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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表 ◯製作中の富山の祭りと芸能 |
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4月7日(金)〜9日(日) 全日本チンドンコンクール ◯小川寺の獅子舞 宮田・火祭り1月第4日曜日 記事 記事 |
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◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作 ◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作 ◯久高島の年中行事 平成17年度作成 ◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作 ◯ 「まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作 ◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作 ◯幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】 ◯村踊 沖縄県伊江村伝統芸能 ◯喜屋武(チャン)の綱引き ◯与那国島の行事 ◯ 「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作 |
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○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html ○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/ ○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html ○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm ○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/ ○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/ ○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/、 ○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy ○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/ |
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明日は高岡御車山祭の曳山巡行だが、それに先だって、今日は宵祭りと神迎えが行われる。 先日関野神社で見た掲示板には16時から前日祭と書いてあったので、その時間に関野神社に行ってみると、拝殿には神職と子供巫女、楽人が居られ、ほどなく神事が始まった。 |
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↑↓→前日際。 |
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献饌、修祓、祝詞奏上など一連の神事の後、4人の巫女による「浦安の舞」が奉納され、その後玉串が奉納され、神饌が下げられて16時半過ぎに神事は終了した。 | ||
関野神社の境内に大黒様を祀った蔵があり、そこに2008年の御車山祭りまで使用されていた二番町の曳山の車輪が置いてあった。他の町の曳山が4輪なのに対し、二番町だけは2輪で直径が2.05メートルと大きい。 | ||
二番町の神迎えは18時頃に関野神社に参集すると神主さんから聞いていたが、せっかくなら二番町の代表者達が山宿を出発するところから見たいと思い、二番町の山宿を尋ねる。 |
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17時30分過ぎに紋付袴姿の代表者と裃姿に提灯を持った子供たちが行列を作って、関野神社に向かう。10分ほどで神社に着いて、拝殿の中へ。拝殿の中央には大きな御幣と、木箱(長持)が置かれている。 祝詞奏上、玉串奉納の後、楽人による演奏をともなって二番町の代表者によって御幣と木箱が山宿へと運ばれて行った。 |
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山宿に飾られている鳥居と、鳥居に止まっている二羽のカラスに木箱から取り出した紙垂(シデ)が取り付けられる。これで神様の御霊が憑依したことになる。大きな御幣は、曳山の鳥居とは反対の後ろ側に取り付けられる。これも神の依り代だろう。 神の御霊を迎えて山宿でも神事が行われる。高岡市長と前田家の18代目当主・前田利祐氏も列席して祝詞奏上、玉串奉納が行われ、20分ほどで神事は終了した。 ←→神の御霊である紙垂が首に括り付けられた二羽のカラス。 ↓神迎えが終わった二番町の山宿。 |
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せっかくなので他の曳山の山宿やライトアップされた2ヶ所ある臨時の山倉を見てまわる。ユネスコ無形文化遺産登録を記念して山倉や山宿などを見て集めるスタンプラリーが開催されていて、スタンプ集めの親子で列ができるなど盛況の様子だった。 →ライトアップして展示された二基の曳山。 |
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ところで関野神社から迎えた神は、どんな神様なのだろうか。御車山祭に伴う奉曳順路・交通規制図の裏に宵祭及びライトアップ事業一覧があり、<高岡関野神社より二番町山宿へ「弥真進大人命」お迎えの神事>とある。この弥真進大人命(まごころいやすすめうしのみこと)とは誰か。江戸期に、一命を投げ打って御車山の由緒を守った津幡屋与四兵衛は、御車山の守護神「弥真進大人命」として、関野神社境内にある祠に祀られている。つまり、津幡屋与四兵衛の御霊を迎えに行ったのではないだろうか。 また 二羽のカラス(夫婦カラス)は熊野権現の遣いだそうだ(こちらを参照)。wikipediaの高岡御車山祭の二番町の項目には<本座人形は存在せず、屋台前部に守護神を熊野権現とする熊野神社の、朱塗りで二羽の烏が留まる鳥居が据えられている>との記載もある。大きな御幣が運ばれる時、熊野神社という名前が一瞬聞こえた。縁起を読むと、関野神社には熊野神社が勧請しているようで、熊野権現の祭神の一人である速玉男命が祀られている。大きな御幣は、速玉男命の御霊と考えるのはどうだろうか。あるいは、大きな御幣が弥真進大人命の御霊で、夫婦カラスに付けられた紙垂が速玉男命の御霊と考えるのはどうだろう。 民俗学の素養はないが、そうした想像を巡らせて楽しんでいる。 |
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富山湾に面した富山市四方の子供曳山祭り。四方神社の春の祭礼として行われ、高さ3〜4mほどの小型の曳山が出る。もともとは江戸時代中期より始まったそうだが、昭和20年の大火で焼失して、戦後に今の小型の曳山を建造したそうだ。 先日四方神社に電話で確認すると、13時から神事が行われるそうなので、あいの風とやま鉄道で12時3分に富山駅に。駅前の3番乗り場で12時10分発の四方行きに乗車。12時40分頃に四方神明町に着いた。バスを降りると直ぐに小型の曳山を発見。少し歩くと四方神明宮があり、その近くに四方神社があった。 |
