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◯製作中の琉球弧(奄美群島〜沖縄諸島)の歴史年表

10月1日(木) 新湊曳山まつり
10月2日(金)〜4日(日) 高岡万葉まつり
10月10日(土) 10月の第2土曜日、戸出・戸出野神社の秋季例大祭 幌武者行列
10月11日(日) 大門曳山まつり
10月12日(月・祝) 魚津・千光寺 秋祭
10月17日(土) 小矢部 白馬山 慈光院  火渡り法要
10月26日(月)、27日(火) 黒部市・生地たいまつ祭り
11月3日(火) 岩峅寺(いわくらじ) 雄山神社の稚児舞
1月の第4日曜日 魚津・千光寺の火祭り 小川寺の獅子舞
3月12日 魚津・千光寺の春祭 小川寺の獅子舞
4月18日? 黒部・明日(あけび)の稚児舞
4月20日前後の土日 浦田山王社獅子舞
5月3日、4日 鹿嶋神社稚児舞
*とやま文化財百選シリーズ(3)とやまの祭り
*全国祭り情報 富山県 祭り イベント一覧
とやまの獅子舞百選
富山県内のお祭り、イベント
*とやまの文化財百選シリーズ(2) とやまの獅子舞

○福島第一原発事故に関するリンク集 http://www.scn-net.ne.jp/~onodak/news/index.html
○DAYSから視る日々 http://daysjapanblog.seesaa.net/
○HIROPRESS.net 広河隆一通信 http://www.hiropress.net/index.html
○独立系メディア今日のコラム 青山貞一・池田こみち http://eritokyo.jp/independent/aoyama-column1.htm
○小出裕章(京大助教)非公式の説きまとめ http://hiroakikoide.wordpress.com/
○やんばる東村 高江の現状 http://takae.ti-da.net/
○辺野古浜通信 http://henoko.ti-da.net/
○チョイさんの沖縄日記 http://blog.goo.ne.jp/chuy
○沖縄はもうだまされない http://www.ryukyu.ne.jp/~maxi/

10月30日(金)

 曇りや雨で、肌寒い日が続いている。半年以上前に撮影した、近所の桜並木の写真をPhoto Albumにしました。こちら。奄美・沖縄は濃いピンクの緋寒桜だったので、白く咲き誇る内地の桜は久しぶりで新鮮だった。
桜

 翁長雄志知事が今月の13日、前知事による辺野古の埋め立て承認を正式に取り消す。これにより、沖縄防衛局による辺野古の海での作業が停止された。
 沖縄防衛局は14日、取り消し無効を求め審査請求と一時執行停止を国交省に申し立てる。
 石井慶一国交相は27日、一時執行停止を決定
 そして昨日の朝、沖縄防衛局が辺野古新基地建設のための、埋め立て本体工事に着手。キャンプ・シュワブ内での資材製作や保管場所として使う陸上ヤードの整備を始めた。
 辺野古での本体工事が再開された昨日、中谷元防衛大臣はアメリカ軍のオスプレイの佐賀空港への訓練移転を取り下げる考えを佐賀県側に伝えた。この佐賀へのオスプレイの訓練移転については菅官房長官が28日の会見で、「知事など地元からの了解を得るのは当然だ」と述べおり、地元の了解が得られないための移転断念だ。
  沖縄では地元の反対の声を聞かずにオスプレイを配備し、地元での反対の声を聞かずに辺野古に新基地を造ろうとしている。佐賀と沖縄に見る、こうした政府の二重基準に翁長知事が批判の声を上げている。
 政府は辺野古周辺の3区(辺野古、久志、豊原)に対し、名護市を通さず振興予算を直接渡す制度を創設する事を明らかにした。地方自治を破壊するような行為に思えてならない。

辺野古「移設」 強権ぶりが目に余る
辺野古移設 力ずくでは解決しない
新基地本体着工 民意無視の強権政治だ 自制なき政権に歯止めを
「沖縄を返せ」300人が抗議活動 辺野古着工から一夜
工事着手、終わりか始まりか・・・辺野古住民のさまざまな胸中

 
  今月28日、「もんじゅ、運転できる状況にない」と原子力規制長が厳しい見解を示した。
 国はこれまで、もんじゅに1兆円をかけているが、1994年に稼働を初めて実際に動いたのは二百数十日。1キロワットも発電していない。それでも年間二百数十億円の維持費と莫大な電力が消費されている。
 青森の再処理工場は、当初の目標から既に15年も完成が遅れており、未だに完工の目処が立っていない。もちろん、再処理の実績もない。それでも工場の点検や搬入された使用済み核燃料の管理(200億円)、工場の警備や放射線管理(200億円)、1500人の人件費(128億円)、福利厚生や再処理技術の研究費(172億円)、固定資産税や銀行への返済(400億円)と、年間の維持費が1100億円ほど使われている。
 他にも2009年10月に大飯原発の使用済み燃料を東海村に運んで以降、輸送実績のない核燃料運搬船「開栄丸」の維持に59億円核燃料サイクルは既に躓いているように思えるが、これらの施設をどうするつもりなのだろう。
 増税の前に、やれる事はいっぱいあるような気がする。

