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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表 ◯製作中の富山の祭りと芸能 |
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11月3日? 砺波・頼成の獅子舞
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◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作 ◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作 ◯久高島の年中行事 平成17年度作成 ◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作 ◯ 「まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作 ◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作 ◯幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】 ◯村踊 沖縄県伊江村伝統芸能 ◯喜屋武(チャン)の綱引き ◯与那国島の行事 ◯ 「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作 |
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○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html ○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/ ○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html ○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm ○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/ ○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/ ○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/、 ○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy ○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/ |
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朝、パソコンを起ち上げてニュースを見ると、北朝鮮がミサイルを発射していた。 福岡町の山奥に沢川(そうごう)という集落がある。沢川出身の中学時代の同級生も何人かいるが、集落へは行ったことがなかった。ちょっと気になって調べたら、高岡市公営バスに乗れば片道100円で行けることがわかった。近所のUホールからバスが出ていて、1時間弱で到着する。 |
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↑バスで沢川へ。 ↓滞在時間5分ほど。唯一撮影した沢川バス停前の一枚。 |
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家に帰りパソコンで沢川のことを少し検索してみたら、沢川の成り立ちについて書いたサイトが見つかった。それによると小矢部の宮島に隠れ住んでいた平安時代後期の僧侶、俊寛僧都を慕った7人の百姓が、宮島に近い沢川に居を構えたのが始まりだという。 >治承元年(1177) 俊寛の流刑地は諸説あるようだが、一番ポピュラーなのは奄美群島の喜界島で、2011年の5月に喜界島へ行った時に俊寛の墓にも寄った。 |
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↑喜界島にある俊寛の像(左)と、お墓(右)。2011年5月14日に撮影。 |
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◯もんじゅ設計 廃炉想定せず ナトリウム搬出困難 >原子力機構幹部は取材に対し「設計当時は完成を急ぐのが最優先で、廃炉のことは念頭になかった」←余りに酷すぎて、吹きそうになった。 |
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那覇の漁協に所属するマグロはえ縄漁船「第一漁徳丸」がパラオ沖で転覆しているのが見つかり、乗組員の安否が心配されていたが、昨日のニュースで7人全員の無事が確認されてホッとした。7人に怪我はなくフィリピンのホテルに滞在しているという。転覆している船が発見された時、救命ボートが外されているとも報じられていたので、望みがあると思っていた。とにかく何よりの知らせだ。 第一漁徳丸が所属する漁協がある那覇の泊港は、住んでいた上之屋にあるビルから自転車で5分くらいだったので、離島に出掛けている時を除けば週に平均2回ほど買い物に行っていただろうか。 |
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↑那覇漁協がある泊港。競りが行われる場内は関係者以外立ち入り禁止だが、2階にある事務所で申請すると帽子と長靴を貸してくれて撮影の許可が出た。2012年7月7日撮影。 | ||
