HOME TOP  
バックナンバー
◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表
◯製作中の富山の祭りと芸能

9月1日(木)〜9月3日(土) おわら風の盆
9月3日(土) 小矢部・太田神社 願念坊踊り
9月3日(土) 下村加茂神社 秋祭・宵祭、稚児舞奉奏
9月4日(日) 下村加茂神社 本祭「稚児舞」、稚児の村内練行、稚児舞奉奏、稚児饗膳
9月6日(火) 富山市草島 草島神明社 奴ぶり
9月10日(土) 小矢部・下後亟神明社 源氏太鼓
9月10日(土) 櫛田神社秋季例大祭 火渡り神事
9月11日(日) 小矢部・埴生護国神社 宮めぐり神事
9月14日(水) 歯医者 11時30分〜
9月17日(土)、18日(日) 城端むぎや祭
9月22日(木) 海老江曳山まつり
9月23日(金)、24日(土)  福岡町つくりもん祭り
9月23日(金)、24日(土) 五箇山麦屋まつり
9月24日(土) 雅楽 洋遊会定期演奏会 Uホール文化ホール
9月30日〜10月2日 築山・新湊曳山まつり
10月5日(水) 歯医者 10時〜
10月5日? 愛本新用水天満宮松明祭  記事
10月9日(日) 大門曳山まつり
10月13日? 入善町墓ノ木 墓ノ木タイマツ祭り
10月16日、17日 浦山のナガ(ナガと獅子) 鶏野神社(けいのじんじゃ)
10月26日(水)〜27日(木) 黒部市・生地たいまつ祭り
11月6日(日) 池田浄瑠璃
11月8日(火) 有磯正八幡宮 ふいご祭 午前10時
11月第3土曜日 射水市放生津・新湊地区  澗建のえびす様渡し
12月25日 下村加茂神社 煤払祭
12月31日〜1月1日 氷見市小境  宮籠もり 記事
1月       南砺市利賀村 初午
1月の第2日曜、15日が日曜なら1月15日 入善町巴町 塞の神まつり
3月 井波 お人形さまめぐり
3月13日 芦峅寺のおんば様のお召し替え
5月4日 滑川市赤浜 赤浜の菖蒲打(ショーブツ)
5月5日 氷見市宇波 コウラウラの祭り
5月6日 氷見市小境 エビス祭り
8月6日? 本法寺の曼荼羅絵図風入れ法要
8月6日、7日 魚津 上村木七夕祭
8月中旬 黒河夜高祭
8月下旬の日曜 恵比須祭り

◯7年に1度、10月に開催 朝日町山崎 米吊り奉納
◯次は2017年? 布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)
○高岡大仏まつり

*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事

○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

9月30日(金)

 明日は新湊の曳山祭り。この曳山は放生津八幡宮の秋季例大祭として行なわれる。お神輿を先頭に、13基の曳山が連なって町内を練り歩く。その曳山に関して、今朝の北日本新聞にこんな記事が載っていた。
 嘗ては「みこしの露払いを獅子舞が務めるなど、現在は随行しない獅子舞が約40町から参加していた。子どもが母衣(ほろ)武者に扮(ふん)したり馬が出たりしていたほか、旗や弓などの「神宝」も加わっていた。氏子総代や当時の放生津町議、曳山を受け継ぐ町の区長ら役員、大勢の神職も参列。最後尾に曳山が続く大行列だった」そうで、行列の規模は千人以上と推測されるようだ。
 この秋季例大祭の宵祭りが今日の夕方、放生津八幡宮で行なわれるので見に行って来た。前日に電話で問い合わせると17時から始まるとのこと、せっかくならその前に少し散歩しようと思い早めに家を出る。
 最寄りの駅から13時31分の電車に乗り、高岡駅で万葉線に乗り換えて東新湊に着いたのは、14時半頃だった。まずは歩いて直ぐの新湊漁港へ。競りも終わり、閑散としていたので新湊きっときと市場へ。今月漁が解禁になったばかりのカニがたくさん並べられている。店内に、ダイオウイカのするめが飾られていた。一時、富山湾で深海に棲むダイオウイカが揚がったと話題になっていた。
↓新湊漁港。→きっときと市場に飾られているダイオウイカのするめ。
ダイオウイカのするめ
新湊漁港

 きっときと市場から、まだ宵祭りには早いが八幡宮へ。境内に入ると、神事のための祭壇が作られている最中だった。 
 宵祭りには霊迎式(たまむかえしき)が行なわれる。これは霊松殿と拝殿の間で別火を焚いて祓い清め、海上から迎えた御祖神(みおやのかみ)、代々の祖神達(よよのおやかみたち)を御船代(みふねしろ)に降ろし、松明の先導で東境内の老松に遷す行事。そして10月2日には老松の前に作られた築山が飾り付けられる。築山はその日の内に解体され、それをもって神様を送ることになるようだ。
 以下、境内の説明板から。
○富山県指定無形民族文化財 放生津八幡宮築山行事
 古代の信仰では、 神は海上または天上から祭に迎えるものとされた。当八幡宮の築山は、九月三十日午後五時、海から御祖神(みおやのかみ)を迎える。固定した築山が動く曳山に発展したと考えられる曳山の原形の形態及び古代祭祀の形式を知るうえでまことに貴重な民俗文化財である。
 築山は、十月二日大祭の昼間だけ飾る。境内の古松を背景にして、その前に西面にして作る。上段の唐破風神殿の屋根に主神の姥神(俗称・オンババ)があたかも天上から舞い降りたように立ち、下段の四隅には多聞(北)、持国(東)、増長(南)広目(西)の四天王を配し、ほかに客分として客人(まろうど)などを飾る。
 古来、石動山の伊須流伎比古(いするぎひこ)神社(廃絶)と二上山の射水神社(近年復活)にもあり、主神の形体から「手なし」「足なし」「口なし」と呼ばれたが、由来や伝承にはなお不明な点が多い。
 当八幡宮の築山は、天正(一五七二〜 )のころ復活し、元禄(一六九二)から現在まで纏綿として伝承され「足」なしの姿をかたどる。
 祭事に用いるお面は、いずれも室町・桃山時代の名作古面である。
 平成二十一年七月

宵祭り01
↑左は、放生津八幡宮。右は、霊迎式の祭場を作っているところ。
↓東境内に設けられた築山の土台。→築山の後ろにある老松。
宵祭り03
宵祭り02
 せっかくなので、祭壇の出来上がるのを見せていただいた。
宵祭り04
↑霊迎式の祭場には火を焚く櫓が作られ、御船代が設置された。築山の下には祭壇が置かれ、神饌が備えられた。
↓→17時になり、氏子の代表も参集して霊迎式が始まった。
宵祭り06
宵祭り05
 お祓いの後、拝殿より陰灯(かげとう)と書かれた木箱が運ばれた。木箱の中に入っている蝋燭の火で、御船代の後ろに組まれた櫓に火がつけられる。
↓→燃え盛る櫓。火を焚く事で祓い清められるようだ。
宵祭り08
宵祭り07
↓御船代の前で宮司が祝詞を奏上。その後、火が松明に移される。
宵祭り10
宵祭り09
宵祭り11
↑松明が氏子の代表に手渡され、御船代が東境内の築山の下に設けられた祭壇に運ばれる。
宵祭り12
宵祭り13