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↑四方神明社(左)と、四方神社での神事(右)。 |
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四方神社の拝殿には既に関係者が参集しており、やがて神事が始まった。宮司が祝詞を奏上した後外に出て、神社の前の道に並んでいる曳山一つ一つにお祓いをする。 | ||
↓→出発に先駆けて、曳山一つ一つに修祓が行われる。 |
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全ての曳山のお祓いが済むと、各曳山は自分の町内に戻って行く。 | ||
四方の曳山はそれぞれ自分の町内しかまわらないので、2時間ほどで巡行は終わるそうだ。いくつかの曳山について歩いていると、お神輿が町内を巡行していた。子供の武者も一緒に歩いている。 | ||
↓→お神輿の巡行。 |
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お神輿は四方全域をまわるため、朝の9時から神事を行った後に巡行しているそうだ。四方神社に貼り出してあった予定表では、以下のようになっている。お神輿と一緒にまわっているのは、新湊の放生津八幡宮の宮司さんのように見えた。 四月二十九日(土) |
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↓→四方神社。 |
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漁港を少し覗いてから四方神社の方へ戻るが、周辺に曳山が全然居ない。お囃子が聞こえる方に歩いて行くと四方神明宮で、神明町の曳山の飾りを外している作業の途中だった。まだ14時40分頃だが町内をまわり終わったので、これで神社の境内にある蔵に仕舞うという。他の町内も既にまわり終えて片付けているそうだ。なんだかあっけない巡行だった。 *尚、wikipediaの四方子供曳山祭りには<家内安全祈願の風習として、近くの八重津浜から持ってきた砂を、各家庭の前の道路に山盛りにし、それを獅子が蹴散らし清めその後神輿が渡御する>と書いてあるが、獅子の存在は確認できなかった。 |
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↑四方神明宮の2本の大イチョウ。 |
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四方の曳山が思いのほか早く終わったので、石動の曳山を見に移動。15時6分のバスで富山駅へ。富山駅を16時発の金沢行きで石動駅へ。曳山は何度か撮影しているので、かつて曳山と一緒にでていたという歌舞伎山の展示を見に行く。曳山本部のある商工会館近くに中下越前町の歌舞伎山の装飾品がいくつか飾ってあった。こちらは昨年から展示しているようだ。 | ||
↑中下越前町の歌舞伎山の装飾品の展示(左)と、御旅所(右)。 |
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曳山本部の隣りには御旅所があり、お参りをする。正面にお神輿が飾られている。石動の曳山祭は愛宕神社の春の祭礼で、朝の8時頃からお神輿が巡行していたそうで、まわり終えたお神輿が祭壇に飾られているそうだ。 御旅所から200mほどの道林寺へ。先日シートに覆われて見れなかった中下飯田鍛冶町の歌舞伎山が組み立てられて展示してあった。 この歌舞伎山は25年前に引き回されたのが最後で、展示も15年ぶりだそう。車輪は25年前の引き回しの時に新しく造られたもので、以前の車輪も一つ展示してあった。この歌舞伎山で、戦前は出町のように子供歌舞伎を、戦後は舞を行っていたという。 |
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11基の曳山と、6基の歌舞伎山があったという昔の石動の祭りは華やかだったことだろう。ただ、近年は歌舞伎山の引き回しは10年に一度ほどだったという。また、もともとは浄瑠璃を演じていたという話しも聞いた。 | ||
↑歌舞伎山の展示を見てから、中心部から少し離れた愛宕神社に行ってみる。祭礼の幟も揚がっておらず、静かな佇まいだった。 ←17時〜18時半まで駅前通りに11基の曳山が並んでいるというので見に行った。 既に提灯も付けられており、18時半頃、提灯の点灯式があり、うっすらと明りを灯した曳山が一基ずつ御旅所を目指して引かれて行った。 提灯山を見送って石動駅へ戻り、19時8分の電車で帰って来た。 |
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『とやまの民俗芸能』(北日本新聞社)には、石動の曳山について、こんな記述がある。 |
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今日で、沖縄県うるま市の女性が殺害された米軍属事件から1年が経つという。そうか、この事件は4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効された日に起きたのかと、1年後の今になって気がついた。 1952年4月28日はサンフランシスコ講和条約が発効された日で、4年前のこの日、政府は日本が主権を回復した日だとして式典を開催した。 |
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写真は2013年4月28日、宜野湾市野外劇場で開かれた抗議集会の様子と、その会場から僅か200メートルほどしか離れていないトロピカルビーチ。撮影時間は1時間も違わない。ともに沖縄の現実で、沖縄の日常だ。 そういえば「つまびらかには読んでいない」という迷言を発した安倍首相は、その後、ポツダム宣言は読んだのだろうか。 |
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◯ 北朝鮮危機そっちのけ大臣11人「GW外遊」に税金10億円。 これも理解しがたいが、ミサイルが落ちたら頑丈な建物や地下街に避難するよう呼びかけるなら 、なぜ今直ぐ原発を止めて周囲にPAC3を配備しないのかも理解できない。 |
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午後から自転車で、戸出のチューリップ農園へ。チューリップ畑の花は、球根を大きく育てるために花をもぎ取ってしまう。もぎ取られた花は肥料になるよう一ヶ所に集めて散撒かれる。散撒かれる場所は毎年変わるので探すのが大変なのだが、今年は直ぐに見つかった。 しばらくチューリップを撮影してから、明日行われる石動曳山祭りの宵祭りを見に行こうと、そのまま自転車で石動へ。ようやく町の中心部まで来たところで”バーン”と大きな音がして、自転車の前輪がパンクした。 |
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今日は朝から雨で、ちょっと肌寒い。 |
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4月23日 9:30 井口神社よりご詠歌、稚児行列出発 |
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←稚児行列に参加する子供と親御さん。蓮花寺にて。 9時半より井口神社から稚児行列が出発とあるので神社へ行くと、拝殿の後ろに僧侶、お稚児さんが並び、その後ろにオリンを手に持ちご詠歌を歌う婦人が列を作っていた。 |
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↑↓→井口神社を出発して蓮花寺に入る稚児行列。 |
