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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表 |
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6月3日(金)、4日(土) 津沢夜高あんどん祭 |
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○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html ○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/ ○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html ○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm ○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/ ○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/ ○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/、 ○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy ○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/ |
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ヤフーの天気予報では午後は曇りになっていたので、錦鯉を撮影に自転車で20分ほどの池へ。池に着く手前からポツポツと小さい雨が降り出した。 バックから折り畳みの傘を出し、しばらく傘をさして錦鯉を撮る。 |
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昨日の福島第一の停電は、雨漏りで分電盤がショートしたためだと分かった。福島第一では2013年にも仮設電源板にネズミが入り込んで停電している。東電、大丈夫か? 総務省が2015年の国税調査に基づく「1%抽出速報」で、総人口に締める65歳以上の割合(高齢化率)が26.7%となり、初めて高齢者が4人に1人を超えたと発表した。富山県は30.4%で全国で10番目の高齢化率だ。たぶん、このまま高齢化は加速して行くのだろう。 |
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雨から曇り。半袖のTシャツでは少し肌寒い。晩ご飯は永谷園の煮込みラーメン。 今日から暫く天気が崩れるという予報だったので、昨日の午後、思い切って自転車で海まで行って来た。たぶん家から一番近い海は伏木港で、小矢部川を河口に向かって走れば辿り着けるはず。河口の付近までは一度行ったが、港までは初めてだ。 |
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小矢部川の堤防を走っていると、牛の放牧を目撃。何度か通っている道だが、牛舎に入れられていて今まで気づかなかったのだろう。高岡で牛か・・・と不思議に思ったが、小学生の頃には町内に牛舎が2つあったのを思い出した。 河川敷の草むらで動くものがあったので、自転車を止めてカメラの望遠レンズで覗くと雉子だった。 |
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堤防の土手に植えてある大きな木。よく見ると、木の前に金属製の鳥居が建っていた。集落の御神木だろうか、それとも個人の所有だろうか。 煙突から煙を吐く工場を目の前にすると、伏木に来た気がする。この工場は伏木のランドマークかな。この工場の近くで小矢部川の堤防は終わり、一般道になる。一般道を海の方に向かって自転車で走ると伏木駅の前に出た。駅を通り越して、ようやく海が見えた。ここまで、写真を撮りながらゆっくりと走って2時間弱かかった。 |
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ようやく辿り着いた伏木の海は、なんだか茫洋としていて、どう写真にすればいいのか困ってしまう。しばらくコンクリートに座って、もう帰ろうかと思ったが、端の方で釣りをしているのが見えた。せっかくなので近くまで行ってみると、この辺りは波がうねり、堤防に波がぶつかり弾けたりしている。しばらく夢中で波に向かってシャッターを押した。 | ||
15分ほど波の写真を撮ってから、来た道を引き返して家路に着く。家を出る時は青空もあったが、すっかり曇り空。放牧されていた牛も牛舎に入れられていた。自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、ゆっくりペダルを漕いで堤防を走る。蛇行した川の堤防を走らずに一般道を走れば、もう少し早く伏木港まで来れる気もするが景色を眺めながらのサイクリングは堤防を走った方が楽しめる。晴れた日に、また自転車を漕いで来よう。 | ||