↑祭壇の手前、左右の櫓に火が移され、祭壇の後ろに御船代が飾られた。御船代にのってこられた祖霊は、築山の後ろの老松に憑依される。
 御祖神(みおやのかみ)は、一番最初の先祖の霊、 代々の祖神達(よよのおやかみたち)は代々の先祖の霊。

←↓こちらでもお祓いが行なわれ、祝詞が奏上される。

宵祭り14
宵祭り15
宵祭り16
↑東境内での神事が終わると、御船代は拝殿に運ばれた。拝殿で引き続き神事が執り行われる。
宵祭り17
宵祭り18

↑拝殿でお祓いが行なわれ、玉串奉納。写真は氏子代表の玉串奉納。

←拝殿での神事が済み、お神酒をいただく。私も、最後に一口いただいた。
  明日は早朝から八幡宮へ、曳山が順番にお祓いを受けにくる。そして、13基の曳山を率いてお神輿の渡御が行なわれる。お神輿は大小二つが別れて町内をまわる。

9月29日(木)

 秋になって、Facebookに曼珠沙華の花がたくさん流れてくるが、どうも曼珠沙華を見ていると新湊漁港の競りに並ぶ紅ズワイガニの姿と重なってしょうがない。曼珠沙華と紅ズワイガニが似ていると思うのは、私だけだろうか。
↓→新湊漁港にて、2006年9月28日撮影。
紅ズワイガニ02
紅ズワイガニ01
↓は、三日市橋の近くにあった小さなお宮さんの裏に咲いていた曼珠沙華。この後、お宮さんの建て替えが行なわれたので、もうここには咲いていないかもしれない。2009年9月23日。
曼珠沙華
 明日で、高岡にあったライヴハウス「もみの木ハウス」のラストイベントから10年になる。
 10年前、地元のつくりもん祭りを見に富山に帰郷した時に、もみの木ハウスの閉店を知った。ラストイベントには、地元の先輩後輩もたくさん出るというので見に行った。お店に行ったのは、この時が最初で最後。
 高岡で25年間営業していたそうだが、もみの木がオープンした頃は既に上京していたのでお店に行く機会がなかった。縁がなかったといえば縁がなかったし、それでも閉店の日にその場に居合わせたのは、少しは縁があったのかもしれない。
 10年、あっという間だな。
↓→もみの木のラストイベント。ゲストは、センチの中野督夫さんだった。
もみの木ラストイベント02
もみの木ラストイベント01
もみの木ラストイベント03
 桑本正士さんの写真展『ミュージシャンと風景 ─1979年アメリカ 長門芳郎との旅─ 』が、東京・南青山のビリケンギャラリーで始まっている。10月9日(日)までで、1日の19時からトークイベントが行なわれるようだ。
 桑本さんの写真展は2007年の6月に、やはりビリケンギャラリーで開催された『PORTRAIT 1 鎮魂歌』を見ている。フランク・ザッパ、カート・コバーン、ジョ-・ストラマ-、照屋林助、高田渡などすでに亡くなった23人のミュージシャンのポートレートが飾られた写真展で、インクジェットのプリンタで出力した大判のプリントによる写真展が多い中、六つ切り(?)の印画紙に焼かれたモノクロの写真がなんだか新鮮だった。

9月28日(水)

 昨日は秋晴れの良い天気だったが、今日は朝から雨が降ったり止んだり。
 先日購入してセンサーのゴミチェックをしたら小さなゴミがいっぱい着いていたα700は、購入したショップにメールで症状を書き写真を添付して送ったところ、不具合を確認したいので着払いで商品を返送して欲しいといわれて送った。その後、「弊社在庫のレンズを装着し確認いたしましたところ、F22まで絞り込みますと、右側の上、下等に僅かなシミを確認いたしました。なお、弊社で確認できましたシミにつきましては、最小絞りでやっと確認が出来る程度(F10程度では確認ができません)の僅かなものであり、弊社では通常使用上問題ないとの判断でございます。また、弊社にて簡単ではございますが、クリーニングをさせていただきましたがご指摘のシミはとれず、おそらくセンサーの内部に入り込んでいる可能性がございます。そのため、修理・清掃の手配をいたしましても、こちらの症状は中古保証内での修理は難しい状況です。せっかくご注文・ご購入をいただきましたが、今回の注文につきましてはご返品とさせていただいてもよろしいでしょうか」という返事が来た。
 商品の返品という事になったので、急いでネットでα700を探したら前回購入したものより5000円程安いものが見つかった。また、前回は付属品がバッテリーとバッテリーチャージャー、取扱説明書、リモコンしかなかったのが、今回の商品は全て揃っている。一昨日ポチッとして、昨日コンビニからお金を振込んだら、今日の昼頃に商品が届いた。
新しく購入したカメラ01
↑今日届いた、α700。今回は元箱も付いている。
新しく購入したカメラ02
↑早速箱から出して、ボディを撮影してみた。
テスト撮影

↑レンズを装着してセンサーのゴミチェック。左はF8、右はF20。絞りを20まで絞ると小さなゴミが目立つ。絞り8では、右上にシミが一つ現われる。結局ショップに送っても「弊社では通常使用上問題ないとの判断でございますという」回答だろう。このまま使う事にする。

 α700が発売されたのが2007年。9年前の機種を中古で探して使っているが、ソニーからフルサイズの最新一眼レフが発売されることが決まった。α99 II。価格はまだ未定で、4,240万画素。α700が1,224万画素だから3.5倍の画素数だ。確かに凄いんだけれど、果たして4,240万画素必要な写真がどれだけあるのか。また画素数が増えれば、その処理をするパソコンもハイスペックなものが求められる。なかなか新製品を買うのは、ハードルが高い。

9月25日(日)

 昨日、一昨日と2日間に渡って行なわれた、福岡町のつくりもん祭りが終わった。天気の良い土曜日だったので、昨日は夜も人でいっぱいでした。普段はほとんど人通りのない町が、とても賑やかだった。

 昨日は朝から、つくりもん祭りのイベントの一つとして開催された洋遊会の雅楽公演を撮影していた。この日は午前中に町の中心部にある雅楽の館での管絃の演奏、そして午後からふくおか総合文化センター(Uホール)での公演だった。