 「鬼平犯科帳」等の挿絵で知られる挿絵画家の中一弥さんが、27日に死去された。個人的には作家・逢坂剛さんのお父さんという認識だった。104歳だったそうだ。

10月26日(月)

 毎日のように使っているデイパックの肩ひもが、しばらく前に切れた。アマゾンで代わりのバックを探そうと思ったけれど、国道8号線にドン・キホーテがあるのを思い出し、安いのがないかと行ってみた。
 40分ほど自転車で走って、ドン・キホーテに到着。店内に入るのは初めてだが、以前はパチンコ屋だったかな?1フロアーだけだが、電化製品から食料品までまんべんなくある。平日の昼間だけれど、それなりにお客さんも入っていた。季節柄か入口にはハロウィン関係のグッズがディスプレイされていた。
 店内をちょっと歩くと990円のデイパックを発見。消費税を入れて1069円。今まで使っていたのは赤と黒だが、モスグリーンと黒で落ち着いた色のデイパックにする。
 ドン・キホーテを出て、来た道を辿って家に向かうと少し茜色に染まった雲が美しい。ひょっとすると今日は、綺麗な夕焼けが見れるだろうか。カメラを持って来ていなかったので、急いで家に戻り、買ったばかりのデイパックにズームレンズを付けた一台を入れて小矢部川の堤防に向かう。
 堤防に向かって自転車を漕いでいる途中に、太陽が雲に隠れてしまったのが分かる。堤防に着いたけれど、太陽が沈む山の上には分厚い雲がかかっている。
夕暮れの空
夕暮れと月
デイパック
 夕焼けはちょっと残念な結果になってしまったけれど、堤防から家に戻る途中に見事なお月様と遭遇。まだ暗くなりきらない空の低い位置に、明るいお月様が浮かんでいた。
  部屋に戻って調べると、今日は旧暦の9月14日。明日は満月だ。
←右が、今日買ったデイパック。今まで使っていた左のバックは、2013年10月に、那覇の公設市場で1000円で購入した。

 わたしはその夜、
 電車に乗らずに歩いてみようと思った。
 自分の心の夜の果て、何処まで遠くへ行けるのか?歩いて行こうと決意した。
 わたしが歩くみちの左右に、今まで夜に捨てた僅かな悲しみたちが色とりどりの花となって咲いている。そして怠惰な風に吹かれてふるえるようにゆれている。
 わたしはあとどれほどの季節(とき)を生きていくのだろうか?

 夕暮れにセンタクしておいた、わたしの夜が、夜に谺して、夜になってから冴えはじめた。

 永島慎二さんの『真夜中のせんたく』(創樹社美術出版)に収載されている随想から。何年かおきに、無性に読みたくなる本の一冊。もう一つ、夜の随想から。

 家族は皆、ねている。
 わたしは夜一人で起きている。
 家の者は、そんなわたしを指して、反自然主義的生き方であるという。
 そこでわたしは、深夜何をしているのだろうかと考えてしまうコトがある。
 色々、考えることを考えたりもする。  
 日記を一行書くためにだけ生きているような夜もあれば、夕方のテレビニュースで見た総理大臣のなんだか知らないがやたらウレシそうな顔がチラチラして困る夜もあるのである。 
 少し傾斜した仕事机の上のチビたケシゴムが、ふとしたはずみでコロコロころがって下に落ちたので、わたしはよつんばいになってケシゴムを探す。
 そんな時、わたしの夜の旅は、今はじまったばかりだと思うこともあれば、みんなが寝ている淋しい時間の流れを隅の方で見ているだけで、夜がボンヤリ明けたりすると、夜の旅が、すでに終わってしまったような気にもなる。

 連続テレビ小説は「あさが来た」ですが、昔から好きなCM曲をYou Tubeから。「夜が来る」。ヴァージョン違いで、もう一つ

10月23日(金)

 一昨日、アマゾンでポチッとした初沢亜利さんの写真集『沖縄のことを教えてください』(赤々舎)が、午前中に届いた。297×285mm、176P。150点の写真と2万8000字の原稿が収載されている。手にすると、思っていた以上に大きくて重い。そして本の質量以上に、沖縄の基地問題を中心に語られているあとがきに書かれた文章がズシリと重い。

世界一危険だと言われる普天間基地の移設先について、森本敏元防衛大臣はかねてからこう発言している。「軍事的には沖縄でなくても良いが、政治的に考えると沖縄が最適の地域だ。」海兵隊の基地は沖縄でなくても抑止力として機能するが、他に引き受けるところがないので、沖縄県内に移設するしかない、という意味だ。更に語調を強めれば「本土が引き受けたくない、と言っているのだから沖縄が引き受けるのが当たり前だろう」ということになる。
全ての本土人が沖縄を「構造的に」差別している、という意味をご理解いただけただろうか?

