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バックナンバー
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能

12月17日(日) 富山市下タ北部地区公民館 正月の繭玉作り 9時頃〜
12月20日(水) 富山・日枝神社 すす払い 9時〜
12月27日(水) 福野 歳の大市
12月28日(木) 芦峅寺公民館 年餅作り 8時30分頃〜
1月2日 朴谷の獅子舞
1月6日(土) 高岡市消防出初式 
1月11日 お鍬さま 8時頃〜 記事記事 富山→岩稲路線バス
1月14日(日) 越中万葉かるた大会 福岡町Uホール
1月14日(日)〜16日(火) 勝興寺御満座法要・デカローソク
1月26日 魚津・愛宕社の火祭り 記事 記事
1月第4日曜日 小川寺の獅子舞 宮田・火祭り 記事 記事
2月3日(土)、4日(日) 菅沼合掌造り集落ライトアップ 日没〜20時
2月5日 節分祭 富山県護国神社 やいかがし(柊に焼いた鰯の頭を刺したもの)をお供え

◯与四兵衛祭 関野神社 4月3日
◯4月 埴生護国神社 屋根の葺き替え完成の慶賀祭を予定
◯4月第2土曜?10時〜 小矢部 福町神明宮 春福まつり 神獅子(行道獅子)
◯4月15日に近い土曜日? 楡原の獅子舞
◯4月19日 新川神社 春祭り どべ(猿田彦) 記事
◯4月第4日曜日? 富山市中島の獅子舞
利屋町の天神祭り 5月25日前後の土・日曜日 関野神社から木像天神像が運ばれ、龍雲寺へ。
◯射水市三ヶの十社大神 御田植祭
◯6月? 櫟原神社春季例大祭 宵祭に鯛行燈(ヤサコ)や高張提灯の行列が渡る。
◯7年に1度、10月に開催 次は2022年 朝日町山崎 米吊り奉納
◯黒部市中陣のニブ流し
◯福岡町沢川の獅子舞 9月の第4土曜日?
◯5年に一度、若手神職でつくる県神道青年会が御田植祭
◯33年に一度 庄川の神賑わい 次回は2023年7月

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事
富山の祭り
*砺波の獅子舞 各地区の日程
年中行事覚書 柳田国男
田の神祭りに見る日本人の神意識
山の民の祈り

◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

12月30日(土)

 今朝の北日本新聞の片隅に、「スペイン元総統の娘」という見出しに続いて、カルメン・フランコさん死去という短い記事が載っていて、ドキリとした。
 フランコ元総統に娘がいるとは考えもしなかった。91歳で亡くなったそうだ。

 1986年に4ヶ月ほどのイベリア半島旅行から帰って来て、スペインに関する本を色々と読んだ。スペイン内戦を描いた『カタロニア讃歌』も読んだが、やたらと党名が出て来て難儀した。
 逢坂剛さんの『カディスの赤い星』を最初に読んだのもこの頃で、上下2巻の大作だが、何年かおきに読み返している。ハードボイルド系のサスペンス小説だが、物語の中にスペイン内戦が組み込まれている。
 逢坂さんの作品にはスペインを舞台にした小説が多数あるが、その中にはスペイン内戦が影を潜めているものも少なくない。
 一度編集者を介して、逢坂さんとお会いして食事をする機会があった。1987年頃だろうか。まだ逢坂さんは博報堂に務めていて、会社から近い神保町の中華料理店に編集者2人の4人で行った。
 その時に、なぜスペイン内戦をテーマにしたものをたくさん書かれるのか尋ねたら、人と人との戦いはスペイン内戦までで、以降の戦争は兵器対兵器の争いになってしまった。だからスペイン内戦に魅かれるのだと話されていたと記憶している。
 スペインで撮影した写真を持って行ったので、見ていただいて色々教えてもらった。例えばジブラルタル海峡を渡ったアフリカ北部にあるスペイン領セウタで撮った楽隊の写真は「外人部隊ですね」と即答され、バスク地方にあるパンプローナのサン・フェルミン祭(牛追いで有名)のスナップで家の壁に書かれた落書きを見て、「ETAですね」とおっしゃる。ETAはバスク祖国と自由の略称で、バスク地方の分離独立を目指して武装闘争を行っていた組織だ。
 今、カタルーニャ州の独立が注目を集めているが、昔はバスク地方の分離独立の方が激しかったと記憶している。しかし、ETAは2010年9月に武装闘争を停止し、2017年4月7日に完全武装解除を行っている。
 バルセロナの中心街を歩いていて、不意にデモ隊と警官の衝突現場に居合わせたことがある。しばらく睨み合っていたが、デモ隊が投石を始め、それを受けて警官が空に向かって威嚇発砲を行ったらデモ隊はあっさりと引いてしまった。
 その後、バルセロナに住んでいた日本人の女性に尋ねたらNATO反対のデモではないかと言う。スペインは1982年にNATO(北大西洋条約機構。北米とヨーロッパ諸国による軍事同盟)に加盟している。
 
 それにしても、フランコ元総統の娘か。それだけで数奇な運命ではないだろうか。亡くなった記事で、初めてその存在を知った。
 逢坂さんは、もちろん知っていただろうか。彼女をテーマにした作品を、読んでみたいと思う。
 ちなみに逢坂さんは、フラメンコギターの名手でもある。小説の中に、ご自身がモデルだろうか?と思う人物も登場する。
 また父親は池波正太郎などの時代小説の挿絵画家として知られる、中一弥氏だ。

1986年のスペインの写真01
1986年のスペインの写真02

↑左は、アフリカ北部のスペイン領セウタで撮影した外人部隊。右は、ヘミングウェイの『日はまた昇る』の舞台となったパンプローナのサン・フェルミン祭にて、家の壁に「ETA」の落書き。共に1986年撮影。

←バルセロナにてデモ隊と警官の睨み合い。この後、デモ隊が投石を開始し、警官が空に向かって威嚇発砲を行った。NATO反対のデモだったようだ。1986年撮影。

 今日で大滝詠一さんが亡くなって4年か。You Tubeから「夢で逢えたら/大滝詠一」。
大滝詠一さんと山下達郎さん

 上の写真はレコード・コレクターズの山下達郎さんとの対談。ラジオ収録の合間の取材だったかな?1991年12月22日に撮影した。お二人とも写真のチェックをしたいという事で、暮れの押し迫った中、大急ぎでプリントした記憶がある。

 なんだか亡くなった人の話しばかりになってしまった。

良いお年をお迎え下さい。

12月29日(金)

