵を防いでいたが、遂に竹槍でつかれて、その場で戦死した。二人は小川寺の英雄として地区民からたたえられた。
 六兵衛は駕篭を担いで村に入って、足を引きずって来た時の形である。三右エ門は道を防いで敵と戦った時の形である。両手の指を仁王様のように力いっぱい拡げ、顔を左右に振って力自慢の姿をするのが二個の(ビッチャルとクソタレ)の面の踊りの型である。
 二人と同時代にお松という女子がいた。その頃、西河原(さいのかわら、現在のゴルフ場西川原にしかわら)という所に鬼神が住んでいたが、その鬼神もお松にはかなわなかった。そこでお松の事を鬼神のお松といった。このお松を面にしたのが(アネマ)である。醜女に作られているので(山の神)と考えられる。袂をゆっくりと肩まで振りながら、しおらしげに歩く、これが(アネマ)の踊りのしぐさである。

 天狗の面は確認できなかったが、冊子に書かれているように獅子頭の鼻に梵字の「カーン」という金文字が見える。カーンは不動明王を表すようだ。
 千光寺は真言宗の寺院で、 小川寺の住民のほとんどが真言宗の信徒だそうだ。真言宗の本尊は観音菩薩や不動明王などさまざまだが、それらは大日如来の化身とも言われている。
 ところで小川寺があるのは、西布施地区と呼ばれている。布施は梵語でダーナといい、他人に財物などを施したり、相手の利益になるよう教えを説くことを指すそうだ。何か関係はあるのだろうか。

↓→獅子に邪気を食べてもらうために頭を噛んでもらう。→梵字が書かれた鼻。
頭を噛む獅子02
頭を噛む獅子01
 獅子舞が終った後、心蓮坊の僧侶が祈祷された火難除けのお札が配られる。小川寺の世帯数は平成30年1月現在138戸となっているが、火を扱う場所がいくつもあり複数枚欲しいという人もいることから300枚ほど用意してあるそうだ。
 祭壇の朱色の台に置かれていたお札を世話役の方々が、一人一人に配って歩く。
火祭りのお札01
火祭りのお札02
↑祭壇の朱色の台の上に置かれたお札。→お札の上の文字は梵字だ。
火祭りのお札03
 宴はまだ続いていたが片付けも始まっており、太鼓が運び出されたのでついて行った。
太鼓の片付け01
太鼓の片付け02
↑→心蓮坊から運び出された太鼓。
太鼓の片付け03

 心蓮坊から運び出された太鼓は、千光寺に隣接する白山社の御輿蔵に仕舞われた。そして太鼓台は、白山社の拝殿に入れられた。
 獅子舞の衣装は公民館で管理され、獅子舞の面は面宿となった家に運ばれる。
 面宿に運ばれるところを撮影したかったが、既に運ばれた後だった。

←御輿蔵に仕舞われた太鼓。
↓太鼓台が仕舞われた白山社。

白山社
 白山社から心蓮坊に戻ると、もう15時半頃で宴も終わり万歳で締められた。
宮田の終了
千光寺

 心蓮坊を出てバス停に行く。小川寺から魚津駅に行くバスは16時18分。このバスは15時49分に小川寺に到着して大沢に行き、折り返して戻って来るので、どうせなら大沢という場所に行ってみようと思う。運賃は一回200円だ。
 バス停の斜め向かいにある千光寺の雪景色を少し撮って戻って来たら、大沢行きのバスが到着した。乗客は年配の女性が二人で、途中で降りて行った。

←千光寺。
大沢行きのバス
バスから見えた富山湾

 終点の大沢に到着したのは予定時刻の15時58分を少し過ぎていた。折り返し16時10分に出発して魚津駅に向かう。停車時間は5分ほどで、バス停を降りて周辺を何枚か写真に収める。
 帰りは小川寺まで他に乗客がおらず、運転手の男性と話しながら。小川寺からは、獅子舞で笛を吹いていた男性が乗って来たので、今度は彼に小川寺の獅子舞についてアレコレと教えてもらっているうちに、魚津駅に着いた。

↑大沢から小川寺の間、バスの車窓から遠くに富山湾が見える。バスの運転手の話しでは、小川寺周辺では鹿が出るようだ。

 魚津駅に行くと、直ぐに16時42分の富山行きがホームに入って来た。
 小川寺の獅子舞には今回の宮田や春秋の祭礼に舞われる踊りの他に、下新川地方らしい天狗がたくさん登場する獅子舞もある。こちらは17年(以前は33年に一度だった)に一度行われる、千光寺の御本尊である千手観世音菩薩のご開帳などの慶事に踊られる。こちらの獅子舞についても冊子に詳しく書かれているので、引用させていただく。

「新しい型の獅子舞について」
 文化年間から祭礼の踊りとは違った刀を持った新しい型の獅子舞は踊る時に獅子、天狗の面、着物は別の物を用いる。
 開帳には雄獅子、雌獅子、天狗四人の外、道化(露払い)も出る。
「ダイモンサキ」御本尊を、お送りする道中踊りである。御本尊千手観世音菩薩を心連坊から観音堂へお送りする。四人の天狗と四人の童子が刀と棒を合わせながら進む。その前を僧形をした道化(露払い)が箒で路を掃きながら進む。天狗の後にそれぞれ童子を肩にのせて雄獅子、雌獅子が従う。童子は左に傘、右に剣を振る。この後を二人で担ぐ(黒船)に乗って御本尊が進まれ、その後に屋形が従う。屋形は荷馬車を杉葉で船形に包み、この上には総代、餅搗きの搗き手、笛太鼓が乗る。餅搗きは「デコデコ」といわれる笛太鼓に合わせて搗かれる。餅は心蓮坊境内、光学坊前の十王堂広場、そして観音堂前で行われる。
 この餅搗きの踊りには、昔のきびしい生活の中での若い嫁と姑の立場や、この時ばかりは若い者を好きなようにとの姑の思いやりがうかがわれて楽しい踊りである。若い二人は姑の目を盗んではふざけ合う。姑は時々じろっとにらみもするが、それが息子に気付かれた時、かまどの煙が目に入ったしぐさでそれをごまかす。若い二人が夢中になり過ぎた時、今度は姑が本気でにらむ。慌てた二人は嫁が杵を、婿が臼とりを、杓子をと間違えたところで、この踊りは最高潮に達するのである。見物人に搗きあげた餅をまいて、この踊りが終る。
 開帳の時の獅子舞には次の種類がある。1足ならし、2獅子とり、3四人天狗刀合せ、4四人天狗足けり、5四人天狗腕つっぱり、6四人天狗頭わり、7四人天狗唐傘踊り、8三人天狗もっこがえし、9三人天狗車がえし、10獅子と両刀使い、11玉とり、12しょうじょう、13獅子おこし、14地蔵踊り、15さんばさ
 これらの舞にも最後に獅子が現われて、天狗に退治されて終わりとなる。

*北日本新聞の記事

1月27日(土)

 一昨日の衆院本会議で在沖米軍ヘリのトラブルを巡る質問に対して「それで何人が死んだ」と野次を飛ばした松本文明内閣府副大臣が、昨日辞任した。
 死者17人(小学生11人、一般住民6人)、重軽傷者210人、校舎3棟を始め民家27棟、公民館1棟が全焼、校舎2棟と民家8棟が半焼。
 1959年6月30日に沖縄県石川市(現うるま市)で起きた宮森小学校米軍機墜落事故のことを知っていれば、とてもじゃないがこんな野次は口にできないと思うが。

 一年ほど前に撮影した「おらっちゃ広報」の記事が、先月から氷見市のホームページに順次UPされているようだ。氷見市の各家庭には昨年春にタブロイド版で配布されているはずだが、webの方が写真が大きく、点数も多い。
「こども食堂」という、大きな家族のカタチ〜「ふじみだいこども食堂」向優子さん〜
保育を通して願う、氷見の幸せ〜「速川保育園」上野隆子園長〜
合い言葉は、ハロー&サンキュー〜「常念寺」上杉靖吾さん〜

 先日、何気に虚構新聞を見ていたら、古い記事に<マックが新メニュー その名も「マクドナル丼」>というのがあった。
 マクドナルドがマックチャオとか、ご飯もののメニューを提供して迷走していた時代を知っている人は、良く出来た記事だと思えるかも知れない。文中の「新製品発表会で会見した故・藤田田CEO・・・」というのも何だか凄い。
 1990年代に一番仕事をさせてもらった出版社は柴田書店で、『フードビジネス』や『月刊食堂』といった雑誌で毎月店舗や料理の撮影、取材をしていた。対象は、個人経営の店舗よりもチェーンレストランやファストフードのお店が多かった。吉野家が「特盛り」という新しいメニューを開発し、それにより客単価が何十円か上がり会社全体の利益に大きく貢献したというような話しはチェーンレストランならではで、そんな話しを聞くのは面白かった。
 『月刊食堂』で一時期、マクドナルドの藤田田氏に編集長以下、編集部が揃って話しを聞きに行く連載があり、その撮影で何度か藤田田氏にお会いした。
 2013年9月に東京タワーにあった蝋人形館が閉鎖してしまったけれど、この蝋人形館を経営していたのは藤田商店で、館長は藤田玄氏だった。玄氏は、田氏の息子さんだ。
 蝋人形館にはミュージシャンの蝋人形も飾られていたが、ジミヘンやザッパ、ロバート・フィリップなど中々マニアックな人選がされていた。ドイツのロックバンド、ファウストのメンバーも飾られていたそうだが、これは明らかに玄氏の趣味だろう。
 藤田玄氏はジャーマンロックのコレクターで、昔、雑誌『レコード・コレクターズ』でコレクションと共に撮影させていただいたことがある。
 藤田田氏と玄氏、ドノバンとトノバン(加藤和彦)をそれぞれ仕事で撮影したことがあるというのが、マニアックだが秘かな自慢だ(笑)。 