基地問題に苦しむ沖縄人を直視することは、すなわち彼らの犠牲の上に我々の平和的日常が維持されているという、不都合な真実に向き合うことだ。人が自らを差別者、抑圧者である、と自覚することは大変な心理的負担を伴う。そのためその苦痛を回避すべく様々な理屈がこれまで用意されてきた。沖縄に米軍基地が集中しているのは地政学的な根拠に基づくもので、致し方のないことだ。基地が無くなったら沖縄の経済は破綻し、多くの県民は路頭に迷う。〜略〜沖縄県民自身が基地を必要としているのであり、我々が押し付けている訳ではない。沖縄を中国から守るために基地を置いているのだ。というもっともらしい理屈を並べ「沖縄問題」という言葉を用いることで、日本全体の問題であるという認識を回避してきた。

2001年の9.11直後、沖縄への修学旅行が一斉にキャンセルになったことは記憶に新しい。基地が集中する沖縄がテロにあうかも知れない。そんな危険な場所に大切な子供たちを行かせるわけにはいかない。父兄や教員の善意によるキャンセルだが、そんな場所での生活を強いられている人がいること、そして誰のための基地負担なのか?ということまでは考えが至らない。

 少し引用して並べてみたが、ナイチャー(内地の人間)には耳が痛い文章であり、ハッと気付かされる文章もある。
 文章の方は基地問題を中心に思考されているが、 写真の方は多岐に渡っている。もちろん辺野古での抗議活動の様子や、米兵を撮影したものも多いが、必ずしもあとがきの文章とはシンクロしていない。
 沖縄に滞在している間に、2度、初沢さんを見かけている。もっとも、その頃は初沢さんとは知らなかったのだけれど。最初は2014年の久高島での旧正月行事を撮影に行った外間殿で、次は2014年の辻町の旧二十日正月でのジュリ馬を撮影に行った時だった。久高島の外間殿での写真は、この写真集にも掲載されている。殿の庭で二人の男性がカチャーシーを踊っている写真が載っているが、たぶん、初沢さんの横で自分も同じように庭で踊る男性の写真を撮っていたと思う。
 2013年11月から1年3ヶ月、カプセルホテルに滞在しながら沖縄を撮り続けたという。2013年12月に仲井眞知事が辺野古埋立てを承認し、県庁前では抗議活動が頻繁に行なわれていた。その頃に、県庁前ですれ違っているかもしれない。
 2013年12月の仲井眞知事の埋立て承認から始まり、 2014年1月19日の名護市長選での稲嶺進氏の勝利、2014年11月16日の沖縄県知事選での翁長雄志氏の勝利、小選挙区では辺野古移設反対派が全て勝利した2014年12月14日の衆議院選。にも関わらず、辺野古埋立てのためのボーリング調査が2014年の夏から始まっており、辺野古の抗議行動に火がついていた。その火は今も消えていない。
 初沢さんが滞在した1年3ヶ月の間に、沖縄の基地問題は激しく動き、沖縄だけではなく全国的にも知られるようになった。それでもメディアを通して伝えられる沖縄のイメージは多くない。
  基地問題が燃え上がっても、当たり前だが沖縄でも日々の営みは変わらず続いている。いや、日々の営みの中に基地問題も抗議活動もある。この写真集には、激しく揺れ動いた2014年から2015年初めにかけての沖縄の日常の様々が、一人のナイチャーの眼差しと審美眼で切り取られている。 眺めていてフッと腑に落ちる写真もあれば、正直よくわからない写真もある。そして何枚かの圧倒的な美しさに魅了された。

沖縄のことを教えてください
 渋谷区松濤のアツコバルーで、10月31日(土)〜11月22日(日)まで初沢亜利写真展『周縁からの眼差し』〜東北・北朝鮮・沖縄 報告〜が開催される。
 11月7日(土)には、渋谷区東にある写真集食堂めぐたまで「沖縄のこと。写真のこと」と題したトークショーが行なわれる。
【沖縄県知事選】沖縄、楽園イメージからの開放
安保の現場とは、すなわち沖縄である。それは我々本土人が最も向き合いたくない事実である
写真で向き合う沖縄のこと。初沢亜利が写真集『沖縄のことを教えてください』を語る(その1)
写真で向き合う沖縄のこと(その2)。初沢亜利が写真集『沖縄のことを教えてください』と「スナップショット」を語る。
「癒しの島」「基地の島」のステロタイプから離れて 初沢 亜利/青木 理
新しいトップ画面
 トップページ画面の写真を模様替しました。今回は、西表島・祖納集落の節祭に登場するフダチミです。

←新しいトップ画面。
↓これまでのトップ画面。
以前のトップ画面

10月17日(土)

 雲が多いながらも晴れ。小矢部の慈光院の火渡り法要を見に、自転車で石動へ。ネットの情報では13時半からとなっていたので、13時前には着くように家を出る。
 慈光院に到着すると、既に護摩壇が設置されていた。護摩壇の手前には炭が敷かれ、その場所を囲むように四角く縄が張られて結界が作られている。 護摩壇は木材を八角形のやぐらに組み、ヒバの枝を被せてある。その上から5色の紙垂(しで)が飾られていた。

