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バックナンバー
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能

10月5日(水) 歯医者 10時〜
10月5日? 愛本新用水天満宮松明祭  記事
10月7日(金)〜9日(日) 高岡万葉まつり
10月8日(土) 入善町墓ノ木 墓ノ木タイマツ祭り  記事
10月9日(日) 大門曳山まつり
10月16日、17日 浦山のナガ(ナガと獅子) 鶏野神社(けいのじんじゃ)
10月26日(水)〜27日(木) 黒部市・生地たいまつ祭り
11月3日(木) 砺波市頼成の獅子舞 記事
11月6日(日) 池田浄瑠璃
11月8日(火) 有磯正八幡宮 ふいご祭 午前10時
11月第3土曜日 射水市放生津・新湊地区  澗建のえびす様渡し
12月25日 下村加茂神社 煤払祭
12月31日〜1月1日 氷見市小境  宮籠もり 記事
1月       南砺市利賀村 初午
1月の第2日曜、15日が日曜なら1月15日 入善町巴町 塞の神まつり
3月 井波 お人形さまめぐり
3月13日 芦峅寺のおんば様のお召し替え
5月4日 滑川市赤浜 赤浜の菖蒲打(ショーブツ)
5月5日 氷見市宇波 コウラウラの祭り
5月6日 氷見市小境 エビス祭り
8月6日? 本法寺の曼荼羅絵図風入れ法要
8月6日、7日 魚津 上村木七夕祭
8月中旬 黒河夜高祭
8月下旬の日曜 恵比須祭り

◯高岡御車山祭 4月30日 二番町の神迎え
◯7年に1度、10月に開催 朝日町山崎 米吊り奉納
◯次は2017年? 布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)
◯高岡大仏まつり

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事

◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作
久高島の年中行事 平成17年度作成
◯「石垣島川平のマユンガナシー」東京シネマ新社製作
まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作
◯「与論島の十五夜祭」東京シネマ新社1980年製作
幻想のティダン(太陽) 【沖縄・与那国島記録映画】
村踊 沖縄県伊江村伝統芸能
喜屋武(チャン)の綱引き
与那国島の行事

○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

10月30日(日)

 今日の夕焼け。
今日の夕焼け01
今日の夕焼け02

 備忘録として
〜略〜
 日本文化は、歴史が示すように、いつでも輸入によって展開してきました。だから、何が真に日本的で、何が日本的でないかということは、ひじょうにあいまいです。
 まず、日本最大の古典とされている奈良時代の仏教芸術は、大陸から輸入されたものです(五三八年、欽明天皇の代)。また、われわれの使っている漢字は、すでに日本語になっていますが、いまさら言うまでもなく、日本古来のものではなく、中国から学びとったのです(応神天皇の代)。それからは平安時代まで、貴族・文化人は全部、漢文、つまり生のままの中国語で自分たちの手紙や日記を書きつづりました。平安時代のはじめごろ、仮名文字ができてからも、和文、つまり日本文は「女手」といって卑しめられ、紀貫之がはじめてそれで『土佐日記』を書いたときは、婦人の作をよそおったくらいです。平安時代の国文学の作者がほとんど女流であるのは、このためなのです。今日、いくら外国文学にかぶれたインテリでも、英語で日常の手紙をしたためたり、フランス語で日記をつけたりすることは、まずないでしょう。してみると、今日、「もっとも日本的だった」と考えられているその当時のほうが、はるかに恥じることなく、外国文化をウノミにしていたわけです。
〜略〜
 太平洋戦争ちゅう、私が中国の前線にいた時分のことですが、道ばたのお店で絹ごしドウフを売っているのを見て、兵隊さんたちが、「日本のトウフがあるじゃないか」と言って大よろこびしたことがありました。「そういえば、油アゲまである」と奇声をあげるありさまなので、「これはもともと中国のものだ。だいいち、トウフという言葉からして中国語だし、ミソでもお茶でも、みな中国のものだ」と言って、説明しようとすると、とたんに、「きさま、日本をバカにするか!」と言ってどなられ、非国民あつかいにされてめんくらったことがあります。
 ふつうの人はまったく日本古来のものだと思って疑わないほど、われわれの身についてしまった輸入品がどれぐらいあるかわかりません。「きもの」など、世界に誇る日本文化の代表のように思われていますが、これももとは大陸からきた衣服です。日本古来の服装は、かえって今の洋服にちかい、頭からかぶるしかけのワンピースや、ズボンと細い袖の上着だったのです。それが、奈良時代にとり入れた大陸の風俗が、だんだん転化して、今日の着物になりました。生地の織り方、縫い方、みんなあちらから織工をつれてきて、ひじょうに高い文化的なものとして、全面的に生活にとり入れたのです。呉(ご)の国から来た(四六九年、雄略天皇の代)機織工を「呉織」(クレハトリ)といいました。その製品も「呉織」(クレハトリ)であり、「呉服」という語は、そういうところからきているのです。だから、当時はぱりぱりの舶来ニュー・ファッションだったのですが、だんだんに「呉の国からきた、外来の」という意味は消えうせて、呉服屋といえば、もっとも日本的な感じのする店になってしまいました。
 そういえば、近ごろでは「洋服」という言葉にも、いわゆるバタ臭さはすっかり消えてなくなっております。もうしばらくたつと、「これは、もともと西洋の服という意味で・・・・・・」などと、うっかりもの知りぶりを発揮しようものなら、国粋主義者にどなられるようになるかもしれません。
 このように、日本古来の文化的なものは、ほとんどが大陸からきたものだといってよいくらい、全面的な影響をうけているのです。それはちょうど明治以来、今日まで、西洋文化をいっしょうけんめいにとり入れたのと同じです。
 ところが同じ輸入でも、過ぎ去ったものだと安心して許し、今日、われわれの責任において正しくつかみとらなければならないものにたいしては、あれは外国のまねだ、非日本的だといって、いやしむ。現在の切実ないとなみを否定したがる、ほんとうに今日に生きていない人たちがいるのです。現在にたいして、自信がないからです。過去の輸入品をたてにとって、今日われわれが直面し、正当にみとめなければならないものを拒むということ自体、まったく矛盾であり、卑劣なことです。こういう連中のバカバカしい考え方を徹底的に打ちくだかなければ、問題ははじまりません。

『今日の芸術/岡本太郎』より「根のない日本主義」。

10月29日(土)

 今日、昨年より4日遅れて近畿地方で木枯らし1号が吹いたそうだ。
 初めて買った洋楽のシングルレコードは町内にあった東京堂という電器屋さんで購入したビヨルン&ベニーの「木枯らしの少女」だった気がする。この二人が後にアバを結成するが、個人的に「木枯らしの少女」を歌っていた人と「ダンシング・クイーン」のアバが同じ人達だと知ったのは割りと最近だ。そのアバが、再結成するようだ。「デジタル技術を駆使した」プロジェクトって、どんなだろうか。

政府が初めて年金積立金30兆円の損失発生可能性を認めました 
 この記事を読めば、原発の安全性は机上の空論で作り上げられて来たが、アベノミクスの経済再生もまた机上の空論の積み重ねでしかない事がわかる。

 唯一の被爆国である日本が核兵器禁止条約に反対し、福島第1原発事故という未曾有の災害を起こしてもなお原発再稼働に向けて邁進する狂気。台湾は福島第1の事故を受けて、2025年までに原発の稼働を全て停止する事を決めた。

 今年の4月23日に撮影した、二上射水神社の築山行事の様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
二上射水神社の築山行事01
↑築山の前で行なわれた、祭り獅子による獅子舞の奉納。
↓舟形の3基の神輿が通る前を露払いして歩く、ゲンダイジシ。
二上射水神社の築山行事02