 昨日は魚津市の愛宕社(合祀されて現在は魚津神社の境内にある)の火祭りを撮影に行って来た。こちらの様子も後々UPいたします。

あいの風とやま鉄道からの風景
 上の写真は、昨日魚津からの帰り、あいの風とやま鉄道の車窓から。ミラージュランドを過ぎて、東滑川辺りだろうか。北に富山湾、南に立山連峰が眺められる場所だ。呉東の方へ電車で行く度に素敵な場所だと思っていたが、昨日は雪をかぶっていて一層美しかった。

1月26日(金)

 毎年1月26日に魚津市中央通りにある魚津神社で行われる、愛宕社の火祭りを撮影に行く。
 江戸時代の中頃、魚津の町で大火が続いたため防火意識を高めるために、各町内が火消しの纏(まとい)を模した大御幣を作り、火の神である軻遇突智命(かつぐちのみこと)が祀られていた愛宕社に奉納したことが始まりだそうだ。その魚津市立大町小学校(魚津城跡地)にあった愛宕社は、昭和41年(1966年)に魚津神社の境内に移された。
 また、魚津神社は元々は神明社という名前だったが、昭和31年に魚津大火が発生し、その復興事業として火災の起こった地域にあった5つの神社を統合して魚津神社となったそうだ。
 魚津市観光協会のサイトには11時頃が見頃と書いてあったが、魚津神社へ持って行き燃納する前に各町内に飾られた大御幣を神職がまわって祈祷するようなので、その様子も見たいと思い、少し早めに着くように電車に乗った。
魚津駅前

 9時22分にあいの風とやま鉄道で、魚津駅に到着。駅前の道路は、雪で真っ白だ。
 駅横にある観光案内場へ行き、魚津神社が載っている地図をもらう。ゆっくり歩いて20分ほどだろうか。魚津より電鉄魚津の方が近いが、大御幣を探しながら歩く。
 中央通り商店街に来ると、アーケードに大御幣が立て掛けてあった。大御幣のまわりを雪かきしている人に聞くと、金屋町の大御幣だった。

 大御幣は十字に組んだ青竹の先に榊を挿し、扇子に天狗やお多福の面を付けたものを括り付け、金・銀・白の細長く切った紙を下げたもの。天狗は災を除き、お多福は福を招く。全体の形は人間の姿を表し、これを燃納することで一年の平穏を願う。各町内でそれぞれ飾りつけや大きさも異なり、昔は出来を競ったそうだ。青竹に紙垂(シデ)を飾るので、御幣と呼ぶのだろう。大きいものは5〜6メートルの高さになる。
 金屋町の御幣の祈祷は何時頃か尋ねると、10時30分からだそうだ。後40分ほどあるので、他に近所で大御幣のある場所がないか聞いてみると鴨川町と金浦町の大御幣の場所を教えて下さった。

↓金屋町の大御幣。→鴨川町の大御幣。
鴨川町の大御幣
金屋町の大御幣
 先ず鴨川町の大御幣を見に行き、その後、金浦町の大御幣を見に行った。金浦町の大御幣の向かいに金浦町の公民館があり、中には祭壇が設けられていた。中にいらした方にお話しを聞くと、金浦町の祈祷も10時30分からだそうだ。晴れていれば大御幣の前に祭壇を置いて、外で祈祷するが今日は時々吹雪いたりするので公民館で行うことにしたという。
 金浦町の大御幣の青竹には、五の番号札の付いた愛宕社の神符が取り付けられていた。この神符は前日に魚津神社で貰い受けるそうだ。後で魚津神社の宮司さんに聞いたところ、大御幣を作る町内は30余だそうで、その内番号札の付いた神符をもらうのは28町だという。離れた町内には、地元の神社に大御幣を持って行き火祭りをする町もあるようだ。
↓金浦町の大御幣。→大御幣につけられた愛宕社の神符。
愛宕社の札
金浦町の大御幣
 10時15分頃に金屋町の大御幣のところへ行くと、既に神職の方が到着しており大急ぎで祭壇の準備をされていた。テーブルを出し、神饌を供える。各家庭に配られた扇子に天狗のお面を取り付けた古いお守りはダンボールに、そして祭壇の横には新しい天狗をつけたお守りが置かれていた。この扇子に天狗のお面を付けたお守りは町内の壮青年団が作り、家庭では火を扱う台所などに飾るそうだ。このお守りの配布は、希望者だけだったり町内ごとに仕組みが違うようだ。
↓台所等に飾られていた古いお守り。→今年配られる新しいお守り。
新しい天狗の面
古い天狗の面
 10時30分になり、アーケードの下に設けられた臨時の祭壇で金屋町の祈祷が行われた。
金屋町の祈祷01
↑上段左:神職による神楽の奏上/上段右:祓言葉の奏上/中段左:修祓/中段右:祝詞奏上/下段左:玉串奉奠/新しい天狗のお守りのお祓い。
↓大御幣での祈祷の後、町内の四隅を神職がお祓いをしてまわる。
金屋町の祈祷02
 金屋町の祈祷は25分ほどだったろうか。神職が町の四隅を祓って歩くのを見てから、金浦町へ行ってみると、こちらも祈祷が終わったばかりだった。これから大御幣を魚津神社へ持って行くそうなのでついて行く。魚津神社の拝殿で祈祷を受けてから、大御幣を燃納するのを見させてもらう。
 大御幣を運ぶ住民の中に、繭玉飾りを持っている方がいらした。ピンクと白の玉は、せんべいだそうだ。昔はおもちゃ屋さんに売っていたそうだが、今はネット通販で購入しているという。なるほど、ネットで売っていた
金浦町の大御幣奉納と祈祷

↑上段左:魚津神社へ運ばれる金浦町の大御幣/上段右:せんべいで出来た繭玉飾りを持つ人。神棚の下に飾っていたそうだ/中段左:魚津神社/中段右:大御幣にかぶせてあったビニールを外し、祈祷を受けている間、立て掛けておく/下段左:魚津神社の拝殿での祈祷。番号札の付いた愛宕社の神符は神社に返される/下段左:玉串奉奠。祭壇は本殿の方ではなく、隣りにある愛宕社に向けて置かれている。

↓→魚津神社の境内にある、愛宕社。
愛宕社02
愛宕社01
 拝殿での祈祷が終わると、立て掛けてあった大御幣を燃納。紙なのであっと言う間に青竹を残して燃え尽きてしまった。
燃納01
 この後も車の荷台に乗せたり、手で持って各町内の大御幣が境内に運ばれて来る。ビニールカバーを外し、立て掛けて、拝殿で祈祷を受けてから大御幣を燃納して帰って行く。町内によっては、この後、軽く直会が行われたりするようだ。また、魚津には左義長の行事がないようで、個人個人が正月飾りや書き初めを持って来てお焚き上げして行く。
燃納02
 境内での大御幣の燃納は朝の9時半頃から始まるようで、保育園の園児などが自分たちで作った大御幣を持って来る。新聞やテレビが取材するのは、この時間帯のようだ。16時頃に魚津神社のある神明町の大御幣が運ばれて、これが一番最後になるようだ。魚津神社の嘗ての名前、神明社があったから神明町なのだろうか。
↓正式には鎮火祭というのだろう。→魚津神社の向かいにあった神明町の大御幣。
神明町の大御幣
魚津神社
あいの風とやま鉄道
 12時15分頃まで境内にいて大御幣が運ばれたり燃やされたりするのを撮影していたが、帰ることにする。
 来る時は中央通り商店街を通って来たので、帰りは違う道を探して歩く。
 どこの町内か書いてなかったが、大御幣が一つ立っているのを見つけた。
 風が強くて雲の流れるのが早いのか、吹雪いたと思ったら晴れ間が出て、また急に吹雪く。そんな繰り返しの天気だ。
 12時48分の金沢行きの電車に乗車する。
ミラージュランド
↑あいの風とやま鉄道の車窓から。海沿いに観覧車が立っているミラージュランド。普段でもシュールだが、雪をかぶって一層シュールな光景だ。
 最寄り駅に着いたのは13時42分。駅で1月28日の一日フリーきっぷを購入する。

