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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表

6月3日(金)、4日(土) 津沢夜高あんどん祭
6月4日(土) 氷見市床鍋地区 虫送り
6月4日(土)、5日(日) 庄川観光祭 夜高行灯
6月10日(金)、11日(土) となみ夜高祭り
6月19日(日)、20日(月) 御印祭 金屋町
6月26日(日) NHK日曜美術館「沖縄 見つめて愛して 写真家・平敷兼七」/20時〜20時45分
7月      福光 荒木ねつおくりまつり
7月下旬の土日 黒部市 生地えびす祭り
8月5日(金)、6日(土) 魚津 たてもん祭り
8月25日 婦中町 熊野神社の稚児舞
9月30日〜10月2日 築山・新湊曳山まつり
11月第3土曜日 射水市放生津・新湊地区  澗建のえびす様渡し
1月       南砺市利賀村 初午
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富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞
*とやまの文化財百選シリーズ(3) とやまの祭り
*とやまの文化財百選シリーズ(4) とやまの年中行事

○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

6月29日(水)

 ヤフーの天気予報では午後は曇りになっていたので、錦鯉を撮影に自転車で20分ほどの池へ。池に着く手前からポツポツと小さい雨が降り出した。
 バックから折り畳みの傘を出し、しばらく傘をさして錦鯉を撮る。
錦鯉01
錦鯉02

 昨日の福島第一の停電は、雨漏りで分電盤がショートしたためだと分かった。福島第一では2013年にも仮設電源板にネズミが入り込んで停電している。東電、大丈夫か?

 総務省が2015年の国税調査に基づく「1%抽出速報」で、総人口に締める65歳以上の割合(高齢化率)が26.7%となり、初めて高齢者が4人に1人を超えたと発表した。富山県は30.4%で全国で10番目の高齢化率だ。たぶん、このまま高齢化は加速して行くのだろう。
 自公政権が雇用状況の改善、就業率の向上をドヤ顔で言うが、総務省調査の通り高齢化が進み労働力人口も減少しているので、何もしないでも就業率はアップする。
 また、就業率が増えたというがその中身は正規雇用者が36万人も減り、非正規雇用は187万人増加。企業は人手不足に向かっているが、だからといって儲かっているわけではないので、雇用は非正規になり、賃金も上がらないという事だろう。こうした事を考えれば、 就業率が増えたのはアベノミクスの成果というより、変動する人口構成の影響の方が大きいのではないだろうか。そして、これからは企業が人材を確保するのが難しいという問題の方が深刻になるかもしれない。
 
  トルコの空港で自爆テロ。41人が亡くなり、239人が重軽傷を負った。

6月28日(火)

 雨から曇り。半袖のTシャツでは少し肌寒い。晩ご飯は永谷園の煮込みラーメン。

 今日から暫く天気が崩れるという予報だったので、昨日の午後、思い切って自転車で海まで行って来た。たぶん家から一番近い海は伏木港で、小矢部川を河口に向かって走れば辿り着けるはず。河口の付近までは一度行ったが、港までは初めてだ。
牛と雉子
 小矢部川の堤防を走っていると、牛の放牧を目撃。何度か通っている道だが、牛舎に入れられていて今まで気づかなかったのだろう。高岡で牛か・・・と不思議に思ったが、小学生の頃には町内に牛舎が2つあったのを思い出した。
 河川敷の草むらで動くものがあったので、自転車を止めてカメラの望遠レンズで覗くと雉子だった。
堤防の木と工場
 堤防の土手に植えてある大きな木。よく見ると、木の前に金属製の鳥居が建っていた。集落の御神木だろうか、それとも個人の所有だろうか。
 煙突から煙を吐く工場を目の前にすると、伏木に来た気がする。この工場は伏木のランドマークかな。この工場の近くで小矢部川の堤防は終わり、一般道になる。一般道を海の方に向かって自転車で走ると伏木駅の前に出た。駅を通り越して、ようやく海が見えた。ここまで、写真を撮りながらゆっくりと走って2時間弱かかった。
伏木港
 ようやく辿り着いた伏木の海は、なんだか茫洋としていて、どう写真にすればいいのか困ってしまう。しばらくコンクリートに座って、もう帰ろうかと思ったが、端の方で釣りをしているのが見えた。せっかくなので近くまで行ってみると、この辺りは波がうねり、堤防に波がぶつかり弾けたりしている。しばらく夢中で波に向かってシャッターを押した。
波01
波02
 15分ほど波の写真を撮ってから、来た道を引き返して家路に着く。家を出る時は青空もあったが、すっかり曇り空。放牧されていた牛も牛舎に入れられていた。自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、ゆっくりペダルを漕いで堤防を走る。蛇行した川の堤防を走らずに一般道を走れば、もう少し早く伏木港まで来れる気もするが景色を眺めながらのサイクリングは堤防を走った方が楽しめる。晴れた日に、また自転車を漕いで来よう。
工場
 この景色を見ると、やはり鈴木慶一さんの「LEFT BANK」が浮かんで来る。

 未だに、マスコミは損失が出た時だけ騒いで利益が上がった時は報道しないという批判があるが、そもそも年金資金を大量に株式市場に投入する事が問題だろう。
  安倍政権は株価を吊り上げるため、2014年10月、GPIF(年金積立管理運用独立行政法人)の国内外の株式への運用を25%から50%に引き上げた。今回のイギリスのEU離脱で株が暴落し、運用している年金に多大な損失がでるのではないかと心配されている。消えた年金問題が、書類が消えただけでなく本当に年金資金が消える問題になるかもしれない。
英EU離脱ショック 株暴落でGPIF「年金30兆円損失」の恐怖

 在日米軍司令部が沖縄における米軍基地の割合は74%ではなく、39%が正しいというコメントを発表して批判を浴びている。米軍の出して来た数字は基地の面積による割合ではなく、施設の数による算出だ。ウソではないだろうが、極東最大の空軍基地である嘉手納飛行場の面積は19,855千㎡で、横田飛行場(7,139)、厚木飛行場(5,069)、岩国飛行場(7,891)を足した20,099千㎡にほぼ匹敵する。普通に考えれば、これだけ大きさの違う施設を同じ一つとして計算する事が現状を反映しない事は明らかだろう。
 また現在オスプレイの着陸帯が建設されている北部訓練場の面積に至っては78,242千㎡と、これだけで東京と北関東の米軍基地(東京・埼玉・茨城・千葉・福島・群馬・新潟)の15施設41,128千㎡や、中部・北陸・近畿・中国地方の米軍基地(石川・京都・滋賀・岐阜・兵庫・広島・山口・岡山・鳥取・京都)の16施設、60.064千㎡を上回っている。
沖縄のアメリカ軍基地「日本全体の39%」投稿に翁長知事「開いた口がふさがらない」
米軍公式アカウントによる、悪質なプロパガンダの検証:まとめ
米軍の74%集中は「誤解」米軍司令部 施設数で算出「39%」
米軍公式デマ→防衛省のHPから「沖縄に米軍基地74%」が消える:まとめ
 この沖縄における米軍基地の割合について、今回の米軍公式アカウントよりも以前にヒゲの隊長こと佐藤正久参院議員が自身のツイッターで「『沖縄の在日米軍全体の施設面積の約74%が集中』、これは毎日朝刊の社説の一節だ。よく言われるがこれは事実ではない。74%は米軍専用施設の割合で あって、その分母に岩国や三沢、佐世保、横田、岩国、横須賀等の自衛隊との共有米軍施設は入っていない。共用施設を入れると在沖米軍施設は約23%」とデマを発言しているが、未だに訂正も謝罪もしていない様子。
佐藤正久「沖縄に在日米軍基地74%はデマ」はデマ
<沖縄基地の虚実8>県外主要基地含め74% 誤った情報 ネットで拡散