この景色を見ると、やはり鈴木慶一さんの「LEFT BANK」が浮かんで来る。 | ||
未だに、マスコミは損失が出た時だけ騒いで利益が上がった時は報道しないという批判があるが、そもそも年金資金を大量に株式市場に投入する事が問題だろう。 |
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日が長くなったこの時期、晩ご飯の時間と夕暮れ時が重なって、綺麗な夕焼けを撮り損なう事もしばしば。晩ご飯をタッタカ食べて、自転車で小矢部川の堤防に行ってみる。期待した程には染まらなかったが、雲を少し撮って帰って来た。 | ||
家に帰り、再放送の平敷兼七さんを特集したNHKの日曜美術館を観る。 少し前の朝日新聞に「日本での難民申請2356人 認定は1人 今年1―3月」という記事があった。これでは日本人が難民になる事態に陥ったとき、どこも手を差し伸べてくれないのでは? |
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昨日のお昼頃、テレビを観ていたらEUからの離脱か残留かを問うイギリスの国民投票で、離脱が残留を上回ったという速報が流れた。NHKはお昼のニュースを延長して、この話題を報道した。まったく、世の中何が起こるかわからない。 |
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メンバーはVo.吉越由美、 Gt.西山 毅、Ba.満園庄太郎 、Dr.本間大嗣、 Key.菊地圭介 。 |
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短い休憩を挟んで、一部と二部合わせて2時間半弱のステージだった。 |
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Pファンクのキーボード奏者、バーニー・ウォーレルが昨日、24日に亡くなった。 |
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↑↓「CLUB HALLELUJAH Live92」のNOKKO。→バーニー・ウォーレル。 |
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You Tubeにこの時の映像がUPされている。オープニングのインスト曲のぶっといサウンド!当時、NOKKOの声にこの重低音のファンクサウンドは合わないという意見もあったようだが、そんな事はないだろう。今、映像で観ていても楽しめる。 You Tubeから「CHASE THE CRIME」「No Return」「CRAZY CLOUDS」。 |
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今日はお昼に、NHKで中継された慰霊の日の式典を観ていた。 71年前の6月23日に第32軍司令官・牛島満大将はじめ司令部が自決を行い、これにより沖縄戦においての組織的戦闘が終結したとされ、この日を沖縄では慰霊の日と定めている。 2013年の式典に参加した。テレビのニュースで毎年流される平和祈念公園の平和の礎(いしじ)には、日本人だけではなく国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられた全ての人々の名前が刻まれている。 また祈念公園の敷地にある摩文仁の丘には、各県の慰霊塔が建立されており、富山県は「立山の塔」が建っている。この時は、富山の遺族会の方が一人で座っていらしたので少しお話しをした。この立山の塔には沖縄戦戦没者876柱、南方諸地域戦没者13,996柱が合祀されている。 |
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↓平和の礎。→立山の塔。 |
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平和祈念公園には2回行っており、最初は沖縄に移り住んで一ヶ月ほど経った2012年の7月11日。那覇から小さな折り畳みの自転車を漕いで行ったので、2時間程かかっただろうか。 平和祈念公園に到着して直ぐに通り雨が降った。駆け抜けて行った雨は、海の上に虹のお土産を残して行った。摩文仁のある糸満市を含む南部は、沖縄戦の激戦地だった。平和祈念公園横のこの海岸も、崖から飛び降りて自決した人の死体で埋まったと聞く。 |
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戦争で犠牲になったのは沖縄だけではない、という声も聞くが、あの小さな島で200,666人(沖縄県援護課発表)が亡くなっている。内訳は米軍12,520人、日本軍94,136(沖縄県出身将兵28,228)人、沖縄住民94,000人。当時の沖縄の人口は50万人ほどといわれ、この沖縄戦で島民の4人に一人が亡くなったことになる。 広島の原爆投下による犠牲者の数が、放射線による急性障害が一応おさまった1945年12月末で約14万人と推計されているので、本土上陸の捨て石にされた沖縄戦の犠牲の凄まじさがわかる。 |
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以前、一度掲載した事があるけれど、慰霊の日なのでもう一度。 |