 午前中は晴れ間も見えたが、午後は雨や雪が降って寒い一日。それでも昨日より最高気温は3℃ほど高い6℃だった。
 ずいぶん前からミノルタ28−70mmのレンズフードが見あたらなくなっていた。そのうち出てくるだろうと放っておいたが、出てくる気配がないのでヨドバシの通販でエツミの72mm口径のラバーフードを購入した。
 一昨日の午前中に届いていたが時間がなかったので、今日になってようやくレンズに取り付けてケラレがないかチェックした。広角側も望遠側も、開放絞りと10に絞ったテスト撮影で共にケラレは無かった。
ラバー製のレンズフード
 昨日は、芦峅雄山神社で元旦に参拝者に配る年餅作りの撮影に行って来た。雄山神社の隣りにある公民館で朝8時半頃から始めるそうなので、始発のあいの風とやま鉄道で富山駅へ向かう。5時過ぎに家を出た時は既に、道路も田んぼも真っ白に雪が積もっていた。
 6時11分に富山駅に着いて近くのコンビニで菓子パンを2つ買って、富山地方鉄道の電鉄富山駅へ。立山行きは7時6分でだいぶ時間があるので、待合室で本を読んだりして過ごす。
千垣駅から集落へ
雪かき
 7時6分に電鉄富山駅を発車した電車は、8時1分に芦峅寺集落の最寄り駅である千垣に到着した。
 ホームで立山方面に走り去る電車を撮影していたら、千垣駅と集落を繋ぐバスが発車してしまった。 
 雪景色を撮影しながら集落まで歩こうと思っていたからいいのだけれど、肝心の雪景色は吹雪のせいで視界が悪くて殆んど撮れなかった。
 公民館に着いたのは8時50分くらいだろうか。年餅作りは始まっていた。
年餅作り01
年餅作り02
年餅作り03
 集会場にはブルーシートが敷かれ、6人ほどが1グループとなって座って作業している。
 年餅作りはもち米をせいろで蒸して、それを餅つき機に入れる。つき上がった餅を延ばしたら、片栗粉をまぶしてアルミのパイプを押当て、直径3センチほどに丸く切り取る。丸く切り取った小さな餅を形を整えてトレーに並べて行く。
 こちらのビデオを観ると、以前は神事の後に祈願殿の前で臼と杵で餅をついていたようだが、これも時代の流れだ。
 9時半頃におやつのリンゴを食べて小休止した後、11時頃まで延々と年餅作りが行われた。
年餅作り04
↑左は完成した年餅。もち米約120kgを使い、2万個ほど作られた。30日に巫女さんが一つずつ袋に入れるそうだ。右は年餅作りで出た切れ端。
年餅作り05
 年餅作りで出た切れ端は、お湯で片栗粉を洗い流してから、もう一度餅つき機で軽くついて、きな粉餅、ごま餅、あずき餅が作られる。あずき餅のあずきは緩めで、餅にぜんざいをかけた感じだろうか。
年餅作り06
年餅作り07
雄山神社

 ブルーシートの上に机が並べられて、みんなでお餅をいただく。あずきやきな粉で甘くなった口に、漬け物と汁が美味しい。汁にお餅を入れてもらってお雑煮を食べた。
 食べきれなかったお餅は、お持ち帰りに。プラ容器に入れてもらって、両親用にありがたく持ち帰った。

 公民館をお暇して、隣りの雄山神社へ大晦日から元旦の撮影のお願いに行く。

 祈願殿に行くが、あいにく宮司さんは不在だった。対応していただいた方に、おんば様のお召し替えや、夏の例大祭の時に撮影した宮司さんの写真を預け、宮司さんに電話で撮影のことを問い合わせてもらい許可をいただいた。
芦峅寺の雪景色
 雄山神社から千垣駅へと歩く。あいかわらず雪は降っているが、来る時よりは視界が良くなったので待望の雪景色が撮れた。
鉄橋を渡る富山地方鉄道の電車
芦峅寺の雪景色02
 千垣駅の少し手前、ガソリンスタンドの角を曲がると常願寺川にかかる橋がある。有峰口駅に電車が止まっているのが見えたので、直ぐに電車は常願寺川の鉄橋を渡るだろうと思い撮影の準備をする。橋の欄干に積もった雪が壁のようになっているので、撮影したい箇所の雪を傘で突いて崩して撮影場所を確保。やがて電車が常願寺川に掛かる鉄橋の上を通って行った。

←鉄橋の反対側は、ダムになっている。
 千垣駅はもう直ぐだが、一つ立山よりの有峰口駅も近そうなので歩いて行ってみる。
有峰口と電車

 時刻表を見ると立山行きの電車が先に来るので、ホームに出て到着する様子を撮影。ホームに積もった雪を、駅員さんだろうか、除雪機で吐き出している。
 13時11分の立山行きが出ると、駅員さんが線路の雪かきを始めた。 冬の鉄道は雪対策が大変だ。
 やがて13時42分発の富山行きがやって来た。さっき立山方面に走って行った電車が、折り返して来たのだろう。それにしても、雪の積もった線路の上を走って、ほぼ時刻表通りに運行している富山地方鉄道、凄い!!
 有峰口から岩峅寺までの山の風景が美しい。岩峅寺を過ぎると平野部で、電車は1時間ほどかかって電鉄富山駅に到着した。JRの富山駅まで行き、あいの風とやま鉄道の時刻表を見ると、金沢方面の普通電車が直ぐにあった。

↓→富山行きの電車の中から。
電車の中から02
電車の中から01

 『習俗 富山歳時記/漆間元三』に、年餅のことが書かれていたので引用させていただく。

 立山町芦峅寺では、むかしから今日にいたるまで、年玉は正月の餅ときめられている。餅は正月神の神饌の中で、もっとも重要な食品で、正月祭にはなくてはならぬ供物である。
 大晦日の十二時を合図に、雄山神社の祈願殿は、立山芦峅寺の各家庭からの代参者で賑わう。代参者は帰宅するとき、氏子総代から年餅をもらうが、これは家族の年令の総合計数である。それを元旦の朝祝いの膳の上に、各人の年数だけおく。これだけは、めいめいが自由に食べ、雑煮とは別にあつかっている。これが年玉であった。
 年餅をつくるに先だって、雄山神社ではあらかじめ、各家庭から初穂米を集める。家族の人数や、家の格に応じて二升、三升と集めて、年餅をつくる。餅は竹を縦に二つに割った竹筒で型をとり、円筒型にかたまった餅を輪切りにする。この年餅は、土地の人々は神から賜わると信じ、その餅を食べて、初めてめでたく年を重ねる。

*年玉については、こちらに詳しく説明されている。北日本新聞の記事はこちら

12月27日(水)

 朝起きると、外は未明から降り出した雪で白くなっていた。クリスマスが過ぎ、いよいよ今年も残り少なくなって一気に年の瀬モード。なんだか気が焦るばかりだ。
 12月27日は福野の中心部で歳の大市が開かれるので、撮影に行って来た。慶安3年(1650年)の町立てから続いているそうで、4月から12月の2と7のつく日に行われる朝市を締めくくる大市だという。
 昨日、南砺市商工会福野事務所に問い合わせたところ、大市は午前7時から午後7時までで、一番活気づくのは午前11時頃だそうだ。
 いつもなら家から自転車で40分ほど走って城端線の戸出駅から乗車して福野駅まで行くが、雪なので高岡まであいの風とやま鉄道で行き城端線に乗り換えることにする。
 ネットで11時までに福野に着ける路線を検索し、高岡駅に10時6分に着いて10時12分発の城端線に乗り換えて福野に着いたのは10時44分だった。
 駅から5分ほど歩いた通称”銀行四つ角”と呼ばれる十字路に行くと、周辺に野菜や鮮魚、正月用品を売る露店が並び、タコ焼きやカステラなどの香具師も出ていた。 高校生が歳末助け合い運動なのか、東北の被災者への募金を集めていたので小額だが募金箱に入れる。