↓慈光院。→護摩壇。
護摩壇
慈光院

 13時過ぎから慈光院の奥にある大元堂で信者らの祈願が行なわれ、その後、慈光院から僧侶が境内に下りられて火渡り法要が始まった。
 僧侶は結界のまわりを歩いた後、護摩壇を正面に唱名を行なう。二人の僧侶が護摩壇に着火し、火が燃え盛ったところで、護摩木を投げ入れる。護摩壇が崩れ落ちたところで、敷きつめてあった炭の上に燃え殻を被せて均して行く。
 僧侶に続いて、信者、参拝者が炭の上を歩いて渡る。僧侶の方から、撮影にいらした方も火渡りをしていって下さいと言われたので、炭の上を歩いてみた。沢山の人が歩いた後だったので、熱いというより温かいといった感じか。

火渡り法要の様子
火渡り
 15時頃に火渡り法要は終了した。慈光院の隣りの神社からは、祝詞が聞こえて来た。例祭の季節だ。石動駅の方に出て、8号線を真っ直ぐ走って家に帰る。

 川内原発の2号機が、今月15日に再稼働した。新規制基準が適用されてからは川内原発1号機に続いて2つ目の再稼働だ。東京新聞が、川内2号機 再稼働 複数炉の危険、想定せずという記事を掲載している。一部を引用すると、

 東京電力福島第一原発事故が見せつけたのは、複数の原子炉が近くで稼働する危険性だ。1号機の水素爆発で全作業の一時中断を迫られ、3号機の爆発では突貫工事で完成したばかりの2号機の注水ラインがずたずたにされた。複数炉が悪影響を与え合い、事態を深刻化させた。
 しかし、原子力規制委員会の審査は、複数炉の問題をあまり考慮していない。「新規制基準さえ満たしていれば、各号機で対処できる」(田中俊一委員長)ことが大前提となっている。がれきで資材を運べなかったり、十分な要員が集まらなかったり事前の事故収束シナリオを外れるような事態は想定していない。

 
最近発表された、東京電力と福島第一についての重要と思われる記事を3つ。
原発事故2年前、津波対策拒む 保安院要請に東電担当者
福島第一2号機、核燃料7割以上が溶融か 名大など発表
汚染水流出:公害犯罪処罰法で東電社長ら32人書類送検へ
 そしてアメリカでは、 サンオノフレ原発の廃炉にともない、蒸気発生器を製造していた三菱重工が9300億円の訴訟を起こされている。


 安倍首相が16日、官民対話の初会合を開き、「企業収益は過去最高となったが、投資の伸びは十分ではない。今こそ企業が設備、技術、人材に対し、積極果敢に投資していくべき時だ」と述べたそうだ。しかし、 アベノミクスの勢いが後退もしくは失速していると考えている企業が7割を越えている。企業の内部留保は問題だが、金融緩和だけで実体経済が成長していない中で積極果敢に設備投資する企業がいるのだろうか。

10月13日(火)

 今日のGoogleのトップ画面が、ヌスラットのイラストになっていた。なぜ?と思ったが、ヌスラト・ ファテー ・アリー ・ハーン 生誕 67 周年を記念してという事らしい。
  ヌスラットは、イスラームの宗教音楽・カッワーリーの歌手。1948年10月13日にパキスタンで産まれ、1997年8月16日に48歳で亡くなっている。日本には、1987年から1996年までに何回か来日している。1992年のウォーマッドの際にも来日しており、この時にライヴを撮影できた。でも、個人的にヌスラットの音楽が本当に好きになったのは、彼の死後に発売されたアルバム『スワン・ソング』を聴いてからだった。
  彼の歌、声を聴くと自分の身体の中で不思議な高揚感が沸き上がる。この高揚感は佐仁の八月踊りや、渋さ知らズの音楽にも同様に感じている。ヌスラット、佐仁八月踊り、渋さと並べるとバラバラなイメージだが、個人的にはこの3つからは祝祭という言葉が浮かんで来て、そこに共通するものがあるように思う。
 せっかくなのでYou Tubeから「 Akhiyaan Udeek Diyan/Nusrat Fateh Ali Khan」「 佐仁の八月踊り」「本田工務店のテーマ/渋さ知らズ」。

↓ヌスラットが描かれたGoogleのトップ画面。→ウォーマッドでのヌスラット。1992年9月に撮影。
ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン
グーグルのトップ画面

 今日の午前、沖縄の翁長雄志知事が辺野古の埋立て承認を取り消した。記者会見の全文が、こちらにある。
 ところで、沖縄に駐留する米軍は日本を守るために存在していると思っている人がいるようだ。
 沖縄の米軍基地について東松照明さんは、写真集「camp OKINAWA」のはしがきで、こう書いている。

  "沖縄に基地があるのではなく基地の中に沖縄がある”というキャッチ・フレーズは、決してオーバーな表現でなく、また過去の出来事でもない。戦後65年間、米軍基地は沖縄に居続けている。米軍の戦場は、朝鮮半島からベトナムへと、更にイラク、アフガニスタンへと移り変わった。しかし、前線基地・沖縄の有様は、いまもほとんど変わらない。