昨日は勤労感謝の日で、祝日だった。多くの神社では、収穫を祝い、新穀を神様に捧げる新嘗祭が執り行われた。今年はどこかの神社の新嘗祭の様子を撮影したいと思っていたら、21日のテレビニュースで射水神社が今年の新嘗祭で戦前まで歌われていた神楽歌を再現するという話を知ったので、射水神社で撮影のお願いをしてみることにした。 射水神社の新嘗祭は午前10時からと北日本新聞に書いてあったので、少し余裕をみて8時36分に高岡駅に着く電車に乗った。高岡駅からゆっくり歩いて射水神社のある高岡古城公園へ。着いたのが9時前だったので、しばらく周辺を散歩してから神社へ向かう。巫女さんが通りかかったので、今日の新嘗祭を撮影させていただきたい旨伝えると、「大丈夫ですよ」とお返事をいただく。 9時半を過ぎたところで列席者の居ない拝殿に入れてもらい、神饌の数々を撮影させてもらった。新穀や野菜はもちろん、福岡町の菅笠や高岡銅器と言った地元の特産品も並んでいた。 |
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↓射水神社。→社殿の外に祭壇が設けられていた。 |
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↓→奉賛会員や地元企業などから贈られた神饌の数々。 |
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神事の始まる10分ほど前から、列席者が社殿に入る。入り口で神職が、奉唱する「新嘗祭神楽歌」の歌詞を書いた紙を手渡している。社殿の前では宮司を始め神事を司る神職が整列している。 10時になり、外の拝殿で祓詞が奏上され、次いで大麻を持った権禰宜が社殿に入り修祓を行う。 |
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↓→外に並んでいた権禰宜が大麻を持って社殿の中で修祓を行う。 |
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修祓を行った権禰宜がもう一度社殿の外に出て、今度は他の神職と一緒に拝殿の中に入って行く。 |
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◯射水神社「新嘗祭神楽歌」の歌詞 |
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「神楽歌」奉唱の後、宮司の祝詞奏上があり、続いて巫女による「浦安の舞」と、空手道千山道場の堀田千宴子師範による演武の奉納が行われた。 | ||
奉賛会会長や列席者の玉串奉奠の後、撤饌が行われ宮司により本殿の扉が閉じられた。 | ||
↓国歌斉唱。→宮司による挨拶。 |
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「君が代」を斉唱した後、最後に松本宮司が挨拶をして新嘗祭の神事は終わった。10時に始まり終了は11時15分頃だった。この後、別室で直会が行われるようだ。 | ||
↑列席者に配られた新穀(左)と紅白のお餅。 拝殿の外では新穀を包んだ紙と、紅白のお餅が権禰宜と巫女によって配られ、私もありがたくいただいた。 |
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巫女さんから式次第をいただいたので、載せておきます。 当日早旦社殿を装飾す 時刻宮司以下祭員献幤使及び参列者参進 次に 宮司以下祭員献幣使及び参列者祓所に着く 次に 修祓 次に 宮司以下祭員献幣使及び参列者所定の座に着く(此の間奏楽) 次に 宮司一拝 次に 宮司御扉を開き畢りて側に候す 次に 宮司新穀・神饌を供す(此の間新嘗祭の唄奉唱) 次に 宮司祝詞を奏す 次に 禰宜幣帛(へいはく)を献ず 次に 献幤使祭詞を奏す 次に 神楽「浦安の舞」奉奏(鈴舞のみ) 次に 「空手」奉納 次に 宮司玉串を奉りて拝礼 祭員列拝 次に 献幤使玉串を奉りて拝礼 次に 参列者玉串を奉りて拝礼 次に 禰宜幣帛並びに神饌を徹す(略儀)(此の間奏楽) 次に 宮司御扉を閉じ畢りて本座に復す(此の間奏楽) 次に 国歌斉唱(一回) 次に 宮司一拝 次に 宮司挨拶 次に 各退出 次に 直会 |
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web版の方には記事が掲載されなかったので、今朝の北日本新聞の記事を引用させていただく。 北日本新聞11月24日の記事。 ◯再興の神楽歌奉納 射水神社(高岡市古城、松本正昭宮司)の新嘗(にいなめ)祭は23日、同神社で行われ、戦前の史料を基に再興させた「新嘗祭神楽歌」を奉納し、五穀豊穣(ほうじょう)に感謝した。 同神社崇敬奉賛会員ら約80人が参列。献撰(けんせん)の際に神職が「新嘗祭神楽歌」を奉納した。松本宮司が祝詞、奉賛会の穴田甚朗会長が祭詞を奏上し、みこが浦安の舞を披露した。 神楽歌は昨年10月、都内で見つかった射水神社に関する新嘗祭の史料に歌詞が書かれていた。唱歌「新嘗祭」から雅楽用に譜面を起こし、奉納に向けて神職が練習してきた。 神前には農産物や菅笠(すげがさ)、高岡銅器などの特産品が供えられ、参列者は多くの恵みに感謝した。空手道千山道場(高岡市)の堀田千宴子師範が演武した。 |
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一昨日の日本経済新聞によると、東電は22日、福島第1原子力発電所事故の賠償資金として70回目の追加交付で289億円を受け取ったそうだ。政府から受け取った賠償資金の総額は原子力損害賠償法に基づく1889億円と合わせ、7兆7105億円となる。数字が巨大すぎて、もはやイメージも浮かばない。 そんな東電が再可動を目指す柏崎刈羽原発で、防火対策の不備が60ヶ所余りで見つかったというニュースが昨日のNHKで放送された。この会社に原発を動かす資格があるのだろうか。 |
