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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能

11月3日? 砺波・頼成の獅子舞
11月20日 氷見市小杉の恵比寿祭
11月23日(木) 高岡・射水神社 新嘗祭10時〜 新嘗祭神楽歌の記事1記事2
12月27日(水) 福野 歳の大市


朴谷の獅子舞 1月2日
小川寺の獅子舞 宮田・火祭り1月第4日曜日 記事 記事
◯お鍬さま 1月11日 記事記事
◯2月5日 節分祭 富山県護国神社 やいかがし(柊に焼いた鰯の頭を刺したもの)をお供え
◯与四兵衛祭 関野神社 4月3日
◯4月 埴生護国神社 屋根の葺き替え完成の慶賀祭を予定
◯4月第2土曜?10時〜 小矢部 福町神明宮 春福まつり 神獅子(行道獅子)
◯4月15日に近い土曜日? 楡原の獅子舞
◯4月19日 新川神社 春祭り どべ(猿田彦) 記事
◯4月第4日曜日? 富山市中島の獅子舞
利屋町の天神祭り 5月25日前後の土・日曜日 関野神社から木像天神像が運ばれ、龍雲寺へ。
◯射水市三ヶの十社大神 御田植祭
◯6月? 櫟原神社春季例大祭 宵祭に鯛行燈(ヤサコ)や高張提灯の行列が渡る。
◯7年に1度、10月に開催 次は2022年 朝日町山崎 米吊り奉納
◯黒部市中陣のニブ流し
◯高岡大仏まつり
◯下タ北部地区 正月の繭玉作り
◯福岡町沢川の獅子舞 9月の第4土曜日?
◯5年に一度、若手神職でつくる県神道青年会が御田植祭
◯33年に一度 庄川の神賑わい 次回は2023年7月

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事
富山の祭り
*砺波の獅子舞 各地区の日程
年中行事覚書 柳田国男
田の神祭りに見る日本人の神意識

◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作
○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

11月29日(水)

 朝、パソコンを起ち上げてニュースを見ると、北朝鮮がミサイルを発射していた。

 福岡町の山奥に沢川(そうごう)という集落がある。沢川出身の中学時代の同級生も何人かいるが、集落へは行ったことがなかった。ちょっと気になって調べたら、高岡市公営バスに乗れば片道100円で行けることがわかった。近所のUホールからバスが出ていて、1時間弱で到着する。
 快晴だった昨日の午後、自転車を漕いでアチコチ出掛けるほどの元気もなかったので、ふらっとバスに乗って行ってみた。
 午後は12時40分、16時、18時17分の3本。16時にUホールを出発して終点の沢川に16時54分に到着する。このバスが17時に折り返してUホールに戻る最終バスとなる。沢川に到着しても、集落を見ないで帰ることになるが往復でも200円だ。
 そう言えば沖縄では一日乗り放題の切符を買ったら雨で、ずーっとバスに乗っていたことがあったし、富山から奄美に向かう途中に寄った広島や長崎、熊本、鹿児島で一日乗り放題の路面電車の切符を買って車窓を眺めて過ごした。
 16時発のバスは少し遅れてやって来た。バスに年配の女性2人と学校帰りの小学生が3人乗っていて、沢川の子供だろうかと思っていたら、途中で降りてしまった。
 中学校前から乗車して来た女の子が小野で下車したら、乗客は自分一人の貸し切り状態になってしまった。西明寺までは自転車で来たことがあるが、沢川どころか小野や五位に来るのも初めてかも知れない。それとも遠足で来たことがあるだろうか?
 五位ダム、五位キャンプ場、家族旅行村の辺りは木々が紅葉している。紅葉も終わりかけだろうから、もう少し早く来ればよかった。
 沢川に到着すると、すっかり日が暮れてしまった。折り返すまで5分ほどあるので外に出る。運転手さんも降りて来たので、話しかけると沢川出身だという。
 自分が中学生だった頃、沢川の子供たちは中学校の側にあった寮に住んでいた。冬場だけだと思っていたが、運転手さんによれば寮は「若竹寮」という名前で、一年中寮生活だったそうだ。この寮のことを覚えているのは中学生時代はブラスバンド部に居て、沢川の子供たちが家に帰る夏休みに、この寮で合宿をしていたからだ。今はどうしているんだろうと思ったら、もうこの集落に小中学生はいないそうだ。
 昔は100軒ほどの集落だったが、今明りがついている家は20軒ほどで一人暮らしの老人ばかりのようだ。
 すっかり暗くなった道を、また一時間近くかけてバスは町中に戻る。自動車で町と沢川を行き来するなら片道20分ほどだそうで、充分に通勤圏内だ。

バスで沢川へ01
↑バスで沢川へ。
↓滞在時間5分ほど。唯一撮影した沢川バス停前の一枚。
バスで沢川へ02

 家に帰りパソコンで沢川のことを少し検索してみたら、沢川の成り立ちについて書いたサイトが見つかった。それによると小矢部の宮島に隠れ住んでいた平安時代後期の僧侶、俊寛僧都を慕った7人の百姓が、宮島に近い沢川に居を構えたのが始まりだという。

治承元年(1177)
平家打倒の計に敗れた俊寛僧都は鬼界が島に流刑が決まったが平教盛の仁情により教盛の所領、越中宮島郷に隠置された。
俊寛を慕い集まった七件百姓、「八エ門」「七蔵」「孫蔵」「勘五郎」「長次郎」「九蔵」「勘九郎」が宮島に近い「澤川」の地に住居を求めて澤川村の開拓の祖となった。
俊寛没後、その守護の神が自ら山道を越えて、この地に来たり夢に告げて曰く、 「吾、汝らと共に、此処に鎮座す」との神詑を受けて「愛宕社」を建て村が次第に発展したと言う。

*七件百姓は、七軒百姓だろうか。

 俊寛の流刑地は諸説あるようだが、一番ポピュラーなのは奄美群島の喜界島で、2011年の5月に喜界島へ行った時に俊寛の墓にも寄った。
 小矢部の宮島峡に俊寛塚という俊寛のお墓だろうという塚があると知ったのは、最近のことだが、沢川もまた俊寛由来の土地だと知って不思議な気持ちだ。
 沢川の愛宕社と、小矢部の俊寛塚や俊寛杉をいつか見に行きたい。ネットで調べると小矢部の宮島まで小矢部市営バスが運行しており、一日乗車券が200円となっている。バスの終点から俊寛塚までは、どれくらい歩くのだろうか。
 家から自転車で石動まで走り、市営バスで宮島峡まで行って俊寛関連の場所を訪ね、帰りに石動駅前で立ち食いうどんを食べる旅は楽しいだろうな。

喜界島にある俊寛の像とお墓
↑喜界島にある俊寛の像(左)と、お墓(右)。2011年5月14日に撮影。
もんじゅ設計 廃炉想定せず ナトリウム搬出困難
原子力機構幹部は取材に対し「設計当時は完成を急ぐのが最優先で、廃炉のことは念頭になかった」←余りに酷すぎて、吹きそうになった。

11月24日(金)

 那覇の漁協に所属するマグロはえ縄漁船「第一漁徳丸」がパラオ沖で転覆しているのが見つかり、乗組員の安否が心配されていたが、昨日のニュースで7人全員の無事が確認されてホッとした。7人に怪我はなくフィリピンのホテルに滞在しているという。転覆している船が発見された時、救命ボートが外されているとも報じられていたので、望みがあると思っていた。とにかく何よりの知らせだ。