10月26日(水)〜27日(木)

 黒部市生地にある新治(にいはる)神社の秋季例大祭である、たいまつ祭りへ。20時頃から町内を屋形船とお神輿が練り歩き、日付の変わる0時頃に新治神社で松明の炎の中を厄年の男達が神輿を担いでくぐり抜けるという情報しかないので、少し早く着くように最寄り駅を17時31分発の列車に乗る。乗る直前に小雨が降り出し、生地駅に着く間に土砂降りとなった。
 18時44分に生地駅に到着するが、雨は弱くなったり強くなったり。しょうがないので駅の待合室のイスに座り、スーパーで買って来たいなり寿司とイカの唐揚げを食べる。
 一時間近く待合室でテレビを観ながら過ごしていたら、駅にバスが到着。何処行きか運転手に尋ねると「魚の駅」行きの最終バスだというので、急いで乗り込む。バス料金は200円だった。雨は止んだようだ。
 「魚の駅」に到着して、隣りのコミュニティーセンターへ。事務所で祭りの事を聞いてみる。それによると7つの町内のうち今年の当番町の神明町と宮川町が、屋形船のようにデコレーションした大型トラックにそれぞれえびす様と大黒様を乗せる。それ以外の町は軽トラなどを飾り付ける。そして各町内を練り歩いた後、御旅所である神明社に集まって一緒に新治神社へと向かう。
生地たいまつ祭り01
 先ずは町内を練り歩いている屋形船を見ようとコミュニティーセンターを出ると、お囃子の音が聴こえて来た。音を頼りに歩いていくと、えびす様を乗せた神明町の屋形船だった。大型トラックをデコレーションしているので、思っていたより迫力のある船で、荷台にはえびす様と子供たちが乗っている。子供たちは笛や太鼓を手にしているが、スピーカーから流れているお囃子は録音のようだ。
 ゆっくり町内を進むトラックに着いて行く。祝儀をもらう度にトラックは止まり、目録が読まれる。日本酒と紙コップを持った男性も一緒に歩いており、勧められて一口ご馳走になる。トラックの先頭を歩いていた年配の男性が、餅まきの時に撒く蒲鉾を一つ下さる。ちょっと祭りのことを聞いてみると、町内を練り歩いた後21時過ぎには神明社に到着するとのこと。そして神明社に各町内の屋形船が21時半頃までに揃い、22時頃に行列を作って新治神社に向かって練り歩く。
 21時過ぎ、えびす様を乗せた神明町の屋形船は神明社近くにある墓地の駐車場に到着して、ここで各町内の屋形船が来るのを待つ。
↓→新治神社を出て朝から巡行していたお神輿が休んでいる神明社。
生地たいまつ祭り03
生地たいまつ祭り02
生地たいまつ祭り04
 神明社に行ってみると、拝殿にはお神輿が置かれ、メンダラー(猿田彦)が支度をしていた。

←そうしている間にも、神明社と墓地の間の通りに続々と各町内の屋形船が到着する。

↓やがて拝殿に置かれていたお神輿が担がれ、神社の前で車輪の付いた台車に乗せられた。
生地たいまつ祭り05
生地たいまつ祭り06
 大黒様を乗せた宮川町の屋形船が練り歩いていたのを見つけたので、しばらく着いて歩く。一般道を、屋形船が車とすれ違いながら進む姿は面白い。
生地たいまつ祭り07
 22時近くになって宮川町の屋形船も神明社の前に並んだ。小さい屋形船が5台、続いて大黒様を乗せた宮川町、えびす様を乗せた神明社の大きな屋形船が並ぶ。その後をメンダラーに先導されてお神輿が練り歩く。
生地たいまつ祭り08
生地jたいまつ祭り09

↑神明社の前に並んだ各町の屋形船。神明町の屋形船は、墓地から神明社までは子供たちが綱で引っぱって歩いた。

←練り歩きが始まって割りと直ぐに、最初の餅まきが行なわれた。餅やお菓子、蒲鉾などが沿道に投げられる。

↓屋形船の後を、お神輿が練り歩く。左の写真、手に持っている長刀で子どもの頭を撫でているメンダラー。

生地たいまつ祭り10
生地たいまつ祭り11
生地たいまつ祭り12
 さほど道幅が広くない道路を、大きな屋形船がゆっくりと進む。進んでいる時間より、止まっている時間の方が長いかもしれない。
 この練り歩きと同じく、22時から新治神社では300とも400とも言われる松明に火がつけられる。
 屋形船とお神輿の練り歩きを途中まで見てから、松明に火がつけられる新治神社に向かった。
 到着すると、鳥居の先が炎に包まれていた。
生地たいまつ祭り13
生地たいまつ祭り14

 たいまつ祭りの由来では、1454年8月25日の深夜、暴風で遭難しかけた漁船が、新治神社のご神火を目印にして生地浜に生還できた。この事から新治神社で松明を燃やし、感謝と航海の安全を願うようになったそうだ。 26日の朝から神様を乗せた神輿が町をまわり、一旦町外れの神明社で休憩をし、夜になってえびす様と大黒様を先頭にして帰って来る。
←0時をちょっと過ぎて屋形船が新治神社の境内に入って来る。

 お神輿が境内に入ると、厄年の男達が台から外して肩に担ぐ。参道の両脇に火のついた松明が並んでいる。男達が「オタッチョー(神様がお立ちになるぞの意味)」と言う掛け声の中、松明の間を駆け抜けて行く。
生地たいまつ祭り15
↓→最初に火渡りをしたのは、メンダラー。
生地たいまつ祭り17
生地たいまつ祭り16
↓厄年の男達と神様を乗せたお神輿も、無事に火の中を渡った。
生地たいまつ祭り19
生地たいまつ祭り18
 今まで火渡りは何度か見ているが、これまでで一番豪快な炎だ。火の勢いもさることながら、距離もある。ネットで火渡りを経験した人が「ローストチキンの気持ちがわかった」とコメントしているのを見つけたが、確かにそうかも知れない。
 火渡りはあっという間に終わってしまった。どうした訳かメンダラーが煤だらけになっており、手に火傷を負ったと言う事で救急車で病院に。
 神様は神社にお戻りになり、厄年の男女が拝殿に座り、神職から厄払いをしてもらう。えびす様と大黒様は、いつの間にか境内のお堂に祀られていた。
生地たいまつ祭り20
 午前1時少し前に全ての神事が終わった。参道に積もった松明の藁はまだ燻っていて、ところどころ小さな炎があがっている。それぞれが各町内の公民会で直会を行なうのか、境内は人気がなくなった。神社の近くのバス停のベンチに座って、いなり寿司とイカの唐揚げの残りを食べてから浜の方へ向かう。生地駅の始発は5時31分までない。
 浜の堤防でゴロンと横になって身体を休めるが、寒くて寝る事は出来ない。夜釣りをしている人が何人かいたが、釣れている気配はなく、やがて帰って行った。
生地たいまつ祭り21
生地たいまつ祭り22
 午前2時頃になると、漁を終えた漁船が何隻か港に帰って来た。
 浜の方に居るのも飽きたので、黒部漁港へ行ってみると、獲って来た魚が床に並べられている。
 若い漁師の男性が話しかけて来たので、聞いてみると4時半から競りが始まるという。
 15分程競りを見学して、生地の駅に向かう。漁港から駅まで、25分ほど歩いただろうか。
生地たいまつ祭り23

 列車は時刻表通り生地駅に到着。ガラガラかと思っていたら、けっこう人が乗っている。富山駅まで座席でウトウトしていたら、通勤通学の人でいっぱいだった。終点の富山駅で下りて、次の金沢行きをホームで待つ。富山駅を6時30分発の列車に乗り、自宅に着いたのは7時頃だった。
 焼酎をキュッと呑んで、布団に入った。