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草蝉や弔辞は一行あれば足る六月二十三日、毎年沖縄慰霊の日には総理をはじめ多くの方々が祭壇の前で弔辞を読み上げる。多くの人を戦場へ送り、死ねばやって来て慰霊の辞を滔々と述べる。マッチポンプの感がしないでもない。決まりきった虚しい言葉の羅列より「辺野古に基地は造りません」とひとこと言えばそれがなによりの慰霊の言葉になるのだが。 上の俳句と解説は、沖縄でお世話になった写真家の新垣辰雄さんから贈っていただいた末吉發さんの写真集『どこにも仏桑華』に載せられている俳句の一篇だ。右ページに俳句と解説、左ページには俳句のイメージに添う写真が載せられている。この俳句には、式典の行なわれている摩文仁の平和祈念公園の隅でベンチに寝転んでいる男性の写真が使われている。タイトルにある仏桑華(ブッソウゲ)はハイビスカスの事で、沖縄方言ではアカバナーとも言う。 「デテコイ」の声や灼光浴びしこと 俳句も写真も単体で素晴らしいが、それぞれが補完し合って、より壮絶だった沖縄戦の有り様を表情豊かに伝えている。とてもお勧めしたい写真集だが、自費出版で出版社の名前も定価も印刷されておらず入手方法がわからない。沖縄県立図書館には蔵書があり、借りて読む事が出来る。 |
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最近何かと話題の日本会議について、リテラが記事を書いている。 興味深かったのは<明治維新という“軍事クーデター”によって樹立した明治政府は、それまで民間の信仰であった神社神道を、天照大神を内宮に祀る伊勢神宮を頂点とする「国家 神道」に組み替えた。この神話的ヒエラルキーのもと国民を「天皇の赤子」として支配しようとしたのだ。その結果が、「世界無比の神国日本」による侵略戦争 の肯定・積極的推進であった>という箇所だ。 沖縄の信仰の場所である御嶽(うたき)も、明治政府によって神社化されたことがある。 『母たちの神』の図録は神迎え、神崇め、神女、神願い、神送りという括りで写真を纏めている。その神願いの最初の写真は、池間島のウハルズ御嶽の写真で、神司と思われる3人の女性が土の中に埋もれている香炉を掃除している。 |
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↑池間島のウハルズ御嶽。ミャークヅツの期間だけ一般の人も入る事ができる。入り口には大きな鳥居が建ち、この手前で靴を脱いで入って行く。宮古諸島、八重山諸島にはこうした鳥居のある御嶽も多いが、これらは明治政府が神社化しようと試みた時代に建てられたものだろう。 | ||
今日、参議院選挙が公示された。 昨日から、安倍首相が出席している創生「日本」東京研修会の映像が、大量にシェアされてFacebookに流れて来る。せっかくなので、私も拡散させていただきます。こちら。 先日、お手盛りの審議で富山市議会の議員報酬が来春より月額10万円アップする事が決定したが、高岡市議会と砺波市議会も追随するように報酬の引き上げを検討している。 |
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←トップ画面を模様替えしました。沖縄で2年間住んでいた部屋のベランダから撮影した那覇市街。2012年8月21日撮影。 ↓これまでのトップ画面。 |
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自民党広報部が、自民党に質問ハッシュタグを作ったら、お祭り騒ぎになっている。面白い。まとめはこちら。 | ||
朝は激しい雨が降っていたが、徐々にお天気は回復して午後は薄曇りになった。雨は止んだが、空気が湿気を含んでいるのか蒸し蒸しする。 一昨日の日曜日は、高岡の金屋町へ御印祭の前夜祭を見に行った。天気予報では夜から雨となっていたので、自転車は諦めて電車で行く。 |
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↑宮司さんの祝詞奏上やお祓いといった神事の後、御神体を入れたお神輿が「宵宮の儀」が行なわれる金屋町公民館まで渡御をする。 ←公民館の近くにある金谷緑地公園では、18時30分から児童による「御印太鼓」が披露された。 |
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↑左は、公民館での「宵宮の儀」。右は、「宵宮の儀」が終了し、公民館の玄関前で弥栄節(やがえふ)を奉納する子供達。 | ||
金屋町公民館前での奉納踊りの後、石畳通りを流す「前夜祭踊り」を見に行く。さほど広くない通りの両側には人がいっぱい。踊りの先頭の方で見ていたが、少し空いた頃に奥へと移動すると観光客の姿も減ってゆっくりと観られた。 踊りは21時半まで続くようだが、足腰が疲れて来たので駅へと向かう。高岡駅を21時14分発の電車で家に帰る。 |
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↑金屋町で撮影したお月様。6月19日が旧暦の5月15日なので満月かと思ったが、翌日の6月20日が満月のストロベリームーンだとか。こんな面白い記事があった。 | ||