 第一漁徳丸が所属する漁協がある那覇の泊港は、住んでいた上之屋にあるビルから自転車で5分くらいだったので、離島に出掛けている時を除けば週に平均2回ほど買い物に行っていただろうか。
 マグロの中落ちや切り落とし、ハラゴー、脳天、カマなどがパックに山盛りに入って300円とか500円だった。夕方に行くと大きなパックに刺身の切り落とし盛り合わせが500円で売っていて、持つとズシリと重かった。運が良いと閉店間際のセールで、中トロ、大トロの刺身2000円〜3000円ほどの商品が全て1000円になった。マグロばっかり食べていた2年間だった。
 あまり知られていないが、沖縄は近海にマグロの漁場があることから有数の生鮮マグロの産地で、中でも那覇市は県内マグロ水揚げ量の約半分を占めている。2010年8月には、市の魚を「マグロ」と制定したほどだ。
 
 泊港にはコンテナが並んだ一角があって、フェンス越しに中の様子が道路から見えた。東南アジア系の青年たちが洗濯物を干していたりする姿も見かけたので、コンテナは陸に上がった時の休憩所なのかもしれない。周辺で、自転車を漕いでいる彼らを見ることもあった。
 今回救助された第一漁徳丸の乗組員7人の内、5人がインドネシアの青年だった。ひょっとすると、漁港の周辺ですれ違っていたかも知れない。

那覇の泊港
↑那覇漁協がある泊港。競りが行われる場内は関係者以外立ち入り禁止だが、2階にある事務所で申請すると帽子と長靴を貸してくれて撮影の許可が出た。2012年7月7日撮影。
 昨日は勤労感謝の日で、祝日だった。多くの神社では、収穫を祝い、新穀を神様に捧げる新嘗祭が執り行われた。今年はどこかの神社の新嘗祭の様子を撮影したいと思っていたら、21日のテレビニュースで射水神社が今年の新嘗祭で戦前まで歌われていた神楽歌を再現するという話を知ったので、射水神社で撮影のお願いをしてみることにした。
 射水神社の新嘗祭は午前10時からと北日本新聞に書いてあったので、少し余裕をみて8時36分に高岡駅に着く電車に乗った。高岡駅からゆっくり歩いて射水神社のある高岡古城公園へ。着いたのが9時前だったので、しばらく周辺を散歩してから神社へ向かう。巫女さんが通りかかったので、今日の新嘗祭を撮影させていただきたい旨伝えると、「大丈夫ですよ」とお返事をいただく。
 9時半を過ぎたところで列席者の居ない拝殿に入れてもらい、神饌の数々を撮影させてもらった。新穀や野菜はもちろん、福岡町の菅笠や高岡銅器と言った地元の特産品も並んでいた。
↓射水神社。→社殿の外に祭壇が設けられていた。
射水神社の新嘗祭02
射水神社の新嘗祭01
↓→奉賛会員や地元企業などから贈られた神饌の数々。
射水神社の新嘗祭04
射水神社の新嘗祭03
射水神社の新嘗祭05
 神事の始まる10分ほど前から、列席者が社殿に入る。入り口で神職が、奉唱する「新嘗祭神楽歌」の歌詞を書いた紙を手渡している。社殿の前では宮司を始め神事を司る神職が整列している。
 10時になり、外の拝殿で祓詞が奏上され、次いで大麻を持った権禰宜が社殿に入り修祓を行う。
↓→外に並んでいた権禰宜が大麻を持って社殿の中で修祓を行う。
射水神社の新嘗祭07
射水神社の新嘗祭06
射水神社の新嘗祭08

 修祓を行った権禰宜がもう一度社殿の外に出て、今度は他の神職と一緒に拝殿の中に入って行く。
 宮司が一拝した後、拝殿の奥にある本殿の扉を開ける。そして献選の儀が行われた。
 宮司が献選している間に、今回初めて歌われる「神楽歌」が神職と列席者によって奉唱された。
←本殿の扉を開ける宮司。
↓宮司による献選(左)と、新嘗祭神楽歌の歌詞。

射水神社の新嘗祭09
射水神社の新嘗祭10

◯射水神社「新嘗祭神楽歌」の歌詞
民安(たみやす)かれと二月(きさらぎ)の 祈年祭(としごいまつり)しるしあり
千町(ちまち)の小田(おだ)に打ちなびく 足穂(たりほ)の稲(いね)のうまし稲
御酒(みき)につくりて奉(たてまつ)る 新嘗祭(にいなめまつり)たうとしや


←宮司による祝詞奏上。

射水神社の新嘗祭11
 「神楽歌」奉唱の後、宮司の祝詞奏上があり、続いて巫女による「浦安の舞」と、空手道千山道場の堀田千宴子師範による演武の奉納が行われた。
射水神社の新嘗祭12
 奉賛会会長や列席者の玉串奉奠の後、撤饌が行われ宮司により本殿の扉が閉じられた。
↓国歌斉唱。→宮司による挨拶。
射水神社の新嘗祭14
射水神社の新嘗祭13
 「君が代」を斉唱した後、最後に松本宮司が挨拶をして新嘗祭の神事は終わった。10時に始まり終了は11時15分頃だった。この後、別室で直会が行われるようだ。
射水神社の新嘗祭15
射水神社の新嘗祭16

↑列席者に配られた新穀(左)と紅白のお餅。

 拝殿の外では新穀を包んだ紙と、紅白のお餅が権禰宜と巫女によって配られ、私もありがたくいただいた。
 新嘗祭は終了したが、晴れ着の子供を連れた家族がお参りに訪れていた。七五三の時期か。境内の一角に、七五三用と思われる絵馬がたくさん掛かっていた。
 神事の後、古城公園の紅葉を撮影しようかと思っていたが、あいにくの雨で断念して家路を急いだ。  

巫女さんから式次第をいただいたので、載せておきます。
当日早旦社殿を装飾す
時刻宮司以下祭員献幤使及び参列者参進
次に 宮司以下祭員献幣使及び参列者祓所に着く
次に 修祓
次に 宮司以下祭員献幣使及び参列者所定の座に着く(此の間奏楽)
次に 宮司一拝
次に 宮司御扉を開き畢りて側に候す
次に 宮司新穀・神饌を供す(此の間新嘗祭の唄奉唱)
次に 宮司祝詞を奏す
次に 禰宜幣帛(へいはく)を献ず
次に 献幤使祭詞を奏す
次に 神楽「浦安の舞」奉奏(鈴舞のみ)
次に 「空手」奉納
次に 宮司玉串を奉りて拝礼 祭員列拝
次に 献幤使玉串を奉りて拝礼
次に 参列者玉串を奉りて拝礼
次に 禰宜幣帛並びに神饌を徹す(略儀)(此の間奏楽)
次に 宮司御扉を閉じ畢りて本座に復す(此の間奏楽)
次に 国歌斉唱(一回)
次に 宮司一拝
次に 宮司挨拶
次に 各退出
次に 直会

 web版の方には記事が掲載されなかったので、今朝の北日本新聞の記事を引用させていただく。
北日本新聞11月24日の記事。
◯再興の神楽歌奉納
射水神社(高岡市古城、松本正昭宮司)の新嘗(にいなめ)祭は23日、同神社で行われ、戦前の史料を基に再興させた「新嘗祭神楽歌」を奉納し、五穀豊穣(ほうじょう)に感謝した。
 同神社崇敬奉賛会員ら約80人が参列。献撰(けんせん)の際に神職が「新嘗祭神楽歌」を奉納した。松本宮司が祝詞、奉賛会の穴田甚朗会長が祭詞を奏上し、みこが浦安の舞を披露した。
 神楽歌は昨年10月、都内で見つかった射水神社に関する新嘗祭の史料に歌詞が書かれていた。唱歌「新嘗祭」から雅楽用に譜面を起こし、奉納に向けて神職が練習してきた。
 神前には農産物や菅笠(すげがさ)、高岡銅器などの特産品が供えられ、参列者は多くの恵みに感謝した。空手道千山道場(高岡市)の堀田千宴子師範が演武した。