*生地には一人1泊1000円で泊まれる、ジュテームの館というのがあるようだ。

10月25日(火)

 一昨日、事務用品を買いにスーパーに入っているダイソーへ。A4の封筒とA4のクリアブックを一つずつ購入。A4のクリアブックはこんなに色んな種類があるのに、なぜA3のクリアブックは無いのだろう・・・と思いながらふと棚の下を見るとA3のクリアブックらしき物が平積みになっている。あるじゃん!
  ヤフーのQ&Aで「100均にA3のポケットファイルって売ってますか?」という質問があり、「ダイソーの元店員です。ありませんよ!」と自信満々の回答が載っていたので諦めていた。

A3クリアブック
 とりあえず一つ買って来た。10ポケットなので裏表に入れて20枚のA3プリントが収納できる。10冊買っても1080円で、200枚収納できる。今度、少し買い占めて来るかな。

 1982年頃だから、21歳から22歳にかけて一色ゆかりという女の子のバックバンドでドラムを叩いていた。
 彼女は1981年に「ギャンブラー」という曲でビクターのZENレーベルからデビューした。アイドル風の女の子がロックを歌うというコンセプトで誕生したシンガーで、浜田麻里や早瀬ルミナ、本城未沙子と続くジャパメタクイーンの先駆けだったと思う。

 ネットでは長戸大幸さんのビーイングに所属という記事も見るが、記憶では大幸さんの弟のレイ(秀介)さんの事務所レイズインだったと思う。兄弟でプロデュースしていたのかもしれない。
 デビュー時のバックバンドは、ギターの河内淳一さん、ドラムの山田亘さんらが結成したBLAXだったが、ある時レイさんから連絡があって一色ゆかりのバックバンドを探しているから、お前、メンバー探してやらない?と言われてシルバーフォックスというバンドを急遽作った。 

 一番最初のライブは新宿のアシベで、レコード会社の関係者を集めたお披露目ライヴだった気がする。浜田麻里が一緒にステージに立った。
 82年の1月11日〜15日まで渋谷のエッグマンで「Lady's Jam1982”なめんなよ”コンサート」というのがあって、5組の女性ミュージシャンが日替わりで出演した。今考えると、SHOW-YAの「NAONのYAON」の先駆けみたいなイベントだったかもしれない。一色ゆかり、西園寺たまき(テレサ野田)、ピンクレディーのMIE、福島邦子、ルシールが出演し、一色ゆかりが初日だった。
 この時のライブにはゲストが何人かいて、ギターの河内淳一さんや浜田(織田哲郎)さんもなぜかアコースティックピアノで何曲か参加してくれたのを覚えている。
 当時はデビューアルバム『LETTS'S BEGIN』からしかオリジナルの曲はなかったので、元ランナウェイズのボーカル、シェリー・カリーが双子の妹と組んだシェリー&マリー・カリーの曲もレパートリーにしていた。
 彼女はしばらく一色ゆかりの名前で活動した後、杉本誘里に改名してやはりハード・ロックを歌っていた。

一色ゆかりフライヤー01
一色ゆかりフライヤー02

 こんな昔のことを書いたのも、ネットに懐かしい映像が落ちていたから。こちら
  たぶんバックバンドはBLAXかな。すごく小柄な女の子だったが、声量もあって歌はとても上手かった。ネットを探しても彼女の動く映像はこれしかない。今のようにビデオカメラが普及している時代じゃないので、そもそも映像がないのだろう。

←当時のスケジュール帳に挟んであった、フライヤー。

 レパートリーにしていた曲を、You Tubeから。「Wishing Well/シェリー&マリー・カリー」「Elaine/シェリー&マリー・カリー」「Helter Skelter/パット・ベネター」。

10月24日(月)

 明日からしばらく天気が崩れるようなので、久しぶりに自転車で小矢部川の堤防へ。稲藁を焼く香ばしい匂い。今日の最低気温14℃、最高気温は18℃らしいが、体感的にはもっと寒いかな。そろそろ湯たんぽが恋しい季節。
夕暮れの小矢部川

 高江を舞台にした映画『標的の村』の監督・三上智恵さんへのインタビュー記事。米軍北部訓練場問題の経緯が、簡単な年表にしてある。
  ところで、辺野古や高江に比べてあまり話題にならないが、伊江島にある米軍の補助飛行場でも着陸帯の工事が進められている。沖縄北東部の辺野古、そのさらに上に位置する高江、そして沖縄北西部沖にある伊江島。これらが完成すれば、オスプレイを始めとする軍用機が沖縄北部を3つの基地を起点に飛び交う事が予想される。北部訓練場の半分が返還されるというが、上空に飛行制限をかけられない限り、寧ろ今よりも住民の負担は増えるだろう。
 ちなみに、北部訓練場の面積は78,242千㎡で、この内の半分が返還されてもまだ東京と北関東の米軍基地(東京・埼玉・茨城・千葉・福島・群馬・新潟)の15施設を合わせた41,128千㎡に匹敵するほどの面積が残る事になる。

 今年4月18日に行なわれた氣多神社の春季例大祭の様子をPhoto Albumにしました。こちらこちら
お神輿の渡御
↑拝殿での神事の後、境内をお神輿が渡御する。お神輿の前を行道獅子が露払いして歩く。行道獅子はお神輿の渡御の後、にらみ獅子となり拝殿の前で舞を奉納する。
↓にらみ獅子の奉納の後、祭獅子が舞を奉納。この後、祭獅子は神社を出て集落を門付けして歩く。
祭獅子の奉納

10月23日(日)

 午後から、富山県知事選挙と県議会議員補欠選挙の投票に行って来た。知事選の結果は、開票して直ぐに現職の石井氏に当選確実が出た。

 フィリピンのドゥテルテ大統領は、先日テレビ局のインタビューで中国およびロシアとの合同軍事演習に前向きな姿勢を示す一方、長年の同盟国である米国との軍事演習は今後行なわない考えを強調した。
 また、今月20日には中国を訪問して民間の投資を含めて総額135億ドル(約1兆4000億円)の経済支援を取り付けた。この際に習主席は会談で南シナ海問題を念頭に「摩擦を適切に処理する努力をしたい」と発言している。
 沖縄の基地問題で中国脅威論を持ち出す人の言説に「米軍を撤退させたフィリピンの今を見ろ」というのがあるが、フィリピンは彼らが思っている以上にずっと強かだ。
  2ヶ月程前に屋良朝博氏が、「中国と渡り合うフィリピン外交 孤立するのは日本?」という記事を書いているが、そんなシナリオになってきた。

土人と呼びたければ呼べばいい。せめて、これ以上、沖縄の命を奪わないで。どれだけ奪えば、あなたたち侵略者は満足するのですか?
 様々なコメントを見たが、やんばるの森を活動拠点にするアキノ隊員こと日本鱗翅学会自然保護委員・宮城秋乃さんのこの発言が一番突き刺さる。