支度
 午前10時頃にUホールへ行くと、雅楽の館で管絃を演奏する奏者の方々が装束に着替えられていた。
 着替えが終わると、衣装のまま雅楽の館まで歩いて移動する。
 楽器をセッティングし、奏者が所定の位置に並ぶと、お客さんが少しずつ入場された。
 お客さんでいっぱいになったので、開演まで会長の上野さんが使用する楽器の説明をされる。
 開演時間の11時になり、管絃の演奏が始まった。曲目は1、平調の音取(ひょうじょうのねとり)/2、越天楽(えてんらく)/3、五常楽(ごしょうらく)/4、蘭陵王(らんりょうおう)。
↓→雅楽の館での、演奏の様子。
雅楽の館での演奏02
雅楽の館での演奏01
雅楽の館での演奏03
↓→雅楽の館での演奏が終わり、Uホールに移動。
移動02
移動01
 Uホールの控え室や楽屋では、お昼のお弁当を食べた後、楽器の調律や最後の練習。舞楽の舞人は着付けを手伝ってもらい、装束に着替える。一度着替えると、もうトイレに行くのは無理ではないだろうか。
支度

 13時30分に開場し、14時から開演。以下は、会場で配られたプログラムから。
雅楽について
 雅楽は奈良、平安時代に宮廷の貴族たちが作った、彼らの芸術音楽です。現在でも宮中を中心に演奏が続けられています。雅楽は二つの種類があります。奈良時代以前から日本にあった純日本音楽と、唐(中国)、高句麗(朝鮮半島)、天竺(インド)、林邑(ベトナム)など、当時先進国だった国々から伝えられた外来音楽です。
 平安時代、宮中には雅楽を演奏する楽団が二つありました。左方の楽所と右方の楽所です。二つの楽所は競い合って宮中の行事で舞と雅楽を上演しました。
 また、楽所の楽師たちにより貴族たちの間に雅楽が広められ、枕草子や源氏物語に描かれた雅楽の黄金時代となりました。さらに、長い歴史を経て、武士や民間人も雅楽に親しむようになりました。

 演目の最初は、舞楽の「陪臚 ばいろ」
 古くは戦勝祈願の舞です。出陣の前にはこれを演奏したのだと言われています。曲の起源は南アジアで、奈良時代に天竺と林邑の二人の僧により日本へ伝えられ、東大寺大仏の開眼供養で奉納されたことが、当時の歴史書に書かれています。

↓→最初の演目は舞楽の「陪臚」だった。
陪臚02
陪臚01
陪臚03

 陪臚の後、一旦緞帳が降りて後ろにいた奏者がステージに上がり、管絃が始まった。
 1曲目は「越天楽 えてんらく」 
 音取という短い前奏曲の後に越天楽を演奏します、雅楽の中で一番有名な曲。今でも結婚式などでよく演奏されます。もとは西域(シルクロード地方)の民謡で、唐の国を経由して日本に伝わった曲と言われています。

 次に朗詠の「嘉辰 かしん」
 朗詠は平安時代の詩吟のようなもので、雅楽の伴奏がついています。「嘉辰」は朗詠の中でも一番有名な曲で、紫式部日記には藤原道長がこの曲を何度も歌う場面が出てきます。 歌詞は「嘉辰令月(かしんれいげつ)歓無極(かんむきょく)万歳千秋(ばんぜいせんしゅう)楽未央(らくびよう)」(星がきれいで月が美しく、私の喜びは限りがない、千年歌っても万年歌っても、楽しみは半分も終わらない。)というものです。

 ここで楽器紹介があり、上野会長が前に出て説明をされる。
  雅楽に使う楽器をご紹介いたします。雅楽はいろいろの国の音楽をもとにできたものですが、そのうち唐楽という、古代中国風の音楽の楽器編成をご紹介します。
 三つの管楽器(龍笛、笙、篳篥)、二つの絃楽器(琵琶、筝)、三つの打楽器(鉦鼓、太鼓、羯鼓)から成ります。

 管絃の最後の曲「蘇莫者 そまくしゃ」
 雅楽の世界では古来から特別に重く扱われてきた曲です。特にこの舞は、法隆寺、四天王寺、宮中以外ではほとんど上演されないものでした。この曲は猿の姿をした山神の舞の曲です。 只拍子といわれる六拍子のリズムでお聞きいただきます。

管絃01
↑ステージの前に出て楽器の説明をする上野会長。↓→管絃の演奏。
管絃03
管絃02
 管絃の演奏が終わり、再び緞帳が降りて奏者は後ろに戻り、最後の演目である舞楽の『納曾利 なそり」。
 奈良時代に朝鮮半島の高句麗の国から伝わった舞で、二匹の龍が天上で舞い遊んでいる様子を表すと言われています。
 源氏物語や枕草子にはこの舞がよく登場します。優雅でリズミカルな舞、装束の色合い、どこか哀調もあるメロディーなどが紫式部や清少納言の好みに合ったのでしょう。
↓→最後の演目、舞楽の「納曾利」。
納曾利02
納曾利01
↓全ての演目が終わった後、ステージで出演者全員の記念撮影。
記念写真

 着替えて舞台を解体して片付けるまでを撮影させてもらって、帰宅。お昼ご飯を食べていなかったので、家にあったおこわを食べてから撮影したデータを外付けのハードディスクにバックアップ。

 しばらく家で休み、晩ご飯を食べてからつくりもん祭りで賑わう町中へ歩いて行く。19時半からスタートした菅笠音頭の町流しを見た後、少しだけ家々に飾られたつくりもんを見て歩いた。

つくりもん祭り
 ところで、つくりもん祭りの2日間は地蔵祭りも同時に開催される。
「つくりもんまつり」は、昔、地元で収穫された野菜や穀物を、お地蔵さまにお供えして「五穀豊穣」や土地の守護を祈った「地蔵まつり」が起源とされています>という事だそうだ。
 地蔵祭りは3つのお地蔵様で行なわれるということなので、23日に3つのお地蔵さまの写真を撮って来た。
地蔵蔵01
↑福岡橋の横にある地蔵蔵。
地蔵蔵02
↑福岡墓地の地蔵蔵。今年のお盆に親戚のお墓参りに来た時は、古い地蔵蔵がもう少し墓地の中程に建っていたが、最近新しく建てられたのだろう。
地蔵蔵03
↑駅前にテントが建てられ、お地蔵さんが祀られていた。

9月23日(金)