 そして福島第一は相変わらず。
福島第1原発電源トラブル 凍土冷凍機一部動かず

6月26日(日)

 日が長くなったこの時期、晩ご飯の時間と夕暮れ時が重なって、綺麗な夕焼けを撮り損なう事もしばしば。晩ご飯をタッタカ食べて、自転車で小矢部川の堤防に行ってみる。期待した程には染まらなかったが、雲を少し撮って帰って来た。
夕焼け01
夕焼け02

 家に帰り、再放送の平敷兼七さんを特集したNHKの日曜美術館を観る。
 比嘉康夫さんが62歳、平良孝七さんが55歳、そして平敷兼七さんが61歳。3人とも沖縄を撮り続けた沖縄の写真家だけれど、短命だった。
  確か、平良孝七さんの撮影したフィルムは、名護市に寄贈されて名護博物館で写真展が行なわれたりしている。比嘉康夫さんと平敷兼七さんの写真は、遺族が個人ギャラリーを開設して写真展を行っている。
 日曜美術館の後、NHK古代史ミステリー「御柱」〜最後の”縄文王国”の謎〜を観る。

 少し前の朝日新聞に「日本での難民申請2356人 認定は1人 今年1―3月」という記事があった。これでは日本人が難民になる事態に陥ったとき、どこも手を差し伸べてくれないのでは?

6月25日(土)

 昨日のお昼頃、テレビを観ていたらEUからの離脱か残留かを問うイギリスの国民投票で、離脱が残留を上回ったという速報が流れた。NHKはお昼のニュースを延長して、この話題を報道した。まったく、世の中何が起こるかわからない。

 イギリスのEU離脱は気になるが、久しぶりにライヴの撮影へ。高岡のクローバーホールで行なわれる『YUMI.with Friends』というタイトルで、ボーカルの吉越由美さんを名うてののミュージシャンがサポートする。
 ライヴは19時30分からだが、せっかくなのでリハーサルも見ようと16時半頃に会場に入った。リハ中も撮影しようかとも思っていたが、照明がステージ用ではなかったので撮るのはやめて聴いていた。リハは、会場時間の18時半ギリギリまで続いていた。少しお腹がすいたので近くにある大丸の地下食料品売り場へ。以前もらった大丸の商品券があるので、サンドイッチとカレーパン、ミルクティーを買って戻る。
 しばらくして客入れ。80人程が詰めかけ、客席はほぼ満員。

YUMI.with Friends01
メンバーはVo.吉越由美、 Gt.西山 毅、Ba.満園庄太郎 、Dr.本間大嗣、 Key.菊地圭介 。
YOMI.with Friends02

 短い休憩を挟んで、一部と二部合わせて2時間半弱のステージだった。
 高岡駅を22時53分の電車に乗り、帰宅。家に着いてテレビのスイッチを入れると、 NHKのドキュメント72時間がほぼ終わりの時間だった。そのままイギリスのEU離脱のニュースを観る。

 Pファンクのキーボード奏者、バーニー・ウォーレルが昨日、24日に亡くなった
 唯一の生バーニー体験は、NOKKOのサポート・メンバーとしてだった。1992年にNOKKOが初のソロ・アルバム『ハレルヤ』をリリースし、それに合わせて晴海の東京国際見本市会場でライヴイベント「CLUB HALLELUJAH Live92」を開催した。ギターは鈴木賢司、パーカッションにタルヴィン・シン。この体育館のような広い会場を、10日間も観客で埋めたのだから当時のNOKKOの人気が伺える。今では考えられないような贅沢なイヴェントだった。
 個人的にバブルが崩壊したと実感したのが1992年の年末で、この時はまだ色んな意味でこの国に体力が残っていたのだろう。ウォーマッドもまだ横浜で開催されていた。この写真が掲載された当時のミュージック・マガジンを見ると、カラーページの多さにビックリする。 

NOKKO
↑↓「CLUB HALLELUJAH Live92」のNOKKO。→バーニー・ウォーレル。
バーニー
NOKKO
 You Tubeにこの時の映像がUPされている。オープニングのインスト曲のぶっといサウンド!当時、NOKKOの声にこの重低音のファンクサウンドは合わないという意見もあったようだが、そんな事はないだろう。今、映像で観ていても楽しめる。
 You Tubeから「CHASE THE CRIME」「No Return」「CRAZY CLOUDS」。

6月23日(木)

 今日はお昼に、NHKで中継された慰霊の日の式典を観ていた。
 71年前の6月23日に第32軍司令官・牛島満大将はじめ司令部が自決を行い、これにより沖縄戦においての組織的戦闘が終結したとされ、この日を沖縄では慰霊の日と定めている。
 2013年の式典に参加した。テレビのニュースで毎年流される平和祈念公園の平和の礎(いしじ)には、日本人だけではなく国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられた全ての人々の名前が刻まれている。
 また祈念公園の敷地にある摩文仁の丘には、各県の慰霊塔が建立されており、富山県は「立山の塔」が建っている。この時は、富山の遺族会の方が一人で座っていらしたので少しお話しをした。この立山の塔には沖縄戦戦没者876柱、南方諸地域戦没者13,996柱が合祀されている。
↓平和の礎。→立山の塔。
立山の塔
平和の礎
 平和祈念公園には2回行っており、最初は沖縄に移り住んで一ヶ月ほど経った2012年の7月11日。那覇から小さな折り畳みの自転車を漕いで行ったので、2時間程かかっただろうか。
  平和祈念公園に到着して直ぐに通り雨が降った。駆け抜けて行った雨は、海の上に虹のお土産を残して行った。摩文仁のある糸満市を含む南部は、沖縄戦の激戦地だった。平和祈念公園横のこの海岸も、崖から飛び降りて自決した人の死体で埋まったと聞く。
平和祈念公園の横の海岸
 戦争で犠牲になったのは沖縄だけではない、という声も聞くが、あの小さな島で200,666人(沖縄県援護課発表)が亡くなっている。内訳は米軍12,520人、日本軍94,136(沖縄県出身将兵28,228)人、沖縄住民94,000人。当時の沖縄の人口は50万人ほどといわれ、この沖縄戦で島民の4人に一人が亡くなったことになる。
 広島の原爆投下による犠牲者の数が、放射線による急性障害が一応おさまった1945年12月末で約14万人と推計されているので、本土上陸の捨て石にされた沖縄戦の犠牲の凄まじさがわかる。

 以前、一度掲載した事があるけれど、慰霊の日なのでもう一度。

草蝉や弔辞は一行あれば足る

六月二十三日、毎年沖縄慰霊の日には総理をはじめ多くの方々が祭壇の前で弔辞を読み上げる。多くの人を戦場へ送り、死ねばやって来て慰霊の辞を滔々と述べる。マッチポンプの感がしないでもない。決まりきった虚しい言葉の羅列より「辺野古に基地は造りません」とひとこと言えばそれがなによりの慰霊の言葉になるのだが。