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お稚児さんたちが本堂に入って法要が行われたので、隣りの井口神社で獅子の清祓いを見る。拝殿に入った獅子頭の角に、神主さんの手によって紙垂(しで)が括り付けられる。紙垂は神様の御霊で、これによって獅子は神の依り代となる。『祭りと日本人』に書かれていた、御幣についての文章を思い出す。 神霊の分霊、移動をさらに盛んにしたのが「御幣」である。手に持てる程度の木の棒に、白紙を何度も折り返した「しで」をたらしたもので、「みてぐら」とも呼ばれる。これは「手に持って移動できる神の座」という意味であり、自在に移動できる依り代なのだ。 神社の祭りには御幣がつきもので、御輿の中に御幣そのものを鎮座させたりする。神の乗る神馬の鞍に、御幣を立てる地方も多い。これは、神がそこにいる、ということを示しているのだ。この御幣によって、祭りのときに、神が氏子の住んでいる地域を巡幸することができるようになったのである。 そして御幣を手に持つ者が、神の指令を受けた者、神の代弁者と見なされるようになり、祭りの奉仕者の中で最も重要な役と考えられるようになった。 神を御幣にお迎えできるようになったことで、神霊の移動が容易になり、神社の分社が盛んになった。例えば、八幡神社、春日神社、八坂神社、賀茂神社、鹿島神社、諏訪神社、白山神社、天神社などは、全国に何千、何百とある。その大方が、土地の神を祀っている社に、有名な大社の神を勧請したものである。 |
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↓獅子頭に紙垂を付ける神主さん。→紙垂を付けられた獅子頭。 |
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↑清祓いの後、獅子舞の奉納があったが、神主さんが拝殿の前に座り、その様子を携帯で撮影しているのが今時かな。 |
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獅子方は井口神社から、やらやらの出発地点に移動。ここでも獅子舞を舞う。獅子舞の後、やらやらを含む行列が始まった。 |
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↓→獅子舞の後、やらやらの行列が出発。 |
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やらやらの特徴は、歩き方にある。蓮花寺は3歩進んで2歩下がる。7歩進んで5歩下がる地区もあるようだ。いずれにしても中々前に進まない。3歩進んで2歩下がるを繰り返し、時々休憩も入る。3〜400mほどの距離なのに1時間以上かかる。とやまの祭りによれば、藩政時代の参勤交代等の行列を真似たものだそうだ。 | ||
予定表より25分ほど遅れた12時40分頃に、やらやらの行列が境内に入ってきた。 | ||
↓→蓮花寺の境内に入る行列。 |
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↑境内に入ったやらやらは、順番に本堂横に設営されたステージにアゲモンを奉納する。 |
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アゲモンが奉納された後は、獅子舞の奉納。花(祝儀)がたくさんあり、獅子頭を交代しながら何回も獅子がまわれ、勢いをつけて本堂の中まで入って行く。 |
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十一面観世音菩薩立像(じゅういちめんかんぜおんぼさつりゅうぞう)は木像で、高さは1メートル18センチ。1230年に勧行律師が同寺を創建した際に、源頼朝の供養仏として鎌倉から持ち込んだとされており、県の指定文化財となっている。
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↑獅子舞奉納の後は、鏡開きと餅まきが行われた。せっかくなので小さな紙コップに1杯、お神酒をいただいた。 |
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餅まきで蓮花寺での行事は終了、隣りの井口神社に行って獅子舞の舞納め(獅子殺し)を見学に行く。 ←関野神社。 |
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15時頃に獅子殺しも終わった。家に帰るには越中大門駅が近いが、御車山祭で知られる高岡の関野神社に行きたいので高岡駅まで歩くことにする。 |
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雲が多いながらも、晴れて暖かい日だった。髪が伸びたので、午後から切りに行く。そのまま自転車で石動へ。何日か前の北日本新聞に、<歌舞伎山15年ぶり組み付け 小矢部・中下飯田鍛治町>という記事が掲載されていて、石動の曳山祭の際に11基の曳山と一緒に嘗ては歌舞伎山も曳きまわされていたのが、近年では1992年に引き回しと女の子の踊り、2002年に組み立て展示をしたのを最後に、この15年は仕舞いっぱなしだったものが24日から祭り当日の29日まで展示されるという内容だった。こちらの記事によると、昔は6町が歌舞伎山をだしていたそうだ。 |
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石動からの帰りは、久しぶりに小矢部川の堤防を自転車で走って帰って来た。 22日は入善町芦崎地区のえびす祭り、23日は等覚山蓮花寺 「十一面観世音菩薩立像」の開帳法要を見て来た。備忘録として22日の芦崎えびす祭りの様子をUP。 |
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4月22日 芦崎えびす祭りとして知られる、入善町の芦崎地区にある諏訪神社の春祭り。大漁と航海安全を祈願するお祭りで、小さな社を中央に乗せ、縁起物の鯛や打ち出の小槌の張り子を飾った屋形船を担いで町内を練り歩く。 町の観光課に問い合わせたところ、祭りは22日、23日。初日の午前中に神事があり、屋形船の巡行は13時からと教えていただいた。 最寄り駅から西入善まで片道1,260円なので、前日にあいの風とやま鉄道の一日フリーきっぷ1,500円を購入しておいた。西入善までは乗り換えなしで約1時間10分、11時6分に到着。初めて降りる駅だ。プリントアウトして来た地図を見ながら、芦崎地区に歩いて行く。目印になるような高い建物はないが、迷わず辿り着いた。 |
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↑初めて降りた西入善は、無人駅だった。芦崎地区に入ると、ところどころに春祭りの時間表が貼ってあった。 |
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諏訪神社には幟が立てられ、境内には大漁旗が風になびいていた。 社の横には、飾り付けられた屋形船が置かれていた。 祭りの時間表では明日の屋形船の巡行は金比羅神社からとなっていたので、入善漁港の近くにある金比羅神社へ行ってみた。 拝殿のまわりに幕が飾られていたが、祭礼の幟はまだ揚がっていなかった。 |
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↑諏訪神社。↓入善漁港。→金比羅神社。 |
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金比羅神社から諏訪神社に戻ると、祭りの関係者が少しずつ参集してこられた。祭りの実行委員会の会長さんにお話しを聞くと、今朝の9時から拝殿で大漁祈願の神事が行われ、10時から研修センターが直会があったそうだ。13時から拝殿のえびす様を屋形船に乗せ、町内を巡行。今日は海側の地区を20時頃までまわり、金比羅神社に屋形船を納める。 明日は諏訪神社で9時からお祓いがあり、9時30分に神輿が巡行する。そして13時より屋形船が金比羅神社を出発して町内をまわる。嘗ては24時を過ぎる頃まで巡行していたようだが、近年は21時頃には諏訪神社に戻るようにしているそうだ。諏訪神社に屋形船が入る際には、境内に藁の篝火を焚く。その火の横で屋形船が回転して、納められる。 また、明日出るお神輿の蔵にはお面が仕舞われているそうだ。どうやら猿田彦(黒部の方ではメンダラーと呼ぶ)の面のようだ。嘗てはお神輿を先導する猿田彦も居たのだろう。 |