福野の歳の大市01
福野の歳の大市02
城端線
 十字路の中央で12時から餅つきが行われるというので、それまで市の様子を撮影する。
 南砺市のホームページには200余りの店が並ぶと書いてあり、今日の北日本新聞の記事では約100の商店や模擬店となっている。時代と共に出店するお店の数も少なくなって来たのだろう。
 臼や杵を置いているお店にカンジキがあった。立山の方に、作っている人がいるそうだ。 柳の枝も売られており、これは結び柳という正月飾りにするという。
 12時少し前にテントの中で餅つきが始まった。ついたお餅でぜんざいが作られる。チャリティーなので、募金箱に小額を入れて、1杯いただいた。
  餅つきを撮り終えたので、露店を少し撮影しながら駅へと向かう。待合室のストーブで暖をとりながらしばらく待って、13時1分発の城端線で高岡へ。高岡であいの風に乗り換えて帰って来た。
 吹雪いたかと思えば、一瞬晴れ間も出る変な天気。最高気温は1℃か2℃で、寒い一日だった。

 『習俗 富山歳時記/漆間元三』に、賑やかだった頃の福野の歳の市の描写があるので引用させてもらう。

 平野部にも雪がくる師走の夜明けどき、近郊の農村から荷車やそりで、野菜を運んできて、南砺地方でとれた土の香りのする新鮮なネギ・ゴボウ・正月用野菜などが並べられ、越冬用の野菜もこのときに買う。
 師走の二十七日は、その年の市をしめくくる意味で、三百ほどの店が路上に並ぶ。長年の習慣でめいめいが勝手に場所をきめ、勝手に売る。中でも臼・杵・せいろ・天神様の掛軸・しめ縄など、年の瀬を反映した懐かしい正月用品に人気が集まる。集まる人々は付近民で三万人。この暮れ市には、商人が各地から乗りこんできて軒を並べ、寒さを防ぐための大声のせり市もあって賑やかである。
 いまはむかしのように、一年中の入用な物品を買うことも少なくなった。そして各地方の歳の市は次第に姿を消していったのだろうが、それでも福野の朝市だけは、続いている。白菜・大根・名産の里芋などの品物はみな新鮮で、家庭の主婦たちが買いにくる。品物が新鮮なうえ、値段の安いことも手伝って、町の人々はよく二の日と七の日の朝市を利用する。その習慣が庶民の生活のなかにとけこんでいることなどが、今日まで福野の朝市と歳の市をのこしたゆえんであろう。
 年暮れのスーパーや百貨店には、ゴマメやキントンなどの既成品のお節料理がずらりと並び、買いだしの主婦で雑踏するようすは、歳の市の現代版ともいえる。

12月26日(火)

 爆弾低気圧の影響か、朝から強い雨が降ったり霰が降ったりと荒れ模様のお天気だ。

小湾のアギバーリー
 年明けの1月3日、浦添市小湾集落の元住民たちは爬龍船を模した山車を引いて地区の路地を練り歩くアギバーリーを行う。いわゆる地バーリーで、海ではなく路上で舟を漕ぐ。
 小湾集落があった土地は現在、米軍のキャンプ・キンザーの中にある。戦後、軍用地として接収されたため、小湾集落の住民は国道58号(軍用道路1号)を挟んで反対側に位置する、宮城地区に移住した。海に面した小湾から、海のない宮城地区に移住した住民たちは、1915年の大正天皇即位祝賀会行事の際に那覇市泊で行われた地バーリーを倣ってこの行事を始めたという。
大嶺の地バーリー
 那覇市大嶺集落の元住民は、毎年旧暦5月4日に地バーリーを行う。こちらはトラックの荷台に櫂を持った漕ぎ手が乗り込んで地区をまわる。大嶺は旧日本軍によって土地を接収された地区で、嘗ての大嶺の土地は現在自衛隊の基地の中にある。
 大嶺の場合は海が遠浅で干潮時には沖の方まで漕いで行かないとならなかったので、古くから浜で舟を漕ぐ真似をする地バーリーも行っていたというが、土地を接収されて内陸にある宇栄原や小禄に移り住んでからは、地バーリーが彼らのハーリーとなった。
 地バーリーは海を奪われた人たちが、海の民=シマンチュとしての誇りを繋げて行くための大切な行事なのだろう。
鏡水の三月あしび

 大嶺と同じく旧日本軍によって土地を接収された鏡水集落は、小禄飛行場(現那覇空港)となったため、現在は小禄周辺に分かれて暮らしている。
 鏡水の元住民たちは旧暦3月4日に自治会館に集って、伝統行事のサングヮチー(三月あしび)を楽しむ。いわゆるひな祭りで、家事や農作業に追われた女性たちが、この日は仕事から解放されて歌や踊りを楽しむ。
 歌や踊りの前に、シンムイと呼ばれるお菓子や茹で玉子を重ねた供え物を作り、これを持って拝所をまわるが、鏡水集落の拝所の一つが自衛隊駐屯地の中にあるため、事前に自衛隊の許可を取って入らなければならない。
 
 今月、米軍のヘリの窓枠が小学校のグランドに落ちた事件で、被害者である普天間第二小学校へ中傷する電話やメールが届いたという。
 百田尚樹氏の「米軍普天間飛行場は元は田んぼで、何もなかった」という発言を信じている人が少なからずいるのだろう。
 米軍に接収された小湾集落がキャンプ・キンザーになったように、普天間飛行場が建設された場所にも10の字があり9077人が住んでいたという。
 今も飛行場の中には嘗ての住民のお墓があり、先祖供養をするシーミー(清明祭)の時には米軍に申請し許可を得なければお墓参りもできない。

 在日米軍基地のある場所には、少なからずこのような物語がある。

 さて、明日で仲井眞前沖縄知事が辺野古の埋め立て承認をして4年が経つ。辺野古の埋め立て作業が進む中、辺野古区のハーリーはどうなっていくのだろうか。

12月25日(月)

 12月25日は降誕祭(クリスマス)だけれど、奄美の人にとっては日本に復帰した記念の日でもある。富山は雨模様だが名瀬は曇り時々晴れのようなので、今日の「日本復帰記念の日の集い」は、おがみ山(うがん山とも呼ばれる神山)にある日本復帰記念碑の前で開催されただろう。復帰したのは昭和28年12月25日なので、今年は64周年になる。
 名瀬に住んでいた2010年と2011年の2回この式典に参加したが、両日とも雨で名瀬小学校の体育館での開催となり、おがみ山には行けなかった。
満天の星のごとく・・・から01

 上のモノクロの写真は『奄美群島日本復帰40周年記念写真集 満天の星のごとく・・・』に収載されていたもので、キャプションには「昭和28年8月。ダレス声明に歓喜。屋根に上り祝賀飛行機に日の丸を打ち振る。提供・吉良一良(名瀬市)」と書かれている。
 ダレス声明とは昭和28年8月8日に米国のダレス国務長官が出したもので「平和条約第3条に基づいて奄美群島に関して有する権利を放棄する」という内容だった。この声明があり、12月25日に奄美群島は日本に復帰した。