 上の俳句と解説は、沖縄でお世話になった写真家の新垣辰雄さんから贈っていただいた末吉發さんの写真集『どこにも仏桑華』に載せられている俳句の一篇だ。右ページに俳句と解説、左ページには俳句のイメージに添う写真が載せられている。この俳句には、式典の行なわれている摩文仁の平和祈念公園の隅でベンチに寝転んでいる男性の写真が使われている。タイトルにある仏桑華(ブッソウゲ)はハイビスカスの事で、沖縄方言ではアカバナーとも言う。
 本に記載された略歴には1928年伊是名村生まれとあるので、今年88歳になられるのだろうか。沖縄戦には鉄血勤皇隊として参加。本部半島の守備隊、宇土部隊に配属になるが、米軍上陸の約2週間後の4月半ばに撤退して解散。その後は敗残兵としてヤンバルの山中を徘徊したという。
 前書きに<南部の悲惨な戦闘に思いを致すとき、ヤンバルの山の中で一発も撃たず沖縄戦を終えた者が戦を語るのは憚られるものがありますが、友人知人はじめ多くの人々の死を悼む意を込めて上梓することにしました>とあり、殆どは沖縄戦に因んだ俳句になっている。その中には、実際に戦争を体験した者でなければ作れないであろう俳句がたくさんあった。

「デテコイ」の声や灼光浴びしこと
洞あれば即ち墓所の夏怒涛
でで虫に同じ記憶の血と泥と

 俳句も写真も単体で素晴らしいが、それぞれが補完し合って、より壮絶だった沖縄戦の有り様を表情豊かに伝えている。とてもお勧めしたい写真集だが、自費出版で出版社の名前も定価も印刷されておらず入手方法がわからない。沖縄県立図書館には蔵書があり、借りて読む事が出来る。

どこにも仏桑華

 最近何かと話題の日本会議について、リテラが記事を書いている。

 興味深かったのは<明治維新という“軍事クーデター”によって樹立した明治政府は、それまで民間の信仰であった神社神道を、天照大神を内宮に祀る伊勢神宮を頂点とする「国家 神道」に組み替えた。この神話的ヒエラルキーのもと国民を「天皇の赤子」として支配しようとしたのだ。その結果が、「世界無比の神国日本」による侵略戦争 の肯定・積極的推進であった>という箇所だ。

 沖縄の信仰の場所である御嶽(うたき)も、明治政府によって神社化されたことがある。
 比嘉康夫さんの写真展『母たちの神』の図録で、海邦市民センター代表理事・後田多敦氏が、こう書いている。
日本は沖縄統治政策の一環で、教育による『日本化」を積極的に押し進めるのと同時に、琉球の祭祀の再編を画策し続ける。1882(明治15)年に沖縄に派遣された参事院議官補の尾崎三良は、聞得大君の祭祀空間でもある聞得大君御殿を官弊社に列し天皇の体系に組み入れようと考え、外にも琉球の祭祀にとって重要な『火の神』を天照大神と関連づけようとする提案などもあった。琉球の祭祀の対象を日本の神々と結びつけて行く仕掛けだ。また、昭和初期に琉球の祭祀を研究し、沖縄県にも勤めた鳥越憲三郎は、祭祀空間の一つ御嶽を神社に作り変えようと主導したりした。
 八重山では昭和期に女神官らが戦勝祈願に駆り出され、御嶽が戦勝祈願の場として使われたりした。このような祭祀の再編、天皇の体系との結合の試みは沖縄戦まで続く。日本は琉球国のために存在していた琉球の祭祀空間、祭祀対象、司祭者などを、改変して日本の祭祀と関連づけ、日本(天皇)のための祭祀へと転換させようとしたのである
」。

 『母たちの神』の図録は神迎え、神崇め、神女、神願い、神送りという括りで写真を纏めている。その神願いの最初の写真は、池間島のウハルズ御嶽の写真で、神司と思われる3人の女性が土の中に埋もれている香炉を掃除している。
 2013年、池間島の祭祀・ミャークヅツを見に行った時に、ウハルズ御嶽(ミャークヅツの時だけ一般人も参拝できる)で土俵のように砂を盛った中に埋められた沢山の香炉を見た。最初、埋もれているのは甕かと思ったが、ニガイ(御願)をされていた神司の方に聞いて香炉とわかった。が、誰の香炉なのか尋ねてもわからなかったのが、この写真のキャプションで判明した。キャプションには「香炉は第2次大戦時、出征兵士によって奉納された」と書かれている。
 後田多敦氏が「八重山では昭和初期に女神官らが戦勝祈願に駆り出され、御嶽が戦勝祈願の場として使われたりした」と指摘しているが、宮古諸島でも同じように御嶽が戦勝祈願の場として使われたようだ。

池間島のウハルズ御嶽
↑池間島のウハルズ御嶽。ミャークヅツの期間だけ一般の人も入る事ができる。入り口には大きな鳥居が建ち、この手前で靴を脱いで入って行く。宮古諸島、八重山諸島にはこうした鳥居のある御嶽も多いが、これらは明治政府が神社化しようと試みた時代に建てられたものだろう。

6月22日(水)

 今日、参議院選挙が公示された。

 昨日から、安倍首相が出席している創生「日本」東京研修会の映像が、大量にシェアされてFacebookに流れて来る。せっかくなので、私も拡散させていただきます。こちら
 第一次安倍内閣法務大臣の長勢甚遠氏は「国民主権、基本的人権、平和主義、この3つをなくさないと本当の自主憲法にはならないんですよ」と演説し、稲田 朋美政務調査会長は「国防軍を創設する憲法草案を提出しました」とはっきり発言している。新藤義孝元総務副会長は「尖閣使って行きましょうよっ、軍事利用 しましょうよ」と述べている。一体いつの時代に戻ろうとしているのだろう。
 自国民ですら『えっ!』と思う発言の数々なのだから、周辺諸国が警戒するのは当たり前だろう。ちなみに、あまり知られていないようだが、尖閣諸島の5つの島のうち、久場島と大正島は最近使われていないだけで1979年から米軍の射爆場になっている。
 編集されていない映像はこちら。14分30秒頃から〜

 先日、お手盛りの審議で富山市議会の議員報酬が来春より月額10万円アップする事が決定したが、高岡市議会と砺波市議会も追随するように報酬の引き上げを検討している。
 高岡市は9会派の内、最大会派の自民同志会が賛成、社民と共産が反対。残りは表明せず。砺波市は3会派の内、最大会派の自民と創生砺波が賛成、残り一つは表明せず。
 
 報酬の増額に賛成を表明している高岡市議会の最大会派・自民同志会の賛成理由が「専業では厳しい。誰もが議員になれる環境が必要」だそうだ。
 議員報酬の他に政務活動費も支払われていながら、専業では難しいという議員活動の中身を是非、北日本新聞に取材してもらいたい。誰もが議員になれる環境 というなら、逆に議員報酬を減らして議員の数を増やしたらどうか。その方がより市民の声を拾えて、誰もが議員になれる環境が整うのでは?

新しいトップ画面

トップ画面を模様替えしました。沖縄で2年間住んでいた部屋のベランダから撮影した那覇市街。2012年8月21日撮影。

↓これまでのトップ画面。

これまでのトップ画面
 自民党広報部が、自民党に質問ハッシュタグを作ったら、お祭り騒ぎになっている。面白い。まとめはこちら

6月21日(火)

 朝は激しい雨が降っていたが、徐々にお天気は回復して午後は薄曇りになった。雨は止んだが、空気が湿気を含んでいるのか蒸し蒸しする。
 郵便物を出しに行った後、髪が伸びたので切りに行く。千本格子の家並みが続く町の中心にある通りで、2軒家を解体していた。家を新築するのだろうか、駐車場になるのだろうか、それとも空地に?