 沖縄に駐留する米軍の存在を、端的に表した文章だと思う。結果的に米軍の基地がある事で抑止力になっている事はあるかも知れないが、沖縄に駐留する米軍はあくまでもアメリカが世界各地で繰り広げる戦争の前線基地としての役割を担っている。

特集ワイド:続報真相 本土「常識」の誤解 辺野古移設は仕方ない?
  その米軍の抑止力について、毎日新聞が疑問を投げかけている。
 普天間飛行場については「普天間飛行場は米海兵隊の航空部隊の拠点だが、そもそも沖縄の海兵隊に日本を守る抑止力(他国に攻撃を思いとどまらせる反撃能力)はない」「沖縄の海兵隊の大半は補給・医療などの後方支援部隊で、戦闘部隊は2000人規模の『第31海兵遠征隊』だけ。その主力の歩兵1個大隊はわずか800人ほどです。しかも装備は装甲車が21両、大砲6門、戦車はゼロ。普天間飛行場配備の航空部隊(第36航空群)は、新型輸送機オスプレイ24機とヘリコプター10機あまり。この程度の兵力で戦争はできない。海兵隊の駐留は北東アジアの有事・騒乱時の在留米国人救出が主な目的なんです」と書かれている。
 そもそも普天間の先には極東最大の米軍基地である嘉手納があり、その先にはキャンプ・コートニー、キャンプ・ハンセンなど多数の基地が存在する。例えば普天間飛行場が無くなって、 どれほどの抑止力を失うというのだろうか。個人的には疑問に思っている。
 また、早速、埋立て承認を取り消すなら国からの振興予算を返却しろという意見をネットで見かけた。”脱原発なら電気を使うな”くらい乱暴な思考だろう。しかし、そもそも基地があるから沖縄が特別に優遇されているわけではない。
  沖縄4区選出の衆院議員、仲里利信さんは、
確かに沖縄県には内閣府所管の『沖縄振興予算』があるが、72年の本土復帰まで国の予算措置や国土開発がなされなかったため始まった制度。でも振興予算の半分は那覇空港整備や不発弾処理など、国が本来やるべき事業や各中央省庁の直轄事業で、これが『振興予算』の名前で入り込んでいる。本当に県が沖縄振興に使えるお金は多くはありません」 と話している。 記事によれば「2013年度決算では、振興予算(3337億円)を含む国庫支出金と地方交付税交付金の合計額は7330億円。これは県民1人当たり換算で全国6位で、これまで1位になったこともない。飛び抜けて沖縄が優遇されているとは言えない」と書かれている。

ネットのデマはなぜ無くならないのか?「8.6秒バズーカー」「翁長知事の娘」から考えるデマと寄生の関係
 今回の翁長知事の埋立て承認取り消しで、他にもネット上で様々な意見が書き込まれるのだろう。 少し調べればわかるデマを拡散しないで、有意義な意見交換がなされればと思う。

百田発言きっかけに琉球新報のドキュメンタリー番組
  「在日米軍施設の約74%が沖縄にある。この偏った事実、つまり基地の割合が全国並みになれば、自分たちの報道姿勢はおそらく偏向とは言われないでしょう。事実が偏っているので自分たちは米軍基地に対して向き合って報じていかなければいけない
  MBSテレビのドキュメンタリーシリーズ「映像’15」で「なぜペンをとるのか~沖縄の新聞記者たち」とタイトルが付けられた番組の中で、琉球新報の島袋良太記者が語っている言葉だ。例えば、本土で不発弾が見つかれば大騒ぎとなるだろうが、年間300回以上の不発弾処理が行なわれる沖縄では日常の事で大きな騒ぎになることもない。これもある面で、沖縄の偏った現実。9月27日に放送された番組「なぜペンをとるのか ~沖縄の新聞記者たち~」の映像がこちらにUPされている。

 東京都が東京五輪に向けて作ったロゴが、また騒動になっている。
東京五輪に向けて永井一史に作らせたロゴが海外弁護士事務所のロゴと完全に一致
舛添都知事、「&TOKYO」ロゴは「記号だから著作権はない」
舛添氏「&TOKYO」問題、2500万円調査強調
 ロゴを一つ作るのに、なぜ1億3000万円かかるのか。そのロゴの商標登録を調査するだけで、2500万円が必要なのか。まったく理解ができない。

 昨日は、平安時代から続くという神仏混淆の祭祀、小川寺の獅子舞を見に魚津市へ。事前に観光協会へ問い合わせると神事が14時半からで、獅子舞は15時からとの事だった。小川寺までは魚津駅から路線バスが出ているので、最適な路線を組み合わせると、あいの風鉄道で魚津駅に12時29分着。魚津駅前から12時38分発の富山地方鉄道の大沢行きバスに乗り、小川寺到着が12時54分だった。バス乗り場は駅前らしいが、乗り換え時間9分は余裕がないように思えて、11時46分魚津駅着の電車にした。
 小川寺のバス停を降りたら、目の前に獅子舞が行なわれる千光寺があった。その隣りには、神輿が出発する白山社が。魚津駅に着いた頃から、弱い雨が降り初めていた。神社に集まった人は、神輿が濡れないか心配な様子だった。
↓千光寺の参道入口。→白山社の参道入口。
白山社の参道入口
千光寺の参道入口
↓左は千光寺での神事、右は白山社での神事。
千光寺と白山社の拝殿での神事