 一年程前にネットで購入したα700の前ダイヤルが、しばらく前から動きが挙動不審なので、またネットでα700を購入した。これでα700は5台目だ。同じカメラを買った記録としては、フイルム時代にミノルタのα9000を4台買ったが、5台買うのは初めてだ。
  また、一番よく使うソニーのレンズ、DT18-250mmのズームラバーが浮いて来てスムーズに動かなくなって来たのと、前レンズにカビもついているので中古で新たに購入した。今使っているレンズは、5年前に望遠側のAFが利かなくなったのとズームラバーが浮いて来たので一度大修理をしている。
 カメラボディはカメラ屋のネットサイトに一昨日注文して、昨日の夕方に届いた。レンズはアマゾンの中古を一昨日注文して、今日の昼に届いた。せっかくきれいな状態のボディとレンズが揃ったので、セットして写真を撮っておいた。
購入したカメラとレンズ
 中古とはいえ、整備した製品なので気持ちよくサクサク動きます。まずは、カメラのセンサーにゴミがついていないかチェックするため空を撮影。青空が一番わかり易いが、生憎の曇り空。広角側を使い絞りをF22まで絞って撮影。さて、パソコン画面で見ると・・・小さいゴミがけっこうある。このネットサイトでα700を買うのは3台目で、毎回センサーのゴミチェックをしているが、こんなにゴミがついていたのは初めてだ。さて、どうしたものか。
センサーチェック
↑赤丸がゴミの写っていた箇所。
購入した写真集
 久しぶりに、アマゾンの中古書店で写真集を買った。『神山洋一写真集/東京生活』(日本カメラ社)。 90年代から2000年代前半にかけて撮られたモノクロのスナップ。タイトルは東京生活だけれど、川崎や千葉で撮られた写真も入っている。撮られた年代や場所のデータを見ながら、ひょっとしたら自分がそこに写っていてもおかしくないな、と思うほど馴染みのある場所が出てくる。ひょっとすると、探せば

知人がどこかに写っているかもしれない。そんな親近感とは別に、自分が写真に出てくる東京に住んでいたのが信じられないという思いも湧いて来た。見知った風景がたくさん出て来て、その同じ場所を嘗て歩いていたはずなのに何だか信じられないのだ。長く東京や神奈川に住んでいたはずなのに。最後に東京に行ったのは2013年の9月で、まだ3年しか経っていない。でも何だか遠い昔のようだ。
  ネットの中には様々な写真が溢れているが、ページを捲って見る紙の写真はディスプレイで眺める写真とはやはり違う。

 今日から地元のつくりもん祭りが始まった。今日は曇りや小雨の降る天気だったが、明日はもう少し晴れ間もあるようだ。明日は祭りのイベントの一つとして、文化ホールで洋遊会の雅楽が行なわれる。昨日はその雅楽公演のゲネプロを撮影させてもらった。久しぶりにステージの撮影をしたら、足がちょっと筋肉痛になった。
 明日の雅楽公演の詳細は、こちら

↓→雅楽公演のゲネプロから、舞楽の「陪臚」。
洋遊会02
洋遊会01
↓管絃の様子。
洋遊会03

9月21日(水)

 最初に6機のオスプレイが沖縄に飛んで来てから、やがて4年になる。現在、 沖縄の普天間基地に配備されているオスプレイは24機。負担軽減として浮上した「12機程度の県外配備」は進んでおらず、さらにオスプレイが2機追加配備される事になったようだ。
 2013年12月の埋立て承認の際、安倍首相が仲井眞前知事との会談で伝えた負担軽減策の骨子は、
(1)普天間飛行場の5年以内の運用停止や牧港補給地区の7年以内の全面返還について、防衛省内に作業チームをつくって検討する。
(2)オスプレイの訓練の半分を県外に移転する。
(3)日米地位協定に関連して、基地内の環境保全に関連する立ち入り調査を行えるよう米側と交渉に入る。
ではなかったのか。

 先日、沖縄県と国とが争っていた裁判で、福岡高裁那覇支部は翁長知事の承認取り消しを認めない判決を下した。この判決について憲法学者の木村草太氏は沖縄タイムスのコラムで、
「全ての知事が埋立承認を拒否した場合、国防・外交に本来的権限と責任を負うべき立場にある国の不合理とは言えない判断が覆されてしまい、国の本来 的事務について地方公共団体の判断が国の判断に優越することにもなりかねない。これは、地方自治法が定める国と地方の役割分担の原則にも沿わない不都合な 事態である。よって、国の説明する国防・外交上の必要性について、具体的な点において不合理であると認められない限りは、被告はその判断を尊重すべきであ る」
  この言いようは、あまりにもひどい。米軍基地が嫌悪施設だと認めつつ、「みんな嫌がるから、地元の話など聞いてられない」という開き直りだ。これでは、安全保障に関する事柄は全て、自治体の意向を無視して、国が勝手にできることになってしまう、
と書いている。
仲井眞知事

 ところで、政府は前知事・仲井眞氏の埋立て承認を錦の御旗のように掲げている。しかし、その埋め立てのための工法変更2件は、仲井眞氏が知事選で翁長雄志に破れて退任する4日前に承認したものだ。

←埋立て承認を行なった後、初めての県議会での定例会に出席した仲井眞前知事。この日、仲井眞氏に対して、百条委員会を設置する緊急動議が提出された。2014年2月14日撮影。

 秋祭りの季節になり、Facebookの方にも獅子舞の写真が流れてくるようになった。
 昨年の春から今年の春にかけて、富山の行道獅子を撮影していた。行道獅子は舞ったり芸能的な所作は行なわず、神輿の先導をして露払いする獅子。高岡御車 山祭の坂下町の源太夫獅子(げんだいじし)や加茂神社のやんさんまで神幸式の際にご神体の先頭を歩く箱獅子が有名だが、他にも色々な行道獅子が存在する。
行道獅子01
左:高岡御車山祭で7基の御車山の露払いをする、坂下町の源太夫獅子。2015年5月1日。
右:舞いはしないが、巡行の途中で挨拶に訪れた家の前で型のようなものを披露する。
行道獅子02
左:射水市・加茂神社のやんさんまにて、神幸式でご神体の先導をする箱獅子。2015年5月4日。
右:行道獅子の後ろ、紙垂(しで)を重ねて白い大きな山のようになっているのが加茂神社の3体のご神体で、その美し い造形に魅かれた。
行道獅子03
左:魚津・小川寺の獅子舞。白山神社で神事を行なった後、隣接する千光寺の千手観音堂の周りをまわる。旗を持った子供を先頭に、天狗、ばば面を被った2人、2人獅子、あねま面、笛の奏者、お神輿と続く。3周半まわったら、白山 神社へ戻りお祓いが行なわれる。2015年10月12日 。
右:神事が終わった後、頭を噛んでもらいたい人が獅子の前に列を作っていた。
行道獅子04
左:伏木の氣多神社の春季例大祭で、お神輿の渡御の際に境内を先導して歩く行道獅子。2016年4月18日。
右:お神輿の渡御が終わると、行道獅子は拝殿の前で両側に並 ぶ観客の方にゆっくり頭を振って睨み、集まった人達の厄 を祓う<にらみ獅子>となる。そして行道獅子には珍しく 拝殿の前で舞いを披露する。
行道獅子05
左:高岡御車山で御車山を先導する坂下町の源太夫獅子の原型 といわれるのが、二上射水神社の源太夫獅子。2016年 4月23日。
右:源太夫獅子の後ろに見えるのが、神事の執り行われる築山 。
行道獅子06
左:立山町の浦田山王社の獅子舞。獅子舞と呼ばれているが、 舞う事はなく町内を露払いして歩く。小さな獅子頭に、全 長7m、幅2mの巨大な胴幕が特徴で、多い時には30人 ほどが胴幕に入ったという。長い間本殿にいた獅子が眩しくないように、また獅子の眼光に周囲の人が射抜かれないように、2人の子供が御幣を付けた棒で獅子の目を隠しながら歩く。2016年4月24日。
右:神事の後は、「おわたまし」と呼ばれる獅子に頭を噛んでもらう儀式が行われる。おわたましに使われる獅子頭は、 行道獅子と同じ大きさのものだが、こちらの方が古いもの のようだ。
行道獅子07
左:朝日町・鹿嶋神社の春季例祭で神輿の先導をする獅子。獅 子は2頭出るが、1頭は神輿の先導、もう一頭は稚児舞( 踊り)と一緒に各家を門付けして歩く。獅子頭をスッポリ 被り、胴幕は捻って尻尾のようにしたものを、もう一人が 持って歩く。2016年5月3日。
右:お神輿の渡御が終われば、露払いしていた獅子も各家を門 付けする。結婚や出産といったお祝い事のあった家では天 狗も登場するが、基本は獅子だけで舞う。アクロバティッ クな動きはなく、ゆったりとした踊りのようで、台詞こそ ないが狂言を見ているような感じもする。