 一昨日の日本経済新聞によると、東電は22日、福島第1原子力発電所事故の賠償資金として70回目の追加交付で289億円を受け取ったそうだ。政府から受け取った賠償資金の総額は原子力損害賠償法に基づく1889億円と合わせ、7兆7105億円となる。数字が巨大すぎて、もはやイメージも浮かばない。
 そんな東電が再可動を目指す柏崎刈羽原発で、防火対策の不備が60ヶ所余りで見つかったというニュースが昨日のNHKで放送された。この会社に原発を動かす資格があるのだろうか。

11月21日(火)

 来日コンサートから訃報や誕生日まで、ミュージシャンの情報はSNSで知ることが多くなった。
 今日はFacebookに、Dr.ジョンの誕生日だという情報が流れて来た。1940年生まれで77歳になるそうだ。
 カラーのライヴ写真は1987年7月にネヴィル・ブラザーズと一緒に来日して、インクスティック芝浦で演奏した時のもの。30年以上も前なので、46歳か。
 ドアップの顔写真は、ピアノを弾いている時のもの。70〜300mmのズームレンズを買ったばかりで、望遠で撮れるのが楽しくてアップを狙っていた。ブレブレの写真だけれど、気持ち良さそうに、そして優しい顔で写っていて好きな一枚だ。
 ギターを弾いている写真は、ネヴィルのメンバーも写っているので彼らのステージにDr.ジョンがゲストで参加したのかもしれない。Wikipediaによれば、Dr.ジョンは1950年代にギタリストとして活動をスタートしたが、1961年に友人をかばって左手を拳銃で撃たれ、薬指が不自由になりピアノに転向したそうだ。ギターを弾く彼の写真は、他に見たことがない。
 モノクロの写真は、音楽雑誌の仕事で撮影した。1992年の4月で、取材用に用意されたホテルの一室。新宿の京王プラザじゃなかったろうか。インタビューの後、窓際に座ってもらって何枚かシャッターを切った。この時で51歳か。今の自分よりも若いのがなんだか信じられない。
 Dr.ジョンは若い頃に既に熟成して、それ以降はあんまり老いなくなったのだろうか。昔の写真と今の写真を見比べても、あまり違いがわからない。
 本名はMalcolm John Rebennack Jr.で、Dr,ジョンとは19世紀のニューオーリンズにいたブードゥー教の司祭の名だそうだが、以前読んだインタヴュー記事に、彼自身もブードゥーの呪術師という肩書を持っていると書いてあった。それで歳を取らないのだろうか?

ドクター・ジョン01
ドクター・ジョン02
↑↓1987年7月撮影。→1992年4月撮影。
ドクター・ジョン03
 You Tubeから「IKO IKO/Dr.John」。
 昨日は午前中に氷見市小杉地区の恵比須祭り、夕方から宇奈月町下立に伝わるおーべっさま迎えを撮影してきた。

11月20日(月)
  今年の2月11日に起舟祭を撮影させていただいた氷見市の小杉地区では、6月10日と11月20日に豊漁と海上安全を祈願する恵比須祭りが催される。起舟祭は菊理媛像石神社(きくりひめかたいしじんじゃ) で行われるが、恵比須祭りは同じ境内にあるえびす堂で催される。このお堂には、木彫彩色の御神像が祀られている。
 区長さんに撮影のお願いをしたところ、恵比須祭りは 午前10時から菊理媛像石神社で執り行われる新嘗祭の後に始まるということなので、両方撮影させていただくことにした。また、御神像のえびす様は神事の際もご開帳されないので、神事の後に特別に撮影させてもらうことになった。 

菊理媛像石神社
 小杉には高岡駅から8時45分発の脇行きのバスが出ている。
  8時36分に高岡駅に到着するあいの風とやま鉄道に乗ろうと最寄り駅に行くと、4分ほど電車が遅れているというアナウンスで一瞬あせった。
 高岡に到着するまでに少し遅れを取り戻し、バスへの乗り換えは余裕だった。
 脇行きに乗車し、9時35分に小杉に到着。バス停の向かいに神社がある。

←菊理媛像石神社。
↓→10時を少し過ぎて、宮司さんの神楽太鼓で新嘗祭がはじまった。
新嘗祭02
新嘗祭01
新嘗祭03
新嘗祭04

↑修祓と祝詞奏上。
←玉串奉奠。

 撮影のお願いをした区長さんは用事ができたのか不在となったが、新嘗祭の神事は10時を少し過ぎて始まった。
 神楽太鼓、祓い言葉、修祓、献撰、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌と続き20分ほどで終了した。
 通常新嘗祭は11月23日に執り行われるので、小杉地区の新嘗祭は日本で一番早い開催かもしれない。

 新嘗祭に引き続き、隣りのえびす堂へ移動して恵比須祭りが斎行された。尚、氷見市博物館製作の『氷見の祭りと年中行事』では、えびす堂ではなく魚取(なとり)社、恵比須祭りではなく魚取祭(えびす講)と表記されている。また、御神像は幕末期に造られ、昭和21年に高岡の本保喜作氏によって塗り替え修繕が行われたと書かれている。
↓えびす堂。→御神像が祀られた祭壇。
恵比須祭り02
恵比須祭り01
↓お堂は奥行きがなく、横に広い。→始まりの神楽太鼓。
恵比須様祭り04
恵比須様祭り03
恵比須祭り05
↑修祓と玉串奉奠。
↓→神饌と、御神像のえびす様。
恵比須祭り07
恵比須様祭り06
網元の家
 恵比須祭りも宮司さんの神楽から始まり、祓い言葉、修祓、祝詞奏上、玉串奉奠と続き20分ほどで終わった。
 神事が終わって神饌が片付けられてから、御神像の前に掛かっている布を外してもらい撮影を開始。この撮影のためにモノブロックのストロボ、デュフューザー付きの傘、スタンドを持って来た。
 撮影は直ぐに終わり、地区の方にお礼を言って神社を後にした。
←かつての網元の家。奥が屋敷で、手前は門のようだ。

 高岡に戻るバスは12時17分で、少し時間があるので近くの網元だった家を撮影したりして過ごす。
 高岡に到着して、お腹が空いたので駅ビル2階にある今庄で「きつねちゃんぽん」に生玉子で昼ご飯。次は宇奈月町の下立地区に伝わる「おーべっさま迎え」を撮影に行く。おーべっさまは、えびす様のことだ。漁村ではえびす様は大漁をもたらす神様として崇められているが、下立では出稼ぎの神様として崇められている。出稼ぎに行ってらした自分の家のおーべっさまが、11月20日に電車に乗って帰って来ると伝えられている。
 高岡を13時40分発の電車で黒部に向かう。富山で一度乗り継いで14時34分に到着。黒部駅から富山地方鉄道に乗るため電鉄黒部の駅まで歩く。14時49分発の電車に乗れるかと思ったが、駅に着くと既に電車は出ていた。でも、今日撮影させていただく家では夕方17時頃から行うということなので、次の15時17分発でも早く着き過ぎるくらいだ。
 このおーべっさま迎えを最初に知ったのは、『習俗 富山歳時記/漆間元三著』にある「エビス神の送迎」という文章だったろうか。そこには以下のように書かれていた。
 毎年十一月二十日夕、北海道の海へ稼ぎにでているエビスサマが、海も寒くなるので、帰ってくる。しかも沢山の金を稼いで帰る。その晩は玄関の大戸を少し開けておく。夕方になると、エビスサマの夕食の準備で勝手元は忙しい。ご膳の準備を整えて、神棚の下へ主婦が運んでいく。神棚の真下には座布団が置かれて神座を設ける。
 ご膳には二匹の赤鯛、神酒の他に小豆飯、オツケ(魚汁に豆腐)、ナマス(大根ナマスと鰯の身)、オヒラ(ゼンマイ・人参・牛蒡・油揚げの煮シメ)、オシズシ(飯の中にサバ、イワシの身をはさみ、上には海苔をつける)が並ぶ。そして主人がエビスサマの前で、
「今年は、おかげさまで、沢山もうけさせてもろうて、ありがとうございました」
と心中で唱えながら、神酒をついで棚元に控えている。神様の食事が終わったころを見てご膳をさげて、オサガリを家族そろっていただいた。