 それにしても終戦から日本復帰までの奄美群島の行政は目まぐるしく変わっている。
◯1946年2月2日、北緯30度以南の奄美諸島が日本の行政権から切り離される。10月に臨時北部南西諸島政府が発足。
◯1950年11月に奄美群島政府に昇格。
◯1951年4月、琉球臨時中央政府を設立し、群島政府は廃止を決定。1952年4月、琉球政府を発足。奄美の行政は沖縄と一体化。
◯1953年12月25日、奄美諸島が日本へ復帰。

 奄美世(あまんゆ)と呼ばれる時代から、琉球王国に支配された那覇世(なはゆ)、薩摩藩に支配された大和世(やまとゆ)を経て、敗戦後はアメリカに統治され、1953年12月25日に日本復帰を果たす。沖縄も様々な支配に翻弄されたが、奄美もまた翻弄された歴史が長く続いた。

満天の星のごとく・・・から02

 上の写真は、名瀬の高千穂神社で行われた祖国復帰郡民大会の様子。キャプションには「昭和28年4月 第17回祖国復帰郡民大会。泉芳朗復帰協議会議長ほか各種団体の代表が高千穂神社で断食を行った。断食は昭和26年8月に初めて行われ、その後も非暴力による祖国復帰運動の象徴として各地で実施された。提供・吉良一良(名瀬市)」と書かれている。
 おがみ山の復帰記念碑の傍には、復帰の父と呼ばれた詩人・泉芳朗の胸像も建っている。

おがみ山から撮影した名瀬の街並み
↑は、おがみ山から眺める名瀬の街並み。2010年10月2日に撮影。
新しいトップ画面

トップ画面を、クリスマスらしく模様替えしました。
  ちょうど10年前の今頃、東京の下町を散歩していて見つけたクリスマス仕様の窓。お母さんが子供部屋をデコレーションしたのだろうか。眺めていると、暖かくなる。

↓これまでのトップ画面。

これまでのトップ画面

12月21日(木)

 午前中は雨が降ったり止んだり、晴れたり曇ったりの忙しない天気。午後は、昨日のように冬晴れ。今年も残すところ10日ほどで、師走の雰囲気がじわりじわりと漂っている。
日枝神社

 昨日は富山の日枝神社で恒例のすす払いが行われるので、朝から撮影に行って来た。
 9時からすす払いの神事が行われるということなので、あいの風とやま鉄道で8時20分に富山駅に到着。ゆっくり歩いて向かうと8時50分頃に神社に着いた。境内では初詣に向けて、参拝客用のスロープなどが作られていた。
 9時になって待機していた新聞、テレビのカメラマンが拝殿に入って行った。

すす払い01
すす払い02

 20分ほど経って神事と本殿のすす払いを終えた神職と氏子崇敬会役員の方々が拝殿の外に出て来て、軒下の埃を斎竹(いみだけ)と呼ばれる笹の葉がついた長い竹で払い落とす。
 作業時間は10分ほどなので、物理的にどれだけ埃が落ちたかと言うよりも、新年を迎える心の準備を整えるということだろうか。
 北日本新聞の記事

←柱を拭く巫女さん。
→斎竹で煤を払う氏子の方々。

すす払い03
 すす払いが終わっても、まだ9時半頃。せっかく富山まで来てこれで帰るのも勿体ないので、11月末になると新聞やテレビのニュースで流れて来る鮮魚店の新巻き鮭の天日干しを見に行く。
 グーグルマップで鮮魚河瀬の地図をプリントして持って来たので、見ながら歩く。鮮魚店の少し手前、向河原町のいたち川沿いにトイレがあったので寄ると、トイレの横に水神社、 観音様、不動尊が並んでいた。観音様と水神社の間には水神さんの霊水と書かれた、湧き水もあった。
いたち川沿いの水神社01
いたち川沿いの水神社02
新巻き鮭01
 水神社から少し歩くと、鮮魚店に到着。天気も良いから干してあるかな?と思ったが鮭はネットの中だった。考えたら猫や虫対策で、普段はネットがしてあるのだろう。
新巻き鮭02
いたち川沿いの稲荷神社?
駅前の再開発ビル

 鮮魚店からいたち川に出て、川沿いの道を歩いていたら、小さな社があった。赤い鳥居が建っている。中には小さな狐が並んでいたので、稲荷神社だろうか。
 いたち川沿いには他にも、湧き水の出る延命地蔵堂などもあるようで、暖かくなったら川沿いを自転車で探訪するのも面白そうだ。
 ぶらぶら歩いて富山駅に到着。シネマ食堂街があった駅前は、新しい複合ビルの建設中だ。

 駅前ロータリーのバス案内所で、新しい地鉄バスの時刻表を1冊もらった。

12月18日(月)

 昨日から北陸地方は、また冷蔵庫の中。今朝は家のまわりでは今期一番の積雪だった。道路を除雪車が走っている。
今朝の家のまわりの雪景色

 昨日は布尻(旧大沢野)にある下タ北部地区公民館へ、お正月飾りの繭玉作りを撮影に行って来た。
 繭玉は枝に蚕の繭に見立てたお餅を付けるもので、花餅・餅花と呼ばれたりもする。奄美大島の一部にもナリムチという名で同じように4色の餅を枝に付けて、小正月に床の間や玄関、お墓に飾る風習がある。
 一年前の北日本新聞の記事で下タ北部地区の繭玉作りを知り、公民館に電話をして開催日と時間を教えてもらった。

 繭玉作りは公民館の大掃除が終わった午前9時頃から始まると聞いたので、あいの風とやま鉄道で6時59分に富山駅へ。一旦改札を出て構内のコンビニでパンを2つ買い、再び改札を入って7時21分の高山線に乗車。
 布尻の最寄り駅は楡原駅で、8時11分に到着。昨年の5月に布尻と隣接する町長の2つの地区で行われるお鍬さま祭りを撮影に一度来ているで、地図を見なくてもわかる。家を出た時は雪が降り始めたばかりで積もっていなかったが、山間部はすっかり雪景色になっていた。 
昨日の楡原周辺の雪景色
 楡原駅を出て神通川を渡り、布尻集落へと歩いて行く。時間に余裕があるので、ところどころ立ち止まって雪景色を撮影。こんな天気じゃなければ撮れない写真がある。寒いのを我慢すれば、撮影日和だ。
 公民館に到着すると、ロビーには作業用のブルーシートが敷いてあった。事務所に伺い「ふるさとづくり推進協議会」の村上清人さんにご挨拶をして、昨年撮影したお鍬さま祭りの様子を纏めたフォトブックを2冊進呈する。
 事務所の中では機械で餅をついているので、さっそく撮影させてもらう。以前は臼と杵でついていたそうだが、これも時代の流れだろう。
繭玉作り01
繭玉作り02

 餅がつき上がったら4等分してボールに入れる。一つはそのまま、残りの3つには赤、緑、黄色の色素を加えて着色する。
 着色した餅と白い餅を女性陣が、それぞれ紐状に伸ばして行く。その細長く伸ばされた餅を男性陣が千切って、枝につけて行く。