1月25日(木)

 ECDことラッパーの石田義則さんが、昨日、亡くなった。SNSなどに彼の活動の様子が時々流れて来ていて闘病されていることも知っていたが、それでも亡くなられたという事実を知るのはいつも唐突だ。
 ランDMCやオニクス、スヌープ・ドギー・ドッグ、あるいは電気グルーヴ、スチャダラパーといったアイーティスのライヴやポートレートも撮影しているが、家にはヒップホップのCDは数えるほどしかない。
 ウータン・クランの撮影に向かう途中、同行した担当編集者に好きな音楽を尋ねられて「何でも聴きますが、一番聴いてないのはヒップホップかな」と答えて凍らせたこともある。
 だからECDの音楽もよく知らなくて、ここ何年かは反原発や反レイシズムの抗議の場で活動している彼の様子をSNSで見ていた。

 接点はないんだけれど、一度だけ交差したことがある。
 1989年5月号の「ミュージック・マガジン」で近田春夫さんの特集を撮影した。その頃Kyon2のアルバムを何曲か近田さんがプロデュースしており、そのレコーディングをビブラストーンのメンバーが担当していた。その録音風景をビクターのスタジオに撮影に行き、最後にメンバー全員の集合写真を撮った。
 ビブラは近田さんを含めて10人で、記事を書いた川勝正幸さんの文にもギター=OTO、岡田陽介、ベース=沖山優司、ドラムス=TOSHI、パーカッション&コーラス=NOGERA、コーラス&ダンス=Dr.TOMMY、サックス=佐藤公彦、トランペット=都並清史、トロンボーン=梅沢幸之、ヴォーカル&キーボード=近田春夫となっている。けれど集合写真には11人写っていて、メンバー以外の一人がECDだった。
 記事を書いた川勝さんは2012年の1月に亡くなったし、NOGERAこと野毛ゆきおさんも一昨年の11月に亡くなった。この撮影をしたのは1989年の3月で、29年の時間が流れるとはこういうことかとも思う。

 ECDの生年月日を知ったのはいつだったか。昨年の11月に声優の鶴ひろみさんが亡くなり、昨日ECDが亡くなった。自分と同じ1960年3月29日生まれで知っている人は、また近所の山田君だけになった。
 これから誕生日が来る度に、鶴さんやECDの分も自然と年を数えそうだな。

 You Tubeから「ロンリーガール/ECD feet K DUB SHINE」。

ビブラストーン01
↑ビブラストーンの写真より、一番後ろで手を挙げているのがECD。
↓前列中央で帽子をかぶっているのがECD。
ビブラストーン02
東電HDに2900億円追加交付 原賠機構
除染下請け企業 役員報酬43億円!
福島第一作業員 労務単価下げ
 あいかわらず原子力村はむちゃくちゃだな。

1月24日(水)

 最低気温マイナス2℃、最高気温1℃。部屋に居てもマウスを触る手がかじかむ。明日の予報はマイナス4℃と0℃だ・・・orz。

 昨日の午前10時頃、草津の本白根山が噴火、近くで訓練中だった陸自隊員1人が亡くなった。テレビは一日中その話題だったが、夕方になってフィリピン・ルソン島のマヨン山でも大規模噴火のおそれがあるとして2万4000人余りが非難したというニュースと、アラスカ沖でマグニチュード8.0の地震が発生したというニュースが飛び込んできた。
 一昨日、都心で大雪が降って交通網がズタズタになった時に、地震が重なったらどうなるんだろうと思っていた。地震大国なので複合災害が起こっても不思議ではないが、そのための対策をしているといった話しは聞いたことがない。

 新年になってまだ一ヶ月も経たないが6日に伊計島へ、8日に読谷村へ米軍のヘリが不時着。そして昨日も渡名喜島に、普天間飛行場所属の攻撃ヘリが不時着した。
 伊計島の近くにはキャンプ・ハンセンやホワイト・ビーチがあり、読谷村は嘉手納の隣りだが、なぜ慶良間諸島の先にある渡名喜島に・・・?と一瞬不思議に思ったが、渡名喜島の沖には入砂島射爆撃場があるのを思い出した。
 渡名喜島の先にある久米島にも久米島射爆撃場があり、久米島と粟国島の間には鳥島射爆撃場がある。これらは空軍の施設で、他に海軍の施設として石垣島に黄尾嶼射爆撃場と、赤尾嶼射爆撃場、北大東島に沖大東島射爆撃場がある。
 この黄尾嶼は日本名で久場島、赤尾嶼は大正島という。そして久場島、大正島は尖閣諸島を構成する島々だ。あまり知られていないが尖閣諸島の8島のうち2島は米軍の射爆撃場となっている。2島とも何十年と使用されていないようだが、まだ米軍の施設として登録されており日本には返還されていない。
 アメリカが尖閣諸島の問題で日本の領有権については明言しないが施政権を認めているのは、この射爆撃場があるからだと思っている。日米安保を結んだ日本に施政権があるとしなければ、尖閣に米軍の施設があるのは国際的におかしなことになる。ただし領有権については明言を避ける。これがアメリカのスタンスではないだろうか。

入砂島
↑沖に見える薄い島影が、入砂島。2013年6月8日に、渡名喜島から撮影。
シマノーシ
↑渡名喜島で2年に一度行われる島最大の祭祀・シマノーシ(島直し)。シマノーシは現在の神人であるガンジュナが、始祖の神であるギレーミチャンを迎え、島の草分け家である4つの殿をまわりシマを祓い清める。砂を敷いた道の両脇にフクギの並木が続き、青空の下を白衣の神人が歩く姿は白昼夢を見ているようだった。2013年6月8日撮影。
新しいトップページ

トップ画面を、模様替えしました。
 今月の11日、岩稲(旧細入村)で「お鍬さま」を見せてもらった帰りに撮影した、高山本線の電車です。降り続いていた雪がやんで白く輝く中を、富山行きの小さな電車が橋を渡って行った。寒いのを我慢すれば、雪の日もまた撮影日和だ。

↓これまでのトップ画面。

これまでのトップページ
 明日、1月25日は初天神。富山では天神講が盛んで、長男が生まれると母親の実家から学問の神様である天神様(=菅原道真)の掛け軸や置物が贈られる。その天神様の掛け軸や置物を、年の暮れから初天神まで床の間などに飾る。明日は天神様がお帰りになる日(仕舞う日)なので、父親が天神様へのお供えにスーパーでお寿司を買ってきた。床の間の天神様の下に、パックに入ったお寿司を供える。そして夜に、そのお下がりをいただいた。
 天神様の掛け軸は、朝仕舞う。母親が言うには「遅く仕舞うと暗くなって天神様が道に迷うから」だそうだ。
高岡の天神様高岡の”三天神”祭り天神堂前田利家の系譜
↓天神様へのお供え。→床の間に飾られた天神様の掛け軸。
天神様の掛け軸
天神様へのお供え

1月22日(月)

 昨日からニュースやワイドショーで、南岸低気圧の影響により22日は東京でも積雪になるという話題が出ていたが、今日の午後からFacebookに関東方面の知人が撮影した雪の写真が続々UPがされていた。やはり大雪になり、交通網はズタズタ、停電も発生し、ケガ人も多く出たようだ。
<大雪>「こんな長い行列、見たことない」都心の駅、大混雑
東京・神奈川で25人けが
レインボーブリッジ50台立ち往生
 富山も昼過ぎから雪。今週はずっと天気予報に雪だるまが出ているので、また積もりそうだ。

今日の雪景色

←今日の部屋の窓からの雪景色。

 昨日行われた沖縄県南城市の市長選で、無所属新人の瑞慶覧長敏氏が、現職で自民・公明・維新の推薦を受けた古謝景春氏を65票差で破り初当選した。
 同じく昨日行われた福島県南相馬市の市長選では、脱原発を掲げて来た現職の桜井勝延氏が、自民・公明系市議の支援を受けた新人の門馬和夫氏に破れた。
 まあ、良い話しもあれば、残念な話しもある。

 二十歳の頃だろうか、一時ハコバンのトラをやっていた。ハコバンは箱(キャバレーやホストクラブ、パブのような店舗)で演奏するバンドで、トラはエキストラ。臨時の雇われミュージシャンだ。
 東京アイドルという名前の歌謡ポップスバンドで、夕方からと深夜から一日2つのお店をまわって演奏していた。
 その頃に行ったお店で、千葉の栄町に名前は忘れたがグランドキャバレーがあった。グランドキャバレーというだけあって、お店の中は学校の講堂ほどの大きさで立派なステージもあった。ポップスバンドとジャズのフルバンドが交互に演奏した。
 ホステスさんも多かったんだろうけれど、マネージャーの人から「うちのホステスさんには孫のいる女性もいます」と聞いた時は驚いた。
 グランドキャバレーの演奏は夕方からで、これが終わるとバンドの衣装のオレンジ色のスーツを着たまま総武線に乗って新宿へ移動した。新宿で演奏するお店は、ホストクラブの愛本店だった。この頃には本店の向かいにニュー愛も出来ていたと思う。
 自分たちのレパートリーは譜面があったが、譜面のない曲がお客さんからリクエストされるとバンマスから赤本(赤い表紙の歌本)がまわって来た。
 愛本店で演奏していると、ホストが歌いたいとステージに上がって来た。自分のオリジナル曲があるといって譜面を配られた時も驚いた。

 今から10年程前(もっと前かな?)だろうか、雑誌の仕事で何十年ぶりかで愛本店に行った。ホストの一人を撮影する仕事だったが、お店に愛田社長がいら したので「昔、ここでお世話になりました」と挨拶すると驚かれたので、バンドの仕事で来ていましたと言うと、「出世しましたね〜」と笑って声をかけられ た。
 愛本店の凄いのは、この時も有線やカラオケではなく生バンドが入っていたこと。今はホストクラブもたくさんあるが、生バンドを入れているところは他にあるだろうか?