 宇奈月町下立は三百六十戸の純農家があるが、耕作面積が少ないので、農閑期は男衆の大半が長野、新潟、岐阜の砂防工事に出稼ぎする。
 昨年九十三歳で没した松本藤治郎さんの家では、十一月二十日の夕刻、沢山の金をもうけたエビスサマが電車に乗って帰ってくるという(大正十一年に富山と 宇奈月間に電車が通じて以来のことで、それまでは村境である現在の下立駅まで迎えに出た)。迎えに出るのは当人で、ちょうちんを持って行く。「ながい間、 ご苦労さまでした。さあどうぞおいでください」といいながら、ちょうちんで足もとを照らしながら、家まで案内する。家のなかはきれいに掃き清められてい て、エビスサマはしばらく神座で休んでもらう。このあと奥さんが風呂に案内する。タオルも準備されている。風呂のふたを取り除くと、手で湯をかき回しなが ら、
「湯かげんは、どうでしょう」「あついですか、ぬるいですか」と問いただしてから「では、ゆっくりおはいりください」と言上して勝手元で控える。勝手元はエベスサマの夕食準備で忙しい。

 黒部市のホームページには、<かつて麻の裃をつけた主人が提灯を持って村境(むらざかい)まで迎えに出た。大正一一年(一九二二)、富山―宇奈月間に電車が開通してから「下立駅まで電車に乗っておいでになる」といって、下立駅まで出迎える家もある>と書かれている。今年、下立地区や愛本地区の祭りの撮影に来て色んな方にお話しを聞いたが、提灯を持って駅まで迎えに行くという風習はなくなったそうだ。それでも神棚の下にご馳走を供える家は何軒か残っているということだった。

富山地方鉄道
 15時17分の宇奈月行きの電車が来た。えびす様は乗っていないだろうかと探してみる。2両編成で、1両目には自分を含めて5人、2両目はえびす様どころか人も居なかった。えびす様が帰るには、まだ時間が早すぎたか。
下立口駅と周辺
下立口駅

↑下立口駅。ホームの向かいの家では庭木が美しく紅葉していた。

 15時34分に下立口に到着。下立地区には宇奈月側に「下立駅」、富山側に「下立口駅」の2つの駅がある。今日お伺いする此川さんの家は下立5区で、下立口が近い。
 お伺いするには早いので、富山行きの電車を撮影したりして過ごして、16時少し前に此川さんのお宅へ。

←宇奈月から富山方面へ向かう電車。 

 此川さんは、先月撮影した下立の獅子舞をフォトブックにして青年団の代表の家にお送りした際、おーべっさまを今もご自宅で行っている方をご存知ならご紹介下さいと手紙を添えたところ、ご紹介していただいた。一時間ほど早いが、家に入れていただきお話しを聞かせてもらった。
 通された居間の角に小さな神棚があり、そこに陶器のえびす様と大黒様が並んで飾られていた。昔は囲炉裏の部屋にあったそうで、えびす様も大黒様も煤で黒くなったそうだ。この神棚の下に小さなテーブルが置かれていて、ここに御膳が置かれる。
 ご主人の此川邦夫さんは78歳、奥さんの宏子さんは75歳。此川さんのお宅では、毎年11月20日の夕方はおーべっさま迎えを行い、御膳を神棚の下の神座に捧げているという。いつもは御膳を捧げるだけだが、今日は邦夫さんの弟さんがおーべっさまをビデオに記録するということで、玄関で迎え、風呂に案内した後、御膳を出してお酒を注ぐところまで行うそうだ。
 3年前まで下立に魚屋さんがあり、どこそこの家もおーべっさまの鯛を買って行かれたという話しを聞けたが、今はどこの家でやっているかわからなくなったと話す。スーパーでもおーべっさま用のコーナーが設けられていると他の方から聞いたが、此川さんは舌山駅近くに鮮魚店を見つけたので、おーべっさまの鯛はそこから買っているという。
 おーべっさまを迎えに行ったのは主に下立口駅で、下立5区にいらして公民館長も務めた京免豊作(きょうめんとよさく)さんという明治45年(?)生まれの方が中心だったという。その頃は、毎年テレビが取材に来て放送されたそうだ。京免さんが10年ほど前に亡くなられて、駅まで迎えに行く風習は廃れた。その頃の下立口駅は、ホームが今とレールを挟んで反対の位置にあり駅員も常駐していたそうだ。
 この辺りは土地も少なく農業だけでは食べていけなくて、どの家も出稼ぎに出ていたという。それがおーべっさまの風習になったのだろうと此川さんは話す。また、自分はこれからもおーべっさまを続けて行くが、自分の代で終わるだろうとも話された。
 17時頃に弟のカツミさんがビデオカメラを持っていらしたので、おーべっさまを始める。ビデオに録るために一度リハーサルをするというので、その時に写真を撮ることにした。以下の写真がその時に撮影した様子。此川さんが、目には見えない神様を、そこに存在しているかのように持てなしている。
↓玄関でおーべっさまを迎える此川さん。→直ぐに風呂場へ案内する。
おーべっさま02
おーべっさま01
↓湯船には入浴剤が。→風呂上がりのおーべっさまを神座に案内する。
おーべっさま04
おーべっさま03
↓神棚に祀られているえびす様と大黒様。→神棚の下に御膳が運ばれる。
おーべっさま06
おーべっさま05
↓おーべっさま側から見た御膳。ご飯と汁の位置が左右反対の左膳(夷膳)なのは、おーべっさまが左利きだからという説があるそうだ。あるいは、あの世は逆さ事と関係しているのかもしれない。9月に3年ぶりに開催された立山芦峅寺の布橋灌頂会で橋を渡る女人衆の白装束は合わせが左前の死装束だった。
おーべっさま07
おーべっさま08
 おーべっさまの向かいに座り、此川さんが労いの言葉をかけて徳利のお酒をお猪口に注ぐ。これで一連の儀式は終了し、暫くしてからお膳は片付けられてお下がりを家族がいただく。
 宏子さんに料理の説明をしていただいた。ご飯は小豆ご飯、味噌汁は豆腐と魚で、本来はカマスが良いそうだが今日は鯛が入っている。ブリの刺身、人参と大根と魚のナマス。煮物は昆布、大根、人参、コンニャク、里芋、厚揚げ、イカ。鯛は腹合せで2尾。
 おーべっさまはお正月をゆっくり家で過ごして、1月20日の早朝に出稼ぎに行かれる。この時も神棚の下に御膳が用意される。此川さんのお宅では小豆ご飯が白飯に変わるだけで、他の料理は同じものを作るそうだ。おーべっさまが電車に乗り遅れないように、6時前には済ますという。
 撮影させていただいたお礼を言い、下立口へ向かう。時おり強い雨と風が吹く。18時前なのにすっかり暗くなっている。電灯に浮かぶホームの待合室、駅へ降りて家に帰る前に一休みしているおーべっさまは居ないか見るが、気配はなかった。
 やって来た18時2分発の電車に乗り込んで、電鉄黒部駅へ向かった。
おーべっさま09
奄美の旧盆行事
 ところで、見えない神様を提灯を持って駅まで迎えに行くという話しは奇異だったり少し滑稽なようにも思ったが、奄美では旧盆に提灯を提げて墓地へご先祖様を迎えに行く。次の日は一日家で休んでもらい、3日目はまた提灯を提げて墓地へお送りする。
  下立のおーべっさまは、そうした祖霊信仰とよく似ている。出稼ぎの神様であるおーべっさまは、土地が少なく出稼ぎに行って家族を養って来た代々のご先祖様と重なっているのではないか。
 そう考えると、提灯を提げて駅で出迎える行為もとても自然に思える。上の写真は旧盆の初日、提灯を提げて墓地へご先祖様を迎えに行く人たち。2011年8月12日、奄美大島の名瀬にて撮影。
 尚、石川県の奥能登には田の神様に感謝し、やはり目には見えない神をお迎えに上がり家で持てなす「あえのこと」という風習が伝えられている。また、富山・細入地区では、田の神と畑の神に見立てた鍬を座敷に招き入れて持てなす「おくわさま」という伝統行事が行われている。