←↑公民館に飾る大きな繭玉作り。完成したものは1階と2階の踊り場に飾られた。 

 大きな繭玉作りと同時に、自分の家に飾る小さな繭玉作りも行われた。昨年からミニ門松作りも行っているそうで、門松にユズリハやナンテンと一緒に繭玉もさして飾るそうだ。繭玉は玄関や床の間に置いて小正月の頃まで飾っておくという。
繭玉作り03
繭玉作り04
 繭玉作りは10時20分頃に終わり、参加した人たちは自分の作ったミニ門松と繭玉を持って家に帰って行った。事務所に居られた女性に『とやまの文化財百選シリーズ とやまの年中行事』に掲載されている、布尻・町長のお日待ちや町長・布尻の行者様祭りは続けられているのか尋ねたところ、今も行われているそうだ。
 撮影させていただいたお礼を言い公民館を後にして、お正月の松飾りをつけている家の玄関を撮影させてもらう。この辺りでは12月8日〜13日に松迎えを行い、玄関に松飾りをするという。松飾りは竹の筒に松、ユズリハ、ナンテンをさしたもので門松と同じく年神を迎える依り代だといわれている。松迎えは、その門松用の松を山へ行ってとって来ることをいうようだが、下タ北部地区では松飾りそのものも松迎えと呼んでいるようだ。
↓民家の松飾り。→町長自治会館にも松飾りがしてあった。
松飾り02
松飾り01
 松飾りや雪景色を撮影しながら町長集落の神社の方まで歩き、また布尻の方に引き返して来て神通川を渡る。川を渡って楡原駅の方ではなく、一つ富山駅よりの笹津駅に向かって写真を撮りながら歩く。
町長〜岩稲にかけての雪景色01
町長から岩稲にかけての雪景色02
 笹津駅に行く途中に岩稲という地区があり、こちらに年明けに撮影をお願いしたい個人の家があり、訪ねて行った。玄関のインターホンを押すと、ご夫人が出ていらして応対して下さった。
 自分が富山の祭りと芸能を撮影しており、年明けにこちらのお宅で行われる行事を撮影したい旨をお話しすると了解して下さった。しばらく玄関で行事の事についてお話しを伺い、ここまでの交通手段の話しをしていると、ご主人も玄関においでになって少しお話しをすることができた。
 撮影の了解をいただいたお礼を述べて、また笹津駅を目指して歩く。布尻から岩稲まで歩くと45分くらいかかったが、岩稲から笹津までも40分ほど歩いただろうか。
 12時40分頃に笹津駅に着いて時刻表を見ると、次の富山行きは13時57分で1時間以上ある。もともと朝夕も1時間に1本あるかないかの運行だが、昼は11時6分の次は13時57分で3時間近い空白になっている。
 撮影した写真を確認したりしながら待ち時間を過ごす。
 13時57分の電車は2両編成で、雪降る中を時間通りにやって来た。
高山線の笹津駅にて
 高山線で笹津から富山駅へ。富山駅からあいの風とやま鉄道への乗り換えは、わりとスムーズだった。
 朝家を出る時は降り出したばかりで積もっていなかったのに、撮影を終えて帰って来た時にはしっかりと積もっていた。
 夜、撮影した写真データを現像したりしながらFacebookを見ていたら、「上江洲均氏が死去 沖縄の民具研究の第一人者 80歳」というニュースが流れて来た。
 2013年2月に粟国島へ、旧暦の大晦日から元旦にかけて行われる伝統行事「マースヤー」を撮影に行った。予約していた民宿に行くと同じ船に乗っていたと思われる5人の団体さんと一緒になった。5人の方達が、お腹が空いたと宿のおばさんに昼食を頼むと、どういう訳か食堂で休んでいた僕の分まで出てきた。
「いや・・・私、一緒じゃないんです」と言うと、「まあ、いいから食べなさい」と言われて一緒にご飯を食べた。その5人の団体さんは写真家の安里盛昭さん、文学博士の福田晃さん、上江洲均さん、舞踊家の方々だった。
 民宿は粟国島を撮影のフィールドにしていた安里さんの常宿で、安里さんが「マースヤー」の案内をされたのだろう。この時に上江洲さんからいただいた名刺には、名桜大学名誉教授、久米島博物館名誉館長の肩書が印刷されていた。
 お話しをしたのは僅かな時間だけれど、身の振る舞いが上品な方だなという印象が残っている。 

12月16日(土)

 先日、年収850万円を超える人を対象に所得税の控除見直しによって増税になるということが決まったが、昨日は生活保護費のうち食費などを賄う生活扶助費を来年度から最大5%引き下げる方針が発表された。高所得者の増税よりも、生活扶助費の引き下げの方がより深刻だ。
 年収900万円の人が1万5000円増税されてもダメージはないだろうが、例えば夫婦と子供3人で14〜15万円の生活扶助費から5%引かれればギリギリの生活が崩壊するかもしれない。
 今回生活保護基準が引き下げられたのは、低所得者の消費水準が低いから、そちらに合わせたということのようだが、なぜ低所得者の消費水準が上がる政策を考えないのだろうか。
 収入よりも物価の上昇率の方が高く生活は厳しくなるばかり。2019年には消費税が10%に上げられる。
 第2次安倍内閣が発足したのは2012年11月。もう5年もアベノミクスをやっているが、まだ道半ばという言葉で誤摩化すのだろうか。総理が自慢気に言うアベノミクスの果実とやらは、どこに落ちているんだろか?

 今年の1月にTOKYO MXで放送された『ニュース女子』の沖縄基地問題特集に対して、BPO(放送倫理・番組向上機構)が<重大な倫理違反があった>と結論づけた。
 
 この番組が放送された直後、ジャーナリストの安田浩一さんが沖縄へ取材に行き、番組の内容を検証して記事にしている。
沖縄に関する「デマ」の真相3〜TOKYO MX『ニュース女子」が撒き散らす沖縄、在日ヘイトのフェイク・ニュース

 それにしても、あいかわらず抗議参加者に日当が出ているというデマの流布が止まらない事に驚く。もう何年もネットや嫌沖本で書かれているが、匿名ではなく顔を出して日当をもらったという人の証言は皆無で、どの証言も引用を並べて<あるようだ>と曖昧な表現で濁してある。唯一の物的証拠がボギーてどこん=手登根安則氏が拾ったという、どこにでもある空の封筒でしかないお粗末な都市伝説だ。
 那覇に滞在した2年間に県庁前広場や宜野湾の野外劇場、普天間の野嵩ゲート、嘉手納の防衛局前、辺野古、高江に足を運び写真を撮りながら参加したが、もちろん日当など出るわけがなく、辺野古の座り込み10周年の時にはチャーターバスの料金を皆で負担した。
 ニュース女子の番組で一番驚くのは軍事ジャーナリストだという井上和彦氏が二見小杉トンネルの手前で止まり、ここから先は危険だからと高江取材を断念する場面。二見トンネルから高江は40キロ以上離れている。
 沖縄の東海岸を通った事のある人なら笑うしかないが、トンネルの先にあるのは道の駅のような農産物を扱う「わんさかパーク」であり、その先には瀬嵩、汀間といった小さな集落があり、その先にはカヌチャリゾートがある。どこが危険なのだろうか?
 それでも一定程度、この『ニュース女子』の放送を信じて支持する人がいる不思議。別に沖縄にいかなくても、グーグルマップを見れば二見から高江の距離はわかるだろうし、ストリートビューを使えば、様子もわかる。
 グーグルマップの二見トンネル内のストリートビューを貼付けて置きますので、トンネルの先の風景を確認しながら高江までの疑似ドライブをお楽しみ下さい。こちら