 一昨日の日曜日は、高岡の金屋町へ御印祭の前夜祭を見に行った。天気予報では夜から雨となっていたので、自転車は諦めて電車で行く。
 高岡駅から歩いて「神輿お迎えの儀」が行なわれる有礒正八幡宮へ。18時開始となっていたが、少し早く始まった。

御印祭01
御印祭02

↑宮司さんの祝詞奏上やお祓いといった神事の後、御神体を入れたお神輿が「宵宮の儀」が行なわれる金屋町公民館まで渡御をする。
 金屋町の石畳の道から一度千保川沿いの道を通り、再び石畳の道に戻って公民館に到着した。

←公民館の近くにある金谷緑地公園では、18時30分から児童による「御印太鼓」が披露された。

御印祭03
↑左は、公民館での「宵宮の儀」。右は、「宵宮の儀」が終了し、公民館の玄関前で弥栄節(やがえふ)を奉納する子供達。
御印祭04
御印祭05
お月様
 金屋町公民館前での奉納踊りの後、石畳通りを流す「前夜祭踊り」を見に行く。さほど広くない通りの両側には人がいっぱい。踊りの先頭の方で見ていたが、少し空いた頃に奥へと移動すると観光客の姿も減ってゆっくりと観られた。
 踊りは21時半まで続くようだが、足腰が疲れて来たので駅へと向かう。高岡駅を21時14分発の電車で家に帰る。
↑金屋町で撮影したお月様。6月19日が旧暦の5月15日なので満月かと思ったが、翌日の6月20日が満月のストロベリームーンだとか。こんな面白い記事があった。

6月20日(月)

 私たちはライブハウスやバーや海岸で出会ったロックやパンクスやパーティ好きの20歳前後の「良き隣人」たちを、1950年代は朝鮮戦争、60年代はベトナム戦争、90年は湾岸戦争、2003年イラク戦争に、「みんな悪い人じゃないのに」戦地に送り出してしまった「加害者」として、1人でも多く、生きて国に返したい。
 
 先日Facebookに流れて来た、<「抗議」と「祈り」を対立軸にしているのは誰か>という記事の最後に書かれていた言葉だ。
 米軍属の男に女性が殺害された事件の後、「でも米兵の全ての人が悪いわけじゃないよね」という本土に住む人たちのコメントをSNSでたくさん見かけた。何を当たり前の事をと思う。そんな事は、本土に住むナイチャーより、日々彼らと接している沖縄の人の方が分かっているだろう。
 那覇の大綱挽には基地の兵士が綱引きに参加するし、日曜日の国際通りでは休日を楽しむ米兵が普通に歩いている。那覇の与儀公園ではプロミスキーパーズというキリスト教運動団体が、ホームレスや生活困窮者のための炊き出しのボランティアを行なっているし、那覇市泊の外人墓地で行なわれるメモリアルデー(米軍の慰霊の日)の催しには、逆に近所に住む日本人がボランティアで墓地の周りを清掃している。
 普段の生活の中で、沖縄の人とアメリカ人が必ずしも対立しているわけではない。それでも基地のフェンスの前に立って抗議の声を上げなければならない沖縄の心情を、なぜ想像しようとしないのか。
 2014年1月20日の名護市長選、2014年11月16日の沖縄県知事選、2014年12月14日の衆議院選で沖縄県民は辺野古新基地建設反対の議員を選んだが、政府はその選挙結果を無視するように埋め立て工事を進めようとしている。選挙で民意を示したにも拘らず、それを無視された人々が基地のフェンスの前に立ち抗議をすることが、なぜヘイトスピーチなのだろうか。
 アメリカ人という人種に声を荒げているのではない、軍隊あるいは米軍基地という組織でありシステムに対して抗議の声を上げている。

 私たちの隣人である「軍隊」という組織は、そこに所属する人達がどんなに素晴らしい人格で、どんなに素晴らしい活動をしていたとしても、「軍隊」は「ボランティア掃除団体」でも「災害救助隊」でも「パーティー集団」でもなく、「人を人と思う心を殺し、人を殺す為の訓練を職業としているプロ組織」であるという事は、紛れもない事実である事は再確認認識しておくべきだと思う。こんなに優しい人がどうして戦地に行ったら子どもたちまでも撃てるようになるのか? それを知るには「ONE SHOT ONE KILL」「アメリカばんざい」という映画を見てほしい。普通の青年が軍隊に入り、ブートキャンプ中に最初に殺すのは「自分の心」。

沖縄のアメリカ
上段左:国道58号を通行止めにして行なわれる那覇大綱挽で、縁起物とされる枝綱を持ってはしゃぐ米兵。見物するだけではなく、実際に綱引きに参加して一緒に楽しむ米兵もいる。2012年10月7日。
上段右:休日やイベントのある日の国際通りでは、普段着で休みを楽しむ米兵たちをたくさん見かける。この日はエイサーのイベント「那覇2012一万人のエイサー踊り隊」が開催されていた。2012年8月12日。
中段左:美ら海水族館もほど近い本部港から、米軍の補助飛行場がある伊江島へ向かう村営フェリーに乗り込んだ米兵。2013年11月9日。
中段右:嘉手納基地の中をジョギングする米兵。フェンスの中だけでなく、フェンスの外を走る姿もよく見かける。2014年2月28日。
下段左:米兵や、その家族で賑わう宜野湾市のトロピカルビーチ。2012年6月24日。
下段右:メモリアルデー(戦没将兵追悼記念日)の泊外人墓地。慰霊には日本人の家族も多く訪れる。戦後、沖縄の女性と恋をし家族を作り、この地に骨を埋めた米兵も多くいる。セメントで形作ったシンプルな十字架のお墓は幼児のものが多く、それらはベトナム戦争前後に埋葬されている。1970年5月9日に生まれ、翌日の10日に亡くなった赤ちゃんのお墓もある。
 

 米軍属に殺害された女性の四十九日である昨日、彼女を追悼する県民大会が那覇市奥武山公園で開催された。ネットでも中継されたので、部屋のパソコン画面でその様子を見ていた。
 この大会の最初の方で、殺害された女性の父親によるメッセージが読み上げられた。

「ご来場の皆さまへ。米軍人・軍属による事件事故が多い中、私の娘も被害者の一人となりました。なぜ娘なのか。なぜ殺されなければならなかったのか。今まで被害に遭った遺族の思いも同じだと思います。被害者の無念は、計り知れない悲しみ、苦しみ、怒りとなっていくのです。それでも遺族は、安らかに成仏してくれることだけを願っているのです。次の被害者を出さないためにも全基地撤去。辺野古新基地建設に反対。県民が一つになれば可能だと思っています。県民、名護市民として強く願っています。ご来場の皆さまには、心より感謝申し上げます」

 遺族がこうしたメッセージを発しているにも拘らず、大会は政治利用だとか遺族の心を無視したものだとの誹謗中傷がネットの中にコメントとしてたくさん残されている。この人たちは何を見てコメントしているのだろうか。