 最初に千光寺の方で神事が行なわれ、14時半頃から白山社の方でも宮司さんの祝詞奏上が行なわれた。祝詞の後、お宮の下に置かれたお神輿に、宮司さんの手によって拝殿の鏡が入れられる。
 お神輿と、千光寺の境内をまわる天狗、ばば面、あねま面、獅子頭らが宮司さんからお祓いを受けた後、隣接する千光寺へと移動した。

千光寺での祭礼の様子01
祭礼の様子02
 「小川寺の獅子舞」と紹介されているが、獅子は神輿の露払いで一般的な獅子舞のようには舞わない。獅子頭を左右に振ったりするが、舞うというより型のようなものだ。
 旗を持った子供を先頭に、天狗、ばば面を被った2人、2人獅子、あねま面、笛の奏者、神輿が隊列を作って千光寺の千手観音堂の周りをまわる。
 4回まわったところで、観音堂の前で宮司さんが祝詞を奏上し、また3周半する。そして白山社へ戻り、宮司さんによる祝詞とお祓いが行なわれて神事は終了した。
獅子頭に頭を噛んでもらう女の子

 春と秋の祭礼に行なわれるので五穀豊穣を願ってだろうと想像するが、ネットで検索しても神仏混淆の祭祀である事と、観音堂を7周半することは載っているが、祭祀の目的や、なぜ神社から観音堂へ移動するのかといった事までは出て来ない。
 神事の後、獅子の前に頭を噛んでもらおうという人の行列ができた。せっかくなので、一通り撮影した後に噛んでもらった。

 帰りは小川寺16時18分の最終バスで魚津まで行こうと思っていたが、これまでアチコチのお祭りでお見かけしていたビデオを撮影している男性が富山まで乗せて下さる事になり、ご一緒させていただいた。

10月11日(日)

 昼過ぎから雨。今日は大門曳山まつりだが、部屋に籠ってパソコン作業。
八坂神社
 昨日は、戸出にある戸出野神社の秋季例大祭。幌武者行列を一度見てみようと、自転車で行って来た。途中、小伊勢領の方にある八坂神社の横を通ると、鳥居の横に幟が立ち、境内に神輿が置かれていた。
 ネットで探した情報では13時半頃に 幌武者行列が境内を出発すると書いてあったので、13時少し前に神社に到着。拝殿での神事は既に始まっていた。
←八坂神社。
 拝殿の前には神輿が置かれていた。参道の横には秀吉や、源義経などに扮した子供たちが待機している。巴御前役の女の子は、椅子に座ってスマートフォンをいじっている。wikipediaによれば、巴御前は戸出地区の村娘であったとの伝承があるようだ。
 拝殿での神事の後、殿の階段から神輿の前まで白い布が敷かれ、その上を御神体を抱えた宮司さんが歩いて神輿の中に御神体を奉った。そして幌武者行列の出発。
戸出野神社と巴御前
↑左は、拝殿の前に置かれたお神輿。右は、出発までの待ち時間にスマートフォンをいじる巴御前。
 行列の先頭は、露払いして歩く東町の神様獅子。驚いたのは、獅子頭は漆を塗っていない木目のままだったこと。幌武者行列に使われるのは、昔から神獅子と呼ばれるこの獅子頭だそうだ。塗装のないすっぴんの獅子頭だけれど、彫りの美しさがダイレクトに分かり、これはこれで美しい。そして表情が何だか可愛らしく感じられる。
 写真を撮りながら幌武者行列について歩いていたら、馬場町公民館で獅子舞が行なわれた。道路に面した部屋が開けられ、中に人形が見える。奥の大きな人形が沖縄でよく見た弥勒(みるく)を思い出させるので、どのような人形か尋ねてみると布袋様だという。布袋様は弥勒の化身とされているので、雰囲気が似ていて当たり前か。布袋様の前には、カラクリ人形も並べられていた。嘗ては曳山の上に飾られていた人形だそうだが、山はなくなり人形だけが残っているそうだ。
↓露払いをする神獅子。→馬場町公民館の布袋様。
馬場町公民館
神様獅子
幌武者行列の様子
 幌武者行列は13時半頃に神社を出発し、途中、戸出駅の前で15分程休憩し17時頃に神社に戻るまで続いた。想像していたよりも長時間の道行きだった。台車の上に武者に扮した子供を乗せ、お年寄りが引いて行列をしている。
 神社に戻ってからは、境内で獅子舞が奉納され、続いて境内をお神輿が3回まわる。町内行列の時は台車に神輿を乗せていたが、この時は獅子舞の若連中も加わり肩に担いでまわった。
 神輿から御神体が宮司さんの手によって取り出され、拝殿での神事が行なわれた。神輿は本殿の横にある蔵に仕舞われた。
  神事の後、拝殿の前でもう一度獅子が舞い、万歳三唱で行事は終了。17時半過ぎだった。暗くなった道を自転車で帰る。来た道をなぞって帰ると、来る時に境内に神輿が置かれていた八坂神社の近くで、賑やかな笛と太鼓の音。神輿が家をまわっていた。獅子舞はなく、神輿だけが家をまわるようだ。