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13時になって社の隣りに置かれていた屋形船が、拝殿の入り口につけられた。神主さんが左大臣の隣りに鎮座するえびす様の前で祝詞を奏上した後、拝殿前につけられた屋形船をお祓いする。そして、祭りの関係者が拝殿の中に2列に並び、手渡しでえびす様を舟まで運ぶ。 えびす様を持つ人は皆、えびす様に息がかからないようにするため、半紙を口に挟んでいる。 神主さんは、生地の新治神社の神主さんだった。 |
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↑左は拝殿での神事。右は屋形船のお祓い。 |
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↑↓→えびす様を持つ者は口に半紙を挟み、息がかからぬようにする。 |
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↑屋形船の社に納められたえびす様は、白い帯で固定される(左)。船の出港のように紙テープを持ってお見送り(右)。 |
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紅白に巻かれた棒を担いで、お神輿のように持ち上げられた屋形船が鳥居を出ると、一旦小さな車輪が付けられて曳山のように引いて行かれる。そして区長さんなど町の役員の家と、船主の家の前では車輪を外して担ぎ、前後左右に揺らす。そうして一軒一軒から花(祝儀)を貰って町を巡行する。 | ||
屋形船が巡行している間に、子供たちも寄って来る。昔は諏訪神社の境内に2〜3の香具師が出ていたそうだが、残念ながら現在は一つも出ないそうだ。それでも家々から花と一緒にお菓子や飲み物も出され、着いて歩く子供にもお裾分けされる。だから今も子供たちにとってお祭りは特別な日だ。 | ||
今日は20時頃までまわるそうだが、16時までついて歩いてから帰ることにした。この屋形船は10月の秋祭りにも町内を巡行するそうで、この時は大きな車輪を付けて子供たちだけで引きまわすそうだ。 | ||
帰り際にもう一度諏訪神社に寄ってから駅へと歩く。 こうして様々な土地の祭りを撮影して歩いていると、ふと3.11の後、福島第一の事故で失った広大な土地の面積と、地域のコミュニティー、そこに継承されていた文化の数々について思いを馳せずにはいられない。 福島の帰還困難区域の面積は、3万3700ヘクタールにも及ぶという。 |
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駅に着いて時間を見る。16時3分に諏訪神社を出発して、16時36分に到着。ちょっと驚いた。観光協会の女性に電話でえびす祭りの開始時間を問い合わせた時に、駅から神社までの所要時間も一緒に尋ねた。調べていただいて折り返し電話でもらった答えが、「車で9分、歩いて33分」というもので、たぶん地元の方が観光協会の女性にこう言ったのだろう。33分という細かさに女性も少し笑いながら話していたのだが、実際に自分が歩いたら33分だったので本当に驚いた(笑)。 しばらく駅の待合室で待っていると、16時53分の富山行き電車がホームに入ってきた。 |
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今日、町内の山で60代の男性が熊に襲われて左手の甲を負傷した。高岡の13の団体が、市長に獅子舞保存継承への協力を求める意見書を提出した。 |
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4月18日 |
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2時少し前に上日寺の僧侶の方々が、日吉神社に参詣され、神事が始まった。 神職による祝詞奏上、お祓いがあり、僧侶の方々による読経が行われた。神社の拝殿で聞く読経というのも珍しい。 神事が行われている間に、境内には稚児行列に参加する小さな子供たちが親やおじいちゃん、おばあちゃんに連れられて集まって来た。 神社の前には御座町、南下町、下伊勢町の太鼓台が集まっている。 |
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↑日吉神社の春季例大祭の神事。祝詞奏上と玉串奉納の間に、上日寺の僧侶らによる読経が行われた。 |
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↓14時過ぎからお稚児さんが境内に集まって来た。→御座町の太鼓台。 | ||
14時50分頃から稚児行列がスタートした。太鼓台、総代、楽人、僧侶、稚児と続く。日吉神社から上日寺までは4〜500メートル程だろうか。太鼓台は、上日寺の手前にある港川のところまで。 |
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↓→上日寺に近づくにつれ、道の両側に並ぶ露天が多くなる。 |
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↓上日寺の境内の奥にある観音堂。→観音堂で僧侶による祈願が行われた。 |
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15時20分頃に法祈願が終わり、お稚児さんたちは親や祖父母に連れられて境内を後にした。観音堂の手前の参道にはえびす像と大黒像が飾られている。 | ||
↓→えびす像。観音堂に向かって左側に置かれている。 |
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↓→大黒像。観音堂に向かって右側に置かれている。 |
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観音堂での祈願が終わって次の「ゴンゴン鐘つき大会」まで3時間近く時間が空くので、近くの氷見市立博物館に行くことにする。参道の前の露天は学校帰りの子供たちで溢れていた。 博物館の入り口で販売している、特別展などの際に刊行された図書の中から『氷見の祭りと年中行事』『氷見の獅子舞』を購入。 |
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博物館に氷見の祭りのことをよく知っている方がいらっしゃると前から聞いていたので受付の女性に尋ねると、博物館の館長さんのことだったようでご紹介していただいた。 せっかくなので100円の入館料を払って館内も見学。17時の閉館時間少し前に出て、上日寺へ戻る。 |
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↓龍神が棲むと言う行田池。→大イチョウ。 |
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18時頃になると鐘楼堂の横に設営されたテントで参加者の受付が始まり、本番に供えての試しつきも行われた。 | ||
鐘つき大会の開始時間になり、氷見市観光協会の会長、氷見市長の挨拶があり、挨拶したお二人が最初に鐘つきに挑戦した。 ゴンゴン鐘つき大会は1999年から氷見市観光協会が企画・運営を行っており、今年で19回目。 大人の男性は50キロの丸太で1分間に何回鐘をつけるか競い、女性と子供は20キロの丸太で5回鐘をつく。神事というより力自慢競技だが、このごんごん祭りのある日は、雨が多いそうだ。 |