11月18日(土)

 昨日の午前、ネットを見ていて”鶴ひろみ”という名前に目が止まり、彼女の死去を伝える見出しにドキッとして身体が固まった。

 近所の同級生、山田君が同じ誕生日の3月29日だった。声優の鶴ひろみさんの撮影をするまで、生年月日が一緒の人は山田君しか知らなかった。
 漫画家・まつもと泉がCD-ROMで観るデジタルコミック『コミックオン』を立ち上げたのは1996年で、その創刊号からグラビアページの撮影を担当した。
 創刊号のvol.1は作家・平井和正さんを自宅に訪ねて、まだ誰も撮影したことがなかった仕事部屋とともに撮った。vol.2は「Dの食卓」で注目を浴びていたゲーム・クリエイターの飯野賢治さん、vol.3はまつもと泉の「きまぐれオレンジ☆ロード」のアニメ版で主人公・春日恭介を担当していた声優の古谷徹さん、vol.4はみやむーこと、声優の宮村優子さん、そしてvol.5が「きまぐれ☆オレンジロード」では鮎川まどか役の鶴ひろみさんの撮影だった。
 vol.5ではまつもと泉が「きまぐれオレンジ☆ロード」の新作を描き、恭介とまどかの台詞だけ、古谷さんと鶴さんに吹き込んでもらうことになった。
 スタジオでお二人が吹き込んでいる様子を撮影し、次に発売元の東芝EMIの応接室で二人の対談を行い、その後にロビーでフォトセッションをした。
 撮影が終わって皆でご飯を食べに行き、それからカラオケに行くことになった。東芝のある赤坂・溜池から、まつもと泉の事務所のあった世田谷・豪徳寺までタクシーを飛ばした。
 メンバーは古谷さん、鶴さん、まつもと泉、編集者、そしてコミックオンで音楽全般を担当していたヒカシューのベース、坂出雅海さん。坂出さんが誰も知らない間に「巨人の星」のオープニング曲「行け行け飛雄馬」をリクエストし、流れて来た瞬間、古谷さんが歌ってくれた。星飛雄馬が「行け行け飛雄馬」を歌うスペシャルなカラオケは、とても楽しかった。
 隣りに座っていた鶴さんと話しているうちにお互い1960年生まれだとわかり、「何月?」「3月」「何日?」「29日」「同じ!!」で盛り上がり、普段歌うことの無いカラオケで鶴さんとUAの「情熱」をデュエットした。
 そうして外が明るくなるまで楽しい時間を過ごし、帰る方向が同じの古谷さんと鶴さんはタクシーに乗り、まつもと泉は事務所へ戻って行った。自分は小田急線の向ケ丘遊園に住んでいたので、豪徳寺から電車でそのまま帰ったかもしれない。

鶴ひろみさん01

  掲載した写真は、『コミックオン』で撮影した鶴ひろみさん。20年前はデジタルではなくフィルムで撮影し、それをデータに変換して画像処理をしていた。当時はコダックがフィルムをフォトCDに焼いてくれるサービスをしていたので、堀内カラーに現像に出したフィルムの仕上がりをチェックし、堀内の窓口からコダックのフォトCDにオーダーしていた。
 Photoshopは2.5Jから使用していたが、この頃は3.0か4.0になっていただろうか。ロケをする予算も時間もないので、ロビーや取材先で撮影して背景は合成するなどのデジタル処理をするのが前提だった。今見ると稚拙な画像処理だが、この『コミックオン』でマックとフォトショップを覚えた。

 『コミックオン』は、鶴さんが登場したvol.5を最後に休刊となった。
 こうして20年が経つと、なんだか夢のようだな。同じ日に生まれて、一度だけ交差した人の死は、なんだかとても切ない。

←↓まつもと泉が書き下ろした「きまぐれオレンジ☆ロード」に台詞を吹き込む鶴さんと古谷さん。

鶴ひろみさん02
鶴ひろみさん03
 今朝の北日本新聞に<城端庵唄ルーツ知って じょうはな座>という記事が掲載されていた。
 昨年ユネスコの無形文化遺産に登録された南砺市城端の曳山祭りでは、各曳山に寄り添うように庵屋台が連なって動く。 
 「庵唄所望」の紙を貼った家の前で曳山と地謡が入っている庵屋台が止まり、紋付袴の正装した若衆が庵唄を披露する。この城端の庵唄は、江戸帰りの先人によってもたらされた端唄が元だという。
 記事によれば、城端伝統芸能会館じょうはな座が庵唄のルーツ「江戸端唄」について知ってもらおうと、来年から3年間江戸文化を紹介する「江戸芸能の風景」と題した催し物を開催するそうだ。
 初回の開催は来年の3月11日で、<江戸の端唄>を聴く、江戸の<古典落語>、朗読と端唄、そして車人形による「紺屋高尾」の3部構成になっている。
 県内の曳山で、今も巡行されているのは下大久保、四方、石動、高岡、福野、越中八尾、城端、伏木、岩瀬、氷見、海老江、新湊、大門の13ヶ所だと思うが、それぞれに個性があり魅力的だ。城端の曳山の魅力の一つは曳山と連なってまわる庵屋台と庵唄で、他には無い情緒がある。その庵唄のルーツに触れる催し物は、ちょっと面白そうだ。
城端曳山祭01
↑城端の町中を、曳山と連なってまわる庵屋台。城端の曳山は6基あり、それに付随する庵屋台も6台ある。横笛、三味線、太鼓といった地謡が入る庵屋台の意匠は、各町でそれぞれ異なる。
↓→「庵唄所望」の紙を貼った家の前に、庵屋台が止まる。
城端曳山祭03
城端曳山祭02
城端曳山祭04
↑紋付袴の正装した若衆が家の前に並び、庵唄を披露する。

11月16日(木)

 今日から18日までの3日間、両陛下が奄美群島の沖永良部島、与論島を初訪問される。南海日日新聞によると、沖永良部島では国頭小学校の生徒が両陛下の前で新民謡「永良部百合の花」を合唱するそうだ。
 島の特産品としてかつては海外にも盛んに球根を輸出していた、このエラブユリを歌った「永良部百合の花」。初めて聴いたのは1998年にRIKKIが中野律紀から改名して最初に制作したアルバム『miss you amami』でだった。メジャーのレコード会社と契約が切れ、彼女が自主制作したアルバムでもある。
 このアルバムの中に「永良部百合の花」は収録されており、プロデューサーの田中勝則氏のアイデアだと思うが、ゆったりとした山内雄喜さんのスラックキー・ギターを伴奏にRIKKIが透明感のある声で歌っている。聴きどころは、まだ上京したばかりの里アンナちゃんのお囃子で、♪アングァヨーサト ナイチャシュンガーシュンガー♪を二人が掛け合いで歌っている。この二人の声の相性がとてもいい。
 You Tubeにこの曲がUPされていた。UPしたのは海外の方。『miss you amami』は確か、田中さんのライス・レコードから海外にも配信されていたと思う。
RIKKI