10月7日(水)

 10月5日に、長野の白馬村にあるウイング21文化ホールで「白馬・小谷 震災復興支援コンサート 絆 」とタイトルが付けられたチャリティー・イベントが開催された。イベントを企画したのは白馬でシャモニールというペンションを経営している新田さんで、撮影を頼まれたので行って来た。
 4日の遅い午後、イベントのPAを担当する近所の村上さんの車にピックアップしてもらって白馬へ。シャモニールに到着したのは、19時過ぎだった。夕飯とビールをご馳走になって、この日は就寝。
白馬の風景

 オーナーの新田さんは、明日のメイン・ゲストのギタリスト、ノーキー・エドワーズさんのライブが富山県であり、その送迎で戻って来たのは夜中だったようだ。
 ノーキー・エドワーズさんは、ベンチャーズの初期に活躍したギタリストで、今年80歳。今回は赤坂を本拠地に活動しているエル・カミーノというバンドをバックに演奏する。
↑5日の午前、ペンションからの風景。紅葉はもう少し先のようだ。

 5日のイベントは18時30分開場、19時開演。頼まれたのは撮影だが、昼前から機材の搬入とドラムのセッティングをお手伝いする。今回、シャモニールの新田さんが講師をしている白馬Jr.ドラムスクールの生徒たちが前座で演奏する事になっており、5台のドラムセットがステージに並ぶ。これに、ノーキー・エドワーズさんのバックバンドのドラムが加わり、ステージ上には6台のドラムセット。なかなか壮観です。
 セッティングを手伝い、昼ご飯を食べに行き、リハーサルを撮影。そして本番。
 以下、プログラムから。
挨拶  白馬 村長 下川正剛
前座  白馬Jr.ドラムスクール生徒達による演奏
第一部 めおと楽団ジキジキ
       休憩
第二部 ノーキー・エドワーズ&エルカミーノ・スペシャル

震災復興支援コンサート

↑上段は、ノーキー・エドワーズ。中段は、めおと楽団ジキジキ。下段左は、アンコールで出演者全員によるベンチャーズ・ナンバーの演奏。下段右は、イベント後の記念撮影。

 イベントが終わり、楽器やPAを撤収して、ペンション・シャモニールで打ち上げ。ビールから赤ワインを一口、そしてバーボンへ。
 6日の朝は、軽い二日酔いで起床。それでも朝ご飯を食べ、車で温泉に入りに行き、おやき村で野沢菜のおやき一つと、おろしソバを食べる。
 ペンションに戻り、少し休んでから村上さんの車で家に帰る。来る時は高速を使ったが、帰りは下の道で。糸魚川に出てからは海沿いの道を選んで走る。4時間程かかっただろうか。

おやきとおろしそば
↑囲炉裏で焼く縄文おやきと、大根おろし、鰹節が乗ったおろしソバ。
デイヴィッド・アレン01
 6日の朝食の時、めおと楽団ジキジキの世田谷キヨシさんと音楽話しをしていたら、GONGのデイヴィッド・アレンが亡くなったという。
 白馬から家に帰り、ネットで調べてみたら、今年の3月13日に77歳で亡くなっていた。
 左の写真は1996年6月8日のライヴ撮影。この時がGONGの初来日だったか。右は、2日後の6月10日に宿泊していた六本木のホテルアイビスにて。自分が撮影したポートレートの中でも好きな一枚。
デイヴィッド・アレン02

 デイヴィッド・アレンは音楽性より何より、元祖ヒッピーというイメージに強く魅かれた。ライヴの映像を見ても、ちょっと変わったオジさんだ。You Tubeから「You Can't Kill Me/GONG」「I Never Glid Before - Live 1973/GONG」。

10月3日(土)

 秋晴れ。昨日から高岡古城公園で、万葉まつりが開催されている。まつりのメイン・イベントは、水上に浮かべた特設舞台で三昼夜に渡って万葉集全20巻、4516首を歌い継ぐ朗唱の会。これまで生で見た事がなかったので、お天気も良いし午後から自転車で出かけて行った。
 駅前に着いて、髪が伸びて来たので以前から気になっていた1000円の美容室に入る。お客さんは女性が一人。椅子に座って待っていると、暫くして男性のスタッフが応対。サイドと後ろを刈り上げる2ブロックをお願いすると、髪の毛に櫛も通さず行き成りバリカンが入って驚いた。そこから先は、このお店に入ってしまった後悔しかなかった。
 お店を出て、漫画家・永島慎二さんの『永島慎二共和国』の「そば」とタイトルが付いた短文を思い出した。一部を引用すると、