 こんな昔の話しを思い出して書いたのは、先日、東京新聞に掲載されていた<銀座キャバレー「白いばら」 惜しまれつつ歴史に幕>という記事を読んだから。
 グランドキャバレーもハコバンも、昭和の遺産となりつつあるのだろうか。
 もう一つ、こんな記事もあった。

 昨年の5月3日に撮影した福野の曳山祭り(神明社の春季例大祭)の様子をPhoto Album、にしました。こちらこちら

福野神明社の春季例大祭01
↑神明社の鳥居の前で神事が行われた後、曳山はそれぞれの町内に戻り曳きまわされる。
↓神輿を先導する行道獅子。獅子自体は神明社所有のもので、昨年までは浦町が毎年獅子の担当だったが、今回から各町内が輪番で行うことになったそうだ。
福野神明社の春季例大祭02

1月20日(土)

 今日は大寒。先週降り積もった平野部の雪はだいぶ溶けてきたが、来週はまた大寒波が襲来するそうだ。
 今朝の北日本新聞に、「尾山の七夕流し」と「中陣のニブ流し」を記録作成等の措置を講ずるべき無形の民俗文化財とするよう、国の審議会が林芳正文部科学相に答申したという記事が掲載されていた。また、立山町が布橋灌頂会の海外向けPR動画を作製し、You Tubeで公開を始めたという記事も載っていた。布橋灌頂会の動画はこちら。
アマゾンで購入した本
 アマゾンのマーケットプレイスでポチった本が、昨日と一昨日、1冊ずつ届いた。
 一昨日届いたのは『神と舞う俳優たち 伝承芸能の民俗/須藤功』(青弓社)。パラパラと捲ると与論島のシヌグの写真が一枚載っていた。
  昨日届いたのは『神々の古層 来訪するギレーの神 シマノーシ(渡名喜島)/比嘉康雄』(ニライ社)。神々の古層シリーズは、これで6冊。やっと半分が揃った。
 昨日は、氷見市の日蓮宗宝徳寺で行われる寒中水行を撮影に行って来た。北日本新聞の記事で寒中水行のことを知り、富山新聞の記事に19日まで毎日午後1時半に行われ、最終日はお札が配られ、ぜんざいが振る舞われると書いてあった。
 あいの風とやま鉄道で11時45分に高岡駅へ。12時3分発の氷見線で終点の氷見に着いたのは12時32分。家でプリントしてきた地図を見ながら、宝徳寺に向かう。途中、コンビニでメロンパンを一つ購入し、食べながら歩くとお寺に着いた。
 到着した宝徳寺は、2015年の4月に撮影しに来た「まるまげ祭り」のスタート地点だった。後で聞いたところ、まるまげ祭りは北の旧六町が持ち回りで行っており、宝徳寺はスタート地点の一つなのだそうだ。
 本堂は2階で、2階へ上がる階段の下に水を張った樽と桶が置かれていた。準備をされている年配の男性がいらしたので、撮影の許可をいただく。寒中水行の始まる1時半まで時間があるので、暖かい本堂でお待ち下さいと言われ、お言葉に甘えて中へ。本堂の中には信徒の方がたくさん椅子に座って待たれていた。
↓宝徳寺。→水の入った樽と桶。
寒中水行01
宝徳寺01
 13時25分に本堂を出て、下の境内へ。30分になり始まりの鐘が鳴った。本堂のドアが開き、うちわ太鼓を持った信徒の方が出て来て、左右に並ぶ。その間を通って寒中水行を行う高野本亘副住職が、階段を下りて来る。
↓信徒に見守られながら境内に下りる高野副住職。→法華経の水行肝文を唱える。
寒中水行03
寒中水行02
寒中水行04

 水の入った樽の前で白衣(はくえ)を脱いで下帯姿になると、法華経の水行肝文を唱える。
 そして、手で上半身に水を何回かかけた後、桶で掬った水を頭からかぶる。
 10回ほどかぶっただろうか。後で樽の中を見ると、水は半分ほどに減っていた。
 この寒中水行は1949年(昭和24年)、前住職の代から始まったそうで、毎年1月13日から19日までの1週間行われ、行事そのものは「開運除厄星祭 寒祈祷会」というようだ。

寒中水行05
↓見守る信徒の方々。→寒中水行自体は5分ほどで終わった。
寒中水行07
寒中水行06
 寒中水行の後は、お務めが行われる。4人の僧侶が読経。
読経01
読経02
 読経の後、4人の僧侶が手分けして信徒一人一人の身体を擦る。その後、信徒が一人一人祭壇の前に行きお参り。
 お参りが終わると高野本悦住職が、この一週間で信徒の方々から寄せられた祈願の内容を信徒の名前と共に読み上げる。住職が読み上げている間に、ぜんざいが配られた。
 祈願成就を読み上げた後、住職が講話を行い法会は終了となった。
↓→お札には名前が書いてあり、信徒は自分の名前を探して持ち帰る。
厄除けのお札02
厄除けのお札01
 撮影を終えて宝徳寺を後にしたのは、15時半頃だった。真っ直ぐ氷見駅に向かい、16時7分の氷見線で高岡へ。16時39分に高岡駅に着いたが、あいの風とやま鉄道の金沢方面行きは17時6分と、少し待ち時間がある。
 駅の連絡通路から外を見ると、きれいな夕焼け。雲が多くて期待していなかったので、ちょっと驚いた。ずいぶん太陽が大きく見えた。
高岡駅
↓自宅の最寄り駅の連絡通路から、乗って来た電車を撮影。もう太陽は山の向こうに沈んで、夕焼けから夜空に変わろうとしていた。
福岡駅

1月17日(水)

 朝、居間に行くとテレビの番組は防災特集を放送していた。そうか、今日で阪神淡路大震災から23年が経つのか。同時に、中国のロックバンド「黒豹(ヘイバオ)」を撮影して23年が経つのを条件反射のように思い出す。レコード会社の依頼で、北京・南京・北京3泊4日で彼らを撮影して日本に帰って来た翌日が1月17日だった。

南京での黒豹のコンサート
↑撮影したポジ・フィルムはレコード会社に渡したので残ポジしか手元にないが、その中から一枚。1995年1月・南京。You Tubeから「無地自容/黒豹楽団」。
コンサートの打ち上げ
↑コンサートの打ち上げでの黒豹のメンバー。右の写真はビールの早飲み競争。大きなジョッキで飲むのは黒豹のベーシスト、グラスを持っているのは南京のテレビ局の女性かな?

 小倉エージさんと一緒に中国へ行き、北京のホテルでメンバーのポートレートを撮影し、翌日、国内線で南京に飛んでコンサートを撮影した。
 南京でのコンサートは体育館で、客席はステージを囲む階段席。その下にはズラリと公安が立っていた。それでも興奮した客は、ステージに向かって使い捨てのライターを投げる。体育館の床にぶつかったライターがアチコチで”ボッ”と燃えていた。
 翌日は北京に戻り、中国茶とミュージック・テープを買いに行くと言うエージさんについて行った。デパートに入り、店員さんに「そこからそこまで」と言ってガラスケースに並べられたテープを買うエージさんに驚いた。そんな買い方があるのか(笑)。自分もフェイ・ウォンのテープを何本か購入した。
 北京から日本に着いたのは夕方だったか、もう夜になっていたか。機材が多いのと強行軍の取材だったので、気を使ったレコード会社の担当者がタクシーで帰って下さいと言ってくれた。千葉から神奈川までいくらだろうと思いながら、お言葉に甘えて途中まで方向が一緒のエージさんとタクシーで帰った。
 この頃は家にテレビが無く、新聞もとっていなかった。翌日、都内のデザイン事務所に行くために駅に行くと、キオスクに置いてある新聞の見出しの様子が普段と違うと感じたが、そのまま電車に乗った。デザイン事務所のテレビで、朝に巨大な地震があったのを知った。
 今年成人式を迎えた人たちは、もうあの震災後に生まれたのか。今日のFacebookにも、あの日自分はどこにいて、何をしていたのかといった話しは流れて来なかった。少しずつ記憶は薄くなって行く。