9月19日(月)

 敬老の日の今日は、一日雨だった。
 安全保障関連法が成立して今日で一年が経ったが、この一年で北朝鮮の核開発やミサイル発射実験の速度が上がった。政府は安保法の成立で抑止力は高まると言っていたが、高まったのは脅威の方だろう。

 朝日新聞に<「イ゜」「リ゜」、どう発音? 琉球方言まとめる試み>という興味深い記事が掲載されていた。
 小橋川共男さん撮影の『多良間島の八月踊り』という写真集を沖縄県立図書館から借りて読んだ時に、ムやリ、イといった単語に半濁音の○が付いていて、最初は印刷ミスかと思ったが、写真のキャプションだけではなくコラムや資料にもこの単語が登場するのでネットで調べたら、多良間島ではこうした発音表記が在ることを知った。しかし、イに○?発音のイメージが湧かず単語を見つめて頭を抱えるばかりだった。

 ところで、沖縄本島や奄美の言葉には、日本の古語が残っていると言われる(こちらを参照)。頭結てぃ給り(かしらゆてぃたぼり)など、島唄の歌詞によく登場するたぼり(下さい)という言葉は、京の古い言葉を想起させる。
 日本語のハ行子音は、古くはP音だったがF 音からH 音に変化してきたとされている。奈良時代以前はP 音で、平安時代から室町時代まではF 音。例えば鼻・花は、パナ〜ファナ〜ハナと変化した。沖縄本島北部や八重山諸島(与那国島除く)ではP 音を残しているそうだが、奄美大島も北部の佐仁集落はP 音を使うと言われる。以前、佐仁集落の八月踊り保存会会長の前田和朗さんに尋ねたら、島唄の中には残っているが普段の話し言葉の中からは消えつつあると言われた。与論島のキャッチフレーズである「パナウル王国」のパナは花、ウルは珊瑚のことだ。
 加計呂麻島の諸鈍集落に伝わる国指定重要無形民俗文化財・諸鈍シバヤは、源平の戦いに敗れた平家の落人・平 資盛が教えたものだと言われている。
 エイサーは、 袋中上人(現在の福島県いわき市出身の、浄土宗の学僧)が念仏踊りとして沖縄に伝え、それを京都からやって来た芸能集団チョンダラー(京太郎)が広めたものというのはよく知られている。辻のじゅり馬もまた、チョンダラーが伝えた芸だそうだ。
 そうした大和から伝わった数々のものが、大和ではすでに消えてもなお、奄美や沖縄という閉ざされた島の中で残ったのだろうと想像する。

 先日、台風の動きが気になって与那国島のブログを検索していたら、こんな記事があった「野辺送り・・・」。与那国島の祖納集落に龕があるのはマチリを撮影に行った時に集落の人から聞いたし、新しい龕を作ったというブログの記事も以前に読んだことがあるが、実際に使われている写真は初めて見た。ところで与那国には火葬場はなかった気がするので、龕に納められたご遺体は、そのままお墓に運ばれるのだろうか。そして何年か経って洗骨されるのかもしれない。そんな風習もまだ残っていそうだ。

 今年の1月11日に行なわれた近所の左義長の様子を、Photo Albumにしました。こちら
左義長01
↑↓正月のお飾りやしめ縄などが粗方燃やされた後、お餅を括り付けた竹の棒を持った子供たちが火の周りを囲んでいる。
左義長02

9月17日(土)

 一昨日行なわれた民進党の代表選挙で蓮舫氏が女性初の党首となったが、その蓮舫代表が野田佳彦前首相を幹事長に起用した。なんでこうなるのか。
室井佑月さん「蓮舫が辺野古移設を堅持と言った時点で民進党は終わったなと思ったよ」金子勝さん「その上、戦犯の野田なんかを幹事長にしちゃったよ」室井 佑月さん「今までは鼻をつまんで投票したこともあったけど、もう無理!どうしてこんなに空気が読めないの?」(「ゴールデンラジオ」9/16)
 このツイートが、多くの人の気持ちを代弁している気がする。
 野党として自民党との違いをアピールしなくちゃいけないのに、最近は何故か共闘した共産党との違いばかりアピール。野党共闘で共産党が自らの候補を出さなかったから、民進党の候補に入れたという有権者も多いはず。共産党の男前ぶりと、民進党のダメさ加減が目立ってしょうがない。
 これからテレビで野田佳彦氏の顔を見る機会が増えるのかと思うと、うんざりする。ホント、勘弁して欲しい。

 築地市場の移転先である、豊洲の盛り土問題が揺れている。
豊洲市場 石原氏、08年に地下コンクリ箱案に言及「ずっと安く早い」
豊洲地下問題 コンクリ箱案「石原氏が検討指示」 当時の都幹部証言
“コンクリ箱”案、石原元都知事と当時の市場長 意見対立
豊洲市場問題、長期化へ=専門家会議で再検討―東京都
石原氏が発言訂正、地下利用案「私が言った」 豊洲市場
 豊洲市場の設計図には盛り土がなく空洞になっているということだが、その設計図には都知事の判子はいらないのだろうか? 誰の判子が最終責任者として押してあるのだろうか。