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大人の男性が競う一般部門には28人がエントリーし、小矢部市から参加したし鷲田基章さんが101回鐘を突き、2位の65回に大差をつけて8連覇を達成した。 | ||
↓優勝した鷲田基章さん。→貼り出された成績結果。 |
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表彰式が終わったら20時半頃だった。人混みをかき分けて駅まで行くと、直ぐに20時55分初の高岡行きの氷見線が来た。高岡で金沢方面への電車乗り換えに間があり、家に着いたのは22時半近くだった。 博物館で購入した『氷見の祭りと年中行事』にごんごん祭りのことも記されている。興味深かったのは、観音堂の前に飾られていたえびす像と大黒像についての文章。 |
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享保三年(一七一八)「朝日山観音之儀に付口上之覚」によれば、延宝七年(一六七九)三月、朝日山上日寺境内の日吉山王社の祭礼のおり、それまでの付山(築山カ)に代えて、弥(ね)り物(練物)のほか夷子と大黒を本座とする引山(曳山)二基をこしらえ、朝日観音の神輿に供奉して北町の本川町から引始め、北町から南町を引廻した後、朝日山へ引納められている。しかし、翌延宝八年三月には、神輿に供奉して巡行された夷子大黒二基の引山の町練りは中止され、以後三月十八日の祭礼には観音の御前に飾り置かれるようになった、とされる。 えびす様と大黒様の像が曳山の祭神であったこと、その曳山が一度しか巡行しなかったことも面白いが、曳山を造る前は築山があったことを思わせる文章が一番興味深かった。 また、現在ごんごん祭りとして知られる上日寺の縁日、日吉神社の春季例大祭は、江戸時代には旧暦の三月十七日・十八日に営まれていた。 |
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*北日本新聞の記事、富山新聞の記事、中日新聞の記事。氷見の祭・獅子舞。 | ||
この3日ほど、春の嵐のような天気。もう花粉症の症状も出なくなったと油断していたら、一昨日からクシャミを連発。今年の花粉はずいぶんと長引いている。 | ||
家の隣りの田んぼに、いつの間にか水が張られている。ちょっと前まで雪が積もっていたのに、もう田植えの季節だ。ここでは豆と米を一年おきに作っていて、今年は米の年。 16日の日曜日は黒部市明日(あけび)の法福寺へ稚児舞を見に、昨日は氷見市の上日寺へごんごん祭りを見に行って来た。とりあえず備忘録として、明日の稚児舞の様子をUP。 |
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4月16日 |
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↑左は法福寺。奥が観音堂、手前はエドヒガン桜。右は無料で振る舞われた昼食。 |
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昼食を食べ終わり、法要が行われる観音堂へ行き座って待っていると、12時少し前に僧侶の方々が入っていらっしゃった。そして時間通りに大般若転読法要が始まった。 600巻ある大般若経を分担して読み上げる法要で、折り本を持ち上げてパラパラと落とすようにして速読する。いくら速読とは言え、これで読めるのだろうかとも思うが、ビジュアル的には大変面白い。 |
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大般若転読法要が終わると、稚児舞を演じる4人のお稚児さんが観音堂へ。勢揃いしてから一人一人紋付袴姿の大人の肩に担がれて、境内に設えられた舞台へ連れられて行く。観音堂の階段の下にはお鈴(おりん)を持った女性が左右に並んでおり、お稚児さんは、その間を通って舞台へ向かう。 | ||
↓観音堂に並んだお稚児さん。→お稚児さんは神の依り代。足を土に着けさせない。 |
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↑境内に設えられた舞台。予定では12時30分からとなっていたが、15分ほど遅れただろうか。演目は5つ。 |
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上段左:鉾の舞/上段右:太平楽/中段左:臨河楽を終えて楽屋に戻る/中段右:境内の様子。桜は散り始めてはいたが、4月の半ばという時期を考えれば保ってくれたほうだろう。下段左:萬才楽/下段右:千秋楽 | ||
↓→演目が終わり、肩に担がれて観音堂に戻るお稚児さん。 |
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「鉾の舞」「太平楽」「臨河楽」「萬才楽」「千秋楽」。5つの演目が終わったのは14時45分頃で、およそ2時間の舞台だった。指導している女性が、舞台の下から身振り手振りも入れて声をかけていたが、子供たちは舞を覚えるのも演じるのも大変だっただろうと思う。 お稚児さんは肩に担がれて観音堂に入り、お堂で礼をしてから僧侶に先導されて退室して行った。 |
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稚児舞の後は、1時間ほど遅れた15時から柴燈護摩(さいとうごま)と火渡り法要が行われた。 | ||
僧侶が観音堂より下りられて境内に設えられた護摩壇のまわりを歩き、テントの下に設けられた椅子に着席。唱名と祈願が行われた。 | ||
↓→唱名と祈願。 |
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唱名が済むと松明を手にした僧侶が、護摩壇に火を移す。護摩壇は井桁に組んだ薪の上にヒバの枝が被せられ、5色の紙垂(しで)が飾られている。一昨年の10月に小矢部の慈光院で見た護摩壇とほぼ同じで、僧侶の何人かはその時にお見かけした人たちだった。 ヒバの枝に火が着くと高く煙が上がり、境内が一気に煙で充満した。 燃え上がる護摩壇に、護摩木が投げ込まれる。僧侶の方々が一旦、観音堂に戻られた。 |
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↓護摩木が投げ入れられる。→一旦観音堂に戻られる僧侶。 |
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護摩壇の木が全て焼けると、まだ赤々と火のついた墨を帚と棒で平に均す。信徒がその周りを拝みながら歩き、やがて火渡りが始まった。 | ||
↓まだ煙の出ている炭の上を歩く。最初は僧侶から、次に信徒が続く。 |
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↑火渡りの参加者には、お供えが配られた。 |
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1時間ほどで柴燈護摩と火渡り法要は終わった。境内では舞台の片付けも始まっていた。帰りの電車は愛本駅を17時14分なので、少し余裕をみて16時前に法福寺を後にした。 |
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↑法福寺を出て直ぐのところに立派な桜の木が植えられた神社があった。明日八幡社だろうか。美しい山里の風景。 |
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↑レトロな愛本駅の駅舎内。この駅に限らず、富山地方鉄道の駅舎やホーム、電車は写欲をそそられる。 ←愛本駅に到着する電車。来た時のコースを辿って帰った。 ↓左は富山地方鉄道の車窓から撮った舌山駅のホーム。右はあいの風とやま鉄道の車窓から撮った魚津ミラージュランドの観覧車。 |