私たちはライブハウスやバーや海岸で出会ったロックやパンクスやパーティ好きの20歳前後の「良き隣人」たちを、1950年代は朝鮮戦争、60年代はベトナム戦争、90年は湾岸戦争、2003年イラク戦争に、「みんな悪い人じゃないのに」戦地に送り出してしまった「加害者」として、1人でも多く、生きて国に返したい。 私たちの隣人である「軍隊」という組織は、そこに所属する人達がどんなに素晴らしい人格で、どんなに素晴らしい活動をしていたとしても、「軍隊」は「ボランティア掃除団体」でも「災害救助隊」でも「パーティー集団」でもなく、「人を人と思う心を殺し、人を殺す為の訓練を職業としているプロ組織」であるという事は、紛れもない事実である事は再確認認識しておくべきだと思う。こんなに優しい人がどうして戦地に行ったら子どもたちまでも撃てるようになるのか? それを知るには「ONE SHOT ONE KILL」「アメリカばんざい」という映画を見てほしい。普通の青年が軍隊に入り、ブートキャンプ中に最初に殺すのは「自分の心」。 |
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上段左:国道58号を通行止めにして行なわれる那覇大綱挽で、縁起物とされる枝綱を持ってはしゃぐ米兵。見物するだけではなく、実際に綱引きに参加して一緒に楽しむ米兵もいる。2012年10月7日。 上段右:休日やイベントのある日の国際通りでは、普段着で休みを楽しむ米兵たちをたくさん見かける。この日はエイサーのイベント「那覇2012一万人のエイサー踊り隊」が開催されていた。2012年8月12日。 中段左:美ら海水族館もほど近い本部港から、米軍の補助飛行場がある伊江島へ向かう村営フェリーに乗り込んだ米兵。2013年11月9日。 中段右:嘉手納基地の中をジョギングする米兵。フェンスの中だけでなく、フェンスの外を走る姿もよく見かける。2014年2月28日。 下段左:米兵や、その家族で賑わう宜野湾市のトロピカルビーチ。2012年6月24日。 下段右:メモリアルデー(戦没将兵追悼記念日)の泊外人墓地。慰霊には日本人の家族も多く訪れる。戦後、沖縄の女性と恋をし家族を作り、この地に骨を埋めた米兵も多くいる。セメントで形作ったシンプルな十字架のお墓は幼児のものが多く、それらはベトナム戦争前後に埋葬されている。1970年5月9日に生まれ、翌日の10日に亡くなった赤ちゃんのお墓もある。 |
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米軍属に殺害された女性の四十九日である昨日、彼女を追悼する県民大会が那覇市奥武山公園で開催された。ネットでも中継されたので、部屋のパソコン画面でその様子を見ていた。 「ご来場の皆さまへ。米軍人・軍属による事件事故が多い中、私の娘も被害者の一人となりました。なぜ娘なのか。なぜ殺されなければならなかったのか。今まで被害に遭った遺族の思いも同じだと思います。被害者の無念は、計り知れない悲しみ、苦しみ、怒りとなっていくのです。それでも遺族は、安らかに成仏してくれることだけを願っているのです。次の被害者を出さないためにも全基地撤去。辺野古新基地建設に反対。県民が一つになれば可能だと思っています。県民、名護市民として強く願っています。ご来場の皆さまには、心より感謝申し上げます」 遺族がこうしたメッセージを発しているにも拘らず、大会は政治利用だとか遺族の心を無視したものだとの誹謗中傷がネットの中にコメントとしてたくさん残されている。この人たちは何を見てコメントしているのだろうか。 県民大会で「海兵隊の撤退」が要求されたが、この要求に対しても中国が攻めて来るという毎度おなじみのコメントが多数寄せられている。内モンゴルやチベットなどの例を挙げる人もいるが、これに関しては小林節さんの
「中国が過去に侵略に成功した相手は、内モンゴル、ウイグル、チベットといった事実上の非武装地域だけで、台湾、ベトナム(つまり日本も)といった「専守防衛」に徹している国には手が出せていない。しかも、日中米3国は経済的に既に深く依存し合っており、戦争をしたら一緒に国力が急落してしまう関係にある」という発言が冷静な見方だろう。 |
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御印祭を見に行こうと思い、自転車で高岡へ。金屋町に着いて、18時から「神輿お迎えの儀」というのが行なわれる有礒正八幡宮の場所を確認。神事が始まるまで2時間程あるので、久しぶりに高岡市内を自転車で走る。 |
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上の写真の左は、高岡駅近くの線路際に建つ中華料理店の看板。電車で富山方面に向かう度、電車の窓から見えるので気になっていた。看板の落ち具合が、ドリフのコントのようだ。右は、再開発が進む駅前に残っているアドニスビル。高校を卒業して暫くして、金沢のロックバンド、T-BIRDのローディーをしていたが、お金にはならないのでツアーのない時はアドニスビルに入っていた高岡広場という洋風居酒屋で夕方から夜中までバイトをしていた。バイトの終わる時間には電車がなかったので、自転車で通っていた。雨の日はどうしていたんだろう。 | ||
↑→有礒正八幡宮にて。↓拝殿にあったお神輿の飾り。 |