 うまいそばを食わせてくれる店は東京には何軒かはあるし、知ってもいる。そこまで出かけて行けば、けっして裏切られることなくうまいそばが食えるわけだが、なかなかそのためにだけ出かけられるほどの余裕はない。そこでたいがいは、とびこみでそば屋にはいることになり、その結果ぐちゃぐちゃのそばを食わせられるはめになる。そのつどはげしい怒りとともに、また、わが身をもふり返らざるを得ない。この一パイのそばの代金X円也をかせぐために、自分の仕事を通して僕がもった誠意がどれほどのものだったかと。まずいそばを食うたびに、僕は、もっと良い仕事を、自分を全部ぶつけて悔いのない誠実な仕事をしたいと思う。

 精進しよう。

朗唱の会
獅子舞

 とりあえず、気を取り直して古城公園へ。募集に応募した朗唱者がリレーのように舞台に登場し、歌っては舞台を降りて行く。
 日が暮れ始めた17時半頃まで舞台を眺め、また自転車で1時間程かけて家に帰った。
 今日は地元の獅子舞だった。斜め向かいに今年新しく家が建ち、そのお宅が花を出した。花は何軒目かで、獅子も既にお酒が入っていた。

10月2日(金)

 昨日で沖縄にオスプレイが配備されて3年となった。
 3年前の10月1日は、糸満市・真栄里の綱引きを見に行っていた。夜遅く綱引きから帰ると、テレビのニュース番組が岩国から普天間へ6機のオスプレイが飛来したと伝えた。
 現在、 沖縄に配備されているオスプレイは24機。負担軽減として浮上した「12機程度の県外配備」は進んでいない

 今日、Facebookで南海日日新聞の「長い歴史に幕/大和村今里のノロ祭祀」という記事が流れて来て驚いた。記事によれば、これまでも今里集落で「オムケ」(御迎祭)と「オーホリ」(御送祭)という祭祀が続けられていたようだ。奄美ではノロ(親ノロ)は途絶えているはずで、クヮーノロ(子ノロ)によって司祭されていたという。
 ところで、奄美に滞在していた2年の間に今里集落で現在もノロの祭祀が行なわれているという話しは一度も聞いた事がなかったし、そんな記事を読んだ覚えがない。色々と検索してみると、今里集落のある大和村の広報がヒットした。2012年3月号に「特集・今里集落オムケ・オホーリ」という記事があり、文中にも「朝識にも私は今里におけるノロ祭りはすでに消滅したものと思いこんでおり、オムケ当日も半信半疑で取材に向かいました」と書かれている。
 西田テル子さんの写真集「聖なる島 奄美/監修・解説 山下欣一」(星企画)に、名瀬の浦上(?)の方だったかで当時既に消滅したと思われていた祭祀が、行政にも知らされず集落内の少数の人たちでひっそりと営まれており、それを撮影した写真と文章が載っていた。

 ジャマイカを訪問した安倍首相が、日本時間の昨日の午前、ボブ・マーリー博物館を視察した。記事には、代表曲「ONE LOVE(ワン・ラブ)」が流れると、シンプソンミラー首相に誘われ安倍首相も一緒に踊る場面もあった、と書かれている。なんだか好きな曲が汚されたような気分になる。
 安倍首相が今年の4月28日に開かれたオバマ大統領との公式晩餐会でダイアナ・ロスの「Ain't No Mountain High Enough」の歌詞を引用した時も、好きな曲が汚された気分になった。
 その安倍首相が、今晩 帰国する。みんなでボブ・マーリーの「Get up! Stand up!」を歌って出迎えられれば最高なのに。
 勇気を奮い起こせ 立ち上がれ 自分たちの権利を主張しよう 勇気を起こせ 立ち上がれ 戦う事を諦めるな。
 ボブ・マーリーは、そう歌っている。
 You Tubeから「 One Love/Bob Marley 」「Ain't No Mountain High Enough/Diana Ross」「Get Up! Stand Up!/Bob Marley」。

新湊曳山まつり01
新湊曳山まつり02

 昨日は、新湊の曳山まつりに行って来た。あいの風鉄道で高岡に出て、高岡から路面電車の万葉線に乗り換える。富山に帰って来てから、万葉線に乗るのは初めてだ。曳山まつりのホームページに「新湊庁舎前・新町口・中新湊で下車の方は帰りの乗車券進呈!!」と書いてあったので新湊庁舎前で降りる時に運転手の女性に伝えると、帰りに使える無料乗車券が貰えた。350円の事だけど嬉しい。これは射水市が負担してくれるのだろうか。
 家を出る時は曇り空だったが、新湊に着くと小雨がぱらついた。那覇の100円ショップでかったビニールのポンチョを被り傘をさして曳山の後を歩いた。
 花山の巡行が終わり、上の花飾りを外して提灯が取り付けられる。暫く見ていたが、だんだん雨が激しくなって来た。天気予報では、台風21号から発生した爆弾低気圧の影響で北陸でも天気が荒れると言っていた。強い風に煽られたら、曳山の巡行ができるのか少し心配になる。雨が土砂降りになったので、提灯山の巡行は諦めて帰る事にした。
 家に着いた頃には雨も風も落ち着いたので、提灯山の巡行は無事にできたのだろう。
 夜中、パソコンに向かっていると、家が揺れるような風と激しい雨になった。

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