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来日コンサートから訃報や誕生日まで、ミュージシャンの情報はSNSで知ることが多くなった。 |
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↑↓1987年7月撮影。→1992年4月撮影。 |
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You Tubeから「IKO IKO/Dr.John」。 | ||
昨日は午前中に氷見市小杉地区の恵比須祭り、夕方から宇奈月町下立に伝わるおーべっさま迎えを撮影してきた。 | ||
11月20日(月) |
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小杉には高岡駅から8時45分発の脇行きのバスが出ている。 8時36分に高岡駅に到着するあいの風とやま鉄道に乗ろうと最寄り駅に行くと、4分ほど電車が遅れているというアナウンスで一瞬あせった。 高岡に到着するまでに少し遅れを取り戻し、バスへの乗り換えは余裕だった。 脇行きに乗車し、9時35分に小杉に到着。バス停の向かいに神社がある。 ←菊理媛像石神社。 |
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↓→10時を少し過ぎて、宮司さんの神楽太鼓で新嘗祭がはじまった。 |
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↑修祓と祝詞奏上。 撮影のお願いをした区長さんは用事ができたのか不在となったが、新嘗祭の神事は10時を少し過ぎて始まった。 |
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新嘗祭に引き続き、隣りのえびす堂へ移動して恵比須祭りが斎行された。尚、氷見市博物館製作の『氷見の祭りと年中行事』では、えびす堂ではなく魚取(なとり)社、恵比須祭りではなく魚取祭(えびす講)と表記されている。また、御神像は幕末期に造られ、昭和21年に高岡の本保喜作氏によって塗り替え修繕が行われたと書かれている。 | ||
↓えびす堂。→御神像が祀られた祭壇。 |
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↓お堂は奥行きがなく、横に広い。→始まりの神楽太鼓。 |
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↑修祓と玉串奉奠。 |
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↓→神饌と、御神像のえびす様。 |
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恵比須祭りも宮司さんの神楽から始まり、祓い言葉、修祓、祝詞奏上、玉串奉奠と続き20分ほどで終わった。 神事が終わって神饌が片付けられてから、御神像の前に掛かっている布を外してもらい撮影を開始。この撮影のためにモノブロックのストロボ、デュフューザー付きの傘、スタンドを持って来た。 撮影は直ぐに終わり、地区の方にお礼を言って神社を後にした。 ←かつての網元の家。奥が屋敷で、手前は門のようだ。 |
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高岡に戻るバスは12時17分で、少し時間があるので近くの網元だった家を撮影したりして過ごす。 宇奈月町下立は三百六十戸の純農家があるが、耕作面積が少ないので、農閑期は男衆の大半が長野、新潟、岐阜の砂防工事に出稼ぎする。 黒部市のホームページには、<かつて麻の裃をつけた主人が提灯を持って村境(むらざかい)まで迎えに出た。大正一一年(一九二二)、富山―宇奈月間に電車が開通してから「下立駅まで電車に乗っておいでになる」といって、下立駅まで出迎える家もある>と書かれている。今年、下立地区や愛本地区の祭りの撮影に来て色んな方にお話しを聞いたが、提灯を持って駅まで迎えに行くという風習はなくなったそうだ。それでも神棚の下にご馳走を供える家は何軒か残っているということだった。 |
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15時17分の宇奈月行きの電車が来た。えびす様は乗っていないだろうかと探してみる。2両編成で、1両目には自分を含めて5人、2両目はえびす様どころか人も居なかった。えびす様が帰るには、まだ時間が早すぎたか。 | ||
↑下立口駅。ホームの向かいの家では庭木が美しく紅葉していた。 15時34分に下立口に到着。下立地区には宇奈月側に「下立駅」、富山側に「下立口駅」の2つの駅がある。今日お伺いする此川さんの家は下立5区で、下立口が近い。 ←宇奈月から富山方面へ向かう電車。 |