<国交省>公用メール、1年で自動破棄 政策検証が困難に
 昨日、ヤフーのトップニュースにこんな毎日新聞の記事が上がっていた。紙の文章なら保管場所のスペースの問題で破棄しなくてはならないこともあるだろうが、電子データの文章をなぜ期限を切って破棄する必要があるのだろうか? サーバーの容量確保と言っているが、文字データの容量など知れているだろう。 
 昨年の暮れに、やはり毎日新聞が<2018年を読み解く:保坂正康・救国直言!「出でよ!日本の異端児」=青木理>と題した記事を掲載しているが、情報隠蔽国家=日本をズバリと指摘している良い記事だった。
 少し引用すると、

 戦後70年が過ぎても日韓両国の火種としてくすぶりつづける慰安婦問題にせよ、あるいは南京虐殺事件といった数々の問題にせよ、日本側が資料や文書をき ちんと残していれば、一体どうなっていただろうかと想像する。いずれも歴史的な事実であり、否定することなどできはしないが、規模や態様などについては日 本側の主張を裏づけた可能性もある。少なくとも事実はもっと精緻に検証され、ひょっとすれば現在のような火種にはならなかったかもしれない。
 そんなことを考えるにつけ、私がいつも不思議な話だと感じていることがある。保守と呼ぶにせよ、右派と呼ぶにせよ、国家の存在やその歴史を「誇り」と捉 える人びとこそがむしろ、その基盤となる「国家の記録」を大切にし、公的な文書や資料をきちんと残して後世に伝えよう、と主張してしかるべきではないか、 と。
 だが、現状はまったく異なる。公文書の大切さなどは、むしろリベラルなどと称される人びとがそれを訴え、保守を自称しているはずの政権は公文書の隠蔽や廃棄に突き進んで恥じ入るところがない。政権を支持する保守や右派層からも疑問の声がほとんど上がらない。

1月15日(月)

 年賀はがきの当選番号が発表された。ネットやSNSでの繋がりが多くなるにつれ、年賀状を出すのも受け取るのも減ってしまった。今は一番たくさん出していた時の1/3ほどだろうか。昨年は3等のお年玉切手シートすら一枚も当たらなかったので、今年も期待せずに見てみると、3等が4枚も当選していて驚いた。年賀状をたくさん受け取っていた時でも、4枚ってあっただろうか?郵便物を出しに行くついでに、早速切手シートをもらって来た。

 昨日は日曜日という事もあり富山県内では左義長の他、イベントや神事、仏事がいろいろと開催された。せっかくなので午前中から出かけて幾つか観て来た。
 先ずは家からゆっくり歩いても10分ほどのUホールで開催される、越中万葉かるた大会へ。越中万葉かるたは、高岡古城ライオンズクラブと高岡市教育委員会の企画により万葉集の中から越中で詠まれた歌を中心に100首選び、小倉百人一首のようなかるた形式にしたもので、1979年に製作されたそうだ。
 このかるたを使った競技大会は今回で39回目だが、昨年行われた38回大会では小中学生662人が参加して、最多人数で同時に遊ぶカルタのギネス世界記録に認定された。
 午前9時から開会らしいので、少し前に会場のUホールへ。参加する子供たちは毛氈を敷いた体育館に座り、見学する父兄の方々は2階席に座って始まりを待っていた。
 会場の壁に式次第が貼ってあったので、引用しておきます。

お年玉切手シート

第39回 越中万葉かるた大会 次第
一、開会
一、開会宣言
一、国旗に敬礼
一、来賓・詠み人紹介
一、来賓祝辞
一 、第38回大会優勝杯返還
一、選手宣誓
一、競技方法の説明
一、競技
一、表彰式
一、閉会

越中万葉かるた大会01
↑かたかご幼稚園・保育園の児童による合唱(左)と選手宣誓(右)。
越中万葉かるた大会02
↑↓→体操着の小中学生でいっぱいの会場。
越中万葉かるた大会04
越中万葉かるた大会03

 9時に開会宣言が行われたが、来賓の挨拶や競技方法の説明があり、かるたを並べたりの準備もあって競技が始まったのは9時半頃だったろうか。今日はこの後、伏木の勝興寺で行われる御満座法要を見に行こうと思っているので一回戦を観戦してから駅に向かった。
 越中万葉かるた大会の様子は北日本新聞の記事や富山新聞の記事で。

 あいの風とやま鉄道で10時48分に高岡駅に到着。昨日まであいの風、城端線、氷見線とも運転見合わせや遅延があったが、今日はほぼ正常に運行していた。11時12分発の氷見線で勝興寺のある伏木へ。11時半頃に伏木駅に着いて、駅前の坂道を上ると勝興寺がある。
 総門を入って受付に行き、御満座法要を撮影したい旨伝えると、大丈夫ですよという返事だった。勝興寺は現在、平成の大修理中で工事協力金として300円の料金を払うのだが、法要なのでそれも必要ないそうだ。
 本堂に入ると法話の最中だった。寺務長代理の女性にご挨拶して、さっそく撮影させていただいた。

勝興寺
↑勝興寺の唐門(左)と本堂(右)。
 受付で配られていた案内より引用。
御正忌報恩講(御満座法要 デカローソクを見がてらお参りください)
平成30年1月14日(日)10:00〜17:00
10:00〜日中 読経 満年講 法話 布教使 覚円寺 青木哲静師
12:00〜お斎(おとき)
14:00〜逮夜 読経  御傳鈔 ( 御伝鈔 ) 法話 布教師 法順寺 圓山望師(デカローソク9:30〜17:30点灯)
平成30年1月15日(月)10:00〜12:00
10:00〜満日中 読経 御俗鈔
 法話 布教師 要願寺 林史樹師(デカローソク9:30〜12:00点灯)

↓→覚円寺(射水市)の青木哲静住職による法話。
御満座法要02
御満座法要01
 御満座法要とは御正忌報恩講のことで、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人の命日にその遺徳を偲んで行われる法会。御満座そのもののは、法会の終わる最後の日という意味のようだ。確か親鸞聖人の命日は11月28日だと本で読んだが、大谷派は11月21日から28日で行うが、本願寺派は新暦に直して1月9日から16日に行うそうだ。大谷派(お東)は11月28日が御満座、本願寺派(お西)は1月16日が御満座となる。
 北陸では御満座の行われる頃は季節風が吹き、雷も鳴って天候が荒れることから御満座荒れという言葉もある。
御満座法要03
御満座法要04

↑勝興寺の有名なデカローソクの前で法話が行われる。
←法話の後は、恩徳讃を合唱。
 勝興寺の御満座法要では、本堂に2本置かれた燭台を含めて3メートルほどあるデカローソクに火が灯される。
 このデカローソクだが、実は下の大きな部分は木造で、蝋燭は上に出た部分だけだ。このデカローソクについては富山新聞社の『暮らしの歳時記 富山編』に詳しく書かれているので、以下引用させていただく。

 台座を含めて高さ約3メートルはすべてがろうでなく、大半は木でできている。上部の金属製の皿にろうを入れ、火をともす。明治時代に1年交代で法要のろうそくを提供してきた勝興寺周辺の高町と下町がろうそくの寸法を間違えて作ったことを機に、大きさを競い合うようになり、巨大化したと伝えられる。
 戦後は伏木の船大工が木のデカローソクを制作し、木製になったおかげで毎年繰り返し使い、デカローソクの大きさは一定になった。
御満座法要05
御満座法要06

 午前のお務めが終わり、12時からお斎(おとき)が振る舞われた。料理を撮影させて欲しいとお願いしたところ、食べていって下さいと言われる。ただ食べるのも恐縮なので、受付で小額を寄付し浄財と書かれた箱に小額を入れて食べさせていただいた。食事をしている時に、隣りや向かいに座られた信徒の方々から色々と浄土真宗のことを教えていただいた。
 午後のお務めは14時から。始まるまでだいぶ待たなくてはならないので、お斎をいただいて失礼した。
 御満座法要の北日本新聞の記事と富山新聞の記事こちらに詳細なリポートがありました。

氷見線01
↑伏木駅(左)と、越中国分駅を過ぎた辺りを氷見線の車内から(右)。
 勝興寺から坂道を下って伏木駅へ。今日の天気なら、富山湾越しの立山がキレイに見えるんじゃないだろうか?と思い、14時発の氷見線で雨晴駅へ。雨晴駅には14時7分に到着。駅を出て急いで海岸の方へ歩く。乗って来た電車が終点の氷見で折り返して雨晴に着くのが14時32分、これを逃すと次の高岡方面行きは16時16分までない。
雨晴海岸からの立山
 海岸から撮影した、女岩(めいわ)越しの立山連峰。もう少し岩に雪が残っていると良かったかな?場所を変えて撮影しながら雨晴駅へ戻る。
氷見線02
 氷見で折り返して来た14時32分の電車で、高岡へ。電車からも窓越しに立山がはっきりと見える。
 