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家に着いたのは19時20分頃だったろうか。カレーの残りを温めて食べた。 | ||
*北日本新聞の記事、富山新聞の記事。 | ||
春になったので、昨日はスニーカーを買いに高岡まで。今年初めての自転車での遠征だ。途中、福岡小学校裏にある小矢部川の土手に植えられた桜を撮影。一昨日も撮影したが、逆光だったのでもう一度撮影。岸渡川ほどの数はないけれど、ここの桜並木も美しい。 | ||
↑小学校裏の土手に植えられた桜。 |
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高岡市内に着いて、今が満開の古城公園の桜を見物。北日本新聞に公園内のある市立博物館の屋上が無料開放されていると書いてあったので、上ってみる。なるほど見晴らしがいい。 しばらく古城公園の桜を撮影してから、母校の高岡工芸高校の斜め向かいにある<まじま>で、名物のソフトクリームを。ソフトクリームはあっさりした味で最初は美味しいが、最後の方は口が麻痺して来てただ冷たいだけで味がしなくなてきた。それでも日にちが経つと、また食べたくなる不思議。 ソフトクリームを食べてエネルギー補給したところで、新高岡駅横のイオンモールでスニーカーを購入。スニーカーを扱っているショップは3軒あって、デザインと値札を天秤にかけて決めた。 |
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↑古城公園の桜。 ←千保川の桜並木。 ↓購入したスニーカー。 |
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イオンモールからもう一度古城公園に寄って桜を撮り、近くにある友人の理容院を覗いて麦茶をご馳走になり、千保川の桜並木を通って帰って来た。 今日の午前、少し前に撮影した氷見市の「おらっちゃ広報タブロイド版」が郵便で届いた。 |
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北朝鮮が、故金日成(キム・イルソン)主席の生誕105年(太陽節)に合わせて平壌で実施した軍事パレード(閲兵式)で、新型の大陸間弾道ミサイル(ICBM)とみられるミサイルを公開した | ||
午後から晴れてきたので、岸渡川(がんどがわ)の桜を見ながら散歩。はちやの隣りのお地蔵さんの横に自転車を止めて、西干場住宅の先にあるサンバリーまで両岸を2時間ほど歩いて来た。満開です! 昨年より一週間ほど遅い満開だけれど、花粉の飛散量が少なくなる今頃に満開を迎える方がいいですね。今日はマスクもしなかったけれど、花粉症の症状は今のところなし。 この感じだと週末まで桜、保ちそうですね。明後日の土曜日からは、ミュゼふくおかカメラ館で『水谷章人スポーツ報道写真展-輝きの一瞬-』が始まります。カメラ館近くのいっぷく処では、新製品の安納芋アイスを販売しているようです。 |
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今日は晴れたけれど風が冷たくて、最高気温は16℃だった。明日は一気に23℃まで上がるようだ。 | ||
今日は浅田真央選手の引退会見があった。新聞のラテ欄には、浅田真央の名前がいくつ並んでいただろうか。 昨日は8日に行われた願念坊祭りの様子をUPしたので、今日は9日に観に行った全日本チンドンコンクールの様子をUP。 |
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会場に入った時は、準決勝になっていた。2組で争うトーナメント形式。指定された企業のPRをそれぞれ行って、審査員が優劣を付ける。 優勝したのは東京のチンドン芸能社美香で、彼女たちはこれで3連続優勝だそうだ。 戦いが終わり、舞台の上で表彰式が行われ、最後に出場者が揃ってフィナーレ。カラフルな衣装と、賑やかな音で幕を閉じた。 |
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↑左は、準決勝の様子。2組ずつのトーナメント形式。右は、優勝したチンドン芸能社美香。↓フィナーレ。 |
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チンドンコンクールの後、14時30分から総曲輪の平和通りでチンドンパレードが行われる。始まりまで1時間ほどあったので、近くの富山市ガラス美術館のギャラリーで開催中の内山昭一写真展『瓦』を観て来た。 写真展を観た後、チンドンパレードのスタートとゴールの中間ほどの場所に座って開始を待った。パレードにはプラカードを持つボーイスカウト、富山市の消防音楽隊なども参加する。 |
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↓→道の両側に見物用のゴザが敷かれ、車を通行止めにして行われた。 |
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1時間ほどでパレードは終了した。これで3日間に及ぶイベントはフィニッシュとなったが、そのまま町流しを行うチンドン屋さんもいた。駅へ帰る道すがら、来る時に駅前でパフォーマンスをしていたチンドン屋さんたちが松川の桜並木の下を流して歩いていたので撮影しながらしばらく着いて歩いた。流していたのは、あずまやさんだろうか。 | ||
観光案内所で貰ったチンドンコンクールのチラシに、歴代の優勝者が記してあった。それを見ると、季刊『ノイズ』第11号の特集「東京チンドン」で撮影した小鶴家さんが第25、27、30、34、35回で優勝、みどり家さんが第26、28、29、37回で優勝していることが分かった。 |
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上の写真は、下大久保の曳き山について歩いている時に、通りかかった民家の庭に咲いていた木蓮。あいにくの曇り空でしたが、その天然のトレペ(トレーシングペーパー)を背景に、花を撮ってみた。 この日は一日中外を歩いていたが、たいして花粉症の症状は出なかった。散歩とサイクリングの楽しい季節になってきた。 今日は午前中は曇り空だったが、午後から晴れて来て青空も見えた。岸渡川の桜は、まだ散ってはいないだろうか? |
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近所の桜並木は満開のようだが、今日は朝から雨。気温も上がらず、季節が少し戻った感じ。先週は風邪で寝ていることも多くドラムを叩いていなかったので、10日振りくらいに少し練習してみる。しばらく叩かないと、手首が固くなる。 8日は富山市下大久保の高砂山願念坊祭り、9日は全日本チンドンコンクールを観て来た。備忘録として、8日の願念坊祭りの様子をUP。 |
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↑曳き山の蔵の前で踊る子供たち(左)。八幡宮の社(右)。 |
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↓踊りの後、花(祝儀)の披露と口上。→蔵から出される曳き山(高砂山)。 |
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八幡宮を出ると、子供たちに先導されて曳き山は上大久保にある天満宮へ参詣に行く。下大久保と上大久保の村境に着くと、上大久保の獅子舞保存会が迎えに出ており、その場で迎え獅子が舞われる。獅子舞が終わると、そのまま天満宮に先導される。 | ||
↓→上大久保の獅子舞に先導されて、天満宮に参詣する。 |