 高江のヘリパッド建設現場で抗議活動を行なっていた人に対して、大阪府警から派遣されてきた機動隊員が「触るな。土人」と暴言を吐いた事が波紋を呼んでいる。
 テレビやネットのニュースでも取り上げられているし、SNSでも色んな人が様々な発言をしている。中でも注目を集めたのは、松井一郎府知事の「ネットでの映像を見ましたが、表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」というツイッターでの発言だ。
 この松井氏の発言に対して小林よしのり氏が<「土人」と叫んだネトウヨをねぎらってる場合か>と題してコラムを書いており、文末は<わしは罵詈雑言のすべてを否定はしない。それは権力に向けて使うのは許されるのだが、虐げられた者たちに向かって使ってはいけないのだ。知事に向かって「常識」を教えてやらねばならない時代になるとはなあ>という言葉で締められている。
 松井知事は記者会見で「相手もむちゃくちゃ言ってるいるわけでしょ」と発言したようだが、このようなどっちもどっち論を唱える人をネットでよく見かける。しかし、選挙で基地移設反対やオスプレイの駐留反対を民意で示しても、強行に押し進めようとする権力者に対して他にどんな手立てがあるのだろうか?現在行なわれている北部訓練内での直接抗議にしても、抗議活動をしている人達の中でも世論に受け入れられるのかという葛藤を抱えながら、それでも何もしなければ工事が進み伐採が進むだけだと逮捕を覚悟で現場に立っている。
 政府は沖縄に対して理解が得られるよう丁寧な説明をしていくと繰り返し言うが、そんな説明は今まであっただろうか。
 普天間基地や北部訓練場返還の日米合意の際も、日本政府はオスプレイ配備を隠してきた。米軍が1997年の時点でオスプレイの配備を米軍機関誌に報じているのに、日本政府は聞いていないと逃げてきた。そして最終的にオスプレイが配備される事を認め、沖縄に伝えたのは実際に駐留が始まる僅か1年半程前の2011年6月だ。
 沖縄に対する不適切発言は今に始まった事ではない。2011年11月には防衛省の田中聡局長が、一川保夫防衛相が米軍普天間飛行場の代替施設として名護市辺野古に新しい基地を造るための環境影響評価書を年内に提出すると断言しない理由を聞かれ、「(女性を)犯す前に『これから犯しますよ』と言いますか」と発言し、後に更迭されている
 そもそも普天間の返還を含む米軍基地の整理縮小への動きは、1995年9月に起きた米兵による12歳の女子小学生への集団レイプ事件がキッカケだ。この事件を受けて「沖縄県民総決起大会」が開かれ、8万5000人が集まった。沖縄では強烈な出来事だが、今、内地に暮らす人のどれくらいがこの事件を覚えているのだろうか。

高江サウンドパレード01
高江サウンドパレード02
↑2014年2月12日に行なわれた、高江サウンド&県庁前Picnic!!!!県庁前広場では、アキノ隊員によるトークがあり、その内容は「やんばる東村高江の自然と米軍ヘリパッド建設計画」に書かれている。
 元NHKのアナウンサーで、現在日本のこころを大切にする党に所属する参議院議員・和田政宗氏が辺野古のキャンプ・シュワブゲート前で基地反対の抗議をしていた島袋文子さん(87歳)から暴力行為を受けたとして、被害届を出している。彼らがビデオカメラを向け、嫌がった島袋さんが手を振り払ったのが当たっただけのようだが、それを暴力行為だとして訴えている。歩くのもままならず車椅子に乗っている87歳の女性に手で振り払われたのを、暴力だといって訴える政治家のなんと情けない事か。
 一方で島袋さんは今年の8月に高江の周辺で機動隊によって、右手小指を5針縫う怪我を負わされている。
高江で座り込みを続ける87歳の「文子おばあ」こと島袋文子さんら市民から「暴行を受けた」と被害届を出した「日本のこころ」和田政宗議員とその同行者たち!!
 相変わらずネット上には「プロ市民」「日当」という言葉が踊っている。2年の沖縄滞在では辺野古は2度、高江は1度しか伺えなかったが、那覇や普天間、嘉手納で大きな抗議活動が行われる時は可能な限り撮影に行き、一緒に歩きもした。そんな身からすると「プロ市民?何それ」だ。昔から言われる日当も、その根拠となるのがボギーてどこんこと手登根安則氏が拡散している辺野古で拾った空の茶封筒だというお粗末な話しでしかない。

10月21日(金)

 髪が伸びたので、昨日切りに行った。サイドとバックに3mmのバリカンを入れる。自転車での帰り道、頭がスースーする。そんな季節になった。

 今日の午後14時7分頃、鳥取で震度6弱の地震が発生。その後も震度3クラスの地震が頻発しており、2000人以上が避難しているようだ。

 今年の4月13日に行なわれた白象町内おねり(花まつり)の様子を、Photo Albumにしました。こちら
白象町内おねり
↑花まつりは、お釈迦様の生誕を祝う行事。子供たちが白象を引いて歩いたり、柄杓でお釈迦様の頭に甘茶をかけて祝う。白象を引くのは、お釈迦様の母マーヤ様が白象がお腹の中に入る夢を見て、お釈迦様を身ごもったからだそうだ。
新しいトップ画面
←トップ画面を模様替えしました。奄美や沖縄の写真が続いたので、今回は東京・湾岸の写真です。水上バスからの撮影で、写真の左下は、工事中の豊洲市場です。2007年3月に撮影。まさか9年後に、盛土の問題で揺れるとは露程にも思っていなかった。

↓これまでのトップ画面
これまでのトップ画面
 原発関連の気になったニュース。
志賀原発 原子炉建屋に雨水流入 重要設備あわや浸水
巨大噴火 原発の停止基準を検討 原子力規制委
 今日も鳥取で大きな地震があったが、自然災害大国の日本で原発を動かすのをもう止めたらどうか。

10月17日(月)

 しばらく秋晴れが続いていたが、今日は曇り。放射冷却がないからか、朝から晩まで暖かかった。
 昨日は、黒部市宇奈月町栃屋の獅子舞を見に行った。何日か前に宇奈月町浦山の祭祀「浦山のナガ」について黒部市に問い合わせたところ、浦山公民館を紹介していただいた。さっそく電話して聞くと10月23日にお神輿が出るそうだが、担ぎ手が少なく軽トラックでまわるとのこと。そして獅子舞を見たいなら栃屋で16日に行われる事を教えてもらった。
 栃屋神社(正式には石動彦社)の秋季例祭で獅子舞は朝から村内をまわり、夕方5時から神社の特設舞台で奉納の舞が行なわれるそうだ。獅子舞は車で移動するようで、栃屋に行ったからといって見つからないかもしれないが少し早めに到着するようにして探してみることにする。
 あいの風とやま鉄道で魚津駅に13時40分に到着。一旦改札を出て富山地方鉄道の新魚津駅へ。特急に乗って黒部駅へ行き、ここで各駅停車に乗り換えて栃屋に14時半頃に到着した。
富山地方鉄道
↑電車など乗物全般にあまり興味はないが、富山地方鉄道のローカルな駅舎にはそそられる。
 とりあえず奉納舞台のある神社の場所を確認しようと駅舎を出て歩くと、近くに村内の見所地図を発見。地図に書かれた神社までの大体の道を覚えて5分程歩くと着いた。
↓→栃屋神社の名で親しまれている、石動彦社。
栃屋神社02
栃屋神社01
 参道には提灯が飾られ、境内には舞台が設えられていた。拝殿の中の人に獅子舞は現在、どこら辺にいるのか尋ねると、今は山の方をまわっているが、もう直ぐスーパー大阪屋の方に来るというので大阪屋までの道を教えてもらう。
 神社の横の道を15分程歩くと、大阪屋があった。しばらく待ったが獅子舞の一行がやって来る気配がないので、山の方へと少し歩き出したところで、獅子舞の道具を積んだ軽トラックに遭遇。これから大阪屋で獅子舞を始めるというので、あわてて引き返す。
 大阪屋で舞を行なった後、道路を挟んだ向かいにある五叉路という名前のラーメン屋の前、五叉路と同じ敷地にあるショッピングタウン・イラッセで獅子舞を披露した。
つゆはらい