 県民大会で「海兵隊の撤退」が要求されたが、この要求に対しても中国が攻めて来るという毎度おなじみのコメントが多数寄せられている。内モンゴルやチベットなどの例を挙げる人もいるが、これに関しては小林節さんの 「中国が過去に侵略に成功した相手は、内モンゴル、ウイグル、チベットといった事実上の非武装地域だけで、台湾、ベトナム(つまり日本も)といった「専守防衛」に徹している国には手が出せていない。しかも、日中米3国は経済的に既に深く依存し合っており、戦争をしたら一緒に国力が急落してしまう関係にある」という発言が冷静な見方だろう。
 実際、中国船の領海侵犯にスクランブルをかけているのは、那覇空港から発進される自衛隊のステルス戦闘機だ。
 また、県民大会で要求されたのは海兵隊の撤退であり、空軍ではない。海兵隊の所属する普天間について森本敏元防衛相が「(普天間移設先について)軍事的には沖縄でなくてもよいが、政治的に考えると沖縄が最適の地域だ」と述べている。本土では反対運動が起きるから沖縄に押し付けておけという事だろう。そして「九州の南部か西部」であれば軍事的には機能するとも話している。
 熊本大地震の際に、産経新聞の取材に答えてエルドリッヂ元在沖縄米海兵隊政務外交部次長が「東日本大震災の救援活動にオスプレイなら3時間程度で展開できた」と話している。それが本当なら、普天間の移設先は九州どころか本州でも可能だろう。
 未だに沖縄の経済は基地に頼っているとか、オスプレイは災害救助に使えると絶賛している本土の人もいるが、それほど基地がお金を生むと信じているなら自分の住むところに誘致したらどうか。
 何も不安がる事はない。 米兵の全ての人が悪いわけではないし、オスプレイだってそんなには落ちては来ないだろう。

6月18日(土)

 御印祭を見に行こうと思い、自転車で高岡へ。金屋町に着いて、18時から「神輿お迎えの儀」というのが行なわれる有礒正八幡宮の場所を確認。神事が始まるまで2時間程あるので、久しぶりに高岡市内を自転車で走る。

白龍の看板とアドニスビル
 上の写真の左は、高岡駅近くの線路際に建つ中華料理店の看板。電車で富山方面に向かう度、電車の窓から見えるので気になっていた。看板の落ち具合が、ドリフのコントのようだ。右は、再開発が進む駅前に残っているアドニスビル。高校を卒業して暫くして、金沢のロックバンド、T-BIRDのローディーをしていたが、お金にはならないのでツアーのない時はアドニスビルに入っていた高岡広場という洋風居酒屋で夕方から夜中までバイトをしていた。バイトの終わる時間には電車がなかったので、自転車で通っていた。雨の日はどうしていたんだろう。

有礒正八幡宮01

有礒正八幡宮02
↑→有礒正八幡宮にて。↓拝殿にあったお神輿の飾り。
お神輿の飾り
 自転車でブラブラしたり、久しぶりに大丸デパートに入ったりした後、有礒正八幡宮へ。暫く境内の写真を撮って過ごすが、神事の開始予定の18時になっても誰も来ない。変だな〜と思っていたら、ようやく年配の男性が一人いらしたので聞いてみたら、御印祭は明日からだと言われる。家から持って来た、御印祭の詳細を記した新聞広告を見る。
 6月19日(日)、20(月)と書いてある。19日が前夜祭で、20日が本祭。2日に渡るお祭りは土日だろうと思い込み、今日が19日だと勘違いしていた。
 有礒正八幡宮を後にして、自転車を漕いで家へと帰る。帰宅して、テレビで「ブラタモリ」「トットてれび」を観る。満島ひかりが素晴らしすぎる。今日で最終回は寂しい。

6月16日(木)

 沖縄が今日、梅雨明けした。早っ!

 昨日、舛添都知事が辞任した事で20日に予定されていた集中審議は中止となり、共産党が提出した百条委員会は自民公明の反対で否決されてしまった。これで疑惑は何一つ解明される事なく終わり、今回の騒動をキッカケにザル法と言われる政治資金規正法が議論される事もなくなった。
 少し前に話題となった民進党・山尾議員の「高額過ぎるガソリン問題」を自民党が追及したら、安倍首相のガソリン代は「地球13周分」という巨大なブーメランとなって帰って来た件も、その後ウヤムヤになって消えてしまった。
 今日の琉球新報の社説<舛添都知事辞職 真相究明、ザル法改正を>が、コンパクトに纏められて的を射ている。
 日刊ゲンダイの記事によれば、「ゴキブリはしぶとい」と口汚く舛添氏をこき下ろす自民党の都議も居たようだが、舛添氏を都知事に推したのは誰なのか。この記事が本当なら、こき下ろした議員は、少しは恥を知った方がいい。

 「民意無視」飛ぶ怒号 富山市議報酬増可決、傍聴席に失望広がる。昨日、富山市議会議員の報酬が来春より月額10万円増額される事が、市議本人たちの賛成多数で可決された。お手盛りにも程がある。
 公のお金を、自分達で自分達にバラ撒いているようにしか見えない。
 北日本新聞が、この富山市議会の議員報酬月額10万円アップに関する様々な記事をネットで無料開放している。
富山市議報酬増可決 来春、月10万円増70万円
取材妨害を全面否定 中川氏「用紙は回収した」
紛れもない妨害行為 本紙報道本部長・本田光信

 昨日、一時間ほど錦鯉を撮影して来た。一昨日の雨の影響か、池が汚れていて、水面に浮かんだゴミがけっこう写り込んでいる。 

 FORM(フォルム)
フォルム01
フォルム02

6月14日(火)

 昨日、北陸地方も梅雨入り。今日はどんよりとした曇り空で、小雨もパラついた。
隣りの田んぼ

 今日、『眼の狩人/大竹昭子』(新潮社)を読了した。これで、先月まとめて購入したうち、『Sebastiao Salgado』(PHOTO POCHE)、『横木安良夫流スナップショット』(えい文庫)、『楽園の原点おきなわ/三好和義』(新潮社)の4冊を読み終えた。

←昨年は稲を植えていた隣りの田んぼだが、今年は枝豆を作るようだ。

 今日、Facebookに「 祭祀つかさどって83年 琉球王府から続く「ノロ」は96歳」という沖縄タイムスの興味深い記事が流れて来た。記事には、大宜味村田港のノロ(ヌル)である、山城トヨさんの短いインタビューが掲載されている。
 山城トヨさんは、2012年9月11日に行なわれた大宜味村・塩屋のウンガミ(海神祭)で撮影させていただいた。沖縄で一番最初に撮影させていただいた神人(カミンチュ)の方でもある。
 沖縄に滞在した2年で様々な祭祀を見て回り、神人の方も随分と撮影させていただいたが、ノロの肩書を持つ方にお会いしたのは山城トヨさんだけだった。渡名喜島のシマノーシ、粟国島のヤガンウユミも撮影に行ったが、ともにノロ殿内は残っているがノロは不在。久高島も根神(ニーガン)やノロを補佐するウメーギといった神人はいらっしゃるが、久高ノロも外間ノロも既に不在となっている。
 記事の中に「根神が4人になってしまった」と書かれているが、今や神人が一人も居らず区長さんが祭祀を執り行っている集落も少なくない。記事を読むと、「年が近い2人とともにノロ殿内に集められた。一人一人ウコール(香炉)に線香を立てさせられた。すると私の線香が折れたので私がノロになった」と書いてあるので、必ずしもノロの家系から出たわけではないようだが、山城トヨさんの存在はとても貴重だ。
 以前、図書館から借りて読んだ『塩屋・ウンガミ/塩屋ウンガミ刊行委員編』でも山城トヨさんはインタヴューに答えて、ノロになった経緯を語っている。そして「戦前は国から年棒も支給されていました。今のようになかなか名護にも行けない時代だったので2、3年分まとめて銀行で受け取っていました」というノロが公的な神職だったという興味深い話もしている。