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此川さんは、先月撮影した下立の獅子舞をフォトブックにして青年団の代表の家にお送りした際、おーべっさまを今もご自宅で行っている方をご存知ならご紹介下さいと手紙を添えたところ、ご紹介していただいた。一時間ほど早いが、家に入れていただきお話しを聞かせてもらった。 通された居間の角に小さな神棚があり、そこに陶器のえびす様と大黒様が並んで飾られていた。昔は囲炉裏の部屋にあったそうで、えびす様も大黒様も煤で黒くなったそうだ。この神棚の下に小さなテーブルが置かれていて、ここに御膳が置かれる。 ご主人の此川邦夫さんは78歳、奥さんの宏子さんは75歳。此川さんのお宅では、毎年11月20日の夕方はおーべっさま迎えを行い、御膳を神棚の下の神座に捧げているという。いつもは御膳を捧げるだけだが、今日は邦夫さんの弟さんがおーべっさまをビデオに記録するということで、玄関で迎え、風呂に案内した後、御膳を出してお酒を注ぐところまで行うそうだ。 3年前まで下立に魚屋さんがあり、どこそこの家もおーべっさまの鯛を買って行かれたという話しを聞けたが、今はどこの家でやっているかわからなくなったと話す。スーパーでもおーべっさま用のコーナーが設けられていると他の方から聞いたが、此川さんは舌山駅近くに鮮魚店を見つけたので、おーべっさまの鯛はそこから買っているという。 おーべっさまを迎えに行ったのは主に下立口駅で、下立5区にいらして公民館長も務めた京免豊作(きょうめんとよさく)さんという明治45年(?)生まれの方が中心だったという。その頃は、毎年テレビが取材に来て放送されたそうだ。京免さんが10年ほど前に亡くなられて、駅まで迎えに行く風習は廃れた。その頃の下立口駅は、ホームが今とレールを挟んで反対の位置にあり駅員も常駐していたそうだ。 この辺りは土地も少なく農業だけでは食べていけなくて、どの家も出稼ぎに出ていたという。それがおーべっさまの風習になったのだろうと此川さんは話す。また、自分はこれからもおーべっさまを続けて行くが、自分の代で終わるだろうとも話された。 17時頃に弟のカツミさんがビデオカメラを持っていらしたので、おーべっさまを始める。ビデオに録るために一度リハーサルをするというので、その時に写真を撮ることにした。以下の写真がその時に撮影した様子。此川さんが、目には見えない神様を、そこに存在しているかのように持てなしている。 |
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↓玄関でおーべっさまを迎える此川さん。→直ぐに風呂場へ案内する。 |
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↓湯船には入浴剤が。→風呂上がりのおーべっさまを神座に案内する。 |
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↓神棚に祀られているえびす様と大黒様。→神棚の下に御膳が運ばれる。 |
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↓おーべっさま側から見た御膳。ご飯と汁の位置が左右反対の左膳(夷膳)なのは、おーべっさまが左利きだからという説があるそうだ。あるいは、あの世は逆さ事と関係しているのかもしれない。9月に3年ぶりに開催された立山芦峅寺の布橋灌頂会で橋を渡る女人衆の白装束は合わせが左前の死装束だった。 | ||
おーべっさまの向かいに座り、此川さんが労いの言葉をかけて徳利のお酒をお猪口に注ぐ。これで一連の儀式は終了し、暫くしてからお膳は片付けられてお下がりを家族がいただく。 宏子さんに料理の説明をしていただいた。ご飯は小豆ご飯、味噌汁は豆腐と魚で、本来はカマスが良いそうだが今日は鯛が入っている。ブリの刺身、人参と大根と魚のナマス。煮物は昆布、大根、人参、コンニャク、里芋、厚揚げ、イカ。鯛は腹合せで2尾。 |
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おーべっさまはお正月をゆっくり家で過ごして、1月20日の早朝に出稼ぎに行かれる。この時も神棚の下に御膳が用意される。此川さんのお宅では小豆ご飯が白飯に変わるだけで、他の料理は同じものを作るそうだ。おーべっさまが電車に乗り遅れないように、6時前には済ますという。 撮影させていただいたお礼を言い、下立口へ向かう。時おり強い雨と風が吹く。18時前なのにすっかり暗くなっている。電灯に浮かぶホームの待合室、駅へ降りて家に帰る前に一休みしているおーべっさまは居ないか見るが、気配はなかった。 やって来た18時2分発の電車に乗り込んで、電鉄黒部駅へ向かった。 |
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ところで、見えない神様を提灯を持って駅まで迎えに行くという話しは奇異だったり少し滑稽なようにも思ったが、奄美では旧盆に提灯を提げて墓地へご先祖様を迎えに行く。次の日は一日家で休んでもらい、3日目はまた提灯を提げて墓地へお送りする。 下立のおーべっさまは、そうした祖霊信仰とよく似ている。出稼ぎの神様であるおーべっさまは、土地が少なく出稼ぎに行って家族を養って来た代々のご先祖様と重なっているのではないか。 |
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そう考えると、提灯を提げて駅で出迎える行為もとても自然に思える。上の写真は旧盆の初日、提灯を提げて墓地へご先祖様を迎えに行く人たち。2011年8月12日、奄美大島の名瀬にて撮影。 尚、石川県の奥能登には田の神様に感謝し、やはり目には見えない神をお迎えに上がり家で持てなす「あえのこと」という風習が伝えられている。また、富山・細入地区では、田の神と畑の神に見立てた鍬を座敷に招き入れて持てなす「おくわさま」という伝統行事が行われている。 |
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昨日の午前、ネットを見ていて”鶴ひろみ”という名前に目が止まり、彼女の死去を伝える見出しにドキッとして身体が固まった。 近所の同級生、山田君が同じ誕生日の3月29日だった。声優の鶴ひろみさんの撮影をするまで、生年月日が一緒の人は山田君しか知らなかった。 |