 先日も引用して書いたばかりだが、安田浩一さんが普天間基地に近い野嵩にある保育園に米軍の物と思われる落下物があった事故で、保育園側に誹謗中傷のメールや電話が送られて来た事に対し、「たたくことが娯楽になっている」と指摘し、琉球新報の記事で次のように話している。

 この1、2年で沖縄に対する日本社会の言説が底抜けしたと感じる。機動隊員の「土人発言」を政治家が差別でないと擁護し、基地建設に反対する人に「金をもらっている」「外国の工作員」とのデマをネットや一部メディアが拡散している。
  この風潮は東日本大震災の被災者や生活保護受給者、在日外国人にも及ぶ。マイノリティーが被害や当然の権利を訴えるたびに一部のグループから直接・間接の攻撃が加えられ、社会問題が「なかった」ことにされようとする。分かりやすい「敵」をつくり、たたくことが娯楽にすらなっており、非常に腹立たしい。
 今回の保育園への攻撃も、原因が解明されていない時点でデマと偏った断片情報を集め、「自作自演」と言い張る。この勢力には正当な議論が成り立たない。

 『ニュース女子』を支持する人にとって本当かどうかはあまり重要ではないのかもしれない。ネットでちょっと検索すれば、それがデマや噂でしかないとわかる事を嬉々として拡散している。リテラシーの問題もあるが、安田さんの言うように娯楽なのだろう。
 ところで、基地反対の抗議に外国人が参加していることを問題視する人がいる。この人たちは先の沖縄戦で亡くなったのは日本人だけだと思っているのだろうか。朝鮮半島から連れて来られた人たちも悲惨な扱いを受けて亡くなっている。
 浅見裕子さんの『沖縄道ジュネー』に、渡嘉敷島での聞き取り証言が掲載されているので引用させていただく。

 渡嘉敷島の朝鮮兵も無惨だった。
「日本兵は自分たちだけ安全な所にいて、朝鮮人や中国人を動物よりもひどい扱いをした。大勢の仲間が死にました。骸骨のように痩せ衰え、まるで、キジグナー(幽霊)のようでした」山城ヨシさんはこういいながら、いかに自分が驚いたかを仕草で見せた。
 朝鮮半島から連れて来られた人たちに対する仕打ちは、同じ人間としてあまりにも残忍すぎるものばかりだ。
 日本軍は終戦直前の1945年、満州の関東軍を急遽、沖縄の支援に配備変えしたとされる。
 「長い間、大陸で中国人たちに対して行っていたのと同じことをやったんですよ」
 そういう声が、沖縄の至る所に今も残っている。
 沖縄の海は実に美しい。この青い海が、人びとの生活と文化を築き、守って来た。だが、この海に囲まれた島々は、時として”収容所”と化す歴史をたどって来た。貧しいながらも平和な生活を送って来た住民は、たちどころに”囚人”とされ、支配者たちからあからさまな差別のもとに置かれる。そして”囚人”と”看守”は、建前で付き合ううちはまだしも、ひとたび理性がそこなわれた時は、”囚人”の命は、まるで虫ケラのように粗末に扱われる。

 この番組は取材方法や内容を巡ってネットでも注目を浴びていたので、HUFFPPOSTやLITERAが記事にしている。
「完パケ」見ず放送・・・「ニュース女子」にBPOが指摘した6つの問題
BPO検証で『ニュース女子』沖縄ヘイト特集のデタラメ取材の実態が明らかに!反対派への誹謗中傷も根拠なし
 尚、BPOによる意見書の全文がこちらで読める。

 12月13日に、こんな講演会が行われたようだ。こんな人たちがいる限り、この国は謝り続けなくてはならないのだろう。

「日本の祭り」はここを見る
 アマゾンのマーケットプレイスでポチった『「日本の祭り」はここを見る/八幡和郎・西村正裕』(祥伝社)が、昨日届いた。以前から面白そうだな〜と目をつけていて、手頃な値段になるのを待っていた。送料込みで409円になったので購入した。
 このところ色んなものが値上げされているが、本の送料も257円から一部では350円に上がっている。本の値段が安くても、送料が高くて購入に踏み出せない本もある。
 今年の5月1日に撮影した高岡御車山祭の様子をPhoto Albumにしました。こちら
御車山祭01
↑先頭に立ち、曳山の通る道を露払いして歩く、坂下町の源太夫獅子。
↓前日に神迎えを行った二番町の曳山の巡行。
御車山祭02

12月13日(水)

 強い寒波に覆われて、この3日間ほど北陸は冷蔵庫の中のようだ。山間部は冷凍庫の中かもしれない。平野部でも、今日は少し雪が積もった。
今日の雪景色

 今日の午前10時過ぎ、普天間飛行場に隣接する普天間第二小学校のグラウンドに米軍のCH53E大型輸送ヘリの窓が落下した。7日の午前にも、普天間飛行場に近い野嵩にある緑が丘保育園の屋根に米軍のものと見られる落下物があったばかりだ。
 在日米軍の事故や不祥事が続いており、それに対する怒りももちろんあるが、これらの事故を報道する沖縄タイムスや琉球新報の記事に中傷や事実誤認による見当違いなコメントが多数寄せられており、怒りを通り超えて戦慄すら覚える。人生で何があって精神をこじらせてしまったのか知らないが、よくもこんなコメントが書けるなと思う。
 呆れるコメントが多数寄せられている、ヤフーでの沖縄2紙の記事をリンクしておきます。
「自作自演だろ」「暇だな」 保育園を苦しめる心ない声 電話やメールで十数件
米軍ヘリの部品、小学校に落下 CH53の窓枠か 宜野湾市の普天間第二小
県が全機の飛行停止要要求 副知事「生存権、学習権脅かされている」 米軍ヘリ窓枠落下事故
「普天間」で育った記者が、全国のママ、パパに伝えたいこと
「窓が落下、あり得ない」沖縄県、全航空機の点検・飛行停止を要求

 ジャーナリストの安田浩一さんは、たたくことが娯楽になっていると指摘し、琉球新報の記事で次のように話している。
 この1、2年で沖縄に対する日本社会の言説が底抜けしたと感じる。機動隊員の「土人発言」を政治家が差別でないと擁護し、基地建設に反対する人に「金をもらっている」「外国の工作員」とのデマをネットや一部メディアが拡散している。
  この風潮は東日本大震災の被災者や生活保護受給者、在日外国人にも及ぶ。マイノリティーが被害や当然の権利を訴えるたびに一部のグループから直接・間接の攻撃が加えられ、社会問題が「なかった」ことにされようとする。分かりやすい「敵」をつくり、たたくことが娯楽にすらなっており、非常に腹立たしい。
 今回の保育園への攻撃も、原因が解明されていない時点でデマと偏った断片情報を集め、「自作自演」と言い張る。この勢力には正当な議論が成り立たない。
 調査検証能力があるメディアが事実を積み上げ、報じ続けることでデマに対抗できる。大きな権力ほど非を認めない。米軍の言い分が事実か疑い、検証の徹底が求められている。(談)

 今日で名護市安部の海岸にオスプレイが墜落して一年になる。
 四国電力伊方原発3号機(愛媛県伊方町)の運転差し止めを広島、愛媛両県の住民が求めた仮処分申請の即時抗告審で、広島高裁(野々上友之裁判長)は13日、申し立てを却下した今年3月の広島地裁の判断を取り消し、四電に運転差し止めを命じる決定を出した。 ←こちらは朗報だ。