↓→2012年のウンガミにて、屋古アサギで神事を司る山城トヨさん。
塩屋のウンガミ02
塩屋のウンガミ01

 ソウル・アサイラムの21年ぶりの来日公演が決定した。11月8日に東京・渋谷TSUTAYA O-EAST、大阪と愛知公演は近日発表となっている。
 ソウル・アサイラムは1994年4月にライヴとインタヴューの撮影をしている。カート・コバーンが自殺した直後だった。これが初来日で、翌年にも来日してライヴを行なっているようだ。92年に発売された彼らのアルバム『Grave Dancers Union 』は、この頃よく聴いていた。21年ぶりか〜という感慨よりも、もう21年も経ってしまったのかという驚きの方が強い。これから21年が過ぎれば、77歳か。一日一日は長いようで、時の経つのはあっという間かもしれない。
 ソウル・アサイラムの「Somebody To Shove」と、1993年に来日したボブ・モールド率いるシュガーの「If I Can't Change Your Mind」はキャッチーなフレーズ、ポップなメロディーで好きな曲だ。個人的に、この時代の一場面を思い出す曲でもある。

ソウル・アサイラム
 熊本地震が発生してから、今日で2ヶ月が経った。余震も少し治まったかと思っていたら、一昨日また震度5弱の地震が起きた。車中泊の人も、まだ大勢いらっしゃるようだ。
 熊本に親しい人はいないが、ちょうど10年程前に南阿蘇へ大野勝彦さんを雑誌の取材で撮影に行った。大野さんは農作業中の事故で両手を失ったが、その後義手を付けて画家になった方だ。
 今回、被害の大きかった南阿蘇に、大野さんのアトリエであり作品が飾られている「風の丘 阿蘇 大野勝彦美術館」が建っている。熊本地震の発生直後にどうなったか心配でホームページにアクセスしたが、その時には地震の事は何も触れられていなかった。そして最近になって、またアクセスしてみたところホームページがリニューアルされていて近況が報告されていた。
 美術館の内部の様子はわからないが、建物の前の土が抉り取られたように崩れている。10年前に伺った時に、帰る前にこの場所に立って、キレイな夕焼けを撮った。その時に写した大きな木は、大丈夫だったようだ。
 だんだん震災の事は報道されなくなっていくだろう。たぶん自分から情報にアクセスしなければ、被災地の状況はわからなくなる。なので、たまに南阿蘇にある大野さんの美術館の復興をブログで見ていようと思う。
↓→10年前の大野勝彦美術館からの夕焼け。
大野勝彦美術館からの夕焼け02
大野勝彦美術館からの夕焼け01

6月12日(日)

 午後も遅くになってから、運動を兼ねて小矢部川の堤防を自転車で走って来た。下の写真は、堤防から山里の方を撮影。なんとなく日本の古里でイメージするのは、こんな風景だったりする。
小矢部川から山里の風景
 石動の方の河川敷で花菖蒲祭りが開催されているのは知っていたが、あまり興味がなかったので見に行くつもりはなかったが、小矢部川の堤防を走っているうちに会場に着いた。催し物は既に終っていたが、せっかくなので少し花菖蒲を見て歩く。花菖蒲、初めて見たかも。なんだか、ティッシュペーパーをクシュッと丸めたような花びらだ。
花菖蒲
 花菖蒲を見た後、家に引き返す途中に小矢部川の水量を調節しているのか浄化施設なのか分からないが堰があって、そこで暫く流れ落ちる水を撮ってから帰った。
小矢部川の水流
 
6月10日(金)
 一昨日は、昨年に続いて砺波の夜高祭へ。家から戸出駅まで自転車で行き、17時40分発の城端線で砺波へ。駅を出ると、「ヨイヤサー、ヨイヤサー」のかけ声が聞こえて来た。
紫陽花
ショーウインド
 町中を少し散歩していたら、紫陽花が目に留まった。
  神奈川の宿河原に住んでいた時は、近所に紫陽花の綺麗に咲く場所がいくつかあって、毎年今頃の季節は撮影に行っていた。
  奄美にも沖縄にも紫陽花が咲いていないわけではないけれど、亜熱帯の見た事もない草花に目がいって、紫陽花を撮る事はほとんどなかった。久しぶりに紫陽花を見て、シャッターを押した。

 散歩をしていると、紫陽花の綺麗に咲いていた家の近くに、変わったショーウインドーの中華料理店があった。大きなショーウインドーの中央に、日替わり定食(コーヒー付き)500円の紙が貼ってあるだけで、その周りはスポーツ大会での賞状や夜高祭の新聞記事ばかり。肝心の日替わり定食の写真も陽に当たり色褪せている。このお店で何を食べればいいんだろう、通りすがりの人間は頭を抱えそうだが、きっと地元の人には愛されているお店なのだろう。それにしても、コーヒー付きで500円の日替わり定食は安くないだろうか。

となみ夜高祭01
となみ夜行祭02
 19時から行灯の曵き回しが始まり、通りを歩いているとアチコチから「ヨイヤサー、ヨイヤサー」のかけ声が響いて来る。
  大行灯、子供達が曵く小行灯がコンクールの行なわれる町の中心部に向かって行列している。津沢や砺波の夜高は、五穀豊穣や害虫駆除を願う田祭が発祥だと言われているが、家の玄関横に飾られた行灯や、子供達が手に持っている田楽行灯の側面に「五穀豊穣」「祝田祭」の文字が見えて、それを裏付けている。
 行灯の出来を競うコンクールは、本町の交差点で19時45分から始まった。小行灯では子供達が歌ったり、審査員に製作の苦労や楽しかった事などを言葉でアピール。あんまり長く居るつもりはなかったのに、面白くて小行灯に続き大行灯の審査も最後まで見た。
となみ夜行祭03
↓審査終了後、大行灯が通りにズラリと並ぶ。
となみ夜行祭04
 コンクールが終わり、夜店が並ぶ通りを歩いて駅に向かう。駅の2階にある観光案内所が、まだ開いていた。今日と明日は夜の10時まで営業しているそうだ。22時8分の 高岡行きに乗車し、二つ先の戸出駅へ。戸出駅から自転車を漕いで家に帰る。
 帰宅してNHKのドキュメント72時間「真冬の東京 その名は“はな子”」を観る。

6月8日(水)

 今日は旧暦の5月4日、ユッカヌヒーだ。糸満や南城市の奥武島では、ハーリー(ハーレー)が開催される。糸満ハーレーの鉦が鳴ると梅雨が明けると言われているので、沖縄はそろそろ梅雨が明けて本格的な夏だろうか。
 昨年ネットで購入した大学ノート風のスケジュール帳が5月いっぱいで書き込みできなくなったので、先日100円ショップへ手頃な手帳はないかと探しに行った。もう6月なので2016年の手帳は置いてなかったので、システム手帳を購入した。これまでは年ごとにスケジュール帳を買い替えていたので、初めてだ。
↓→これで消費税を入れて324円。
システム手帳02
システム手帳01
デイヴ・スウォーブリック01
 英国のフィドル(ヴァイオリン)奏者で、フェアポート・コンヴェンションでも活躍したデイヴ・スウォーブリックが、今月の3日に亡くなった
 英国のトラッドやフォークは門外漢なのだが、1995年から96年に英国フォークの重鎮が相次いで来日し、新宿ロフトでライヴを行った。
 95年5月にマーティン・カーシ&デイヴ・スウォーブリック、6月にフェアポート・コンヴェンション。96年になってからは、7月にジョン・レンボーン&ジャッキー・マクシーとウイズ・ジョーンズ、10月にバート・ヤンシュ、スティーヴ・ティルストン&マギー・ボイル。この流れとは別に、97年5月にはドノバンが来日して渋谷クワトロでライヴをしている。
  これらのライヴを撮影する機会があって、その時に勉強も兼ねてCDを色々と買って、以来好きになったミュージシャンもたくさんいる。
 マーティン・カーシ&デイヴ・スウォーブリックは、アルバム『SKIN and BONE 』をiPodに入れて愛聴している。
 96年の7月にジョン・レンボーン&ジャッキー・マクシーが、同じ年の10月にバート・ヤンシュが来日して同じ新宿ロフトでライヴを行なった時、ファンからは、どうせなら一緒に来日してペンタングルとしてのステージを見せて欲しかったという声もあった。そのバート・ヤンシュも2011年の10月に67歳で亡くなっている。
↓→ライヴ、ポートレート共に、1995年5月7日に撮影@新宿ロフト。
マーティン・カーシ&デイヴ・スウォーブリック03
マーティン・カーシ&デイヴ・スウォーブリック02
 You Tubeから、フェアポート・コンヴェンション時代のデイヴ・スウォーブリックが観られるライヴ映像。マーティン・カーシ&デイヴ・スウォーブリックでの映像