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掲載した写真は、『コミックオン』で撮影した鶴ひろみさん。20年前はデジタルではなくフィルムで撮影し、それをデータに変換して画像処理をしていた。当時はコダックがフィルムをフォトCDに焼いてくれるサービスをしていたので、堀内カラーに現像に出したフィルムの仕上がりをチェックし、堀内の窓口からコダックのフォトCDにオーダーしていた。 『コミックオン』は、鶴さんが登場したvol.5を最後に休刊となった。 ←↓まつもと泉が書き下ろした「きまぐれオレンジ☆ロード」に台詞を吹き込む鶴さんと古谷さん。 |
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今朝の北日本新聞に<城端庵唄ルーツ知って じょうはな座>という記事が掲載されていた。 昨年ユネスコの無形文化遺産に登録された南砺市城端の曳山祭りでは、各曳山に寄り添うように庵屋台が連なって動く。 「庵唄所望」の紙を貼った家の前で曳山と地謡が入っている庵屋台が止まり、紋付袴の正装した若衆が庵唄を披露する。この城端の庵唄は、江戸帰りの先人によってもたらされた端唄が元だという。 記事によれば、城端伝統芸能会館じょうはな座が庵唄のルーツ「江戸端唄」について知ってもらおうと、来年から3年間江戸文化を紹介する「江戸芸能の風景」と題した催し物を開催するそうだ。 初回の開催は来年の3月11日で、<江戸の端唄>を聴く、江戸の<古典落語>、朗読と端唄、そして車人形による「紺屋高尾」の3部構成になっている。 県内の曳山で、今も巡行されているのは下大久保、四方、石動、高岡、福野、越中八尾、城端、伏木、岩瀬、氷見、海老江、新湊、大門の13ヶ所だと思うが、それぞれに個性があり魅力的だ。城端の曳山の魅力の一つは曳山と連なってまわる庵屋台と庵唄で、他には無い情緒がある。その庵唄のルーツに触れる催し物は、ちょっと面白そうだ。 |
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↑城端の町中を、曳山と連なってまわる庵屋台。城端の曳山は6基あり、それに付随する庵屋台も6台ある。横笛、三味線、太鼓といった地謡が入る庵屋台の意匠は、各町でそれぞれ異なる。 | ||
↓→「庵唄所望」の紙を貼った家の前に、庵屋台が止まる。 |
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↑紋付袴の正装した若衆が家の前に並び、庵唄を披露する。 |
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今日から18日までの3日間、両陛下が奄美群島の沖永良部島、与論島を初訪問される。南海日日新聞によると、沖永良部島では国頭小学校の生徒が両陛下の前で新民謡「永良部百合の花」を合唱するそうだ。 島の特産品としてかつては海外にも盛んに球根を輸出していた、このエラブユリを歌った「永良部百合の花」。初めて聴いたのは1998年にRIKKIが中野律紀から改名して最初に制作したアルバム『miss you amami』でだった。メジャーのレコード会社と契約が切れ、彼女が自主制作したアルバムでもある。 このアルバムの中に「永良部百合の花」は収録されており、プロデューサーの田中勝則氏のアイデアだと思うが、ゆったりとした山内雄喜さんのスラックキー・ギターを伴奏にRIKKIが透明感のある声で歌っている。聴きどころは、まだ上京したばかりの里アンナちゃんのお囃子で、♪アングァヨーサト ナイチャシュンガーシュンガー♪を二人が掛け合いで歌っている。この二人の声の相性がとてもいい。 You Tubeにこの曲がUPされていた。UPしたのは海外の方。『miss you amami』は確か、田中さんのライス・レコードから海外にも配信されていたと思う。 |
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↑33年ぶりに本尊のご開帳が行われるのを祝して、米俵や千両箱といった縁起物を乗せたアゲモンを担いで道中を練り歩く、富山県独特の祝福芸、やらやら。3歩進んで2歩下がる歩き方なので、なかなか前に進まない。 |
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↑ご開帳になった十一面観世音菩薩立像 |
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今日からしばらくお天気が崩れる予報だったので、昨日の午後、久しぶりに町内の端の方へサイクリングがてら行って来た。 最初は高岡古城公園の紅葉を撮りに行くつもりで出かけたが、町の外れに来たところで納屋に柿と大根を干している家を発見。一度通り過ぎたが、写真に撮りたくて訪ねて行った。玄関が閉まっていたので、後からもう一度来ようと家から離れたら、裏の庭で木の剪定をしている男性を発見。引き返して撮影のお願いをした。 そう言えば、今年は県内をアチコチ行ったが町内を撮影していないと思い、古城公園行きを止めて町内撮影に変更。小矢部川を渡って里山の方へ足をのばして来た。 3時間ほどの町内散策だったが、いたるところに秋が転がっていた。 |
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今年の4月22日に撮影した芦崎えびす祭りの様子をPhoto Albumにしました。こちら。 |
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↑中央にある小さな社にえびす様を祀った屋形船が、氏子に担がれて町内巡行に出発する。 |