日本海高岡なべ祭り
あいの風とやま鉄道

 14時55分に高岡駅に到着して、昨日、今日と開催されている日本海高岡なべ祭りの様子を見て歩く。今年で32回目だそうだ。
 2日間とも営業は11時〜16時までなので、終了まで後一時間ほど。既に売り切れている鍋も多かった。
 3ヶ所ほど会場をまわって高岡駅に戻り、15時32分発の金沢方面行きの電車で家に帰る。

←運転手は女性の方だった。

*日本海高岡なべ祭りの北日本新聞の記事

1月12日(金)

 今日の未明、外の様子を見ようと窓を開けたが、網戸が凍り付いていて開かなかった・・・orz。
今日の雪景色
つらら
 昨日から北陸は大雪で、Facebookのタイムラインも一時投稿された雪の写真で埋まっていた。
 今日はあいの風とやま鉄道、氷見線、城端線といった平野部を走る電車が軒並み始発から運休していたが、富山地方鉄道や高山線といった山の方を走る電車が動いていて驚いた。
 今回の積雪は山から下りて来るのではなく、海側から吹き付けて来るので平野部のほうが積もっているのかも知れない。久しぶりのドカ雪だ。

 この大雪で学校もずいぶん休校になったようだ。朝、2階の窓から外を眺めているとランドセルを背負った小さな女の子が一人で歩いて来た。学校へ行ったら休校になっていて、戻って来たのだろう。こんな雪の日でも朝には新聞が届いている。今日の新聞は濡れないようにビニール袋に入っていた。
 昔は富山の平野部も雪がたくさん降った。小学校高学年から中学時代、自分が雪の積もった道を自転車や徒歩で新聞配達していたのが信じられない。

 昨日は富山市岩稲(旧細入村)の本芳彦弘さんのお宅で代々行われている伝統行事「お鍬さま」を撮影させていただいた。お鍬さまは、農家の仕事始めの日である1月11日に、三つ鍬を田んぼの神様(男神)、平鍬を畑の神様(女神)に見立てておもてなしする風習で、380年ほど前から岩稲の農家で伝承されて来た。しかし、農業の近代化や担い手不足でこの風習をやめる農家が多く、現在は本芳さんの家だけになってしまった。
 先月、下タ北部地区の繭玉作りを撮影に来た時に、40分ほど歩いて岩稲の本芳さんのお宅を訪ねて撮影のお願いをした。 快く撮影の許可をいただき、朝の8時から儀式を行うと教えていただいた。

 朝起きると道路にたくさんの雪が積もっていた。6時11分に富山駅に到着する、始発のあいの風とやま鉄道に乗車。少し遅れて到着するが、駅前から出る笹津行きのバスは6時25分発なので余裕がある。
 猪谷行きのバスに乗れば本芳さんの家の前にあるバス停に停まるのだが、着くのが8時3分で儀式が始まってしまっている。笹津行きのバスは6時56分に終点の笹津に到着する。笹津から本芳さんの家まで30分ほど歩くが、これなら8時の儀式に間に合う。
 終点の笹津は笹津駅かと思っていたら、国道41号(越中東街道)沿いにターミナルがあった。ターミナルからは一本道で、途中にあったコンビニでメロンパンを一つ買って本芳さんのお宅に向かう。
 7時半過ぎに到着するとご主人の彦弘さんが出迎えて下さった。玄関を上がり座敷に入ると、お茶でも飲んで休んで下さいと言われる。見るとテーブルの上にお茶とミカンが置かれ、お鍬さまが座布団に座って休まれていた。
 儀式の行われる奥の座敷に行くと、床の間の前に御膳が用意されていた。既にテレビのカメラが2台スタンバイしていた。

↓床の間の前に用意された御膳。→お茶を飲んで休んでいるお鍬さま。
お鍬さま02
お鍬さま01
お鍬さま03
 8時までの間に、新聞社やテレビ局のカメラマンが続々と訪れて撮影場所はギュウギュウ詰めになる。
 驚いたのは、とある神社の権禰宜の方が見学に来ていらしたこと。4社ある越中国一宮に数えられている大きな神社の1社に務められてる方で、この儀式が好きで、そして勉強になるということで何年も通って見に来られているそうだ。
 やがて8時になり、鍬を抱えたご夫妻が座敷に入っていらした。
お鍬さま04
お鍬さま05
「お鍬さま、あけましておめでとうございます。昨年中はお鍬さまのお力添えをいただきまして、農業に携わることができまして、本当にありがとうございました」とお礼を述べてから、おもてなしが始まる。お鍬さまとの会話は彦弘さんのアドリブで、毎年変わるそうだ。「足を崩していただいて、ごゆっくりとお召し上がりいただきたいと思います」と言ってお鍬さまにすすめる料理は、田作り(ごまめ)、黒豆(マメマメしく働けるよう)、海老(腰が曲がるまで働けるよう)、昆布巻き(よろこぶ)、鯛の塩焼き(めでたい)といった正月のお祝い料理。
 そして、徳利からお鍬さまのお猪口にお酒を注ぐ。やがてお鍬さまからの返杯を受けて、彦弘さんもお酒をいただく。そうして儀式は10分ほど続いただろうか。
 この「お鍬さま」も昨年11月に撮影させていただいた宇奈月町下立の「おーべっさま」も、神事の原点のような気がする。
 神を迎え、神をもてなし、神を送る。琉球弧も祖霊信仰、ウナリ神信仰、ニライカナイ信仰とあるが、纏めれば琉球神道となる。その儀礼は神迎え、神アシビ(遊び)、神送りだ。
 鍬を神様に見立てるというとユーモラスにも思えるが、神社に祀られている神霊も依り代、神籬(ひもろぎ)。鏡であったり、石であったり、御幣だったりを神様に見立てている。神社から神社へ神霊を勧請(分霊)する時には、御幣が依り代となって移動する。
 沖縄で一番ポピュラーな神様である火神(ヒヌカン)は、竃(かまど)の石だ。個人的には神道とは宗教というよりも、信仰だと思っている。その原風景が「お鍬さま」や「おーべっさま」にあるのではないだろうか。
↓お鍬さまからのお酒をいただく彦弘さん。→おもてなしを受けるお鍬さま。
お鍬さま07
お鍬さま06
本芳さんご夫妻

 昔はご馳走でもてなした後、外に出て田んぼの雪をかき分け、東の方角に手を合わせて豊作を願い、三つ鍬で3回初起こしを行ったそうだが、近年は彦弘さんが足が弱くなったためやらなくなったそうだ。
 農作業も奥さんの弘子さんがネギなど家で使う野菜を少し作っているだけだが、このお鍬さま行事はこれからも続けていきたいと話されていた。
 儀式の後、お二人の並んだ写真を撮影させていただいた。

 儀式が終わり、ご夫妻や見学にいらした権禰宜の方と雑談をした後、ミカンをお土産にいただいて9時過ぎにおいとまする。笹津駅まで歩くか、家の前のバス停から猪谷の方へ行こうかと思っていたら、権禰宜の方が車で送って下さることになり、笹津駅の手前にある笹津橋まで乗せてもらった。メモして来た高山線の時刻表を見ると富山行きの電車が直に橋を渡るので、しばらく待って撮影。雪景色の中を2両編成の電車がゆっくりと渡って行った。
高山線
笹津から楡原の雪景色
楡原駅
 電車が通り過ぎた後、神通川を挟んで国道41号の対岸にある県道188号を歩いて楡原駅へと向かう。
 お日様が出て、山の方の雪が溶け始めて来た。車がほとんど通らないので歩き易いが、時おり木の枝から雪が落ちて来るので、晴れていても傘をささなければならない。
 途中、石仏が並んだ「おおさわの石仏の森」の横を通る。雪を被って凄さがよくわからないので、今度ゆっくりと。
←楡原駅にて。
 撮影しながら歩いたので、楡原駅まで1時間半ほどかかった。楡原から岐阜県寄りの猪谷駅に向かうか、富山方面に向かうか悩む。まだ行ったことのない猪谷を歩いてみたい気もするが、雪が溶け始めているので凄い雪景色は期待できない。とりあえずで10時59分の電車で富山方面に向かい、車窓を眺めていて雪景色の残る越中八尾駅で下車した。
 越中八尾に到着したのは11時16分で、次に富山方面に向かう普通電車は13時6分。2時間近くあるので、日本の道百選にも選ばれている諏訪町まで散歩して戻って来た。
越中八尾の雪景色01
越中八尾の雪景色02
 11時16分の電車で富山へ。あいの風とやま鉄道に乗り換えて家に帰る。さっきまで青空が見えていたのに、富山駅を発車すると吹雪いて来た。最寄り駅に着いて家まで歩くが、また雪が激しく降り始めている。
 早朝から笹津から岩稲、笹津から神通川沿いに楡原、そして越中八尾駅と諏訪町を往復。たぶん9キロほど歩いたんじゃないだろうか。
*北日本新聞の記事KNBニュースチューリップテレビ富山テレビ

1月7日(日)