 今年の4月30日に撮影した、高岡御車山祭りの宵祭に行われる二番町の神迎えの様子をPhoto Albumにしました。こちら

二番町の神迎え01
↑二番町の総代らと子供たちが正装して、関野神社へ神の御霊を迎えに行く。
↓関野神社から運ばれた御霊が、山宿に安置された。二羽のカラスが止まった鳥居は、翌日、二番町の曳山に乗せられる。
二番町の神迎え02

12月9日(土)

パレスチナ人とイスラエル軍衝突。2人死亡・80人けが
 トランプ大統領の配慮を欠いた決断で、流さなくてもいい血が流れ、奪われなくてもいい命が奪われた。
 国連安全保障理事会は8日に緊急会議を開いたが、会議後に英国、フランス、ドイツ、イタリア、スウェーデンのEU五カ国はトランプ氏の決断について反対する声明を発表した。安保理議長国を務める日本の別所大使は「現場の緊張の高まりを深く懸念している」と述べるにとどまった。あいかわらず事が起こった時に、この国は明確な意志を示せずにいる。

 2014年の7月、イスラエル軍がガザ地区に侵攻した時も、パレスチナ側に死者500人(内、約100人が子供)以上が出てからようやく安倍首相はイスラエルのネタニヤフ首相に「停戦に向けた勇気ある決断を強く要請したい」と述べている。
 その後、ガザでの死者が700人を超えジュネーブの国連本部で国連人権理事会が開かれ、イスラエルの軍事作戦を非難する決議が賛成多数で採択された。内訳は賛成29カ国、反対1カ国、棄権17カ国となっており、反対したのはアメリカで、日本は棄権している。
 あの時はイスラエルとパレスチナの戦闘というより、イスラエル軍によるパレスチナへのジェノサイドという表現が近いような様相だったが、ここでも日本は明確な意志を示せなかった。

ホテル「アメリカン」の自由の女神

 上の写真は浦添市にあるキャンプ・キンザーの国道58号を挟んだ向かいにある「アメリカン」という名の今は閉鎖したホテルの敷地に立つ自由の女神。普天間や嘉手納方面に自転車で行く時に、前を通った。この像を見ながら、自由の女神は高い場所にあって見上げる方がいい、地面に置かれて目線の高さが同じだと自由さが感じられないなと思って通り過ぎていた。
 閉鎖したから降ろしたのか、それとも営業していた時からここに立っていたのかわからないが、最近の報道で見る・知るアメリカが、この自由の女神像と重なって見える。

 6日の毎日新聞に「もんじゅ廃炉 核燃料回収、詳細は未定 完了に30年」という記事が掲載されており、具体的な方法は決まっていないが期間は30年で費用は3750億円と書かれていた。そして、今日のNHK WEBには「再処理工場 完成時期3年延期で調整 青森六ヶ所村」という記事が流れていた。
 六ヶ所村の再処理工場は平成9年12月に完成する予定だったが、度重なるトラブルで23回先延ばしになったため当初の計画より24年遅れることになる。建設費も膨らみ、当初の約4倍の3兆円に上っている。
 もんじゅの30年、3750億円の計画も、六ヶ所村再処理工場と同様に計画の先延ばしと費用の増加が想像できる。
 現在国内の原発で廃炉作業中もしくは、これから廃炉作業に取りかかるのはもんじゅや福島第一原発1〜6号機の他に、東海発電所(2025年度に廃炉解体終了予定)、ふげん(2033年度に廃炉解体終了予定)、浜岡原子力発電所1、2号機(2036年度に廃炉解体終了予定)、美浜発電所1、2号機(2015年4月に廃炉決定。終了未定)、敦賀発電所1号機(2015年4月に廃炉決定。終了未定)、玄海原子力発電所1号機(2015年4月に廃炉決定。終了未定)、島根原子力発電所1号機(2015年4月に廃炉決定。終了未定)、伊方原子力発電所1号機(2016年5月に運転終了。解体終了未定)という10施設17基ある。これらの作業中にも廃炉を迎える原発は出てくるだろう。これだけの作業をこなす人員と予算の確保は、出来ているんだろうか? 
 ちなみに、国内の原発で一番早く廃炉作業が終了するのは2025年度を予定している東海発電所だが、運転終了は1998年3月だった。原子炉の解体開始は2019年になっているが、これも当初は2014年の予定だった。
 先日は「<もんじゅ設計>廃炉想定せず ナトリウム搬出困難」というニュースで「設計当時は完成を急ぐのが最優先で、廃炉のことは念頭になかった」という発言に唖然となったが、もんじゅだけではなく他の原発もこんなものかもしれない。いずれにしても、日本ではまだ1基も廃炉を完了した実績がない。

ジャーマンケーキ01
ジャーマンケーキ02
←↑久しぶりに食べた、ジミーのジャーマンケーキ。直径21センチのホールで税込み1,450円は、やっぱり安いと思う。
 11月28日が父親の誕生日で、12月7日が母親の誕生日、そしてクリスマス。父親の誕生日には間に合わなかったが、ケーキを食べる機会が続くのでジミーのネット通販でジャーマンケーキアップルパイを購入した。共に冷凍なので保存が利く。7日の母親の誕生日にジャーマンケーキを1切れずつ食べた。スポンジがちょっとパサパサしてるかな?と思ったが、こんなものだったか。那覇に住んでいた時に、5日ほどかけて一人で1ホール食べた。スポンジの上に掛かっているココナツがシャリシャリしていて美味しい。ジャーマンケーキの名前の由来は、こちらに詳しく載っている。
 残っていたジャーマンケーキを今日の晩ご飯の後に、一切れずつ食べた。クリスマスは冷凍庫に入っているアップルパイだ。

12月6日(水)

 今日の未明、寝る前に窓を開けると雪が降っていた。朝起きて窓を開けると、この辺りではこの冬最初の積雪。積もるかな?と思ったが、その後は雨に変わり午前中には溶けてしまった。
今日の雪景色

 アメリカが、エルサレムをイスラエルの首都と認めるというニュースが流れて来て驚いた。弾薬庫に向かって、火を投げ入れてるようにしか見えない行為だ。
 アラブ諸国は一斉に反発しているという。
 「いつもより余計に回しておりま〜す」の海老一染之助・染太郎の、弟・染之助さんが亡くなられた。兄の染太郎さんは、2002年に亡くなっていたのか。