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◯野党向け議員弁当、おかず削減を検討 政府・自民 今の自民党の若手議員なら要求しそうだし、今の内閣なら閣議決定しそうで笑うに笑えない。 |
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1111、ポッキーの日か。今日は国会前で反原発の集会があったようだ。集会のオープニング・ライブとして松崎ナオが登場すると書いてあったので、気になっていた。 彼女の歌う「川べりの家」が、NHKの番組「ドキュメント72時間」のテーマ曲になっている。この番組を初めて観たのは那覇に住んでいた2014年3月7日放送の「沖縄 眠らない床屋」で、那覇・松山(?)の美容院が取り上げられていた回だ。番組の面白さと彼女の歌が聴きたくて、今でも可能な限り金曜の夜に観ている。 りりィさんが亡くなられて一年が経つ。早いな〜。 1973年に日本武道館で行われた『ラブ・ジェネレーション・ライブ・コンサート』の2枚組のレコードを持っている。その中で彼女も歌っている。You Tubeに「にがお絵」「スプリング・ハズ・カム」の2曲があった。 |
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春祭り、夏祭り、秋祭りの撮影で4月頃から県内を東奔西走していたが、ようやく祭りの季節も終わり時間ができた。 午前中からお礼やプレゼント用写真のプリントを始めると、A4用紙にキズがついて印刷されてきた。キズは3本。もう一枚違う写真をプリントするが、やはり同じ場所に3本のキズ。修理だろうか・・・と悲しくなったが、取説を読んで、ローラーの清掃という項目があったので、試してみることにした。 |
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A4の普通紙をセットし、本体の操作パネルからメンテナンス→内部ローラークリーニングを選択してスイッチを押すと、スーッと紙が吐き出される。こんなんでローラーがクリーニングされるのだろうか?と心配になるほどあっさりしている。インクを消費するわけでもないので、念のために2回ローラークリーニングをして、いざプリント。「ん!?」無理だろうな〜と思っていたのが、キズのないプリントに仕上がっている。 一時は修理に出すことを考え、手間と時間とお金が掛かると落ち込んだが、大事に至らなくてホッとした。 |
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←トップ画面を模様替しました。今回は路線バスの窓から撮影した名護の街並みです。 |
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今年の4月18日に撮影した氷見市上日寺のごんごん祭りの様子をPhoto Albumにしました。こちらとこちら。この日は神仏習合時代は上日寺の境内にあった日吉神社の春季例大祭でもあり、上日寺の僧侶らが日吉神社に出向いて読経を行う。日吉神社での神事が終わると、日吉神社から上日寺まで僧侶を先頭に稚児行列が行われる。 | ||
↑上日寺へ向かう稚児行列。 ↓ごんごん祭りの名のもとになった、上日寺の”ごんごん鐘つき”。江戸時代の初期、寛文3年(1663)と貞享4年(1687)に起こった大日照りの際に行われた雨乞い行法が成就し、それを喜んだ農民たちが境内の梵鐘を打ち鳴らしたのが由来だという。 |
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昨日は立冬だった。午後、天気が良かったので少しだけ自転車で小矢部川の堤防を走って来た。たくさん浮かんでいた雲の中に、彩雲があった。家に帰ってFacebookを開くと、同じ彩雲を撮影してUPしている人がいた。 | ||
今日は朝からぐずついた天気だったが、わりと気温は高くて過ごし易かった。 |
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アマゾンのマーケットプレイスで購入した本が、今日の午前中に届いた。 北朝鮮の平壌を撮影した写真集『パラダイス・イデオロギー/渡邊博史』(窓社)と、宮古島の西原地区の祭祀を記録した『光るナナムイの神々/比嘉豊光』(風土社)。 『光るナナムイの神々』は那覇に住んでいる時に図で書館借りて読んでいるが、奄美・沖縄関係の本は時々マーケットプレイスでチェックして、手頃な値段で出ていたら買うようにしている。 |
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琉球弧の祭祀を記録したものとしては、比嘉康雄さんの『神々の古層』シリーズが圧倒しているが、この『光るナナムイの神々』には、神女の一人赤嶺和子さんによる「ナナムイ讃歌 ーナナムイヌンマ10年の記憶ー」と題した、1992年から2001年まで、その時々に綴られた神行事についての記録が収載されている。学者、研究者の方々が調査報告した文章はたくさんあるが、このように祭祀を執り行う神女自身が自分の言葉で綴った文章はあまりなく(個人的にはこの本しか知らない)、とても貴重だ。琉球の祭祀が今置かれている状況もよくわかる。いつ再読できるかわからないが、手元に置いておきたい本だ。 | ||
トランプ大統領がアジアを歴訪している。日本、韓国とまわって、今日から中国。 <ようするにトランプは、さんざん北朝鮮を挑発しまくって韓国と日本の危機を増大させた挙句に、「日本と韓国には米国製の兵器を山ほど売ってやるから、北朝鮮が攻撃してきたら自分たちで何とかしろ」って言ってるわけね>←簡潔にまとまっている。 |