豊洲
↑工事中の豊洲。2005年5月5日撮影。

 台風16号が今日、先島諸島を通過した。与那国島では風速66.8mを記録した。この台風の影響か、富山も今日と明日は雨のようだ。
 2014年に与那国島へ行った時は、祖納集落にあるゲストハウス「おじーの家」に宿泊していた。そのおじーの家の向かいに、カフェが出来た。昔はマッサージ屋さんだった場所じゃないだろうか。その新しく出来たカフェのブログがなんだか楽しそうで、時々覗いている。読んでいると食べたくなる料理ばかりだ。
 今日のブログにはお店の防風戸が吹き飛ばされて、店内がやられたと書いてあった。

9月14日(水)

 午前11時半から、近所の歯医者さんで歯石の除去。今日は下の歯。20分程かかっただろうか。歯石を取ると、歯の裏側が削られて本来の形になるからか、舌で触れると違和感がある。直ぐに慣れるのだけれど。

民政クラブ2人が辞職願 富山市議会
<富山市議会>辞職は5人に 民進系2人も不正認める
 自民党議員3人に続き、今度は民進党系の会派からも政活費の不正受給で2人が辞職。最近は、地元の新聞やテレビだけではなく、全国版の新聞やテレビでもこの話題が取り上げられている。
 富山のラーメンは汁が黒くて富山ブラックという愛称で呼ばれるが、富山市議会の一連の騒動もまさしく富山ブラック。

 沖縄の北部訓練場のヘリパッド建設で、防衛省は昨日の午前、陸上自衛隊の大型輸送ヘリを使って重機やトラックなどの搬入を始めた。
 村道の通行禁止を要請すれば、空から自衛隊が運搬。これは、空には規制がかけられないということの証だろう。
 高江のヘリパッド建設と引き換えに北部訓練所の半分ほどが返還されるならば基地の縮小につながるという人が居るが、規制のかけられない空にはたくさんのオスプレイが飛び回ることを想像させる出来事だと思う。例え半分ほどが返還されても、住民負担は減るどころか上空を自由に飛び回るオスプレイの騒音と恐怖で 負担が増えることを予見させる。
 東村の伊集村長は高江のヘリパッド建設に賛成しているのだから、反対運動をしている方がおかしいという発言をネットで見る。しかし、伊集村長はオスプレイを容認しないという立場も取っている。そして高江に建設されようとしているのは、オスプレイも離着陸する着陸帯だ。

 今年の元旦に撮影した、加茂神社の鰤分け神事の写真をPhoto Albumにしました。こちら
鰤分け神事01
↑鰤を持ち上げて奉納した地区の名を読み上げる「鰤のよみあげ」。
↓切り分けられた塩鰤とお餅を、各区の神社委員が氏子の家へ配って歩く。
鰤分け神事02

9月11日(日)

 今日で東日本大震災から5年6ヶ月、ニューヨークの同時多発テロから15年が経った。両日とも、テレビから流れる信じられないような光景に釘付けになっていたのを思い出す。
テレビのニュース画面
↑左は東日本大震災の報道画面@奄美大島・名瀬の自宅。右は同時多発テロの報道画面@川崎市の自宅。
下後亟神明社

 昨日は小矢部市指定の無形民俗文化財、越中源氏太鼓が下後亟神明社の秋季例祭に奉納されるのを見に行った。
 下後亟神明社には、今年の4月に酒とり祭を見に来ているので、2回目だ。
 ネットで調べると今日の進行は、15時30分〜神事、16時〜浦安の舞、16時30分〜獅子舞、17時〜越中源氏太鼓となっていた。

 前回自転車で来た時は1時間かからなかったと記憶していたので、14時半過ぎに家を出た。一応地図をプリントして持って来たが、北陸自動車道にぶつかれば、後は自動車道に沿って走れば辿り着けるので一度も地図を見ること無く、神事の15分程前に着いた。
拝殿での神事
 時間通りに神事が始まった。浦安の舞の衣装を着た女の子たちも、拝殿の端の方に座っている。祝詞奏上、玉串奉納といった神事があり、浦安の舞が奉納される。拝殿の端に座っていた女の子たちは、そのまま拝殿中央に行って踊るのかと思っていたら、一旦拝殿を出て正面からもう一度入って来た。
 浦安の舞は一人舞い、二人舞い、四人舞いなど色々あるようだが、正式には四人で舞うようだ。今日の浦安の舞は三人なので珍しいのかも知れない。扇舞い、鈴舞いが奉納された。
浦安の舞
 拝殿で浦安の舞が奉納されている間に、鳥居の下に獅子舞が到着。4月の酒とり祭の時にも見たが、4人の剣持が並んで参道を歩き、獅子が着いて来る。一旦獅子が拝殿に入って、出て来てから獅子舞が始まった。
↓→鳥居の下から拝殿まで、4人の剣持に先導されて歩く獅子。
獅子舞02
獅子舞01
獅子舞03
 そして最後に、源氏太鼓の奉納。由来について、こちらのサイトには<寿永2年5月(1183年)木曾に兵を挙げ京に上がろうとする木曾義仲(5万)と、それを阻止しようと10万の軍勢を率いて京都から進攻して来た平維盛の軍が砺波山、倶利伽羅で対戦した歴史に名高い源平倶利伽羅合戦・・・義仲軍に馳せ参じた郷土の豪将蟹谷次郎義仲軍の先導を承り、5月11日の夜戦、火牛の戦法で平家軍を急襲し、源氏の大勝利に導いた。戦勝を祝って酒宴を張った蟹谷次郎の軍陣の将卒らは、歓喜乱舞競って太鼓を打ち鳴らし勝鬨をあげたという。これが”源氏太鼓”発祥の由来である>と書かれている。
 源平火牛まつり、埴生護国神社の宮めぐり神事、そしてこの源氏太鼓。小矢部の祭りやイベントの由来には、倶梨迦羅合戦が登場する。
 今朝の北日本新聞にも、記事が出ていた。少し抜粋して引用させていただく。
源氏太鼓は、1183(寿永2)年の源平倶梨迦羅合戦の戦勝を祝って打ち鳴らされた「勝ちどき太鼓」が起源とされる。現在は五穀豊穣を願って奉納される。小中学生の子ども5人を含む会員(*越中源氏太鼓保存会・山室直広会長)が法被姿で登場。「大神楽」「でんでこ」「源氏太鼓」など7曲で激しくばちを振るい、集まった地元住民らから拍手が送られた>。 
越中源氏太鼓
ビンゴ大会
 源氏太鼓の奉納は30分程だった。これで、秋季例祭の行事としては終了だろうか。境内では子供たちのために、ビンゴ大会が行なわれていた。景品にお味噌や醤油が並んでいたが、果たして子供たちは貰って嬉しいかどうか。まあ、ビンゴ自体が楽しいんだろう。
 自転車で来た道を通って返る。鱗雲が美しい。なんだか日が暮れるのも早くなった。
空