 映像は『miss you amami』のアルバム・ジャケットで、この写真は当時住んでいたアパートのリビングで撮影した。RIKKIが手に持っているのは、以前『アロマテラピーできれいになる』という書籍の撮影を家でした時に、モデルさんの背景に花が欲しいということで担当編集の女性が急遽近所のダイエーで買って来たドライフラワー。
 『miss you amami』の発売から、来年で20年が経つ。このアルバム発売からしばらくしてRIKKIはゲーム『ファイナルファンタジー10』の主題歌「素敵だね」で再びメジャーからアルバムをリリースする。そして今は3児のお母さんだ。
 里アンナちゃんは、民謡やポップスの歌い手だけではなく、ミュージカルにも出演し、海外でも精力的に公演を行っているようだ。
 自分自身は撮影で『miss you amami』に関わることがなかったら、奄美大島に移住しようと考えることもなかっただろう。
 久しぶりに聴いたが、RIKKI、きれいな声だな。

←『miss you amami』のジャケット写真のオリジナル。

 今年の4月23日に撮影した、高岡市にある等覚山蓮花寺の「十一面観世音菩薩立像」開帳法要の様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
やらやら
↑33年ぶりに本尊のご開帳が行われるのを祝して、米俵や千両箱といった縁起物を乗せたアゲモンを担いで道中を練り歩く、富山県独特の祝福芸、やらやら。3歩進んで2歩下がる歩き方なので、なかなか前に進まない。
十一面観世音菩薩立像
↑ご開帳になった十一面観世音菩薩立像

11月14日(火)

 今日からしばらくお天気が崩れる予報だったので、昨日の午後、久しぶりに町内の端の方へサイクリングがてら行って来た。
 最初は高岡古城公園の紅葉を撮りに行くつもりで出かけたが、町の外れに来たところで納屋に柿と大根を干している家を発見。一度通り過ぎたが、写真に撮りたくて訪ねて行った。玄関が閉まっていたので、後からもう一度来ようと家から離れたら、裏の庭で木の剪定をしている男性を発見。引き返して撮影のお願いをした。
 そう言えば、今年は県内をアチコチ行ったが町内を撮影していないと思い、古城公園行きを止めて町内撮影に変更。小矢部川を渡って里山の方へ足をのばして来た。
 3時間ほどの町内散策だったが、いたるところに秋が転がっていた。
昨日の秋の景色01
昨日の秋の景色02

 今年の4月22日に撮影した芦崎えびす祭りの様子をPhoto Albumにしました。こちら

芦崎えびす祭り
↑中央にある小さな社にえびす様を祀った屋形船が、氏子に担がれて町内巡行に出発する。
野党向け議員弁当、おかず削減を検討 政府・自民 
 今の自民党の若手議員なら要求しそうだし、今の内閣なら閣議決定しそうで笑うに笑えない。

11月11日(土)

 1111、ポッキーの日か。今日は国会前で反原発の集会があったようだ。集会のオープニング・ライブとして松崎ナオが登場すると書いてあったので、気になっていた。
  彼女の歌う「川べりの家」が、NHKの番組「ドキュメント72時間」のテーマ曲になっている。この番組を初めて観たのは那覇に住んでいた2014年3月7日放送の「沖縄 眠らない床屋」で、那覇・松山(?)の美容院が取り上げられていた回だ。番組の面白さと彼女の歌が聴きたくて、今でも可能な限り金曜の夜に観ている。
 りりィさんが亡くなられて一年が経つ。早いな〜。 1973年に日本武道館で行われた『ラブ・ジェネレーション・ライブ・コンサート』の2枚組のレコードを持っている。その中で彼女も歌っている。You Tubeに「にがお絵」「スプリング・ハズ・カム」の2曲があった。
プリントのキズ
 春祭り、夏祭り、秋祭りの撮影で4月頃から県内を東奔西走していたが、ようやく祭りの季節も終わり時間ができた。
 午前中からお礼やプレゼント用写真のプリントを始めると、A4用紙にキズがついて印刷されてきた。キズは3本。もう一枚違う写真をプリントするが、やはり同じ場所に3本のキズ。修理だろうか・・・と悲しくなったが、取説を読んで、ローラーの清掃という項目があったので、試してみることにした。
 A4の普通紙をセットし、本体の操作パネルからメンテナンス→内部ローラークリーニングを選択してスイッチを押すと、スーッと紙が吐き出される。こんなんでローラーがクリーニングされるのだろうか?と心配になるほどあっさりしている。インクを消費するわけでもないので、念のために2回ローラークリーニングをして、いざプリント。「ん!?」無理だろうな〜と思っていたのが、キズのないプリントに仕上がっている。
 一時は修理に出すことを考え、手間と時間とお金が掛かると落ち込んだが、大事に至らなくてホッとした。
新しいトップ画面

←トップ画面を模様替しました。今回は路線バスの窓から撮影した名護の街並みです。
  今日の那覇の最高気温は26℃だそうで、さすが亜熱帯と思うが、そろそろ北風が吹くと寒い季節にもなってきた。

↓これまでのトップ画面。

これまでのトップ画面
 今年の4月18日に撮影した氷見市上日寺のごんごん祭りの様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら。この日は神仏習合時代は上日寺の境内にあった日吉神社の春季例大祭でもあり、上日寺の僧侶らが日吉神社に出向いて読経を行う。日吉神社での神事が終わると、日吉神社から上日寺まで僧侶を先頭に稚児行列が行われる。
ごんごん祭り01
↑上日寺へ向かう稚児行列。
↓ごんごん祭りの名のもとになった、上日寺の”ごんごん鐘つき”。江戸時代の初期、寛文3年(1663)と貞享4年(1687)に起こった大日照りの際に行われた雨乞い行法が成就し、それを喜んだ農民たちが境内の梵鐘を打ち鳴らしたのが由来だという。
ごんごん祭り02

11月8日(水)

 昨日は立冬だった。午後、天気が良かったので少しだけ自転車で小矢部川の堤防を走って来た。たくさん浮かんでいた雲の中に、彩雲があった。家に帰ってFacebookを開くと、同じ彩雲を撮影してUPしている人がいた。
昨日の景色01
昨日の景色
 今日は朝からぐずついた天気だったが、わりと気温は高くて過ごし易かった。
アマゾンで購入した本
 アマゾンのマーケットプレイスで購入した本が、今日の午前中に届いた。
 北朝鮮の平壌を撮影した写真集『パラダイス・イデオロギー/渡邊博史』(窓社)と、宮古島の西原地区の祭祀を記録した『光るナナムイの神々/比嘉豊光』(風土社)。
 『光るナナムイの神々』は那覇に住んでいる時に図で書館借りて読んでいるが、奄美・沖縄関係の本は時々マーケットプレイスでチェックして、手頃な値段で出ていたら買うようにしている。
 琉球弧の祭祀を記録したものとしては、比嘉康雄さんの『神々の古層』シリーズが圧倒しているが、この『光るナナムイの神々』には、神女の一人赤嶺和子さんによる「ナナムイ讃歌 ーナナムイヌンマ10年の記憶ー」と題した、1992年から2001年まで、その時々に綴られた神行事についての記録が収載されている。学者、研究者の方々が調査報告した文章はたくさんあるが、このように祭祀を執り行う神女自身が自分の言葉で綴った文章はあまりなく(個人的にはこの本しか知らない)、とても貴重だ。琉球の祭祀が今置かれている状況もよくわかる。いつ再読できるかわからないが、手元に置いておきたい本だ。
 トランプ大統領がアジアを歴訪している。日本、韓国とまわって、今日から中国。
ようするにトランプは、さんざん北朝鮮を挑発しまくって韓国と日本の危機を増大させた挙句に、「日本と韓国には米国製の兵器を山ほど売ってやるから、北朝鮮が攻撃してきたら自分たちで何とかしろ」って言ってるわけね>←簡潔にまとまっている。

11月6日(月)