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自転車でブラブラしたり、久しぶりに大丸デパートに入ったりした後、有礒正八幡宮へ。暫く境内の写真を撮って過ごすが、神事の開始予定の18時になっても誰も来ない。変だな〜と思っていたら、ようやく年配の男性が一人いらしたので聞いてみたら、御印祭は明日からだと言われる。家から持って来た、御印祭の詳細を記した新聞広告を見る。 | ||
6月19日(日)、20(月)と書いてある。19日が前夜祭で、20日が本祭。2日に渡るお祭りは土日だろうと思い込み、今日が19日だと勘違いしていた。 有礒正八幡宮を後にして、自転車を漕いで家へと帰る。帰宅して、テレビで「ブラタモリ」「トットてれび」を観る。満島ひかりが素晴らしすぎる。今日で最終回は寂しい。 |
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沖縄が今日、梅雨明けした。早っ! 昨日、舛添都知事が辞任した事で20日に予定されていた集中審議は中止となり、共産党が提出した百条委員会は自民公明の反対で否決されてしまった。これで疑惑は何一つ解明される事なく終わり、今回の騒動をキッカケにザル法と言われる政治資金規正法が議論される事もなくなった。 「民意無視」飛ぶ怒号 富山市議報酬増可決、傍聴席に失望広がる。昨日、富山市議会議員の報酬が来春より月額10万円増額される事が、市議本人たちの賛成多数で可決された。お手盛りにも程がある。 |
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昨日、一時間ほど錦鯉を撮影して来た。一昨日の雨の影響か、池が汚れていて、水面に浮かんだゴミがけっこう写り込んでいる。 FORM(フォルム) |
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昨日、北陸地方も梅雨入り。今日はどんよりとした曇り空で、小雨もパラついた。 | ||
今日、『眼の狩人/大竹昭子』(新潮社)を読了した。これで、先月まとめて購入したうち、『Sebastiao Salgado』(PHOTO POCHE)、『横木安良夫流スナップショット』(えい文庫)、『楽園の原点おきなわ/三好和義』(新潮社)の4冊を読み終えた。 ←昨年は稲を植えていた隣りの田んぼだが、今年は枝豆を作るようだ。 |
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今日、Facebookに「 祭祀つかさどって83年 琉球王府から続く「ノロ」は96歳」という沖縄タイムスの興味深い記事が流れて来た。記事には、大宜味村田港のノロ(ヌル)である、山城トヨさんの短いインタビューが掲載されている。 |
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↓→2012年のウンガミにて、屋古アサギで神事を司る山城トヨさん。 |
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ソウル・アサイラムの21年ぶりの来日公演が決定した。11月8日に東京・渋谷TSUTAYA O-EAST、大阪と愛知公演は近日発表となっている。 |
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熊本地震が発生してから、今日で2ヶ月が経った。余震も少し治まったかと思っていたら、一昨日また震度5弱の地震が起きた。車中泊の人も、まだ大勢いらっしゃるようだ。 熊本に親しい人はいないが、ちょうど10年程前に南阿蘇へ大野勝彦さんを雑誌の取材で撮影に行った。大野さんは農作業中の事故で両手を失ったが、その後義手を付けて画家になった方だ。 今回、被害の大きかった南阿蘇に、大野さんのアトリエであり作品が飾られている「風の丘 阿蘇 大野勝彦美術館」が建っている。熊本地震の発生直後にどうなったか心配でホームページにアクセスしたが、その時には地震の事は何も触れられていなかった。そして最近になって、またアクセスしてみたところホームページがリニューアルされていて近況が報告されていた。 美術館の内部の様子はわからないが、建物の前の土が抉り取られたように崩れている。10年前に伺った時に、帰る前にこの場所に立って、キレイな夕焼けを撮った。その時に写した大きな木は、大丈夫だったようだ。 だんだん震災の事は報道されなくなっていくだろう。たぶん自分から情報にアクセスしなければ、被災地の状況はわからなくなる。なので、たまに南阿蘇にある大野さんの美術館の復興をブログで見ていようと思う。 |
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↓→10年前の大野勝彦美術館からの夕焼け。 |
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午後も遅くになってから、運動を兼ねて小矢部川の堤防を自転車で走って来た。下の写真は、堤防から山里の方を撮影。なんとなく日本の古里でイメージするのは、こんな風景だったりする。 | ||
石動の方の河川敷で花菖蒲祭りが開催されているのは知っていたが、あまり興味がなかったので見に行くつもりはなかったが、小矢部川の堤防を走っているうちに会場に着いた。催し物は既に終っていたが、せっかくなので少し花菖蒲を見て歩く。花菖蒲、初めて見たかも。なんだか、ティッシュペーパーをクシュッと丸めたような花びらだ。 | ||