 久しぶりに朝から青空。午後から伸びた髪を切りに行って来た。
 今朝の北日本新聞に、雅楽導入は1866年という芦峅寺で行われる布橋灌頂会に関わる記事が掲載されていた。一昨日も立山信仰の仏像2体発見という芦峅寺に纏わる記事が出ていたので、なんだか続いている。
越中中川駅

 昨日は県内各地で消防出初式があったようだが、午前9時から行われる高岡市の消防出初式を見に行った。
 7時58分に高岡着のあいの風とやま鉄道は4分ほど遅れて到着したが、乗り継ぎの氷見線は8時7分発なので余裕だった。高岡から一つ目の越中中川駅で降りて、高岡市役所へと歩く。
 越中中川駅は高校生時代の通学駅だったが、この駅から市役所方面へ歩いたことはなかったと思う。
←氷見線の越中中川駅。

 駅から市役所までは10分くらいだったろうか。市役所と消防署のある道路にはずらりと各方面団の消防車が並んでいた。晴れているが寒い日で、女性の消防職員が使い捨てカイロを配って歩いており、一ついただいた。
 会場に到着した頃は見物客もまばらだったが、9時の開始時間になると沿道にずらりと人が並んでいた。お祭りでよく見かける、石川県の七尾から来て一人で小型ビデオで撮影しているおばーさんがいらした。明日は成人式を撮影に行くそうだ。
 ネットにあった今日のプログラムから。
9:00検閲 ・検閲者が消防職員、消防団員、消防車両の検閲を行います。
9:15分列行進 ・音楽隊を先頭に消防職団員、防火管理協議会キャンペーン隊、消防車両、富山県消防防災ヘリコプターが分列行進を行います。
9:30特別演技 ・消防音楽隊演奏・木遣り唄、まとい振り、はしご乗り・腕用ポンプ、裸放水・救助特別演技
10:15一斉放水 ・消防団車両による一斉放水を行います。
 
消防出初式01
↑上段は検閲、中・下段は分列行進。
消防出初式02
↑市役所の敷地内での消防音楽隊演奏(左)と木遣り唄(右)。
消防出初式03
消防出初式04
↑↓→はしご乗り。
消防出初式05
↓腕用ポンプ(左)と裸放水(右)。
消防出初式06
消防出初式07
↑↓晴れていたので虹が出た。→救助特別演技。
消防出初式09
消防出初式08
 市役所敷地内での特別演技が終わると、古城公園の方に移動して池之端公園濠で行われる一斉放水を見学 。
 一斉放水で出初式の催し物は終了したので、ネットで探しておいた広小路にあるdocomoショップへ。
消防出初式10
携帯

 かれこれ8年近く使っている携帯電話が、暮れから調子が悪くなり、元旦の朝には電源が直ぐに切れ、充電も思うようにならなくなった。
 1月3日に弟と妹の家族が来た時に、妹の古い携帯をもらってシムを差し込んで電話は繋がるようにしたが、電話帳やメールなど本体に記録されているデータが移せなくて困っていた。

←左が8年近く使っている満身創痍な携帯。右が妹にもらった古い携帯。

 しばらく使えなくなった携帯を放っておいたが、昨日、何気に触ると電源が入った。あいかわらず動作は不安定で直ぐに電源が切れるが、起動はするようになった。ショップで症状を説明すると、2つの携帯を預かって本体のデータを移してくれた。また、月額300円の保証に加入していることを話すと修理より5000円で新しい携帯を受け取るサービスをすすめられた。
 とりあえず電話が使えるしデータも移行できたので、しばらくはこのままでいいかな。
関野神社
関野神社02
←↑関野神社。
 docomoショップから山町筋へと歩き、通町の自治会長さんの家へ。昨年の夏に撮影した通町の布袋祭の写真をフォトブックにしたものを、お渡しする。
 通町から関野神社へ向かい、初詣の参拝をしてから社務所へ宮司さんを訪ねて、やはり通町の布袋祭のフォトブックを1冊お渡しする。
 関野神社から高岡駅へ。天気がだんだん崩れてきたが、駅のホームの連絡通路から立山がはっきりと見えた。
 金沢方面の電車が5分ほど遅れて高岡駅に到着。やがて雨が降り出して、最寄り駅に到着する頃には強い雨になっていた。
*北日本新聞の記事

1月3日(水)

明けましておめでとうございます

 昨年は大晦日から元旦まで氷見市小境の朝日神社・夕日神社で子供たちが神様にかわって参拝者を迎える「宮こもり」を撮影したが、今年は大晦日の晩から元旦の朝まで芦峅寺の雄山神社で「ミヤマイリ」を撮影していた。
芦峅寺 雄山神社の元旦
↑芦峅寺の雄山神社。木々に囲まれた祈願殿。
 1月2日は黒部市朴谷の獅子舞を撮影に行って来た。日本で獅子舞の伝承数が一番多いとも言われる富山県だが、その多くは春祭りや秋祭りに行われる。お正月の獅子舞は、ひょっとすると朴谷だけかもしれない。
朴谷の獅子舞
↑地区の神明社に参拝した後、一軒一軒門付けして歩く。
 雄山神社の宮まいり、朴谷の獅子舞の様子は後々UPいたします。

本年もよろしくお願いいたします

1月2日(火)

 お正月二日目は、黒部市朴谷の獅子舞を撮影に行って来た。昨年の8月14日に「獅子舞 IN SUMMER」と題した朴谷地区の納涼祭を見に来た時に、お正月の獅子舞の開始時間を聞いておいた。13時に公民館に集合して、神社に参拝してから集落をまわり、15時くらいに終了するということだった。
 前日に買っておいたあいの風とやま鉄道の一日フリーきっぷを使って、黒部駅に10時58分に到着。黒部駅前から朴谷へ行くバスは11時25分発車なので、駅近くのコンビニで肉まんと菓子パンを購入。
 夏に来た時は黒部駅から輪行して来た折りたたみ自転車で朴谷に行ったが、雪や雨が降るような予報だったのでバスにした。
集落センター

 11時25分のバスに乗車して、朴谷に着いたのは11時 40分頃だろうか。
 まだ誰も居ないだろうと思いながら公民館(正式には朴谷集落センター)に伺うと、準備をしていた青年2人が応対して下さった。
 夏に撮影した写真をお渡しし、今日の獅子舞の撮影許可をいただく。
 12頃から獅子舞関係者が集り始めるということなので、その前に近くの神社を撮影に行く。
 
↓→公民館の近くにある神明社。階段の下と上に社がある。
神明社02
神明社01
 神社を撮影した後、集落の中を少し散策してから公民館に戻ると、衣装に着替えたり舞の練習が行われていた。下の写真の上段右は、ジジとババの面。こちらの写真を見ると違う面のようなので、新調したのかもしれない。
獅子舞の準備
↓→集落を門付けしてまわる前に、神明社を参拝する。
神明社へ02
神明社へ01
参拝01
 12時45分になると公民館を出て、獅子を先頭に神明社に向かう。
 社は下と階段の上の2つあり、下の宮と上の宮と呼ばれているが、上の宮を参拝する。
 元々は上に宮があり、その後に近くの川に流れて来た御神体を祀ったのが下の宮だそうだが、それ以上のことはわからなかった。
 春と秋の祭には神職がおいでになるが、正月は氏子だけで参拝するようだ。
参拝02
 代表者が神楽(太鼓)を奏し、二拝二拍手一拝した後、公民館から持って来たお神酒をお猪口に注いで全員でいただく。キュッとお神酒を呑んで公民館に戻り、玄関の庇の下でお面を着けると獅子舞の開始となる。天狗は6人。夏の獅子舞では赤くて太いタスキをかけていたが、今日はタスキはなしのようだ。
 朴谷は中陣地区と尾山地区に挟まれている。先ずは尾山地区側の外れまで、竹箒を持つジジとババが先頭になって歩く。いわゆる露払いだ。最初に門付けするのは鮮魚店で、この店は住所は尾山だが朴谷の住民も利用するので獅子舞を行うそうだ。
 鮮魚店での門付けが終わると、今度は中陣側の地区外れに向かって一軒一軒まわる。
獅子舞01
 正月の獅子舞は悪霊退治、厄除けのための門付けで、ジジとババが家の前を掃き清めた後、「悪魔払い〜」「悪魔払い〜」と口々に叫びながら順番に天狗が玄関に入って出てくる。最後に獅子が玄関で子供や主の頭を噛んで、花(ご祝儀)をいただいて次の家へと向かう。
獅子舞02

 朴谷の戸数は現在35戸(平成29年11月末)で、今年は忌で獅子舞を遠慮する家が3戸あり、1時間ほどで全戸まわりが終了した。雪が降るような天気予報だったが、曇り時々晴れで、天気が良かったせいもあり例年より早く終わったそうだ。

↓→門付けの後は、路上で道踊りを舞う。
獅子舞04
獅子舞03
獅子舞05
 全戸まわりの後、路上で天狗と獅子による道踊りが行われた。 道踊りは路上2ヶ所で行われたが、観客が少なかったせいかあっさりとしたものだった。
獅子舞06