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朝から快晴。髪の毛が伸びていたがバタバタだったので、放置していた。ようやく今日の午後、切りに行くことができた。2ブロックなので切るのは後ろだけで、後は3mmのバリカンを入れた。自転車で20分ほどの理容院へ向かう途中空を見回したが、ホントに雲一つない青空だった。 昨日は久しぶりに高岡のクローバーホールで、ライヴの撮影。吉越由美さんがボーカルを務める、YUMI.with Friendsで、昨年の6月にも同じ場所で撮影している。今回はベースが満園庄太郎さんから新メンバーの河野充生さんに。 |
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↑Vo. 吉越由美/Gt. 西山 毅/Ba. 河野充生/Dr. 本間大嗣 /Kb. 菊地圭介 |
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バタバタしているうちに、もう11月も3日が過ぎた。昨日の秋晴れとはうってかわって、朝から雨の肌寒い天気だ。 |
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↑首里城正殿前の御庭で再現された冊封儀式。2012年10月27日撮影。 |
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ところで、冊封体制をとっていたが、琉球王国が中国に支配されていたわけではなく、当時の琉球は中国、東南アジア、そして大和との中継貿易で栄えていた。朝薫によって創作された組踊が中国の京劇や日本の能に影響を受けているのが、当時の琉球の立ち位置を表しているように思う。ちなみに、日本も中国に朝貢し冊封体制だった時代がある。 ネットで流れて来る記事やコメントを見ると、なんとなく歴史が軽んじられている風潮がある。琉球処分や琉球王国が無かったことのようにされないためにも、このような史実を後世に伝える催しは意義があると思う。 |
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奄美群島の加計呂麻島でワニが捕獲されたというニュースが、昨日流れていた。名越左源太(なごや さげんた)の『南島雑話』に、奄美大島にワニが漂着という文章が載っている。 『南島雑話』は、1859年に奄美大島に遠島を命ぜられた名越左源太が、島に流されていた5年ほどの期間に当時の島の様子を書き記したものだが、衣食住はもとより風俗、動物・植物の生態からノロ・ユタの祭祀、年中行事まで、その範囲は広く、且つ詳細に綴られている。 『南島雑話』には、住用村内海に「駝竜(ワニ)が漂着」した記事が載っている。内海は、太平洋に面し入り江が深く入り込んだ丸っこい湾。ここに駝竜が舞い込んで海辺の草深い陸地で日なたぼっこをしていた。長さ一尺(約三十三センチ)で、子ワニだったらしい。 |
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↑平凡社の『南島雑話』より。ワニを捕獲している場面だろうか。 |
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昨日は早朝から、高校の先輩に案内してもらって砺波市頼成(らんじょう)の熊獅子を見に行った。頼成にある林神社の秋季大祭で、かつての上村と下村がそれぞれ雄の熊獅子と雌の熊獅子による獅子舞を行う。熊獅子は木彫りの獅子頭に熊の毛を貼ったもの。昨年、栃屋の獅子舞で初めて熊獅子を見たが、獅子頭の種類としては珍しいものだと思う。 |
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↑頼成・下村の雌の熊獅子。 |
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砺波市頼成地区の獅子舞を、高校の先輩に案内してもらって見に行く。頼成の獅子舞は上村、下村ともに熊の皮を獅子頭に貼付けた熊獅子だ。 朝6時に家まで車で迎えに来てもらい、トランクに折りたたみ自転車を乗せてもらって、最初に獅子舞の奉納が行われる林神社に向かう。 |
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↑夜が明けたばかりの林神社。 家から神社に向かう車の中で夜明けを迎えた感じ。 |
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↓→宮司さんよりお祓いを受け、紙垂を付けてもらう上村の獅子頭。 |
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神の御霊を付けた上村の獅子が境内で獅子舞の奉納を行っている間、鳥居の下で下村の獅子舞一行が待っている。やがて上村の奉納獅子舞が終わると、下村の代表が拝殿に挨拶に訪れ、獅子頭のお祓いを受けて紙垂を付けてもらう。 | ||
↑宮司さんよりお祓いを受ける、下村の熊獅子。 |
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↓紙垂を付けた下村の熊獅子。→頬紅と口紅をさした、シシトリの少年。 |
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お祓いを受けた下村の獅子が、境内で奉納獅子舞を行う。 最近はお囃 子の笛を女の子が担当しているのをよく見るが、頼成は獅 子方も囃子方も全員男性だった。 案内して下さった先輩の話しでは、下村の獅子頭は昭和32年に新調したものと、その後に新調した現在使っている獅子頭2つを村で保存しており、もっと古い獅子頭も2つ郷土資料館に保存されているそうだ。 ←↓下村の神社奉納獅子舞。 |