9月8日(木)

 台風13号から変わった温帯低気圧のせいか、朝から雷をともなう激しい雨が降っていた。それでも、お昼過ぎから天気は徐々に回復して、曇り空となった。

 連日、富山市議会、県議会、元高岡市議会の議員による政活費の不正受給が地元の新聞やテレビで報道されている。
 7月に発覚した矢後肇県議会副議長の領収書偽造に続き、8月には自民党富山市連幹事長の中川勇市議が領収書を偽造して架空請求していた事がわかった。今月になって、芋ずる式に疑惑の議員の名前がゾロゾロ出て来る。揃いも揃って、自民党の議員だ。
 以下は、北日本新聞の記事タイトルだ。
口裏合わせ業者に依頼 中川元富山市議政活費不正
会派議員通じ不正請求 中川元富山市議政活費問題
政務活動費の不正受領全額を返還へ 富山市議会・谷口市議
偽領収書で74万円受領 富山市議会自民会派、政活費5人が請求
村山氏、まるで人ごと 着服額説明は二転三転
政活費ずさん管理 富山市議5人「分からない」
報酬増見直し検討 富山市議会自民会派、村山氏も55万円着服
矢後元県議を刑事告発 7日に県平和運動センター
柳清元高岡市議も架空請求 書籍代金水増し認める
笹木富山市議、白紙の領収書に記入 着服は否定
村山富山市議辞職へ 政活費 酒店の領収書も偽造
中川氏不正741万円 富山市議会自民の政活費調査
5市議に「現金渡した」 事務員が会派へ報告
村山市議が辞職願提出 9日富山市議会本会議で可決へ

 報道を見ていても、彼らにあまり反省している様子を感じられないのは政活費の原資が税金だという認識が抜け落ちているからだろうか。所属する会派に配られた段階で、そのお金は法律の枠を超えて自分達の好きなように使えるお金だとでも思っているのだろうか。
 普通に考えれば詐欺罪、横領罪が適用されるべき案件では?頑張れ、北日本新聞!!

新しいトップ画面

トップページの模様替えをしました。今回は、お父さんに連れられた女の子が泣きながら歩いていた、奄美大島・朝仁海岸の夕暮れです。

↓これまでのトップページ。

これまでのトップ画面
 先日、< 制御棒処分、70m以深 国の管理10万年 規制委方針>という朝日新聞の記事がFacebookに流れて来た。記事によれば、<原子炉の制御棒など放射能レベルが比較的高い廃棄物は、地震や火山の影響を受けにくい場所で70メートルより深い地中に埋め、電力会社に300~400年間管理させる。その後は国が引きつぎ、10万年間、掘削を制限する>そうだ。300〜400年前と言えば、薩摩藩が琉球王国に進攻し、玉城朝薫が尚敬王から踊奉行に任命されて組踊を創作していた時代だ。10万年前は、ひょっとすると日本列島がまだユーラシア大陸と地続きだったかもしれない。原子力規制委員会は、本気でこんな施策を考えたのだろうか。この記事を読んで、利口馬鹿という言葉が頭に浮かんだ。
 もう一つ。<原発真横に避難経路…住民「真剣に考えているのか」>。こちらも机上の空論が、避難訓練で露になった例だろう。原発の安全は、どれも机上の空論で組み立てられている。
 そして、
原発コスト 新電力も負担、政府調整 料金に上乗せ
東海再処理施設、廃止に70年 原子力機構が初の見通し
 空いた口が塞がらない事ばかりだ。

9月5日(月)

 今日が、市営プールの今年最後の営業日。午後から雨の予報だったので、午前中に30分ほど泳いで来た。10頃に到着したが、プールの中には誰も居らず貸し切り状態だった。水温が思っていたより温かかったが、よく見ると水の循環がされていなかった。

 この夏、何日プールに入ったんだろう。こんなにプールに通ったのは小学生の時以来だ。おかげで、お腹まわりが少しだけすっきりしたような気がする。
 昨年の11月3日に撮影した、雄山神社の稚児舞の写真をPhoto Albumにしました。稚児行列から、神事、「鉾の舞い」「浦安の舞」はこちら。「扇の舞い」「立山の舞い」「胡蝶の舞い」、帰りの稚児行列はこちら
雄山神社の稚児舞01
↑肩に担がれて参道に入って来た稚児行列。↓最後の演目「胡蝶の舞い」。
雄山神社の稚児舞02

9月4日(日)

 午前中は晴れで暑かったので、午後からプールに行こうかと思っていたが、昼ご飯を食べた後から3時間ほど雷も伴う激しい雨。しょうがないので、家で大人しくドラムの練習をする。

 昨日は午前中に30分ほどプールで泳いで、午後から小矢部市にある太田神社の願念坊踊を見に行く。願念坊踊は、太田神社の秋の祭礼に奉納されるようで、ネットで調べると神事が16時から、踊りが16時半からとなっていた。自転車でも1時間あれば着くかと思ったが、初めての場所なので余裕をみて14半頃に家を出る。
  国道8号線をまっすぐ走り、石動駅を過ぎて左折。踏切を越えて、しばらく走ると太田神社があった。予想通り30分ほど早く着いたら神事のための準備の最中で、鳥居に括り付けられた笹竹や拝殿のしめ縄に氏子の方や宮司さんが紙垂を取り付けていらっしゃる。
 やがて神事の時間になり、祝詞、玉串奉納、お祓いが行なわれた。

太田神社
 神事の最中に、近くの公民館で踊りの衣装に着替えた子供たちが登場。踊りが始まるまで、境内の端にあるタイヤの遊具で遊び始めた。
願念坊踊01
願念坊踊02