 道踊りの後、公民館に戻るとテーブルが並べられていた。これから自治会の収支報告と役員交代の発表があり、新年会がおこなわれるそうだ。撮影させていただいた礼を述べて玄関を出ると、ちょうど刺身やオードブルが運ばれて来た。最初に門付けが行われた鮮魚店からだろうか?
 公民館から中陣側の外れにあるバス停に向かう。バス停といっても道路に面した民家の倉庫のような建物に「地鉄バス 朴谷のりば」と書いた小さな看板が取り付けられ、その下に小さな時刻表が貼付けられているだけなので、教えられなければここがバス乗り場だとはわからないかも。
 獅子舞は3時頃までかかると聞いていたので、帰りは朴谷を16時6分発のバスになると思っていたが、14時46分のバスに余裕で乗れた。黒部駅到着は14時56分で、片道200円だ。

↓→黒部駅行きのバスと、朴谷のバス乗り場。
バス停
帰りのバス
リュック
 駅に着いて時刻表を見ると富山方面は15時18分の富山行きと、15時50分の高岡行きがあった。反対の泊方面は15時12分で先に到着する。
 駅員さんに聞くと15時12分の泊行きは、折り返して黒部駅を15時50分の高岡行きになるというので、せっかく一日フリーきっぷを買ったので泊まで行くことにした。
←暮れに妹からもらった、甥っ子が使っていたと思われるリュック。ほとんど新品のようだ。
泊行き、折り返して高岡行き
 黒部、生地、西入善、入善、泊。泊の一つ先の越中宮崎まで一日フリーきっぷが使えるが、乗り換えなくてはならない。乗り換え時間もわからないので、来た電車で高岡に戻る。高岡で20分ほど待って金沢行きの普通電車に乗り換えて、ようやく家に到着した。獅子舞を撮影していた時は穏やかな天気だったが、泊行きの電車に乗る頃には空模様が怪しくなり荒れて来た。

2017年12月31日(日)〜2018年1月1日(月)

 芦峅寺にある雄山神社の初詣を撮影に行く。正確には雄山神社は雄山の山頂にある峰本社、芦峅寺の中宮祈願殿、岩峅寺の前立社壇の三社で雄山神社となるので、芦峅中宮祈願殿での初詣の撮影だ。
立山方面行きの最終電車と千垣駅
雄山神社の鳥居

↑電鉄富山駅を21時17分に発車する立山方面行きの最終電車(左)と、千垣駅。

 大晦日の立山方面行きの最終電車に乗車して、最寄り駅の千垣で降りる。
 駅から緩い坂になっている道を30分ほど歩いて、雄山神社へ。年餅作りを撮影に来た28日は、境内は雪が積もり人がすれ違えるような道もなかったが、雪かきがされて参拝するための道が出来ていた。

 祈願殿横の売店には、巫女さんの手によって一つ一つ袋に入れられた年餅が置かれていた。鳥居を入って直ぐ左にある社務所は、初詣の準備や雑用をする村の人たちの作業場であり休憩所になっている。この社務所で休ませてもらいながら、元旦の朝までミヤマイリの様子を撮影させていただく。
祈願殿と行列
 23時を過ぎると祈願殿の前には少しずつ参拝客の列が出来始め、年明け10分前には長い行列になっていた。また、祈願殿の中にはご祈祷を受ける人が大勢座って待っている。
 1月1日の0時になり、参拝客がお賽銭を投げ入れて鈴を鳴らし、二拝二拍手一拝をして元旦の願い事をしていく。集落以外から来た人は祈願殿にお参りして、年餅をもらって帰ってしまう人もいるが、境内には祈願殿の他に立山大宮、山神様とも呼ばれる神秘社、立山若宮、開山堂などもあり、地元の人や長年参拝している人たちはこれらのお宮にも順に参って行く。とやまの年中行事百選にも選ばれている芦峅寺のミヤマイリ(歳旦祭)である。
ミヤマイリ01
上段左は祈願殿での参拝/上段右は立山大宮/中段左は神秘社/中段右は立山若宮/下段左は開山堂。開山堂では元旦の0時から5時頃まで立山開山の祖である慈興上人(佐伯有頼)の木造坐像がご開帳になった/下段右は袋に入れられた年餅を家族の人数分だけ持ち帰る参拝客

 0時を過ぎたばかりだったので、大宮、神秘社、若宮の扉が開かれていなかったが、訪れた人たちは閉ざしている扉の前で参拝して行った。
 開山堂で写真を撮っていると、お神酒を持った男性が参拝に訪れたので写真を撮らせていただいた。
 ミヤマイリでは、お神酒と袋に詰めたお米一合を各宮に奉納する習わしだったという。現在はお米を奉納することはなく、集落の人でも限られた人がお神酒を賽銭箱の横に置かれた甕に注ぎ、お賽銭を入れて参拝しているようだ。祈願堂と開山堂にはお酒を入れる甕が置かれていないので、参拝している間、賽銭箱の横に徳利を置く。
 0時半を過ぎた頃には、大宮、神秘社、若宮の扉も開かれたようだった。

↓神秘社の賽銭箱とお神酒を注ぐ甕。→徳利に入れたお神酒を注いでまわる。
お神酒
賽銭箱と瓶
 しばらく撮影した後、社務所も戻り休ませていただいた。芦峅寺の撮影では毎回お世話になっている女性の会の会長・佐伯照代さんに、お茶やコーヒーをご馳走になる。社務所の窓際では交代制で参拝客の数を数えている。集落で力を合わせて神社の行事を支えているのがよくわかる。
 2時半頃に、また祈願殿の方へ撮影に行くと参拝客の数も少なくなっていた。今年は雪のせいか、昨年よりも初詣客が少ないようだ。祈願殿の方にお神酒を持った年配の女性がいらしたので、ミヤマイリの様子を撮影させていただいた。徳利には紙を折った飾りがさし込まれているが、本来は松の枝や榊をさしていたそうだ。
↓祈願殿でのご祈祷も2時を過ぎて落ち着いた。→お神酒を持ってミヤマイリ。
ミヤマイリ02
祈祷
ミヤマイリ03
上段左右は神秘社にて/中段左は立山大宮の参拝の後、若宮に向かう/中段右は立山若宮にて/下段左は若宮から開山堂へ/下段右は開山堂での参拝
 ミヤマイリの様子を撮影できたので、また社務所に戻り今度は少し仮眠する。
 次はそろそろ夜が明けそうな6時半頃に祈願殿に行くと、年餅をお盆に乗せている年配の男性がいらしたので撮影させていただいた。家族の人数分の年餅をもらったらバッグやポケットに入れて持ち帰る人が多い中で、丁寧にお盆に乗せて持ち帰る人は珍しい。神様からの頂き物だからだろう。今では家族揃ってお参りするのが当たり前のようだが、嘗ては正装した家長が一人でミヤマイリをしたそうだ。
↓お盆に乗せられた年餅。家族で年餅を食べ、神様から一つ年をいただく。
年餅を持つ男性
年餅
 7時頃になると吹雪き始めたが、空が明るくなって来た。今度参拝客で賑わうのは10時過ぎだそうだ。境内をまわって各お宮を撮影して、駅へと向かう。先ずは社務所の向かいにある神明宮と宝童社。鳥居を入って直ぐなので、こちらを参拝してから祈願殿に向かう人も多い。
↓神明宮(右)と宝童社。→祈願殿。
祈願殿
神明宮と宝童社
↓神秘社。→立山大宮。
立山大宮
神秘社
若宮と立山開山堂
雄山神社入り口

↑立山若宮(左)と開山堂。

 最後に鳥居を撮影して駅に向かう。吹雪が少し弱くなったので、雪景色を撮影しながら歩く。
 ところで、お神酒を各お宮に注いで参拝する芦峅寺のミヤマイリから、久高島の旧正月に行われるハカイメー(供出)を思い出した。
 大晦日の午後、正月行事の祭場となる外間殿に、集落の方々が泡盛の瓶を持って訪れる。

 供出は男性一人につき、泡盛をグラスに1杯と100円。嘗て神女が大勢いらした頃は、神女がお米を供出していた。やはりお神酒とお米は特別な神饌なのだろう。
雪景色01
雪景色02
電鉄富山駅行きの電車
 7時半過ぎに神社を出て、8時15分過ぎに千垣駅に着いた。
 8時46分の、電鉄富山行きの電車に乗車する。元気があれば途中の岩峅寺で下車して、雄山神社(前立社壇)へ初詣に行こうかと思っていたが、そんな元気は残っていなかった。
 9時44分に電鉄富山に到着したが、あいの風とやま鉄道の金沢方面行きは10時47分で、1時間ほどの待ち時間だった。
 家に着いたのは11時半頃だろうか。
 お昼ご飯にお雑煮に普通の餅と年餅を入れて食べた。朝お雑煮を食べた両親は、雑煮の汁の中に小さな年餅を入れて食べた。これで家族揃って、神様から一つ年をいただいた。
*立山歳時記 芦峅寺のミヤマイリ

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