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獅子舞は神社、公民館、営農組合の3ヶ所を上村、下村の2頭でまわり、その後は各村に分かれて家を祓って歩く。 下村の神社での奉納が終わったので、車で公民館に向かうと、上村の獅子舞が始まるところだった。 上村の熊獅子は角のある雄獅子。昭和33年に一旦途絶えたが、昭和46年に復活したそうだ。下村の獅子舞がにらみ獅子で、上村の獅子舞が踊り獅子と言われるらしいが、一度見ただけでは違いがわからなかった。 |
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↑公民館での獅子舞。頼成の獅子は胴幕に竹の輪を入れた砺波獅子。赤の胴幕は珍しい。 |
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公民館から営農組合とまわって、上村、下村がそれぞれの地区に分かれる。下村の最初の家は案内して下さった先輩の家だった。昨年息子さんが結婚したそうでお祝いの招待花が出された。 玄関で息子夫婦と並んで座り、獅子舞を迎える。 |
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獅子舞自体は激しくないが、嫁取りや新築祝いで招待花をうった家では、目録を読んだ後、獅子が家の中に入って行 く。獅子が上がって汚れたり、柱や壁が壊されないように 前日にブルーシートで養生するそうだ。 獅子が家々をまわるのは、邪気を祓ってもらう、悪霊を食べてもらうためだと言われている。そして悪霊を食べた獅子を最後に殺す「獅子殺し」という演目のある村もある。この場合、殺すのは獅子についた邪気や悪霊であり、獅子そのものではない。 沖縄に「嘉例を付ける」という言葉がある。 この獅子が家の中にまで入って行くのは、家に嘉例(縁起の良いこと、幸運)を付けてもらっているのではないだろうか。 2013年に西表島の祖内集落へ節祭(シチ)を見に行った時、祭り3日目のツヅミの日に旗頭を担いだ男たちが家々をまわって旗頭の先端を玄関に突っ込んでいた。これなども家に嘉例を付けているのではないかと考えている。 |
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先輩の家での獅子舞が終わった後、家に上がっていなり寿司とコーヒーをご馳走になる。しばらくまったりと過ごしてから、上村の獅子舞を見に行くことにする。 車のトランクから自転車を降ろして組み立てる。プリントしてきた頼成の地図に上村と下村の境界を書いてもらったが、お囃子の太鼓の音を頼りに探すと、直ぐに上村の獅子舞は見つかった。 |
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↑上村の獅子舞。 一時間ほど上村の獅子舞に着いて歩いた後、林神社に戻る途中、先輩とすれ違う。下村の獅子は神社の先にある民家で休憩中で、この後、神主さんの家で舞うという情報をいただいた。神主さんの家も今年は嫁取りがあって招待花を出されたそうだ。 ←↓林神社。 |
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下村の獅子方連中が休んでいる民家を訪ねると、そろそろ休憩時間が終わり、休ませていただいたお礼に庭先で獅子舞を納めるところだった。 一昨年までは上村も下村も全戸まわりで、終わるのが夜中の1時頃だったそうだが、昨年から両村ともシシトリの家や班長の家、招待花を出した家だけにしたそうだ。 今年は下村が午後1時か2時、上村がが午後3時か4時頃にまわり終える予定だという。 |
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休憩していた民家の庭先で獅子舞を披露した後、歩いて2〜3分の神主さんの家に。 | ||
↑招待花を出した神主さんの家で舞う、下村の獅子。 |
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↑目録が読まれた後、獅子が家の中に入って行く。こちらも床、壁、柱にしっかりシートが掛けられていた。 |
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↑嫁取りで招待花を出した男性は、庭で祝杯のビールを浴びている。 獅子舞が終わった後、嫁取りをした息子さんが庭に出て来た。格好からして獅子舞の中にいるのだろう。 |
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下村の獅子頭や胴幕などの道具は、3年に一度替わる獅子宿で保管される。当番宿になると3年間保存管理しなくてはならないのだが、どうもその獅子宿の仕組みも今年で終わりになるという話しを聞いた。祭りは時代と共に変化していく。 ビール掛けが終わって、下村の獅子はまた次の家に向かって歩いて行った。朝6時半から上村、下村の獅子舞を追いかけたので、今日はもういいかな。お天気も良いし、せっかくなので30分ほど頼成地区を自転車でゆっくり走る。 予定では頼成から砺波駅まで自転車で行き、砺波から戸出まで自転車を輪行して電車で移動、戸出から家までまた自転車で走るつもりでいたが、頼成から家まで自転車で帰ることにした。頼成から砺波までは30分、砺波から家までは1時間。1時間半ほどで帰れるだろう。12時頃に頼成を出て庄川を渡り、砺波の市街地へ。 国道156号線に出たら、目の前にすき家があった。お昼の時間だし、食べたいと思っていたので迷わず入る。牛丼とん汁おしんこセットの並盛490円。食べ終えて、またゆっくり自転車を漕いで家に向かった。 |
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10月へ |