 栃屋の獅子舞で最初に行なわれるのは、じじとばばの面を被った2人組が竹箒で掃除しながら奇妙な踊りを披露するつゆはらいだ。紫の服がじじ、黒の服がばば。じじ、ばばの面で思い出すのが八重山の旧盆に登場するアンガマだ。ウシュマイ(翁)と、ンミー(媼)の面を被った祖霊がファーマー(子孫)を連れてやってきて仏壇の前で供養をする。栃屋のじじとばばも、道化であり祖霊の役割でもあるのだろうか。
 栃屋の獅子頭は毛がふさふさとついており、頂上に角が1本ある。ネットで調べると熊獅子というそうだ。獅子舞は大天狗や小天狗による舞、それから女の子による手踊りが披露された。幟が立てられた軽トラックには、お神輿が積まれていた。

↓栃屋の獅子。→軽トラの荷台に乗せられたお神輿。
お神輿
獅子舞
獅子舞の様子
 イラッセでの獅子舞の後は、2kmほど離れた新築の家で御祝いの獅子舞を演舞してから神社に戻るというので、ダメ元で軽トラックの荷台に乗せてもらえないかとお願いしたところ、すんなりと乗せてもらえた。荷台にじじ、ばばと並んで座った。
つゆはらいとお神輿
 新築祝いの家に到着して、先ずはつゆはらい。続いてマイクロバスに乗って移動していた子供たちによるお神輿。お神輿は公民館の前や結婚、出産、新築などの祝い事のあった家の前で担がれる。
新築祝いの獅子舞01
新築祝いの獅子舞02
 新築祝いの獅子舞が終わり、神社の隣りにある公民館へ車が連なって戻る。そして舞台の飾り付けや、座席の設営。
移動と舞台の準備
 獅子舞のプログラムがあったので、見せてもらった。
栃屋神社(石動彦社)
1.大門先/2.子どもみこし/3.大天狗 六尺棒/4.らんま踊り/5.小天狗 天狗舞
 *大門先とは演目なのか、それとも鳥居の前に並び宮入することだろうか。こちらに大門先<踊り手全員と獅子が家内に入場する>とあるので、宮入することかな。
↓つゆはらい。→傘を持って肩に乗る小天狗。
小天狗
つゆはらい
子どもみこしと大天狗
↑子どもみこしと、大天狗の六尺棒。
らんま踊りと、小天狗の天狗舞
↑らんま踊りと、小天狗の天狗舞。

 拝殿前での獅子舞奉納が終わり、拝殿横に設えられた舞台での獅子舞が始まった。村内を門付する獅子舞は頭に1人、胴幕に1人の2人立ちだが、舞台での獅子舞は身軽に動ける1人立ちだった。
栃屋神社奉納プログラム
開演の辞/1.会長挨拶/2.来賓挨拶/3.つゆはらい/4.子どもみこし/5.担ぎ手紹介/6.獅子起こし/7.大天狗 六尺棒/8.小天狗 天狗舞/9.小天狗紹介/10.大天狗 猩々舞(しょうじょうまい)/11.らんま踊り/12.踊り子紹介/13.大天狗 猩々舞雑(しょうじょうまいまじり)/14.小天狗 一丁傘/15.楽隊節/16.小天狗 猩々舞雑/17.大天狗 箭間雑/18.小天狗 打ち込み/19.大天狗 一丁傘/20.富山の四季/21.大天狗 天狗舞/22.小天狗 猩々舞/23.大天狗 二丁傘/24.花笠ばやし/25.両の手/26.大神楽/27.鵠僊(こくせん)/28.酒樽猩々舞/29.閉会の辞/30.万歳
→マイ獅子頭を持つ男の子。お父さんは獅子起こしで獅子をやったそうだ。この男の子も舞台にちょっと出場した。

獅子頭を持つ男の子

舞台の獅子舞01

↑上段左は獅子起こし、右は大天狗の六尺棒。中段左は小天狗の天狗舞、右は大天狗の猩々舞。下段左は大天狗の猩々舞雑、右は小天狗の一丁傘。
舞台の獅子舞02
↑上段左は小天狗の猩々舞交、右は大天狗の箭間雑。中段左は大天狗の一丁傘、右は大天狗の天狗舞。下段左は小天狗の猩々舞、右は大天狗の二丁傘。
舞台の獅子舞03
↑上段左は両の手、右は大神楽。中段左は鵠僊、右は酒樽猩々舞。下段は万歳三唱、そして舞台から客席にお菓子が投げられて終了となった。終了時間は18時45分頃だった。
駅の水槽
 来る時に、栃屋の駅舎で帰りの時刻表をデジカメで撮影しておいた。19時19分に富山方面行きの電車があった。暗い道を歩いて駅舎に向かう。人の居ない駅舎の中で煌煌と灯りのついている水槽がポツンとあるのが、とてもシュールだった。
 滑川駅で富山地方鉄道から、あいの風とやま鉄道に乗り換える。うまく接続する列車がなくて、家に着いたのは22時過ぎだった。
 栃屋の獅子舞は、とやまの獅子舞百選に選ばれており、<演目はダイモンサキ、テングマイ、ショウジョウマイなど、江戸時代の頃の舞を比較的良好に継承する>と書かれている。開催日は10月17日となっているが、現在は10月の第3日曜日に行なわれているようだ。こちらのブログにも栃屋獅子舞保存会の事が書かれている。
 ところで栃屋の獅子舞の演目によく出てくる猩々舞。猩々とは古典書物に記された架空の動物だそうだ。こちらには、<中国の伝説上の動物。または、それを題材にした能楽などにおける演目。 さらにそこから転じて、大酒家や赤いものを指すこともある>と書かれている。また、こちらには<獅子舞にはよく、天狗などの獅子のあやし役がつくが、麒麟獅子舞においては、赤い面・衣装・髪の「猩々しょうじょう」がつくのが特徴である。猩々は、長さ1.5メートルほどの赤い棒を持ち、舞いの前後や舞いの中で麒麟獅子を先導したり、比較的ゆるやかな動きで舞ったりする>という記載がある。
 こちらのサイトには、富山から伝えられた北海道の獅子舞について解説されている。

10月15日(土)

 昨日にも増して快晴。昨日は辿り着けなかった砺波にある靴の量販店に、午後から自転車で再び向かう。途中、久しぶりに「鯉の里公園」に寄ってみる。池の水がキレイで、鯉の数も多いように感じたのは気のせいだろうか?
鯉
 「鯉の里公園」から砺波へ。家でグーグルマップを見て確認してきたので、すんなり到着。さっそく店内に入ってスニーカーを色々と見てまわり、手にとり履いてみたりするがデザインとサイズと値段の折り合いが着かず買わずに出る。確か戸出にも同じ店が合ったと思い行ってみるが、こちらのお店は閉店で今度は中華レストランになるようだ。
 もうしばらく今のスニーカーを履くことにして、家へ帰る。
夕暮れの風景
↑戸出からの帰り道。稲藁を焼く煙がたなびくと、秋だな〜と思う。
夕焼けとお月様
 綺麗な月だな〜と思ったら、今日は旧暦の9月15日で満月だった。夕焼けとお月様は、同じ時間に同じ場所から撮影。夕焼けと満月に挟まれた格好だ。ちなみに、夕焼けのシルエットになっているのは、村上スタジオ。
 今年の4月11日に撮影した酒とり祭の様子をPhoto Albumにしました。こちら
酒とり祭01
↑25歳の厄年の男達が、ふんどし姿で杓子を持って鳥居から拝殿に向かって走って来る。
酒とり祭02
↑拝殿の入り口で杓子にお酒を注いでもらい、それを神社に集まった人達に振る舞い無病息災と五穀豊穣を祈願する。

10月14日(金)