花菖蒲を見た後、家に引き返す途中に小矢部川の水量を調節しているのか浄化施設なのか分からないが堰があって、そこで暫く流れ落ちる水を撮ってから帰った。 | ||
6月10日(金) | ||
一昨日は、昨年に続いて砺波の夜高祭へ。家から戸出駅まで自転車で行き、17時40分発の城端線で砺波へ。駅を出ると、「ヨイヤサー、ヨイヤサー」のかけ声が聞こえて来た。 |
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町中を少し散歩していたら、紫陽花が目に留まった。 神奈川の宿河原に住んでいた時は、近所に紫陽花の綺麗に咲く場所がいくつかあって、毎年今頃の季節は撮影に行っていた。 奄美にも沖縄にも紫陽花が咲いていないわけではないけれど、亜熱帯の見た事もない草花に目がいって、紫陽花を撮る事はほとんどなかった。久しぶりに紫陽花を見て、シャッターを押した。 |
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散歩をしていると、紫陽花の綺麗に咲いていた家の近くに、変わったショーウインドーの中華料理店があった。大きなショーウインドーの中央に、日替わり定食(コーヒー付き)500円の紙が貼ってあるだけで、その周りはスポーツ大会での賞状や夜高祭の新聞記事ばかり。肝心の日替わり定食の写真も陽に当たり色褪せている。このお店で何を食べればいいんだろう、通りすがりの人間は頭を抱えそうだが、きっと地元の人には愛されているお店なのだろう。それにしても、コーヒー付きで500円の日替わり定食は安くないだろうか。 |
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19時から行灯の曵き回しが始まり、通りを歩いているとアチコチから「ヨイヤサー、ヨイヤサー」のかけ声が響いて来る。 大行灯、子供達が曵く小行灯がコンクールの行なわれる町の中心部に向かって行列している。津沢や砺波の夜高は、五穀豊穣や害虫駆除を願う田祭が発祥だと言われているが、家の玄関横に飾られた行灯や、子供達が手に持っている田楽行灯の側面に「五穀豊穣」「祝田祭」の文字が見えて、それを裏付けている。 |
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行灯の出来を競うコンクールは、本町の交差点で19時45分から始まった。小行灯では子供達が歌ったり、審査員に製作の苦労や楽しかった事などを言葉でアピール。あんまり長く居るつもりはなかったのに、面白くて小行灯に続き大行灯の審査も最後まで見た。 | ||
↓審査終了後、大行灯が通りにズラリと並ぶ。 |
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コンクールが終わり、夜店が並ぶ通りを歩いて駅に向かう。駅の2階にある観光案内所が、まだ開いていた。今日と明日は夜の10時まで営業しているそうだ。22時8分の 高岡行きに乗車し、二つ先の戸出駅へ。戸出駅から自転車を漕いで家に帰る。 帰宅してNHKのドキュメント72時間「真冬の東京 その名は“はな子”」を観る。 |
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今日は旧暦の5月4日、ユッカヌヒーだ。糸満や南城市の奥武島では、ハーリー(ハーレー)が開催される。糸満ハーレーの鉦が鳴ると梅雨が明けると言われているので、沖縄はそろそろ梅雨が明けて本格的な夏だろうか。 | ||
昨年ネットで購入した大学ノート風のスケジュール帳が5月いっぱいで書き込みできなくなったので、先日100円ショップへ手頃な手帳はないかと探しに行った。もう6月なので2016年の手帳は置いてなかったので、システム手帳を購入した。これまでは年ごとにスケジュール帳を買い替えていたので、初めてだ。 | ||
↓→これで消費税を入れて324円。 |
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英国のフィドル(ヴァイオリン)奏者で、フェアポート・コンヴェンションでも活躍したデイヴ・スウォーブリックが、今月の3日に亡くなった。 英国のトラッドやフォークは門外漢なのだが、1995年から96年に英国フォークの重鎮が相次いで来日し、新宿ロフトでライヴを行った。 95年5月にマーティン・カーシ&デイヴ・スウォーブリック、6月にフェアポート・コンヴェンション。96年になってからは、7月にジョン・レンボーン&ジャッキー・マクシーとウイズ・ジョーンズ、10月にバート・ヤンシュ、スティーヴ・ティルストン&マギー・ボイル。この流れとは別に、97年5月にはドノバンが来日して渋谷クワトロでライヴをしている。 これらのライヴを撮影する機会があって、その時に勉強も兼ねてCDを色々と買って、以来好きになったミュージシャンもたくさんいる。 マーティン・カーシ&デイヴ・スウォーブリックは、アルバム『SKIN and BONE 』をiPodに入れて愛聴している。 |
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96年の7月にジョン・レンボーン&ジャッキー・マクシーが、同じ年の10月にバート・ヤンシュが来日して同じ新宿ロフトでライヴを行なった時、ファンからは、どうせなら一緒に来日してペンタングルとしてのステージを見せて欲しかったという声もあった。そのバート・ヤンシュも2011年の10月に67歳で亡くなっている。 | ||