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天満宮の境内で上大久保の獅子舞と子供たちによる扇子踊り、手拭い踊りが、次いで下大久保の願念坊踊りが奉納された。 | ||
上段左:上大久保の獅子舞の最初は三番叟(サンバソウ)。露払いとして子供が祝儀の舞を踊る。囃子方の男性に尋ねたところ、子供が扮しているのは神主だそうだ。 上段右:獅子舞。2人立ちの金蔵獅子。 中段左:花(祝儀)の披露と口上。 中段右:上大久保の扇子踊り。 下段左:上大久保の手拭い踊り。 下段右:下大久保の願念坊踊り。 |
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↑上大久保の天満宮(左)と獅子舞保存会の記念写真(右)。 |
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天満宮での舞の奉納が終わると、下大久保の一行は地元での曳き山の巡行に戻る。上大久保の獅子舞も、天満宮の春季例大祭として地区を門付けしてまわるという。願念坊祭りは夜までやっているので、予定になかったけれど午前中は上大久保の獅子舞について歩くことにした。 舞う場所に近づくと全員が身体を左右に振りながら踊る。天満宮にも同じように踊りながら入って行ったので、これがダイモンサキ(大門先)という演目だろうか。 |
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獅子舞の演目として「金蔵獅子」「神楽獅子」「蛇獅子」「曲獅子」の4つがあり、場所に応じて演じるようだ。とやまの獅子舞によれば、キンゾウ:槍を手に獅子と格闘。ヘビジシ:獅子が蛇を食べる所作。キョクジシ:獅子方のアクロバット。カグラジシ:御幣を手にキンゾウが獅子と演舞。尚、上大久保の獅子舞では蛇獅子の際も、↑の写真の上段右のようなアクロバティックな演技が行われた。 上大久保の獅子舞一行がお昼ご飯の休憩に入ったので、今度は下大久保の願念坊祭りを見に行く。巡行図では13時30分に下大久保会館になっている。場所を迷って13時過ぎに会館に到着すると、既に踊りが始まっていた。 |
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↓下大久保会館の前で記念撮影。→曳き山の祭神、高砂。 |
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下大久保会館を出て、公民館などの公共施設を中心に緑町、東ヶ丘、若草町、六区西、新村と曳き山は巡行する。曳き山の後ろには囃子方を乗せた花山車がついて行く。 |
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前囃子 2.梅とナー(ヨイヤサノサーコラショ) |
3.俺がナー(ヨイヤサノサー コラショ) 4.宿場のナー 5.馬はナー 6.俺がナー |
7.街道ナー 8.伊勢はナー 9.伊勢のナー 10.お伊勢参りは みの着て参れ 11.さまよぅ 願念 衣装が違う |
『とやまの民俗芸能』には囃子唄について、<願人坊踊りは、平安中期の僧・空也が説いた念仏系統の踊りであって、県内では浄土真宗信者の多い小矢部市、上新川郡大沢野町、婦負郡八尾町、黒部市、下新川郡入善町などに分布している。また、念仏聖、高野聖らの僧によって伝えられた伊勢音頭が願人坊踊りの中に囃子唄として多く取り入れられている>と記されている。 | ||
進行予定より少し遅れて17時頃に新村公民館に到着。公民館の隣りの老人ホーム太陽苑の敷地で踊りを披露し、その間に曳き山に提灯が飾り付けられる。踊りが終わり、提灯が飾り付けられると休憩に。踊り手の子供たちは老人ホームで夕食のカレーを食べていた。 | ||
↓老人ホームで踊りを披露。その後ろで、提灯が飾り付けられる。 |
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休憩が終わり、18時前に提灯山に模様替えをした曳き山が再び巡行を開始する。この後、六区、五区、四区、三区、二区、ふれあいセンターをまわって21時頃に八幡宮へ戻ることになっている。 |
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↓六区での願念坊踊り。→六区から五区へ移動する曳き山。 |
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朝からついて回って足も腰も痛くなって来たので、五区での踊りの途中で帰り支度をしてバス停に向かう。バス停でしばらく待って、19時16分発の富山駅行きに乗車。駅に着くと、直ぐに金沢方面の普通電車があった。 傘を持って来たが、少しパラパラと降っただけで概ね曇り空で暖かい日だった。心配だった花粉症も、ほとんど症状はでなかった。もう花粉の飛散量が少なくなってきたんだろうか。 |
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↑帰りのバス停で見上げた月は、けっこうまん丸だった。 |
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嘗ては富山県内でも小矢部市、射水市大門や小杉、上新川郡大沢野町、八尾町、入善町、黒部市など広い地域で願念坊踊りが踊られていたようだが、現在は小矢部の綾子地区と、この下大久保だけのようだ。ただ、獅子舞の露払いとして僧侶の格好をして舞う、願人の舞もいくらか残っているようだ。昨年撮影した栃屋の獅子舞に登場するじじとばばの面を着けた人物も、願人坊のように見える。 |
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↑栃屋の獅子舞で露払いとして登場するじじとばばは、格好からして願人坊(願念坊)に見える。 |
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昨日、フィギュアスケートの浅田真央選手がブログで引退を宣言。朝からテレビは、その話題でいっぱいだった。 | ||
明日、明後日が町内のさくらまつり。用事で出たついでに、会場となる岸渡川を少し自転車で走ってみた。 | ||
左の写真は、昨年の桜並木。4月5日の時点でほぼ満開だった。 下の写真は、今日の桜並木。ほとんど咲いていない木もあれば、7〜8分咲きの木もある。全体的には4分咲きほどだろうか。それでも暖かいので、明日になればもっと花開いているだろう。 あいにくの曇り空だったが、土手の緑と黄色い花、そして桜の色が揃うと春の色だと思う。 |
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日本時間の午前9時40分頃、米軍がシリアの空軍飛行場に向けて59発の巡行ミサイルを発射した。テレビもネットもこの話題でいっぱいだ。 このニュースのコメント欄に、「シリアの次は北の番だ!」といった米軍の北朝鮮へのミサイル攻撃を期待するようなコメントも沢山寄せられている。嬉々として書いているようにも見えるが、本気で望んでいるのだろうか。 もしアメリカと北朝鮮、アメリカと中国が戦争を始めたら、日本がアメリカの捨て石にされるという想像力は働かないのだろうか。実際、北朝鮮が先月6日に日本海に向けてミサイル4発を発射したが、朝鮮中央通信は有事の際に在日米軍基地への攻撃を担う朝鮮人民軍戦略軍火星砲兵部隊の訓練だったと報じている。 また、米軍は中国との戦争を想定して、南西諸島〜台湾〜フィリピンといった第1列島線の内側に中国軍を封じ込めるエア・シー・バトル構想をすでに計画している。言わば南西諸島が盾にされるのだが、実際に戦闘になれば、盾になるのは南西諸島だけではなく日本列島全体になりはしないだろうか? 先の大戦で本土防衛のための捨て石にされた沖縄では、地下に日本軍の司令部が設置された首里城は破壊され、飛行場などの軍事拠点があった伊江島も激戦地となり終戦後は島の1/3がアメリカ軍の基地として接収された。沖縄の在日米軍基地は抑止力になると本土の人間は言うが、捨て石にされた沖縄の人は、基地というものが抑止力ではなく攻撃対象となることを身を以て体験している。 アメリカと北朝鮮が戦闘を開始し北のミサイルが本土の在日米軍基地に落とされて、ようやく本土の人間は辺野古や高江で行っている沖縄の人の戦いが何であったのか気づくのかもしれない。 |