 朝から快晴。髪の毛が伸びていたがバタバタだったので、放置していた。ようやく今日の午後、切りに行くことができた。2ブロックなので切るのは後ろだけで、後は3mmのバリカンを入れた。自転車で20分ほどの理容院へ向かう途中空を見回したが、ホントに雲一つない青空だった。

 昨日は久しぶりに高岡のクローバーホールで、ライヴの撮影。吉越由美さんがボーカルを務める、YUMI.with Friendsで、昨年の6月にも同じ場所で撮影している。今回はベースが満園庄太郎さんから新メンバーの河野充生さんに。

YUMI.with Friends01
YUMI.with Friends02
↑Vo. 吉越由美/Gt. 西山 毅/Ba. 河野充生/Dr. 本間大嗣 /Kb. 菊地圭介

11月4日(土)

 バタバタしているうちに、もう11月も3日が過ぎた。昨日の秋晴れとはうってかわって、朝から雨の肌寒い天気だ。
 昨日から明日までの3日間、那覇では首里城祭が開催されている。中日の今日は、首里城正殿前の御庭で琉球王国時代に行われていた冊封儀式再現された
  冊封とは、中国の周辺国の王が、中国の皇帝に貢ぎ物を捧げ、その見返りに皇帝の名の下にその国の王であるというお墨付きをもらうこと。琉球王国では国王の代替わりがあるごとに、中国から新国王に授ける王冠を携えた冊封使が訪れて、就任式である冊封儀式が行われた。
 冊封使が渡来すると琉球王府は前国王の弔いの儀式である諭祭之宴、新国王の認証儀式である冊封之宴の他、仲秋之宴、重陽之宴、餞別之宴、 拝辞之宴、望舟之宴といった7つの宴を催した。
 宴では音楽、舞踊、演劇で冊封使をもてなしたが、これにより琉球の芸能が発展したという側面もある。王府は芸能を催すために踊奉行を設けたが、1718年に尚敬王から踊奉行に任命された玉城朝薫が組踊を創作。1719年の尚敬王の冊封の時に、組踊の初演を行っている。
 冊封使をもてなす目的として、音楽も発展した。御座楽(うざがく、おざがく)と呼ばれる琉球王国の室内楽だ。当時の琉球王国には中国から帰化した人々の子孫、久米三十六性と呼ばれる人々が住む久米村があった。彼らは国王の命令を受けて中国(主に福建)に留学し、中国語や音楽等の中国文化を学んだ。御座楽を伝承した楽師も、久米三十六性の人が多かったようだ。御座楽は現在、首里城公園のイベント「新春の宴」で鑑賞することができる。

冊封儀式
↑首里城正殿前の御庭で再現された冊封儀式。2012年10月27日撮影。
 ところで、冊封体制をとっていたが、琉球王国が中国に支配されていたわけではなく、当時の琉球は中国、東南アジア、そして大和との中継貿易で栄えていた。朝薫によって創作された組踊が中国の京劇や日本の能に影響を受けているのが、当時の琉球の立ち位置を表しているように思う。ちなみに、日本も中国に朝貢し冊封体制だった時代がある。
 ネットで流れて来る記事やコメントを見ると、なんとなく歴史が軽んじられている風潮がある。琉球処分や琉球王国が無かったことのようにされないためにも、このような史実を後世に伝える催しは意義があると思う。

 奄美群島の加計呂麻島でワニが捕獲されたというニュースが、昨日流れていた。名越左源太(なごや さげんた)の『南島雑話』に、奄美大島にワニが漂着という文章が載っている。

 『南島雑話』は、1859年に奄美大島に遠島を命ぜられた名越左源太が、島に流されていた5年ほどの期間に当時の島の様子を書き記したものだが、衣食住はもとより風俗、動物・植物の生態からノロ・ユタの祭祀、年中行事まで、その範囲は広く、且つ詳細に綴られている。
 名瀬に住んでいた時に平凡社の『南島雑話1・2』を図書館で借りたが、旧仮名遣いの文章は難儀で途中でめげてしまった。それでも挿絵を眺めながら、面白そうなところを拾い読みした。
 『南島雑話』を読み通すのは断念したが、代わりに『南島雑話の世界 名越左源太の見た幕末の奄美/取材・執筆 名越 護』(南日本新聞社)を読んだ。
 この本の中に「ワニを食べる」という頁があるので、抜き書きさせていただく。左源太によると、奄美には人魚もいたらしい。

『南島雑話』には、住用村内海に「駝竜(ワニ)が漂着」した記事が載っている。内海は、太平洋に面し入り江が深く入り込んだ丸っこい湾。ここに駝竜が舞い込んで海辺の草深い陸地で日なたぼっこをしていた。長さ一尺(約三十三センチ)で、子ワニだったらしい。
 気丈な女性がこれを見つけ、馬の綱に木をくくりつけて捕まえる。それを「これは珍しい」と集まった村の男らが、棒でたたき殺す。
〜略〜
 村人にとって見たこともない”怪獣”を煮て食おう、ということになった。だが、だれも箸を付けようとしない。そこで一人の村の長老が「若人は、万が一にも毒に当たれば、甚だ心残り多きことだろう。自分は先もそう長くないので、まず自分が試食してみよう」と、毒味してみせる。長老が、見慣れない魚類を最初に味実験する例は、他の頁にも登場する。結果は、なんともなかったので一斉にこの肉に飛びついた。味は「海亀の味に似たり」で美味だったという。
〜略〜
 奄美へのワニ漂着の記録は、これだけではない。近いところでは一九七四(昭和四十九)年十月三十日夕、瀬戸内町の太平洋側ヤドリ浜海水浴場近くにある皆津崎付近の岩の上で体長八十五センチ、体重一・五キロのワニの子どもが見つかっている。
 当時の瀬戸内町広報誌によると、高校生四人が生け捕りにしたもので、背中に黒みを帯びたうろこがあり、「つつくと口を開けて身構える。もし南方のイリエワニ(クロコダイル科)だと、体長六メートル以上になる名高い人食いワニだ」と町の話題になったことを報じている。
 左源太はまた、「人魚」を記録している。一八二七(文政十)年のこととして、「(奄美)諸島の海浜如レ図もの風波に漂来、翌朝なみ風をさまりて村人近よりみれば、数日へし人のごとし。恐て近くよるものなし。数月を経て腐去」と少年が裸でうつ伏せになったような「人魚」の絵を載せている。人魚といえば沖縄近海に生息する「ジュゴン」か、と考えがちだが、おそらくジュゴンであろうと思われる生き物も、ちゃんと「海馬」として登場するのだ。左源太が見たこの「人魚」は、いったいなにものだったのだろう。
 奄美の海は古来から、海流に乗ってさまざまな熱帯の動植物がよく漂着する。島崎藤村の『椰子の実』のように、ロマンに満ちた話は枚挙にいとまがない。奄美の人たちは、これら漂着物を海の彼方にある理想郷「ネリヤカナヤ」の国からの贈り物と意識している。

南島雑話の挿絵
↑平凡社の『南島雑話』より。ワニを捕獲している場面だろうか。

 昨日は早朝から、高校の先輩に案内してもらって砺波市頼成(らんじょう)の熊獅子を見に行った。頼成にある林神社の秋季大祭で、かつての上村と下村がそれぞれ雄の熊獅子と雌の熊獅子による獅子舞を行う。熊獅子は木彫りの獅子頭に熊の毛を貼ったもの。昨年、栃屋の獅子舞で初めて熊獅子を見たが、獅子頭の種類としては珍しいものだと思う。
 獅子(ライオン)なのに、なぜ熊?と不思議に思うが、語源由来事典には<日本では、「獣」を「しし」と呼び、「猪」や「鹿」が「しし」と表現されていたこともあり、中国から伝わった想像上の動物としての獅子は、「唐獅子(からしし・からじし)」とも呼ばれる>と書かれている。熊獅子のししは単に「獣」の意味なのかもしれない。
 こちらの様子も後々UPいたします。