↓→ライヴ、ポートレート共に、1995年5月7日に撮影@新宿ロフト。 |
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You Tubeから、フェアポート・コンヴェンション時代のデイヴ・スウォーブリックが観られるライヴ映像。マーティン・カーシ&デイヴ・スウォーブリックでの映像。 | ||
昨日、武蔵野美術大学から「中村とうようコレクション目録」を含む『とうようズ・レガシー』というボックスセットが届いた。 オフィス・サンビーニャの田中勝則さんから、中村とうようさんが武蔵野美術大学に寄贈した膨大なコレクションの目録を製作中で、就いてはその目録にとうようさんが写っている写真を使いたいので提供して欲しいと連絡があったのが、昨年の11月だった。 予定だった2月末はとうに過ぎてしまって、どうなったんだろうと思っていた頃、この目録に、昨年の武蔵野美術大学で開催された展覧会の図録「ポピュラー音楽の世紀」と、昨年のとうようズ・デイに催されたコンサートを収録したDVDがセットになって販売されることを知った。目録は関係者に配られる資料のようなものだと思っていたので、一般にも販売されると知って嬉しくなった。 |
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↓→ようやく届いた『とうようズ・レガシー』。 |
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↑47,184点のコレクション・データを掲載した「中村とうようコレクション目録」を含む、ボックスセット。 | ||
↑左は、『中村とうようの収集百珍』の著者近影用に撮影した写真。とうようさんにお会いしたのは、この撮影が最後だった。そう言えば、この『収集百珍』用に八王子の家でコレクションの撮影をしている時に、中越地震が起きて揺れたのだった。右は、再録された「楽器は世界をめぐる」。もう季刊『ノイズ』を手に入れる事は難しいし、ノイズより判型が大きいので読み易い。 | ||
↑渋谷タワーレコードの横にあったスタジオで撮影した。テレビの収録はここだけだったが、雑誌の方は後日、神保町の編集部と音楽大学でも撮影した。この撮影をしたのが1989年、とうようさんは1932年生まれなので57歳。来年、自分がその年を迎えるのかと思うとなんだか感慨深い。 『とうようズ・レガシー』はオフィス・サンビーニャでも、アマゾンでも購入できます。 |
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昨日、九州・中国・四国、そして近畿・東海が梅雨入りしたのに続き、関東・甲信も今日梅雨入りした。 一昨日、昨日と2日続けてお祭りを見に行った。一昨日は津沢夜高あんどん祭、昨日は氷見市床鍋地区の虫送り。津沢の夜高あんどんは昨年に続いて2回目、床鍋の虫送りは地元の新聞記事に載っていたのを以前に見て撮影したかった行事だ。 |
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6月3日(金) |
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↑浦町の出陣式。↓浦町の子供行灯。→浦町の大行灯が出陣。 |
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昨年は出陣式の後も暫く浦町の大行灯について歩いたが、今年は直ぐに小矢部川を渡って箕輪の方へ行ってみた。 | ||
↓小矢部川の橋まで来ると、綺麗な夕焼け。昨年もこんな天気だった気がする。 |
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小矢部川の堤防沿いの道を、中くらいの大きさの行灯がゆっくりと進んで来た。周囲を見回すと、アッチにもコッチにも行灯の行列が現われる。行灯の出来を競う審査が行なわれる広場に向かうために、町の中心に向かって移動しているようだ。 | ||
昨年は、行灯のぶつかり合いの途中まで見て22時半のバスで石動に戻ったが、今年は20時半のシャトルバスで早々に帰宅した。 | ||
6月4日(土) 氷見の床鍋地区というところで虫送りという行事があるのを知ったのは昨年だったか一昨年の事だったか。北日本新聞の記事で読んだんだと思う。以来、一度見てみたいと思っていたが、地図を見ると氷見駅からも遠く、山の中にある集落のようで交通手段が限られている。そこで両親に祭りに行かないか誘ってみたら、行っても良いという返事だったので父親の運転する車で出かけた。 ネットで調べた情報によれば神事の開始が18時半で、その後19時から巨大な松明を子供達が引いて集落の中を移動する行事が始まる。グーグルの地図をプリントして渡したが、地図では分かり難く父親は一度氷見にある馴染みのボーリング場で場所を聞いて来たところ、家から床鍋まで一時間ほどかかるそうで、17時に家を出発することになった。 迷う事無く床鍋の集落まで来て、集落の中にある床鍋鉱泉という温泉で、虫送りが行なわれる詳しい場所を教えてもらった。温泉から少し道を上がったところに広場があり、ここに松明が運ばれて燃やされる。広場から出て来た人に尋ねると、神事があるのはもっと道を上がった先だと言う事でカメラを持って歩いて行く。両親は松明が運ばれて来る広場に車を停めて、ここで待っているという。 舗装された山道をしばらく上がって行くと少し開けた場所に出て、そこに直径1m、長さ8mの巨大な松明が置かれていた。虫送りの由来と、行事の進行を書いたプリントをいただいたので、そこから引用する。 |