 履きっぱなしのスニーカーが大分傷んできたので、天気も良いことだしサイクリングがてら買いに行くことにした。何度か行ったことのある砺波の量販店に向かったが、いつもと違う道を通ったからか場所が分からなくなった。しばらくアチコチの方向へ自転車を走らすが、目指す量販店が見つからない。しょうがないので砺波のイオンモールに入ってみる。モールの中には靴屋さんが2軒あったが、スニーカーは買わずに食品コーナーで冬限定のチョコレート、バッカスを買って家に帰る。ロッテのラミーとバッカスが店頭に並ぶと、もうそんな季節かと思う。

 一昨日の夜、アマゾンでポチッとした中古の写真集2冊が、今日の午前中に届いた。どちらもモノクロのストリート・スナップによるポートレートだ。

写真集01
写真集02
↑左は、『PEOPLE/HIDEKAZU MAIYAMA』(T-BOOKS)。『Passers-by 静かな肖像/児玉姫子』(クレオ)

「祭りは音から消える」・・・核心を突いた言葉かもしれない。

 先日、久高島の祭祀・イザイホーの音源を収録したCDが発売されたという記事をこの日記にも書いたが、そのCDを製作した宮里千里さんという方の 興味深い記事が2000年2月の琉球新報に掲載されていた。2000年の時点で沖縄や奄美の祭祀・神行事を記録した録音テープが約900本あったそうだ。
 この記事で印象的なのは「祭りは音から消える。しかも、ある日突然に…」という宮里さんの言葉で、<神行事の動作や踊りは見よう見まねで継承されるが、「神歌や祈りの言葉は、継承者がいなくなった時点でなくなる」>という発言はとても納得がいく。
 糸満市の米須(ジョン万次郎が上陸した土地)で、旧8月15日に五穀豊穣や集落の繁栄を祈って女性だけで踊られる輪踊り・ウシデーク。戦中に途絶えてい たこの踊りは、婦人会や老人会によって昭和23年に復活したそうだが、2013年に見に行った時は踊りや伝統衣装は復元されていたが、歌はカセットに録音 したものが使われていた。
 2014年6月に久米島へ君南風(チンベー。聞得大君に直属し、島のノロを統括していた高級神女)が司祭する五月ウマチー(初穂祭)を撮影に行った時 は、既にオモロ(琉球の古謡・神歌)を歌える神人が不在となったため世話役の男性が録音したカセットテープがラジカセから流れていた。

 宮沢和史さんが沖縄の民謡を採取して録音するプロジェクトを始動したが、これも重要な仕事だろう。

 昨日はタイのプミポン国王が逝去されたというニュースと、ボブ・ディランにノーベル文学賞という2つの大きなニュースが飛び込んできた。今日のフェイズブックには、ボブ・ディランの話題がいっぱい流れて来る。
 You Tubeから「blowing in the wind /Bob Dylan」。

 高江関連の最近の記事。
<社説>北部訓練場返還 負担生むSACOの矛盾
<社説>記者排除を正当化 報道の弾圧容認できない
辺野古承認「撤回」も視野=翁長沖縄知事インタビュー
高江・400人の結集で機動隊も手が出せず! 2万4千本もの立木伐採について両紙が1面で大きく報道

10月10日(月)

 昨日は県内で曳山行事としては今年最後となる、大門曳山まつりを見に行った。この曳山は、大門神社と枇杷首(びわくび)神社の秋季祭礼として行なわれる。曳山の出発式は午前10時だが、夜の提灯山まで長丁場なので午後から出かけた。
*翌日の北日本新聞の記事によれば、午前中は雨が降っていたため曳山の巡行はなく、庄川にかかる大門大橋を4基が通る「橋渡し」も中止になったようだ。

 最寄り駅を12時36分の列車に乗って、越中大門駅に12時48分到着。プリントアウトしてきた曳山の巡行地図を見ながら歩いて行くと、しばらくして曳山が見えて来た。
 曳山は4基連なって動いている。神社や山宿だけではなく、家々の前でも止まって行く。ずいぶんご丁寧な巡行だな〜と思っていたら、一軒一軒花をもらっているそうだ。

↓越中大門駅。→しばらく歩くと曳山がやって来た。
大門曳山まつり02
大門曳山まつり01
大門曳山まつり03
 曳山の後に、お神輿の渡御が行なわれていた。田町広場の端に「祓所」の張り紙がしてある一本足の小さなテーブルが置かれ、その上にお神酒が乗せられていた。何だろうと思っていたら、一度通り過ぎたお神輿が戻って来て宮司さんが祝詞を奏上する。町内全体の祈願だろうか。
 再び神輿が巡行を始めたので着いて行こうとすると、呼び止められる。お神酒と供えてあった鎌簿を食べて行きなさいと言われ、ご馳走になる。
大門曳山まつり04
 湯呑み茶碗のお神酒と蒲鉾4切れをいただき、少し気持ちよくなりながら曳山の後をついて歩く。やがて曳山は巡行地図に載っていない細い道も通りながら、それぞれの山宿に帰って行った。
大門曳山まつり05
 各町内の山宿に戻った曳山は、夜の巡行に供えて提灯を取り付ける。中町の提灯の飾り付けをちょっと見て、大門神社に行くと、神社の横の西町の山宿の前で西町の曳山が、その隣りで枇杷首町の曳山が提灯を付けていた。
↓→中町の提灯飾り付け。
大門曳山まつり07
大門曳山まつり06
↓→西町の提灯飾り付け。
大門曳山まつり09
大門曳山まつり08
 提灯の飾り付けを見た後、この曳山は大門神社と枇杷首神社の秋季例祭として行なわれるのでお参りをする。枇杷首神社は、大門大橋を渡った先にある。境内に入り拝殿の前まで行くが、お賽銭箱がなかったので、そのまま戻って来た。
大門曳山まつり10
↑左は、大門神社。右は、枇杷首神社。
大門曳山まつり11
大門曳山まつり12
↑大門神社の横に香具師が並んでいる。あんばやしもある。
←庄川の堤防にて。現像の時に色温度をいじってます。本当の空の色は↓のよう。
大門曳山まつり13
 夕方6時、中町にあるいっぷくや茶の前に提灯をともした4基の曳山が揃い、夜の巡行開始。先ずは大門神社へ。ここで、曵き別れ。枇杷首の曳山は庄川を挟んだ反対側にある自分達の地区へ戻って行った。
大門曳山まつり14
↑いっぷくや茶から和田川にかかる橋を渡って、大門神社に来る曳山の行列。
大門曳山まつり15
 大門神社で枇杷首の曳山が地区に戻り、西町・中町・田町の3基となった曳山は、和田川を渡って昼間と同じく商店街の通りを巡行。そして田町の山宿の先で20時過ぎ、総代が挨拶をして締めた。この後、田町広場で3基が順番に広場の中央でグルグルと曵廻しを披露し、それぞれの町内に帰って行った。
 曵廻しを見終わって、越中大門の駅に向かう。20時47分の列車で家に帰る。越中大門の駅のホームで、祭りで時々お見かけするお婆さんと一緒になった。お祭りに一人で来てビデオを撮っている。どちらに帰られるのか尋ねると、七尾だという。ずいぶん遠くからで驚いた。

10月8日(土)

 昨日と打って変わって、今日は朝から雨。時おり激しく降っている。撮影にも行けず、家で作業。
 今日の未明に、阿蘇山が噴火した。噴煙は1万1000メートルまで上がり、兵庫の方まで火山灰が降ったようだ。風向きが違えば、川内原発にも降り注ぐということだろう。

 先月の22日、嘉手納基地を離陸した戦闘攻撃機AV8Bハリアーが、沖縄本島東側の近海で墜落した。墜落したハリアーは米本国所属で、8月に岩国基地から嘉手納基地に飛来し、沖縄で訓練をしていた。この事故を受けて、沖縄県側は事故原因が特定されるまで同機種の飛行中止を米軍に求めていたが、一昨日の午前に事故原因が特定されないままハリアーの飛行が再開された。