←今朝の雪景色。この冬最初の積雪。

 元XTCのアンディ・パートリッジを撮影する機会が2回あった。最初は1992年9月で、彼が宿泊していた渋谷のセンター街の奥にあった小さなホテルで撮影した。ロビーでインタヴューカットを撮った後、ちょっと街に出てもらった。
 歩いていると櫓のようなものがあったので、その前にカラーペーパーを貼り彼に立ってもらった。櫓の上に担当編集者の加藤さんを上げて、アンディ・パートリッジの首を手で締めた。「ナイス スナップ!」だったか「グッド スナップ!」だったか、後で加藤さんの締め方を誉めていた。
 そんな撮影を路上でしていると、傘をさした女子中学生が通りかかり、アンディ・パートリッジが一緒に写真を撮ろうと声を掛けた。女の子の持っていた傘を自分で持って、真ん中に立った。傘に書かれたMOSCHINOの文字とカラーペーパーが狙ったように同色。ガジェットっぽい感じで個人的には好きな写真なのだが、こちらは雑誌に掲載されることはなかった。
 渋谷を歩いていて変なオジさんたちに声を掛けられて一緒に写真を撮った彼女たちは、どうしているだろう。もう記憶の隅にもないかもしれないが。
アンディ・パートリッジ
↑アンディ・パートリッジ。1992年9月19日撮影。↓XTC with 鈴木慶一。1999年3月16日。
XTC with 鈴木慶一01
XTC with 鈴木慶一02
 2度目にアンディ・パートリッジを撮影したのは1999年3月で、アルバム『Apple Venus Volume1』のプロモーションのためにXTCのメンバーとして来日した時だった。デイヴ・グレゴリーが脱退し、XTCはコリン・モールディングと2人だけになっていた。
 鈴木慶一さんとXTCの2人の対談という形だったろうか。対談が終わりフォトセッションとなった時に、アンディ・パートリッジがレコード会社のスタッフにフロアにある傘を全部持って来てくれと声をかけた。集められたたくさんの傘をXTCの2人が抱えて、撮影用に張った黒布の前に立った。
 真ん中に鈴木慶一さんに入ってもらい、傘をさしてもらった。写真は慶一さんが傘をさしている写真と、ただ立っている写真の2パターンを撮影した。雑誌で掲載したのは、傘をさしていない方だった。
 アンディ・パートリッジのアイデアだった傘写真を撮り終えて、今度は自分が撮りたい写真をお願いした。3人並んでもらって正面、横、後ろを3パターン撮らせてもらった。たぶんこの写真があれば、3Dデータを起こして鈴木慶一さんとXTCのメンバーの胸像が造れるはずだ(笑)。

 さて、アンディ・パートリッジの著書『XTC コンプリケイテッド・ゲーム:アンディ・パートリッジの創作遊戯(仮)(原題:Complicated Game: Inside the Songs of XTC)』の邦訳版が12月22日に刊行されるそうだ。熊本地震発生直後、アンディ・パートリッジがツイッターを通じて、XTCのファンとして知られる熊本市長・大西一史を激励したという経緯から、本の収益の一部が「熊本地震復旧・復興寄附金」として熊本市の復興支援のために寄附されるという。

 今年の4月29日に撮影した石動曳山祭りの様子をPhoto Albumにしました。こちら

石動曳山祭り

↑夕方になり提灯がつけられた曳山11基が、駅前通りに並んだ。今年はかつて曳山と一緒に曳きまわされていた歌舞伎山6基の内の一つ、中下飯田鍛冶町の歌舞伎山が組み立てられて道林寺に展示された。

12月3日(日)

 朝から晴れで、日中の最高気温は15℃。せっかくのお出掛け日和なのだが、先月末から風邪をひいてしまった。熱は無く、喉がいがらっぽく鼻が詰ったり鼻水が出たり。家にいてパソコンの前に座り大人しく作業をしているので悪くはならないが、良くもならない。
 天皇陛下の退位が2019年4月30日、皇太子の即位が翌5月1日に決まった。2019年の5月1日から新しい元号になるのだろう。 平成が新元号になった時は、当時官房長官だった小渕氏が記者会見をし、「新しい元号は平成であります」と話して平成と書いた紙をテーブルの上に掲げた。
  当時テレビの街頭インタヴューでこの新しい元号をどう思うか聞かれた青年が、「パッションが感じられない」と答えていたのが今も印象に残っている。平成の次の元号が何になるのか。どんな元号になっても、しばらくはヨソヨソしく感じるだろう。
  11月30日の沖縄タイムスに、沖縄の八重瀬町富盛地区で、42年ぶりにノロの就任が行われたと記されていた。会員限定記事なので詳細は読めないが、<就任に伴う御願と祝宴は先代ノロの義母・故キヨさんが就任した1975年以来42年ぶりになる>とあるので嫁継ぎなのだろう。
 加計呂麻島の薩川集落を散歩していた時にカミミチや神山、ノロの話しを集落の女性としていて、ノロの方は亡くなったがお嫁さんがノロを継ぐかもしれないと聞いた。その後どうなっただろうか。

 昨日、ヤフーのトップ画面にニュースと並んで<野宮真貴、57歳「加齢の経年変化」について語る>という記事が配信されていた。そうか、野宮さんは同い年だったか。野宮さんが57歳なら、トレーシー・ソーンは何歳になっただろうと思い検索すると、彼女は55歳だった。
  野宮さんの名前を知ったのは、彼女が在籍していたポータブル・ロックでだろうか。たしか鈴木慶一さんが中心となっていた水族館レーベルのオムニバス『陽気な若き博物館員たち』に何曲か収録されている。徳間ジャパンから1983年に発売されたのだが、同じ頃にトリオ・レコードからチェリーレッド・レーベルのアルバムが日本でも発売されるようになって、トレーシー・ソーンの『遠い渚』、ベン・ワットの『ノース・マリン・ドライヴ』を知った。トリオから配られたプレスリリースに、鈴木慶一さんの推薦コメントがあったように思う。
 同じようにジャパンからはラフ・トレードが、新星堂からはクレプスキュール・レーベルのアルバムも発売されてアズティック・カメラやアンテナ、ミカドといったアーティストが日本で紹介された。当時、ちょっと力の抜けた音が新鮮で自由国民社のギター・ライフでページをもらってまとめて紹介記事を書いたことがある。
 野宮さんとトレーシー・ソーンの音楽は違う方向だろうが、なんとなく二人を並べてしまうのは1983年頃の音楽状況からだろうか。野宮さんはその後ピチカート・ファイヴに、トレーシー・ソーンはエヴリシング・バット・ザ・ガールに。もう、『遠い渚』から34年ほどが経つのか。
  昔は、プリント作業で暗室に籠る時に一番音楽を聴いていた。プリントを始める前に聴きたいCDを何枚か並べておいた。ピチカート・ファイヴの『女性上位時代』『ボサ・ノヴァ2001』、エヴリシング・バット・ザ・ガールの『エッセンス&レア82−92』もヘビーローテーションでかけていた。
 You Tubeから「 Sweet Soul Revue /ピチカート・ファイヴ」 、「Femme Fatale/トレイシーソーン」。
ピチカート・ファイヴ時代の野宮真貴さん
↑ピチカート・ファイヴ時代の野宮真貴さん。1991年12月18日に撮影。
 今年の4月29日に撮影した、四方子供曳山祭りの様子をPhoto Albumにしました。こちら
四方子供曳山祭り01
↑四方子供曳山祭りは春と秋の2回行われる。春は四方神社の春季例祭として、秋は神明社の秋季例祭として。写真は曳山一台一台を祓い清める、四方神社の神職。
四方子供曳山祭り02
↑お祓いが済むと、各曳山は自分の町内に戻り巡行する。高さ3〜4mほどの小型で子供曳山祭りと呼ばれているが、子供だけで引くわけではない。もともとは江戸時代中期より始まったそうだが、昭和20年の大火で焼失して、戦後に今の小型の曳山を建造したそうだ。

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