下村の熊獅子
↑頼成・下村の雌の熊獅子。

11月3日(金)

 砺波市頼成地区の獅子舞を、高校の先輩に案内してもらって見に行く。頼成の獅子舞は上村、下村ともに熊の皮を獅子頭に貼付けた熊獅子だ。
 朝6時に家まで車で迎えに来てもらい、トランクに折りたたみ自転車を乗せてもらって、最初に獅子舞の奉納が行われる林神社に向かう。
頼成の獅子舞01
頼成の獅子舞02

↑夜が明けたばかりの林神社。

 家から神社に向かう車の中で夜明けを迎えた感じ。
 6時半少し前に神社に到着すると、拝殿で宮司さんが祝詞を奏上している最中だった。
 拝殿の中に入れていただくと、最初に紋付袴の正装をした上村の代表が拝殿に挨拶に訪れる。そして熊獅子の頭が拝殿入り口に置かれ、宮司よりお祓いを受け、神の御霊である紙垂を付けてもらう。

↓→宮司さんよりお祓いを受け、紙垂を付けてもらう上村の獅子頭。
頼成の獅子舞04
頼成の獅子舞03
 神の御霊を付けた上村の獅子が境内で獅子舞の奉納を行っている間、鳥居の下で下村の獅子舞一行が待っている。やがて上村の奉納獅子舞が終わると、下村の代表が拝殿に挨拶に訪れ、獅子頭のお祓いを受けて紙垂を付けてもらう。
頼成の獅子舞05
↑宮司さんよりお祓いを受ける、下村の熊獅子。
↓紙垂を付けた下村の熊獅子。→頬紅と口紅をさした、シシトリの少年。
頼成の獅子舞07
頼成の獅子舞06
頼成の獅子舞08
 お祓いを受けた下村の獅子が、境内で奉納獅子舞を行う。
 最近はお囃 子の笛を女の子が担当しているのをよく見るが、頼成は獅 子方も囃子方も全員男性だった。
 案内して下さった先輩の話しでは、下村の獅子頭は昭和32年に新調したものと、その後に新調した現在使っている獅子頭2つを村で保存しており、もっと古い獅子頭も2つ郷土資料館に保存されているそうだ。
←↓下村の神社奉納獅子舞。
頼成の獅子舞09
頼成の獅子舞10
 獅子舞は神社、公民館、営農組合の3ヶ所を上村、下村の2頭でまわり、その後は各村に分かれて家を祓って歩く。
 下村の神社での奉納が終わったので、車で公民館に向かうと、上村の獅子舞が始まるところだった。
 上村の熊獅子は角のある雄獅子。昭和33年に一旦途絶えたが、昭和46年に復活したそうだ。下村の獅子舞がにらみ獅子で、上村の獅子舞が踊り獅子と言われるらしいが、一度見ただけでは違いがわからなかった。
頼成の獅子舞11
↑公民館での獅子舞。頼成の獅子は胴幕に竹の輪を入れた砺波獅子。赤の胴幕は珍しい。
 公民館から営農組合とまわって、上村、下村がそれぞれの地区に分かれる。下村の最初の家は案内して下さった先輩の家だった。昨年息子さんが結婚したそうでお祝いの招待花が出された。
 玄関で息子夫婦と並んで座り、獅子舞を迎える。
頼成の獅子舞12
 獅子舞自体は激しくないが、嫁取りや新築祝いで招待花をうった家では、目録を読んだ後、獅子が家の中に入って行 く。獅子が上がって汚れたり、柱や壁が壊されないように 前日にブルーシートで養生するそうだ。
 獅子が家々をまわるのは、邪気を祓ってもらう、悪霊を食べてもらうためだと言われている。そして悪霊を食べた獅子を最後に殺す「獅子殺し」という演目のある村もある。この場合、殺すのは獅子についた邪気や悪霊であり、獅子そのものではない。
 沖縄に「嘉例を付ける」という言葉がある。 この獅子が家の中にまで入って行くのは、家に嘉例(縁起の良いこと、幸運)を付けてもらっているのではないだろうか。
 2013年に西表島の祖内集落へ節祭(シチ)を見に行った時、祭り3日目のツヅミの日に旗頭を担いだ男たちが家々をまわって旗頭の先端を玄関に突っ込んでいた。これなども家に嘉例を付けているのではないかと考えている。
頼成の獅子舞13
 先輩の家での獅子舞が終わった後、家に上がっていなり寿司とコーヒーをご馳走になる。しばらくまったりと過ごしてから、上村の獅子舞を見に行くことにする。
 車のトランクから自転車を降ろして組み立てる。プリントしてきた頼成の地図に上村と下村の境界を書いてもらったが、お囃子の太鼓の音を頼りに探すと、直ぐに上村の獅子舞は見つかった。
頼成の獅子舞14
頼成の獅子舞15

↑上村の獅子舞。

 一時間ほど上村の獅子舞に着いて歩いた後、林神社に戻る途中、先輩とすれ違う。下村の獅子は神社の先にある民家で休憩中で、この後、神主さんの家で舞うという情報をいただいた。神主さんの家も今年は嫁取りがあって招待花を出されたそうだ。

←↓林神社。

頼成の獅子舞16
頼成の獅子舞17
 下村の獅子方連中が休んでいる民家を訪ねると、そろそろ休憩時間が終わり、休ませていただいたお礼に庭先で獅子舞を納めるところだった。
 一昨年までは上村も下村も全戸まわりで、終わるのが夜中の1時頃だったそうだが、昨年から両村ともシシトリの家や班長の家、招待花を出した家だけにしたそうだ。
 今年は下村が午後1時か2時、上村がが午後3時か4時頃にまわり終える予定だという。
 休憩していた民家の庭先で獅子舞を披露した後、歩いて2〜3分の神主さんの家に。
頼成の獅子舞18
↑招待花を出した神主さんの家で舞う、下村の獅子。
頼成の獅子舞19
↑目録が読まれた後、獅子が家の中に入って行く。こちらも床、壁、柱にしっかりシートが掛けられていた。
頼成の獅子舞20
頼成の獅子舞21

↑嫁取りで招待花を出した男性は、庭で祝杯のビールを浴びている。

 獅子舞が終わった後、嫁取りをした息子さんが庭に出て来た。格好からして獅子舞の中にいるのだろう。
 庭の中央に立ったところで、まわりから一斉に祝杯のビールを浴びせられた。
 朝6時半頃から始まり、お神酒を呑みながらの獅子舞なので、ビールをかけている獅子方連中もだいぶ酔いがまわっているようだ。

 下村の獅子頭や胴幕などの道具は、3年に一度替わる獅子宿で保管される。当番宿になると3年間保存管理しなくてはならないのだが、どうもその獅子宿の仕組みも今年で終わりになるという話しを聞いた。祭りは時代と共に変化していく。
  ビール掛けが終わって、下村の獅子はまた次の家に向かって歩いて行った。朝6時半から上村、下村の獅子舞を追いかけたので、今日はもういいかな。お天気も良いし、せっかくなので30分ほど頼成地区を自転車でゆっくり走る。
 予定では頼成から砺波駅まで自転車で行き、砺波から戸出まで自転車を輪行して電車で移動、戸出から家までまた自転車で走るつもりでいたが、頼成から家まで自転車で帰ることにした。頼成から砺波までは30分、砺波から家までは1時間。1時間半ほどで帰れるだろう。12時頃に頼成を出て庄川を渡り、砺波の市街地へ。
  国道156号線に出たら、目の前にすき家があった。お昼の時間だし、食べたいと思っていたので迷わず入る。牛丼とん汁おしんこセットの並盛490円。食べ終えて、またゆっくり自転車を漕いで家に向かった。

10月へ