 22日にハリアーが墜落したというニュースを見た時に、正直、驚かなかった。国道58号に立てばわかるが、来る日も来る日も行なわれる嘉手納飛行場のタッチ&ゴー。これだけ多くの軍用機が日々上空を飛び回っていれば、いつどこかで事故を起こしても不思議ではないだろう。着陸する時は国道58号を走るバスの直ぐ上を、街路樹の直ぐ上を接近して下りてくる。
 今回の飛行再開は事故原因を特定されずに行なわれるという酷いものだが、例えハリアーの墜落事故の原因が特定されても、次は違う機種が違う原因で事故を起こしても不思議ではない。今月6日にも、嘉手納基地所属のF15戦闘機が緊急着陸している。

 戦争の種の一つにエネルギー問題があるのだろうが、タッチ&ゴーを繰り返し頻繁に上空を飛ぶ軍用機を見ながら、世界中に散らばるアメリカ軍の基地で使用される燃料というのは、一日でどれくらいの量なのかと考えて途方に暮れた事がある。

 オスプレイの駐留以来、普天間基地の問題がクローズアップされるようになったが、嘉手納も3方は住宅地に囲まれている。そして騒音問題は、普天間の比ではない。

嘉手納を離発着する軍用機01
嘉手納を離発着する軍用機02
米軍嘉手納基地離陸のハリアー、沖縄本島東側の近海に墜落
米軍戦闘機が緊急着陸 嘉手納基地 F15フックで停止
墜落事故から15日 ハリアーが飛行再開 事故原因特定されぬまま

10月7日(金)

 天気が良かったので、ドラムのスティックを買いに自転車を漕いでイオンモールに入っている開進堂まで。
 その帰り道、万葉まつりの開催されている古城公園 へ。あいにく明日と明後日は天気が崩れるようですが、今日から三日三晩、万葉集全20巻4,516首が2,000人を越える人によって唱い継がれる。
ドラムスティック
イオンモール

↑イオンモール。昨年、道路を挟んで隣りに新幹線駅の新高岡駅ができた。
←イオンモールの開進堂で買った、ドラムスティック。パールの110STH。

万葉まつり 朗唱の会
 しばらく古城公園で朗唱を眺めてから、自転車を漕いで帰る。夕方の6時を過ぎると、すっかり暗くなる。日が暮れるのも早くなった。

10月6日(木)

 昨日は台風16号が、北陸地方を通過して行った。その影響で、あいの風とやま鉄道は午後8時以降の普通列車の運航を取り止めた。一番風が強かったのは、午後9時頃から翌日の午前1時頃だろうか。2階の部屋はけっこう揺れた。雨はあまり降らず、南風が吹いたおかげで窓を開けると暖かかった。
 今朝の新聞やテレビニュースを見たが、想像していたより富山県の被害は小さかったようだ。

 もう何年も使っている充電式電池エネループライトの消耗が早くなって来た気がするので、一昨日ヨドバシのネットショップでポチッとした。ついでに、しばらく前から目覚し時計が止まってしまったので電池がないのだろうと思い、単2のアルカリ電池も購入。その電池が昨日届いたので、さっそく目覚し時計に新しい電池を入れたのだが・・・動かない。どうも電池が原因ではないようだ。
 この目覚し時計はシマ(島村英二)さんのローディーを始めた時に、遅刻をしないようにとシマさんの奥さんからいただいたものだ。 やがて35年程になるのだろうか。モノを大切に使う方ではないが、わりと物持ちがいい。一人暮らしを始めた東京・東小金井から始まり、東京・町田、神奈川・宿河原、そして奄美大島・名瀬、沖縄・那覇、富山と使って来た。

電池と目覚し時計
↑左は、ヨドバシのネットショップで購入した電池。送料無料で翌日届く。右は、35年程使って来た目覚し時計。
 昨日、電子ドラムの練習をしていたらヘッドホンからの音量が小さくなった。電子ドラムで練習する時は、iPadをコントローラーに繋ぎ、好きな曲に合わせて叩いている。コントローラーのボリュームを上げても音が大きくならない。ヘッドホンも壊れてしまったようだ。さっそくヨドバシのネットショップで、安くて良さそうなモノを探してポチった。
 そのヘッドホンが、今日届いた。さっそくコントローラーに繋ぐと、iPadからの音楽も電子ドラムの音も迫力のあるサウンドで響いて来た。めでたしめでたし。
ヘッドホン
↑購入したヘッドホン。1370円で、ミニと標準プラグのアダプターも付いている。
 Facebookに、今日が宮古島・島尻集落のパーントゥという情報が流れて来た。普段は静かな集落が、パーントゥの行なわれる2日間だけは子供が泣き叫び、それを見て親が大笑いする大賑わいとなる。
 1978年に行なわれた久高島のイザイホーの音源が、CDで発売された。こちら。ちょっと聴いてみたい。ちなみに1978年のイザイホーは、わりと記録が残っていて写真集もあるし記録映像もある。
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第1部」東京シネマ新社1979年製作
◯「沖縄 久高島のイザイホー 第2部」東京シネマ新社1979年製作

10月2日(日)

 放生津八幡宮の秋季例大祭三日目。今日は、境内の築山に人形が飾られ築山行事が行われる。
 早朝4時頃から人形などの飾り付けが始まり、通常は朝7時から午後の3時半頃まで築山が設置されるらしいが、今年は映画『人生の約束』効果と天気が良いので訪れる人が多い事から午後4時頃まで設置するとのこと。そして神事は、拝殿で10時から11時40分頃まで行なわれる。尚、神事の後半30分程は、放生会が執り行われるそうだ。
 放生津八幡宮のホームページに、放生会の説明が書かれてあった。
 放生会は、鳥や魚を放ち、生類供養を行う神事とされます。古来より、人間は、鳥や魚を生きる糧として食べてきました。日本人は、生きとし生けるものはすべて神様の命を授かって生きていると考えました。鳥や魚にも神様の御霊が宿っています。放生会は、10月2日の例大祭に合わせて行われています。神様の恵みに感謝し、放生の舞が奉納されます。そして、式の終盤で鳥が大空に放たれます。魚は、式後に内川に放流されます。
築山行事01
 10時からの神事を見るため、最寄り駅を7時50分に出る電車で高岡駅へ。8時15分の万葉線に乗り、東新湊駅に9時頃に到着。駅から歩いて八幡宮へ向かう。
 八幡宮の境内に着くと、土曜日は土台に幕が張られただけの築山に、人形が飾られていた。
 さっそく築山の写真を撮るが、逆光なので午後にまた撮影することにする。しばらく境内をうろうろと撮っていると、神事が始まった。
築山行事02
↑10時。身を清めた後、神職、舞い手の稚児、父兄らが境内を通り拝殿に入る。
築山行事03
↑拝殿奥に設えた祭壇に、神職が手渡ししながら神饌を備える。右は、祭壇の前で祝詞を奏上する宮司。
築山行事04
↑稚児による神楽「乙女の舞」の奉納。
築山行事05
↑玉串奉納の後、神饌を下げる撤饌が行なわれる。
築山行事06
↑撤饌の後、放生会の為の神饌が備えられる。籠に入れられた2羽の鳥、鉢に入れられた2匹の魚も祭壇に供えられた。
築山行事07
↑神楽「浦安の舞」「放生の舞」が奉納された。
築山行事08
↑神楽奉納の後、神饌が下げられる。鳥籠が拝殿と本殿の間に置かれ、鳥が放たれる。
築山行事09
↑鳥籠から、鳥が飛び出たところ。
築山行事10
↑最後に宮司さんのお話しがあり、拝殿での放生会の儀式は終わった。この後、奉納された鉢に入れられた魚を川に放流。
↓→八幡宮から歩いて5分程の内川に、2匹の魚を放流する。
築山行事12
築山行事11