6月7日(火)

 昨日、武蔵野美術大学から「中村とうようコレクション目録」を含む『とうようズ・レガシー』というボックスセットが届いた。

 オフィス・サンビーニャの田中勝則さんから、中村とうようさんが武蔵野美術大学に寄贈した膨大なコレクションの目録を製作中で、就いてはその目録にとうようさんが写っている写真を使いたいので提供して欲しいと連絡があったのが、昨年の11月だった。
 2004年に、とうようさんの八王子のご自宅で『中村とうようの収集百珍』というコレクション本の撮影をしたのだが、その時に撮影した写真に、レコードコレクションを前にとうようさんが立っているような写真はないだろうかという問い合わせだった。SPやLPを収納した棚は撮影したが、とうようさんご自身は最後に著者近影用のポートレートを撮っただけで、その写真データも編集部に渡してあった。
  八王子のご自宅で撮ったカットには田中さんの望む写真はないが、とうようさんが八王子に越して来る前の小石川のマンションに住んでいた時代なら、大鷹俊一さんの連載「レコード・コレクター紳士録」が書籍に纏まる時に、とうようさんのコレクションを取材しており、その時にレコード棚の前で撮影していた。
  また、レコードと同じく世界の楽器をコレクションされていたが、こちらは1989年発売の季刊『ノイズ』の3号で、楽器を手にしながらスタジオで解説している写真を撮った事がある。これは「楽器は世界をめぐる」と題した特集記事で、とうようさんがフジテレビの番組で世界の楽器について講義をした時の内容を誌上で再現したものだ。テレビ収録のリハーサルの時に、雑誌用にモノクロで撮影した。
 小石川時代に撮影した紳士録の写真と、ノイズで撮影した写真を探し出して田中さんに送ったのだが、その後、武蔵野美術大学の担当者から、改めて写真の使用についての連絡をいただいた。目録は1200ページほどの電話帳のような本で、その時は今年の2月末くらいに完成するという話しだった。

 予定だった2月末はとうに過ぎてしまって、どうなったんだろうと思っていた頃、この目録に、昨年の武蔵野美術大学で開催された展覧会の図録「ポピュラー音楽の世紀」と、昨年のとうようズ・デイに催されたコンサートを収録したDVDがセットになって販売されることを知った。目録は関係者に配られる資料のようなものだと思っていたので、一般にも販売されると知って嬉しくなった。
 そんな待ちに待った『とうようズ・レガシー』。提供した写真は10枚ほど掲載されている。小石川時代のレコード棚の前で立っているとうようさんの写真は、レコード・コレクター紳士録には掲載されなかったので本邦初公開だ。
 電話帳のような本だと聞いていたのでデータばかりかと思っていたが、「とうようさんのお宅を訪問」やノイズの「楽器は世界をめぐる」が再録されていたりと読み物も随所にちりばめられている。「とうようさんのお宅を訪問」に出てくる、部屋の中央にマントルピースが置かれ、その横でオルガンを弾くとうようさんが座り、手前の椅子にはアンティークの人形が置いてある六本木時代の写真などは驚きもので目が点になるが、湯川れい子さんが言うところの「とうようさんの貴族趣味」がよく表われていて面白い。この貴族趣味のマントルピースは、『収集百珍』でもコレクションの一つとして撮影した。撮影の時には、とうようさんの手によって薪をくべる場所に花瓶に生けた豪華な花も飾られた。
 メインのコレクションのリストは、SPやLPレコードを中心に47,184点が掲載されている。アーティスト名、レコードタイトル、レコード番号と文字と数字ばかりのページが続くがパラパラと捲って目に留まったところを眺めていると案外面白い。昔、スペインとポルトガルを旅していた時に、安宿のベッドの上で駅名と時間ばかりのトーマスクックの時刻表を眺めて楽しんだ感覚に少し近いかも知れない。また、レコードだけではなく蔵書も詳しく掲載されていて、個人的にはこちらの方が興味深かった。

↓→ようやく届いた『とうようズ・レガシー』。
とうようズ・レガシー02
とうようズ・レガシー01
↑47,184点のコレクション・データを掲載した「中村とうようコレクション目録」を含む、ボックスセット。
とうようズ・レガシー03
↑左は、『中村とうようの収集百珍』の著者近影用に撮影した写真。とうようさんにお会いしたのは、この撮影が最後だった。そう言えば、この『収集百珍』用に八王子の家でコレクションの撮影をしている時に、中越地震が起きて揺れたのだった。右は、再録された「楽器は世界をめぐる」。もう季刊『ノイズ』を手に入れる事は難しいし、ノイズより判型が大きいので読み易い。
とうようズ・レガシー04

↑渋谷タワーレコードの横にあったスタジオで撮影した。テレビの収録はここだけだったが、雑誌の方は後日、神保町の編集部と音楽大学でも撮影した。この撮影をしたのが1989年、とうようさんは1932年生まれなので57歳。来年、自分がその年を迎えるのかと思うとなんだか感慨深い。

 『とうようズ・レガシー』はオフィス・サンビーニャでも、アマゾンでも購入できます。
 また、今年も7月18日(海の日)に武蔵野美術大学で「とうようズ・デイ」が開催される。出演は、山内雄喜&パイナップル・シュガー・ハワイアン・バンド with サンディー。詳細はこちら

6月5日(日)

 昨日、九州・中国・四国、そして近畿・東海が梅雨入りしたのに続き、関東・甲信も今日梅雨入りした。

 一昨日、昨日と2日続けてお祭りを見に行った。一昨日は津沢夜高あんどん祭、昨日は氷見市床鍋地区の虫送り。津沢の夜高あんどんは昨年に続いて2回目、床鍋の虫送りは地元の新聞記事に載っていたのを以前に見て撮影したかった行事だ。

6月3日(金)
 あいの風とやま鉄道で石動駅へ。駅前から出ている無料のシャトルバスで、津沢へ。シャトルバスの停留所となっている津沢郵便局からお祭りのメイン広場まで5分程歩くと、近くで賑やかな音がする。音のする方に歩いて行くと、昨年も見た浦町の出陣式だった。大行灯の前で円陣を組み、拍子木を鳴らし唄を歌い、お酒をまわして一升瓶からラッパ飲みする。こうした出陣式を経て、法被を着た行灯の引き手たちの気分が高揚していくのだろう。