 願念坊踊は想像していたよりも短い踊りで、あっという間に終ってしまった。15分ほどあっただろうか。踊りの後、保存会の方に尋ねたところ、それでも6曲踊ったそうだ。公民館に願念坊踊の資料があるというので、お邪魔させていただいた。公民館では、これから青年会が納涼大会?を開催するところだった。
 戴いた「願念坊保存会創立100周年記念式典」のパンフレットに、由来が記されていた。
 踊りの起源は奈良時代で、仏教の布教にともなって始まったとされております。踊りが当地に伝わったのは、天正8年(1580)織田信長と大坂石山本願寺との戦い石山合戦(1570〜1580)の和議が成立した際、本願寺防衛の為に結集した信徒衆が喜び祝宴を開き歌い踊った。その時に当綾子地区から安養寺御坊勝興寺の一向衆として参戦していた人々が帰郷してその踊りを伝えたと言われております。しかし、その後明治時代初年に諸政改革の一貫として踊ることを禁止され長い期間演じる事が出来ませんでした。大正4年、幸いに踊りをすべて記憶しておられた川原竹次郎氏を中心に有志を募り保存会綾華会(昭和23年願念坊踊保存会と改名)をつくり復活を遂げました。
 また、 「第52回近畿・東海・北陸ブロック 民俗芸能大会」のパンフレットには以下のように書かれている。
 そもそも願念坊とは市中を托鉢して歩いた僧形の大道芸人である願人坊のことです。幕末から明治初期にかけて流行した彼らの踊りが、何時の頃からか小矢部一帯の農民たちによって踊られるようになったものであると思われますが、地元では願念坊の起源は次のように伝えられています。
 戦国時代に織田信長が大阪の石山本願寺を攻略した時、本願寺は全国の門信徒(一向宗信徒)を集めて抵抗し、長い間落城しませんでした。ようやく講話が成立した時、長年の戦いに苦しんでいた門信徒達は祝宴を張りましたが、喜びのあまり法衣のまま乱舞したといいます。この時、綾子を中心に小矢部地方などから参戦していた僧や門信徒達が、帰郷して、踊り(願念坊踊)を持ち帰ったといいます。
 願念坊踊は、明治初年に一時途絶えましたが、綾子では大正4年の御大典の記念事業として復活し、今日まで保存会により維持されてきました。かつては小矢部市一帯では綾子をはじめ、小神・高木・長・臼谷・松尾・小森谷・芹川・水牧や南砺市の川合田・和泉・福光などに広く分布しており、村祭りや法会に踊られていました。
 踊りでは、黒の法衣に縄帯、ねじり鉢巻姿の坊主が数人の踊り子を従えます。坊主は手甲・脚絆に草鞋ばきで、傘の上に御幣を飾り、その周囲に赤や青の幕を吊るして造花をつけ、傘の棒に「願念坊主」「天下泰平」「豊年満作」と書いた行灯をつけたダシと呼ばれる二重傘を持ちます。その後に同じ法衣をつけた坊主と、長襦袢に白鉢巻き、手甲・脚絆に相撲の化粧まわしのような前かけ姿の数名の踊り子が従います。ダシの中心に、鉦・太鼓・尺八・三味線・胡弓の囃子にのって身振り面白く踊りますが、手の動きが細かく複雑で、動作が大きいのが特徴です。
 踊りは「なげ」「六法」「六法くずし」「お客さん」「奴さん」「あねさん」「おいらさん」「吃又」「小大臣」の9種類があり、家々で踊られるのは普通「なげ」「小大臣」「奴さん」の3種類です。

 この日踊られた曲が、今日の北日本新聞朝刊に出ていたので引用する。
 歌や三味線、太鼓に合わせ、児童は「なげ」「奴さん」「お客さん」、会員が「六法」「吃又」を披露した。最後は子供と会員が一緒に「小大臣」を踊った。
 そして、地方は三味線と太鼓、鉦 だった。

天ぷら月見うどん
 太田神社の願念棒踊りが終わり、家へ戻る途中に石動駅へ寄って立食いうどん。天ぷら月見うどんを注文する。
 紙のように薄い蒲鉾と甘エビかと思うほど小さい海老に巨大な衣。それでも出汁が美味しく優しい味なので時々食べたくなる。
 来る時は8号線を走って来たが、帰りは小矢部川の堤防を通る。
小矢部川
月
 自転車で堤防を走りながら、きれいな夕焼けを撮れるかなと期待していたが、ちょっと消化不良の夕焼けだった。
 昨日は旧暦の8月3日。新月から3日のお月様は、シュッとしてなんだかカッコ良かった。
 小矢部川の堤防を降りて家に向かう途中、神社に灯りがついて人が集まっていた。獅子舞の練習だろうか。 秋祭りのシーズンだ。
 沖縄関係の気になった記事を、備忘録としてリンクしておく。
ウンジャミ 厳かに 神女、豊年・豊漁願う 伊平屋・田名
「ジュリ」が手記 「慰安婦」や兵隊と壕で生活

9月2日(金)

 越中八尾の「おわら風の盆」が、昨日から始まった。早速昨日、2年ぶり3回目の風の盆を見て来た。
 おわらの期間中は、富山駅から越中八尾へ向かう高山線の臨時便がたくさん出る。ネットで調べて、最寄り駅を14時過ぎに出る電車に乗って富山駅で高山線に乗り換え、越中八尾に15時11分に着く予定だった。ところが富山駅で臨時の高山線に乗るための整理券を配布するシステムになっており、一旦改札の外にある整理券配布場所で券を貰い、その後乗車まで列に並んで待つ事に。乗車はスムーズだったが、思いがけず時間がかかった。
おわら風の盆01
おわら風の盆02

 越中八尾駅に着いて、まずは帰りの切符を購入。それから井田川を渡って、旧町が並ぶ山の方へと歩く。
 八尾は11の町で構成されており、旧町から移り住んだ人たちによってできた駅周辺の福島以外は、山の方にある。

↑井田川を挟んで対岸に、旧町がある。
←川沿いの道を歩いていたら、さっそく対岸におわらの行列が見えた。

 町流しは15時〜17時の後、2時間ほど休憩があり、19時から夜中まで行なわれる。観光案内所でもらったパンフレットには、どの町内が何時から何時まで町流しをしているか書いてあるが、とりあえず行き当たりばったりで上へ上へと歩いて行った。おわらの地方(じかた)は三味線と胡弓と太鼓。哀調を帯びた音色を優しく奏でるので、音の聞こえる方を探すというわけにいかないが、それでも歩いているとおわらの行列にバッタリと出会える。
 旧町の奥の方にある、日本の道百選にも選ばれた諏訪町まで行くと、北陸新幹線の開通とお天気の良い事もあって凄い人混みだ。町流しが休憩に入った時間は、諏訪町の家々の前に用意されたベンチに座ったり、曳山展示館の前で腰掛けたりして休んで過ごす。
おわら風の盆03
おわら風の盆04
おわら風の盆05
 休憩が終って19時からの町流しは、上新町のおわらを見る。道の端に並んで行列が来るのを待つが、通り過ぎる時間は直ぐだ。
 上新町から八尾の駅へ向かって歩く。2キロ以上あるんだろうか。
 途中、聞名寺の境内、八尾八幡社の特設ステージでおわらの演舞を少し見る。町流しよりも、こうした特設ステージの方がゆっくり鑑賞できるかもしれない。
←福島の特設ステージ。
 駅に着いて、係員に誘導されて富山行きの高山線に乗車。富山であいの風とやま鉄道に乗り換えて帰宅。家に着いたのは23時過ぎだった。枝豆をつまみにビールを飲んで、撮影した写真データをパソコンに移してから就寝。

  東北や北海道に台風10号の爪痕が未だ残る中、今度は12号が九州を縦断か?

8月へ