 内川から八幡宮へ戻ったのが、12時頃だった。朝は逆光だったので、もう一度築山の写真を撮る。築山の下には新湊博物館製作の資料が置かれていた。
○放生津八幡宮の築山行事(富山県指定無形民俗文化財)
 築山と呼ばれる仮の舞台を作って神さまを招きお祀りする行事です。毎年9月、放生津八幡宮(射水市八幡町)の境内で築山となる舞台が組み立てられます。
 9月30日の夕方、火を燃やして先祖の霊を海から招き、船の形をした神輿で築山まで運んで祀ります。
 10月2日の朝、築山の上へ神々の姿をした人形5体と、歴史上の物語にちなんだ人形2〜3体を立てて祀ります。そしてその日の夕方にすべての人形を降ろし、舞台も後日解体されます。
 放生津八幡宮の築山は、仏教で世界の中心にあるとされた「須弥山 しゅみせん」の姿を写しています。神道と仏教の祭りが一緒になった「神仏習合 しんぶつしゅうごう」という古い祈りのかたちを残した珍しい行事です。

 神々の姿をした5体の人形は、主神の姥神と下段の四隅に立つ四天王。四天王の間に、客人(まろうど)と呼ばれる飾り人形が2体立てられていた。客人は毎年代わり、今年は、応仁の乱から来年で550年となるのにちなみ越中守護の畠山政長と、その重臣で射水市婦負郡守護代を務めた神保長誠が挙兵する場面を再現したそうだ。

↓築山に飾られた人形。→主神である姥神。
築山行事14
築山行事13
築山行事15

 13時から築山のところで射水市の学芸員による築山行事の解説が行なわれた。
 その解説の中で、現在「秋季例大祭」と言っているこの行事を、嘗ては「放生会」と言っていた。新湊の昔からの呼び名である放生津は、この放生会が元になっている。
 二上射水神社の築山が焼失(或は倒壊だったか)した時に、築山を再建するのに参考にしたのが放生津八幡宮の築山。二上射水神社は昭和25年のジェーン台風により神木が神輿堂に倒れて、築山の道具が全て壊滅したり、昭和7年の守山・二上大火で大旗やげんだい獅子が焼失したりしているらしい。こちらを参照。ひょっとすると築山だけではなく、げんだい獅子も八幡宮の獅子を参考に再現した可能性もあるのかもしれない。

 学芸員の解説を聞いた後、築山の人形が片付けられるまで新湊の町を少し散歩する。内川にかかる東橋の両端が東屋のようになっていて、川を渡る風も入ってくるのでしばらくゴロンとなって昼寝をする。
 うつらうつらとしながら、やがて午後4時近くなってきたので八幡宮へ。まだ参拝者はいっぱいいらっしゃるが、築山の人形が解体されて運ばれた。
 この人形の解体をもって、神様がお還りになったという事だろうか。

↓→人形が片付けられ、土台だけとなった築山。
築山行事17
築山行事16
築山行事18
*参考資料 新湊曳山さんぽ

10月1日(土)

 放生津八幡宮の秋季例大祭二日目。今日は、お神輿が13基の曳山を引き連れての巡行がある。いわゆる新湊曳山まつりで、秋季例大祭と言うよりこちらの名が知られている。
 お神輿と曳山は、朝の9時に八幡宮を出発する。曳山は夕方から提灯山に代わり、夜中まで町内を巡行する。長丁場なので昼ご飯を食べて、15時にお神輿と曳山が新湊庁舎に揃う場面に合わせて家を出る。
 昨日と同じ13時31分の電車で高岡へ。13時45分の万葉線で新湊庁舎前に14時半頃に到着。今日は乗客に万葉線の帰りの無料券が配られるので、降りる時に一枚いただく。 
 駅から庁舎は歩いて直ぐ。曳山がもう庁舎の近くに来ているんじゃないかと思い、探すとざわめきが聞こえて来たので歩いて行くと古新町の曳山が見えた。曳山の巡行順はくじ引きで決められるが、一番歴史の古い曳山である古新町だけは最初に巡行する決まりだそうだ。
↓→1650年創建という一番古い歴史を持つ古新町の曳山。
新湊曳山まつり02
新湊曳山まつり01
 しばらく曳山を見てからお神輿を探すと、こちらも近くの路地を巡行していた。お神輿の前には行道獅子と猿田彦がいて、先導している。これで富山県内で撮影できた行道獅子は9つになった。猿田彦がお神輿を先導しているのは生地のえびす祭り、岩瀬の曳山祭りで見たが、行道獅子と猿田彦が揃ってお神輿を先導しているのを見るのは新湊の曳山が初めてだ。
↓→行道獅子と猿田彦が先導するお神輿の渡御。
新湊曳山まつり04
新湊曳山まつり03
新湊曳山まつり05
新湊曳山まつり06
 しばらくお神輿の巡行する様子を撮影してから、また曳山の撮影に戻る。 昨年来た時に見つけた撮影ポイント、西宮神社へ行き、曳山が通るのを待つ。なかなか現われないので、どうしたのかと思ったら奈呉町の曳山の車輪に人がひかれたという話しが聞こえて来た。
 次の日の北日本新聞によれば、奈呉町の曳山を前部でひいていた引き手の男性が転倒し、その際に男性の左足を曳山の右の車輪がひいたそうだ。
 西宮神社でしばらく待っていると、ようやく曳山が動き始めたようで古新町の曳山がやってきた。手前のカーブを勢い良く曲がり、西宮神社の前に止まってお参りして行く。
↓→西宮神社で前を通る曳山を撮影。
新湊曳山まつり08
新湊曳山まつり07
新湊曳山まつり09
 西宮神社の前を、奈呉町を除く12基の曳山が通っていった。お神輿は17時頃に八幡宮にお還りになると聞いていたので、ちょっと見に行こうと思って歩いていたら、中の橋の方で蔵に帰る奈呉町の曳山に遭遇した。事故を起こした曳山は巡行できず、提灯山になることなく蔵に戻されるそうだ。
新湊曳山まつり10
↑中の橋からの眺め。↓→蔵に帰る奈呉町の曳山。引き手も残念そう。
新湊曳山まつり12
新湊曳山まつり11
 奈呉町の曳山が蔵に戻るのを見届けていたら、だんだん空も暮れて来たので八幡宮へ行くのは止めて、花山から提灯山へと飾り付けをしている庁舎横の駐車場へ向かう。昨年は道路で行なっていたが、一年毎に場所が交替するそうだ。
新湊曳山まつり13
↑庁舎横の駐車場で提灯山に切り替え作業。↓そして18時30分に点灯式。
新湊曳山まつり14
新湊曳山まつり15
↓点灯式が終わり、再び巡行をする曳山。
新湊曳山まつり16
新湊曳山まつり17
 曳山は22時半頃に八幡宮へ行き、それから各々の蔵に戻るようだ。ちょっと歩き疲れたのと、明日も八幡宮で築山行事があるので早めに帰る事にした。
 新湊庁舎前に行くと、すでに乗客の長い列が出来ていた。こんなに乗れるの?と心配になったが、1両編成の万葉線が3台連なってやって来た。高岡駅に着いて、乗り継ぎの電車まで時間があったので今庄へ。うどんとそばが半分半分の月見ちゃんぽんを食べる。久しぶりの今庄は、やっぱり美味しい。
新湊曳山まつり18
↑左は、万葉線の新湊庁舎前駅に並んだ長い列。右は、今庄の月見ちゃんぽん。

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