津沢夜高あんどん祭01
↑浦町の出陣式。↓浦町の子供行灯。→浦町の大行灯が出陣。
津沢夜高あんどん祭03
津沢夜高あんどん祭02
 昨年は出陣式の後も暫く浦町の大行灯について歩いたが、今年は直ぐに小矢部川を渡って箕輪の方へ行ってみた。
↓小矢部川の橋まで来ると、綺麗な夕焼け。昨年もこんな天気だった気がする。
津沢夜高あんどん祭05
津沢夜高あんどん祭04
津沢夜高あんどん祭06
 小矢部川の堤防沿いの道を、中くらいの大きさの行灯がゆっくりと進んで来た。周囲を見回すと、アッチにもコッチにも行灯の行列が現われる。行灯の出来を競う審査が行なわれる広場に向かうために、町の中心に向かって移動しているようだ。
津沢夜高あんどん祭07
 昨年は、行灯のぶつかり合いの途中まで見て22時半のバスで石動に戻ったが、今年は20時半のシャトルバスで早々に帰宅した。
 
6月4日(土)
 氷見の床鍋地区というところで虫送りという行事があるのを知ったのは昨年だったか一昨年の事だったか。北日本新聞の記事で読んだんだと思う。以来、一度見てみたいと思っていたが、地図を見ると氷見駅からも遠く、山の中にある集落のようで交通手段が限られている。そこで両親に祭りに行かないか誘ってみたら、行っても良いという返事だったので父親の運転する車で出かけた。
 ネットで調べた情報によれば神事の開始が18時半で、その後19時から巨大な松明を子供達が引いて集落の中を移動する行事が始まる。グーグルの地図をプリントして渡したが、地図では分かり難く父親は一度氷見にある馴染みのボーリング場で場所を聞いて来たところ、家から床鍋まで一時間ほどかかるそうで、17時に家を出発することになった。
 迷う事無く床鍋の集落まで来て、集落の中にある床鍋鉱泉という温泉で、虫送りが行なわれる詳しい場所を教えてもらった。温泉から少し道を上がったところに広場があり、ここに松明が運ばれて燃やされる。広場から出て来た人に尋ねると、神事があるのはもっと道を上がった先だと言う事でカメラを持って歩いて行く。両親は松明が運ばれて来る広場に車を停めて、ここで待っているという。
 舗装された山道をしばらく上がって行くと少し開けた場所に出て、そこに直径1m、長さ8mの巨大な松明が置かれていた。虫送りの由来と、行事の進行を書いたプリントをいただいたので、そこから引用する。
 虫送りは、田に発生する「ウンカ」「イナゴ」「ドロムシ」などを、怨霊のしわざと考え、大勢の人が集まり、松明を燃やし、鉦や太鼓などを鳴らして、畦道を歩くというもの。
 害虫が発生しやすい六月ともなれば、今日でも、田のところどころに立つお祓いをした御幣を見ることができます。
 床鍋地区では、百三十年前から行なわれている民俗行事であり、子ども達が、松明を引き「ドロムシホーイ」「ドロムシホイ」と囃子ながら田を回るという行事(神事)は今日まで受け継がれてきた。
 この日だけは、子ども達に、火の扱いが許された日であり、また、火の恐ろしさや大切さを教えた日でもあります。
 このような「虫送り」行事も、昭和二十七〜二十八年頃より農薬の出現や子どもの減少等により多くの地区において、廃れてしまっているが、床鍋地区では平成二年に復活し、現在に至っています。
床鍋の虫送り01
↑藁や杉の枝を竹で包んで、藤の蔓で縛った巨大な松明(左)。神事の時に小学生代表で玉串の奉納をする女の子2人が、先生に教わりながら練習をしていた。
床鍋の虫送り02
◯開会の挨拶
◯来賓の挨拶
◯神事
 太鼓・笛
 祓いの儀(祓いの詞・修祓)
 降神の儀
 一拝
 玉串奉奠(各団体長)
 昇神の儀
 太鼓・笛
床鍋の虫送り03
 薄暗くなった19時頃に、松明の引き回しが始まった。子供達が紐で引っぱり、大人が横と後ろについて方向を調整する。「ドロムシホーイ、ドロムシホイ」と元気に声を掛けながら500mほど進む。
床鍋の虫送り04
↑集落の外れまで来たところで、松明の後ろに火がつけられた。燃えている松明を、旧床鍋小学校のグランドだった広場まで引っぱって行く。松明の後ろには消防車とパドカーがついている。
 子供達に引っぱられた松明は、広場の中をぐるっと周り、中央に運ばれてから塔のように立てられた。
↓→広場の中央に立てられた、巨大な松明。
床鍋の虫送り06
床鍋の虫送り05
床鍋の虫送り07
床鍋の虫送り08

 この後、広場では直会が行なわれるそうだ。松明が燃えて崩れるところまで見て、車で帰宅した。
 母親が虫送りを見て、昔、行灯を持って部落を歩いた田まつりみたいなものだろうという。その田まつりが発展したのが、前日に見た津沢の夜高あんどん祭のような砺波地区に伝わる夜高行事か。松明が小さな行灯になり、それが芸能化して巨大な行灯となり、美しさを競い、ぶつかり合いなどの娯楽にもなったのだろうか。
  虫送りを見て、父親もそれなりに面白かったようだ。
◯富山新聞の記事

 ところで、虫送りは田畑を荒らす害虫を追い払って豊作を願う行事だと思うが、沖縄にもアブシバレーという同じような行事がある。アブシは畦、バレーは祓うで害虫や雑草から田畑を守り豊作を祈願する。その祈願の方法は、木や草で作った小さな舟にタニシや虫を乗せて海に流しニライカナイへと送る。You Tubeから金武町伊芸区のアブシバレーの映像

 もう一つ興味深かったのは、子供達のかけ声にある「ホーイ」という言葉だ。宮古島の野原集落で旧暦の12月最後の丑の日に開催されるサティパロウという祭祀で使われるかけ声が「ホーイホーイ」だ。
 サティは里、パロウは祓うの意味で、パーントゥ(鬼面)を被った少年を先頭に、草の装束を身に着けた夫人たちが集落の中を「ホーイホーイ」と言いながら歩いて 厄を祓う。害虫駆除と集落の厄払い、目的は違うが似てもいる。とこで「ホーイ」という言葉の意味はなんだろうか。
サティパロウ
↑パーントゥを被った少年を先頭に、草の装束を身に纏った夫人たちがホーイホーイと声を上げて集落を祓って歩く、宮古島の野原地区に伝わる祭祀・サティパロウ。

6月2日(木)

 久しぶりに錦鯉が撮りたくて、自転車で20分程のところにある公園の池へ。小一時間、池で泳ぐ錦鯉を眺めて写真を撮って来た。

 先日、雑誌の仕事で魚の皮を使ってサンダルを作る女性たちを撮影した。取材の後、食事をしながらの雑談で、錦鯉の皮で作ればカラフルなサンダルができる んじゃないかと聞いてみたら、魚の皮をなめす時にウロコを取らなくてはならず、ウロコを取ると魚の色素が落ちてしまうそうだ。なかなか難しい。
 皮をなめさないでイヤリングやブローチといったアクセサリーを作れば、カラフルなものができるんだろうか?

錦鯉01
錦鯉02
 焼酎を買おうと思って、西高岡の方にある酒のディスカウントSHOPへ行くと、店内の棚卸し作業をしている。店舗での営業をやめて、これからはネット販売になるんだとか。安くて品揃えが豊富でありがたいお店だったのに。
小矢部川
 サイクリングがてら、小矢部川の堤防を通って帰って来た。

5月へ