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昨年の11月8日に撮影した、有磯正八幡宮のふいご祭の様子をPhoto Albumにしました。こちらとこちら。 | ||
↑社では、神職二人による板に棒を擦り付けて火を起こす「火きり」が行なわれた。鋳造式では、実際に炉で溶かされた材料が、型に流し込まれる。今年は、御神鳥の「かわせみ」(原型:塚原俊也)、「誓い獅子」(原型:南部祥雲)、有礒正八幡宮社紋が鋳造された。 | ||
明日から9日の日曜日まで、全日本チンドンコンクールが富山で開催される。今年で63回目を迎えるそうだ。見に行きたいと思いながら、この季節、花粉と戦うのが嫌で未だに行けていない。 1991年の7月、東京でチンドン屋さんの追っかけをした。中村とうようさんが創刊した季刊『ノイズ』という雑誌の第11号で、東京チンドンとタイトルが付けられた特集の撮影だった。 1992年にpuff upレーベルから、『東京チンドン vol.1』という2枚組のCDアルバムが発売された。この年の年末、アルバムの中心メンバーである篠田さんが34歳という若さで急逝してしまいvol.2が発売されることなく、『東京チンドン』が彼の遺作となった。 You Tubeから東欧のクレツマー、ラス・チカス・デル・カン。 |
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↓都家やっちゃん宣伝部さん。→小鶴家さん。 |
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↑みどりやさんと、高田宣伝社さん。↓高田宣伝社さん。左端のサックスが篠田昌巳さん。 |
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明日からしばらく天気は下り坂?風邪の具合と花粉の飛散状況を見ながら、久しぶりにチンドンを見に行こうかな。 | ||
昨年の11月6日に撮影した立山町の池田浄瑠璃の様子をPhoto Albumにしました。こちら。 | ||
↑浄瑠璃公演終了後の、出演した子供たちの記念写真。 |
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今日は最高気温が24℃まで上がった。気温の変化に身体がついていかない。 昨日の4月4日は、二十四節気の一つ清明(シーミー)だった。沖縄ではこの清明入りから2週間ほどは、先祖供養の清明祭(シーミーサイ)が各地で行われる。 さっそ今日の琉球新報には<お墓の前でピクニック?沖縄で「清明祭」始まる>という記事が掲載されていた。 中国から伝わり18世紀頃から始まったとされる清明祭では、先祖のお墓に親戚が集まり線香やお花を供え、持って来た重箱料理を墓の前で広げて「うさんでー」(お下がり。ご先祖様にお供えした料理を皆でいただいて食べる)する。 離島ならば、誰かが三線を手にして唄や踊りが披露され、そのまま直会となる。先祖供養の行事だが、墓場のピクニックと揶揄される由縁だろう。 一般の清明祭に先だって、毎年、伊是名島にある玉御殿(陵墓)では村主催の公事清明祭が執り行われる。今年は4月2日だったようだ。 ところで玉御殿は破風墓(四角くて家の形)だが、沖縄でよく見られる巨大な亀甲墓(かめこうばか)も、17世紀末に中国から伝わったとされる。上から見た形が亀の甲羅に似ているから亀甲墓と呼ばれているが、そもそもは女性の子宮を模しているそうだ。人は母親の胎内から生まれ、そして子宮に帰って行くという思想だろう。 沖縄のお盆行事で精霊の供養を目的に踊られるエイサーだが、これは1603年に袋中上人(現在の福島県いわき出身の、浄土宗の学僧)が伝えた念仏踊りを、京からやって来た芸能集団・ニンブチャー(念仏者)が琉球の村々に広めたものだという。 このように沖縄の葬制は、中国や大和の影響もあり複雑だ。ちなみに琉球開闢の祖、アマミキヨが天から降りて最初に造った島だといわれる久高島には、清明祭やエイサーの風習はない。 |
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↑伊是名グスク。公事清明祭が催される玉御殿は、中腹にある石垣が組んである場所。 |
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上段左:古文書に記された通りに再現された、お供えの品。 上段右:ご先祖さまがあの世でお金に困らないように、ウチカビ(あの世のお金)を燃やす親族の方。 中段左:公事清明祭は、遺族だけではなく一般の人も参列できる。 中段右:式の後、直会が行われた。この年は天候が心配で屋内となったが、晴れていれば伊是名グスクの下にある広場で行われるようだ。写真は、首里王府路次楽・御座楽保存会の演奏。 下段左:野村流古典音楽協会伊是名支部による奉納舞踊。写真の演目は「四つ竹」。 下段右:直会の後、銘苅家代表として挨拶をされる銘苅朝則氏。 |
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昨年の10月26日〜27日にかけて撮影した生地たいまつ祭りの様子をPhoto Albumにしました、こちらとこちら。生地にある黒部漁港と卸売市場の競りの様子はこちら。 | ||
↑7つの町内のうち今年の当番町の神明町と宮川町が、屋形船のようにデコレーションした大型トラックにそれぞれえびす様と大黒様を乗せ、それ以外の町は軽トラなどを飾り付ける。そして各町内を練り歩いた後、御旅所である神明社に集まって一緒に新治神社へと向かう。写真は神明社を出て直ぐに、餅まきを始めた神明町の屋形船。 | ||
↑新治神社の参道の左右に松明が並べられる。ここで使用される松明の数は300とも400とも言われる。この火の中を厄年の男たちが担ぐお神輿がくぐり抜けていく。 | ||
↑午前2時過ぎ、漁を終えた漁船が黒部漁港に帰って来た。 |
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◯昭恵氏付職員のファクス「行政文書ではない」 閣議決定 先月に引き続き、今月も閣議決定のバーゲンだろうか。どんどん閣議決定の重みがなくなっていく。 |
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4月は風邪ひきで始まった。3月の半ば過ぎに母親が風邪をひき、それが父親に移り、今度は自分に来た。今日の午前中に町内の病院で診察を受け、薬局で薬を貰ってきた。 | ||
新年度。今日から「ひよっこ」が始まった。有村架純が、小泉今日子に見えてしょうがない。顔の輪郭と笑った時の口の形が似ているのだろうか。 「あまちゃん」の最終回は、宮古島で観た。泊っていたゲストハウスにはテレビがなかったので、お昼ご飯を食べに出たついでに、平良港の待合所に置いてあったテレビで観た。 写真は1989年3月、ビクターのスタジオで撮影した。隣りは近田春夫さん。『KOIZUMI IN THE HOUSE』のレコーディングかな? |
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昨年の10月16日に撮影した、宇奈月町栃屋の獅子舞の様子をPhoto Albumにしました。こちらとこちら。 | ||
↑栃屋の獅子舞の獅子頭と大天狗。獅子頭は毛をはり付けた、熊獅子と言われるもの。↓夕方からは栃屋神社(石動彦社)で、獅子舞の奉納が行われた。写真の演目は「両の手」。 | ||
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