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虫送りは、田に発生する「ウンカ」「イナゴ」「ドロムシ」などを、怨霊のしわざと考え、大勢の人が集まり、松明を燃やし、鉦や太鼓などを鳴らして、畦道を歩くというもの。 害虫が発生しやすい六月ともなれば、今日でも、田のところどころに立つお祓いをした御幣を見ることができます。 床鍋地区では、百三十年前から行なわれている民俗行事であり、子ども達が、松明を引き「ドロムシホーイ」「ドロムシホイ」と囃子ながら田を回るという行事(神事)は今日まで受け継がれてきた。 この日だけは、子ども達に、火の扱いが許された日であり、また、火の恐ろしさや大切さを教えた日でもあります。 このような「虫送り」行事も、昭和二十七〜二十八年頃より農薬の出現や子どもの減少等により多くの地区において、廃れてしまっているが、床鍋地区では平成二年に復活し、現在に至っています。 |
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↑藁や杉の枝を竹で包んで、藤の蔓で縛った巨大な松明(左)。神事の時に小学生代表で玉串の奉納をする女の子2人が、先生に教わりながら練習をしていた。 | ||
◯開会の挨拶 ◯来賓の挨拶 ◯神事 太鼓・笛 祓いの儀(祓いの詞・修祓) 降神の儀 一拝 玉串奉奠(各団体長) 昇神の儀 太鼓・笛 |
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薄暗くなった19時頃に、松明の引き回しが始まった。子供達が紐で引っぱり、大人が横と後ろについて方向を調整する。「ドロムシホーイ、ドロムシホイ」と元気に声を掛けながら500mほど進む。 | ||
↑集落の外れまで来たところで、松明の後ろに火がつけられた。燃えている松明を、旧床鍋小学校のグランドだった広場まで引っぱって行く。松明の後ろには消防車とパドカーがついている。 子供達に引っぱられた松明は、広場の中をぐるっと周り、中央に運ばれてから塔のように立てられた。 |
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↓→広場の中央に立てられた、巨大な松明。 |
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この後、広場では直会が行なわれるそうだ。松明が燃えて崩れるところまで見て、車で帰宅した。 |
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ところで、虫送りは田畑を荒らす害虫を追い払って豊作を願う行事だと思うが、沖縄にもアブシバレーという同じような行事がある。アブシは畦、バレーは祓うで害虫や雑草から田畑を守り豊作を祈願する。その祈願の方法は、木や草で作った小さな舟にタニシや虫を乗せて海に流しニライカナイへと送る。You Tubeから金武町伊芸区のアブシバレーの映像。 |
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もう一つ興味深かったのは、子供達のかけ声にある「ホーイ」という言葉だ。宮古島の野原集落で旧暦の12月最後の丑の日に開催されるサティパロウという祭祀で使われるかけ声が「ホーイホーイ」だ。 サティは里、パロウは祓うの意味で、パーントゥ(鬼面)を被った少年を先頭に、草の装束を身に着けた夫人たちが集落の中を「ホーイホーイ」と言いながら歩いて 厄を祓う。害虫駆除と集落の厄払い、目的は違うが似てもいる。とこで「ホーイ」という言葉の意味はなんだろうか。 |
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↑パーントゥを被った少年を先頭に、草の装束を身に纏った夫人たちがホーイホーイと声を上げて集落を祓って歩く、宮古島の野原地区に伝わる祭祀・サティパロウ。 | ||
久しぶりに錦鯉が撮りたくて、自転車で20分程のところにある公園の池へ。小一時間、池で泳ぐ錦鯉を眺めて写真を撮って来た。 先日、雑誌の仕事で魚の皮を使ってサンダルを作る女性たちを撮影した。取材の後、食事をしながらの雑談で、錦鯉の皮で作ればカラフルなサンダルができる んじゃないかと聞いてみたら、魚の皮をなめす時にウロコを取らなくてはならず、ウロコを取ると魚の色素が落ちてしまうそうだ。なかなか難しい。 |
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焼酎を買おうと思って、西高岡の方にある酒のディスカウントSHOPへ行くと、店内の棚卸し作業をしている。店舗での営業をやめて、これからはネット販売になるんだとか。安くて品揃えが豊富でありがたいお店だったのに。 | ||
サイクリングがてら、小矢部川の堤防を通って帰って来た。 | ||
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